・・・これより前のものがたり
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巡りの星 (11〜20まとめ)はコチラ
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気がつくと、その日の午後の講義は既に終わっていた。
今、私は、大学の食堂にもおらず、さっきまで話していた高橋も居ない。
私はアルバイト先である居酒屋「升民」の厨房の裏にいた。
目の前には、あの怖い店長が威圧感たっぷりの腕組み姿で仁王立ちし、まっすぐにこちらを凝視していた。
私は、唐突にも今このようにして置かれている状況を、不思議と理解していた。
いつもの“叱られパターン”だった。
「いいか。お客さんに呼ばれたからと言って、“はい、呼ばれました”っていう顔してんなよ」
一瞬わかりにくいことを、始めに店長は言う。
「・・・」
意味が図りかねて黙っていると、次々とたたみ掛けられる。
「それはなあ、指示待ちロボット人間っていうんだよ」
それを皮切りに、延々と10分は続いた説教の内容をまとめると、こうだった。
お客さんに呼ばれたからと言って、店員はただ受け身になって待っているようではダメ。
お客さんが気持ちよくオーダーできるように、自分からエスコートする気持ちが大事。
例えば、メニューを決めかねているお客さんには、よきタイミングで今飲まれているお酒とあうようなお薦めのメニューを伝えてみたり、旬のものをさり気なくアピールしてみたり。
でも、一方的な押しつけではだめで、お客さんの気持ちを盛り上げるような心配りのもとにすること。
この時間を如何に気持ちよく楽しんでもらえるか、ということを常に頭に置いておけば、お客さんが今本当に求めているメニューも、何となく自然とわかるようになる。
そうなるためには、お客さんを赤の他人と思っていたらダメ。
一期一会のお客さんとの縁だと思って大事にしろ。人生の一瞬一瞬を大事にしろ。
言われたことの表面だけを受け取って、ただ作業するのは、ロボットだって出来る。
「—空気を察しろ。おまえは人間だろうが!」
いつものお説教の決め台詞がでたところで、私はようやく声を出す。
「・・・はい。すみませんでした」
店長は謝る私の目を射通すかのような強い視線で捉えてきた。私は、その強い視線に耐えきれず、いつも思わず目線を下に下げてしまう。
そんな時、必ず思うのだった。
自分の口から出た謝罪の言葉が、ちんけなハリボテのように風に吹かれて倒れてしまうような心許なさを。
店長の怖い説教の嵐を、この謝罪の言葉で無事やり過ごす事ができるのか。
自分の謝罪の言葉を、店長に額面通りに受け取って貰えるのか。
自分は本当に反省しているのか。
そんな、腹が浮くような不安感を。
でも、なぜだろう。
今日の説教は、いつもと違って少し腑に落ちる感覚を覚えた気がした。
自分の目の中が一瞬揺れた。
そして、私はもう一度視線を上げ、店長の目を見た。
そこには、強くまっすぐで深い、真っ黒な瞳があった。
『おまえは人間だろう』
もう一度、声にならない店長の声を聞いた気がした。
そして、胸の真ん中が少し動いた気がした。
その時、店長は頷き、言った。
「わかればいい。おまえが出来るようになるまでは何度でも言うぞ」
「・・・はい。ありがとうございます」
つい、御礼の言葉が口からでた。
それは、初めての事だったかもしれない。
いつもは、叱られているその場から逃げたい一心で、そそくさと背中を見せたり、恐縮顔するばかりだったのに。
店長の眉が少しだけ動いた気がした。
「よし、じゃあ次の休憩まで、またホールにでてな」
店長は厨房から上の階にある事務所へと上がっていった。
その店長の背中に「はい」と一声かけ、私はホールに戻っていった。
ホールに戻った私は、それからオーダーに追われながら一生懸命に動いた。
忙しい中でも、できる限り自分からお客さんに対する気配りを”出していこう”と、笑顔を絶やさずも集中していた。
少し店が落ち着いた頃、気がつけば、休憩の時間になろうとしていた。
時間ちょうどにホールマネージャーがそばにやってきて、休憩を告げられた。
マネージャーと交替し、その場を離れようとした時、異変が起こった。
『じゃあ、休憩にいって・・・』
言葉を言い切る前に、思わずビックリして止めてしまった。
私は確かに“休憩に行ってきます”と声に出そうとしたが、それは声にならなかった。
それどころか、居酒屋特有のあちらこちらで聞こえるはずのしゃべり声や笑い声、厨房の食器の音、何一つ音が消えていた。
そして、何より、傍に来たマネージャーの動きが完全に止まっている。
しかも歩き出す格好で一歩足を前に出している中途半端な状態で、完全に停止していた。
私は動揺し、瞬時に辺りを近くにある客席を2、3見回したが、すべての人がまるで時間を止めたかのように完全に動きを止めている。そして、決定的な異変として、お客さんの一人が口からこびかけたコロッケの一欠片が、どう見ても空中で止まっているのが目に飛び込んできた。
「・・・え!?」
思わず言葉が出たその声は、私の耳にも聞こえてきた。いつの間にか、周りの喧騒が元に戻っていた。テーブルの上に落としたコロッケを、再び箸で取り上げて口に入れるお客さんの姿が見えた。
一瞬の出来事。恐らく、3秒もないくらいの間の出来事だった。その3秒の間に動いていた私は、ホールマネージャーから少しだけ離れて立っていた。ホールマネージャーは、私の方を見て目をこすって、首をかしげている。
一体、何が起こったのだろう・・・?時間が・・・止まった!?いや、そんな馬鹿なことが・・・
