『金大中自伝』を読む
(12)10月維新憲法から韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)結成まで
1972年10月11日、金大中はトラックテロによる脚の後遺症に悩まされ日本での治療を行っていた。
午後7時ごろ、金大中は3選した大統領、朴正煕の「戒厳令」発表があると友人の電話で聞く。
前年の選挙で民衆の圧倒的な支持を受けて当選するかと見紛う程の金大中候補への敵対的危機感から朴正煕が取った措置として、政権永続化のために「(南北)平和統一と韓国的民主主義の実現」を押し立ててのクーデターだった。
朴政権はそのために憲法を変え、これを「維新憲法」と名づけた。維新憲法は、国会議員の1/3を大統領に推薦する権限と憲法の効力停止を可能とする緊急措置権を与えた。要するに大統領が三権の上に君臨でき、再選できない大統領の制限を撤廃し、任期を4年から6年にした上での事実上の選挙のない朴政権の誕生となった。
これで、75年に行われるはずの大統領選も無くなり、韓国民衆の政権交代の意志をくじくものとして10月維新クーデターは映ったことだろう。
10月18日、金大中は、東京にて戒厳令について次のような声明を発表した。
「朴正煕大統領の今度の措置は、統一を語りながら自らの独裁的な永久権力を目指す驚くべき反民主的措置」とし、「(朴大統領の)行為が世界の世論の厳しい批判を受けると同時に、民主的な自由を熱望して李承晩独裁政権を打倒した偉大な韓国民の手によって、必ずや失敗に帰する」(p219)とした。
金大中が声明を発表した同じ時刻、韓国では「軍の捜査官らが、わが家と、私の政治グループの議員らの家に一斉に踏み込んだ。金相賢(キム・サンヒョン)ら11名が軍部に連行された。(略)もちろん、令状のようなものはなかった。軍の捜査官らはひどい拷問をし、私との関係をただした。かれらに加えた有無を言わせぬ拷問は想像を絶するものだった。」(p219)
そして金大中は、亡命生活をアメリカ、再度日本に移しながら、様々な場所で日米国人と在米、在日同胞に韓国の民主化についての主張を展開していった。
12月23日、維新憲法に基づき第8代大統領に朴正煕が就任した。
翌年になると金大中の民主化を求める主張に共感の輪が拡がる。
「反応がだんだん熱くなった。自信が生れた。どうせなら、反独裁闘争を効果的に率いていくうえで中心になる組織を作ったらどうかと思うようになった。幸いにもこの構想は在米同胞らの大きな賛同を得た。名勝は『韓国民主回復統一促進国民会議』(韓民統)とすることになった。」(p227)
「一つは『大韓民国絶対支持』、もう一つは『先に民主回復、その後で統一』だった。当時、米国では、韓国の独裁政権が統一を全面に掲げているのを見て、統一を優先させる運動を展開しようという考え方も生まれていた。私はそれに反対した。朴政権の策略に巻き込まれる恐れがあったからだ。朴政権は統一を名目に民主政治を踏みにじってきたが、統一勢力をいつ容共分子として仕立て上げるかもしれなかった。」(同)
民主が回復されて後の統一という意味合いが名称には込められていたのだった。
米国に韓民統が結成され、1973年7月13日、金大中は京王プラザホテルで裵東湖(ペ・ドンホ)ら4名の在日同胞に韓民統米国本部の結成の経過を説明し結集を訴え全員が積極的に賛同した。
かくして、8月15日韓民統は韓国の反維新体制運動支援を旗印として金大中を議長とし、日比谷公会堂で開催予定だった。しかし金大中は8月8日に九段下グランドパレスで梁一東(韓国民主統一党総裁)とのめんだんご中央情報部(KCIA)によって拉致されてしまう。(金大中事件)
※ 韓民統は、朴正煕軍事独裁政権打倒を掲げ、金大中を始めとする韓国国内の政治犯釈放運動、及びに全泰壱(チョン・テイル)の紹介による等韓国の労働運動支援等を展開した。しかし1978年に韓国裁判所から韓民統は国家保安法における「反国家団体」に指定されて関係者の韓国への帰国が事実上不可能となった。(写真は8月15日韓民統発足宣言集会後の金大中拉致糾弾集会の様子
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ブラック・パワーサリュートって知っていますか?
