⑮イエスの復活
―宗教経典―
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、私達は神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達はすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったようにキリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.14 ~ 22(キリスト教)
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず,
罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私達の祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
私達は、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私達を驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私達の心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイ
エスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改め
が、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24.1 ~ 53(キリスト教)
―み言選集―
イエス様は、十字架上で民族のために祈祷されたのであり、自分は死んだとしても責任を完遂するという心をもっただけでなく、死を超越して神様のみ旨を心配されたので、神様はそのようなイエス様を復活させることができたのです。
ですから、復活されたイエス様に対して、サタンはあえて讒訴できませんでした。イエス様のように、皆さんもそのような内容の価値をもった人格体になれば、サタンが讒訴できません。
(2-141、1957.3.17)
サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が4000 年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。
それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を
行使し得る条件が成立したのである。
ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。そこで、サタンがその最大の実
権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ11・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.1.1
イエス様は、死んでからもばらばらになった弟子たちを心配したのであり、墓の中の三日間でも、この弟子たちを永遠に守ろうという心をもったので、復活されたのちにガリラヤの海辺で弟子たちを探し回られたのです。今日の私達が人間的に考えてみれば、責任感のなかった彼らに対してイエス様がどうしてそのようにできるのだろうかと考えやすいのです。
困難な場で排斥した弟子たちですが、イエス様は復活後にまずガリラヤに訪ねていかれ、自分の責任を遂行し始めました。このように、死の峠を越えるとき、変わらない弟子として立ててくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私達が
手本とすべき人格です。
それだけではありません。当時の弟子たちと、それ以降の大勢の聖徒たち、2000 年が経過した今日の私達まで責任をもたれたことを知らなければなりません。救援の歴史が全体の歴史でした。天のみ旨は全体を救援することなので、イエス様は全人類まで責任をもっているのです。
(1-38、1956.5.16)
主には、ユダヤの国を中心としてサタンの国を奪ってきてサタンを屈服させなければならない責任があるのですが、4000 年築いてきた基盤を完全に失ってしまい、国を失い、教会を失い、選んだ人をすべて失い、一人ではみ旨を成し遂げられないことは当然のことです。ですから、神様は第2方案を立てざるを得なかったのです。
その基盤を失わずに死ななければ、霊と肉を中心として、国と世界を神様のみ旨の中に、サタン世界とサタン主権を奪って天の国に帰っていくにもかかわらず、その基盤がなくなったので、仕方なく神様は第2次的な方案の霊的救援だけでも成立させることができる道を築かなければなりませんでした。
それで、イエス様を十字架で亡くなるようにすることによって霊的救援の道を開くことができるようになったのです。これを皆さんは知らなければなりません。
(74-153、1974.11.28)
12,ムハンマド
ムハンマドは、多神教が盛んなアラビアに暮らしていたが、唯一神の真理を発見し、神様の使徒として召命に応じた。ムハンマドは幼いころから聖書の内容を知っていたが、彼が暮らしていた地域のユダヤ人やキリスト教徒たちは、多神教を信じる支配部族に立ち向かう情熱や確信が不足していたため、彼には特に印象的ではなかった。
ムハンマドは、メッカの道に出て、誰もが聞こえるようイスラームのメッセージを宣布した。彼は迫害を受けて亡命生活をしたが、支持者たちを確保することができた。ムハンマドと彼の同僚たちは、支配的な宗教とぶつかり、新しい信仰を擁護してくれるメディナで歓迎された。
