人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-44

2022年06月19日 16時58分16秒 | 学習

2.人生の季節

人生にも季節がある。少年期、青年期、成年期、そして老年期などがそれである。少年期は学びの時である。何にでも簡単に影響を受けて学ぶのに大きく開かれている時である。青年期は、自己訓練が必要な探求の時である。二十代は、家庭と職業のために基盤を築く時である。中年期は、自分の目標を成就する時である。そして老年期に入っていく。

この時は、人生の結実が現れる時である。ある人は霊的訓練と道徳的人生を通して得た知恵が現れる反面、ほかの人は浪費した人生の惰弱さばかりが現れる。この時が近づくと、既に人生を改めるには遅い。人間の一生に関するより多くのみ言は、第19 章に詳細に紹介されている。


①児童期と青少年期

―宗教経典―

すべての子供たちは、純粋さと神に対する服従を備えた本性をもって生まれる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)

孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子IV.B.12 (儒教)

魚は新鮮なときに巻かなければならない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)

エリシャ・ベン・アブヤが言った。若くして学ぶのは何と同じか。それは新しい紙に書いたインクと同じだ。老いて学ぶのはどうか。それは消された紙の上に書くのと同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.25 (ユダヤ教)

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ人への手紙5.12 ~ 14(キリスト教)

子供たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、私があなたがたに書いでいるのは、
あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ヨハネの手紙一2.14 (キリスト教)

お前は宇宙の四つ角に走っていくだろう。
地が大水と出会う所まで、
天が地と出会う所まで、
冬の故郷まで、
雨の本郷まで、
走っていけ、ここに! 走れ!
丈夫であれ!
お前は民族の母なのだから。
アパッチ族の成年式の歌(アメリカ先住民の宗教)


一み言選集―

お父様!私達は幼子にならなければなりません。
おなかがすけば、「おなかがすいた」とお父様のみ前にねだる幼子にならなければなりません。幼子にはお母さんを欽慕する性急さがあります。その幼子は天真爛漫です。育てれば育てるほど、大切に抱き、培えば培うほど、父母の基準に従って育ちます。

お父様!ここに集まったあなたの子女たちを重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきたこの者たちが、その事情を全部打ち明ければ、
お父様が動じずにいられないことを知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子がお母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)

アダムとエバを造っておいて、すぐにそれができ上がればどれほどよいかと思うかもしれませんが、そのようになりません。一番の底で小さなものが大きくなり、ある程度まで上がってこなければなりません。上がってこなければならないのです。
これが全体の宇宙と関係を結べませんでした。この男性が成長し、15 歳、16歳、17 歳になり、ここに上がってくれば、ブラス・マイナスの宇宙がすべて自分のものになります。詩的になってすべて目覚めるのです。思春期がそうです。家を出て世界を歩き回り、どこかの海にも行き、自分の相対がどこにいるか、目を見開いて歩き回るのです。
(130-155、1984.1.8)

このように青年期には、皆さんが香りを発散するようになります。その香りは広く広かっていきます。虫や蝶がその香りにひかれて飛んできます。ですから、この時期に若者が、若い男女は何を願うでしょうか。彼らは最高のチャンピオン、最高の学生、あらゆる分野で最高になりたいと思うのです。
(52-262、1972.1.2)

今日のティーンエイジャーたちが……。目がひっく返って、どこにでもくっつこうとします。それによって社会に破綻をもたらし、自分自体に破綻をもたらすのです。また、思春期は変わる時なので、誰が一言言っても、「ええい!」と言って……。みなそうだというのです。ちょうど変わる時なので、相対をもって定着するのではなく、しきりに動き回ります。

それで、秩序に従って状況を見ながら行かなければならないというのです。皆さんは今、これをすべて整理しなければなりません。善悪の中で悪は何ですか。破壊するものです。何の保護作用も成立しないということを知らなければなりません。
(118-197、1982.6.1)


②成熟と老年期

―宗教経典―

先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
論語2.4 (儒教)

先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」
論語9.23 (儒教)

彼の頭が白いが故に年寄りなのではない。実に年若くとも[ヴェーダを]学んでいる者を神々は年寄りとみなす。マヌ法典2.156 (ヒンドゥー教)
あなたは生命を延長することはできない。ゆえに、不注意でいいかげんな人生を生きてはならない。老いれば既にどうすることもできない。
ウッタラッジャーヤ4.1(ジャイナ教)

学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知恵は増えない。
法句経152(仏教)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。

人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.1 ~ 7(キリスト教)

あなたのほほに白髪が下がり
額にしわが深く谷をつくり
肉身が骨組みになる前に、
歯がはぐきから抜け
背が地に向かって曲がり、
あなたが他の人の重荷になる前に、
片手に杖を持ち
もう片方の手で膝を押して立ち上がる前に、
歳月があなたの肉身の美しさをむしばみ
あなたが死の苦痛を感じる前に、
我々の主、クダラ・サンガマを崇拝せよ!
バサヴァンナヴァチャナ161(ヒンドゥー教)


―み言選集―

人間にとって最も重要な時はいつですか。少年時代ではありません。青年時代を超えて壮年時代に行く、すなわち20 歳を超えて40 歳に至るその間が最も重要な時期です。人は20 歳から30 歳に至るまで、人としての土台を築き、そこに自分が隠居できる確固たる基盤を築いておかなければなりません。

また、その後に明確な目的を中心として行くことができる環境的な基盤を備えなければなりません。そのようにできない人は、30 歳を超えて40 歳に向かっていくとき、無意味な人間、平凡な人間として生きざるを得ません。
(22-314、1969.5.11)

人の一生を見てみるとき、活動能力を最高に発揮できる時は、いつでしょうか。二十代から四十代、あるいは五十代までです。この20、30 年の期間が全盛期です。しかし、40 歳を超えると、その基準から下がっていきます。このような観点から、皆さんはみ旨のために働ける期間がどのくらいになるかという問題を考えてみなければなりません。
(33-186、1970.8.12)

この生がいくら貴いと言っても、青春の時期に比べることができないことを知っています。お父様、
私達が壮年になれば荷を背負わされるようになり、壮年の時期に闘ってもちこたえられなくなるときには、その結実された子孫が悲惨になることを知っています。

それゆえ、壮年の時代を力強く過ごし、老年の時代を経て新しい春を迎え、新しい夏の節気を見ることのできる子孫を、自分の懐の中にもった家庭であってこそ、その後にやって来る秋の節気を無難に克服できるということを知るものです。

これが人生というものであり、世界の歴史時代においても、象徴的な現象であることを眺めるようになるときに、お父様のみ旨の前においても、やはり同じだということを知るものです。
(31-139、1970.5.3)
3.善の啓発

善は努力を必要とする。悪が支配し、私達の心と体を汚染させるこの世の中で、私達が正しいことを行って生きることは簡単ではない。したがって、本当に善の人になるためには、自分に対する絶え間ない訓練が必要だ。アリストテレスは、善の性稟を啓発するのは技術を習得する過程と同じだと見た。

長い間持続的な努力によって善行を実践する人は、善の習慣を形成するようになる。数年間養われた善の習慣は、善の性格形成へと続く。人間の霊魂は、良い作物を得るために、種を蒔き、耕作し、毎日毎日雑草を除去しなければならない田畑と同じである。

善を追求する代わりに、小さな過ちだとみなし、自分の過誤を一つずつ黙って見過ごしていけば、時間がたつに従って悪い習慣が徐々に体に宿るようになる。善は善を生み、悪は悪を生む。文鮮明先生は、私達に再度この事実を想起させる。悪は堕落人間の中で繁殖することを好む。したがって、常に善に生きるために積極的に努力しなければならない。ごく小さな過誤が私達を没落に導いていくからである。


①実践的生涯を通した善の啓発

―宗教経典―

すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。
法句経183(仏教)

君子は善を見れば遷ってこれに従い、禍ちがあればこれを改める。
易経、周易下経、益42(儒教)

常にトーラーと慈善に尽くしなさい。その上、他の底意があるときさえも善行の習慣が積まれ、結局動機まで善になるだろう。
タルムード、プサヒーム50b(ユダヤ教)

聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。
法句経239 (仏教)
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできる島をつくれ。
法句経25(仏教)

トーラーを研究すれば正確な人になる。次は情熱をもつようになり、情熱を超えて清潔さに、清潔を超えて自制力に、自制力を超えて純潔さに、純潔さを超えて高貴さに、高貴さを超えて温順さに、温順さを超えて罪を警戒する人となり、次は崇高に、崇高さを超えて聖なる霊魂に、聖なる霊魂以降には永遠の生に入っていく。
タルムード、アヴォダー・ザラー20b (ユダヤ教)

この自我は真実と苦行と正智と不断の梵行とによりて得らるべし。身内にありて、輝ける光明所成の彼を照観するはただ罪障を滅したる修行者のみ。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.5 (ヒンドゥー骸)

あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私達の主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ペテロの手紙二1.5 ~ 8(キリスト教)

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べでしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

このたとえが分からないのか。……種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
マルコによる福音書4.3 ~ 20(キリスト教)

器量はこれをまず働かせた上で、獲得する。それは、ちょうど、さまざまな術について見られるところと同じである。すなわち、われわれは学び知ってからなすべきはずのことを、なすことによって学び知るのである。

たとえば、ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。これとちようど同じようにわれわれは正しいことをすることによって勇気あるひとになるのである。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.1.4(ヘレニズム)

注意深く適切な行為、規範を確認し、それらを昼夜手本として従い、一瞬の怠慢や中止もないようにせよ。ある程度時間が過ぎたのちに私達はそれらに慣れるようになり、そうなれば、私達はそれ以上、それらに従う必要なく、私達自身の基準をつくるにとができるようになる。
朱熹(儒教)

あなたが習慣にしようとするものは、何であってもそれを実践せよ。そして、あなたがあるものを習慣にするまいとすれば、それを実践せず、あなた自身を他のことに習熟するようにせよ。
エピクテトス(ヘレニズム)

自己修養を長い間継続すれば、徐々に喜びの精神に導かれるようになる。喜びの精神は、柔らかく、寛大で、優しく、調和するものを求めるようになるだろう。これを願う人は、誰もがその悪い感情を除去し、怒りをなくさなければならず、反対を呼び込み、憤怒を引き起こす逆境から自由にならなければならない。個人の、そして長い間の綿密な調査は徐々に理の説明へと導かれるようになるだろう。完全な理解は、他の人に公然と彼を批判なく素直に影響を及ばせることを知るようになるだろう。これを留意する人は誰でも見聞が広がり、影響力があるようになり、拒絶され、そして争いの中で生じる憂慮から自由になるだろう。

この上、私達はさらに積極的に事物の理を観察し、私達の根本的な感情を調査しなければならない。個人的にこのようなことに対し時間をおき、注意深く考えてみる、自身の知的精神的能力を通して経験しなければならない。このようなことを行えば、偏見と虚位の過ちから自由になるだろう。

すべてのことにおいて常に自身の学びの力を点検することは重要である。もしある障害物や過ちがあれば、その病弊を発見し、それを根こそぎ抜いてしまうときまで、深く究明せよ。
朱熹(儒教)
―み言選集―

善と悪は、未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。
御旨の道、善と悪

心や思いでは善悪が決定しません。行動をしてこそ善悪が決定するのです。そうではないですか。行動しない熱情では、罪として糾明できません。現れないからです。実体でなければ認定できないのです。いくら何かをしても、証拠がなければ決定できないでしょう? 同じことです。行動した結果によってすべてのものが決定するのです。思いだけをもってすべて分かっていると思っても、その世界と私は何の関係もありません。
(359-166、2001.11.7)

皆さんが勉強するために本を読むとしても、ただ読むだけでは駄目です。そこには必ず読む練習をして、訓練する過程が必要です。私達が音楽を聞く場合にも同じです。ただ一度聞いただけでは駄目です。その音楽に対して深く詳細に理解するためには、必ず時間的過程と訓練が必要です。私達が語ることにおいてもそうです。語ることにおいて、人よりも有名になり、抜きん出るためには、ただそのままそうなるのではなく、必ず訓練過程がなければなりません。私達の行動もそうです。私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。
(67-178、1973.6.10)

有名なバイオリン演奏者たちは、たくさん鍛え、触れ、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの筒の音がすべて分かるのです。分かってするので、和音になる音の構造が、それ自体の細胞が変わります。それで、そこから出てくる音が神秘的になるのです。同じことです。精誠を尽くさなければなりません。祈祷とは何ですか。精誠を尽くすことです。どこに行ってもアンテナを立てていなければなりません。一瞬も放心することはできません。
(241-179、1992.12.24)

堕落した人間がどのように再び善であられる神様のところに行くことができるのですか。まず良心を通して本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善とみ言の価値を表さなければなりません。

そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを見いだされるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。ところが、これが人間の堕落によってすべて挫折してしまったのです。
(2-320、1957.7.21)

霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。

人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。

霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。

生心の要求するものとは何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。

ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。
原理講論、創造原理6.3.2

心と体が一つにならなければ、天国に行けません。矯慢にならないでください。謙遜にしなさいというのです。祭物になりなさいというのです。それで、宗教はすべて体を打つのです。3年以上犠牲、奉仕しなさい、断食しなさいと言うのですが、それは人間が好むものではありません。
(245-58、1993.2.28)


②善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る

―宗教経典―

善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
法句経116 (仏教)

小さな教えでも、行おうと努力せよ。罪から逃げよ。教訓はもう一つの教訓を生み、罪はもう一つの罪を生む。教訓の報いはもう一つの教訓であり、犯罪の償いはもう一つの罪である。
ミシュナ、アヴォート4.2 (ユダヤ教)

「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
法句経121 ~ 122 (仏教)

持っている人は更に与えられて豊かになるが持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタイによる福音書13.12(キリスト教)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)

黒いやぎは暗くなる前に早く捕まえなければならない。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

孟子が高子に向かっていわれた。「山の嶺の細い小路も、絶えずきまってそこを人が通れば、やがては路らしい路になるものだが、それも暫くの間、通らないでいると、また茅などの雑草が生い茂って、路を塞いでしまう。……もう今では、茅がお前の心を塞いでしまっているぞ。」
孟子V1I.B.21 (儒教)

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。
「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
マタイによる福音書25.14 ~ 30 (キリスト教)

孔子のことば。小人は不仁を恥とせず、不義を畏れず、利益があると見なければ一生懸命にならず、刑罰で威しつけなければ懲りない。してみれば小さく懲らして大きな誡めを与えることは、小人にとってもしあわせのことなのである。易に「校を履いて趾を滅る。咎なし」とあるのは、このことを言ったものである。

善行も積みかさねて行かなければ名声を勝ちとるには至らぬし、悪事も積みかさねなければ身を滅ぼすには至らない。ところが小人は小さな善行などやっても無駄だと考えてやろうとせず、小さな悪事はやってもさしつかえないと考えて止めることをしない。だからやがては悪事が積みかさなって隠すことができなくなり、罪が大きくなってのがれることができなくなる。易にも「校を何いて耳を滅る。凶なり」と言ってある。
易経、周易繋辞下伝2.5.7 ~8(儒教)

一度自らにうそをつくことを許した人は、二度、三度、さらには、ついにそれが習慣になるまで簡単にうそをつくようになる。彼は深思熟考せずにうそをつき、真実を語っても世間から信用されなくなる。
トーマス・ジェファーソン


―み言選集―

体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私達の個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1.2

習慣的にうろうろ、行ったり来たりし、聖日も行ったり来たりする、進展もなく、ただ停止状態でついてきた人たちは、み旨のために何かを意欲的に実践した経歴がないので、人が良い、悪いと言っても、良いのか悪いのか無感覚なのです。そのように10 年を経て初めて「私はこのような位置にいるのだなあ」と恥ずかしく感じる人もしいたというのです。
(89-231 ~ 232、1976.12.1)

人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用することを、私達は自分の心を通してよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、そこに比例して悪の心が常に対決しているというのです。

また、善の心は、何かの目的に向かっていくとしても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、目的とするその世界に向かっていくにおいても、善の心を刺激させることのできる過程や因縁を発見することが難しい反面、悪はその過程に満ちあふれていて、その過程を経て最後まで連結されています。このようなことを見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
(36-51 ~ 52、1970.11.15)

4.決断

道徳的人生とは目的のある人生を意味する。そして、それは決断を必要とする人生である。自然に善になる人はいない。目的なく人生を過ごしていく人は、悪の流れに陥って溺死しやすい。私達は常に分かれ道に立つようになるが、より善の道とより悪の道がそれである。そして、その選択は私達の責任である。経典では、これを生と死、狭い門と広い門、二人の主人の間で選択しなければならない私達の決断力にかかっているという。

文鮮明先生は、人間は中間的存在であり、互いに反対方向に作用する善と悪の力によってどの方向にも引かれていくと言われる。これは、良心を通しで私達を導く神様と、自己中心の欲望を追求せよと刺激するサタンの間の葛藤であり闘争である。このような困難な状況で、自分の道を選択し守っていくことは、各個人の責任である。

―宗教経典―

勝善と福楽とが人に至れる時、賢者は両事を精査して検別し、福楽を捨てて勝善を選ぶ。愚人は利養を求めて福楽を選ぶ。
カタ・ウパニシャッド1.2.2 (ヒンドゥー教)

人は常に善悪の岐路に立つ。
処世訓(PL 教団)

一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)

神は一つの比喩を提示したもう、多くの主人がいて互いに争う者と、ただひとりの人に完全に仕えている者と。このふたりは比べてみて同じであろうか。
クルアーン39.29(イスラーム)

見よ、私は今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、私が命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
申命記11.26 ~ 28(キリスト教)

耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ最勝のことを。それはひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、それというのも重大な走行に先だち、それに目ざめさしめんためです。

では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
アヴェスター・ヤスナ30.2 ~ 3(ゾロアスター教)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書7.13 ~ 14(キリスト教)

悪いことが多いので、なんじを驚かせるであろうが、悪いことと善いことは同じではない。それでなんじら思慮ある者よ、神を畏れまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。
クルアーン5.100 (イスラーム)

われはかれのために、両目と一つの舌と二つの唇を、つくったではないか。さらに二つの道をかれに示したではないか。だがかれは、けわしい道を取ろうとせぬ。けわしい道が何であるかを、なんじに理解させるるのは何か。それは奴隷を解放し、または窮乏の日には、近い縁者の孤児、また土に伏す貧者を養うことである。それから信仰する者になって、忍耐のために励ましあい、互いに親切温情を尽くしあうことである。
クルアーン90.8 ~ 17(イスラーム)

つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。法句経290 (仏教)

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13.44 ~ 46(キリスト教)
―み言選集―

善と悪が対立している世界に私達はいます。心と体を分けておいて、善と悪が互いに引っ張り合っています。悪は悪で引っ張り、善は善で引っ張ります。

このように、対立した環境の中に私達人間が身をおいているのです。この境界線をどちち側に越えていくのかによって、悪になることもあり、善になることもあります。皆さんは、この境界線でさまよっているのです。
(36-55、1970.11.15)

私は善悪の分岐点です。
(109-268、1980.11.2)

元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。

しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。

それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。

しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。

それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。

一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。
原理講論、後編緒論1.1

体のいうとおりにすれば地獄と通じるのであり、心のいうとおりにすれば天国と通じるのです。天国と地獄の分岐線が私です。
(214-283、1991.2.3)

霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんが空腹のとき、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしくなければならないかというと、私が生き残り、神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりもっと良くなければならず、霊的な力を中心として生きる味が、肉的な力をもって生きる味より、もっとおいしくなければなりません。
(131-211、1984.5.4)

過去のことをすべて振り返ってみる時、今となっては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これは人間だけの決定でなされるものではないという事実が分かったので、「神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ意によって、人間的な考えを越えて、決定的な路程を
取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。
(211-135、1990.12.30)

私がなぜこのようなことをしたのでしょうか。神様を知ったからです。そうでなければ、私は世の中の人として堂々と今日のどの社会に行っても賢い人として、長として、十分に一つの国を動かすことができるこのような位置まで行ったかもしれません。そのような頭があり、そのような能力がある人です。

今も私がじっと考えれば、私の一生でたくさんの涙を流したのですが、それは誰のためでしょうか。神様です。神様を知ってからです。また、今まで苦労したというのです。それも神様を知ったからです。迫害を受け、このようなことは、すべてレバレンド・ムーンが愚かだからではありません。神様を知ったからなのです。

先生は、個人的に希望がなく、欲望がないでしょうか。青春時代にその貴いものをもたなかったでしょうか。同じです。しかし、これを無慈悲に一度切ってしまった以降には、二度と振り返りません。そうしてみると、今日のレバレンド・ムーンになました。(93-67、1977.5.1)
5.善と悪

善と悪はどのように区別できるのだろうか。世の中には、善悪を決定できるある行動に対する正答や、それ自体に内在したり、隠された普遍的指針が存在するのだろうか。善の人と悪の人の違いは何か。

善と悪は、内的、外的に区別される。文鮮明先生のみ言を見れば、ある時は、動機を通して善悪を区分しなさいと言われる。言い換えれば、善行は良心に従って行う行為である反面、悪行は体の欲望を満足させる行為だというのである。

ある時は、善悪を心の目的と意図によって区別しなさいと言われる。しかし、自分の意図とは何だったか推し量ることができないとき、明確に現れる指向点がないときは、善と悪を正確に区別することが難しい。仕事がすべて終わって実を結ぶときまで時間がかかる。


したがって、文鮮明先生は、時には自分の行為が結実し、善悪が明確になるその瞬間まで、忍耐心をもって待たなければならないときもあると言われる。

このように文先生は、善悪を区別する方法に対しても語ってくださった。しかし、常に強調される客観的な一つの基準がある。善は利他的であり、人のために生きることであり、悪は自己中心的だということである。


①善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと

―宗教経典―

行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド、ギーター3.15 ~ 16(ヒンドゥー教)

かれらのうちには、自ら魂を誤った者あり、中間の道をとる者もあり、またかれらのうち、ある者は、神の許しのもとに、種々の善い行いに率先する者もある。それは、偉大な恩恵である。
クルアーン35.32 (イスラーム)

どんな場合にも、輪廻の中の楽のみを、自らのために求めているもの、彼等が下士の衆生であると知られる。生存の中の楽を顧みず、悪業から離れることを自らだけのために求めている者、こうした衆生が中士と言われる。自らに結びついている苦によって、他のあらゆる苦を取り除こうと常に願っている者、こうした衆生は上士である。
菩提道灯論(仏教)

人間には四つの性稟がある。「私のものは私のものであり、あなたのものはあなたのものだ」という者は平均の人である。ある人はこれがソドム人の性稟だと言う。「私のものはあなたのものであり、あなたのものは私のものだ」という者は規律を知らない人である。「私のものもあなたのものであり、あなたのものもあなたのものだ」という者は聖人である。「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」という者は邪悪な人である。
ミシュナ、アヴォート5.13 (ユダヤ教)

ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。

ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.415 (仏教)

自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受けるなら、あらゆる円満を得ることになる。自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、善趣と名誉を得る。自分のために、他者を使うなら、〔後に〕奴隷などを経験しなければならない。他者のために自分か働けば、〔後に〕支配者などを経験することになる。
菩提行論、禅定波羅蜜8.126 ~ 128 (仏教)

創造者を共同の起源とする神々と悪魔たちは、互いにライバルだった。ゆえに、悪魔たちが自慢げに言った。「どこに供え物を置くべきか」。そして自分たちの口に供え物を入れた。神々はそれぞれ自分の友の口に供え物を入れた。すると創造主は彼らに自らを与えた。(注3)
シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1~2(ヒンドゥー教)

人は誰でも創造的利他主義の光の中で道を歩いていくのか、あるいは破壊的利己主義の暗闇の中で歩いていくのかを選択しなければなりません。これは審判です。人生において絶えず訪れてくる最も差し迫った質問は、「あなたは人のために何をしているのか」です。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
正否の物差しは最大多数の最大幸福である。
ジェレミ・ベンサム(注4)(ヒューマニズム)

―み言選集―

悪と善の方向はどのように違うのでしょうか。善は常に絶対者であられる神様を中心として相対的立場に立つのであり、悪は自分を中心として主体的な位置に立つのです。善のものとは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは、悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むようにするのです。善と悪は方向が異なるのです。体はすべて自分が願うことばかりをしようとし、心はすべて体が願うことをできないようにしようとするのです。方向が異なります。
(16-137、1966.1.22)

それでは、今人間たちにとって一番の問題になることは何かというと、善とは何であり、悪とは何かということですが、その基準が不確実だというのです。

神様と私の関係を知ったので、その関係が一致して、悪とは何であり、善とは何かということをはっきりと根本から区別しておかなければなりません。悪は何ですか。悪の定義とは何ですか。サタンが讒訴する条件を提示するのが悪です。皆さんはそれを知らなければなりません。罪とは何ですか。サタンが讒訴し、そこに関係を結べる内容をもてば罪です。キリスト教徒たちは、罪の根を
すべて知らなければなりません。

悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自分を誇ることから始まったのです。主体のためにいなければならないにもかかわらず、「私のためにいなさい。私のためにいなさい」と言いました。これが悪です。神様の創造原則は対象のためにいることであり、対象を否定し、「私のためにいなさい」、このようになったのです。これを根本にしました。

皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は何かというと、「私のために生きなさい。すべて私のところに来て屈服しなさい」というのです。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。すべて反対です。
(69-85、1973.10.20)

