2.人生の季節
人生にも季節がある。少年期、青年期、成年期、そして老年期などがそれである。少年期は学びの時である。何にでも簡単に影響を受けて学ぶのに大きく開かれている時である。青年期は、自己訓練が必要な探求の時である。二十代は、家庭と職業のために基盤を築く時である。中年期は、自分の目標を成就する時である。そして老年期に入っていく。
この時は、人生の結実が現れる時である。ある人は霊的訓練と道徳的人生を通して得た知恵が現れる反面、ほかの人は浪費した人生の惰弱さばかりが現れる。この時が近づくと、既に人生を改めるには遅い。人間の一生に関するより多くのみ言は、第19 章に詳細に紹介されている。
①児童期と青少年期
―宗教経典―
すべての子供たちは、純粋さと神に対する服従を備えた本性をもって生まれる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)
孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子IV.B.12 (儒教)
魚は新鮮なときに巻かなければならない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
エリシャ・ベン・アブヤが言った。若くして学ぶのは何と同じか。それは新しい紙に書いたインクと同じだ。老いて学ぶのはどうか。それは消された紙の上に書くのと同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.25 (ユダヤ教)
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ人への手紙5.12 ~ 14(キリスト教)
子供たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、私があなたがたに書いでいるのは、
あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ヨハネの手紙一2.14 (キリスト教)
お前は宇宙の四つ角に走っていくだろう。
地が大水と出会う所まで、
天が地と出会う所まで、
冬の故郷まで、
雨の本郷まで、
走っていけ、ここに! 走れ!
丈夫であれ!
お前は民族の母なのだから。
アパッチ族の成年式の歌(アメリカ先住民の宗教)
一み言選集―
お父様!私達は幼子にならなければなりません。
おなかがすけば、「おなかがすいた」とお父様のみ前にねだる幼子にならなければなりません。幼子にはお母さんを欽慕する性急さがあります。その幼子は天真爛漫です。育てれば育てるほど、大切に抱き、培えば培うほど、父母の基準に従って育ちます。
お父様!ここに集まったあなたの子女たちを重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきたこの者たちが、その事情を全部打ち明ければ、
お父様が動じずにいられないことを知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子がお母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)
アダムとエバを造っておいて、すぐにそれができ上がればどれほどよいかと思うかもしれませんが、そのようになりません。一番の底で小さなものが大きくなり、ある程度まで上がってこなければなりません。上がってこなければならないのです。
これが全体の宇宙と関係を結べませんでした。この男性が成長し、15 歳、16歳、17 歳になり、ここに上がってくれば、ブラス・マイナスの宇宙がすべて自分のものになります。詩的になってすべて目覚めるのです。思春期がそうです。家を出て世界を歩き回り、どこかの海にも行き、自分の相対がどこにいるか、目を見開いて歩き回るのです。
(130-155、1984.1.8)
このように青年期には、皆さんが香りを発散するようになります。その香りは広く広かっていきます。虫や蝶がその香りにひかれて飛んできます。ですから、この時期に若者が、若い男女は何を願うでしょうか。彼らは最高のチャンピオン、最高の学生、あらゆる分野で最高になりたいと思うのです。
(52-262、1972.1.2)
今日のティーンエイジャーたちが……。目がひっく返って、どこにでもくっつこうとします。それによって社会に破綻をもたらし、自分自体に破綻をもたらすのです。また、思春期は変わる時なので、誰が一言言っても、「ええい!」と言って……。みなそうだというのです。ちょうど変わる時なので、相対をもって定着するのではなく、しきりに動き回ります。
それで、秩序に従って状況を見ながら行かなければならないというのです。皆さんは今、これをすべて整理しなければなりません。善悪の中で悪は何ですか。破壊するものです。何の保護作用も成立しないということを知らなければなりません。
(118-197、1982.6.1)
②成熟と老年期
―宗教経典―
先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
論語2.4 (儒教)
先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」
論語9.23 (儒教)
彼の頭が白いが故に年寄りなのではない。実に年若くとも[ヴェーダを]学んでいる者を神々は年寄りとみなす。マヌ法典2.156 (ヒンドゥー教)
あなたは生命を延長することはできない。ゆえに、不注意でいいかげんな人生を生きてはならない。老いれば既にどうすることもできない。
ウッタラッジャーヤ4.1(ジャイナ教)
学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知恵は増えない。
法句経152(仏教)
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。
人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.1 ~ 7(キリスト教)
あなたのほほに白髪が下がり
額にしわが深く谷をつくり
肉身が骨組みになる前に、
歯がはぐきから抜け
背が地に向かって曲がり、
あなたが他の人の重荷になる前に、
片手に杖を持ち
もう片方の手で膝を押して立ち上がる前に、
歳月があなたの肉身の美しさをむしばみ
あなたが死の苦痛を感じる前に、
我々の主、クダラ・サンガマを崇拝せよ!