ムハンマドは、神様に献身的で、悪に対しては少しも妥協することを知らなかった。文鮮明先生は、彼を卓越した宗教創始者の一人として尊敬する。
①ムハンマドに下さった神様の啓示
―宗教経典―
予言者よ、まことにわれはなんじを、証人として、吉報の伝達者・警告者・かれのお許しのもとに神に招く者として、また光明をゆきわたらせるともし火として、つかわしたのである。
クルアーン33.45 ~ 46(イスラーム)
ムハンマドは……神のみ使いであり、また諸予言者の最後者である。(注47)
クルアーン33.40 (イスラーム)
神は、黙示によるか、帳(とばり)のかげから、または天使をつかわしたまい、命を奉じて、そのおぼしめしのことを啓示なさるほか、人間に語りかけたもうことはない。まことにかれは、至高者・英明者であられる。このように「われは、わが命によって精霊をなんじに下した。なんじは、経典が何であるか、また信仰がどんなものかを知らなかった、しかしわれは、このコラーンで、わ
がしもべのうちわれの望む者を導く一つの光りとした。なんじは直き道に人びとを導く。神の道、それに、天にあり地にあるよろずのものは属する。
クルアーン42.51 ~ 53(イスラーム)
読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもう方、何も知らなかった人間に、教えたまえる方であられる。
クルアーン96.1 ~ 5(イスラーム)
それで私はそれを読み、彼は私のそばを離れた。そして、私は眠りから目覚め、その言葉が私の心の中に鮮明に残っていることを知った。今私は、神の被造物の中で、恍惚な詩人や惑わされた者たちより憎悪する存在がないことを知った。私は彼らを見ることすらできなかった。
それが私自身なのか、詩人やあるいは惑わされた者なのか、クライシュ部族は決してこのような事実を私に話してくれないだろうと私は考えた。私は山頂に登っていき、自ら下に身を投げて命を絶つことによって安息を得ようと思った。それでそうすることにして山の中腹に来たとき、私は天からある声を聞いた。「おお、ムハンマド! あな
たは神の使徒であり、私はガブリエルである」。
私が顔を上げて声の主を見ると、あ! ガブリエルが地平線に腰をおろしている人の姿で現れた。彼が言うには、「ああ、ムハンマド! あなたは神の使徒であり、私はガブリエル」。私は前にも後ろにも動かずに立ったまま彼を見つめた。そして、彼から私の顔の向きを変えて天を見つめ、再び前のように彼を見つめた。
「私かハディージャに『ああ、悲しいかな! 詩人なのか、惑わされた者なのか』と言った。彼女は再び言った。『私はそのようなものから神に保護を求めます。おお! カースィム、神はこのようにあなたを放っておかれません。
その方はあなたの真実さと信頼、品性と親切さを知っていらっしゃるからです。おお、愛するあなたよ! このようになったのを見ると、あなたがおそらく何かを見たのですね』。私はそうだと答えた。そして私が見たことを説明してあげた。すると彼女は言った。『お喜びください。私の親戚の息子よ! そして立派な心をもってください。(注48)明白に神のみ手がハディージャの霊魂にあるので、私はあなたがこの民の使徒になることを希望します』」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)
―み言選集―
聖人は、死の場でも自分の命を守って生きることができる力を開発しなければならず、そのような能動的な力をもたなければなりません。このような世界主義的な内容をもっていてこそ、聖人になることができるのです。このような事実をおいて考えてみるとき、ソクラテスよりはムハンマドが四大聖人の中の一人にならなければなりません。
(39-31、1971.1.9)
ムハンマドも同じです。イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構成し、求めてきたのです。
(39-316、1971.1.16)
②イスラームを立てるために迫害と苦難を克服したムハンマド
―宗教経典―
筆により、また書いたものによって誓う、なんじは、主の恵みによって気違いではない。いや、まことになんじには、尽きせぬ報奨があろう。まことになんじは、崇高尊貴な素質である。なんじらのいずれが気違いであるか、やがてなんじは見よう、かれらも見るであろう。まことになんじの主は、道から迷い去った者を、最もよく知りたまい、また導かれている者を、最もよく知りたもう方であられる。
クルアーン68.1 ~ 7(イスラーム)
信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。……神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。
クルアーン33.9 ~ 25(イスラーム)
使徒が神の戒めを受け、公にイスラームを伝え始めたとき、私が聞いたところでは、彼が彼らの神々をとがめる前までは、人々の態度は、退くことも彼に対抗することもなかった。
しかし、彼がそのようにすると、神がそのような悪から保護した者たち以外に、彼らはとても攻撃的に急変し、一致して彼を、彼らの敵として扱った。しかし、保護された者たちは数的に絶対劣勢だった。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)
―み言選集―
今日、聖人という班列に立った人は、神様を中心とする生活を夢見た人たちであって、人間の理想を中心とする生活を夢見た人は一人もいません。ですから、聖人は宗教の宗主だったのです。イエス、孔子、釈迦牟尼、ムハンマドのような人はそうでしょう?
