人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-61

2022年07月31日 19時22分59秒 | 学習


③新郎のために生きる新婦として神様への献身

―宗教経典―

夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。

私が町をめぐる夜警に見つかりました。「私の恋い慕う人を見かけましたか。」彼らに別れるとすぐに、恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に、私を産んだ母の部屋にお連れします。

エルサレムのおとめたちよ。野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさないと。(注30)
雅歌3.1 ~ 5(キリスト教)

私の手に鏡のように、
私の頭に花のように、
私の目にコールのように、
私の口にタンブルのように、
私の胸に麝香のように、
私の首にネックレスのように、
私の体に恍惚境のように、
私の家庭にアイのように、
鳥に翼のように、
魚に水のように、
生物に命のように、
あなたは正にそれと同じです。
しかし、私に語ってください。
あなたはどなたですか。
実際、あなたはどなたですか。
ヴィディヤーパティが言うには、
「彼らはお互いです」。(注31)
ヴィディヤーパティ(ヒンドゥー教)

聖なる母、主なくしてどうして生きるのですか。
万有の主、あなたに栄光があらんことを!私があなたを賛美しますので、あなたなくしては決して生きていくことができません。新婦は主を気をもみながら渇望し、夜通し起きて彼を待ちます。
私の心を魅了した主、彼だけが私の苦脳を知ってくださるので、主がいなければ私の魂はつらさと苦痛の中にいて、彼の言葉を求め、彼の足に触れることを願います。主よ、慈悲を施してください。
私をしてあなたの懐に入るようにしてください。
アーディ・グラント、サーラングM..1.p.1232 (シーク教)

恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。

この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。」
雅歌2.10 ~ 13(キリスト教)

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女(注32)が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。

この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マルコによる福音書14.3 ~ 9(キリスト教)

ラーマよ、……妾は蹤いて行きたいのです。……妾はあなたの後から歩いて行くのならば、安楽椅子などに腰を下ろしているように、森では道を歩いても疲れることはありません。道を塞ぐ、クシャ草も、萱も、葦も、また棘のある植物も、樹木も、あなたと御一緒ならば、綿か鹿皮と同じ感じです。大風が埃を吹き上げて、妾を包んだとしても、あなた、妾はそれを最上等の栴壇香だと思います。

森の中を歩きまわっても、御一緒に毛布を敷いたように柔らかな草地に寝さえすれば、これに勝る安らかさがありましょうか。木の葉や木の実がたとい少なかろうと、また多かろうと、あなたが集めてきて妾に下さるなら、それは妾にとって甘露の味がしましょう。……あなたと御一緒ならば天国ですし、あなたと離れて暮らすのは地獄です。(注33)
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻30(ヒンドゥー教)


―み言選集―

神様は、どのような方ですか。私の体の永遠の主人です。私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻がその夫を恨みません。そのようになっているというのです。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、「なぜ神様を私より愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことができる世界が天国です。

世の中のいかなる愛、いかなる内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であられる神様の懐、その園にいれば死んでもよいのです。私の心の永遠の主人、私の心情の永遠の主人であればそれで十分であって、それ以上何を望むのでしょうか。
(7-255、1959.9.20)


女性たちの希望は、そうではないですか。「あの男性なら私は死んでもよい」と思える男性を得れば、天下に何も必要ありません。貧しくてもよく、裕福でもよく、泣いてもよく、死んでもよいのです。それ以上はないというのです。

同じように、私達人間の最高の欲望は神様の愛を占領することですが、この愛を占領することによって、この宇宙の主人になります。王の王権をもつのです。王の王になります。

ですから、優れた人にも愚かな人にも、すべて欲心を付与したのは、その目的を万民共通に付与しなければならないからです。本然的理想がそのようになっているので、そのような作用をするのは、自然の道理です。ですから、それが私達の自然に到達できる目的地だということです。

神人愛、どのように神様と人間が、縦横が一つになるのですか。神様は垂直的な愛です。垂直の愛なのです。ですから、イエスが昇天したあとに聖霊が来ました。聖霊は母の愛です。キリスト教は新郎を迎えるための宗教です。新郎と新婦が出会うためには、空中権勢をつかんだサタン圏に勝たなければなりません。

ところが、宗教がどれほどたくさん犠牲になったか分かりません。これを平面的に獲得するためのものが地上天国、再臨理想です。神様がこの地に再臨主を送って中心として立て、横的に版図を展開させるのです。二重になるのです。完成した二重的すべての……。心と体が二つではなく一つになります。男性の体と女性の心が相対をなし、天地調和の渦の中心になるのです。それで、中心として上がっていったり下がっていったりします。
(252-120 ~ 121、1993.11.14)

堕落とは何でしょうか。神様の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。私達は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。

私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私達造られた人間の本然の心情です。(注34)心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
(8-291、1960.2.14)

お父様!
きょう、お父様の御心情の園で
私達の体が動じ、
心が動じ、
すべての考えが動じるよう
許諾してください。
お父様の御心情は、
無限なる愛の御心情であることを
私達は知りました。
お父様の御心情は、
限りなく悲しい御心情であり、
限りなく傷を負っている
御心情だということも、
私達は知りました。

限りなく悲しまれたお父様、
限りなく苦労されたお父様、
今も限りなく気遣われるお父様!
そのお父様が創造主であられ、
そのお父様が
全万象の主人公であられるということを分かるようにしてくださり、
お父様がお受けになる
限りない悲しみが、
私達の胸に
しみ通るようにしてくださり、
限りない悔しさと無念さが
私達の心中に
流れ込むようにしてください。
これを体得した者を、
身の置き所を知らないため、
自分の身を支えることのできない
悲しみに浸るようにしてくださり、
その心を収拾することができず、
天地の区別もつかないまま
痛哭する息子、娘たちと
なるようにしてください。

今、精誠を尽くし、
この心と体をすべて捧げ、
その御心情の前に
不足がないということのできる、
認定を受ける息子、娘たちとなるよう許諾してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。
私達は、
天がどのような物質を下さることも
願っていませんし、
事情を知ってくださることも
願っていませんし、
恩恵を下さることも願っていません。
それよりは、
恩恵を下さったのちに
悦楽しようとなさる、
お父様のその内情を
私達が知るよう許諾してください。

そうして、
悲しまれたお父様を
「お父様」と呼ぶことができ、
苦痛のお父様を慰労してさしあげることのできる息子となり、
娘となることを願うものです。
(8-262、1960.2.7)

5.純粋な意図

奉公の根は、心情にある。奉公の行為に私達を導く意図が、正に奉公の価値を決定する。最初は、信仰と服従が外的な形態でのみ表現されるが、結局、本来の内面的意図は外的に現れるようになっている。神様に近づいていく道には、純粋な心情と真実な心が要求される。

俗世での生活も、私達の意図から始まる。イスラエルの民が神殿に行き、「だれが主の丘に上がるのか」という聖歌を歌うとき。彼らは言った。日々の生活で彼らは道徳的に、正義感をもって生きなさいという天の戒めを守って生きたと。いつでも純粋な意図から神様の摂理に世俗的な関心より優先的に仕えるとき、心の純潔性が育てられる。

心と体を尽くして神様に栄光をお返しし、神様の摂理に貢献しようという純粋な意図をもつとき、私達は神様と真実な関係を維持し、天門が開門する。純潔な精誠の反対概念の理解のために第15
章8.「偽善」が参考になる。精誠の役割に対してより深く理解するためには、第12 章5.「誠実と確実」が参考になる。


①心の純粋と誠実

―宗教経典―

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
マタイによる福音書5.8(キリスト教)

眼を以ても、語を以ても、その他の感官を以ても、苦行を以ても、あるいは祭儀を以てするも捉えられず。智の澄浄によって本性の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.8 (ヒンドゥー教)

どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。(注35)
詩編24.3 ~ 6 (キリスト教)
希望が成されることを願い、私の前に来るあなた達は、みな偽りなく純粋で、内も外も貞潔で、鏡のように真理を写し出す心で願わなければならない。(注36)
天満宮神社の神託(神道)

たとえ、鉄の玉を食べようとも、心の穢れた人のものを食べてはいけない。銅を溶かすような焔の上に座っても、心の汚れた人のところへいってはいけない。清浄を大事にするためである。(注37)
八幡大菩薩、三社託宣(神道)

おおわが兄弟よ。純粋な心は鏡のようなものである。愛と神以外のものへの愛着を断つためのみがきで、心の鏡をみがきあげよ。そうすれば、あなたの心は真実の太陽で照らされ、永遠につづく夜明けの光でかがやくであろう。
七つの谷、四つ目の谷21(バハイ教)

それは、あなたがまじまじと神を見るように、彼を敬い崇めることです。あなたが眼にしていなくとも、神は貴方を見ておられるのですから。
ナワウィー40 のハディース2(イスラーム)

まことは、神の心である。したがって、神につかえおまつりするのに、まことの心をもってあたると、神は必ずそれをうけてくださる。
貝原益軒神祇訓(神道)

主なる神に従おうとする者は、些細な問題を心配する時間がない。創造者なる神に常に仕えようとするとき、虚栄は入り込む時間さえない。(注38)
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)

私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。(注39)
ヨハネの黙示録3.15 ~ 16(キリスト教)


―み言選集―

恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。
御旨の道、心情

神様は、精誠を尽くさないところにおいては働かれない。
御旨の道、み旨

キリストを遠ざけ、自分のために生きる息子、娘にならないよう導いてください。
(2-300、1957.6.30)

克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。ですから、神様をどのくらい精誠を尽くして侍ってみたのか、どのくらい精誠を尽くす心で慕ってみたのか、どのくらい精誠を尽くした感動を通して感じようとしたのか、またそのような父と息子の因縁の体恤をどのように見いだすのか、ということが問題になるのです。
(42-228、1971.3.14)

誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私達が神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。
(104-112、1979.4.15)

今後、真の息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が私の天国になり、その父が私の父になるのです。
(17-245、1967.1.29)

ある主義のために自分のすべてのものを放棄し、あるいはある思想のために自分の主張を放棄する人がいるとしても、自分の心を起こす真理を探すためにそのようにするのでなければ、それは天倫と何の価値的な関係も結べません。このような心の核心を求めていき、6000 年間、先祖から罪悪の血統を通して受け継いだ汚れた心を再び洗い清めるためには、皆さんがどのようにしなければなりませんか。

イエス様が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と語られたように、皆さんは心を尽くすことのできる立場に立たなければなりません。
(2-194、1957.5.19)


②礼拝の基準としての誠実

―宗教経典―

それはあたかも澄みきった鏡が、その対するものにしたがって、種々さまざまな像を現ずるようなもので、業性もまたそれと等しい。
華厳経10(仏教)

清涼の大法眼は、僧がお斎の前に参じたので、手で簾を指した。そのとき二人の憎がともにそこへ行って、簾を巻き上げた。法眼は言った、「一人はよいが、一人はだめだ」。

無門は評して言う――まあ言ってみよ、誰がよくて誰がダメなのか。もしここに一つの心眼をつけることができたら、すぐに清涼国師の失敗の処が分かるだろう。それはそうだが、けっしてヨイとかダメだとかというところに向って究明しようとしてはならないぞ。
無門関26(仏教)

行為とは意志に基づくものであり、人はみな自らの意志した事柄の所有者である。したがって神とその御使いのために聖遷に参加した者は、神とその御使いのために聖遷を行ったのであり、現世の利益、結婚相手の女のために聖遷に加わった者は、それらのために聖遷を行ったにすぎない。(注40)
ナワウィー40 のハディース1(イスラーム)

法を〈汚れのないもの〉と名づける。もしも法ないしねはんに染るならば、それはすなわち汚れに染ることであって、法を求めることではない。法はそれを行ずる場所が存在しない。もしも法を行ずるならば、もはやすでに行ずる特定の場所が存在することになり、法を求めることにはならないのである。

法には取捨がない。もしも法を取捨するならば、それは取捨にほかならぬのであって、法を求めることにはならないのである。法には場所が存在しない。もしも場所に執著するならば、それは特定のよりどころに執著することになり、法を求めることにはならないのである。維摩経6(仏教)
神がダビデにこれを啓示された。「私の僕の中で、天国に行くことや地獄に対する恐怖で私に仕える者より正しくない者はいない。私が天国と地獄を創造していなければ私に仕えることができなかったというのか」。
シャアラーニー(注41)(イスラーム)

おお、神よ、私がもし地獄に対する恐れであなたを賛美するなら私を地獄で燃やし、私がもし天国に対する希望であなたを賛美するなら私を天国から追い出してください。しかし、もし私がただあなただけのためにあなたに敬拝するなら、私にあなたの不滅の美を惜しまないでください。
ラービア(注42) (イスラーム)


―み言選集―

皆さんは、なぜここに座っているのですか。良いみ言を聞いて立派な人になるために座っているのですか、アメリカを立派にし、教会を立派にするために座っているのですか。皆さんは、2番目ではなく1番目だと言えば正解でしょう? 先生の話を聞いたから2番目と言うのではないですか。笑うのを見るとそれが事実のようです。
(118-46、1982.5.2)

今日、自分の利益のために宗教を信じるすべての人たちは、福を受けようと信じている人たちは、福を受ければ神様を信じるのをやめるのです。福を受けることが目的ではないですか。少し裕福に暮らして、その次には落ちていきます。世界に福を与えようと思いながら信じなければなりません。それが神様の願うことです。
(127-27、1983.5.1)

霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私を訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難い
か」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。

そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。
(41-355、1971.2.18)

皆さんに、「精誠を尽くしなさい、精誠を尽くしなさい!」(注43)と言うのですが、なぜそうなのでしょうか。精誠を尽くすときは、自分がすることに精誠を尽くしてはいけません。自分がすることに精誠を尽くせば、神様が世界に光を水平に照らそうとしているのに、水平に照らさずに私のほうにだけ照らしてほしいということになるのです。ですから、人類を代表して、神様を身代わりして祈祷するという心を常にもって精誠を尽くさなければなりません。神様を身代わりして祈祷し、神様を身代わりして精誠を尽くすのですが、神様御自身が今まで歴史を通してどれほど精誠をたくさん尽くしたかを考えなければなりません。
(308-200 ~ 201、1999.1.5)

神様の悲しみは何かというと、神様が苦痛を受けるときに一緒に苦痛を受け、神様が悲しむときに一緒に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間、人類を抱いてこられた神様は、独りで苦痛を受けられました。独りで無念な思いになられ、独りで悲しまれたのです。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を一緒に受けた人がいなかったのであり、神様が悲しむとき、その悲しみを一緒に受けた人がいませんでした。ですから、神様は、今まで苦痛が激しかったのであり、悲しみが激しかったのです。
(11-95 ~ 96、1961.2.12)
お父様のお心を私達の心として、
お父様の御事情を私達の事情として、
お父様の願いを私達の願いとして、
お父様の怨讐を私達の怨讐として、
お父様の闘いを私達の闘いとして、
お父様の願いを成就してさしあげられる、
勝利の祭物として捧げられ得る
息子、娘たちとなるよう
許諾してください。
(5-213、1959.2.1)


6.献金と十分の一献金

献金とは、信仰と献身の物質的表現である。古代の動物献祭は消えて久しく、今では、それが献金と十分の一献金、または托鉢僧への布施に代わった。類型を問わずあらゆる献金は、信仰的心情の外的表現である。本質的に献金とは、自分自身の代わりに捧げるものである。

世界の宗教経典は、祭物を捧げるとき、最高に貴いものを喜んで、未練や執着なく捧げることを教えている。献金の聖書的基準は、個人収入の十分の一を捧げる十分の一献金である。


①純粋で献身的な心で捧げる献金

―宗教経典―

なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン3.92 (イスラーム)

すべての供物は天に至る舟である。
シャタバタ・ブラーフマナ42.5.10 (ヒンドゥー教)

人間の祭物を食べる霊は、彼に命を返してくれる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

また犠牲のラクダと牛を、われはなんじらへの神からの顕著なしるしとした、それらにはなんじらへの多くの利益がある。犠牲に供えるに当り並べて、それらの上に神のみ名を唱えよ。そしてそれらが横に倒れたならば、なんじらはそれを食べ、また口に出して請わぬ者、物請いする者たちを養え。このようにそれらを、なんじらの用に服させる。おそらくなんじらは感謝するであろう。(注
44)

それらの肉それから血も、決して神に達するわけではない、だがなんじらの篤信(タクワー)こそ、かれにとどくのである。このように、かれはそれらをなんじらの用に服させたまい、なんじらへのかれの導きに対し、神をたたえさせるためである。
クルアーン22.26 ~ 37(イスラーム)

田畑は雑草によって害われ、この世の人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は怒りによって害われる。それ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

田畑は雑草によって害われ、この世の人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大きな果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
法句経356 ~ 359 (仏教)

ブラフマンは献供である。ブラフマンは供物である。それはブラフマンである火の中に、ブラフマンにより焼(く)べられる。ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。

あるヨーギン(実践者)たちは、神々への祭祀のみを行う。他の人々は、ブラフマンである火の中に、まさに祭祀によって祭祀を焼べる。他の人々は、耳などの感官を〔自己〕制御という火の中に焼べる。他の人々は、音声など〔感官の〕対象を感官という火の中に焼べる。他の人々は、すべての感官の働き、気息の働きを、知識により燃え上らされた、自己制御のヨーガ(実践)という火の中に焼べる。

他の修行者たちは、強固な信念をもって、財物を祭祀とし、苦行(タパス)を祭祀とし、〔その他の行為の〕ヨーガを祭祀とし、学習と知識とを祭祀とする。他の人々は、プラーナ気とアパーナ気の道を抑制し、調息法(プラーナーヤーマ)に専念して、プラーナをアパーナの中に焼べ、アパーナをプラーナの中に焼べる。他の人々は、食制限して、気息を気息の中に焼べる。以上すべての人々は祭祀を知り、祭祀により罪障を滅している。
バガヴァッド・ギーター424 ~ 30(ヒンドゥー教)

御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「私は〔何かの事故で〕お祭りにたずさわらないと、お祭りがなかったような気がする。」
論語3.12 (儒教)

あるとき、ラビのムイルがこのような質問を受けた。「聖書には祭物を捧げることがエホバを喜ばせてさしあげるという内容もあり、また、神は祭物を捧げるのを喜ばれないという内容がありますが、その理由は何ですか」、ムイルが答えた。「それは祭物を捧げる人の心の状態が奉献にふさわしい場合もあり、そうでない場合もあるからだ。」
バライタ・カッラー8(ユダヤ教)

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽
銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12.41 ~ 44(キリスト教)

信仰心をもって施与すべきである。不信の心をもって施与してはならない。豊かな心をもって施与すべし。恥ずる心をもって施与すべし。恐れる心をもって施与すべし。同情の心(samvid)をもって施与すべし。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.3(ヒンドゥー教)

尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀(まつ)りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。」
スッタニパータ506 (仏教)

人が犠牲祭を捧げにいくとき、怒りの心ではなく、平穏な心にならなければならない。そのように彼は最小限一日はとどまらなければならない。もしその日、争ったり、その心の中に怒りがあれば、彼は病にかかるようになり、その祭祀とその家門の教えは崩れてしまう。
ルヤ族の格言(アフリカ伝統宗教)

主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わ
たしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。」(注45)
ハガイ書1.3 ~ 8(キリスト教)

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペテロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったので
はないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
使徒言行録4.32 ~ 5.5(キリスト教)


―み言選集―

祭物は誰が捧げるのですか。救いを受けようという人たち、神様に帰ろうという人たちが祭物を捧げるのです。自分の体の代わりに祭物を捧げるのです。そして、神様と祭物と私の三つが一つにならなければなりません。そこには隔たりがあってはいけません。
(274-199 ~ 200、1995.11.3)

私達の信仰路程は、必ず蕩減して復帰するというのが原則です。そして、蕩減するためには、必ず祭物が必要だということを私達は学びました。その祭物というものはどのようなものですか。私のすべてを身代わりして捧げる条件物なのです。言い換えれば、私が内的ならば、祭物は外的なものとして、その外的なものと内的なものが一つにならなければならないのです。
(67-113、1973.5.27)

祭物と、それを捧げる人は、別のものではありません。心情を通しては一つなのです。言い換えれば、祭物は人が愛するものでなければなりません。愛するものでなければならないのです。愛するものであると同時に、その人の血と肉を身代わりした立場を代表するものでなければなりません。そのようなものが祭物です。ですから、祭物はその人にとって最も貴いものです。そのようなものが祭物になれることを皆さんは知らなければなりません。
(47-285、1971.8.30)

「羊を屠る私は、羊の代わりに絶対従順者になる。牛を屠る私は、牛の代わりに絶対に従順になる。絶対に神様を愛する」、このような所信をもたなければなりません。人がこのようなことを願うので、「私がこのような動物を、万物を祭物として捧げるのは、神様の前に私がこのような人になるという代わりに血を捧げることなので、これをすべて私の代わりに受けてください」と言うのです。これが祭祀です。それで、このような動物を祭物として捧げるのです。
(97-289、1978.3.26)

皆さんに貴いものや財産があれば、「私の財産を世界のために整理しなさいという神様の命令があればどれほどよいだろうか!」とそれを慕ってみましたか。そうすれば神様が福を下さるのです。その時が来る前に福を下さるのです。そのように願えばということです。
(308-206、1999.1.5)

本来、すべての万物は真の愛で愛せる主人の所有になるのですが、「お前サタンは真の愛で愛することができなかったが、私は真の愛で愛したので、ごのすべての万物を私に伝授してくれなければならない」と言うとき、サタンもそれは仕方がないというのです。ですから、愛するときはサタン以上の心をもって愛さなければなりません。

サタン世界から十分の一献金を取り戻してこなければなりません。ここで十数は天の側に戻っていきます。それで十分の一献金に対するものを取り戻してこなければならないのです。このような意味で、サタン世界に行って取り戻してくるのです。「私は人類を愛し、世界を愛し、神様を愛するにおいて、サタン、お前よりも優っている」という立場に立ってすべてを取り戻してくるのです。
(128-101、1983.6.5)

精誠を尽くして集めたお金であれ何であれ、祭壇に置いて祭物として捧げてからは、それを後悔すれば罰を受けます。かえって捧げないほうがよいのです。聖書に出てくるアナニア夫婦の話を知っているでしょう? 自分の財産を売って、自分の思いどおりにできるものだとして、半分は隠し、半分だけもってきて、「それがすべて」と言って罰を受けたのです。「すべて」という言葉は、捧げても捧げていなくても、すべて捧げることになるのです。隠せば、それに対する代価を払わなければならないので、罰を受けるということが起きるのです。

祭物になった事実に未練をもち、自分自身の所有的内容をもって考えること自体を許諾しないというのです。そのような事情があれば、時になる前にすべて清算しなければなりません。
(122-22 ~ 23、1982.10.31)
皆さんが教会に献金するとき、どこからマッコリ(濁酒)を買って飲み、残ったお金を献金しようとしてはいけません。そのようなお金は汚れたものです。また、市場に行って何かを買って残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃいません。
(48-86、1971.9.5)

最近、既成教会では、献金をよくするとして長老にしたり、執事にしたりしていますが、私達統一教会はそのようにしてはいけません。献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに世界の代わりに私の命を交換する立場でしなければなりません。(166-71、1987.5.28)

今日、既成教会で、献金するとき袋を持って回すでしょう。私達の教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。
(166-319、1987.6.14)
②十分の一献金

―宗教経典―

土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。(注46)
レビ記27.30(キリスト教)

ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」
創世記28.20 ~ 22(キリスト教)

牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
レビ記27.32 ~ 33(キリスト教)

人は神を偽りうるか。あなた達は私を偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなた達は、甚だしく呪われる。あなた達は民全体で、私を偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、私はあなた達のために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。
マラキ書3.8 ~ 10(キリスト教)

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなた達に言われる。私の名を軽んずる祭司たちよ。あなた達は言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたかと。あなた達は、私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなた達は、主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。

あなた達が目のつぶれた動物を、けにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。

これは、あなた達が自ら行ったことだ。神はあなた達の誰かを、受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。あなた達のうち誰か、わが祭壇にいたずらに火が点じられることがないよう、戸を閉じる者はいないのか。私はあなた達を喜ぶことはできないと、万軍の主は言われる。私は献げ物をあなた達の手から受け入れはしない。日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげら
れている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マラキ書1.6 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

十分の一献金は、所有している物の十分の一を神様に捧げることによって全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を、精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
(31-240、1970.6.4)

皆さんがもっているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。
(150-219、1961.4.15)

韓国の民として生まれたならば、この国に税金を捧げなければなりません。この国に税金を捧げ、その次には天に十分の一献金を出さなければなりません。十分の一献金というものは、自分の国のために捧げるものではありません。それは祭司長、レビ族のために、祭司長として立てる人たちのために天の数として捧げるものです。
(150-219 ~ 220、1961.4.15)

十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室は、かわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。
御旨の道、義務守則

十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そのような息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
(48-85、1971.9.5)

自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分の何よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が2番目になり最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。

宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそのようなお金をもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
(96-101、1978.1.2)


7.儀式

神様に近づく手段として、あらゆる宗教に儀式を制定するようになったと文鮮明先生は語られる。したがって、あらゆる宗教の儀式は、それ自体に価値があるのである。純粋な心とそれに伴う詳細な指針に従って進行される宗教儀式は、先に神様と信仰的土台を築いていった預言者たちに敬意を表する行為である。

世界各地で天に敬拝し、尊敬心を表現する多様な宗教儀式と儀礼に対して、その価値を評することはできない。ここでは、安息日のように神聖な時間を守る儀式、聖餐または神聖な食事儀式、割礼儀式、洗礼式、聖地参拝、形状と象徴に敬拝する儀式、ユダヤ教の飲食規定など、いつくかの類型の儀式を紹介している。

①典礼と崇拝

―宗教経典―

二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)

諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
詩編96.7 ~ 9(キリスト教)

私の本当の本質を如実に知ることによって、堅実に私に仕える者が本当に私を信愛する者である。あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。また私が最も明白に現れる、私を信愛する者たちの心情で私を崇拝せよ。……諸経典に規定された礼法と儀式を遵行するが、それらの内密な精神を忘却してはならない。
シュリーマッド,バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)
しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書2.20 (キリスト教)

私達に祭祀を捧げるようにさせてください。いつもそうしてきたようにすれば、私達はいつもあった結果を得るようになります。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

すべてのイスラームの礼拝は道徳を指向する。祈りは恥ずかしく正しくない行為を自制させ、慈善を施すことは富の貪欲から彼らの霊魂を浄化させ、断食は忍耐と決意の中に教訓があり、聖地巡礼は、暗闇と苦難に対する忍耐とあらゆる被造物の同等さと人間の霊魂の中にある平和の根を養成する訓練の過程である。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興130.1(イスラーム)

王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まち
がっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」(注47)
論語3.13 (儒教)


―み言選集―

礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝時間は、自由がない時間です。
(11-163、1961.6.24)

天軍、天使が擁護する中に、歓喜の心情で敬拝を捧げるこの場が、全体の生命を勝利に導くことのできる、一つの福の機関的な祭壇になるようにしてくださいますことを切にお願い申し上げます。
(7-12、1959.7.5)

この場がお父様のお心と一つになる至聖所となるようにしてください。お父様の御心情に接し、お父様の御事情に涙ぐみ、お父様の願いと和して、
あなただけが主管なさることのできる聖なる場となるようにしてください。
(21-132、1968.11.17)


②安息日

―宗教経典―

主はモーセに言われた。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなた達は、私の安息日を守らねばならない。それは、代々にわたって私とあなた達との間のしるしであり、私があなた達を聖別する主であることを知るためのものである。

安息日を守りなさい。それは、あなた達にとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。

イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠に私とイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである(注48)
出エジプト記31.12 ~ 17(キリスト教)

安息日にろうそくをともすのは、聖なる選民の女性たちに許された。……この平和の聖所(聖なるシェキナがいる所)は世を守る女性と同じであり、聖なるとも火である霊魂たちは、彼女の中にとどまる。ゆえに、家の中の女性がろうそくをともすのは当然である。そして、女性は自らを正しい所に導き、自分の真なることを完遂するからである。

女性はそのことが栄光であることを知り、熱情と喜びで安息日のろうそくをともさなければならない。さらに、学びと敬虔の光を輝かせ、世の中に平和を伝播するために、成長する聖なる子供たちの母になるための資格を自ら備えなければならない。また、全力を尽くして夫の長寿のために努力しなければならない。それゆえ、この儀式を守るにおいて、慎重に慎重を期すべきである。(注49)
ゾハール1.48b (ユダヤ教)

―み言選集―

このような聖日礼拝の時間は厳粛で貴いのです。安息日は神様に栄光をお返しする日です。
(21-76、1968.10.20)

安息日は気楽に休み、眠る日ではありません。安息日を眠る日だと思っていますが、安息日は神様と一つになり、神様の喜びに同参し、喜びを表現することを意味します。したがって、霊界に行って神様を中心として天国を成し遂げれば、永遠の安息になるのです。神様の愛は永遠から始まったのであり、永遠に存在するので、永遠の安息になります。このような安息を失ってしまった人間なので、人間はもちろん、先生も、神様も、安息を失ってしまいました。
(20-330、1968.7.14)

統一教会の祝福家庭は、主日ごとに敬礼式があります。敬礼式をする日は聖日を指すのですが、聖日を中心として、私達が聖餐という朝食を食べるのです。それは堕落することによって、アダム家庭で神様をお迎えして、そのような神聖な聖餐を分け与えてさしあげられなかった恨みを解いてさしあげるのです。それを解いてさしあげるためにそのような敬礼式とともに、祝賀する心をもって、そのような式をしていることを皆さんが知らなければなりません。
(280-289、1997.2.13)

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世界経典-60

2022年07月31日 19時18分15秒 | 学習

③心を落ち着かせ、静かな状態に入って自らを空にする

―宗教経典―

心(マナス)と共に五知根制せられ、而してその覚(理性)動ぜざる時、これを最上の解脱道と名く。この諸根の堅き執持を瑜伽(yoga、相應、禅定)といふ。
カータカ・ウパニシャッド2.6.10~11(ヒンドゥー教)

動揺し不安定な意がいかなる原因でさまよい出ても、各々の原因からそれを制御して、自己の支配下に導くべきである。実に、意が静まり、激質(ラジヤス)が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最高の幸福が訪れる。
バガヴァッド・ギーター6.26 ~ 27(ヒンドゥー教)

理智ある人は語と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。(注10)
カータカ・ウパニシャッド3.13 (ヒンドゥー教)

地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編46.10 (キリスト教)

知っているものは、しゃべらない。
しゃべるものは、知ってはいない。
言葉による表現をやめ、
感覚の門を閉ざし、
すべての鋭さをにぶらせ、
そのもつれを解きほぐし、
その明るさを和らげ、
そして、大地と一つになる。
これは「道」と同一になるといわれる。
道徳経56(道教)

空虚を熟視して、
真に静寂を守る。
万物はどれも盛んであるが、
私はそれらの無為をみつめる。
ものは絶え間なく動き、休まない。
しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。
根源にもどっていくと静寂になる。
静寂になるということは存在の運命にもどることである。
存在の運命とは実在である。
実在を知ることを開明と呼ぶ。
道徳経16(道教)

創造者は孔を外側にあけた。従って、人は外を見るが、内部にあるアートマンに眼を向けることはない。ある賢者は、不死をもとめて、反対側を向いた眼で、アートマンを振り返って観察する。(注11)
カータカ・ウパニシャッド4.1(ヒンドゥー教)

かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。

彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静(じゃくじょう)にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 11(ヒンドゥー教)

大学の道は、明徳を明らかにすることにあり、民を革新することにあり、至善に到達して移らないことにある。とどまるべき地(至善のあるところ)を知れば、そこで(志が)定まった方向を持つ。定まれば、そこで(心が)静かで妄動しない。静かであれば、そこで、安らかである。安らかであれば、(物事を処理するとき)精密であることができる。精密であれば、そこで留まるところ(至善)を得るのである。物には本と末とがあり(明徳が本で、新民が末である)、事には終りと始めがある。(留まるを知るのが始めで、よく得るのが終りである)。先にすること(本や始)と後にすること(末や終)を知るならば、道に近いのである。(注12)
大学(儒教)

横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。
詩編4.5 (キリスト教)


―み言選集―

私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。心の修養方法を意味するのです。
(67-178、1973.6.10)

皆さんの心の世界が水平線になったことがありますか。ですから、座禅や祈祷というものは水平線の位置です。自分の意識をなくしてしまうのです。意識というのは共鳴圏です。そのようになれば、必ず縦的な世界の波長が来て影響を及ぼすようになります。
(296-203 ~ 204、1998.11.9)

私達が祈祷する目的、あるいは仏教徒が座禅を通して無我の境地を求めていく目的とは何ですか。それは、心の核心になり得る要素を目覚めさせようというのです。皆さんがそのような基準で、見て、聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てれば、皆さんは神様の前に敬拝し、「ハレルヤ」と言って栄光をお返しできるようになるのです。
(2-193 ~ 194、1957.5.19)

今日、道の世界、宗教の世界では心の世界をもっています。深い心の谷間を求めています。仏教で座禅をする人たちも、いったい心とは何かと、心の深い谷間を求めていきます。心の谷間、その深い谷間を求めて入っていき、人間始祖が堕落する前の段階の心、その心の裏側の深い所まで入り込むようになれば、天と因縁を結ぶようになるのです。

ですから、そのような世界を求めて入っていかなければ、天と因縁を結べません。世の中をそのまま抱えては、天を迎えられず、天と接することができません。

今日、霊肉でできている私達の心と体を中心として見てみるとき、心と体が一つになったところで、その世界を追求することができなくなっています。心の世界を求めていくためには、体の世界を否定しなければなりません。100パーセント否定しなければなりません。世の中と隔離し、世の中と離別し、世の中をあとにし、体が要求するすべてのものを除去させなければならないのです。

そのような反対の道を求めていくのが宗教の道です。本来の拠点に戻ろうとすれば、失ってしまった本来の拠点を求めなければなりません。そうでなければ、本来の拠点に戻ることはできないのです。ですから、今日の宗教は、その世界を探求しているのです。
(21-37 ~ 38、1968.9.1)

信仰者として、最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪
悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。

この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反発的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私達の良心は呵責を受け、良心の基準がだんだんと削減されていくことを考えなければなりません。

ですから、常に円満なボールのような心の状態が必要です。そして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私達の心も、共鳴体となり得る円満な心をもたなければなりません。

そして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。

瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、春の季節に該当する人であれば、春の季節の主体であられる神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)


④注意集中:すべての思考と感情の自覚

―宗教経典―

比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための一道です。

すなわち、それは四念処です。四とは何か。比丘たちよ、ここに比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの受において受を観つづけ、熱心に正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの法において法を観つづけ熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。……
では、比丘たちよ。どのようにして、比丘は、身において身を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。

かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。長く出息するときは、〈私は長出息する〉と知り、あるいは、長く入息するときは〈私は長く入息する〉と知ります。あるいは、短く出息するときは〈私は短く出息する〉と知り、短く入息するときは〈短く入息する〉と知ります。〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。……

つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、行っているときは〈私は行っている〉と知り、あるいは、立っているときは〈私は立っている〉と知り、あるいは、坐っているときは〈坐っている〉と知り、あるいは臥しているときは〈私は臥している〉と知ります。かれは、その身が存するとおりに、それを知ります。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち、〈この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・膏・唾・鼻液・関節液・小便がある〉と。……

つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿ただれた死体を見るようにこの身のみに集中します。〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉と。……

ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は、もろもろの受において受を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、楽を感受すれば〈私は楽を感受する〉と知ります。苦を感受すれば〈私は苦を感受する〉と知ります。非苦非楽を感受すれば〈私は非苦非楽を感受する〉と知ります。……

ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は心において心を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、貪りのある心を、貪りのある心であると知ります。……怒りのある心を、怒りのある心であると知ります。あるいは、怒りのない心を、怒りのない心であると知ります。愚痴のある心を、愚痴のある心であると知ります。……解脱した心を、解脱した心であると知ります。

比丘たちよ、ここに比丘は、五蘊の法において法を観つづけて住みます。誰であれ、これら四の念処を、このようにして七年間修習するならば、この果報のうちいずれかの果報が期待されます。すなわち、現世における完全智、あるいは、執着の残りがあれば不還果(ぶげんか)です。(注13)
阿含経中部i.55 ~ 63,念処経(仏教)

求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経14(仏教)

情とは性の悪の側面である。情が悪の側面であることを知れば、悪は本来存在しないものになり、心は静かに動かなくなり、悪の考えが自然になくなる。
李・(儒教)


―み言選集―

心にも門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面にだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。ですから、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人には、このような心門があるのです。

皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは、皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。

そのように、私達の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。私達の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。ですから、祈祷をするにも、どのような時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。

よくできるというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。

皆さんがこのような境地に入っていくためには、どのようにしなければなりませんか。心を中心として、心を磨かなければなりません。心の状態を私達が求めてみなければなりません。本来は、この基準が零点になければならないのですが、堕落したために、これが180 度に来ているのです。この度数が零度になければならないのですが、自分勝手なところになっています。

ですから、これを回して正常に戻さなければなりません。ところが、ある人は、零点がここにあるにもかかわらず、ここに来ているのでこのように時計の針が進む方向に回っでいかなければならないのですが、この距離が近いために、この零点を
中心としてこのように動けば、マイナス的感度を感じるのです。そうするとどのように思うかというと、このように(時計の針が進む方向に)行こうと考えます。そのように行けば、1000 年たっても駄目です。これは戻らなければなりません。

今日の宗教も同じです。宗教も目的の時に対しては、終末だ、末世だということをすべて区別しなければなりません。ところが、このように発展してきた宗教は、このように行けばよいのですが、この位置に来てとどまっていればこのように行けばよく、もし反対にここにいれば、この宗教は終末になると滅亡します。

ある人は、角度と方向が違うので、その位置に行こうとすると、反対の道に行くようになる現象も起きるのです。神様のみ旨を中心として起きた宗
教もありますが、サタンの意志を中心として出てきた宗教もあるというのです。
これがすべてこのように混ざっているので、それを区別していくことはとても難しいのです。

私達の心の世界も同じです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ、私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪のサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。

ですから、最も重要なこととは何かというと、この零度をどのように求めるかということです。心の門をどのように合わせるかという問題が、信仰生活において最も重要な問題なのです。

ですから、皆さんが信仰の過程においていつも注意しなければならないことは、心の門が開く時を知り、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならないことです。もしやこの時間が心の門に合う時間ではないか、あるいは、学生なら、勉強するこの時間がそのような時なのではないか、あるいは私が世の中を忘れて楽しく遊ぶその時間がそのような時間になるのではないか、いつでも随時求めて合わせる生活態度が必要なのです。

ですから、いつもその深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
(76-127 ~ 129、1975.2.2)


⑤視覚化と幻想

―宗教経典―

瑜伽行中において見らるる霧、煙、日、火、風、螢、電光、玻璃、月等の相は梵を顕わす先駆的兆標なり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.11(ヒンドゥー教)

世尊はヴァイデーヒーに告げられた。「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、思念を一処に集中して西方を観想するのだ。さて、どのように観想するのかというと、一切の生ける者どもは、生まれながらの盲目でないかぎり見ることはできるのであるから、目明きであればみな、太陽の沈むのを見ることができよう。正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。
すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときも、眼を開いているときにもはっきりと残っているようにするのだ。これが〈太陽の観想〉であり、〈最初の冥想〉と名ずけるのだ。

次には〈水の観想〉を行なう。清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残っているようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。水を観終ったならば、〈氷の観想〉をおこさなければならない。

氷の透き通ったさまを観終ったならば、〈青玉の観想〉を行なう。この観想をなし終えたならば、青玉の大地の内も外も透き通っているさまを観るのだ。下にダイヤモンドなど七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)があって青玉の大地を支えている。

その幢幡は八面あって八角形を形作っている。一々の面が百の宝石でできている。一々の宝珠に千の光明があり、一々の光明に八万四千の色があって青玉の大地に照り映えているさまは、億千の太陽のようであって、つぶさには見ることができない。青玉の大地の上には黄金の縄がびっしりと張りめぐらされ、七種の宝石で境界がはっきりと区切られる。一々の宝石の中に五百色の光があり、その光は花のようでもあり、また星や月のようでもある。

その光は虚空にかかって光明台となり、そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、台の両側に
はそれぞれ、百億の花の幢幡と無数の楽器が飾られている。八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。これが〈水の観想〉であり、〈第二の冥想〉と名づけるのだ。

この観想ができるようになったら、その一々をきわめてはっきりと観られるようにするのだ。眼を閉じているときにも、眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしないようにする。ただ眠っているときだけを除いて、常にこのことに心をとめるのだ。このような観想に到達したら、ほぼ、〈幸あるところ〉という世界を観たと言えるであろう。

さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土をはっきりと観ることになる。しかし、(これは略説であって)詳しく説いたわけではない。これが〈大地の観想〉であり、〈第三の冥想〉と名づけるのだ。」と。(注14)
観無量寿軽9 ~ 11(仏教)

私が私の幻想追求を行う前に、オイニカガマクサ、イニピ、浄化の家で私自身を浄化しなければならなかった。……グッド・ランスは、真っ赤に焼けた石に野牛の角のしゃくしで氷のように冷たい水をかけた。とても大きな「シュー」という音とともに、私達は一瞬でもやもやした白い乾いた蒸気に包まれた。

……グッド・ランスが祈った。彼は昔の言葉を使った。「この蒸気は宇宙の聖なる息遣いだ。子よ、ホクシラよ、お前は再びお前の母の子宮にいる。お前は再び生まれている」。彼らはみな、私達スウ族が大草原を放浪していたその時代に戻り、とても古い歌を2曲歌った。突然私は、代々に伝えられてきた知恵によって賢くなったように思った。私の親族であるこの人たちが大声で力強く歌を歌った。……

小さく粗末な家が巨大な手につかまれているかのように揺れた。それは木の葉が風で揺れているかのように揺れていた。私達の下にある大地が動いているかのようだった。「先祖がここにいらっしゃる」とグッド・ランスは言った。「霊魂がここにいる。黒はげわしの知恵がここにある」。

私達はそれを信じた。私達はそれを知った。きせるが渡された。……私達は4度たばこを吸った。最後のきせるが回ったあと、グッド・ランスが私に言った。「ホクシラよ、お前は浄化された。お前はこれ以上子供ではない。お前は今、準備ができ、そこに上がっていって夢を叫び、歌えるほど強い」。…

私達の幻想の穴は、地に掘られたL字の形の穴だ。それはまずまっすぐに下っていき、木の根の下に奥深く短い水平の通路に続いていた。お前はその通路の果てに座って断食をする。成人はどこでも1日から4日まで断食をする。

……私の場合には、私が2日間、食べ物や飲み物を口にせず、独りでそこに留まるように決められた。……最初の数時間がとてもつらかった。漆黒のような暗闇としんと静まり返った静寂の中で、私は動かずにそこに座っていた。手足が麻痺した。私は聞くことも見ることも感じることができなかった。私の霊魂は肉体からすっかり離脱し、記憶と散漫な思いをもったが、肉も骨もない存在になった。

私は再び見聞きできるだろうか。……どのくらいそこに座っていたのか分からない。時間感覚はずいぶん前に消えた。昼なのか夜なのか分からず、それを知る道さえなかった。私は祈り、また祈った。涙が両頬を伝わって流れ落ちた。水を飲みたかったが、続けて祈った。おおよそ2日目の晩頃、私は、私の目の前にある車輪を見た。一つの燃えているような丸い輪になり、再び燦爛たる多くの色の円形に分かれ、私の目の前で踊るようにゆらゆらと動き、再び一つの口と二つの目をもつ円形、一つの大きな円形に集まった。

突然、何かの声が聞こえてきた。暗闇の中からの声、それは結ばれている私の中から出てきているようだった。それがどこから来るのかを正確に言うのは難しかった。それは人間の声ではなかった。それは人のように語る鳥の声のようだった。私は勇気を出した。……「その丸い輪を記憶せよ。今晩、私達がお前に教える」とその声が言った。

そして、私はその小さな幻想の穴を歩き回る足音を聞いた。突然、私は穴を出て他の世界、鹿と野牛の群れがぶらぶらと歩き回る、野生の草花で覆われた大草原の浄化の家の前に立っていた。

ある男が私に近づいてきているのを見た。彼は足がないように思えた。彼は手にちりんちりんと音がなる二つの鈴を持ち、私に向かって霧の中を浮かんで飛んできた。「子よ、お前の部族に何を言おうと、誇張するな。常にお前の幻想がお前に言ったことを語れ。決してだますな」と彼は言った。その人は、鳥の羽で装飾された球形の雄鹿の皮の服を着ていた。突然、私が私の星模様の刺
し縫いの布団の中に戻ったとき、石とたばこのひもでできた薬品の包みをしっかり握り、その人に触れようと手を伸ばした。依然として私はその声を聞いた。

「その丸い輪を記憶せよ。きせるを記憶せよ。その代弁人になれ」。私はそれ以上恐れなかった。誰が私に話していようと意に介さなかった。突然、雷を伴う墨のように真っ黒な雲が私の前に伸びてきた。その雲はより広く拡散した。そこから翼が出てくると、それは黒はげわしになった。その黒
はげわしは私に言った。「私はあなたに力を与える。あなたのためではなく、あなたの部族のために用いよ。これはあなたのものではなく、部族共通のものだ」。

私は白馬に乗って私に向かってくる人を見た。彼はサルビアでつくられた丸い輪を片手にもっていた。彼はそれを高く掲げた。……そして、再びすべてのものが暗闇の中に消えた。再び霧の中で、髪の毛と杭で覆われているが、形がはっきりしない不思議な生物が浮遊してきた。それは私から薬品を奪おうとしたが、私はそれと闘い守った。それは私の薬品を奪うことができなかった。それもまた消えた。

突然、誰かが私の肩をつかんで揺さぶった。「子よ、起きなさい」。私の父とおじが私のところに来ていた。2日間の昼夜が過ぎたのだ。
レオナード・クロウドッグスス族の幻想追求(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

少しずつこの相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。

なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。ですから、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、私達の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感
じるようになっています。

それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じられます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。

私達の心もそれと同様です。ですから、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、このような時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。

そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。私達の言葉に暗示という言葉があります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。

実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるよう
になります。このような事実が、だんだん多くなるのです。

この段階を過ぎれば、どのような形態が起きるのかというと、夢示のようなものを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中での夢ではありません。夢うつつの中です。

パウロも夢うつつの中で三層天を体験しました。夢のようでもあり、夢ではないようでもあり、夢の中にいるのか、事実の中にいるのか分かりません。そばで誰かが話しているのを聞きながらも、夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声をこの五官で感じられる、そのような感覚が来るのを感じるようになるのです。

そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。

ですから、皆さんが忘れることできない夢のお告げのようなことは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。

夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。

これはどういうことをいうのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることをいいます。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることをいいます。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。

そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じで現れるのです。

ですから、私の心と私が二つだということを知っています。(注15)異なる存在だということを知っているということです。皆さんが、そのようなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかったためであり、体に引きずり回される人になったからです。

その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。


祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞きます。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。

ですから、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。

結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。

ですから、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分に誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。(注16)むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。

そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そのような形態が繰り広げられます。

ですから、信仰する人の態度は、すべて自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、すべて切断してしまったのが堕落です。

切断した関係の世界を、私達が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。これは、最も理論的だというのです。

皆さん全員が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」ということが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。

このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければならないのです。ですから、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。(注17)
(76-129 ~ 133、1975.2.2)

皆さんは徹夜祈祷などをするでしょう? 精神をすべて天に向け、世情のことをすべて忘れて……。その境地とは何かというと、眠る境地に入っていこうということです。そのような境地以上の場に入っていこうというのです。この肉身の残りかすがすべて沈滞すれば、澄んだ水が上がってくるのと同じように、眠りは、私達が精神修養して精神を上げ、悪い意識をすべて下ろそうというのです。

眠る境地、そのような境地に入っていけば、皆さんの体が眠るか眠らないかという状態になります。そのようなときは、すべて聞くのです。すべて
見えます。聞くことは聞きますが、はっきりとは聞かず、見ることは見ますが、はっきりとは見ません。そのようになれば、何が起きるのでしょうか。夢のような現象が起きます。そのとき、何かを教えてくれるのです。それで、徹夜祈祷をして、あらゆる肉欲を断絶させ、精神を統一してどんどん上げることによって、将来に自分の行く道などが見え、その次にそれが習慣化すれば、全体を調整できる位置に入っていきます。そのようになれば、祈祷さえすれば、目を開けても見ることができ、すべて聞くことができる境地まで入っていきます。二つのものを見て、二つのものを聞くというのです。
(91-275、1977.2.27)
その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私達は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。

何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲み
ながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。

そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。私達の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。凸凹しているのです。


形は水平のような面をもちましたが、それ自体は凸凹なのです。凸凹したここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていきます。それで、すべてが違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。

啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。

神様に対する、生活的な感情圏まで到達できます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、私達の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。

私達食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同じように入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、私達の意識より強い力が入ってきます。

超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、私達の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。

ですから、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。

強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。

このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に100 パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。

このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。

皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。


このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。誤ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整できなければなりません。

このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは私達の信仰生活に最も必要なことです。
(76-133 ~ 136、1975.2.2)


3.賛美

礼拝は、情熱をもって心から捧げなければならない。最高の方法は、賛美と称賛を通じて天を賛美しながら心情的力を発散するのである。賛美は、神様に対する愛の自然な表現である。賛美歌と聖歌は、その歌詞に詩的で心に届く声を入れたために、何かの神学的談論よりも私達の霊魂を深く泣かせる。

賛美するとき、私達はまるで天の天使たちの合唱の声を聞く神秘な恩恵を体験できるかのように、霊的に高揚する。聖なる音節と主の神聖な名を繰り返す賛美を通して、私達の心は、究極的実在、神様に合わせて、その神秘的な力を呼び出すことができる。


①賛美の価値

―宗教経典―

かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン40.65 (イスラーム)

かつて世にあったものたちや現に世にあるものたちのうちのだれを崇めれば、そこに、天則によりわたくしにとって最勝のことがあるかを(注18)、マズダー・アフラが知っておわしますごとき、そのようなものたちを、それぞれの名を呼んでわたくしは崇め、そして讃称をもってわたくしはちりまこう。
アヴェスター・ヤスナ51.22 (ゾロアスター教)

豫:先王もって楽を作り徳を崇び、殷んにこれを上帝に薦め、もって祖考を配す。
易経16(儒教)
神が最も喜ぶ四つの言葉は、「神に栄光を、神に賛美を、神以外に神はいない、神は最も偉大であられる」である。(注19)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

ここに、一切の聖典の詮表するところ、一切の苦行の語るところ、また梵行を修する徒の目的とするところなることばあり。これを要約して卿に告げん。『5U(オーム)』これなり。この聖音はげに梵なり。この聖音はげに至上なり。まことにその聖音を識りたらば、望むところのもの悉く己が所有とならん。(注20)
カータカ・ウパニシャッド1.2.15 ~ 16(ヒンドゥー教)

「5U」というこの音は万有である。これについて詳説しよう。過去、現在、未来といわれる一切は5U音である。他に三世を超出したものがあるが、これもまた5U音である。

万有は梵である。この自我(アートマン)もまた梵である。この自我に四つの足(部分)がある。覚醒状態にあって、外界知を有し、……夢寐状態にあって、内面知を有し、……熟睡状態において渾然一体となり、純知の一塊となり、……〔そして〕万象を消融し、寂静〔なる状態〕……こそ自我であり、人のまさに証得すべきものである。

この自我は音綴として見れば、聖音「5U」である.
母音として見れば、その足(部分)をなすものが音母である。音母としての足はア音とウ音とム音である。覚醒状態にある一切人的自我は、5U音の最初の音母たるア音である。……夢寐状態にある光明的自我は5U音の第二の字母たるウ音である。

……、熟睡状態にある叡知的自我は5U音の第三の音母たるム音である。……第四の自我は音母なく,
不可侵にして、万象を消融し、安詳である。かようなわけで、聖音「5U」は自我にほかならない。(注21)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(ヒンドゥー教)


三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべき者なり。
(注22)
日蓮(仏教)

偉大なる主の属性に基づき、聖仙達によって歌われた主の千の御名を、私は世界の安寧のためにとなえん。「主は宇宙の形の中にいまし、遍在され、供犠の形を取られ、過去、未来、そして現在の主であられ、生きとし生けるものの創造生であり、それらの維持者であり、その実在そのものであり、それらの中に住まわれ、それらに好意を
よせる。

主は純粋にして至高の存在であり、解説者の最高の目標であり、肉体の傍観者であり永遠の知覚者なる、不滅の霊であられる。主は道であり、道を
知る者達の指導者であり、御自身が物質であり、霊であり、神であり、獅子人の形をとった至高の存在であり(注23)、その髪は光線であり、運命の女神を所有している。主は全てであり、破壊者であり、慈しみであり、不変であり、存在の根源であり、無尽蔵の宝庫であり、喜ばれるときに御自身を現され、後援者であり、保護者であり、その生まれは特別であり、有能であり、主人であり、自ら生まれ、幸福を与える太陽神であり、蓮華の様な目を持ち、ヴェーダという崇高な声を発する.
……王であり、罪の破壊者である。

主は法螺貝、剣、円盤、大弓、鉾を持ち、円盤で武装し、平静を失わず、いかなる物も敵を撃つ武器にすることが出来る。」この様に、偉大なるケーサヴァの神聖な御名の中で、歌うにふされしきこれら千が、全て語られた。日々これを聞き、あるいは暗唱する者はこの世においても、またあの世においても逆境に会うことはないであろう。
マハーバーラタ、アヌササーナ・パルヴァン254(ヒンドゥー教)

