2024/11/24 sun
前回の章
患者であるきょうちんの言葉で、己に気付いた俺は三回目の校正作業を終えた。
出版社サイマリンガルから、ようやくゴーサインが出る。
これで晴れて、俺の処女作の『新宿クレッシェンド』は本になるのだ。
季節は十二月に入っていた。
岩上整体も一周年。
まさか開業してすぐ百合子と別れ、ちゃちと初めて会って、春美まで来てくれて……。
何だかんだ患者を抱いちゃったよな。
怖い思いもしたし、たくさんの感謝ももらった。
運営がピンチでSEの仕事へ副業だって行った。
鹿島神宮も行った。
群馬の先生って、本当に何が見えているのだろう?
ゴリやチャブーに引っ掻き回され、ストーカーは京都から来るし。
未完成のも多数あるけど、小説もいっぱい書いて。
やっぱり小説を世に出せた事が、一番大きな事だろうな……。
巣鴨留置所で同部屋だったヤクザの原さん。
「岩ちゃん! 岩ちゃんは俺たちの世界の代表として、光の浴びるところで活躍してくれよ!」
接見に行った時、牢屋越しに言われた言葉。
ちょっとだけ約束果たせそうですよ、原さん。
まだ刑務所だろうけど、北海道で奥さんと娘さん待ってんでしょ?
頑張って下さいよ、ほんと……。
そっか。
俺って患者がいない時は執筆できるからって、そんな理由で岩上整体を立ち上げたんだ。
ならば続きを書こう。
『新宿フォルテッシモ』の……。
岩上整体テーマ曲を流す。
勝手に俺がそう呼んで決めた曲だけど、多くの人が聴いて「いい曲ですね」って褒めてくれる。
俺は執筆を開始する。
この作品を書く為に、俺は小説を書き始めたんだ。
スラスラ進む文章。
その時携帯電話が鳴った。
〇〇連合組長の岡村?
ちょうど今執筆をしている内容の場所、歌舞伎町第二平沢ビルに事務所を構える岡村組長が、何でまた俺に今頃電話なんて……。
「おう、岩上はん。久しぶりやな」
「岡村さん、お久しぶりです。どうかしましたか?」
「ほら、北中んとこいた野地はん知ってまっしゃろ?」
野地…、野地……。
「はいはい、野地さんですね! もちろん知ってますよ」
名前は変えてはいるが、奇遇にもちょうど今あの汚い倉庫のシーンを書いていたところだった。
本当に不潔でゴキブリが一杯いて、ヤバい部屋だったよな……。
今思い出しても鳥肌が立つほどだ。
「北中んとこ察にやられたあと、ワイの組で組員や無いけど、ちょっとした仕事手伝ってもらってたんや」
俺が北中を巣鴨警察出口刑事へリークしたから、野地まで道連れで捕まった。
これは誰にも話せない事だった。
「あ、野地さんって岡村さんところでお世話になっていたんですね、良かった。気になってはいたんですよ」
北中に自分の店を乗っ取られ、うまく利用されていた野地。
あの時俺の目の前で泣いた姿は、今でも覚えている。
「あの人、網膜剥離とか、それ以外に色々な病気持ってたやろ?」
「え、そうなんですか? 網膜剥離は聞いた事ありましたけど」
「それがな、先日やけど亡くなってしまったんや」
「え! 野地さんが亡くなった?」
「うちらもすぐ病気運んで、色々手を尽くしたんやけどな。でも遅かったわ」
「……」
言葉が出なかった。
「葬儀やら何やら終わったんやけど、一応岩上はんも彼の事知っとったかなと思い、電話してみたんや」
「わざわざご親切にありがとうございます」
「ほな、またな」
「はい、失礼します」
電話を切ると、天井を向いたまましばらく放心状態だった。
特に野地が亡くなったと聞いて、悲しかった訳ではない。
複雑な心境だった。
歌舞伎町で一時的とはいえ、二軒の裏ビデオ屋を持ち、フィリピン人と結婚して子供も向こうに一人いる。
一時は成功した人間なのだ。
それを北中なんかと知り合ったばかりに、店を乗っ取られ、安い給料で二十年も働かされ……。
俺のせいで警察にパクられ、最後はヤクザの元で病気による死亡。
「そんなんで良かったのかよ!」
思わず声に出していた。
ビールで飲んでと渡した二千円。
そんな金額であの人は、翌日俺に「ご馳走様でした」とわざわざ頭を下げて恥ずかしそうに言ってきた。
俺の当時描いた絵を見て「寂しい絵だなあ」と、染み染み呟いていた。
一年も共に仕事をしていない。
それなのに俺は何故こんなに悲しいのだろう……。
続きを書かなきゃ、あの人の……。
俺はパソコンへ向き合う。
気合い入れて、いざってなったはず。
それなのに…、あれほど筆が進んでいたのに、一文字も書けない。
現時点で原稿用紙三百枚以上書けている。
何故書けなくなったんだ?