バサヴァンナヴァチャナ161(ヒンドゥー教)
―み言選集―
人間にとって最も重要な時はいつですか。少年時代ではありません。青年時代を超えて壮年時代に行く、すなわち20 歳を超えて40 歳に至るその間が最も重要な時期です。人は20 歳から30 歳に至るまで、人としての土台を築き、そこに自分が隠居できる確固たる基盤を築いておかなければなりません。
また、その後に明確な目的を中心として行くことができる環境的な基盤を備えなければなりません。そのようにできない人は、30 歳を超えて40 歳に向かっていくとき、無意味な人間、平凡な人間として生きざるを得ません。
(22-314、1969.5.11)
人の一生を見てみるとき、活動能力を最高に発揮できる時は、いつでしょうか。二十代から四十代、あるいは五十代までです。この20、30 年の期間が全盛期です。しかし、40 歳を超えると、その基準から下がっていきます。このような観点から、皆さんはみ旨のために働ける期間がどのくらいになるかという問題を考えてみなければなりません。
(33-186、1970.8.12)
この生がいくら貴いと言っても、青春の時期に比べることができないことを知っています。お父様、
私達が壮年になれば荷を背負わされるようになり、壮年の時期に闘ってもちこたえられなくなるときには、その結実された子孫が悲惨になることを知っています。
それゆえ、壮年の時代を力強く過ごし、老年の時代を経て新しい春を迎え、新しい夏の節気を見ることのできる子孫を、自分の懐の中にもった家庭であってこそ、その後にやって来る秋の節気を無難に克服できるということを知るものです。
これが人生というものであり、世界の歴史時代においても、象徴的な現象であることを眺めるようになるときに、お父様のみ旨の前においても、やはり同じだということを知るものです。
(31-139、1970.5.3)
3.善の啓発
善は努力を必要とする。悪が支配し、私達の心と体を汚染させるこの世の中で、私達が正しいことを行って生きることは簡単ではない。したがって、本当に善の人になるためには、自分に対する絶え間ない訓練が必要だ。アリストテレスは、善の性稟を啓発するのは技術を習得する過程と同じだと見た。
長い間持続的な努力によって善行を実践する人は、善の習慣を形成するようになる。数年間養われた善の習慣は、善の性格形成へと続く。人間の霊魂は、良い作物を得るために、種を蒔き、耕作し、毎日毎日雑草を除去しなければならない田畑と同じである。
善を追求する代わりに、小さな過ちだとみなし、自分の過誤を一つずつ黙って見過ごしていけば、時間がたつに従って悪い習慣が徐々に体に宿るようになる。善は善を生み、悪は悪を生む。文鮮明先生は、私達に再度この事実を想起させる。悪は堕落人間の中で繁殖することを好む。したがって、常に善に生きるために積極的に努力しなければならない。ごく小さな過誤が私達を没落に導いていくからである。
①実践的生涯を通した善の啓発
―宗教経典―
すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。
法句経183(仏教)
君子は善を見れば遷ってこれに従い、禍ちがあればこれを改める。
易経、周易下経、益42(儒教)
常にトーラーと慈善に尽くしなさい。その上、他の底意があるときさえも善行の習慣が積まれ、結局動機まで善になるだろう。
タルムード、プサヒーム50b(ユダヤ教)
聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。
法句経239 (仏教)
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできる島をつくれ。
法句経25(仏教)
トーラーを研究すれば正確な人になる。次は情熱をもつようになり、情熱を超えて清潔さに、清潔を超えて自制力に、自制力を超えて純潔さに、純潔さを超えて高貴さに、高貴さを超えて温順さに、温順さを超えて罪を警戒する人となり、次は崇高に、崇高さを超えて聖なる霊魂に、聖なる霊魂以降には永遠の生に入っていく。
タルムード、アヴォダー・ザラー20b (ユダヤ教)
この自我は真実と苦行と正智と不断の梵行とによりて得らるべし。身内にありて、輝ける光明所成の彼を照観するはただ罪障を滅したる修行者のみ。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.5 (ヒンドゥー骸)
あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私達の主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ペテロの手紙二1.5 ~ 8(キリスト教)
よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べでしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
このたとえが分からないのか。……種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
マルコによる福音書4.3 ~ 20(キリスト教)
器量はこれをまず働かせた上で、獲得する。それは、ちょうど、さまざまな術について見られるところと同じである。すなわち、われわれは学び知ってからなすべきはずのことを、なすことによって学び知るのである。