彼らは、人間の生活を夢見た人たちではありませ
んでした。人間の生活よりもっと次元の高い理想的な生活の本体であられる神様がいることを知ったので、天を中心として理想を描いてきた方たちではないですか。
(61-67、1972.8.27)
第10章終末論とメシヤに対する希望
1.苦難
すべての宗教では、神様の決定によって人間の歴史が完成し、現在を飛び越える一時を期待する。そして、罪悪が滅亡し、善が勝利するものと信じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの経典の教えの中で重要な特徴は、千年王国の建設である。
キリスト教の出発は、イスラエルでの千年王国運動であると言うことができる。そして、ヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教なども、やはり道徳と宗教の退潮は、人間が更生され、純化する新黄全期の前兆として、この時、世界が宇宙的循環期に差しかかることを教える。
千年王国に対する信仰は、迫害される人たちをして、悪の制度がついに終末を告げ、彼らを新しい信仰革新運動と、さらには革命的運動に導くという希望をもたせることによって、社会に影響を与えられる。
ローマの暴政に抵抗するユダヤのバル・コクバの乱から中国の太平天国の乱と、ヨーロッパの植民支配から独立を要求したアフリカ独立教会の主張に至るまで、一連の運動は、政治、経済的自主権を促進した。
文鮮明先生は、今私達は末世に生きており、天国が近づいていると宣布しながら、それと類似した切迫感と可能性に身をおいていると教える。
しかし、このような千年王国に対する信仰は、人類を独善的であり独断的に導き得る否定的な側面ももっている。文鮮明先生は、復帰過程の原則によって末世の審判と苦難は、神側の人たちにまず訪れ、その強度もやはり不信者よりも大きいと警告する。末世や世の終末に関する教えは、下記に見るように3段階の類型で示される。
第1に、各種犯罪および罪悪と混乱が幅を利かせる苦難の時代、第2に、神様が決定的に参与し、罪悪の勢力を滅亡させる最後の審判の時代、第3に、いわゆる千年王国と呼ばれる前例のない幸福と平和の時代がそれである。苦難の期間、戦争、飢饉、疾病、自然災害、そして広範囲な混乱が人間を苦しめるだろう。一般の大衆は、快楽主義と物質主義に陥りながら道徳、倫理的衰退が現れるだろう。宗教もやはり創始者の教えを忘却したまま、自身の利己的目的のもとに合理化することによって崩れ落ちるだろう。文鮮明先生は、人間がこのような苦難に直面するようになり、その根は人間の堕落にあると明らかにしている。先生は、末世は堕落の結実を収める時だと教える。
ある経典は、最後の苦難の時代に獣、反キリスト、あるいはダジャル(Dajjal)など、神様の実体を否定し、大勢の人を偽りの真理で惑わす存在が現れるという。反キリストが誰なのかを糾明する努力があったが、時として教会の反対者に目星をつけながら、大部分は結実を見ることができなかった。
文鮮明先生は、歴史の暗闇の勢力、背後で作用するサタンの活動を見つけ出し、物質主義や無神論的共産主義の出現だけでなく、神様の人を攻撃する悪魔の術策を暴露する。
それにもかかわらず、先生は、イエスに反対する最初の人たちはイエスの弟子たちであり、したがって人を非難するよりも、私達が反キリストではないかと自分を探ってみなければならないと指摘する。
①末世に現れる信仰と道徳の堕落
―宗教経典―
後の悪世の生ける者たちは善根が少なく、高慢心が多く、衣服・臥具などの供養を貪り、不善根を増し、解脱から遠く離れているので、教化することが難しい……。(注1)
法華経13(仏教)
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
テモテヘの手紙二3.1 ~ 5(キリスト教)
(信仰心が深い)知識が消え、地震がとても多くなり、時間がとても早く過ぎていき、苦痛が現れ、殺人者が増加し、お金があなたの中にあふれる時まで、その時は確立しないだろう。
ブハーリー・ハディース2.17.146(イスラーム)
その時間が近づいてきたので、その中にはイスラームという名前だけが残り、コーランの単純な姿だけがある。その時、ムスリムたちのモスクは、知識と礼拝がない所となり、知識人たちは天の下で最も卑賤な人になり、論争と闘争がやまないだろう。そしてそれは、彼ら自身に帰っていくだろう。