皆さんが善の人なのか、悪の人なのかを何によって判定するのですか。個人主義的な存在か、公的な存在かに、今日の人倫道徳の基準を立てたのです。善の人は人のために犠牲になる人であり、悪の人は人を搾取する人だということです。教育の標準をそのように立てているのです。
(102-234、1979.1.1)

この世の中には2種類の人がいます。一つは世界的な考えのもとで考え、世界的な考えに従って行動する人であり、もう一つは、その反対の立場で、世界でも何でも、自分の考えどおりに行動する人です。人々は、世界を考えて行動することを好みません。いつでも自分を中心として考えたがるのです。自分を中心として考え、自分を中心として行動するのが人間だというのです。

一人は歴史的な世界の聖人たちを考え、その国の愛国者を考え、現世に暮らす有名な人を尊敬し、その道に従っていこうとする人であり、もう一人は、聖人であれ愛国者であれこの時代の指導者であれ、気にせずに「私」を中心として動かなければならないと考える人です。

皆さんはどちらの人ですか。どちらを好みますか。相対を中心とする人生が必要ですか、自分中心的な人生が必要ですか。どちらが皆さんの実際ですか。(相対を中心とするものです)。答えは正しいですが、考えは違います。(考えもそうです)。しかし、実際には自己中心的な道を行っています。いつでも自分を中心としていこうとすることが問題です。それが実際であり事実です。
(117-214 ~ 215、1982.3.7)

世界の人類を、善の基準を標準として三種類に分類すれば、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることなく緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人に分けられる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。
御旨の道、人格

善の人とはどのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。
(315-210、2000.2.2)

アメリカが言うには、「ああ! 世界のことは知らない。私達の国のためだけに生きればよい」、これでは世界の公法に引っ掛かります。アメリカは、今まで世界の人たちに相当仰がれてきましたが、最近はみな、「アメリカ人」どいえば首を振ります。

なぜそうするのでしょうか。今日、カーター大統領といえば、カーター大統領が本当にアメリカの願う大統領か、あるいはアメリカが願わない大統領かという問題を考えるとき、カーター大統領が自分を中心として考えるのか、アメリカを中心として考えるのか、また自分の選挙のために行動するのか、将来のアメリカのために行動するのか、このような問題を中心としてすべて悪のものと善のものが分かれます。

アメリカ大統領としてカーターがアメくリカの利益のためにすれば、それはアメリカ内でのみ大統領になりますが、世界を中心として見るとき、世界が公認し、世界の利益になるようにすれば、世界に影響を与えた大統領として、世界が仰ぐアメリカ大統領になれます。そのようにできなければ、世界の制裁を受けるアメリカ大統領になるのです。

このような観点から見れば、人間には必ず法があります。ですから、審判が残るのです。それでは、そこに引っ掛かる張本人は何ですか。その根本とは何ですか。自己中心、自分の考えです。自分を中心とするところですべて引っ掛かります。それは間違いありません。それでは、私達が「世の中の法に引っ掛からない人になる」と自信をもっていくとすれば、どのようにすれば引っ掛からないのですか。「自分のために生きる」、このような人は至る所で引っ掛かります。「自分よりもっと大きなもののために生きる」、このようにするときは、すべての法から解放されます。すべての法で解放されるのです。
(93-302、1977.6.12)

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世界経典-43

2022年06月19日 16時56分44秒 | 学習


②メシヤの使命:罪悪の清算と神様の王国創建

―宗教経典―

私は天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く請い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
ヨハネの黙示録19.11 ~ 16(キリスト教)
ひとりのみどりごが私達のために生まれた。
ひとりの男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ書9.5 ~ 6(キリスト教)

世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイ福音書24.30 ~ 31(キリスト教)


―み言選集―

救世主が来る! 主人が来る! その主人は、来て何をするのですか。……救世主が願う世界は、このような世界です。その世界こそ、神様が願い、神様が喜び得る世界です。そして、神様が喜ぶと同時に神様と共に始まった私達の良心が喜ぶ世界です。そして、ここにはあらゆる人種差別、国境問題、歴史的背景など、伝統思想が問題になりません。それこそ、共通的であり、神観において一致でき、一致したその内容は天と共に共鳴できる相対基準です。

そのような場に臨み、この世界に向かってお出ましになる一日が来るのです。その一日が成し遂げられた日が、救世主がこの地に来る日です。キリスト教で言えば、再臨主が来る日です。
(160-345、1969.6.15)

メシヤが来た目的とは何でしょうか。それは、神様のみ旨を成し遂げることと同様の目的です。メシヤが来れば、サタンの主権を破壊できるのです。サタン世界の人を取り戻してこなければなりません。それで、故障していない姿にすべて修繕して移しておくために来られるのです。皆さんが聖書を見れば、接ぎ木するという比喩も、そのような意味になるのです。結局、メシヤは、神様がこの宇宙を主管できる主権者にするために送ったのです。
(73-206、1974.9.18)

今日のキリスト教の信者たちが、「ああ、イエスは雲に乗ってこなければならない!」と言うのは、すべて荒唐無稽な論理です。「神様の能力でできる!」と言うのですが、その能力でできるのであれば、イエスを送る必要もなく、信じるようにする必要もなく、神様がすべて対処していたのです。……

今までの文化世界の歴史を6000 年と見ているのですが、この6000 年間神様が摂理され、あれほどの全知全能な神様が救援摂理を今までされても、完成したアダムの代身者としてのメシヤをこの地上にいまだに送れていないことを知らなければなりません。ですから、今日の人類世界の中で、真の神様のみ旨の完成と人類の理想的完成を成した、男性として過去、現在、未来の全歴史を代表できる標準型の人物と、いまだに出会えていないのです。そのような一人の男性を準備して、人類の前に再びメシヤとして送ると約束したのが再臨思想だというのです。

全世界のキリスト教徒たちが願うのがメシヤですが、メシヤをどのように迎えるのかということが大きな問題です。一般のキリスト教徒たちは、メシヤが来ればすべて解決すると思っているのですが、違うというのです。メシヤが来て田を耕し、種を再び蒔かなければならないことを知らずにいます。
(90-141、1976.12.25)


③メシヤの使命:真の人間と真の家庭の回復

―宗教経典―

メシヤが来られるとき、聖なるその方は傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに、世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4(ユダヤ教)

燦然と輝く精神と完全に一つに統一された心と卓越した徳を具足した者、そのような者が真実にこの世の中で顕現する。彼が宝の法を説くとき、万民はこの上なく喜ぶがゆえに、これはちようど、喉が渇いた者が、天から降ってくる甘露で喉を潤すのと同じである。また彼らはみな、苦海のサンサーラ(流転)を抜け出し、解脱の道を得るだろう。
弥勒上生経(仏教)

「ハレルヤ、全能者であり、私達の神である主が王となられた。私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が
来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使は私に、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
ヨハネの黙示録19.6 ~ 9(キリスト教)

愛する者たち、私達は、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(注18)
ヨハネの手紙一3.2(キリスト教)


―み言選集―

創世以降の真の個人、男性の標本的存在が、正に再び訪ねてこられる再臨主であられます。
(15-278、1965.10.30)

主は父母として来ちれます。真の父母として来られるのです。人間始祖が堕落することによって偽りの父母になったので、人類はすべてその偽りの父母の血と肉を受けて生まれました。それで、全人類を正常な神様の愛と一致するようにするために、真の父母の因縁をもってこられる方が正にメシヤです。

言い換えれば、アダムとエバが6000 年前に神権を中心として結婚しなければならなかったのですが、堕落することによってそのようにできなかったことを、6000 年が過ぎた今に至って再び収拾するために父母の資格をもってこられる方がキリスト教で言うメシヤであり、そのメシヤが新郎となって新婦を迎えるのが小羊の婚宴です。
(32-266、1970.7.19)
今後来られる主は、どのような使命をもってこられるのですか。堕落せずに善の父母の立場で完成しなければならない真の父母を失ってしまったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けられる道を開いてあげるために来られる方が再臨主であることを知らなければなりません。

神様の愛を受ける息子、娘がこの地上で暮らし、家庭で天国に行くのが幸福でしょうか、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行き、別々に分かれていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入っていかなければなりません。それで、その家庭が入っていき、氏族が入っていき、国が入っていき、世界がすべて入っていかなければならないのです。

このような新しい父母を中心とする世界的な家庭がこれから生まれ、そこから因縁が結ばれ、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とする、新しい文化と伝統がこの地球上に顕現するようになるとき、今日、この複雑で罪悪となった世界ではない、新しい地上天国になるのです。
(52-324、1972.2.3)

皆さん自身は、これからイエス様と同じ立場に立って氏族的なメシヤにならなければなりません。これが主流思想です。
(79-104、1975.6.22)

メシヤは、真の愛を中心とする家庭的理想を拡大させ得るモデルを意味するのです。個々人自体が王であり、真の父母、すなわちメシヤなのです。神様は真の父母であり、真の師であり、真の主人です。
(222-140、1991.10.26)


④メシヤの苦難路程

―宗教経典―

しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ルカによる福音書17.25(キリスト教)

到来する時になれば……族長たちがこのように言うだろう。「エフライム、私達の義なるメシヤ、あなたは私達の先祖ですが、私達よりももっと偉大であられます。なぜなら、あなたは私達子女たちの罪を担ってくださり、私達子女が受けるべき罰を代わりに耐えてくださり、この世代の以前や以降にもそのようにする者がいないことをしてくださったからです。

そして、あなたは、イスラエルの安寧のため、多くの国々の嘲弄の的になられ、嘲笑の的になられたのであり、暗闇の中に座っていらっしゃり、これ以上光を見ることのできない盲人にまでなられました。あなたは、骨と皮がつくほど痩せられ、体は木のように枯れ、あなたの視力は断食により喪失され、あなたの力は素焼きの土器の破片のようにひからびました。このすべてのことが私達子女の罪によりあなたに起きました。神があなたの子女たちを豊かにしてくださり、この上ない幸福を昧わって喜ぶことがあなたの御意志ではないですか。

おそらく私達子女の安全のために、手に負えないほどの苦痛をあなたが忍耐されたために、監獄に投獄され、足かせで束縛されたために、あなたの心は安らかであるはずがないではないですか」。メシヤがこれに答えられます。「族長たちよ!私が行ったすべてのことは、あなた達とあなた達の子女の安全のために、またあなた達とあなた達の子女たちの栄光のためであり、ゆえにあなた達の子女が、神が豊かにされると予定された幸福を味わうようにするためだった」。

そして、私達の子女が答えるだろう。「あなたの心が慰労されることを願います。なぜなら、あなたがあなたの創造主であられる神の心を慰労してさしあげたのであり、また私達の心を慰労してくださったからです」。(注19)
プスィクタ・ラッバティ162b ~ 63a (ユダヤ教)

 

一み言選集―

再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.2

今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもって来られた方であったので、彼は旧約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。

ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。

これと同様に、イエスが再臨される目的も、キリスト教信徒たちが築いてきた新約時代の霊的な救いの摂理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(黙21・1 ~ 4)、将来彼が再臨されれば、既に2000 年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必要な、新しいみ言を与えてくださるに相違ないのである。
しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト教信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事実である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ17・25)。
原理講論、再臨論

先生がサタンと神様の中間で、いつもサタンを除去することをしてきたのです。どのようにサタンの讒訴を受けない位置で、この仕事をはかどらせていくのでしょうか。それで、蕩減路程が出てきたのです。それが人間の責任分担です。

今まで、人間が責任分担を成せませんでした。どのようにその責任を埋めていくのかというのです。サタンは、それがメシヤの責任であることを知っているのです。それですべてのサタン勢力を総出動させて「真の父母」を攻撃したのです。それで先生は、サタンの塀を壊すことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで経てきたのです。メシヤは、この道をすべて経なければならないのです。
(131-70 ~ 71、1984.4.16)


⑤メシヤのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒のための中東平和定着

―宗教経典―

私はダビデのために正しい若枝(注20)を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。
エレミヤ書23.5 ~ 8(キリスト教)

今の時と主の時は、異邦の権力に服従しないという面で唯一異なるのである。(注21)
タルムード、サンヘドリン99a (ユダヤ教)

主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、私に背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。私が彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。

私は彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らは私が彼らの神、主であることを知るようになる。私は二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
エゼキエル書39.25 ~ 29(キリスト教)

神の使徒が言った。「マリヤの息子(イエス)が公正な統治者としてあなた達の中に降臨する前まで、時は確立されないだろう。彼は十字架を壊し、貪欲な者たちを葬り、ジズヤ(注22)を賦課するだろう。お金が裕福になり、誰もそれを(慈悲深い贈り物として)受けないだろう。
ブハーリー・ハディース3.656(イスラーム)


―み言選集―

イエス様が蕩減復帰を終え、結婚して家庭を築き、イスラエル民族を一時に天国に隷属できる祝福結婚を越えて、ローマまで祝福をしてあげたならば、イエス様の四十代までに地上・天上天国をすべて成していたというのです。イエス様を殺害した罪でイスラエルとパレスチナが闘っているのです。

