2024/10/2
前回の章
今日明日でガールズコレクションも終わり。
出勤して準備を整えると、コーヒーを淹れる。
杏子やミミが来たら、現状を正直に伝えよう。
當真は女の子に伝えるのは辞められると困るから、最後でいいと言うがあまりにも誠意が無い。
すぐにでもこの現状を伝え、彼女らの今後の身の振り方を共に考える。
行く場所が無く生活に困るなら、五反田の小山の店で良ければ紹介という形。
ずっと身体を張って頑張ってきてくれたのだ。
最後までフォローはしたい。
「岩上さん、おはようございます」
杏子が先に出勤してきた。
ミミが来るまで待つか。
いや、今日話そうと決めたのだ。
俺はこの店が明日で閉まる事を伝えた。
「私…、岩上さんいるから頑張ってきたのに、潰れちゃうの嫌だ……」
その場で泣き出す杏子。
俺はできる限り優しい声で宥める。
「うん、ありがとう…。本当にありがとう…。でもね、上が決めた事だから仕方ないんだ。もし次に行くところが無くて困っていると言うなら、五反田になるけど知り合いの店を……」
「杏子、最後まで岩上さんと一緒に仕事する!」
彼女も懸命に身体を張って頑張ってきたのだ。
それなら俺も明日の最終日まで付き合おう。
たった数ヶ月間の付き合いだが、信頼関係という絆はできていた。
ミミにも同様の話をする。
二人共最後までは、このガールズコレクションで働く。
そのあとは小山の店へ紹介して、俺もようやくこの店から解放されるのか。
結局この日、當真は店に一度も顔を出さなかった。
遅番の有木園は来ても、お互い無言のまま。
特にこの男とは、話す事など何も無い。
最終日、店の準備をしていると杏子が走って入ってくる。
この子はいつも元気がいい。
「おはよう、杏子ちゃん」
「岩上さん、あのね!」
「どうしたの?」
「今日仕事終わったら、岩上さんと一緒にご飯行きたい!」
参ったな…、今日終わる時間帯に彼女の百合子が迎えに来ると約束してしまっている。
でも今日で杏子とは最後なんだよな……。
俺は百合子に仕事で今日は遅くなるから、会う約束を後日にするようメールした。
少しばかりの罪悪感を覚えるが、杏子の気持ちを無下にもできない自分がいる。
「分かった。何か美味しいものご馳走しよう!」
「駄目! 今まで色々お世話になったから、ミミちゃんと一緒に岩上さんへご馳走しようねって話していたんだから」
「はは、その気持ちだけで充分嬉しいよ。でも俺は男だしここは格好つけさせてよ」
昨日仕事帰りに始さんのところへ寄り、店の話はつけた。
最初はもっとうまくオーナーたちを利用しろと言っていた始さんだが、何とか説得する。
俺が始さんの携帯電話へワンコール鳴らせば、ガールズコレクションのホームページは削除されるようになっていた。
地獄のような日々が続いたこの店だが、今日で終わりと思うと清々する気持ちと、少し寂しい変な感情が交互する。
情報館などの後始末は、普段何もしていない當真と有木園コンビにやらせればいい。
四人のオーナーの大ボスである平野さんが初めて店に顔を出した。
今日で店を閉める決断を下した罪悪感からなのか、よくやってくれたと言いながらも長々色々な事を話し掛けてくる。
実家や百合子の情報を人質にしたのは平野さんでなく村川の独断だったのかは分からない。
複雑な気持ちだが、それもこれで終わるのだ。
「岩上…、色々大変な目に遭わせてしまってすまなかった」
「いえ…、こちらこそ色々力不足ですみませんでした……」
平野さんが出ていくと、當真が入ってくる。
この忌々しい顔も、今日で最後だ。
「岩上ちゃん、このパソコンを売って金にして来てよ。買ったら何十万もするって豪語してたじゃん」
また最後の最後で面倒な事を……。
「そのくらいの値段するスペックを搭載して、中のアプリケーションのソフトも入れた金額を言っただけで、自作で作ったパソコンなんて売れないですよ」
あの当時馬鹿の當真でも分かるよう説明したものを逆手に取り、売って金を作ってこいとは本当にこいつらしい。
「何十万もするって言ったじゃん!」
「だからー…、そのくらいの価値がするパソコンを作ったんですよって意味合いで説明しただけです」
「何だよ、それ」
不貞腐れたように當真はソファへ座る。
「だいたいさー、ホームページはどうすんのよ?」
「まだありますよ」
俺はガールズコレクションのホームページを画面に出して見せた。
「岩上ちゃんが担当なんだからさー、今日でおしまいなんだよ?」
俺は始さんの携帯電話でワンコール鳴らす。
五分程度で、もうホームページは見れなくなるはずだ。
「分かってますよ。ちゃんとその手はずはしてます」
これで最後だから変に苛立つな。
俺は自分にそう言い聞かせながら冷静に話す。
この馬鹿とも賞味あと一時間ちょいで付き合いが終わる。
「まったく俺が一番可哀想だよ、ほんとにさ」
こいつが元凶で一千万の金を溶かしておいて、何が可哀想なんだ?
