先ず持ってこの度の豪雨被害、心よりお見舞い申し上げます。
「集中豪雨」
この言葉がメディアで使われたのは、昭和47年の私達の地元災害が最初だと言う。
当時小学生だったが、通学路の唯一の橋が決壊してしばらく休校になったくらいの記憶しかない。
その後、昭和58年に甚大な災害に見舞われた。
大学1年の夏休み。始発の新幹線で帰郷するため東京駅に着いたは良いが、山陰本線が運休という。
なんでよー、とぶつぶつ言いながらアパートへ帰ってテレビを見ると、とんでもないことになっている。
電話も通じない。
なんとか迂回で帰省でき、災害調査のアルバイトをしたが、もう無茶苦茶である。
今でも記憶にあるが、ちょうど写真の道を直進していたら「あ!道がない‼️」
危うく死ぬところだった。
当時の市長が自衛隊の派遣を即座に行わなかった。それでもこれだけの行方不明者が出ると思い腰を上げた。
後輩の妹が土砂に埋れて、遺体で。。。。中学2年生だった。
その後、61?、63年と水害に見舞われた。63年の時は地元新聞社の子会社に就職しており、タウン誌制作を担当していたが、支局なので同じフロアに同居していたから報道陣としてかりだされた。
孤立する集落。道無き道を這い上がっていく記者。そのメモとフィルムを受け取り現像して本社へ送信する。
その記者は、避難所で「あんたもここまで来るのに大変だったろう」とおにぎりを差し出されたが、空腹にもかかわらず「体力勝負なので食べてきましたから、皆さんでどうぞ」と。ヘリコプターを使う全国紙なんか簡単な取材をするもんだ、と心底思った。
その後市長が代わり、河川を拡幅、川底を深く掘り、ダムを作った。
2年前の今頃、周辺地域はやはり河川の氾濫で甚大な被害を受けたが、我が市はスレスレで凌いだ。
自然災害。今に始まった事ではない。太古の昔からの戦いだ。
コロナ渦もそうだが、人災であろうが天災であろうが、打つ手は経験から来る先手。
だが、その先手を打てないもどかしさはどこにあるのだろう。
地球と言うとてつもない生命体は、何に怒りを感じているんだ?