2024/12/2
前回の章
二千十年十一月四日。
すっかり肌寒くなった。
川上キカイで仕事を終え、家に帰って来た時だった。
弟の徹也から親父の姉である三進産業の京子叔母さんが、癌で入院したと聞く。
余命半年……。
幼い頃、色々面倒見てもらったっけなあ。
整体開業時にも顔を出してくれて。
いや、そんな事よりも俺は京子叔母さんに五万円の金を借りたままだ。
ゴリの彼女になんて格好をつけて奢ったり、職場のみんなへ弁当を振る舞ったりとそんな事をする前に俺は義理をすっかり欠いていた……。
徹也は余命少ない京子叔母さんに対し、笑わせる事が必要だと言った。
俺が高校生の頃、三者面談で親父が来てくれなかった時、親代わりに一緒に行ってくれた。
帰り道、ファミリーレストランのデニーズへ寄り「智一郎、好きなもの食べな。私が奢ってやるよ」とご馳走もしてくれた。
そんなもんじゃない。
お袋が出て行き、叔母さんのピーちゃんが姉である京子叔母さんの家へ、毎週日曜日になると連れて行かれ、たくさんの愛情をもらった。
三進産業の家には、俺と同世代の子供がいた。
長男の二歳年上の清水純一。
長女で同じ年の清水麻衣子。
次女の清水理恵子。
小学校三年生から六年生まで掛け、毎週週末になると俺ら三兄弟…、いまや二兄弟であるが、三進産業で遊び、食事を食べて楽しく過ごしたのだ。
麻衣子の子供の草太を連れて、家に来た。
草太も理恵子の子供の花子とさく同様、俺に妙に懐いていた。
「智ちゃん、抱っこして」
「いいぞ、ほら。そういえば草太。京子叔母さんのお見舞いは行ったか?」
「うん、行った」
「どうだった?」
「元気なかったよ、京子ちゃん」
「そっか……」
「それでね、智ちゃんにはお見舞い来てほしくないって言ってた」
「……」
ハンマーで頭を殴られたような感触。
そう…、俺は京子叔母さんに金を借りたまま、彼女からすれば俺は逃げた形になっている。
そこまで嫌われてしまったか……。
世の中金がすべてではない。
しかしそこまで金が無い俺は罪だ。
何てとりかえしのつかない馬鹿な真似をしてしまったのだろうか。
こんな俺が京子叔母さんの前に、顔を出せるはずがない。
今の俺に何ができる?
徹也は笑わせる事と言った。
京子叔母さんは俺の小説をよく読んでくれていた。
悲壮感漂う作品……。
もしくはホラー。
それ以外では新宿を舞台にしたもの。
こんなテーマのものが俺の作品には多い。
『パパンとママン』はどうか?
違う。
笑わせると言っても品のないものを見せて、笑わせればいいってもんじゃない。
なら…、読んで自然と微笑んでしまう……。
そんな作品を書いてみよう。
今までそんなテーマで書いた事がない。
でも、それで少しでも微笑んでくれるのなら、俺はそれにチャレンジしてみたい。
ごめんね、京子叔母さん……。
俺はワードを起動し、新たな作品を書き出した。
『川越シンフォニー』
シンフォニーとは交響曲。オーケストラによって演奏される多楽章の器楽曲の事。
十八世紀前半、ハイドンにより形式が確立されたという。
しかしまだこの頃の交響曲は四楽章形式であるものの各楽章の規模は小さく、演奏の時間も短い。
それを徐々に拡大していったのがモーツァルト。
人は子を産み、子はやがて大人になっていく。
大まかな人生に分けると、赤子の何も分からない時代。
色々な経験や勉強を経て、自己を確立する幼少期から義務教育などの学校生活まで。
社会人時代が一番長く、最後に年を取って誰もが老人になっていくもの。
人生をシンフォニー風に四つに分けてみたが、一番長いのがやっぱり働いている時代だろう。
大抵の人はそこで結婚し、子供を生む。
そして新たな家族を形成していくものだ。
人間の歴史はそれの繰り返し。
しかし中には俺のような異端児もいる。
四十歳手前にして結婚のけの字すらない自分。
常に付きまとうのは孤独感。
しかし逆にそれが心地良かったりもした。
だが、どうだろう。
何故俺はこうなってしまったのか?
