今年度の旅行記が一息ついたので、前々から予告していたプレイバックシリーズを始めます。
ブログ開設(2012/11/4)以前を中心に、これまで静サツが行ってきた旅行の数々を取り上げます。
記念すべき1回目は、2012年11月に行った久留里線です。
2012年11月24日。午前5時30分。
前日に用事で東京入りしていた私は、千葉の漫画喫茶にいました。
今日はこれから久留里線の旅に向かいます。
早朝とあって、さすがに千葉駅でも人の姿は僅かでした。
本日の一番電車は、内房線の快速君津行。わざわざ千葉の漫画喫茶に泊まった(?)のは、この電車を逃さないためでした。一応東京始発ですが、東京の発車時刻は5:21。都心でも、山手線の西半分のエリアからでは始発で間に合うかどうかといったところです。
朝の時間帯で15両編成(グリーン車2両込み)は過剰輸送ですが、折り返し東京方面の通勤輸送に使われるので仕方ありません。が、驚いたことに、こんな時間でもクロスシートにはそこそこ埋まっていました。東京の人たちはいつ寝てるんでしょうか。
[種別:快速 内房線 507F 東京5:21→君津6:44]
《千葉6:00発》
快速といっても、通過駅は巌根のみ。かつてはもっと通過駅があったのですが、周辺の宅地化や混雑の分散を図るために停車駅を増やした結果、ほぼすべての駅に停車する結果となりました。仲間外れにされた巌根は市原市と木更津市の市境に近い駅で、確かに他の駅に比べると田舎の雰囲気が漂います。
《木更津6:37着》
終点一つ手前の木更津で降ります。
木更津は、内房でも指折りの都市・木更津市の中心駅であるとともに、本日のメインである久留里線の始発駅でもあります。
久留里線は、東京湾に面する木更津と房総半島の真ん中に当たる上総亀山を結ぶ、全長32.2km(営業キロ)の路線です。1912年に千葉県営鉄道としてスタートし、2012年で100周年を迎えました。初めに木更津から久留里まで開通した後、1927年に国鉄へ編入。この1世紀の間で久留里線に変化が起きたのは、1930年の改軌(762mm→1067mm)と、1936年の上総亀山延長ぐらいです。いくつか駅の増設があったものの、基本的には開業時からほとんど変化はありません……でした。
しかし、100周年を迎えた久留里線に、大きな変革が訪れます。
まず、3月のダイヤ改正で、従来のタブレット閉塞が廃止され、信号による自動閉塞に切り替わりました。タブレット閉塞については他の人に説明を任せることにして、関東では唯一、全国でも数少ないタブレット交換がみられなくなりました。
そして12月1日、久留里線に新車が投入され、国鉄時代からの車両を一新する運びとなったのです。
かつて、千葉は『気動車王国』と呼ばれていました。千葉の蒸気機関車は1950年代にはすでに風前の灯ともいえ状況にありましたが、東京から近いにも関わらず、電化されることなく残っていました。そのため、優等列車から普通列車まで、千葉は気動車の天下になっていました。ほとんどのエリアが東京から2時間圏内ということもあって、東京側からは行楽客が、千葉側からは通勤客が利用し、長編成の気動車列車が行き来しました。
需要の多さが手伝って、国鉄気動車の多くが新製と同時に千葉に配置。さながら気動車の展覧会となったのです。
一方、その弊害か、千葉の多くの路線は電化されることなく残されました。内房線の場合、全線電化は1971年。裏日本を通る奥羽本線や羽越本線(青森~秋田~新潟)、中国山地を貫く伯備線([岡山~]倉敷~伯耆大山[~米子])とほぼ同時期であることを考えると、気動車になってしまったことで電化が遅くなってしまった印象をぬぐいきれません。
それでも、1970年代までには千葉県内の路線はほぼすべて電化され――ほぼ全域でスカ色(青地にクリーム色)の113系が走ることになったわけですが、それは別のお話――千葉に残る非電化路線は小湊鉄道、いすみ鉄道(元国鉄木原線)、そして久留里線を残すのみとなりました。中には内房や外房を巡っていた車両も残っており、一世代前の『気動車王国』時代を封じ込めたような路線です。
この日(2012年11月24日)も、国鉄時代から続く3形式の気動車が活躍していました。
木更津駅構内西側にあるのが、久留里線の車庫です。
朝ぼらけの車庫に、3両の気動車が佇んでいます。手前2両が、2012年12月から運転を開始したキハE130形。そして、隣のクリームと赤のツートンに塗られた車両が、希少気動車の一つ目、キハ30形です。車両についてはのちほど。
奥の電留線には、現在の千葉の主力になっている209系が停まっていました。
