まにあっく歴史探索

写真載せたり、ご当地グルメだったり、歴史にまつわる探検

明治9年10月24日(旧暦9月24日)

2024-10-24 20:02:00 | 歴史探索
神風連こと敬神党烈士らが國體を憂い挙兵した冬夜から148年。
当然ながら当時の面影はなく、熊本市内を練り歩いた際も、寂しく石碑があるのみです。
170余名の烈士達は、熊本に鎮座していた連隊を強襲し、当初は軍旗を奪うなど優勢とも見えました。
然しながら、砲撃による火災から戦場が照らされ、烈士等の寡勢が知れると、形勢は一転。多勢に無勢と近代兵器による斉射により、副将の加屋霽堅翁と長老格の齋藤求三郎が戦死。
次いで、首魁である太田黒伴雄が胸部への被弾となり、熊本城法華坂の民家で自刃し、退却を余儀なくされます。
烈士らは重傷を負いながら散り散りとなって熊本各地へ移り、再挙叶わずと見ると各々自刃し果てました。
その壮絶な最期は遺児らが遺した資料にて語られています。











ジェーンズ邸に行った日

2024-10-14 19:34:00 | 歴史探索
ジェーンズはアメリカ陸軍将校という経歴を経て、熊本洋学校の教師として招かれ明治4年〜明治9年8月に閉鎖されるまでの期間、教鞭をとりました。
明治9年というと、熊本で敬神党と政府(県側)が一髪触発という状況です。
不穏な空気漂う熊本を間一髪に近いタイミングで彼は米国への帰路に立つのでした。

彼の人生とすると、一見華々しい様に見えますが、晩年は女性問題による訴訟などに追われ、寂しくあったと記述されております。
因みにこの熊本洋学校は男女共に学ぶという先進的な考えを持ち、博愛精神で知られる日本赤十字の発祥地とも言われています。







熊本城二の丸

2024-10-06 15:59:00 | 歴史探索


熊本城二の丸のかつての姿を描く銅板などが要所に配置されている。
二の丸は確か現在公園であり、駐車場設備のある一帯だったと思うが、神風連の乱(敬神党事変)の激戦地であった。
砲撃による火災により、夜襲の目論見は崩れ、多勢に無勢に敗走を余儀なくされた志士たちは何を思ったろうか。
#熊本城
#神風連の乱