花園天皇は政治にはあまり興味なく、もっぱら学問・芸術に熱中されました
と云うのも花園天皇の約10年間の在位中、前半の5年間は父・伏見上皇が院政を
後半の5年間は義兄の後伏見上皇が院政を行いましたので政治より書画の鑑賞や
華道の研究などに力を注ぎました。『花園天皇宸記』と云う日記を残していて、
その学識・識見の高さから、歴代の天皇として最も優秀だったとと評価があります。
諡〈おくりな〉の「花園」は天皇が譲位後、仁和寺近くの花園萩原殿を離宮にしていたから
またこの離宮を禅寺に改め、祈願所として妙心寺を建立しています。
花園天皇はこの地で亡くなっているのでこの地に陵墓が置かれるのが自然なのに??
何故洛西から洛中を越えて、洛東の地に運ばれたのでしょうか?
調べてみると、洛西は花園天皇の持明院統と対立する大覚寺統の本拠地なんです
ましてや、この当時青蓮院門跡の門主は持明院統系列の皇子が務めていたから、
その様な縁もあって、青蓮院門跡に葬られたのでしょう、と云う事です
では【十楽院上陵】〈じゅうらくいんのうえのみささぎ〉を紹介します
粟田口から知恩院へ抜ける中間にある石段を上がるとここへ・・ただし4時半以降と土日祝は閉門です
案内表示の門を挟んで左側に制札が、御陵の名称は、昔この地に有った十楽院と云う寺が由来となっている
さすが青蓮院門跡ですね・・・門には菊の御門が入っていました
門を潜り抜けると、緩やかな坂道が続きます 二分程歩いて行くと前方に石段が見えてきます
この石段を真っすぐ登って行くと右にカーブして行きます・・・拝所の石の鳥居が見えてきます
石には【花園天皇十楽院上陵】〈はなぞのてんのうじゅうらくいんのうえのみささぎ〉と刻んで あります
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