他のすべての宗教も、人間の心性の不安を除去しようと努力し尽くしている。宗教ごとにそれぞれ提示する「道」があり、それらも生に対する教えと規律、儀礼を紹介している。カトリック教会は、これらの中の神聖さと真なるものをある程度否定しない。それらが教える概念と教え、人生の道と行動規律に心から敬意を表す。たとえ私達が勧告する道と多くの面で異なるとしても、それらもやはり様々な万民を明るく照らす真理の光を発していることを認める。
第二バチカン公会議、
キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言


―み言選集―

歌は、神様と和合する根本材料です。ですから、歌うときは陶酔する気分を感じなければなりません。(16-289、1966.7.31)

感動して歌う歌が最高の絶叫であり、心霊が込められた祈祷だということです。そして、「ああ、ここから新しい歴史が始まったのだなあ」ということを感じるのです。
(17-22, 1966.11.6)

祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。特に、座って祈祷するよりも、自分の生活を通して天と共に同化できる時間をもつのです。その時間が祈祷の時間です。このように考えれば、言葉で語る祈祷よりは歌の祈祷が感動的であり、自分自身が早く神秘境に引き上げられることを即刻的に体験します。天のお父様と言うとき、感情を込めて「天のお父様!」と言い、深く通じるときは懇切な心で「天のお父様!」というのが歌なのです。(270-19、1995.5.3)
僧侶たちも木鐸をたたきます。私達は、み言を聞いて歌も歌います。これらはすべて条件です。
(308-218、1999.1.5)

昆虫も神様、創造主を賛美し、鳥も賛美し、魚も賛美し、獣も賛美するのですが、この人間が賛美できないのです。動物たちや万物たちは神様を賛美して暮らしているのに、人間はどろぼうするようにうそをついて暮らしています。これではいけません。反対にならなければなりません。
(269-171、1995.4.17)

お父様の前に探し出された息子、娘として、お父様と永遠に同居することができ、お父様の仕事とお父様の思想とお父様の願いを成し遂げた者として、喜びと栄光の歌でお父様を慰労してさしあげることのできる真の子女たちとなるよう許諾してくださることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-280、1959.2.22)


②賛美の歌と詩

―宗教経典―

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主は私達を造られた。私達は主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。
詩編100(キリスト教)

歌え、すべての者よ、大声で歌え! 敬虔な信者達よ、汝の歌を歌え。子供達にも歌わせよ。巨大な要塞の如き彼に向かって歌え。ビオールはその調べを奏で、リュートはその声を辺りに発し、弓弦はその音色を響かせよ。インドラにわれらの讃歌がとどくように。
リグ・ヴェーダ8.69,8 ~ 9(ヒンドゥー教)

私の王、神よ、あなたをあがめ、世々限りなく御名をたたえます。絶えることなくあなたをたたえ、世々限りなく御名を賛美します。大いなる主、限りなく賛美される主、大きな御業は究めることもできません。

人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業の数々を私は歌います。人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業を私は数え上げます。人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように。
詩編145.1 ~ 7(キリスト教)

かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。幽玄界と現象界を知りたもう。かれは、仁慈者・慈悲者であられる。かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。至高の王者・神聖者・平安の根源者・信仰の管理者・安全の保護者・偉力者・全能者・尊厳者であられる。神をたたえまつる、かれらが主に配するものの上に高くいましたもう。かれこそは神であられる、造物主・造化の主、形態や色彩を賜う主であられ、最も美しいみ名はかれのものである。天と地のよろずのものは、かれの栄光をたたえまつる。まことにかれは、偉力者・英明者であられる。(注24)
クルアーン59.22 ~ 24(イスラーム)

汝ら皆、霊の力により、天の主のもとに来たれ。唯一なる、万人の客なる方のもとへ。古き彼は、新しきところへ来たらんと欲す。すべての道は彼へと向きを変える。実に彼こそは唯一なる者。ここにいるわれらは汝のもの、インドラよ、多くの者に賛美されるものよ。

歩き回るわれらは、富の主である汝に属する。歌を愛する者よ、われらの歌を受ける者は汝をおいて他になし。地がその生き物を愛するように、われらのこの歌を愛し給え。大きく響く歌は寛大なるインドラに達した。誉められるべき人類の擁護者、多く呼びかけられたる者、愛の讃歌によりしだいに強くなる者、日々歌われる不死なる者に。
インドラに向かい、われらの愛の歌は、天の光と交わり、一つとなって進む。妻がその夫、来るべき新郎を抱くように、その歌も寛大なる者を彼の栄光の故に包む。
サーマ・ヴェーダ372 ~ 75(ヒンドゥー教)


―み言選集―

限りなき恵みは我に与わる
永遠の生命喜びなり
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
一つの喜びわが胸に得て
理想を立て常に歌わん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
永遠の生命我に溢れて
万の祝ただ誉め奉れ
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
選ばれし恵みに我感謝して
誠を尽くして御前にひれ伏さん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
聖歌2 番「聖苑のめぐみ」1953 (注25)

はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命
この地の果てまで目覚め立て
生命の光永遠にあり
生命の光永遠にあれ
呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は天地を抱き
蘇きた生命はいずこにと
尋ぬる君を如何に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん
死から蘇きたこの我は
蘇かしたお方に抱かれて
永遠の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃めまつれ
栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん
聖歌4 番「栄光の賜物」1950


4.献身

献身とは、天に愛で敬拝するという意味である。聖書の「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖句のように、愛は献身と犠牲を通して表現される決断力ある行動である。

アブラハムの信仰から見るとき、献身とは基本的に忠実な行動とみ旨に対する犠牲として現れる。
神様に対する愛はまた情緒的体験である。献身的な礼拝は、楽しく高揚した賛美と称賛、そして愛の神様の臨在に対する途切れることのない渇望で満たされる。強力な宗教的自覚形態は、特にヒンドゥー教とシーク教のバクティ(博愛)伝統とスーフィー、イスラームの信徒たちとハシッドと呼ばれるユダヤ教徒たちの踊りと賛美で、そしてペンテコステ教会の聖霊の流出などで再現されてい
る。

多くの経典では、この神秘的な感情が新郎に対する新婦の崇高な愛が変形した形態として現れたものと描写している。旧約のソロモンの雅歌とヒンドゥー教の聖典の中のラダとクリシュナ、またはシッタとラマの間の愛で、イエスに対するマグダラのマリヤの信仰にこのような感情が現れている。

文鮮明先生は、男女の合徳と天地の合徳の間に根本的な関連性が存在すると語られる。文鮮明先生は、神様の恨の心情的要素を語られ、神様の愛を体験しようとする熱望に、新しく副次的な解答の鍵を教えてくださる。神様が苦痛と苦難が点在する環境に暮らしていらっしゃるのなら、神様と情緒的交感を願う渇望する心は、結局、天の悲しみを体験する段階まで私達を導く。

文鮮明先生の祈祷は、涙と神様を慰労してさしあげる内容に満ちている。神様の痛みを知れば、私達は世の中の兄弟姉妹たちを罪悪から救援し、神様の苦痛をなくしてさしあげるために行動するようになる。このような深奥な段階に至るとき、初めて私達の心情と行動は一つになるのである。


①神様とそのみ旨に献身する行為

―宗教経典―

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
コリントの信徒への手紙一10.31 (キリスト教)

あなたのすべての行動が天のためのものとなるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート2.17(ユダヤ教)

最も立派な行為は、神のために愛し、神のために憎むことである。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)

かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン40.65 (イスラーム)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記6.5 ~ 9(キリスト教)

人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
バガヴァッド・ギーター9.26 ~ 27(ヒンドゥー教)

アールマティに属せば人は聖となり、かかる人は天眼とともにあって、ことばと行為とダエーナーをもって天則を栄えさせ、善思をもって王国を栄えさせる。――マズダー・アフラは授け給わんことを――これへのよき報応を、わたくしは懇願し奉ります。
アヴェスター・ヤスナ51.21 (ゾロアスター教)


―み言選集―

忠孝精神と松竹のごとき志操は、今後成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国は神様の国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、神様は人類の父であられるので、その父に対して永遠に孝の道を行かなければなりません。
(100-253、1978.10.19)

ただ何でも働かなければならないのですか。違います。そこには必ず今がどのような時で、この時に行くべき所とはどのような所だという目的観がはっきりしていなければなりません。神様の立場を身代わりしようとするので……。

神様の代身者にならなければならないということです。それが第1であり、そのような立場を身代わりしたという事実を自分が確信しながら、その次から神様のみ旨の道に従ってどこに行くべきか、ということを皆さんは考えざるを得ないのです。
(70-257 ~ 258、1974.2.13)
神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければなりませんか。神様が私達人間に完全な愛をもってくるので、私達は完全な何かを投入しなければなりません。「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉だというのです。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。

ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。(注26)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。天が感動することによってどのようになるのでしょうか。天がその人を思い、思うだけでなく、天の思いがいつもとどまるようになれば、そこには天の愛が訪れてきます。すべての天の思いがそこにとどまるようになるとき、天の愛がここに連結されるようになるのです。思うところに人の心が動くのです。

ですから、精誠を尽くす立場に立ってこそ、神様の愛を受けられます。神様が私達人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠をもってものを捧げれば、神様の愛を初めて皆さんが感じることによって、神様を愛することができるのです。本来、堕落したために、皆さん自身が神様を愛することはできません。したがって、神様のために精誠を尽くすことによって、神様の愛が私に訪れてくるのであり、その愛を通して神様を知り、神様を愛することができるようになります。愛の根源は神様です。
(78-31 ~ 32、1975.5.1)

精誠の心、愛の心でなければサタンの血統が絶対に根絶されません。アダムとエバが堕落するとき、神様の心の深い所に悲痛な歴史の苦痛を感じる根が打ち込まれたのです。それを私がどのようにして、すべて抜いてさしあげるのでしょうか。もっと深く入っていって抜こうとするので、もっと感じなければなりません。神様は寝ても、私は真昼のように起きて最も難しいことをする立場に立たなければ、堕落したときの神様の心情よりも何百倍も難しい立場に立たなければ、抜くことができないという心をいつももたなければなりません。
(308-208 ~ 209、1999.1.5)


②神様のための愛と憧憬

―宗教経典―

それは最高のプルシャである。しかしそれはひたむきな信愛(バクティ)により得られる。万物はその中にあり、この全世界はそれにより遍く満たされている。
バガヴァッド・ギーター8.22 (ヒンドゥー教)

すべての息遣いで、ごく微細なことでも主を覚える者たち、いつでも心の中に主の名が刻まれた者たち、ナナークが言うには、彼らは祝福を受けるため、完全な信仰者だ。
アーディ・グラント、ヴァール・ガウリーM.5、p.319 (シーク教)

チャコラの鳥は月の光を恋い慕う。(注27)蓮の花は日の光を恋い慕う。蜂は花の蜜を吸う事を恋い慕う。まさにその如く、主よ、私の心はしきりにあなたを恋い慕う。
バサヴァンナヴァチャナ364(ヒンドゥー教)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。
詩編42.2 ~ 4(キリスト教)

愛するあなたよ、私が何をもっと話さなければなりませんか。生きても死んでも、再び生まれても、あなたは私の生の主人であられます。愛のわなは、私の心をあなたの足に結んでいます。私の心は、ただあなたに魅了され、私はすべてのものをあなたに捧げました。この家庭で、あの家で、誰が私のものですか。私が誰を私自身のものだと言うことができるでしょうか。ひどく寒く、私はあなたの足の下に帰依します。私の二つの目が瞬きする間、私はあなたを見ることができません。

私は私の胸が死んだことを知っています。チャンディー・ダースが言うには、「私は糸を通され首にかかった試金石」。(注28)
チャンディー・ダース(ヒンドゥー教)
あるとき、ケクリシュナの養母ヤショーダーが幼いクリシュナを抱いていたさい、牛乳が沸き立つかまどを下ろそうと、あわてて彼を下に下ろした。これに怒った赤子は、牛乳が入っていた硬いかまどを壊し、部屋の隅にあったチーズを顔に塗りつけ、焼いておいたパンを猿に食べさせ始めた。

母が戻ってきてこの光景を見ると、彼を激しく叱った。また木の臼に彼を縛りつけて罰を与えようとした。ところが、驚くことに縄が十分に長いにもかかわらず、あまりに短く見えた。それで彼女は、さらに縄をもってきた。しかし、それはまだあまりに短かった。彼女は見つけられるだけの縄をすべて使った。しかし、まだクリシュナを縛りつけることができなかった。このことは養母ヤショーダーをとても戸惑わせ、クリシュナは内心で笑った。

しかし、彼の母がすっかり疲れ、どうすることもできずにいるのを見ると、自分から縛られるようにした。初めもなく、中間もなく、終わりもなく、万有に遍在し、無限で、全知全能のクリシュナだとしても、彼はまだ母の偉大な愛のゆえに、彼女によって自分が縛られるようにしたのである。彼は全能であられる主であり、万有の主であられ、一切の万物の主宰者であられる。しかし、彼は彼を信愛する人々に束縛されるようにされるのである。(注29)
シュリーマッド・バーガヴァタム103 (ヒンドゥー教)


―み言選集―

どれほど神様を欽慕し、思慕しましたか。現在の自分の立場をすべて忘れてしまい、神様にありったけのものを捧げ得る立場に立っているのかという問題、言い換えれば、完全なプラスの前に完全なマイナスになれるかという問題が生じるのです。

その完全なマイナスが完全なプラスの前に向き合える境地に入っていけば、完全なプラスは完全なマイナスに対して直行してきます。純粋な直行の行路を通じてその完全なプラスは完全なマイナスに向かって突進してくるというのです。そこでマイナスは新たに後方で押してあげる反対の作用を起こすのです。
(36-100、1970.11.22)

理念は万民に通じますが、実体は一つにしか通じません。ですから、理念を信じたという信仰者は多いのですが、実体を信じたという信仰者は多くないでしょう。あなたの心が私の心であり、私の心があなたの心であり、あなたの悲しみが私の悲しみだと言える信仰者がいないというのです。

皆さんは、この日まで結ばれた天の怨恨の心情、骨髄が溶けるような悲しい心情を感じてみましたか。イエス様はどこに行っても天と向き合い、気を失って卒倒するほどの心情をもって、この地上で30 年以上の歳月を送ったことを皆さんはよく知らなければなりません。
(4-126、1958.3.23)

今日の私達は、信仰という言葉を掲げて待ち焦がれていますが、そのような段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。すなわち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。そのように生活しながら楽しむことができ、歌うことができ、栄光をお返しできる信仰生活をしなければならないのです。天はこれを待ち焦がれています。

歴史過程の大勢の私達の先祖たちの前に信仰という言葉を立てておいて、神様が彼らに対して期待したことは何だったでしょうか。その場で闘っている信仰者としてのそれ自体ではなく、最後まで残って父と共に暮らせる人を期待されたことを皆さんは知らなければなりません。天が私達を待ち焦がれたということを知らなければなりません。神様が期待されたのは、信仰のために喜んで消えていくことができる私、信仰めために死んで復活できる私、死亡圏を抜け出して生命圏内で復活の価値を感じることができ、永遠の世界で神様を父と呼んで暮らすことができる、そのような私を期待していらっしゃいます。これを考えるとき、天が期待した私、その私を慕うことができ、その私を取り戻すために、その私と出会うために苦労する皆さんにならなければなりません。
(6-84 ~ 85、1959.3.29)

神様をお父様と呼んでつかんだまま、6000 年の歴史的な悲しみで痛めた心情を慰労し、解怨してさしあげるのです。悲しいお父様の胸に抱きついて「お父様」と呼ぶとき、その一言の言葉で分かれていた天地が再び因縁を結ぶのです。このような基準を再び立てることのできる存在にならないというとき、神様の悲しみは皆さんから離れることができず、神様の審判の条件から皆さんは抜け出すことができないでしょう。
(3-58、1957.9.22)

おなかがすくことが悲しみではなく、環境に追われ、憤懣やるかたない立場に立ったことが、悲しみではありませんでした。愛するお父様を失ってしまうこと、それ以上の悲しみはないことを、私達は全く知りませんでした。

お父様がいららしゃる位置は、どんなに何もない位置であっても、無限に存在する位置であり、お父様がいらっしゃる位置は、地獄の中心であっても、天国と化すことのできる位置です。私達が死んでも生きても、いるべき所は、お父様がいらっしゃる所しかないことを知るものです。
(43-135、1971.4.25)

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世界経典-59

2022年07月31日 19時16分32秒 | 学習


③試練によって人格を錬磨し、堅固な信仰を立てる

―宗教経典―

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
申命記8.2 ~ 5(キリスト教)

孟子がいわれた。「舜(しゅん)は田畑を耕す農夫から身を起して、ついに天子となり、傅説(ふえつ)は道路工事の人夫から挙げられて武丁(ぶてい)の宰相(そうりだいじん)となり、膠鬲(こうかく)は魚や塩の商人から文王(ぶんのう)に見出され、管夷吾(かんいご)は獄吏の手に囚われた罪人から救い出されて桓(かん)公の宰相となり、孫叔敖(そんしゅくごう)は無辺の貧しい生活から楚(そ)の荘王に取り立てられて令尹(れいいん)となり、百里爰(ひゃくりけい)は賤しい市民から秦の穆(ぼく)公に挙げ用いられて宰相になった。故に、これら古人の実例から見ても分るように、天が重大な任務にある人に与えようとするときには、必ずまずその人に精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動(することなすこと)を失敗させて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするためである。」
孟子VI.B.15 (儒教)157

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二12.7~10.(キリスト教)

人生は丘と同じだ。創造者マウは、それを険しく滑るようにつくった。それは左右に深い水があり、
一度登り始めれば、戻ることはできない。
あなたはあなたの頭に荷物を載せて、登らなければならない。人々は彼を手助けしない。なぜなら、それは試みだからである。この世は試みの場である。
プン族の歌(アフリカ伝統宗教)

モーセは……われのひとりのしもべに会った。かれにわがもとから慈悲を施こし、また、じきじきに知識を授け、かれに教えていた。モーセはかれに「あなたに師事させて下さい、あなたが授かっておられる正しい知識を、私にお教え賜わりたい」と言った。

かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には、到底忍耐できないであろう」。「あなたの知識が徹底していないことに関して、どうしてあなたは忍耐できようか」。

モーセは「もし神のおぼしめしなら、私がよく忍び、またどんな事にも、あなたにそむかぬことがわかりましょう」と言った。かれは言った「それで、もしあなたがわしに師事するのなら、わしがそれについてあなたに何かとりたてて言うまでは、何事についても、わしに問うてはならない」。

そこでふたりは出発して、かれらが舟に乗り込んだとき、かれはそれに穴をあけた。そこでモーセは「あなたがそれに穴をあけるのは、人びとをおぼれさすためか。あなたはほんとうに嘆かわしいことをなされた」と言った。

かれは言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーセは「私が忘れたことを責めないで下さい、また私の事について、むずかしく無理じいしないで下さい」と言った。

それからかれらは出かけて、ひとりの男の子に出会うまで行った、そのとき、かれはこれを殺した、モーセは言った「あなたは、他人を殺さぬ罪もない人を殺されたのか。まことにあなたは、(かつて聞いたこともない)むごいことをしたものだ」。
かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーセは言った「この後私が、何事についてもあなたに問うならば、私を道づれにしないで下さい。そうすれば私の方からのお許しの願いをすべてお受入れ下さったことになります」。

それからふたりは旅を続けて、ある町の住民の所まで来た、そこの村人に食物を求めたが、ふたりを歓待することを、かれらは拒んだ、そのときふたりは、まさに倒れようとする壁を見つけて、それを真っすぐにした。モーセは言った「もしあなたがお望みならば、それに対してきっと報酬がもらえるでしょう」。

かれは言った「これが、わしとあなたとのお別れだ。さて、あなたがよく耐え得なかったことの、解釈を話そう」。「舟については、それは海で働く、ある貧乏な者たちの所有であった。わしがそれを役立たぬように、しようとしたのは、かれらの背後にひとりの王がいて、すべての舟を強引に徴発するためであった」。「男の子については、かれの両親は信者であったが、わしらは、かれの反抗と不信心が、両親に累を及ぼすことを恐れたためであった」。「それでわしらは、主がかれよりもすぐれた性質の純潔でもっと孝行なむすこを、かれら両人のために賜わるよう願ったのだ」。

「壁については、それは町のふたりの幼少な孤児の所有で、その下には、かれらに帰属する財宝が埋めてあり、父親は正しい人物であった。それで主は、かれらが成年に達してから、その財宝をかれら両人のために掘り出すことを望みたもうた。……これが、あなたの忍耐し得なかったことの解
釈である」。(注22)
クルアーン18.65 ~ 82 (イスラーム)

聖なるその方は、人を見て喜ばれるとき、彼を苦痛の中に放り込まれた。イザヤ53 章10 節では、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」とある。あなたは、たとえ彼が喜んで受け入れなくても、天はこれを行われると考えるだろう。ゆえに次のように記されている。「彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。不純な祭物も、祭壇に上げようとすれば、同意を得なければならない。苦難を与えようとすれば、それもやはり同意がなければならない。苦難を受け入れた者に何の報いがあるのか。「彼は、子孫が末永く続くのを見る」。何よりも知恵が(トーラーの知恵が)永遠に彼と共にあるだろう。「主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。(注23)
タルムード、ブラホート5a(ユダヤ教)


―み言選集―

信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。
御旨の道、試験・試練

自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。
御旨の道、信仰生活

神様は希望の中心、生命の中心です。そのような主体者なので、私達もそのような主体者の前に相対になるためには、主体と同じ立場に立たざるを得ません。私がそのような人になったのか、なっていないのかということを1度テストしてみようという心をもたなければなりません。

そのような人になったのか、なっていないのかを知るためには、苦労の場にほうり込み、悲しみの場にほうり込み、苦痛の場にほうり込まなければなりません。テストと試練は私を苦しめることのようですが、それが一つの価値を浮き上がらせてくれる条件的内容になるのです。
(66-45、1973.3.18)

行き、また行く道が険しいと言えるでしょうか。
私達の心はお父様のその心情の切なさと比べられませんし、私達の悔しさは幾重にも横たわったサタン圏を歩まれたお父様のその足跡と比べられないことが分かるよう許諾してください。

険しい道を行きながらも、天のみ旨に責任をもつための使命感が私達の心にわき上がるよう許諾してくださり、悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となって、あなたの路程に同伴することのできる息子、娘となるよう許諾してください。

歴史的な苦痛を共に感じて、苦痛を受ける心情の友となるよう許諾してくださり、悔しい心情に同伴して友となることができ、お父様の内的悲しみの友となると同時に、外的悲しみの友となって、
永遠なるお父様の喜びの対象となることができるよう許諾してください。(4-293~294、1958.9.14)
変わらない神様ですが、変わらない人をつくるためには、変わる神様として現れざるを得ないのです。試練をされるときには、神様御自身が変わる神様として現れなければならないというのです。

ですから、皆さんの側から見れば、このようにされたり、あのようにされたり、「行きなさい、来なさい」と気分屋の神様として現れます。変わらない人を選ぼうとすれば、最高に変わる神様の立場でテストして、変わらなければ変わらない人として登場できるのです。
(66-46、1973.3.18)

昔、6・25 動乱が起きたとき、避難する道で私はこのようなことをたくさん見ました。母親が5歳の子供を背負っているのですが、分別がなく、戦争が起きて避難していることが分からず、どこかに行くというので鼻歌を歌って喜んでいるのです。ところが、背負っていくと母親が疲れて子供を下ろすのです。


すると子供は、「お母さん、嫌だ。おんぶしてくれなければ行かない。おんぶして、おんぶして」と言います。このようなとき、子女を愛する父母は、どのようにしなければなりませんか。おんぶしてあげなければなりません。それが正義です。

しかし、おんぶしてあげれば、二人とも死にます。それではどうしなければなりませんか。歩かせな
ければなりません。歩かないと言えば、しかり、ほほをたたいてでも行くようにしなければならないのです。そうして避難所まで行かなければなりません。

皆さんがその父母ならどうしますか。捨てていきますか、葬ってしまいますか。あるいは無理やりにでも引っ張っていきますか。どの方法が一番良いでしょうか。捨てますか。葬りますか。それが嫌なら、どうするのですか。何が何でも引っ張っていかなければなりません。耳を引っ張っていくか、鼻の穴に引っ掛けてでも連れていかなければなりません。
(32-256、1970.7.19)
私がたとえ年老いたとしても、若者たちに未来像の力の源泉として、見せてあげることができるよう、天の力が共にあることを知り、前進を誓いましたので、この者たちを守り、祝福してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。

願わくは、激しい風がこの者たちの前に吹きつけるようにしてください。暴風と台風の風がこの者たちをかすめていき、吹き寄せるようにしてください。その風霜の中で堂々と残り、勝者の姿を備えた磐石のような若き青年男女たちとなって、三千里半島の大学街から出発し始めるとき、この大韓民国の未来は絶望ではなく、希望が近づくのを知っています。
(121-187、1982.10.24)

第16章祈祷と崇拝

1.祈祷

大部分の経典で祈祷は、宗教生活の必需的要素とみなされている。この節に抜粋した章句は、祈祷の効能に関する論議と祈祷のやり方に関する指針である。祈祷を通して私達は、内面を神様に明らかにし、神様の栄光の中で神様との関係を発展させていく。

自分の罪を悔いる悔い改めの祈祷を通して、私達は神様に助けを切に求め、神様の導きを受ける。私達は、祈祷の内容を実践して信仰生活を発展させ、神様の教えと一つになるとき、神様に絶対的に従順になれると言うことができる。

逆に、神様も私達が祈祷の中で善良に生き、最
善を尽くそうという決意を示すとき、私達を絶対的に信頼できる。したがって、友人や父母との実体的関係のように、私達は祈祷生活を通して神様と実体的関係を形成して生活することができる。祈祷は、堕落性を刺激する悪行と誘惑に対抗する、本性の防御壁を積み上げてくれる。そうして、私達の心情を神様に向かわせれば、私達の内外的生活が一様に浄化される。

祈祷の味を知れば知るほど、霊魂が育ち、全体の人生まで清くなる。祈祷は愛を追求するため、正しいことをしようとする良心が神聖な力を得て、苦難を克服することができる。これによって私達は、人格の成熟と精神の安定を享受するようになる。

この節のいくつかの章句は、祈祷のやり方を助言してくれている。徹夜祈祷をする場合もあるだろう。祈祷生活は、途絶えることなく持続されなければならない。そして、何よりも祈祷は正直に臨まなければならない。心中から流れ出てくる、静かで真実な対話が祈祷である。祈祷のあとには、必ず行動が伴わなければならない。偽善者の祈祷は、どのような結果も伴わない。最高の祈祷は、自身よりも人の福祉のための祈祷である。
文鮮明先生のみ言によれば、神様の心情を慰労してさしあげる祈祷が最高の祈祷である。本書の巻頭を開くと、いくつかの代表的な祈祷文を目にするだろう。


①祈祷にお答えになる神様

―宗教経典―

なんじらの主は、仰せられる「わしに祈れ、わしはなんじらに答えるであろう」。
クルアーン40.60 (イスラーム)

主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
詩編145.18 (キリスト教)

わしのしもべたちが、わしについてなんじに問うとき言え、わしはほんとうにしもべたちの近くにいる。かれがわしに祈るときわしはその嘆願の祈りに答える。(注1)
クルアーン2.186 (イスラーム)

あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
詩編55.23 (キリスト教)

プラジャー・パティ(「造物主」)よ、汝をおきて、この一切万物を抱持する者は他に存在せず。いかなる願望をもちてわれらが汝に供物を捧ぐとも、そはわれらに叶えられてあれ。われら願わくは、富の主たらんことを。
リグ・ヴェーダ10.121.10 (ヒンドゥー教)

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書11.24(キリスト教)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
エリヤは、私達と同じような人間でしたが、
雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
ヤコブの手紙53 ~ 18(キリスト教)

だからあなたがたは、私の名によって常に父に祈らなければならない。与えられると信じて、私の名によって父に求めるものは、正当であれば、見よ、何でもあなたがたに与えられる。あなたがたの妻子が祝福を受けるように、あなたがたの家族の中で、私の名によって常に父に祈りなさい。
モルモン経、第三ニーファイ18.19 ~ 21(末日聖徒イエス・キリスト教会)


―み言選集―

祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。
(270-17、1995.5.3)

祈祷だけをしていてはいけません。祈祷すれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、10 年でも20 年でも、祈祷する姿勢で、祈祷した内容に出会えることを慕い求める心をもたなければなりません。
(40-299、1971.2.7)

祈祷とは何でしょうか。祈祷は願うことですが、何を願うのかというと、主体・対象関係を成すことです。それは何の主体・対象関係でしょうか。愛の主体・対象関係です。そのような関係を成すことを標準として、私達は願っていかなければなりません。自分がする自信がなければ、祈祷するのです。そのような刺激がなければ、祈祷するのです。
(112-54 ~ 55、1981.3.29)

祈祷は、必ず成し遂げられます。祈祷することによって力を受け、祈祷することによって、今後この問題がどのように展開していくのかという展望が、すべて教えられるというのです。「このことはこのようにして、このことはこのようにする」と教えてくれます。それを知ってこそ、皆さんが大きなことができるのです。祈祷してこそ、その道を開拓できるのです。
(104-111 ~ 112、1979.4.15)

祈祷するときは、それこそ断食をして、ひざまずき、苦しくても忍耐しなければなりません。苦しくても忍耐しなければならないのです。犠牲になっても忍耐していかなければなりません。犠牲の道を歓迎していかなければならないのです。「このことのために死ぬとしても私は行かなければなりません。私が空腹で死ぬとしても、空腹で死ぬ境地に行っても、私は神様をつかんで死にま
す」と言わなければなりません。ですから、祈祷は誓いであり、宣言です。「私はこのようにします」と自ら判断し、自ら決定し、自ら宣布したのなら、愛を行わなければなりません。そのようにすれば、神様が「おお、そうか。そのようにしてみなさい!」と言うのです。皆さんが祈祷し、祈祷したとおりに実践し、一つの峠を越え、二つの峠を越え、三つの峠を越えれば、神様も御覧にな
りながら、「こいつは成功した」と認定されるというのです。
(112-54 ~ 55、1981.3.29)

ある人を定めておいて精誠を尽くして祈祷すれば、その人が訪ねてきます。涙を流して精誠を尽くせば、そこで見えない磁石が働いて引っ張ってくるのです。その人は、自分で分からずに引っ張られてきます。祈祷して、「きょうは私が誰々とあのアパートで出会う」と精誠を尽くせば、そこから出てくるのです。そのような力があります。
(104-113、1979.4.15)

私がここで神様のために祈祷するのは、このような世界のためです。このようなときは、段階が多いのです。段階がたくさんあります。祈祷をすれば、ここから成してこのように行くのではなく、このように入ってくることを知らなければなりません。ある人は福がこのくらい来たのに、これを切ってしまうのです。そのような役事です。世界的な問題を祈祷すれば祈祷するほど……。今日、統一教会が世界のために祈祷すれば、……。

皆さんが一生懸命に精誠を尽くして伝道するとき、伝道ができなくても、伝道ができないと心配する必要はありません。そのようにすれば、すべて共産世界から崩れていくのです。

ここでこれがアベル圏だとすれば、これはカイン圏であり、カイン圏がアベルに向かって入ってくるようになっているのです。しかし、時間がかかります。ですから、皆さんが祈祷をするときは、一生ではなく、数千年後に成し遂げられることを今から祈祷しなさいというのです。先生は、そのような祈祷をしています。先生の生涯にこのような祈祷を成し遂げてくれるのではなく、数千年
まで引っ張っていって成し遂げられるとき、統一教会はその祈祷が成し遂げられるまで滅びません。
(104-110 ~ 111、1979.4.15)


②悪から保護してくれる祈祷

―宗教経典―

まことに礼拝は、人を醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは、神を唱念(ズィクル)することである。
クルアーン29.45 (イスラーム)

婬欲の盛んな者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、婬欲を離れることができるであろう。もし怒りや憎しみの念が多い者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、怒りや憎しみを離れることができるであろう。(注2)
法華経25(仏教)

人と非信仰者の間に存在するものは、祈りに対する放棄である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)


昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行いを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。(注3)
クルアーン11.114(イスラーム)

言え、守護を祈り奉る、人間の主、人間の王者、人間のおお神。こっそりと忍び込み、ささやくものの害悪から、それは人間の胸にささやくもの、霊精(ジン)からであろうと、また人間からであろうと。(注4)
クルアーン114(イスラーム)


―み言選集―

祈祷とは何かというと、浄化、自分の精神を浄化させるのに必要なのです。精神を浄化させるために、鍛錬する方法として、精神統一するために必要です。
(181-325、1988.10.3)

祈祷は、私が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行くように導いてくれるのです。
(45-247、1971.7.4)

祈祷する人たちは失敗しません。自分がすべて知っています。祈祷の味を知れば、御飯よりもおいしく、いかなる趣味よりも楽しいのです。そのようになれば、良いこと悪いことがすぐに分かります。
(128-172、1983.6.12)

皆さんの一日の生活において、最も重要で必要なものとは何でしょうか。祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を明らかにしていかなければなりません。(注5)
(19-146、1968.1.1)

そのようにして、心の世界が体を完全に屈服させなければならないからです。そのようにして、良心が力を得て縦的に神様と連結すれば、サタンは逃げていかざるを得ません。その道を築くのが祈祷生活だというのです。心と体が一つになって神様と連結されることによって神様が臨在するので、サタンは体を捨てて完全に逃げていかざるを得ないというのです。
(229-7、1992.4.9)


③心情からわき出る祈祷

―宗教経典―

錆びつくすべてのもののための光沢剤があるが、心の光沢剤は神に念願することである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)

「あなた達の神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」(申命記11 章13 節)。心を尽くし、魂を尽くして仕えるとは何を意味するのか。それは祈りである。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)

私を自由にしてください。
私は心からあなたに求めます。
私が心からあなたに祈らなければ、
あなたは聞かないでしょう。
私が心からあなたに祈れば、
あなたはそれを知り、
私に寛大にされるでしょう。
ポラン族の祈り(アフリカ伝統宗教)
どうか、私の口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、私の岩、私の贖い主よ。
詩編19.15 (キリスト教)

常に自らを試みよ。心を治めることのできる者には祈るようにせよ。そのようにできない者には祈らせないようにせよ。
タルムード、ブラホート30b (ユダヤ教)

至誠で捧げるすべての祈りの中で、主を適切に賛美する恩寵が与えられた師が捧げる祈りがその最上である。
アーディ・グラント、マールー・アシュタパディーM.5、p.1018 (シーク教)

あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。
あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排し
て知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください。雪よりも白くなるように。

喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。
神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。

御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください。
私はあなたの道を教えます。あなたに背いている者に罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。
詩編51.6 ~ 17(キリスト教)
人々は神によってこの地に生まれるように許された。したがって、一個人の心とは、神の意志と交感するのである。そして、その心を平安にさせないものは、そのいかなるものも避けなければならない。神の祝福が臨在するために、人々はまず心を尽くして祈らなければならない。神の御加護を受けようとすれば、正直の土台を築かなければならない。このようにするとき、各自の本来の純粋な心が、根源的で深奥な道へ覚醒されていくだろう。
伊勢神宮の二柱に関する記録(神道)

祈りは勇気ある行動だ。勇気がなければどうして卑賤な人間が王の王に祈りを捧げることができるのか。
ナフマン・ブラツラフ(ユダヤ教)


―み言選集―

祈祷するとき、ほかのところにするのではなく、本心に尋ねてみなさいというのです。空中を見てするのではなく、心を見てするのです。心の門を開きなさいということです。
(308-16 ~ 17、1998.11.21)

祈祷するときは、おなかのすいた赤ん坊がお乳を慕うのと同じような懇切な心でしなければなりません。(18-185、1967.6.6)

祈祷生活というものは、自分の気が散るような所でするのではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈祷しなければならないという話は、至極妥当な話です。
ですから、どのように祈祷しなければならないかというと、生涯の切実で重要な問題を祈祷するときには、自分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈祷しなければなりません。
(123-80、1982.12.12)
精誠を尽くさなければなりません。行ったり来たりしてはいけないのです。「私がお父様にどのように侍りましたか。私が父母に侍るにおいて、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか」というのです。それはすぐに分かります。私の涙がどこまで流れて広がるのかという問題です。これが公式です。堕落した人間が天の父母に侍るにおいて、涙がなければ、悔い改めがなければなりません。清算しなければ、その環境が再創造されません。失ってしまったために……。

国を思うときに涙があふれ、世界を思うときに痛哭がおきますか。問題はそこにあります。天がそのようにしていて、主体がそのようにしているのですから、横的基準がその同位圏に立たなければなりません。同参圏に立たなければなりません。相続圏に立たなければなりません。一体にならなければ不可能なのです。
(171-19、1987.12.5)


祈祷とは何かというと、東にいる人が中央線を通って球形に沿って回ることができ、円形に沿って回ることができることです。それでは、私はどのようになるのでしょうか。私は生命圏に、神様がいる位置に同参できます。なぜ祈祷するのでしょうか。この中央点に合わせようというのです。中央点を中心として円形を描くために祈祷をしなければならず、精誠を尽くさなければなりません。(171-14、1987.1.5)

本当の祈祷は、真の祈祷は何でしょうか。忍耐と犠牲で愛することができる心をもち、すべてのことを克服していく人は、祈祷を完成した人です。このような人は祈祷が必要ないのです。祈祷を成し遂げた位置に行くのです。
(112-53、1981.3.29)


④祈祷の方法

―宗教経典―

あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べではならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタイによる福音書6.7 ~ 8(キリスト教)

謙虚にまたひそやかに、なんじらの主に祈れ。
クルアーン7.55(イスラーム)

信仰する者よ、なんじらが礼拝に立つときは、なんじらの顔と、うでをひじまで洗い、頭を撫で、足をくるぶしまで洗え。なんじらがもし大汚のときは、全身の沐浴をせよ。またなんじらが病気にかかり、またはたび路にあり、またなんじらのうち、かわやから来た者、または女とまじわった者で、水を見つけ得ない場合は、清浄な土に触れ、なんじらの顔と手を撫でよ。神は困難を、なんじらに課することを望みたまわぬ、ただし、なんじらを清めることを望みたまい、なんじらへの恩恵を全うしたもう、おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン5.6 (イスラーム)

祈りは歴史的文書を読むように再度暗唱されてはいけない。
エルサレム・タルムード、ブラホート4.3(ユダヤ教)

偉大な霊はどこにもいる。彼は私達の心と心情の中にあるすべてのものを聞く。ゆえに、彼に大声で語ることは不必要である。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)

祈りで、心のない言葉よりは言葉のない心をもつのがより良いのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(注6)(ヒンドゥー教)


―み言選集―

祈祷するときには、涙を流しながら祈祷し、汗を流しながら祈祷しなければなりません。
(112-55、1981.3.29)

祈祷するとき、どのように祈祷するのが良いですか。どのような姿勢でするのが良いのかというのです。できるだけひざまずいて祈祷するのが一番良いのです。この体は拘束しなければなりません。体の苦痛と不便さを克服する以上の深刻なことがなければならないというのです。それ以上に深刻でなければなりません。そうであってこそ、天の人になるのです。そうであってこそ、神様の前に行くというのです。
(104-111、1979.4.15)

祈祷というものは恐ろしいのです。祈祷は、天に対する誓いであり、宣誓であり、宣言です。
(240-35、1992.12.11)


精誠が途切れることを願う個人もなく、家庭もなく、民族もなく、世界もなく、宇宙もありません。精誠を尽くす道に従っていくのです。愛するものは、誰であってもその道についていきます。それが正道です。ですから、自分の生き様を報告し、自分の生き方を宣言しなければなりません。「お父様、きょうこのようにします」と言えば、きょうこれを成しました」と報告しなければならないのです。
(308-211、1999.1.5)

神様に祈祷することは、自分の事情を報告することです。それで近くなるのです。そして、言葉だけでするのではなく、実践して報告するので、報告することが実績として残ります。残される報告なので、天が干渉して祝福をするのです。どこでも、すべてそのようになります。それで、祈祷する人は恐ろしいのです。語らずに祈祷する人が恐ろしいのです。彼は後代の主人になります。
(233-105、1992.7.30)


道の出発は、どこからでしょうか。祈祷から出発するのです。祈祷する場所は、大概どこかというと山です。山の中でも孤独な山、とてもひっそりとした山、このような所で修めていくのです。
(157-13、1967.2.1)


⑤祈祷は休まず昼夜に

―宗教経典―

なんじの主の栄光をたたえよ。なお夜のひとときも、また昼の両端にもたたえよ。おそらくなんじらは満たされるであろう。
クルアーン20.130 (イスラーム)

絶えず祈りなさい。
テサロニケの信徒への手紙一5.17(キリスト教)

主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭してくださいます。
詩編16.7 (キリスト教)

最も真実な光景は夜明けの直前に見える。
ティルミズィーおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)


ラビ・ヨハナンが言った。「一日中祈る者がいれば、そのような祈祷者は決して祈りの価値を失わないだろう」。
エルサレム・タルムード、ブラホート1.1(ユダヤ教)

大衣をまとう者よ、夜間は、暫時を除き礼拝に立て、夜間の半分、またそれよりも少しく縮めて、
また、それよりも少し多く立て、そしてクラーンを読め。やがてわれは、荘重な宣託をなんじに下すであろう。

まことに夜間に起きることは、実践に最も力強く、またおことばを一層純正にする。まことになんじは、要務で昼間は長く追われる。それでなんじの主のみ名を唱念し、精魂を傾けてかれに仕えまつれ。
クルアーン73.1 ~ 8(イスラーム)


―み言選集―

「絶えず祈りなさい」という聖書のみ言があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日24 時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼせます。
(201-208、1990.4.9)

誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私達が神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。

夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が祈祷を通して願う内容が変わり、題目が変わりながら発展するのです。したがって、時が今、どのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を皆さんは、祈祷生活を通して備えなければならないことを知らなければなりません。
(104-112、1979.4.15)

祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。(29-321、1970.3.13)

祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。
(30-283、1970.4.4)

祈祷してください。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、仕事をしながらでも祈祷できます。
(27-89、1969.11.26)

完全なる人格者になれば、生活自体が祈りである。多く祈って、無限な霊力に接しなさい。これが原動力となって、生活する者とならねばならない。
御旨の道、人格


⑥利他的祈祷

―宗教経典―

自分が同じ状況にいても、同僚のために祈る者がまず先に報いを受けるだろう。
タルムード、バヴァ・カンマ92a(ユダヤ教)

では、人々にして、正信のゆえに正しいものと御身がみとめ給い、また善思のゆえにふさわしいものと、マズダー・アフラよ、御身がみとめ給うなら、そのものどもの所願を、果させて充たしてやってください。そうすれば、御身たちへの聖歌、御身たちにとって得るところ多く、ふさわしい、称賛の聖歌を、わたくしは知っているのです。
アヴェスター・ヤスナ28.10 (ゾロアスター教)

菩薩が家におる場合には、衆生とともに家宅の苦難をすてて、空法のうちに入りたいと願ふがよい。父母に仕ふる場合には、衆生とともに一切を護養して、とこしなへに大いなる平安を得たいと願ふがよい。妻子と集まる場合には、衆生とともに愛欲の獄をいでて、恋慕のこころを無からしめたいと願ふがよい。もし五欲を得たならば、衆生とともに貪欲のまよひを棄てて、功徳を具足したいと願ふがよい。
華厳経11(仏教)

 

―み言選集―

祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと何じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。(30-283、1970.4.4)

祈祷は必ず成し遂げられます。私個人のためのものではなく、神様の義とみ旨に従う祈祷は、必ず成し遂げられなければなりません。
(104-109、1979.4.15)

神様に祈祷して福を受けようとするより、神様に私が「ために生きる」ことのできる条件を提示しなければなりません。その福を受けることを願うのならば、それは自分のために生きることです。「国と世界のために福を下さい」と祈祷してください。そのような祈祷は、いくらしてもよいのです。(126-339、1983.5.1)
「自分自身のために祈祷してはいけない」、これが先生の教えです。自らの使命のために、そしてほかの人のために、また自分の祈祷が慰労のみ言として神様に上達されるようにしなさいと教えています。
(91-117、1977.2.3)

霊的体験をした人たちは、祈祷するときに、自分のための祈祷は最後にします。神霊的な世界に入っていって祈祷すれば、誰のために祈祷しなければなりませんか。まず神様のために祈祷しなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければならないのです。その後、イエス様のために祈祷することができなければなりません。

神様のために祈祷してこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈祷してこそ、歴史的なイエス様の心情が分かります。その次には、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた大勢の人たちのために祈祷しなければなりません。
堕落以降、アダムから今まで大勢の預言者たちが歩んだ歩みをたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物となるようにしてください」と神様に祈祷を捧げたのち、預言者に「私は、あなた達の恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思いますので、協助してください」と言いながら、涙を流すことができなければなりません。そのようにしたあとに、愛する息子、娘のために祈祷し、その次に自分のために祈祷するのです。天法がそのようになっています。
(7-328 ~ 329、1959.10.18)

私の体を捧げてでも、神様の前に勝利の一点を加えようという立場で祈祷を捧げるときには、神様がそれに責任をおもちになり、成し遂げてくださるのです。それを成し遂げてくださるために、神様がたやすい道を歩んでこられるのではありません。神様が、皆さんが祈祷しているその場所まで来ようとすれば、たくさんの段階を経なければなりません。皆さんが神様と同じ悲惨な立場に立てば、神様が直接活動できるのですが、それ以外には神様が直接活動することはできません。
すなわち、私自身が悔い改める立場や、傷心した立場にいるとしても、自分の真の心が神様の願われる立場に立つようになれば、神様が私を認められるようになり、また同情されるようになるのです。このような心情でいらっしゃる方が神様です。
(18-269、1967.6.12)


2.瞑想

瞑想は、障害物で覆われている心を浄化させ、内面の究極的実在に開門するものである。瞑想には多様な方法があるが、あらゆる瞑想法の共通点は、彷徨する感情と雑念を純化させ、真の本性が現れるようにすることである。つまり瞑想とは、静粛と純粋状態に至るようにするものである。このために、身体的感覚の刺激をある程度制限しなければならない。

大部分の経典で、瞑想とは東洋宗教の修行・修錬を意味する。しかし、実際にキリスト教、イスラーム、ユダヤ教でも、瞑想は広く行われている神秘主義者、修道者、スーフィー、カバリストなどすべては、修行者たちを神的霊性との一致に向かう高次元の状態を維持するために瞑想の技術を発展させた。瞑想時間は、心を安定・浄化させると同時に、霊的感覚を高く高揚させる。

文鮮明先生の祈祷時間とは、沈黙の祈祷であり、効果的な霊的祈祷技術であり、瞑想時間を意味する。瞑想に関する主題は、あまりにも膨大であり、生涯修行してもその終わりを見ることは難しい。この節で扱う内容には、事由の浄化法、呼吸集中法、高次的集中力養成法、自身の体と思い、考えの境界を崩す訓練、聖なる形状の視覚化、そして超自然的光景に対するシャーマニズム的要請などが含まれている。

 

①主一的集中

―宗教経典―

禅定とは、心を集中して脳乱のないことであり、知恵とは、真実の意味を明確にすることです。
龍樹宝行王正論437(仏教)

輻(や)の轂(こしき)におけるが如く脈管の湊(あつ)まる処(心臓)、その裏(うち)において彼(自我)は種々に生まれかわりつつ活躍す。「5Uなり」とかく自我を汝等は観想せよ。かくて、汝等が黒闇の輪廻界を渡りて、彼岸の世界に至るに幸あらんことを。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.6 (ヒンドゥー教)

魂と魄を一つに統一し、離れないようにできるか。
呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。
道徳経10(道教)

世尊はある時、舎衛城の祇陀林なる給弧獨{長者の遊}園に住まいたまへり。その時、一比丘、世尊の近くにありて、趺坐を組み、身を直く保ち、前世の業果より生じたる苦しく鋭く荒く烈しき痛みを耐へ忍びつつ、正念、正智にして悩まさるることなく坐したりき。世尊はその比丘の近くにありて、趺坐を組み、……乃至……痛みを耐へ忍びつつ、正念正智にして悩まさるることなく坐せる
を見たまへり。

世尊はこの事由を知りて、その時、このウダーナを唱へたまへり、「諸業を捨て、前世になせる塵労を振ひ落し、且つ我所見なく心豎立したる
〔かかる〕比丘は人と共に語るの要もなし」と。
感興偈20、難陀品(仏教)

無門は評して言う……「三百六十の骨節と八万四千の毛穴でもって、全身で一箇の疑団(疑いめカタマリ)になって、この一箇の「無」の字に参じ、昼も夜も一日中これを問題として引撕げよ。この「無」を“虚無の無”(断見――ニヒリズム)だと理解するな、“有無の無”(偏見――二元論)だと理解するな。一箇の灼熱した鉄の玉を呑んでしまったようで、吐こうとしても吐き出せず、[呑もうにも呑みこめず]、これまでの悪い知識や悪い悟りを払い尽くして、長いあいだ、[練り上げて]純熟して、自然に内(主観)と外(客観)とが一つになる。

そこは唖子が夢を見たようで、自分だけが分かっていて、他人には語れないようなものだ。いきなりその「無」が爆発すると、天を驚かし地を動かして[驚天動地の事態が起こる]。(注7)
無門関1(仏教)

私が瞑想の中に入っている限り、動物や人間、あるいは神によって起きる一切の災難を、私自ら耐え忍ぶだろう。私が瞑想に入っている間、私は私の体とすべての食物とすべての欲望を捨てる。執着、嫌悪、恐怖、悲しみ、喜び、心配、自己憐憫……。体、口、意の三業でこのすべてのものを放り出してしまう。

また一切の性的遊戯を慎む。生と死、得と失、勝利と敗北、出会いと離別、友と敵、楽と苦、このすべてのものに対し、私は一つの心で平等に対する。知識や洞察力を得ることにおいてや正しい行為を修めることにおいても、その主人は私自身の霊魂であり、業の流入を呼ぶのも、これを止めるのもまた、私の霊魂である。

唯一で永遠のものは私の霊魂なので、これは正しい知恵と直観で満ちている。私が経験するそれ以外のすべての状態は、私には外的な事情によるものだ。このようなものによって私の霊魂は苦痛を経るため、私は体、口、意の三業からこのすべての事情を絶つ。

これによって私が平静心と私の真の姿を得るがゆえに、願わくはこの状態が私から離れることなく、私がまっすぐに救いに至るように。(注8)
サマイカ・パッタ(ジャイナ教)


―み言選集―

修養の道を求めるために、山中で修行するのも一埋があります。ですから、私達は、内的覚悟のもとに、そこに対比する外的な覚悟、清算条件を具備しておき、いかなるものにぶつかっても進んでいくという自信、一番のどん底に落ちても心身を支えられるという自信をもたなければなりません。そうでなければ、走ることもできず、競争の場に出ていくこともできません。

私達は、このような競争の場で、一つの種目を選んで走らなければならない競争者なので、目標を成し遂げるために、変わらない信念をもって鍛錬しなければなりません。ですから、皆さんは、信仰者の態度、走る人の態度、修養の道を行く人の態度をもたなければなりません。寝ても覚めても、その目標を征服するための決意に燃える心がなければならないのです。
(7-135、1959.8.9)


②宇宙的リズムに合わせて呼吸する

―宗教経典―

精神のはたらきは四方のはてにまで達し、いっせいに流れ出して、どのようなところでも及ばないというところはない。上は天までとどき、下は地にひろがり、万物を変化生育させ、その霊妙なはたらきは形容する言葉もないほどである。しいて名づけるならば、天帝にひとしいともいえよう。

純素、純粋素朴の境地を得るための道は、自分の精神のはたらきを失わないように守ることである。もし精神を守って失うことがなければ、自分の身も精神と完全に一つになることができる。その一つとなったところに生まれる霊妙なはたらきは、
さらに天に通じ、天地自然の道に合一するのである。(注9)
荘子15(道教)

私は分けられず、
私の魂は分けられず、
私の視覚は分けられず、
私の聴覚は分けられず、
私の吸気は分けられず、
私の呼気は分けられず、
私の散布される息は分けられず、
私の全体は分けられない。
アタルヴァ・ヴェーダ(ヒンドゥー教)

三所(胸・頸・頭)を高く挙げて、身を平正に持し、意を用いて諸根(感官)を心臓におさめ、梵を舟として、智者は怖畏の流れ来る激流(輪廻の川)のすべてを渡るべし。

行者はこの身において気息を抑制し、散動を検束し、気息のほとんど絶ゆるに及んで、鼻孔より気を吐くべし。駻馬を繋げる車を御するが如く、智者は意を摂持して怠ることなかれ。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.8 ~ 9(ヒンドゥー教)


―み言選集―

早朝に起きて祈祷するのです。祈祷するときには、心臓の鼓動の音を聞くことができなければなりません。動脈と静脈、ここから天地の調和が生じると想像しながら、心臓の根源を考えるのです。そのようにすれば、健康も良くなるのです。
(27-87、1969.11.26)

神様が万物をつくられるときに喜ばれた、その心情をどのように感じなければなりませんか。皆さんがこのようなことを体恤しようとすれば、丘に座って朝から夜まで、日が沈むまで思索をしなければなりません。時間がたつことも忘れる圏内に浸らなければなりません。そこで息を長く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもってすうっと押し寄せてくるのです。

このように、宇宙の生命力とともに生きなければなりません。そのように生きる私自身が息を吐け
ば、すべての存在が新たに覚醒し、深い眠りにつけば万物が相対的に和動するようになります。このような境地が、万有を統治できる絶対者の境地です。

そのような境地に立てば、万物と相対的な関係を備え、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば万物は吐き出してくれるのです。このように、愛を中心として万物と授け受ける関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。

皆さんは、そのような関係にとどまることなく、和動の中心体にならなければなりません。そうして、美しい自然の形態のようでもあり、宇宙自体のようでもある姿にならなければなりません。そのような境地に入っていくようになるとき、そこで初めて宇宙の和動の中心になるのです。
(29-133、1970.2.26)