俺は『新宿フォルテッシモ』を閉じ、データを削除した。
死んだ野地や北中の事を元に、小説を書いていた。
よく分からないが、この話を書くのは今では無いような気がしたのだ。
『新宿フォルテッシモ』はプレリュードの次の作品。
ゲーム屋の話で完結させよう。
北中や野地の話は、ピアノを弾いた時の事も合わせて、その次書けばいい。
野地さん、俺があんたの存在を小説という形で残してやるからな、いつか……。
両手を添え、目を閉じる。
汚くて不潔だけど、あんな人のいい人なんて、早々いないだろう。
今頃天国かな?
俺は黙祷を捧げつつ、合掌した。
遣る瀬無い気分のまま、岩上整体を閉める。
野地の死亡。
多分彼が生きていたとしても、俺とは今後関わりなど無かっただろう。
それなのに妙に何かが引っ掛かっている。
ドアが開く。
この状態で来るのはヤクザだろうな……。
「おう、岩上」
「おう、うっちん」
同級生ヤクザ内野正人。
「また身体辛くなったか?」
「ああ、悪いけど頼むわ」
「分かったよ。おまえがうちで、一番の重症患者かもしれないなあ」
「ちょっと診てくれよ」
「ああ、もちろん。ベッドに横になって」
高周波をそれぞれの体の箇所につけ、ゆっくり電気を流す。
「痛いか?」
「いや、気持ちいい」
「もうちょっと強くするぞ?」
電気を流しながら俺は指先で痛む箇所を触診する。
岩上流三点療法と名づけたこの施術。
指先で二点療法を施しながら、電気でさらに奥の痛みを消していく。
元々TBB総合整体の島田先生から伝授された二点療法に、高周波治療を加えて編み出した三点療法。
「どうだ? 今、さっき痛い場所を同じ強さで押しているけど痛むか?」
「いや、全然」
「じゃあ、あとは回りに筋肉をつけておくようだから、このまましばらく電気を流すからね。おまえの場合さ、全身に足首まで刺青入れちゃっているでしょ? 皮膚呼吸も悪いし、普段楽こいてっから筋肉も無いんだ」
「まあな。どこ行ってもまるで効果なかったんだ。ずっと寝てもいつも夜中に目を覚ますしさ。朝までゆっくり寝れたなんて事なかった。この間おまえの受けたら、久しぶりに朝までゆっくり眠れたんだ」
「それは良かったな。まあヤクザな商売をしているんだ。みんなビビってちゃんと身体を押せないんだろ。また痛んだらおいでよ。いつだって楽にはするよ」
「ありがとな。この間、〇〇組の組長来たか?」
「ああ、とても俺の施術を気に入ってくれた」
「そっか」
「まあ、柄の悪い患者だけど、紹介してくれてありがとな」
ヤクザ者の内野とは、小学生時代の同級生。
他人から見ればコテコテのヤクザにしか見えないだろう。
しかし昔の面影はある。俺がこうして『岩上整体』を立ち上げた時、顔を出してくれた数少ない同級生の一人だ。
周りの同級生は内野にビビり、顔を合わせようともしないが、俺はいつも時間がある時は普通に接するようにしていた。
あの幼稚園からの幼馴染である守屋淳一も、内野の犠牲になった一人である。
彼は寂しがり屋なのだ。
ひょっとしたら今の人生を後悔しているかもしれない。
せっかく地元でまたこうして再会したのだ。
他の同級生同様、俺は同じように仲良くしたい。
帰り際俺は同級生のよしみでいつも安く請求をした。
「おい、内野。今日は三千円でいいぞ」
「岩上さ、悪いんだけど……」
「ん? 今日は持ち合わせがないのか?」
「それがさ、兄貴分に今日中に何とか二十万を用意してくれって言われててさ」
「大変だな」
裏稼業時代ならともかく細々何とかやっている俺には、縁のない金額だ。
「ちょっと貸してくれねえか?」
「無理だよ。家賃だってやっとなんだ。力になりたいけどさ」
「だっておまえ、本を出すんだろ?」
どこで聞いたんだ、その情報……。
「だからってすぐ金が入っている訳じゃない」
「頼むよ! 俺、今日中に二十万集めないと、指を詰められるかもしれないんだ」
「……」
内野が指を詰める……。
「明後日にはまとまった金が入る。だから二日間だけ、貸しといてくれないか?」
究極の絶望は、真の優しさを知る……。
群馬の先生が言っていたあの言葉。
小学生の時、仲良かったじゃないか。
その内野の指が無くなる?