瞬時に色んな考えが頭をよぎっていたその時、
「すみませーん!」
すぐ側から聞こえた女性のお客さんの声に、私は我に返った。
ちょうど前を通りかかった客席から声を掛けられたのだった。
そのまま休憩に入るわけにはいかず、私は女性に振り向き、オーダーをとる姿勢になった。
「はい!ご注文でしょうか!」
元気よく笑顔で応えると、女性は大分お酒が入っているようで、私の顔を見るなり笑顔で絡んできた。
「ちょっとおー、この子可愛い〜!」
女性客は30代半ばのOLと言ったところで、それと同世代か、少し若いくらいの会社の女性同僚らしき他3人と、大分盛り上がっている感じが見受けられた。
「あ、ありがとうございます・・・」
スルーもできないので、照れ笑いしながら応えると、いきなりオーダー用の端末を持つ手に女性が腕を回してきた。
「あたしのタイプ—!」
「あ・・・」突如触れてきた柔らかくて温かい女性の胸の感触。結構綺麗で細身のおしとやかそうな人だったこともあり、かなり動揺した。人は見かけでは判らない。お酒が入るとなおさらだ。女性客はワザと胸をあてに来ているに違いない。これまた、見た目に寄らず、かなり豊満なバストだった。そして、少し挑発的な、いたずらっぽい目でじっと見つめられる。
「もー!アキったら、お兄さんびっくりしちゃうでしょー」
「あははは、やだー、なにやってんのー!」
周りの同僚女性も盛り上がって楽しんでいる。
腕を絡めてきた女性はさらに腕にさらにギュッと力を入れて、上目使いの目線で言葉を掛けてきた。
その目線と艶やかな唇に目をやると、自然とボタンが開けられたブラウスの胸元から白くて柔らかそうな胸の谷間が見え、心臓がドキッとした。
「ねー、お兄さん彼女いるのー?」
「わー、大胆〜!」
わっと盛り上がって、女性達の笑い声が止まらない。
ここは、ほどよくはにかんで、愛想良く場面を進行しよう・・・。
「あ、あの、オーダーを伺ってもよろしいでしょうか・・・」
「キミのことが欲しいの!」
「きゃはははは」
・・・だ、だめだこりゃ。
それから5分は絡まれながら、ようやくドリンクのオーダーをもらって、ようやく無事に開放された。
結局予定の時間から10分間遅れての休憩。
私は少しのぼせた頭を冷静にするように、ふうっと長い息を吐きながら、事務所へと続く階段を昇っていった。
事務所には扉入ってすぐに社員・アルバイト問わず皆が食事や休憩が出来るスペースがあり、扉を一枚挟んで店長をはじめ正社員が店の売り上げ管理、食材や飲料の発注などを行うオフィススペースがあった。
そのオフィススペースの扉は普段しっかりと閉じられているのだが、今日はほんの少しだけ開いていて、中から店長の話し声がわずかに漏れ聞こえていた。どうやらテレビ電話で誰かと話しているようだ。
「・・・はい。まあ、そうですね。ですが、それは・・・」
何かを押し殺しているような店長の声に対し、テレビ電話の向こうにいるらしい、女性の声が割って入ってきた。
『すみません、何か理由があり、それらについて説明されたいなど、申し立てがある場合は、社の管理システムのマネージングAIを通して社に上げてください。私の業務はあくまで本部の意見をあなたに伝えることですから」
非常に事務的でクールな話し方だった。悪く言えば、冷たい印象。
店長の小さなため息が聞こえたと思うと、続けざまに声を張った、いつもの店長の声がせきを切ったように、とどろいた。
「あのですね、あなたにはいつも本社の冷静なアドバイスを伝えていただいてていいんですけどね、それでもあまりにも融通が利かなすぎですよ!」
『と、申しますと?』 大きくなった店長の声に、微動だにしない冷静沈着な女性の声が返される。
「だから、いくらAIが出した結論だからって、一方的にそれを店に押しつけて、あなたは顔も知らないアルバイト人員をカットしろだとか、あまりに冷たいなとかって、思わないんですか?」
・・・え!アルバイトの首の話・・・?私は、思わず固唾を呑んで、会話に耳を傾ける。
『・・・そのように感情的になられては困ります』
間髪入れず、店長が返す。
「感情がなかったら、人間じゃないでしょう!」
『・・・』
沈黙する女性にさらに店長はたたみ掛ける。
「あんたはAIか?人間だったとしても、AIの入ったことそのまま伝えて、よろしくって、それこそAIで出来る仕事でしょうよ!」
さすがに気分を害したのか、女性の反論がはじまった。
『・・・では、本社意向にあなたは背くということを仰っているんですね?』
「本社の意向じゃなくて、AIの意向に反対してるんです」
『同じ事です』
「同じじゃない!俺は本社の意向にそってるよ。居酒屋で一生懸命、街の人の笑顔増やすんでしょ!?それいいなって思って、一生懸命やってるんですよ、こっちは!」
『しかし、AIの絶対評価として、あなたの店が上手く行っていないということが数字として出てますから』
「AIの絶対評価ってなんすか。数字で見たってわからんでしょう。店員は人なんだから、人それぞれに成長スピードとか、性格とかがあって違うんだよ。この店はこれからようやくお客さん増えて、伸びるんだよ。皆育ってきてるんだよ!」
『・・・あなたの私見や態度は我々の本社のマネジメントシステムに非常に相容れないものです。大きな問題として本社に報告をせざるをえません』
「おお、そうしてくださって結構。そのかわり、こうも伝えてください。この店は3ヶ月後には必ず、全店舗の平均売上を超えてみせます。AIのマネジメントやトレーニングなんかじゃなくて、人間の心で人間を育てて、地域の人に愛される店にすると」
『そんな大言をはいて出来なかった場合には、懲戒が待っていますよ」
