パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』を買い求めた。
そして4時間半という三部構成のドキュメント大作だったが一気に見終わった。
感動した。
鳥肌がたった。
舞台は、1970年〜1973年のチリ、サルバドール・アジェンデ大統領率いる人民連合政権が社会主義を掲げて選挙により勝利した。
中南米を「裏庭」と思っているアメリカは、チリの政変に脅威と感じ、パナマでチリの軍人将校4,000人を訓練、育成したことに始まり、アメリカ国防省が4500万ドルの軍事支援、貿易封鎖など行って経済的にも軍事的にも脅迫し続けた。
さらにチリ国内では食料などの供給をストップさせるために多額な金と人をも投入した。企業が政府に協力しないような方策を続けさせたのである。
1973年9月11日(これはまさにもう一つの9.11と言って良い)、軍部によるクーデターが勃発し、アジェンデ大統領と側近たち40名も銃を持ち抵抗したが、激しい空爆や砲撃により死亡し政権は崩壊した。
これはチリの人々の苦悩の記憶であり、同時に私達にとって豊かさや幸せとは何かを問いかける。
貧しき人々が、アジェンデ政権により慎ましやかだが生活が変わり豊かになはじめていった。。
虐げられながら働いても満足な食料や教育、医療機会に恵まれなかったアメリカとその傀儡(かいらい)政権だった以前とは違い、確実に変わり始めていた。
自分たちの選んだ政権を守ろうと奮闘する姿は、虐げられても沈黙して耐えてきた日々から、しぶんたちが社会の主人公として登場したからだ。
その貧しき人々の眼差しはじぶんの利益を守ろうとするアメリカの支援を受けた富裕層とは対象的だ。
アジェンデ政権を疲弊させようとありとあらゆる手を使ってアメリカCIAに支援された経営団体、運輸、商店、鉱山がくり広げる。
生産力が落ちれば貿易で外貨が稼げなくなり疲弊していくのを見越した、反革命的なストライキ(職場放棄)が拡大していく。
アジェンデ政権とその支持者たちは、食料を人民に供給しようとトラックや人力車まで使い、人々に提供しようとする。または、反動的なストから守ろうと職場に歩いてでも向かおうとする。
ところが政権末期には、CIAと企業団体、右派らの目論見が、政権を守ろうとする人民の献身性によってとん挫していく。
人民の努力も、政権が半数に満たない議員で支えられている事から、人民連合が提出する法案は尽く否決されていく。国会は空転化し、機能不全に陥りだしていく。
そして最終的な手段で政権転覆をたくらむ。
軍事クーデターだ。
実はクーデターが起こる前に、その兆候もあったのだ。
ある労働者は、軍部の不穏な動きがありながら、なぜ政権はそれを抑えられないのか、議会の形式的な民主主義を主張する政治家に苛立ちをぶつけていた。まさに貧しき人々にとって労働者、農民の人民連合政権が、アメリカの露骨な介入により崩壊させようとクーデターを阻止するための方策は必要だったと思う。
軍部を含めたすべての権力を人民連合政府が掌握する、すべての権力を人民に!というタイミングを逸してしまったという事なのか…。
大統領官邸からアジェンデは国民にむけて辞任せず官邸に残り抵抗するとしながら最後の演説をおこなう。
「かれらの力がわれわれを支配するかもしれぬ。
だが社会の動きや変革は犯罪行為や力ずくで止めることはできない。
歴史はわれわれのもの
それは人民がつくるもの
常に知っておくべきは、思っているより意外に早く、偉大な道があらわれ
人々が自由に歩き
より良い社会を構築するだろう」
そして9月11日ピノチェト将軍によって政権が転覆される。議会は解散、憲法を停止、反対勢力は労働組合までふくめて逮捕、メディアを独占。数千人の国外亡命者の中にこの映画の監督であるパトリシア・グスマンもいたのだった。
CIAは400人ものエキスパートをチリに送りピノチェトを支援した。
アジェンデ大統領や国民的英雄であった歌手ビクトル・ハラ、詩人パブロ・ネルーダ、抵抗する人々はクーデターにより数千名が「行方不明」となり殺されていった。
ショック・ドクトリン=アメリカ企業とロビイスト
いまウクライナが戦場となっているが、一貫して戦争を押し進めてきたアメリカは、戦争支配という意味ではプロ中のプロ。
これまでに民族的な差別や憎悪を元に火種がありそうな危険な場所に導火線を設け、巧妙に経済的暴利を貪ってきたのだと思う。
このように戦争や自然災害に便乗して金儲けをすることを惨事便乗型資本主義社会だと指摘したのはカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインだった。