兄弟が一つになれませんでした。そこで一つの宗教、一つの文化圏、一つの国、一つの心情圏になっていなければならなかったのですが、その場にイスラームが生じ、ユダヤ教が生じ、キリスト教が生じたという恨めしい内容を知らなければなりません。

最近アメリカでは、十字架を除去する運動が展開されているのですが、それが問題ではありません。イエス様を殺害しました。真の父母を殺害した罪は、人類が滅亡しても、イスラエルが千代、万代犠牲になっても赦しを受けられないのです。イスラエル民族が罪の量をすべて満たしたのではありません。ヒトラーが、イスラエル民族をあれほど好きなように殺害することができますか。

罪の量を蕩減し得る量が満ちていなかったので、天の許諾を受けてそのようなことができたのです。同じように、今日も、そのような歴史的同時性の時代に入ってきているというのです。

歴史的にユダヤ教とイスラームとキリスト教が分かれたことを、今統一教会を中心として、ユダヤ教、イスラーム、そしてキリスト教が全世界的に一つになるべき同時性の時代が来たというのです。
(2003.8.15)

あの国に行ってみなさいというのです。会えばすぐに分かります。何千年前の人だとしても、四大聖人たちが先生に挨拶するでしょうか、しないでしょうか。四大聖人、イエス様もそうです。「真の父母様、お願いします。イスラエル民族を助けてください」と言います。ですから、十字架を外しなさいというのです。そのようにしてこそ、滅んだキリスト教が生き返ります。復活の宗教である十字架は、死の罪人を縛りつけるものです。イエス様に聞いてみなさい。

イエス様に家庭があったならば、イエス様の息子、娘たちによってすべてが成され、6世紀以前に世の中は神様の国になっていたのです。それが成されなかったので、イスラエルの国も追い出され、7世紀に入ってイスラームが現れました。それは歴史的事実です。
(400-215、2003.1.1)

 

⑥メシヤの東方降臨の預言

―宗教経典―

稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
マタイによる福音書24.27(キリスト教)

どんなに長く待ってもやってこない、ヨーロッパやアジアにあらわれ、ヘルメスの進路からでて、東洋の王たちすべてを超えるだろう(我々がいくら期待しても、欧州から新しい指導者が現れる可能性は全くなく、彼が現れる所はアジアである。ヘルメスから大統合が誕生するだろう。彼はすべての東洋の帝王を統治し、日浮かぶ国にメシヤの偉大な法度が遵行されるだろう。霊界の新しい指導者が東方から現れるだろう)
ノストラダムス四行詩10.75

3年目に戦争は終わり(注23)、朝鮮の地は廃墟になる。この時になれば、東方に天の国が明けてくるだろう。西洋では「正道令、正道令」と言い、「救世主、救世主」と言うだろう。しかし、本当にこのような時が訪れれば、弓弓乙乙、つまり白十字を求めていけば大きな恩恵を得るだろう。

今、人間は天上の中天運を迎える。この時は、東方の長子が東南方の長女を迎えて婚姻するようになる時だ。(注24)聖人を期待して待つが、どこの誰が聖人だろうか。その人は、世のあらゆる善と悪を審判する人である。すべての世の運営権を担ってこられる方は、山でもなく、野でもない、白十字のある所に来られる。この時に必ず天法をもってこられるだろう。

その天法数は2万1600 数だが、これは天上の数がはっきりしている。また、1万4400 数があるが、これは地上の数を意味する。上の数をすべて合わせれば、3万6000 数になるが、これはすべての世の陰陽の合倍数として、善男善女の成婚をこの数字どおりに成し遂げていくとき、聖人は来られる。(注25)天道の運は陰陽合一運である。上のように東洋と西洋の合運道は十勝運である。

3万6000 という数、これが天地理気を変化させる数である。東洋と西洋のすべての宗教が互いに一つになれば、すべての世の人々は互いに兄弟のように近くなるだろう。これを周易の原理で解いてみれば、天地の陰陽の原理により白十字がはっきりする。十勝大道は東洋から現れる。天地が震動するほど「祝福を受けよ」という声が聞こえるだろう。

その声をあざ笑い、逆らえば、我知らず蟷螂や糞転がしのような微弱な虫が車を妨げるのと同じで、聖人は笑うことだろう。善男善女を結んであげ、聖人は安らかにいらっしゃるだろう。神に祈りをもって礼を捧げ、結ばれた善男善女は貴い子を得るだろう。このようにすれば、全世界を統一するようになるが、これは天地が開いたのち、初めてのことである。

日浮かぶ東方の地に白十字は現れるだろう。そして、すべての世を広く照らすだろう。救世主は天から来られた十勝大王、すなわちすべての王たちの真の王だということを肝に銘じよ。鄭鑑録
東方に天から聖人が来られることを疑うな。東方でこの聖人が分からなければ、英国、米国など、西洋人たちによって再び悟らされ、聖人を知らされるだろう。もし洋の東西すべてがこの聖人が分からなければ、地上の人々をすべてなくして再び創生させるが、これをどうするというのか。西洋で恨みを抱いて離れたのち、高いところにあがって遠く人間世界を見つめた。20 世紀後半のこの時を迎え、東方に出てきて、昔東方で結ばれた恨を解く……

聖人は2人出てくるが、先に出てきた人でぱなく、あとから出てきた人が救世主である。天から地上に送られてくるとき、密かに送った彼の姓は文氏である。「この文を知ってはならない人が知れば、人に敗れることを嫌う世の人心ゆえに救世主は出てこられるのが大変であろう。
格奄遺録


―み言選集―

韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第1に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第1イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ4・2 ~ 5、イザヤ60・1 ~ 22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第2 イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第3イスラエル選民たる韓国民族も李朝500 年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。

韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
原理講論、再臨論3.3.4

有名なフランスの予言者ノストラダムスが予言し、東洋の最高予言書「格菴遺録」にはっきりと記録されているように、レバレンド・ムーンは、天命を受け、宿命的責任を完遂した人類の真の父母であり、平和の王として顕現したのです。
(447-169。2004.5.1)
驚くべき事実は、霊界において5大宗教の代表たちが一箇所に集い、神様が人類の父母でいらっしゃることを宣布すると同時に、私に対して、人類の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であると宣布し、また「統一原理」が人類救援のための平和のメッセージであり、天宙平和統一は、真の愛を中心として超宗教、超国家、超人種の「愛によってために生きる生活」を通して完成するということを宣布し、さらには、真の父母に侍り、神様の国と世界平和のために、和合、統一、精進することを決議しました。
(2003.7.10)


6.天国

千年王国は、神様の主権が完全に具現し、悪や罪のない創造理想の世界である。千年王国の実現に対する希望は、世界のどの宗教にもある程度見られるが、特に、ユダヤ教、キリスト教の経典において、神様との確固たる約束として明示されている。

時として天国の概念は霊的な理想、死後の幸福の状態(第5 章7.「天界」参照)として表現されるが、これは徹底した終末論的ビジョンと脈絡が異なる。このような意味で文鮮明先生は、地上天国の具現に関する明確な教えを数限りなく表明している。先生は、未来のビジョンではなく、人間改造の現実的プログラムとして地上天国の具現に向かう神様の使命を完遂するために、その生涯を捧げてきた。

このような章句は、天国にいくつかの視点から光を当てる。第1に、それは神様の絶対主権の世界である。このような世界は、世の中のある政治的制度を意味する必要がない。歴史上、いかなる政権も、さらには神権政治を具現したと主張するいかなる政権も、真の意味の天国と相当な距離感がある。神様の主権は、真の愛によるものであって、政治的権力によるものではない。それは、善自体だけの権威をもった神様が善の民の心情を通して統治できるのである。

第2に、天国は全人類が一つの大家族の生を営為し、新しい天と新しい地として神聖なものとなった世界である。与え合いながら分かち合う天地の法度が具現され、利己主義が立つ地のない所である。人々は神様の心情とみ旨を詳しく探り、常に天の法度によって生活しながら喜びを感じ、善行を実行するにおいて心の躊躇が全くない所である。
そこは、これ以上国家間の戦争がなく、犯罪や抑圧から解放され、自由の人生を享受する平和の世界である。

第3に、天国は自分の内的変化を要求する所である。いくら世界が平和だとしても、私達が依然として内的葛藤と混乱を経験するならば、安定を享受できず、結局、個人的地獄から抜け出すことができないのである。このように、私達がいくら楽しい環境で暮らしても、家庭的葛藤と紛争があれば楽しむことはできないだろう。文鮮明先生は、家庭が天国の基本単位だと教える。

第4に、天国は心情の衝動によって自然に起きる行為自体が善のものであるため、人為的な制度や外的な法規の拘束から抜け出た自然で自由な所である。そこは、人間の心が常に水晶のように清く、神様の光がまばゆいばかりに発散される美しい所である。天国の民が愛と繊細な感受性をもち、自然そのままの方法で自然環境の世話をするため、全被造物は喜び歌う。

最後に、天国は死を超越した所である。地上世界と天上世界が一つになるとき、死のとばりは消え、二つの世界の人間たちは、愛する人同士、互いに自由に往来して交流することができる。


①神様主権の世界

―宗教経典―

主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14.9 (キリスト教)

その日、大権は神のものである。かれは、かれらの間を審判したもう。
クルアーン22.56 (イスラーム)

おお、主なる私達の神! 私達はあなたに希望をもちます。遠からずあなたの権勢が勝利することを私達は見るでしょう。偶像崇拝は地から根こそぎ引き抜かれ、偽りは徹底して滅ぼし尽くされるでしょう。

私達はすべての世が全能であられる神の統治のもとにあるその日を待ち、また全人類があなたの名を尊敬することを学ぶその日が来ることを期待します。すべての悪の人々があなたの足の前で悔い改め、ひれ伏すようになるその日を希望します。
おお、世のすべての人々があなたにひざまずかなければならず、万人が唇で誓わなければならないことを知ることを願います。

おお、主なる私達の神! あなたの前で世のすべての人が頭を垂れて敬拝し、聖なるあなたの名に栄光をお返しするようになることを願います。世のすべての人があなたの王国に対する知識をもつようになり、あなたの統治が速やかに、そして永遠に彼らのために共にあることを願います。あなただけが統治者であられ、また永遠に、栄光の中であなたは世を統洽されるでしょう。
毎日の祈り、アレヌ(ユダヤ教)

第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
ヨハネの黙示録11.15(キリスト教)

―み言選集―

地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。
原理講論、堕落論4.3

皆さん、本郷の地を見つけましたか。見つけられませんでした。本郷の地を見つけられなかったので、本郷の祖国を失ってしまったのです。その祖国が地上天国です。……この地球星が天国になります。その祖国は、地上天国であると同時に天上天国なのです。

国ができるためには、3大要素が必要です。第1には、主権がなければならず、国土がなければならず、そして民がいなければなりません。神様がこの国を、世界の国を、この人間世界の国を占有し、主管する主権がありますか。ありません。神様が主管できる地がありますか。ありません。神様が主管できる人類がいますか。いません。いないので、祖国がないのと同じです。これは、本来人間が暮らす世界ではないというのです。
(155-26、1964.10.6)

お父様!
この民族の前に福を施してくださり、
世界万民に福を施してください。
天上で再臨のひと日を待ち焦がれている
数多くの霊人たちの恨みを
解怨してくださり、
お父様とイエス様の恨みが解怨され、
この地に平和の王国が建設されて、
お父様が統治することのできる
その世界が
早く早く成されるようにしてください。
懇切にお願い申し上げます。
(16-52、1965.12.26)

②喜びと平和の新世界

―宗教経典―

私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は
その者の神になり、その者は私の子となる。……

私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
ヨハネの黙示録21.1 ~ 27(キリスト教)

終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2 ~ 4(キリスト教)

歓喜に満ちた都市に神の聖者たちが住んでおり、そこには悲しみも、つらさもなく、供え物や重い税金を捧げなければならないという心配もなく、懲罰や高い地位から落ちるという恐れもまたない。
この幸福な地には私の居所があり、絶えず安寧があり、そこにいるすべての人たちは、永遠の王権から福を受けたため、誰も劣等だと考える者はいない。
その都市は衰退を知らず、そこに暮らす人たちは裕福で満ち足りている。この上ない自由を享受し、見慣れない人もなく、実にすべての人が自由人で
ある。ラビダスが言うには、自由を得た職人、あの都市の市民だけが私の友とみなす。
アーディ・グラント、ガウリ、ラヴィダース、p.345(シーク教)

その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。われはモーセに訓戒を与えた後、詩編の中に、「まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104 ~ 5(イスラーム)


―み言選集―

神様が人間を創造されるときの目的があったとすれば、その目的が成し遂げられていれば、その世界は、愛で統一された世界であり、神様を父母として侍り、全人類が兄弟姉妹として和睦して暮らす単一世界であり、人間の大家族世界になっていたでしょう。