「その覚悟はできてるさ。でも、俺自信がありますよ。AIの管理では決して出来ない店の空気っていうのがあるんだ。バイトの子達だって、怒られながら一生懸命考えて、働いてくれてるんだよ!絶対にやってやりますよ」
そこで店長は一呼吸置いて、今までで一番大きな声をだした。
「だから、絶対にバイトを首にはしない!!」
そう言い終わると、一方的に店長はテレビ電話の通信を切ってしまった。
そして、事務所に沈黙が訪れた。
ドアの少しの隙間から、そうっと店長のいるオフィススペースをのぞき込む。
そこに、ひどく小さく丸まり固まった、店長の背中を見た。
しばらくそうしていた店長は、小さくため息をついて、椅子から立ち上がりそうな動きを見せたので、私は慌ててドアから離れ、何食わぬ顔して休憩スペースのテーブルの椅子に座る。
ドアがあいて、店長がこちらにやってきた。
私がいることに一瞬驚いた表情をしたが、すぐに“いつもの店長の顔”にもどって言った。
「おう、なんだいたのか。ホールの様子はどうだった?」
私は、休憩前のお客さんの様子を思い出しながらいった。
「・・・はい、お客さん・・・すごく楽しそうです」
私は言いながら何故だか泣きそうになり、鼻の奥がつーんとしたので、ずるっと鼻をすすった。
それをみて、店長は「おう、そうか」といって、慌ててクルリと背中を向けた。
ちょっとして、店長も鼻をすすった。
「じゃあ、俺ホールにでるわ」
店長は顔を向けずにそう言い、そのまま事務所を出ようと出入り口のドアまでそそくさと歩く。
そして、ドアを開けながら、もう一言、私に向かって言った。
「イナダ、おまえは頑張ってくれてるよ、ありがとな」
バタン、と事務所のドアがしまると、ふいに私の目から涙が出てきて、一粒頬を伝った。
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事務所から出ていく店長の背中と閉まる扉を見た次の瞬間、私の目には、なぜか父親の後頭部が映っていた。
ここは、父親が運転するクルマの後部座席だった。
車の座席も、ハンドルを握る父親の姿も、全てが大きく見える。
そして、自分の足を見るなり、それら周囲のものが大きいのでは無く、私の身体が小さいのだということに気がつく。
混乱しかけたところに、顔を横に向けて父親が話しかけてきてた。
「トモヤ、そろそろおばあちゃん家に着くぞ」
そうだった。今はお父さんのクルマでおばあちゃん家にいく途中だった。どうしたんだろう。少し変な夢でも見ていたのかな。
僕はお父さんに言われるまで、なんだかぼうっとしていたみたいだ。
「あれ、どうした、トモヤ。いつもはおばあちゃん家に近づくといえーいって、大喜びのくせに」
いまお父さんに言われた言葉が僕の中にようやく入ってきた。
「え?ああ、うん!おばあちゃん家もうすぐなの?やったー!」
「あははは、寝ぼけてたか?」
おばあちゃんはずっと病院で入院していた。おじいちゃんは僕が幼稚園の年中の時に死んじゃった。おばあちゃんは、それからしばらく一人で田舎のお家で暮らしていたけれど、去年あたりに具合がすごく悪くなって、この間までずっと病院に入院していた。
僕はいま小学3年生。お父さんのクルマでおばあちゃん家に行くには、すごく時間がかかって、3時間とか、ずっとクルマの中だから少し退屈。だから、おばあちゃん家がもうすぐって聞くと、いつもすごく嬉しくなって大きな声でよろこぶんだ。
「ねえ、お父さん、おばあちゃん、退院できてよかったね」
「ん?ああ、そうだな。おばあちゃん、ずっと入院していたからなあ」
「ぼく病院って嫌いだよ。注射とか薬飲まなきゃいけないとか、なんだか匂いも苦手」
「ああ、そうだなあ。おばあちゃんもずっと家に帰りたがっていたから、喜んでると思うよ」
「うん!よかったね!おばあちゃん病気治ったんだね!」
「・・・ああ」
それから、お父さんはなぜだか急に静かにだまっちゃった。
クルマはおばあちゃん家のいちばん近くにある神社の傍を通って、もうすこししたらおばあちゃん家だ。
早く着かないかな。いつもおばあちゃん家につくとおいしいりんごジュースを出してくれる。
「よーし、ついたー」
お父さんがクルマのハンドルをぐるぐる回してクルマを止めた。クルマを降りておばあちゃん家の門を開けてお庭を歩いている時に気づいたけど、草がボウボウに生えてる。おばあちゃんずっと病院にいたから草むしりしてないんだ。また草むしりのお手伝いするのかな。
「ピンポン押すのは僕だよ!」
「ああ、はいはい。じゃあどうぞ」
僕はこの前来たときからピンポンに手が届くようになったから、絶対にこれは僕が押したかったんだ。
僕は背伸びをして、人差し指でグッとボタンを押した。
ピンポーン
音が鳴って少ししてからドアがあいた。
出てきたのは、おばあちゃんじゃなくて、マキおねえちゃんだった。お父さんのお姉ちゃん。本当は僕の“おばさん”だけど、“おばさん”って呼ばせないって言われてる。
「あら、トモくん久しぶり—!また大きくなったねー」
マキおねえちゃんは手のひらで僕の頭をなでた。
「よお、悪いね、いろいろまかせちゃって」
「ううん、へいき、それより早く上がって。ばあちゃんよろこぶよ。トモくんと合いたがってるから」
お父さんと僕は靴を脱いで上がった。
いつもは、おばあちゃんが先に必ず玄関の所で僕の頭を撫でるんだけど、今日はお部屋にいるのかな。
玄関を上がって、お部屋のドアを開けると、奥の方から小さな声でおばあちゃんの声が聞こえてきた。
「・・・トモくん?」
声の方を見ると、おばあちゃんが部屋の奥にあるベッドの上で身体を起こしてこっちを見ていた。
あれ?おばあちゃん?なんだか、顔が小さくなった?