鼻は、アダムとエバを象徴します。人の中で一番先に行くのが鼻です。鼻はいつも先頭に立っています。目は天を象徴するのですが、鼻は上と連結しています。また、口までも含みます。鼻はそうです。鼻自体を見れば、ここから宇宙です。これが天に通じるのです。すべて鼻で連結されています。

ですから、これがセンターです。すべてのもののセンターになったということです。そうして、鼻からこのように線があります。ですから、万物までも主管するのです。

口は何かというと万物です。歯が32 本です。これは、4掛ける8で32 です。4は四位基台を意味し、8は世の中を意味し、新しい出発を意味します。それで32 本あるのです。口は万物を象徴するというのです。

また、鼻の穴が二つあります。二つあるのですが、中に入っていくと一つになります。そして、この鼻は通じないところがありません。目にも通じ、耳にも通じ、すべて通じます。ですから、鼻をぎゅっと握り、ぷうっと吹けば、空気がすべて……。右側の鼻の穴が男性であり、左側の鼻の穴は女性です。それが何かというと、神様が呼吸をする穴だというのです。何をですか。愛の空気
を吸うのです。霊界に行けば、そのようになっています。空気とは何かというと、愛です。ここでこの愛を感じ、愛を呼吸できる訓練をさせるために、男性と女性の相対を置いたことを知らなければなりません。

皆さん、風邪をひくと鼻の穴が片方詰まるでしょう? 二つとも詰まるときは死ぬのです。このときは、口で呼吸しなければなりません。万物を通して、世の中を通して呼吸する方法があり、鼻を通して呼吸する方法があります。ですから、神様は万物が必要であり、人が必要なのです。
(118-112、1982.5.9)

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世界経典-58

2022年07月24日 15時24分56秒 | 学習

 


9.異端

信仰の道において、離脱する最大の罠は、サタン、すなわち異端の誘惑である。主要な宗教の経典には、この点に関して警告している。「異説」とは異なる意見という意味だが、天が宗教創始者に啓示してくださった本来の知恵は誰かの意見によって修正されたり、変化したりする対象のものではないという意味である。

本当の宗教が初期には伝統集団から異端として迫害されたのも事実である。創始者の死後に、さらには生きている間にも主流の宗教に宗派的、分派的異端が生じることもある。しかし、神様の摂理的な進展によって主流の宗教を取り巻く異端は、徐々に消えていく反面、本当の宗教は、創造的位相を新たに確保するようになる。

どの時代のどこでも、主流の宗教の正統的な流れの中で異端が勝利したという事例は見いだすことができない。たとえ異端の教えに神学的な魅力があるとしても、いつでも異端が異端として規定されるには普遍的理由が存在する。

この節に抜粋した経典の章句では、邪悪な預言者と異端者の低俗な動機を非難する。彼らは、世俗的目的のために宗教を利用した偽善者たちである(もちろん正統教理に従う聖職者たちでも同一の過誤を犯すことがある)。ある人たちは、異端の教えをサタンと悪霊の役事だと非難し、ほかの人たちは異端がもたらす堕落した結果、放蕩な生活、貪欲、そして不和の種などの要素を猛烈に非難する。

しかし、提婆達多の例のように、ある異端は、正統宗教の道よりさらに強度な禁欲、あるいは極端な信仰の基準を提示し、人間の本質を少なからず
欺瞞し、歪曲させる場合があることを指摘する。そして、いくつかの章句では、宗派の分裂と信仰共同体を崩壊させるという点を指摘し、異端的要素を強く非難する。


―宗教経典―

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
マタイによる福音書7.15 ~ 16(キリスト教)

神の使徒が次のように語ったと伝えられている。「終局には、宗教を世俗的な目的のために欺瞞して利用し、大衆の前に羊の皮をかぶり、従順に見せようとする群れたちが現れるだろう。彼らの言葉は甘いが、彼らの心は狼の心である。神が語られるだろう。「彼らが私を欺瞞しようとするのか。あるいは私に傲慢に行動しようとするのか。私は自ら誓うが、知恵深い者をさまよう者たちの枠に捨てておく者を裁くだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
ペテロの手紙二2.1 ~ 3(キリスト教)

終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。
テモテ一ヘの手紙4.1 ~ 2(キリスト教)

こうしてわれは、どの予言者にも一つの敵をつくった。それは、人間とジンの中の悪魔であって、そのある者が他を感激させ、はなやかな言葉で、そそのかして、だましている。
クルアーン6.112 (イスラーム)
悪魔マラはボーディサットヴァに、正しい道ではない偽りを詳しく説明しようとする。
大般若経382 (仏教)

だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
コリントの信徒への手紙二11.14 (キリスト教)

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
テモテヘの手紙二4.3 ~ 4(キリスト教)

もし虚偽が真理と分離され見ることができたなら、真理を求める者は簡単にそれを区別し、虚偽を遠ざけることができただろう。また、真理が虚偽とはっきりと区分されて現れたなら、人々は簡単に宗教を批判したりもしなかっただろう。

しかし、不幸にも人間たちは、真理を虚偽と混同し始め、サタンがこのような状況を利用し、追従者たちの心を完全につかむようになった。ただ、内面的で合理的な瞑想の道を通じた神の助けによって高邁になった人だけが、そのわなから抜け出すことができた。
ナフジュ・アル・バラーガ説教55(イスラーム)

邪悪な魔は遊行者のなりをして、不退転の菩薩大士に近づいてこう言うであろう。「お前が以前聞いたそのことを(誤りであったと)告白しなさい。……これまでお前が聞いたこと、それは仏陀のことばではない。それは詩人のつくった詩にすぎない。しかし、私が話すこのことは、仏陀によって話されたことばなのだ」と。

これを聞いて、もし菩薩(の心)がゆれ、動くならば、こう知られるのだ。「この人は如来によって予言された菩薩ではない。この菩薩は、無上にして完全なさとりに(いたると)決定していない。この人は不退転の領域に定着していないのだ」と。

けれどもスブーテイよ、……煩悩の尽きた、供養されるべき比丘というものは、ものの本性をまのあたりに見ていて、他人を信じていったりはしないものである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経17.2(仏教)

そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
マタイによる福音書24.23 ~ 24(キリスト教)

かれらの教えを分裂させて、分派となった者であってはならぬ。各分派は己の持っている信条に、喜び満足している。(注15)
クルアーン30.32(イスラーム)

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえ私達自身であれ、天使であれ、私達があなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私達が前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
ガラテヤの信徒への手紙1.6 ~ 9(キリスト教)

天上界と人間界を通じて多くの生けるものの不利得のために、不利益のために、苦悩のために、一つのことが、この世に起こる。一つの僧団の分裂である。すなわち比丘たち、僧団が分裂するときには、互いの争論も生ずる。互いの悪罵も生ずる。互いの排他的にもなる。互いの裏切りも生ずる。

そのためには、まだ信仰を得ていない人々は、信仰の喜びを知ることがなく、すでに信仰を得ている人々の中にも心境に変化を生ずる人もいる。
如是語経、18(仏教)

時に提婆達多はコーカーリカ、カタモーラカテイッサ、カカンダデーギャープッタ、サムッダダッダの許に到れり、到りて言へり、……「友等よ、我等、沙門ゴータマの許に到りて五事を請ひて言はん、「世尊は無数の方便を以て小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動を称讃して説きたまふ。此処に五事あり、無数の方便を以て、小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動に資す。

願はくば、比丘等は盡形寿、林住すべく、村邑に入らば罪とせられん。盡形寿、乞食すべく、請食を受けなば、罪とせられん。盡形寿、糞掃衣を著くべく、居士衣を受けなば罪とせられん。盡形寿、樹下に坐すべく、屋内に到らば、罪とせられん。盡形寿、魚肉を食はざるべく、魚肉を食はば、罪とせられん」。沙門ゴータマは此五事を許さざらん。我等、此五事を以て衆人に告げん。友等よ、
此五事を以て沙門ゴータマの僧伽を破し、輪を破するを得ん。友等よ、人々は質素を信楽すればなり」。

時に提婆達多は衆と倶に世尊の在す処に詣れり、世尊に白して言へり、「……」。「止みなん、提婆達多よ、若し欲せば常時林住すべく若し欲せば村邑に住すべし。若し欲せば常時乞食すべく若し欲せば請食を受くべし。若し欲せば常時糞掃衣を著くべく若し欲せば居士衣を受くべし。提婆達多よ、我は八月樹下に坐臥するを許し、不見不聞不疑の三事清浄ならば魚肉を許せり。」時に、提
婆達多は、「世尊は此五事を許したまはず」と〔知り〕歓喜踊躍して衆と倶に座より起ち世尊を敬礼し……去れり。

時に、提婆達多は衆と倶に王舎城に入りて五事を以て衆人に告げて言へり、……此処に無信、無浄心、劣覚の人々は言へり、「此沙門釈子等は頭陀を行じ漸損にして住す、沙門ゴータマは奢侈にして奢侈を念とす」。有心、有浄心、賢明、有覚の人々は呟き憤り毀れり、「如何そ、提婆達多は世尊の僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。比丘等は彼人々の呟き憤り毀るを聞けり。少欲の比丘等は呟き憤り毀れり、「如何ぞ提婆達多は僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。……
「止みなん、提婆達多よ、汝僧伽を喜ぶ勿れ、破僧は重{罪}なり。和合僧を破せば一劫の罪過を積み一劫、地獄に煮られん。提婆達多よ、破せる僧伽を和合せしめば焚福を積み一劫、天上に楽しまん。」
律蔵ii.192 ~ 98(仏教)


―み言選集―

皆さんが進んでいく道には、必ず怨讐が現れます。信仰的な怨讐が現れ、経済的な怨讐が現れるのです。さらには、私達統一教会の食口同士で互いに怨讐として現れることもあるでしょう。そして、サタンは、皆さんがうっかり過ちを犯すその瞬間をねらって、皆さんをカインの道に追い込むのです。

そのような怨讐を退け、カインの立場に立たないために、皆さんはどのように生きなければなりませんか。皆さんは、一身の安逸のために生きるのではなく、全体のために自らを犠牲にして生きなければなりません。
(3-212、1957.11.1)

統一教会の原理を知って、自分の利益を得ようとするのは、詐欺師でありどろぼうです。先生が教えてあげたその囲いの中に入っていき、自分の福地をつくろうというのはどろぼうであり詐欺師です。その原理のみ言は、自分のものではなく、天のものです。先生が発表した原理を自分のものとして利用し、個人の利益のために、ありとあらゆる集団をつくって生きる妖しげな群れがたくさん生じました。彼は、詐欺師です。その体は、エゼキエル書の、谷の中の死んだ骨と同じです。生命が死んでいます。
(346-57、2001.6.21)

堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。

今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4

長成期完成級で堕落した人間が、復帰摂理により、蘇生旧約時代を経て、長成新約時代の完成級まで復帰されて、人間始祖が堕落する前の立場に戻る時代を終末という。この時代は、アダムとエバが堕落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復帰する時代であるので、地上には霊通する人が多く現れるようになる。終末には、神の霊をすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒2・17)、正に、このような原理的な根拠によって、初めてその理由が解明できるのである。

終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創1・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。

終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤実な聖徒たちは、イエスの当時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗礼ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ1・23)。

したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命が与えられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。
霊通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、偽キリストの立場に立つようになる。終末に、偽キリストが多く現れると預言された理由もここにある。

霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリントⅠ 15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。

復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。また、彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
原理講論、復活論2.2.6

皆さんは、天国とは何か分からずにいますが、天国は簡単です。天国は、神様が父であり、すべての万民は息子、娘として大きな家庭を成している所です。そこには、宗派もなく、国もなく、民族もありません。それを知っているので、レバレンド・ムーンは教派打破です。宗派打破です。国家打破です。一つの兄弟にならなければならないというのです。
(344-47、2001.3.1)


10.神様との論争

私達は神様の子女として、人間を愛し、見守る神様の存在を体験することができる。単純な献身と盲目的信仰だけで神様と向き合うのは十分ではない。困難な問題の解答を要求するとき、自ら挑戦してみたが、何の道も見えないとき、私達はしばらくとどまり、神様が答えてくださることを切に求める。

自分の確固たる立場を放棄しないまま、私達は神様に事物の存在方式に対して問いを投げ掛け、果たしてより良い方式はないのかに関して論争することもある。私達は、世界の経典から神様と論争した預言者や聖賢たちを発見するようになる。私達は、彼らは疑心に満ちた者、無神論者、あるいは信仰のない不平を言う者などとはみなさない。かえって、彼らを真の正義心を発揮し、神
様に関することを具体的に論議した方とみなす。
彼らは、神様の真理とその現存に対するより深い洞察を渇望する燃える情熱の所有者たちだった。
アブラハムも神様と論議した。彼は、ソドムとゴモラに対して、神様がもう少し慈悲を施さなければならないと主張した。モーセも、イスラエルの民が金の子牛をつくってほかの神を祀ったとき、あらゆる過ちを自分に返し、自分の民族を赦してほしいと神様に懇願した。

ムハンマドも、50 の義務祈祷項目を5に減らしてくれるよう懇請するために神様と論争を繰り広げた。苦難は罪に対する代価だと学んできたヨブは、自分は明らかに罪を犯していないのに、自分に苦難を与える神様と論争した。タルムードのある賢人は、神様に人間の自由意志の価値に対して名分を明らかにしてほしいと主張した。

このような例から共通して発見される点は、過去の聖賢たちと預言者たちは、自分たちの高潔さを保ちながら、同時に神様と関係を結べたということである。彼らは、確固たる信念と正義感に基づいて天に挑戦した。有限な人間の理解範囲を越えた方が神様であることを知ったために、彼らは高潔な良心を信じて神様の前に堂々と立ち、伝統教理に挑戦しながら命を懸けて論争を繰り広げた
―宗教経典―

主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。

アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.20 ~ 25(キリスト教)


四十日四十夜が過ぎて、主は私にその二枚の石の板、契約の板を授けられた。そのとき、主は私に言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたが、エジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、鋳像を造った。……

私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民
である。私を引き止めるな。私は彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」

私が身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。私は両手に二枚の契約の板を持っていた。私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。

私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。

……主があなた達を滅ぼすと言われたからである。私はひれ伏して、主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
申命記9.11 ~ 29(キリスト教)

使徒が語った。「天使が私を(天に)引き上げたとき、神は私の民たちのために1日50 回の礼拝を定められた。この定めをもって帰ったとき、モーセのそばを通るようになり、彼が私に尋ねた。『あなたの民のために神はどのくらい定められましたか』『50 回の礼拝を定められました』と私が答えると、モーセは、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。

それで私は、再び神の前に行くと、その方が回数を半分に減らしてくださった。その後、モーセのそばを通ったとき、彼に『回数が半分に減った』と知らせてあげた。すると彼は、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。

私が再び神の前に行くと、その方は回数をまた半分に減らしてくださった。モーセのところに戻って新たに減らしてくださった回数を知らせてあげると、『主のところに行ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と繰り返した。


私が再び神の面前に現れると、その方が私に言われた。『では5回の礼拝になるようにせよ。しかし、私の目には50 回の価値があるため、私の前で
定められたものが決して変わってはいけない』。私がモーセのところに来たとき、彼はまた主のところに行けと言ったが、『主の前に行くのが、私は恥ずかしい』と答えた。」(注16)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

神が言われた。「私が征服するとき私は失い、私が征服されるとき私は得た。(ノアの時に)洪水でその世代を征服した。しかし、私がつくった世界を滅亡させたのだから、失ったものがないだろうか。それと同じように、バベルの塔の世代に対しても同じだ。ソドムの人たちに対しても同じだ。

しかし、金の子牛をつくった罪を犯したとき、私は征服された。イスラエルの罪に対して赦しを
願ったモーセが私に勝った。そして私は得たものがあるため、私がイスラエルを滅ぼさなかったのである」。
プスィクタ・ラッバティ32b ~ 33a (ユダヤ教)
たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神は私を殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。私の道を神の前に申し立てよう。この私をこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか。

よく聞いてくれ、私の言葉を。私の言い分に耳を傾けてくれ。見よ、私は訴えを述べる。私は知っている、私が正しいのだ。私のために争ってくれる者があれば、もはや、私は黙って死んでもよい。

ただ、やめていただきたいことが二つあります。御前から逃げ隠れはいたしませんから。私の上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。

そして、呼んでください、お答えします。私に語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほど私にあるのでしょうか。私の罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私を敵と見なされるのですか。
ヨブ記13.14 ~ 24(キリスト教)

ラビ・エリエゼルが聖潔儀式に関する自分の主張の支持を得るために、世の中にあるすべての主張を提示した。しかし、彼の同僚たちは彼の提案を受け入れなかった。

エリエゼルが同僚たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、このイナゴマメの木がそれを証明するだろう」。するとイナゴマメの木が庭で300キュービットも飛び跳ねた。賢者たちが答えた。「川の水からは何の証拠も得ることができなかった」。エリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、この川の水が証するだろう」。すると川の水が逆さまに流れ始めた。賢者たちが答えた。「学院の壁からは何の証拠も得ることができなかった」。

またエリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、学院の壁が証するだろう」。すると壁が揺れて崩れそうになった。ラビ・ヨシュアが飛び上がって壁を叱った。「賢者の弟子たちが法に関して論争しているのに、それがお前と何の関係があるというのか」。ラビ・ヨシュアに敬意を表し、壁はそれ以上揺れなかった。ラビ、エリエゼルに敬意を表し、賢者たちは、自
分たちが正しいと主張することはなく、それで今日まで論争話が伝えられてきた。

再びラビ・エリエゼルが賢者たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、天が証明してくれるだろう」。聖なる声が天から聞こえてきた。「なぜあなた達はラビ・エリエゼルと論争しているのか。エリエゼルが主張するすべての内容は、すべて法にかなっている」。しかし、ラビ・ヨシュアが再び立ち上がり、「この声は天から聞こえてきたものではない」と叫んだ。(申命記30.12)

いくらかの歳月が過ぎたのちに、ラビ・ナダンがエリヤ預言者に会い、彼に尋ねた。「聖なる方は、その方に祝福があることを。ラビ・ヨシュアの非難を聞いたとき、何と言われましたか」。エリヤが答えた。「その方は笑われながら、『私の分別のない子供たちが私に勝った。私の分別のない子供たちが私に勝った』と語られた」。(注17)
タルムード、バヴァ・メツィア59a~b(ユダヤ教)


―み言選集―

イスラエル民族がモーセを不信することによって、モーセがイスラエル民族をカナンの地に導こうとする神様のみ旨に完全に従うことができなかったのと同じ恐ろしいことが、終わりの日の聖徒たちにも起きるかもしれません。

イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面するようになるとき、モーセは不信する民族を叱責する前に自分自身の不足を天に訴えました。すなわち、彼はシナイ山に登っていき、40 日間断食祈祷しながら、「父よ、この民族がどうして許諾された地が目の前に見えるにもかかわらず、入っていくことができずにいるのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物として民族の滅亡の道をふさいでください!」と訴えたのです。
(1-144、1956.7.1)


もしひと月の間、毎日10 時間一生懸命に活動したのに一人も伝道できなかったときは、15 時間活動するのです。その次には倍化して、倍の時間を投入するのです。それでも駄目なら4時間を加えて24 時間活動しなければなりません。

それでも駄目なら、「神様、助けてくださらなければなりません」と神様とつばぜりあいするのです。「これは私のみ旨であると同時にあなたのみ旨ではないですか。求めよ、そうすれば、与えられる、捜せ、そうすれば、見いだすであろう、門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろうと約束したではないですか」と言いながら、深刻に神様にしがみつきなさいというのです。皆さんが上がっていけば、神様も上がっていき、皆さんが下がっていけば、神様も下がっていきます。ですから、できないと考えないでください。
(54-325、1972.3.31)

アダムとエバが神様を裏切って歩んできたではないですか。ですから、「神様、私を裏切ってください」と言わなければなりません。そうしてこそ、蕩減復帰するのです。「私を知らないとおっしゃってください。最後の受難の時まであなたが私を忘れても、私は孝の道理を果たします。この道は必ず私が行かなければならない道です」という決意で歩まなければなりません。そのような人がいれば、神様が私を助けてくれなくても、彼の子孫は永遠に助けてあげたいと思うのです。心情の世界がそうだというのです。
(31-49、1970.4.12)

中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。それにもかかわらず、法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式とその規範は、当時の人間の信仰生活の自由を拘束し、その厳格な封建階級制度は、人間の自由な信仰活動を束縛したのであった。


創造原理によれば、人間は、神も干渉できない人間自身の責任分担を、自由意志によって完遂することにより初めて完成されるように創造されたので、人間は本性的に自由を追求するようになる。また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。

中世社会における法王を中心とする復帰摂理は、法王と僧侶の世俗的な堕落によって成就することができなかった。そして上述のように、中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。

さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1.2

祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。

それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
11.試練

誰でも信仰生活をするとき、試練を受ける。記録にも現れているように、偉大な信仰者たちは、様々な次元の厳しい試練を体験した。アブラハムは10 回以上の信仰の試練を通過した。サタンは、家族と財産を失うことにかこつけてヨブを試練した。メッカの偶像崇拝者たちにメッセージを伝えようとするとき、ムハンマドもやはり様々な激しい障害を克服しなければならなかった。

イエス様も荒野で重大な試練を受けられ、十字架の道を行く途中でも1度大きな試練を受けた。ヒンドゥー教と仏教の有名な聖人たちも、やはり生と死の境を出入りする試練を受けたが、彼らは絶対的信仰でそれを克服した。

誰でも試練を克服すればするほど、それだけその人の人格と精神は成熟して堅固になる。そして、試練の前後には常に栄光が伴うものであり、試練を通して栄光を受け、維持するにふさわしい資格が条件づけられる。
文鮮明先生は、神様とサタンのやりとりに関するヨブの聖句をよく引用しながら、信仰者たちが試練を克服する理由について説明される。人間は堕落によって天道から逸脱した。

したがって、神様は人間たちが本当に神様の主権を伝授されるにふさわしい資格があるかを確認するために、サタンをして一定の摂理的人物に試練をする機会を許諾せざるを得なかった。サタンは常に人間が自分に属した者であることを表示し、少しでも利己心を発揮する徴候がないかを執拗に探索する。したがって、最も真実で自分を否定する者だけがこの試練を克服できる。

時には、超現実的状況に対処しなければならない試練も少なくない。ムーサー(モーセ)とヒドルの有名なクルアーンの経句、「緑衣の男」はそのような試練を代表する。ムーサーは、常識を超越した事件を信じなければならなかったが、結局、その試練を通過することができなかった。そして、
ヒンドゥー教のラーマーヤナで、ラーマの夫人、シーターが、彼女の貞節を清めるために燃え上がる火のまきに飛び込む試練も登場し、仏教の経典で、ある求道者が断崖、絶壁に身を投げ出して死を克服する試練も登場する。結局、彼ら二人は、身体的に何の傷もなく、その試練を無難に通過した。

そして、息子の祭物献祭を要求する神様の命令にアブラハムの心情はどうだったであろうか。最後に、ここでは文鮮明先生の生涯で現れたいくつかの試練も説明している。


①信仰者に対するサタンの試練

―宗教経典―

ある日、主の前に神の使いたちが集まり(注18)、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、被の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」


主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前の
いいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。私達は、神から幸福をいただいたのだから、不幸も
いただこうではないか。」
ヨブ記1.6 ~ 2.10 (キリスト教)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4.1 ~ 4(キリスト教)

あるとき、ヒマラヤに真理の道を追究する人がいた。彼は、世の中のどんなに価値のある宝にも関心がなく、その上、天界の福楽に対する愛着もなく、彼はただ信仰のあらゆる迷いをなくすことができる教えを求めた。

すると天界の神々が彼の熱望と真実さに感動し、彼の心を試みてみることを決めた。それで神々の中の一人が悪魔に身を変え、歌を歌いながらヒマラヤに現れた。すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消えていく。真理を尋ね求めた彼がこの歌を聞いたが、どれほど喜んだか、まるで飢え渇いた彼が澄んだ泉を発見したかのようで、また奴隷が全く予期せぬときに解かれたような気分だった。彼は思った。「ついに私は長い間探し求めてきた真の教えを得た」。彼はその声についていき、とうとうとても恐ろしい悪魔にたどり着いた。

不安な心でその悪魔に近づいて彼は言った。「私が今聞いたその聖なる歌を歌っていたのがあなたですか。もしそれがあなたなのなら、どうか残りの部分をもう少し歌ってください」。悪魔が答えた。「そうだ、その歌は私が歌った。しかし、私は食べる物がなければこれ以上歌うことができない。私はとても空腹だ」。

その人は、悪魔に頼んで言った。「その歌は私にとって聖なる意味をもっています。私は長い間その教えを求めてきました。ところが、私はただその一部だけを聞きました。どうかもっと聞くことができるようにしてください」。


悪魔が再び答えた。「私はとても空腹だ。もし人の暖かい血と肉を食べることができれば、その歌を最後まで歌おう」。その教えを聞きたいという懇切な熱望から、その人はその教え聞いたのちに自分の体を差し出すことができると悪魔に約束した。すると悪魔が歌を最初から最後まで歌った。
すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消え、生死を超えるとき完全な憂いがある。

この歌を聞いたのち、彼は周りにある岩と木にその歌詞を刻んだのち、静かに一本の木の上に登り、悪魔に自分の身を投げた。しかし、悪魔は影も形もなく、その代わりに光輝に囲まれた一人の神がその人の身を受け止めた。
大般涅槃経424 ~ 433 (仏教)

王であると同時に聖者でもある家系の、偉大な聖仙は、菩提樹のもとで、堅固な誓いをたて、かならず解脱の道を造成しようと決心した。……

みなことごとく大いに喜んだ。法の敵である悪魔の王だけはただひとり憂いを抱いて喜ぼうとはしなかった。五官の欲望を自在にするカーマ神は、あらゆる戦いの技芸をそなえて、解脱を憎みねたんでいたので、波旬(悪しきもの)と呼ばれた。そ
の悪魔の王には三人の娘がいた。……三人の娘は一緒に、父の波旬の前に進み出て語った。「どうして憂いておられるのか……」と。

父はその理由を感情を込めて娘たちに告げた。「この世に大聖者がいる。大きな誓いという鎧を身につけ、偉大なる自在なはたらきを弓とし、知恵という強くて鋭利な矢をもって、人々の迷いを征服して、われわれの国をほろぼそうとしている。私は一たび何かあれば、彼にはかなわない。

人々は彼を信じ、ことごとく解脱の道に帰依してしまい、わが国土はからっぽになってしまうで
あろう……しかし、彼がまだ真実の知恵の眼を開かず、わが国がまだしばらくは安穏である、今のうちに、彼の志をくずし、そのかけ橋を絶ってしまわなければならない」と。


悪魔の王は弓と五本の矢を持ち、家臣の男女を引き連れて、菩薩がさとりを開こうとしている林に至り、人々が安らかにならないように願って、聖者が静かに瞑想して、迷いを繰り返す三界の海を渡ろうとしているのを見て……菩薩に告げた。

「クシャトリア(武士)の出身であるそなたよ。速やかに立ちあがれ。死は恐ろしいものである。そなたは武士の道を修得し、解脱の道を捨てよ。戦いの方法を学び、祭りを行って施しをし、この世界を征服して、そのうえで死を迎え生天の楽しみを得られるがよい。この道を進む者は名誉なことであり、先徳たちが実践したものである。すぐれた王者たちの末裔には乞食する僧の生活はふさわしくない。

もしも今、起ちあがる気がないのならば、しばらくそのまま、静かにしているがよい。つつしんで誓いを捨てなくてもよい。私は一矢を放とう。月の孫アイダも、私のこの矢によって、風に吹かれたように、少し触れただけで、その心は狂乱してしまった。どんなに静寂な苦行をしている聖仙でも、私の矢の音を聞けば、大いに恐れ乱れて、わけが分からなくなり、本性を失ってしまう。ましてや、そなたは末世の中で、私のこの矢をのがれようと望むであろう。

そなたは、今すぐ修行をやめて起ちあがれば、幸いにも安全にこの矢から逃れることができる。この矢にぬってある毒はすぎまじいもので、おののき震えるほどである。たとい、そなたの力がこの矢に堪えるほどの者であっても、この毒にはとても自身の心を安らかにしていることはむずかしであろう。ましてや、この矢に堪えることはできまい。どうして驚かないでおられようか、いやそれはできないことだ。」
仏所行讃、破魔品13(注19) (仏教)


―み言選集―

皆さんが歩んでいく路程において、サタンの試練がたくさんあるでしょう。霊界に通じる人は、多くの試練にぶつかるようになります。そうして、サタンは自分の試練に人間が倒れれば、「お前がこのようにしていてよいのか」と讒訴しながら、皆さんの行く道を妨げるのです。
(3-210、1957.11.1)

試練は必ずパスしなければなりません。それをなぜパスしなければならないのですか。そうすることによって一段階変わることができるからです。夜と昼が交差するのです。夜の時代から昼の時代に行けます。春から夏に行けるのです。発展できるというのです。
(125-250 ~ 251、1983.3.27)

また聖書には、人として祭物の路程を歩んでいったヨブの一生に関する記録が出てきます。ヨブは、神様から福を受けることのできる祝福圏内にいたので、神様から物質の祝福と子女の祝福を受けました。しかし、サタンがどうしてヨブが祝福を受けることができるのかと神様に抗議してきました。それで神様は、サタンにヨブを試練することを許諾してあげました。そうして、サタンはまず、彼の祝福を受けたすべての物質を打ちました。そして子女たちを打ちました。その次には、ヨブの肉身まで打ちました。すると、ヨブの友人と隣人たちがヨブをあざ笑い、嘲弄し、愛する妻までヨブを非難しました。皆さんは、このように楽しく生きていくことができる物質と愛する子女を失ってしまったヨブの立場、また友人から裏切られ、妻から非難されていたその立場を考えてみなければなりません。

自分の体を瓦で引っかかなければ耐えられないほど満身創痍になったヨブでしたが、彼は決して神様を恨むことなく、黙って瞑想することができ、そのつらさを越えて神様の側で病者の心情を体恤することもできました。このようなヨブだったので、彼は失ってしまった万物と子女を再び得るこ
とができたのであり、天からより大きな祝福を受けたのです。(2-114 ~ 115、1957.3.10)
サタンも、本来は神様に属していました。そうであれば、サタン自身も自分が行くべき本然の道、この宇宙が一つになることができる本然の道がどのようなものかをすべて知っているのです。ところが、なぜサタンになったのですか。

神様を中心として、真の愛を中心として、神様のために生きず、真の愛の代わりに自分のために生きる立場にいたからです。真の愛をもった人がいれば、「それは私の人ではなく、あなたのものだ」と神様に返します。そのような人は神様に帰らなければならないことを、サタンも知っているのです。

真の愛というものは、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界を越えていきます。宇宙と通じようどすれば、世界を越えていかなければなりません。それが原則です。真の愛をもった真の人というのは、これを越えなければならないのです。ですから、サタンは、「あなたの人をこの地上に送ったとき、サタン世界に送ったとき、あなたの国に属することのできる人になるためには、ここで迫害を受けるあらゆる基準を越え続け、世界の国境まで越えて、天まで通じ得る人でなければならない」と言います。

サタンが神様に「そうでなければならないではないですか」と言えば、神様は「そうだ!」と答えます。「ために生きる立場で神様の愛を中心として全体のために行く人はあなたの国に属するが、自分のために生きたり、この圏内の何かを中心としてために生きる人は、私が関係をもつ責任がある」と言うのです。
(124-64 ~ 65、1983.1.23)

サタンも原材料をテストする基準として利用していることを知らなければなりません。原材料になったのか、なっていないのかというのです。これに反対すれば、サタンが「神様、これはコンセプトがあるので原材料に入れることはできません。私のところに送って地獄にほうり込んでください」と言うのです。そうして落ちていくのです。

このような公式を知っているので、ヨブのような人は10 回も試練しても感謝し、「下さったのも神様であり、もっていかれたのも神様なので、私には何もない」と考えたのです。こですから、いつでも零点の立場にいたヨブが、何百倍、何千倍福を受けたのです。これが復帰時代の勝利的な象徴として登場したということを知らなければなりません。ヨブを10 回激しく打っても、「感謝です」と言って零の立場で神様だけを絶対的に信じたので、サタンが離れていって再復興し、何でも願うとおりになったのです。
(246-20 ~ 21、1993.3.23)

イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。(注
20)
(3-121, 1957.10.13)

先生は、一生の間迫害を受けていきながら、世界的な蕩減条件をすべて立てました。サタンがすべての総力を注いで反対し、今まで歴史時代に反対したすべての方法を動員してありとあらゆる反対をしました。

サタンが「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわ
りにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言ったように、先生も、何度もサタンにやられました。どれほど死地に追い込まれたか分かりません。

神様は、絶対に前から訪ねてきません。神様を恨まざるを得ないほど迫害を受ければ、神様が協助しないように思えても、それを克服して越えれば、後ろからすべて協助してくださるのです。すべての準備をしておいてから神様は行かれるのです。

その次には、私が先頭に立ち、闘って勝てば、そのまま行かれます。そのような作戦をしてきたのです。すべて準備しておいたので、神様は行かなければなりません。私か出ていって、サタン世界の反対をすべて退けたあとに行くのです。
(117-160 ~ 161、1982.2.28)

レバレンド・ムーンを神様が愛されますが、人間の責任分担を果たす過程で蕩減路程を行くときには、神様が協助できません。私自身がサタンに勝って行かなければならないのです。サタンとサタン世界に勝って行かなければならないのが本来のアダムに許された理想圏でしたが、その理想圏を凌駕しなければならないというのです。


蕩減しようとすれば、送り出さなければなりません。かえって身ぐるみはいで追い出さなければならないのです。食べるものも食べさせずに追い出さなければなりません。そうしておけば、サタンが服をもっていって着せるのです。

サタンが着せてくれれば、それは素晴らしいのです。絶対に奪っていけません。サタン側の人が服を着せてくれるのです。サタンとサタン側の人が服を着せておけば、脱がす人がいません。それを着れば、神様も脱がしませんが、サタンも脱がすことができないのです。その闘いです。それで、苦労して迫害を受ければ、サタン世界が私に服を着せてくれます。服を脱いでひたすら打たれると、
服を着せてくれるサタン側が生じます。このような闘いをするのです。そうすれば味方ができるようになります。

アメリカでレバレンド・ムーンに反対していると、アメリカの志のある多くの人たちがレバレンド・ムーンの味方になりました。「なぜこのようにレバレンド・ムーンに反対するのか、何の罪もないではないか! アメリカに必要な人ではないか! こいつ、これではいけない!」としきりに言うようになるのです。そのように私の味方になれば、サタンが引っ張っていけません。自動的に天の側に戻ってくるのです。自動的に神様の側に戻ってくる人が出てきます。強制ではありません。それには、サタンが謙訴する道埋がありません。
(124-304 ~ 305、1983.3.1)

私がレバレンド・ムーンの愛の力がどれくらい強いか見てみよう、こうしてテストするのです。それで、今回は興進が逝ったのです。「あなたは神様をより愛するのか、人類をより愛するのか、あなたの息子をより愛するのか」、これをテストするというのです。そのサタンに恨みを晴らそうとしてはいけません。私が率いる国、あるいは反対するアメリカ、反対するソ連までも解放しようと思います。

興進が逝ったとしても、彼を通して霊界を動員して地上を動員できる天的な勝利の基盤が築かれていくのです。ですから、「打ちなさい」と言っても、打たずに後退するときが来ます。祭物を捧げる祭司長が涙を流してはいけないことを知らなければなりません。この祭物を通して天に栄光を返し、人類に栄光を返し、サタン世界のすべてのものまでも入れ替える条件を探し立てなければならない、と考えなければなりません。そうすれば、新しい転換時代が来るようになります。愛がすべての死亡を支配できる時代に変わっていくのです。このような重要な時です。

サタン自身も、「あなたはやはり天の人です」と言うのです。愛する子女を死の立場に立てても涙を流さず、公義の立場で誇らしくいくのを見るとき、サタンまでも尊敬せざるを得ないと見ます。死亡圏が天の生命を打ちましたが、愛の力ですべてカバーして越えていきます。興進は逝きましたが、父によって愛が残ったのです。愛をもってそのようになりました。
(130-162 ~ 163、1984.1.8)


サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。
御旨の道、試験・試練


②試練は神様に属していることを立証するもの

―宗教経典―

われはなんじらのうち、努力する堅忍な者を知るまでは、なんじらを試み、またなんじらの行状記をも確かめる。クルアーン47.31 (イスラーム)

主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。
詩編26.2 ~ 3(キリスト教)

われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン2.155 ~ 57(イスラーム)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです、その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙1.12 (キリスト教)

各人は死を昧わうのである。われは試練のために、禍福により、なんじらを試みる。そしてわれに帰されるのである。
クルアーン21.35 (イスラーム)

私達の先祖アブラハムは、十度の試みを経験した。そのすべてを忍耐したということは、彼の愛の深さを見せてくれている。
ミシュナ、アヴォート5.4 (ユダヤ教)

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」創世記22.1 ~ 2(キリスト教)
皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
創世記32.24 ~ 30(キリスト教)

ラーヴァナが死んだ後、ラーマはシーターを呼びにやった。シーターが孤独と苦難の歳月を終えて喜々として到着したとき、多くの群衆が見守る中で、夫に迎えられた。しかし彼女は、なぜ愛する主が何かにとりつかれた様に不機嫌で暗い面もちをしているのか、理解に苦しんだ。

ラーマは突然言った。「屈辱に報いるべく余は、勇士としてなすべきことをなし、世界を悪魔ラーヴァナの恐怖より解き放った。ただ、おんみは知っておくべきであるが、余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄(いてき)の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。ゆえに、余はおんみとかかずらう心はない。いずこへとも好むところへおもむくがよいであろう。……

おんみを救出するという余の目的ははたされたのだ。美しい女性よ、余はおんみに執心をもたぬ。いずこへともおもむくことを所望する。……」
この憤怒の言葉を聞いたシーターは、悲しみに身も砕け散るばかりであった。「なぜにそのようなお言葉でありましょうか。誓って申しますが、私は潔白であります。他の卑しい女ちと同様に見られますな。私を知るあなたが、疑いをもたれることがあり得るものでしょうか。……

あなたとともに住んだ日々に私がささげた純な愛を忘れ、私を無縁のものと思召されるならば、もはやそれは私の最後であります。」かくいって泣きながら彼女は、思い深くラクシュマナにいった。「葬送の火を私のためにおつくりください。……私は身を炎に投じます」

ラクシュマナは、憤懣をおさえ得なかったが、ラーマの様子を見つめたとき、その心中が鉄のごとく固いのを察した。そして葬送の火を準備した。そのとき、死神のごとく恐ろしいラーマに、何びともあえて話しかける勇気をもたなかった。ラーマは、ただ地を凝視しつつ坐していた。シーターは彼のまわりを一度あるき、火に近付き、ブラフマーその他の神々を拝し、それから火神アグニに
呼びかけた。
「もしラーマヘの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火炎より守らせたまえ」シーターは火を一巡し、恐れげもなくその火に身を投じた。
炎の中心から、火の神アグニがシーターを膝に置いて現れ、祝福の言葉を語りながら彼女をラーマに差し出した。今やラーマはその妻の潔癖を世界の前に証明した事に満足し、シーターをその腕に迎えた。(注21)
ラーマーヤナ、戦闘の巻118~20(ヒンドゥー教)


―み言選集―

み旨を知って満3年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、3年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。
御旨の道、試験・試練

一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって、試練を有り難く思いなさい。試練は、サタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから、耐え忍んで乗り越えれば、春のような新しい恵みを受けるようになる。
御旨の道、試験・試練

神が人間に恩賜を賜ろうとするときには、その恩賜と前後して、サタンの訴えを防ぐための試練が必ず行われるのである。モーセ路程でその例を挙げてみると、モーセにはパロ宮中40 年の試練があったのちに、第一次の出エジプトの恩賜が許されたのであり、またミデヤン荒野40 年の試練を経たのちに、神は第二次の出エジプトの恩賜を賜ったのであった(出エ4・2 ~9)。

また神は、モーセを殺そうとする試練があったのちに(出エ4・24)三人奇跡と十災禍の奇跡を下さったのであり(出エ7・10)、三日路程の試練があったのちに(出エ10・22)雲の柱と火の柱の恩賜を賜ったのである(出エ13・21)。

そしてまた、紅海の試練を経てから(出エ14・21、22)、マナとうずらの恩賜(出エ16・13)があったのであり、アマレクとの戦いによる試練(出エ17・10)があったのちに、石板と幕屋と契約の箱の恩賜(出エ31・18)があったのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.3

人間は、元来、取って食べてはならないと言われた神のみ言を、命を懸けて守るべきであった。しかし天使長からの試練に勝つことができないで、堕落してしまったのである。それゆえに、ヤコブがハランから妻子と財物を取り、カナンに戻って、「メシヤのための基台」を復帰し、家庭的カナン復帰完成者となるためには、サタンと命を懸けて闘う試練に勝利しなければならなかったのである。

ヤコブが、ヤボク河で天使と命を懸けて闘い、勝利することによって、イスラエルという名を受けたのも(創32・25 ~ 28)、このような試練を越えるためのものであった。神は天使をサタンの立場に立てられ、ヤコブを試練されたのである。

しかし、これはあくまでも、ヤコブを不幸に陥れようとしたものではなく、彼が、天使に対する主管性を復帰する試練を越えるようにして、アベルの立場を確立させ、彼を家庭復帰完成者として立てられるためであった。

天使がこのような試練の主体的な役割を果たすことによって、天使世界もまた、復帰されていくのである。 原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理1.2
ヤコブが還故郷するとき、天使をヤコブに送り、最後の決定を下さなければならない、ヤコブをそのような状況に追い込まなければならなかった神様は、どれほど心を痛めたでしょうか。

天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか。7時間以上闘ったというのです。それでもヤコブは絶対に譲歩できないというのです。そのような中でヤコブを見つめられる神様の心はどれほど息詰まる思いだったでしょうか。

神様は、「天使が今サタンを代表して闘っているから屈服してはいけない」と知らせてあげたかったのですが、そのようにできないので、どれほどあせる思いでその時間を過ごしたか考えてみてください。

時間が過ぎて最後の決断を下すようになったときに、天使がいくら振り払おうとしても放さないので、そこで神様も公認し、サタンも公認したのです。ヤコブがそのような立場に立って、初めて天使が公認し、ついにイスラエルという名前をもつようになりました。

ヤコブが天使に勝利してイスラエルという名前をもらうようになったとき、天上世界ではどうだったでしょうか。やきもきしていた心が解放されて、歓呼の声をあげました。心の中に積まれた悲しみの深いため息をつき、「お父様!」と叫ぶその声の中には、2000 年間積もり積もった事情が問題ではありませんでした。ヤコブが神様のために20 年間涙を流し、神様の首を抱きかかえる心情の因縁が、アダムとエバが堕落したその因縁を越えることができたので、イスラエルという称号を受けるようになったことを皆さんは知らなければなりません。
(20-229 ~ 230、1968.6.9)

神様もレバレンド・ムーンを激しく打ちました。「こいつ! お前は異端者だ! 私はお前を知らない!」と言ったのです。しかし、神様がいくら先生に大変な仕打ちをしても、私は神様のしっぽをつかんでいます。神様のしっぽとは何か分かりますか。いくら神様がそのようにしても、私はくじけません。先生は神様と40 日間の闘いをしたのです。

神様が反対されるので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、全員が一つになり、霊界全体が反対しました。40 日間闘いながら譲歩しなかったのです。実際、400 年たっても譲歩しません。神様がじっと見てみると、事態が変わりました。ですから、決裁せざるを得ないのです。40 日間で決裁しなければならないようになっています。

結局、神様が先生についてきました。それで、神様が「レバレンド・ムーンは天と地において最高の勝利者」と宣布しました。
(161-41 ~ 42、1987.1.1)

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世界経典-57

2022年07月24日 15時22分23秒 | 学習


4.確信

神様の摂理を確信する人は、世俗的な問題に執着してはならない。神様は、世俗的な人たちが行うことと関係なく、神様の創造目的を主管し、経綸される。

神様は、私達に必要なものはいつでも与えることができる。ところが、なぜ私達は生活必需品、お金などを心配するのか。神様は、人間の運命の設計者である。ところが、なぜ私達は、私達の努力の結果を思い煩い、心配するのか。永生の次元から見るとき、私達の死さえも重要ではない。

イエス様は次のように語られた。神様は、空には鳥、地には百合を創造してくださったように、私達が「神の国と神の義」を求め、実現する限り、私達にもそのようにされるだろう。言い換えれば、私達が利他心のみをもち、神様の創造目的の具現を熱望するとき、天国の平和の鍵をもつことができる。
神様の摂理に対して文鮮明先生は、神様と人間の授受作用という独特な概念をもって説明される。神様が人間に必要なものを下さるように、神様も自身の要求と状況を心配してくれ、天の悲しみを慰労してくれる人を必要とされる。

文鮮明先生は、天の苦痛を分かち合おうとされる神様の叫びを体験した。これを体験した人、神様の悲惨な心情を体恤した人は、人間の悲しみと悩みを神様の悲しみと苦痛と比較するとき、人間の悲しみは何でもないことを自覚するようになる。

私達がある深刻な苦痛にぶつかったとしても、天の悲しみを慰労し、天の苦痛を共有すれば、私達は本当の幸福と平和を享有できるだろう。そのとき初めて私達は、天の深い心情を体恤しながら、天への確信と天の保護を体感するようになる。


―宗教経典―

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まし
て、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6.25 ~ 33(キリスト教)

いかに多くの生き物が、己れの糧を確保し得ないであろうか。神こそは、それらとなんじらを養いたもう、かれは全聴者・全知者であられる。
クルアーン29.60(イスラーム)

易には「憧憧として往来すれば、朋、汝の思いに従う」とある。これについて孔子は次のように言う。「天下に何の思いわずらうことがあろうか。天下の物事はみな帰するところは同じで、そこに達する道筋が異なるだけであり、結果は一つことなのに、考えめぐらしかたがまちまちだけなのだから、天下に何の思いわずらうことがあろうか。」
易経、周易繋辞、下伝2.5.1 (儒教)

天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ
万葉集20(神道)

物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
ピリピの信徒への手紙4.11 ~ 13(キリスト教)

諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように。身体により、意(こころ)により、知性により、また単に諸感官のみにより、ヨーギンたちは行為をなす。自己(アートマン)を清めるため、執着を捨て。〔行為のヨーガに〕専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター5.10 ~ 12(ヒンドゥー教)

世尊宣はく「跋提梨迦(バッデイヤ)よ、汝は如何なる理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱えて次の如くいふや、『実に楽なる哉、実に楽なる哉』と」。

答へて曰く、「大徳よ、我そのかみ俗人として王者の楽を求めたる時、宮殿内の守備よく設けられ、宮殿外の守備またよく設けられたりき。城内の守備よく設けられ、城外の守備またよく設けられたりき。国内の守備よく設けられ、国外の守備またよく設けられたりき。大徳よ、かく守備警護されてありながら、この我は恐れ案じ疑ひ慄へて日を送れり。然るに大徳よ、今我森林に入りても樹下に坐しても、空家に入りても、唯独りありても恐れなく案ぜず疑はず慄へず、楽少なきも従順に活発に鹿の如き心を以て日を送るなり。大徳よ、我はこの理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱へて次の如くいふなり。『実に……乃至……楽なる哉』と」
感興偈19 ~ 20(仏教)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。
ローマの信徒への手紙8.28(キリスト教)

主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
詩編127.1 ~ 2(キリスト教)

自分の生命を守るのにすぐれた者は、虎や犀に出会うことがない。戦場においても、危険な武器を身につけない。犀も彼を突き刺すことはできないし、虎も爪でひっかくことができない。武器も彼を傷つけることはできない。何故かといえば、彼に死という場所がないからである。
道徳経50(道教)

武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4.6 (キリスト教)

もし主がその権能を取るに足らないありに与えたとしても、数百万の力強い略奪者の群れを一瞬で滅ぼしてしまうだろう。彼が自ら、死に追い込まれていないすべての人たちを強い腕で抱きかかえる。

あらゆる努力にもかかわらず、人の苦労は無駄になる。彼以外には誰も救援者でも破壊者でもなく、ただ彼だけが万有の守護者である。おお、人々よ! なぜそれほどつらく苦しんでいるのか。ナナークが言う。

あなたの理解を超えた主に念じよ。実に驚くべき主に念じよ。
アーディ・グラント、ガウリ・スクマニー17 M.5、p.285 ~ 286(シーク教)

足切りの刑にあって不具になったものが、自分の容貌を飾ろうとしないのは、もはや世間の毀誉の評判を気にする必要がないからである。鎖でつながれた囚人が、高いところへのぼっても恐れることがないのは、もはや生きる望みを失い、生死を忘れる心境になっているからである。

このように生死の恐れを感じないものや、外聞を恥じないものであってこそ、人間であることを忘れることができるのである。人間であることを忘れることによって、天人――自然の人となることができるのである。同様に、たとえ他人が尊敬してくれても喜ぶことがなく、他人が侮っても怒らないということは、ただ自然の安らかさに同ずるものだけにできることである。(注8)
荘子23(道教)

人が至上のものとする知恵や作為の道を広めることなく、天において至上とされるもの――自然の道を広めなければならない。天の道を広めれば自然の幸福が生まれるが人の道を広めれば、危害が生まれる。(注9)
荘子19(道教)


―み言選集―

統一教会の教会員にとっては、労働特間が8時間ですか。24 時間です。24時間働かなければ、良心的に顔をあげられません。ですから、どれほど違うでしょうか。世の中の人たちは、8時間働いても、家も買い、家庭用品も買い、生活も裕福にするのですが、私たぢは24 時間働いても、家もなく、所帯道具も用意できず、ひたすら死ぬほど苦労ばかりします。ですから、どれほど違うでしょうか。皆さん、違うことが分かりますか。どのくらい違いますか。180度違います。

それで、絶望していますか、希望をもっていますか。問題はそれです。希望をもっています。それが誇りです。レバレンド・ムーンも同じです。皆さんがレバレンド・ムーンを誇るのは何ですか。天下に恐れるものがありません。私が主張するとき、天下に恐れるものがありません。どれほど堂々としているかというのです。それで、堂々と主張できる特権をもっているという事実を知らなければなりません。(107-83、1980.4.6)
神様のために、天地のために消化し、私の国と私の氏族と私の家庭と私の相対のために消化すると考えなければならないのであって、私のためにしてはいけません。ために消化して生きれば、すべてのものが完成した世界に引っ張られていくのも、私のゆえに引っ張られていくので、私が行くまいとして逃げていっても、引っ張られていきます。天国に行こうとして途中で逃げていっても、引っ張られていくのです。それは、どれほど安心で楽ですか!