落ち着けって……。
もう終わりなんだ。
そろそろホームページも閲覧できなくなっているだろう。
俺はホームページの確認をしてみる。
先程のコールで始さんが動いてくれたようで、ホームページは見れなくなったいた。
「はい、ホームページはもう見れないようにしました」
画面を當真へ見せながら話す。
「これで俺もこの店でやる事は終わったので帰ります」
「ちょっと待ってよ。何言ってんの!」
慌てて立ち上がる當真。
「俺の責任はすべて終わった。あとはあんたがやればいい」
「仕事の時間だってあと一時間残ってんだよ? こっちは日給で一万円ちゃんと渡してんだからさー」
俺は財布の中から一万円札を取り出すと、目の前に放り投げた。
「金返せば問題無いだろ?」
「何言ってんだよ! ここで今まで給料もらっといてさー。そんな一万返したからもういい? それは無いでしょ!」
こいつのせいで店のオープンが二ヶ月まったく給料が出なかった。
その事で反省というか、俺に悪い事をしたなというものがまるで無い。
「みんな自分の事ばっかでさー。ほんと俺可哀想だよ」
この馬鹿の誘いに乗ってしまったのが、すべての始まりだ。
無給のまま新宿で無駄な時間を使い、西武新宿の一件が始まった。
あんな状況下でなければ、俺は自分の子供をおろすなんて……。
「だいたい岩上ちゃんはさー、いつも勝手だよね? この店が始まる前だった子供をおろすからって理由なだけで、店には全然手伝いに来ないし」
視界が狭くなる……。
そう…、このクソ馬鹿のせいで、俺は地獄を見たのだ。
「おまえ…、自分がしてきた事に対して何も反省無いのか?」
「俺はこの店の店長としてね……」
馬鹿に質問した俺が愚かだった。
財布に入っている札をすべて取る。
「いらねえよ、こんな金……」
當真の真上へ向かって札を放り投げる。
右の拳をギュッと固めた。
「ふざんけんなっ!」
當真の顔面に拳をめり込ませようと……。
瞬間身体全体にブレーキが掛かる。
以前全日本プロレス入りを潰した大沢。
あいつに渾身の一撃をお見舞いした時の破壊力。
今の俺がそれを當真にしたら、下手したら死ぬかもしれない。
それでも俺の拳は當真の顔面を捉える。
ソファまで吹っ飛び當真は血だらけになりながら、気絶した。
ゆっくり深呼吸をする。
こんな事をするくらいなら、もっと早い段階でしておけば良かったのだ。
百合子…、そしておろしてしまった我が子よ……。
こんな馬鹿な男で本当にごめん。
俺はまとめた荷物を持ってガールズコレクションをあとにした。
期間にするとたった数ヶ月。
とても長く感じたが、これでようやく一区切りである。
思い返すのも嫌な負の連鎖。
それもこれで終わりだ。
俺は重たい十字架を背負っている。
これから俺が何をしたところで取り返しのつかない業。
自身の馬鹿さ加減を呪う。
あの子をおろす決断をする前に戻りたい……。
いくら望んでも叶わぬ望み。
はなっから穴が空いていた沈没船なのは、自覚していただろう?