まだ6時半だというのに、久留里線が使用する木更津駅4番線は、同業者が何人も見つかりました。中には、私と同じく快速で来た人もいました。
……え? 一本前(129M千葉発安房鴨川行・千葉5:46発、木更津6:25着)に乗れば、久留里線の一番電車(921D・木更津6:26発)に間に合ったって? それは言わないお約束だよキミィ……
7時2分、久留里線2番列車となる923Dが入線しました。通常は2両編成で運行される久留里線ですが、この923Dは3両編成で運転されます。最大両数は924Dを始めとする4両編成ですが、945D以降は全て夜の時間帯となるので、日の当たるうちに走る3両以上の列車は、923Dと924D。それに、923Dの折り返しにあたる922Dと924Dの4本のみです。
まとめると、こんな感じです。
3両:922D 上総亀山5:59→木更津7:02
923D 木更津7:23→上総亀山8:30
924D 上総亀山8:46→木更津9:51
943D 木更津17:42→上総亀山18:50
948D 上総亀山19:06→木更津20:12
949D 木更津20:33→上総亀山21:43
4両:924D 上総亀山6:52→木更津8:00
945D 木更津18:45→上総亀山19:47
952D 上総亀山21:02→木更津22:08
953D 木更津22:32→久留里23:18
他は2両編成です。
[参考資料:『国鉄色祭り』(http://kokutetsushoku.main.jp/)様の「久留里線運用表」(公開Excelシート)]
これらの列車では、夕方から翌日のラッシュ時が終わるまで、ひとつながりで運行されます。ラッシュが終わると、木更津で1両ないし2両が解結(パージ)されて、片方は久留里線の運用に戻り、もう一方は車庫に引き上げます(夕方はその逆です)。
夜遅くまで増結態勢が敷かれているのは、ある程度の通勤需要を見越してのことでしょう。内房線が『千葉都民』の生活路線になっている影響が、支線の久留里線にも出ているのだと考えます。
しかし、こうした理由から、土曜の夕方と日曜の朝には増結が行われず2両編成となります。
久留里線を訪れた24日は土曜日。25日には東京を去るので、これからのる923D~924Dが、24日最後の3両運用となります。
最後尾の車両はキハ30-98。
キハ30形が属するキハ35系は、大都市圏に近いにもかかわらず非電化のまま残っていた路線向けに開発された気動車で、1961年から製造が始まりました。一番初めに投入されたのは、電化複線の近鉄に水をあけられていた関西本線(難波~奈良)でした。片運転台のキハ35形と、両運転台のキハ30形が作られましたが、2012年時点で、JR線では久留里線のキハ30形3両を残すのみでした(関東鉄道のキハ300・350・100形は後述)。
キハ35系最大の特徴は、なんといってもこの武骨な外吊り戸。前にも後にも、外吊りの扉を用いるのはキハ35系だけです。
これは、キハ35系が入る路線のホームに原因があります。客車の高さに合わせて作られたホームは電車や気動車の床面より低かったため、電車や気動車には降り口にステップが設けられました。元の路線が蒸気機関車の走る路線だったため、当時最新の通勤型電車101系(4扉・両開き)に倣って3扉・両開きにしたキハ35系もステップを作ることになりました。しかし、中吊りの扉だと戸袋(開いた扉を入れるスペース)の分だけ強度が減少してしまうので、2扉・片開きの在来気動車ではステップを上手く作れましたが、3扉・両開きでは無理がありました。そうして生まれた苦肉の策が、上部のレールから扉を吊るす独特のスタイルでした。
通勤型気動車の名前は伊達ではなく、3扉・両開きを始めとして、セミクロスシートが当たり前の時代に全車ロングシート、連結を考慮した平板な前面と貫通路、蛍光灯や扇風機の設置と、当時の通勤電車と遜色ない設備を持って登場しました。これらの設備はラッシュ時の路線で重宝されました。
しかし、高度経済成長とともにキハ35系を使用した路線が軒並み電化されたところで活躍の場が狭まりました。地方に投入しようにも、3扉でロングシートのキハ35系は輸送力過剰でした。結果、内房線と共通運用がとられていた久留里線にキハ30形のみ3両が残ることとなりました。
余談ですが、茨城の関東鉄道にもキハ35系を種車にしたキハ300・350系がいました。全国でも珍しい非電化複線が残る路線で、地磁気の影響で電化が難しいものの通勤需要が高いために導入されました。キハ35系に最適な路線環境の中で長年活躍しましたが、新型気動車が登場し順次廃車となり、2011年をもって運行を終了しています。尚、キハ300をワンマン改造したキハ100形が現在も走っており、2013年2月24日現在、日本でただ一つ定期運用を持つキハ35系です(キハ350形は一部が休車状態)。
