令和6年2月16日に中村靖先生が88歳で逝去されました。
ご遺族のご意向で葬儀は家族葬として執り行われました。
世田谷工業高校野球部OB有志によって、お別れの会が8月25日に開催され、先生に所縁ある教え子たち30名が集まりました。
ご遺族のご意向で葬儀は家族葬として執り行われました。
世田谷工業高校野球部OB有志によって、お別れの会が8月25日に開催され、先生に所縁ある教え子たち30名が集まりました。
世田谷工業高校野球部21期のみなさん。
中村先生「お別れの会」の報告
17期・島崎雅博
1.開会の辞:倉骨正明会長(21期)
21期卒業の倉骨です。
本日はご多忙の中、故中村先生の「お別れの会」に沢山の方にお集まり頂きまして有難うございます。
本年2月16日、先生はご自宅でご逝去されました。昨年5月に肝臓がんにより 余命半年との宣告を受けましたが、今年の正月にご挨拶に伺った時は、食欲が あまりないものの、お歳(88歳)なりに元気でしたが、大相撲の中日あたり 迄は楽しみにご覧になっていたようですが、その後徐々に病状が悪化された ようです。余命宣告を受け、中村先生ご自身でお寺の手配や親しい方々との お別れを済ませたということで、葬儀は家族葬で営まれました。
お集まりいただきました皆様は中村先生から大きな影響を受けられた方々であり、 中には教員になられた方もいらいっしゃいます。 本日は思いで話などしながら、中村先生を偲びつつ、ご冥福をお祈りしたいと 思います。中村先生の奥様からは、「感謝の言葉と共に皆様へ宜しく お伝えください。」とのお言葉を頂戴しました。 最後に、改めてご参列頂きました皆様に心より感謝を込めて御礼申し上げます。 本日はありがとうございました。
2.献杯の音頭:17期・那須徳造
只今、ご紹介を頂きました、付属1期、世田工17期卒業の那須徳造と申します。 この度、我々の在学中のみならず卒業後も言い尽くせない程お世話になりました 中村靖先生が、本年2月16日にお亡くなりになられました。永遠のお別れの会 を致すに際し、私と同期の島崎雅博君、この会の会長・倉骨正明君を始め幹事の 皆さんが一方ならぬご努力をされ、この会にこぎつけました。故中村先生も この場所での皆さんとの再会を喜んでおられることと存じます。 ここに故人を偲び、中村先生への感謝をささげる気持ちを込めて、皆さんに 献杯をお願いしたいと存じます。 お手元のご用意をお願いします。 ご唱和ください。「献杯」 有難うございました。
3.参加者たちからの故中村先生を偲ぶスピーチ:
1)17期:島崎雅博 「中村先生の生い立ち」
本日ご参加の方の中で故中村先生の生い立ちをご存じのない方も多いかと存じ、 ここにご紹介いたしたく存じます。 中村先生は東京の小岩で生まれ育ちました。その後千葉へ転居され、空襲疎開で ご尊父の生まれ故郷、山梨県日川に疎開されました。同地で小学校・中学校・ 日川高校で学び大学は東京の日本体育大学へ進学、器械体操部に所属されました。 4年生の時、大学寮の近くの駒沢球場を本拠地とする、プロ野球・東映 フライヤーズのプロテストを受けられたそうです。また、器械体操部の2年下に 後の映画俳優・千葉真一が所属していたそうです。 昭和34年3月・日本体育大学を卒業され同年4月に都立で初の世田工付属 中学に体育教員として赴任されました。 私は同付属1期生で1年次のみ中村先生より野球の指導を受けました。 世田工3年の夏季大会で付属体育教員の中村先生に野球部監督をお願いしました。 故中村先生には世田工卒業後は公私にわたって大変お世話になりました。 ここに感謝申し上げるとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます。 今日は、故中村先生を偲んで大いに語り合いましょう。
2)24期:新井謙一 中村先生を偲んで:
中村先生には付属中・世田工と6年間にわたり野球の指導を受け 良き青春時代でした。 全部員に目をかけて頂き野球に関してはセオリー重視の作戦・試合でした。 手を挙げることもなく、言葉の暴力もなく、親身になって指導をして 頂きました。 また、世田工卒業後は山梨県富士吉田市での合宿では、昼は練習・夜は 参加OB達と酒を酌み交わしするなど、本当に良き時代でした。 OB会幹事となってからは、先輩方々と大人の付き合いをして頂きありがたく 思っております。特に鈴木啓太郎(5期)先輩とはいろいろありましたが、 今はよき想い出です。全て中村先生の懐の大きさであったと思っております。 世田工野球部OBは何時までもノルスタジーでまとまっていてほしいものです。
3)25期:山本稔