何故俺は色々なものを犠牲にしてまで、あんな馬鹿な真似をしたんだ……。
遣る瀬無い想い。
大声で叫びたかった。
精神的にとても疲れた……。
家に帰ってゆっくり寝たい。
いや…、これから杏子やミミたちと食事へ行く約束があったか。
俺は杏子へ連絡をして今さっき店を辞めた事を伝える。
もう杏子もミミも帰り支度をして、最後の日払いをもらうだけらしい。
最後に二人と食事をしてから、小山へ紹介し終わって、それで終わりだ。
そういえばさっき財布の中の金をすべて放り投げてしまった。
金をおろしておかないと……。
待ち合わせ場所は、この街に来てから縁の深い新宿プリンスホテル前。
俺が初めて新宿へ来てから、ゲーム屋のベガ、チャンプ、エースと渡り歩き、プロにいた頃知り合ったプリンスの支配人たち。
浅草ビューホテル時代の小川誉志子と初めて行った地下一階のアリタリア。
11チャンネルの風俗で口説いた裕美も連れて行った事がある。
二十代の頃の懐かしい思い出がたくさん詰まった場所。
これから来る杏子とミミには、最上階にあるラウンジのシャトレーヌへ連れて行こう。
まだ俺が知っている支配人たち残っているかな?
赤レンガの壁に背をつけながらタバコに火を付ける。
少しして遠くから杏子とミミの姿が見えた。
俺を確認すると、一目散に駆けてくる杏子。
この子のこういう素の一生懸命な部分は、見ていてとても和む。
後ろからしんどそうにミミが困った表情をしながら早歩きする。
たった数ヶ月とはいえ、この二人共今日で最後なんだな。
「岩上さん、どこへ食事行くんですか?」
「ここの最上階のシャトレーヌ。プリンスはちょこっとだけ顔利くんだ」
入口の目の前にある赤レンガを軽く叩きながら説明した。
「私、こんなところでご飯食べた事ない」
杏子とミミは緊張しながら俺の後をついてくる。
俺は笑いながらエレベーターのボタンを押した。
「うわー…、ほんと綺麗ー……」
無邪気な子供のように杏子は窓にへばりついて夜景を眺めている。
知り合いの支配人が窓際の席を用意してくれた。
新宿プリンスホテル二十五階にあるBARシャトレーヌ。
以前ミサキのいるキャバクラで口説いた篤子を連れてきた以来か。
あの女、性格悪かったよな……。
「岩上さん、岩上さん…。ボーっとしてどうしたんですか?」
杏子が顔を覗き込んでくる。
「いや、ここに来たのは三年ぶりくらいになるなあと、当時を思い出していたの」
「岩上さん、こういうところ手慣れてそうだもんね。ここのスタッフの人とも知り合いだし」
「たまたまだよ。本当に偶然が味方して運が良かっただけなんだ。じゃなかったら、あんな風俗で俺も働いてないでしょ」
「そういえば當真さん…。何か顔腫れてて鼻血も出てましたよ。今日で最後だし、そのまま給料だけ受け取って出てきちゃいましたけど」
拳が当たる瞬間、動きを止め加減したのだ。
あれであの馬鹿がくたばる事は無いだろう。
俺は子供をおろした事以外のこれまでの話を簡潔に説明した。
「ほんと當真さんってあり得ないですよね。殴られて当然ですよ! でも岩上さん…、そんな大変だったんだ……」
「まあ今日で、それもおしまいだしね。清々したよ」
「でも私は岩上さんがいいー。岩上さんの元で働きたい」
「私もー」
「……」
二人の気持ちは素直に嬉しかった。
だが未来永劫、俺が風俗で働く事は二度と無いだろう。
すべては自身の選択ミスとはいえ、犠牲になったものが多過ぎる。
ミミがそろそろ家の家事があると先に席を立つ。
彼女は人妻なのに、昼は風俗で働き、夜は家で家事。
別れ際小山の連絡先を教えておき、俺の名前を出せばスムーズに紹介の話ができる事を伝える。
俺もそろそろ帰るか……。
伝票を取ろうとすると、杏子がより近くに席を移動してきた。