たとえば、ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。これとちようど同じようにわれわれは正しいことをすることによって勇気あるひとになるのである。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.1.4(ヘレニズム)
注意深く適切な行為、規範を確認し、それらを昼夜手本として従い、一瞬の怠慢や中止もないようにせよ。ある程度時間が過ぎたのちに私達はそれらに慣れるようになり、そうなれば、私達はそれ以上、それらに従う必要なく、私達自身の基準をつくるにとができるようになる。
朱熹(儒教)
あなたが習慣にしようとするものは、何であってもそれを実践せよ。そして、あなたがあるものを習慣にするまいとすれば、それを実践せず、あなた自身を他のことに習熟するようにせよ。
エピクテトス(ヘレニズム)
自己修養を長い間継続すれば、徐々に喜びの精神に導かれるようになる。喜びの精神は、柔らかく、寛大で、優しく、調和するものを求めるようになるだろう。これを願う人は、誰もがその悪い感情を除去し、怒りをなくさなければならず、反対を呼び込み、憤怒を引き起こす逆境から自由にならなければならない。個人の、そして長い間の綿密な調査は徐々に理の説明へと導かれるようになるだろう。完全な理解は、他の人に公然と彼を批判なく素直に影響を及ばせることを知るようになるだろう。これを留意する人は誰でも見聞が広がり、影響力があるようになり、拒絶され、そして争いの中で生じる憂慮から自由になるだろう。
この上、私達はさらに積極的に事物の理を観察し、私達の根本的な感情を調査しなければならない。個人的にこのようなことに対し時間をおき、注意深く考えてみる、自身の知的精神的能力を通して経験しなければならない。このようなことを行えば、偏見と虚位の過ちから自由になるだろう。
すべてのことにおいて常に自身の学びの力を点検することは重要である。もしある障害物や過ちがあれば、その病弊を発見し、それを根こそぎ抜いてしまうときまで、深く究明せよ。
朱熹(儒教)
―み言選集―
善と悪は、未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。
御旨の道、善と悪
心や思いでは善悪が決定しません。行動をしてこそ善悪が決定するのです。そうではないですか。行動しない熱情では、罪として糾明できません。現れないからです。実体でなければ認定できないのです。いくら何かをしても、証拠がなければ決定できないでしょう? 同じことです。行動した結果によってすべてのものが決定するのです。思いだけをもってすべて分かっていると思っても、その世界と私は何の関係もありません。
(359-166、2001.11.7)
皆さんが勉強するために本を読むとしても、ただ読むだけでは駄目です。そこには必ず読む練習をして、訓練する過程が必要です。私達が音楽を聞く場合にも同じです。ただ一度聞いただけでは駄目です。その音楽に対して深く詳細に理解するためには、必ず時間的過程と訓練が必要です。私達が語ることにおいてもそうです。語ることにおいて、人よりも有名になり、抜きん出るためには、ただそのままそうなるのではなく、必ず訓練過程がなければなりません。私達の行動もそうです。私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。
(67-178、1973.6.10)
有名なバイオリン演奏者たちは、たくさん鍛え、触れ、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの筒の音がすべて分かるのです。分かってするので、和音になる音の構造が、それ自体の細胞が変わります。それで、そこから出てくる音が神秘的になるのです。同じことです。精誠を尽くさなければなりません。祈祷とは何ですか。精誠を尽くすことです。どこに行ってもアンテナを立てていなければなりません。一瞬も放心することはできません。
(241-179、1992.12.24)
堕落した人間がどのように再び善であられる神様のところに行くことができるのですか。まず良心を通して本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善とみ言の価値を表さなければなりません。
そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを見いだされるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。ところが、これが人間の堕落によってすべて挫折してしまったのです。
(2-320、1957.7.21)
霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。
人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。
霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
生心の要求するものとは何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。
ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。
原理講論、創造原理6.3.2
心と体が一つにならなければ、天国に行けません。矯慢にならないでください。謙遜にしなさいというのです。祭物になりなさいというのです。それで、宗教はすべて体を打つのです。3年以上犠牲、奉仕しなさい、断食しなさいと言うのですが、それは人間が好むものではありません。
(245-58、1993.2.28)