言わばその世界は、み旨の中で一つに統一された世界でしょう。このような統一という課題が、今日の人間に最も重要なものです。しかし、この上なく難しいものとして残されています。個人において心と体が一つになり、家庭と家庭が一つになり、民族と民族が、国家と国家が、東洋と西洋が、神様と人間が一つに統一された世界です。言い換えれば、神様の創造目的が完成した世界が統一の世界なのです。
(81-158、1975.12.18)

神様は天理原則を通して主張します。「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない!」、これがその主張です。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものにもなるのです。神様のために
生きたことが私のために生きたことになります。

それで、私のものは私達の家庭のものであり、この家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるというのです。どちらが素晴らしいですか。

全世界が私のものになり、宇宙が私のものになります。……神様の愛と神様の生命と神様の理想が個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に一つになり、サタンが讒訴できない、サタンの痕跡がないそのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私達人間が完全に主体と対象として、父子の関係として、完全に罪のない聖別された父子の関係として、完全に罪のない聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成し遂げることを願うのが、神様の人間に対する最高の希望です。神様の永遠の愛と生命と理想がどこでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になってこそ、地上天国になるというのです。
(69-89 ~ 92、1973.10.20)

将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、値うちのない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は神様の王権を立てた「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。

法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に皮し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成した所には、何の問題もありません。上下が一つになり、前後、左右が一つになるのです。
(224-173、1991.11.24)
創造理想世界である、神人一体心情世界となって暮らす時代が来なければなりません。人のために生きることが自分のために生きることよりもっと永遠の価値があることを悟って暮らす時代、自己中心の利己主義時代が色あせ、共生共栄共義の利他主義世界を創建しなければなりません。

私達全員で、この目的のために神様と霊界を正しく知り、さらに全世界に天道を明らかにしながら人類を正しく指導し、神様の真の愛、真の生命、真の血統に連結した天宙大家族を形成し、神様の祖国と故郷を地上と天上に創建しましょう。ために生きて投入する絶対愛、唯一愛、不変の愛、永遠の愛で地上天国と天上天国を完成し、神様の王権を奉献しましょう。
(2002.12.27)

理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々がーつの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で、共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。(注26)

ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において、生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。

したがって、構成員の生活程度は標準化されます。教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.3)

③内的天国を所有した天国人の世界

―宗教経典―

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私達は知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂を
いただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙8.19 ~ 23(キリスト教)

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。……王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王
は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』(注27)と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりずるだろう。』
マタイによる福音書22.2 ~ 13(キリスト教)

見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.31 ~ 34(キリスト教)

孔子は答えた、「大道の行なわれていた古代や、(夏・殷・周)三代それぞれの最も良い時期を、私は見ることはできない。しかし記録はある。大道の行なわれる世には、天下は万人のものとされる。人々は賢者能者を選挙して官職に当らせ、手段を尽くして相互の信頼親睦を深める。

だから人々は、それぞれの父母のみを父母とせず、それぞれの子のみを子とせず、老人には安んじで
身を終えさせ、壮者には充分に仕事をさせ、幼少には伸びのびと成長させ、やもめ・みなしご・かたわらの人びとには苦労なく生活させ、(一人前の)男には職分を持たせ、女にはふさわしい夫を持たせる。財貨は、それがむだに打ち捨てられることを、人びとは憎むが、しかし財貨をひとり占めにはしない。労力が出し惜しみされることを、人びとは憎むが、しかし自分のためにのみ労力を用いはしない。みなこうした心がけであるから、(私利私欲に基づく)計謀は外に用いられる機会がなく、窃盗や暴力のさたもなく、たれも家の戸をしめない。これを大同の世という。
礼記7.1.2(儒教)

地上の楽園に向かう段階が進展するに従い、神に対する人々の内面の態度が、日常的な生活のより多くの側面に直接影響を及ぼすだろう。霊魂が神により近い人々は神と同じ心を所有するようになるため、考えや感情を言葉で表さなくても通じることができるようになるだろう。

このような段階に至れば、深く考えることがすべての人たちに存在の様式になる。神は、彼らが直接的に神の意図を知ることができ、または他人の心情と心を完璧に推し量ることができるように、高度に洗練された霊的感性を付与するようになるだろう。

最終的な段階に至れば、地上の楽園はあまりに完璧で、純粋で「透明な世界」と呼ばれる。すべての悪と憎悪は消え去るだろう。世界は、のちに絶対の善と愛を実現するようになるだろう。いかなる罪や不純さからも完璧に抜け出すことによって、ついに人類は代々に永遠の家に居住するようになる。これが正に神と合一した「透明な世界」なのである。
浄霊(世界救世教)


―み言選集―

理想社会は、愛の理想の完成であり、神様の愛の実体たちが、情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに、理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。内なる人は、完成すればみな同じである。
御旨の道、天国

私達人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷が大きくなるのです。そこには苦痛が介在するのです。そこには悲劇が宿るのです。したがって、私達の心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そのようにしなければ、人間世界に平和や幸福といったものはあり得ません。

ですから、自分自身の闘い、自分一個の個体の闘いを終息させることができない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入っていって暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件を自らのものとすることはできないのです。したがって問題は、私自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そのようにして私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心にしみる平和、心にしみる幸福を感じられるのです。

そのような基盤の上で世界と連結されて初めて、自由で幸福な天国が成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和することができない、ということを否認できません。
(20-167、1968.6.9)

皆さんは、まず個人天国を成し遂げなければならず、夫婦天国を成し遂げなければなりません。夫婦天国がどこから始まるのでしょうか。夫婦天国はどこにあるのでしょうか。プラスとマイナスが完全に一つになる所にあります。それは結婚した日に喜んでいて、何年もたたずに離婚するものではありません。
……
もう夫婦天国がどのような所か分かりますか。誰もその夫婦を切り離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、てっぺんはくっついているというのです。皆さんはどのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていきます。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。

そして、夫婦天国だけでよいのですか。家庭天国はどのようにできますか。父母が完全に一つになって愛すれば、息子たちはお母さんのような妻をもらいたいと思い、娘たちはお父さんのような夫をもらいたいと思うのです。それで、その父母がプラスになり、息子、娘がマイナスとなって完全に一つになるのです。家庭が一つになれば、そこが家庭天国になります。家庭天国を成す所で、
初めて地上に天国というもの、神様が理想とするものが定着するようになるのです。
(96-29、1978.1.1)

本然の園は、理想の園です。有無相通(注:すべてのものが相通ずること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。
(7-38、1959.7.5)

個人完成、家庭完成、天宙完成のその場に現れるのが美しい地上天国と天上天国です。それで、神様が解放され、皆さんの家庭と氏族を思いどおりに訪ねていけます。今までは囲いが張られていて、どこにも行けませんでした。しかし、今からは、すべての囲いを取り外して平地になるのです。

サタンがつくっておいたすべての囲いと壁が崩れます。それで、平地になるのです。真の父母が平地を成し、縦的な世界と90 度の角度を成すのです。その90 度を中心として、前後、左右、上下が連結され、統一解放圏が成し遂げられます。それが天国です。そのように、天国に行ける高速道路を築きます。そのような世界が来るのです。すべてのものが真と連結すれば、世界が解放され、天国が成し遂げられます。

祖国は一つです。神様のように永遠です。その祖国が霊界です。それを知って、それに向かって、皆さんは不足であることをよく知っています。どのようにして行かなければならないのか、すべて知っているのです。自分たちがどのような位置にいるということを知っているのです。それをすべて清算して、真の父母様がどのような命令をするとしても、100 回死ぬような命令をするとしても、「絶対に私は行こう」と言える決心をして、絶対信仰、絶対愛・絶対服従の天理を踏んで、早く飛んでいかなければなりません。走るよりも、飛んでいかなければなりません。
(313-243 ~ 244、1999.12.19)


④地上世界と天上世界を一つにした王国、死のない所

―宗教経典―

次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.24-25(キリスト教)

勝利した「世界の改造者」と彼の協助者たち……一切の存在を新たにするので、老いず、死がなく、腐敗と堕落もないだろう。永生があり、常に義をもち、意のままになるだろう。死んだ者が再び生き返り、生命が遍満して不滅となり、一切の存在は神の意のままに改造されるだろう。
アヴェスター、ヤシュト19.11(ゾロアスター教)

「私があなた達に、あなた達が死ぬ食べ物をあげよう。しかし、心配するな。私はあなたを生き返らせる」と呪術師は彼らに言った。彼らは彼を信じた。彼らは何かを食べて死んだ。そのとき彼らは、新しく美しい地で歩いている自分たちを発見した。彼らは白人の軍人に殺害された彼らの父母、祖父母、そして友人たちと話をした。彼らの友人たちは健康で、この新しい世界は白人たちが破壊した昔の世界のようだった。

そこは遊びと羊とバッファローでいっぱいだった。草は緑色で長かった。他の部族によって昔に死んだ人たちも、この地に暮らしているにもかかわらず平和だった。すべてのインディアンの種族が一つの部族を形成し、互いに理解することができた。キッキングベアと小さな雄牛が歩き回っており、あらゆるものを見ていた。彼らは幸せだった。

そのときバイユートの仙人が彼らを再び生に戻した。「私がもたらした新しい世界をあなた達は見た」と彼は言った。「大地は毛布のように、白人のものである囲い、鉄道、鉱山、そして電信柱など、すベてのものを巻き込むだろう。そうすると、その下に再び生き返った私達のすべての知り合いたちがいる、新しくて昔ながらのインディアン大地があるだろう」。

その後、その呪術師は彼らに新しい踊り、歌、祈りを教えた。彼は彼らに神聖な赤い染料を与えた。……今、大地を巻き込むために、そして死んだ者を戻すために、私達はどこでもこの新しい踊りを踊る。新世界が来ている。
霊魂の踊り(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

神様が願われる天国は、霊界だけで成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体で成す霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現するためには、天倫の前に立ち得ると同時に、人倫の前にも立てなければならず、天倫と人倫に通じ得るよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。

そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な理念にならなければなりません。
このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。
(2-226、1957.6.2)

皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私達にも祖国がないのです。私達は、この祖国を建設しなければなりません。神様の愛と私達の愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人,
家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。
(134-217、1985.7.20)

死の峠を越えて往来できる基盤を地に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
(146-223、1986.7.1)


第3部 人生の旅程

第11章 成長、責任、そして運命

1.霊的成長

成長は自然法則である。この世の中に一度に完成するものはなく、始めから完成まで、成長過程を経なければならない。体のように霊魂もやはり、段階別の過程を経て成長するようになっている。成長段階は多様である。穀物から芽が出てきたり、四季が変わったり、新学年に進級すること、すべてが成長段階だと言うことができる。

霊的完成段階である成熟に到達した人だけが神様の愛に完全に同参し、天の王国で自分の位置を見いだすことができる。霊的完成はどのような境地だろうか。それは心と体の統一を意味する。すなわち、正しいことをするために絶えず行ってきた体との闘争から完全に解放される状態である。キリストの完全さをまとうことであり、永続的に愛する神様の心と一体を成した状態である。
―宗教経典―

人びとよ、主に対し労苦して努力せよ、なんじらはかれに会うのである。……なんじらは、必ず一層から他層に登るであろう。
クルアーン84.6.19(イスラーム)

正しい道をたどり、修行にいそしむ修学者に、心のけがれの消滅に対する最初の知恵が生ずる。それからして無上の知恵がある。それより、知恵により完全な精神的自由を得た人には、迷いの生存の束縛を消滅することによって、「私の完全な精神的自由は不動である」という知恵が生ずる。
如是語経62(仏教)

魂と、それに釣合い秩序を付与した方により、邪悪と信心について、魂に示唆したもう方により誓う。まことに魂を、清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。
クルアーン91.7 ~ 10(イスラーム)


一歩一歩修行を積み、徐々に仏陀のあらゆる教えを成就する。修行は、地を選んで礎石を打ち込み、その上に家を建てるのと同じであり、寛容と自己制御は悟りに至る修行の礎石である。
大方広仏華厳経10(仏教)

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(注1)
マルコによる福音書4.26 ~ 29(キリスト教)

ムハンマドは神のみ使いである。かれと共にいる者は、不信心の者に対しては強くてくじけず、おたがいの間ではやさしく親切である、……イエスの福音にも、同じようなかれのものがある。まいた種がその芽をふき、丈夫な茎に伸び立って、種をまいた者を喜ばせる。
クルアーン48.29 (イスラーム)
しかし、私達一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。……そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私達は皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

こうして、私達は、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エペソの信徒への手紙4.7 ~ 16(キリスト教)

人皆がこうありたいと思うようなのを善と言い、善を自分で持っているのを信と言い、更にその善と自分に充実させることを美と言い、充実させた結果、外にひかりかがやくようになったのを大と言い、大にしてよく天下を化すようになると、これを聖と言い、聖にしてそのはたらきのはかり知ることができないようになると、これを神と言うのである。孟子VI .B.25 (儒教)

