自分の意識を正気に保っていられる許容範囲はとうに越えていた。無数に重なり響くその声に対して、私は己の意識の無力を感じながら、ただただ呑み込まれることしか出来なかった。
薄れゆく意識の中で、かろうじて目を開けて見えた光景が、一瞬で脳裏に焼き付いた。過去、現在、未来の私たちが連なる姿が、一本の糸であるとしたら、そのような糸が四方八方から無数に集まり複雑に編み込まれた極彩色の織物のような、曼荼羅のような異空間がどこまでも広がっていた。圧倒的な美しさを見た気がした。
私の意識はその広大な空間の中で突如、途切れた。
――――気がつくと、私はベッドの中に居た。ダブルベットで横たわる自分の隣にもうひとつの枕があり、つい今しがたまでそこに居た人の温もりが残っている。
そう。ここは自分のマンションの部屋だ。カーテンは開けられており、朝の明るい太陽の光が部屋の中にやさしい光を届けていた。
その光と溶け合うように、芳しいコーヒーの香りが部屋に漂っていた。
リビングの方から人の気配を感じたと同時に、声が聞こえる。
「おはよう、トモくん、コーヒー淹れたよ」
寝室の外に目をやると、そこに顔を洗った後なのか、ヘアバンドをしてきれいなおでこを出したすっぴんの妻、ミキの姿があった。笑顔でコーヒーの入ったマグカップを少し持ち上げて見せていた。
今日は休日だ。平日なら自宅から参加するホログラム会議の準備で、なんだかんだと慌ただしい朝も、今日はのんびりとしたもんだ。
まあ、この二人きりの暮らしも、半年後にはだいぶ変わっているのだろうけど。
「おはよう、すごくいい香りだね、コーヒー」私は目をこすりながらベッドを降りて、ミキに近づいていった。
「そうでしょお?これね、コーヒー豆の専門店で3ヶ月前に予約して昨日やっと届いためちゃくちゃ評判のやつなんだよ」
そう言われて、私は自慢気に答えるミキの持つマグカップに思わず顔を近づけて香りを確かめる。
「ほんとにいい香り。そういえば、ミキはもうコーヒー飲めるの?気持ち悪くならない?」
私はマグカップに顔を近づけたまま、ミキのまた少し大きくなったお腹を見ながら言った。
「うん。もうだいぶつわりなくなってきた」ミキは笑顔で答えた。
そう。あと半年もすれば、私たち夫婦は、親になるのだ。
「男の子かな、女の子かな」私はつい、最近の口癖のようになってしまった質問を口にする。
「そろそろ判るみたいだけどね。会社のみんなは私が男っぽい性格だからって、絶対男の子だって言うんだよ、なんか失礼だよね」
私はそんな軽口をたたきそうな同僚や後輩の顔を思い出して思わず笑う。
「トモくんは、どっちだと思う?」
私は聞かれて、一応迷うふりをした。「うーん、そうだなあ」
でも、心の中では、漠然としながらも、なぜか確信に近い答えがあった。自分でもその理由は判らないし、何か根拠があるわけでもない。でも、きっとそうだという答えが。
「俺の勘ではね・・・」
――――そこで、ぷつりとテレビ画面を消したかのように場面が途切れて、私は目を覚ました。うつ伏せになったまま、顔を上げる。
・・・夢を見ていたのか。あるいは意識の世界の断片に飛んでいたのか。いや、それはどちらも同じことなのかもしれない。
私とアサダさんが夫婦となっていた。そしてアサダさんのお腹には、赤ちゃんが・・・。私は、夢の続きでは何と答えたのだろう。男の子か、女の子か。半分夢の世界を引きずるような余韻に包まれてぼうっと考えていた私の視界に、ヒカルが目をつむったまま横たわっている姿が目に入った。
「・・・ヒカル!」私は慌てて起き上がり、横たわるヒカルに近づいて肩を揺する。
「ん・・・」ヒカルは顔をしかめて、声を出すと、半分目を開けた。
良かった、無事のようだ。身体に大きな怪我もなさそうに見える。
「ここは・・・?」私に気づいたヒカルが、頭を抑えながら身体を重たそうに起こして聞いてきた。
私はそう言われてはじめて自分たちの周りを見渡してみる。
そして、私はすぐにもまた驚きの声を上げることになった。
・・・つづく
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