島崎城跡東二の曲輪予測図
八幡台から見た島崎城跡鳥瞰図
東Ⅱ曲輪 発掘調査報告
馬出曲輪につづいて,近世でいう二の丸に相当する東1曲輪が台地稜線上の平場に広がる。東西20~35m (平場17m~30m)・南北75m(平均70m),約2328㎡の面積を有する。平場の標高30.18~30.20前後で、城内の曲輪のうちで最も高レヴェルに位置し、北側土塁褶の八幡台は標高34mで、城内で最高所にあたる。平面プランは瓢箪形で中央部が縊れるが,これは自然地形による湾曲と,外周に穿っ堀切への横矢掛りによる防備上の必要性による。今日曲輪内には空堀<3>の堀底(現状埋立) 道より南西より坂があって入るコースと,前述の馬出曲輪の土橋を経由するものとがある。図1,図2をみても明らかな通り,南西からのコースは,空堀<2>を埋めたて,近世もしくは近代に内輪内に耕作地を設け、その住来のための坂道である。従って,この坂道は廃城前にはなく,土塁が空堀<2>に接していたことになる。となる と、外からの進入は、空堀の上に架橋したと考えるしかない。すなわち,①虎口(イ) から帯曲輪に入り,②虎口(ハ)を通過し,③空堀の堀底道をぐるりめぐって,④東Ⅱ曲輪東側中腹の堀の終る地点より,外周土塁上にのぼり,⑤比較的ゆるやかな坂道を物見台上にまでのぼり,⑥架橋されてきた橋をわたり,⑦八幡台に入ったものとみられる。八幡台が幅3~3.5mもあり,土塁福としては必要以上に幅広で,物見台中腹に腰曲輪があるが,腰曲輪は橋脚のため、八幡台と物見台が幅広の削平地であるのは橋梁の設置のためともみられる。しかし,このルートはあくまでも推定の域を出ない。
東Ⅱ曲輪東南部は、若干の土塁状痕跡がみられるか、土塁が崩れた跡であるのか,耕地化した折の根切りにともなう区画であるのか、判断できない。縁淵部は南側で土橋接続部分の幅1. 5mの通路となって20mを空堀<2>に並行して延び,90度折れて土橋となる。
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