一生の間自分を中心として生きれば、「ああ、これも駄目だった! あれも駄目だった!」と言いながら、すべてが心配です。しかし、10 年、20 年ために生きれば、すべてのものが私の友人になるのです。休みなくために生きてみれば、自分が真空状態になるので、真が訪ねてきます。「真のところと一つになろうとするので、神様もついてきて、創造主もそれを願うので、私に属するようになる」、これは理論的です。それで、完全消化を願う人は、完全時代を相続できるのです。
(203-102、1990.6.178)
昼のように明るく喜ぶときは、天が教えてくれます。それで、人は明朗でなければなりません。いつも感謝し、気分の悪いことがあれば早く除去し、すぐに忘れてください。それを願うのです。なぜでしょうか。天と向き合える時間的距離を遠くしないためです。

そのような観点から見るとき、自分独りで「ああ」としているよりも、人間には宗教が必要だというのです。「神様! これをすべて受け持ってください。神様! これをすべて処理してください」。すべて天に報告して忘れてしまうのです。それが宗教者の生活です。そうすることによって、天がたくさん接する時間をもとうというのです。このような意味で宗教生活が必要です。そうしながら希望をもつのです。未来の幸福を今から描いていくのです。そうすることによって、天と接近できる環境的与件をたくさんもとうというのです。
(91-272 ~ 273、1977.2.27)

人と人同士集まる所は、解こうとしても、かえってもつれることが起こりますが、天を中心として集まる所では、心にしこりになったことが解けるという事実を知っています。
(7-13、1959.7.5)

皆さんがここで商売をするにしても、伝道をするにしても、何をするにしても、祈祷して精誠を尽くしていけば、すぐに見せてくれます。どのような人に会うかということまで見せてくれます。皆さんが伝道に出ていけば、考えてもいない所にしきりに行きたいという思いがわくのです。そこに行ってみると、神様が愛する人と出会います。そのような体験をするのに、「神様はいない」と言うことができますか。
(69-288、1974.1.1)

先生は、血を吐いて死ぬ境地でも、歯を食いしばって闘ってきたことを知らなければなりません。血を吐きながらも、「お父様! 私を助けてください!」とは言いませんでした。「私は、死ぬとしても、愚か者ではありません。世の中の意気地のない者と思わないでください。私は、死ぬとしても、神様のために死ぬので、私のために心配しないでください!」、そのような祈祷をしよう
としたのであって、「ああ! 私は死にそうです。私に苦労をさせずに放してください!」とは言いませんでした。私はそのような祈祷を学んだこともなく、したこともありません。私達の困難を神様は、すべて知っているのです。
(93-321、1977.6.12)


5.感謝と恩恵

感謝する心は、日常的信仰生活の原動力である。真実な信仰の所有者は、いつでも天の栄光と権能が自分を守ってくれていることを心に刻みながら、常に感謝する。家族全員に日常の糧を下さることに感謝し、食卓の上に置かれた食事に感謝を捧げる、ごく単純な家庭生活のこの慣習は、子女たちが感謝することを学ぶ出発点である。

私達の道を導かれ、不足を補完してくださる神様の栄光をいつ、どこででも感じるとき、感謝する内容はより多くなる。困難にぶつかったとき、その状況を成長のための機会として、そしてそれを通して私達をより高い愛と奉仕の境地に導こうという、天が下さった贈り物として、私達は受け入れることができる。

感謝の生活は、神様のリズムに合わせ、神様と共に生活する唯一の方法である。私達の生活に、不平を言う余地は全くない。不平は、正に私達と神様を分離させ、私達の人性を害する霊魂の毒きのこである。これまで私を愛してくれ、精誠を尽くしてくれたすべての方たち、父母、先生、兄弟姉妹、配偶者の恩恵を詳細に考えてみれば、そして私の人生を支え、保護してくれたあらゆるもの、土、水、空気、それらの副産物、太陽、
地球、月の公転および自転、食事を用意してくれた調理師、警察官と消防官、病院と医師、家庭の家電製品、自動車などをしっくり考えてみれば、感謝する内容が限りなく増大するのである。

どの側面から見ても、私達は生命の源泉であり、慈悲の主体であられる神様に負債を負った人生を享受している。この恩恵に、果たしてどのように報いることができるだろうか。万事に感謝する姿
勢と、人に施す美徳は、私達が指向すべぎ究極的目標である。


①神様の贈り物に対する感謝

―宗教経典―

信仰する者よ、われがなんじらに与えた、よいものを食べよ、もしなんじらがほんとうに、神に仕えるのであるならば、かれに感謝せよ。
クルアーン2.172 (イスラーム)

この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
テモテへの手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)

アブラハムにより、彼が接待したすべての旅行者たちに神の名が広く知られるようになった。旅行者たちが食べ物を食べ、飲み物を飲んでからアブラハムに祝福を施すとき、アブラハムは彼らにこのように言った。「あなた達が食べたものは私のものだと思うのか。あなた達が食べたものは神に属するものだ。ゆえに、御自身の言葉で世を創造された神を賛美し、祝福せよ」。
タルムード、ソーター10b(ユダヤ教)

神こそは、なんじらのために夜を設けたまい、それでなんじらは休息する、また見えるように昼を設けたもう方であられる。神は人間に対し、まことに恵み深くあられる、だが人びとの多くは感謝しようとせぬ。

神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋(てんがい)となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン40.61、64(イスラーム)

いざこどもさかしらせずて霊ぢはう神のみしわざたすけまつろへ(さあ、子供たちよ、りこうぶるまいを捨てて、神のみたまが幸福を与えるその神の仕事をお助けしよう。)たなつ物ももの木草も天照す日の大神のめぐみえてこそ(食物もいろいろの草木も、天照大神の恵みがなければ成育せず得られないものである。)

朝よひに物くふごとに豊宇気の神のめぐみをおもへ世の人(朝に夕に、食事をするたびに、みけつ神である豊受大神の恵みを思い感謝しなさい。世の人よ。)天地の神のめぐみし無かりせば一日一夜もあり得てましや(天地の神の恵みがなかったならば一日一夜たりといえども過ごすことができようか。)世々の祖のみかげ忘るな代々の祖は己が氏神己が家の神(世々の先祖のご恩を忘れるのではない。代々の先祖は自分の氏神であり、自分の家の神である。)(注10)
本居宣長玉鉾百首(神道)81

比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。

比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉つて父母に事へ胆こ報ひたるものなり。
阿含経増支部i. 61 (仏教)

私達が親切にした人が感謝を表さなければ、私達の所有物を奪ってしまう強盗よりも悪い。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


栄えるときは自分たちの神に栄光をお返しし、逆境に遭うときは神を恨む者たちのようにあなたはなってはいけない。喜ぶときも苦痛のときも、常に感謝せよ!
出エジプト記メヒルタ20.20(ユダヤ教)


―み言選集―

善なる人は、食べ物に対しても、まず天、次に地、その次に人類を考えてから食べる。
御旨の道、善と悪

信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。そのような心があるとき、それが、堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。

自分がこの世の中で良い立場に立って、初めて感謝しなければならないのですか。違います。今まで神様は、良いときだけ私達のために苦労してこられたのではありません。困難なときであるほど、より苦労することを誓われたのです。

ですから、今日の私達自身も、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに働かれ闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場でより一層感謝しなければなりません。
したがって、過重な十字架の途上でも神様に感謝できるというのは、このような原則を理解するときに可能なのです。

(29-338、1970.3.14)
私達がお父様の精誠を知る息子なら、眠りから覚めても罪人の恥ずかしい姿を隠すことのできない心苦しい気持ちで、ひれ伏すまいとしてもひれ伏さざるを得ないことでしょう。

朝の食膳に向かう場で、「私」がこの御飯を食べて何をするのかを自ら尋ねる自分となるようにしてくださり、昼の食膳に向かうときには、今まで「私」が何を残したかという問いに、恥ずかしい姿で自責する自分となるようにしてくださり、夕べの食膳に向かうときには、一日を清算するに不足のない一日を送ったかを、自問することのできる自分となるようにしてください。

お父様のものとして一日を始め、お父様のものとしてこの時間まで来たのか、またお父様は「私」にどれほど関心をもっていらっしゃるのかを考えるときに、価値あるように過ごすべき一日を、何も残せず空の体をもって、この世の心で過ごした一日ではなかったかを考えて、惜しむ心でお父様のみ前に涙をもって謝罪し、床に就ける子女たちとなるようお許しください。

私達は感謝する生活をしなければなりません。
むち打たれるような場でも、血を吐くような場でも感謝の生活をしなければなりません。

数多くの先祖たちが、そのような場でお父様を裏切ったので、そのような歴史的な悲しい恨みの御心情を抱いてこられたお父様に、孝の中の孝の道理と、忠の中の忠の道理を全うすべき私達であることを知るものです。

ここで私達が恨みと不平をもっては、その立場に立つことができないということが分かるようにしてくださり、そのような自分を発見することを
恐れる姿となるようにしてください。


この世では哀れで弱い人であっても、このような人以上に恐ろしい人はないということが分かるようにしてください。私達は感謝して生活することしかありません。

一人の男性の前に結ばれた妻が不足だとしても、
生涯を通して奉仕できるその何かがあるので、その妻を下さったことに感謝しなければならず、あるいは子供が「私」に十字架の一生をくれても、
そうすることのできる立場を準備してくださったことに感謝しなければならず、環境が「私」に
生涯を支えられない絶望のどん底に追い込んだとしても、それをいかなる条件を立ててでも感謝の因縁として残して倒れよう、と言える息子となり、お父様の人となるようお許しくださいますことを
切にお願い申し上げます。
(29-348 ~ 349、1970.3.14)

私達と出会うようになったこの因縁は、私達の能力で出会ったのではなく、お父様を中心として数千万代の先祖が橋を架け、その土台を広げに広げた功績によるものです。
きょうこのように出会うひと日をもてるようにしてくださったすべての恩賜を、私達が有り難く感じられるようお許しください。
(39-78、1971.1.9)

忍耐して辛抱するだけでは不足です。忍耐と辛抱だけして、「ああ、大変だ」と言ってよいのですか。忍耐して辛抱したとしても、忍耐して辛抱していないかのように感謝する心と賛美する心をもって忍耐し辛抱しなければならないのであって、不平を言いながら忍耐すれば、神様が来る途中で逃げていかれます。

忍耐して辛抱するときは感謝する心が必要です。感謝する心がなければ、忍耐できません。感謝する心が支柱になれなければ、忍耐したとしても、そこには神様が一緒にいることができません。
(44-28 ~ 29、1971.5.4)

神様は、皆さんのお父様です。血、生命、血統が連結され、誰も干渉できない絶対的な因縁の結束体です。ところが、神様を知らないではないですか。神様の愛や、神様の生命や、神様の血統という言葉は聞きましたが、実際に神様の涙ぐましい心情を感じてみたことがありますか。皆さんの骨髄がすすり泣くような痛みを感じてみたことがあるのかということです。

山川草木を見つめるとき、自らの行く道を見失ってしまうほど神様に感謝する心を、一日に一度、
二度感じてみなければ、本来の心情世界と通じることのできる道がありません。
(371-115、2002.2.24)

先生が教えてあげたあとでやらなければ、仕方がありません。神様もどうすることもできません。先生もどうすることもできないのです。ですから、天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。
(96-122、1978.1.2)

感謝は、どのようなときにしなければなりませんか。楽で良いときにするのではなく、困難でつらいときにしなければならないのです。それを知らなければなりません。

感謝の心情を中心として、きょうこの現在を神様が比較、審判しているのです。法廷でもそうではないですか。法廷で判事や検事たちが求刑するとき、それを有り難く思って受けようとする人には刑を減らしてあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。
(104-279、1979.6.1)


②「ために生きる」人生で報いる神様と自然と先祖に対する負債

―宗教経典―

にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら
おふでさき3.41(天理教)

あらゆる人は実に生れながらにして、神々に対し、聖仙に対し、祖先に対し、人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。彼が祭祀せねばならぬという事実から、彼は神々に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼が彼ら(神々)に祭祀を行い、彼らに供物を捧げるとき、彼らに対しこれを行うのである。

次に人がヴェーダを学習せねばならぬという事実から、彼は聖仙に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(聖仙)に対しこれを行うのである。何となれば、人々はヴェーダの学習者を、聖仙の財宝の守護者と呼ぶから。
次に人が子孫を欲せねばならぬという事実から、彼は祖先に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(祖先)の子孫が連綿として絶えないよう、これを行うのである。

次に人が〔客人を〕宿泊させねばならぬという事実から、彼は人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は人々を宿泊せしめ、彼らに食物を与えるとき、彼らに対し、これを行うのである。これらすべてを行う人、彼はその義務をなしとげた者である。彼によりすべては到達され、すべては獲得される。
シャタパタ・ブラーフマナ1.7.2.1~5(ヒンドゥー教)

ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18.21 ~ 35(キリスト教)


―み言選集―

生命がどこから来ましたか。元を探せば、何もありません。皆さんの父母が元を探せば、何もないというのです。すべての万物が「私のものをくれ」と言うとき、どうするつもりですか。生命の根本であられる神様も、生命を返してくれと言えば……。何もありません。すべて自分のものではないのです。“私”という存在は、負債の山の上に上がっていることを知らなければなりません。

皆さんは、負債を返しましたか。負債を返そうとしていますか。ですから、負債を負った人は感謝しなければなりません。貸した人が「返してくれ」と言わず、「私のものだ」と言わないことがどれほど感謝なことか、考えてみなさいというのです。負債を負った人が負債を免じられたあと、自分が貸した相手に「私が貸したものを返せ」と言えば、かえって罰を受けるという聖書の逸話
と同じ道理です。(注11)ですから、負債を負った人として負債を返そうとするので、仕方なく私達は人のために生きざるを得ないのです。「ために生きる」ところにおいてのみ、赦しを受けられると見るのです。無条件に受けたので、人のために無条件に施してあげれば、赦しを受けることができるのです。
(93 ~ 193、1977.5.29)

信仰者として、最も重要な姿勢は何でしょうか。負債を負った人の姿勢です。皆さん、負債を負ってみましたか。負債を負ったものがなければ、少し負債を負って鍛錬してみてください。負債を負った人の苦労は、このようなものなのだなあということを知ってみてください。負債を返すことができない立場に立ってみなさいというのです。本当に悲惨です。一銭でも負債を負えば、その条
件で胸ぐらをつかまれることもあり、根本的に人格を否定されるのです。そうではないですか。そこには人格がありません。
(43-108、1971.4.25)

「神様、心配なさらずになしていきましょう」と勧告の祈祷をしなければなりません。堕落した人類がどれほど多いことでしょうか。神様がどれほど疲れたことでしょうか。身もだえしてこられた神様が、どれほど疲れたことかというのです。「心配なさらないでください。私がなしてさしあげます」と言ってこそ、よいのです。すべてをそのように祈ると、神様も「あなたは立派である。
将来性がある」と思うのです。同じことです。

「神様、きょうたくさん売れるようにしてください」というような祈祷はしないでください。「神様、私はあなたのために精誠を尽くし、捧げるときも精誠を尽くします。歴史上のいかなる人のものよりも貴くお受けください」と言えば、神様も、「あなたは見込みがある」と言って喜ばれるのです。
(93-22、1977.5.8)

神様の恵みを受けるために、皆さんは何でその代価を払うのか。「孝子のわきあふれる愛で払います」と言わねばならない。
御旨の道、祝福


どんなにいら立たしく、どんなに物悲しく、どんなにかわいそうな立場に置かれている私達だとしても、私達よりもっとかわいそうな、お父様がいらっしゃることを思うとき、その前に私達が祭物となり、私達よりもっとかわいそうなお父様を慰労してさしあげるべきであることを知りました。
(25-41、1969.9.28)


6.神様に対する畏れ

神様への畏れは、肯定的な情緒である。このような情緒が私達に、悪いことから遠ざけ、正しいことをするように主導するからである。神様を畏れない人は、神様の処罰を恐れないので、簡単に罪を犯す性向をもつようになる。そして、そのような人は、神様の実在を否定し、自分たちの行動を正当化する。

時として彼らは、宗教的道徳規範は個人の自由のために除去されなければならない足かせと同じだという現代理論を論じながら、自分たちを合理化する。しかし、文鮮明先生は、堕落によって恐怖自体が否定的な情緒として定着したのであり、恐怖が人間の考えを支配し始めるとき、人間はあらゆる種類の自己中心的行動を表すようになると語られる。

神様に対する高度な畏敬の念、崇拝と畏れ、神様への奉公心は人間の本質的要素である。このような畏敬の念が、私達の人生の段階と段階を導いてくれるのである。この心はまた、自分の人生と存在目的が自分のものではなく、神様に由来しているという事実を常に想起させてくれる。そしてこれが、私達は神様の子女であり、神様の栄光に同参した同労者だ、という意味と価値観を形成する主動力になる。


①道徳的行為を刺激する神様に対する畏れ

―宗教経典―

なんじら信仰する者よ、十分な畏敬の念で神を畏れ奉れ。ムスリムによらず、死んではならぬ。(注12)
クルアーン3.102 (イスラーム)

主を畏れることは知恵の初め。
箴言9.10 (キリスト教)

人に対して恐れをもつほど、天に対する恐れをもて!
タルムード、ブラホート28b(ユダヤ教)

あなた達はこの民が同盟と呼ぶものを、何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなた達が畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
イザヤ書8.12 ~ 13(注13) (キリスト教)
神はこよなき美しい教示を、互いに似ている。種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである、かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン39.23(イスラーム)

比丘たち、これらの二つの善いものが世間を護るのである。二つのものとは何か、慚と、愧とである。比丘たち、もしも、この二つの善いものが世間を護らなければ、母親と母の姉妹や母の兄弟の妻と諸師の妻たちとの区別とが認識されないであろう。あたかも山羊と羊と、雄鶏と雄豚と、犬とジャッカルとの場合のように、世間は混乱してしまうであろう。しかし、比丘たち、この二つの善いものが世間を護っているから、そのために母親と母の姉妹や母の兄弟の妻の区別とか、先生の妻たちとの区別とが識別されている。
如是語経42(仏教)

神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。
ヨハネの黙示録14.7(キリスト教)

主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
出エジプト記14.30 ~ 31(キリスト教)

口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
ローマの信徒への手紙3.14 ~ 19(キリスト教)


―み言選集―

今まで神を信じる信徒たちが罪を犯すことがあったのば、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。
原理講論、総序

アダムとエバが完成期に至って神様から祝福を受ける前、すなわち彼らがまだ10 代の青少年の時、天使長はエバをそそのかして姦淫したのです。それにより、天使長はサタンとなりました。そして、アダムもまた、堕落したエバと関係を結ぶことによって堕落しました。人間の歴史は、まさしくこのように不倫の種を蒔くことによって始まったのです。その結果、今日、不倫の関係が蔓延しています。特に、10 代の青少年たちは、性的堕落の犠牲者となっています。先進国の社会は、聖書の中のソドムとゴモラとほとんど変わりません。神様は、このような不倫の愛を嫌われます。私達は、神様の怒りを恐れなければなりません。神様の懲罰が切迫しています。
(201-206 ~ 207、1990.4.9)

エバは、神様の天理法度では本来アダムが夫になることを知りました。それで、今からでもアダムの懐に戻れば神様に対する恐れを避けることができる、と思って戻っていきました。そして、サタンの愛を中心として恐怖と自主性が結託し、結局は、アダムまで愛にひざまずくようになりました。そうすることによって、恐怖と自己主張する血統の歴史が続いていき、終わりの日になると、個人主義世界の版図として亡国の世界になってしまったのです。
(256-230、1994.3.13)

エデンの園でアダムとエバが堕落して恥ずかしさを感じ、無花果の葉で腰を隠したのですが、今日のアメリカの若者たちは、公園でありとあらゆることをしながらも、恥ずかしさを感じることができずにいます。復帰できる見込みもないというのです。ですから、戻れません。アダムとエバは、恥ずかしいと思う心をもっていて、悔い改める心がありましたが、彼らには、悔い改める心どころか、恥ずかしく思う心もありません。
(95-149、1977.11.11)


②尊敬と畏敬

―宗教経典―

主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書2.20 (キリスト教)

地獄の炎は次の二つの目には入っていかない。神の道において常に目覚めている目と神を畏敬し震える心で濡れている目だ。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)

目に見えぬ神の心の神ごとはかしこき物ぞおほにな思ひそ(目に見ることのできない神の心による神事はおそれ多いものである。いい加減に思ってはいけない)
本居宣長玉鉾百首(神道)

真の信者は、神のことに言及されるとき、その胸が畏敬の念でおののく者たちで、かれらにしるしが読唱されるのを聞いて、信心を深め、主に信頼する者たちである。礼拝の務めを守り、われが授けたものを使う者たちである。これらの者こそ、真の信者である。かれらは主のみもとで高い位階を得、また寛容と栄誉ある給養を賜わる。
クルアーン8.2 ~ 4(イスラーム)

神を畏敬することはこの上なく重要だ。慢心はむなしく、騒々しいだけであるから、そのように大きな畏敬の威厳のもとにかけよ。聖なる恩寵により神の知恵を得るだろう。

畏敬をもたない者は、誰も存在の大洋を越えることができない。神を畏敬することによって、恐怖に踏みつけられていた人生が聖なる愛で美しくなる。神を畏敬することによって、恐怖の炎が人の中で光を発する。神を畏敬することで愛が崇高な美をたずさえるだろう。

神を畏敬しない者の言葉は、ただ過ちであり、むなしいものであり、その骨と形をつくるための努力はすべて目を遠くし……。神を畏敬することによってあらゆる恐れが消えるだろう。

他のすべての恐れをなくしてしまう神に対する畏敬、どうしてこれを恐れと言うことができるだろうか。あなた以外にはどこにも安息所はなく、起きるすべてのことがあなたの御意志だ。もし神ではない他のものを恐れるなら、それはただ心の不安にすぎないことを知れ。
アーディ・グラント、ガウリーM1、p.151 (シーク教)


―み言選集―

お父様!私達はお父様の悲しい歴史路程を回想するなら、おそれ入る心を禁ずることができず、
苦労なさるお父様の性相に対する時ごとに、おそれ多い心を禁ずることができません。
(6-329、1959.6.28)

千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんはもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意をしなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)

口があっても語らず、言葉を誤って天道に背くかと恐れる心をもっていく道が、この道です。なぜですか。神様のためです。語ることができなくて語らないのではありません。不平を言うことを知らなくて不平を言わないのではありません。神様のためにそうするのです。
(67-316、1973.7.22)

普通の人は、恨み、落胆し、天を呪うにもかかわらず、天を畏敬し、天のために再び誓うことができるこのような立場に立つとき、天はより一層大事に思うのです。取るに足らない人たちを連れ、少数の群れをもって世界を復帰するという神様の事情と心情が、どれほど息詰まるものでしょうか。
(93-217、1977.6.1)

人間たちは、お父様の愛を受けつつも、今日まであなたに感謝することを知らず、恩を返すことも知りませんでした。このような現実でも、そうであるほど、いつかはみな与えようという決意をもたれ、強く大胆に悲しい歴史を引っ張ってこられたお父様の内心を私達は察する者です。

きょう、お父様の悲しかったお心を打ち明け、世界を代表して、歴史を代表して、天宙を代表して与えたかった御心情を吐露するこの時間、あなたのみ前に全体を受けて、全体を与えることのできる息子、娘となれないのではないかと恐れを感じるあなたの息子、娘がこの場に集まりました。
(35-289、1970.10.25)


7.疑心

見えないものに対する信仰は、不可避的に疑心を呼び起こすこともある。非現実的な信仰的教理、信仰生活においての挑戦、今日、世俗的環境の中にまんえんした懐疑主義によって、人間の疑心はだんだんと膨れ上がっていく。信仰の海を渡る信仰者に、解けない疑問が積み重なると、その重さがだんだんと重くなり、さらには沈没するようになる。ちょうど、ペテロが水の上を歩くことに失敗したという逸話のようにである。

ある疑心の念を抱いたとき、それを克服する責任は各自にある。もちろん、理性的にも解けない質問に満足する答えを探し出すことはできる。しかし、究極的にはその段階を飛び越え、生きた体験を通して、神様を知る段階まで進んでいかなければならない。


―宗教経典―

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「私達は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それかち、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
ヨハネによる福音書20.24 ~ 29(キリスト教)

ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」すると、ペテロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖く
なり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイによる福音書14.24 ~ 31(キリスト教)
比丘が師を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。これが、そのように心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かわないかれに捨てられていない第一の心の不毛です。……比丘が法を疑う、……比丘が僧を疑う……比丘が学を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、……その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。
阿含経中部i.101、心不毛経(仏教)

あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなく、とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
ヤコブの手紙1.5 ~ 7(キリスト教)

なんじが、もしわれのしたものについて疑いをもつならば、なんじ以前の経典を、読んでいる者に問え、確かに真理は主からなんじに来たのである。それゆえなんじは懐疑者のたぐいとなってはならぬ、またなんじは、失敗者にならぬよう、神のしるしを、虚偽だとする者のたぐいであってはならぬ。
クルア一ン10.94 ~ 95(イスラーム)

同参には信仰的確信が伴う。分裂には信仰の疑心が伴う。二つとも信仰において核心要素である。時には確信によって疑心を克服するが、それがただちに疑心事態を除去することはできない。きょうの敗北者があすの勝者になることもある。時には疑心が信仰心に勝つが、それでも信仰心は依然として残っている。そうでなければ、それは無関心だろう。……

私達の究極的関心の対象は神であられる。いかなる信仰行為にも常に神が介在されている。さらには、神を否定する行為にまでもである。……無神論も結局はある究極的関心をなくそうとする試みである。つまり、その方の存在意味に対して無関心にさせようということである。究極的質問に対する無関心は、私達が考え出し得る唯一の無神論の形態だ。疑心は信仰の反対の言葉ではなく、信仰の一要素にすぎない。
ポール・ティリッヒ(キリスト教)


―み言選集―

神様を信じますか、神様を知っていますか。神様を知っていれば、神様の愛を信じますか、神様の愛を知っていますか。神様の生命があれば、生命を信じますか、知っていますか。神様の血統があれば、神様の血統を信じますか、知っていますか。

信仰というものは何ですか。ヘブル人への手紙の第11 章を見れば、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。抽象です。実在と関係ありません。それを知らなければなりません。
(359-87、2001.11.6)

信仰と現実で、信仰というのは漠然としていますが信じることができるものであり、現実ははっきりしていますが、信じることができないものであることを皆さんは知らなければなりません。神様を中心とする信仰は、変わるもののようですがそうではありません。
(66-49、1973.3.18)
常に、信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。
御旨の道、試験・試練

皆さんがいる周囲の環境からもつようになった疑心を下ろして、「お父様、私の心と体からこれを除いてください」と言うことができなければなりません。罪悪に捕らわれている自分を、お父様やある信仰の主体者の前にそのまま委ねることができる勇気をもたなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てて考えなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んでいくことができないのです。

神様が人間を訪ねてこられるとき、どのような条件を提示されるのかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は、信仰で自分のすべてのものを忘れ、疑心をもたせる環境を打破して、信じることができる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境をつくらなければならず、死亡の環境を打破して、生命の環境を造成しなければなりません。

したがって、皆さんは、皆さんと関係したこのようなすべての宇宙的な疑心を背負い、「神様、私は今、宇宙に対するあらゆる疑心をもってきましたので、あなたと私の間に天倫的な因縁があるとするならば、私をお捨てにならないあなたであることを知っておりますので、このすべての疑心を受けて解明してください」と言いながら、神様に任せてしまえる度胸もなければならないというのです。

告白するそれ自体も聖なることだと言えるのですが、真実の自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性をもち、天の前に「お父様!神様!」と呼ぶときは、お父様も彼と向き合ってあげなければなりません。神様には、そのような人に向き合ってあげなければならない責任があるのです。
(3-11 ~ 13、1957.9.8)

神様の存在を信じる私達は、その神様を私達の日常生活で実証を通して見ることができなければならず、世界が否定できない神様として浮き上がらせなければなりません。
(120-100、1982.10.5)


8.偽善

ある人が宗教的教理によって卓越した道徳的基準に入門したとしても、そこには常に偽善の危険が潜んでいる。偽善者たちは、内的にそうではなくても、外見で道徳的で宗教的性向を見せれば、同僚たちが自分を認めてくれ、教会から恵沢を受けるために宗教をもつこともある。

宗教は信仰者たちに高い道徳性を要求する。怨讐を愛しなさいというイエス様の教え、イスラームの聖典、仏教の厳格な禁欲の教えなど、宗教的人生は相当な霊的訓練を要求する。しかし、偽善者たちは、このような側面は回避しながら、外観上だけで正義を見せようとする。彼らは、戒めに従うにおいて、いかなる苦労の代価も支払わないために霊的結実がなく、低級な霊的状態にとどまるようになる。

さらに、このような偽善が宗教に蔓延すれば、宗教者たちの基準まで崩れ落ちるようになり、宗教が汚名をかぶるようになる。歴史を研究した文鮮明先生は、キリスト教精神が貧困の増加と人種差別を認め、これを正当化しようとする富裕層の威信と符合したとき、その根本精神が変質したのであり、これが19、20 世紀に物本主義思想を膨張させた直接的な原因になったとされる(第8 章参
考)。これに対して先生は、宗教が真の精神を回復するとき、地球上に恒久的平和が定着し、霊的文明を再創造できると教示される。


―宗教経典―

律法学者たちとパリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなた達も、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書23.27 ~ 28(キリスト教)

邪悪な品性をもった者は、たとえ敬虔な人たちの見かけを努めてまねるとしても、もし自らを統御し、偽善の内面をなくすことができなければ、悲しみから抜け出すことはできないだろう。
ウッタラッジャーヤー・スートラ20.43(ジャイナ教)

律法の言葉から何かの利益を追求しようとする者は、自己破滅に手を貸しているのである。
ミシュナ、アヴォート4.7(ユダヤ教)


袈裟を頭から被っていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところ(地獄)に生まれる。戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに、国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。法句経307(仏教)

弟子たちから財物を奪う師は多いが、彼らの苦悩を減らしてくれる師はまれだ。
クラールナヴァ・タントラ13(ヒンドゥー教)

茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。その行いがだらしがなく、身のいましめが乱れ、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやってこない。
法句経311 ~ 12(仏教)

災いなるかな、礼拝する者でありながら、己れの礼拝をゆるがせにする者、見られるための(礼拝にすぎぬ)者、また(隣人の)必需さえも断わる者は。
クルアーン107.4 ~ 7(イスラーム)
不浄な方法で得た、はかない供え物で神に捧げる祈りは受け入れられない。義の心で祈りなさい。そうすれば神はあなたの求めを聞き入れてくださる。間抜けな者は、性急な熱情で、義の道に従うこともしないのに、神の加護を得ようとする者である。
神道烏伝祓除抄(神道)

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイによる福音書6.1 (キリスト教)

信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己れの施しを無益にしてはならぬ。かれらをたとえてみれば、ちょうど土をかぶったなめらかな岩のようなもので、大雨が降れば裸になってしまう。かれらはそのかせいだことに対し、なんの得るところもないであろう。神は不信心の者を導きたまわぬ。クルアーン2.264(イスラーム)
高い道義の人は行動するが、動機をもってするのである。最も礼儀のある人は行動するが、誰れもそれに従わず、それで、袖をまくり、相手を引っぱろうとする。
道徳経38(道教)
医者よ、自分自身を治せ
ルカによる福音書4.23 (キリスト教)

愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
法句経394 (仏教)

また人びとのうちには「わしらは神を信じ、最後の審判の日を信ずる」と、言う者がある。だがかれらは信者ではない。かれらは神と信仰する者たちを、欺こうとしている。だが己れを欺くにすぎぬ、かれらはそれに気づかない。かれらの心には病が宿っている。神はその病を重くしたもう。

偽ったために、かれらには手痛い刑があろう。かれらに「おまえたちは、地上を退廃させてはならぬ」と、言われると、かれらは「わしらは、矯正するだけのものである」と言う。いや、まことにかれらこそ、退廃を引き起こす者である、だがかれらはそれに気づかない。(注14)
クルアーン2.8 ~ 12(イスラーム)


―み言選集―

彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては、絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。
御旨の道、伝道

私は、世界と人類の将来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきています。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が汎世界的に団結するだけでなく、懺悔と真の奉献の姿勢を整える汎世界的拡張運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。

新しい宗教改革の情熱の炎を燃やして、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く高くとどろかせなくてはなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する生きた信仰の炎がなければなりません。真の平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ成就されるのです。
(135-222、1985.11.16)

今日、私達が信仰生活をするにおいていったい宗教とは何でしょうか。私の体で闘争する一つのサタンの根拠地を清算するためのものです。それで、宗教を必要とするのであり、それが宗教の使命であることを知らなければなりません。

では、今日の宗教を信じるすべての人たちが、自分のことはすべてカバーしてそのままにしておいて、相対世界の善を求め、ほかの所の悪を分別するというのですが、そのような話は有り得ないというのです。
(131-23、1984.3.11)

神様の名前を口実にした真の愛のない信仰生活や、利己心を土台として本然の人権を踏みにじり、不正を働くことも、すべて克服しなければなりません。
(400-95、2002.12.27)

すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実である。
原理講論、総序

すべての宗教者たちは、この世代の霊的基盤の欠乏に対して責任を痛感し、深く悔い改めなければなりません。長い宗教歴史の中で、宗教者たちが生きていらっしゃる神様を正しく証することが不足だったのであり、愛の実践をないがしろにすることによって、無神論が蔓延し、また共産主義が世界に広がっていることに対して、痛切に自責の念をもつ宗教者にならなければなりません。

今日、神様は、私達を呼んでいらっしゃいます。すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上でしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければなりません。
生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて24 時間、生活の中でこれを実践する自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)

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世界経典-56

2022年07月24日 15時20分31秒 | 学習


②信仰は人間の行為ではなく神様の恩寵

―宗教経典―

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してこくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。
エぺソの信徒への手紙2.8 ~ 10(キリスト教)

神は、なんじらに信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。
クルアーン49.7 ~ 8(イスラーム)

父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない。
ヨハネによる福音書6.65 (キリスト教)

かれこそは、信者たちの心に安らぎを賜い、かれらの信心の上に、信心を加えたもう方であられる。
クルアーン48.4(イスラーム)

一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない。
バガヴァッド・ギーター18.66 (ヒンドゥー教)

あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
ガラテヤの信徒への手紙3.2 ~ 7.11(キリスト教)

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一且そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず。あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。(注3)
親鸞歎異抄3(仏教)

群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れで参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。……おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けくだざい。」
マルコによる福音書9.17 ~ 24(キリスト教)


―み言選集―

歴史的な曲折をもう一度考えながら、私達自体の恨の立場を解明し、探し立てなければならない父子の因縁を解明しない限り、私達には希望というものも、天国というものも、何の理想世界というものもあり得ないのです。

罪悪の血統を受けた私達、罪悪歴史の束縛を抜け出せずにいる私達、罪悪圏内に属して生活しながら、その環境を越えられずにいる私達、このような私達なのに、父と私達の関係をどのように解明するのですか。これは、私達が努力したとしても仕方がないので、心情を掲げて信じなさいと言ったのです。これがキリストの伝えた福音です。何かの条件をかけて信じなさいと言ったのではなく、心情を通して信じなさいと言われました。
(7-52 ~ 53、1959.7.12)

天上の審判は、どこで決定されるのですか。皆さんが天のために生きた功労と苦労が多いからといって、誇れるものはありません。それによって決定するのではないのです。ただ神様の心情とイエス様の心情が皆さん自身の体で体恤され、結実され、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁となったものこそが、永生不死の条件になるのです。
(4-107、1958.3.16)

信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。

人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力で終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を証すものであることを知らなければなりません。
(32-22、1970.6.14)
神様の愛、神様のみ言、神様の人を失ってしまったので、私達はこれを求めてさまよわなければなりません。そして、今日まで救援摂理をしてこられた神様も、これを取り戻そうとされたというのです。愛を失ってしまった人間、み言を失ってしまった人間、実体を失ってしまった人間、人間はなぜ、何をできなかったために愛とみ言と実体を失ってしまったのかというと、(神様のみ言を)信じられなかったために、これらを失ってしまったのです。

ですから、神様が人間を取り戻してこようとすれば、人間たちが(み言に対する)信仰の条件を立てなければなりません。すなわち、神様は、信仰を条件として人間たちに対してくださったのです。信仰を前提条件として人間たちに救援摂理をされ
るというのです。
(5-37、1958.12.14)

神様は、どのような心情でこの世界を創造されたのでしょうか。神様が無限に信じてあげられる万物になることを願う心情、無限に信じてあげられる人になることを願う心情でつくられたのです。したがって皆さんは、強いて信仰という名詞が必要ない一体的な理念圏内で、神様と私達が心と体の関係のような不可分の一体性を備え、長い歳月を過ぎても、天に対して弁明があってはなりません。

神様は人間と一体的な立場に立ち、信仰という名詞までも感じないほど人間を信じてあげようとされたのです。このように永遠に信じてあげようとされていた神様のその心が、人間の堕落によって人間から離れるようになりました。
(4-71、1958.3.9)

取るに足らない姿であり、自分自身を批判し、分析して見るとき、お父様に何かをお返ししてさしあげられる存在になれなかったことを、私達はよく知っております。しかし、お父様とは切っても切れない子女の因縁を結んでいることによって、お父様は私達を御覧になり、悲しみと喜びの分岐点で私達に対していらっしゃるという事実を、私達は忘れてはなりません。(24-245、1969.8.24)
③神様を信じて生活すること

―宗教経典―

偉力者・慈悲者に信頼しまつれ、なんじが礼拝に立ち上がるのをみそなわす方、また叩頭する者たちの間での、なんじの動作をみそなわす方であられる。まことにかれは、全聴者・全知者であられる。
クルアーン26.217 ~ 20(イスラ一ム)

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言3.5 ~ 6(キリスト教)

神に従う人は信仰によって生きる。
ハバクク書2.4 (キリスト教)

ラビ・シムライが言った。「613 項の言葉がモーセに与えられた。その中で365項はしてはならないという命令として1年362 日に該当する言葉だ。そして、248 項はやりなさいという命令なのだが、これは人の数字に対抗する言葉だ。ダビデ王がこれを減らして11 の言葉にした。(詩編15)イザヤは6の言葉に(イザヤ63.15)、ミカは3の言葉に(ミカ6.8)、再びイザヤは2の言葉に減らし、「正しい判断をして、善行をせよ」と言った。アモスは一つの言葉に減らした。「私(主)を信じよ、そうすれば生きる」。ハバククも一つの言葉に減らした。「神に従う人は信仰によって生きる」。(注4)
タルムード、マッコート23b ~ 24a(ユダヤ教)

私に向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マタイによる福音書7.21(キリスト教)

私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙2.14 ~ 17(キリスト教)

私は語ったとおりに行い、言行に恥ずかしくない生活をする。あなたの両手に天秤と秤をおもちになり、おお、私の主よ! もし私の言葉と行動がたとえ麦一粒ほどの重さでも違えば、私を打ってください。おお、クダラ・サンガマ!
バサヴァンナヴァチャナ440 (ヒンドゥー教)


―み言選集―

天は、どのような信仰を願うのでしょうか。イエス様が私を信じなさいと言われたのは、自分が神様を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が、「私は神様の息子だ。私は神様を信じる」と語ることができたのは、自分が神様を父として信じているように、神様も自分を息子と思っているということを確信したからです。
(5-180、1959.1.18)

皆さんが今、信仰の主体であられる主を信じていますが、イエス様を信じることだけで終わってはいけません。皆さんは、イエス様を信じることによって、その信仰の条件を通し、永遠の生命を懸けてイエス様との関係と因縁を結ばなければなりません。そして、皆さんはイエス様と信仰の関係を結んだその基盤の上で、神様の実存まで感じなければなりません。皆さんが本当にイエス様を信じれば、このようなことを成せるでしょう。
(3-19、1957.9.8)
イエス様を信じるというとき、イエス様が喜ぶものだけを信じなければなりませんか、イエス様が嫌うものも信じなければなりませんか。イエス様が嫌うものは防御して、喜ぶものを信じなければならないという結論です。それでは、イエス様が嫌うものは何でしょうか。サタンと罪悪です。
(124-294、1983.3.1)

神様から愛を受ける人が、この偉大な神様のみ言を誇り、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。神様の権威を中心としてその基盤が立ったものを、自分が自然に感じられる自らをもたなければなりません。
(22-205、1969.2.4)

今、天があるとすれば、私達は主体であられる天が、対象である私という個体を100 パーセント信任してくれる、その一日を求めなければなりません。その目的に対して100 パーセント信念をもち、その一箇所を求めなければならないというのです。また、100 パーセントの信念をもって突進できる方向性を備えなければなりません。これが、この時代に生きている人類が解決すべき最後の重大な問題です。

このような悲しみの環境を越えていかなければならない人間なので、神様はこれを解決するある条件を立ててきたことは間違いないでしょう。そうだとすれば、神様は歴史路程においてどのように摂理してこられたのでしょうか。人間始祖が堕落したのは、神様を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったために堕落したのです。
(6-209 ~ 210、1959.5.17)

いくら自信があっても、じっとしていてはいけません。そのような人は必要ないのです。既成教会でいくら神様のみ旨がどうで、地上の天国がどうでと言っても、じっとしていれば、何の意味もない言葉です。自信をもっていますが、信じてじっと座っている人、自信をもっていますが、少し適当に行動する人、自信をもって命懸けで勇猛果敢に行動する人の中で、神様は誰を好みますか。
考えてみてください。皆さんは、どのような人を願いますか。
(92-312 ~ 313、1977.4.24)

体恤信仰において最も重要な要件は何でしょうか。主体と対象の関係です。「神様は常に主体だ」と思いながら、私を愛される神様なので、私が深刻であれば深刻であるほど、神様は私のことを忘却できない、傍観できない、ここに一緒にいらっしゃるということを感じなければなりません。

ですから、祈祷に先立ち、感謝できる生活が成されるとき、そこには天が共にいらっしゃるので
す。それが最初は感じられませんが、ある段階に入っていけば、はっきりと感じるようになります。
(58-312、1972.6.25)

たとえサタン世界に生きているとしても、天に対する貞節と志操は守らなければなりません。私が育てている息子、娘をお父様の子女だと思ってきましたか。さらには、私と私の相対がお父様のものであると考えてみましたか。私の父母、私の先祖、私の民族、私の国をそのように考えてみましたか。無知なこの地上の人間たちは、天がこのような標準に向かって動いている事実を知らずにいます。
(8-85、1959.11.8)

きょう、ここに集まった子女たち、どうぞお父様が「お前は私の希望の存在であり、私が信じることのできる者であり、私が愛することのできる者だ」と言い得る姿となるよう許諾してください。
(1-101, 1956.6,6)


④個人的欲望と環境に影響されない絶対信仰

―宗教経典―

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
マタイによる福音書17.20 (キリスト教)

一粒のからし菜の種ほどの信仰を心に抱いた者は地獄に入らないが、一粒のからし菜の種ほどの驕慢さを心にもった者は天国に入れない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書9.59 ~ 62(キリスト教)

天に向かって旅する者達は、後ろを振り返らない。彼らは天、二つの世界へと上っていく。
シャタパタ・ブラーフマナ9.2.3.27(ヒンドゥー教)

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。創世記19.26 (キリスト教)

私の服は古く、すり減った。私は遠からず裸になるだろう」。または「私は新しい袈裟を得るだろう」。出家修行者は、このような考えを抱いてはいけない。あるときは服が一着もないこともあり、またあるときは何着もあることもある。このように考えるのが健全な規律であることを知っているのだから、賢明な出家修行者はそれに対して不平を言ってはならない。ウッタラッジャーヤー・スートラ2.12 ~ 13(ジャイナ教)
私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8.38 ~ 39(キリスト教)

言え「私の礼拝と奉仕、私の生と死は、よろず世の養育の主、神のためである。
クルアーン6.162 (イスラーム)

いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、私は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。
ハバクク書3.17 ~ 18(キリスト教)


―み言選集―

私達がこの地上でこのような使命を果たせば、神様も私達の報告と私達の要求を待たれるようになるのです。ですから、私が密使の立場で早急に願うものを送るようにと言えば、百方に冒険をし、克服しながらでも送るようにするのではないでしょうか。

これと同じように、皆さんがそのような信念をも
って神様の特権的な栄光の息子、娘であることを認識しながら「私はこれを願いますから、どうぞかなえてください」と言えば、成就してくれるのです。そうすれば、生きていらっしゃる神様を発見することができ、生きて神様が働かれるのを見ることができるのです。
(65-287、1973.1.1)

信仰の道では、自己主張、自我観念はあり得ません。絶対的信仰というものは、自我観念が一つも残っていない信仰をいうのです。そうではないですか。
絶対的に信じるというときは、私自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはなりません。神様を中心として一つになろうというところには、自己主張するものがありません。主体が要求するとおりに完全に一致しなければなりません。完全に一致するというのは、自分自らを主張する一片の心もないのです。
(46-82、1971.7.25)

ノアおじいさんのような人は、神様が呼ばれるとき、常識的な立場で呼びませんでした。「お前は120 年間、山に箱舟を造りなさい!」とおっしゃいました。神様が箱舟を造りなさいといわれるのであれば、海辺に造るようにされるか、川辺に造るようにされなければならないのに、その正反対です。神様は、すべてそのように摂理されます。アブラハムに対しても、偶像の売買をする一番の頭の息子を引っ張ってきたのです。
(70-64、1974.2.8)

自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場でぱありません。自分が100 パーセント認めることのできるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が100 と認めるものが、神様には一つなのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねでいくことはできません。
天国は、どこから始まるのでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。

その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。

このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べて習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的な信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちにこそ成される天国が、成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)

絶対的な信仰を中心として歩んでいくにおいて、その国家が絶対的に反対したとしても、譲歩してはいけません。家庭なら、家庭で誰がいくら反対したとしても、その反対に対して絶対的な信仰をもって屈してはいけません。また、夫婦の間においても、相対が反対する立場に立ったとしても、絶対的な信仰態度をもたなければなりません。このような態度をもち、信仰生活をしようとする目的は何かというと、たった一つ、悪の環境を脱皮して善に帰ることです。
(29-206、1970.2)
絶対信仰というものは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいるとすれば、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を置いていますが、信じる心を中心としては、彼と平面的に対等な時代圏内に立てることを意味します。

ですから、絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じるとき、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。また、その人と一緒に生きていることが分かるようになります。このようなことを新たに認識させ、刺激させるためのものが信仰だということを知らなければなりません。
(32-162、1970.7.12)

皆さんは、膨大なみ旨を前にして、あるいは神様が歴史を通して願われるそのみ旨を前にして、どれほど深刻な立場で、そのみ旨と共に一つになっていますか。そのみ旨を中心として絶対的な信仰をしているのですか。風が吹き、暴風雨が吹きつけることがあっても、私が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。間違っていれば私が間違ったのであって、み旨は問違っていない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と夕方の信仰が異なる、そのような信仰姿勢をもっていながら天国を願うというのは、あまりに愚かなことです。
(46-74、1971.7.25)

愛がどこで連結され始めるのですか。絶対的なゼロになる点から始まるのです。ですから自分がありません。完全な愛を求めるためには“私”という個性があってはいけません。信じるのも、絶対的な主体と対象が互いに信じなければなりません。

ここに自分はありません。絶対的な信仰というものは自分がないというのです。ゼロです。絶対的な愛で一つになるところには自分がなく、絶対的な信仰で一つになるところにも自分がありません。この二つが一つになるのです。そうであってこそ完全に一つになります。
(279-146、1996.8.4)


神様が創造するとき、絶対的な信仰の上で創造しました。神様が語れば、語ったとおりに対象が現れなければなりません。絶対的な信仰の上で発言したのです。その絶対的な信仰の上でつくるその対象は、絶対的な愛のためです。私の愛する実体が私の体の何千万倍貴いものになることを願うので、私の愛をすべて投入したのです。絶対に一つになったところで投入したというのです。
(273-298、1995.10.29)

 

⑤逆境と信仰

―宗教経典―

「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」
マタイによる福音書26.39 (キリスト教)

ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。

「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
ヨブ記1.13 ~ 22(キリスト教)

サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときからの戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
サムエル記上17.33 ~ 36(キリスト教)

「神を信ぜよ、かれのみ使いと共に奮闘せよ」と(命ぜられたとき)、かれらのうち能力ある者が、なんじに免除を求めて、「わしらを家にとどまる者と共に、そこにおらせて下さい」と言う。かれらは背後で家にとどまる者と一緒にいることを好む、かれらの心は封じられ、それでかれらはさとらぬ。しかし、み使いならびにかれと共に信仰する者たちは、財産と生命とをささげて奮闘努力する。かれらにはあらゆる幸福があり、またかれらは成功する者たちである。
クルアーン9.86~88(イスラーム)
ペテロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペテロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない」と言った。

そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペテロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペテロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペテロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」
と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72(キリスト教)
―み言選集―

自分の理想的な相対を得て結婚し、楽しく暮らし、夫が死んだ、妻が死んだというとき、「ああ! 私は知らない」、これではいけません。「ああ! 神様が私を愛しているのなら、なぜ妻を連れていき、なぜ夫を連れていったのですか」、そのように考えずに「これは、何か起きようとしてこのようなことが起きたのか」、このように考えなさいというのです。神様が私から大切なものを奪っていくのなら、奪っていった神様は、もっと貴いものを与えるためにそのようにされることを知らなければなりません。それが父母です。

蕩減復帰の原則を考えれば、蕩減というものは本当に有り難い言葉です。「このような峠道を蕩減する者は私しかいないので、私を選んだのだなあ!」と有り難く考え、神様の前に「その次は何ですか」と祈ることができる余裕をもてば、驚かれるのです。100 年、1000 年をおいて見てみると、子孫が福を受けるのです。
(104-106、1979.4.15)
絶対信仰! 最近の先生の祈祷がこれです。ペテロの信仰が問題ではありません。絶対信仰です。死んでも行かなければなりません。監獄は日常のことです。イエス様が「もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたその父のみこころのために……。客死した死体になって倒れたとしても、自分のために死なずに、父のために死んだというのです。栄光の死体になったのです。その限界点が分かりますか。

死の場でも堂々としていなければなりません。死ぬと思って目を閉じ、「私は死んだ」と思っていれば、すぐにほかの世界に移されているというのです。

飛躍が起きるのです。統一教会は、そのように発展してきました。そのように発展したのです。唖然とし、呆然として、四方がぎゅっと締めつけられ、地に入っていくことも天に上がっていくこともできないその場まで、死を覚悟して踏み越えていけば、さっと飛躍するのです。

生きていらっしゃる神様は、間違いなく顕現する方です。ですから、私には神様がいる、いないということは問題にもなりません。そのような夢のごとき役事が、本当にたくさんあるのです。神様は、公約どおりにされる方です。
(126-38 ~ 39、1983.4.10)

人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落した、その線以上に上がっていかなければならないのです。では、絶対信仰とはどういうことでしょうか。死ぬまで、死んでも行こうとすることです。
(126-35、1983.4.10)

世の中では、今キリスト教がすべて崩れ落ち、アメリカも、その大国が揺れ動く、そのような局面が展開しています。それでは、変わらない神様、全体の主体であられる神様が、どのような対象を探し出さなければならないのでしょうか。支流と一緒に歩調を合わせて踊りを踊る人は駄目です。
変わる人であり、変わる世の中です。そのような人と世の中ですが、私は変わらないという人、次には世の中がすべて滅びてなくなるとしても、私は滅びないという人にならなければなりません。ただ信仰だけそうなのではなく、実際的にそうだという確定した立場に立たなければなりません。
(66-47、1973.3.18)

皆さんが信仰生活をしながら、神様を呼び、神様のみ旨を叫び、神様の理念を求め、神様の栄光のために闘う目的がどこにあるのですか。まずは、自分が確固不動になるところにあります。「歴史的な悲しみが私を占領することはできず、時代的な逆境が私の心と体にしっかりと立っている基盤を占領することはできない」と言える信念がない限り、そのような位置を備えておかない限り、いくら歴史的に忠誠を尽くし、時代的に自らをもったと自負する人がいたとしても、天は彼を信じて摂理することはできず、彼を立てて時代を収拾することはできません。
(12-304、1963.8.11)
2.伝道

大部分の宗教は、福音伝道、すなわち人を救援に導こうと、真理を伝播する伝道を奨励している。真理の証という宗教的戒めは、愛から出てくるものである。愛は、真理が人を解放してくれ、より次元の高い可能性を開いてくれるものだという確信を土台とし、人の永生を憂慮する心である。

伝道は、「あなたがたの光を人々の前に輝かし」のような聖句から始まる。信仰者は、善行と利
他心を通して生きている信仰を実践し、人を感動させ、説教と教理的教えによって人生を先導しなければならない。福音伝道は、時として反対にぶつかることもある。伝道は、常に神様の導きを信じ、純粋な心と高潔な行為を通して成し遂げられなければならない。

―宗教経典―

イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28.18 ~ 20(キリスト教)

英知とよい話し方で、すべての者をなんじの主の道に招け。最善の態度で、かれらと議論せよ、なんじの主は、かれの道から迷う者と導かれる者を、最もよく知りたもう。
クルアーン16.125 (イスラーム)

時に世尊諸比丘に告げたまへり。「比丘等よ、我は天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、汝等も亦天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、遊行せよ、此、衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人天の義利・利益・安楽の為なり。二人してともに行くなかれ。比丘等よ、初善・中善・後善にして義理・文句を具足せる法を説け、悉皆円満にして悉浄なる梵行を顕示せよ。有情にして塵埃少き者あり、若し法を聞かずば退堕するも、{聞かば}法を悟り得べけん。比丘等よ、我はまた優樓頻螺のセーナーニガマに至りて法を説かん」。
律蔵i.21 (仏教)

アスヴィンス、主の光よ、蜂蜜のごとき甘美さで私を満たしたまえ。されば、人々にメッセージを伝えんがため、栄光の言葉を語るであろう。
アタルヴァ・ヴェーダ6.69.2 (ヒンドゥー教)

ヒレルが言った。「アロンの弟子となれ。彼は平和を愛し、人類を愛し、彼らを法の近くに導いてくれる人である」。
ミシュナ、アヴォート1.12 (ユダヤ教)

私に最高の信愛(バクティ)を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。人のうちで、彼ほど私に好ましいことをする者はいない。またこの地上に、
私にとって彼ほど愛しい者はいないであろう。
バガヴァッド・ギーター18,68 ~69(ヒンドゥー教)

人たすけたらわがみたすかる
おふでさき3.47(天理教)

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書5.14 ~ 16(キリスト教)

自分は世のともし火となり、功徳をもって身を荘厳し、十力の智慧を具足すべく、一切もろもろの群生は貪欲・瞋恚・愚痴に焼かれている、自分は彼等のために無量の悪道の苦を除いてやろう。
華厳経30(仏教)
ですから、神が私達を通して勧めておられるので、私達はキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私達のために罪となさいました。私達はその方によって神の義を得ることができたのです。

私達はまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。私達はこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

私達は人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

コリントの人たち、私達はあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私達はあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るように私は言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
コリントの信徒への手紙二5.20~6.13(キリスト教)

もしあなたが他人に欠乏したある真理を知っていたり、宝物をもっていれば、最も親切な善意の言葉で、彼らにあなたの所有を分けてあげなさい。もし彼らがそれを受け入れ、もしその目的が達成されれば、あなたの目標も成就する。もしある人がそれを拒絶すれば、そのままにしておき、神が彼を導かれるように切に求めよ。あなたが彼に不親切に接することがないよう注意せよ。
狼の息子の書簡15(バハイ教)

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。

また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、私の名のために、
あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われるこことだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
マタイによる福音書10.5 ~ 27(キリスト教)

比丘たち、これら二つの施しがある。物質的な財の施しと精神的な真理の施しとである。比丘たち、これら二つの施しのうち、真理の施しが最も優れている。比丘たち、これら二つの分配がある。財の分配と真理の分配とである。比丘たち、これらの二つの分配のうち、真理の分配が最もすぐれている。
如是語経98(仏教)

良きことばは名誉として報酬を得、良き仕事は人々を印象づける。たとえ価値なき人であっても、
「道」は決して見捨てることはない。大きな国に皇帝が立てられ、大臣が任命され、玉や馬が授けられても、「道」以上に善い提供物はない「道」は遠い昔から非常に尊ばれてきた。

どうしてかというと、それを求めないから、人はそれを得るのだ。たとえ過ちがあったとしても、人はその報いから免かれる。こうして、「道」は天下で最も尊いものとされるのである。
道徳経62(道教)

―み言選集―

私達が原理で伝道するのは、「愛の復帰運動」をしているのです。心情の世界は時空を超越します。み言も祈祷も、究極には愛のためです。完成は愛の理想を成すことです。
(33-69、1970.8.8)

