今日の【公明新聞】にこんな記事が掲載されていました
クラシック音楽家・知らなかった”もうひとつの顔”と題した
音楽ジャーナリストの萩谷由喜子さんのコーナーです・・そこには
~「もういくつ寝るとお正月・・」の歌い出しで知られる新年の愛唱歌『お正月』は
東京音楽学校〈現・東京藝術大学音楽学部〉研究科在学中の滝廉太郎が、
明治33〈1900〉年、21歳の時に作曲した。
歌詞の作者、東くめは音楽学校の2年先輩で、二人は、くめの夫の
東京高等師範学校教授、東基吉から「子供の言葉による子供が喜ぶ歌」を
書くようにと勧められ、この曲や『鳩ぽっぽ』などを協力して生み出していた~
明治時代の音楽の世界にも西洋化の波が押し寄せてきます
当初は西洋などの曲に〈外来の曲〉日本語歌詞を当てて歌われていた
しかし、その内に曲も歌詞も日本人が書いた日本人のための愛唱歌へと・・・
そんな声に応えて作曲された童謡が『お正月』であった。
そして一般向けの愛唱歌として誕生するのが『荒城の月』『花』『箱根八里』・・・
この後、滝廉太郎は文部省選抜の3人目として、ドイツへ音楽留学をする
ベルリンでは先に留学していた2年先輩の幸田幸を尋ね、音楽学校の思い出話を
この幸田幸は、あの文豪【幸田露伴】の妹で、音楽学校時代からの友人だった
その後、廉太郎はメンデルスゾーンの創設した名門、ライプツィヒ音楽院に合格する
しかし、良い事は続かずそれから2か月足らずで結核を発病し入院の身となった
食欲の落ちた廉太郎は大好物の福神漬けを夢にまで見るがライプツィヒでは手に入らない
手紙でそれを知った幸田幸はベルリンのレックスと云う食品店で買い見舞いに贈っている
そして最後に音楽ジャーナリストの萩谷由喜子さんはこの様に結んでいる
~滝は翌年10月に帰国を余儀なくされ、その8か月後、明治36〈1903〉年6月29日に
23歳10か月の若さで永眠した。 けれども、幸田幸心尽くしの福神漬けの味は
永遠に口中に留まっていたのではなかろうか。
後に「日本のヴァイオリン界の母」と呼ばれる名ヴァイオリニスト・安藤幸と
日本が誇る天才作曲家との若き日のエピソードである~
と結んでおられる。 余談ですが幸田家って凄いですよ・・・
長男の幸田成常はカネボウの創始者、四男に文豪・幸田露伴
幸田幸の姉の幸田延も音楽家、息子に芥川賞を辞退したドイツ文学者・高木卓がいる
また著者の萩谷由喜子さんも著書14冊と楽譜の解説書3冊の出版有り
2月には新刊「蝶々夫人と日露戦争」が出版されます
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