ロシアがウクライナに軍事侵攻したのも、もともとはウクライナのNATO化、アメリカ化がそこにつけ込んで一儲けしようとしたことが遠因となっていると思う。
事実、バイデン大統領の息子ハンター氏がウクライナ企業との癒着を新聞は報じていた。
「幹部を務めていたウクライナのガス企業ブリスマからの資金や、中国やカザフスタンの企業から受け取った贈答品を巡る税務処理に加え、ウクライナ企業のロビー活動への関与」(日本経済新聞3/31)
更にロシア軍のキリロフ放射線化学生物学防護部隊長が「ウクライナ国内での生物兵器開発にバイデン米大統領の息子ハンター氏が関わっていたことを示す書簡が見つかった」と指摘している。(産経新聞4/1)
しかしこれは氷山の一角だろう。
アメリカの間接統治支配
アメリカの歴史をひも解くなら、他国の戦争による支配介入を完了した後に破壊した経済やインフラをアメリカ主導で間接統治している。
戦後日本を支配下に置くためにGHQ主導の民主化から逆コースとなる下山、三鷹、松川という鉄道謀略事件が相次いで起こりレッドパージ朝鮮戦争。キューバ危機を経てベトナム戦争。アフガニスタン、イラクの戦争を直接介入しただけではなく、中南米をはじめとして軍隊によりクーデターを国内で暴力的に起こさせ、背後で操る数限りない軍事作戦を展開してきた。
中南米のアメリカ支配と介入は凄まじい。
軍事政権が親米の傀儡(かいらい)となり、アメリカ経済の自由主義顧問をポストにつけてアメリカ企業傘下に中南米の経済を支配していった。
アルゼンチンでは、76年から軍事独裁政権が、アメリカの自由主義経済を批判していた3万人の左翼活動家が何者かに殺害されたり「行方不明」となっている。これを汚い戦争と告発されているが、ここでもアメリカ政府はアルゼンチンの軍事政権に対して軍事物資と資金の援助をおこなっていた。
とにかく中南米はそんなことばかり。
中南米の反米政権のひろがりとアメリカ新自由主義者たち
中南米の人々にとってアメリカは、差別と暴力に基づく植民地支配の象徴としてあった。だからこそ親米バチスタ政権を打倒したキューバで革命(1959年)が起きたとき、またたく間に中南米全域に拡がった。
ボリビア革命(1952年)、チリでの民主連合政府の樹立(1970年)、ニカラグアでのサンディニスタ革命(1978年)など中南米全域で革命が勃発し、各国で大地主制度の解体や米企業、財閥の国有化などが前進し、社会主義社会を目指す機運が国境を越えて横に繋がりながら中南米の影響力を拡大していた。
アメリカにとってみれば中南米は「裏庭」であり、これらは脅威そのものだった。
中南米の鉱山は、そのほとんどをアメリカ資本が買い取り、アメリカの価格で鉱石の値段を決定し支配していた。
チリでは完全にアメリカの傀儡(かいらい)政権となり、アメリカ自由主義経済(シカゴ学派)顧問をチリに招き入れ、労働者の賃金上昇を抑え、公共予算の大幅は削減され日用品や生活インフラは長い間公共の窓口では扱わなくなった。チリを長期的な不況に陥らせて国内産業をアメリカが買い取り、先進国に低廉な原材料を提供させる低賃金労働力と暴力支配を押し付けた。
このような中でチリの人々は、アジェンデ大統領を選挙によって選択し、民主連合政権が誕生した。
企業を国営とし、農地改革を断行した。当時の国民の栄養状態は極端に悪く、子どもたちには牛乳を支給し、電気、水道など公共部門を半額にした。政府は、労働者の地位を上げ、富を公共部門に投資した。
1973年9月11日、アメリカCIAに援助されたピノチェト将軍が軍隊を引きつれ大統領府を攻撃してアジェンデ大統領らを銃撃・殺害し、クーデターによる軍事政権を樹立した。
その後、軍事政権スタッフたちには、アメリカ新自由主義派(シカゴ学派)の経済学者たちが居座り、チリ人民の財産ともいうべきインフラ設備をアメリカ資本に売り渡してしまった。
クーデター直後、サンチャゴ市内のスタジアムに軍によって集められた人々は、飲み物さえも与えられず拷問を受けるなどして数千もの命が失われたという。
チリ年表(人民連合政権の誕生からクーデターまで)
つまりシカゴ学派なる新自由主義経済学説が素晴らしく、中南米の支持を受けて普及したのではなく、軍事力を背景に、人々を弾圧することとセットで、その国の財産をアメリカの巨大資本と独裁政権が力によって収奪したのだった。
周辺国の暴力的収奪によって成り立つ経済的豊かさ
アメリカ経済の豊かさがアメリカ国内のみで成り立つ訳ではなく、周辺社会の露骨なまでの暴力により新自由主義経済を進めることで成り立ってきた。むしろ、この点にこそ注視していく必要がある。
かつてのソ連をはじめとする社会主義政権とその周辺の解体は、新たな弱肉強食の社会を加速化させ、同時に暴力的な収奪と戦争を呼び寄せる。