「あらあら、トモくん、いらっしゃい」
おばあちゃんはベッドの中で笑顔で手を出して僕のことを呼んだ。
その手がすごく白くて、細かった。
僕はすこし驚いちゃったけど、なんだかおばあちゃんに悪い気がして、気がつかない振りをした。
「おばあちゃーん、きたよー」
僕はおばあちゃんのベッドに歩いて近づいて、おばあちゃんが触れるすぐ側にきた。
おばあちゃんの手が僕の手を包む。おばあちゃんの手はいつものように温かかった。
「よくきてくれたね、おばあちゃんうれしい」
おばあちゃんの白い笑顔が、少し透き通って見えた。
おばあちゃんの目、少し涙で濡れているみたい。
後ろからお父さんが近づいてきて、僕の方に手をおいておばあちゃんに「よかった、元気そうだね」っていった。
お父さん、本当にそうおもったのかな。僕にはおばあちゃんが、ずっと弱くなっちゃったように見えた。
晩ご飯の時間まで、お父さんとマキお姉さんとトランプをやったり、僕が得意なお絵かきをしてみんなに見せたりしていた。
おばあちゃんはずっとベッドの布団の上でそれをニコニコしながら見ていた。いつもは一緒に遊ぶのに。
時折少しつらそうにして横になったりするし、トイレに行く時も、マキお姉ちゃんに手伝ってもらわないといけないようだった。
やっぱりあまり元気そうじゃ無い。まだ病気がなおりきってないんだ、きっと。
今日は、おばあちゃん家にお泊まりするって聞いていた。
今日は平日で、お母さんは仕事だから今日はいないけど、お父さんはお仕事休んで僕を連れてきた。
あ、いまは僕はもう夏休みにはいったところ。
夜はみんなでいつもみたいに広いお庭で花火をしたかったのに、きっと、おばあちゃんはベッドから動けないんだろうな。
おばあちゃん家に来て一番の楽しみは、ご飯だった。おばあちゃんのつくるご飯はすごくおいしいんだ。
もちろん、お母さんのご飯も美味しいけど、おばあちゃんのご飯は、またなんかちがって、おいしい。
でも、今日はマキお姉ちゃんがご飯をつくっていた。
少し残念だけど、顔に出さないようにしたよ。だって、まきお姉ちゃんにわるいじゃん。そういうの僕はけっこう気にするんだ。
お父さんとテレビでお笑い番組を見てはしゃいでいると、すごくいい香りがキッチンからしてきたよ。
「はいおまたせー。テーブル片付けてくださーい」
マキお姉ちゃんはお盆にご飯をのせて持ってきてくれた。
肉じゃがにサラダにまぜごはんに、沢山具が入ったお味噌汁。
僕はおばあちゃんのお味噌汁が大好きで、それはいつも具だくさんでいい香りがしたのだけど、マキお姉ちゃんがつくってくれたお味噌汁もおんなじようにとっても良い香りがした。
そのことをマキお姉ちゃんに話すと、マキお姉ちゃんはうれしそうにいった。
「そうよー、これはおばあちゃんから教わったイナダ家伝統のお味噌汁よ。いいおだし使っているから、美味しいのよ」
そんなやりとりをしていると、ベッドの上から様子を見守っていたおばあちゃんがうれしそうに言う。
「あら、いいのはおだしだけじゃないでしょ。たっぷりの愛情がはいってる。ふふふ」
「そうでした。もちろん、はいっておりますよ、たっぷりの愛情」
マキお姉ちゃんは両手でハートのマークをつくって見せて、お味噌汁にふりかけでも掛けるようなそぶりで手を振った。
それをみて僕たちは笑った。おばあちゃんも笑った。
運ばれてきたのは、3人分のご飯だった。それに気がついて、僕は聞いてみた。
「あれ、おばあちゃんはご飯食べないの?」
「そう、あたしはね、たべられないの。ざんねーん。いまは、これがおばあちゃんのごはん。」
そういって、おばあちゃんは袖をまくって腕を僕に見せた。
そこには、箱のようなものが腕にバンドでとめられていた。
よく判らずにいると、お父さんが説明してくれた。
箱のようなものには栄養剤がはいっていて「点滴」で栄養をとっているんだって。
ご飯が食べられないなんて、かわいそう。そう思ったけど、言わなかった。
おばあちゃんはなんだか、それでも楽しそうだったから。
3人でご飯を食べ終えると、お片付けのお手伝いをしたあと、マキお姉ちゃんが花火をだしてきた。
お庭でやろうって。
ベッドにいるおばあちゃんにも見えるようにやりましょうって。
僕は喜んでお父さんとお庭にでた。
水を入れたバケツをお父さんは用意してくれた。
ろうそくを立てる缶詰の空き缶をマキお姉ちゃんがキッチンから持ってきてくれた。
僕知ってるよ。ここにろうそくをたてて風よけにするんだ。
最初の一本目に火を付けるとバチバチっといいながら火花が勢いよく飛び出した。
「わあ、キレイ!」ってマキお姉ちゃんがいって、ばあちゃんもお父さんも、みんなでおおーって盛り上がったよ。
花火の火が眩しかった。もう周りは暗いから、すごく明るく見えた。
花火は直ぐに消えちゃうけど、沢山あるから次々と火を付けて遊んだよ。
色んな形の火花が、色んな色を出してとってもキレイ。
僕は花火を両手に持って、くるくるまわったりして見せた。
おばあちゃんもすごいキレイって、喜んでくれた。
花火の火が消えると、おばあちゃんは「もっとみせてくれる?」と僕にいう。
僕も沢山花火ができて、おばあちゃんも喜んでくれるのでうれしくなって、「うん!」と大きな声を出して、花火に火をつける。
ずっとやってると、だんだん花火が少なくなっていった。
最後は、いつも線香花火がのこっちゃう。
でもね、おばあちゃんはいつも言うんだ。今日もやっぱりいった。
「あたしは線香花火が、やっぱりいちばん好きね」って。それが僕にはふしぎだった。だから聞いてみた。
「一杯キレイな火が出るのが楽しいのに。線香花火ってちょっとさみしくない?最後、ぼとって落ちるし。」
「ふふふ、そうね。でもね、すぐ終わっちゃうのがわかるから、キレイなの。それに、けっこう見てると、小さい火花も色んな表情をみせるのよ。そして、最後は必ず、ぼとっておちる。さみしいけど、それがキレイなの」
ふうん、そういうものかなと思いながら、僕は最後に残った線香花火に火を付けたよ。
何本かあるので、お父さんも、マキお姉ちゃんも、みんなでそれぞれ持って、火を付けた。