中村先生が逝去され、改めて時の流れを感じました。 先生の手抜きをさせない正確な球際のノック・良き青春の想い出です。
4)27期:増田信一
中村先生の訃報に接し、楽しく時には厳しくご指導頂き充実した3年間の日々を 想い出します。世田工野球部を「ベスト4(昭和49年夏)」に導いて下さった 中村先生のお名前をお聞きしますと、私は何時でも世田工グランドの高校球児に 戻っています。
5)28期:内藤敏明
中村先生とは世田工入学以来お世話になった恩師であり世田工で2年間同僚 として一緒に仕事をさせて頂きました。世田工卒業時、同期の細尾(投手)と 日本体育大学に行きなさいと推薦して頂き人生が変わりました。その後教員に なり初任校がナンバースクールの「小石川高校」でラグビー部監督を4年間勤め、 担任2年目の年、中村先生より来年世田工体育教員が空くから「帰ってこい」との 連絡があり即答で「行きます」と申し上げました。しかし担任の2年のクラスの 生徒に母校で野球部監督をすることになり、異動するので「すまん」と言って 世田工に赴任しました。 中村先生と2年間恩師であり同僚として一緒に仕事をさせて頂きました。2年後 中村先生は都立忠生高校に異動され、野球部監督に就任しました。その2年後に、 関西外国語大学短大の教授に就任され、ソフトボール監督に就任されました。 何度か大阪枚方のご自宅に伺わせて頂き奥様にもお話しさせて頂きました。 先生のお話では、東京の教員がいきなり教授に就任したので相当風当たりが 強かったそうです。その後同短大を定年退官され、相模原のご自宅に戻って こられてからは、世田工野球部の応援で世田工グランド・大会球場に足を運んで 頂きました。 中村先生、今迄大変お世話になり有難うございました。 安らかにおやすみください。
6)29期:山田利行
中村先生がお亡くなりになりました事、大変悲しく思っております。 新人戦にてベスト8(昭和50年秋)に導いて頂いた事、忘れられません。
(註:因みにもしベスト4に進めば翌年の春季甲子園大会へ、都高野連としての 「推薦枠」にて推薦すると都高野連内で話し合われたとの中村先生談です。)
4.閉会の辞:倉骨道広(23期 現・宇田川)
中村先生に私が付属の3年生時(昭和40年)世田谷大会にて、春(準優勝)・ 夏(優勝)へ導いて頂き有難うございました。 付属の3年の春の大会・決勝戦で桜木中学と世田工グランドで戦いました。 私は朝から腹の具合が悪く、そのことを中村先生には伝えてありました。 試合は付属がリードをしてましたが、何回か覚えていませんが腹の具合が悪く なったので中村先生の顔を見たときに先生はすぐに判ってくれて「行ってこい」 とティッシュを私に握らせてくれました。 電気科か電子科工場の裏のトイレへ駈け込んで、ゆっくりと用を足して戻ると 試合が停止していました。(私は私抜きで試合は続行中と思っていましたが、 私を待っていてくれました。)急ぎ用意をして試合が再開しましたが試合結果は 逆転負けでした。付属の投手は渡辺隆治君(18期・渡辺幸男氏の弟)で、 当日発熱のため解熱剤を注射しての登板だったそうで、試合後に知りました。 後日談: 後日と言っても、プロ(巨人)をやめてから世田谷区の草野球での集りがあって その時に同席していた人が桜木中学卒業の人で、学年を聞いたら私と同学年との 事で「3年の春の大会の決勝戦の途中でキャッチャーがトイレに行って試合が 中断したのを覚えている?」と聞いたところ「あー覚えている」「あの時の キャッチャーは俺だよ」と言ってみんなで大笑いしたことがありました。
中村靖先生の世田谷工業高校野球部でのご功績を語るうえで、23期OB倉骨道広氏の読売巨人軍入団は避けて通れない話題です。
この度、倉骨氏ご本人よりドラフト指名に至る経緯について語っていただきましたので、以下、併記させていただきます。
倉骨道広氏(23期)・ドラフト3位で巨人入団の秘話
始めに:
倉骨氏は中村先生のアドバイスにより先生が鷺宮製作所・野球部所属の大原氏 (14期)に接触し1泊2日のテストを受ける機会を得るも鷺宮製作所野球部・ 中川監督の仲立ちにより同期友人の農大野球部・川瀬監督へ推薦をしていただき 農大へ入学出来ることとなり、農大へ進学することとなったが故に後の巨人への 入団に繋がっていくのです。詳細は下記の「倉骨氏スピーチ」をお読みください。 中村先生のアドバイスと大原氏(14期)の鷺宮製作所・中川監督への根回し なしには農大入学もありえず、後に巨人入団にも繋がらなかったのではないかと 強く思われる次第です。
註:大原氏(14期)は近畿大卒業後鷺宮製作所(野球部)に入社。 鷺宮製作所野球部・中川監督も近畿大学出身で大原氏の先輩にあたる。
