二風谷の展示がすごい
天気があまりに良いので、今年最後と思い遠出した。
高速から日高に入りそこから二風谷に向かった。紅葉が盛りでというか少し見頃を過ぎていて、落葉を敷き詰めた中に楓の紅が強烈な輝きを示していた。
二風谷は以前から気になっていたところで、瀬川拓郎さんは「アイヌ文化の発祥地」とまで言っている。ユーカラの多くもこの地に伝えられたものだ . . . 本文を読む
主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
前編
後編
を参照しました。この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。実は二度目の訪問しまして、素晴らしい資料を見つけました内田順子さんとい . . . 本文を読む
堀辰雄の作品「美しい村」に出てくるレエノルズ先生は、明らかにマンローのことだ。
以下、関係部分を引用する。
私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
…それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守 . . . 本文を読む
1.素晴らしさ…自叙伝の一節バチェラー資料を探しているうちに、次の資料に出会った。
「HOMAS日本語版ニューズレター」という定期版で、「北海道・マサチューセッツ協会」という団体が発行している。道庁の外郭団体のようだ。その64号に「アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績」という文章が寄せられている。
その中で、バチラー自叙伝「我が記憶 . . . 本文を読む
これは下記記事の増補版である。2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜実は、失敗していて、増補版を2017年04月25日の記事に上書きしてしまった。今さら取り返しはつかない。さらに増補の追加分があるので、それもふくめた増補版を本日付の記事としてアップする。これに伴い“旧増補版”は増補版の表記を消して、2017年04月25日の記事として . . . 本文を読む
1925年(大正14)
1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature」に掲載される。
1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。
1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。セリーグマンは、一般化を焦らず、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述 . . . 本文を読む
2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。 晩年のマンロー
1863年6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に、開業外科医ロバートマンローの長男として生まれる。一族はスコットランドでは名家のひとつで、祖先は14世紀まで辿ることが可能。ダンディーは北海沿岸に位置し、19世紀半ば以降、捕鯨や造船 . . . 本文を読む
医師マンローについて文献を集めていますが、その経過についての報告です。
1.道庁職員 谷万吉との往復書簡
往復書簡集は
北大に保管されているらしいが、目下アクセスの方法は不明。
最も重要な書簡は36年12月の谷宛書簡
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密 . . . 本文を読む
下記はバチェラー年譜においてあったものを別記事としてあげたものである。一記事としてはまだ完成しているとは言えないが、素通りするにも痛ましいので記事として起こす。イサベラ・バードの北海道の旅 とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記 . . . 本文を読む
下記はバチェラー年譜においてあったものを別記事としてあげたものである。一記事としてはまだ完成しているとは言えないが、素通りするにも痛ましいので記事として起こす。イサベラ・バードの北海道の旅 とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記 . . . 本文を読む
マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。
これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。
これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。
そもそものきっかけは . . . 本文を読む
ドクター・マンローの人生をどう見て、どう描くか
この2ヶ月半ほどはマンローの年譜づくりに夢中だった。
と言っても、年譜はすでに3つほどある。
一つはほぼ唯一と言っていい「マンロー伝」を書き残した桑原千代子の作成したもの。
一つは、残念ながら未完のまま終わった谷万吉らの年譜である。
そしてもう一つが、沙流川歴史館年報に掲載された、詳細な年譜である。この作成には佐倉の歴博が絡 . . . 本文を読む
2019年11月24日 「マンロー医師 年譜 (増補版)」またまた増補しました。
2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。
非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが . . . 本文を読む
左クリックで拡大(1が西遼河文明)1.西遼河文明について
西遼河渓谷は、黄河や長江と並ぶ中国文明の発祥地である。
この文明をになった人々については様々な議論がある。
今日この地域に居住する人々をY染色体ハプログループで分類すると、最も一般的なのがO系で、約60%である。これについでC3系の24%、さらにN系が8.5%存在 . . . 本文を読む
この文章はPitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collectionsのうち
FOCUS: Neil Gordon Munro (1863-1942)
のページを抄訳したものです。ちょっと感想を。多少間違っているかもしれませんが、マンローは日本の先史時代を初めて体系づけた人です。彼は先史時代を旧石器時代(打ち欠き石器)、新石器時代(縄文時代) . . . 本文を読む