人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-41

2022年06月11日 19時40分58秒 | 学習

⑮イエスの復活

―宗教経典―

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)

キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、私達は神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達はすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったようにキリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.14 ~ 22(キリスト教)

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず,
罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私達の祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

私達は、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私達を驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私達の心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイ
エスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改め
が、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24.1 ~ 53(キリスト教)


―み言選集―

イエス様は、十字架上で民族のために祈祷されたのであり、自分は死んだとしても責任を完遂するという心をもっただけでなく、死を超越して神様のみ旨を心配されたので、神様はそのようなイエス様を復活させることができたのです。

ですから、復活されたイエス様に対して、サタンはあえて讒訴できませんでした。イエス様のように、皆さんもそのような内容の価値をもった人格体になれば、サタンが讒訴できません。
(2-141、1957.3.17)

サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が4000 年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。
それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を
行使し得る条件が成立したのである。

ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。そこで、サタンがその最大の実
権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ11・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.1.1

イエス様は、死んでからもばらばらになった弟子たちを心配したのであり、墓の中の三日間でも、この弟子たちを永遠に守ろうという心をもったので、復活されたのちにガリラヤの海辺で弟子たちを探し回られたのです。今日の私達が人間的に考えてみれば、責任感のなかった彼らに対してイエス様がどうしてそのようにできるのだろうかと考えやすいのです。

困難な場で排斥した弟子たちですが、イエス様は復活後にまずガリラヤに訪ねていかれ、自分の責任を遂行し始めました。このように、死の峠を越えるとき、変わらない弟子として立ててくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私達が
手本とすべき人格です。

それだけではありません。当時の弟子たちと、それ以降の大勢の聖徒たち、2000 年が経過した今日の私達まで責任をもたれたことを知らなければなりません。救援の歴史が全体の歴史でした。天のみ旨は全体を救援することなので、イエス様は全人類まで責任をもっているのです。
(1-38、1956.5.16)


主には、ユダヤの国を中心としてサタンの国を奪ってきてサタンを屈服させなければならない責任があるのですが、4000 年築いてきた基盤を完全に失ってしまい、国を失い、教会を失い、選んだ人をすべて失い、一人ではみ旨を成し遂げられないことは当然のことです。ですから、神様は第2方案を立てざるを得なかったのです。

その基盤を失わずに死ななければ、霊と肉を中心として、国と世界を神様のみ旨の中に、サタン世界とサタン主権を奪って天の国に帰っていくにもかかわらず、その基盤がなくなったので、仕方なく神様は第2次的な方案の霊的救援だけでも成立させることができる道を築かなければなりませんでした。

それで、イエス様を十字架で亡くなるようにすることによって霊的救援の道を開くことができるようになったのです。これを皆さんは知らなければなりません。
(74-153、1974.11.28)

12,ムハンマド

ムハンマドは、多神教が盛んなアラビアに暮らしていたが、唯一神の真理を発見し、神様の使徒として召命に応じた。ムハンマドは幼いころから聖書の内容を知っていたが、彼が暮らしていた地域のユダヤ人やキリスト教徒たちは、多神教を信じる支配部族に立ち向かう情熱や確信が不足していたため、彼には特に印象的ではなかった。

ムハンマドは、メッカの道に出て、誰もが聞こえるようイスラームのメッセージを宣布した。彼は迫害を受けて亡命生活をしたが、支持者たちを確保することができた。ムハンマドと彼の同僚たちは、支配的な宗教とぶつかり、新しい信仰を擁護してくれるメディナで歓迎された。

ムハンマドは、神様に献身的で、悪に対しては少しも妥協することを知らなかった。文鮮明先生は、彼を卓越した宗教創始者の一人として尊敬する。


①ムハンマドに下さった神様の啓示

―宗教経典―

予言者よ、まことにわれはなんじを、証人として、吉報の伝達者・警告者・かれのお許しのもとに神に招く者として、また光明をゆきわたらせるともし火として、つかわしたのである。
クルアーン33.45 ~ 46(イスラーム)

ムハンマドは……神のみ使いであり、また諸予言者の最後者である。(注47)
クルアーン33.40 (イスラーム)

神は、黙示によるか、帳(とばり)のかげから、または天使をつかわしたまい、命を奉じて、そのおぼしめしのことを啓示なさるほか、人間に語りかけたもうことはない。まことにかれは、至高者・英明者であられる。このように「われは、わが命によって精霊をなんじに下した。なんじは、経典が何であるか、また信仰がどんなものかを知らなかった、しかしわれは、このコラーンで、わ
がしもべのうちわれの望む者を導く一つの光りとした。なんじは直き道に人びとを導く。神の道、それに、天にあり地にあるよろずのものは属する。
クルアーン42.51 ~ 53(イスラーム)

読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもう方、何も知らなかった人間に、教えたまえる方であられる。
クルアーン96.1 ~ 5(イスラーム)

それで私はそれを読み、彼は私のそばを離れた。そして、私は眠りから目覚め、その言葉が私の心の中に鮮明に残っていることを知った。今私は、神の被造物の中で、恍惚な詩人や惑わされた者たちより憎悪する存在がないことを知った。私は彼らを見ることすらできなかった。

それが私自身なのか、詩人やあるいは惑わされた者なのか、クライシュ部族は決してこのような事実を私に話してくれないだろうと私は考えた。私は山頂に登っていき、自ら下に身を投げて命を絶つことによって安息を得ようと思った。それでそうすることにして山の中腹に来たとき、私は天からある声を聞いた。「おお、ムハンマド! あな
たは神の使徒であり、私はガブリエルである」。

私が顔を上げて声の主を見ると、あ! ガブリエルが地平線に腰をおろしている人の姿で現れた。彼が言うには、「ああ、ムハンマド! あなたは神の使徒であり、私はガブリエル」。私は前にも後ろにも動かずに立ったまま彼を見つめた。そして、彼から私の顔の向きを変えて天を見つめ、再び前のように彼を見つめた。

「私かハディージャに『ああ、悲しいかな! 詩人なのか、惑わされた者なのか』と言った。彼女は再び言った。『私はそのようなものから神に保護を求めます。おお! カースィム、神はこのようにあなたを放っておかれません。

その方はあなたの真実さと信頼、品性と親切さを知っていらっしゃるからです。おお、愛するあなたよ! このようになったのを見ると、あなたがおそらく何かを見たのですね』。私はそうだと答えた。そして私が見たことを説明してあげた。すると彼女は言った。『お喜びください。私の親戚の息子よ! そして立派な心をもってください。(注48)明白に神のみ手がハディージャの霊魂にあるので、私はあなたがこの民の使徒になることを希望します』」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

 

―み言選集―

聖人は、死の場でも自分の命を守って生きることができる力を開発しなければならず、そのような能動的な力をもたなければなりません。このような世界主義的な内容をもっていてこそ、聖人になることができるのです。このような事実をおいて考えてみるとき、ソクラテスよりはムハンマドが四大聖人の中の一人にならなければなりません。
(39-31、1971.1.9)

ムハンマドも同じです。イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構成し、求めてきたのです。
(39-316、1971.1.16)


②イスラームを立てるために迫害と苦難を克服したムハンマド

―宗教経典―

筆により、また書いたものによって誓う、なんじは、主の恵みによって気違いではない。いや、まことになんじには、尽きせぬ報奨があろう。まことになんじは、崇高尊貴な素質である。なんじらのいずれが気違いであるか、やがてなんじは見よう、かれらも見るであろう。まことになんじの主は、道から迷い去った者を、最もよく知りたまい、また導かれている者を、最もよく知りたもう方であられる。
クルアーン68.1 ~ 7(イスラーム)

信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。……神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。

クルアーン33.9 ~ 25(イスラーム)

使徒が神の戒めを受け、公にイスラームを伝え始めたとき、私が聞いたところでは、彼が彼らの神々をとがめる前までは、人々の態度は、退くことも彼に対抗することもなかった。

しかし、彼がそのようにすると、神がそのような悪から保護した者たち以外に、彼らはとても攻撃的に急変し、一致して彼を、彼らの敵として扱った。しかし、保護された者たちは数的に絶対劣勢だった。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

―み言選集―

今日、聖人という班列に立った人は、神様を中心とする生活を夢見た人たちであって、人間の理想を中心とする生活を夢見た人は一人もいません。ですから、聖人は宗教の宗主だったのです。イエス、孔子、釈迦牟尼、ムハンマドのような人はそうでしょう?

彼らは、人間の生活を夢見た人たちではありませ
んでした。人間の生活よりもっと次元の高い理想的な生活の本体であられる神様がいることを知ったので、天を中心として理想を描いてきた方たちではないですか。
(61-67、1972.8.27)


第10章終末論とメシヤに対する希望

1.苦難

すべての宗教では、神様の決定によって人間の歴史が完成し、現在を飛び越える一時を期待する。そして、罪悪が滅亡し、善が勝利するものと信じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの経典の教えの中で重要な特徴は、千年王国の建設である。

キリスト教の出発は、イスラエルでの千年王国運動であると言うことができる。そして、ヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教なども、やはり道徳と宗教の退潮は、人間が更生され、純化する新黄全期の前兆として、この時、世界が宇宙的循環期に差しかかることを教える。

千年王国に対する信仰は、迫害される人たちをして、悪の制度がついに終末を告げ、彼らを新しい信仰革新運動と、さらには革命的運動に導くという希望をもたせることによって、社会に影響を与えられる。
ローマの暴政に抵抗するユダヤのバル・コクバの乱から中国の太平天国の乱と、ヨーロッパの植民支配から独立を要求したアフリカ独立教会の主張に至るまで、一連の運動は、政治、経済的自主権を促進した。

文鮮明先生は、今私達は末世に生きており、天国が近づいていると宣布しながら、それと類似した切迫感と可能性に身をおいていると教える。

しかし、このような千年王国に対する信仰は、人類を独善的であり独断的に導き得る否定的な側面ももっている。文鮮明先生は、復帰過程の原則によって末世の審判と苦難は、神側の人たちにまず訪れ、その強度もやはり不信者よりも大きいと警告する。末世や世の終末に関する教えは、下記に見るように3段階の類型で示される。

第1に、各種犯罪および罪悪と混乱が幅を利かせる苦難の時代、第2に、神様が決定的に参与し、罪悪の勢力を滅亡させる最後の審判の時代、第3に、いわゆる千年王国と呼ばれる前例のない幸福と平和の時代がそれである。苦難の期間、戦争、飢饉、疾病、自然災害、そして広範囲な混乱が人間を苦しめるだろう。一般の大衆は、快楽主義と物質主義に陥りながら道徳、倫理的衰退が現れるだろう。宗教もやはり創始者の教えを忘却したまま、自身の利己的目的のもとに合理化することによって崩れ落ちるだろう。文鮮明先生は、人間がこのような苦難に直面するようになり、その根は人間の堕落にあると明らかにしている。先生は、末世は堕落の結実を収める時だと教える。

ある経典は、最後の苦難の時代に獣、反キリスト、あるいはダジャル(Dajjal)など、神様の実体を否定し、大勢の人を偽りの真理で惑わす存在が現れるという。反キリストが誰なのかを糾明する努力があったが、時として教会の反対者に目星をつけながら、大部分は結実を見ることができなかった。

文鮮明先生は、歴史の暗闇の勢力、背後で作用するサタンの活動を見つけ出し、物質主義や無神論的共産主義の出現だけでなく、神様の人を攻撃する悪魔の術策を暴露する。
それにもかかわらず、先生は、イエスに反対する最初の人たちはイエスの弟子たちであり、したがって人を非難するよりも、私達が反キリストではないかと自分を探ってみなければならないと指摘する。


①末世に現れる信仰と道徳の堕落

―宗教経典―

後の悪世の生ける者たちは善根が少なく、高慢心が多く、衣服・臥具などの供養を貪り、不善根を増し、解脱から遠く離れているので、教化することが難しい……。(注1)
法華経13(仏教)