果たしてこれまでの生き方に後悔はないだろうか?
「……」
もちろんあるに決まっている。
あるからこそ、こうして自問自答し、何度も飽きる事なく過去を振り返っているのだ。
誰もが平等な生まれたての瞬間。
何も知らない赤子は、自分が不幸か幸福かなど考えもしない。
ただ暗闇に怯え、腹が減れば泣くだけ。
そこには人間として当たり前の本能である食欲と睡眠欲だけが備わっている。
物心が次第につき始める幼少期。
俺は母親の暴力によって怯える事から始まった。
強さというものに価値観を置き、いつになってもその意味合いを考える自分がいる。
何故か?
多分強くならないと生きていけないと幼いながら思っていたのだろう。
強烈に脳裏へ刷り込まれた忌々しい過去。
しかし、悪い事ばかりではなかった。
右手を広げ、親指から順に追って眺めてみる。五本の指と同じ数の親戚。
親父は五人兄弟だった。
自分の親である両親…、そしてプラス一人。
こいつらのせいで、俺はどれだけ嫌な思いをしてきたのだろうか。
ゆっくりと親指を折りたたむ。
人差し指を見る。
一番近くにいたおばさんのユーちゃん。
彼女はずっと同じ家に住み、同じ空気を吸いながら俺たち三兄弟を育ててくれた。
だからこそ今の俺がある。
中指を見る。
ユーちゃんが毎週日曜日になると連れて行ってくれた場所。
そこには親父やユーちゃんの姉である清美おばさんの家があった。
俺たち神威三兄弟と同じ水洗寺三兄弟。
うちと決定的に違うのは女の子がいる点である。
男だらけの家族と違い、水洗寺家はバランスがとても良かった。
いつも笑顔が絶えず、暗い過去を持つ俺も、そこへ行くと自然と笑顔になっていたほどだ。
同じ年の愛子ちゃんとは小学生の頃、一緒に小遣いを出し合って鶏肉を買い、清美おばさんの家で焼鳥を作った事がある。
弟の龍也や龍彦、そして水洗寺家の分太ちゃんや、妹の里香ちゃんは大喜びで俺と愛子ちゃんの作った焼鳥を食べた。
その時焼鳥のたれの作り方を教えてくれたのが清美おばさん。
「龍ちゃん、これおいしいよ」
満面の笑顔で食べる里香ちゃん。
醤油にみりん、そして砂糖。
こういった基本的な味付けを教わったから、みんな違和感なく普通に焼鳥を食べられるのだ。
奥でユーちゃんや清美おばさん、おじさんは微笑ましくその光景を眺めている。
お子様ランチ今まで食べた事がない俺。
自然と幼い頃から自分で台所に立ち、料理をするようになっていた。
清美おばさんはそんな俺に対し、色々な料理を教えてくれた。
今の俺の料理の味つけの中に、間違いなくそういったエッセンスは入っている。
駄目だ…、目が滲んで霞む。
涙が止まらなかった。
自身の愚行を悔いる。
取り返しのつかない過ちを俺は何度犯せば気が済むのだ。
見舞いにも来てほしくないと嫌われた俺。
こんな人間が書いた小説を弱った京子叔母さんが読んでくれるとでも思ったのかよ……。
昔を掻い摘んで執筆したところで、懐かしいというだけで笑いを誘うものではない。
何かないか?
自分の体験を小説にするしか俺は脳が無いのか?
