Local-Liner ~静サツ雑記帳

静岡運転所札幌派出所=静サツへようこそ。
札幌圏の鉄道を軸に、気ままに書き連ねていく日記です。

列島縦断帰省記 ~めくるめく国鉄特急物語 第6回 『つばさ』の見た景色 大曲→新庄

2015年11月08日 | 鉄道 ‐ 旅行(2015年)


 秋田駅のてんやわんやを経て、なんとか静サツは「つばさリレー号」に乗りました。



《大曲 10:29発》

 大曲を出ても、車窓は見渡す限りの田んぼです。

 さて、大曲から1人のおばさんが乗車してきました。おばさんは指定券を持っておらず、空き席を車掌に尋ねますが、秋田駅であれだけカメラに囲まれていた(=多くが乗車しなかった)列車に空きがあるわけがなく、「申し訳ありませんが立ち席になります」と断りを入れていました。全席指定なのですから、当然のやりとりです。

 しかし、おばさん視点に立つと、少し事情が変わります。



 これは私が乗車した2号車ですが、ご覧のように座席数にはかなり余裕があります。



 一番空いていた4号車に至ってはこの有様。おばさんが座れると思ったのも無理はありません。
 しかし、車掌の言うとおり満席なのも事実。これはどういうことなのか……?



 実は、6両編成のうち、3~6号車は「びゅう」の旅行商品のために取られていたのです(写真は個人情報保護のため加工してあります)。「びゅう」の商品は2種類あり、私も目を通していたのですが、いずれも新庄までの往復+昼食・その他のセットとなっていました。停車する駅で号車が分けられており、写真の5号車は横手からの乗車、6号車は秋田、4号車は十文字、3号車は湯沢に対応していました。
 残る1号車と2号車ですが、どちらも通路側に座っている人はほぼ皆無でした。そして、後から乗車してくる人もいませんでした。おそらく、通路席は2人以上の場合だけの販売になっていたのだと思われます。いわゆる団体列車ではよくあるパターンです。JR東日本は前から「びゅう」優遇の列車を運転してきたので、驚くことではありません。現在でも「とれいゆつばさ」が当てはまりますし(14号車は「びゅう」専用)。

 まあ、そのおかげで快適だったわけですが……



 後三年を通過。名前は平安時代の後三年の役にちなみます。関が原のように地名が戦いの名前になることはあっても、戦いの名前が地名(駅名)になるのは珍しいです。



《横手 10:47着》

 15分ほどで横手に到着です。


 ここでも横断幕が出迎えてくれます。




 しばらく停車時間があったので、外に出て撮影。ここでは待ち構えている人はほとんどおらず、快適に撮影できました。



 「つばさ」が設定されて以来特急停車駅だった横手。「こまくさ」消滅で普通列車だけの駅となり、かつての面影は広い構内にしか見出せません。



 向かいにいたのは奇しくも110周年記念の内装を施された701系。これも狙ったんですかね?



 私の乗っていた3号車。




《横手 10:49発》

 2種類の横断幕に見送られて横手を発車します。



 横手を発車してからしばらく、車内になまはげが登場!



 実は、秋田からそのままなまはげが乗り込んでいたのでした。



《十文字 10:59着》

 十文字は「つばさ」が福島発着に短縮されてから停車するようになった駅です。「つばさ」は1992年に消滅しているので、停車していたのはわずか10年ほどだったことになります。



《十文字 11:00発》



 十文字駅から2分。次の下湯沢駅との中間地点で、列車は急に速度を落としました。



 やがて左の車窓を、一つの石碑が通り過ぎます。この石碑こそ、1905年9月14日、横手~湯沢開業によって奥羽本線が全通したことを記念した、「奥羽本線全通之地記念碑」です。



 列車はそのまま皆瀬川にかかる岩崎鉄橋に差し掛かります。ここが最後の工事地点となりました。

 福島から山形、秋田、青森を結ぶ奥羽本線は、まさしく突貫工事で完成した路線です。総延長484.5kmの路線は、わずか10年で全線開通を迎えました。
 1894年の青森~弘前開業から始まった奥羽本線は、青森と福島の両起点から順に工事が進められました。南側(奥羽南線)は1901年に山形、1903年に新庄まで到達。北側(奥羽北線)は1899年に大館、1902年に秋田、1904年に大曲に到達しました。
 1905年6月15日に大曲~横手が開業。7月5日には山形・秋田の県境にあたる院内~湯沢が開業します。横手~湯沢は平坦な区間で、先に山越えの院内~湯沢が開業したのは不思議な話ですが、遅れたのはおそらく岩崎鉄橋のせいでしょう。残る区間は2ヵ月後に結ばれ、ここに福島~青森を結ぶ幹線が誕生したのでした。