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。

また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
テモテヘの手紙二3.1 ~ 5(キリスト教)
(信仰心が深い)知識が消え、地震がとても多くなり、時間がとても早く過ぎていき、苦痛が現れ、殺人者が増加し、お金があなたの中にあふれる時まで、その時は確立しないだろう。
ブハーリー・ハディース2.17.146(イスラーム)

その時間が近づいてきたので、その中にはイスラームという名前だけが残り、コーランの単純な姿だけがある。その時、ムスリムたちのモスクは、知識と礼拝がない所となり、知識人たちは天の下で最も卑賤な人になり、論争と闘争がやまないだろう。そしてそれは、彼ら自身に帰っていくだろう。
ハディース(イスラーム)

ズォチュフのラビ・ミクハルが言った。「ある日、私達が師であられる7日の光、イスラエルのラビ、バアル・シェム・トーヴと旅をしていた。師は、午後に祈りのために森に行かれた。ところが、突然、木に頭をぶつけて大きく泣いていらっしゃるではないか。あとで理由を尋ねた、師が言われるには、「私が聖霊を迎えたとき、私は主が来られる前に近づいてくる未来を見た。ハシディックのラビたちは、数的には相当に増加するが、彼らによって贖罪が延長されるだろう。彼らが人々に根拠のない憎悪と心情の分裂をもたらすからである」
ハシディックの説話(ユダヤ教)

人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8(キリスト教)

メシヤの伝令が来る時に起きることは、次のようなことだ。憶測が横行し、欠乏現象は極限に達し、ぶどうの房は熟していないのにぶどう酒は高く取引され、国家は異邦人の国に転落したのにとがめる者がいないだろう。学園は偶像崇拝の場となり……。

律法学者たちの知恵は活気を失い、罪を避ける者はかえって軽蔑され、ゆえに真理はそのどこにも発見されないだろう。子供たちが大人の恥となり、大人たちは子供たちの前に立って怒りを表すだろう。その世代の顔は、犬のようにあつかましく、子供たちは父母たちの叱責を眼中にも置かないだろう。私達は誰に頼るのか。天にいらっしゃる父以外にまた誰がいるのか。
ミシュナ、ソーター9.15(ユダヤ教)

ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。

彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。

その後彼らは地上に再び正義を立でるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な
時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ4.24(ヒンドゥー教)

ちょうどその時、人々は十の善い行いの名称を全く聞くことはなく、ただ十の悪い行いが世間にみちみちるであろう。……このとき人々が極めて悪い行いをなすことができ、父母に孝行せず、先生や先輩を敬わず、忠義をつくさず、反逆的で、正しい道にもとっていれば、尊敬をあつめることであろう。……

そのときの人々は十の悪い行いをなすものが多く悪道に墜落するものが多いであろう。猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したいと思うであろう。
阿含経長部iii.71 ~ 72(仏教)

―み言選集―

今、青少年の問題が深刻になっています。青少年の倫落間題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年時代、ティーンエイジャーの時に陰でフリーセックスをして根を植えたので、終わりの日には必ず世界的にティーンエイジャーのフリーセックスが現れなければならないというのが理論的だというのです。

サタンは、神様が真の愛を中心として、堕落前の絶対愛の基準を中心として天国に連れていこうとしていることを知っているのです。再臨主が来て、そのようにすることを知っているので、サタンが戦略で完全にこの基準をすべて壊してしまいました。

愛という基盤がないので、フリーセックス、ホモ、レズビアンになるのです。ホモ、レズビアン、これは天使長の種です。天使長は愛の相対がいません。(注2)終わりの日には、裸になって一度に死のうというのです。これが天使長の子孫の末路です。これが地上地獄、サタン世界が地獄化する世界なので、この180 度反対を求めていけば、天国と通じる道があるのです。今後、再臨主が来てこの世の中を救ってあげるために、180 度の道を教えてあげたのち、天に連れていくようになることを知らなければなりません。
(279-121 ~ 122、1996.8.1)

堕落とは……アダムとエバが神様を不信し、背信したことが宇宙的な恨の種として蒔かれるようになりました。それでは、終わりの日に、どのようなことが起きるのでしょうか!

終わりの日には、父子の関係で仲たがいすることが起きます。人間始祖に神様に背いた不信の因縁があるので、その血統を受けて生まれた人間たちにも、終わりの日には、子女が父母に対抗するようなことが起きるようになるのです。

皆さんは、このような時代が来るとき、背信しようにも背信できない真の父母をこの地で探し出さなければなりません。皆さんがとどまっている現在の環境は、信仰の因縁で結ばれたものではない
ので、不信の現象が起きるのです。父子の関係がこのようになり、夫婦の関係がこのようになり、また、一家、親戚の関係が不信の風潮になり、人間たちが指向している意志までも根本的に破綻させてしまう拒否現象があちこちで現れれば、皆さんは、その時が終わりの日であることを悟らなければなりません。
(2-330、1957.7.28)

エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。すべて怨讐だというのです。

ですから、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になるのです。国同士が怨讐になり、すべての因縁がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来るなら、その時が終末であることを知らなければなりません。

その時が正に今です。子供が親を殺害する事件が起こり、親が子供を殺害する事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。

それはなぜでしょうか。エバどアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様もすべて怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、すべて戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。

それで、どこに行くのでしょうか。行く所が分からないのです。世界もそのようなことが起きます。今、民主世界と共産世界の二つの群れに分かれていますが、これからは3カ国だけでなく4カ国に広がります。筋道がつかめないのです。きのうは悪いと言っていたことが、きょうは世界に登場したりします。

きのうまで勢力のあったものが、きょうになると追放されます。世界的に筋道がつかめません。国家的に見るときも、これからの大韓民国がどのように行くのか分かりますか。アメリカがどのように行くのか分かりますか。国家的に筋道がつかめないのです。また、ある団体なら団体がどのようにしなければならないか分かりますか。家庭なら家庭がどのようになるか分かりますか。すべて不信する作用が起きるのです。そのような時になれば、終わりの日が来ることを知らなければなりません。
(50-213、1971.11.7)

宗教圏がすべて滅びました。キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラーム……。イスラームはあとから出できたのですが、宗教の形態はもっていても、今ではもうすべて滅んだというのです。滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな地獄のようになってしまいました。

神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星に見いだすことができないという結果になったのです。アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていける息子が、心と体を一つにして、娘と一つになって神様が願われる堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭はないとうのです。その夫婦によって息子、娘が生まれなければならないのです。父母と息子、娘が闘わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれているのです。
(342-268、2001.1.13)

縦的なものが中心です。縦的な基準が立つことによって、プラスとマイナスの概念が出てきて、男性と女性の概念が出てきます。縦的な概念がないので、男性の概念、女性の概念が雑然としているのです。ですから、混乱現象が起きます。これでもなくあれでもなく、男性でもなく女性でもなく、混乱が起きるのです。終わりの日にこれがすべてフリーセックスのように……。それは悪魔サタン、悪霊たちの破壊主義です。そうして混乱現象が起きるのです。
(189-127、1989.4.1)

人間が長成期完成級で堕落したので、完成段階が残っています。(注3)完成段階の期間が7年です。……私達は、7日を中心としてこれを7年で蕩減するのです。……この7年路程で責任を果たせない家庭は、滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。家庭が責任を果たせなければ、7年路程は延長するのです。……これが7年の大艱難であり、歴史上で初めての艱難です。これが統一教会で言う7年路程なのです。
(23-217、1969.5.25)

自由世界で最近、結婚を正式にしないで不法結婚をして暮らしています。すべて結婚をしない形式を選びます。……すべて滅びると思うのですが、神様は助けてあげるための作戦を今、行っています。このように見てこそ、世の中のすべてのものが解けます。神様の立場から、すべて解かれていくのです。

霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようにはなっていません。ですから、真の愛の起源を見いださなければ、これが一つにならないのです。それが最も理論的です。その場を皆さんが越えていき、天が祝福してくれる祝福を願っていかなければなりません。
(91-184、1977.2.6)


②戦争、自然災者、蔓延する惨状

―宗教経典―

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイによる福音書24.6 ~ 13(キリスト教)

その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
ダニエル書9.26 ~ 27(キリスト教)

社会は大破壊と荒廃をもたらす破壊的な戦争により蹂躙されるだろう。最初は征服者たちが彼らの勝利と獲得した戦利品に喜びを満喫するが、そのすべてのものはとても悲しい結果をもたらすだけである。私は未来の戦争に関して警告するが、あなた達はそれらがもたらす極悪無道な罪悪に対して考えることができない。
ナフジュ・アル・バラーカ説教141(シーア派イスラーム)

それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。

私はお前を、私の地に連れて来る。それは、ゴグよ、私が国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるためである。
エゼキエル書38.14 ~ 16(キリスト教)


―み言選集―

神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。
御旨の道、試験・試練

神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的に憎悪と闘争で、歴史を通じて天を滅ぼそうとしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。

末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第2次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。(270-232、1995.6.7)
神様の摂理において、個人的にサタン世界に勝たなければならず、家庭、氏族、民族、国家、世界的にサタン世界にすべて勝たなければなりません。いつでもサタン世界が先にあるのです。家庭があれば、サタンは国までもっています。ですから、アダム時代、イエス時代、イスラエル民族の歴史時代に過ちがなくなるのではなく、過ちが積み重なったのです。……

それでは、イエス時代、2000 年の歴史においてキリスト教が天の前に責任を果たせなかったすべてのことが、ただそのまま蕩減され得るだろうかというのです。これが残っているのです。

ですから、第1次、第2次の世界大戦など、戦争の歴史というのは、蕩減法によって蕩減するための神様の摂理の中で起きたのです。それで、第2次大戦が終わるとき、キリスト教文化圏を中心として、サタン世界とキリスト教文化圏が一つの統一世界を迎えたのです。

ですから、キリスト教によって統一された一つの国です。キリスト教文化圏を中心として、日独伊と英米仏は相対的です。英米仏と日独伊となってサタン世界の心と体が分かれて闘うのを一つにしなければなりません。一つにするのです。一つにしたところに再臨主が来て、真の父母様を中心として心と体の統一、家庭統一を成し遂げなければなりません。
(292-180、1998.4.12)

人類は第2次世界大戦の痛手を踏み越えて、すべての国が平和になり得る道を見つけようとしました。神様は私に、2000 年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は「真の父母」、「真の家庭」を見つける公式路程でした。

しかし、当時の韓国のキリスト教指導者たちは、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は、迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。既成教会の歴史的な過ちが条件となり、韓国で悪が勢力を得る霊的基盤が造成されたのです。韓半島が分断され、半世紀にわたる受難の歴史とならしめた摂理の内的な原因となりました。
(288-166、1997.11.27)

 

③悪魔と悪霊の襲撃

―宗教経典―

第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。

そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。

いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を
望んでも、死の方が逃げて行く。さて、いなごの姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシァ語の名はアポリオンという。(注4)
ヨハネの黙示録9.1 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

地上世界が一つの理念圏内に入っていけば、どのようになるでしょうか。地上より少し善のものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日、名前もない神経症など、神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは「天地双和湯(双和湯:疲労回復のための煎じ薬)」を飲まなければなりません。
(3-353、1958.2.9)

数千億、数万億の霊人たちが地上を占領するための攻略をしてきます。ノイローゼ現象がその一つです。もう少したって、80 年代、さらには2000 年代を超えれば、その時は悪霊に通じるか、善霊に通じるか、すべて霊的に通じるかもしれません。「戦争をするな」と言っても、闘わざるを得なくなるのです。(注5)そのような時が来るかもしれません。

高いアンテナには、ピーピーという音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上攻略をしてくることです。その場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球上にいっぱいになったとしても、悪霊が攻略してしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心
として霊界の基台を広げてきているのです。
(55-30、1972.4.23)

 

④野獣、反キリスト

―宗教経典―

だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。

まだ私があなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。

不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。

彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
テサロニケの信徒への手紙二2.3 ~ 12(キリスト教)

かれらに対しおことばが実現されるとき、われは大地からかれらに一獣を現わし、「まことに人間たちは、わがしるしに確信をいだかないでいた」と、申し渡すであろう。
クルアーン27.82(イスラーム)