天が喜ぶことのできる一時があるというとき、果たしてその時は、どのような時でしょうか。懇切な心情で天を証できる時です。善の人を通して死亡世界の人間を生かしてあげようとされる神様の心情を知り、その心情を解怨するために、神様の代わりに生かしてあげる責任を担って闘い、神様の心情を宣布する人がいるとき、天は、すべてのものを惜しまずにその人に渡してくださるのです。惜しまれないというのです。
(8-259、1960.1.17)

伝道とは、サタン世界を捨てて、笑いながら天の道についていくようにすることです。天の国に導くことです。これを知らなければなりません。皆さんを見ると、伝道しようとして、その人が喜んでいようといまいと、ひたすら強制的に「来なさい、来なさい」と言うのですが、それではいけません。人は霊物なので、皆さんが一人の人を祈祷してみて一度実験してみなさいというのです。ある一人の人をこの上なく愛し、その人をみ旨の前に立てるために、心痛む心情をもって涙を流してみるのです。
(50-279、1971.11.8)

伝道は、父の代わりに失ってしまった子女を取り戻す心情でしなければなりません。
(10-219、1960.10.14)

伝道は、人の子女を自分の息子、娘以上、自分の民以上に愛するのです。自分の兄弟の代身、自分の子女の代身として、サタン世界の誰よりも、もっと愛さなければなりません。ですから、カイン・アベルの基準を中心として、アベルが勝利すると同時に、カインも天の国に連れて入っていくことができるのです。そのようにしたのちにこそ、祝福を受けるのです。(93-281、1994.6.11)
天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは、先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下せます。
(66-125、1973.4.18)

神様の愛を受ける人が、その偉大な神様のみ言を誇りに、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。
(22-205、1969.2.4)

私達は、神様を知らなければならず、永生を知らなければならず、真の愛を知らなければなりません。そして、私達がすべきことは、この三つを教育することです。これは誰が何と言っても、体験をして、話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いただけではいけません。
そのようにすることによって、天の側の高い所に上がっていくのであり、中心存在になるのです。結局は、人をどのくらいこのような世界に加担させたのか、サタン世界を消化させたのか、という問題が残っているのです。お金ではありません。知識ではありません。
(205-130 ~ 131、1990.7.29)

お父様! どうか西欧に広がっているすべての統一教会の群れ、アジア、あるいは五大州に広がっているすべての群れが、あなたの心情に従ってろうそくの火の役割をすると同時に、大海に向かって立っている灯台の使命を果たさなければなりません。そのような使命が彼らに背負わされていることを知り、きょう、あす、未来に向かってひたすら愛の化身体として、あなたの深い心情を証できる証し人となるようにしてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(86-91、1976.3.7)

イエス・キリストがこの地上の人間たちによって濡れ衣を着せられたのですが、かえって彼らを心配し、涙を流されたのと同様に、終末にそのようにできる聖徒が、信じる聖徒の中からたくさん出てこなければなりません。善の人がいれば、彼によく侍らなければなりません。悪の人がいても、その人以上にもっと心配し、残念に思うことができなければなりません。

そのような個人になり、そのような家庭と社会と世界をつくるために、十字架の苦難まで背負って
いかなければなりません。イエス・キリストの心情を身代わりして神様のみ旨を成し遂げるために忍耐し、勝利する人にならなければなりません。
(1-254 ~ 255、1956.11.25)

自分は居ることなく後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。そのような場に行けば、多くの群衆が集まっても、みな教育できるのです。そこでは何だか分からずに、すべて教えてくれます。それでも自分が言う声なので、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、語りながらジェスチャーをしても、実に自然です。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくないのです。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられることを皆さんは知らなければなりません。
(96-168、1978.1.3)

自分でも知らないうちに、周りに通り過ぎる人がいれば分かるのです。人は霊物なので分かります。通り過ぎていくその人についていくのです。さっと見れば、初めて見たのに、いつだったか見たように思うのです。「あの人とどこかで会ったようだが?」、このような人は絶対に逃すなというのです。そのような人がいるでしょう? さっと見たとき、「どこかで会ったようだが?」と思うようになります。会ったことがないのに、そのように思うのです。その人を逃してはいけません。絶対に皆さんに必要な人です。

そのような時は、自分の精誠を尽くし、神様に対していたそれ以上の心で、すぐに捕まえなければなりません。そうすれば離れられません。それが自分の同士たちを結んでいき、心情の基盤を広げていく方法です。そのような内容がたくさんある人は、天の国に近い祝福の場に立てるのです。
(308-213、1999.1.5)

神様が生きていらっしゃることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。10人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば10 人が新しい人になります。そうしてから、教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば、彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
(30-154、1970.3.21)

早朝起ぎてその町内のために、自分が引き受けた責任地域のために、祈祷しながら涙を流さなければなりません。その道は心情的でありながらも、また霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が町内を見下ろせば、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流さざるを得ないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを、自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せる共鳴力が生じれば、霊界が総動員するのです。
.(96-282、1978.2.13)

お父様! 眠っているこの民族が目覚めるよう許諾してくださり、暗闇にのみ込まれていく全世界人類を救うために、お父様に訴えることのできる息子、娘となるよう導いてください.
(2-335、1957.8.4)


3.希望

信仰生活で希望は、必需的前提要素である。未来を肯定的に展望する視角は、神様が自身の約束を具現するために歴史を運行される、という信仰から始まる。

この世界の暴力と抑圧、貧困と悲しみを終結するという神様の啓示が、人類歴史に力強く伝承される。人間は一生の間に自分の希望が成し遂げられるのを見ることができない場合もあるが、依然として死後の人生、すなわち永遠の世界で新しい人生を享受する、という希望を常に抱いている。神様は、人間にこのような希望をもつように創造されたのであり、その希望は私達の人生を、神様のより近くに導いてくれる。

文鮮明先生は、肯定的で希望に満ちた態度で、宗教的人生を営為しなければならないと教えられる。いくら難しい状況にぶつかっても、確固たる希望と目標を堅持しながら、死までも超越する希望を抱き、永遠の価値に心を固定させなければならない。希望のかがり火をもち、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてそれ以外にヘブル人への手紙で言及された「見えない信仰と希望の確信」を天から受けた人間の足跡を追求しなければならない。私達は、神様の王国を実現するという希望に満ちあふれていなければならない。特に、メ
シヤの再臨時代に、文鮮明先生の人生は、その典型となるだろう。


―宗教経典―

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。
イザヤ書40.30 ~ 31(キリスト教)

幻がなければ民は堕落する。
箴言29.18 (キリスト教)

見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。
詩編33.18 ~ 22(キリスト教)

言え「私はあなたがたと同じ、ただの人間である、あなたがたの神は唯一の神であることが、私に啓示されたのだ。およそ何人でも、主との会見をこいねがう者には、正しい行いをなさしめよ、かれの主をあがめまつるにあたり、何一つならべ拝ませてはならぬ。」
クルアーン18.110(イスラーム)

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私達は、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地から出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過
ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺
されなくて済みました。

これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私達のために、更にまさったものを計画してくださったので、私達を除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙11.1 ~ 12.2 (キリスト教)

そして、あなたに希望します。おお、主よ、すぐにあなたの権能の勝利を見ることを希望します。偶像崇拝はこの地から消え、偽りのものは完全に滅するでしょう。

世の中があなたの権能のもとに完成し、人類があなたの名を畏敬する法を学ぶ日を期待します。地上の邪悪な群れがあなたの前に悔い改めるその日を期待します。

万民があなたの前にひざまずき、彼らの舌で忠誠を誓うことを悟るようにしてください。おお、主よ、あなたの前に彼らが敬拝し、あなたの名に栄光をお返しするようにしてください。万民があなたの王国を悟り、あなたの主権が彼らの上に早く、永遠に立でられることを願います。あなたの主権によって永遠の栄光の中にいらっしゃることを願います。
毎日の祈り、アレーヌ(ユダヤ教)

今の私以上、どのような人にならなければならないか。福音の著者ヨハネの言葉を見てみよう。「私達がどのようになるかはまだ分からないが、キリストがお生まれになれば、私達もその方と同じになることを私達は知っています」。どのようにしてそれが可能なのか。「私達がその方のありのままの姿を見るからです」。これは途方もない約束だ。しかし、信仰の報いでもある。
……あなたが信じる者ならば、信仰の報いを求めよ。しかし、信じてもいないのなら何の代価で信仰の代価を願うのか。
アウグスティヌスヨハネ福音書注解40.9(キリスト教)

この道が苦労で苦痛だとしても、私達は雄々しい信仰で未来に向かって歩んでいかなければなりません。低く漂う絶望の雲で疲れていくとき、夜がいつのときよりも暗いとき、これを思い出しましょう。宇宙には巨大な悪の勢力を打ち砕くことのできる創造的力があることをです。この力は、道が見えない所でも道をつくり、暗かったきのうを明るいあすに変えることができる力をもっています。この道徳的宇宙が及ぶ所が小さいことはなく、宇宙はいつでも正義に向かって傾いていることを思い出しましょう。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(注5)(キリスト教)


―み言選集―

希望は蘇生と通じるのであり、あらゆる発展と通じるのであり、勝利と通じるのであり、繁栄と通じるのです。
(64-311、1972.11.12)

人間が願う最高の希望は、神様のもとに帰ることです。(注6)
(68-131、1973.7.29)

神様の永遠の希望が残っている限り、今日の私達にも永遠の希望が残っています。

(1-99、1956.6.6)
未来のために生き、勉強も未来のために行い、未来のために闘争し、未来のために見つめていく人は、常に神様が役事するのです。
(97-242、1978.3.19)

人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。

人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えていける一つの希望を求めて、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日、地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。

今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界、あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利できる一つの希望です。私達にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。
反面、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間に、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立てる永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。
(6-45 ~ 46、1959.3.22)

苦労の中で耐えながら、受難の中で耐えていきながら神様に対して、「私達の願いをかなえてください」という祈祷の心を、民族が一つとなって歴史を通して継承してきたという事実です。これはいかなる民族にもないものです。普通の民族ならば「神様がいるならなぜこのように苦労をさせるのか」と言って、自分たちを呪う神様と見るはずです。
(168-52、1987.9.1)
平和の国に向かって、平和の天国に向かっていくべき希望の息子、娘が凛々しく活気に満ちた姿勢を備えて進むようにしてくださり、天の勇士たちとなり、天の精兵たちとなるよう許諾してくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。
(33-273、1970.8.16)

きょうは真の父母様の宣布の日です。誰も信じることができない世の中であり、誰も望みをもてない絶望的な世の中ですが、一つの希望が芽生えています。それが正に真の父母だというのです。
(202-341、1990.5.27)

冷たい冬の木枯らしよ
残忍なその手を清めよ
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ
いかに残忍な雪風も
消えゆく運命のひととき
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ
起きよ春の蝶、ひばりよ
荒漠な山河につらい夢
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ(注7)
聖歌第2 部2 番

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世界経典-55

2022年07月24日 15時16分57秒 | 学習


③霊的知恵の欠乏と高度に発達した知識の危険

―宗教経典―

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。

そのような知恵は、上から出たものではなく、地
上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
ヤコブの手紙3.13 ~ 18(キリスト教)

知識には、聖なるものと邪悪なもの、二種類があることをはっきりと知りなさい。一つは聖なる霊感の泉から湧き出るものであり、もう一つは空虚で、あいまいな思想の反映にすぎない。

聖なる知識の根源は神御自身であり、邪悪な知識の原動力は、利己的な欲心のささやきである。一つは、「神を畏れよ。神はお前を教え導くであろう」という原理によって導かれる。もう一つは、「知識は人間とその創造主との間の最も悲しむべき幕である」という事実を確認するものにすぎない。聖なる知識は忍耐、熱望、真の理解の結実と愛を生む反面、邪悪な知識は傲慢、虚栄、慢心ばかりを生むだけである。
確信の書69(バハイ教)

上がもし知を好んで、しかも道がなければ、天下は大いに乱れるのである。どうしてそれが分かるかと言えば、そもそも弓・弩・あみ・戈(いぐるみ)など、いろいろな道具の知恵が多くなれば、鳥は空で落ちつかず、釣・餌・あみ・よつであみ・やななど、いろいろの知恵が多くなれば、魚は水の中でおちつかず、わなやおりなど、色々な知恵が多くなれば、獣は沢の中で落ちつかず、知恵、詐術が次第に害毒を流し、……色々な議論が多くなれば、世俗は弁舌に惑わされる。だから、天下が乱れて真っ暗闇になるのは、知を好むところにある。だから、天下の人々は自分の知らないものを追及することを知って、自分が既に知ったものを追及することを知るものがない。皆、よくないと思うものを非難することを知って、自分が既によいとしたものを非難することを知るものがいない。そのために大いに乱れるのである。

こうして上は日月の明にもとり、下は山川の精をとかし、中は四季の調和をやぶり、地上をはいまわったり空を飛んだりする虫も、その本性を失わないものはない。知を好むものが天下をこのように乱すとは、ひどい話ではないか! 三代(夏・殷・周の古代)よりこのかたまさにこうである。純朴な人民をすて、こせこせしてない人を喜び、恬淡無為を捨てて、小賢しい知恵を喜ぶ。こうして天下をかき乱してしまったのである。
荘子10(道教)
知恵なく愛すれば、人を愛しでも分別がなくなる。知恵があっても愛さなければ、分別力があるのに実行できない。したがって、愛とは人類を愛する類型であり、知恵とは人類の災害を除去する類型である。
董仲舒(儒教)

直観的な心は神聖な贈り物であり、理性的な心は真実な下人である。私達は下人に名誉をもたらしめ、贈り物は忘れてしまった社会を創造した。
アルベルト・アインシュタイン

科学と知恵は別である。科学は人が幼子のようにそれをもって遊ぶとき、彼らの指を怪我する不慣れな道具である。
アーサー・エディントン

原子の爆発力は私達の思考を除外してすべてのものを変化させる。それで私達は未曾有の破局に向かって流されている。
アルベルト・アインシュタイン


―み言選集―

私達は、今日のもろもろの科学と哲学が世界の問題を解決するにおいて失敗しできたことを認めなければなりません。自然科学がしてきた偉大な約束は、いつも悪の方向に用いられてきたのであり、人類の真の幸福だけのために用いられることはなかったのです。

社会科学の分野も、利己的で党派的な政権の影響下であまりにも腐敗し、多くの場合、逆機能を発揮してきました。哲学もやはり善や人間の究極的理想に向かう偉大な追求を放棄してしまった、命を失った学問となっています。このような趨勢は、学者たちの無気力と消極的姿勢によってより一層深刻になっています。

学者たちは、研究の業績だけで満足せずに、積極的な指導を要する世界の要請に応じなければならないと考えます。世界は、正しい価値観によって主体の力量を行使する学者たちの責任性ある実践を求めているのです。(170-269~270、1987.11.27)人間は神様の創造物です。そして、人間は創造目的に符合する明確な価値観をもって生きるように創造されました。本来、巨大な価値観を所有してきた創造物であるにもかかわらず、人間はその価値観を無視し、科学の万能性を信じ、それを万病の薬と思っています。その結果、科学技術は、だんだんと公害を増加させる原因になっています。

科学は、人間生活において単純な手段であり、目的にはなり得ません。人生の目的は、神様の創造目的を実現するところにあります。人間は、霊と肉の結合体です。したがって、人間は肉的生命を土台として価値のある人生、すなわち愛と真理と善と美の生活をするようになっています。

便宜的に言えば、科学技術は霊的生活に符合し、肉的生活に必要なものです。したがって、価値のある生活を強調しなかったり無視したりする科学は、かえって価値観の破壊をもたらし、今日のような恐怖と不安の現実に導くのです。この不安な現実から人間を救うことは、本当の価値観を追求し、発見することによってのみ、成し遂げられます。ですから、科学は言うまでもなく、絶対価値に起因したこの価値観に一致しなければなりせん。

この絶対価値は、どこで発見できるのでしょうか。それは、ただ神様の愛においてのみ見いだすことができるのであり、神様の愛による真理と善と美が、すなわち絶対価値です。結局、科学技術の悪用に伴う被害から人間を解放させるのは、科学自体が神様を認識し、神様の愛と同じ方向にその技術を応用するときに可能なのです。
(106-53、1979.11.23)

ケンブリッジに行くと、昔の古典書籍が何万冊もあると誇り、それでそれを学ぶ人がどのくらいいるのかと見てみると、学ぶ人がいなかったのです。管理する人だけしかいませんでした。それは何を意味するのかというと、力の時代が過ぎていったあとには知識が、知識が世界を支配するというのです。知識的な時代に入っていったのです。

それで、アメリカでも、勉強ができる人が出世して世界を動かす、そのように考えたでしょう? 勉強、勉強と言ったでしょう? 次には、最近はお金、お金です。知識よりもお金、お金です。学者が一
生懸命に髪の毛が抜けるほど勉強しても月給が少ないので、労働者よりも劣るのです。学者になって何になるのか、このようになっていきます。お金が世界を支配する時が来たのです。

髪の毛が抜けるほど勉強して、どうするのかとい
うのです。何としてでもお金を稼ぎ、お金をたくさんもらえばよい、このように考えます。その知識の時代が過ぎていき、今はお金が世界を支配しているのです。

それが何ですか。サタンが最も願う世界です。サタンがこの世界を支配する要素なのです。そして知識もそうです。世の中の知識、科学を調べてみると、神様に対してすっかり忘れてしまったというのです。知識の一番の脊髄のようなものが哲学だどすれば、哲学がすべて無神論になり、神学自体も「神様は死んだ」と言っています。


宗教は頭のようなものですが、神様は死んだと考えているのです。「神様は死んだ」とまで言うのです。それで、人の先祖は猿だ、神様が先祖ではなく猿だと言うのです。神様は存在せず、猿が……。神様が先祖なのに、変わってしまって猿が先祖になりました。それはどれほど落ちたかというのです。

それを神様が見るとき、「はは、これは良いなあ!」、そのように言ったでしょうか。棍棒を掲げて、「この力め、この知識め、この物質め」と思い切りたたきつぶしたいと思うのです。
(99-103 ~ 104、1978.9.1)


6.師

師は、自身の教えの中で言行一致の先例を見せる人である。そして、水準の高い行為が裏付けとなった倫理的教えを弟子たちに伝授してあげなければならない。成熟した信仰と豊富な経験、学生個々人の気質と興味に最も適合した方法で指導する分別力まで、師が備えるべき資質である。師は、自身の任務が単純な知識伝授を超え、学生たちが人生に対する目標をもつように奨励し、動機を付与することだということを認識しなければならない。

最も偉大な師は、父母の心情をもち、自分の子女に教えるように弟子たちを訓練する人である。教える能力は、神様から受けた贈り物である。ある面から見れば、師は究極的師、すなわち神様の同参者の位置にいるとも見ることができる。

したがって、良い師は、もっているものがなくても学ぶことを願う人がいれば、自分まで犠牲にして条件なく愛を施さなければならない。教えるときは、いつも神様が私の口を通して語りたいみ言を代わりに語られるという心をもたなければならない。このような脈絡から、最後の段落で、教えを天が下さった召命として説明している。文鮮明先生が牧会者にしてくださった説教方法に関する助言も含まれている。


①立派な師の資質

―宗教経典―

師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。
阿含経長部iii.185 ~ 191、善生経(仏教)

むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。私が行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉
を聞く人々とを救うことになります。(注16)
テモテヘの手紙一4.12 ~ 16(キリスト教)

比丘よ、師は弟子をその息子と思い、弟子は師を自らの父と思わなければならない。このように、師と弟子が互いに恭敬し、尊重し、共にいることによって仏法を修め、行うことに大きな進展があるのである。
律蔵、大品3.1(仏教)

空中を飛び回る白い羽のアオサギが、絶えず巣の中のひなを思ってすべての心をそこに置くように、真の師は心の中に弟子を抱いて忘れることができず、それによって神の愛に没頭するようになる。
アーディ・グラント、ガウリー、M.4 (シーク教)

先生がいわれた、「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついてゆけないこと、善くないのに改められないこと、そんなになるのが私の心配ごとである。」
論語7.3(儒教)

修道院長の名を与えられた者は、二重の教えによってその弟子たちを治めなければならない。すなわち、言葉によるよりは行為により、彼らにすべての善で聖なるものを示す。理解力の優れた弟子たちには言葉により主の掟を提示するが、心がかたくなな者、愚鈍な者には、自ら行為によって神の教えを示さなければならない。
ヌルシアのベネディクトゥス戒律2(キリスト教)

ハルン・アル・ラシドが彼の息子の家庭教師に言った。「あなたに私の血と私の魂の宝物をあげました。あなたは、私の息子に権威があり、彼はあなたに服従しなければなりません。ですから、すべてのムスリムのカリプがあなたを信任しているという信仰に注目してください。

クルアーンを暗唱させ、歴史を教え、詩を詠ませてください。使徒の伝統と言葉に対する丁重さを教え、適切でないときに笑わないようにしてください。彼が怠惰を愛し、それに慣れて彼の考えを抑圧するかもしれないので、彼に有益なことを教えずに時間を無駄にしたり、彼がけがをしないようにしてください。親切と同情で彼を正してくだ
さい。彼が服従しないときにだけ罰を与え、強制してください」。
イブン・ハルドゥーン(注17)イスラムでの子女養育法(イスラーム)


―み言選集―

教授たちの断固とした決心と明確な価値観による後進への教育こそ、この時代の要請であるばかりでなく、教える者の基本姿勢でもあります。この点では、宗教指導者と教授たちに共通点があると思います。それは、私達が知識を伝達し、また研究結果を教育するだけでなく、人生に責任をもって教えてあげなければならないからです。
(130-16、1983.12.18)

私自身を条件なく捧げて頼ることができ、私の心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そのようにできない人は、天上の心情を知る道埋がありません。これを人間に直接的な関係として結んでおいたものが父子の関係です。
(4-168、1958.4.6)

師は父母の心をもち、主人の心をもち、自分の家を守るように学校を守り、学生たちを自分の息子、娘のように教育しなければなりません。(注18)
(203-308、1990.6.27)

師は父母の代わりに、愛でその教え子を教育しなければなりません。永遠の愛をもって教育しなければなりません。その学級で出会った、その時だけの因縁ではないというのです。自分が教えてあげた教え子に対して、一生忘れてはなりません。このような愛の因縁を結ぶことに努力しなければなりません。

ですから、自分のすべての知識を愛とともに連結させる師が真の師なのです。何かの生活方便として月給をもらうために教えるのではなく、愛を抑えることができずに教えてあげざるを得ない、自分の生活が困難になっても教えてあげなければならないという、そのような師にならなければなりません。夜でも昼でも訪ねていき、自分がもっている知識を愛で永遠に伝授してあげ、またそれを受けたいと思う師弟間にならなければなりません。それが真の師であり、真の弟子です。
(127-17、1983.5.1)
皆さんの学校に、何が何でも自分の弟子たちに正しい思想を伝授しようと努力する師がいれば、彼は国家の運命を心配しながら、皆さんの手を握って涙を流し、このように勧告するでしょう。「私のために順応するのではなく、国に対して順応しなさい。私のためによくするより、国のためによくすることを願う」と言うはずです。

このような教えを受けた弟子たちは、その師が成し遂げることのできなかった志を成し遂げるのです。このように、師は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国家と世界の価値を重要に思いながら子女のために精誠を尽くせば、その師の弟子とその父母の息子、娘たちは「棟梁の材(中心人物になり得る人)」になるでしょう。
(25-98 ~ 99、1969.9.30)

教授たちは若者に多くの影響を与えます。しかし、人は父母を通してより大きな影響を受けるのです。個人の性格と人格形成に最も大きな影響を及ぼすのは家庭です。
人生において、家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。

父母は子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師となり、心情教育、規範教育を正しく行うようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は父母からあるがままに似て学ぶようになります。父母の役割はこのように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
(271-80 ~ 81、1995.8.22)


②学生の価値を引き出す師

―宗教経典―

先生がいわれた、「乾肉一束を持ってきたものから上は、〔どんな人でも〕私は教えなかったということはない。」
論語7.7(儒教)

私は青年たちを教える。そして、貧しい家の子供たちと富裕な家の子供たちを同じように接する。お金を出す余裕がない人たちにも、無料で教えてあげる。私はまた漁夫なので、来たがらない人たちを激励するため、彼らが家にもっていく魚を一匹ずつ渡してあげる。
タルムード、タアニート24a (ユダヤ教)

イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしを
やってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書13.6 ~ 9(キリスト教)

賢人は人を救うのにすぐれており、だからどんな人をも見捨てない。彼はまた物を救うのにすぐれており、だから何物をも見捨てない。これは明を洞察すると呼ばれる。だから、善である者は善でない者の師であり、善でない者は善である者の源
である。善ある者をありかたく思わず、善なき者を大事にしないならば、どんなに知恵があっても迷いがある。これはたいせつな秘密である。
道徳経27(道教)

四つの類型の人がいる。知識をもっており、それを悟っている者、これは学者だ。彼に従え。膨大な知識をもっているが、自分がもっているものが眠っていることが分からない者。彼を目覚めさせよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知っている者は無知である。彼を教えよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知らない者は悪魔だ。彼を避けよ。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興59.1(イスラーム)

先生がいわれた、「〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。〔言えそうで言えず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅をとりあげて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。」
論語7.8(儒教)

私は私の師から多くの律法を学び、同僚からより多くの律法を知るようになった。しかし、弟子たちからはすべての律法を学ぶようになった。
タルムード、タアニート7a(ユダヤ教)

わたくしは三人で行動したら、きっとそこに自分の師をみつける。善い人を選んでそれに見ならい、善くない人にはその善くないことを〔わが身について〕直すからだ。
論語7.21 (儒教)

ソクラテスがイスコマコスに尋ねた。「教えは質問を投げかけるところにありますか」。イスコマコスが答えた。「実にあなたのやり方の秘密が、私に今明確になります。私はあなたが質問を投げかけるその原理が分かるようです。あなたは私自身の知識世界を通して、私を導いていきます。そしてそのとき、私が知っていることと類似したことを指摘することによって、今まで私は分からないと信じてきたあることを、私が真実を知っているということを説得しています」。
クセノポン家政論(ヘレニズム)

賢人に与える賢明さは、学習に優れていたか劣っていたかによる疑問である。覚えておきなさい、彼が掘り起こし、種を蒔き、陶工の作品を練習し、漁夫だったときから皇帝になるときまで、常に他の人からどのように善を行うのかを学んだ。
朱熹(儒教)
―み言選集―

神様は、「あなた達は私のためにいなさい」とは言いません。「私はあなた達のためにいる」、このように言います。父母が子女たちに、「お前たちは、お父さんとお母さんのためにいなさい」と言うのと、「お父さんとお母さんは、お前たちのためにいる」と言うのとでは、どちらが真の父母の立場ですか。

教師が学生に、「あなた達は私の月給袋に補給するための倉庫だ。だからお金をもってこなければ知らない」と大声を出すのと、「お金をもってこなくてもよく、私が飢えてもよいから、あなた達のために私は教える」と言うのとでは、どちらが真の先生の立場ですか。
(104-210, 1979.5.6)

向き合う人がいれば、何気なく向き合うなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。私が常に求めている事実はそれです。
(76-132、1975.2.2)

試験というのは、学生たちがすべて知っている問題を出すか、知らない問題を出すか、ということが問題です。本当に1等を出すためには、ここに50 人近くいますが、この50 人が知らない題目を選ぶのです。それを問題なく片づけるようになれば、その教授と相対になれます。そのあとからは、その人を見るだけで喜ぶのです。一生の間テストしてみても誰も分からなかったのに、その問題を解くある人がいれば、その人は後継者になれるという評価の基準が立つのです。
(66-45、1973.3.18)

神様は、先生に対して残忍な神様です。一番下から上がっていき、ここにレバレンド・ムーンがいなければ神様が寂しいので……。何の試験をしてもその試験にパスするから信じるのであって、試験にパスして、また試験することが残っていれば信じますか。同じことです。論文を上手に書けば、博士学位を与える指導教授が「私が先生として侍る」と言うのです。その立場に行ってこそ、博士全体がサインし、歴史に誇るようになるのです。それと同じです。そうしてからその教授も、「私はきちんと指導できた」と考えるというのです。
(320-251、2000.4.16)


③神様と共に教える

―宗教経典―

私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させててくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
コリントの信徒への手紙一3.6 ~ 8(キリスト教)

それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。
ルカによる福音書21.13 ~ 15(キリスト教)

目で見る者が格言を残す(注19)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

多くの者は聞くことすら叶わず、聞くといえども知るなきもの(自我)、そを捉えて克(よ)く巧みに説き明かす人は希有なり。しかのみならず、巧みに教えられてもこれを諦むる人すら世に希有なり。所以如何(ゆえいかん)となれば、庸劣なる人物が教えんには、様々に思いをこらすも、終に彼(自我)は正しく認識せらるる能わず。

されど、そが他人の教うる所とならずんばそれに格(いた)るの道なし。そは極微量(ごくみりょう)よりも微にして、計量すべからざる程のものなり。愛するものよ、この宗旨は考索を以ては達し得べからず。

他によりて説かれし時にのみ正しく識得せらるるを得るなり。……この我は言詮に依ても、将、眼に依ても得べからず。唯「彼存す」と云ふ直感を外にしては、如何にしこれを得べけむや。
カタ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 9、2.6.12(ヒンドゥー教)


―み言選集―

神様は真の愛を中心とする父です。神様は真の愛を中心とする真の師です。
(203-237、1990.6.26)

皆さんが壇上に立つとき、「私が壇上に立つとき、神様と一緒に立つ」という生活哲学がなければなりません。神様と共に、神様が一緒に暮らしたいと思う立場で、聖人を代表する、国王を代表する、国民を代表するという立場に立って宣言する教育をしなければなりません。「私を手本としなさい!」。手本とするのは知識ではありません。国と共に、聖人の道理と天理と共に一緒に暮らしたいと思う情緒的基盤の上で……。

(148-277、1986.10.11)
祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ」という内容をもって説明できる立場に立てば、その立場が正に神様が天地万物を創造された立場なのです。神様がみ言で被造物を創造された立場だというのです。そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そのようにすれば、人々も、必ずそのみ言に触れてみようと思うのです。
(29-321、1970.3.13)

この世界は、良い師を、良い先生を願い、良い父母を願います。本来、堕落しなかったなら、最高の父母が誰かというと神様であり、最高の教師が誰かというと神様です。あらゆることにおいてそうです。神様は愛も満ちあふれ、知識も満ちあふれているので、誰が引っ張っていくことができますか。

サタンが若い人をすべて奪っていこうとするので、「おい、全員ハーバード大学に行きなさい!」、次にはまた、「愛する人を探そう!」と言います。それしかありません。そのアメリカ式の愛は、どんな愛でしょうか。それは、間違いなくサタンがさせるのです。


それでは、神様が人間に教えてあげたいものは何でしょうか。神様が本当の先生だということを教えたいのであり、神様が本当の父母だということを教えてあげたいのです。それ以上はありません。

人間の堕落とは何かというと、無知ゆえに起きたのです。知ることができませんでした。無知ゆえに堕落しました。堕落とは何ですか。自分を愛そうとしたことが堕落です。自分を中心として愛を要求したので堕落したのです。堕落していないところが何ですか。神様を中心として愛そうというところです。それが違うのです。
(102-233、1979.1.1)

 

7.弟子の道理

学生は、教えを受けようとすれば、立派な師を求めてその方の訓練に従わなければならない。そして、単純な知識を受ける人の段階を超えて、正しい弟子にならなければならない。弟子になるというのは教育の核心的部分である。立派な教育とは、訓練と指導過程を通して学生の全般的存在を構成し、形成するところに関与するという意味である。

東洋の宗教には、師と弟子の関係の典型が成立した。この諸宗教は、言葉より実質的体験を通して真理を理解しようとする。このような内容は、医学とほかの学問のように、長い見習い期間を経て技術を完璧に習得する分野でも見いだすことができる。

この節では、段落が終わるごとに真理を受け入れる学生たちの能力差があるという事実を明らかにしている。重ねて強調したいことは、教育が知能より、心情とより密接に関連しているということである。
神様は、新しいぶどう酒で私達を満たしてあげたいと思っていらっしゃる。しかし、ぷどう酒を入れた袋が古くなれば、結局、すべて破れてしまうだろう。神様は、私達の胸に御自身の種を植えたいと思っていらっしゃる。しかし、私達の心情の畑が石のようであれば、その種が根を下ろすごとは困難だろう。

したがって、霊的求道を歩む学生たちの最大の課題は、心の破片を除去し、心情の畑が霊的真理をよく受け入れることができるよう準備することである。


①立派な師の弟子になること

―宗教経典―

さてもしもそなたに祭事についでの疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろのバラモンがいて、判断力あり、〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。 タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.4(ヒンドゥー教)

あなたの家が知恵ある者たちの出会いの場になるようにして、彼らの足についた埃をあなたにかぶせ、彼らの言葉であなたの渇いた喉を潤せ。
ミシュナ、アヴォート1.4(ユダヤ教)

ある土地を知らぬ者には、それをよく知っている者が必要であり、彼は知っている者に教えられて前に進む。それこそが実に教育の恵みであり、人はまっすぐに前へと進む道を見出す。
リグ・ヴェーダ10.32.7 (ヒンドゥー教)
それを、〔師への〕服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を教示するであろう。それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。それによりあなたは万物を残らず、自己(アートマン)のうちに、また私のうちに見るであろう。
バガヴァッド・ギーター4.34 ~ 35(ヒンドゥー教)

(おのが)罪過(つみとが)を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
法句経76 ~ 77(仏教)

十方世界において(過去、現在、未来の)三世のすべてに属する、ありとあらゆる人中の獅子(である仏)たち、そのすべてに、身体も言葉も心も清浄な私は、残りなく礼拝します。
入法界品、普賢行願讃(仏教)

汝等立ち上がれ。眼醒めてあれ。今わが種々(くさぐさ)の施願を得て悟る所あれ。げに、砥(と)ぎすましたる剃刀は渡り難けれど、この道も歩み難しと賢者は教う。
カタ・ウパニシャッド1.3.14(ヒンドゥー教)

顔淵がああと感歎していった、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、きりこめばきりこむほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、ふいにまたうしろにある。うちの先生は、順序よくたくみに人を導かれ、書物でわたくしを広め、礼でわたくしをひきしめて下さる。やめようと思ってもやめられず、もはや私の才能を出しつくしているのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、ついてゆきたいと思っても手だてがないのだ。」(注20)
論語9.11 (儒教)


あなたの見解があなたの師のものと同じとき、あなたはあなたの師の長所を削り取る。あなたの見解があなたの師のものを凌駕するとき、あなたは彼を継ぐだけの資格がある。(注21)
無門関17(仏教)

人は全く同じである。ゆえに最も厳しい学校で訓練される人が最高だ。
トゥキュディデス戦史1.84(ヘレニズム)


―み言選集―

この地に神様の性稟をもった人がいますか。この世の中にイエス様の純粋な性稟を所有した人がいますか。その人を探して友人としてください。どこかに高潔な人がいますか。彼に従ってください。どこかの神様の性稟をもって和動させる人がいますか。彼に従って侍ってみてください。そうすれば必ず命の道を見いだすでしょう。また、その方に従って侍ったという条件で審判を免れるでしょう。
(2-318、1957.7.7)

心惰を離れては生命がありません。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるときは、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、入り込めば入り込むほど涙です。「自分」はなくなります。
(9-81、1960.4.12)

先生が皆さんのために、どれほど苦労したか分かりますか。どうやって皆さんが上手に文章を書き、上手に詩を詠み、名筆になったのですか。すべて皆さんが自ら知ったのですか。それが皆さんのものですか。何も分からない白紙に、すべて先生から相続したのです。知識を愛する人たち、学問を愛する人たちは、知識や学問は愛しますが、これを伝授してあげるために無限の功を尽くした先生を愛することを知りません。人は、父母に対して恩徳を受けたことを知らなければなりません。その次には、師に対して感謝しなければなりません。師は第二の父母です。東洋では師を第二の父母といいます。
(104-278 ~ 279、1979.6.1)

国のために、世界のために、皆さんにたくさん苦労させ、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。行かないといえば激しくたたかなければなりませんか、どのようにしなければなりませんか。私とあなたの生活において、これを知る人と父子の関係にあれば、兄弟の関係にあれば、師弟の関係にあれば、「父母様、骨を砕いてください」、「お兄さん、骨を砕いてください」、「先生、骨を砕いてください」と言わなければなりません。足で蹴飛ばして現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
(49-304、1971.10.17)

「おい、おい、おい、お前はそんなつらいことをしなくてよい。適当にやればよい。つらい勉強をする必要はないから、適当にやりなさい」と言う先生であれば、そのような先生は偽者です。皆さんは、そのような先生が好きですか。それはなぜかを考えてみましょう。今のためですか、未来のためですか。このようにすれば、将来間違いなく発展するのです。
(93-232、1977.6.5)

劉孝元協会長は、先生に従ってきながら私のためにたくさん苦労しました。その中でも、先生が監獄にいるとき、先生のことをたくさん考えてくれました。ですから、先生が劉協会長を考えれば、「彼は、これこれこのような人だ」と思うようになります。監房に横になっていても、早朝になれば会いたいという情に引かれ、もらった紙切れ一枚でも、命に値する価値のものとして受け入れることのできるほどの内縁の支えが彼にありました。そのような協会長だったことが思い出されます。
(33-83、1970.8.9)


②自我を適切に啓発しない理解は根源に至ることができない

―宗教経典―

だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。(注22)
ルカによる福音書5.37 ~ 39(キリスト教)

初めその辞に率ってその方を揆れば、既にして典常あり。苟(いやしく)もその人にあらざれば、道、虚しく行なわれず。
易経、周易繋辞下伝2.8.4 (儒教)

道というものは、たとえ外から与えられたとしても、それを受け取る主体が心の内にできていなければ、……あとに残らないからである。また、たとえ道を得たとしても、道の実現に適合するような外部の条件がそろっていなければ、せっかくの道も実現されないからである。

だから、心中から発する道が、外の世間に受け入れられないような場合には、聖人はその道を外に示そうとはしないものである。また、外から道を教示しても、その人間の内にこれを受け取る主体ができていない場合には、聖人はむりにその道を受け入れさせようとはしないものである。
荘子14(道教)

ある者は、見つつありて〔しかも〕言語を見ず。またある者は、聞きつつありて〔しかも〕そ(言語)を聞かず。またある者に、〔言語は〕身を委(まか)せたり、あたかも美服をまとい、恋い慕う妻の夫におけるがごとくに。
リグ・ヴェーダ10.71.4(ヒンドゥー教)

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
マタイによる福音書13.18 ~ 23(キリスト教)

すぐれた才能をもっている人が「道」に耳をかたむけたとき、熱心にそれを行なう。普通の人が「道」に耳をかたむけたとき、それを信じるように見えるが、信じていない。最も劣った人が「道」に耳をかたむけたとき、大声で笑う。笑わなかったら、それは「道」ではないかもしれない。
道徳経41(道教)

―み言選集―

先生もじっと考えてみると、苦労をし、監獄に入っていって苦しんだのは何かというと、結局は心一つを大きくするためのものでした。ほかのことはありません。ほかのことはないというのです。

心を大きくして何をするのでしょうか。神様が入ってきて暮らそうというのです。神様が私の心に足を踏み入れるのです。足を踏み入れようとするのですが、足が入らないように閉じています。そのようなときは、左足で蹴飛ばします。この足で蹴るのです。しきりに蹴飛ばすと、どんどん伸びていきます。それでしきりに蹴飛ばすのです。
そうして片足が入り、両足が入ります。両足が入ると、手が入っていき、頭も入れて……。そうだというのです。これが伸びればとても大きいのです。

先生がお母様を(注23)見ていると、ほっそりしていたおなかに赤ん坊が宿って10 ヵ月たつとどんどん大きくなります。それは何がそのように伸びたり縮んだり……。小さな子宮がです。「うわあ、10 パウンド近くにもなる赤ん坊が水に包まれて大きくなるのだから、どれほどよく伸びるだろうか。私の心の袋はそれよりもっとよく伸びるだろう」と考えてみました。皆さん、赤ん坊がいる子宮が伸びずに死ぬと考えたことがありますか。そのようなことは思いもしません。

もし神様の生命が、神様のような生命の種が私の心の袋に落ちて育ち始めれば、神様くらいに大きくなるのですが、そのように大きな神様を包括できる私の心の袋にならなければ、神様はどうなりますか。大変なことになります。人も大変なことになるのです。そのように考えられます。

さあ、皆さん、心の中で神様が3ヵ月くらいいて大きくなれずに流産すると考えてみてください。神様が堕胎するかもしれない心の袋に入っていくでしょうか。そこに種を植えるでしょうか。
(110-326、1981.1.4)

8.学びと実践

真理を知ってからは実践が伴わなければならない。実践につながらない知識は、真の知識とは言えない。そのような知識は、蜃気楼のようにすぐに消えてしまうからである。真の知識は、概念的なものが経験的なものに変わって、初めて悟ることができる。この話は、特に難しい修行過程を要求する宗教と道徳の教えに適用される。自身を賢明で信仰深い人だと言いながら、行動が違う人は、正に偽善者である。言行一致こそ、真実な個人の核心資質である。

師は、教える前にまず経験しなければならない。東洋では、自分が知っているが、まだ完全に実践できていない知識を誇らないために、常に寡黙で言葉を慎むことを美徳としている。事業やあらゆる分野でも、指導者に同じ原理が適用される。青年時代、あらゆる大変なことを経験した指導者は、部下たちが願うことを正確に理解するため、彼らの尊敬と忠誠心を簡単に得ることができる。

―宗教経典―

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。(注24)
ヤコブの手紙1.22 ~ 24(キリスト教)

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
法句経19 ~ 20(仏教)


あなたの口の中に留まっている知識はとても皮相的だ。本当の知識の長所と価値は、あなたが行なうことである。
ナフジュ・アル・バラーガ語録90(シーア派イスラーム)

学ぶことが最高ではなく、行動することが最上である。言葉が多いほど罪が多くなる。
ミシュナ、アヴォート1.l7(ユダヤ教)

そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書7.24 ~ 27(キリスト教)

復活の日、神の目に最も下位にいる者は、彼の知識から恵沢を得ることができない識者たちである。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)

子貢が君子のことをおたず礼た。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」
論語2.13 (儒教)

男子にせよ女子にせよ、真実のことを知るときは、そのとおりに善きことを熱誠をもって実践すべきである。それを自分自身のためにです。そして、それがあるとおりにそれを実践すべき人々に、それを理解させるべきです。
アヴェスター・ヤスナ35.6(ゾロアスター教)

先生がいわれた、「自分のことばに恥じを知らないようでは、それを実行するのはむつかしい。〔ことばは慎んでこそ、それを実行できる。〕」
論語14.21 (儒教)


知って行なわないものは決してなく、もし知って行なわないなら、それはまだよく知らないのである。……ある人が孝行のことを知り、ある人が弟のことを知っているというばあいには、その人が必ずすでに孝を行ない、弟を行なっていてこそ、彼は孝を知り弟を知っているといえるのであって、ただわずかの孝弟の話を知っているだけで、すぐに孝弟を行なっているということはできないのである。

同じように痛いことを知るというのは、必ず自分が痛いことを経験してからのことであり、寒さを知るというのは、凍えた経験をもってからのこと、ひもじさを知るというのは、飢えた経験があってのことである。このように考えると、知と行とはどうして分けることができようか。分けられないのが知行の本来のすがたであり、私意によって少しも隔てられない状態なのである。
王陽明伝習録(儒教)

実践がないむなしい悟りは役に立たない悟りであり、それはただ空虚な悟りにすぎない。悟りのないむなしい実践は、正しい方向がない実践であり、それはただ間違った実践にすぎない。知(知恵)と行(実践)は、互いが常に必需的であり、ちょうど目は足がなければ歩き回ることができず、足は目がなければ見ることができないのと同じである。

先後(順序)を論じれば、知が先であり、軽重(比重)を論じれば実践が重い。今、そのあることを知りながらも、実践がまだ及んでいなければ、知恵が依然として薄いのである。既に自らそれを実践したなら、知恵はより明るくなり、過去の意味とは異なるだろう。
朱熹(儒教)


―み言選集―

心で考えることを、実践できなければなりません。心で考えてばかりいてはいけません。なぜ行勤しなければならないのですか。行動することによって中心が生じるのです。言行一致という言葉は、心を身代わりする言葉と行動が一致しなければならないということです。(注25)
(248-89、1993.8.1)

学んだことは実践しなさいというのです。実践は立体的であり、縦的、横的であり、四方八方に広く、深いのです。(注26)それは、あの国に行って生活できる材料を活用するための訓練をしているのです。
(248-166、1993.8.1)

人間は創造原理において明らかにされたように自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

先生が実践しなければ、教える資格がないことを知らなければなりません。
(134-203、1985.7.20)

これから私達がすることは何でしょうか。教育です。これは誰が何と言おうと、体験して話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いたのではいけません。そのようにすることによって、天の側の高い位置に上がっていくのであり、中心存在になるのです。
(205-130、1990.7.29)

ですから、先生が考えるには、自分が世界的な指導者になり、今後大衆を動かすことができる責任者になろうというときは、30 歳までにすべて経験しなければならないと思います。これが、先生が体験してみた結論です。そのようになろうと思えば、一生に忘れることのできないあらゆる材料を、体験を通してたくさん得なければなりません。

仕事場に行って働きなさいという話をするときは、自分が昔、深刻な立場で土を担がなければならず、もっこ運びをしなければならない、そのような所で働いていた心情を感じながらそのような話をすれば、聴衆たちは深刻に聞き入るのです。専門家は、自分が経験した基盤の上ですべてのものを解き、教える人です。
(65-302.303、1973.3.4)

先生は多くの苦労を通してあらゆることを体験したのちに、結論を下すようになったのです。言葉だけではありません。実験をしてみました。すべて実験してみたというのです。
(133-83、1984.7.8)


第15章信仰

1.信仰

罪悪に満ちたこの世の中で、大部分の人々は真の自分の姿を見つめられずにいる。神様は、簡単に感じたり、体験できる方ではない。真理もやはり簡単に理解され、実践されるものではない。私達は、自分だけを信じ、目的なく、荒唐無稽な欲望と、誤った概念の海でさまよっている。

人間は、暗闇の中で導いてくれる星が必要である。その星は、地図にも表示されない所を教えてくれ
る星であり、これがすなわち信仰である。信仰は、宗教的信念と天の戒めに従って生きようとする努力から始まる。宗教で教える信条は、いくつかの単語で表現されるが、それらは、私達が神様と関係を結べるよう正しい道に導いてくれる。

信仰は、深まれば深まるほど、それ自体が神様の下さった贈り物であることを悟るようになる。信仰を通して神様は、自分自身も救援できない堕落人間と再び関係を結ぼうとする御自身の愛を見せてくださる。

信仰と仕事を比較した使徒パウロの話のように、日本の仏教聖者・親鸞も似た教理を教えている。彼は自分の信仰を、「またもう一つの力」に依託したという。これは、純粋で、自分本位の利己心に染まっていない信仰である。

信仰者の自信や信仰する能力自体には、何かの根拠があるわけではない。文鮮明先生は、人間は誰もが罪で汚れており、罪悪の血統を受けて生まれたために、自分だけの努力で罪を蕩減できる人は誰もいないと語られる。したがって、天との関係において、唯一で最もふさわしい原則は、神様の愛、すなわち子女に対する神様の愛を中心とするものである。

信仰は、天との相互関係の中で成熟し、信心と真実さで特徴づけられる。神様が願われるとおりに生きようと努力するとき、私達は常に私達を育ててくださった神様の実存を悟りながら、困難な逆境までも克服していくことができる。しかし、神様を信仰の主体として侍るとき、果たして私が神様に頼るように、神様も同じように私を信じて頼れるのか、自問してみる必要がある。

人間は、二つの心をもっている。そして、その間で絶えず彷徨し、ある日は信仰を守り、別の日はその信仰を捨てたりもする。いかなる逆境の中でも、信仰を守って残ることができ、神様が信じることのできる自分になるためには、絶対的完結性と克己の姿勢が必要である(第12 章参考)。神様も、大きな使命を受けて完遂できる人を求めていらっしゃる。

文鮮明先生は、「絶対信仰」を強調される。苦難の中でも堅固に生き残り、揺るがない信仰が絶対信仰である。それはまた、私的な欲求に妥協しない信仰である。迫害と悲劇、喪失を経験すれば、信仰が弱い者は揺さぶられることがある。家族と愛する人たちの懇請によっても放棄させられないのが絶対信仰である。自分の主人を否定したペテロのように信仰が弱い者は、危険な状況から逃げたり、さちには信仰をすべて失ってしまう。しかし、絶対信仰をもった者は、山を越え、いかなる逆境にも打ち勝ち、死までも克服して、勝利できる人である。


①信仰:信仰の出発点

―宗教経典―

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16 (キリスト教)

信仰とは……神と天使たち、諸経典と使徒たち、そして最後の日を信じることであり、善であれ悪であれ、神の摂理を信じることである。
ナワウィー40 のハディース2(イスラーム)

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16.29 ~ 31(キリスト教)

言え「人びとよ、私は神のみ使いとして、あなたがた全体につかわされた者である、天と地の大権は、かれのものである。かれのほかに神はなく、かれは生を授け死を賜う方であられる。それゆえ、神と文盲のみ使いに信頼せよ、かれは、神とそのおことばを信奉する、かれに従え、おそらくなんじらは導かれるであろう」。
クルアーン7.158 (イスラーム)

孔子がいわれた、「天命が分からないようでは君子とはいえない。」
論語20.5 (儒教)

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15.6 (キリスト教)

自らの魂をそこなわぬかぎり、たれがアブラハムの教えにそむこう。まさにわれは、この世においてかれを選んだ。来世においても、かれは必ず正義者のひとりである。主がかれに向かって「服従帰依せよ」と仰せられたときを思え。
かれは「私は、よろず世の主に服従帰依し奉る」と、申し上げた。アブラハムは、このことばをその子らに伝え、ヤコブもまたそれにならった。「私の子らよ、神はおまえたちのために、この教えを選びたもうた、それでムスリムとならずに、死んではならぬぞ」。

ヤコブが臨終のとき、なんじらは立ち会ったか、かれがその子らに向かって「私がなき後、おまえたちは何に仕えるか」と、言ったとき。かれらは「私達はあなたの神、アブラハム・
イシマエル・イサクの神、唯一の神に仕えます。
かれに、私達は服従帰依し奉る」と言った。これは過ぎ去った衆のことである、かれらにはそのかせいだことに対し、またなんじらにもそのかせいだことに対し応報があろう。かれらの行なったことについて、なんじらが問われることはないのである。

かれらは言う「おまえたちは導かれようとするならば、ユダヤ教徒かキリスト教徒になれ」と。言え「いや、私達はアブラハムの純正の教えを信奉する。かれは、多神教徒のたぐいではなかった」。祈って言えムスリムよ「私達は、神と私達に啓示されたものを信じます。またアブラハム・イシマエル・イサク・ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、ならびにモーセとイエスに賜わったもの、および主から諸予言に下されたものを信じます。それらの間のいずれにも、差別をつけません。かれに私達は服従帰依し奉る」。(注1)
クルアーン2.130 ~ 36(イスラーム)

汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。
スッタニパータ11.46 (仏教)

祭祀を行ないヴァーユ(風神)を守護者となす神々は、シュラッダーに奉仕する、心からなる意図をもちてシュラッダーに〔奉仕する〕。

人はシュラッダーによりで財物を見いだす。シュラッダーをわれらは呼ぶ、早朝に、シュラッダーを正午に、シュラッダーを日没に。シュラッダーよ、ここに[人々をして]われらを信頼せしめよ。
リグ・ヴェーダ10.151.4 ~ 5(ヒンドゥー教)

信仰に四種類がある。第一は、究極の根源に対する信仰だ。この信仰により信仰者は歓喜によって真如を念じるようになる。第二は、仏陀の数多くの卓越した徳性に対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、常にその徳性を念じ、それらを近くに抱いて過ごし、それらに敬意を表し、それらを恭敬し、これによって自己の善の品性を増長させ、一切を抱擁する明るい知恵を具備するようになる。

第三は、法の気高い有益に対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、悟りに至らせるあらゆる教えを絶えず心の大切に保ち、実践するようになる。
第四は、僧に対する信仰であり、自分自身と他の人たちにすべて益をもたらす実践遂行に専念できる修行僧たちに対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、徳のある菩薩と近くでお目にかかることができ、正しい修行を修める人たちの教えをよく聞くことができるようになる。(注2)
大乗起信論(仏教)
はかり知れない私の信仰、これを言葉と文字で明らかにしようとすれば、誰も最後まで果たすことはできないだろう。筆と紙でも描ききることはできず、直観でもその秘密を見通すことはできない。
崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。
信仰によって意識と知性が全一となり、悟りの真価が一つ残らず表れ見える。

信仰によってこの世で犯した罪を洗い、また死の恐怖から抜けだすがゆえに、崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。信仰によってあらゆる障害が消え、神と共にその国に高く引き上げられるだろう。

信仰の固い者は邪悪な群れに陥って彷徨することがなく、ただ真の信仰によってひるまずに立つがゆえに、崇厳で清浄な主の名はただ信仰の固い者が成す。
アーディ・グラント、ジャプジー12 ~ 15M.1、P-.3 (シーク教)


―み言選集―

元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1

宗教生活をなぜするのでしょうか。私より次元の高い力の投入があるためです。では、その方向はどこへ向かうのでしょうか。今日の堕落した世界ではなく、次元の高い理想的目的に向かうのです。そうではないですか。ですから、神様がいないというのは理論的根拠が成り立たないのです。
(89-76、1976.7.11)

