ピウスツキの巡回展というのを札幌でやっている。
それが分かったのが本日、赤旗道内版にちらっと載ったのを見た。
明日、道AALAで「コロナと人権宣言」で話をしなければならず、最後の追い込みなのだが、展示会の最終日はまさにその明日、25日になっている。
ということで、急いで行ってきた。
展示会の題名は「1903年夏の平取 -B・ピウスツキたちの短期調査より-」というもの
ポスターがパネル6面に並んでいる。朝10時には誰も受付におらず、観客もおらず一人で堪能してきた。
もともと5月にやるはずだったものが、コロナで延期になったらしい。私にとっては幸いであった。
展覧会の主催は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」。
お金をとる方の博物館で私はまだ入ったことはない。
いまどき珍しいが、今回の展示会もすべて撮影禁止である。誰もいないのでとってもわからないが、一応遠慮しておいた。
ピウスツキについて
今回の展覧会は思い切って、ピウスツキが平取に滞在して写真を取りまくったときの記録に集中している。明治の中頃、1週間ほどだけ滞在したときのものだ。
きわめてスッキリした構成だが、わからない人にはわからないだろうと思う。
ピウスツキはポーランド人。当時ポーランドは祖国を失い、ピウスツキは国籍上はロシア人だった。
皇帝暗殺事件に関係したために、シベリアに流刑となり、長いことサハリンで暮らした。
その間に樺太アイヌの女性を娶るなど、現地に溶け込んでいた。とくに蝋管レコードによるユーカラや儀式の音源採集は名高い。
そのピウスツキが平取に来ていた。しかも日露戦争の始まる半年前に。(正確には白老と平取)
このことは私は沙流川博物館の展示で初めて知った。
波乱万丈の生涯
ピウスツキの波乱万丈の生涯については、到底ここで語る余裕はない。
まずは井上紘一氏の力作「ブロニスワフ・ピウスツキ年譜」をご覧頂きたい。必ずや目の回るような臨場感を味わえるであろう。
ただ、この年譜はピウツキの自叙伝に基づいて作成されていると思われ、客観性はどうかと言われると、ちょっと首をひねるところもないではない。函館の停車場で行き倒れのアイヌ人グループを助けたら、それが白老の有力者だったなど言うのは、出来すぎの感がある。
これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。
もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。
ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。
私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。
まぁ、話はこのくらいにしておく。
これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。
もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。
ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。
私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。
まぁ、話はこのくらいにしておく。
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