ダジャルが彼と共に水と火をもって現れるだろう。人々が水と見たものは燃える火であり、彼らが火と見たものは冷たく甘い水である。あなた達は誰でもその時まで生きれば、彼らが火と見たものにはまっていくが、それは甘く新鮮な水だ。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒pするさまざまの名が記されていた。私が見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。

そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができよう
か。だれが、この獣と戦うことができようか。」この獣にはまた、大言と冒pの言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒pし、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒pした。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは
皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

私はまた、もう一匹の獣が地中から上って来
るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、ま
た、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(注6)
ヨハネの黙示録13.1 ~ 18(キリスト教)

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らは私達から去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私達のもとにとどまっていたでしょう。

しかし去って行き、だれも私達の仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

私があなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアで
あることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネの手紙一2.18 ~ 22(キリスト教)

 

―み言選集―

蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第1に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。

したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.1


神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。

このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自業自得となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。

したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠が
あるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.4.1

皆さんがもし理想の園、終わりの日の世界的な新しい栄光の日を迎えることを願うのなら、皆さんは、悲しまれたイエス様の心情、悲しいイエス様の生涯を思い、切ない心で天に向かって身もだえしながら歩んでいけなければなりません。

ところが、このようなことを行わず、考えてもいない立場で主の栄光を願う人がいますか。もしいるなら、そのような人がすなわち、反キリストであり、偽りの預言者です。

使徒たちがイエスの前に反キリストの立場に立つと、誰が思ったでしょうか。また、選ばれたイスラエル民族とユダヤの教団が反キリストになるとは、誰が思ったでしょうか。終わりの日にもこれを心配しなければなりません。今は人を非難し、人のことに干渉する時ではありません。自分自身が問題なのです。教団が問題ではありません。終わりの日に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。(注7)今まで人を問題にしてきた人は、すべて自分を失ってしまう歴史路程を経てきたのです。
(2-277、1957.6.16)

お父様!今や、死亡の都が審判のひと日を目前にしています。お父様、このような時に際して恐怖の世界であえいでいるこの人類、行くべき道を知らずに彷徨しているこの人類、中心を失ってしまい、処すべき立場を知らず、とどまる所を探し出すことができずにいる人類を哀れにお思いくださって、あなたの懐に帰れるようお導きください。
(5-60、1958.12.21)


2.最後の審判

人々は、末世に現れる事件を希望と恐怖が入り混じったまま注視してきた。迫害を受けた人にとって末世は、罪悪の権勢が崩れ、罪人たちが処罰を受ける希望の日である。自分の罪を苦痛に感じ、救援を否定して疑っていた人たちにとって末世は恐怖の日である。

個人に対する最後の審判は、死ぬ時に現れるが、これに関しては第5章で既に論議した。しかし、終わりの日のこの世の中全体に対する全般的な審判がある。神様の王国に関する約束が成し遂げられようとすれば、地球上から罪悪を永遠に除去しなければならない。

大勢の信仰者たちが最後の審判を文字どおり世の中の終末という超自然的事件として解釈しているが、文鮮明先生は、最後の審判は過去の罪悪の伝統が消え、すべての人たちが地上天国を建設するために尽力する時代に転換する時に起きる過程的現象であると教える。イエス様が麦と毒麦に例えたように、堕落した世の中で善は人知れず成長するが、時に至れば善と悪を区分する瞬間が到来するだろう。その時、人々は、自分たちの罪を悟り、神様のみ言の審判を受け入れ、あらゆる罪悪と堕落性を根本的に取り除き、日常生活で真理のみ言を具現することによって、段階的に神様の民に変貌していくのである。

 

①すべての罪悪が現れ、審判が履行される

―宗教経典―

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。

そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、“まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい”と、刈り取る者に言いつけよう。』」
マタイによる福音書13.24 ~ 30(キリスト教)

私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハネによる福音書12.47 ~ 48(キリスト教)

不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。

かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住
め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。
また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる。そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。

かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.71 ~ 74(イスラーム)

主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。私が備えているその日に、彼らは私にとって宝となると、万軍の主は言われる。

人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。そのとき、あなた達はもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。私が備えているその日に、あなた達は神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなた達に遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。
マラキ書3.16 ~ 24(キリスト教)


それでラッパが、ひとふき吹かれたとき、大地や山々はもたげられ、一撃で粉々に砕かれ、その日一大事件が起こる。また大空は粉々に裂ける、天がもろく弱い日であろう。

天使たちは、その辺境におり、その日、八人の天使がかれらの上に、なんじの主の玉座をになうであろう。その日なんじらは審判のため集められ、なんじらのどんな秘密も隠しおおせないであろう。
それで右手にその行状記を渡される者は、「ここに来てあなたがたは私の行状記を読め。私の清算に会うことが、ほんとうにわかった」と言おう。

こうしてかれは至幸な生活にひたり、高い園の中で、もろもろの果物は、手近にある。「あなたがたは過ぎ去った日に送った善行のゆえに、満悦して食べかつ飲め」(と言われよう)。だが左手にその行状記を渡される者は、「ああ、わしの行状記が渡されなかったならば、わしは自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった。ああ、死がわしの終末であったならば。
富は、わしに役立たなかった。権威は、わしから消えうせてしまった」と言おう。「かれを捕え、鎖を巻け、それから燃えさかる火で、焼け。
クルアーン69.13 ~ 31(イスラーム)

だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリンの信徒への手紙一3.11 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

エデンの園のアダムが堕落することによって、神様を中心とする善が終わり、サタンを中心とする悪が出発しました。この悪が終わりを告げなければならない時が末世です。善が終わることによって偽りのみ言が出てくるようになったのであり、偽りのみ言によって真の人格の実体を失ったのであり、偽りの愛をもつようになりました。ですから、第1には真理の審判、第2には人格の審判、
第3には心情の審判をしなければなりません。これが終わりの日の三審判です。

終わりの日には、悪が世界的に審判を受けます。自分だけのために生きるのは、個人主義であり、自己中心です。したがって、それは悪です。主は、審判されない方法を教えます。それは、自分よりもっと大きなもののために生きなさいということです。

自分ばかりを中心とすれば破滅するだけです。公的なもののために生きなければなりません。子女に対する愛も、天国の民をつくるための愛でなければならないのです。個人の立場から見るとき、自分のために引き込むのは悪であり、人のために与えるのは善です。1日24 時間、善と悪のうちどちらにより傾いているかによって審判が決定します。皆さんは、今もこの審判場を越えていっているのです。
(17-329、1967.4.16)

皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前には愛のイエス様ですが、不義と悪に従事する人の前には赦しのない審判主です。かわいそうな漁夫や官吏、そして娼婦のような人たち、つまりその時代に排斥され、追われた群れが、ひれ伏して骨髄にしみる哀訴を打ち明ける場では愛のイエス様ですが、正義の道を行くために精誠を捧げる群れに剣を掲げていくローマ帝国とユダヤの役人のような群れの前には審判主だったのです。

愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主だというのです。もしイエス様が愛のイエス様だけであれば、今日のキリスト教で主張する終末時代の審判役事はあってはいけないというのです。
(14-309、1965.1.10)

ペテロⅡ3章12 節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書4章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書12 章49 節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。

しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであ
るから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。……

それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書1章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。

したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。

ヨハネ福音書1章14 節には、「言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。

このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書12 章49 節に、「私は、火を地上に投じるためにきたのだ。火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ1:14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.2

大審判とは何かというと、この目から体全体がサタンの血を受けたので、それをきれいに浄化させることです。大審判というのは、サタンを葬り去ってしまうことではないということです。サタン世界の歴史を汚したすべての淫乱な、非法的な、非良心的な基準に立ったすべてのものを、良心基準、心と体が一つになり、五官が正しく立ち得る自分自体を中心として全体を解消させることを意味します。
(378-149 ~ 150、2002.5.9)

これから私達若い男女が知らなければならないことは、真理に立脚した新しい世界が必ず訪れてくるということです。ですから、その世界に符合できる内的人格が真理の基台の上に蘇生されなければ、時代の思潮に追い出されていくのです。真理の審判があり、その真理を中心とする人格の審判があり、そして真理と人格が一つになって神様の心情を通過しなければならないのですが、それが心情の審判です。
(14-179 ~ 180、1964.10.3)

 

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世界経典-40

2022年06月11日 19時39分09秒 | 学習

⑩奇跡に対しても不信される

―宗教経典―

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里
や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私達が二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。(注41)
マルコによる福音書6.30 ~ 44(キリスト教)


使徒たちが、「マリヤの子イエスよ、あなたの主は、私達のために、食べ物を並べた食卓を、天から下し得られるであろうか」と、言ったときを思え、イエスは言った「あなたがたが信者なら、神を畏れ奉れ」。

かれらは「私達は、その食卓で食べて、心を安らげたい、またあなたの私達に語られたことが、真実であることを知り、私達が、その証人になることをこいねがう」と、言った。
マリヤの子イエスは祈って言った、「神、私達の主よ、私達のために、食物を並べた食卓を天からお下しになり、それで私達への、最初のまた最後の機縁となされ、あなたからのしるしとなしたまえ。私達に給与を賜え、まことにあなたは最もすぐれた給与者であられます」。(注42)
クルアーン5.112 ~ 114(イスラーム)

そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」……

イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。……
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。……

ところで、。弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(注43)
ヨハネによる福音書6.25 ~ 66(キリスト教)


―み言選集―

神様の前にイエス様はいかなる弁明も、捏造もせず、自分自体を忘れ、父を身代わりするみ旨であればいかなる行動もできる方でした。皆さんは、このようなイエス様の足跡を受け継ぐ息子、娘にならなければなりません。

イエス様は30 年以上の生涯を経ながら、福音のみ言を私達に下さいました。弟子たちを連れて歩きながら、飢えた人たちに出会ったとき、即座に五つのパンと二つの魚で5000 の群れに食べさせる奇跡も施しました。与えるものは、すべて与えました。信仰も紹介し、生命も紹介し、愛も紹介し、人間が要求できるものをすべて紹介してくださったのです。
(4-83、1958.3.9)

復帰の路程を歩んでいかれるイエス様が奇跡を行われたのは、喜んでされたのではありません。喜んで楽に奇跡を行われたと思っていれば、大きな誤解です。イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情におかれ、手を挙げてお父様と叫ぶとき、ここで奇跡が起きたのです。とても悲しい、骨身が溶ける悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたのが奇跡でした。奇跡をイエス様が怠慢して、あるいは喜んでしたものと考えないでください。

ベツサイダの荒れ地で5000 の群れが「イエスよ! あなたは私達の救世主であり、選ばれたイスラエル指導者でいらっしゃいます」と手に手を振りながら叫びました。このように利益になる立場の時は訪ねてきましたが、時が過ぎてイエスが自分たちと心的基準が異なるようになり、事情が異なるようになり、標準が異なる境地に一歩進んでいくので、彼らはイエス様を背信し、背を向けました。これがイエス様の歩んできた実践路程にあった現象です。
(5-227 ~ 228、1959.2.1)

イエス様に従っていた大勢の群れが、五つのパンと二つの魚の奇跡を見せてくれるときには、自分のメシヤであり、民族を救ってくれる救世主として信じましたが、いざイエス様が亡くなるときは、すべて捨てて帰ってしまいました。もしイエス様に従っていた群れが天に対するイエス様の内的な心情、すなわち神様に対する心痛む心情をもった方であり、全体の摂理歴史に責任をもってこられた方だということが分かったならば、イエス様の事情を悟ったはずであり、イエス様のあとについていったでしょう。また、先に従っていた群れについていって民族全体がイエス様のあとについていったでしょう。
(3-291、1958.1.19)

 

⑪人類のために流したイエスの涙と不信に対する哀痛、信仰の弱い一番弟子

―宗教経典―

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
ヨハネによる福音書11.32 ~ 36(キリスト教)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

ものの見えない案内人、あなた達はぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達
偽善者は不幸だ。自く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなた達も、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書23.23 ~ 28(キリスト教)

一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていこなさい」、と言われた。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ
去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
マルコによる福音書14.32 ~ 41(キリスト教)

ペテロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペテロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない」と言った。

そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペテロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペ
テロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペテロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」
と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前にあなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72(キリスト教)

 

―み言選集―

自分のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。自分をなくして全体のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。今日の堕落した人間に対し、泣きながら訪ねてくる神様が、真の神様です。皆さん、人はうれしくても涙が出て、悲しくても涙が出るでしょう?

