私の誕生日の昭和18年の出来事・・・
山本周五郎は【小説 日本婦道記】で第17回「直木賞」に選ばれるが辞退している
先日例によって「Bookoff」にて新潮社発行【山本周五郎全集2】を買ってきた
この中には「小説 日本婦道記」「柳橋物語」「むかしも今も」が入っている
早速、【小説 日本婦道記】を読み始めているが・・素晴らしいに尽きる
文章の丁寧さ、やさしい文体、改めて感じたのが「ひらがな」が多い事です
日本婦道記の中には1作⒑~16ページの割合で17作品の短編が入っている
ここでその最初の「松の花」の冒頭の部分を紹介しよう
松の花
~北向きの小窓のしたに机をすえて「松の花」という稿本に朱を入れていた
佐野藤右衛門は、つかれをおぼえたとみえてふと朱筆をおき、
めがねをはずして、両方の指でしずかに眼をさすりながら、庭のほうを見やった。
窓のそとにはたくましい孟宗竹が十四五本、二三、四五とほどよくあい離れて、
こまかな葉のみっしりとかさなった枝を、澄んだ朝の空気のなかにおもたげに垂れている。
藤右衛門はつやつやとした竹の肌に眼をやりながら、肩から首すじへかけて
網をとおしたようなつかれの凝をかんじた。~
とまあこの様な文体なんです、平仮名が多い事によって文章が優しく見える
日本婦道記にふさわしく、女性の柔らかさ、優しさを平仮名で表現しているのかな?
次に入っている【柳橋物語】を読み比べると云うか、見比べて頂こう
柳橋物語
~青みを帯びた皮の、まだ玉虫色に光っている、活きのいいみごとな秋鯵だった。
皮をひき三枚におろして、塩で緊めて、そぎ身に作って、鉢に盛った上から
針しょうがを散らして、酢をかけた。
見るまに肉がちりちりと縮んでゆくようだ、心ははずむように楽しい、
つまには、青じそを刻もうか、それとも蓼酢を作ろうか、
歌うような気持でそんなことを考えていると店のほうから人のはなし声が聞こえて来た。~
心持か?最初の「日本婦道記」の方が平仮名が多いような気がする
この様に繊細で、味わい深くて、間のとり方が独特なテンポで表現する・・周五郎タッチ?
読みながら、酔いしれて行く周五郎文学に久しぶりにと云うか、今回初めて遭遇した感有り
山本周五郎は明治36年〈1903〉6月22日、山梨県北都留郡初狩村に生まれている
7歳の時、当時の東京府北豊島群王寺町の豊島小学校に入学
8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水する大被害を受け、神奈川県横浜に転居する
小学4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志願するようになる
この時の事が逸話になって残っている
~四年生の時、国語の宿題に作文が課された、周五郎は或る級友と楽しく遊んだ事を書く
その作文を提出した翌日、教室に掲示されると、その級友が「この作文は嘘だ」と、
「俺はこいつと遊んだ事もない」と言い放ったので教室内が騒然となった
何も言い返せなくって立ち竦んでいる時、担任がやって来て事に次第を聞き
文章を読み返した担任が「こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい、将来小説家になれ」と~
大正5年〈1916〉小学校を卒業、それと同時に東京木挽町〈現・銀座〉にあった
質屋の山本周五郎商店に住み込みで奉公にあがる
この時の「山本周五郎商店」の御主人の名前が、そのままペンネームになっている
大正15年・昭和元年〈1926〉「文藝春秋」に【須磨寺付近】が掲載され文壇出世作となる
昭和6年〈1931〉尾崎士郎、鈴木彦次郎の推輓により講談社で時代小説を書くようになる
それまで博文社の「少年少女 譚海」を中心に少年探偵、冒険活劇を書いていたのが
【キング】〈講談社〉に度々時代小説を執筆するようになる
当時の大衆雑誌【キング】は140万部と雑誌界の首位にあった
最後に山本周五郎が死の前々日に妻に打ち明けた言葉を紹介しよう
~山本周五郎が、すでに布団に入って寝ていた、きん夫人に・・・
「かあさん、2時間ばかり起きて話を聞いてくれ」と言葉をかけたのは
昭和42年〈1967〉2月12日の深夜の事だった、きん夫人が目を開けると話を続けた
「自分はほんとうに幸せがった。かあさんのおかげで思うように仕事が出来た
編集者にも恵まれたし、食べたいものも食べたし、飲みたいものも飲んだ
ぼくほど幸せなものはない」さらに、しみじみした調子でこんなことを付け加えた
「ぼくはきみと結婚するとき、きっと日本一の小説家になってみせるつもりだ、
と誓ったっけ。もちろんその決心に変わりはない。
そのつもりで一生懸命がんばってきたのも事実だ。
しかし、残念なことに、とうとう日本一の小説家にはなれなかったなあ!」
きん夫人に感謝のことばを伝えた翌日、山本周五郎は倒れた。
原稿をとりにきた新聞社の記者と打ち合わせをしたあと、
大儀そうな様子でトイレへ行こうとするのを夫人が助けようとすると
「それだけは世話になりたくない」と言って独りで歩いていく。
なかなか戻らないので夫人が心配して見にいくと、トイレの中で倒れていたのである
すぐに近所の医師が往診に駆けつけて治療し、その夜はいったん眠りについた。
だが、翌朝になって長男が周五郎の体にさわると、なんとなく冷たい。
再び医者が呼ばれて、横になっていた体をまっすぐにしようとしたとき、
喉がゴックンと鳴って、それが臨終の合図だった
いい作品を書くこと以外、何物にも執着なし。
自己に厳しく勉強を重ね、最後まで現役の文士であることを貫いた生涯。
傍らの机の上には、書きかけで「、」で中断した原稿用紙が置かれていた。~
この様に結ばれている・・・生涯、あらゆる賞の受賞を辞退し続けた山本周五郎
36年前にドイツ文学者で文芸評論家の小松伸六が山本周五郎について・・・
~むかし、大佛次郎をお正月作家とするなら、
山本周五郎は歳末作家ではないだろうかと私は書いた。
年の瀬を必死に生きる庶民の哀歓を山本さんほど
よく描いている作家はないと思ったからである。~
なんと短い言葉で、山本周五郎の作風を言い当てている事か
後日、山本周五郎の【日日平安】の中に収録されている『城中の霜』を紹介します
詩吟で日本一になった頃の橋本佐内に関する想い出と共に
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