一週間かけて書いた記事が一瞬でぱあになった静岡運転所です。
何が自動保存機能だ!(←前にも同じことを書いたような気が……)
前回のあらすじ:200系で東京~高崎往復→軽井沢
[種別:新幹線 北陸新幹線 あさま515号 東京10:24→長野11:51]
《軽井沢11:27着》
東京から1時間で軽井沢に到着しました。
行きつく暇もなく、しなの鉄道の改札に向かいます。
しなの鉄道は、元信越本線の軽井沢~篠ノ井間を運行する第三セクターの鉄道会社です。信越本線の開業は1888年(明治21年)と古く、電化も1963年に行われています。長野や上田など千曲川(信濃川)沿いの町を結び、周辺にも観光スポットが多いため、第三セクターでも貴重な黒字の会社です。
この日は金曜日でしたが、改札にはいかにも「乗りに来た」人がたくさんいました。私もその一人です。
彼らの狙いはこれ。169系です。
169系は、「東の碓氷峠、西のセノハチ(瀬野~八本松間:急勾配と急カーブが10km近く続く難所)」と謳われた碓氷峠を越えるために開発された車両です。
群馬県の横川と長野県の軽井沢の間にある碓氷峠は、古来から難所として知られていました。なにしろ直線で10kmほどの区間に、600メートル近い標高差があるのですから(横川は標高387メートル、軽井沢は標高939メートル)。鉄道も当初はこれを迂回して建設することも考えられましたが、最終的に旧中山道に従った直線に近いルートになりました。最終的に、最急勾配66.7パーミルという、急勾配ルートになってしまいました。
この際、通常の方法(粘着運転)では登れないため、レールの間にギザギザの歯のついたレール(ラックレール)を敷き、機関車の歯車(ピニオン)とかみ合わせて登るラック式となり、専用の機関車が輸入されました。この頃から、碓氷峠向け特殊車両の片鱗が見えています。
ちなみに、碓氷峠ではラックレールをずらして複数本(碓氷峠では3本・海外では2本の例もある)置くアプト式が採用されましたが、あくまでラック式鉄道の一種類であって、ラック式=アプト式ではありません。
1912年にはアプト区間のためだけに、他の区間に先駆けて電化。東海道本線ですらまだ非電化の時代です。既に碓氷峠が東京と長野を結ぶ重要なルートとみられていたのが分かります。
歯車を噛み合わせるアプト式は構造上速度を出すことができず、昭和になると輸送のネックになってきました。こうして、1963年に新線が開通。専用補機EF63形が2両一組で峠の下側につき、碓氷峠を越える列車を支えていました。複線化と電化で所要時間は大幅に短縮されました。
しかし、アプト式を廃したものの、66.7パーミルの勾配は変わらず残されました。また、電車や気動車はモーターやエンジンを積んでいる関係上、それぞれ8両・7両に制限されました。全国的に客車から電車・気動車に移り、また戦後の発展で乗客が増えていく中で、両数制限は新たなネックとなりました。
ここで登場するのが169系を始めとする「横軽用」電車です。機関車と走行機能を共有する「協調運転」という、世界でもまれにみる方法により、12両編成まで組めるようになりました。特急は189系・489系が、急行は169系が登場します。全国で活躍していた485系・193系・165系を種車にしていたため併結も容易(ただし協調運転は不可能)でした。
転機が訪れたのは1997年の長野新幹線の開業です。並行在来線となる高崎~(碓氷峠)~長野は、高崎~横川・篠ノ井~長野がそのまま、軽井沢~篠ノ井がしなの鉄道が移管されることになりました。しかし、碓氷峠を走る列車はほとんど優等列車で、普通列車は2~3時間に1本程度しかなく、ローカル輸送のみでは採算が取れないと判断されました。
こうして、碓氷峠の区間は廃止となり、碓氷峠専用車両たちも各地に散らばることとなりました。
幸いにも同型の車両がいたことから489系や189系は生き残りましたが、急行自体が数を減らしており、急行型の169系にもはや優等列車としての活躍の場はほとんどありませんでした。そのため、多くが115系に交じって新潟・長野地域のローカル輸送に徹しました。
しなの鉄道はJRから169系を4本購入し、2ドア・リクライニングシート(JR時代に改造済み)であることから着席制の快速「しなのサンライズ」「しなのサンセット」を中心に運行してきました。気が付けば既にJRから急行型電車の姿は消え、今や僚友は富士急行2000系(元パノラマエクスプレス・アルプス)を残すのみ。原形をとどめる最後の急行型電車となってしまいました。
その169系も、2013年3月15日をもって定期運行を終了、4月29日がラストランとなりました。