それでは、大声で泣いていた神様が愛する人を探し出したというとき、「ははは」としますか、どうしますか。考えてみなさいというのです。愛する人は、そのように探しながらも泣き、探し出してからも二人で抱き合って大声で泣くのです。

それでは、神様は、どのような所で愛する人に出会いたいと思うでしょうか。涙を流し、鼻水を流し、よだれを流す所で、涙だけを流すのではいけません。よだれが出て、鼻水が出て、涙が出てこなければなりません。一度そのように泣いてみましたか。本当に悲しくて泣けば、涙が出てきて、鼻水が出てきて、よだれが出てくるのです。そのように泣いてみなければ悲しみが分かりません。
その次には、汗まで出てきます。そのように一度泣いでみなければ、真の愛を見いだすことはできません。
(102-163 ~ 164、1978.12.17)

神様の摂理は、このサタン世界で戦争する摂理です。闘う摂理です。イエス様も、裕福に暮らすユダヤ教徒たちの所に来て戦争をしたというのです。「まむしの子」や「偽善者」と言いました。すべて戦争です。「ああ、ユダヤ人は素晴らしい、パリサイ人は素晴らしい、律法学者は素晴らしい」と称賛してあげ、「祭司長たちは立派だ」と言っていれば(イエス様を)殺したでしょうか。同じです。ムハンマドや孔子のような人たちがすべてそのようにしていたら変わっていたでしょう。
(95-276 ~ 277、1977.12.11)

イエス様と最も近い人たちがイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対することが悲しみではなく、ユダヤ教の信徒たちが反対するのが悲しみではなかったのです。3年間も従ってきた弟子、その愛する弟子たちが、信じるべきときに信じることができず、証すべきときに証すことができず、闘うべきときに闘うことができず、死ぬべきときに死ぬことができなかった、その一つの事実がイエス様にとって最も大きな悲しみになりました。
(3-142、1957.10.18)

イエス様を最後まで捨てずに従った者が誰でしたか。イエス様の12 使徒ではありません。その12 使徒の中で三弟子も、イエス様を最後まで信じて従うことができなかったのです。神様の愛を人間に紹介し、その愛を実践しようとされたイエス様でしたが、人間たちと愛の因縁を結ぶことができずに逝かれました。天倫の愛のみ言を伝え、愛に燃える心をもたれたイエス様でしたが、抱き合って、「我が息子よ! 我が父よ!」と父子の情を分かち合うことのできる一人を探し出すことができずにいかれたことを、皆さんは知らなければなりません。

弟子たちは居眠りしていましたが、ゲッセマネの園で夜通し悲しみの涙を流しながら祈祷されたイエス様のその心情と事情を、皆さんは知らなければなりません。イエス様の愛のみ言がいいと言う人は多くいましたが、2000 年前にイエス様は愛そうにも愛するところがありませんでした。
(3-58、1957.9.22)

イエス様は、悲しい30 年あまりの生涯を送りました。自身のすべてのものを捧げた3年の公生涯がありましたが、誰が彼の心情を知り、誰が彼の事情を知っていたでしょうか。一人もいませんでした。さらには、喜怒哀楽を共にし、悲しいときに一緒に悲しみ、寂しいときに一緒に寂しく思い、師と言って侍る弟子たちも分かりませんでした。師が死の道を行くことを心配し、懇切な心情で天に訴えるべき弟子たちが、かえってイエス様とは誰かと反問する立場にいたとは……。
(7-45、1959.7.12)

この地上の誰がイエス様の心を知ったでしょうか。
物思いに沈んだその姿を見て、心深くしみ渡ってくる天の悲しみを、体恤した人が一人もいませんでしたので、天はこのような人間たちを置いて嘆息するしかなかったことを知るものです。

天の心情を知って「主よ!」と呼ぶ弟子の一人ももてなかったイエス様が、疑心で点綴(一つ一つをつづり合わせる意)された生涯路程を行かなければならず、また疑われ、その物悲しい生涯の終末を迎えなければならなかった悲しみを、この時間私達が心で同情できるようにしてください。

イエス様が懇切なる天の心情を抱き、天のすべての遺業を抱き、人間を尋ねてこられましたが、人間たちはそのようなイエス様に自分勝手に対応し、
排斥し放題に排斥したものです。寂しい立場に
追い込み放題に追い込んだものです。

しかし、悲しみに沈み、嘆息の立場を余すところなく経てこられながらも、イエス様はそのような人間たちをお捨てになることができず、生命の圏に向かう一つの道を開拓なさるために、彼らを引っ張りゲッセマネの園に向かわなければならないということと、ゴルゴタの十字架の道を行かなければならないということを思われるイエス様の悲惨なる心の前に、頼もしい弟子一人いなかった
やるせない心情を、私達が分かるようにしてください。

イエス様が神様と一緒に生きられたことを知ることのできなかった弟子たち、このような弟子たちを残しておいて一生涯を終結すべき立場にあった
イエス様の心情、生涯のすべてを人間のために生きたにもかかわらず、その生涯の結実をみることができず、懇切な心情に沈んで天を案じられたイエス様の心に、私達が同情できるよう許諾してくださいますことをお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-137 ~ 138、1959.1.1)

 

⑫キリストの情熱と十字架の苦悩

―宗教経典―

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
マタイによる福音書16.21 ~ 23(キリスト教)

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」

すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。

イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言わ
れた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいたのにあなた達は私に手を下さなかった。だが、今はあなた達の時で、闇が力を振るっている。」人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。……

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「私が言っても、あなた達は決して信じないだろう。私が尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「私がそうだとは、あなた達が言っている。」人々は、「これでも
まだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

そこで、ビラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「私はこの男に何の罪も見いだせない。……この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」と言った。

しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。


人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。……

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユ
ダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる
ときには、私を思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
ルカによる福音書22.39 ~ 23.46 (キリスト教)

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てにならたのですか」という意味である。
マタイによる福音書27.46(キリスト教)


―み言選集―

イエスが死ぬために来たと言いますが、それは、本来神様の予定の中で起きたことなのか、急変事態なのかということを私達は知らなければなりません。

急変事態なのです。そうだとすれば、新約聖書のイエス様のみ言を通して調べてみましょう。ルカによる福音書第9章30 節を見ると、「モーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。

その時に決定したのです。マタイによる福音書第16 章22 節を見ると、イエスがエルサレムに行って亡くなることを語ると、ペテロがイエスに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言うとき、イエスが振り返ってペテロに「サタンよ、引きさがれ」と言いました。それで、今日のキリスト教徒たちは、イエスが死ぬために来たと強く主張しています。その言葉は、死ぬために来たメシヤの言葉なのに、死ぬなと言うので、ペテロにそのように指摘したのではないかと、死ぬために来たことを主張します。

皆さん、それは既に変貌山上でモーセとエリヤと会い、十字架で亡くなることを決定したのちのみ言であることを皆さんははっきりと知らなければなりません。また、イエス様が死ぬために来たのなら、イスカリオテのユダをかばっていなければならないのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」という言葉は矛盾ではないですか。

また、皆さん、十字架で亡くなるとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われました。それは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのですが、これはどういうことですか。死ぬために来たのなち、そのような祈祷はできないということです。もし死ぬために来たのなら、なぜ神様が4000 年間もイス
ラエル民族をそれほど苦労させた土台の上で送ったのでしょうか。強盗のような人たちに送れば、すぐに捕まって殺されるではないですか。

イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2 次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。

国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。
(73-218 ~ 220、1974.9.18)

イエス様の道は、終始一貫して引っ張られ、追われ、倒れる、十字架を背負う凄惨な歩みでした。それだけでしたか。無謀な悪党たちがむち打って追い立てる境遇に追い込まれることもありました。このようなところで、もしイエスがエリヤのような人だったなら、彼も「父よ、私だけが残りました」という祈祷をしたでしょう。しかし、イエス様はゲッセマネの園で三弟子を後ろにして祈祷するとき、「我が父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい!」と言いました。これが偉大なのです。自分の事情も苦しいのですが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物だということを知っていたのです。

このようなことを知っていらっしゃったイエス様は、自分の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいものかを心配する心がもっと大きかったのです。民族のために現れたのですが、民族から背信される自分を見つめられる天の悲しみがどれほど大きいかということをもっと心配されました。

イエス様は、天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、メシヤでした。そのようなイエスが、「凄惨な十字架の運命とはどういうことですか」と嘆息しようとすれば、この宇宙を動員して嘆息することもできますが、嘆息できない自分自身であることが感じられたので、追い込まれる立場に立つようになったことをかえって天の前に面目がないと考えたのです。

教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせてさしあげなければならない責任を背負ったイエス様は、その使命をあとにして十字架の道を行くようになるとき、何の恨みも感じませんでした。「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈祷されたのも、自分の一身が死ぬことが悲しいためではなかったのです。自分の一身が死ぬことによって民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを御存じだったために、そのように祈祷されたのです。

イエス様は、自分が十字架で倒れれば、後代の世界人類の前に加重される十字架が残り、それのゆえに悲しみの歴史が終わらないことを御存じでした。ゴルゴタの道が終わらないことを御存じでした。死の道が終わらないことを御存じでした。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを御存じだったのです。十字架だけでなく、
もっと難しい道が残されることを御存じのイエス様でした。

両手両足に杭が打ち付けられ、わき腹を槍で突かれて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないことを御存じだったイエス様は、天に向かって「すべてが終わった」と言いました。その言葉は、人間の世界で十字架の道がすべて終わったということではありませんでした。

十字架のために泣き憂慮する心の訴えが天と通じたということを意味するのです。このようにイエス様は、大勢の預言者、烈士たちが天に犯したすべての過ちを背負い、天を慰労してさしあげるために、自分自身を生きた祭物として天の前に捧げたという事実を私達は知らなければなりません。

しかし、イエス様自身は死ぬ間際に、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とおっしゃいました。神様は、すぐにでもノアの時以上の審判をしたいという思いがありましたが、イエス様が民族を抱いて死に、教団を抱いて死に、十字架を抱いて死んだがゆえに、人間をお捨てになることができず、抱いてこられたのです。このような心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、神様は背信する後代の教団と人間たちを捨てることができず、抱いていらっしゃるのです。
(378-314、2002.5.21)

イエス様が十字架を背負ってゴルゴタに向かいながら激しく疲れたとき、その十字架を代わりに背負っていったクレネのシモンのような人が、イエス様の弟子の中には一人もいませんでした。選ばれたイスラエル民族の中にも、このような人がいませんでした。このように、異邦人のクレネのシモンだけがイエス様の苦難に同参したので、キリスト教は、イスラエルの宗教になることができず、異邦の宗教になったのです。イエス様を信じ、神様を求めていこうという皆さんは、夢であってもクレネのシモンのような行動をしようという覚悟ができていなければなりません。クレネのシモンは、弁明することもでき、反駁することもできましたが、黙って従い、イエス様の代わりに十字架を背負っていきました。きょう皆さんもこのような人にならなければなりません。

これを見つめるイエス様の心情はどうだったでしょうか。3年間喜怒哀楽を共にした使徒たちは影も形もなく、思ってもみなかった異邦のクレネのシモンが自分の代わりに凄惨な立場に立つようになるとき、これを見つめるイエスの心は苦しみが大きかったのであり、悲しみに悲しみが加わっていたでしょう。

もし12 使徒の中に、誰かイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様は彼を見つめて死の苦難も忘れ、かえって彼を同情しながら自分の痛みに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうすることができず、イエス様は悲しみに悲しみが増し加わったのです。このような事情を皆さんは知らなければなりません。
(2-274 ~ 275、1957.6.16)