考えろ。
必死に考えろよ。
才能なんて無くていい。
だから今だけは書く力を……。
どんなに悲しくても派遣で出向中の俺は、今日も川上キカイへ行く。
弁当は作れなかった。
京子叔母さんの事が常に頭の片隅に引っ掛かっている。
「あれ? 先生、今日は弁当ないんですね?」
「すみません…、執筆に夢中になり過ぎて、作る時間無くて……」
嘘をついた。
京子叔母さんへ金を返してもないのに、他人へ施してきた俺。
酷い罪悪感が全身を覆っている。
「いつもご馳走になっているんで、今日は自分が先生に昼飯ご馳走しますよ。食べに行きましょうよ」
上司の小田柳はいつだってこう気遣ってくれる。
それに比べて俺は一体何なのだろう?
本当に馬鹿だ。
家に戻ると、新たな小説を書き始める。
執筆途中、気付けば俺はその場へ倒れ込むようにして眠っていた。
時計を確認すると夜中の三時過ぎ。
丑三つ時という時間帯だ。
不思議とこの時間帯になると、最近執筆作業をしている自分がいる。
自由に思ったままを書く……。
そこには事実をそのまま感情移入して書く必要性が無い為、とても気楽で楽しい空間があった。
仕事を終えて帰り、まず寝る。
そんな生活習慣が日常化されているこの頃。
仕事と知人に誘われる以外、外へ出る事がない日々。
それでも特に不満を感じない。
そう、今の俺は一刻も早く作品を完成させなきゃならないのだ。
そして書いた文章を横文字にして載せ、行間隔を空けてみる作業をする。
こうした行為が自然と自己の作品の推敲に繋がっていく事実。
縦から横へ。
同じ文字を書くにしても常に二重のチェックをしていく。
このスタイルが自然と俺のスタイルになりそうだ。
久しぶりだな、特定の誰かに読ませようと思いながら作品を書くのは。
特別な贅沢など欲さない。
無駄な欲も無くなった。
だから、神様ってものが本当に存在するのなら、この作品が完成した時、読み手を微笑ませる力を与えてほしい。
俺は全身全霊を懸けて、一生懸命文字を書き連ねるから。
少しばかりの贅沢を望むのなら、この手にどんな患者をも治せる力が欲しい。
『スリー』
ほんの一瞬の光景だった。
目の前で起こった出来事が信じられない。
馬鹿、そんな風に考えている場合なんかじゃないだろ?
早く何とかしないと……。
俺は車から飛び出し、横たわっている子供へ近づく。
「……」
外傷はないようだ。
心臓は…、うん、ちゃんと動いている。
しかしピクリとも動かない。
下手したら内出血しているんじゃ……。
病院へ連れて行くのがいいか。
そしたら俺は……。
あと一週間で披露宴を控えているんだぞ。
すべてが台無しだ。
じゃあ、どうしたらいい?
シーンと静まり返る薄暗い道。
この辺りでは民家もないので人通りはない。
何故この子は、こんな夜更けに一人で出歩いていたんだ?
違うって。
もっとやらなきゃいけない事があるだろ。
今、病院へ連れて行けば助かるんだ。
でも、そしたら俺の人生が……。
顔をジッと見てみる。
まだ六、七歳ぐらいだろうか。
どう見ても小学生。
これから色々な事を覚え体験し、希望輝く未来が待っているというのに……。
咄嗟に踏んだ急ブレーキ。
それでも子供を跳ね飛ばすには充分過ぎるスピードだった。
一回転するように跳ね、地面に叩きつけられる瞬間を俺はハッキリと見ていたのだ。
当て逃げ……。
周囲には誰も目撃者などいない……。
だが俺の判断一つで、この子の運命は変わってしまう。
なら、どうする?
一つ…、この子を病院へ連れて行き、治療を受けさせる。
まだこの子は生きているのだ。
医者じゃないからどの程度のダメージを負ってしまったのかは分からない。
でも、病院へ行けば何とか助けられるんじゃないか……。
いや…、助からないかもしれない……。
ではこのまま逃げる。
馬鹿、当て逃げだぞ?