ハディース(イスラーム)
ズォチュフのラビ・ミクハルが言った。「ある日、私達が師であられる7日の光、イスラエルのラビ、バアル・シェム・トーヴと旅をしていた。師は、午後に祈りのために森に行かれた。ところが、突然、木に頭をぶつけて大きく泣いていらっしゃるではないか。あとで理由を尋ねた、師が言われるには、「私が聖霊を迎えたとき、私は主が来られる前に近づいてくる未来を見た。ハシディックのラビたちは、数的には相当に増加するが、彼らによって贖罪が延長されるだろう。彼らが人々に根拠のない憎悪と心情の分裂をもたらすからである」
ハシディックの説話(ユダヤ教)
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8(キリスト教)
メシヤの伝令が来る時に起きることは、次のようなことだ。憶測が横行し、欠乏現象は極限に達し、ぶどうの房は熟していないのにぶどう酒は高く取引され、国家は異邦人の国に転落したのにとがめる者がいないだろう。学園は偶像崇拝の場となり……。
律法学者たちの知恵は活気を失い、罪を避ける者はかえって軽蔑され、ゆえに真理はそのどこにも発見されないだろう。子供たちが大人の恥となり、大人たちは子供たちの前に立って怒りを表すだろう。その世代の顔は、犬のようにあつかましく、子供たちは父母たちの叱責を眼中にも置かないだろう。私達は誰に頼るのか。天にいらっしゃる父以外にまた誰がいるのか。
ミシュナ、ソーター9.15(ユダヤ教)
ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。
彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。
その後彼らは地上に再び正義を立でるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な
時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ4.24(ヒンドゥー教)
ちょうどその時、人々は十の善い行いの名称を全く聞くことはなく、ただ十の悪い行いが世間にみちみちるであろう。……このとき人々が極めて悪い行いをなすことができ、父母に孝行せず、先生や先輩を敬わず、忠義をつくさず、反逆的で、正しい道にもとっていれば、尊敬をあつめることであろう。……
そのときの人々は十の悪い行いをなすものが多く悪道に墜落するものが多いであろう。猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したいと思うであろう。
阿含経長部iii.71 ~ 72(仏教)
―み言選集―
今、青少年の問題が深刻になっています。青少年の倫落間題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年時代、ティーンエイジャーの時に陰でフリーセックスをして根を植えたので、終わりの日には必ず世界的にティーンエイジャーのフリーセックスが現れなければならないというのが理論的だというのです。
サタンは、神様が真の愛を中心として、堕落前の絶対愛の基準を中心として天国に連れていこうとしていることを知っているのです。再臨主が来て、そのようにすることを知っているので、サタンが戦略で完全にこの基準をすべて壊してしまいました。
愛という基盤がないので、フリーセックス、ホモ、レズビアンになるのです。ホモ、レズビアン、これは天使長の種です。天使長は愛の相対がいません。(注2)終わりの日には、裸になって一度に死のうというのです。これが天使長の子孫の末路です。これが地上地獄、サタン世界が地獄化する世界なので、この180 度反対を求めていけば、天国と通じる道があるのです。今後、再臨主が来てこの世の中を救ってあげるために、180 度の道を教えてあげたのち、天に連れていくようになることを知らなければなりません。
(279-121 ~ 122、1996.8.1)
堕落とは……アダムとエバが神様を不信し、背信したことが宇宙的な恨の種として蒔かれるようになりました。それでは、終わりの日に、どのようなことが起きるのでしょうか!