天はただ春、夏、秋、冬をもっている。人はただ仁、義、礼、智をもっている。……ただこの四つの原理だけがある。その他には何もない。仁、義、礼、智は、起源、成長、完成、そして成就である。もし春に何も芽生えなかったり生まれなかったりすれば、夏に成長を促す何の方法もなくなり、秋と冬に収穫して貯蔵することが不可能になる。
朱熹(儒教)9
キリスト教徒になるのは、一瞬の行為であることも、一生を懸けた行為であることもある。霊的決意と改宗を、「人は、新たに生まれなければ」(ヨハネによる福音書3 章3 節)と語られたイエス様の御意志を、私は日ごとより深く理解していっている。

肉身の誕生は、妊娠から誕生の瞬間の奇跡まで向かっていく一つの過程である。しかし、誕生がその過程の最後ではない。もう一つの成長の始まりである。霊的な誕生もやはり同じである。キリストに対する決意は「霊的誕生」であろう。しかし、これもやはり霊的成長が伴わなければならない。
ビリー・グラハム信念の勇気

こうして神は、人間の魂に精神を与えられた。精神を座とする理性と知性とは、子供にあってはまだ眠ったままで、いわばないにひとしいのであるが、年齢が進んでくると目ざめ、大きくなって知識と教えとを受け取ることがてきるようになり、真理を認識し善を愛する能力を持つようになる。精神はその能力によって知恵を吸収し、徳をそなえ、思慮と勇気と節度と正義とに従って生き、誤謬その他の生まれながらに持つ悪徳と戦い、ただ神の至高にして不変なる善のみを希求することによつてのみ、それに打ち克つのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)


―み言選集―

人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。
したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。

創世記2章17 節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。

万物世界が六日という期間を経て完成できるよう
に創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。

そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。
原理講論、創造原理5.2.1

神様が土をこねてアダムとエバを造るとき、最初から成長した人に造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通した存在の形成というものは、説明する道埋がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天の道理です。その次に完成期がありました。
最初に、無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。それでは、赤ん坊が生まれ育ち、成熟して結婚できる位置まで、父母になれる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てられます。
(225-198、1992.1.20)

神様も成長してきました。赤ん坊から兄弟段階を経て結婚段階に行き、赤ん坊を宿して創造したのと同じように、皆さんも妻といえば、見えない神様が見える実体として成長した存在だということを知らなければなりません。

皆さんは、結婚すれば、皆さんが成長するときの姿を見ることができます。それをどのように見るのですか。自分の息子、娘を通して再び見るのです。神様が、アダムとエバが成長するのを見て衝撃を感じ、横的な世界(注2)、拡張された世界をもったのと同じように、皆さんも赤ん坊を生むことによって横的な世界に発展できる愛の版図が展開するのです。
(297-151 ~ 153、1998.11.19)

一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できる一つの結実になり得ます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり結実の実が残るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘にならなければなりません。いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第2の生命の母体である種になれることを知っています。
(32-37、1970.6.14)
種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)

博士課程では、幼稚園から学んだことをすべて否定しますか。そうではありません。すべて肯定、消化して博士になるのです。
(111-129、1981.2.8)

神様の愛を教育されなければなりません。それでは、いつまで愛の教育を受けなければなりませんか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて成長しなければなりません。
(51-172 ~ 173、1971.11.21)

神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通して神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的力の中で最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人が父母であられる神様に似るということです。
(279-206、1996.8.20)

神様の子女である人間の責任は、何よりもまず神様に似ることです。孝子、忠臣、聖人、聖子の家庭の道理を果たす真の愛の化身になりなさいということです。神様の深い心情の内的事情を知って、アダムとエバの堕落以来、数千、数万年、苦痛の中で生きてこられた神様の恨を解いてさしあげなければならないのです。
平和神経、平和メッセージ1.16、2005.9.12

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コメント

世界経典-42

2022年06月19日 16時54分40秒 | 学習


②サタンの束縛

―宗教経典―

私はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。

その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずで
ある。私はまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。私はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録20.1 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

地上天国を復帰するということは、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。

終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。

人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリントⅠ 6 章3 節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。

ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制するこことはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。
原理講論、堕落論4.2

③世の中の変化と神様の中での生命の蘇生

―宗教経典―

大地が別個の大地に変えられ、諸天も変えられる日、人びとは一斉に唯一の方・至力の方、神のみ前にまかり出るであろう。
クルアーン14.48 (イスラーム)

そして、彼ら(世を毒するやから)のもろもろの罪業に懲罰が到来する。そのとき、マズダーよ、御身さまは御身の有たる王国を、ウォフ・マナフを通して、建設されるでしょう。天則の両手に不義をひき渡すものたちにその王国があらわに見えるために。

そしてわれらは、この世を勝ち抜かせるものとなりたいのです、マズダーよ、そしてアフラたちよ、そしてアシャよ、わたくし(バラスシュトラ)の方に来到するよう世の人々を駆ることによってです。願わくは常恒なる天眼の存するわたくしのところに人々の心が集まりますように。
何となれば、そうすれば、これによって「不義」の領域に破滅が来るからであり、またウォフ・マナフとマズダーと天則との楽園にむけていとも速い馬が車につけられ、よき名声に先着するからです。
アヴェスター・ヤスナ30.8 ~ 10(ゾロアスター教)

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、私達は、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
ペトロの手紙二3.10 ~ 13(キリスト教)


周知のとおり、文明とは一時的なものである。文明とは、新時代の黎明と真の真理が出現することによって、結局は消えていくのである。これは、現在私達が生きている刹那的世界の終焉を意味する。神は古い文明を清算し、新しい文明の樹立を願う。正にその清算の時が近づいてきた。

今日まで悪の勢力が文明の中で威勢を振るってきたが、古い文明から新しい文明へと転換するにしたがい、これらもすべて消えていくだろう。すべての人々は、この冷酷な浄化の過程を通過しなければならない。

世界は数千年積まれてきた数限りない罪の代価として、途方もない苦しみを経験するだろう。苦し
みを経験すれば経験するほど、社会と国家が浄化されていくことを感じるのであり、人類は善が支配する新しい段階へと引き上げられるだろう。

変化は私達に現在、実際に起きており、既に地上楽園が始まる直前の最後の段階を迎えている。大変動によりすべての生の領域、すべての文明も変わっていくだろう。神を信じ悔い改める者こそ、新時代の到来の目撃者となるだろう。そして、彼らは救いの道を出発できるようになるだろう。

しかし、重い罪に苦しんでいる者たち、自分たちの邪悪な道を抜け出すことのできない者たちは、極度の悲惨の中で現世の生を終え、来世にいかなる救いも得ることができないであろう。
浄霊(世界救世教)

 

―み言選集―

終わりの日になれば主が来られ、主が来られれば審判すると思っています。その審判は天変地異が起き、太陽と月が光を失い、地がすべて崩れる、そのような審判を思っています。本来、この終わりの日という言葉は、宗教から出てきた言葉です。仏教では終わりの日を末法時代と言い、キリスト教では末世と言っています。いったいこの終わりの日がどうして生じるようになったのかという根本的な問題を、私達は少し考えてみなければなりません。

絶対的な神様が計画されるその世界は、始まりがあり、永遠でなければなりません。一度始まれば永遠に続かなければならないのです。神様が経綸したそのような世界の上に終わりの日が生じたということは、神様がそれを設定してもたらされたものではないのです。人間が堕落することによって、終わりの日というものが生じたことを私達は考えざるを得ません。

終わりの日というのは、一つの時代が過ぎていき、新しい時代が訪れることを意味するのです。終わりの日になったからといって、神様が創造された太陽と月を暗くし、地をすべて壊してしまえば、誰のゆえに壊してしまうことになりますか。サタンのゆえに壊したことになるので、サタンのゆえに失敗した神様になってしまうのです。

サタンによって地が汚され、今まで太陽と月が悪の人を照らしてあげたことだけでも無念なのに、そのみ旨を一度も成し遂げてみることもできずに壊してしまってよいのですか。

エデンで審判を受ける基準は一人を中心として、その人がみ言を信じないことによって、不信することによって死亡の世界になったので、これと反対に一人によって絶対的に信じられるみ言を立てなければなりません。信じれば、絶対的に生命線に移されていくのです。
(69-119 ~ 121、1973.10.23)


神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。

このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.1


3.新しい啓示

末世の時の啓示現象は、霊的復興とともに始まる。20 世紀に初代教会の異言と霊的現象が再び現れながら聖霊降臨主義が出現した。全世界的に新興宗教は、その宗教の創始者に与えられた特別啓示を土台として生まれた。このような霊的復興は、東洋と西洋で多様な形態で現れた。

その上、ユダヤ教とキリスト教の経典には、末世に神様が自分の真理を明らかにすると暗示している。その諸経典は、今日、神様の真理に対する人間の知識が不完全で誤りに陥っていると指摘する。

イスラーム、仏教、そしてほかの諸宗教はどうか。真理は無窮無尽である。しかし、教理に対する論争と多様な宗派の教えによって、世界の主要な伝統宗教が苦労することとなった。末世には新しい真理が出てきて、真と偽りをはっきりと分別し、宗教的論争を終息させ、すべての人間を神様の前に導くだろう。

新しい宗教が現れるとき常にそうであったように、伝統の教理に固着した人たちは、新しい真理が最初に現れるとき、それを拒否するようになるだろう。

それでも、新しい真理が世界のあらゆる宗教の根本的な教えの特性を理解し、尊重しながら包容することができれば、世界中で大勢の支持者たちが現れるのであり、また一つの宗派として残るようにはならないだろう。

 

①完全な真理の出現

―宗教経典―

「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
ヨハネによる福音書16.25 (キリスト教)

私達の知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一13.9 ~ 12(キリスト教)
われは真理によって、なんじに経典を下した。……なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。(注8)
クルアーン5.48 (イスラーム)

私達の時代と主が来られる時がどのように異なるのだろうか。真理に対する純度と造詣が異なるのである。
ゾハール、創世記139a (ユダヤ教)

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネによる福音書16.12 ~ 15(キリスト教)

「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなた達の息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕やはしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
使徒言行録、2.17 ~ 18(キリスト教)

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1章3節)主なる神がたとえ地上の存在にこのように語られたとしても、ここでの「光」は、世の中を動かすその光を意味する。神が創造された本然の光は、これよりもっと次元の高い、神の目から出てくる光である。聖なるその方は、アダムにこれを見せてあげ、それによりアダムもすべての世を見ることができた。ダビデがこれを見たとき、彼は霊的な恍惚感にはまってこのように叫んだ。「御恵みはいかに豊かなことでしょう。」(詩編31 章20 節)この光を通して神はモーセにギレアデからダンまで続く約束の地を見せた。しかし、太初からこの聖なる光は隠されていた。天はエノク、ノア時代、バベルの塔を築いた当代の人間たちが、これを利己的な目的に使うのではないかと心配したのである。……

ラビ、イサクが言った。「主なる神の創造の課業によりつくられたその光は華麗であるので、この世界をいっぱいに満たした。しかし、結局は痕跡を隠した。なぜそのようになったのか。善の法を破る者たちが、その光を利用できないようにするためである。

そして、聖なる主は人の子(メシヤ)が現れるその日まで、この光を現されない。詩編97 章11 節に『神に従う人のためには光を、……』、この光が再び世に輝くとき、人類は更生し、より高等な生を生きるようになり、聖なる生命体と一つになるだろう。しかし、その前までこの聖なる光は暗闇の中に閉ざされている」。
ゾハール、創世記31b 32a (ユダヤ教)
―み言選集―

聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。

ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、誰もが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。

それゆえに、イエスは「私はこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。

イエスは「私が地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ3・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。

そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「私には、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ16・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。

しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ16・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1

人間が堕落したがゆえに、「約束のみ言」が「成し遂げられたみ言」として現れることができませんでした。それで、旧約、新約というのです。約束のみ言、これが成し遂げられたみ言として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間たちは知らずにいます。これは、天を尋ね求めていく聖徒たちが総団結して解決しなければならない問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。

今日、この世界は分裂と紛争が起きている世界です。なぜこのような現象が起きるのでしょうか。イエス様がこの地に来られたときは、その世界は分裂の世界でした。それでイエス様は、この分裂と紛争を解決するためにみ言を語ってくださったのです。ところが、当時の人間たちが、イエス様のみ言を信じないことによって、この紛争と分裂が完全に解決できませんでした。これから、分裂と紛争で混沌としていくこの世界を収拾し、あらゆる主義と思想を統合できる完成のみ言が出てこなければなりません。

それで、皆さんは真の真理とは何か探し出さなければなりません。今日、この世界の歴史過程を見れば、数多くの民族と数多くの宗教がありましたが、一つの帰一点に向かって、統一の目標に向かって進んでいるのです。