2両目はキハ37-2です。
キハ37系は、国鉄の標準型気動車キハ40系に対し、閑散路線向けの気動車として開発された車両です。幹線で使用されることを前提としたキハ40系は、それまでの標準だったキハ20系に比べ高出力で、重厚感ある車体は密閉性も上がったため、全国各地で走るようになりました。しかし、その分重量が増して維持費が上がり、設備面でも閑散路線で運行するにはサービス過剰になってしまいました。そこでキハ37系では、徹底的なローコストを実現するためにエンジンの出力を下げ、簡素な箱型車体を採用。部品もできる限り廃車品を使うというこだわりぶりでした。
が、画期的な車両として登場したキハ37系は、わずか5両の製造で終わりました。キハ37系が必要とされていた特定地方交通線次々と廃止されたために、試作段階で終わってしまったのです。 5両のうち、2両は加古川線に、3両は久留里線に回されました。その後、加古川線の2両は電化で廃車となり、久留里線の3両のみが生きながらえることとなりました。
車内は2ドア・ロングシート。少数ながら、トイレ付の0番台とトイレなしの1000番台の2種類があります。
3両目はキハ38-1002。
キハ38は、八高線で運用していたキハ35形初期車を置き換えるために車体を新製した車両です。台車などの部品はキハ35形から流用しています。が、車体にはキハ35系の面影は全くありません。白地にブラックマスクという文字通り異色の姿で現れ、首都圏色のキハ35と趣を異にしていました(詳しくはWikipediaを参照)。目的が目的だけに、こちらも8両しか製造されませんでした。
キハ35とともに八高線から引退したキハ38は、久留里線に転用。多くは同じ片運転台のキハ37とペアを組んで、2両編成で走っています。
というわけで、なんと久留里線を走る3形式全てが編成に組み込まれていました。なんという奇跡!
キハ38のライトがともったら、いよいよ久留里線の旅がスタートです。
(その2に続く)
《おまけ》
キハ38とキハ37の妻面。
ブログ開設(2012/11/4)以前を中心に、これまで静サツが行ってきた旅行の数々を取り上げます。
記念すべき1回目は、2012年11月に行った久留里線です。
2012年11月24日。午前5時30分。
前日に用事で東京入りしていた私は、千葉の漫画喫茶にいました。
今日はこれから久留里線の旅に向かいます。
早朝とあって、さすがに千葉駅でも人の姿は僅かでした。
本日の一番電車は、内房線の快速君津行。わざわざ千葉の漫画喫茶に泊まった(?)のは、この電車を逃さないためでした。一応東京始発ですが、東京の発車時刻は5:21。都心でも、山手線の西半分のエリアからでは始発で間に合うかどうかといったところです。
朝の時間帯で15両編成(グリーン車2両込み)は過剰輸送ですが、折り返し東京方面の通勤輸送に使われるので仕方ありません。が、驚いたことに、こんな時間でもクロスシートにはそこそこ埋まっていました。東京の人たちはいつ寝てるんでしょうか。
[種別:快速 内房線 507F 東京5:21→君津6:44]
《千葉6:00発》
快速といっても、通過駅は巌根のみ。かつてはもっと通過駅があったのですが、周辺の宅地化や混雑の分散を図るために停車駅を増やした結果、ほぼすべての駅に停車する結果となりました。仲間外れにされた巌根は市原市と木更津市の市境に近い駅で、確かに他の駅に比べると田舎の雰囲気が漂います。
《木更津6:37着》
終点一つ手前の木更津で降ります。
木更津は、内房でも指折りの都市・木更津市の中心駅であるとともに、本日のメインである久留里線の始発駅でもあります。
久留里線は、東京湾に面する木更津と房総半島の真ん中に当たる上総亀山を結ぶ、全長32.2km(営業キロ)の路線です。1912年に千葉県営鉄道としてスタートし、2012年で100周年を迎えました。初めに木更津から久留里まで開通した後、1927年に国鉄へ編入。この1世紀の間で久留里線に変化が起きたのは、1930年の改軌(762mm→1067mm)と、1936年の上総亀山延長ぐらいです。いくつか駅の増設があったものの、基本的には開業時からほとんど変化はありません……でした。
しかし、100周年を迎えた久留里線に、大きな変革が訪れます。