終わりの日には、父子の関係で仲たがいすることが起きます。人間始祖に神様に背いた不信の因縁があるので、その血統を受けて生まれた人間たちにも、終わりの日には、子女が父母に対抗するようなことが起きるようになるのです。
皆さんは、このような時代が来るとき、背信しようにも背信できない真の父母をこの地で探し出さなければなりません。皆さんがとどまっている現在の環境は、信仰の因縁で結ばれたものではない
ので、不信の現象が起きるのです。父子の関係がこのようになり、夫婦の関係がこのようになり、また、一家、親戚の関係が不信の風潮になり、人間たちが指向している意志までも根本的に破綻させてしまう拒否現象があちこちで現れれば、皆さんは、その時が終わりの日であることを悟らなければなりません。
(2-330、1957.7.28)
エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。すべて怨讐だというのです。
ですから、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になるのです。国同士が怨讐になり、すべての因縁がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来るなら、その時が終末であることを知らなければなりません。
その時が正に今です。子供が親を殺害する事件が起こり、親が子供を殺害する事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。
それはなぜでしょうか。エバどアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様もすべて怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、すべて戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。
それで、どこに行くのでしょうか。行く所が分からないのです。世界もそのようなことが起きます。今、民主世界と共産世界の二つの群れに分かれていますが、これからは3カ国だけでなく4カ国に広がります。筋道がつかめないのです。きのうは悪いと言っていたことが、きょうは世界に登場したりします。
きのうまで勢力のあったものが、きょうになると追放されます。世界的に筋道がつかめません。国家的に見るときも、これからの大韓民国がどのように行くのか分かりますか。アメリカがどのように行くのか分かりますか。国家的に筋道がつかめないのです。また、ある団体なら団体がどのようにしなければならないか分かりますか。家庭なら家庭がどのようになるか分かりますか。すべて不信する作用が起きるのです。そのような時になれば、終わりの日が来ることを知らなければなりません。
(50-213、1971.11.7)
宗教圏がすべて滅びました。キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラーム……。イスラームはあとから出できたのですが、宗教の形態はもっていても、今ではもうすべて滅んだというのです。滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな地獄のようになってしまいました。
神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星に見いだすことができないという結果になったのです。アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていける息子が、心と体を一つにして、娘と一つになって神様が願われる堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭はないとうのです。その夫婦によって息子、娘が生まれなければならないのです。父母と息子、娘が闘わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれているのです。
(342-268、2001.1.13)
縦的なものが中心です。縦的な基準が立つことによって、プラスとマイナスの概念が出てきて、男性と女性の概念が出てきます。縦的な概念がないので、男性の概念、女性の概念が雑然としているのです。ですから、混乱現象が起きます。これでもなくあれでもなく、男性でもなく女性でもなく、混乱が起きるのです。終わりの日にこれがすべてフリーセックスのように……。それは悪魔サタン、悪霊たちの破壊主義です。そうして混乱現象が起きるのです。
(189-127、1989.4.1)
人間が長成期完成級で堕落したので、完成段階が残っています。(注3)完成段階の期間が7年です。……私達は、7日を中心としてこれを7年で蕩減するのです。……この7年路程で責任を果たせない家庭は、滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。家庭が責任を果たせなければ、7年路程は延長するのです。……これが7年の大艱難であり、歴史上で初めての艱難です。これが統一教会で言う7年路程なのです。
(23-217、1969.5.25)
自由世界で最近、結婚を正式にしないで不法結婚をして暮らしています。すべて結婚をしない形式を選びます。……すべて滅びると思うのですが、神様は助けてあげるための作戦を今、行っています。このように見てこそ、世の中のすべてのものが解けます。神様の立場から、すべて解かれていくのです。
霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようにはなっていません。ですから、真の愛の起源を見いださなければ、これが一つにならないのです。それが最も理論的です。その場を皆さんが越えていき、天が祝福してくれる祝福を願っていかなければなりません。
(91-184、1977.2.6)
②戦争、自然災者、蔓延する惨状
―宗教経典―
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイによる福音書24.6 ~ 13(キリスト教)
その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
ダニエル書9.26 ~ 27(キリスト教)
社会は大破壊と荒廃をもたらす破壊的な戦争により蹂躙されるだろう。最初は征服者たちが彼らの勝利と獲得した戦利品に喜びを満喫するが、そのすべてのものはとても悲しい結果をもたらすだけである。私は未来の戦争に関して警告するが、あなた達はそれらがもたらす極悪無道な罪悪に対して考えることができない。
ナフジュ・アル・バラーカ説教141(シーア派イスラーム)
それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。
私はお前を、私の地に連れて来る。それは、ゴグよ、私が国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるためである。
