その勢いに圧倒され、なすすべもなくうずくまる身体とは裏腹に、私の意識は逆にふわりと浮き上がるように白濁とした夢遊状態へと入っていくのが判る。
まるで、意識が身体を離れて浮かびあがり、そのまま意識を失うようにホワイトアウトしていくかと思えたその時、私の中になだれ込んでくるそのエネルギーが一体何であるのかが、鮮明なヴィジョンとなって脳裏に浮かび、観え始めた。
― 走馬灯のように。
人は命の最期を迎えようとする時、それまでの自分の人生を一気に振り返るようにして、記憶に刻まれた様々な場面が連続して再生されるという話がある。
今観ているのものはそのような類のものかもしれない。
しかし、1つだけはっきりと言えることは、これは自分の人生の記憶では無い、ということだった。
目まぐるしく様々な場面が現れては、一つひとつが一瞬のうちに自分自身に浸透するように、その場の匂い、聴こえる音、肌に触れる感覚など、観えるだけではない、全ての五感に染み渡り、まるで自分自身が体験したかのごとく、リアルそのものの生々しい記憶が次々と自分の中に"乗り込んで"くる。時間という概念は消え去り、一瞬ですべてを感じとる。
そのどの場面も、自分がこれまでに体験したことのない、知らない人たちの記憶であった。
ごくありふれた日常を暮らしているように観えた人の記憶の中にも、時折、胸を締め付けるような苦しさや悲しみの出来事が少なからず含まれていることが観て取れた。
ある人は、まだ二十歳になったばかりの若い男の自分の大腸に、一生治らないという難病が見つかって途方に暮れていた。それまでの華やかで楽しい大学生活の彩りが失われ、全てがグレーの世界に視え始めていた。どうしたらいいか、判らなかった。一緒に住んでいる母親は悲しそうに自分を見る。そんな家にも帰りたくなかった。楽しそうにはしゃぎ、学生生活を謳歌する友達のいる大学にも、もう行きたくなくなった。誰とも話をしたくなかった。
電車に揺られながら一人苦悩に苛まれているその時、ふと人の視線を感じた。次の駅で降りる人だろうか、とっても痩せているのに大きな大きな荷物のリュックを背負って、背中が不自然に曲がって見える、身なりはお世辞にも小綺麗とは言えないような中年の男性がこちらを見ていた。自分は気づかない内に、涙で目が赤くなっていたようだ。
そんな自分に、まっすぐ向けられたその男の人の瞳から、静かで温かな優しさが伝わるのが判った瞬間、グレーの自分の世界に色が戻ってきた気がした。電車が駅に止まると、その男の人は静かな微笑みを湛えたまま前を向いて、何も言わずに電車から降りて見えなくなった。気がつくと、自分の瞳から、今度こそひと目もはばからずに、大粒の涙がこぼれてきて止まらなかった・・・。
ある人は、朝、目が覚めると、病院のベッドの上。力が入れられず、自分で持ち上げることが出来ない己の四肢を見やってから、静かに天井を見上げる。同じ一日がまた繰り返される。高齢の自分の最期が近づいていることを、自分は悟っている。見飽きた白い天井の柄の一つひとつが、時折心底嫌に思える。
そんな時にふと窓の外から聴こえる小さな子供の元気な声。その子の親だろうか、笑いながら子供の元気を褒めるように、何か声をかけながら、駆け出す足音が聴こえる。すぐにとびきり元気な声を出しながら、小さな子供の足音がそれに続いていく。やがてそれが聞こえなくなるまで、耳を澄ましていると、風でそよいだ樹の枝葉の擦れ合う音が自分の心を慰めるような囁きとなって聴こえてくる。近くで鳥たちが鳴いている。世界は動いていた。自分が知るこの世界は、今日も無事だった。静かに瞳を閉じる。
少しすると、いつも世話をしてくれる看護師さんの明るい声が今日も聞こえてきた。自分に静かな笑顔が戻ってきた・・・。
その他にも、小さな開業医の医者として、大変な激務をこなしながら地域医療に貢献してきた人が、自分の大切な身内の命を救うことができなかったことに失望し、医者を辞めようとしていた時に、逆に患者さんらに慰められ、その後もその地域の医療に専念した人の記憶。または、生活の行き詰まりに将来を悲観して自ら命を絶とうと逡巡した母子家庭の母親が、子供の寝顔に救われ、歯を食いしばるように頑張って生きた人の記憶の断片。
中には、戦時中の苛烈を極める生活苦と、空襲警報に怯える悪夢そのものの毎日の苦しい記憶や、大雨で反乱した川の激しい濁流に呑み込まれて流されていく自分の両親を見た一夜を境に、孤児としての大変な人生が始まった子供の記憶もあった。
これらはの全ては、きっと過去を懸命に生きた人の記憶。楽しいことやうれしいこともあれば、苦しみ、悲しみにくれたりもしながら、必死で生きた過去の人たちの記憶。そして、それを支える、周りの人たちとのつながりの数々。
私はその中に、亡くなった自分のおばあちゃんとおじいちゃんの記憶が含まれていることをはっきりと観て、私は確信した。
そう、この過去の人たちとは、数々の悲しみや苦難を乗り越えて、私の命を今につないでくれた、先祖たちの記憶なのだ。
・・・つづく
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