最初の火花が出て少しすると、だんだんと丸い固まりができて、そこからパチパチいいながら元気な火花が出たと思ったら、少しして大人しくなって、ジジジジいいながら細い火花になった。
まわりをみると、お父さんもマキお姉ちゃんも、それぞれが線香花火をじっと見つめてる。「きれいだね」ってお父さんが言うと、マキお姉ちゃんは「うん」といった。あとはだまって線香花火を見つめてる。「あっ」とお父さんが言うのと、お父さんの線香花火の玉が落ちるのが同じくらいだった。マキお姉ちゃんも「あっ」っていった。火玉が落ちて消えた。
「トモくんの線香花火、すごく長くない?」まきお姉ちゃんがいうように、僕の線香花火は玉が最後まで落ちずにそのまま消えた。ちょっと得意な気持ちになって、みんなを見た。お父さんも、マキお姉ちゃんも、おばあちゃんも笑顔だった。でもおばあちゃんはなんだか泣いてもいるみたい。笑顔でいながら、自分の涙を指でぬぐっていた。
花火が終わってから、お父さんとお風呂に入って、お風呂上がりはマキお姉ちゃんがスイカを切ってくれて食べた。
とても甘くて美味しいスイカ。種が多くて残念だけどキレイに食べた。
その後、お笑いのテレビを少し見てたらいつまにか夜の9時半で、お父さんにもう寝る時間だよと言われた。
お泊まりの時はいつもお二階の部屋で寝るんだけど、いつもはおばあちゃんがお父さんと僕のお布団を敷いてくれる。でも今日はお父さんがお布団を用意してくれた。
お二階に上がって、僕は敷かれたお布団の中にパジャマで入る。おばあちゃん家のお布団の匂いは、自分ちの布団とはちょっと違う香りがする。このおばあちゃん家のお布団の香りも嫌いじゃない。この香りを嗅ぐと、おばあちゃんのいつもの優しい声が聞こえてくるような気がする。
少しするとあくびが出て、何だかもう眠くなったみたい。おばあちゃん家の夜は、周りに何もないから本当に静か。虫の声だけが聞こえてくる。虫の音をぼーっと聞いていると、いつの間にか僕は寝てしまう。
夜、すごくおしっこに行きたい気持ちで目が覚めた。あたりはまだ真っ暗。お父さんはまだ布団にいないみたい。僕はパジャマのズボンを触って、漏らしてないか確かめてみたけど、大丈夫だった。あぶないあぶない、小さい時におばあちゃん家でお漏らしした事もある。すごく恥ずかしかった。
慌てて起きて、扉を開けて、一階にあるトイレに行くために階段を急いで降りた。
廊下は暗くてちょっと怖い。月の明かりが窓から入って、僕の影が廊下に出来ていた。もっと小さい時、僕の影が僕を追いかけているように思えて、怖くなった時もあったと思い出した。
トイレの扉を開けておしっこをした。結構長くおしっこがでて、すっきりした。そして、水を流した時、突然おかしな事が起きた。ジャー、っという音がして勢いよく水が流れていたと思ったら、急に音がしなくなった。ぷっつりと消えるように。
あれっ、て思うと同時に、信じられない光景に、僕はすごくビックリした。
トイレの中を見ると、流れていた水が渦を巻いてそのままの形で止まっている。
また、トイレのタンクに水を貯めるために出ている水も、よく見ると、流れ落ちずに、完全に止まっていた。
怖いと思うよりも、不思議に思う方が強くて、自分の目をこすってみたりした。それでも、水が止まっている。
恐る恐る、タンクに流れ落ちようとして止まっている水に、指を近づけた。触ろうとしたその瞬間、またジャー、と言う音が戻って、水が流れ出した。僕の指は水に揺れた。
「なんだ・・・!?」
たぶん、3秒くらいの短い時間だったけど、確かに水が止まっていた。
後から怖くなって、僕は慌ててトイレを出る。
扉を閉めて、急いで階段を上がろうとしたその時、廊下の奥からお父さんの声が聞こえた。
その時はじめてリビングの部屋の電気もついていることに気がついた。
僕は階段を上るのをやめて、お父さんがいる方へ慌てて駆けよった。
ひとりで怖くなっていた時に、お父さんの声と部屋の明かりに救われた気がした。
廊下の先の扉は少しだけ空いていた。ドアノブに手を伸ばしたけど、その向こうのリビングの様子が目に入り、思わず手を止めた。扉の向こうでは、お父さんがとてもうろたえている様子で、ベッドにいるおばあちゃんをのぞき込んでいる。
そして、「大丈夫か?」「おい、大丈夫か?」と、慌てた様子のお父さんの声が聞こえた。
お父さんの背中だけでおばあちゃんの姿はあまりよく見えなかったけれど、お父さんのあわて方でおばあちゃんのみに何か大変な事がおこっていることが判った。
「痛むのか?」というお父さんの声に、小さく「・・・大丈夫」というおばあちゃんが応える声が聞こえた。
「・・・手も足もすごく冷たいじゃないか・・・!」驚くようなお父さんの声。「・・・薬を」というおばあちゃんの声にすぐ反応して、お父さんは近くにおいてあったお薬の袋をとった。
僕はあまりの突然のできごとに、さっきトイレの中で起きた不思議な出来事を忘れていた。それに、お父さんとおばあちゃんの様子を、ただ扉の隙間から見ていることしか出来なかった。
お父さんはお薬の袋の中からカセットみたいなものを、おばあちゃんの腕に付けられた点滴の箱のような機械にセットした。
少しすると、おばあちゃんの「はあ」というため息のような声を聞いた。
少ししてから「薬、効いてる?」とお父さんがおばあちゃんに聞く。
「・・・うん、もう大丈夫・・・」
そのおばあちゃんの小さな声が聞こえて、僕はほっとした。
「ありがとう、ごめんねタカシ」とおばあちゃんはつづけて弱々しい声で言った。タカシはお父さんの名前。
「ごめんとか、言わないでいいよ」お父さんはおばあちゃんの背中をさすりながら言った。
「・・・ううん、わたしはね、ずっとタカシに謝りたかったの」
「なんだよ、それ。そんなことより、しゃべると疲れるから横になった方がいいよ」
「・・・ありがとう。でも、言わせて。でなきゃ、もう、言えないままあの世にいくことになっちゃう」
おばあちゃんのその言葉が聞こえたとき、僕は全部わかっちゃったんだ。
・・・おばあちゃんは、病気がよくなってお家に帰ってきたんじゃない。
「・・・」