まず、3月のダイヤ改正で、従来のタブレット閉塞が廃止され、信号による自動閉塞に切り替わりました。タブレット閉塞については他の人に説明を任せることにして、関東では唯一、全国でも数少ないタブレット交換がみられなくなりました。
そして12月1日、久留里線に新車が投入され、国鉄時代からの車両を一新する運びとなったのです。
かつて、千葉は『気動車王国』と呼ばれていました。千葉の蒸気機関車は1950年代にはすでに風前の灯ともいえ状況にありましたが、東京から近いにも関わらず、電化されることなく残っていました。そのため、優等列車から普通列車まで、千葉は気動車の天下になっていました。ほとんどのエリアが東京から2時間圏内ということもあって、東京側からは行楽客が、千葉側からは通勤客が利用し、長編成の気動車列車が行き来しました。
需要の多さが手伝って、国鉄気動車の多くが新製と同時に千葉に配置。さながら気動車の展覧会となったのです。
一方、その弊害か、千葉の多くの路線は電化されることなく残されました。内房線の場合、全線電化は1971年。裏日本を通る奥羽本線や羽越本線(青森~秋田~新潟)、中国山地を貫く伯備線([岡山~]倉敷~伯耆大山[~米子])とほぼ同時期であることを考えると、気動車になってしまったことで電化が遅くなってしまった印象をぬぐいきれません。
それでも、1970年代までには千葉県内の路線はほぼすべて電化され――ほぼ全域でスカ色(青地にクリーム色)の113系が走ることになったわけですが、それは別のお話――千葉に残る非電化路線は小湊鉄道、いすみ鉄道(元国鉄木原線)、そして久留里線を残すのみとなりました。中には内房や外房を巡っていた車両も残っており、一世代前の『気動車王国』時代を封じ込めたような路線です。
この日(2012年11月24日)も、国鉄時代から続く3形式の気動車が活躍していました。
木更津駅構内西側にあるのが、久留里線の車庫です。
朝ぼらけの車庫に、3両の気動車が佇んでいます。手前2両が、2012年12月から運転を開始したキハE130形。そして、隣のクリームと赤のツートンに塗られた車両が、希少気動車の一つ目、キハ30形です。車両についてはのちほど。
奥の電留線には、現在の千葉の主力になっている209系が停まっていました。
まだ6時半だというのに、久留里線が使用する木更津駅4番線は、同業者が何人も見つかりました。中には、私と同じく快速で来た人もいました。
……え? 一本前(129M千葉発安房鴨川行・千葉5:46発、木更津6:25着)に乗れば、久留里線の一番電車(921D・木更津6:26発)に間に合ったって? それは言わないお約束だよキミィ……
7時2分、久留里線2番列車となる923Dが入線しました。通常は2両編成で運行される久留里線ですが、この923Dは3両編成で運転されます。最大両数は924Dを始めとする4両編成ですが、945D以降は全て夜の時間帯となるので、日の当たるうちに走る3両以上の列車は、923Dと924D。それに、923Dの折り返しにあたる922Dと924Dの4本のみです。
まとめると、こんな感じです。
3両:922D 上総亀山5:59→木更津7:02
923D 木更津7:23→上総亀山8:30
924D 上総亀山8:46→木更津9:51
943D 木更津17:42→上総亀山18:50
948D 上総亀山19:06→木更津20:12
949D 木更津20:33→上総亀山21:43
4両:924D 上総亀山6:52→木更津8:00
945D 木更津18:45→上総亀山19:47
952D 上総亀山21:02→木更津22:08
953D 木更津22:32→久留里23:18
他は2両編成です。
[参考資料:『国鉄色祭り』(http://kokutetsushoku.main.jp/)様の「久留里線運用表」(公開Excelシート)]
これらの列車では、夕方から翌日のラッシュ時が終わるまで、ひとつながりで運行されます。ラッシュが終わると、木更津で1両ないし2両が解結(パージ)されて、片方は久留里線の運用に戻り、もう一方は車庫に引き上げます(夕方はその逆です)。
夜遅くまで増結態勢が敷かれているのは、ある程度の通勤需要を見越してのことでしょう。内房線が『千葉都民』の生活路線になっている影響が、支線の久留里線にも出ているのだと考えます。
しかし、こうした理由から、土曜の夕方と日曜の朝には増結が行われず2両編成となります。
久留里線を訪れた24日は土曜日。25日には東京を去るので、これからのる923D~924Dが、24日最後の3両運用となります。
最後尾の車両はキハ30-98。