しなの鉄道の169系は1運用しかありません。かつては6運用あったのですが、福知山線の脱線事故を受けた『鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成十三年十二月二十五日国土交通省令第百五十一号)』(日本鉄道技術協会による解説版)により、JR乗り入れに運転記録装置が必要になったため、しなの鉄道内でのみでしか運行できなくなったためです。しなの鉄道はほとんどの列車が篠ノ井線(篠ノ井~長野間)に乗り入れていて、線内で完結する区間運行は小諸~軽井沢と戸倉~上田・小諸・軽井沢(戸倉からの入庫・出庫)のみです。
そんなわけで、169系の運用は、朝の戸倉→軽井沢と深夜の軽井沢→戸倉を除き、小諸~軽井沢間をひたすら往復するだけです。時間にして30分弱。169系に乗るには物足りないですが、急行料金なしでかつての急行用車両に乗れるのだからお得ではあります。
定期運行最終日は、しなの鉄道色のS51編成+S53編成による6両編成です。4本が導入された169系は、1本(S54編成)が廃車になった他は最終日まで生き残っていました。人気があるのはもちろん湘南色にリバイバルされたS52編成(クモハ169-6+モハ168-6+クハ169-19)ですが、イベントに忙しいのか残る2本が定期運用に入っていました。
とはいえ、最古のモハユニットと最後の新製クハを持つS51編成(クモハ169-1+モハ168-1+クハ169-27)もかなり貴重な編成です。
長野方面の先頭はクハ169-27。碓氷峠では車両の浮き上がり脱線を防ぐため、坂の下側(=高崎・東京方面)に電動車を向けていました。
中間のモハ168-1。◆は中央本線の背の低いトンネルに対応したパンタグラフ(PS23型)を搭載した車両につけられる記号です。
つけるなら●じゃないのか……
※●は横軽対策を示すマークです。169系に限らず、碓氷峠を越える車両は横軽対策と呼ばれる特殊な改造がされ、これがない車両は通り抜けができませんでした。特筆すべきものとして、空気ばねをパンクさせる機能が挙げられます。
クモハ169-1とクハ169-27の車号と連結面。JRに乗り入れていた時代も通常は単独運転で、併結をするのはかつての「しなのサンライズ」「しなのサンセット」とその間合いの運用に限られていました。S51編成とS52編成は時折イベント列車で組んでいますが、S51編成とS53編成が組むことはなく、2010年6月以来、実に1年9か月ぶりに手を組むことになります。
169系の運転台。やはり国鉄型車両、といった感じです。
進行方向右側の席を陣取り、いよいよ169系の出発です。
[種別:普通 しなの鉄道 763M 軽井沢11:38→小諸12:02]
《軽井沢11:38発》
発車してすぐ、浅間山の優美な姿が現れます。姿を変えながら、信濃追分付近まで見ることができます。
かつての幹線だけあって、線路も架線柱も立派です。
段々畑は長野らしい風景。
運転中の光景。
クハ169-27の車内。平日の昼間にもかかわらずなかなかの乗車率です。
運転台の編成表示。
最後尾より、まっすぐのびる鉄路。
手書き感満載のしなの鉄道MAP。
プレートの数だけ歴史があります。昭和45年のプレートは冷房化改造、昭和61年のプレートは座席交換と思われます。
車掌車が待合室になっている平原駅を発車。小諸はもうすぐです。
《小諸12:02着》
この列車は折り返し軽井沢行764Mになります。停車時間はわずかに10分。急いで撮影します。
169系の隣には、169系に代わって「しなのサンライズ」などに就いている、JR東日本長野車両センター所属の189系がいました。かつて碓氷峠を共に駆けた車両です。
小諸は長野新幹線の開業で最も影響を被ったといわれています。かつては「あさま」などの特急が停車していましたが、しなの鉄道になってからは普通列車のみとなってしまいました。短編成化で6両となった189系との並びは、小諸を含めた旧信越本線の栄光を見るような並びです。
115系の長野行と並ぶ169系。
モハ168-1の妻面より。
駅名標と169系。
クモハ169-1。
所属プレートの数々。
S53編成のモハ168-23。残念ながら、逆光でうまく撮れませんでした。
種別札のところにそれぞれ「ありがとうS51(S53)編成」のプレートが入っています。
堂々の6連。
運転台後ろから軽井沢方向を一枚。停車時間が短いので、撮影サイドは必死です。
10分の停車時間はあっという間に過ぎ、再び軽井沢に戻ります。
[種別:普通 しなの鉄道 764M 小諸12:12→軽井沢12:36]