イエス様は、ローマ兵が槍で自分のわき腹を突いても、「彼らをおゆるしください」と言いました。「私が彼らの代わりに死んでいきます。彼らの代わりに犠牲になります」という精神をもって完全に忍耐するのです。ここから新しい世界が生まれるのです。歴史上になかった新しい世界が生まれるのです。

数多くの歴史を見ても、歴史上のあらゆる怨讐は怨讐で返せと教えたのであって、怨讐を愛で返しなさいと宣言したのは、たった一人、イエス様でした。イエス様だけだったのです。それが偉大なことです。これがどれほど偉大なことかという事実を知らなければなりません。新しい世界、神様が願う世界がそこからわき上がり始めるのです。
(130-232 ~ 233、1984.1.29)


イエス様が十字架で亡くなったとき、神様の心情はどうだったでしょうか。怨讐の息子、娘が自分のひとり子を捕らえて殺す局面であっても、彼らを怨讐視してはいけないのです。自分の息子を捕らえて殺す立場でも、愛する心をもって越えていかなければならない神様の心的な苦痛がどれほど大きかったでしょうか。

イエス様も、神様とアダムの基準を越えようとするので、神様がサタンを愛するのと同じように、イエス様自身も自分を十字架に打ちつけるローマ
兵を愛さなければならないのです。ですから、イエス様が彼らの罪を赦してほしいと祈祷しました。

これをパスしたのでサタンが分立されるのです。神様とアダムがサタンを愛したという伝統的な精神によってサタンが讒訴することができず、分離されました。これによって、キリスト教を中心としてサタン分立の歴史が展開したのです。常に個人的、家庭的にサタン側を愛したということが成されなければなりません。死の場に入っていっても愛することができ、神様に従って祈祷してあげることができなければなりません。そうしてこそ、復帰されていくのです。

全世界のキリスト教徒たちが殉教するその場で、イエスのような祈祷をしなければなりません。「父よ、彼らをおゆるしください」と祈らなければならないのです。神様とアダム、エバが天使長を愛さなければならない原則があるので、その原理原則基盤を完全に復帰するためには、堕落したサタンを本来の天使長と同じ位置で愛したという立場、そのような資格をもってこそ、天国に入
っていくのです。
(244-154 ~ 155、1993.2.1)

イエス様は、永遠に苦楽を共にできる神様のひとり子だったにもかかわらず、どうして世界で最も追われる立場に立たれたのでしょうか。また、神様が「知らない」とおっしゃる立場に立たれたのでしょうか。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と言って天に向かって訴えられたのでしょうか。
それは、人間が天倫に背いたからです。言い換えれば、アダムが個人的に背いたことを蕩減復帰すべき使命があったので、イエス様は、天から個人的に捨てられるようになったのです。しかし、イエス様は捨てられましたが、感謝する心をもちました。「しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)とおっしゃったのです。

自らの前にいかなる死や苦労が迫ってこようとも、それを消化し、神様と一つになれる、このような心があったので、いかなる怨讐も彼を支配できませんでした。ですから、天が排斥し、民族が排斥して、死の場にまで出ても変わらなかったことにより、新しい復活の門が開かれたということを、
皆さんは知らなければなりません。ですから、これから皆さんは、天が皆さんを排斥することがあったとしても、最後までお父様をつかんで仕える覚悟をもってこそ、イエス・キリストが残された復活の恩賜圏内に入っていけることをはっきりと知らなければなりません。
(4-144 ~ 145、1958.3.30)
⑬十字架で私達の罪を赦されたイエス

―宗教経典―

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。

私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53.3 ~ 6(キリスト教)
こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。このように天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりせん。

なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私達のために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。

もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
ヘブライ人への手紙922 ~ 26(キリスト教)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(注44)
ピリピの信徒への手紙2.6 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

(イエス様は)自分にあるすべての力を尽くしてイスラエルの将来に責任をもち、導いていこうとする途中で、行くまいとしても行かざるを得ない運命の道を行きました。弟子たちがイエス様を捨て、自分自身の命を保つために散り散りばらばらになるとき、イエス様は自分一身のためではなく、そのときまで神様のために忠誠を尽くしたいかなる人よりももっとこの上ない精誠と強い責任感と明確な目的観をもち、神様のみ旨のために十字架の道を行ったのです。神様と共にその道を行きました。
(35-23、1970.9.27)

兄弟や、あるいは誰かがサタンの誘惑に落ちたとき、その堕落した兄弟を取り戻してこようとすれば、サタンは彼を何の条件もなしに行かせはしません。

堕落した兄弟を取り戻すためには、サタンがその兄弟を送り返すよりもっと良いと感じられる何かをサタンに与えなければなりません。言い換えれば、堕落した兄弟を解放させるためには、その兄弟に代わって自分を喜んで犠牲にできる一人の兄弟がいなければなりません。その犠牲になる兄弟が第2のキリストになるのです。堕落した兄弟はそのような条件によってのみ解放されるのです。
(52-50、1971.12.14)

祭物は必ず血を流さなければなりません。神様は血を見るのを好む神様ではありませんが、死んで生き返ったという条件を立てるようにしない限り、つまり死んだという立場に立てなければ助け出せる道がないので、神様は祭物を犠牲にさせ、血を流すようにして今まで歴史時代を連結してきたことを知らなければなりません。

このように神様は、旧約時代には祭物で蕩減条件を立てて赦してあげながら、イスラエル民族を育ててきました。そうして、その上にメシヤを送ることによって、新約時代を迎え、メシヤを中心とする勝利的国家をつくろうとしたのですが、このメシヤを信じなくなったので、メシヤが代わりに実体の祭物になって死んだのです。羊は象徴的なものであり、羊を捕らえて祭物を捧げた土台に
よってつくっておいたイスラエル民族全体は、旧約時代の結実と同じなので、そのような旧約時代の結実がイエスと一つになっていなければならなかったのですが、それができないことによって、イエスを実体祭物として捧げざるを得ませんでした。それでイエスは十字架で亡くなるようになったのです。(注45)
(54-252 ~ 253、1972.3.25)

サタンの本質は驕慢と血気です。このような性質で世の中の人に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で世の中の人々の前に現れたのです。イエス様が愚かで温柔、謙遜な立場に立たれたのではありません。誰よりも最高に気高い栄光を享受することができましたが、イエス様はこれをすべて捨てて温柔、謙遜な立場に立たれたのです。

サタンがこのようなイエス・キリストと対決し、闘おうとしましたが、サタンには神様に屈服しなければならない条件があることをイエス様は御存じだったので、最後まで温柔、謙遜でいることができました。それでサタンの本質が驕慢と血気なので、反対の温柔、謙遜をもって現れたのです。

また、厳然として天理法度があることを知っているサタンなので、最後はイエス・キリストを認めるようになりました。言い換えれば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然屈服するのです。このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取りました。このように温柔、謙遜な立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様に行く新しい道を開拓できることを皆さんは知らなければなりません。

そして、イエス様が何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は応じることができない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちにこのような従順と服従の道理を教えてくださいまた。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を妨げるものです。(3-187 ~ 188、1957.10.27)
イエス様がどのような心情でサタンを屈服させたと思いますか。神様はかわいそうであり、万民もかわいそうであり、万物もかわいそうだと思う心情です。

「息子、娘を失ってしまった神様がどれほどかわいそうであり、主人を失ってしまった万物がどれほどかわいそうであり、自分の価値と目的と位置を失ってしまった人間がどれほどかわいそうですか!」という爆発的な心情があったので、サタンが退いたのです。
(9-181、1960.3.8)

 

⑨イエスを排斥した人類の悲劇

―宗教経典―

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
マタイによる福音書23.37(キリスト教)

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。

しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
ルカによる福音書19.41 ~ 44(キリスト教)
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
コリントの信徒への手紙一2.8 (キリスト教)

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう!』と言って、主人は自分の息子を送った。

農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
マタイによる福音書21.33 ~ 41(キリスト教)


―み言選集―

2000 年間の歴史を通して、偉大で栄光の位置に上がっていったイエス様は誰でも信じられますが、追い回され、嘲弄されるイエス様を信じられますか。ここに来た牧師やキリスト教の信者たちが信じることができますか。その時の書記官や祭司長たちが皆さんより愚かでイエス様を捕らえて殺したと思いますか。あれほど待っていたメシヤが来たのに、ユダヤ教徒の中で一人も信じる人がいませんでした。ユダヤ教徒たちが今、キリスト教の教徒たちに及ばないと考えますか。どれほど凄いか……。
(69-100、1973.10.21)

イエス様は天の物悲しい心情を抱き、倒れていく民族を訪ねてくださり、彼らをかわいそうに思い、
自らの生命をも惜しまず、彼らを訪ねてくださいましたが、選ばれた民族であると自称していたイスラエル民族は、天がお送りになったメシヤと準備された洗礼ヨハネを、自分たちの勝手に扱い、
歴史的な悲しみの陰に隠してしまったという事実を、今日、私達は知っています。

きょう、ここに集ったあなたの息子、娘たちをして、その時のイスラエルの人々が私達よりも劣っていて天に背反したのでなく、天のために生きる心情が私達よりも劣っていて天を忘れてしまったのではなかったことを知るよう許諾してください。

新しい時代に対する希望が足らず、新しいメシヤの理念をもってこられる主の姿が大きいだろうと思っていたのに、いざ現れたメシヤが、あまりにも悄然としてかわいそうで、小さな姿であったがゆえに、彼らが排斥したのだという事実が分かるよう許諾してください。

今、私達自体がどのような立場に置かれているかを察するよう許諾してくださり、今日、私達はよく歴史的なイスラエル民族を誹謗し、当時の事情を批判することがありますが、その時の事情や今日の事情に差がないことを知るようにしてください。
私達がその時にいたなら、彼らと同じ群れであったことでしょうし、私達がその時代にいたなら、彼らと同じ立場にいたであろうことを自認する心をもつようにしてくださり……。
(5-284 ~ 285、1959.2.22)

イスラエル民族の前にメシヤが来た目的は、サタン圏をたたきつぶし、人類を神様の前に取り戻してくるためであるにもかかわらず、サタン主権をそのまま残して人類を置いていかなければならない十字架の道を行くイエス様は、ゲッセマネの園で血のにじむ闘争の祈祷をせざるを得なかったという事実を皆さんは知らなければなりません。

イエス様は、自分の意思で十字架に行く日には、
4000 年間準備したイスラエルの国が滅び、ユダヤ教徒が滅び、洗礼ヨハネとその使徒たちが天に負債を負うことをよく御存じだったので、談判祈祷をせざるを得なかった事実を知らなければなりません。


イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。

国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。

4000 年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったのは、神様の予定の中で死んだのではありません。サタンに引っ張られていって十字架で亡くなったのです。十字架はすべて失ってしまった立場であることを知らなければなりません。国を失ってしまい、教会も失ってしまい、洗礼ヨハネも失ってしまった立場です。そこには12 使徒もすべて背信した立場であり、最後には右側の強盗までも死んでいった立場であることを知らなければなりません。イエス様の側になった人、天の側になった人が一人もいない、すべて失ってしまった
立場だったことを皆さんは知らなければなりません。

十字架の場にはキリスト教もないことを知らなければなりません。キリスト教がありません。キリスト教は、復活されたのち、五旬節以降に出発したのです。十字架は神様の勝利ではなく、サタンの勝利を意味するのであり、復活はサタンの勝利ではなく、神様の霊的勝利を意味することを皆さんは知らなければなりません。ですから、キリスト教は復活の宗教と言っています。(注46)
(73-220 ~ 221、1974.9.18)

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コメント

世界経典-39

2022年06月11日 19時34分58秒 | 学習

②孔子の宗教的信仰

―宗教経典―

先生が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに(このわが身に)伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、わが身をどうしようぞ。」
論語9.5 (儒教)