キハ30形が属するキハ35系は、大都市圏に近いにもかかわらず非電化のまま残っていた路線向けに開発された気動車で、1961年から製造が始まりました。一番初めに投入されたのは、電化複線の近鉄に水をあけられていた関西本線(難波~奈良)でした。片運転台のキハ35形と、両運転台のキハ30形が作られましたが、2012年時点で、JR線では久留里線のキハ30形3両を残すのみでした(関東鉄道のキハ300・350・100形は後述)。
キハ35系最大の特徴は、なんといってもこの武骨な外吊り戸。前にも後にも、外吊りの扉を用いるのはキハ35系だけです。
これは、キハ35系が入る路線のホームに原因があります。客車の高さに合わせて作られたホームは電車や気動車の床面より低かったため、電車や気動車には降り口にステップが設けられました。元の路線が蒸気機関車の走る路線だったため、当時最新の通勤型電車101系(4扉・両開き)に倣って3扉・両開きにしたキハ35系もステップを作ることになりました。しかし、中吊りの扉だと戸袋(開いた扉を入れるスペース)の分だけ強度が減少してしまうので、2扉・片開きの在来気動車ではステップを上手く作れましたが、3扉・両開きでは無理がありました。そうして生まれた苦肉の策が、上部のレールから扉を吊るす独特のスタイルでした。
通勤型気動車の名前は伊達ではなく、3扉・両開きを始めとして、セミクロスシートが当たり前の時代に全車ロングシート、連結を考慮した平板な前面と貫通路、蛍光灯や扇風機の設置と、当時の通勤電車と遜色ない設備を持って登場しました。これらの設備はラッシュ時の路線で重宝されました。
しかし、高度経済成長とともにキハ35系を使用した路線が軒並み電化されたところで活躍の場が狭まりました。地方に投入しようにも、3扉でロングシートのキハ35系は輸送力過剰でした。結果、内房線と共通運用がとられていた久留里線にキハ30形のみ3両が残ることとなりました。
余談ですが、茨城の関東鉄道にもキハ35系を種車にしたキハ300・350系がいました。全国でも珍しい非電化複線が残る路線で、地磁気の影響で電化が難しいものの通勤需要が高いために導入されました。キハ35系に最適な路線環境の中で長年活躍しましたが、新型気動車が登場し順次廃車となり、2011年をもって運行を終了しています。尚、キハ300をワンマン改造したキハ100形が現在も走っており、2013年2月24日現在、日本でただ一つ定期運用を持つキハ35系です(キハ350形は一部が休車状態)。
2両目はキハ37-2です。
キハ37系は、国鉄の標準型気動車キハ40系に対し、閑散路線向けの気動車として開発された車両です。幹線で使用されることを前提としたキハ40系は、それまでの標準だったキハ20系に比べ高出力で、重厚感ある車体は密閉性も上がったため、全国各地で走るようになりました。しかし、その分重量が増して維持費が上がり、設備面でも閑散路線で運行するにはサービス過剰になってしまいました。そこでキハ37系では、徹底的なローコストを実現するためにエンジンの出力を下げ、簡素な箱型車体を採用。部品もできる限り廃車品を使うというこだわりぶりでした。
が、画期的な車両として登場したキハ37系は、わずか5両の製造で終わりました。キハ37系が必要とされていた特定地方交通線次々と廃止されたために、試作段階で終わってしまったのです。 5両のうち、2両は加古川線に、3両は久留里線に回されました。その後、加古川線の2両は電化で廃車となり、久留里線の3両のみが生きながらえることとなりました。
車内は2ドア・ロングシート。少数ながら、トイレ付の0番台とトイレなしの1000番台の2種類があります。
3両目はキハ38-1002。
キハ38は、八高線で運用していたキハ35形初期車を置き換えるために車体を新製した車両です。台車などの部品はキハ35形から流用しています。が、車体にはキハ35系の面影は全くありません。白地にブラックマスクという文字通り異色の姿で現れ、首都圏色のキハ35と趣を異にしていました(詳しくはWikipediaを参照)。目的が目的だけに、こちらも8両しか製造されませんでした。
キハ35とともに八高線から引退したキハ38は、久留里線に転用。多くは同じ片運転台のキハ37とペアを組んで、2両編成で走っています。
というわけで、なんと久留里線を走る3形式全てが編成に組み込まれていました。なんという奇跡!
キハ38のライトがともったら、いよいよ久留里線の旅がスタートです。
(その2に続く)
《おまけ》
キハ38とキハ37の妻面。
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