鈴木頌の「なんでも年表」

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ストーンサークルはドルメンではない

2021-03-17 18:27:23 | マンロー
マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

 

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

 

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

 

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

 

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

 

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

 

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

 

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

 

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

 

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

 

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

 

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

 

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

 

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

 

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

 

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

 

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

 

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

 

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

 

ただ今日では、縄文人はツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

 

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化を共有していた可能性はあると思う。マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

 

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

 

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

 

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

 

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

 

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

 

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

 

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

 

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

 

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

 

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

 

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

 

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

 

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

 

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

 

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

 

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

 

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

 

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

 

ただ今日では、DNA解析により、縄文人(の祖先となる旧石器人)は、ツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

 

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化(細石刃文化)を共有していた可能性はあると思う。

 

一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

 

これはこれであるのだろう。

 

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。



一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

 

これはこれであるのだろう。

 

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。

マンローは時に議論を急ぎすぎるきらいがある。


函館市史のうち

巨石文化

渡島半島のストーン・サークル

函館のストーン・サークル

を参考にしました

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