犯罪だぞ?
しかも人を殺してしまうかもしれないんだぞ?
眞澄…、あいつがこの事を知ったら……。
それに寸前に迫った披露宴はどうするんだよ?
すべてが台無しになってしまう。
このまま黙ってやり過ごす……。
でも、一人の命を見捨ててまで、俺は幸せを噛み締められるほどタフじゃない。
あー、じゃあどうしたらいいんだよ?
現状に対し、結論を見出せない俺。
こうしている間にも時間だけは過ぎていく。
逃げるか、それとも助けるのか……。
この場で考えているって事が一番無駄だ。
すぐに決めなきゃ。
俺は立ち上がり車へ乗り込む。
辺りを振り返る。
うん、誰もいない。
今なら逃げたって大丈夫。
バレっこない……。
アクセルを静かに踏み、徐々に車を発進させた。
横目に倒れている子供をチラリと見る。
変わらずに倒れたままだ。
自分で決めたんだろ。
行け、早く行けって。
距離が進むにつれ重くなっていく罪悪感。
重圧に押し潰されそうだ。
懸命に眞澄の笑顔を思い出す。
どれだけ苦労してあいつの心をつかんだのだろう。
三年近い年月を掛け、誘いを断られてもめげずに頑張ってきたのだ。
気付けば彼女は当たり前のように、俺のそばにいた。
とんとん拍子に話は進み、ようやく結婚まで漕ぎつけた。
ほとんど彼女の要望を聞いてやり、無理して毎日残業だって休日出勤だってした。
それも眞澄の笑顔見たさに……。
子供を轢いたなんて知られてみろ。
これまで築いたものが、すべておじゃんになってしまう。
これでいい……。
これでいいのだ……。
後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、俺はアクセルをベタ踏みして車を飛ばした。
思えばロクでもない人生の連続だった。
両親の愛情を受けず、社会人になって金を自分で稼ぐのを心待ちに生きる。
そんなつまらない幼少時代を過ごしながら過ごしてきた。
こんな俺がグレずに済んだのは、割と近くに住んでいる従兄弟の清美おばさんが優しく接してくれたからだ。
常に絶えない両親の口喧嘩。
決まって家を飛び出してしまうお袋。
そんな時いつも腹ペコだったけど、親父には何も言えなかった。
「腹が減った」と当たり前の事を言うだけで殴られる日々。
そんな親父はいつだってお袋が飛び出すと、自分の胃袋を満たしに一人で勝手に食べに行ってしまう。
非常にひもじかった。
でも稼ぐ術のなかった俺は、ひたすら空腹感に耐えるしかなかったのだ。
「彦明、肉じゃが作ってきたけど食べるかい?」
タッパに入れた温かい料理を手に現れる清美おばさんは、神様に見えた。
おばさんはいつもうちの動向を気に掛けてくれ、身勝手な両親が喧嘩をするといつだって料理を持って家まで来てくれる。
さすがに目の前じゃ泣けないけど、本当は感謝で泣きたいぐらい嬉しかったんだ。
ちょっとした悩み事があると、いつも俺は清美おばさんに相談をしに行ったような感じがする。
本当の両親に甘えられなかった分、きっと親代わりに頼ってしまったんだろう。
人間は生まれながらにして寝る事と食べる事、その二つだけは勝手に身に付いている。
子供は自分じゃ稼ぐ事ができないから食べられない。
だから親が必死に働いて食べさせるのだ。
うちはそういった当たり前の事ができなかった家庭。
それを円滑に持っていってくれたのが清美おばさんだった。
もう何年会っていないだろう……。
俺が転勤でこっちに移動して以来だから、二年ほどか。
今度、久しぶりに顔でも出してみるようかな。
「ハハ……」
馬鹿だなあ、俺は。
あと一週間で披露宴なんだ。
すぐ会えるじゃないか。
嫁の眞澄を初めて親族に紹介したのも清美おばさんだった。
本当に喜んでくれたっけ。
当日会場で笑いながら拍手なんてされたら俺…、感慨極まってみんなの前で泣いちゃうかもな。
嫌な事があっても挫けずにこられたのは、清美おばさんの母親に近い愛情と、眞澄の存在があったからだ。
もうじき幸せだと大手を振って自分の集大成を見せる時が来る。
大手を振って?
