十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図
前田秀一 プロフィール
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3)織田信長のキリシタン受容 -飛躍
(1)織田信長の宗教観
「彼(織田信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教徒的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは、当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で(身分の)高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。何びとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少し憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
彼(織田信長)の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた。彼ら(仏僧ら)は彼(父)が回復するであろうと保証した。しかるに彼(父)は数日後に世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につきさらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言いそして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた。」18)(p103)
「今まで彼(織田信長)は神や仏に一片の信心すら持ち合わせていないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、そのすべての宗派の者どもは意気消沈していた。ある意味で、デウスはその聖なる教えの道を開くために彼(織田信長)をそれと気づくことなく選び給もうたようである。」20)(p11)
(2)織田信長のキリシタンへの関心
永禄12年(1569)3月13日、高槻城主・和田惟政の尽力でルイス・フロイス(日本滞在:1563~1597年没)は織田信長に接見を許され、織田信長と問答した。
「彼(織田信長)は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。司祭(ルイス・フロイス)は、日本にこの救いの道を教えることにより、世界の創造主で人類の救い主なるデウスの御旨に添いたいという望みのほか、司祭たちにはなんの考えもなく、なんらの現世的な利益(を求めること)なくこれを行おうとするのみであり、この理由から、我らは困苦を喜んで引き受け、長い航海に伴ういとも大いなる恐るべき危険に身をゆだねるのである、と返事した。」18)(p153)
「さらに、司祭は、自分が都に自由に滞在してもよいとの殿の允許状を賜りたい。それは(殿が)目下、私に示すことができる最大の恩恵のひとつであり、それにより、殿の偉大さの評判は、インドやヨーロッパのキリスト教世界のような、殿をまだ知らない諸国にも拡がることであろう、と恩寵を乞うた。これらの言葉に(接し)、彼(織田信長)は嬉しそうな顔付をした。」18)(p155)
「御朱印 すなわち信長の允許状
伴天連が都に居住するについては、彼に自由を与え、他の当国人が義務として行うべきいっさいのことを免除す。我が領する諸国においては、その欲するところに滞在することを許可し、これにつき妨害を受くることなからしむべし。もし不法に彼を苦しめる者あらば、これに対し断乎処罰すべし。
永禄十二年四月八日(1569年4月27日)、(これを)したたむ
その下には、『真の教えの道と称する礼拝堂にいるキリシタン宗門の伴天連宛』とあった。さらに信長公は公方(足利義輝)様に対し、自分はすでに朱印を伴天連に授けたから、とのも制札なる允許状を彼に授与されるがよい、と言わしめた。そして和田殿が成した良き執成しにより、これはさっそく交付されたが、その訳分は次のとおりである。
公方様の制札
伴天連が、その都の住居、また彼が居住することを欲する他のいずれかの諸国、もしくは場所では、予は他の者が負うているいっさいの義務、および(兵士を)宿営(せしめる)負担から彼を免除する。しこうして彼を苦しめんとする悪人あらば、そのなしたることに対し処罰される(べし)。
永禄十二年四月十五日(1569年5月1日)、(これを)したたむ。
これらの允許状に捺印された後、和田殿はただちにそれらを司祭の許に届け、爾後彼がこれについてどうすべきかを忠告した。」18)(p159)
(3)安土セミナリオ(神学校)建設
「オルガンチーノ師は、信長が異常な満悦をもって宮殿の建築を自慢し、身分ある武将たちが彼に迎合するために、安土の新しい市(まち)に豪華な邸宅を造りたがっていることがいかに信長の意向に添ものであるかを知っていたので、(同地で)適当な場所を入手することを切望していた。なぜなら同所には、日本中の重立った武将たちが居住しており、信長を訪問し、彼と種々の用件を談合するために各地から参集する身分ある武士や使節が後を絶たなかったので、短期間にデウスの教えを知らしめ弘布するのに、またイエズス会が日本の遠隔の地方にも知られるために絶好の地と思われたからである。なおこれ以外に、信長の居城とその政庁を構成する多数の名だたる武将の間に住まうことによって、(イエズス)会が信用と名誉を獲得し、威信を高めることになる(と思われた)。」20)(p12)
「信長には、そこが伴天連たちに便利であり適した場所であると思われたので、直ちにそれを与えることに決めた。オルガンチーノ師は、聖霊の祝日〔1580年5月22日(天正8年4月9日)〕にその土地を深い喜びのうちに受理し、それが我らの宗教とキリスト教の信仰を高揚するのに最も適した道であることを疑わなかったので、司祭もすべてのキリシタンも、それをデウスの偉大な恩恵として受けたのであった。
なかでもこの事業で示された(高山)ジュスト右近殿の働きぶりは特に際立っており、彼は四日の道のりにある(摂)津の国から、彼の領民を呼び、その支出を(我らが)負担することを断わって(彼らをして)仕事に従事せしめた。
このように事業はきわめて熱心に開始され、キリシタンたちの目覚ましい援助により、わずかの間に信長の宮殿を除いては、安土においてもっとも美しく気品のある邸のひとつとして完成した(1581年7月)。
織田信長の配慮で実現した安土セミナリオでは、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの「法令指針」20)(p22)に基づき、「階下に外部の人を宿泊させるために、はなはだ高価で見事に造られた茶の湯の場所を備え、きわめて便利で、清潔な良質の木材を使用した座敷が造られた。」20)(p15)
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