二日…、家賃の振込日は一日程度の遅れなら、大家にも取り繕う事ができる。
「分かったよ…。たださ、俺、本当にまだ家賃払ってないんだ。だからちょっとこっちは払うの遅らせるから、必ず明後日返せよな」
一日遅れなら、何とかなるさ。
ヤクザになってみんなから敬遠されている内野。
自業自得とはいえ、俺は昔と変わらないでいるからな。
「分かってるよ。同級生じゃねえか」
俺はなけなしの二十万円を内野に貸した。
その日から内野の携帯電話は二度と繋がらなくなった。
「同級生の絆だろ?」と言った内野。
守屋も選挙の時、似たような台詞を俺に言っていたよな……。
「よくも俺を裏切ったな、内野っ!」
大声で叫んだ。
あの顔を思い浮かべただけで、殺したくなる。
どうするんだよ?
ここの家賃の支払い……。
まったく余裕のない俺は途方にくれた。
同級生とはいえ、ヤクザ者に金を貸して家賃を払えないなんて言えなかった。
どうしたらいい?
今からどこかへ働きに行くとしても、二十万円なんて金をすぐには作れない。
出版社に印税を早くくれと頼んでみるか……。
俺は恥を忍んで出版社に電話をしたが、印税は五千部本が売れないとくれないらしい。
じゃあ、どうする?
とりあえず大家へ電話を入れる。
ここを借りる際、敷金として三ヶ月分の金を納めていた。
整体の機械が故障して急な出費が出てしまったと嘘を言い、今回は何とかその敷金から家賃を捻出できないか頼んでみる。
酷く格好悪かったが、背に腹は代えられない。
敷金から今回は特別に家賃を捻出。
とりあえず何とかなった……。
何故俺が、こんな苦労をしなければならないのだ。
すべては同級生の内野のせい。
ヤクザだから何だ?
見つけたら殺してやる。
右手の親指を真横に伸ばす。
鍛え抜いたこの親指から繰り出す打突で……。
あのクソヤクザなら、俺は躊躇わず打突をぶち込む事ができる。
せいぜい俺と出くわさないよう覚悟して道を歩け。
そんな時、また後輩のター坊が『岩上整体』に顔を出した。
「智さん、先日はありがとうございました。あれから身体も楽になって」
「なら良かった」
「あ、あと小説のグランプリ、おめでとうございます! 前回言い忘れていましたよね?」
「運が良かっただけだよ。本当は小説なんかよりも、リングの上で戦っていたかった」
え、俺は何を口走った?