どこが……。
俺は子供をひき逃げしておきながら、大手を振って披露宴に臨めるのか?
「彦明が本当に優しい子だって、おばさんはちゃんと分かっているからね」
いつだって清美おばさんはそう言ってくれた。
だからグレずにいられたんじゃないかよ。
ちゃんと俺を見て、認めてくれる人がいるって事を自覚していたから。
俺が優しい子……。
「……」
逃げるなんてやめよう。
期待を裏切っちゃいけない。
俺は車を一旦停め、すぐにユーターンを始める。
まだあの子は倒れているんだぞ。
自分でした事から逃げちゃいけない。
まだ間に合うって。
全力で車を発進させた。
「もうちょっとで、本当に幸せな空間を手に入れられたと言うのに……」
曇る視界。
運転しながら俺は目に涙を滲ませていた。
先ほどと変わらぬ位置で倒れたままの子供。
俺は再び駆け寄ると、まずは心臓が動いているか確認する。
眞澄…、すまない……。
心の中で謝った。
今からこの子を病院へ連れて行く。
良くて人身事故。
最悪の場合、人殺しになってしまう可能性だってあるのだ。
何でもっと注意しなかったのだろう。
普段ならもう少し慎重に運転しているはずなのに。披露宴が近づいていたせいか、浮かれていたのかもしれない。
もしもタイムマシーンがあるなら、ちょっと前に戻って……。
現実逃避している場合かって!
早く連れて行かないと、この子を。
とても壊れやすいガラス細工を扱うようにして、そっと両腕に抱き抱える。
未だピクリともしていない。
俺は泣きそうになりながらも、後部座席へ慎重に寝かせた。
早く近くの病院へ連れて行かないと。
いや、遠いけど設備の整った大学病院のほうがいいんじゃないか。
とりあえず眞澄に連絡を入れておいたほうが……。
駄目だって。
彼女を余計に心配させるだけだ。
幸いまだ仕事帰りだと思っているだろう。
それにもういつもなら寝ている時間だ。
今はこの子を何とかする為に出来る限り足掻こう。
「頼むから助かってくれよ……」
バックミラーで覗きながら神に祈る気持ちだった。
「ゴホッ……」
「……。え?」
慌てて車を停め、後ろを振り向く。
「あっ!」
子供の口から血が出ている。
すぐ飛び降りて後部座席へ向かう。
跳ねてから時間をおき過ぎたからか?