エゼキエル書38.14 ~ 16(キリスト教)
―み言選集―
神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。
御旨の道、試験・試練
神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的に憎悪と闘争で、歴史を通じて天を滅ぼそうとしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。
末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第2次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。(270-232、1995.6.7)
神様の摂理において、個人的にサタン世界に勝たなければならず、家庭、氏族、民族、国家、世界的にサタン世界にすべて勝たなければなりません。いつでもサタン世界が先にあるのです。家庭があれば、サタンは国までもっています。ですから、アダム時代、イエス時代、イスラエル民族の歴史時代に過ちがなくなるのではなく、過ちが積み重なったのです。……
それでは、イエス時代、2000 年の歴史においてキリスト教が天の前に責任を果たせなかったすべてのことが、ただそのまま蕩減され得るだろうかというのです。これが残っているのです。
ですから、第1次、第2次の世界大戦など、戦争の歴史というのは、蕩減法によって蕩減するための神様の摂理の中で起きたのです。それで、第2次大戦が終わるとき、キリスト教文化圏を中心として、サタン世界とキリスト教文化圏が一つの統一世界を迎えたのです。
ですから、キリスト教によって統一された一つの国です。キリスト教文化圏を中心として、日独伊と英米仏は相対的です。英米仏と日独伊となってサタン世界の心と体が分かれて闘うのを一つにしなければなりません。一つにするのです。一つにしたところに再臨主が来て、真の父母様を中心として心と体の統一、家庭統一を成し遂げなければなりません。
(292-180、1998.4.12)
人類は第2次世界大戦の痛手を踏み越えて、すべての国が平和になり得る道を見つけようとしました。神様は私に、2000 年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は「真の父母」、「真の家庭」を見つける公式路程でした。
しかし、当時の韓国のキリスト教指導者たちは、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は、迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。既成教会の歴史的な過ちが条件となり、韓国で悪が勢力を得る霊的基盤が造成されたのです。韓半島が分断され、半世紀にわたる受難の歴史とならしめた摂理の内的な原因となりました。
(288-166、1997.11.27)
③悪魔と悪霊の襲撃
―宗教経典―
第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。
いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を
望んでも、死の方が逃げて行く。さて、いなごの姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシァ語の名はアポリオンという。(注4)
ヨハネの黙示録9.1 ~ 11(キリスト教)
―み言選集―
地上世界が一つの理念圏内に入っていけば、どのようになるでしょうか。地上より少し善のものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日、名前もない神経症など、神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは「天地双和湯(双和湯:疲労回復のための煎じ薬)」を飲まなければなりません。
(3-353、1958.2.9)
数千億、数万億の霊人たちが地上を占領するための攻略をしてきます。ノイローゼ現象がその一つです。もう少したって、80 年代、さらには2000 年代を超えれば、その時は悪霊に通じるか、善霊に通じるか、すべて霊的に通じるかもしれません。「戦争をするな」と言っても、闘わざるを得なくなるのです。(注5)そのような時が来るかもしれません。
高いアンテナには、ピーピーという音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上攻略をしてくることです。その場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球上にいっぱいになったとしても、悪霊が攻略してしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心
として霊界の基台を広げてきているのです。
(55-30、1972.4.23)
④野獣、反キリスト
―宗教経典―
だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
まだ私があなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。
不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。
彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
テサロニケの信徒への手紙二2.3 ~ 12(キリスト教)
かれらに対しおことばが実現されるとき、われは大地からかれらに一獣を現わし、「まことに人間たちは、わがしるしに確信をいだかないでいた」と、申し渡すであろう。
クルアーン27.82(イスラーム)
ダジャルが彼と共に水と火をもって現れるだろう。人々が水と見たものは燃える火であり、彼らが火と見たものは冷たく甘い水である。あなた達は誰でもその時まで生きれば、彼らが火と見たものにはまっていくが、それは甘く新鮮な水だ。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒pするさまざまの名が記されていた。私が見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。
そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができよう
か。だれが、この獣と戦うことができようか。」この獣にはまた、大言と冒pの言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒pし、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒pした。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。
