1973年7月10日、米国から日本に再入国した金大中は、前年10月に朴正煕政権が未来永劫にわたる実権を我がものとする維新憲法の発表を行って以降、本国に戻ろうにも戻れない状況となっていた。
金大中の大統領選出馬を阻止するために、韓国中央情報部(KCIA)だけではなく、在日韓国人のやくざを利用して不穏な動きが彼の身に迫っているとの情報だった。
同時に金大中が利用するホテルの一室に独裁政権打倒の韓民統事務所を置くわけにもいかず、高田馬場駅に近い原田マンションに「韓国民主制度・統一問題研究所東京事務所」という小さな看板を掲げ日本での朴正煕に対する反政府闘争の砦となった。
そのため金大中のそばに警備にあたる在日韓国人の青年たちが配置され、二三日おきに宿泊施設を変えながら講演会や日本や韓国の政治家や要人らとの面談を続けた。
「私達には武器、装備ともに、まともなものはなかった。ひたすら情熱だけだった。一言でいえば素手の警護で、いざという時には、どれほど危険だったことか。私はただ、ありがたぬ、それなりに頼もしかった。」(p233)と金大中は当時を回想している。
原田マンションにも裏口の方で不審な個人タクシーが止まり、マンションの出入りを見張っている男が居るとの情報があり、金大中の危険を守るために警備員の増員など行った。
8月4日、在日韓国大使館の関係者から、金大中を拉致しようとしているとの情報が入る。
8月8日、金大中運命の日はやってきた。
自伝では「東京は朝からべとついていた」からはじまる。
東京ヒルトンホテルで朝を迎えた金大中は、10時30分に予定されている梁一東(ヤン・イルドン)韓国民主統一党総裁に会うために東京・飯田橋のホテルグランドパレスに向かう。
警備にあたる金君夫、金康寿をロビーに残し2211号室のいる梁一東総裁にあう。梁一東総裁には亡命のための資金など支援を要請したものの、快い返事はなかった。なぜなら、金大中に協力すれば自らの政治生命だけではなく韓国中央情報部(KCIA)からも金大中の情報を執拗に迫られていたからだ。
金大中は、次の面会(自民党、木村俊夫議員)のために1時15分ころ部屋を後にした。同席していた金敬仁議員が見送りでついてきた。
以下は自伝から。
「その時どこからか、がっちりした体格の男たち五、六人が飛び出してきて、うち二人がいきなり私の胸ぐらをつかんだ。
私はビックリして怒鳴りつけた。金敬仁議員も一緒に声を張り上げた。
『何のまねだ。お前らはだれだ』
男たちはあわてて私の口をふさいだ。私は横の部屋に引っ張り込まれた。あらかじめその部屋を借りていたようだった。私が抵抗すると、ひざを足でけり、アゴを殴った、人を殴るのに手慣れているようだった。何もできないまま押さえ込まれた。私をベッドの上にほうり出すと、ハンカチを鼻に押し当てた。瞬間、麻酔剤だろうという思いが脳裏をかすめた。一瞬、気を失い、すぐまた覚めた。意識がもうろうとした。覚めたところからみると、麻酔剤がそう強くなかったようだ。そうでなければ、麻酔薬がよく聞かない体質なのかもしれない。
『静かにしろ。言うとおりにしないと殺すぞ』
流暢な韓国語だった。」(p235)
その後、男らはその場で金大中を殺害し、バラバラにしてリュックサックに詰めて遺棄する予定だったが、金敬仁議員にみつかったため、ホテルから連れ去った。
金大中はガムテープやロープでグルグル巻にされたまま、車で西に向かいその後船をチャーターし、海上で金大中に重しを括り付けて殺害、遺棄する予定だったという。これを察知した米軍がヘリコプターを飛ばして殺害を中止させる。8月15日、金大中は、満身創痍となった状態でソウルの自宅前で降ろされている。
その後、国内外の新聞記者が自宅で取材し報道され、事件を真相究明し全面的に解決する
と言っていた警察も、何日か後に対応が変わってしまった。
「麻浦警察署長が家に来て、いきなり、私たち夫婦と運転手、家政婦以外は全員、家から出ろと言うのだった。内外の記者の出入りも全面規制された。この時から、金大中拉致事件は、国内の新聞には一行も報道されなくなった。
一方で、日本の読売新聞ソウル支局が閉鎖された。「グランドパレスホテルの犯行現場で、金東雲一等書記官の指紋が発見された。よって、韓国の政府機関が関与したとみられる」とする報道のためだった。支局長を含め特派員3人が追放された。(p250)」
「98年6月10日、米国の秘密文書が公開された。この文書でも李厚洛KCIA部長の指示による情報部員らの犯行であり、朴正煕大統領が明示的、もしくは黙示的に承認した可能性が高いとみている。」(p249)
「1980年、「ソウルの春」の時期李厚洛は注目すべき証言を行った。同郷の友人、崔泳謹(チェ・ヨングン)議員に、拉致事件は朴大統領の指示によるものだった、と打ち明けた。
彼に対して朴大統領は『金大中を亡きものにしろと言い』、李厚洛は驚き先延ばしにしていたが、一ヶ月ほど過ぎたところで大統領は李厚洛を呼び出して『お前、言いつけたことをなぜ、やらんのだ。総理ともみんな相談したうえでのことだ。早くやれ』と命令されたというのだ。」
このような事からKCIAにより暗殺司令が出され、殺害寸前で米国政府筋の高官らが事件が防いだということのようだ。
金大中拉致事件という言い方ではなく、金大中殺害未遂事件という名称が正しい。