「岩上さん…、二人きりになっちゃったね……」
上目遣いで俺を見る杏子。
「俺たちもそろそろ行くよ」
立ち上がろうとしたところ腕を組まれる。
「まだ駄目……」
確かに、これで最後だもんな……。
俺は歌舞伎町の汚い夜景を眺めながらタバコに火を付けた。
杏子は色々な事を俺に話してきた。
離婚して三歳の男の子と一緒に住んでいる事。
前の旦那に暴力をよく振るわれた事。
普通の仕事では生活が成り立たず、風俗業へ移った事。
両親に反対された上での結婚だったので、現在も絶縁関係な事。
アダルトビデオにも出演した事がある過去。
彼女は赤裸々に明かす。
俺の家も複雑ではあるが、おじいちゃんが健在な分幸せだ。
この子は大小様々な傷を心に負いながら、身体を張って風俗をしている。
自然と杏子の頭を優しく撫でていた。
杏子は俺の胸に顔を埋めてくる。
百合子にこんなところ見られたら、殺されるな……。
ただ最後に俺へ甘えたかった杏子の心を想うと、無下にもできない自分がいた。
「今日で最後なんて嫌だ……」
答えず黙ってタバコを吸う。
百合子がいなかったら、間違いなく流されていただろう。
しかし俺は百合子を裏切る事はできない。
世の中から偏見な眼差しで見られやすい風俗嬢。
ほとんどがホストへ入れ込み、遊ぶ金欲しさな子が多いのは否定できない。
でも生活苦から身一つでやっている子だっている。
何とも言えない複雑な心境だった。
「岩上さんはこれから仕事どうするの?」
「うーん…、まだはっきり決めた訳ではないけど、知り合いのオーナーからずっとラブコールもらっていてね。多分、そこへ行くと思う」
「杏子は?」
「先程ミミちゃんに説明した通り、五反田の小山って俺の知り合いのところ紹介するから……」
「嫌だ! 岩上さんがいい!」
「もう俺は風俗はやらないから…。小山はいい奴だよ。前に同じ職場で働いていたから性格もよく知っているんだ」
しばらく突っ伏して杏子は泣いていた。
百合子からメールが来る。
そろそろ俺も、川越へ帰らないとな……。
新宿駅まで杏子を見送り、俺は西武新宿駅へ向かった。
忌々しいガールズコレクションから解放され、俺は一週間ほどゆっくり過ごした。
暇さえあれば、百合子はいつも傍にいる。
「たまには子供たちもちゃんと見ないとマズいだろ?」
「ちゃんと接しているよ。智ちんと一緒にいるようになってから私が明るくなったって、うちの子たちも喜んでいるのよ。そこまで気を使ってくれるなら、四人でご飯行く機会たくさん作ろうよ」
「うん、何ならこれからでもいいよ。あの子たちが行きたいレストランでも行こうか」
「うーん…、今日は私が智ちん独占するから泊まってくー。あの子たちは明日にしよ」
無職になったけど、俺はこれから百合子…、そしてその子供の里帆と早紀を養っていかなきゃいけないのだ。
そろそろ次の働き場所を決めなければいけない。
「百合子…、次の仕事なんだけど、長谷川さんと言ってね……」
俺は長谷川の簡単な説明をする。
「智ちんが自分でやりたいところで働くのがいいと思うよ。いくらパソコンだけとはいえ、風俗にいたのはやっぱり私は嫌だったもん」
「ごめんな…、嫌な思いさせちゃって……」
自分たちの子供をおろした事は、あえて口に出さなかった。
今さら彼女へあの時を思い出させたところでどうにもならない。
それに百合子や実家の情報を盾に働かさせられていたなんて、口が裂けても言えない。
百合子はかなりのヤキモチ焼きなのだ。
風俗には当然異性がいる。
それだけでも本当は我慢ならなかったのだろう。
これからは判断ミスする事なく、しっかりやっていかないとな……。
朝になって自然と目覚める。
隣で百合子はすでに起きていたが、手に携帯電話を持っていた。
あれ?
俺の携帯電話じゃね?