地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは
皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
私はまた、もう一匹の獣が地中から上って来
るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、ま
た、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(注6)
ヨハネの黙示録13.1 ~ 18(キリスト教)
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らは私達から去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私達のもとにとどまっていたでしょう。
しかし去って行き、だれも私達の仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
私があなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアで
あることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネの手紙一2.18 ~ 22(キリスト教)
―み言選集―
蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第1に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。
したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.1
神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。
このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自業自得となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。
したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠が
あるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.4.1
皆さんがもし理想の園、終わりの日の世界的な新しい栄光の日を迎えることを願うのなら、皆さんは、悲しまれたイエス様の心情、悲しいイエス様の生涯を思い、切ない心で天に向かって身もだえしながら歩んでいけなければなりません。
ところが、このようなことを行わず、考えてもいない立場で主の栄光を願う人がいますか。もしいるなら、そのような人がすなわち、反キリストであり、偽りの預言者です。
使徒たちがイエスの前に反キリストの立場に立つと、誰が思ったでしょうか。また、選ばれたイスラエル民族とユダヤの教団が反キリストになるとは、誰が思ったでしょうか。終わりの日にもこれを心配しなければなりません。今は人を非難し、人のことに干渉する時ではありません。自分自身が問題なのです。教団が問題ではありません。終わりの日に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。(注7)今まで人を問題にしてきた人は、すべて自分を失ってしまう歴史路程を経てきたのです。
(2-277、1957.6.16)
お父様!今や、死亡の都が審判のひと日を目前にしています。お父様、このような時に際して恐怖の世界であえいでいるこの人類、行くべき道を知らずに彷徨しているこの人類、中心を失ってしまい、処すべき立場を知らず、とどまる所を探し出すことができずにいる人類を哀れにお思いくださって、あなたの懐に帰れるようお導きください。
(5-60、1958.12.21)
2.最後の審判
人々は、末世に現れる事件を希望と恐怖が入り混じったまま注視してきた。迫害を受けた人にとって末世は、罪悪の権勢が崩れ、罪人たちが処罰を受ける希望の日である。自分の罪を苦痛に感じ、救援を否定して疑っていた人たちにとって末世は恐怖の日である。
個人に対する最後の審判は、死ぬ時に現れるが、これに関しては第5章で既に論議した。しかし、終わりの日のこの世の中全体に対する全般的な審判がある。神様の王国に関する約束が成し遂げられようとすれば、地球上から罪悪を永遠に除去しなければならない。
大勢の信仰者たちが最後の審判を文字どおり世の中の終末という超自然的事件として解釈しているが、文鮮明先生は、最後の審判は過去の罪悪の伝統が消え、すべての人たちが地上天国を建設するために尽力する時代に転換する時に起きる過程的現象であると教える。イエス様が麦と毒麦に例えたように、堕落した世の中で善は人知れず成長するが、時に至れば善と悪を区分する瞬間が到来するだろう。その時、人々は、自分たちの罪を悟り、神様のみ言の審判を受け入れ、あらゆる罪悪と堕落性を根本的に取り除き、日常生活で真理のみ言を具現することによって、段階的に神様の民に変貌していくのである。
①すべての罪悪が現れ、審判が履行される
―宗教経典―
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。
そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、“まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい”と、刈り取る者に言いつけよう。』」
マタイによる福音書13.24 ~ 30(キリスト教)
私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハネによる福音書12.47 ~ 48(キリスト教)
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。
かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住
め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。
また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる。そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。
かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.71 ~ 74(イスラーム)
主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。私が備えているその日に、彼らは私にとって宝となると、万軍の主は言われる。