②善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る
―宗教経典―
善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
法句経116 (仏教)
小さな教えでも、行おうと努力せよ。罪から逃げよ。教訓はもう一つの教訓を生み、罪はもう一つの罪を生む。教訓の報いはもう一つの教訓であり、犯罪の償いはもう一つの罪である。
ミシュナ、アヴォート4.2 (ユダヤ教)
「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
法句経121 ~ 122 (仏教)
持っている人は更に与えられて豊かになるが持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタイによる福音書13.12(キリスト教)
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)
黒いやぎは暗くなる前に早く捕まえなければならない。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)
孟子が高子に向かっていわれた。「山の嶺の細い小路も、絶えずきまってそこを人が通れば、やがては路らしい路になるものだが、それも暫くの間、通らないでいると、また茅などの雑草が生い茂って、路を塞いでしまう。……もう今では、茅がお前の心を塞いでしまっているぞ。」
孟子V1I.B.21 (儒教)
天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。
「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
マタイによる福音書25.14 ~ 30 (キリスト教)
孔子のことば。小人は不仁を恥とせず、不義を畏れず、利益があると見なければ一生懸命にならず、刑罰で威しつけなければ懲りない。してみれば小さく懲らして大きな誡めを与えることは、小人にとってもしあわせのことなのである。易に「校を履いて趾を滅る。咎なし」とあるのは、このことを言ったものである。
善行も積みかさねて行かなければ名声を勝ちとるには至らぬし、悪事も積みかさねなければ身を滅ぼすには至らない。ところが小人は小さな善行などやっても無駄だと考えてやろうとせず、小さな悪事はやってもさしつかえないと考えて止めることをしない。だからやがては悪事が積みかさなって隠すことができなくなり、罪が大きくなってのがれることができなくなる。易にも「校を何いて耳を滅る。凶なり」と言ってある。
易経、周易繋辞下伝2.5.7 ~8(儒教)
一度自らにうそをつくことを許した人は、二度、三度、さらには、ついにそれが習慣になるまで簡単にうそをつくようになる。彼は深思熟考せずにうそをつき、真実を語っても世間から信用されなくなる。
トーマス・ジェファーソン
―み言選集―
体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私達の個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1.2
習慣的にうろうろ、行ったり来たりし、聖日も行ったり来たりする、進展もなく、ただ停止状態でついてきた人たちは、み旨のために何かを意欲的に実践した経歴がないので、人が良い、悪いと言っても、良いのか悪いのか無感覚なのです。そのように10 年を経て初めて「私はこのような位置にいるのだなあ」と恥ずかしく感じる人もしいたというのです。
(89-231 ~ 232、1976.12.1)
人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用することを、私達は自分の心を通してよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、そこに比例して悪の心が常に対決しているというのです。
また、善の心は、何かの目的に向かっていくとしても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、目的とするその世界に向かっていくにおいても、善の心を刺激させることのできる過程や因縁を発見することが難しい反面、悪はその過程に満ちあふれていて、その過程を経て最後まで連結されています。このようなことを見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
(36-51 ~ 52、1970.11.15)
4.決断
道徳的人生とは目的のある人生を意味する。そして、それは決断を必要とする人生である。自然に善になる人はいない。目的なく人生を過ごしていく人は、悪の流れに陥って溺死しやすい。私達は常に分かれ道に立つようになるが、より善の道とより悪の道がそれである。そして、その選択は私達の責任である。経典では、これを生と死、狭い門と広い門、二人の主人の間で選択しなければならない私達の決断力にかかっているという。
文鮮明先生は、人間は中間的存在であり、互いに反対方向に作用する善と悪の力によってどの方向にも引かれていくと言われる。これは、良心を通しで私達を導く神様と、自己中心の欲望を追求せよと刺激するサタンの間の葛藤であり闘争である。このような困難な状況で、自分の道を選択し守っていくことは、各個人の責任である。
―宗教経典―
勝善と福楽とが人に至れる時、賢者は両事を精査して検別し、福楽を捨てて勝善を選ぶ。愚人は利養を求めて福楽を選ぶ。
カタ・ウパニシャッド1.2.2 (ヒンドゥー教)