1968年10月、メキシコオリンピック200メートル走で金と銅メダルをとったアメリカ代表黒人選手トミー・スミスとジョン・カーロスが表彰台でアメリカ国旗と国歌斉唱を前に黒いグローブのこぶしをつきあげた敬礼事件として知られています。これは黒人差別への抗議の意志表示として、キング牧師がこの年に暗殺され、黒人の選手の中では五輪への参加かボイコットかを巡る激しい葛藤の中での最善の行動としてありました。
私は、かつてその意志表示を行ったトミー・スミスとジョン・カーロスの「その後」について触れさせていただきました。
本日は、『映像の世紀バタフライエフェクト』「モハメド・アリ 勇気の連鎖」を見て、2位となったオーストラリア選手であり白人のピーター・ノーマンの運命を紹介していたので興味深い内容でした。
2位となったピーター・ノーマン選手は、二人が表彰台で黒人差別への意志表示をするというので「僕にもできることがあるか」と相談して「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを付けて表彰台にのぼったのです。
アメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」が流れるとトミー・スミスとジョン・カーロスは斉唱せずブラック・パワーサリュートをしながらうつむいて抗議の意志を示しました。その傍らでピーター・ノーマンは、ふたりの意志表示を背中に感じながらそのバッジで示したのです。
ふたりの黒人差別への意志表示を支持したピーター・ノーマンは、オーストラリア国内での白人至上主義とアボリジニへの根強い差別に怒りを感じていたといいます。
ノーマンは、メキシコ五輪が終わりオーストラリアに帰るとメディアや同僚選手からも非難の的となり、実力がありながらも再びオーストラリア代表に選ばれることなく選手生命を終えました。また、晩年は鬱や重度のアルコール依存症となり、彼の名誉も回復されることなく64才で還らぬ人となりました。(彼の死後名誉は回復される)
サリュートをしたスミスもカーロスもそうですが、3人はその後も迫害や解雇され生活を奪われます。カーロスは、奥さんまでその脅迫が原因で自殺した。それでも彼らは謝る事なく信念を貫いたのです。
人種を超え、海を超えた差別に対する信念と怒りによって結ばれた友情でした。
ピーター・ノーマンを葬送しようとアメリカからスミスとカーロスはやってきたのです。
2016年9月、当時の大統領バラク・オバマは、ホワイトハウスに招待した中にスミスとカーロスの姿もありました。
国家がおかしいことをしている現実に目を閉ざすことなく、孤立しても自分の意志表示をすることは勇気のいる行為だと思います。
事実スミスとカーロス、そしてピーター・ノーマンは、差別に抗議するために拳を突き上げバッジを付けただけで選手生命が剥奪され、国家による暴力と脅迫に晒されました。
そして何よりもしかし、国家による暴力に屈せず、信念を貫き通して得たものこそが歴史の中で讃えられ、それが人間の尊厳、誇りではないかと思います。
トミー・スミスは、後に話しています。
「もし私が勝利しただけなら、私はアメリカ黒人ではなく、ひとりのアメリカ人であるのです。しかし、もし仮に私が何か悪いことをすれば、たちまち皆は私をニグロであると言い放つでしょう。私たちは黒人であり、黒人であることに誇りを持っている。アメリカ黒人は(将来)私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう」
かつてスミスとカーロスが通っていたキャンパスには彼らの銅像が建っており、2位のノーマンの銅像は並んでいません。
彼が銅像を建てることを固辞したと伝えていました。その代わりに2位の表彰台の床には次のように書かれているそうです。
「ここに立つのはあなただ」(Take A Stand)
↓ 以下はスミスとカーロスの「その後」と大坂なおみへの「Black Lives Matter」Tシャツバッシングを取り上げた過去記事です。
あわせてどうぞ。
拳をつきあげた鎖のデザインに「Black Lives Matter」 のロゴの入ったTシャツを着た大坂なおみを見て彼女の勇気に思い出すことがある。