人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。そのとき、あなた達はもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。私が備えているその日に、あなた達は神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなた達に遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。
マラキ書3.16 ~ 24(キリスト教)
それでラッパが、ひとふき吹かれたとき、大地や山々はもたげられ、一撃で粉々に砕かれ、その日一大事件が起こる。また大空は粉々に裂ける、天がもろく弱い日であろう。
天使たちは、その辺境におり、その日、八人の天使がかれらの上に、なんじの主の玉座をになうであろう。その日なんじらは審判のため集められ、なんじらのどんな秘密も隠しおおせないであろう。
それで右手にその行状記を渡される者は、「ここに来てあなたがたは私の行状記を読め。私の清算に会うことが、ほんとうにわかった」と言おう。
こうしてかれは至幸な生活にひたり、高い園の中で、もろもろの果物は、手近にある。「あなたがたは過ぎ去った日に送った善行のゆえに、満悦して食べかつ飲め」(と言われよう)。だが左手にその行状記を渡される者は、「ああ、わしの行状記が渡されなかったならば、わしは自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった。ああ、死がわしの終末であったならば。
富は、わしに役立たなかった。権威は、わしから消えうせてしまった」と言おう。「かれを捕え、鎖を巻け、それから燃えさかる火で、焼け。
クルアーン69.13 ~ 31(イスラーム)
だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリンの信徒への手紙一3.11 ~ 15(キリスト教)
―み言選集―
エデンの園のアダムが堕落することによって、神様を中心とする善が終わり、サタンを中心とする悪が出発しました。この悪が終わりを告げなければならない時が末世です。善が終わることによって偽りのみ言が出てくるようになったのであり、偽りのみ言によって真の人格の実体を失ったのであり、偽りの愛をもつようになりました。ですから、第1には真理の審判、第2には人格の審判、
第3には心情の審判をしなければなりません。これが終わりの日の三審判です。
終わりの日には、悪が世界的に審判を受けます。自分だけのために生きるのは、個人主義であり、自己中心です。したがって、それは悪です。主は、審判されない方法を教えます。それは、自分よりもっと大きなもののために生きなさいということです。
自分ばかりを中心とすれば破滅するだけです。公的なもののために生きなければなりません。子女に対する愛も、天国の民をつくるための愛でなければならないのです。個人の立場から見るとき、自分のために引き込むのは悪であり、人のために与えるのは善です。1日24 時間、善と悪のうちどちらにより傾いているかによって審判が決定します。皆さんは、今もこの審判場を越えていっているのです。
(17-329、1967.4.16)
皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前には愛のイエス様ですが、不義と悪に従事する人の前には赦しのない審判主です。かわいそうな漁夫や官吏、そして娼婦のような人たち、つまりその時代に排斥され、追われた群れが、ひれ伏して骨髄にしみる哀訴を打ち明ける場では愛のイエス様ですが、正義の道を行くために精誠を捧げる群れに剣を掲げていくローマ帝国とユダヤの役人のような群れの前には審判主だったのです。
愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主だというのです。もしイエス様が愛のイエス様だけであれば、今日のキリスト教で主張する終末時代の審判役事はあってはいけないというのです。
(14-309、1965.1.10)
ペテロⅡ3章12 節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書4章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書12 章49 節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。
しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであ
るから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。……
それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書1章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。
したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。
ヨハネ福音書1章14 節には、「言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。
このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書12 章49 節に、「私は、火を地上に投じるためにきたのだ。火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ1:14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.2
大審判とは何かというと、この目から体全体がサタンの血を受けたので、それをきれいに浄化させることです。大審判というのは、サタンを葬り去ってしまうことではないということです。サタン世界の歴史を汚したすべての淫乱な、非法的な、非良心的な基準に立ったすべてのものを、良心基準、心と体が一つになり、五官が正しく立ち得る自分自体を中心として全体を解消させることを意味します。
(378-149 ~ 150、2002.5.9)
これから私達若い男女が知らなければならないことは、真理に立脚した新しい世界が必ず訪れてくるということです。ですから、その世界に符合できる内的人格が真理の基台の上に蘇生されなければ、時代の思潮に追い出されていくのです。真理の審判があり、その真理を中心とする人格の審判があり、そして真理と人格が一つになって神様の心情を通過しなければならないのですが、それが心情の審判です。
(14-179 ~ 180、1964.10.3)
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