人は常に善悪の岐路に立つ。
処世訓(PL 教団)
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)
神は一つの比喩を提示したもう、多くの主人がいて互いに争う者と、ただひとりの人に完全に仕えている者と。このふたりは比べてみて同じであろうか。
クルアーン39.29(イスラーム)
見よ、私は今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、私が命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
申命記11.26 ~ 28(キリスト教)
耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ最勝のことを。それはひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、それというのも重大な走行に先だち、それに目ざめさしめんためです。
では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
アヴェスター・ヤスナ30.2 ~ 3(ゾロアスター教)
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書7.13 ~ 14(キリスト教)
悪いことが多いので、なんじを驚かせるであろうが、悪いことと善いことは同じではない。それでなんじら思慮ある者よ、神を畏れまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。
クルアーン5.100 (イスラーム)
われはかれのために、両目と一つの舌と二つの唇を、つくったではないか。さらに二つの道をかれに示したではないか。だがかれは、けわしい道を取ろうとせぬ。けわしい道が何であるかを、なんじに理解させるるのは何か。それは奴隷を解放し、または窮乏の日には、近い縁者の孤児、また土に伏す貧者を養うことである。それから信仰する者になって、忍耐のために励ましあい、互いに親切温情を尽くしあうことである。
クルアーン90.8 ~ 17(イスラーム)
つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。法句経290 (仏教)
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13.44 ~ 46(キリスト教)
―み言選集―
善と悪が対立している世界に私達はいます。心と体を分けておいて、善と悪が互いに引っ張り合っています。悪は悪で引っ張り、善は善で引っ張ります。
このように、対立した環境の中に私達人間が身をおいているのです。この境界線をどちち側に越えていくのかによって、悪になることもあり、善になることもあります。皆さんは、この境界線でさまよっているのです。
(36-55、1970.11.15)
私は善悪の分岐点です。
(109-268、1980.11.2)
元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。
しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。
それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。
しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。
それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。
一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。
原理講論、後編緒論1.1
体のいうとおりにすれば地獄と通じるのであり、心のいうとおりにすれば天国と通じるのです。天国と地獄の分岐線が私です。
(214-283、1991.2.3)
霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんが空腹のとき、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしくなければならないかというと、私が生き残り、神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりもっと良くなければならず、霊的な力を中心として生きる味が、肉的な力をもって生きる味より、もっとおいしくなければなりません。
(131-211、1984.5.4)
過去のことをすべて振り返ってみる時、今となっては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これは人間だけの決定でなされるものではないという事実が分かったので、「神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ意によって、人間的な考えを越えて、決定的な路程を
取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。
(211-135、1990.12.30)
私がなぜこのようなことをしたのでしょうか。神様を知ったからです。そうでなければ、私は世の中の人として堂々と今日のどの社会に行っても賢い人として、長として、十分に一つの国を動かすことができるこのような位置まで行ったかもしれません。そのような頭があり、そのような能力がある人です。