 東北を通る幹線は東北本線・奥羽本線・羽越本線がありますが、羽越本線の全通は1924年。羽越本線とつながる上越線(開業は1931年)の影響もあり、それまでは東北本線と奥羽本線がメインラインだったのです。羽越本線開業後も、沿線に山形・新庄など大きな街をもつ奥羽本線のウェイトは高いままで推移しました。上野~秋田の急行「鳥海」(1950年~:後の「津軽」・「おが」→「あけぼの」)、そして特急「つばさ」(1961年~)は、いずれも奥羽本線経由で設定されました。羽越本線経由の優等列車は1948年から不定期の急行(上野~新潟の定期急行の延長)がありましたが、名前つきの列車は急行が「津軽」(1954年~:→「羽黒」→「鳥海」)、特急は「いなほ」(1969年~)を待つことになります。
 しかし、路線自体は奥羽本線はかなり低スペックでした。電化は1948年福島~米沢が早かった他は遅々として進まず、全線電化は1975年。複線化にいたっては福島~米沢、秋田~大曲以外は一部にとどまり、現在もほとんど単線で残っています。

 さて、東北新幹線開業後も福島まで接続し特急の体裁を保っていた「つばさ」ですが、1991年に転機が訪れます。山形新幹線の開業です。『新在直通』という全く新しい方法の新幹線が採用された福島~山形では、狭軌から標準軌に帰られてしまい、以北の路線とは列車の直通ができなくなってしまいました。「つばさ」の需要の多くは、特急「やまばと」、急行「ざおう」(いずれも上野~山形)の残党である福島~山形に頼っていましたから、「つばさ」にとっては大打撃でした。「つばさ」は新幹線の名前となり、残る山形~秋田には3往復の特急「こまくさ」が残されました。
 しかし、山形新幹線が新庄まで達すると、もはや特急としての使命すらままならなくなってきました。東京対秋田のルートは、新幹線接続特急として成長を遂げた「いなほ」、そしてローカル特急から一躍新幹線へと進化した「こまち」に取られていました。
 こうして、1999年に「つばさ」からつづく新庄~秋田の特急の歴史は幕を閉じます。代わりに設定された快速「かまくら」も2002年に廃止されました。



 記念碑を過ぎ、列車は秋田県側最後の街・湯沢に近づきます。



《湯沢 11:09着(2分遅れ)》

 やや遅れて湯沢に到着。この駅が最後の停車駅です。



《湯沢 11:10発(3分遅れ)》

 写真を撮る暇もなく発車します。



 車窓の緑が濃くなってきました。



 眼下の清流を見ながら、かつての「つばさ」もこうだったのだろうかと思いにふけります。



 景色もいいところなので、弁当をご開帳。「つばさ」仕様の鳥めしです。



 中身は普通の鳥めし。思っていたよりもボリュームがありました。



 「つばさ」記念撮影用のボードが回ってきていたので撮影。え、自分の写真はって? あっても載せられるわけないでしょ?



 田園ばかりで単調だった秋田~湯沢と、林を抜けたり川を渡ったりと大忙しです。



 秋田県最後の駅・院内を通過。ここには江戸時代から続く銀山があり、鉄道開業とともにさらに算出するはずでした。ところが、鉄道到達するのと同時期に銀が大暴落。鉱山は規模を縮小してしまったのです。細々と残っていた採掘も1954年に停止してしまいました。



 次の駅までは8.6kmあるため、1駅間だけ複線となります。最も本数が少ない区間が複線という矛盾は、かつての幹線時代の名残です。似た例に信越本線の黒姫~妙高高原があります。



 あくまで途中に信号場を設けないための複線化なので、線路が離れている場所も。



 真下を国道がくぐり抜けていきます。線路はこの先2回跨ぎこします。



 院内トンネルが県境のしるし。この先が山形県です。



 11時30分。列車は山形県に入りました。下り線は遠く向こうにあります。



 合流するとそこは及位。山形県側最初の駅です。
 こんな山奥でも5人ぐらい取っている人を見かけました。駅名が「のぞき」だからということではないと思うけど。



 及位からは再び単線に戻ります。



 大滝は新庄~秋田で唯一交換設備を撤去された駅。



 釜淵でおばさんたちがお出迎え。そこ危ないですよ?



 交換列車を待つために3分停車します。



 701系の2441Mが最後の交換列車。後は新庄まで下るのみ。



 20分もすれば山の形は消え、再び田園地帯に入ります。



 真室川で運転停車。ここで3分ほど時間を取りました。



 林の中で再び減速。さらに1分ほど停車しています。信号関係と思うのですが、詳しい原因はわかりません。



 かくして、新庄駅には8分遅れで入線することに。



《新庄 12:15着(8分遅れ)》

 ということで、続きは次回へ。


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