お父さんは何も言い返さなかった。できれば、おばあちゃんの言っていることは全部冗談で、お父さん笑ってくれたらよかったのに、だまっちゃった。だから、本当に、おばあちゃんは・・・。
病気が悪くて治らないのに、お家に帰ってきたのは、たぶん、死んじゃうときは、お家がいいって、それで帰ってきたんだ。そういうの、テレビで観たことある。
「・・・タカシがまだ小学生だった頃、お父さんの仕事が一番上手く行ってない時で、私も外に働きに出てたでしょ」
おばあちゃんが昔の話をしだした。
「慣れない仕事で疲れてたし、今思えば随分余裕がない暮らしだった。他のお家の人は、家族みんなで旅行に行ったり、遊園地に行ったり、外食で美味しいもの食べたり・・・。そういうの、全然できなかった。それなのに、あなたは文句一つも言わずに、親がいない家でお姉ちゃんと一緒に家事の手伝いなんかしてくれた」
お父さんが小さく頷いている。おばあちゃんが続けた。
「そんなタカシが、一度だけ駄々をこねて大泣きした日、覚えてる?」
おばあちゃんは少し顔をふせながら言った。
「あれはとっても暑い夏だった。近所の河川敷の花火大会が何十年かぶりにやるから、どうしても家族4人で行きたいって、あなたが言いだして、私が仕事から帰ってきたらみんなで行くことになってた」
お父さんはまた頷く。
「でも、わたしが仕事先でへまやらかしてずっと帰れなくって、結局家に帰ってきたときは花火大会はもう終わっちゃってた」
それを聞いた僕は、自分の事のように残念な気持ちになった。
お父さんは黙って聞いてる。
おばあちゃんは、息を整えるようにして、少しだけ時間をおいた。
「あなたはずっと玄関にいたみたいで、帰ってきた私の顔を見るなり、顔を真っ赤にして怒りだして、大泣きしたわ」
お父さんが?子どもみたい。そっか、お父さんも子どもだったんだと僕は思った。
「いつまでも泣き止まないから、しまいに私も仕事のストレスをあたるようにして、あなたに怒ってしまったね。それを止めようとしたお父さんに対しても、ひどくきついことを言ったのを覚えてる。『あんたがしっかりしないからよ!わたしだってこんな遅くまで仕事しないで花火見たかったわよ!』って・・・。それから、夫婦げんか、はじめちゃって・・・」
一気にしゃべって、おばあちゃんは息を少し切らせてつかれたみたい。
お父さんがおばあちゃんの背中をさする。
「ごめんね、わたしあの時、何てことをしてしまったのかしら。タカシはきっと、花火の音がどーん、どーんて近くに聞こえるのを玄関で聞くしかなくって。それに、わたしをおいて3人で見に行ったっていいのに、ずっと待っててくれたのにね」
お父さんは、首を小さく横に振った。
「それっきり。それ以来、わたしはタカシが泣くところを一切見なくなった。何があっても『別に』っていう冷めた子になってた・・・。たぶん、すごく傷つけちゃったんだと思って、心の片隅でずっと後悔してきたの。だからといって、生活は何も変わらない。相変わらず、仕事に追われて張り詰めたような生活で、しばらくは余裕ないまんまだった」
お父さんは、また首を横に振っている。
おばあちゃんは小さな声で何度も謝った。
「本当にだめな母親ね、ごめんね、ごめんね・・・」
ずっと黙って聞いてたお父さんは、ますます大きく首を横にふって、少し大きな声で言葉を出した。
「ちがうんだ、ちがうんだ・・・!」
おばあちゃんの動きが止まる。
「謝りたいのは俺なんだ!」
おばあちゃんは、ゆっくりとお父さんの方を見た。
おばあちゃんと目があったお父さんは話し出した。
「俺はあん時、母さんも花火が見たかったって聞いて、はじめてわかったんだ」
今度はおばあちゃんは、黙って聞いている。
「母さんが自分のしたいこと我慢して働いるってこと、やっとわかったんだ。
そんな母さん困らせるように駄々こねて、泣いて、だから、謝りたいのは俺だったんだ・・・!」
お父さんは大きくなりそうな声をいっしょうけんめい抑えているようだった。
「ずっと、ずっと、たまに母さんが怖い顔もしながら仕事してるのは、家族のためなんだって、だから・・・」
お父さんは息を吸ってまた続けた。
「・・・だから、俺は決めたんだ。もう泣かないって」
お父さんの声は震えていた。
おばあちゃんは小さくなった眼を一生懸命見開いて、お父さんを見ていた。
「だから、こうして立派な大人になれたんだ。ありがとう、母さん、育ててくれてありがとう」
そういいながら、お父さんは泣いていた。
僕は、お父さんが泣いているところをはじめて見た。
おばあちゃんも、泣いちゃった。
少しの間、2人はそうしていた。
「それに、忘れたの?」
少しおちついて、お父さんが涙を拭いながら言うと、おばあちゃんは小さく「え?」って言った。
「次の日、母さんは仕事帰りに花火を買ってきてくれたんだよ」
おばあちゃんは何かを思い出したようだった。
「あっ」
お父さんは泣きながら笑顔になっていた。
「家族みんなでこの庭でやってさ。すごく綺麗だった。父さんも母さんもいつのまにか仲直りしてて、姉ちゃんも一緒にみんなでやってすごく楽しかった」
それを聞いて、おばあちゃんの顔が、なんだかちょっと元気になったみたい。
「おもいだした」
お父さんがうなずきながら、つづけた。
「最後の線香花火で、今日トモヤに言ってたのと同じ事、母さん言ってたよ」
あ、線香花火がキレイって、言ってたやつだ。やっぱりずっとおばあちゃん線香花火がすきなんだ。
「あら、そうだったかしらね、いやだわ、年をとるって」
おばあちゃんも笑顔になって、指で涙をふいてた。
「トモくん、あの子は本当に良い子。あたし死んだらずっとトモくんを見守るの」
それを聞いて、お父さんは少しだけ黙っていたけれど、頷きながら言った。
「・・・ああ、そうしてくれ。親父と一緒にな」
おばあちゃんは、とぼけた感じになって言った。
「あら、そうだった。あの人のことすっかり忘れてたわ」
2人は思わず笑い出した。
泣いていた分、なんだかかえって面白くなってるみたい。
少しして、大きく息を吐き出すようにして、おばあちゃんは言った。
「人は、涙を忘れてはいけないのね。ありがとう。タカシのおかげですっかり心が軽くなったわ」
