「永遠の一冊」、つまり、自分にとっての一冊の本のことだろうが、それを言われるとちょっと困る。
ずっと前に、このブログに書いたのだが、
10年位前だったろうか、ある本を読んでいると、「人には一冊の本が備わっている」ということが書いてあった。ということだから、これまでに読んだ本全部ということになる。今残っている本だけでも、自宅に書棚8台、実家に書棚3台、さら学生時代に読んだ本が段ボール箱10個分もあるのだ。これまでに読んだ本全部が一冊なのだから、全部書き込めるわけがない。そこで、その欄に書き込むのはやめることにした。
それを読んでハタと思った。
「そうか、今まで一冊の本を探していたけど、自分にとっての一冊の本とは一生のうちに読む全部の本のことだ」
そういえば、ぼくは本を探す時、前に読んだ本で紹介されたものや、その本に関連あるものを探している。
そう、全部繋がっているのだ。
今日読む本が、「一冊の本」の中の一部というわけだ。
そのことを悟ってから、ぼくは「一冊の本」というのにこだわらずに、読書を楽しむようになった。
しかしぼくの「一冊の本」というのは、実に膨大な量である。(2022年2月2日)
そうそう、本で思い出したことがある。前の会社にいる頃に、小学校時代の友人が職場を訪ねてきたことがある。何しに来たのだろうと思っていると、彼は手に持っていたビニール袋をぼくに手渡した。
「何、これ?」
「いや、前に借りとった本」
「え?」
「机を整理していたら出てきたんよ」
袋の中を覗いてみると、遠藤周作の小説と、自己啓発書が入っていた。どちらもえらく黄ばんでいる。
「二十代の頃に借りたんよね」と彼は言った。
ということは、それよりも三十年近く前の話だ。ぼくは貸したことすら忘れていた。
その後、その友人と昔話をしていたのだが、その時ふと、ぼくはあることを思い出した。何かというと、その友人に貸した本のことだ。
実は、その友人に貸していた本は、先に書いた本だけではなかったのだ。小学3年生の頃だったと思うが、その友人に本を貸した覚えがある。その本がまだ戻ってきてないのだ。
しかし、そのことは彼には言わなかった。仮に、「小学3年生の頃、おまえに貸した『別冊少年サンデー』はいつ返すんか?」と言っても、彼は覚えてないだろう。
ちなみに、その別冊少年サンデーは『おそ松くん』の特集号だった。なぜそんなことを覚えているのかというと、『おそ松くん』は、当時ぼくの「永遠の一冊」だったからだ。