「おはよう」
とりあえず声を掛けるが、百合子は軽蔑の眼差しで俺を見ている。
「何だよ? どうした?」
「何で智ちんの携帯に、こんな女の人たちの電話番号入っているの?」
勝手に俺の携帯電話を見たという部分よりも、ヤキモチが先に来た感じの百合子。
「それは変な意味じゃなくて、俺は店のホームページとかもやっていたでしょ? 日に日に誰々がいつ出勤するのかとかさ、ホームページで更新するようだったから、それで在籍している子たちの連絡先をってだけだよ」
「もうあのお店は、辞めたんでしょ?」
「ああ、それはちゃんと百合子に話したでしょ? この一週間だってほとんど百合子といたじゃん」
「…なら、これをすぐ消して!」
「あ、ああ…、分かったよ」
「今すぐ消して。もう終わったんだからいいでしょ」
「うん、今削除するよ」
六人分の風俗嬢の連絡先を削除した。
一瞬杏子の顔が思い浮かんだが、仕方ない。
「私…、身体を簡単に売る人って大嫌い!」
「まあまあ…、中には性格苦から仕方なく子供の為にやっている子だっていたし……」
百合子の表情が一変する。
「私なら絶対にそんな方法取らない! 子供たち育てる為って言うなら、尚更やらないよ」
「う、うん…。百合子の言っている事が俺も正論だと思うよ。たださ、俺ももう辞めたんだから、この話題は止めよう、ね?」
朝からギクシャクするのも嫌だったので、優しく諌める。
話題を変えなきゃ。
「今日、里帆と早紀連れて食事行くんでしょ? どの店にするの?」
「うーん…、あとであの子たちに聞いておくね」
「変に遠慮させず、行きたいってところ聞いてよ」
「そうだね」
少しは機嫌が戻ってきたようだ。
百合子のヤキモチ焼き…、これは少し俺も気をつけて、細心の注意を払わないといけないな。
百合子は一度家へ戻り、夕方頃子供たちを連れて来るようだ。
昼になり長谷川へ電話を掛けてみた。
今後の仕事を考えなくてはいかない。
「あー岩上さん、お久しぶりです。どうしましたか?」
「やっとあの風俗から解放されたので、良かったら長谷川さんのところのお手伝いできたらどうかなと思いまして……」
「えっ! 来てくれるんですか? それなら会ってお話しましょうよ。いつなら都合いいですか?」
今日は百合子たちと食事だから、明日だな……。
「明日以降でしたら、いつでも長谷川さんのご都合に合わせます」
「じゃあ明日のお昼…、歌舞伎町で会いましょうか」
まだ當真や有木園が、歌舞伎町内を彷徨いているケースがあるかもしれないな……。
別段悪い事をする訳では無い。
しかし一緒にいる長谷川へ迷惑が掛かるのも嫌だ。
「長谷川さん、時間帯はいいんですが、歌舞伎町でなく少し離れたところのほうが……」
「それならうちの事務所にしますか? 職安通りと区役所通りがぶつかる先にあるんですよ」
「あー東新宿駅のほうですね。それならそこでお願いしてもいいですか?」
「はい、全然構いませんよ。明日近くまで来たら電話下さい。迎えに行きます」
思った通り長谷川が人柄も良く、仕事を一緒にするのも問題無さそうだ。
明日会った際、當真たちの因縁はある程度話しておいたほうがいいだろう。
夕方百合子たちと食事へ行くまでの空いた時間を小説『とれいん』の執筆に当てる。
現状ではあの西武新宿の一件も解決し、作品もあと少しで完結しそうだ。
今日中に仕上げてやる。
こうして俺は2005年02月05日…、小説『とれいん』を原稿用紙352枚で完成させた。
夕方になり、百合子親子が車で迎えに来る。
長女の里帆は前から少し俺に懐いてきた。
次女の早紀は複雑そうな顔で目も合わせてくれない。
俺からどんどん歩み寄らないと……。
「どこへ食事行くか決まったの?」
「それがね…、この子たち色々迷っちゃって、まだ全然決まってないの」
「それならさ、ロジャースの先にあるハームダイムはどう?」
「あっ、いいかもね! あそこそこそこ高いから、未だ連れて行った事が無くて……」
「よし、決まり! 里帆、早紀、ハームダイム行くぞ!」
二人は不思議そうな表情で俺を見る。
国道16号沿いにあるハームダイムに到着。
ここは1840年代の炭鉱をイメージした造りになっていて、子供たちにはうってつけだ。