「うん、俺も。ありがとう。さ、もう寝よう」
「うん」
横になろうとするおばあちゃんをお父さんがゆっくり手で支えている間に、僕はその場から離れて急ぎながら、でも音を立てないように階段を大急ぎで昇った。まだ起きてるってこと、お話しを聞いてたことを、お父さんになんとなく知られたくなかったんだ。
もうさっきの、水が止まったりしたヘンな出来事のことは、すっかり怖くなくなっていた。
僕もちょっと、大人になったのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーー
赤焼けた西日がまぶたを通して視神経を刺激する。突然の眩しさに戸惑うように、目を細く開け、首を左右に振りながら周りを見た。
気がつくと私は、とあるビルの屋上のデッキの中程にあるベンチ状の腰掛けスペースに、横になって寝そべっていた。
どうやら、私はここでうたた寝をし、夢を見ていたようだ。
その夢は、子どもの頃の脳裏に焼き付けられた光景。鮮明な記憶の再生のような夢だった。
おばあちゃん家に泊まって花火をした、あの日のこと。病気だったおばあちゃんは、私と父が帰る朝はとても明るい笑顔で送りだしてくれたが、それから2週間も立たないうちに容態が急変し、そのまま帰らぬ人となった。
末期のガンだったことを、後から父に聞かされた。
私は目をこすりながら、ベンチに寝そべったままでいた身体を起こした。
目を見開くと、頭上には茜色の空が広がり、地平線の程近く、オレンジ色の夕陽を放つ太陽が、多くのビルが立つ街並にたくさんの長い影をつくり出していた。
髪の毛を少しなびかせるほどの風が、寝ぼけまなこの私の顔を心地よく撫でた。
ふと、背中から小さな子どものはしゃぐ声が聞こえた。そのまたすぐ後から女性の声。恐らく子どもの母親だろう。「ほら、あぶないから気をつけなさい」と子どもをあやすように言う。
構わずに走る小さな子どものバタバタという足音と、笑い声がこちらにどんどん近づいてくる。
後ろを振り返るとすぐに、駆け足でこちらの方に向かってくる小さな男の子の姿が目に入った。顔は後ろにいるお母さんの方に向けられていて、自分の走っている先の方角も、足元さえも全く見ていない。
このビルの屋上のデッキ部分は、その他のコンクリートの地肌が広がっている部分と3㎝ほどの段差があった。
私が「あっ」と声を出した時には、その走る男の子の片方のつま先がそのデッキの段差に見事につっかかり、バランスを崩してデッキ部分に前から倒れてしまった。べちん、と音を立てて突っ伏す男の子。
時間が止まったように、男の子はうつ伏せのまま固まっている。
私は思わず「大丈夫?」といって男の子の顔をのぞき込もうとしたと同時くらいに「うえーん!」という声出してくしゃくしゃにした顔を上にあげた。
半分心配し、半分呆れた様子のお母さんが駆け寄ってきて「もう!だからあぶないっていったのに!」と言ってその子を抱き上げた。
男の子は、母の腕に抱かれ、なお泣いていた。
お母さんは私の方に向かって「すみません」と言い、私は「いえ、大丈夫ですか?」と返す。
「ええ、いつものことなので」といって困り顔で笑いながら、会釈をして少し離れた場所の自分の荷物が置いてあるベンチへと子どもを抱えて連れて行った。
抱きかかえられて戻る途中に、もう男の子は泣き止み、赤い顔に流れた涙を自分で拭きながら、口を尖らせていた。
この時ようやく、今の私がいるこの場所のことを思い出した。
大学の授業が終わって、居酒屋のアルバイトもない日の夕方、いつも私は家に帰る途中にあるこのビルの屋上で、空と街並を眺めるのが好きだった。近くには川も見える。
今は大学4年生の夏。普通のまじめな生徒はだいたい就職活動も終わりを向かえ、そろそろ内定がいくつか出始めている頃のはずだった。
私には、その内定は、未だ一つもない。そもそも、就職活動自体に特別な熱意を持って取り組んでいたかというと、そうは言えない。
漠然とした将来への不安を思いながら、自分のこれから歩んでいく道の見通しというものが全くイメージが出来ずに、いたずらに時間をもてあましている、そんな大学4年生だった。
ふと空を見上げると、茜色の空に浮かぶ雲の一つが、子供の頃、そう思ったように、大きなクジラに見えてきた。
河原の土手に寝転がって空を見上げながら、大きなクジラが悠然と空に浮かぶ様子を雲に見て想像し、楽しい気持ちになったことを思いだす。
あの頃、空がとても大きく感じた。
身体が大きくなるにつれて、そのように感じなくなる。
大学に入って、自分の生まれ故郷から少し離れたこの東京にひとり暮らしを始めてからは、特にそうだった。
人の多い都会では空を見るような気持ちから遠く離れてしまう。高いビル達は、ただでさえそんな都会馴れした自分の視界から、空を遮ってそびえていた。
でも、この屋上にいると、少しだけ昔見た空の大きさを思い出せるような気がする。
だから、子供時代の夢でも見たのだろう。
そのおばあちゃんとの思い出の中で、ずっと忘れずにいる言葉があった。
『人は、涙を忘れてはいけないのね。』
おばあちゃんは、自分の身体の具合が、あと少しで命が尽きようとするほどの中、涙を流しながら父親に向かってそう言った。
その涙はなんというか、とても綺麗で清々しいもののように、子供ながらに思った記憶がある。
痛いとか、つらいとか、苦しいとか、そういう感情で流す涙ではなかった。また、逆に、うれしい、楽しいという感情の現れとも言いがたかった。
それら全ての感情を越えたところで、懸命に生きてきた人の日々の暮らしで少しづつ醸造されたものが、自然と発露しあふれたかのような美しい水滴。
そんな涙を両目に湛えながら、おばあちゃんは言った。
さっき転んで泣いてしまった子みたいに、小さな子供は痛い思いをしたり、大人から怒られたら、涙を流して泣く。
自分もそうだったと思う。
でも、大きくなるにつれて、涙はなかなか出なくなる。
大人になるほどに、我慢強くなるからだろうか。
それとも、ただ、鈍感になっていくからか。
今、自分が小さな子供だったら、大学4年の夏に内定の一つももらえずに、かといって、前向きに就職したい職業もこれといって思い当たらず、もやもやとした気持ちと時間を持て余しているこの自分の状況がつらくて、うえーん、と泣き出していただろうか。
