刀が鞘に上手いこと収まらないさまから、あの人と私は反りが合わないとか誰かが言い始めた。
先人は本当に上手いこと言うなあと思う。
マンガ家の萩尾望都が、これまたマンガ家の竹宮惠子と、実は反りが合わないと自身の本「一度きりの大泉の話」まで出して世間に言ってしまった。
おいおい。
何という事を。
萩尾望都と言えば、最近あの往年の名作「ポーの一族」の後日譚を又ぞろ描き始め、自分としてもVERY興味津々だす。
なのだが。
その大先生がどうしちゃったのさ。
考えてみれば、外野から見てもこの二人、同じ場面でツーショットでっていうのがこれまでありそうで無かったし、それがたまたま機会が無かったとかではなく、実体は敢えて避けていたんだという。
世間がブッ飛ぶ爆弾発言。
詳らかな内容はよくわからないが、先に竹宮惠子の出していた「少年の名はジルベール」という本が、今回の萩尾側の物言いにどうやら関係してるらしい。
なので先ずは、その本を読んでみっぺというわけで。
ただのスケベ心丸出しで。
フムフム、ホウホウ、それがあーして、こーして結果そうなったのか。
なるほど。
大団円。
じゃねーだろ☀️
この本意外に尾も白いです。
竹宮惠子という人がいかに苦労人で平凡な一マンガ家であったのかが、ものすごくよくわかります。
又ヒット作というものが、どうやって世の中に出てくるのか、その悪戦苦闘ぶりや、心身疲弊のエピソードやらも硬軟交え、こと更興味深い。
一言でいえば、たくさんの人気マンガ家がこっちにもあっちも濫立していたあの時代、ある野心を抱いて日々格闘していた一人のマンガ家の半生の記録と呼べるものになっている。
うら若き二十代の頃の竹宮惠子が同年代の萩尾望都をどう見ていた?のか。
この本は総括〝大泉の話〟竹宮版なのだ。
この〝大泉の話〟の説明をちょっとすると、これは自分も後年になって知り得たことなのだが、竹宮惠子が主体となって、あの〝トキワ荘〟的なモノを練馬の大泉に作ってみたということらしい。
そこへ萩尾望都も誘われて参加している。そして、潮が引くようにある時静かに散会となったのだ。
当時は知る人ぞ知る注目の存在の扱いだったらしいが、しかしそれほどビッグネームの集まりでも無かったため、そんなに話題性も無かったような気がしている。
萩尾望都も竹宮惠子も後々名が売れ本が売れ、マンガ家としての地位が増大して来て、そういやあんなこともしてたんだよと後追いで出てきた話だったのでは。
二人が失礼ながら現在七十代になっていることを思っても、あれから歳月を重ねて今その〝大泉の話〟をそれぞれ語り始めたのは、しみじみ感じいる。
袂を分かつ。
元の鞘に収まらない。
積年のしこり。ほぐれるかあ?