「倉骨氏スピーチ」
世田工3年の夏か秋口に中村先生から「お前もう少し野球をやってみる気は ないか?」と言われて、当時世田工の先輩の大原さん(14期)が在籍していた 鷺宮製作所にテストを受けに行きました。1泊2日の練習に参加して結果は 「今はうちには全日本のキャッチャーがいるので今回は採れないが農大なら監督 を知っているから世話してあげられるよ」とのことで、父に相談したら 「やりたければやってみろ」とのことで農大へセレクションを受けに行きました。 その場で入学できることになって、昭和46年1月から入寮し練習に参加して ました。当時、春のリーグ戦は3月末頃から始まり入学式の前から背番号を 貰ってベンチ入りしていました。ベンチに入れない先輩からのあたりはチョット きつめでしたが気にせずやってました。4年の秋に鷺宮製作所とのオープン戦が あり、終了後「来年まってるからな。」と中川監督から言われて内定をもらい ました。私が4年生の時、東都2部のリーグ戦は、神宮第2球場を使いますが 使用出来ない時は農大球場を使うことになっていました。リーグ戦の後半に 国士館戦を農大球場で行なうことになり、その時に巨人のスカウト部長・ 藤田元司(故人)さんが見に来ていました。ゲームそっちのけで誰を見に来たのか 皆で話し合った処、国士館には高校でヤクルトにドラフト3位に指名された高柳 と言うキャッチャーがいて、彼を見に来たのだろうと意見が一致しました。 ならば何か面白いことをやってアッピールしてやろうと思いましたが、ゲームは 淡々として終了し、唯一の見せどころは1死1塁でツーストライクからエンドラン がかかり打者は三振、走者は私が刺殺してチェンジになったくらいでした。 これではアピールにならないので、下級生をレフトのポール際(102と書いて あるが実際は98m)の土手の上に行かせてホームベースから3球遠投を しましたが下級生は1歩も動かず3球とも胸に投げることが出来、4球目は失敗 すると思い3球でやめました。 4年生での大学の野球が終了し、退寮し実家に帰ったある日、当時の阪急 ブレーブス・スカウトの三輪田さんという人から電話があり「今、鶴川の駅に いるけど、話がで出来ないかな」とのことで、駅に向かい10分程度話を しました。当時のドラフト会議は順番で指名するので「縁ががあったら宜しく」 と言われました。日本ハムからも電話があり「縁が会ったら宜しく」と 言われましたが、当時はいま一つピンときませんでした。(尚、巨人からは何の 連絡もありませんでした。)ドラフトで指名なんか無いよなーぐらいにしか思って なかったので、ドラフト当日は調布の「奈良堂」(画材店・渡辺兄弟で経営)に いて、兄の幸男(世田工野球部18期卒)さんがスポーツ新聞社に問い合わせて くれて「巨人が3位に指名したこと」がわかりました。 後日、巨人スカウトの方が自宅へ指名の挨拶に来られました時、なんで私を指名 されたのかをお聞きしました処、ドラフト指名選手を決めるために、12球団の スカウトたちが共同で情報交換をしながら該当試合を皆で見て廻っているとの 事でした。当時の大学にはめぼしい選手がいなくて、神宮球場で6大学野球の ゲームを見ていたが誰かが「帰ろうか」と言ったので帰ることになり、 JR信濃町駅方面へ向かったそうです。隣に第2球場があり東都2部のゲームを を行なっており、「こっちでも大学のゲームをやっているので見ていこう」との 事で入ったそうです。第1試合が終わる少し前に入ったので、「次の試合も見て 行こう」と見ていたそうです。 第2試合は農大対青学戦で、初回に農大が1点取られて、1回の裏に農大が1点 取り返して同点となり、次のバッターの私が逆転ツーランを打ちました。 スカウトの人たちは、「これは面白そうだな」と言って暫く見ていたそうです。 この日、私は大当たりでこのホームランを含め4打数3安打ホームラン2本と 2塁打1本の固め打ちでした。スカウトの人達は最後までゲームを見ていた そうです。 大学4年間(8シーズン)でホームラン3本のうち2本を当日打ったのが、 偶然スカウトの人達の目に留まり、後の農大球場での農大と国士館のゲームを 藤田元司スカウト部長が私を見に来られた理由に繋がるそうです そんなこととは知らないので、ゲーム後に行なったホームベースからレフトへの 遠投をやってしまって穴があったら入りたいと申し上げた処、「あの遠投が 決め手だったんだよ」とドラフト指名の裏話を教えてくれました。
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