松凬からくり帖

松凬さんが73年の人生と吟道50年からの体験や、これから起こるであろう!未体験談を写真と共にお届け!

あの時京都が動いた・その4【京都の西郷〈せご〉どん】

2018-01-07 08:22:55 | 日記

京都市民しんぶんの1月1日号【あの時京都が動いた】も最終回です

NHKの今年の大河ドラマ【西郷〈せご〉どん】の登場です???

と云っても西郷隆盛の長男・西郷菊次郎なんです

それではまた市民しんぶんの記事からご覧ください

~明治30年代、人口30万人を超えた京都では、

  電力不足や上水道が無いことによる伝染病の流行、

  狭い道路環境など、多くの課題がありました。

  同37年、第2代京都市長に就任した西郷菊次郎

  〈西郷隆盛の子〉は、当時の市税収入の34倍にものぼる

  三大事業〈第二疎水建設による水や電力の供給、上水道の建設、

  幹線道路の拡幅〉を計画します。反対意見もある中、

  しかし西郷はこの事業を「百年の大計」 と位置づけ、

  強い信念をもって進めることで、京都の未来を

  思う人々の心に火をつけました。

  同44年に持病の悪化で市長を辞任していますが

  翌年、明治最後の年に事業は完了したのです

  西郷は市長就任後すぐ、区役所を視察した際、

  次のように訓示しています。

  「区役所の事務は最も人民に接するものであり、

  市民の便利を図り、公利公益を増進させてほしい、

  そのためには迅速な事務作業・誠実・公平を

  忘れてはならない」。

  まちの発展を願い、広い視野で大事業を成し遂げた西郷。

  一方で西郷は、細やかな市政も進めていたのです。

この市民しんぶんの特集を、福沢諭吉の言葉で締めくくっています。

  「明治」という幕開けに京都を襲ったさまざまな危機。

  しかし、私たちの先人たちは、それらに立ち向かい、

  乗り越えてきました。彼らは、今回紹介した以外にも

  日本初の藝術大学・公立工業高校の設立・西陣織に先進的な

  機械を導入するなど、今日と発展の礎を築いてきたのです。

  では特集の最後にあたり、明治5年、番組小学校を見学した

 福沢諭吉が述べた言葉を、紹介しながらの締めくくりとします。

  『民間人が学校を設立して、人々を教育しようとすることは、

  私が長年にわたって考えていたことである。

  今回京都を訪ね、それが現実となっているのを見られたことは、

  故郷に帰って幼馴染に会う喜びに等しい」

     

 ちょんまげ姿の福沢諭吉      こちらは郵便切手になった福沢諭吉先生 

さすが、慶應義塾の創立者の言葉だけありますね~

福沢諭吉と云えば、松凬流の教本の中に「同窓会」と題した漢詩があります

        同窓会     福沢諭吉作 

    光陰矢の如し十余の春

       誰か知らん当年風雨の辛さを

          今夜小堂に相会するの友は

             弾丸煙裡に書を読みし人

どうですか、さすが緒方洪庵の【適塾】で塾頭まで上り詰めた諭吉先生

今夜の同窓会に集まった人たちは、生死の境で苦楽を共にした友

弾丸の飛び交う中を必死で潜り抜け、それでも書を離さなかった友

慶応義塾の創立者、天は人の上に・・・の【学問のすすめ】の著者、福沢諭吉

さて、それでは最後に西郷菊次郎の母そうです西郷隆盛の二番目の妻【愛加那】

西郷隆盛が奄美大島に流罪になった時の現地妻の【愛加那】の長男が菊次郎です

では【愛加那】の写真?を掲載しておきます

 

 

 

  

  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