前回の第二代【綏靖天皇】から第九代【開化天皇】までが・・
〖欠史八代〗と云われていて、天皇実在しない説を云うのです
それは、「日本書紀」や「古事記」に名前は記されているが
その政治的な業績やエピソードが殆ど残されておらず・・・
実在しなかったのであろうという見方が一般的になっている。
因みに第十代崇神天皇になると、戸籍調査を行った事や、
民衆に税を課した等、急に具体的な内容が記され始めるのです。
この他に根拠としては、皇位継承が挙げられています
この欠史八代の期間中は、全て父から子への相続なのです
後の皇位継承では、兄弟による相続が多く行われるのに対して、
親から子への相続が続くと云うのが、ちょっと不自然と云うわけです。
しかし、ここに「大本営認可」として【欠史八代抹殺事件】があります。
実在していたにも関わらず抹殺されてしまった天皇たちを【欠史八代】と・・
いかにして消し去ったかは、現在でもわかっておらず、現在記録の復興作業中とか??
それまでは欠史八代の実在は常識であったが、黒幕〈GHQと云う説が最も有力〉が
その部分の事績を消去し、系譜だけにしてしまったため、あたかも創作された・・
天皇のごとく情報操作されてしまったのである・・との説もあるのでである。
だから、私的には実在云々は気にしないで天皇陵巡りを続けますよ~
前振りが長くなりましたが・・・第三代【安寧天皇陵】へとまいりましょう
第三代【安寧天皇】は「綏靖天皇」二十五年に皇太子の地位につき
同三十三年に父・綏靖天皇の崩御に伴い即位し、都を片塩浮孔宮に移す。
在位は三十八年で「古事記」によると、四十九歳で崩御とあり
「日本書紀」によれば、五十七歳で崩御されたとある。
系譜が分るのみで、天皇の事績については伝えられていない
お待たせいたしました・・・安寧天皇陵へとご案内しましょう
神武天皇陵を挟んで、地図上では少し上に【綏靖天皇陵】があり
その下に【安寧天皇陵】がありました、正式な御陵の名称は・・・
【畝傍山西南御陰井上陵】〈うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ〉
ナント長い名称でしょう・・・尚・第13代成務天皇陵まで奈良が続きます
特に、初代【神武天皇】、第三代【安寧天皇】、第四代【懿徳天皇】は
御陵の名称の頭に【畝傍山】が付いています
では次回【懿徳天皇陵】でお会いいたしましょう
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