タイトル通り、制札のお名前の数を数えると納得・・・でも何故この様に
【天皇陵 謎解き完全ガイド】にはこの様に記されています
火葬から土葬に戻る・・・とタイトルがあって
最初に「泉涌寺」に葬られたのは鎌倉時代初期の第86代後堀河天皇【観音寺領】で
最初に【月輪陵】に葬られたのは同じ鎌倉時代の第87代四条天皇です。
それから400年を経て、江戸時代に月輪陵が復活したのは、
葬儀が、火葬から土葬に戻ったからでした。
古代には土葬が普通でしたが、持統天皇が最初に火葬されて以来
土葬、火葬が併用された時期が長くあり、室町時代後半は火葬が定着していました
土葬になった事で、後水尾天皇以降の江戸時代の歴代天皇は泉涌寺に葬られる
江戸時代に入り、最初に崩御した後陽成天皇までは火葬でしたが、
次に崩御した第110代後光明天皇の葬儀をめぐってある事件が起こります
それまで通り火葬しようとすると、後光明天皇が深く神道に帰依し、
むしろ仏教を嫌っていた事を知っていた、御所出入りの魚屋が、
火葬は天皇のお心にそむくと訴えて回ったのです。
これには朝廷も動かされましたが、土葬では納骨堂である深草北陵に葬ることは出来ず
今更新たな陵墓を築く事も出来ず葬儀は仏式で行い、
既に天皇陵の伝統のある泉涌寺に土葬で葬られるようになったようです
では泉涌寺の中へと・・・先ずは境内の地図をご覧ください
【月輪陵】は泉涌寺の一番奥にある事がお分かり頂けると思います
いよいよ右上の写真の白い塀の奥に入り口が見えますでしょう
前の写真を突き当たった処が、ここです、最初に掲げた制札です
素晴らしい雰囲気の【御陵】でしょう、京都の御陵巡りをしてきましたが最高
この御陵の中がどのようになっているのか興味がありましたが、写真をネットで発見
見ている限りでは、下の写真の屋根が上の写真のこの屋根かな~・・分かりませんが
私も今回いろいろ調べていて初めて【月輪陵】の内部を見ることが出来ました
第87代四条天皇から第120代仁孝天皇までのご紹介は後日、歴代天皇順に
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