王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まち
がっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」
論語3.13 (儒教)
粗末な飯や野菜の汁や瓜のようなものでも、初取りのお祭り(注36)をするときはきっと敬虔な態度である。
論語10.8(儒教)

伯牛が病気になった。先生が見舞われ、窓ごしにその手を取られた。「おしまいだ。運命だねえ。こんな人でもこんな病気にかかろうとは、こんな人でもこんな病気にかかろうとは。」
論語6.10 (儒教)

先生はいわれた、「人としての正しい道をはげみ、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」
論語6.22 (儒教)

先生が「わしはもう何も言うまいと思う。」といわれた。子貢が「先生がもし何も言われなければ、わたくしども門人は何を受け伝えましょう。〔どうかお話をして下さい。〕というと、先生はいわれた、「天は何か言うだろうか。四季はめぐっているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。〔何も言わなくても、教えはある。ことばだけを頻りにしてはいけない。〕」。
論語17.19(儒教)


―み言選集―

人だけを中心として出てきた聖賢はいません。人類だけを中心とする道理によって出発した聖賢はいないのです。孔子の教えに、「為善者、天報之以福、為不善者、天報之以禍」という言葉があります。すなわち、善を行う人は天が福をもって返してくれ、悪を行う人は天が禍をもって返すという言葉です。孔子がこの言葉を語れたということは、天を知っていたからです。それで、天を中心として、道理の基準を立てたのです。漠然とではありますが、天を介在させました。ですから、孔子は聖賢の班列に立つことができたのです。
(32-261、1970.7.19)

道義的な出発を中心として、人間はこのように生きなければならない、天を中心として人間は正しい道を行く、家庭生活の伝統を正さなければならないというのです。自分の思いどおりに生き、愛の関係を自分勝手にもつ人たちは悪いと言います。この愛の道理を立てていくためのものが人間世界に宗教として現れたのです。
儒教のようなものがそうです。礼式において人類を代表できる内容を教えてくれたのが孔子です。……そのような方を通して、外的な人間の道義的な面のすべてのものを教えてくれました。……これは何かというと天使長型です。それで、道義的な面で世界人類に影響を及ぼしたのです。(注37)
(295-174、1998.8.28)

 

11.イエス

文鮮明先生は、ナザレのイエス様をすべての宗教創始者の中で最高の聖人とみなしている。文先生は、イエス様の生涯と業績に対して徹底して研究した。イエス様に関する先生の説教が数冊の出版物になるほど多い。先生は、イエス様の十字架の贖罪によってすべてのことを完成したという一般的なキリスト教徒の視角からイエス様を理解しない。

文鮮明先生は、イエス様が生きて地上天国を建設しなければならないという、より大きな使命をもっていたと認識している。十字架の死によってイエス様の熱い希望が挫折し、再臨の時まで天国建設が遅延されたのであり、したがって人類は数世紀にわたって苦痛と闘争などが空転する状況で生活しなければならなかった。

文鮮明先生は、聖書の聖句に表れたイエス様の個人的性稟、任務の準備、イエス様の家族との関係、彼の任務を果たす路程、十字架、そして彼の復活などをこのようなレンズを通して洞察する。文鮮明先生は、イエス様を「悲しみの人」と見ている。公生涯を始める前、30年間、イエス様は家族と村の人々から少なくない誤解と締め出しを受けた。当時、すべてのユダヤの男性が20 代で結婚する慣習から見てみるとき、イエス様が結婚しなかったという事実は、一般人たちに特別に神聖な姿として受容されず、かえって疑わしい出生によって痛手を受け、結婚するとは思えないおかしな人として理解された。

イエス様が自分の任務を始めるころ、洗礼ヨハネに見るように、自分を迎え入れるようにユダヤの民を準備した天のすべての努力は既に水泡に帰した。結果的に、イエス様は伝えたかった天国建設の福音をはっきりと明かすことができず、あいまいな比喩で語るしかなかった。

ローマからイスラエルの独立を成就するための霊的、政治的運動を主導し、この世界に神様の王国を建設しようとしていたイエス様の意図は決して明かすことはできなかった。
彼の任務に反対する勢力が増大するほど、イエス様の悲しみも一層大きくなったのであり、イエス様は十字架の道という、また別の代案を選択せざるを得なかった。

最後には、自分だけを残しておいたまま、逃げていき、散らばっていく弟子たちの弱さにイエス様の悲しみは一層深まった。イエス様は、自分が本来の使命を完遂できないまま十字架の道を歩めば、神様が悲しまれ、それ以降の多くの世代が苦痛を受けるという事実を知っていたので、ゲッセマネの園で命懸けの祈祷を捧げた。

しかし、その時まで群集は彼を拒否し続けたので
あり、死以外にほかに道がないため、神様のみ旨に従って十字架を受け入れざるを得なかった。しかし、人類に対してすべての精誠を注いだイエス様の愛は変えることはできないため、十字架上で自分を葬ろうとする敵まで赦した事実は、歴史を変えた地軸を揺さぶる事件だった。


①罪悪の人類を救援するために来られたイエス

―宗教経典―

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書4.17、23(キリスト教)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。
テモテヘの手紙一1.15(キリスト教)

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書14.6(キリスト教)

(イエスはこう言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11.28 ~ 30(キリスト教)

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなた達の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイによる福音書9.10 ~ 13(キリスト教)

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。

私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書10.11 ~ 16(キリスト教)

 

一み言選集―

イエス様の生活はすべて自身の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残り得る責任を地上に完遂しておいたのです。イエスの30 年あまりの生涯は永遠不変の実績、責任を果たした実績をこの地上に成し遂げておいた生涯でした。ですから、イエス・キリストのみ言が、キリストの信仰と福音が残っている以上、彼の生涯も残るのです。

イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面でも責任をもちました。そして、神様が4000 年間役事してこられたみ旨に対しても独りで責任をもったのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を身代わりしていく者が、この地上には一人もいませんでした。
(1-37、1956.5.16)

宇宙的な疑問を解明してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、解決されていない人間たちの罪を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、死亡の問題を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければなりませんでした。

人類のこのような疑問と死亡と罪を解決してあげられる方は、ただイエス様だけでした。そして、イエス様は4000 年の歴史過程に来られた誰よりも神様のために真実な生活をされた方です。自分を超越し、宇宙的な疑心を解明するために努力されたのであり、自分の一身の栄光を超越し、宇宙の栄光のために苦労されたのであり、自分のすべてのものを振り返ることなく、ただ神様のみ旨を成し遂げるために無限に犠牲になっていかれました。

そのような一貫した心と生活によってイエス・キリストは歴史を代表し、天の前に一番の先鋒者として立てられました。それでイエス・キリストは歴史的な疑心の障壁を克服していき、自信をもって「私を信じなさい!」と叫ばれたのです。
(3-14、1957.9.8)


「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」、これがどれほど堂々としていますか。「私は道であり」というその道はどのような道ですか。狭い道ですか、平らな大道ですか。

そして、「私は真理」と言ったのですが、それはどのような真理ですか。もどかしい真理ですか。すべてのことをよく知らなければなりません。すべて歓迎し、すべてのものがよいと言い、すべてのもののはかりになり得ると言わなければなりません。そして、「私は命」と言うとき、死んで廃れていく命ですか、発展する命ですか。それをどのような所で歓迎しなければなりませんか。「自
分を低くする者は高くされるであろう」と言いました。
(106-13、1979.11.4)

理想世界とか、一つの統一世界というものは、未完成の状態では成されないのです。無知から成すことはできません。ですから、完全なる方、完全に知っていらっしゃる一人の方を送って、その国の人たちと接触させようとされたのです。これがメシヤを送ると言われた、神様の約束でした。神様を中心とした主権国家の形成はイエス様を中心として始まらなければならず、それはイエス様とその国の民が完全に一つになってこそ可能だったのです。

すなわち、メシヤを迎えて(注38)未完成の個人が完成するための手続きと、家庭が完成するための手続き、民族、国家が完成するための手続きを、すべてイエス様のみ意を受けて一体化してなさなければならないのです。

ところが、このような歴史を通してメシヤを迎えるイスラエル民族は、イスラエル民族自体のためにメシヤが送られたというよりも、メシヤとイスラエル民族が一つになって世界を救うようにされたのが神様のみ旨だったことを、知らなかったのです。
(54-41、1972.3.10)


②イエス:神様の息子、み言の実態

―宗教経典―

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16(キリスト教)

フィリポが「主よ、私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私達に御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。……

しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書14.8 ~ 11、19 ~ 20(キリスト教)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに、神の愛が私達の内に示されました。……

私達はまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にどどまる人は、神の内にどどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.9、14 ~ 16(キリスト教)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書1.1 ~ 14 (キリスト教)


―み言選集―

イエス様は、この地上に生まれ、「私は神様のひとり子だ」と主張しました。歴史始まって以来、初めて神様の愛を受けるのは自分でなければならないという決定的な宣布をしたのです。このような観点で神様が願う最高の基準を説破したのであり、その位置に立ったと自負した人は、たった独り、イ工スしかいませんでした。ヨハネによる福音書の第14 章を見れば、「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」とあり、神様と自分との一体を語りました。
(53-231、1972.2.28)

イエス様はひとり子です。ひとり子とは何ですか。神様の愛は一つしかない絶対的な愛ですが、その愛を初めてそっくりそのまま受けることのできる代表者だというのです。ですから、ひとり子という名前をもったので、救世主になることができるのです。イエス様は、自分が神様の真の息子だということを教えてくれました。愛を中心として教えてくれました。それは、私を通さなければ愛の因縁が連結されないということです。
(146-168、1986.6.15)

イエス様が語ったみ言の中に、「神様は私の父である」という言葉があります。この言葉は、よくぞ言いましたか、言ってはいけないことですか。よくぞ言いました。この言葉が正に人間として成功を収めた言葉です。人情を中心として天情と天倫に到達できる新しいみ言なのです。その次に、何と言ったかというと、「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言を語られました。

このようにすべてのみ言を宗教的な問題をかけて言いました。それが違うのです。人間の世の中で、新郎と新婦の関係以上に近い関係がありますか。また、父子の関係以上に近い関係がありますか。

「私は信徒たちとは一つの兄弟だ」と言ったのですが、これ以上に近い関係がありますか。この言葉は何を中心として語るのですか。神様を中心として、神様が家庭に対して語ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下したものだと言えます。
(39-42 ~ 43、1971.1.9)

聖書の中に、「私は道であり、真理であり命である」(ヨハネ14・6)というみ言があります。言い換えれば、イエス様は道であり、真理であり、命だというのです。これはすべての人間たちに何を予示したのでしょうか。これはアダムとエバが堕落することによって、神様のみ言が成し遂げられず、そのみ言がそのまま神様の心霊に戻ってしまったのですが、み言を失ってしまった人もやはりこの地に生きているので、神様は再びこのみ言を人間たちに下さるということを予示されたのです。これは神様が希望された神様のみ言の実体がイエス様だということを示すみ言です。
(3-318 ~ 319、1958.2.2)

イエス様は、サタンの血筋を転換させた清い内的血統的基盤の上で生まれたので、イエス様だけが初めて神様の息子になれるという結論を下せます。ですから、イエス様は「私は神様のひとり子」と語ることができたのです。イエス様は、歴史時代に初めて出てこられた方であることを私達は知らなければなりません。ですから、イエス様は「私が父におり、父が私におられる」と語られ、「私を見た者は、父を見たのである」、と語られました。

ヨハネによる福音書の第14 章を見れば「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と語られています。

ですから、イエス様を通さなければ、天の国、父の前に行く者がいないのです。それで、イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と、堂々と宣言することができたのです。

世界的に大勢の宗教指導者がいるとしても、歴史的なサタンの汚れた血を清めて血統を転換させ、神様と因縁を結んで生まれた人はイエスしかいないことを、皆さんは知らなければなりません。釈迦も、孔子も、ムハンマドも、誰もこのような背景をもってこられませんでした。そのような方がこの地上に生まれたという事実は、人類にとって希望の中の希望であり、生命の新しい起源と復活を迎えることのできる栄光になるのです。(注39)
(53-205 ~ 206、1972.2.21)


