1,
「八月葉月の虫の音は いとしゅうてならぬと鳴きまする」
佐藤公彦(ケメ)の名曲『通りゃんせ』の一節だ。ぼくは当初、八月葉月の虫を、セミのことだと思っていた。
しかし、これは旧暦のことだから、新暦では今時期ということになる、とわかったのはずっと後のことだった。
今宵この歌のように、虫の音が夜を包んでいる。まあ、「いとしゅうてならぬ」と鳴いているのかどうかは知らないが、虫が鳴くのはメスを誘うためだというから、的外れではないだろう。
それにしても、秋の虫は「キンキン」鳴きまするなあ。疲れた頭によく響きまするわい。
2,
さて、その虫のことでちょっと考えたことがある。それはゴキブリのことだ。数日前に、駐車場をうろうろしていたので、踏み殺した。その前も、ぼくの部屋に侵入してきたので、叩き殺した。彼らはいつも積極的に殺されている。
どうしてこうゴキブリばかりが虐待されるのだろう?彼らほど人類に忌み嫌われている虫もいない。彼らとしては何も悪いことをしているわけではないのだ。彼らはただゴキブリとして、まっとうに生きているだけである。
縄張りを侵害するから、人は彼らを死に追いやるのだろうか。たしかにゴキブリは人の家に侵入してきて、そこで一家を構える。
ではコオロギはどうなんだ。彼らも同じではないか。しかし、彼らは人の縄張りを侵したからといって、積極的に殺されることはない。それどころか、鈴虫と並んで、秋の虫の代表選手に祭り上げられている。
この差はなんだ?
人がゴキブリを忌み嫌うのは、その容姿がグロテスクだからだろうか?それならセミはどうなる。セミのほうがよっぽどグロテスクな容姿をしている。しかし、彼らは夏休みの宿題のために毒殺されることはあるが、叩き殺されるようなことは、まずない。部屋に紛れ込んできたら、殺さずに逃がしてやるではないか。これがゴキブリならそうはいかない。殺さないと気がすまないのだ。
この差はなんだ?
思うに、ゴキブリは鳴かないから、こういう扱いを受けるのではないだろうか。鳴かないから愛想なしと思われるのだ。愛想がないくせに、人の家に居候などしているから、叩かれたり、罠を仕掛けられたり、毒を盛られたりするのだ。もし、ゴキブリが鈴虫のような声で鳴いたりする虫なら、こうまで虐待されないだろう。
以前テレビで白いゴキブリを見たことがある。海外のゴキブリで、食用だと言っていたが、もし、人の家に生息しているゴキブリが白いものだったら、こうまでひどい扱いを受けなくてすむかもしれない。しかもその白いゴキブリが鈴虫級の音色を奏でたとしたら、それはもう天使の虫と呼ばれ、重宝がられるに違いない。そうなれば、ゴキブリの鳴く音に、そっと涙することもあるかもしれない。