それでは、この統一の目標は、どのようなみ言を通して達成されるのですか。神様の約束のみ言によって統一されるのです。人類歴史は、神様の約束のみ言によって立てておいたその土台を抜け出すことはできません。それで、キリスト教を中心
として世界の歴史が展開されてきたのです。これからは一つに統一させなければならない時になりました。それで、すべてのものを統一できる新しいみ言が、あらゆる知恵を備えて現れるでしょう。
(3-326、1958.2.2)

初代教会は異言を語り、神霊役事を行い、預言をし、ありとあらゆることをしました。……それで初代教会で起きた現象が終末のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、異端だという言葉を聞く群れがたくさん出てくるのです。

霊の召命を受けた人はあえてそのようにすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださるのです。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界の人が行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の人たちが見るとき、間抜けであほうのように見えたのです。

これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっているのです。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。
(6-184 ~ 185、1959.4.26)

イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。

それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。

したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論5.2

 

②新しい真理が以前の真理を代替する

―宗教経典―

日昇らざる中はかの蛍も光を放つ。日昇れば光を集めて輝かず。外道等の輝くはかくの如し。正等覚者世に出でざる中は愚者は浄められず、弟子は輝かず。邪見の徒は苦より離れ得ざるなり。
感興偈73(仏教)

われが一節を他の一節に代えるとき、神は、かれが啓示したもうことを最も良く知りたもう。かれらは、「おまえは一ねつ造者にすぎない」と言う
だがかれらの多くは知らないのである。

言え「聖霊が真理をもって、なんじの主から啓示をもたらして来たのは、信仰するものを強固にするためであり、またムスリムたちへの導きであり吉報である」。(注9)
クルアーン16.101 ~ 102 (イスラーム)


ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。

そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。……

このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
コリンの信徒への手紙二3.7 ~ 16(キリスト教)


その方の言葉「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」(マタイによる福音書24.29)は、以前、摂理の聖職者たちに対するものだった。彼らは後続的啓示の時代に生き、宗教を彼らの統制下においていた。

もしこの聖職者たちが、以降の啓示の光によって改化されたなら、彼らは神に受け入れられ、永遠に光を発するだろう。そうでなければ、たとえ見た目には彼らが世人の指導者のように見えても、信仰と不信、指導と失敗、無上の幸福と悲惨、光と闇が、すべて真理の明けの明星であるその方の許諾に依存するがゆえに、彼らは開化されていないものと言われるだろう。……

また他の意味で、「日」、「月」、そして「星々」という用語は、祈りと断食の法規のように、各摂理時代において制定され、宣布されたものと同じ法規と教えと見なされる。コーランの律法によれば、預言者ムハンマドが死んだとき、これらはその方の摂理に最も根本的で拘束力のある律法と見なされてきた。……
ところが、聖職者の頑固さが、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」という言葉で表現されており、すべてが象徴的言語となった(以前の)聖なる啓示により確固として設定された律法の廃棄が、神の顕現として予示されてきたことは確実で明確である。……

すべての引き続く啓示において、以前の摂理時代に制定され、当時の人々を暗く覆っていた教え、律法、戒め、禁止事項である「日」と「月」は暗くなった。すなわち、衰えるようになり、それらの影響力をこれ以上発揮しなかった。(注10)
確信の書33 ~ 41(バハイ教)


―み言選集―

人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。

すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。原理講論、総序
日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ24・29)創世記37 章9節以下を見れば、ヤコブの12 人の子供たちのうち、11 番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『私はまた夢を見ました。日と月と11 の星とが私を拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうに私とあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。

ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したものだということを知る
ことができる。

キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。

聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ1・9)その肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ1・14)、真理の光を発したからで
あった。ゆえにここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ16・13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。

では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙21・1)そのときの新しいみ言によって(本章第5 節(1)参照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。

また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者たちが、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節参照)。

ルカ福音書18 章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書7章23 節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法を働く者ども」と責められ、さらに、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.5

 

4.主の日に対する認識

私達は、どのように末世が切迫していることを認識できるのだろうか。歴史上、何度も千年王国運動が起き、メシヤの降臨を宣布したが、予定されたどの徴候も現れず、追従者たちを失望させるケースをよく経験した。

私達は、その徴候の性格に関心を集中する。すなわち、メシヤが雲に乗ってくる超自然的大変化が起きるのか、あるいは季節の変化のように、数ヵ月、数年をおいて起きる自然的な過程なのか。

一部の経典の章句では、神様の計画は誰にも分からないと言いながら、そのような見解自体を遮断する。彼らは、「偽キリスト」が愚かな人たちを誤って導くことがあるため、私達に性急な扇動に簡単についていかないよう注意を促す。ある章句は、準備された人たちは、再臨主を迎えることができると教示しながら、信仰と忍耐を要求する。
またほかの経典の章句は、メシヤの降臨を計算できる根拠を提示し、それを拡大解釈したりもしている。その中で私達は、第7日の千年王国、すなわち安息の千年王国建設の根拠として、キリスト教とユダヤ教の経典の章句を引用した。これは文鮮明先生の「成約時代」、すなわちアダム以降6000 年の聖書歴史が終わる時点から始まる千年王国建設時代と一致する。

最後に福音がすべての国に伝播されるまで末世は来ないという聖書の教えに基づき、メシヤ降臨の前兆となる20 世紀の世界歴史の変化に関する文鮮明先生の教えを見てみることにする。

 

①臆測は多いが終わりの日が分からない

―宗教経典―

イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。……

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」
マタイによる福音書24.4 ~ 6、36(キリスト教)

かれらは最後の審判の時について、いつそれが来るのかと、なんじに問うであろう。言え「それを知る方は、ただ私の主のみであられる、その時を出現し得るものはかれのほかにない。それこそは、天と地を通じての重大事である。全く突然なんじらに来るであろう」。かれらはなんじらがそれについて熟知しているかのよう、なんじに問う。言え「それを知る方は、ただ神のみであられる。だが人びとの多くはわからない」。
クルアーン7.187 (イスラーム)

盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。
私達は、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
テサロニケの信徒への手紙一5.2 ~ 6(キリスト教)
―み言選集―

終わりに日には、誰の言葉も聞いてはいけないと言いました。ここに来て語る人の言葉も信じるなということです。いくら血と汗を流して話をしても聞くなというのです。どちらが偽りで、どちらが真なのか分かりません。自分の父母も信じることができず、兄弟も信じることができないのに、誰を信じるというのですか。

今の時は、心の審判から自ら勝利しなければなりません。心の審判、心で審判して、間違っていれば切ってしまわなければなりません。心は知っています。

あらゆる面において心の審判をしなければならないのです。それができなければ、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れているという人も多いのですが、終わりの日に神様は何を準備されたのですか。主が臨むことのできる環境基盤はどれですか。
どのようなものが主の理念世界を建設できる民ですか。祈祷してみましたか。死ぬ穴なのかそうでないのか分からず、むやみに口を開いてもがきながら騒いでいるというのです。
(9-265、1960.6.5)

イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、私は盗人のように来るであろう」(黙3・3)と言われながら、その反面においては、テサロニケⅠ5章4節にあるごとく、光の中にいる人には、盗人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際に起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法学者たちに対しては、事実、盗人のように来られたが、光の中にいた洗礼ヨハネの家庭には、イエスの誕生に関することが前もって知らされたし、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ2・1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたちにはその事実を知らせてくださったのである。

復帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事実を預言者たちにあらかじめ知らせてから摂理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒2・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。
原理講論、再臨論


②準備しなければその時を知ることはできない

―宗教経典―

マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。(注11)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8 (キリスト教)

そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私達のともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、
御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書25.1 ~ 13(キリスト教)

ラビ・ヨシュア・ベン・レビが、ラビ・シミオン・ベン・ヨハイの洞窟の入り口でエリヤと出会った。彼はエリヤに尋ねた。「救い主はいつ来られますか」。

エリヤが答えた。「出ていって彼に尋ねてみなさい」、「その方はどこにいらっしゃいますか」、「ローマの城門の前にいらっしゃる」、「それでは、どのようにその方を見分けることができますか」、「傷ついて苦しむ人たちの間に座ってい
らっしゃる方だ。他の人たちは包帯を解いて一度にまた巻く。しかしその方は一つずつ分けて巻かれる。『召喚されたり、獄に閉じ込められてはいけない』と思われるため、そのようにされる」。

ラビ・ヨシュアがその方を訪ねたあとに言った。「あなたに平和が共にあらんことを、私の主人であり師よ」。救い主が答えられた。あなたにも平和が共にあるように、レビの息子よ」。ラビ・ヨシュアが尋ねた。「主はいつ来られますか」。彼が答えられた、「きょう来られる」。

そして、ラビ・ヨシュアがエリヤのところに戻ってきた。エリヤが彼に尋ねた。「その方は何と言われたか」「あなたと平和が共にあるように、レビの息子よ」。エリヤが言った。「その方は、あなたとあなたの父にこれから訪れる世を確認させてくださった」。ラビが言った。「ところが、私に間違ったことをおっしゃいました。きょう来られると言われたのですが、結局来られませんでした」。するとエリヤが言った。「その方は詩編の『今日こそ、主の声に聞き従わなければならない(詩編97 章7 節)を意味されたのである」。(注12)
タルムード、サンヘドリン98a (ユダヤ教)

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ルカによる福音書21.34 ~ 36(キリスト教)
―み言選集―

すべてのものを捨てなければならない時が来るのですが、その時が終わりの日です。そのような終わりの日に神様のみ旨はどのように現れ、神様の真理と愛と生命がどのような所に現れるのでしょうか。そこは、すべての人間の希望であり、求めていかなければならない中心なのです。したがって、皆さんがそこを知らなければ、心を立てて磨きながら準備しなければなりません。そのように準備していれば、そこに行こうとしなくても、いつか自然にそこに行くことができるようになるのです。

それでは、どちらが真で、どちらが偽りかは、何をもって分別できるのでしょうか。この時には、神様も真と偽りを教えてあげることはできません。神様がどのようなものが真だと教えてあげたあとには、その反対に偽りだと教えてあげなければなりません。(注13)ですから、人間自身が分別しなければならず、人間自身が決定しなければならず、人間自身が探し立てなければなりません。したがって、皆さんは、10 人の乙女の例えの中で、あかりを準備した思慮深い5人の乙女だけが主を迎えた、という聖書のみ言の意味を学ばなければ
なりません。
(2-136、1957.3.17)

主が来るのですが、どのように来るのですか。昔、ユダヤ教を通してイエス様が来ましたが、失敗しました。それで、今回はキリスト教、すなわち第2イスラエルを通して来られるようになります。第1イスラエルが失敗したので、第2イスラエルを通して来られるのです。それでは、主が来られるときにどのように来られるのでしょうか。聖書に主は雲に乗ってやって来ると教えているので、キリスト教徒たちはそのように信じています。

主が人としてやって来るという話は、今まで聞いたことがありません。しかし、時が来るに従って、神霊的な人たちが彼を証するのです。誰が証するのですか。男性よりも女性が証します。昔の宗教歴史は、おばあさんから始まりました。70 歳以上の老人たちを中心として。もちろん60 歳以上のおばあさんも神霊体験をするにはしましたが、年を取ったおばあさんを通して主が人として来ることを教え始め、終わりの日に準備するようにしたのです。
(208-306、1990.11,21)


③第7 の千年王国安息

―宗教経典―

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録20.6 (キリスト教)

カナンの地に7年ごとに1年、解放の年があるように、この世界にも7000年目に訪れてくる解放の1000 年がある。イザヤ書2章17 節に、「主はただひとり、高く上げられる」、また、詩編92 章1節には、「賛歌。歌。安息日に」、ここでは長い安息の期間を意味し、また、詩編90 章4節では、「千年といえども御目には、昨日が今日に移る夜の一時にすぎません」と記録されている。

タンナ・デベ・エリヤフは教える。世の中は6000 年続く。このうち2000 年は無秩序の期間であり、他の2000 年は法で統治する時代であり、残りの2000年は主が来られる時だ。しかし、私達の不正のために、メシヤが来られる徴表もなく最後の2000 年の相当な時間が既に過ぎてしまった。
タルムード、サンヘドリン97a(ユダヤ教)

6000 年の600 年が過ぎれば、上には知恵の門と下には知恵の噴水が開かれるだろう。そして、ちょうど一週間の6日目の日の日が沈み始めるとき、私達が安息日を準備するように、世の中は7000 年の世界に入っていく準備をするのである。聖なるその方は、メシヤが降臨してこの世に現れることを大きく願われない。

しかし、メシヤの時が近づいてくれば、幼い子供でさえ知恵の秘密を知るようになり、そして新千年の時を数えるようになる。その時には、あらゆる秘密が万民に現れるだろう。……