どうしよう……。
「君…、大丈夫か?」
まるで返答など返ってこなかった。
パニックを起こしそうなほど錯乱していたが、懸命に自分を保つよう頭を叩く。
「うぐ…、ゴホ……」
再び吐血する少年。
「君っ! おい、大丈夫なのか?」
目の前が真っ暗になりそうだった。
必死に体を揺さぶる。
「……っ!」
糸の切れた操り人形のように首が横へ倒れる子供。
「お、おいっ! 冗談だろ? ちょっと…。ねえ、君っ!」
泣きながら大声を出し、何度も体を揺すぶった。
悲鳴に近い俺の声だけが聞こえる。
「頼むから…、頼むから生きて…。生き返ってくれよ……」
両肩をつかみながら激しく揺さぶってみる。
しかし少年の体はまるで力無く、その振動で動くだけだった……。
ただ目の前で起こった光景を見つめる事しか俺にはできない。
どうすんだよ、これから……。
俺は…、たった今、一人の少年を殺してしまった。
その場へしゃがみ込み、頭を掻き毟る。
髪の毛を引き千切るぐらい強く掻き毟っても、他に術などない。
道路へ土下座するように手をつき、そのまま嘔吐物を吐く。
頭の中がどうかなりそうだった。
このまま錯乱してしまえば……。
吐血した少年の姿が目を閉じていても瞼にこびりついている。
そして彼を跳ねた瞬間が何度も脳裏で繰り返し映像化されていた。
全身が大きく震え出す。
自身に降りかかった現状の重さ。
先の展開を考えると気が狂いそうだった。
再び流れ出る嘔吐物。
吐いたものがゆっくり地面を流れ、手につく。
それでも俺は体勢を変えられずにそのまま固まっているしかなかった。
眞澄に…、何て報告したらいいんだ?
この事実を知った清美おばさんは、どんな顔をして悲しむのか。
たった今、俺は殺人者になってしまったのだ……。
悲しみ、嘆き、困惑、恐怖……。
様々な複数の感情が、同時期に頭の中を駆け巡る。
そんな中、俺が自然とした行為は涙を流すというものだった。
これは何の為の涙なのか?
一つの感情によるものではなく、たくさんのものが入り混じった表現しようのない涙。
辺りに誰もいないせいもあり、俺は大きな雄叫びを上げながら号泣した。
泣いたところで何一つ始まらない。
そんな事は百も承知している。
だが、これからどうすればいいのか分からなかった。
当然の事ながら一週間後に控えた眞澄との披露宴はパー。
いや、披露宴どころか、今後の人生すべてが罪の償いで生きていくだけ。
幸せに生きていく権利など、どこにもない。
あのまま逃げておけば良かったんじゃないのか……。
押し寄せる後悔の連続。
取り返しのつかない現況。
いつまでこうして地面の上で突っ伏しているのだ。
客観的な事実。
俺は子供を撥ね、そして命を奪ってしまった。
人間として罪深い事は、自殺と人の命を奪う行為だと聞いた事がある。
たった今、人として一番してはならない事をしてしまったのだ。
何で残業などしてしまったのだろう。
何であんな時間、この道を運転してしまったのだろう。
何でもっと早くあの子の存在に気付けなかったのだろう。
いくら振り返ったところでもう遅い。
遅過ぎるのだ。
あの上司だって少しは俺に気遣ってくれていたら……。
俺は一週間後に披露宴を控えている身なんだぞ。
おい…、誰かのせいにしたところで、何も変わらないじゃないかよ。
間違いなく轢いたのは俺。
殺してしまったのも俺。
あの子の人生を奪ったのも俺。
全部俺……。
共に伴侶として歩もうとした眞澄の人生さえも狂わせてしまった。
「清美おばさん…、お……、俺の…、どこが優しいんだよ……」
夢であってほしい。
顔面を強く殴ってみる。
もの凄い痛み。
そう…、これは夢でも何でもない。
現実に実際降りかかったものなのだ。
こんな形で人の死に直面するなんて思わなかった。
もっと自分は平凡で無個性な生活を延々と送るものだって考えていた。
ゆっくり車のほうを振り返る。
「……っ!」
思わず自分の目を疑ってしまう。
目を強く擦り、再び開ける。
俺の見間違えじゃなかった。
そこには暗闇の中、フードを頭まで被った人が覗き込むようにして車内に横たわる少年を無言で眺めている。
人に見られた……。
小刻みに震える体。
もうこれで俺は、逃げられない。
頬に何かが当たった。
それが雨だと気付くまで数分掛かる。
静かに降り注ぐ雨で徐々に濡れていく体。
呆然としながら見知らぬ男の後姿を見つめる自分。
男は俺の存在など気付かないかのように少年を眺めている。
「ま、まだ…、生きていますか?」
自然と口が開く。
馬鹿な、俺は何を言っているんだ?