信仰の基準はお金でもなく、知識でもなく、この地の何かの栄光でもありません。無限の価値の中心は神様です。ですから、その中心となる標準を神様においていくのが信仰の道です。神様以外には一切を認めないのです。
(68-131、1973.7.29)

最も重要な問題は、中心に対する確固たる信頼をもつことです。そのような信念をもつまでは、いくら覚悟をしても仕方がありません。この道を歩んでいてあることにぶつかれば、私の信念はどのようになるでしょうか。自問自答してみてください。
(27-114、1969.11.30)

アダムの堕落は、どのようにして起きたのでしょうか。不信して堕落したというのです。不信が第一の原因です。人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければならないのです。絶対信仰をしなければなりません。
(126-35、1983.4.10)

復帰の道を行こうとすればメシヤが必要であり、病気が治るためには条件物が必要なのです。復帰するには医者が必要であり、次には条件物が必要であり、期間が必要です。医者が「薬を三日は飲まなければなりません、治療を1週間しなければなりません」と言います。そして、病気が治った人は、メシヤの代身、救世主の代身としての信念をもたなければなりません。救世主が語る言葉、
医者が語る言葉を自分の言葉以上に信じなければなりません。
(63-183 ~ 184、1972.10.14)

信仰生活において最も問題になることは、信仰の対象、神様です。その次には何でしょうか。信仰の主体である神様は、人を対象としているのです。私達人間は神様を信仰の対象としていますが、神様は人を信仰の対象にしているというのです。これが行き違いです。ですから、私達はこの門前に立っているので、私達は、神様に対して私自身が残すべき一つの骨髄的な思想をもって、生死を共にしなければなりません。それと同時に、人に対しても何じです。
(59-237 ~ 238、1972.7.23)

ある病弊があります。それは「無条件に信じればすべての福を私のものにできる」、このような思想をもったからです。このような思想が打ち込まれています。何でもすべてもつことができるというのです。神様が祝福するというのです。それは、どういうことですか。功なくしてすべて自分のものにしようという人ばかりです。それは、どろぼうです。どろぼう根性です。どろぼう信仰だということです。

イエス様は、どうしてそのように逝ったのでしょうか。世の中を救うためです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と言いました。神様がこの世を愛し得る国と環境になっていないがゆえに、神様がこの世を愛し得る環境にするために、そのように逝ったのです。
(124-296、1983.3.1)

天は、何を待ち焦がれているのでしょうか。信仰者を待ち焦がれているのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれているのです。
(6-84、1959.3.29)

私は、果たして信仰者の態度を備えていますか。希望の心を立ててくるための信仰でしたか。それを願っていた私でしたか。古い信仰をもってすべてができると思い、あらゆることを解決しようとすれば、その道を行けません。正しい信仰の態度をもっていかなければならない私達であるがゆえに、これから私達に死亡の力がぶつかってきたとしても、その死亡の力を清算して余りあるようでなければなりません。痕跡が残されなければなりません。私の情熱もそうであり、私の忠誠もそうであり、私の努力もそうであり、私の忍耐もそうであり、私に属したすべてのものが残される分野がなければなりません。これが天の相続の第一基準になることを知らなければなりません。
(6-92、1959.3.29)

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世界経典-54

2022年07月16日 20時24分32秒 | 学習


4.経典と解釈

経典は、宗教的知識の基礎である。すべての高等宗教は、創始者が悟った神的真理と霊的教えを基盤として定礎され、それが経典に収録された。したがって経典は、信仰者たちの人生を導いてくれる根幹になる。一方、新しい概念と革新的神学的思想が登場したとき、経典はこれらを評価できる不変の基準でもある。規則的な経典学習は、日常の中で神様の導きを発見し、知恵を得るために奨励されている。

しかし、経典を正確に解釈するのは簡単ではない。経典の章句の意味に対する不一致は、これまで信仰共同体において絶えず紛争と分裂を招来してきた。その一つの原因は、経典が比喩と象徴的言語で表現されたためである。したがって、比喩と象徴を理解するためには、霊的分別力と、時には聖霊の力が必要だ。

また、一つの論争は、経典を文字的にのみ理解するのか、時代的風潮に従って考慮するのかということである。宗教は、常に経典の文字に忠実でありながちも、新しい霊的洞察力にも開放的であり、そのバランスを失ってはならない。

仏教用語で「いかだ」があるが、これは私達がそのいかだに乗って桎梏の海を渡り、祝福されたあの地に向かって自由に進んでいける道具という意味である。しかし、経典に書かれたそのごとくにのみ意味を理解すれば、これからの霊的成長には荷物になることもある。過去の解釈は、新しい解釈に譲歩しなければならない。そうでなければ、ちょうどイエス様のときのように経典自体がつまずきの石になってしまうこともあり得る。

この節は、神様の無限の真理を有限の言語でしか表現できない経典の限界を指摘して締めくくっている。イエス、仏陀、そしてほかの宗教創始者たちは、天の真理に対して自分たちが知っていた一部だけを教えざるを得なかったのであり、したがって当時の弟子たちは、それを理解できる水準によって伝えざるを得ない環境圏に生きていた。

文鮮明先生は、すべての経典は神様の創造目的完成に向かう人類を先導するために、時代的な時と場所によって許諾された神様の真理を収めていると語られる。しかし、今もなお明らかにされていない天の真理が残っているため、世界は科学時代にふさわしく表現された新しい真理を迎えなければならないだろう。


①経典の規則的探求を通じた教訓修得

―宗教経典―

私はあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。私は絶え間なくそれに心を砕いています。
詩編119.97(キリスト教)

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスヘの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
テモテヘの手紙二3.14 ~ 17(キリスト教)

賢者たちが聖なる言葉から見た行為は、セベダ聖殿に明快に言明されており、あなた達真理を愛する者たちよ、身につけて遵行せよ!これが善行の世界に行くあなた達の変わらぬ道であることを忘れてはならない。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.1 (ヒンドゥー教)

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。(注7)
申命記6.5 ~ 9(キリスト教)

われは真理をもってクラーンを下したので、真理によってそれは下った。そしてわれは、吉報の伝達者または警告者として、なんじをつかわしたのみ。これはわれが明白にしたクラーンで、なんじをしてゆっくりと人びとに、読唱させるためで、少しずつこれを啓示した。言え「おまえたちがクラーンを信じても、また信じなくとも、以前に知識を賜わった者たちは、かれらに対して読唱されるとき、必ずその顔を伏せて叩頭する、そして、祈って言う「私達の主の栄光をたたえまつる、まことに主のお約束は果たされました」。かれらは涙を流して顔を地に伏せ、謙譲のまことをつのらせる。
クルアーン17.105 ~ 9(イスラーム)

法華経を読誦する者があったら、この人は仏の飾りをもって自分を飾る人であると知れ。それは如来を肩にかついでいることになる。
法華経10(仏教)

私はあなたに信頼を与える。あなたがそれに執着する限り、誤ることはないだろう。それは神が天から地上に下された綱であり、正にクルアーンである。
ダーリミー・ハディース1(イスラーム)


経典とその趣旨にすべての心を全一させよ。これによって生死の輪廻が止まるだろう。
アーヤーランガ・スッタ5.122 (ジャイナ教)

聖なる言葉が師であり、これに対する至極の瞑想により私がその弟子になるがゆえに、不可解なその教えに沈潜することによって私が迷いの鎖から抜け出るだろう。(注8)
アーディ・グラント、ラームカリー・シッダ・ゴーシュトM1p.943 (シーク教)

トーラーに努力する者は、多くのものを得るだろう。さらに全世界は彼に照らされるだろう。彼は友、愛される者、万民の愛する人、人類の愛する人と呼ばれるだろう。彼は謙遜さと敬虔さの服を着ているからである。トーラーは、彼を正義で、敬虔で、正直で、真実な人に導く。それだけでなく、罪を遠ざけ徳に近づくように導いてくれる。
ミシュナ、アヴォート6.1 (ユダヤ教)

神の家の1つに集まって神の書を朗読し、互いにそれを学び合う者たちの上には、必ず静けさが訪れ、慈悲が彼らを包み、天使たちにとり囲まれた彼らの名は、神が自らの近みにとどめおく者として読みあげられるであろう。
ナワウィー40 のハディース36(イスラーム)

二人が共に座って交わす言葉がトーラーに従うものであれば、シェキーナーが彼らと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)

二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)


―み言選集―

宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためである。
原理講論、総序

それゆえに、復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。
原理講論、復活論2.1

ヨハネによる福音書5章24 節を見ると、「私の言葉を聞いて私をつかわされたかたを信じる者は永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。それは、火で燃やしてしまうということではないというみ言です。なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていくことができません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。
(69-128、1973.10.23)

皆さんが聖書を見るときは、最も悲しいものを見なければなりません。天国に関する内容や黙示録のようなものは外しても、最も悲しいものを見なければなりません。皆さん、ある人の親しい友人になろうとすれば、その人の最も悲しい事情に通じることができ、理解できなければならないではないですか。同じことです。私達が神様の息子、娘の位置を求めていくにおいても同じです。

そのような内容のみ言を皆さんは求めていかなければなりません。そのようなみ言がこの地上に現れ、皆さんがそのみ言を聞くようになるときには、おなかの中から絶えず悲しみがわき上がってくるのです。自分でも分からないうちにおなかの中から痛哭がわき上がってきます。10 日、100 日、1000 日泣いても、絶えず泣きたくなるのです。そのような感じを与えられるみ言がこの地上に出てきてこそ、神様の「複葬(仮葬したのちに定期間をおいて骨を取り出して行う葬式)」をすることができます。そのようなみ言を探し出さなければなりません。
(10-137、1960.9.18)

神様が願う教育をしなければなりません。どの世界に行っても訓読会(注9)をしなければならないのです。村に訪ねていけば、私達がすべきことは何ですか。あいさつよりもっと重要視しなければならないのが訓読会です。訓読会を好きになれば、天国に行きます。訓読会を一生懸命にやれば、霊界の協助を受けることができるのです。

神様のみ言を訓読する所に神様が共にいらっしゃ
います。霊界にいる神霊が再臨し、霊人の再臨協助の役事が起きるのです。したがって、訓読は霊界を動員する道になります。聖霊の役事も、家庭を正しく立て、教会を復興させるために訓読会をしなければなりません。訓読会をする目的は、み言の本体であられる神様と真の父母様に似るということです。訓読会を通して真の家庭が一つになるように、私達も訓読会を通して真の家庭と一つにならなければなりません。
(321-32、2000.2.14)


②比喩で教える経典

―宗教経典―

またこのクラーンの中で、われは各種の比ゆを人びとのために提示した、おそらくかれらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン39.27 (イスラーム)

もろもろの生ける者たちに種々の欲望があり、深く心に執着するところがあるのを知って、その本性に随って、種々の因縁と喩えとことばと方便力とによって教えを説くのである。
法華経2(仏教)

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコによる福音書4.10 ~ 12(キリスト教)

かの讃歌(rc)の字音(aksara)に於て、最高の天に於るあらゆる神々は坐せり。彼を知らずば讃歌を以て何をか為さん、實(げ)に彼を知れるものは悉くこれに集へり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.8(ヒンドゥー教)

聖書のもろもろの話は、トーラーに重ねて着せられた服にすぎない。それらをトーラー自体と理解する人たちよ、残念だ!
ゾハール、民数記152a (ユダヤ教)

かれこそは、この経典をなんじに下したまえる方で、その中のある節は決定的で、それらは経典の根幹であり、他の節は比喩的である。そこで心のよこしまな者は、比ゆ的の部分にとらわれ、その隠された意味の一致せぬ点を探し求めて、それに己れの解釈を加えようとする。だが神のほかには、その真の意味を知るものはないのである。
それで知識の基礎が堅固な者は「私達はこれを信ずる、すべて主から賜わったものである」と言う。(注10)だが理解ある者のほかは、留意しないであろう。
クルアーン3.7(イスラーム)

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ぺテロの手紙二1.20 ~ 21(キリスト教)

もしあなたがあなたの心の鏡で悪の塵を磨けば、あなたはすべての摂理において明白になる、万有を抱擁する神の言葉によって啓示された象徴的言語の意味を理解するようになり、神聖な知識の神秘を悟るようになるだろう。
確信の書68 ~ 69(バハイ教)


―み言選集―

神は、時ならぬ特に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ16・25)。それゆえ、聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに聖書を解釈するに当たっては、その観点をど
こにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
原理講論、再臨論2

今日、新郎が新婦を求めていくための書簡体で書かれた聖書のみ言には暗号が多くあります。なぜ暗号で語られたのでじょうか。心情の神様でいらっしゃるからです。聖書は誰も解けません。解けないのです。新郎と新婦だけが解けます。心情を通して侍る準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。

ここにある暗号の正体は何でしょうか。新郎が来る門を開く秘訣ですが、その秘訣とは、何でしょうか。心情です。父母の心情は、幼い子供を抱いてお乳を飲ませるときや、その子供の頭が白く白髪になったときも同じです。その心情には差がないというのです。

ですから、私達は聖書に隠れているすべての心情の根源を開かなければなりません。知らなければならないということです。これを知るには、学士や博士が必要なのではありません。彼らがいくら解釈しても、学説は通り過ぎます。

心情は論理によって支配することはできません。理論では体恤できないのです。体系によって方向を定めることはできないのです。なぜですか。心情は天倫と共に、自然と共に流れていくのです。聖書とは、学ばなくても知ることができ、感じることができる心情の流れと感じをもって解釈しなければ分かりません。学士や博士が主張する現代の神学思潮も通り過ぎていきます。しかし、心情の世界は通り過ぎていくことはありません。これをいわゆるアルファとオメガ、つまり最初と最後、始まりと終わりというのです。
(8-305 ~ 306、1960.2.14)

祈祷する人は、自然は第1の聖書だと言いました。第2ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。

ですから、事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
(20-271、1968.7.7)


旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録に該当します。私達は、聖書が私達を天国に導く本なのかということをはっきりと調べてみなければなりません。今私達が生きている世の中は、天の国ではありません。サタンの国によって包囲されています。

それで、サタンは、この世界に神様が情報員を送り、彼を通してみ旨を発展させ、サタン世界を突き、サタンを追放しようとしていることを知っているので、命懸けで反対するのです。歴史時代に神様が預言者たちを送るたびにサタンが捕らえて殺したのは、サタンが主管する国なので、そうならざるを得なかったのです。今日の宗教者、さらにはユダヤ教徒とキリスト教徒は、神様が送ってくれたサタン世界に対する情報員であるこどを知らなければなりません。

アメリカとソ連か闘うようになるとき、互いが怨讐の国に政府の情報員を送ります。CIAならCIAの局長が自分の要員を送るとき、最初から相手に作戦が分かるようにして送りますか。すべて秘密裏に暗号をもって通告することを私達は知っています。その暗号は、これを指示したCIAの局長一人しか知らないのです。それと同じように、聖書で最も重要なことは暗号で記録されているので、それは神様しか知りません。

ですから、イエス様も終わりの日に関することは天使も分からず、自分も分からないと言いました。したがって、神様が終わりの日に暗号を解くことができる、またほかの預言者を送ることは間違いない理論的な事実だというのです。

アモス書第3章7節を見ると、神様はその隠密なみ旨をその僕、預言者に示さずしては摂理をされないということが指摘されています。ですから、神様と直接通じる一人が出てこなければならないという話になります。ですから、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、神様に談判祈祷しなさいと教えてくれたことを知らなければなりません。


さあ、聖書は暗号で記録されたことを知りました。聖書をいい加減に解くと、審判を受けることを知らなければなりません。聖書に対してキリスト教は、何を、どのようにしなければならないのでしょうか。主のみ旨に従わなければなりません。同じことです。今までキリスト教の信者たちが、「私は信じて天国に行こう、私一人で救いを受けよう」と考えました。

しかし、キリスト教の信者の責任は、自分が救援を受けることももちろん目的になりますが、その救援を受けて世界を救うことでなければなりません。これを知らなければなりません。
(73-207 ~ 208、1974.9.18)


③霊魂の通路にすぎない経典の文字に執着してはならない

―宗教経典―

主マハビラがカウタマに言った。「ダルマが賢者たちによって直接顕示されないとき、それは言葉という網を通して現れる。推測はその窓を覆う網だ。多様な宗派と学派は、そのような間接的な洞察から出てくる。カウタマよ、あなたに提示された道は、賢者の直接的な道だ。勤勉に精進し、ダルマを見る賢者となれ」。
ウッタラッジャーヤー10.31 (ジャイナ教)

文字は殺しますが、霊は生かします。
コリントの信徒への手紙二3.6 (キリスト教)

大慧よ、如来は文字に堕するの法を説き給はず。(そは)文字は有無不可得なるが故なり。唯文字に堕せざるものを除く。大慧よ、若し人あり法を説いて文字に堕するあらば、皆これ狂説なり。何となれば諸法の自性は文字を離るるを以てなり。是の故に大慧よ、我が経中に、我は諸佛及び諸菩薩と興に一字を説かず一字を答へずと説く。何となれば、一切の諸法は文字を離るるが故に、義に随はずして説くに非ざればなり。……

是の故に大慧よ、善男子善女人は応に言の如く義に執著すべからず。何となれば真実の法は文字を離るるを以てなり。大慧よ、譬へば人あり、指を以て物を指さんに、小児は指を観て物を観ざるが如く、愚疑の凡夫も亦復是の如し。言説の指に随って執著を生じ、命尽るに至るまで、文字の指を捨てず、第一義を取ること能はざるなり。
楞伽経76(仏教)

筌(うえ))は魚を捕らえるための道具である。魚をとらえてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。わなは兎をとらえるための道具である。兎をとらえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。

ことばというものは、意味をとらえるための道具だ。意味をとらえてしまえば、ことばに用はなくなるのだから、忘れてしまえばよい。私は、ことばを忘れることのできる人間を捜し出して、ともに語りたいものである。
荘子26(道教)

「比丘たちよ、大道を進んでいる人がいるとします。かれは、こちらの岸は危険で恐怖のある、向こう岸は安全で恐怖のない、大きな水の流れを見ます。

かれにはこちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もありません。そこでかれは、このように考えます。「これは大きな水の流れだ。……こちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もない。私は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ってみてはどうであろうか」と。そこで、比丘たちよ、その人は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、
その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ります。向こう岸へ渡ったその人は、このように考えます。

「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸を渡った。私は、この筏を頭に乗せるか、肩に担ぐかして、好きなところへ出発してはどうであろうか」と。比丘たちよ、このことをどう思いますか。はたして、その人はそのように行なって、その筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか」と。

「そのようなことはありません、尊師よ」「では、比丘たちよ、どのようにすれば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか。比丘たちよ、ここで、岸へ渡ったその人がこのように考えたとします。「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸へ渡った。私は、この筏を陸地に引き上げるか、水に浸けるかして、好きなところへ出発してはどうだろうか」と。

比丘たちよ、このように行なえば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるはずです。比丘たちよ、このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。
阿含経中部I.134 ~ 35、蛇喩経(仏教)


―み言選集―

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。

旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約詩代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。

しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。

それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。

それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2


④経典は天の真理の限定された部分を教示

―宗教経典―

たとえ、地上のすべての木がペンであって、また海がインクで、そのほかに七つの海をそれにさし添えても、神のおことばは、書き尽くすことはできぬ。まことに神は、偉力者・英明者であられる。
クルアーン31.27 (イスラーム)

真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
バガヴァッド・ギーター2.46(ヒンドゥー教)

甕にくまれた海水は、海と呼ぶことはできず、海ではないと言うこともできない。それは、ただ海の一部だと言うことができる。同じように、絶対真理から出てきた一つの教義は、真理だと言うこともできず、真理ではないと言うこともできない。ヴィディヤーナンダタッタヴァールタシローカヴァルッティカ116 (ジャイナ教)

言語は四個の四分の一〔よりなる〕と測定せられたり。霊感あるバラモンたち(詩人兼祭官)はこれを知る。〔その中〕三個〔の四分の一〕は、秘密に隠されて運動せしめられず。言語の四分の一を人間は語る。
リグ・ヴェーダ1.164.45(ヒンドゥー教)

私達がもったトーラーは、天の知恵の不完全な形態である。
創世記ラッバー17.5 (ユダヤ教)

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(注11)
ヨハネによる福音書16.12 ~ 13(キリスト教)

われはなんじ以前にも諸使者をつかわし、妻と子をかれらに授けた。だが神の許しがないかぎり、どの使者もしるしを現わすことはなかった。各時代に一つの経典が下されるのである。神は、おぼしめしのものを取消したまい、または制定したもう。経典の母はかれのみもとにある。われがかれらに約束したことの一部を、なんじに示しても、またはその完成前になんじの魂をわれに召しても、なんじの任務は啓示を伝えることであり、清算は、われのことである。(注12)
クルアーン13.38 ~ 40(イスラーム)

このように私は聞いた――あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。さて、静かに独座していた尊者マールキヤプッタの心に、つぎのような考えが生じた。〈これらの悪しき見解は世尊によって解答されていないし、捨て置かれ、拒絶されている。つまり、「世界は常住である」ということも、「世界は無常である」ということも…
…「霊魂と肉体は同じである」ということも、「霊魂と肉体は異なる」ということも、「タターガタは死後存在する」ということも「タターガタは死後存在しない」ということも、「タターガタは死後存在し、また存在しない」ということも、「タターガタは死後存在しないし、また存在しないのでもない」ということも、である。

世尊はこれらを私に解答しておられない。世尊がこれを私に解答しておられないことは、私に満足できないし、耐えられない。だから、私は世尊のもとへ行き、この意味をお尋礼よう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか、「世界は無常である」……と解答されるならば、私は世尊のもとで梵行に努めよう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……解答されないならば、私は学びを捨て、還俗しよう〉と。

さて、尊者マールキヤプッタは、夕方、独坐より立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者マールキヤプッタは、世尊につぎのように申しあげた。……「マールキヤプッタよ、私はそなたにこのように言いましたか。『来なさい、マールキヤプッタよ、私のもとで梵行に努めなさい。私はそなたに解答します。〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……』と。」

「いいえ、尊者よ」「あるいはまた、そなたは私にこのように言いましたか。『尊師よ、私は世尊のもとで梵行に努めたいと思います。〔世界は常住である〕とか……と解答していただきたいと思います』と」

「いいえ、尊師よ」「愚人よ、このようであるのに、そなたは何者として何者を拒んでいるのです。マールキヤプッタよ、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』」と。

マールキヤプッタよ、如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、たとえば、毒の厚く塗られた矢に射られた人がおり、その友人同僚や親族縁者がかれを外科医師に見せたとします。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれが王族であるのか、バラモンであるのか、庶民であるのか、隷民であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。

かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような名である、このような姓であるということが分らないうちは、この矢を抜かない』と。

かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの背が高いのか、低いのか、中位なのかが分らないうちは、この矢を抜かない』
と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの色が黒いのか、褐色であるのか、黄土色であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような村の者であるとか、このような町の者であるとか、このような都の者であるかが分らないうちは、この矢を抜かないと』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓について、それが長弓であるのか、石弓であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓の弦について、それがアッカ樹のものか、竹のものか、筋のものか、マルヴァーのものか、キーラパンニーのものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄につ
いて、それが藪のものか、改良葦のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、そこにつけられている羽が鷲のものか、蒼鷺のものか、孔雀のものか、シテイラハヌ鳥のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それを巻いている筋が牛のものか、
水牛のものか、ジャッカルのものか、猿のものか分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢について、それが普通の矢であるのか、尖矢であるのか。鉄矢であるのか、子牛の歯矢であるのか分らないうちは、この矢を抜かない』と。
マールキヤプッタよ、その人によってそれが知られなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、ちょうどそのように、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に、〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕と……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』と。……

如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、世界は常住であるとの見解があれば、あるいは世界は
無常であるとの見解があれば、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。私は現世における、それらの破壊を説いているのです。」
阿含経中部i.426 ~ 31、小マールキヤ経(仏教)


―み言選集―

神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。

例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。

その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ14・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。

このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から2000 年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。

それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。

したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
5.理性的知識と霊的知恵

理性的知識と救援と教化のための霊的真理の間には、大きな隔たりがある。世の中の有用な理性的、概念的知識が霊的求道者たちに、常に利益をもたらすとは限らない。そのような知識がありすぎると、かえって高い境地の悟りを得るのに妨害になることもある。

アテネとエルサレムの間に深く掘られた谷があるように、現世の哲学の概念的体系と宗教の霊的真理追究にも、そのような隔たりが存在する。世俗的学習を重視するこの時代に生きる私達に、世界の諸経典は、どちらのものを優先すべきか点検することを要求する。

2番目の主題は、学びの習得方法である。理性的知識を習得する人たちは、感覚資料の認識と理論の合理的体系化を通して知識を学習する反面、霊性に明るい人たちは、見えない内面に対する直観と感受性を通して真理を悟る。理性に依存することは霊的求道の妨げになり得ると見るため、多くの宗教修行、例えば、禅仏教の修行では、理性の遮断を目的としている。禅仏教である修道者が「犬にも仏性があるか」のような質問を投げ掛けたとしよう。この人が質問によって混乱した状態から抜け出るときは、あらゆる解答が概念的理解を越えて存在することを悟る瞬間である。

しかし、文鮮明先生は、理性と霊性、二つの道は共に天国に至る道であり、二つの間の均衡の重要性を語られる。最後の部分では、世俗的知識と宗教的真理の対立に関して再び言及している。

特に、霊的知恵を通して方向性が定立されなかったとき、無分別な科学技術が招来する病弊に対して強調している。究極的に科学とすべての俗世の知識は、文鮮明先生のみ言、「絶対価値」を通して行くべき道に導かれなければならない。絶対価値とは、全人類とあらゆる存在者に利する神様の真の愛である。


①救援の助けにならない理性的知識

―宗教経典―

ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
コリンの信徒への手紙一8.1 ~ 3(キリスト教)

たった今亡くなった私達の母は、本当に私を叱られた。母は語られた。「あなたがやろうとしているように見えるすべてのことは本を見ることなので、荒野のどこかに出ていきなさい。本はあなたが行く道を妨害するので、あなたの未来が痛ましいものだからだ。あなたが白人のように生きるのを見ると、何の幻想もあなたに現れないようだ」。
テラウォイ族の証言(アメリカ先住民の宗教)


それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
コヘレトの言葉12.12 (キリスト教)

知識で積んだ数千数万の功績も黄泉路を同伴しないだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M1、p.1(シーク教)

真知の目的を考察すること。以上が「知識」であると言われる。それと反対のことが無知である。
バガヴァッド・ギーター13.11(ヒンドゥー教)

言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。本当に立派な人は言葉で議論せず、言葉で議論する人は立派ではない。本当の知者は博識でなく、博識の人はは本当に知っていない。
道徳経81(道教)


世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。かりに、この有様を説いても、説き尽くすことができない。したがって智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法に自性が無尽であるから、難思議というほかはない。
華厳経10(仏教)

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一1.20 ~ 25(キリスト教)

ラビ・エリジャル・ヒスマが言った。「鳥を祭物として捧げ、女性を浄化させることが最も重要な教えだ。天文学と幾何学は付加的知識すぎない」。(注13)
ミシュナ、アヴォート3.23 (ユダヤ教)

預言者と聖賢たちの教えの核心は、人間の理性には限界があり、そこで止めなければならないということを知らせようとするものだった。(注14)
マイモニデス迷える者への手引き1.32(ユダヤ教)

人間の哲学は神を人間のようにしてきた。クリスチャンサイエンスは、人間を神のようにする。前者は失敗であり、後者は真理である。形而上学は物理学を超える。そして、物質は形而上学的前提や結論に入ってこない。形而上学の範躊はただ一つの基盤である神聖な精神に置かれている。
科学と健康269 (クリスチャンサイエンス)

人間を救援するためには、理性を超越するある真理が聖なる啓示によって明らかにされなければならない。たとえ人間の理性によって神に関する真理を明らかにしたと言うことができたとしても、人間はその聖なる啓示の教えが必要だった。

人間が明らかにした神に関する真理は少数にだけ知らされた。それは長い時間が過ぎたあとには誤ったものと混ざってしまうかもしれないからである。

しかし、全人類に対する救援(神の救援)は、ひとえにこの真理を知っているかにかかっている。したがって、より確実にすべての救援が成し遂げられるためには、聖なる啓示を通してこの真理を教えてあげなければならなかったのである。

したがって、理性に根拠をおいて設立された思弁的科学以外にも、世の中には常に啓示を通して学ぶことができる神聖な科学が存在しなければな
らない。
トマス・アクィナス神学大全1.1.1(キリスト教)

私がたとえ知識のあの高い境地に到達しても、教えの一つの単語も私の中にないことを私は知っている。また天に仕えることも、ただの一歩として押し出していなことを知っている。
バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)

アテネがエルサレムと何の関係があるのか。
テルトゥリアヌス(キリスト教)


―み言選集―

人間の頭を中心として、理想世界が成されるのではなく、神様の愛を中心として成されるのである。
御旨の道、天国

宗教の起源は、哲学の起源と違います。哲学は神様を求めていく道ですが、宗教は神様と出会って生活し始める道です。
(189-70、1989.3.19)

どの図書館にもぎっしり並べられている経書や哲学書籍を渉猟したとしても、心と体の統一を成就できるわけではありません。(447-163、2004.5.1)

神様は、知るためにつくったのではありません。創造理想が知識によって成されるのではないのです。それをはっきりと知らなければなりません。創造理想のみ旨、私達の理想の目的は、知識や権力やお金によって成し遂げられるのではありません。それは愛によって成し遂げられるのです。
(144-130、1986.4.12)
学生の皆さん、もう分かったので、これからソウル大学に通ているといって自慢するなというのです。私は立派に見えません。1年間勉強しても何時間くらいになりますか。1 日に7時間勉強すると考えても、1 週間に5日として35時間、100 日で700 時間です。それでは、300 日ではどのくらいですか。約2000時間です。これを24 時間で割るといくらになりますか。何日にもなりません。

それをもって自慢し、分をわきまえずにそのようにしてはいけません。それより良いものが愛です。それよりもっと貴い愛は、一瞬で学ぶことはできません。愛の実践力というものは、永遠を基準として動くのです。長久な歳月を要します。1年、2年でパスできません。10 年、20 年、30 年、40 年たっても卒業証書をもらえません。次元がどんどん高くなり、回れ右して届くのです。何かの学問をすれば博士学位をとれますが、愛の哲学過程というのは無限です。だからといって嫌になったり、疲れさせたりするものではありません。ただ楽しく、世の中の何よりも幸福で、感謝で、雄大なのです。(113-324 ~ 325、1981.5.10)
絶対的価値は、知識ではなく、愛、情緒と結びつけて考えなければなりません。ただ愛だけが、それ自体が目的であり、完成であり、最高の価値なのです。

本当の愛は、施す人が喜び、それを受ける人がまた喜ぶのです。本来愛は本性で感じることによって個体の中で芽生え、体恤するものであって、学ぶものではありません。

知識の世界は認識を通して啓発されますが、情の世界は啓発されません。ですから、絶対価値は、知識の次元ではない絶対愛の次元です。このような点から第一原因者は、私達の認識領域内で見いだせるものではなく、情緒的次元で感応、体皿するものだと言えます。

愛の立体的内容が欠乏した価値は永遠不変であることはできず、いつかは流れていってしまいます。現在までの様々な主義と思想は、一面では人類の役に立ちましたが、かえって人類の思想体系を誤った道に導き、歴史を発展的に導けない面も多かったと思います。そのような意味で、既存の価値体系の再評価が不可避だと思うのです。
(102-59 ~ 60、1978.11.25)


②霊的知恵の習得

―宗教経典―

神に対する信仰はつかむものであって、教えられるものではない。
格言(神道)

趙州和尚は、僧が「狗子にも仏性がありますか」と問うたので、「無」と答えた。無門は評して言う。「禅に参ずるには祖師の定められた関所を透らなければならぬ。妙悟を得るには心路が絶える(分別心を断ち切る)という経験を窮めねばならぬ。」(注15)
無門関1(仏教)

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
ヨハネによる福音書4.24 (キリスト教)

私達は、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私達は、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私達がこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく“霊”に教えられた言葉によっています。

つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私達はキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一2.12 ~ 16(キリスト教)

知識は五つ、すなわち感覚知、経典を通した知識、透視、テレパシー、そして全知である。この五つの知識は、二つの類型に分けられる。前の二つは間接的な知識であり、残りの三つは直接的な知識だ。感覚知では……ただ不明瞭なものに対する把握にすぎない。……しかし、透視、テレパシー、全知は直接的な知識であり、それは感覚や経典という媒介物がなく、生々しい方法で霊魂によって知覚される。
タットヴァールタ・スートラ1.l9 ~ 29(ジャイナ教)

賢明な者の心の中には、霊界の実在に対する開かれた窓があり、そして彼は風聞や伝統的信仰によってではなく、実際の経験によって何が体を痛めるのか、何が健康にするのか知っている医者のように、はっきりと明確に何が霊魂の痛みを生み、幸福を生むのかを知る。

彼は、神に対する知識と礼拝が健康によく、無知と罪悪が霊魂に致命的な毒になるという事実を知る。盲目的に他の人々の意見に従う、いわゆる「学識ある」人々も、次の生涯での霊魂の幸福や悲惨なことに対する自らの信仰に、本当の確信をもっていない。しかし、偏見なくその問題に対する者は、これに対してはっきりとした確信に到達するようになるだろう。
ガザーリー幸福の錬金術(イスラーム)
純粋な知は多くのことを聞くこととは関係がない。
王陽明(儒教)


―み言選集―

本来、真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して知るようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得するものではありません。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的生活を通して経験することによって真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の父母の心情を体恤し、完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
(282-209、1997.3.13)

大概、私達人間は、二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは思いで把握する人です。それを私達統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。

霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。

そのような立場にあるために、知性的な人は大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。

理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。

そのような感度が異なるというのです。大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百中する、そのようなことが起こるのです。

これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、すべて否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になりました。

私達人間には、2種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では小さいのです。これが違います。初めは太くても、先細りすれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。

また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ私達は、これを調整する生活をしなければなりません。祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。私達人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立てないのです。
(76-136 ~ 137、1975.2.2)

堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開しでいくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。

人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによ
って、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1

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世界経典-53

2022年07月16日 20時23分30秒 | 学習


11.善意

通りすがりの客や旅行客に、食事や休憩所を提供することは、古代から続いてきた伝統的徳目である。アブラハムは見知らぬ客たちに、結局、客として現れた三人の天使に善意を施したことで有名である。文鮮明先生は、通りすがりの客に善意を施すことを家訓のように定めていた幼い時代の御両親の話をよくされる。和睦した家庭からそのような環境が造成され、その家庭には、大勢の人々が、さらには数キロ離れた所から動物までが訪ねてくるのである。

豊かでない家でも、慈善を施すことによって家が少し窮乏したとしても、それにかかわりなく客には最高の善意を施さなければならない。極端な状況でもこれを実践する、三つの代表的な逸話がある。

第1には、ソドムの住民たちが村を訪ねてきた客に危害を加えようとしたとき、これを保護してあげたロトの話である。そしてムハンマドを訪ねてきた客に、彼の最後に残ったひとかけらの食事を差し出したムハンマドの友人がいる。最後に、のどのかわいた見知らぬ客から飲料水を奪うよりも、かえって自分が渇きで死んでいくことを選択したヒンドゥー教の家長の話がある。


―宗教経典―

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(注29)
ヘブライ人への手紙13.1 ~ 2(キリスト教)

あなたがいくら少ない食べ物をもっていても、あなたの家に入ってくる人には、誰でも食べることができるように配慮せよ。もしあなたが食べ物をあげずにいれば、それはあなたに死の根源になるだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)

神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。神と最後の日を信ずる者は、隣人に対し寛大であらねばならない。神と最後の日を信ずる者は、客を遇するに寛大でなければならない。
ナワウィー40 のハディース15(イスラーム)
一家の夫と妻は、食事時に来て食物を乞う者を、誰であろうと追い返してはならない。もし食物が得られなければ、休む場所、元気を取り戻すための水、体を横たえるための葦のむしろ、客人を楽しませるための愉快な言葉、少なくともこれらは善人の家からなくなることはない。
アーパスタンバ・ダルマ・スートラ8.2(ヒンドゥー教)

二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」(注30)

彼らは言った。「いや、結構です。私達はこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
創世記19.1 ~ 8(キリスト教)

ある人が使徒に会いに来たとき、使徒が夫人たちに、客に食べる物を用意しなさいと言うと、彼女たちは、「水以外には本当に何も用意するものがありません」と答えた。すると使徒が、「誰かこの人に食べる物を分けてあげることはできないか」と尋ねた。教徒仲間の中の一人が、「私がします」と言い、その人を自分の夫人のところに連れていって言った。「神の使徒の客人をよく接待してください」。

夫人が答えた。「子供たちの夕食以外には何もありません」と言うと、彼が言った。「それでは、食べ物を準備して、ランプを灯し、子供たちが夕食を求めたら寝かせなさい」。それで彼女は食べ物を準備し、ランプを灯し、子供たちを寝かせた。そして起き上がり、ランプを手入れするふりをして火をつけた。そしてその人と妻は食べ物を食べるふりをしたが、実際は夜通し空腹だった。

翌日、その教徒が神の使徒のところに来たとき、使徒が言った。「昨晩、神が笑顔でおられた」。そのとき神がこの言葉を啓示された。「たとえ彼らが貧しくても、自分たちより他の人を優先したのだ」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

ランティデバの名声は、この世界だけでなく、他の世界でも賛美される。彼は自分がたとえ飢えていても、神が彼の必要なものを満たしてくださるという信仰で、財物が入ってくれば、即座に人に分けてあげていた。世の中に飢饉が起き、彼の家族は皆飢えに苦しんだとしても、彼の寛大さは続いた。

48 日間、彼と家族が飢えに苦しんでいたが、わずか一人が飢えを満たせる飲み物しか残っていなかった。彼がそれを飲もうとしたとき、賤民が食べる物を請うてきた。この光景にランティデバは、胸が張り裂けそうになりながら思った。「私は決して神に権能ある偉大な国土を望んだり、あるいはサムサラでの解放を求めない。私は一切衆生の胸の中にいて、彼らの悲しみをなくすようにしよう」。たとえ渇きで喉が焼けそうになうても、その慈悲深い王は、少ししか残っていない飲み物をその賤民に渡してあげた。
シュリーマッド・バーガヴァタム9(ヒンドゥー教)


―み言選集―

家に貴い客を迎えるために、いつでも準備する家は福を受けます。
(100-259、1978.10.22)

訪れる人を王のように迎え、王のように侍り、王のように接待しなさいというのです。
(89-290、1976.12.4)

友達が家に来れば「自分の家よりもここのほうがいい。麦飯を食べたとしても、粥を食べたとしても、うちの御飯よりもおいしい。もう一晩だけ泊めでくれないか」と言う、そのような家庭を築きなさいというのです。訪ねてきた人、訪ねてきた友達がみな、自分の家を捨ててその家に来たいと思うような家庭になってこそ、その家庭は天国の家庭となるのです。
(16-328、1966.7.31)

遠い所から自分の家を訪ねてきて、軒先、あるいは客間で寝たいと思う客をたくさんもつほど、その家庭は福を受けるのです。それで、その家がうわさになり、郡から押し寄せ、さらには国から押し寄せ、世界から押し寄せてくる家庭になることを、互いに競争する時代だというのです。物が豊かでそのような生活をするのではありません。心が豊かだからそのようになるのです。固いパンを食べても、それが幸福です。
(244-49、1993.1.29)

家庭天国を成しなさいというのは神様のみ旨です。それでは、家庭天国とは何ですか。通りすがりの乞食もこの家に入っていきたいと思わなければならず、寒ければこの門前にでも入っていって寄り掛かって眠っていきたいと思わなければなりません。

通りすがりの犬も入ってきて「くんくん」し、寒くても門前に来て眠っていかなければならず、飛んでいく鳥たちもそうでなければなりません。鳥が糞をするときも、門前に来て糞をしたいと思い、その門前に来て暮らしたいと思うようにならなければなりません。そのような思いをもつようにしなければならないのです。……そのような家になってこそ栄えるのであり、天が共にいるのです。なぜですか。神様の愛が宿った所だからです。命のあるすべての存在には、神様の愛と平和が宿った所が安息所なのでそのようになるのです。
(100-299、1978.10.22)

先生の家門に家訓があるのですが、「全国の山河を歩いていく人に御飯を食べさせてあげなさい」というものでした。それで有名になりました。乞食という乞食は、みな私達の家に出入りしました。私の母がおじいさんとおばあさんに侍っているとき、家でそのような苦労をしても不平を言わないのを見ながら、有り難く思いました。ですから、私のような人が出てきて世界を食べさせる運動ができる動機ができたのです。
(130-276、1984.2.5)

村の数十里内外では、乞食たちが来れば、私の家が乞食たちの集合所になりました。客間では、常に乞食が寝るようになっていて……。私の村に粉屋(こなや。石臼で穀物をひく小屋)がありました。そこには常に乞食たちが集まっていました。私は、その乞食たちとよく友達になりました。家で、餅をつくれば、かわいそうに思って、持っていってあげたのです。

朝、(乞食たちが先生の家を)出ていってどこかに行けば、昼食は誰がくれますか。昼食をくれる人が誰もいないので、私が昼食も持っていってあげたりしたことを思い出します。母親に内緒で、このように……。それはすべて良いことです。母親は、私に食べさせようと思って置いておくのですが、私は、分け合って食べようと、母親が聞く前にもっていって食べさせたのです。
(127-111、1983.5.5)


12.偉大な戒め

愛の法則を扱う最も代表的で含蓄のあるイエス様の戒めは、いかなるものとも比べることができないものである。イエス様が語られた愛は、愛の二つの次元、すなわち天に対する縦的な愛と人類に対する横的な愛にすべて言及している。短いこの節を通して、私達は、この主題に関する文鮮明先生のいくつかのみ言を見てみることにする。

―宗教経典―

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣
人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
マタイによる福音書22.36 ~ 40(キリスト教)

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とありま
す。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10.25 ~ 29(キリスト教)182


―み言選集―

神様は私達に、戒めを許諾してくださいました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第1のいましめである。」(マタイ22・37 ~ 38)とおっしゃいました。しかし、この戒めを天は人間たちが守る前に先に守られたという事実を、皆さんは覚えておかなければなりません。

したがって、このみ言は、今日の堕落した人間が
守らなければならない第1の戒めであることをはっきりと知らなければなりません。ところが、皆さんがそのみ言を聞くときに、そのみ言が私から因縁を結んで始まったと思うならば、それは大きな誤解です。

このみ言を人間たちの前に示すために、人間の生命の主体であられ、理念の主体であられ、愛の主体であられる天が先に人間のために、心を尽くし、精神を尽くした歴史過程を経てきたことを皆さんは感じなければなりません。
言い換えれば、人間がその戒めを守る前に天は私達に対して精神を尽くし、思いを尽くす立場で人間を抱き、愛してきた事実を、皆さんは覚えておかなければならないのです。また、神様御自身がそれを守られたので、戒めとして立てることができたのです。
(4-305、1958.10.5)

天の憲法の中で第1の憲法は何ですか。神様を自分の体以上に愛しなさいということです。次には、神様が愛する兄弟を自分の体以上に愛しなさいということです。その立場に立つ人は、生まれながらにして天上世界のどこに行っても妨げる者がいません。そのような基盤が堕落によって汚されたので、これを清算してきながら、主流となるキリスト教文化圏を中心として世界を統一しようとしたのです。
(195-136、1989.11.7)

あなたのすべてのものを犠牲にして愛することが第1の戒めになります。そのような人は、神様と同じ位置に立つことができ、神様の息子になるのです。神様が喜ばれるように地上にお迎えしなければならないのですが、神様が喜ばれるようにお迎えする基準とは何ですか。神様の心に合う私達の相対的人格、相対的祭物を備えることです。

それで、「心をつくし精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」なのです。神様も同じです。「人間に対して、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、息子を愛せよ」というのが第1の戒めです。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛すれば、その次にはどのようになりますか。神様がそのような愛をもってすべての人間に対して横的に現れます。そのようになればすべて成されたというのです。神様の愛と一つになり、その心は横的にその人類を愛することができるので、その家の父母をこの上なく愛し、その次に兄弟をこの上なく愛するので、その家
庭は幸福な家庭です。

今日、この世界の人類歴史の中で、神様が居たいと思われる家、その家がどこにあるのかというとき、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛する、そのような心で父母を愛する以上に兄弟を愛することができる家です。そのような家になれば、神様が臨在なさることができるのです。
(101-153 ~ 154、1978.10.29)

第2の戒めは、世界を自分の体のように愛することです。私の命をすべて捧げてでも神様を愛し、私の命を犠牲にしても隣人を愛さなければなりません。自分を保護するためには命を懸けるのと同じように、世界人類を保護するために自分の命を懸けて愛することができる人になる限り、サタンが占領することはできません。サタンを屈服させることができるのです。
(143-137、1986.3.17)

イエス様も、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言ったのですが、それをどのようにするのですか。それは漠然としているのです。世の中に出ていって、世の中のおじいさんと向き合うとき、皆さんのおじいさんのように向き合いなさいというのです。お母さんのように向き合い、お父さんのように向き合うのです。息子のように向き合うのです。世の中に出ていけば、すべてそのようにしなければなりません。上中下、前後、左右の人が、世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。
(128-23、1983.5.29)

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言うとき、隣り人とは何ですか。イエスを信じる人が隣り人ですか。違います。その隣り人は世の中の果てにいる人、悪魔サタンの懐にいる人までを意味するのです。イエスが怨讐を愛しなさいと言いましたが、それはローマ兵のことまで意味したのです。隣り人だと考えたのなら、それは隣り人ではありません。それは自分の兄です。統一教会の原理を見れば、カインを復帰しなければなりません。兄を復帰しなければならないのです。
(138-187、1986.1.21)
第14章 知恵

1.教育の根本目的

教育の目的とは何か。世界的に文化の伝統教育では、徳目を育てることを基本的に強調した。すなわち、霊魂を太らせ、文明人として人格を形成し、善の市民を養成するところに焦点をおいた。

今日の学校教育は、複雑な現代の職業社会で必要な技術と技術的知識を教えるところに重点をおいている。人性教育と価値観教育は冷遇されている。セオドア・レースベルトは、次のように警告した。「人間の心を育てる規範を教えないことは、社会の危険人物を育てあげることである」(注1)。世界の諸経典を研究することによって、私達は教育の根本目的を再び考える機会をもつようになる。

文鮮明先生は、教育を3段階に区分される。第1に、心情教育は利他的愛のための情緒的土台を形成する教育である。第2に、倫理教育は望ましい関係形成に必要な倫理性を育てる。第3に、学問技術教育はこの二つの基礎教育の上に確立される教育である。前の2段階の教育は、かなりの部分が家庭において父母の責任のもとになされる。もちろん、学校も部分的に、特に人性教育と結婚教育に関しては一定の部分に責任をもつことができる。

個人の性格と結婚生活の問題が職場の業務遂行にも密接に関連している点を考慮するとき、このよ
うな教育目標は、現代の学校教育の職業志向的教育方式と必ずしも矛盾するとは言えない。


①教育の根本目的:徳性教育

―宗教経典―

ある子供の両親は、その子を少年期に正しく教育することが出来なければ、ただの敵である。無学な子供は白鳥の中のサギと同じで、学識ある者の群れの中で輝くことは出来ない。

学識はありふれた顔に高められた魅力を与える。知識は人が生涯の内にひそかに蓄える事の出来る最高の宝である。学識こそは最もあがめられるべきものである。知識は人を正直にし、高潔にし、その人の社会に対する愛を育む。人は知識によってのみ、友人や親戚の状況を良くする事が出来る。知識こそは聖の中の聖であり、神々の中の神であり、国王と王女の尊敬を集める。それなくして人は動物に過ぎない。人の家の設備や家具は盗賊によって盗まれるかも知れない。しかし最高の宝である知識は、すべての盗難を越えている。
ガルダ・プラーナ115 (ヒンドゥー教)

真の学びは心に人類に対する奉仕を刻む。
アーディ・グラント、アーサー、M.1, p.356 (シーク教)

知恵をもつ目的は、懺悔し善行を行うためである。
タルムード、ブラホート17(ユダヤ教)

先生がいわれた、「ひろく書物を読んで、それを礼(の実践)でひきしめていくなら、道にそむかないでおれるだろうね。」
論語12.15 (儒教)

物(の理の極点)に到達すれば、(我が心の)知るところは全てを尽くす。知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。
大学(儒教)


その理由は何であるかと言えば、般若が彼を帰服せしめているからである。それ故、彼には怒りが増長することはない。彼は憎悪を把持することはない。煩悩を維持することはない。このように実践しつつある善男子・善女人に、正しい注意力(正念)といつくしみの心とが生ずる。……「

尊き師よ、実にこの般若が、菩薩大士の調禦のために、また訓練のために、私共に与えられたことは、まことに得がたいことであります。」
八千頌よりなる般若波羅蜜経3.51 ~ 54(仏教)

あなた達は、これらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
申命記11.18 ~ 19 (キリスト教)

知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、
城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。「人よ、あなた達に向かって私は呼びかける。人の子らに向かって私は声をあげる。

浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。聞け、私は指導者として語る。私は唇を開き、公平について述べ、私の口はまことを唱える。私の唇は背信を忌むべきこととし、私の口の言葉はすべて正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。

理解力のある人には、それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には、それがすべてまっすぐであると分かる。銀よりもむしろ、私の諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない。
箴言8.1 ~ 11(キリスト教)

ひとの言うことがわかるようになるとすぐ、乳母も、母親も、お守り役も、それに父親自身も、なんとかして子供ができるだけすぐれた者になるようにとつとめ、行ないについても、言葉についても、そのひとつひとつに際して、これは正しくこれは正しくないとか、これは立派なことでこれはみっともないことだとか、これは敬虔なことでこれは不敬虔なことだとか、こういうことをしなさい、こういうことはしてはいけないとかいったようなことを、教えたり示したりしてやる。

そして、すすんで言うことをきけばよし、そうでない場合には、ちょうどひねくれ曲がっている木をまっすぐに直すように、おどかしたり叩いたりして矯正するのである。

つぎに彼らは、子供たちを先生のところにやるのであるが、その場合、読み書きが音楽よりは、むしろずっと子供たちの品行方正のほうをよく気をつけてみてくれるように、先生にたのむのである。先生たちのほうでも、よくこのことに気をつける。そして、ちょうど先にひとの言うことがわかるようになったと同じように、子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それらを暗記するようにいいつける。

その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして、子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトンプロタゴラス325c-e (ヘレニズム)

知識は霊魂の糧である。
プラトンプロタゴラス(ヘレニズム)

真実な教養教育は、性格を人らしくし、残酷にならないようにする。
オヴィディウス(ヘレニズム)


―み言選集―

私達が生活するにおいて、自分個体の目的を中心として、それを成すために生きるよりも、全体の目的のために生きなさいというのが、今までの教育や道徳が指向してきた標準です。
(24-212、1969.8.17)

「万民は、善なるものを願っていくので、神様のために生きる前に、人のために生きなさい。人類全体のために生きなさい。人を愛しなさい。人のために生きなさい。人のために生まれたのだ」という教育を受けなければなりません。
(64-20、1972.10.22)

良い心をもって犠牲になる人を好むようになる、ということの具体的な内容は分からなくても、漠然と今日の人倫道徳を中心として、一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを知っています。それはなぜでしょうか。落ちた立場でより高い一点を望んでいるので、天は、そのような立場にいる者に一対一の立場で詳しく教えてあげることはできないのです。ですから仕方なく、ひそかに、象徴的に、あるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげたのが、今日の「善を行いなさい」、「積善しなさい」という言葉だ、という事実を知らなければなりません。
(65-118 ~ l19、1972.11.5)

悪の人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪の人になろうとすれば、何も教えなくても、すぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪の人になりなさいと教育しなくても、自動的になれるというのです。

しかし、善の人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善の人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行っために行く道は、決して簡単な道ではありません。(39-23、1971.1.9)
教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.17)

アダムとエバを中心として、子女教育の材料が出てこなければなりません。また、兄弟教育の材料、それから夫婦教育の材料、父母教育の材料、そして家庭がどのように育つという材料、氏族がどのように育っていくという氏族的材料が出てこなければなりません。
(233-336、1992.8.2)

家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情(注2)の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
(271-80、1995.8.22)

私達が生まれるとき、どのように生まれますか。父母を中心として生まれるとき、新郎と新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではないですか。愛の教育を受けなければなりません。その父母は、息子、娘にどのような教育をしなければなりませんか。

知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。互いに一つになる教育をしなければなりません。天が喜ぶ父母であり、また母が喜ぶ父であり、父が喜ぶ母であり、二人とも喜ぶと同時に私が喜ぶ父母であり、父母が私を喜び……。

そのようになれば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても、四位基台です。すべて四位基台だということです。このように見ても、あのように見ても、すべて四位基台だというのです。ですから、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、神様からアダムとエバは愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこからなされるのですか。神様の愛の教育からです。

それでは、愛の教育を受けるとき、いつまで受けるのですか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか。愛を受けたという話はなく、気分の悪い堕落したという話から始まっています。
(51-172 ~ 173、1971.11.21)

韓国の人たちは、死ぬ教育を受けてきたので、死ぬことには精通した人たちです。死ぬ教育、正しく死ぬことを教えてあげる教育は、道の精髄教育です。
(25-158、1969.10.3)


②教育は心を拡張し、新しい発達の可能性を開いていく

―宗教経典―

深い学識があり、技術を身につけ、訓練をよく学び、ことばがみごとであること――これがこよなき幸せである。
スッタニパータ261(仏教)

知識より大きな財産はなく、無知より大きな貧困はなく、文化より大きな遺産はない。
ナフジュ・アル・バラーガ語録52(シーア派イスラーム)

先生がいわれた、「生まれつきは似かよっているが、しつけ(習慣や教養)でへだたる。」
論語17.2(儒教)

あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32(キリスト教)
トーラーを研究することに努力する者、自由を得るだろう。
ミシュナ、アヴォート6.2 (ユダヤ教)


―み言選集―

勉強すること自体を好きな人は一人もいません。眠るのが好きな人はいても、最初から勉強するのが好きな人はいないのです。勉強することによって自分が活動できる範囲が広がるので、喜んでやるのです。
(36-120、1970.11.22)

人は、誰もが素晴らしい息子をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、「そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は一生の間、しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せる時、すなわちその代身者として立てる時は、父母の心と一致させ、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。
(24-257、1969.8.24)

「あ! 息子、娘に勉強させなければならない。勉強してこそ出世する」と言います。しかし、先生はそのように考えません。「知ってこそ出世する」と言いますが、そうではないのです。国をどれほど愛するか、神様をどれほど愛するかということが貴いのであって、神様をどれほど知っているかということが貴いのではありません。
(144-130、1986.4.12)

世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導くことによって、平和な共存の世界に導くための健全な人間の努力を食い荒らす伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変遷されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせてみるとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。(74-109、1974.11.22)
2.知識探求

知識探求は、すべての人に与えられる義務である。教育とたゆまない学習は、その人をより優れた高貴な存在として高揚させてくれる。この節では、知識探求の様々な側面に対して扱った章句を載せた。

第1に、真理探究は宗教的義務である。そのような探求が私達を真理が始まった宇宙の根源に連れていってくれるだろう。第2に、学習の重要な効果は自分を正しく知ることである。私達がどれほど知らないかを含め、無知の範囲を悟ることまでここに含まれる。

第3に、知識は自然に与えられるものではない。理解したのちに消化してこそ、自分のものになる。したがって、学生たちは、あらゆる視角で知識を理解するためにこつこつと努力する。第4に、探求は広範囲になされなければならず、科学を含むすべての宗教と文化までも包容しなければならない。この節に載せた文鮮明先生のみ言の一部は、教授、科学者の集いで語られたみ言である。それ以外に、個人的真理探究過程を説明していらっしゃる。


①神様と神的原理は理解の出発点

―宗教経典―

信仰がなければ知識はあり得ず、知識がなければ徳行はあり得ない。徳がなければ救済はあり得ず、救済がなければ完成(涅槃)もまたあり得ない。
ウッタラッジャーヤ・スートラ28.30 (ジャイナ教)

主を畏れることは知恵の初め。
箴言9.10(キリスト教)

あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
ヤコブの手紙1.5(キリスト教)

私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。しかし、私達は、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。私達が語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私達に栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
コリントの信徒への手紙一2.4 ~ 7(キリスト教)

真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6 (ヒンドゥー教)

学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
法句経45(仏教)

信じれば理解できる。ゆえにあなたが信じていることを理解しようとせず、あなたが理解していることを信じよ。イザヤ書の教えのように。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ書7 章9 節)。
アウグスティヌスヨハネ福音書注解29.6(キリスト教)

道徳的道理を注意深く熟考し、その源泉を養成せよ。
朱熹(儒教)


―み言選集―

哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか。絶対者と関係を結ばなくては、どんな学問や、存在価値も、その起源が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。
(24-318、1969.9.14)

真理は一つだというだけでなく、それは自然と人間世界を支配する一つの原理でもあります。この原理は、宇宙万象の根源です。人間にとっても、この原理は、霊性と肉性の調和を通した人格を完成し、真、善、美を実現するように導く真の愛の絶対価値なのです。

私は、これまでの神本主義や人本主義、そして物本主義の主張が相互和解できない価値の衝突ばかりだとは見ていません。かえって一つの原理、絶対価値の未完成的で一面的な表現であり、不完全な主張だったと見ています。人間と現実世界の様々な問題を根本的に解決するためには、既存の主義や主張を飛び越え、全体を収拾できる絶対価値、一つの原理を探し出さなければなりません。

絶対価値は、究極的に神様に対する根本的な質問にまで至ります。神様が存在されると肯定することは、自然界および人間界に恒久的に作用する、一つの普遍的原理の存在を認めることです。この土台の上で、相対的なものとして現れる価値は、絶対的価値の土台の上に相互に密接な関係があるものと理解できるのです。
(170-268、1987.11.27)


②あなた自身を知れ

―宗教経典―

かれはみ心にかなう者に、英知を授けたもう。英知を賜わった者は、まことに、有り余るほどの恩典を賜った者である。だが思慮ある者のほかは、何人も訓戒に留意せぬ。
クルアーン2.269 (イスラーム)

他人を知るものが智のある人であり、
自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経33(道教)

孟子がいわれた。「君子たるものが道に深く到達するために、いろいろ工夫をこらすことが必要なのは、道を十分に会得して自分のものにしようと思えばこそである。……。」
孟子IV.B.14 (儒教)

われは自分が何をなしているかを知らず。われは締め出されて彷徨し、自らの意に苦しめられる。原初の真理がわがもとに来たるとき、われはその同一の言葉の分け前にあずかる。
リグ・ヴェーダ1.164.37(ヒンドゥー教)

知ることのできないものを知るのが最上である。そして、これを知らないのが欠点である。
道徳経71(道教)

もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)

古くしかも新しい美よ、私があなたを愛したのはあまりにおそかった。私があなたを愛したのはあまりにおそかった。あなたは私のうちにおられたのに、私は外にあってむなしくあなたを外に求めた。

そして私は醜い姿をして、あなたの創造された美しいものの中に突進した。あなたは私とともにおられたのに、私はあなたとともにいなかった。あなたのうちに存在しなければ、まったく存在しないものが、私をあなたから遠ざけていたのである。
アウグスティヌス告白10.27(キリスト教)

吟味のない生活は、人間の生きる生活ではない。
プラトンソクラテスの弁明38(ヘレニズム)

私は私が無知だという事実以外には何も知らない。
ソクラテス(ヘレニズム)


―み言選集―

今、皆さんの位置を知らなければ、航海するときに緯度や経度が何度なのか分からずに行くのと同じです。自分がどの位置にいるのかを知って、自分が方向を定めなければなりません。自分が行く道を定めなければならないのです。
(120-303、1982.10.20)


睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人が多いでしょう? それでは、なぜ死ぬのですか。自分がなぜ生まれたのか、目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知らずにいます。哲学の入門で、最初に問うことが人生とは何か、その次に、人間はなぜ生まれたのかということです。
(222-70、1991.10.28)

人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。

それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。
原理講論、総序
真理は、永遠不変の中心を備えています。それでは、私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。(注3)
(2-138、1957.3.17)

知ってみると多くの面において「あ! 足りないな」と言う、これが良い賜である。
御旨の道、指導者


③教師の権威ではなく、自らの包括的な研究によって理解せよ

―宗教経典―

伽藍衆よ、汝等は風説を信ずる勿れ、伝説を信ずる勿れ、憶説を信ずる勿れ、蔵〔経〕の教〔と合する〕とて信ずる勿れ、尋思に基きて信ずる勿れ、理趣に基きて信ずる勿れ、因相を熟慮して信ずる勿れ、審慮し認許せる見〔と合する〕とて信ずる勿れ、〔説者が〕堪能なりとて信ずる勿れ、沙門は我等の師とて信ずる勿れ、伽藍衆よ、もし汝等がただ自ら、この法は不善なり、……有罪なり、と覚るならば、汝等はその時は〔彼を〕断つべし、……もし汝等がただ自ら、この法は善なり、無罪なり、と覚るならば、その時は具足して住せよ。
阿含経増支部i.190 ~ 91(仏教)

知識の探求はすべてのムスリムに付加された義務である。
イブン・マージャおよびバイハキ・ハディース(イスラーム)
彼はいにしえのすべての人の知恵を詳しく調べ、預言の書の研究にいそしみ、高名な人々の話を心に留め、たとえ話の複雑な道へと分け入り、格言の隠れた意味を詳しく調べ、たとえ話のなぞじっくり考える。彼は身分の高い人々に仕え、為政者たちの前にも出入りする。見知らぬ人々の国を旅し、人間の持つ、善い面、悪い面を体験する。
シラ書〔集会の書〕39.1 ~ 4(キリスト教)

究理は井戸を掘るのと同じだ。もし私達が持続的に掘れば、私達は澄んだ水に到達するだろう。最初それはぬかるみだが、だんだんと掘り出していけば、自然に澄んでくるだろう。朱熹(儒教)

私は多様な相反する意見を収拾し、真理探究の限界点まで自分たちをむち打ってみなさいと、若い読者たちに語りたいと思います。そうすれば、彼らの知恵が探求と共に精巧化されます。疑心を通して探求が始まり、探求を通して真理を知っていくことができます。
ピエール・アベラールカソリック神父たちの多様な観点に対する探求(キリスト教)
人生に有益な学びにおいて、最も有用な部分は、事実でないことを学ばないことである。
アンティステネス(注4)(ヘレニズム)

自由に思考する者たちは、自分たちの慣習、特権、信念と衝突することを理解するにおいて、偏見と恐れなく、喜んで彼らの心を用いる人々である。このような心の状態はよくあることではないが、正しい思考のためには必須的である。それがなければ討論は無益なものよりもっと悪いものになる。
レフ・トルストイ(ヘレニズム)


―み言選集―

宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。
原理講論、総序

皆さんは、自分にぼんやりと教えてくれるものがあったとしても、むやみに動いてはいけません。はっきりとした真理による方向がなければ、絶対に動いてはいけないのです。たとえ誰かが皆さんにある新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じずに、必ず皆さんよりアベル的な人と(注5)相談しなければなりません。
(3-212、1957.11.1)

これまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定し得ない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。

このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中の誰が我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中の誰が人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。

そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。
原理講論、総序

私がこの道を出発するときにも、「神様、いますか」と最後まで調べて、神様がいらっしゃることをはっきりと知って出発しました。
(13-201、1964.3.15)

真理を探究するにおいて、既成教会のように聖書だけを見るのではありません。どれほど膨大な測りではかり、どれほど掘り下げたか考えてみてください。実験する人は、もしかするとこれが合っているのではないかと、どれほど実験して合わせていぎますか。同じことです。真理、原理を探し出した道も同じです。そのようなことを見れば、先生がたくさん発見したというのです。
(93-69、1977.5.1)
分別のない先生を天が教えてくれたでしょうか。天がどれほど大騒ぎして苦しめたかというのです。愛は直短距離を通るということと宇宙の根本は父子の関係だということ、その二つしか教えてくれませんでした。それをもって、すべて解かなければなりません。

それで、原理の世界、父子の関係、父子は世の中の血筋をもったその父子ではありません。新しい根源から解いていかなければならないのです。それで堕落の原理を知らなければなりません。私が根本をすべて明らかにしました。それがすべて宇宙の法です。天法です。
(376-315、2002.4.29)

私は聖書を見るとき、「これは何か」と深刻に考えれば、その問題を解決するために1 年、2年、3年でも精誠を尽くします。「ああ、これはこういうことなのだなあ」と思うところまで根を抜いてしまうのです。
(35-38 ~ 39、1970.9.27)

④主題に対するあらゆる側面の探求

先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部におもねりあってひろく親しまない。」
論語2.14 (儒教)

私はマハビラに対する良い偏見に捕らわれておらず、またカピラや他の師に対する反感をもってもいない。私はただ真の道理に達する説法を受け入れるだけである。
ハリバドラロックタットパーナルナヤ38(ジャイナ教)

君子に三つの憂いがある。まだ(道を)聞かぬうちは、聞くことのできないのを憂える。既に聞いてからは、それを習って覚えこむことのできないのを憂える。既に覚えこんでからは、それを実行することのできないのを憂える。
礼記18.2.2.20 (儒教)


ペン・チョマは言った、誰が賢明な人か。それはすべての人から学ぶ人だ。これは詩編の教えと同じだ。「私はあらゆる師にまさって目覚めた者です」(詩編119 章99 節)。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)(注6)

ひとが何か或るものに依拠しで「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と「真理に達した人々」は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
スッタニパータ798(仏教)

一つの哲学的な意見を理解しようとすれば、他の所見の包括的学習を通してせよ。
アーヤーランガ・スッタ5.113 (ジャイナ教)

私は私ができる限り、私自身の宗教だけでなく、他の宗教に対しても注意深く学ぼうと思う。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)
宗教のない科学はあしなえであり、科学のない宗教は盲人である。
アルベルト・アインシュタイン私が見る世界

 

―み言選集―

立派な人になろうとすれば、師の立派な教訓をすべて自分のものにしなければなりません。そうでなければ、立派な人になることはできません。幼稚園から小学校、中高等学校、大学、大学院を出て博士になったとしても、世界的に権威のある学者たちのあらゆる知識をすべて自分のものとして吸収し、その総合的な価値を自らの生命要素とし、ここに趣の違う一つの新しい善の実体として登場する立場に立たなければなりません。そうしてこそ、世界的な学者になることができ、世界的な思想家になることができるのです。これは善の志を成していく道においても同じです。
(35-327 ~ 328、1970.11.1)

様々な研究分野においての知識というものは、互いが関連性をもっているのですが、ともすると学者たちは自分自身の研究分野にばかり固着する傾向をもちやすいのです。極端な専門化は、それを追求する個人以外のほかの人には、ごくわずかな意味だけを与える知識をもたせるようになります。発見の喜びというものは、学者をしてほかの分野の人たちも理解できるように伝えたいと思わせるものです。

私達の知識が皮相的で不確実なものにならないようにするために、ほかの人たちの意見を聞くことを喜ぶことができなければなりません。宗教者たちは、特にルネサンス以降、科学の発展によって脅威を受けてきました。しかし、いわゆる宗教者という人たちが、発見する知識と科学技術に対する理解がなければ、果たして飢餓や疾病、老衰と不十分な衣食住問題をどのように解決することができるでしょうか。科学はこのような目的のために大きく貢献してきたことは明白です。

一方、人間と宇宙の神秘を考察するにおいて、宗教と科学は、二つともすべて霊感と論理と観察を通して宇宙と人類を存在するようにしたその原因を説明しようとしたのです。人間の起源と目的に関するそのような考察は、私達人間がどこまでも人間であるがゆえに、そのように継続されてきたのですが、それはまた、私達の消えることのないエネルギー源も形成させてきたのです。このような意味で20 世紀の宇宙学者と生物学者たちは、神学者たちと哲学家たちの関心事に関係をもっているのです。
(95-202 ~ 203、1977.11.25)

知恵は、研究と学びによって段階的に得られる知識とは異なり、神様の祝福である霊感によって得られます。人間の邪悪で利己的な心についていっては霊感が開発されません。知恵の中の知恵は神様の心情と理想を知ることです。
(219-105 ~ 106、1991.8.26)


3.伝統

世代を経て蓄積された知恵が伝統である。伝統は、歴史研究、大衆儀礼と家庭の中で伝えられる警句と民話などを通して伝わっていく。この最高の教育資料の中の一部には、善で自己犠牲的、模範的人生を生きた平民たちと偉人たちの話が含まれている。今日のように、有名人たちの文化と名声がいち早く伝わる時期に伝統を求めるのは簡単ではないが、伝統自体の重要性だけは看過することはできない。

家庭は伝統の中心に立っている。父母は、教えと先例を通して、子女にそれらの価値と規範を伝授する。望ましい父母は、子女が父母の道に従ったり、さらには父母よりも立派な人生を生きるよう指導する。堅固な家庭的基礎を通して、私達は次の世代に知恵を伝授してあげ、その伝統を維持するよう強化していくのである。


―宗教経典―

伝統は消えない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
エレミヤ書6.16(キリスト教)

君子は過去の聖賢の言行を多く認識し、その徳を畜養することにつとめる。
易経26、周易上経、大畜(儒教)

して、それらはみな、御身の御心と正善なるスプンタ・マンユのそれとを通して、人の行為にたいして授けられるのですが、かかる人とは、マズダーよ、礼讃に際し、讃嘆の歌をもって御身たちさまをつつむときに、その人の魂が天則と一致しているもののことです。
アヴェスター・ヤスナ34.2 (ゾロアスター教)
格言(伝承された知恵)がなければ、言語は肉のない骨であり、魂のない体で
チュルー族の格言(アフリカ伝統宗教)

主はヤコブの中に定めを与え、イスラエルの中に教えを置き、それを子孫に示すように、私達の先祖に命じられた。子らが生まれ、後の世代が興るとき、彼らもそれを知り、その子らに語り継がなければならない。子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るために。
詩編78.5 ~ 7(キリスト教)

子らよ、父の諭しを聞け。分別をわきまえるために、耳を傾けよ。私は幸いを説いているのだ。私の教えを捨ててはならない。私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった。

父は私に教えて言った。「私の言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ。私の口が言いきかせることを忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵を捨てるな。彼女はあなたを見守ってくれる。分
別を愛せよ。彼女はあなたを守ってくれる。
箴言4.1 ~ 6(キリスト教)

先生は……子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それを暗記するようにいいつける。その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトンプロタゴラス325e (ヘレニズム)

先祖たちが語っていた徳は、完璧に消化し、徹底して洞察されたとき、初めてすべて自己修養に有用なものとなり、日々行うことができ、徹底した確固たる修行になり得るのである。
朱熹(儒教)

あなたの時間を人々が書いた文を読み、あなた自身を改善することに用いてください。そうすれば、あなたは人々が精いっぱい努力して得たものに簡単に到達するでしょう。
ソクラテス(ヘレニズム)

もし私が人よりも遠くを見据えてきたとすれば、それは偉人の肩に立っているからである。
アイザック・ニュートン


―み言選集―

善が一瞬のうちに成されることはありません。善の人になろうとすれば、必ず過去から受け継いでこなければなりません。ですから、教育が必要です。学校に行って学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか。昔から、歴史過程において善の道を築くために犠牲になった人たちは、豊かに暮らした人ではありません。ですから、犠牲になっていった人たちの歴史的思想を受け継がな
ければなりません。
(50-101、1971.11.6)

その国が栄えるためには、どのようにしなければなりませんか。歴史を相続しなければなりません。年を取った人を好む人は、歴史を相続することができるのですが、相続するときは幼いころから相続しなければなりません。

ですから、子女たちは昔話を好みます。幼い子女たちは、木で言えば新芽と同じなので、歴史的なエキスをそっくりそのまま受けなければならないからです。昔を好むというのは、そのような意味で通じるのです。鼻をずるずるさせて泣く子供に、「泣かなければ昔話をしてあげよう」と言えば、すぐに泣きやんで「話して」と言います。本当にそれを喜ぶのです。お乳を飲む時間以外は、それが一番うれしいようです。それはなぜでしょうか。
歴史を相続してくるからです。天地の道理がそのようになっているからです。
(28-188、1970.1.11)

教育するためには、教材が必要です。国を代表して教えようとすれば、国を代表する教材が必要ですが、その教材の材料をどこからもってくるのですか。その材料は、その国のために、その民のために犠牲になり、誰よりも苦労した善の君主と善の民でなければなりません。民の中でも苦労した民でなければなりません。
(65-216、1972.11.19)

東洋思想と西洋思想が連結される可能性があるとすれば、何でしょうか。何かの伝統があるとすれば、何かというのです。お金ですか、知識ですか。それも必要です。しかし、それは外的に必要です。お金では下がっていきます。知識はなくても上がっていくことができるものがあるとすれば、いつでも上がっていくことができるものが一つあるとすれば、そこに何を入れたいと思うのかというのです。それが正に愛です。

このように考えるとき、家庭をこのようにしっかりと永遠に一つにまとめるための伝統がなければならず、国を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要であり、世界を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要だという結論が出てきます。

その内容が愛を中心とする内容でなければなりません。家庭においては父母の愛を中心として完全に永遠を思い描く、そのような愛が必要です。そのような父母の愛があれば、その父母の愛は一時だけあるのではいけません。それを永遠に受け継ごうとすれば、受け継ぐことのできる伝統基盤である子女がいなければなりません。

それでは、それを完全に受け継いで、より大きくしようとすればどのようにしなければなりませんか。昔よりは優れていなければなりません。そのような教育方法が必要です。それで、父母は子女に対して教育するとき、「お前は私より立派でなければならない」と言うのです。何であっても優れていなければなりません。立派な人になりなさい! このように強要することが父子の関係になければならない、という結論が出てくるのです。

そのようになりなさいと言い、原動力を起こすのを誰がしなければなりませんか。父母が子女にしなければなりません。そうでなければならないのです。父母は子女に対してまあまあでいることができないようにして、「お前はこのような人にならなければならない」ときちんと言いきかせ、私よりもっと立派になれと、すべてのものを犠牲にさせながらその道に追いやるのです。
(95-49、1977.10.23)

先生は、一生の間、そのような闘いをしてきました。このように闘ってきたすべての基盤を、ただで皆さんが相続するのです。その代わり、伝統を受け継ぐのです。死んでもこのように死に、生きてもこのように生きる伝統を受け継がなければなりません。

皆さんは、伝統を受け継ぐだけでなく、教育をしなければなりません。誰にですか。皆さんの息子、娘と、皆さんの夫、皆さんの妻を教育しなければなりません。「私の夫は素晴らしい方だ」、「私の妻は素晴らしい方だ」と言って、尊敬しなければなりません。夫婦がそのようになって、息子、娘たちを教育しなければなりません。その次には、正しく教育するだけでなく、正しく実践しなければなりません。これが3大原則です。
(113-303 ~ 304、1981.5.10)

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世界経典-52

2022年07月16日 20時21分55秒 | 学習


7.正しい心

慈悲と深い哀れみは、正しい心から出てくる自然な徳目である。したがって、正しい心を育てることが人生の最優先課題である。多くの経典では、信仰と知識、真理への献身、それ以外のほかの徳目より優越するものが愛する心だという。愛する心は神様に根をおいている。

神様の心は、文鮮明先生のみ言で表現すれば「心情」である。心情は、愛して喜ぼうとする情的衝動を意味する。この衝動が正に創造の動機である。(第1 章11.「神聖な愛と慈悲」参照)人間の言語で言えば、これは母の愛に近い。

母は子女を愛さざるを得ない存在である。正しい心は、公明正大で、すべてのものを包容し、親切で善良な人だけでなく、悪で嫌いな人までも消化できる。したがって、相手と和解し、葛藤を解決するときは、この正しい心の姿勢が必ず必要である。

①愛―親切

―宗教経典―

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
エぺソの信徒への手紙4.32(キリスト教)

強き者よ、われを強くし給え。すべてのものがわれを友の眼をもって見んことを! われがすべてのものを友の眼をもって見んことを! われらがお互いを友の眼をもって見んことを!
ヤジュル・ヴェーダ36.18 (ヒンドゥー教)

他人を包容することのできない者には親愛の情がなく、親愛の情のない者ではすべてが他人だ。
荘子23(道教)

あなたが死ねば、彼らがあなたを悲しみ、彼らがあなたを友として慕わしく思って生きるだろう。そのような方法で人に接し、そのような態度で彼らと共に生きていきなさい。
ナフジュ・アル・バラーガ語録9(シーア派イスラーム)

温和な性稟は、生命の綱があなたの中で、途切れないまま長くとどまることができるようにする。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳ある行いであっても、それらすべては、とらわれを離れていつくしみに満ちた心の十六分の一にも値しない。このとらわれを離れていつくしみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている。
如是語経27(仏教)

たとえ不幸を避けるために長い間管理してきたどんな人の家庭だとしても、我々神々は、ゆがんだ性根をもつ人の所には入っていかない。たとえどんな人が父と母を恨んだとしても、もし彼が慈悲心のある人であれば、我々神々はそこに入っていく。(注21)春日神社の神託(神道)
ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイが言った。「出ていって人間が従うべき善の道とは何か探してみなさい」。ラビ・エリエザが答えた。「善の目です」。ラビ・ヨシュアが答えた。「善は友です」。ラビ・ホセが答えた。「善は隣人です」。ラビ・シミオンが答えた。「行動の結果を予測する人です」。ラビ・エラジャルが答えた。「善の心です」。このときヨハナン・ベン・ジャカイが言った。「他の誰よりもエラジャルの言葉が正しい。彼の答えの中に他の答えまですべて含まれている」。
ミシュナ、アヴォート2.13(ユダヤ教)


―み言選集―

ために生きて愛そうとする心は、いくらこっちに行こうとしても、(コンパスが)南極と北極の方向を向くように、常にために生きる方向に行くというのです。
(138-99、1986.1.19)

人を好きになる習慣をつけましょう。ですから、人を好きになる習慣をもたなければなりません。嫌いでも好きにならなければなりません。それが訓練です。
(118-116、1982.5.9)

皆さんは誰かのために涙を流してみましたか。自分のためにはよく泣きます。人のためにいつ涙を流してみましたか。涙にも2種類があります。自分のために泣く人は地獄に行くのであり、人のためにたくさん泣く人は天国に行くのです。
(96-172 ~ 173、1978.1.3)


すべてのものを聖なる物として扱いなさいというのです。神聖な物として扱いなさいということです。その次には、神聖な体、人を神聖な人として、神聖な神様の体のように考えなさいというのです。自分の体を神様の体のように考え、自分の心が神様の心だという考えをもつのです。
(102-113、1978.11.27)

私達が「あの人は素晴らしい」と言うとき、知識をもって素晴らしいと言うのですか。性格が素晴らしくなければなりません。本当に素晴らしくて良い人だという評判が立てられるためには、その人の本性と生命の粋が天性的に素晴らしくなければなりません。知識があろうとなかろうと、心が素晴らしくなければなりません。
(39-315、1971.1.16)

目は、より慈悲深い目にならなければなりません。良い人を見るときにはもちろんですが、悪人を見るときにも、慈悲深い愛の心をもう一段階加えて見つめることができる私にならなければなりません。真の愛は、悪いものまでも消化することができます。感動させることができるのです。そのような力をもっています。
(123-225、1983.1.2)

目が天下一の美人の目だとしても、その目が殺気立ち、自分のために何かを利用しようとし、ねたむ目は嫌うのです。その目を見ればどれほど恐ろしく、どれほど醜いでしょうか。また、最も見栄えの悪い目があるとしましょう。しかし、その目に愛の深みがあり、慈悲があり、平和が宿っているとき、その目は、すべての人を魅了します。そのような魅力的な力をもっています。愛というものが母体となって動作をすれば、仮面をかぶっていても、それは美しいものになるのです。
(116-53 ~ 54、1981.12.13)

 

②愛する心の根は神様の心情

―宗教経典―

信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55(ヒンドゥー教)

温良は仁の根本なり
礼記38.18 (儒教)

孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。……では、誰にでもこの哀れみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由はこうだ。

たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らず、ハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
孟子11.A.6(儒教)

如来の室とは、一切の生ける者たちに対する大慈悲がこれである。如来の衣とは、柔和な忍耐の心がこれである。如来の座とは、一切の存在するものが空であるという考えに入ることがこれである。(注22)
法華経10(仏教)

恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)

神は親切であられ、親切な者を愛され、
神は清くあられ、清い者を愛され、
神は寛大であられ、寛大なものを.愛される。
ムスリム、ハディース913.2(イスラーム)


愛がなければ、果たしてどんな宗教が可能だろうか。あなたは生きているすべての存在に愛を見せてあげる必要がある。愛はすべての信仰の根である。
バサヴァンナヴァチャナ247(ヒンドゥー教)

 

―み言選集―

神様は愛なので、愛の本質である心情(注23)を中心として、そこから、わき上がる人格を中心として進んでいかなければなりません。
(84-123、1976.2.22)

愛の心は、すべて一つになるのです。分立ではなく包括的です。包括的であると同時に包容的です。包容的と言えば、包括と似ているように思いますが、内外に包容的な関係を結び、循環作用を行うのです。包括、包容的です。その次には相応的です。

相応的とは、いつでもおじいさん絶対主義ではありません。孫絶対主義ではありません。相応作用というのはそのようなものです。それだけが全体分野に適応させ得る一つの主体性として、あるいは環境圏にすることができるときに、その主体性と環境に対して反対せず、そのまま受け入れることができるのです。

その環境と主体性は何ですか。知識もなり得ず、権力もなり得ません。包容できるのは愛です。空腹の時に母親の懐に抱かれると、空腹であることを忘れ、その場で眠ることができるのです。何が貴いのでしょうか。ほかのものが貴いのではなく、愛が貴いのです。いくら黄金の塊が積まれていても……。

自分の愛する人や妻が死んでいくのに、宝石箱にあるダイヤモンドを売って治療費にすることはできない、というのは愛ですか。そのような愛が必要ですか。愛は、すべてのものを動かすことができる能力がある、こうでなければなりません。
(139-196-197、1986.1.31)

堕落によって人間の心情世界には、神様に属することができる何の条件も残っていません。しかし、たった一つ残された不変の基準があるのですが、それはほかでもない、父母が子女のために愛する心です。

子女が父母を愛する心は、そのような基準になり得ません。なぜかというと、子女の立場で神様に背いたことが人類歴史の起源だからです。それで、子女が父母を愛する心というのは、そのような基準になり得ません。

ただ一つ、神様がアダムとエバが堕落する瞬間まで愛してきた本性の心情の因縁が、私達の本心と肉心を一つにできる因縁として残されているので、父母が子女を愛するその愛だけが堕落圏にいる私達個体に連結され、残り得る基準になりました。そして、この基準は、今後永遠の基準として残ることを私達は知らなければなりません。
(23-206 ~ 207、1969.5.25)

皆さんのこの世の父母も、子女が病の身になれば、その病の息子を見てどれほど心を痛め、かわいそうに思いますか。父母の愛は、堕落しだ世界でもそのような責任の位置に置かれているのです。ですから、父母に孝行すれば天国に行ける道があるというのです。ですから、孝行しなければなりません。
それがあるがゆえに、復帰というものがあるのです。皆さんは、父母に孝行しなければなりません。その愛する心をもって国の大統領を愛し、その愛する心で主を愛し、その愛する心で神様を愛するようになれば、天国と通じるのです。
(99-127 ~ 28、1978.9.10)

今、私達に最も必要なものとは何ですか。愛の孝行です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その愛が私に錨を下ろさなければなりません。人格の中心をどこに置かなければなりませんか。真理に置くのではなく、心情に置かなければなりません。
(33-68 ~ 69、1970.8.8)


8.正しい行動

正しい行動は、健康な霊的生命から具現される。正しい行動は、人との関係において友情と和合をもたらしてくれる。正しい行動は、天に対する功績を積むようになり、天との関係をより高揚させてくれる。宗教が救援の鍵として信仰を強調するが、本当の信仰は外的に展開した行動によって実現されるのである。文鮮明先生は、休まずに正しい行動を実践することを教えられる。人が認めようと認めまいと、正しい行動を通して心から愛を実践し、真心を尽くして愛する霊的訓練の機会としなさいと勧告される。


―宗教経典―

うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生れまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
法句経53(仏教)1

信仰して善い行いにいそしむ者は、かれらが主を畏れ、信仰してよい行いにいそしむかぎり、既往に食べたものについて罪はない。そのうえ、主を畏れ、信仰せよ。そのうえにも、主を畏れ、善い事を行なえ。神は善行者をめえたもう。
クルアーン5.93 (イスラーム)

私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。
エぺソの信徒への手紙2.10(キリスト教)

このように回転する〔祭司の〕車輪(しゃくら)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド・ギーター3.16(ヒンドゥー教)

あらゆる人間のすべての手足の骨は、陽が昇ったら毎日施しをしなければならない。相手ときちんとつきあうことも施しなら、人が乗り物に乗るのを助けたり、そこに抱きあげてやったり、持ちものを渡してやることも施しである。優しい言葉も施しなら、礼拝に赴く一歩一歩も、道路から危険なものを取り除くことも施しである。
ナワウィー40 のハディース26(イスラーム)

昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行ないを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。
クルアーン11.114(イスラーム)

以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。
法句経173(仏教)
一つの善行を施す人は、自分を支持してくれる一人の候補者を得るのと同じであり、一つの罪悪を犯す者は、自分に逆らって告発する者を得るのと同じだ。悔い改めと善行は災難を防ぐ盾と同じである。
ミシュナ、アヴォート4.13 (ユダヤ教)

天国は善行がなければ成し遂げられない。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァールM.1、p .952 (シーク教)

私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、私には行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。

ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神が私達の父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かる
でしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(注24)
ヤコブの手紙2.14 ~ 26(キリスト教)

善の義人がいて、また善でない義人もいるのか。天と人間、すべてに対して善の人は善の義人である。しかし、天に対しては善であるが、人間に対しては善でない人は悪の義人である。
タルムード、キッドゥシーン40a (ユダヤ毅)


―み言選集―

誰も動かすことのできない絶対的実績と信念をもったとすれば、彼は絶対的に善の人です。私達はそのような人を願います。全人類がそうです。
(73-116、1974.8.16)

愛の心、真実をもって対さなければなりません。話をするにしても、一日に良い言葉を3回ずつ継続して言ってみてください。良い言葉を言うと同時に、行動も三つの良い行動を、小さなことでもしなさいというのです。あいさつをするにしても、心から有り難く思ってあいさつをしなければなりません。そのような訓練が必要です。
(99-142、1978.9.10)

善を行ってそれを忘れれば。その善は、善の主体である神様の記憶に移される。
御旨の道、善と悪

人が避けること、困難なことを、すべて耐えなければなりません。そして、うれしいことに対しては、超然とした態度をもてなければなりません。父母の最も困難な問題を代わりに解かなければならず、外の困難なことも受け持たなければなりません。
(17-338、1967.4.30)

人の負債を背負ってあげることのできる人は、善の人です。
(41-91、1971.2.13)

肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。

我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。
原理講論、創造原理6.3.1
9.与え合うこと

施しの知恵がこの節の主題である。何の代価もなく、条件もなく、互いに与え合うとき、喜びは倍化し、悲しみは半減する。そして、与えたものよりもっと多くのものが戻ってくる。即座の即刻的な報いはなくても、天は御存じであり、結局、より大きな愛と報いで祝福を返してくださる。先に与える人にならなければならない。与えながら見返りを期待するのは、天の法と食い違う。(第2
章6、「二重属性」参照)反対に、何か願う心で頼み事をしたり、名を揚げるために条件的に与えるのも非難されて当然である。

施しに関する文鮮明先生の幅広い教えは、普遍的倫理徳目に対する哲学的基盤を提供してくれている。与えようとする心は、創造主であられる神様の本性に根ざしている。神様は御自分をすべて投入し、地上と天上の万物を創造された。

文鮮明先生は、先に与えればより大きく戻ってくる逆説的力が作用することに対して、三つの理由を挙げて説明される。第1に、与えることによって私達は創造主・神様に似た人生を生きるようになる。第2に、授受作用の概念は自然世界が循環する原則である。第3に、父母は子女に数年間(子女が成長して結婚し、孫と孫娘を生むときまで)投入するが、喜んで与えるのである。条件なく先に与えることを強調するために、文鮮明先生は、「与えて、また与え、与えたという事実まで忘れてしまいなさい」と教えられる。


①施す道とその報い

―宗教経典―

なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン3.92 (イスラーム)

受けるよりは与える方が幸いである。
使徒言行録20.35 (キリスト教)

布施する者は実に神々のもとに赴く。彼に〔天上の〕大水(だいすい)・河川はグリタを流す。彼のためにこのダクシナーは常にみなぎる(豊かな返報を与える)。
リグ・ヴェーダ1.125.5 (ヒンドゥー教)

より多く得ようとして、施こしてはならぬ、なんじの主の道のために、堅忍持久せよ。
クルアーン74.6 ~ 7(イスラーム)

人が柔らかい地を歩いていこうとすれば、まず地の上に冷水をまかなければならない。(注25)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。
箴言11.24 ~ 25(キリスト教)

物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分ちあうことをたたえない。しかし心ある人は分ちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
法句経177(仏教)

産物・貨物が(君主の)倉庫に集まると、(かえって)人民は(君主から離れて)ちりぢりばらばらになってしまい、産物・貨物が(民間に)散在すると、人民は(かえって、その君主の下に)集まってくるのである。
大学10.9 (儒教)

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
コリントの信徒への手紙二9.6 ~ 8(キリスト教)

釈尊は説いていわれる。人が仏道を他の人のためにつとめてなしているのを見て、それを嫉むのではなくて、それを助けて喜ぶことをなせば、その人にとって福を得ること甚大なものがある。一人の沙門があって自分に問うていうのに、その福は限りあるものであるか、と。

そこで自分はこう対えた。ここに譬えば一本の松明の火があり、数千百人がそれぞれ松明をもって来て、その火を分ちとり、その火をもって食物を熟(に)たり、また火をもって分って夜の明りにしたとしても、もとの火は少しも減ったりすることがない如く、福もまたその如きものである、と。
四十二章経10(仏教)


―み言選集―

神様の愛の本質と私達人間の愛の本質は、違うでしょうか、同じでしょうか。これが問題です。同じなことは同じですが、一つは与えようとするものであり、もう一つは受けようとするものです。すなわち、一つは主体的愛であり、一つは対象的愛です。
(130-118、1984.1.1)

投入して忘れるところから真の愛が始まるのです。
(225-15、1992.1.1)

善なるものとは何ですか。発展させる原動力です。ですから、与えなければなりません。与えるときは、何を与えなければなりませんか。一番悪いものを与えるのではありません。安物の服を与えるのではなく、食べ残したものを与えるのではありません。

命を与えなければなりません。命だけでなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが父母の愛です。ですから、統一教会では、父母の心情、僕の体、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して愛を与えなさいというのです。そのようにして滅びることはありません。絶対に滅びないのです。
(34-246、1970.9.13)

宇宙運動の発生は、与えるところから始まります。統一教会は、すべての理論的な基盤において、この運動を授受作用といいます。「授受作用」という言葉は、受けて与えることですか、与えて受けることですか。与えて受けるときは満たされますが、受けて与えることができなければ恥ずかしいのです。
(239-223、1992.11.25)

私自身を中心として見てみるとき、受けたいですか、与えたいですか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てきます。授受作用という言葉は、「授ける」が先ですか、「受ける」が先ですか。授けるのが先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が先に与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源となる根本から与えることが始まりとなり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。
(239-59、1992.11.23)

統一の原則は、創造力を投入することです。創造力を役人するところから統一は起きるのです。受けようとするところでは統一ができません。受けることはよいのです。受けたのなら、そこに利子を加算してそれ以上に与えられる私自身になればよいのです。しかし、その上でまた受けようとする人は、天も絶対に嫌います。与えてくれません。
(82-326 ~ 327、1976.2.1)

善の人と悪の人に対して、一度例を挙げてみましよう。善の人は、10 人の友人がいるとすれば、その10 人の友人に対して、朝も夜も、今年も来年も、10年でも、一生の間、面倒を見て、奉仕します。そのような友人は良い友人です。10人全員が一番良い友人だと言います。自分たちだけが好むのではなく、自分の母親や自分の妹がいれば連れていって紹介しようとします。しかし、10 人の友人に対して、「おい! こいつ、私のために生きろ」と3度だけ言っても、全員が逃げていきます。彼がついてくるかと心配で逃げていくのです。皆さん、そうではないですか。なぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びるのです。地獄に行きます。しかし、原理原則に立脚して、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。

人類の教育やあらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日のこの世界が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために完全に犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのであり、またある民族が全体の民族のために犠牲になれば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界各国のために犠牲になれば、その国家は善の国家として登場するということを知らなければなりません。
(69-86、1973.10.20)
神様が天地万物を創造したというのは、自分のすべての愛の心情を投入したということです。与えたのです。そのような神様であれば、そのような心をもった対象が必ず生じるのです。ですから、神様と人間との関係が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は栄えるようになるのです。

ですから、私達の良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、互いに愛し合いなさい、互いにために生き合いなさいというのであり、宗教は人のために犠牲になりなさいと教えるのです。その話は私達の人倫道徳と対立するものではありません。合うのです。人のために生きなさいということです。人のために犠牲になりなさいということです。人を愛しなさいということです。ですから、ために生きなさいという結論が出てきます。
(112-301、1981.4.25)


②品格を備えた授受の循環

―宗教経典―

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカによる福音書6.38(キリスト教)

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書5.7(キリスト教)

この世において善い行いをなす者には、善い報酬がある。
クルアーン39.10 (イスラーム)
誰が名誉ある人か。人類に名誉をもたらす人が名誉ある人になる。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)

なんじらがあいさつされたときは、さらに丁重なあいさつをするか、または同様のあいさつを返せ。まことに神はよろずのことの清算者であられる。
クルアーン4.86 (イスラーム)

私に木瓜を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。私に桃を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。私に木李を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。(注26)
詩経、衛風、64 柧(儒教)


―み言選集―

神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
(40-244、1971.2.6)

愛すれば、神様から大きな愛も受けますが、愛する人から大きな愛を受けるのです。ですから、これは何倍残る商いですか。2倍残る商い以上です。数倍残る商いだということです。ですから、愛すれば愛するほど立体的に商いをするのです。
(90-21、1976.12.5)

善の人とは、どのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。また夫は妻を、そして妻は夫が自分よりも立派であることを願うのです。また兄は弟が、弟は兄がもっと立派であることを願うというのです。
(315-210、2000.2.2)

自分が一番喜ぶものをもって喜ぶ心と、自分か一番喜ぶものを人に与えて喜ぶ心のうちで、どちらがよりうれしいか比較してみてください。そこで繁殖が始まります。心から与えれば、戻ってくるときは大きくなろうとするのです。

そのように戻ってくる道をつくるので、大きなところに点ができ、戻り始めるのです。授け受けすることは、そこから生じます。喜んで与えるときに戻ってくるのです。それで私がまた、与えようとするとき、もっと大きくなります。より発展するのです。
(248-96、1993.8.1)

大気が100 パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。分かりますか。投入して、また投入するところから永生の論理が展開します。「ために生きる」ところは滅びません。
(204-107、1990.7.1)

木もそうではないですか。根から栄養素が来れば、葉は光合成作用をして栄養素を根に補給してくれます。授け受けするのです。受けて授けるのではありません。主体の人が先に与えなければなりません。父母は子女に先に与えなければなりません。水が流れるとき、穴があれば埋めていかなければなりません。空気も同じです。すべてのものが流れるのです。愛も流れるのですが、穴があれば、埋めてあげようとします。
(241-306、1993.1.1)

真の愛は投入する力です。与える力であって、受けることだけをする力ではありません。すべてを与えてゼロ・ポイントの位置に入っていくのです。完全な空間になるので、ゼロ・ポイントの位置には何が入ってきてもOKです。そして、与える力が永続するので、帰ってくる力が加重して永続することによって、永遠にバランスが保たれるのです。ですから、真の愛を中心としてために生きる世界は、授受作用を通して完成されるのです。

天地のすべてのものが相対的関係によって存在しているということも、このように授受の作用を通して真の愛の世界を成すためなのです。相対関係において、与える力に対して帰ってくる力が運動するこことによって、その中心点は永遠に定着できるのです。
(315-209、2000.2.2)

与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、神様が本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。神様が創造しようというのは、引き寄せることですか。与えることです。与えれば、絶えず大きくなるのです。絶えず大きくなるのです。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、神様の創造原則に同伴できるので、宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。ひっきりなしに受け続ければ、すべてのものが小さくなります。

真の愛の根とは何かというと、永遠に与えることです。真の愛は永遠に与えようとするものだということです。真の愛は作用すればするほど小さくなるのではなく、大きくなるのです。これが神秘的なことです。世の中の力は作用すれば小さくなるのですが、これは作用すればするほど大きくなります。ですから、真の愛をもって数千年前に逝ったそのような人も、今の時代に来て千万に
増えるのです。
(183-324、1988.11.9)

昔さんの相対は、自分の理想的な基盤であり、幸福の基盤であり、あらゆる基盤になります。神様が天地を創造されるときに、万物をつくられ、人を造られたのは、神様の相対として造ったのです。授け受けする授受作用の原則が天地の作用、運動と法則になっているので、完全にすべて与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛されたというその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」、このようになるのです。

完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けたときにこそ、完全に返します。それを受ける前に返し始めれば、完全なものが戻ってきません。
(60-232、1972.8.17)


③条件なく過去を記憶せずに与えること

―宗教経典―

その富を施こした者は、己れを清める。またたれからも、報いられるほどの親切な行ないはないとする。ひたすら至高者、主のお喜びを請いまつるのみ。やがて、かれは十分に満足を得るであろう。
クルアーン92.18 ~ 21(イスラーム)

与えらるべきだと考えて、見返りが期待できぬ組手に、場所と時間と受者が適切な場合に与えられる布施は、純質的な布施と伝えられる。一方、見返りを望んで、または果報を意図して、渋々与えられる布施は、激質的な布施と伝えられる。不適切な場所と時間において、不適切な受者に対し、敬意を表さず、軽蔑して与えられる布施は、暗質的な布施と言われる。
バガヴァッド・ギーター17.20 ~ 22(ヒンドゥー教)


孟子がいわれた。「名誉心の強い人は、場合によっては千乗(せんじょう)の大国でも譲って受けないことがある。しかし、それにしても本当にそれだけの人物でなかったならば、一椀の飯や一杯の汁のようなほんの僅かのものでも惜しんだり欲しがったりして、ついにその本心が顔色にあらわれてしまうものだ。」
孟子VI1.B.11 (儒教)

もし、「これを与えてしまったら、{私は}何を用いよう」と自利を考えるなら、魔の方法。もし、「それを〔私が〕用いてしまったら、〔他者に〕何を与えよう」と他利を考えるなら、天の方法。
菩提行論8.125 (仏教)


―み言選集―

真の愛は与えて忘れる愛です。与えても忘れてしまい、また与えたいと思う愛です。
(162-239、1987.4.12)

投入し、その次には忘れてしまいます。投入して覚えておくのではなく、忘れてしまうのです。どんどん投入すればするほど、自分の愛の相対が自分よりも高まっていく道があるのです。与えて忘れるのです。その概念です。覚えていたらすぐに止まります。そのようにしようとすれば、どこで統一が起きなければならないのでしょうか。男性が男性を主張するところでは起きません。女性が女性を主張するところでは起きません。投入から宇宙の創造が始まったので、男性も女性も、男性は相対に対して無限に投入し、その相対も無限に投入するところから一つになる道が始まるというのは、理論的に否定できません。神様のように投人して忘れてしまうところで統一できるのです。
(267-301 ~ 302、1995.2.5)

神様は、与えることにおいても誰も讒訴することができず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることが神様の収めようとする所期の目的です。
(13-249、1964.4.12)


10.慈善

貧しくかわいそうな人たちに対する博愛精神は、あらゆる宗教で強調される徳目である。究極的善と連結された人間であるため、社会のあらゆる人々と私達は、彼らが裕福であろうと貧しかろうと、一つの家族としての紐帯感をもっている。神様が御自身の子女に対して感じられる愛と慈愛の感情を私達は感じることができ、特に貧困、疾病、戦争、飢饉と自然災害によって苦痛を受
ける人たちに、より大きな同情心を感じる。

慰労金と救護物質を送る行動は、このような霊的な愛の紐帯感を具体的に表現するものである。新約聖書の羊と山羊の比喩は、かわいそうな人を助けることは、すなわち神様と偉大な聖人たちに祭物を捧げるのと同じことであると言っている。さらには、与えるときに最もけちな人たちまでも、このような博愛精神の例外ではあり得ない。

慈悲を施すとき、私達が取るべき姿勢に関していくつかの章句がある。施す行為は、ある場合には、その尊厳性を維持しなければならない。「右手がすることを左手に知らせるな」、この言葉は、恵みを受ける人と寄贈する人との間の匿名性が、どれほど重要かを語っている。寄贈者は自分がしたことに対して自慢することを避けるために、恵みを受ける人は自分の威厳を保存するために匿名性が必要である。

マイモニデスによれば、最高の慈悲深い行為は、貧しい人が事業や貿易を始めることができるよう無利子で貸し出し、または経済的援助をしてあげ、自らお金を稼ぐことができるよう助けてあげることだと言った。この現代的バージョンは、恐らく「魚を獲ってあげればその人を一日食べさせることができるが、魚を獲る方法を教えてあげればその人を永遠に食べさせることができる」という格言であろう。文鮮明先生は、アフリカ人たちが食糧の自給自足ができるよう援助するため、多様な海洋事業を展開してきていらっしゃる。


①神様に導き、神様の愛を表す慈善

―宗教経典―

いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。
詩編41.1(キリスト教)

私達は、神のお喜びを願って、あなたがたを養い、あなたがたに報酬も感謝も求めない。
クルアーン76.8 ~ 9(イスラーム)

財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
使徒言行録2.45 (キリスト教)

喉の渇いた者、空腹の者、苦痛の中にいる者に側隠の情を施し、彼らの苦痛を分かち合う慈悲の行いは、すべての徳行の根本である。
クンダクンダパンチャスティッカーヤ137(ジャイナ教)
あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。

その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
申命記15.7 ~ 11(キリスト教)

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、「羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつ私達は、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪礼たでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」
マタイによる福音書25.31 ~ 40(キリスト教)
審判の日、至高であられる神が語られるだろう。「アダムの息子よ、私が病んでいたとき、お前は私を見舞わなかった」。彼が答えた。「主よ、私がどうしてあなたを訪ねることができますか。あなたは宇宙の主であられます」。その方が言った。「私の僕の誰かが病にかかったことを知らなかったのか。お前は私を見舞わなかった。もしお前が彼を訪ねていれば、私か彼と共にいたという事実をお前は知らなかっただろうか」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

「あなた達は、あなた達の神、主に従い、これを畏れ」(申命記13 章5節)。しかし、「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神」(申命記4章24 節)に人間がどのようにして従うことができるのか。この言葉はつまり、主なる神の属性に似よという意味である。ぼろを着ている者たちに服を着せてあげ、病にかかった者たちを見舞い、葬式に集まった人たちを慰労し、死んだ人たちを弔ってあげよ。
タルムード、ソーター14a (ユダヤ教)

聖なる方が人を愛されるときに、神は貧しい人の姿で近づいて贈り物を下さる。人が貧しい隣人に善行を施すようになり、神はその長所を用いて恩寵を施す条件とされる。
ゾハール、創世記104a (ユダヤ教)

神々は実に飢えをのみ死因として作らざりき。食足りし者にも、もろもろの死は近づく。また施す者の財産は涸るることなし。しかし施さざる者は憐愍者を見いださず。

[みずから]食物に富みながら、食餌を求欲しつつ・零落して近づき来たる貧困者に、[しかも]、かつて友好を結びし者に心つれなく振舞う人、かかる者もまた憐愍者を見いださず。

食物を求欲し、樵悴して徘徊する哀顕者に与うる者こそ、[真の]款待者なれ。彼は、行路にありて呼びかけられたるとき、この人(呼び手)に即応す。
かつまた彼は、未来のために一人の友を獲得す。
相たずさえ、相伴う友人に、食餌を分かち与えざる者は、友人にあらず。
人は彼より去り行くべきなり。そは止住すべきところにあらず。たとい部外者なりとも、他人に施す者を求むべし。[財力に]勝る者は実に、援助を求むる人に施すべし。[人生の]いとも長き道を見渡すべし。

なんとなれば富は、車の輪のごとく、回転し来たり、この者にまたかの者に近づく。思慮なき者はいつわりの食物を見いだす。われ真実を述ぶ、そは彼に死をもたらすのみ。彼は款待者をうる幸運に恵まれず、また友人を[得る幸運にも」。独りして食する者は、独りして災厄を蒙る。
リグ・ヴェーダ10.117.1 ~ 6(ヒンドゥー教)


―み言選集―

子女たちが苦しむとき、父母が苦しまざるを得ません。兄弟が苦しむとき、その痛みを感じざるを得ません。聖人は、世界万民が暮らす実状を見つめるとき、自分の痛みの代わりに彼らの苦しみを感じるのです。

万民を愛するために自分の境遇を忘れて投入しようとする、このような愛の心をもつこと、これが聖人の道理です。ですから、聖人の道理は歴史を超え、世代を超え、世界を超え、今日、全世界のあらゆる道徳基準として引き継がれてくるのです。それが博愛精神です。
(186-74 ~ 75、1989.1.29)

道端で遊んでいる、まともに着ることも食べることもできずに骨ばかりになっている子供たちを見れば、自分の子供のように抱きかかえであげることができなければなりません。それができなければ恥ずかしさを感じなければなりません。子供を生んでおいて責任を果たせない父母のように、自分の子供をある乳母に渡したり、あるいはある村に捨てた母親が……。通りすがりにその子供を見れば、その子供に対して顔を上げることができない恥ずかしさを感じる、それ以上の恥ずかしさを感じなければならないのです。これが心情の因縁です。もし自分が生んだ息子、娘がそのようにぼろを着ていれば、その子供を抱いて、骨が溶けるほど、肉がゆがむほど涙を流さないでしょうか。
(46-281、1971.8.17)

道を歩いていて、腰の曲がったかわいそうな老人を見れば、「私の父もあのような姿で訪ねてこられたのだなあ!」と考えなければなりません。また、はれあがった労働者の手を見るときも、「息子を探そうと私の父はあれ以上の姿になられたのだなあ!」、かわいそうな乞食を見るときも、「この乞食は、乞食ではなく私の父だ」と頭を下げることができなければなりません。

取るに足らない哀れな人生でも、そこには神様の心情が宿っていることを知って、彼が私の父だという心で涙を流し、自分の境遇と自分の威信を超越して行動できてこそ、神様を知ることができるのです。
(8-346、1960.2.28)

年老いた人を見れば、自分のおじいさん、おばあさんのように考えなさいというのです。昼食の時間になり、みな食堂に入っていくのに、お金がなくて困っているようであれば、一緒に連れて入っていって、自分のおじいさんやおばあさんのようによく接待しなさいというのです。
(215-122、1991.2.6)

先生自身も、監獄で孤独だったことがどれほど多かったでしょうか。孤独な立場にいるとき、慰労してくれた事実は、いつまでも忘れられません。親戚や、誰かが来たことは、忘れることができます。しかし、そのような愛の因縁を結んだ人は、忘れられません。
(63-205、1972.10.14)

