山形県高畠町出身であり、太平洋戦争で活躍した【雷】の艦長であった、
【工藤俊作】元海軍中佐の遺徳を顕彰する碑が、高畠町に建立されました。
工藤俊作氏の存在は山形県民ですら知る人は少なかったはずです。
数年前、あるイギリス人により工藤俊作氏の戦争における功績を発信したことにより、
多くの人が知るようになりました。
その後、TVでも取り上げられそのビデオ(おそらく下の映像と思います)が
ある小中学校の道徳教育でも使われたと聞いています。
平成15年10月19日、日本の土を初めて踏んだ一人の元英国海軍士官がいた。
元海軍中尉サミュエル・フォール卿。
フォール卿は、戦後、外交官として活躍。その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
大東亜戦争の開戦劈頭、1942年2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が激突。
日本艦隊は3月1日までに、15隻中11隻を撃沈し勝利した。
3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員400数十名は2日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。
当時、英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
しかし、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。
艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、
英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。
フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。しかし、昭和62年、工藤中佐が8年前に他界していた事を知ると、自身の齢もすでに84歳を数えることもあり、意を決し「人生の締めくくり」として来日したのである。
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