俺の声に反応したのか、男はしばらくしてからこちらを振り向く。
奇妙な格好をした男だった。
薄汚れた鼠色のフードを頭から被り、マントのようなもので全身を覆いつくしている。
日本人離れした顔立ち…、いや、他のどの国の外国人とも違うような顔の作り。
言い方を変えれば、人間ぽくないのだ。
もちろんちゃんと両足で立ち、その姿は誰が見ても人間そのもの。
しかし彼を纏うオーラのような見えない異質なものを感じる。
どのぐらい時間が経ったのだろう。
男は一切表情を変えず、こちらを凝視していた。
不思議と俺も、そんな彼を黙ったまま見ているだけだった。
何も考えずスッと自然に出てしまった言葉。
何故まだ生きているのかなど、馬鹿げた事を俺は言ってしまったのだろう。
見知らぬ男にそんな台詞を言ったところで、どうにかなるものはないのに。
「私が見えるのか」
「え……」
見える?
確かに今、男は静かにそう言った。
「答えよ、人間」
人間?
人間って何?
ひょっとして俺の事?
他に誰がいるんだって。
俺しかいないだろうが。
「は…、はあ……」
喉に詰まった何かを押し上げるようにして、ようやくか細い声を出す。
見えるのかってこいつ、一体何が言いたいのだ?
「久しぶりなものだな」
雨の降る夜空を見上げながら呟くようにして男は言った。
「え、な…、何が……」
男は答える代わりに車内の少年をジッと眺めている。
地面を叩く雨音だけが聞こえてきた。
時たま目に入り込む雨を手で拭いながら、立ち尽くす俺。
あきらかに通常の人間とは違う何かしらの存在。
一体こいつは何者なんだろう。
先ほどまで怯えながら震え、泣く事しかできなかった自分が妙に落ち着いている。
何とも言い難い不思議な感覚だった。
「助けたいか」
「え?」
今、俺に言ったんだよな?
「二度は言わん。どうしたい?」
「……」
助ける?
この子を?
どうしたいって……。
「あっ!」
男の体が微妙に薄れていき、中心に明るいものが照らされている。
違う、体の中から明るいものが光っているのだ。
気付けば男の両手には大きな鎌が握られていた。
死神……。
その様子を見ながら、そんな連想を勝手にしていた。
生死を司る神。
そんな表現がピッタリだ。
もしかして…、先ほどの助けたいかって、あの子をこの男が助けてくれるとでも言うのか?
鈍い光を放つ鎌がゆっくりと真上に上がっていく。
まさか……。
「ちょ、ちょっと待ってっ! 助けたいっ! お願いします。助けて下さい。何でもしますからっ!」
気付けば俺は、両手を合わせながら大声を張り上げていた。
途中で鎌の動きが止まる。
スローモーションな映画を見ているような感じで、ゆっくりと男は俺を振り向いた。
「分かった。契約成立だ」
「え?」
「右手をこの子へかざしてみろ」
右手?
かざす?
自分の手をゆっくり開く。
いつもの見慣れた手の平。
これをあの子へ?
今は余計な事など考えるな。
言われたようにそっと右腕を上げ、少年に向けてみる。
「よろしい。これであと二回だ」
あと二回?
何だ、そりゃ……。
「あっ!」
それだけ言い残すと、男は暗闇の中で溶けるようにして消えていく。
おいおい…、本当に死神だったのかよ?
そんな事よりも子供は……。
変わらずに横たわっている少年。
一体手をかざしたところで何が…、ん?
今、一瞬瞼が動いたような……。
目の前には少年が両目を見開き、驚いたように車内をキョロキョロ見回している。
「ほ、ほんとに生き返った……」
少年と目が合う。
「あれ? おじさんだーれ~? あ、苦しい~」
俺は無我夢中で少年を抱き締めていた。
深夜ひと気のいない道を運転する俺。
先ほどの一連の光景が、未だ夢のように感じる。
一体あれは何だったのだろうか?