今も私がじっと考えれば、私の一生でたくさんの涙を流したのですが、それは誰のためでしょうか。神様です。神様を知ってからです。また、今まで苦労したというのです。それも神様を知ったからです。迫害を受け、このようなことは、すべてレバレンド・ムーンが愚かだからではありません。神様を知ったからなのです。
先生は、個人的に希望がなく、欲望がないでしょうか。青春時代にその貴いものをもたなかったでしょうか。同じです。しかし、これを無慈悲に一度切ってしまった以降には、二度と振り返りません。そうしてみると、今日のレバレンド・ムーンになました。(93-67、1977.5.1)
5.善と悪
善と悪はどのように区別できるのだろうか。世の中には、善悪を決定できるある行動に対する正答や、それ自体に内在したり、隠された普遍的指針が存在するのだろうか。善の人と悪の人の違いは何か。
善と悪は、内的、外的に区別される。文鮮明先生のみ言を見れば、ある時は、動機を通して善悪を区分しなさいと言われる。言い換えれば、善行は良心に従って行う行為である反面、悪行は体の欲望を満足させる行為だというのである。
ある時は、善悪を心の目的と意図によって区別しなさいと言われる。しかし、自分の意図とは何だったか推し量ることができないとき、明確に現れる指向点がないときは、善と悪を正確に区別することが難しい。仕事がすべて終わって実を結ぶときまで時間がかかる。
したがって、文鮮明先生は、時には自分の行為が結実し、善悪が明確になるその瞬間まで、忍耐心をもって待たなければならないときもあると言われる。
このように文先生は、善悪を区別する方法に対しても語ってくださった。しかし、常に強調される客観的な一つの基準がある。善は利他的であり、人のために生きることであり、悪は自己中心的だということである。
①善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと
―宗教経典―
行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド、ギーター3.15 ~ 16(ヒンドゥー教)
かれらのうちには、自ら魂を誤った者あり、中間の道をとる者もあり、またかれらのうち、ある者は、神の許しのもとに、種々の善い行いに率先する者もある。それは、偉大な恩恵である。
クルアーン35.32 (イスラーム)
どんな場合にも、輪廻の中の楽のみを、自らのために求めているもの、彼等が下士の衆生であると知られる。生存の中の楽を顧みず、悪業から離れることを自らだけのために求めている者、こうした衆生が中士と言われる。自らに結びついている苦によって、他のあらゆる苦を取り除こうと常に願っている者、こうした衆生は上士である。
菩提道灯論(仏教)
人間には四つの性稟がある。「私のものは私のものであり、あなたのものはあなたのものだ」という者は平均の人である。ある人はこれがソドム人の性稟だと言う。「私のものはあなたのものであり、あなたのものは私のものだ」という者は規律を知らない人である。「私のものもあなたのものであり、あなたのものもあなたのものだ」という者は聖人である。「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」という者は邪悪な人である。
ミシュナ、アヴォート5.13 (ユダヤ教)
ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。
ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.415 (仏教)
自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受けるなら、あらゆる円満を得ることになる。自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、善趣と名誉を得る。自分のために、他者を使うなら、〔後に〕奴隷などを経験しなければならない。他者のために自分か働けば、〔後に〕支配者などを経験することになる。
菩提行論、禅定波羅蜜8.126 ~ 128 (仏教)
創造者を共同の起源とする神々と悪魔たちは、互いにライバルだった。ゆえに、悪魔たちが自慢げに言った。「どこに供え物を置くべきか」。そして自分たちの口に供え物を入れた。神々はそれぞれ自分の友の口に供え物を入れた。すると創造主は彼らに自らを与えた。(注3)
シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1~2(ヒンドゥー教)
人は誰でも創造的利他主義の光の中で道を歩いていくのか、あるいは破壊的利己主義の暗闇の中で歩いていくのかを選択しなければなりません。これは審判です。人生において絶えず訪れてくる最も差し迫った質問は、「あなたは人のために何をしているのか」です。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
正否の物差しは最大多数の最大幸福である。
ジェレミ・ベンサム(注4)(ヒューマニズム)
―み言選集―
悪と善の方向はどのように違うのでしょうか。善は常に絶対者であられる神様を中心として相対的立場に立つのであり、悪は自分を中心として主体的な位置に立つのです。善のものとは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは、悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むようにするのです。善と悪は方向が異なるのです。体はすべて自分が願うことばかりをしようとし、心はすべて体が願うことをできないようにしようとするのです。方向が異なります。
