誠に・誠にお恥ずかしい話から入らなくてはなりません
今から19年前に買った「碑の頌」と云う〈京都新聞社」発行の本
20年近く経つとネットで画像が拾えなくて、 急きょマイカメラで写しました
何がお恥ずかしいのかと云うと、本箱の中で眠っていたのです
19年ぶりに夢から覚めたんです〈お前が読まんとほっていたんやろ〉
この本には京都・滋賀の石碑を46カ所尋ね歩く紀行文と写真です
文は「濱千代清」さん、写真は「中田 昭」さんです
今回紹介するのは、その二番目に出て来る「米五升」なんです
京都の阿彌陀寺にある、芭蕉の句碑【春立や新年ふるき米五升】なんです
【春立や新年ふるき米五升】の句碑です 〈私が現地で写してきた写真ではありません〉
この章には、何故芭蕉の句碑が京都の阿彌陀寺にあるのかから入って行きます
この句最初は「似合しや新年ふるき米五升」だったらしいのです、ではその背景にあるものから・・・
芭蕉は当時新進気鋭の宗匠桃青として俳壇に頭角をあらわし、いよいよと云う時に・・・
38歳の時、華やかな江戸日本橋から、侘しい深川へと隠れてしまった
しかし門人たちは芭蕉から離れることもなく、米などを差し入れていた
その様な時期での発句が最初の「似合しや新年ふるき米五升」なのである
新年ふるき米五升の下の句は、門人たちの心を読んだものだが・・・
芭蕉も後に、上の句の「似合しや」は良くないと考え「春立や」に変えている
侘しい正月の身を卑下している様にも、自嘲している様にも人から・・・
受け取られる恐れがあると感じたのでは、と濱千代さんは言っている
私がこの本の「米五升」の章で感動し、驚いたのは子の後なんです
ではここからは濱千代清さんの原文を掲載する事に致します
~なぜ「春立や」の句碑がこのお寺に建つかは調べてすぐわかった。
芭蕉の名が全国的に知られるようになったのは、
その没後七十年ごろからの俳僧蝶夢の蕉風復興運動による。
蝶夢は芭蕉の全著作や最初の芭蕉伝を絵入りで刊行し、
諸国を行脚して俳聖芭蕉を説いた。
それは阿弥陀寺支院帰白院の住持を辞して、
洛東岡崎に五升庵を結んでからの活動であった。
五升庵の名は、親交のあった伊賀上野の俳人桐雨から、
入庵記念にと芭蕉自筆短冊「春立や新年ふるき米五升 ばせを」を
贈られたことによる。芭蕉の風雅を慕ってやまなかった蝶夢にとって
この上ない宝物となったことであろう。
それは所蔵者が変わったが現存している
阿彌陀寺には蝶夢の墓がある。~
私なんかは、芭蕉と云えば活躍していた頃から有名人だと思っていた
芭蕉を慕って、その作品を全国を行脚し説いて回った「蝶夢」・・知らなかった
では・・・折角なので「蝶夢」について調べてみました
【芭蕉】寛永二一年〈1644】~元禄七年〈1694〉関ケ原の合戦より44年後に誕生
【蝶夢】享保十七年〈1732〉~寛政七年〈1796〉因みに芭蕉とは88年の差がある
さて【蝶夢】は京都法国寺に入り、9歳で得度し、13歳で俳諧を志す
宝暦年間〈1751~1763〉阿彌陀寺帰白院の住職になっている
この間、宝暦九年〈1757〉に敦賀に赴き、地方俳諧に接し、都市風俳諧から転じる
芭蕉70回法要に大津の義仲寺〈芭蕉墓所〉を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓う
35歳の時、阿彌陀寺帰白院の住職を譲り、洛東岡崎に「五升庵」を結ぶ
その後、義仲寺翁堂などを再建して、1793年に芭蕉100回忌を盛大に成し遂げた
また松尾芭蕉の遺作を研究し刊行した【芭蕉翁発句集】【芭蕉翁文集】【芭蕉翁俳諧集】の
三部作は、はじめて芭蕉の著作を集成したものである。
【芭蕉翁絵詞伝】は本格的な芭蕉伝として有名。
俳書を収めるために義仲寺に設けた粟津文庫も蝶夢和尚の功績である。
芭蕉の名声が今日有るのも【蝶夢】和尚の功績である事を忘れてはならない
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます