西遼河渓谷は、黄河や長江と並ぶ中国文明の発祥地である。
この文明をになった人々については様々な議論がある。
今日この地域に居住する人々をY染色体ハプログループで分類すると、最も一般的なのがO系で、約60%である。これについでC3系の24%、さらにN系が8.5%存在する。
2.最初に西遼河文明をになったのはウラル人
「いかにも」という結果だが、これが掘り出された先史時代人を調べると随分違っている。父系は主として N1(xN1a、N1c)であり、すべてのサンプルの約63%を占めた。
N系人は中央アジアの草原から東西帯状に広がる分布を成しており、その東端に相当すると思われる。
それは新石器時代以前のサンプルで、89%と圧倒的な比重を占め、時代が下るとともに徐々に減少した。
2.中国の漢民族がN系人を駆逐
新石器時代から青銅器時代への移行中に、黄河文明の地帯から西遼河渓谷への人の移動があり、彼らが農業技術を持ち込んだ。
このあと漢民族(O系人)がN1人を凌駕するようになった。
3.青銅器時代後期の文化変容
西遼河渓谷を支配するようになった漢民族だが、その後の気候の変化に反応し、ユーラシアの草原のスタイルに変換し、主に畜産を実践した。
C3系の人々が入り込み、人口の4分の1を占めた。その結果、彼らの生活様式が支配的になったのであろう。
C3系の人々の94%がヤクート族である。
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