(16-137、1966.1.22)
それでは、今人間たちにとって一番の問題になることは何かというと、善とは何であり、悪とは何かということですが、その基準が不確実だというのです。
神様と私の関係を知ったので、その関係が一致して、悪とは何であり、善とは何かということをはっきりと根本から区別しておかなければなりません。悪は何ですか。悪の定義とは何ですか。サタンが讒訴する条件を提示するのが悪です。皆さんはそれを知らなければなりません。罪とは何ですか。サタンが讒訴し、そこに関係を結べる内容をもてば罪です。キリスト教徒たちは、罪の根を
すべて知らなければなりません。
悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自分を誇ることから始まったのです。主体のためにいなければならないにもかかわらず、「私のためにいなさい。私のためにいなさい」と言いました。これが悪です。神様の創造原則は対象のためにいることであり、対象を否定し、「私のためにいなさい」、このようになったのです。これを根本にしました。
皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は何かというと、「私のために生きなさい。すべて私のところに来て屈服しなさい」というのです。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。すべて反対です。
(69-85、1973.10.20)
皆さんが善の人なのか、悪の人なのかを何によって判定するのですか。個人主義的な存在か、公的な存在かに、今日の人倫道徳の基準を立てたのです。善の人は人のために犠牲になる人であり、悪の人は人を搾取する人だということです。教育の標準をそのように立てているのです。
(102-234、1979.1.1)
この世の中には2種類の人がいます。一つは世界的な考えのもとで考え、世界的な考えに従って行動する人であり、もう一つは、その反対の立場で、世界でも何でも、自分の考えどおりに行動する人です。人々は、世界を考えて行動することを好みません。いつでも自分を中心として考えたがるのです。自分を中心として考え、自分を中心として行動するのが人間だというのです。
一人は歴史的な世界の聖人たちを考え、その国の愛国者を考え、現世に暮らす有名な人を尊敬し、その道に従っていこうとする人であり、もう一人は、聖人であれ愛国者であれこの時代の指導者であれ、気にせずに「私」を中心として動かなければならないと考える人です。
皆さんはどちらの人ですか。どちらを好みますか。相対を中心とする人生が必要ですか、自分中心的な人生が必要ですか。どちらが皆さんの実際ですか。(相対を中心とするものです)。答えは正しいですが、考えは違います。(考えもそうです)。しかし、実際には自己中心的な道を行っています。いつでも自分を中心としていこうとすることが問題です。それが実際であり事実です。
(117-214 ~ 215、1982.3.7)
世界の人類を、善の基準を標準として三種類に分類すれば、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることなく緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人に分けられる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。
御旨の道、人格
善の人とはどのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。
(315-210、2000.2.2)
アメリカが言うには、「ああ! 世界のことは知らない。私達の国のためだけに生きればよい」、これでは世界の公法に引っ掛かります。アメリカは、今まで世界の人たちに相当仰がれてきましたが、最近はみな、「アメリカ人」どいえば首を振ります。
なぜそうするのでしょうか。今日、カーター大統領といえば、カーター大統領が本当にアメリカの願う大統領か、あるいはアメリカが願わない大統領かという問題を考えるとき、カーター大統領が自分を中心として考えるのか、アメリカを中心として考えるのか、また自分の選挙のために行動するのか、将来のアメリカのために行動するのか、このような問題を中心としてすべて悪のものと善のものが分かれます。
アメリカ大統領としてカーターがアメくリカの利益のためにすれば、それはアメリカ内でのみ大統領になりますが、世界を中心として見るとき、世界が公認し、世界の利益になるようにすれば、世界に影響を与えた大統領として、世界が仰ぐアメリカ大統領になれます。そのようにできなければ、世界の制裁を受けるアメリカ大統領になるのです。
このような観点から見れば、人間には必ず法があります。ですから、審判が残るのです。それでは、そこに引っ掛かる張本人は何ですか。その根本とは何ですか。自己中心、自分の考えです。自分を中心とするところですべて引っ掛かります。それは間違いありません。それでは、私達が「世の中の法に引っ掛からない人になる」と自信をもっていくとすれば、どのようにすれば引っ掛からないのですか。「自分のために生きる」、このような人は至る所で引っ掛かります。「自分よりもっと大きなもののために生きる」、このようにするときは、すべての法から解放されます。すべての法で解放されるのです。
(93-302、1977.6.12)
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