内野を見つけたら……。
そんな事ばかり考えていたせいか、現役時代の殺気が戻ったとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。
「え、とうとう上がる? 智さんが上がるとOK出すなら、すぐ主催者試合組むと思いますよ?」
ター坊は柔道をしながら、プロの総合格闘技のリングへ上がっていた。
バックボーンはPRIDEのスポンサーの一企業である鰻のいちのや。
俺の一つ上の先輩昌也さんがあとを継ぎ、ここ十数年で店舗を拡大したと聞いている。
彼とは徒歩一分の近所なのに、俺は中央小、富士見中、昌也さんは一小、一中と学校が違うので面識は無かった。
ター坊からはその昌也さんから「智一郎さんはまた上がらないの?」と聞かれていたらしい。
風の噂だけで俺と昌也さんはお互いを認識していた訳である。
「馬鹿、あれから何年経っていると思うんだよ? 最後に出たのが二十九歳の時。あの時なら俺は日本で一番強いって自負があったけど、今はもう三十六歳だぜ? 七年もリングから遠ざかっている」
「でも俺、今でも試合していますけど、智さんのような殺気を持った格闘家は見た事無いですよ?」
「殺気を出すだけと、実際に動くのは違う。もうトレーニングだって全然していないしさ……」
本当はこの時点で自分を偽っていた。
機会があるなら試合に出たい。
そんな願望があった。
「龍さんが試合に出てもいいと言うなら俺、掛け合ってみようかな……」
「笑われるぞ、こんなおっさん捕まえて……」
俺は引き攣ったような笑い方しかできなかった。
一人になると過去の自分を思い出す。
最高に幸せだったあの頃。
女も抱かず、稼いだ金はすべて食費につぎ込み身体をデカくする事だけに没頭できた日々。
本当に強くなりたいなら、女を抱く事なんて覚えなければいいのだ。
女だけじゃない。
競馬も、パチンコも、酒を飲むという行為も、欲というものすべてにおいてだろう。
何も知らなければその分トレーニングに没頭でき、自身を追及できる。
しかし今はどうか?
色々な事を覚えた分だけ俺はどんどん弱くなっていった。
しかも人間の骨をへし折った俺が、今じゃこうして人を治している。
もう戦いのステージなど、とっくに降りていたのだ。
師、ジャンボ鶴田さんの顔を思い浮かべる。
本当にこのような日々を送っていていいのだろうか?
自分ではいくら考えたところで答えなど出ない。
一つだけ分かるのは、強さという答えを『打突』と履き違えたまま、俺はステージから降りたという事だけ。
思えば、たくさんの時間を費やした割に、表舞台で戦ったのはあの一試合だけ。
前にも考えた事がある。
『新宿クレッシェンド』の授賞式のあと、島村と話をした時だ。
ピアノは川越市民会館で発表会をして、一つの区切りができた。
小説は現在も書き続けてはいるが、賞を取り世に出すという、一つの区切りはできている。
格闘技だけなのだ。
中途半端なままなのは……。
右手の親指を見る。
他の格闘家連中なんかより、戦いに対する飢えは人一倍ある。
でも、前を思い出せ。
俺は本気で人を殴れず、『打突』だってできなかったじゃないか。
向いていないのだ、格闘家には……。
「智さーん!」
後輩のター坊が整体にデカい声を上げながら飛び込んでくる。
「何だよ? おまえ、患者いたらどうするんだよ。そんなデカい声出すな」
「決まったんすよ!」
「おまえの試合が?」
「違います。智さんの試合が!」
「はあ?」
何故俺の試合?
この馬鹿、何て主催者に言ったんだ?
「智さんが試合に出てもいいと言っていたと、総合格闘技のDEEPあるじゃないですか? あそこの社長に言うと、じゃあ一ヶ月間でリングを用意しましょうって」
「おいおい…、俺はリングから降りて七年半…、何もしていないんだぞ?」
「でも…、智さんは強い。実際に会った人間はみんな見ただけで、そう思います」
「違う! もう身体の鍛錬をやめてから、俺はどんどん衰えている一方だ。現役でやっている連中とは全然違う」
「智さん!」
「分かり易く言ってやる。例えば俺とおまえ、身体だっておまえのほうがデカい。でも、二人並んで『どっちかと絶対に喧嘩しなきゃいけない』って質問した場合、みんなどっちを選ぶと思う?」
ター坊は少し腕を組んで考えている。
ずっと柔道界という体育会系で育ってきた。
コイツは妙に先輩想いのところがある。
「みんな、俺を選ぶでしょうね」
ほら、こうやって先輩を立てようとする。
「何で?」
あえて聞いてみた。
「智さんに喧嘩を売る奴は、多分いないと思います」
確かに歌舞伎町でも面と向かっては来た奴は、誰一人いなかった。
「それは見た目と言うか、殺気を放っているからだけだ。実際におまえと俺がやり合ったら、俺は簡単に負ける。もうそういう体力なんだ。おまえは根っこの部分で優しい。だから非情になれないだけで、素人連中は、そこのところを分かっていないだけ」
そんな事を言いながら、俺も自分が甘いのを自覚していた。
格闘技なんて相手の顔面を躊躇なく殴れるほうが強いのだから。
「俺、智さんとは七つ年が違います。俺の試合に応援に来てくれたり、智さんには感謝いっぱいです。この間だって俺の通う道場の先生だって治せなかった俺の肩を簡単に治してくれた事だって。でも、ずっと思っていたんです。そういう智さんも凄いなと思っているけど、実際にリングに上がるところをこの目で見て見たかったって」
「……」
本音を言うなら俺のリングに入場するシーンからすべて格好いいところを見せたいに決まってるさ。
でも、あれから時間が経ち過ぎた。
以前のような強さは今の俺に無い……。
今の俺に何ができる?