「主が御自分の業を喜び祝われるように」(詩編104 章31 節)。天は霊たちが地上に下りてきて、新しい存在として生まれるようにされるだろう。そして、彼らが世の中に属するようにしようとされる。安息日に入る6000 年の終わりに生き残った者たちはどれほど幸福か。この日は、聖なる主、神が霊たちを連合し、地上に残った者たちに合流する霊たちを選択することに決めた日である。
「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる」(イザヤ書4 章3 節)。
ゾハール1.117a 19a(ユダヤ教)

お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。

これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての、御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される。

その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
ダニエル書9.24 ~ 27(キリスト教)

聖書の表現から知られるように、諸時代を日々として数え、それに従って時代区分をあげるならば、私達の安息は明らかに第7日に求められるであろう。第1の時代がいわば第1日で、これはアダムから洪水に至るまでである。

第2の時代はそれからアブラハムまでである。その経過した年数は同じではないが、それぞれ10 世代という世代の数は同じである。そのあと、福音書記者マタイが区切っているように、キリスト降誕に至るまで三つの時代がある。それぞれが14 世代であると数えられる。

まず第1はアブラハムからダビデまで、第2はダビデからバビロン捕囚まで、第3はそれからキリストの肉における誕生までである。以上で五つの時代となる。私達の生きているのは第6の
時代であるが、この長さを数でもって測ることはできない。というのも、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒言行録1 章7 節)と言われているからである。

そのあとのいわば第7日に神は休むであろう。そして私達がそうである同じ第7日を、私達は神自身のうちにあって休みとなすであろう。
アウグスティヌス神の国22.30 (キリスト教)


―み言選集―

神様は僕を立てて、「私がお前の父だ」と教えてくださいました。僕に命じて、天使に命じて教えてくださいました。そのような時代が旧約時代です。次には、息子に命じて役事しました。その時代が新約時代です。その次には、聖霊に命じて役事してこられたのです。
(10-198、1960.10.2)

アダムからアブラハムまでの2000 年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。

また、アブラハムからイエスまでの2000 年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。そして、イエスから再臨期までの2000 年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。……

イエスからその再臨期までの2000 年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の、2000 年期間を、キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理延長時代」という。

イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
原理講論、後編緒論2.2.1

パウロも、コリント人への第一の手紙第13 章で、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言いました。ところが、私達人間は堕落によって希望を失ってしまい、信仰を失ってしまいました。希望と信仰を失ってしまうことによって、神様を中心とする愛を失ってしまったのです。これを復帰するためのものが今までの6000 年復帰摂理歴史であることを、私達は知らなければなりません。

それでは、今まで6000 年歴史は、何をするための歴史だったのでしょうか。人間が堕落することによって失ってしまった希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神様は、それを回復するために苦労してこられたのです。ところが、今日は希望と信仰の時期を経て愛の時代にいなければならない時なのに、まだ信仰の時にとどまっているというのです。

それでは、希望は何を象徴したのでしょうか。神様の新しいみ言を象徴しました。また、信仰は何を象徴したのでしょうか。それは神様の真の息子、娘になることを象徴しました。真の息子、娘を探し立てるために、信仰を象徴としてきたのです。そして、これからは神様の愛を中心として、私という個体が完成したのちに家庭を求めて入っていってこそ、そこに初めて神様の愛が成立することを皆さんは知らなければなりません。
(5-108、1959.1.4)


④時代的徴候

―宗教経典―

御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
マタイによる福音書24.14 (キリスト教)

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。マタイによる福音書24.32 (キリスト教)

見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。
エレミヤ書30.3 (キリスト教)

まことにイエスは、審判の時のしるしの一つである、それゆえにその時について疑ってはならぬ、そしてわしに従え。これが、直き道である。(注14)クルアーン43.61 (イスラーム)
―み言選集―

摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が私達の至近にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験してみることのできなかった霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさん交流するようになるでしょう。頻繁に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。

特に、神様と善霊の役事によって感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった者が、すなわち神様が願われた真の人です。
(神様の祖国と平和UN、2003.2.6)

真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁をもつので、第2次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家をすべて解放させるということが起こったのです。これは、兄の立場から弟をたたいて捕まえたので……。
そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。歴史が願いつつ訪ねきたこととは何かというと、真の父母に出会うことでした。宗教が出てきたのも真の父母に出会うためです。世界が出てきたのも真の父母を探すため、国が出てきたのも真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。
(51-354、1971.12.5)

文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。

そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。

したがって、今や人類の親であるイエスだけが再
臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家だんらんして生活し得るようになっているのである。

このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論4.3


5.メシヤ

多くの宗教の経典は、地上に神様のみ旨を完成する指導者が顕現するという事実に言及している。彼は、神様の正義と愛をもって罪悪を退け、地上天国を建設していく人である。ヘブライ語でメシヤ、(ギリシャ語ではキリスト)は「油を注がれた者」、すなわち神様の使命を受け、それを具現する能力を賦与された特別に選択された人である。

メシヤという用語は、ユダヤ教とキリスト教に限定された概念だが、一人の指導者が現れ、天の使命を完遂するという預言は、あらゆる経典でほぼ一般的に言及される。仏教信者たちは弥勒仏の顕現を期待し、ヒンドゥー教の預言は未来のカルキの降臨について語っている。ムスリムはムスリムたちのイマーム、イエスの再臨を期待し、シーア派のムスリムたちは未来のイマーム、マフディ
を待つ。ゾロアスター教の経典はサオシュヤントの降臨を預言し、儒教の経典はこの世に孔子の道を完璧に具現し、平和を実現する真人の出現を示唆する。
この世界が狭くなり、相互の文化的交流が増大しながら、人類救援の課業はすべての宗教に委任された。したがって、神様は一人の方を地上に送り、すべての宗教的希望を現実化するだろう。

次の段落の章句は、この問題に関する文鮮明先生の広範囲な教えにより、救世主の降臨に関する特別な預言を提示する。メシヤは雲に乗って超自然的に顕現するのか、あるいは地上で生まれ、一人の人間の成長過程を経る自然的方式で顕現するのか、メシヤは栄光の中に現れるのか、あるいはイエスがそうだったように苦難と屈辱の道を歩むのか、メシヤは神様なのか、あるいは神様に似た新しい人間の「最初の実」なのか、そして、どうしてメシヤはアダムに比喩され、どのような意味で彼は新しいアダムなのか、小羊の婚宴の意味は何か、そしてメシヤはイスラエルに対して特別な使命をもっているのか。

最後の段落の章句は、メシヤがアジアから、より具体的に韓国から出現するというノストラダムスとアジア神秘主義者の預言によって構成されている。特に、韓国の預言は、文鮮明先生のメシヤ使命の自覚と直接関連している。

 

①すべての宗教が約束したメシヤ、救世主

―宗教経典―

私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書23.5 ~ 6(キリスト教)

「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
ヨハネの黙示録22.20 (キリスト教)

まさにそのとき、仏が世に出現するであろう。弥勒という名であり、如来、至真、等正覚などの十号をのこらずそなえていて、現在の如来が十号をのこらずもっているのとかわらない。彼はかみがみや帝釈、梵天、魔あるいは魔天、沙門、婆羅門、神々や世間の人々のいるところで、みずから悟りをひらくのとかわるところがない。彼は当然法を説くであろう。言葉のはじまりは善く、中はどもおしまいも善く、内容と表現が充実しており、私が今日法を説いてはじめ、中ほど、おわりの言葉がすべて正しく、内容と表現が充実していて、
梵行が清浄なのと同じである。彼の弟子たちは無数千万もいるであろうが、私に現在、弟子が数百人いるのと同じである。(注15)
阿含経長部iii.76 (仏教)

マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。(注16)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。


彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。彼はあなた達に、徳目というものは両極の間に中庸を取り、公平と正義に基づく性格の状態であることを理解させてくれる。彼は、世の中の人々が死んだ内容だと軽視していた聖コーランと聖預言者の伝承を再び復活させる。……

彼は、学問的土台と優れた知識で自らを保護し防御する。このような(知識の)資源に対する彼の統制も完全なため、彼はそれらがどれほど高貴で、どれほど注意深く使われなければならないかということを知らせる。彼の心は、人類に害悪と損傷を及ぼそうとする欲望をもたない。彼のそのような知識は、他の人々に間違って所有された財産を、再所有して使うための許諾を長い間待っているのと同じだ。

最初に彼は、見ず知らずの見捨てられた貧しい放浪客に映り、そしてそのときイスラームは希望がなく、頭を下げてしっぽを振る気力の尽きたラクダの無力な状態にあるかもしれない。そのように出発し、彼はこの世に神の帝国を建設する。彼は、人類を正しい人生の道に精通するようにしようとする、神の慈悲深い御意志に対する最後の証であり実現なのである。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)

ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。

彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。その後彼らは地上に再び正義を立てるであろう。

そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な
時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・ブラーナ4.24(ヒンドゥー教)

彼は勝利した恩人、世界の改造者と名づけられるだろう。彼は、物質世界全体に恩恵を施すがゆえに恩人であり、体をもつ生命体を不滅のものにするがゆえに、世界の改造者と言うだろう。彼は二本足の獣(人間)の子孫たちがほしいままに行う悪に対抗し、信じる者たちがもつ敵意にもよく耐えることだろう。
アヴェスター・ヤシュト13.129 (ゾロアスター教)

ただ天下の至誠のみが、聡明英知で、(天下を)治めることができ、寛容温和で(民衆を)十分に包容することができ、剛勇剛毅で、(物事を)十分に決断することができ、厳粛中正で、十分に慎み深く、礼義条理を細かく明らめていて、十分に(理義を)。弁別することができるのである。あまねく広く、静かで深く本源があり、時あって外に発現してくる。あまねく広いことは(全てを照らす)天に似ており、思慮の深い淵のようである。現れれば、民で敬しない者なく、言えば民で信しない者なく、行なえば、民で喜ばない者はない。

こういうわけで、名声は中国に満ちあふれ、やがて蛮夷にまで及ぶ。船や車の行く所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載せる所、日・月の照らす所、霜・露の降りる所に至るまで、すべて生きてある者で、尊び親しまない者はない。だから天に並ぶというのである。ただ天下の至誠のみが、天下の五つの人倫を、より分けてさらにこれを合わせ(天下・後世の法とし)天下の大本である性の完全な本体を立て、天地の化育を知ることができるのである。

(誠以外の)物に依存して始めてできるのではない。きわめて懇ろで仁そのものであり、静かに深く淵そのままであり、広大なこと天そのままである。
もし、真に聡明聖知で、天徳に通達している聖人でないならば、いったい誰が(聖人の徳を)知ることができようか。(注17)
中庸31 ~ 32(儒教)


―み言選集―

今日のユダヤ教徒たちの志とキリスト教徒たちの志は何でしょうか。ユダヤ教が願うのもメシヤであり、キリスト教が願うのもメシヤです。同じように救世主を願います。皆さんがここで考えてみなければならないことは、ユダヤ教徒が願うメシヤとキリスト教徒が願うメシヤは違うのか、二人なのかということです。そうではありません。一人です。なぜですか。神様のみ旨は一つであり、サタンを屈服させて神様のみ旨を成し遂げることは一人がしなければならないので、一人のメシヤであることは間違いないのです。
(73-206、1974.9.18)

今日、キリスト教では主が再臨するといいます。仏教では弥勒仏がこの地に来て、儒教では真人がこの地に現れるといいます。各宗教が主の再現を語っています。これは聖書のみ言をそのとおりに再現するという話ではありません。


その方は、聖書のみ言を再現する主人公、何かの道のみ言を再び行う主人公ではありません。高次的な内容の新しいみ言をもって再現する主人公を意味します。
(7-198、1959.9.6)

神様の立場から見れば世界は一つです。世界は一つだというのです。このようなことを見てみるとき、ここに一人を立てたなら、その一人を代表として立てたので、それは世界的です。ここに東洋人も立つことができ、ここに西洋人も立つことができ、アフリ力人も立つことができ、どのような人でも立つことができるのです。これが高まるほど、世界的な代表です。世界的な一つの宗教の代表として糾合していくのです。それで、一人の宗教責任者を立て……。

その宗教は世界的な宗教として発展してくるのです。今、世界的に4大宗教が出てきていますが、これをすべて糾合するために、ここからこの直線でこのように……すべて直線で上がってくるのです。ここからここまで通じることができる一つの道を築き、この地上に来てこの世界を救うための一つの中心的存在がなければならないという結論が出てきます。それが総合的な預言者です。

そのような存在がメシヤです。……それで「メシヤという存在は、必ず宗教と切り離すことができない思想をもってくる」という結論が出てきます。それは、なぜそうなのでしょうか。彼は、神様のみ旨、人間の志を完成しようとするのですが、アダムとエバがこれを失敗し、神様もアダムとエバを主管できなくなったために、アダムが完成できる内容と神様が完成した内容をもっているのです。ですから、神様のみ旨を中心として地の完成のために来るという結論が出てきます。
(91-276、1977.2.27)

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