びっくりドンキーと経営元は同じである。
外観だけでなく、入口も凝っている。
中へアテンドさせた際、里帆も早紀も目を輝かせ喜んだ。
何故俺がこのレストランを知っているかと言うと、ハームダイムの横にあるケンタッキーに高校二年の頃、アルバイトしていたからである。
もちろん当時はここへ来る金なんて持っていない。
だから社会人になってから何度も来たのだ。
メイン料理はローストビーフ。
様々な種類があり、他にもカリカリチキンなど品数も豊富。
サラダもパート1から3まであり、スタッフのユニフォームも洒落た服を着ている。
「どうだ、里帆、早紀?」
「凄いねー!」
「料理も美味しそう!」
はしゃぐ二人を見て、これからもっと頑張らなきゃと思う。
俺の暗い幼少時代みたいにしては、絶対にいけない。
「智ちんありがとうね」
「ここなら絶対喜んでくれるって自信あったからね」
「これじゃ普通のレストラン連れていけなくなっちゃうよ」
苦笑する百合子。
「俺がこれから頑張って稼げばいいさ」
「よろしくお願いします…。あ、そういえば横のケンタッキーにいつまで働いていたの? 高校を卒業するまで?」
「いや…、確か一ヶ月半くらいでクビになったんだよ」
「クビ?」
三人がその経緯を聞きたがるので、俺は高校時代の話を始めた。
アルバイトを初めて始めたのが、高校二年になってからだった。
一年の頃は担任の谷が強引に俺を部活に入れたがり、始めはラクビー部へ入る。
顧問をしていたのが谷という理由だが、やってみてまるで面白さが分からない俺は三日で退部した。
すかさず別の部活へ入れと強要する谷。
嫌々バレーボール部へ。
しかしそんなものが続くわけもなく、一週間で退部。
しつこい谷はまだどこかへ所属しろとうるさい。
だからハンドボール部へ入部。
それも一ヶ月程度で辞めた。
まだしつこい谷は、毎日盛んに部活へ入れと言う。
仕方なく中学時代からやっていたサッカー部へ入った。
この年甲子園に行った西武台野球部に対抗してか、サッカー部の練習は凄まじい。
休みは年間で元旦の日のみ。
朝練は朝五時台の電車に乗るようだし、家に帰るのは夜の十時過ぎ。
自由を好む俺はこんな生活にうんざりし、二年で担任が榊󠄀先生に変わった瞬間サッカー部を即辞めたのだった。
親父の姉の息子である二つ上の従兄弟の純一が、ケンタッキーでアルバイトしていたので俺もそこでやり始めてみる。
当時の時間給540円。
百合子たちの前では話をしなかったが、数日分の初給料八千円を手にした俺は、同じクラスの永井泉をデートに誘い、一日で使い果たす。
その後もケンタッキーでアルバイトを続けたが、ある日同じアルバイトの女の子たちから相談を受ける。
「店長代理の中島さんいるでしょ」
当時大学生のチャラついた男がいた。
中島は俺たち高校生をよく飲み会へ誘った。
アルバイトの女の子たちは、そこで中島からセクハラ紛いな行為をされて困っているようだ。
「分かった。次の飲み会ある時は俺も参加するから、その時止めるよ」
こうして始まった飲み会。
中島は酔いに任せて一人の子の胸を触る。
俺が注意すると、中島は一瞬睨みつけて別の席へ行く。
俺がトイレに行くと、少しして中島も入ってきた。
横で用を足していると、「岩上! オメーは高校生のくせに生意気なんだよ」と怒鳴りつけてくる。
俺は手を洗い中島が用を足したのを確認すると、思い切りぶん殴った。
この件が原因で、ケンタッキーをクビになる。
女の子たちからは感謝されたが、小遣い稼ぎの場所を失った俺は、辞めたあと何度もケンタッキーへ行き、中島を呼び出した。
もちろん怯えた中島は店長室へ引き籠もり出てこない。
その状況で女の子たちが「岩上君ほんとごめんね。でもありがとう! これ、持っていきなよ」とチキン30ピースやらクッキーなど無料で行く度くれたのだ。
そんなに食える訳がないので、翌日学校へ持っていき、同級生にあげた。
食べ盛りの高校生たちは、昨日の冷めたチキンだろうが構わずむしゃぶりつく。
こんなどうでもいい高校生活を送っていた。
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