そのように他愛もなくあてのない思いにふけりながら、少しずつ暮れていく空と頬を撫でる風に、どこか気持ちを紛らわしてもらっている自分がいた。
このままではだめだ。それは判っている。でも、どうしても就職に前向きになれない自分。
居酒屋でのアルバイト仕事は、最初はつらかったけど、今は好きだ。
怖い店長の説教の中にも、良い店をつくりたいという志と、プライドのようなものがあるということがよく判った。
自分もその店長の思いに応えようと、一生懸命に働くようになった。少しずつ褒められることも多くなり、新人をトレーニングするようにもなった。
例の、店長が啖呵を切って本部の人とケンカをした事件から半年後には、店の売り上げは本部の人間の予想を裏切って右肩上がりとなり、本部も店長のやり方を認めざるを得なくなったとかで、アルバイトながら自分にとってもうれしく、誇りとして感じられた。
仕事を通じて生き生きと出来る人間関係がそこにはあった。
その店長に、一度だけ、就職活動について相談したこともあった。
その日は、午前中にようやくこぎ着けた企業の採用面接で見事に失敗して意気消沈してた時の事だった。
だから、私は心の何処かで、店長から「おまえはよくやっている」とか「なんならうちで働かないか?」といった、自分を思いっきり肯定してくれるような言葉を期待していたのかもしれない。
でも、店長はそんな私の心を見透かしたように「甘い」とか「視野が狭すぎる」とか「もっと世間や企業の気持ちを考える」とか「数年後の自分を見ろ」などと、傷口に塩とレモンを刷り込むような、手厳しい説教をくらってしまった。
はあ、とため息を吐き出し、私はその場で立ち上がった。
何の答えも出ないまま、今日も夜を迎えるのだろう。
そしてまた明日が来る。
もう、家に帰ろう。
明日への答えは見つからないまま、私は家に帰ろうと、屋上の出入り口の自動ドアへと向かい歩きだした。
歩きながら、ふと思い出して、さっきの男の子と母親の様子にもう一度目を向けた。
親子もちょうど今まさに帰ろうとしているところだった。
お母さんは「ほら、もう帰るよ」といい、こどもは「やだ、もうちょっとここで駆けっこする!」といってまた駆け出そうとしていた。
その時、あきらかな異変が起こった。
風が止み、全ての音がかき消された。
走り出した子供は、両足が床から離れた空中で、止まっていた。
その子のお母さんも、口を開いて何か言葉を出そうとしたその状態で固まっていた。
「・・・え!?」
突然のことに驚き、私は思わずその親子の方に向かって駆け出した。
少しして、直ぐに風と周囲の音が戻った。
時間にしたら、5秒もなかっただろう。
でもその間に駆け寄りいつのまにか近づいた私の方を見て、子供が驚いて駆けっこを止めた。
そして、目を見開いて、私の方を指さして言った。
「ママ!この人、今しゅんかんいどうしたよ!」
「何言ってるの、もう。変なこと言って人のコトそうやって指ささないの!・・・ほんとうにすみません、ほら帰るよ!」
お母さんは何も気がつかなかったようで、自分の子供をたしなめ、再びの苦笑いで私にぺこりと頭を下げる仕草をし、子供を抱きかかえて屋上の出入り口の方へとさっさと行ってしまった。「ほんとだもん!」と言う男の子の声を残して自動扉が閉じた。
「・・・い、いいえ・・・」
独り言のように言って、私はその場に呆然と立ち尽くしていた。
自分がただ疲れているだけなのか?それとも、これは夢なのか?・・・いや、そんなはずはない。
こんなにもはっきりとした意識や感覚が在るではないか。
これが夢だとしたら、本当によくできている。
そんなことを考えていると、親子と入れ違うように、出入り口の自動ドアが開いて、ひとりの男が屋上にやってきた。
こちらの様子には目もくれずにベンチへと座った。
入ってきた男は、最近、この屋上でよく見かける30代前半男だった。時間的にはまだ仕事中のはずだろう。シャツにネクタイ姿でカバンを持っていた。
私も、もう少しだけ、混乱した自分の頭を冷やそうと別の離れたベンチに座ることにした。
男は出入り口の近くにある自動販売機で買ったであろう、缶コーヒーを手に、しばしうつむいて固まっていた。
何か知らないが、男はいつも疲れているように見える。いかにも、疲れたサラリーマンです、といった感じで。
自分はこの屋上によく来る常連だと自分では思っているが、この人の最近の来場率ははそれ以上かもしれない。
私は今月、これで3度目くらいここに来たが、毎回ここで目にしている。
男がしばらくうつむいたまま、同じ姿勢で固まっていたので、また時間が止まったのかと私は一瞬不安になり、周りの風や音をあわてて確かめる。
その時、プシュッ、という音を立てて音の手で缶コーヒーが空けられた。
男が缶コーヒーを飲む仕草を見ながら、時間が流れていることに思わずほっとする。
私が、あまりにも凝視したからか、その男が私の視線に気がついて、顔を上げ、こちらを見た。
「・・・あ」
私はあまりにその男を見過ぎていたことに自分で気がつき、思わず間抜けな声を出した。
自分で発したその言葉のやり場に困るような、取り繕うような気持ちで、私は思いきって男に声を掛けてみた。
「・・・あ、あの、よくお見かけしますね」
男は一瞬、戸惑うような雰囲気もあったが、わりと直ぐにこちらに向かって、座りながら言葉を返してくれた。
「あ、う、うん・・・君もよく見かけるよね。・・・僕は今月3回くらいきてるけど、君、毎回いるね」
意外な言葉が返ってきた。私は今月3日たまたま全部同じく見かけているので、この人は相当、毎日のように来ているのかと思っていた。
「え?あ、僕も今月3回くらいすよ。ってことは、・・・たまたま、いつも同じ日に来てるってことですね」
「え?そうなの?なんだか、奇遇だな。ははは」
あ、この人、笑えるんだ。よかった、怖い人ではなさそうだ。
・・・・・つづく
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