《軽井沢12:36着》
こうして、約1時間で169系の旅は終了しました。4月は学校も始まるので、これが最後の乗車です。ありがとう、さようなら169系。
改札に上がる階段の途中にラストランの告示がされていました。
169系の運行状況は駅の広告以外にもネットで公開されていました。
湘南色になったS52編成はリバイバル急行で大忙しです。
しなの鉄道は撮影会に積極的です。一昨年・前年の長野電鉄屋代線関連のツアーでも、長電2000系+169系の組み合わせで撮影会を行っていますし、169系3本を並べての撮影会など、多彩なイベントで楽しませてくれています。
でも、この「急行」はどうなのよ……
※あの夏で待ってる……2012年冬のアニメ。舞台が小諸ということでしなの鉄道がタイアップし、115系1編成(3両)を丸々ラッピングしてしまった。見た目が超痛い。
駅改札手前にある、かつての急行時代を思わせるサボたち。復活運転をした「信州」「志賀」のものもあります。
しなの鉄道の改札でグッズを買い込み、再び新幹線へ。
2面4線のホームを持つ軽井沢ですが、今のところ追い抜きの設定はありません。北陸新幹線が金沢まで到達したら使われるのでしょうか。
[種別:新幹線 北陸新幹線 あさま526号 長野13:03→東京14:52]
《軽井沢13:36発》
時間的には12:43発のあさま524号にも乗れたのですが、さすがに7分でグッズを買って写真を撮ってというのは厳しいものがあります。
自由席でも車内は余裕があったので、ここで昼ご飯をご開帳。
いわずとしれた軽井沢の名物、『峠の釜めし』です。製造元のおぎのやは横川に本店を持つお店ですが、しなの鉄道の改札口近くに峠の釜めし専門コーナーを出して販売しています。
本当は最近出たという「峠の鳥めし」を買いたかったのですが、残念ながら売り切れでした。
このまま東京まで乗ると、静岡には午後5時ぐらいに着けそうです。
無論、そんなルートをとるわけがありませんが
いったい、静サツはどこに向かってしまうのか?
次回に続く!
現在地:軽井沢
静岡まであと153.7km(直線距離)
追記:S51編成が湘南色になって静態保存されることになりました。湘南色にリペイントされたS52編成エ……
追記2:小諸→軽井沢の動画を車庫にいれておきます
何が自動保存機能だ!(←前にも同じことを書いたような気が……)
前回のあらすじ:200系で東京~高崎往復→軽井沢
[種別:新幹線 北陸新幹線 あさま515号 東京10:24→長野11:51]
《軽井沢11:27着》
東京から1時間で軽井沢に到着しました。
行きつく暇もなく、しなの鉄道の改札に向かいます。
しなの鉄道は、元信越本線の軽井沢~篠ノ井間を運行する第三セクターの鉄道会社です。信越本線の開業は1888年(明治21年)と古く、電化も1963年に行われています。長野や上田など千曲川(信濃川)沿いの町を結び、周辺にも観光スポットが多いため、第三セクターでも貴重な黒字の会社です。
この日は金曜日でしたが、改札にはいかにも「乗りに来た」人がたくさんいました。私もその一人です。
彼らの狙いはこれ。169系です。
169系は、「東の碓氷峠、西のセノハチ(瀬野~八本松間:急勾配と急カーブが10km近く続く難所)」と謳われた碓氷峠を越えるために開発された車両です。
群馬県の横川と長野県の軽井沢の間にある碓氷峠は、古来から難所として知られていました。なにしろ直線で10kmほどの区間に、600メートル近い標高差があるのですから(横川は標高387メートル、軽井沢は標高939メートル)。鉄道も当初はこれを迂回して建設することも考えられましたが、最終的に旧中山道に従った直線に近いルートになりました。最終的に、最急勾配66.7パーミルという、急勾配ルートになってしまいました。
この際、通常の方法(粘着運転)では登れないため、レールの間にギザギザの歯のついたレール(ラックレール)を敷き、機関車の歯車(ピニオン)とかみ合わせて登るラック式となり、専用の機関車が輸入されました。この頃から、碓氷峠向け特殊車両の片鱗が見えています。
ちなみに、碓氷峠ではラックレールをずらして複数本(碓氷峠では3本・海外では2本の例もある)置くアプト式が採用されましたが、あくまでラック式鉄道の一種類であって、ラック式=アプト式ではありません。
1912年にはアプト区間のためだけに、他の区間に先駆けて電化。東海道本線ですらまだ非電化の時代です。既に碓氷峠が東京と長野を結ぶ重要なルートとみられていたのが分かります。
