鈴木頌の「なんでも年表」

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YハプロN系人を挿入することで見えてきた人類史

2021-03-17 17:38:21 | マンロー
人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。

しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。

 

1.ハプロN人が文明のメッセンジャー

小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
それはN人だった。N人は多分1万年くらい前に中央アジアでO人と分離し、北方の草原を西へ、あるいは東へと遊牧するようになった。
西に行ったものはG人を西に押しやった。G人はドルメン文化を形成した人々で、有名なアイスマンもその一人である。
東に行ったものは、ゴビ砂漠を越えて華北一帯に流れ込み、遼河文明を形成した。紀元前3千年ころのことと思われる。


2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか

 

東アジアに先住していたのはC人である。C人は6万年前にインドを経由して東南アジアに進出した。そしてアジア全域に散らばった。

 

ナウマンゾウを追って日本に到達したのはC1系で、4万年前のことだった。モンゴルからシベリアまで広がっていったのはC2系だった。

 

D人の経路は不明だが中央アジアから直接、あるいはインドを経由してチベットから中国の西域に達し最終的にはサハリンから日本に達した。途中の経路にはかろうじて痕跡が残されているが、経路を追うほどの密度では存在しない。

 

C人、D人は現在辺縁的に残存する程度である。


3.C人を追い出したO人とN人

 

これに対し現在の主流を形成するのは、O人とN人である。

 

O人はインドシナの山間部を経由して中国南部に入った。そして長江流域に米作の文明を築いた。このとき先住していたC人は南方に押しやられた。

 

N人は、おそらくそれより少し遅れて陸の東西回路を東進し、C人先住民を北に追いやった。

 

これが可能だったのは9千ないし7千年前にかけて温暖化が進行し、これに伴い海進と湿潤化も進み、陸の東西回路、いわゆるシルクロードの利用が容易になったためではないか。

 

N人が構築した河北~南満文化は、不明の理由で衰退していく。これに対し長江まで前進したO人の一派であるO2系が北進し、N人を追いやった。

 

長江から北に進出したO2系は、N人がもたらした西方文明を受容した。その力で南進。青銅器文化にとどまっていた長江文明(O1系)を制圧し、影響力を華中・華南にまで及ぼすこととなった。


4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者

結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。

 

これがマンローから学んだことをふくめ、達した結論である。(まだまだ変わっていく可能性はあるが)

これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
習近平政府にとっては、あまり気持ちの良い議論にならないかもしれない。

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