改めて世界の新自由主義経済のむき出しなまでの経済的収奪を戦争と暴力で介入の後破壊し、その後のインフラなど主要な施設などをアメリカ政府と企業が支配していく。
このような統治の仕組みが、何も今回のロシアによる戦争にはじまった訳ではなく、ネイティブアメリカン以降からのやり方をより巧妙に先鋭化させたということだろう。
5月23日、水道橋駅頭で東京東部労組、東京水道労働組合、全国一般・全労働者組合の呼びかけにより戦争反対!緊急行動を7団体、50名の結集で行いました。
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(ウクライナ)
ロシアが侵攻して3ヶ月を経過したウクライナでは、ウクライナ側発表によると民間人23,000人(4/15)が死亡している。
ロシア軍は撤退せず、長期化をほのめかすプーチン指導部に対して、ウクライナ、ゼレンスキーは「和平交渉に応じる」と言いながら「最後まで戦う」と主張している。
キーウ、ブチャでのジェノサイドやアゾフスターリ製鉄所の籠城する兵士がより犠牲者が増えていく中でも、少なくとも男性は国内に留まらせようとしている。これ以上のウクライナでの犠牲者を出さないためにも、武器供与や軍事作戦の協力即時停戦を世界は訴えるべきだろう。
1914年から1919年まで続いた第一次世界大戦は、世界の7000万人の兵士が投入され、戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が(総数1650万人との説)死亡したとされている。
そして1918年春部隊の中で「スペイン風邪」がまん延し、第一次世界大戦を上回る3000万~5000万人以上の死者(1920年)を生みだした。
この第一次世界大戦と「スペイン風邪」を関連づけた当時の報道はあまりにも少なく、スペインでは第一次世界大戦の中立国だったこともあり、フランスからピレネー山脈を超えて発生した伝染病による死者発生の報道をくり広げたため、「スペイン風邪」という不名誉な名前をつけられたとも言われる。
「最初は米派遣兵200万人のうち79万人が上陸したフランスの受け入れ口、ブレストの港町からウイルスは拡散していった。1918年4月にはフランス北部にいた英軍に、そして独軍の最終防衛ラインである「ヒンデンブルク線」の塹壕(ざんごう)によって、本来なら物理的に隔てられていたはずの独軍もなぜか感染した。さらに1918年5月になると英軍の南部に布陣していた仏軍にまで到達した。」(
)
しかし、アメリカをはじめとする軍隊がまん延していることは報道されなかった。
それと同時に更に拡大した原因は、第一次世界大戦において主要な戦闘形態であった総力戦と塹壕戦にあったのではないか。両国が数十キロに渡り兵士を投入し、塹壕で生活する事を強いられ膠着状態が続いた。トイレや残飯の管理、死者も横たわる。また暗くてジメジメして不衛生、物資も医療も不足しがちであれば、兵士たちは次々と感染を広めたのではないだろうか。このような急激な戦闘だけではない相次ぐ伝染病による死は、兵士たちの指揮を低下させたのではないだろうか。
むしろ、そのための兵士の不足は、戦争を強いる為政者たちに向けられ、ロシアやドイツでも兵士たちによる反戦行動が革命に転嫁した。
そして第一次世界大戦の終結となった。
今回のウクライナ、アゾフスターリ製鉄所などのシェルターでの生活は塹壕戦と同じであり、容易にウィルスがまん延していくだろう。人類は第一次世界大戦と「スペイン風邪」の脅威から学んだはずだ。
本日は耕作放棄した土地を再生させるプロジェクトに参加してきました。
明け方まで降っていた雨もあがり、里山再生作業に行ってきました。
今日は、田んぼの畦の仕上げと小川から引き込む水路をつくる作業でした。
一面掘り返して柔らかくなった土の上を井戸からポンプで汲み上げ水をひきます。水を吸いこんだ土はとても柔らかく、子どもたちが畦ふみを忘れて楽しくズブズブと入って遊ぶ。
この田んぼを整地にするまでには幾多の苦労があった。秋から春先にかけては篠竹や藤やクズなどがぼーぼー生えていたのを延々や切り落としてました。
写真はまったく同じ土地のビフォーアフターです。
粘土で“魔除け“を作ったというので子どもと一緒に。田んぼの入り口に魔除けを飾りつけた。
水路は、やはり簡単に掘れるものではなく、太い根を地中に張り巡らせていました。2メートルほどの距離でしたがとても悪戦苦闘です。
小川に土のうを積んで水を引き込むことができるようになるまでに2時間ツルハシを打ち据えました。
さて、次回は代かき、そしていよいよ田植えです。