歯車を噛み合わせるアプト式は構造上速度を出すことができず、昭和になると輸送のネックになってきました。こうして、1963年に新線が開通。専用補機EF63形が2両一組で峠の下側につき、碓氷峠を越える列車を支えていました。複線化と電化で所要時間は大幅に短縮されました。
しかし、アプト式を廃したものの、66.7パーミルの勾配は変わらず残されました。また、電車や気動車はモーターやエンジンを積んでいる関係上、それぞれ8両・7両に制限されました。全国的に客車から電車・気動車に移り、また戦後の発展で乗客が増えていく中で、両数制限は新たなネックとなりました。
ここで登場するのが169系を始めとする「横軽用」電車です。機関車と走行機能を共有する「協調運転」という、世界でもまれにみる方法により、12両編成まで組めるようになりました。特急は189系・489系が、急行は169系が登場します。全国で活躍していた485系・193系・165系を種車にしていたため併結も容易(ただし協調運転は不可能)でした。
転機が訪れたのは1997年の長野新幹線の開業です。並行在来線となる高崎~(碓氷峠)~長野は、高崎~横川・篠ノ井~長野がそのまま、軽井沢~篠ノ井がしなの鉄道が移管されることになりました。しかし、碓氷峠を走る列車はほとんど優等列車で、普通列車は2~3時間に1本程度しかなく、ローカル輸送のみでは採算が取れないと判断されました。
こうして、碓氷峠の区間は廃止となり、碓氷峠専用車両たちも各地に散らばることとなりました。
幸いにも同型の車両がいたことから489系や189系は生き残りましたが、急行自体が数を減らしており、急行型の169系にもはや優等列車としての活躍の場はほとんどありませんでした。そのため、多くが115系に交じって新潟・長野地域のローカル輸送に徹しました。
しなの鉄道はJRから169系を4本購入し、2ドア・リクライニングシート(JR時代に改造済み)であることから着席制の快速「しなのサンライズ」「しなのサンセット」を中心に運行してきました。気が付けば既にJRから急行型電車の姿は消え、今や僚友は富士急行2000系(元パノラマエクスプレス・アルプス)を残すのみ。原形をとどめる最後の急行型電車となってしまいました。
その169系も、2013年3月15日をもって定期運行を終了、4月29日がラストランとなりました。
しなの鉄道の169系は1運用しかありません。かつては6運用あったのですが、福知山線の脱線事故を受けた『鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成十三年十二月二十五日国土交通省令第百五十一号)』(日本鉄道技術協会による解説版)により、JR乗り入れに運転記録装置が必要になったため、しなの鉄道内でのみでしか運行できなくなったためです。しなの鉄道はほとんどの列車が篠ノ井線(篠ノ井~長野間)に乗り入れていて、線内で完結する区間運行は小諸~軽井沢と戸倉~上田・小諸・軽井沢(戸倉からの入庫・出庫)のみです。
そんなわけで、169系の運用は、朝の戸倉→軽井沢と深夜の軽井沢→戸倉を除き、小諸~軽井沢間をひたすら往復するだけです。時間にして30分弱。169系に乗るには物足りないですが、急行料金なしでかつての急行用車両に乗れるのだからお得ではあります。
定期運行最終日は、しなの鉄道色のS51編成+S53編成による6両編成です。4本が導入された169系は、1本(S54編成)が廃車になった他は最終日まで生き残っていました。人気があるのはもちろん湘南色にリバイバルされたS52編成(クモハ169-6+モハ168-6+クハ169-19)ですが、イベントに忙しいのか残る2本が定期運用に入っていました。
とはいえ、最古のモハユニットと最後の新製クハを持つS51編成(クモハ169-1+モハ168-1+クハ169-27)もかなり貴重な編成です。
長野方面の先頭はクハ169-27。碓氷峠では車両の浮き上がり脱線を防ぐため、坂の下側(=高崎・東京方面)に電動車を向けていました。
中間のモハ168-1。◆は中央本線の背の低いトンネルに対応したパンタグラフ(PS23型)を搭載した車両につけられる記号です。
つけるなら●じゃないのか……
※●は横軽対策を示すマークです。169系に限らず、碓氷峠を越える車両は横軽対策と呼ばれる特殊な改造がされ、これがない車両は通り抜けができませんでした。特筆すべきものとして、空気ばねをパンクさせる機能が挙げられます。
クモハ169-1とクハ169-27の車号と連結面。JRに乗り入れていた時代も通常は単独運転で、併結をするのはかつての「しなのサンライズ」「しなのサンセット」とその間合いの運用に限られていました。S51編成とS52編成は時折イベント列車で組んでいますが、S51編成とS53編成が組むことはなく、2010年6月以来、実に1年9か月ぶりに手を組むことになります。