浦和のジャズバーに通っていた頃、フリージャズで早世したエリック・ドルフィーのファイブスポットでのライブ版と並んで発見したのはアーチー・シェップだった。
何よりもアルバム「attica blues」のその名のタイトルアッティカブルースは理屈抜きのファンキーな迫力に圧倒されて、30代前半の人生観を大きく揺さぶってくれた。
ジャケットには、アーチー・シェップがピアノで作曲する盤上にサックスが置いてあり、左すみの壁に黒い拳をふりあげた黒人ふたりが表彰台に立っている写真が貼ってある。
それは、68年メキシコオリンピックの陸上競技200メートル走で優勝したトミー・スミスとジョン・カーロスだと後で知ることになる。
ふたりは、アメリカ公民権運動で黒人が立派に差別とたたかい、キング牧師などが射殺された後にアメリカ国歌ではなく黒い拳をつきあげて我が同胞を讃えようと表現したのだろう。
しかし、オリンピック委員会は、政治的な表現をしたとしてふたりを即刻選手村とメキシコから強制送還させ選手生命を断たれただけではなく、様々な脅迫が家族にもおよびジョン・カーロスの奥さんは自殺に追い込まれた。
今回、大坂なおみの行動へのバッシングがスポーツと政治は分けてとか主張しているなら考えてみよう。
黒人を奴隷として連れさり、白人はその恩恵に預かりながら差別し迫害し続けた歴史を。
ナチスのオリンピックの政治利用から米ソのボイコット合戦、平和の祭典ではなく、スポーツを通じて金権が動く政治ショーと見まがうほどの疑惑を抱えながらの東京オリンピックは一体何なんだろう。
はぁあ、こんな巨悪が許されてささやかな個人の決死の訴えが許されない、なに言ってるんだかなぁと思う。
夜勤明けの電車で秩父三峰口へ。
これから雲取山を目指そう、そう思い勇んで乗り込みました。三峰山は、埼玉側から雲取山への取り次ぎ口となります。
8時50分のバスで三峰口駅を出発し、大輪(おおわ)から三峯神社参道へ。実は、三峯神社の山頂にはバス路線が開通しているのですが、初めてと言うこともあり麓から敢えてチャレンジしてみました。
大輪は、昔から三峯神社を訪れる際の起点となっています。山伏のように昔は修験者たちが三峰神社を目指した道なのでしょう。大きな大木を抜け、突然現れる神秘的な滝、とても古刹な風情ある参道だと感じました。
しばらく登っていると前に女性ふたりが歩いていて声をかけてみました。
女性たちは霧藻ヶ峰までというので、「この時間に雲取まで日帰りはムリですかね」と聞くと「難しい」との返事を頂いたので、私も女性ふたりにならって計画を練り直しました。
三峰山山頂に近づくにつれて木々に降り積もった残雪が、雪の結晶をまとって朝日を浴びてキラキラと舞い降りてきます。
こんな不思議な現象を見られるのも山歩きの楽しみのひとつです。
三峰神社は三峰山の山体だけではなく、その隣の妙法ヶ岳に三峰奥ノ院があります。妙法ヶ岳は鎖場のような険しい場所にあり山頂が三峰奥ノ院でした。どうやら三峰山、妙法ヶ岳、雲取山の三山を総称して「三峯宮」と呼ぶらしいです。
妙法ヶ岳のピークを後にして新雪を踏みなが霧藻ヶ峰を目指します。途中炭焼職人たちが働いていた炭焼平を抜けて地蔵峠で午後1時。霧藻ヶ峰まではリュックを置いて歩きました。地蔵峠に戻り、かるくご飯をたべると睡魔がおそってきます。
しょうがないので帰路は下まで歩かず。
三峯神社のバス停で疲れて寝てしまう始末となりました。帰り品、春キャベツが安く売っていたので購入しました。塩で軽く炒めて晩ごはんのおかずとなりました。おっと、それからザワークラウトもつくろう。
今年の春キャベツは三峰の風雪とともにやってきたという訳です。
最近、日本列島でたて続いて起こる地震でキモを冷やされている方が多いのではないでしょうか。被害に会われている方には心よりお見舞い申し上げます。
この地震で、どうやら地軸にズレが生じたらしく、これから数週間一部の地域にすさまじい電波障害が発生するとか。
どおりで最近、猫や犬が異変を感じてなくわけだと思いました
そのため私と家族は、しばしサボリージャ地方に避難してきます。皆さま、電波のつながらない地域ですので連絡は無用です🤗