死神…、そんな表現がしっくりくる。
俺がかざした右手。
あれで本当に子供が生き返ったのか?
自分の眼で見ておきながら、未だ夢の中にいるようだった。
あの状況のままでは絶望しかなかったはず。
いい方向に考えてみよう。
どちらにしても俺は助かったのである。
それでいいじゃないか。
少なくても殺人者としての烙印を押されずに済んだのだ。
「……」
ひょっとして今こうしている事態が夢?
頬をつねってみる。
痛い……。
うん、やっぱり夢なんかじゃなく現実の世界だ。
でも現実の世界に死神なんているものなのか?
そもそも死神なんて存在は架空のものとして、神話で語り継がれてきた。
ギリシャ神話ではタナトス…、それに冥界の王としてハデスなどが、死を司る神として有名だ。
オシリスやアヌビスは確かエジプト神話だったっけ?
北欧神話ではオーディンなど。
全部ゲームで得た知識だけど。
今度ちゃんと調べてみようかな。
先輩の話だと、神話ってもんは酷く退屈なものだが読んでいると、たまに面白い話にぶち当たるって聞いた事がある。
『トロイの木馬』や『パンドラの箱』などがそういった部類に入るらしい。
でも全然読書なんてしないからなあ、俺。
どうやって神話から死神を調べればいいんだ?
帰ったら眞澄に聞いてみるか。
あいつの事だ。
「急にどうしたの?」なんて聞かれるだろう。
今日起きた出来事を正直に伝えてみようかな……。
いや、子供は無事生き返ったのだ。
無理に心配させるような火種をこちらから言う必要性などない。
黙っておこう。
「よろしい。これであと二回だ」
最後にあの男が言った言葉。
あと二回とは、どんな意味が……。
右手を再び開き、ジッと見つめる。
あのように手をかざすだけで、俺はあと二回、人間の命を救えるという意味合いなのだろうか?
「分かった。契約成立だ」
契約…、そうあの男は確かに言った。
契約って何の契約だよ?
別段俺に変わったところなど何もない。
でも契約というものは、本来双方の意思表示の合致があって初めてそうなるもの。
助けたいかとあの時聞かれた。
俺はそれに対し、助けたいと思った。
するとあの男は右手をかざせと命じ、あの子は生き返ったのである。
おかげで最悪のシナリオを避ける事ができた。
俺にとっては有利な契約だ。
待てよ…、では向こうにとってのメリットは何だよ?
俺は得をした。
逆に向こうは何て表現していいか分からないけど、何かしらの能力を使ったはず。
つまり労力を使わせたという時点で、あの男にとってはマイナス…、デメリットしかない。
では、彼がメリットを得る為の条件とは?
もしもあの男が死神だと仮定すると、望むものは一つしか……。
「お…、俺の命……」
自分で声を出しておきながら、震えているのが分かる。
あと二回…、この右手の能力を使った時点で、俺は魂を抜き取られるのか。
馬鹿馬鹿しい。
何で三回もチャンスがある?
そんな力を持っているなら、あの時点で俺の命など簡単に奪えたはずだ。
もう一度出てきてくれないかな。
そうすればもっと詳しく色々質問できるのに。
そんな事を考えている内に、俺はマンションへ到着した。
ここからどう微笑ましく読み手に持っていけるか……。
思い付きでここまで書いてみた。
京子叔母さんの余命半年。
間に合うさ。
俺の執筆速度なら、絶対にこの作品を完成できるはず。
スランプなんて無い。
金も無駄遣いはやめて、この作品を本にして、一緒に返すんだ。
じゃないと俺は本当に屑になってしまう。
ついつい考え込んでしまう俺。
本当にごめんね、京子叔母さん……。
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