169系の運転台。やはり国鉄型車両、といった感じです。
進行方向右側の席を陣取り、いよいよ169系の出発です。
[種別:普通 しなの鉄道 763M 軽井沢11:38→小諸12:02]
《軽井沢11:38発》
発車してすぐ、浅間山の優美な姿が現れます。姿を変えながら、信濃追分付近まで見ることができます。
かつての幹線だけあって、線路も架線柱も立派です。
段々畑は長野らしい風景。
運転中の光景。
クハ169-27の車内。平日の昼間にもかかわらずなかなかの乗車率です。
運転台の編成表示。
最後尾より、まっすぐのびる鉄路。
手書き感満載のしなの鉄道MAP。
プレートの数だけ歴史があります。昭和45年のプレートは冷房化改造、昭和61年のプレートは座席交換と思われます。
車掌車が待合室になっている平原駅を発車。小諸はもうすぐです。
《小諸12:02着》
この列車は折り返し軽井沢行764Mになります。停車時間はわずかに10分。急いで撮影します。
169系の隣には、169系に代わって「しなのサンライズ」などに就いている、JR東日本長野車両センター所属の189系がいました。かつて碓氷峠を共に駆けた車両です。
小諸は長野新幹線の開業で最も影響を被ったといわれています。かつては「あさま」などの特急が停車していましたが、しなの鉄道になってからは普通列車のみとなってしまいました。短編成化で6両となった189系との並びは、小諸を含めた旧信越本線の栄光を見るような並びです。
115系の長野行と並ぶ169系。
モハ168-1の妻面より。
駅名標と169系。
クモハ169-1。
所属プレートの数々。
S53編成のモハ168-23。残念ながら、逆光でうまく撮れませんでした。
種別札のところにそれぞれ「ありがとうS51(S53)編成」のプレートが入っています。
堂々の6連。
運転台後ろから軽井沢方向を一枚。停車時間が短いので、撮影サイドは必死です。
10分の停車時間はあっという間に過ぎ、再び軽井沢に戻ります。
[種別:普通 しなの鉄道 764M 小諸12:12→軽井沢12:36]
《軽井沢12:36着》
こうして、約1時間で169系の旅は終了しました。4月は学校も始まるので、これが最後の乗車です。ありがとう、さようなら169系。
改札に上がる階段の途中にラストランの告示がされていました。
169系の運行状況は駅の広告以外にもネットで公開されていました。
湘南色になったS52編成はリバイバル急行で大忙しです。
しなの鉄道は撮影会に積極的です。一昨年・前年の長野電鉄屋代線関連のツアーでも、長電2000系+169系の組み合わせで撮影会を行っていますし、169系3本を並べての撮影会など、多彩なイベントで楽しませてくれています。
でも、この「急行」はどうなのよ……
※あの夏で待ってる……2012年冬のアニメ。舞台が小諸ということでしなの鉄道がタイアップし、115系1編成(3両)を丸々ラッピングしてしまった。見た目が超痛い。
駅改札手前にある、かつての急行時代を思わせるサボたち。復活運転をした「信州」「志賀」のものもあります。
しなの鉄道の改札でグッズを買い込み、再び新幹線へ。
2面4線のホームを持つ軽井沢ですが、今のところ追い抜きの設定はありません。北陸新幹線が金沢まで到達したら使われるのでしょうか。
[種別:新幹線 北陸新幹線 あさま526号 長野13:03→東京14:52]
《軽井沢13:36発》
時間的には12:43発のあさま524号にも乗れたのですが、さすがに7分でグッズを買って写真を撮ってというのは厳しいものがあります。
自由席でも車内は余裕があったので、ここで昼ご飯をご開帳。
いわずとしれた軽井沢の名物、『峠の釜めし』です。製造元のおぎのやは横川に本店を持つお店ですが、しなの鉄道の改札口近くに峠の釜めし専門コーナーを出して販売しています。
本当は最近出たという「峠の鳥めし」を買いたかったのですが、残念ながら売り切れでした。
このまま東京まで乗ると、静岡には午後5時ぐらいに着けそうです。
無論、そんなルートをとるわけがありませんが
いったい、静サツはどこに向かってしまうのか?
次回に続く!
現在地:軽井沢
静岡まであと153.7km(直線距離)
追記:S51編成が湘南色になって静態保存されることになりました。湘南色にリペイントされたS52編成エ……
追記2:小諸→軽井沢の動画を車庫にいれておきます
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