もし試合で勝つ事を優先するなら『打突』しかない……。
ジャンボ鶴田師匠からも否定されたあの技を。
あんな卑劣な技を罪もない対戦相手に使ってまで勝利する事に何の意味があるのか……。
もう俺は年を取った。
それでいいじゃないか。
「智さんが返事をすれば、一ヶ月後に会場を押さえ、興行になります。これってどれだけ凄い事か分かりますか?」
「……」
俺の決断一つ。
それで、またリングに上がれる……。
心が躍った。
身体中の血液が上昇し、俺に上がれと歓喜の悲鳴をギャーギャー上げている。
本音を言えば、またあの眩い光の中を自分のテーマ曲『地球を護る者』で入場してみたい。
待てよ…、賞を獲って本を全国的に発売する小説家が、総合格闘技のリングの上に立つ……。
きっとマスコミは騒ぐだろう。
そして我が分身の『新宿クレッシェンド』に日の目を見せたいなら、客寄せパンダになってもいいんじゃないか?
しかし、そうなるともう『岩上整体』は続けられない。
駅前の好条件と引き換えに高過ぎる家賃。
患者を診ていく日々。
そこにトレーニングまで重なったら、俺は寝る時間を無くしても無理だ。
以前杖をついてきた八十一歳のおばあさんは、帰る時「先生、杖を使わないで歩けます」と泣いてくれたんだぞ?
次に一つ上の八十二歳の旦那さんを入間市から、わざわざ連れて来てくれたじゃないか。
「ここの先生は私の足を治してくれた」と……。
そういう重度の患者たちをこれからも治していくって決めたんじゃなかったのか?
整体を開業し、様々な人間に裏切られた。
特に内野!
俺は、とりあえず失った二十万円を作らなきゃいけない……。
敷金三ヶ月分の中から家賃へ?
本当に恥ずかしい真似をしてしまった。
理想だけじゃ食っていけない。
またコツコツ患者を診て、家賃稼ぐのか?
同級生に金を騙されたら、すぐ窮地に落ちてしまう程度の稼ぎ。
あのクソ野郎が俺を騙さなかったら、整体はまだ普通に続けられた。
正直、気力が折れていた。
誠心誠意、真面目にやってきたのにな……。
あのヤクザの内野は、見つけたら絶対に殺してやる!
違う。
今は恨みつらみじゃない。
リングに上がるかどうかだ。
整体と格闘技。
どっちを取る?
どうする?
ブランク七年半、準備期間一ヶ月間しかない……。
右の拳を握ってみる。
極限に鍛えたこの右の親指。
いざとなったら俺には『打突』がある。
師匠、ジャンボ鶴田さんに禁じられた卑劣な技が……。
全盛期のボブサップみたいな奴が出てきたら、殺されるだろうな。
仕方ない。
金の為でもある。
整体の家賃が払えず追い出されるなんて、格好悪過ぎる。
これから全国的に『新宿クレッシェンド』が出版され、俺は格闘家としても日の目を見るのだ。
家賃が払えなかったなんて、マスコミの格好の餌食だぞ?
出よう……。
二度目の総合格闘技のリングへ。
俺の試合が決まる。
ター坊の言った通りだった。
こんな俺に、まだ価値があるのか?
来年の一月十三日、記者会見及び公開計量を行うから、大久保まで来てほしいと言われる。
俺はこの日からまた暴飲暴食を開始した。
試合はヘビー級の試合。
体重は百キロ以上。
八十キロ後半まで落ちた俺の身体。
また食べて食べて身体をデカくする必要がある。
最低でも十数キロの増量をしなければならない。
三十六歳の俺の身体よ…、また付き合ってもらうからな。
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