③イエス:真の人、原罪のない第2アダム

―宗教経典―

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.45(キリスト教)

イエスは神のみもとでは、ちょうどアダムと同じである。
クルアーン3.59 (イスラーム)

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
テモテヘの手紙一2.5 (キリスト教)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられます。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 9(キリスト教)

また神がこう仰せられたときを思え、「マリヤの子イエスよ、なんじは神のほかに、私と私の母とを、二柱の神とせよと、人びとに告げたか」。かれは申し上げた「あなたにたたえあれ、私に権能のないことを、私として言うべきでありません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知りたもう。あなたは、私の心のうちを知りたもう。だが私は、あなたのみ心のうちは知りません。まことにあなたはよろずの秘奥を熟知したもう」。

「私はあなたが命ぜられた、私達の主であり、あなたがたの主であられる神に仕えまつれ、と言う以外には、決してかれらに告げません。私がかれらの中にいた間は、私はかれの証人でありました。あなたが私を召された後は、あなたがかれらの監視者であります。あなたはよろずのことの立証者であられます」。
クルアーン5.116 ~ 117(イスラーム)


―み言選集―

アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ1章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、私達を新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ 15・45)、永遠の父といったのである(イザヤ9・6)。
原理講論、キリスト論4.1.1

イエス様も、価値的な内容を通して見るとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結するのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。もう皆さんは神様と宇宙との関係と位置を知りました。キリスト教徒たちを見ると、「神様は気高く、私達人間は罪人であり被造物なので、価値がなく、イエス様は神様だ」と言います。それではどのように連結されるのですか。
そのような観点から、イエス様は人の側に立たなければならないのであって、神様の側にいればどうなるのかというのです。

テモテヘの第一の手紙の第2章を見れば、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」とあります。そうでなければなりません。そうでなければ、この罪人がどうやって行くのですか。そのような根本的な問題をすべて明らかにして整理しておかなければなりません。彼は罪のない人であり、私達
は罪がある人です。これが違うのです。

ですから、イエス様は神様の愛と交流することができ、生命と交流することができ、理想と交流することができる方です。
(69-80 ~ 81、1973.10.20)

歴史的に有名な人たち、あるいは聖者たちを考えてみましょう。イエス様はどうだったでしょうか。孔子や釈迦のような人たちはどうだったでしょうか。聖人とは何ですか。私達は心と体が一時間に何百回も移り変わっていきますが、そのような人たちは、一箇所に立っていることができる人たちでしょう。

それでは、一つ尋ねてみましょう。イエスは男性ですか、女性ですか。男性です。その男性が女性を見れば、その思いはどうでしょうか。男性と思ったでしょうか、女性と思ったでしょうか。女性と思ったでしょう。それは間違いなく女性なので、自然の道理として、プラス、マイナスが出会えば引力関係があるのです。そのようなことを感じたでしょう。
(128-78、1983.6.5)


④キリスト降臨の準備と先礼ヨハネの責任

―宗教経典―

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを洽める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ミカ書5.1(キリスト教)

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(注40)
マルコによる福音書1.2 ~ 6(キリスト教)
ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、わだしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

その翌日ヨハネは、自分の方ヘイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の
小羊だ。『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」

そしてヨハネは証しした。「私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書1.26 ~ 34(キリスト教)

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞
こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハ
ネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。

はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書11.2 ~ 15(キリスト教)

エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「私はメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
ヨハネによる福音書1.19 ~ 21(キリスト教)


―み言選集―

このサタン世界に何の準備もなく、基盤も築かず、メシヤをただそのまま送れば、怨讐サタンは彼を捕らえて殺すことは間違いないので、歴史を通して宗教を立てたのです。その宗教の中でも、主流的な宗教を立て、神様の側に分けて別々のものにし、サタンと対抗して勝つ個人、家庭、氏族、民族、国家を形成して、その基盤の上にメシヤが完全に一つになれる国家的基盤を備えてメシヤを送らなければならないのです。そのように準備した基盤がイスラエル、勝利したという意味のイスラエルの国であることを知らなければなりません。
(74-59 ~ 60、1974.11.12)

神様は、4000 年間イスラエル民族の前にメシヤを送ってあげると約束したのであり、その約束を履行するために大勢の預言者を連結させ、それを伝達してきました。

そして、願っているイスラエル民族の前に約束したとおりに神様の息子、メシヤ、イエス様を送ったにもかかわらず、メシヤが来たにもかかわらず、イスラエル民族はメシヤと一つになることができず、メシヤを捕らえて殺したという事実、これはなぞの中のなぞです。
(73-218、1974.9.18)

神は、アブラハムの子孫からイスラエル選民を召し、彼らを保護育成され、ときには彼らを苦難と試練を通して導かれた。また、多くの預言者たちを彼らに遣わして慰めながら、将来、メシヤを送ることを固く約束されたのである。

それから、彼らをして幕屋と神殿を建てさせることによって、メシヤを迎える準備をさせ、東方の博士、羊飼い、シメオン、アンナ、洗礼ヨハネを遣わして、メシヤの誕生と彼の顕現を広く証された。

特に、洗礼ヨハネに対しては、彼が懐胎されるとき、天使が現れて証した事実をユダヤ人たちはみな知っていたし(ルカ1・13)、彼が生まれたときの奇跡は、当時のユダヤ国中を大きく驚かせた(ルカ1・63 ~ 66)。そればかりでなく、荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきも
のであった(ルカ3・15)。神がこのように偉大な洗礼ヨハネまでも遣わして、イエスをメシヤとして証明させたのは、いうまでもなく、ユダヤ人をしてイエスを信じさせるためであった。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.3

洗礼ヨハネを預言者と思って信じているユダヤ教の信者たちが、すべてイエスと一つになったなら、誰がイエス様を捕らえて殺すでしょうか。誰が捕らえて殺すのかというのです。そのようになったなら、どのようになりますか。高位層の人たちがイエス様の使徒になり、弟子たちになるのです。
足の裏のような漁夫たちがイエス様の弟子になりますか。ペテロのような無学な人や税吏や娼婦たちがイエス様の弟子になる、それが神様のみ旨ですか。
(74-153、1974.11.28)


神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された。洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。……しかし、彼の無知によりこの使命を完遂することができず、ついには、イエスのためにささげるべき彼の命までも、あまり価値もないことのために犠牲にしてしまったのである。

洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。

自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべぎでしょうか」(マタイ11・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。

しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書11 章3節から19 節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた。

洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ(ルカ1・75)、彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった。さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった。このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的23

マタイによる福音書第11 章11 節を見れば、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」とあります。一度は一番大きいと言い、一度は一番小さいと言っていますが、これはどういうことですか。

預言者の使命は何かというと、メシヤに関して証することです。過去の預言者たちは、会うこともできずに預言を通してメシヤを証しましたが、洗礼ヨハネは目で直接見て証したので、預言者の中では一番大きいのです。

しかし、天国に行っている一番小さい昔の預言者たちは、イエス様がメシヤであることを知ってみな侍っているのですが、洗礼ヨハネは侍ることにおいて最後尾だというのです。メシヤのために生まれ、死ぬときもメシヤのために死ななければな
らないのに、つまらないヘロデヤの恋愛事件に巻き込まれ、首を切られて死にました。それが洗礼ヨハネの行く道ですか。

12 節にどのようにありますか。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります。聖書にこのようになっています。いくら否定しようとしても、ミスター・文の話が正しいのです。洗礼ヨハネの時からイエス様の時まで、天国は激しく襲う者たちが奪い取っていると言いました。

もし洗礼ヨハネがイエス様を信じていれば、一番弟子は誰がなったのですか。間違いなく洗礼ヨハネがなるのです。これを知らなければなりません。牧師、長老、キリスト教徒たちが知らなければなりません。12 弟子、70 門徒は、すべて洗礼ヨハネの一党がならなければならないのです。

そうすれば、ユダヤ教と直結で通じ、祭司長と書記官をすべて一つにまとめることができました。
ヨハネによる福音書第3 章30 節を見れば、洗礼ヨハネが、「彼は必ず栄え、私は衰える」と言っています。ヨルダン川で洗礼を施すイエス様のところに人々が行くのを見て、弟子たちが尋ねるので、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、私は衰える」と答えたのです。それはどういうことですか。今日のキリスト教徒たちは、洗礼ヨハネが謙遜したものと信じてきました。そうではありま
せん。一緒に行動しなかったということです。それを知らなければなりません。

イエス様が栄えれば自分も栄え、イエス様が滅びれば自分も滅びなければならないのに、ほかの道を行ったということです。イエス様が十字架で亡くなるようになったのは、洗礼ヨハネのためであることを知らなければなりません。皆さんが信じられなければ、神様に談判祈祷してみてください。
(69-139 ~ 140、1973.10.23)

 

⑤キリスト降臨の世界的準備

―宗教経典―

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書2.1 ~ 11(キリスト教)

古代東方の子供たちは、アブラハムから受け継いだ知恵をもっていた。その知恵は、アブラハムが妾の息子たちに与えたものだ。創世記25 章6節に次のように記録されている。「側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」。時が流れ、この者たちはアブラハムから受けたこの知恵に従うようになった。
ゾハール1.100b (ユダヤ教)
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
マタイによる福音書8.11(キリスト教)


―み言選集―

インドの仏教圏、中国の儒教圏、ゾロアスター圏など、様々な宗数団体が東洋諸国で影響力を行使していたので、自動的に各宗教の霊通者たちはイエス様がどのような方なのか分かるようになっていたのです。
(227-81、1992.2.10)

初臨のときには、神がその選民のために、メシヤが降臨される430 年前に、預言者マラキを遣わされて、メシヤが降臨されることを預言なさるとともに、一方においては、ユダヤ教を刷新して、メシヤを迎え得る選民としての準備をするようにされたのであった。

また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前565 ~ 485)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前470 ~ 399)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前552 ~ 479)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。

それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代

イエス様もアジア系として生まれました。ところが、アジアで体を失ってしまったのです。それを蕩減復帰するために、今まで西欧文明はローマを中心として反対に来たのです。本来、イエス様が死ななければ、インドの仏教圏、極東アジアの儒教宗教圏が、キリスト教を中心として統一圏を先に成し遂げなければなりませんでした。宗教圏が統一を成し遂げなければならなかったのです。

宗教圏に立っている最高の指導者は霊界と通じるので、これから天が行く方向を知っています。ですから、イエス様が国を収拾してローマから独立し、イスラエルの12 支派圏がカナンに復帰して分配されたその地が統一されたというときには、間違いなくアジアが吸収されるのです。
(229-174 ~ 175、1992.4.12)

 

⑥家族の誤解

―宗教経典―

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
マルコによる福音書6.1 ~ 4(キリスト教)

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、
母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカによる福音書2.41 ~ 51(キリスト教)
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」
ヨハネによる福音書2.1 ~ 4(キリスト教)

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書3.31 ~ 35(キリスト教)


―み言選集―

処女が赤ん坊を身ごもって生んだことを、キリスト教徒たちは、聖霊によって身ごもったと言うのですが、それを信じることができますか。そのときは、弟や妹たちも呪い、村でも指をさされ、村の子供たちの問題になって追われ、逃げ回っていた、そのようなイエスだったでしょう。33 歳になるときまで、結婚できなかったイエスだというのです。私生児であるうえに、みなから冷遇される人なので、誰が娘をイエスの嫁にしてあげようと言うでしょうか。
(243-242 ~ 243、1993.1.17)

イエスは自分が私生児であることを知らなかったと思いますか。すべて知っていたので、ヨセフとマリヤがけんかしました。父親は誰だと聞いても答えないので、自分が助けてあげたと言ってけんかしたのです。ヨセフが聞いても、そのたびに「聖霊によって身ごもった!」と言うと、「助けてあげたのに、何をふざけたことを言うのか」と言いました。ヨセフが信じただろうかというのです。イエスをめぐって夫婦でけんかし、息子、娘を生んでもずっとけんかしたのです。

