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十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図
はじめに
「その比(ころ)、天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶湯を望む。その中に御茶湯の上手ならびに名物所持の者は、京、堺の町人等も大和大名に等しく御下知を下され、ならびに御茶湯座敷へ召され、御咄(はな)しの人数に加えらる。この儀によって、町人等、なお、名物を所持す。」1)(p12)
天正16年(1588)、山上宗二(1544~1590)は師と仰ぐ千利休(1522~1591)の秘伝を書き留めた『山上宗二記』の中で、16世紀の茶の湯の流行の様子をこのように記した。「数寄の覚悟は禅宗を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ。」と書き、大徳寺の伝統を伝える南宗寺に集う茶人たちの規範となっていた。
十六世紀という時代の背景は、応仁・文明の乱(1467~1477年)後の世相を引きずって、まだ、戦乱の絶えない激しい群雄割拠の世にあり、そのような中イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(日本滞在:1549~1559)によりキリスト教という異文明が衝撃的に到来した〔天文19年(1550)12月堺上陸〕2)(p33)。
イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲス(日本滞在:1577~1610)は「数寄と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は、有名で富裕な堺の都市にはじまった。その都市は日本最大の市場で、最も商取引の盛んな土地であり、きわめて強力なので、以前には、信長および太閤までの時代には、日本の宮都と同じように、長年の間、外部からの支配を認めない国家のように統治されていて、そこはすこぶる富裕で生活に不自由しない市民やきわめて高貴な人たちが住んでいる。彼らは相次ぐ戦乱のために各地からそこに避難して来ていた。その都市で資産を有している者は、大がかりに茶の湯に傾倒していた。また日本国中はもとより、さらに国外にまで及んでいた商取引によって、東山殿のものは別として、その都市には茶の湯の最高の道具があった。」3)(p605)と、日本の茶の湯の文化をヨーロッパに詳細に紹介した。
日本人キリシタンの柱石で、有能な戦国大名でもあった高山右近は、禅宗の一様式と言われた茶の湯をたしなみ、千利休の高弟七人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた4)。その後、牧村長兵衛、蒲生氏郷および織田有楽など利休七哲に数えられた茶人で大名でもある3人が洗礼を受けキリシタンになった。
十六世紀、世界的な大航海時代の潮流の中で、日本文化の規範である茶の湯が戦国時代の混乱期に異質なキリスト教文明とどのように向き合い受け止めていったのか、茶の湯文化の側面から茶会記録『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書にキリシタン受容の構図を追ってみた。
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