イエスが12 歳になり、エルサレムの聖殿に行ったとき、その父母が息子を置いたまま三日間たってから、戻ってきて「お前はなぜここにいるのか」と言うので、「私が父の家にいることを知らなかったのですか」と言いました。それは不満を言ったのです。

父母が三日間息子を置き去りにしたまま、自分の家に帰ったのです。聖書はそのような内容を隠してきました。これはあぜんとする話です。それをみな称賛しているとは……。

キリスト教徒たちはそのように信じ、天国に行くと言いますが、とんでもないことです。イエスが結婚できなかったのは母親のせいであり、洗礼ヨハネのせいです。これはどうしようもない事実です。
(235-237 ~ 238、1992.9.20)

大工のヨセフのことを協助してあげながらも、平安な生活をしていませんでした。彼の心情は無限の曲折の路程を経てきたのです。
(7-334、1959.10.18)

マリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、私と、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「私の母とは、だれのことか。私の兄弟とは、だれのことか」(マタイ12・48)と言われたみ言も、このような基準から理解しなければなりません。
(277-210、1996.4.16)

18 歳になれば結婚するようになっていて、20 歳になれば結婚するようになっているのに、なぜ33 歳まで結婚できなかったのかというのです。それでイエス様は、17 歳のとき、自分の母マリヤにアダムが16 歳で堕落したのでこれを復帰するために、「私はこれこれこのような過程を経て結婚しなければなりません」と言ったのです。それが27 歳、30 歳まで3度結婚することを言いましたが、母親が聞いてくれなかったのです。
(266-193、1994.12.25)

十字架を背負うようになった直接的な動機も、イスラエル民族が背き、ユダヤ教徒が反対したからというよりも、ヨセフの家庭でそのような祝福の一日をもてなかったところにあります。そのような一日をもっていたならば、イエス様は十字架で亡くならなかったでしょう。
(30-173 ~ 174、1970.3.22)


⑦荒野での三大試練

―宗教経典―

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
マタイによる福音書4.1 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

荒野路程の三大試練で、イエス様がサタンを屈服させ、最後の勝利をした所も高い山の頂上でした。選ばれた洗礼ヨハネとその一党に排斥され、ユダヤ民族に裏切られて訪ねていく荒野路程の歩みこそ、今日まで、この地上で誰も体恤できなかった悲しい心情をもって歩まれた歩みだったことを知らなければなりません。

イエス様は天のひとり子であり、4000 年歴史を解決する人であり、またその時代と千秋万代の後代に、天が誇り得る勝利の標的として現れた方でした。そのようなイエス様が民もあとにし、教団も捨て、選ばれた洗礼ヨハネも、ヨセフ家庭も残し、友もなく独りで荒野に行った悲しい心情を、私達は回想しなければなりません。そのような歴史的な蕩減条件を立てようという使命感をもち、決心していったイエスは、40 日断食をしながら、そのある場所で何を回想したでしょうか。昔、先祖たちが歩んできた悲しみの路程を自分の一身で蕩減復帰しなければならないという責任感を誰よりも切実に感じたのです。この事実を、この時間に私達は悟らなければなりません。み旨に対して誰よりも悲壮な心情を抱いていったイエス様でした。

いかなる歴史的な先祖よりも確固たる覚悟をして、サタンをその掌中に握って屈服させなければならないという燃える心で荒野に出ていかれた方であることを知らなければなりません。そして、山頂に独りで立ったイエス様であることを知らなければなりません。
(5-194 ~ 196、1959.1.25)

イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。

しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。

その時まで人間は、物質を中心とする闘争歴史を経てきたのですが、イエス様が、サタンの第1次的な試練に勝利することによって、そのような物質を中心とする闘争歴史を終結させるようになったことを、皆さんは知らなければなりません。

それでは、その次にイエス様は、どのような試練を受けるようになったのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて教会の聖殿の頂上に立たされるようになったのですが、そこで「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」(マタイ4・6)という試練を受けるようになりました。

イスラエル民族とユダヤ教を指導できる宗教理念をもって現れたイエス様に、「飛びおりなさい]というこの言葉はどのような意味なのでしょうか。それは、ユダヤ教的な習慣と彼らの主張に屈服し、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかし、イエス様は、ここでサタンの試練に陥ることなく勝利されました。

その次にはどのような試練がありましたか。サタンは、イエス様を高い山頂に連れていき、天下万国とその栄華を見せてあげながら、「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ4・9)と言ったのです。しかし、イエス様は、ここで宇宙的な理念をもって神様の国、すなわち天国を建設しようとされる神様のみ旨を立ててさしあげるために、そのようなサタンの要求を一蹴してしまわれたのです。
(3-122 ~ 123、1957.10.13)

 

⑧イエス様の比喩的教え

―宗教経典―

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
マタイによる福音書13.31 ~ 34(キリスト教)

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
マタイによる福音書13.10 ~ 13(キリスト教)


―み言選集―

イエス・キリストがこの地に来られ、30 年以上涙を流され、悲しい苦難の道を行かれながらみ言を宣布された目的は何だったのでしょうか。それは、第1に、人間をして神様との因縁を回復するためだったのであり、その次には、人間に天国を紹介するためでした。

このようにイエス様は、天国を紹介されるとき、み言で紹介されたのです。すなわち、真理で天国を紹介しようとされました。神様は、そのように人間と永遠不変の因縁を結ぶためのみ言、この地に天国理念を建設するためのみ言をイエス・キリストを通して人間たちに下さったのです。イエス様を通して真の真理を示そうとされました。

したがって、神様と人間の関係を結んであげるた
めに来られたのであり、真の真理を人間たちに証するために真理をもってこられたイエス様は、神様と人間と全被造万物が希望する天国を建設するために、真理のみ言を宣布し始められたのです。
ところが、イエス様がこのように神様と人間の因縁を回復するために真理を宣布してくださいましたが、その真理と因縁を結ばなければならないイスラエル民族がイエス様を不信することによって、イエス様のみ言宣布の目的は成し遂げられなくなりました。これを見るとき、イエス様が宣布された真理のみ言が、人間たちに100 パーセント伝達されなかったことが分かります。それは、当時の人間たちがイエス様を不信することによって、イエス様は彼らに比喩と象徴で、あるいは暗示的に真理を紹介してあげざるを得なかったからだということを皆さんは知らなければなりません。それで、この地に生きる大勢の人間たちは、歴史過程を経てきながらたくさんの知識を動員し、隠された真理の関門を尋ね求めてきたのです。

これから歴史の終末時代になれば、人間たちが内外に求めてきた神霊と真理が出会う時が来るのであり、また、大勢の民がイエス様を信じる真の信者として立つようになるのであり、イエス様の心の中に隠されていた真理も完全に紹介されるのです。(2-126 ~ 127、1957.3.17)
⑨弟子を集め、天国を教えたイエス

―宗教経典―

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
マタイによる福音書4.18 ~ 22(キリスト教)

「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書10.37 ~ 39(キリスト教)

イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに
行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。

僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」
ルカによる福音書14.16 ~ 24(キリスト教)

私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につなかっていなければ、実を結ぶことができない。

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。

父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。
私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネによる福音書15.4 ~ 11(キリスト教)

「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
マタイによる福音書10.16 ~ 20(キリスト教)

 

―み言選集―

民族から捨てられたイエス様は労働者の姿で現れ、漁夫の友の姿で、彼らと事情を共にする友になったのであり、心情を同じくする友になったのであり、願いを同じくする友となられ、彼らの願うことは何でも死ぬ覚悟をして成し遂げてあげようという心で闘われたのです。このような心的な内容と心的な理念をもって証し、闘われたがゆえに、ペテロのような漁夫たちがついていくことができたのです。

それでは、無学な弟子たちを選ばれて、3年間何をされたのでしょうか。神様がイスラエル民族を立てられるために4000 年間苦労して奉仕したのと同じように、イエス様は彼らを立てておいて奉仕の生活をされました。

12 弟子を選んでおかれたイエス様は、彼らに対する希望が大きかったのです。ユダヤ教団を動かし、祭司長たちとすべての書記官たちを主管するために天が送られたイエス様です。ですから、彼の理念は大きかったのであり、彼がもっている欲望も大きかったのであり、彼の心的基準も高かったのです。このような神様の実体理念をもち、一人の開拓者の立場で現れたイエス様を理解しなかった当時の祭司長たちと書記官たちは、堕落直後のアダムとエバよりもっとかわいそうな人たちだったということを皆さんは知らなければなりません。

ですから、イエス様は食べたいものがあっても、食べるものが見つかったとしても、それを忘れて弟子たちを訪ねられたのであり、着る衣服があれば、自分がぼろを着ていることを考えずに弟子たちに下さったのです。安らかな所があれば弟子たちをそこにおき、自分は卑しい所にいらっしゃいました。
(5-225、1959.2.1)

宗教を信じるのは救われようということであり、救われようというのは、完成の位置に行こうということです。それで、宗教者はどのような考えをするかというと、世の中のサタン圏内のいかなる愛よりも信じる教主を愛し、神様を愛そうと考えるのです。このように誓っていく道が宗教の道だということをはっきりと知らなければなりません。世の中の愛以上の愛の位置に行かなければならないのです。それが宗教者の行くべき道です。サタン世界に勝たなければなりません。

ですから、神様の愛はサタン世界以上の所から出発するのです。それで、聖書にあるイエス様が語られた言葉が「誰よりも私をもっと愛しなさい」という言葉です。それは、あなたの母や息子、娘、妻子や夫、誰よりも自分を愛さなければ父の息子、娘になれないということです。なぜそのようになるのかというのです。サタン世界の愛から現れてもそこから出発するのであり、メシヤの愛の因縁をもって天に入っていかなければならず、これが不可避的な原理的条件なので、そのようなみ言を語ら.ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
(93-326、1977.6.17)

空腹の事情によって責任者と心情的紐帯を結ぶことができるのであって、服を着ることで、生きることで、交わることではできません。迫害を受け、追い回され、そうしながら昼夜なく働かなければならず、責任分量は多いのでせざるを得ず、昼夜走り回りながらひたすらあなたも泣き、私も泣かなければなりません。泣くこと以外には心情的紐帯を受け継ぐ道がないというのです。それができない日には、日本であれ、韓国であれ、地球であれ、何であれ、ありません。

先生と心情的紐帯はどうであり、真の父母と心情的紐帯はどうだと言うのですが、それをどこから見いだすと思いますか。探してみてください。ありません。ひたすら追い出され、父母に拉致され、たたかれ、ひたすらこうでなければなりません。責任者たちはみなそのようにしてきたのであり、従う人たちがそのようにしてこそ、ここから新しい連結が成され、世界が反対しても断ち切ることのできない紐帯ができ、心情的価値の基盤が生じるのです。そのようになるとき、そのようなことが展開するのです。
(94-233、1977.10.1)

イエスの再臨に関する啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の様子に関しても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。すなわち、初臨のときに、神はメシヤが来られたという知らせを、祭司長や律法学者たちに与えられず、異邦の占星学者や純真な羊飼いたちに与えられたのであるが、これはあたかも、真の実子が無知であるために、やむを得ず、血統的なつながりをもたない義理の子に相談するというのとよく似ているといえよう。

また、イエスの再臨に関する知らせも、因習的な信仰態度を固守している今日のキリスト教指導者たちよりは、むしろ平信徒たち、あるいは、彼らが異邦人として取り扱っている異教徒たち、そして、良心的に生きる未信者たちにまず啓示されるであろう。

そして、初臨のときにイエスの福音を受け入れた人たちが、選民であったユダヤ教の指導者ではなく、賤民や異邦人であったように、イエスの再臨のときにも、選民であるキリスト教の指導者層よりも、むしろ平信徒、あるいは、非キリスト教徒たちが、まず彼のみ言を受け入れるようになるであろう。イエスが用意された婚宴に参席し得る人々が、前もって招待されていた客たちではなく、町の大通りで出会い、すぐに連れてこられる人々であるだろう、と嘆かれた理由は実にここにあったのである(マタイ22・8 ~ 10)。
原理講論、再臨論4

 

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