あるときは、公娼街や娼婦街、そのような所に若い女性が入っていこうとするのを救ってあげるために、妹のように思って助けてあげたこと、その事情を聞いて痛哭したことを今も忘れません。そのように涙を流したことがきのうのことのようです。このような事実が本当にたくさんあります。それが祈祷よりも貴い場なのです。
(93-66、1977.5.1)

これから8月1日になれば、水産事業を始めて20 年になります。1年に2000万の飢えて死んでいく人たち、アフリカの奥地や第3世界のかわいそうな人たちを助けてあげるために、先生は今まで20 年間船に乗りました。網なら網を作る方法、工場を造り、船を造り、すべてのことができる準備をしました。

アフリカの母親たちが釣りをすることができれば、どうして飢え死にするでしょうか。水があり、魚がいる川があるのですから、釣りをして捕まえた魚で子供を5人、6人食べさせるのは問題ありません。釣りをしなければなりません。


一日に6万人が死んでいきます。彼らがみな神様の息子、娘として、私達の兄弟が死んでいくのに、おなかをなでながら熊のように太り、やせるために断食して食べずにいる、このようなアメリカは罰を受けなければなりませんか、受けてはいけませんか。霊界に行って地獄に行かなければなりませんか、天国に行かなければなりませんか。
(261-308 ~ 309、1994.7.24)


②慈善の姿勢

―宗教経典―

親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものにまさる。神は、富有者・仁慈者であられる。信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己
れの施しを無益にしてはならぬ。
クルアーン2.263 ~ 264 (イスラーム)

真実を語れ……。請われたならば、乏しいなかから与えよ。
法句経224 (仏教)

自分が助けてもらって初めて生きていける貧しい人だとしても、やはり慈悲を施さなければならない。
タルムード、ギッティン7b(ユダヤ教)


「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。
ルカによる福音書3.11 (キリスト教)

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
マタイによる福音書6.3 ~ 4(キリスト教)

私の行ずるところの施しは、執著もなく、煩悩もなく、そのこころは、質直で、惜しむところがない。私は、このような施しの、功徳の力をもって、すべての衆生をして、大いなる智慧を得しめ、こころにさわりをなからしめよう。
華厳経21(仏教)

信仰する者よ、なんじらのかせいだよいものと、われが、大地からなんじらのために生産したものを使え。それに目をつむらずには、なんじ自身さえ受け入れぬような悪いものを目あてに使ってはならぬ。神は満ち足りたもう方・賛美されるべき方であられることを知れ。……

なんじらが、施こし物や奉仕に何を使ったか、またどんな誓いを果たすためであったか、神はまことにすべてを知りたもう。およそ不義を行う者には、助ける者はないであろう。なんじらは、施こしをあらわにしても結構だが、ひそかに貧者に与えれば、なんじらのためさらによい。それはなんじらの罪悪のよごれの1部を、払い清めるであろう。神は、なんじらの行うことを熟知したもう。……

なんじらが施こしに使うよいものは、なんじら自身の魂のためであり、またなんじらが使うのは、ただ神のお喜びを願うだけである。使用したよいものは、完全になんじらに返されよう、なんじらは不当に遇せられることはないのである。

なんじらのよい使用は神の道のために、心をいためながらも、国内を歩き回り得ぬ、困窮者のために使うものである。かれらは控え目であるから、知らない者は不足がないものと考える。なんじらはその頼むに足る様子で知らねばならぬ、かれらはしつこく人びとに請わない。なんじらが何でも使う良いものは、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン2.267 ~ 73(イスラーム)

困窮者の請う者、またあえて請うことをしないようにする者への権利の行使に留意した。
クルアーン51.19(イスラーム)

最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。または、その人の同業者になって働くことだ。そうすれば、その貧しい人はこれ以上公的な補助に頼らず、援助を通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。

レビ記25 章35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」。

これより一段階低い慈悲は、施す者が恵みを受ける人に関して知らず、恵みを受ける人も施す人に関して知らない場合だ。つまり、人に知られないように行うことである。これはミツヴァー(ユダヤ教の戒律)のための慈善ミツヴァー(注27)を行うことである。

このような慈悲は、古代聖殿の庭で、義なる人が、
貧しい者たちがもっていくように人知れず寄付金を置いていったのと同じだ。慈善箱にお金を入れてあげる行動が、この聖殿の庭での行動と似ている。

それより低い段階の慈悲は、施す者は恵みを受ける人を知っているが、相手は知らないようにする場合だ。これは聖人たちが貧しい者の家の前に、隠れて贈り物を置いてくるのと同じだ。公共福祉に責任をもつ者が義でないとき、このような行為が必要である。

次に恵みを受ける者は施す人を知っているが、施す者は誰にお金が渡るのか分からない場合が次の下の段階だ。しかし、この長所は、恵みを受ける人が直接的対面による羞恥心を経験ししなくてもよいことだ。

これよりもっと低い場合は、どちらとも互いを知っているが、貧しい者が求める前に先に与えることだ。これより低い段階は、要請を受けてから助けてあげる場合だ。自分が品位を保てる程度にだけ与えながら、実際に必要なものよりも少なく与えるのも望ましくないが、最悪の場合は、無理して施すことである。
マイモニデスミシュネー・トーラー慈善の8 段階(ユダヤ教)


―み言選集―

かわいそうな人に出会って同情するときは、銅貨一枚をあげながら、「やい!若い人がどうしてこうなのか」と、絶対にそのような言葉をかけてはいけません。「少ないお金ですが、千倍、万倍貴く思って、今日この時間以降、福を受けてください」(注28)という、そのような言葉はいくらかけてもかまいません。
(127-89、1983.5.5)

天国をつくるためには、私がすべて材料を提供しなければなりません。材料を提供するとき、自分のものをもっていって提供すると考えてはいけません。天のものをもっていって提供すると考えなければならないのです。私が誰かに与えれば、天のものとして与えると考えなければならないのであって、私のものとして与えてはいけないというのです。そのもらう人は私の心が分かるのです。そのようにすれば、損をしないように天が何十倍にして返してくれます。
(102-119 ~ 120、1978.11.27)
ない中においてよく与える人なら、ありさえすればどれほどよく与えるだろうか。
御旨の道、人格

心は善を行えと体を促しています。かわいそうな人がいれば助けてあげなさいといい、自分は困難でも多くの人のために犠牲となり、助けてあげなければならないと強調しています。
(41-60、1971.2.13)

「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6・3)と言いました。ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくらもってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になれません。与えたものを忘れなければなりません。

父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そんな父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛
です。
(36-85、1970.11.15)

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世界経典-51

2022年07月16日 20時19分59秒 | 学習


②窮乏した人を助けるために苦難と悲しみを求める

―宗教経典―

信じる者たちであれば、生きていく間、苦痛と苦難に自ら直面することが、それを避けていくことより、はるかに価値あることである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)

陰に留まっている人は、太陽の暖かさを知らない。(注9)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

私達は、当然、共同体が経験する困難を分かち合わなければならない。私達の師であられるモーセが、共同体の困難を共に分かち合ったことを私達は知っているからである。
タルムード、タアニート11a (ユダヤ教)

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。パリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなた達の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
マタイによる福音書9.10 ~ 12(キリスト教)

肉体的に勇敢なことばかりが重要なことではない。人は現在の人生に直面し、悲しみを乗り越えていき、いつも人のために自らを犠牲にする勇気をもたなければならない。
キプシカ族の諺(アフリカ伝統宗教)

私達強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、私にふりかかった」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙15.1 ~ 3(キリスト教)
孟子がいわれた。「中庸の徳のある者が徳のない人を教え導き、才能のある者が才能のない人を教え導くのが、道である。それ故、人は自分に才徳のすぐれた賢父兄があることをこい願うのである。もしかりに、徳のある者が徳のない人を見捨て、才能のある者が才能のない人を見捨てて教え導かなければ、いわゆる賢者(かしこいもの)と不肖者(おろかなもの)との隔たりはごくわずかで、ものの一寸ともないであろう。」
孟子IV.B.7 (儒教)

菩薩は彼の衆生の是の業を造るを見已って、心動乱せず亦棟擇せず驚畏有ること無く、堅勇心を発して退転を生ぜず、決定して彼に代りて諸の苦悩を受く。所以何とならば、我當に彼の諸の衆生を荷負すべし。乃至、世間の生老病死苦悩の難・八無暇の難・諸輪廻の難・諸悪見の難・善法を壊するの難・無智を生ずるの難、我當に畢竟じて是の難を脱せしめん。

是の諸の衆生は無明に蔽われ、愛網に惹かれ有給に縛せられ諸苦に籠6~せられて覚了を生ぜず出離を求むること無く、常に疑惑を懐きて願と相違し、輪廻の海に於て一向に漂没す、我當に一切智王に安住して諸の衆生をして義利を成就し皆解脱することを得せしむべし。唯我のみ一人能く為に救護す。仮使一切の世界悉く悪趣と為り、受苦の衆生其の中に充満せんに、我が集むる所の一切の善根を以て平等に回向して与へざる無からん。

乃至、最後の辺際を経る所の時分に、十一の悪趣消滅をして余無く、十一の衆生皆解脱を得ん。若し一人の未だ苦を離れざる者あらしめんか、我當に身を以て質とし而も之を出さん。………我當に一切智心を発せしめ五欲の境を離れ菩薩の行を行じ畢竟無上正等菩提に安住せしめん。

何とならば、是の諸の衆生は欲に著するに由るが故に魔境に接属す、諸仏世尊の訶毀する所なり。當に知るべし、貪欲は衆苦の本なり、是の縁を以ての故に、……諸の煩悩を起し、後に地獄餓鬼畜生に堕つ、乃至生天の業を断じ、諸仏を遠離す、何に由りてか能く無上智王を発さん。是の諸の衆生欲の為に没せられ、熾然として焼煮せられ無量の過患あり、我善根を以て平等に回向し、諸の衆生をして皆悉く捨離し、楽うて仏智を求め涅槃の楽を得せしめん。我當に彼の為に大導師と作り方便智を以て彼岸に達せしむべし。(注10)
金剛幢経280 ~ 281、大乗集菩薩学論(仏教)

「自分はこの善根をもって回向して一切衆生のための舎となろう、諸苦を免かれしめんがために。
一切衆生のために護りとなろう、煩悩を解放せしめんがために。一切衆生のために帰する所となろう、恐怖を離れしめんがために。」……

「自分はまさに一切衆生のために無量の苦を受け、もろもろの衆生をして悉く生死の苦熱を免れ出づることを得しめよう。自分はまさに一切衆生のために一切の国土、一切の地獄の中において、あらゆる苦を受けて終に捨離しないであろう。自分はまさに一切の悪世界において未来の限りもろもろの衆生に代って苦を受けるであろう。

なぜなら、たとひ自分一人がもろもろの苦を受けるとしても、衆生をして諸苦を受けしめたくはないから。自分はあらゆる悪世界に衆生の身代はりとなって、彼等を解脱せしめたいから」(注11)
「自分はまさに一切衆生のために誠実を語る者となり、悩害の心を離れて彼等を捨てないであろう。

なぜなら、自分は衆生に因って、菩提心をおこし、一切を済度せんとし、尊貴を求めず、五欲を求めず、世のくさぐさの楽を求めず、ひとえに菩薩の道を行ぜんとする者だから。何故に五欲を求めないかと云ふに、五欲は世間の法であり、諸魔の境界であって、愚人の行ずるところ、諸仏の苛責したまふ所だからである。」
大方広仏華厳経23(仏教)

苦痛の状況から私自身と彼らを抜け出させるために、彼らの悲しみと彼らに負わされた苦痛と侮辱を共に分かち合います。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)


―み言選集―

愛は必ず犠牲を要求します。また、愛は克服を必要とするのです。
(46-35、1971.7.18)

天国は地獄を通過していく道。
御旨の道、天国

学生時代には、学校から帰ってくると、学生服を脱ぎ捨て、工事現場に行って働きました。私は、お金がなくてそのようにしたのではありません。やってみなかったことがありません。石炭を運ぶ仕事もやってみて、船にも乗ってみて、作男暮らしもしてみました。あらゆる仕事をやってみたのです。結局、人間の苦楽がどのようなものなのかをすべて調べてみたということです。それで、私がしなければならないことは、その苦楽を経て生きている人間たちを解放させる責任者になり、彼らを完全に解放させてあげることだと考えたのです。
(37-35 ~ 36、1970.12.22)
このような悲惨な世界で幸福な世界を求めようとする人は、より悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。より悲惨な所で求めなければ、見いだせません。その道しかないのです。もしそれでもなければ、神様も存在せず、すべて存在しないと言わなければなりません。

レバレンド・ムーンも、生涯そのような道を行くことを決めたので、非難され迫害を受ける道を行くのです。そのようなことをするところにいれば、どれほど悲惨でしょうか。それでも、その場に立ち、天を中心として、「私に従いなさい! 私は失望せず、私は幸福だ」と言える人であれば、そこで幸福を見いだし得る私を発見できるのです。

あらゆる歴史的英雄、烈士、愛国の忠臣、烈女、聖人たちは、そのような場で歴史的な人物になったということを皆さんは知らなければなりません。アメリカの愛国者は、アメリカのために悲惨にし
がみついて闘う人です。命を懸けて悲惨に生きた人です。世界的な聖人も同じです。神様の息子も同じなのです。(91-287、1977.2.27)
宇宙の公法は、どのような人を保護するのでしょうか。全体のために自分を犠牲にしようとする人は保護します。しかし、自分の利益を追求し、犠牲を嫌う人は、この宇宙の公法が除去するでしょう。
(105-91 ~ 92、1979.9.30)

宗教を信じたとしても、「私一人が天国に行こう」という者たちは、詐欺師たちです。統一教会は、家庭でも妻は、「夫を先に天国に送り、私がついていこう」と思わなければなりません。……まず家庭を天国に送り、それから自分が天国に行こうとするのが統一教会員です。……

大韓民国を天国に送り、それから自分が天国に行こうとします。世界の万人を天国に送り、それから天国に行こうとします。神様まで解放させ、それから天国に行こうとすれば、彼はイエス様のような人です。メシヤの責任がそれです。

メシヤが来て、「ああ、私は早く天国に入っていこう」とは思いません。個人を天国に送り、家庭を天国に送り、氏族を天国に送り、民族を天国に送り、大韓民国を天国に送り、この世界を天国に送り、地獄にいるすべての人まで解放させて天国にみな送り、神様のすべての悲しみに私が責任をもつというとき、そのような責任を背負ってこられた方が正にメシヤです。

神様が地獄を見るのは心が安らかではないので、神様が地獄を見ることまで解放させ、天上天国、地上天国をつくっておき、神様が見て救援の道理が必要のない立場に立って終わったとき、初めて天国に入っていくのです。メシヤはそのような人です。それは深刻な話です。深刻な話の中で最も貴い話です。
(188-283 ~ 284、1989.3.1)


4.普遍的愛

真の愛は、普遍的な愛である。終わりがない愛である。神様の愛にはまり込んでみた人は、全員が一つの兄弟姉妹であることを経験できる。絶対的真の愛と堕落した世の中の相対的愛には、大きな違いがある。真の愛は、公明正大な普遍的愛である反面、堕落した世の中の愛は、一家親戚と友人、同僚だけを愛する偏狭な愛である。

マーティン・ルーサー・キング牧師はこのように語った。「一人の個人が個人的関心事を越えて人類に向かうより大きな関心をもち始める時こそ、真の人間としての人生が始まる」。(注12)

人類に対する愛、それで十分だろうか。この愛が苦痛を受ける人たちに対する政治活動、あるいは慈善活動で表現される一般的同情心と同じだろうか。それだけでは十分ではない。愛の本当の段階は実質的な関係の形成である。あの遠い国に暮らす人たちを、どうすれば家族を愛するのと同じ強さで愛することができるだろうか。
ここに集めておいた教えは、見知らぬ人に対するとき、家族を愛するのと同じように対しなさいと教えている。文鮮明先生も、この主題に対してはっきりと語られている。人種を超越した普遍的愛を実践する一つの方法として、文先生は、子女をほかの人種の子女と交差結婚させることを提案される。ほかの文化から来た相手の家族を理解しようとする、決して簡単ではない努力を通して、
私達の愛は、人種的障壁を超える真実な愛によって生まれ変わるだろう。


①すべての人を愛する心情

―宗教経典―

かれは、第一方位を友愛の心で満たし、第二方位を友愛の心で満たし、第三方位を友愛の心で満たし、第四方位を友愛の心で満たす。このように、上を、下を、横を、全ての方位を、全てのところを、一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みもなく、悪意のない友愛の心で満たして生活する。

ヴァーセッタよ、あたかも、〔吹く〕力の強い法螺貝吹きが、容易に、〔音を〕四方に知らせることができるように、ヴァーセッタよ、友愛の心を修養すると、心が解脱し、基準となる行為の結果は、そこに残っていない。そこに存在していない。ヴァーセッタよ、これが梵天との共生にいたる道である。
阿含経長部xiii.76 ~ 77、三明経(仏教)


いつかある人が使徒に、イスラームで最も良い行為は何かと尋ねた。使徒が答えるには、「貧しい者に糧を与え、知っている人であれ知らない人であれ、彼らに平和の挨拶をかけることである」と言った。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、〔私心がないから、本当に〕人を愛することもでき、人を憎むこともできる。
論語4.3 (儒教)

賢人には定まった心はない。だが、人々の心をその心とする。彼は善であるものを善とするが、善でないものも善と考える。このようにして、区別のないものに達する。彼は真なるものを真とするが、真でないものも真と考える。このようにして、区別のないものに達する。
道徳経49(道教)


―み言選集―

昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を恭敬する敬天思想とともに、万民を愛しなさいというものです。天を愛し、地を愛し、人間を愛しなさいと教えたのです。
(19-285、1968.3.10)

宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、神様のそのような愛が、堕落以降今日まで生きてきた人間個々人に入っていって折衷されたならば、永遠の一日を中心として、上がっていっても愛であり、落ちても愛であり、倒れても愛だと言うことのできる境地があるのです。

それでは、その境地では人格の貴さがどこにあるのでしょうか。その人は話が上手だからいいとか、その人の目がハトの目のようでいい、というようなことを超越します。どこを見ても間違ったところがないというのです。彼と関係しているすべてのものは、香水の香りがします。神様が創造されたものは、神様の形状から見るとき、すべて神様の分身であり、神様と因縁を結んでいないものがないという心情をもってみれば、すべてが友人です。
(33-89 ~ 90、1970.8.9)

敵であろうと、友であろうと、愛する心は同じです。宇宙的です。すべてが一つの細胞と同じです。400 兆に達する細胞が一つになってこそ人になるのと同じです。この全体の細胞と通じ得る愛の化身体になってこそ、神様と一つになることができるのです。
(225-132、1992.1.5)

愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人種、黄色人種、何の差別もありません。愛は偉大だというのです。愛の流れにおいて、環境を意に介さずに流れていけば、環境が同化するのであって、環境が反発するのを嫌います。そのようにできる思想的な内容を備えてこそ、神様が喜ばれるのです。そのためには愛の配給しかありません。
(164-93、1987.4.26)
神様はどのような方であるかということを見る時に、自己よりも相対をもっと愛する方です。自己よりも相対側をもっと愛し、二人が一つになり、もっと大きい範囲の相対側を愛するための運動が、神様の運動です。神様の思想はこれが本質になっているために、神様は神様の前に一番近い人を悪の世界に送って、世界人類のために犠牲にするのです。これが、神様の思想です。

ですから、歴史的な義人たち、過去に来ては逝った聖人、賢哲たちは、すべてこの世に来て「人類を愛そう」というタイトルを掲げて主張しているのです。そのような人たちは、自分の家庭を中心として愛しませんでした。国家や世界を愛しました。国家を越えて世界を愛したのです。そうしながら歓迎されたのではなく、すべて排斥され犠牲になりました。
(100-81、1978.10.8)


②自分の家族を愛する心情で人を愛する

―宗教経典―

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
スッタニパータ149 (仏教)

一切衆生に対する慈悲心がなければ、父母に対する孝も輪廻を呼ぶ。(注14)
ミラレパ(仏教)

自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。
孟子I.A.7 (儒教)

私はちょうど父母に孝を見せるように、一切の存在の便宜をはかり仕える。師と長老たちと阿羅漢たちと如来たちにいたるまで、同様にふさわしく恭敬する。
普賢行願(仏教)
善男子、菩薩摩訶薩は、慈悲喜を修し已りて、極愛一子の地に住することを得。善男子、云何が是の地を名けて極愛と曰ひ、復一子と名くる。善男子、譬へば父母の、子の安穏を見て、心大いに歓喜するが如く、菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生を視ること、一子に同じ。善を修する者を見て、大歓喜を生ず。是の故に、此の地を名けて極愛と曰ふ。

善男子、譬えば父母の、子の患に遭ふを見て、心に苦悩を生じ、之を愍みて愁毒し、初て捨離すること無きが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、煩悩の病に纏切せらるるを見て、心に愁悩を生じ、憂念すること子の如く、身の諸の毛孔より血皆流出す。是の故に、此の地を名けて一子と為す。

善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木枝を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。

善男子、譬へば、父母所愛の子の、捨てて終亡すれば、父母愁悩して、命を興併にせんと願ふが如く、菩薩も亦然なり。一闡提の地獄に堕するを見て、亦興倶に地獄の中に生ぜんと願ふ。何を以ての故に。是の一闡提にして、若し受苦の峙、或は一念の改悔の心を生ぜば、我即ち當に為に種々の法を説き、彼をして一念の善根を生ずることを得しむべし。是の故に、此の地を復一子と名く。

善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善言誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念じて、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。(注15)
大般涅槃経470 ~ 471(仏教)

他人の国を自分の国のように思い、
他人の家族を自分の家族のように思い、
他人の人を自分の人のように思え。
墨子(注13)


―み言選集―

かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。
(31-168、1970.5.24)

皆さんが宇宙的な天国の理念を身代わりできる存在となり、神様の愛と生命と真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に建設されるでしょう。

したがって、自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないというのです。皆さんが、すべての人を自らの父母、兄弟、子女と思うことができる人格を備えた人になれば、死亡世界で苦しんでいる多くの民を見つめるとき、涙なくしては対することができないはずであり、兄弟や幼い人々を見つめるようになるときにも、「彼らを救
おう」という責任感をもって、涙を流しながら努力するようになるはずです。本当にそのような皆さんとなるならば、そのような皆さんを中心として、この地に天国が建設されるはずです。
(2-144、1957.3.17)

イエス様は、「あなたの家の家族が怨讐」と言いました。家の家族たちをもっと愛すれば、それが怨讐だというのです。天国に行くことができないということです。
(16-249、1987.2.22)

真の孝子を抱え得る父母は、自分に孝行する子女を称賛するよりも、「私に孝行するように、兄弟を私以上に愛し、隣人と国のために、私以上に愛しなさい」と教えてくれる父母です。孝子を抱え得る資格は、そのような人にあると思います。

善君がいるとき、その善君は忠臣に対して、「忠臣よ! あなたが私のために精誠を尽くし、愛するのはよいが、まず民を愛し、神様を愛したあとに私を愛しなさい」と教えてあげなければなりません。そうしてこそ、忠臣を率いる善君の資格があります。

今日、聖人を従えられる神様は、どのような方でしょうか。神様は、「あなたは私に忠誠の道理を果たしなさい」と教えません。「私を捨ててでも万民を愛し、この地球上のすべてのものを解放すると同時に、霊界にいる霊人まで愛してから私を愛してほしい」とおっしゃるのです。神様はそのような方なので、万軍の主という名称を永遠にもてるのです。(注16)
(85-265、1976.3.3)

誰が孝子ですか。父母様が最も喜ぶことを中心として常に考えながら、そのことを行動で成し、相対役を果たそうとする人、そのような立場に立った人を孝子と言うのです。……また、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと喜ばれるものを見て感じ、み言を聞くときも、「ああ、父母様はこのような言葉を喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くのです。
感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が父母様を中心とし、愛で昇華させることのできる人、心情の世界を慕う人が孝子ではないですか。
このように考えるとき、ある孝子がいて、愛国者がいて、聖人がいるとすれば、彼らはみな世界を中心として考える人たちです。

この地上を中心とする考えをしたのです。それでは、この宇宙の中心である神様を中心とすればどのようになりますか。そのようになれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が神様の愛を受けるのにふさわしい存在になることを願うでしょう。(注17)
(161-132.133、1987.1.18)


③特に異邦人、外国人、社会が蔑視する者を愛しなさい

―宗教経典―

あなた達の神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなた達は寄留者を愛しなさい。あなた達もエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
申命記10.17 ~ 20(キリスト教)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イ工スは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムかちエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(注18)
ルカによる福音書10.25-37(キリスト教)

イスラエルが紅海を渡るとき、天使たちが合唱しようとすると、聖なるその方が彼らを叱責して語られた。「私の子たちが水に溺れているのに、どうして歌を歌うことができるのか」。
タルムード、メッギラー10b (ユダヤ教)

菩薩は、一切の存在に対して同じ姿勢で臨まなければならない。彼の心は、一切の存在に対して平等でなければならず、彼は同じでない心で他の人たちに接してはならず、親しく友好的な心、害を及ぼしたり、憎む心なく接しなければならない。彼は他の人たちにまるで自分の母、父、息子、または娘であるかのように接しなければならない。一切の存在の救済者として、菩薩は一切の存在に接しなければならない。ゆえに、彼は完全な悟りを得ようとすれば、自らの心を修めなければならない。
八千頌般若経321 ~ 322(仏教)


―み言選集―

他人同士が集まっても兄弟以上に愛さずには、天国に入れない。神様を愛するごとく人を愛さねばならない。
御旨の道、天国

私達は、その愛をもって氏族と民族を超越できる愛の化身にならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結され得る氏族的内容があるのです。

すなわち、その愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶようにできる絶対的な起源となると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的与件を永遠に否定できる絶対的な愛でなければなりません。

それでは、その愛は何を中心とするものでしょうか。その愛は、個人を中心とするものではありません。その愛は家庭だけを中心とするものではなく、氏族だけを中心とするものではなく、民族だけを中心とするものではありません。または、大韓民国なら大韓民国という国家だけを中心とするものではありません。愛は、そのすべてのものを超越する愛です。

世界を超越し、天宙を中心とするものであり、天宙だけでなく、神様を中心とする愛です。また、神様だけを中心とするものではなく、神様の愛を中心として進んでいこうというのが「統一思想」であることを皆さんは知らなければなりません。
(35-271 ~ 272、1970.10.25)

自分が白人だからといって、「ああ、私は白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじいさん、おばあさんは愛せない。身なりの立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。
そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければならないのです。それが公式です。人がこの地上に生きながら訓練を受けるための公式だという話です。
(130-274、1984.2.5)

私達祝福家庭の中で、三人の息子がいるとすれば、一人はドイツ人の嫁をもらい、一人はフランス人の嫁をもらい、一人はイギリス人の嫁をもらうのです。三人の嫁の国が怨讐です。すべて怨讐の国の嫁をもらうのです。それで、互いに競争して争いますか、御飯を食べることまで「分けて食べよう」、このようにしますか。これはドイツの嫁が食べるもの、これはフランスの嫁が食べるもの、これはイギリスの嫁が食べるもの、このようにしますか、混ぜておいて食べますか。どのようにしますか。

混ぜておき、食べようとしてこぼれたらどのようにしますか。こぼれても、そのままかき集めて食べますか、どうしますか。最初は嫌ですが、目をこうしてかき集めて食べるのです。なぜですか。アフリカ人が食べていたものを私が食べなければ愛することにならないので、そのようにするのです。白人同士だけでなく、アフリ力人を愛さなければなりません。

その時のために今準備をすべてしなければなりません。それがどれほど驚くべき事実かというのです。落ちた御飯を食べる、そこに神様が臨在し、愛が臨在するのです。
(99-134 ~ 35、1978.9.10)

皆さんは、アメリカ人はアメリカ人だけ、東洋人は東洋人だけ、そして自分の氏族的、民族的、国家的基準は越えられないというのです。ですから私達は、真の愛を中心として人種差別問題を消化させなければなりません。それは何で証明するのですか。国際結婚だということです。何の話か分かりますか。それが概略的な立場の歴史的な真実の観点から見る観です。
(112-86、1981.4.1)
5.怨讐を愛しなさい

怨讐を愛し、悪を善で返しなさいという言葉は、時にはとても非現実的で、完璧主義者、道徳論者の思想だとみなされることもある。これは世界的に多くの宗教で広く教える思想でもある。この精神は、人との平和な関係を持続するための根本原理である。

人々は、過ちを犯した人に「正義」という名で報復を願う。すべてが「目には目」のやり方を主張するなら、この世の中はすべて、理性を失った世の中になるだろう。復讐は悪を増大させるだけである。この方法では、神様と人類に対するサタンの讒訴である悪の根を根絶することはできない。
文鮮明先生は、怨讐に対して与える想像を超越した愛は、悪を根絶し、さちには私達を神様の国にまで導いてくれると語られる。この節には、十字架にかかられるとき、怨讐を愛されたイエス様の教えが含まれている。一方、現代の有名な道徳的先駆者マハトマ・ガンジーとマーテイン・ルーサー・キング牧師の指針も共に載せた。
―宗教経典―

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.43 ~ 48(キリスト教)


主なる神は言われた。「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー26.2 (ユダヤ教)

神はなんじらとなんじらがいま敵意をもつ者たちとの間に、あるいは友情をおこさせたもうこともあろう。まことに神は全能者である。また神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン60.7 (イスラーム)

神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えてあげよう。あなた達を抑圧する者を赦し、あなた達から背を向ける者と紐帯を結び、あなた達を侮辱した者に親切にし、あなた達から奪った者に与えることである。」
ハデイース(イスラーム)

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
法句経3 ~ 5(仏教)

憎しみを愛でもって報いる。
道徳経63(道教)

善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)いらそう善いことで悪を追い払え、そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになるであろう。だが堅忍の者たちのほか、それはなしとげられまい。また格別に幸運の者たちのほかは、それをなしとげ得ないであろう。
クルアーン41.34 ~ 35(イスラーム)

あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
出エジプト記23.4 ~ 5(キリスト教)

憎悪心を静めるためには、あなたの友を助ける前にまず怨讐を助けてあげなさい。
バセフタ、バヴァ・メツィア2.26 (ユダヤ教)

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。〔父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書23.33 ~ 34(キリスト教)

現れた外の姿を超えて軽率な悪行の裏面を見つめれば、その怨讐のような隣人の内面にも、ある程度の善があることを見ることができます。そして、その悪行がその人のすべての性稟を見せてくれているのではないことを知るようになります。そうすれば、その人を新しく見つめることができます。そして、私の憎悪が恐怖と慢心、無知、偏見、誤解から始まったことを悟るようになります。

そして、誰にも神の形が存在の中に刻まれていることが分かります。そうすると結局、彼のすべてが悪なるものなのではなく、彼もやはり神の拘束から外れた存在ではないことを知るようになり、そのようになれば、私達は怨讐までも愛することができるでしょう。
マルティン・ルーサー・キング・ジュニア愛の力(キリスト教)

私達が、ただ私達を愛する者を愛するのであれば、それは非暴力ではありません。ひとえに私達を憎む者たちを愛するとき、それこそが非暴力です。この驚くべき愛の法則に従うことがどれほど難しいかを私は知っています。

しかし、偉大で善なるものはすべて行うのが難しいではないですか。憎む者に対する愛は、あらゆるものの中で最も難しいです。しかし、私達が喜んでしようとすれば、最も難しいこのことさえも、神の恩寵によってやさしくなるのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディーすべての人は兄弟(ヒンドゥー教)

自らの友に友好的なのはとても簡単です。しかし、自らを自分の敵と考える人に友好的になることこそ、真の宗教の核心です。それ以外のことはただビジネスにすぎません。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディーすべての人は兄弟(ヒンドゥー教)


―み言選集―

天国で、神様の近くで侍って暮らすことのできる人は、どのような人ですか。神様のような人です。神様が怨讐を愛する神様であれば、怨讐を愛するために努力し、そのためにすべてを投入する人が、神様がいらっしゃる高い玉座の近い所に行って暮らすのです。……

このように考えるとき、教育の中で最も貴い教育とは何でしょうか。修養の中で最も貴い修養とは何でしょうか。どのような教育や修養でも、怨讐を愛そうと努力するために学び、そのように努力するために修養するのが最も良いことです。
(124-155、1983.2.6)

サタン世界の愛と天の世界の愛は、どのように違うのですか。サタン世界は怨讐に怨讐で返すのであり、天の世界の愛は怨讐に愛で返すのです。怨讐を愛そうとすれば、怨讐は、サタンは逃げていくのです。

それで、イエス様は逆説的な道を行きました。宗教人たちが逆説的な道を行ったのは、すべてこのような理由からです。すべて逆さまになったので、仕方がないということです。西側が東側になり、東側が西側になって逆さまになったのです。南北も、南側が北側になり、北側が南側になりました。逆さまになりました。したがって、皆さんが個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐、民族の怨讐、国家の怨讐、世界の怨讐、宇宙の怨讐まで愛することができなければ、天国に行くことができないのです。神様はそのような立場にいます。
(130-161、1984.1.8)

私を憎む人をも好きになろうというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人は嫌がりますか。喜ぶのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、1度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-303 ~ 304、1971.1.16)
聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、1次、2次、3次、4次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も怨讐を愛したのです。
(121-173、1982.10.24)

皆さん、誰か反対する人を見るとき、「ああ、かわいそうだ」と思ってみましたか。「私がそのような立場に行くので、ねたましく思ってそのようにするのだなあ!」と考えてみましたか。
(105-31、1979.7.8)

葬ってしまいたい怨讐がいても、神様はなぜ罰を下すことができないのかというと、その怨讐を愛するその父母と妻と息子、娘がいることを知っているからです。神様も涙の谷間を越え、その怨讐を誰よりも愛するその父母と妻と子女たちの心情を体恤するとき、むち打つことができないのです。神様の愛は、そのようなものです。


そのような神様の心情を本当に感じるようになれば、怨讐に復讐することができますか。それを知れば、かえって人を送って怨讐を助けてあげなければなりません。そうしてこそ、天地の大道、愛を中心として一つに抱こうとするその大道の前に私が近くに立つようになり、そこに天地が震動し、神様も涙を流すようになるのです。「お前は私に似たなあ。ああ、うれしい!」、このように言われるのです。

そのような立場から見れば、怨讐を愛しなさいという言葉が理解できます。そのような力が出てくるのは、知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。真の愛にのみあるのです。
(201-150、1990.3.30)

自分の家より自分の一族をもっと愛さなければなりません。神様が自分の息子、イエスよりも怨讐であるイスラエル、ユダヤの国のために生きる立場にいたので、息子を死の場に立てたのです。イスラエル、ユダヤの国をもっと愛しました。そして、イエスは十字架でも怨讐を愛しました。槍で刺すローマ兵に対して、「彼らの罪をお赦しください」と言いました。ローマ兵の罪を赦してほしいと懇請したのです。そのようにしたのは、ローマの平和ではなく天の家庭の平和の基準を求めるためにしたのです。
(235-224、1992.9.20)

怨讐の息子、娘のために神側の人を犠牲にし、祭物としてくるのが神様の道です。アベルは神側の人なので、自分の息子、娘よりもっと愛し、自分よりもっと愛する立場に立とうというのがアベルの道だ、という事実を知らなければなりません。

そのようにする人がいれば、サタンも、「ああ、私は神様のような愛を受けることはできないようになっている」と言うのが原則です。そこからサタンが退いていくのです。

イエス様が十字架で亡くなるときにも、彼らに福を祈ってあげました。自分が死んで福を受けることよりも、自分が犠牲になっていなくなるとしても、彼らの福を祈ってあげるのです。良心がある人で、そのような立場で頭を下げず、心が覆らない存在がいると思いますか。そのようにして永遠に怨讐と離別してこそ、理想時代に入っていくのです。

サタンがこのような原則によって、「神様が息子、娘として怨讐である私を愛した」というサイン、証明書を発給してくれなければなりません。サタンが、「この人は神様が愛さなければなりません」、このように言わなければなりません。そのときに、抱いて愛するその人を見て、サタンが「ええい、こいつ!」と言ってはいけないのです。「アーメン!」と言わなければなりません。その
ようにして、サタンとの関係を清算しなければならないのです。
(118-172、1982.5.30)

反対すればするほど、世界と向き合っていた神様はレバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。(先生の側です)。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204、1987.9.20)

神様が願われることは統一の世界です。すなわち一つの世界なのです。その世界は、国境のない世界です。神様には国境がないので、「恨みを晴らしなさい」という言葉は言えません。なぜならば、その言葉の中には国境が内在しているからです。
しかし、怨讐を愛して一つになれば国境が崩れていくのです。

ですから、神様の戦略戦術は「怨讐を愛しなさい」という言葉になるのです。「怨讐を愛しなさい」という言葉は、偉大な戦略であり、偉大な戦術的な内容だったということを、今日までの人類歴史は分からず、今現在生きている人間たちも分からずにいます。

怨讐の国民同士で結婚して息子、嫁と思うことができなければ生きていけないという人にさえなれば、統一天下は自動的に形成されるのです。これが、私が今晩皆さんに差し上げる贈り物です。国境がある所には、必ず悪魔の身内が暮らしているのであり、38 度線がなくお互いに愛して和睦する所には、間違いなく神様の血統をもって生まれた身内が暮らしているのです。
(330-255、2000.8.18)

私が人を疑う時、
私は苦痛を感じる。
私が人を審判する時、
私は耐えることができない。
私が人を憎悪する時、
私は存在の価値を失う。
しかし、もし私が信じれば、
私は間違いなくだまされる。
私がもし愛すれば、
私は反逆に遭う。
今宵、私の頭と身は、
苦痛と悲しみに震えている。
私が間違っているのか。
そうだ、私が間違っているのだ。
しかし私がだまされても、
私はまた信じる。
私が反逆に遭っても、
私はまた許す。
私は私を憎悪する者を、
ことごとく愛します。
おお、主よ! 愛するという痛みよ
私の手を見てください。
この私の胸に、
主のみ手を当ててみてください。
私の胸は言うに言えない、
苦悩の中で破裂しそうだ。
しかし反逆した者を、
私が愛する時
私は勝利を成就するだろう。
もしあなたも私のように愛するなら
私はあなたに、栄光の王冠を捧げよう。
(518-221 ~ 222、栄光の王冠、1935 年)


6.赦し

自分に過ちを犯した人に赦しを施す寛容の態度は、あらゆる経典で強調する内容である。赦しは、イエス様の教えの核心である。キリスト教徒の義務は赦すことであると祈梼にもある。神様こそ、常に赦してくださる方である。コーランにもあるように、神様の最も近くに行こうと熱望する者は赦
しの心が満ちあふれていなければならない。

父母には赦しが自然である。私達が人に父母の心情で近づいていくとき、私達の父であられる神様と同じ心情で彼らと向き合うとき、私達は赦すことができる。私に途方もない不義と害をもたらした人を赦すのは難しいことだが、そのような怨恨を抱くことによって自分の霊魂に再び傷を負わせるよりは、はるかに望ましいことである。

それでは、どのように赦すことができるだろうか。赦しは自然な過程ではない。軽く忘れてしまい、足で踏み潰せる問題ではない。簡単に形式的に赦すのは偽善であり、継続する怨恨の深い感情を仮面で隠しておくことにすぎない。

神学者ポール・ティリッヒは、このように言った。「赦すということは記憶が前提となっています。ちょうどきのうの天気を忘れてしまうように自然に忘れるのではなく、記憶しているが、それでも忘れるということです」。(注19)

文鮮明先生は、人を赦したければ、赦しが必要な肯定的理由を探しなさいと言われる。過去の過ちに対する痛みの記憶を代替し、新しく関係を始められるだけの理由を見つけなさいというのである。先生も、神様が人間を赦された理由を探求されたのであり、過ちを犯した人がいれば、その人を理解し同情するために、その短所と苦悩とは何だったかを探し出そうと努力されたのである。


―宗教経典―

私達に必要な糧を今日与えてください。私達の負い目を赦してください、私達も自分に負い目のある人を赦しましたように。
マタイによる福音書6.11 ~ 12(キリスト教)

もしなんじらが、かれらを許し、寛容し、かばうならば、まことに神は、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられる。
クルアーン64.14 (イスラーム)

神は最も寛大であられ、他の人を赦す者を愛される。
アルガマ・アルサガイル2.1749(イスラーム)

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書64 ~ 15(キリスト教)

信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪に対する報いは、それと同様の悪である。

だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことにかれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれらは、あらゆる事に果断でそれを成就する。
クルアーン42.36 ~ 43(イスラーム)

あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカによる福音書17.3 ~ 4(キリスト教)

優れた人の最上の行為は赦しと不問である。
ナフジュ・アル・バラーガ語録201(イスラーム)
君子は罪過あるものを赦し宥めて、万民の患難を解くことにつとめる。
易経、周易下経、解40(儒教)

イムランの息子モーセが、「主よ、あなたの目に最も優れたあなたの従僕は誰ですか」と尋ねると、その答えは、「権力のある地位にいるとき、赦してあげる者である」だった。(注20)
バイハキ・ハディース(イスラーム)

律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書8.3 ~ 11(キリスト教)

寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。私はそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
申命記24.17 ~ 18(キリスト教)

復讐をしたり、敵意をもって行う者は、剣を使って自分の手を切ることのように、他の手に傷をつけることによって、自分自身に報復するのと同じである。
エルサレム・タルムード、ネダリーム9.4(ユダヤ教)

寛容で憤怒を散らしてしまえ。
サマナスッタム136 (ジャイナ教)

ある人が〔鄭の〕子産のことをたずねると、先生は「恵み深い人です。」といわれた。〔楚の〕子西のことをたずねると、「あの人か、あの人か。(語るまでもない。)」といわれた。〔斉の〕管仲のことをたずねると、「この人は、伯氏から三百戸の餅の村を取りあげたのだが、伯氏は粗末な飯をたべながら、生涯うらみごとをいわなかった。〔心服させたのですよ。〕」といわれた。
論語14.10 (儒教)104

そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイによる福音書18.21 ~ 22(キリスト教)

赦しがある所に神がいる。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1372(シーク教)

真実に偉大な者は、人々に赦しを受けず、人々を赦さなければならない。
朱熹(儒教)

傷害はあなたを相手の下に入らせ、復讐はあなたを彼と同じ人にし、赦しはあなたを彼の上に立てる。
ベンジャミン・フランクリンプーア・リチャードの暦


―み言選集―

大きく赦してくださるのも、その人の事情を100 パーセント分かるときに可能です。神様は、人間の事情を御存じなので、人間を赦してくださるのです。
(2-220、1957.5.26))

ヨセフが自分の兄弟たちを赦したのは、父母を赦したのと同じです。すべて怨讐です。私がヨセフの立場で見るとき、すべて怨讐だというのです。統一教会がヨセフの立場で見るときすべて怨讐ですが、神様を信じているので、神様を見てでも赦さざるを得ないのです。
(146-125、1986.6.8)

私は、今まで大勢の人々を従えてきながら、過ちを犯した人がたくさんいましたが、過ちを犯したとき、さっと見て「100 回赦してあげよう」という心で向き合います。先生は、向き合う人たちを100 回赦してあげるというのです。それが父の心です。
例を挙げれば、今自分の息子が強盗殺人をして死刑囚になったとしましょう。それで、息子が刑場に引かれていくのですが、自分の息子を見つめる父母の心が、「おお、お前はよくぞ死ぬことになったな。さあ、早く死になさい、こいつ」と思いますか。結果は死刑だとしても、その心情は1000 回、1 万回赦すことができる道があれば、赦してあげたいと思うのが父母の心です。
(157-259-260、1967.4.10)

責任者の中で食口を率いる人は、食口が過ちを犯したら、間違っていると正面から言うよりも、過ちを犯した人をどのように赦すのか、その夫人がどのように暮らしているのかを見なさいというのです。夫人を見るのです。夫人がその夫よりも悪いのかどうか、ということです。

次は、子女を見てください。子女を見るとき、その父親よりも悪いのかというのです。次に、父母を見て、父母が子女よりも悪いのかというのです。父母は悪くないのです。すべて悪くても、父母は悪くないので、私か父母の愛の心をもって向き合えば、その家庭に今まで積まれてきた福が私と関係を結ぶのです。福を接ぎ木する方法はそうです。そのように生きる人は、絶対に滅びません。滅びそうになっても天が保護するのです。
(308-208、1999.1.5)

天は、滅んだ者を再び打つことはありません。滅んだ者の中で、自分の罪を自白し謝罪する者に対しては、哀れみで接するのです。そのような天がいるので、敗者に再び刃を向けて切りつければ、切りつけた者の子孫が滅びます。ですから、そのような人たちのために、友人以上に近い立場で精誠を尽くし、導いてあげるのです。
(25-333、1969.10.12)

キリスト教の歴史を見てみるとき、ローマの400 年の迫害時代において、ライオンの餌になったり、犠牲になる殉教者が大勢いました。彼らの中には、不義のシーザー王に抵抗するために、「神よ、罰を下してください! すべて滅びるようにしでください」と言いながら死んでいった殉教者たちがいるかと思えば、「彼らの罪を赦してくださり、神の国をこの地上に成し遂げてください!」と言って死んでいった殉教者がいるでしょう。

ローマ皇帝であるシーザーのために祈り、怨讐であってもローマのために祈った人は、怨讐のサタン世界に勝った位置に上がっていくのです。しかし、ローマに反対し、私一人が救いを受けるために死んでいった人は、ローマ以下の位置にとどまっていることを知らなければなりません。
(130-233、1984.1.29)

イエス様が怨讐まで愛しなさいと言ったのなら、サタンを愛しなさいということですか。神様がイエス様を送って愛しなさいと言いましたが、サタンを愛しなさいということなのかというのです。はっきりと知らなければなりません。

「兄弟が罪を犯せば、7度まで赦しますか」と言ったとき、イエス様は、「7度だけでなく、7度を70 倍するまで赦しなさい」と言いました。それでは、そのような人であれば、神様の息子であるイエス様であれば、サタンも愛さなければならないのですが、なぜサタンを愛することができないのですか。サタンも愛さなければなりません。そうすれば簡単です。そうすればそのサタンと神様と一緒に暮らせます。しかし、そのようにすることはできないのです。あり得ません。

イエス様が怨讐のために祈祷したのは、その人、サタンがついたその人を怨讐視したのではありません。怨讐はサタンなのですが、サタン側にいる人を愛したというのです。サタン側にいる人を取り戻すための立場にいて、神様が取り戻そうとされているがゆえに愛したのであって、サタンそれ自体を愛したのではないことを知らなければなりません。人を愛したことを知らなければなりません。

なぜそうしたのでしょうか。人は本来、神様の体でした。それを取り戻さなければ神様が完成されないからです。愛を完成するにおいては、人がいなければならないということです。神様が愛を中心として完成できるこのような立場に立っていたにもかかわらず、これを破綻させたので怨讐です。もしこれを赦したのなら、神様の愛を破綻させたサタンなのに、これを赦せば、この宇宙の理想というものは完全に崩れてしまうのです。
(92-187、1977.4.10)

あなたは善の本体でいらっしゃるので、無限の愛と寛容でこの国の数多くの宗教人たちが、統一の子女たちを迫害した過去の出来事を赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。

これまで統一の門をたたいても、迫害の道、涙の苦難の道を開拓する途上において、慰労を受けることのできる一人を迎えることができなかったために、孤独に疲れて離れていった人もおります。

また、この道を歩んでいる多くの人たちが疲れていることも知っております。きょうも町中で、あるいは身を置いている所で、あなたに向かって頭を下げ、赦しを請う、彼らの姿を思うとき、怨恨が結ばれた父の心情を解いてさしあげたいと思う、抑え難い憤りの心情もありますが、怨讐の子女を訪ねてこられた父の哀れみに満ちた復帰の道を思えば、涙を浮かべて彼らを再び祝福せざるを得ないことを知っておりますので、彼らを赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。お父様、背反し、背信したかわいそうな群れを赦してくださり、再び覚えてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(27-301 ~ 302、1969.12.28)

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世界経典-50

2022年07月16日 20時16分02秒 | 学習

第13章 愛

1.真の愛

真の愛は、最高の愛である。最高に崇められるが、現実で体験するのはとてもまれな愛である。この節では、理想的愛とは何かに対してのみ扱う。次の節で、理想的愛の多様な属性に関して扱うことにする。

真の愛の源泉は、神様である。究極的実在の核心である愛と哀れみは、自己中心的執着と欲望を越えた聖人から具現され得る。神様が被造物のために創造を始められたように、真の愛もやはり、相対の幸福のための献身的愛である。

神様が絶対、不変、永遠であられるように、真の愛もやはり変わらず、運命のいたずらに屈しない。神様が人類の父母であり、万物の創造主であられるように、真の愛を実践する人間もやはり公明正大であり、全体を包容できる。したがって、真の愛は神様と真実に一つになり、一生を天のみ旨を成就するために生きていく個人から具現され得るのである。

自己中心的欲望を追求する利己主義者は、真の愛を決して実現できない。しかし、人間は真の愛の潜在力を生来的にもって生まれるので、真の愛の実現は不可能ではない。子女のためにすべてのことを犠牲にする父母であれば、これを体験したであろう。

そのような人も、子女が生まれる前には、自身の快楽ばかりを追い求めて生きてきたかもしれない。しかし、子女の誕生は、父母の人生に新しい方向を提示する。自分から人に、受けることから与えることへの転換が起きるのである。父母の愛は、神様の真の愛と近い。したがって、私達は神様を父と呼ぶ。

人間が先天的に愛をもって生まれたという事実は、中国の漢字「仁」にも表現されている。「仁」の字を見れば、「天」の字のように「二人」が含まれているのを知ることができる。ゆえに愛は私達に内在されており、神様はその愛を通して私達に臨在され、私達はまた神様に似ることができる。


①真の愛の本質

―宗教経典―

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私達の知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一13(キリスト教)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。

ここに、神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。……

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。「神を愛しでいる」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 12、18 ~ 20(キリスト教)
このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。

私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。

自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。
バガヴァッド・ギーター6.28 ~32(ヒンドゥー教)


―み言選集―

真の愛の人生とは、どのような人生でしょうか。真の愛は、公益性をもつ無形の秩序であり、平和であり、幸福の根源です。真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたということすら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。

母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子供が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です。神様の人類創造がそうであったように、何ら見返りを期待せず、条件も付けずに与える、絶対、唯一、不変、永遠なる愛の創造です。

真の愛は、宇宙の源泉であり、宇宙の中心、宇宙の主人を生み出してくれる愛です。真の愛は、神様の根であり、意志と力の象徴でもあります。したがって、真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。堕落の末裔である人間がつくった国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が、真の愛の価値です。

神様の真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠なものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践すれば、神様と同居して共に楽しむことができ、同参権までも享受できるようになるのです。このように、天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。
平和神経平和メッセージ1.25 ~ 26、2005.9.12

コリント人への第一の手紙第13 章、愛の章に「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」とあります。それを知らなかったというのです。

あなたの心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすというのは何ですか。生命を投げ出して愛しなさいということです。命を投げ出して愛しなさいという話です。全体を投入して愛するのです。隅から隅まで愛しなさいということではないですか。

皆さん、誰かをそのように隅から隅まで愛してみましたか。妻となった人が夫を隅から隅まで愛してみて、父母となった人が子女を隅から隅まで愛してみて、子女となった人が父母を隅から隅まで愛してみて、師となった人が弟子を隅から隅まで愛してみて、弟子となった人が師を隅から隅まで愛してみて、民となった人が国を隅から隅まで愛してみたのかというのです。

できませんでした。ですから、そのようにできなかった人間に対して、一つのタイプ、金型を造ったのです。工場で大量生産するためには、金型からガチャッ、ガチャッと造るのですが、タイプ、モデルを造らなければなりません。人間のモデルを造らなければなりません。神様が願う愛を中心とする人です。そして、私が愛することのできるモデル、それ以上ないというのです。
(143-274, 1986.3.20)
真の愛とは、何ですか。真の愛は神様の愛です。それでは、真の愛が行く道はどのようなものですか。神様を永遠に愛そうというのなら、私は真の愛の所有者になるのです。簡単なことです。なぜそうなのでしょうか。愛の特徴は永遠です。ですから、その愛の条件は永遠でなければならないということです。

永遠にその愛に向かい合おうと思ってこそ、その真の愛が私と相関関係を結ぶので、それが不可避だというのです。愛は永遠です。愛は永遠不変で唯一なのです。ですから、そのような内容に100 パーセントすべてなっているので、私達自体が真の愛に対して、永遠に天に心を整えるにおいて、愛の道が連結されるのです。
(123-329、1983.1.9)

愛の主人は、神様です。真の愛の「真」というものは、二つを許諾しません。「真」は絶対的にただ一つです。真の愛は、誰が最初に愛することのできる愛ですか。神様しかいません。それが真の愛の根本であり、本質です。神様だけが真の愛をなさることができることを知らなければなりません。神様の真の愛も真の愛が必要であり、神様の真の生命も真の愛が必要であり、神様の真の血統も真の愛が必要であり、神様の真の良心も真の愛が必要です。神様を抜かせば真の愛はありません。神様が介在しない愛は、真の愛ではないのです。
(300-200、1999.3.14)

神様が創造主の能力を行使するとき、愛を中心としてつくったというのです。真の愛と関係を結んだのちにです。霊的世界では真の愛が連結されれば、すべてのものをコントロールすることができ、すべてのものを創造できます。それが私達の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、すべて徒労だというのです。
(147-116、1986.8.31)

愛は究極的に私達人間から始まったものではなく、絶対不変の原因的主体から始まったものなので、それを中心とした愛の家庭が人間社会の理想具現の基本単位になります。絶対価値の理想実現のための愛の家庭から、国家、世界へ拡大し、愛を完成した統一圏の世界、それこそ絶対価値の永遠の幸福が約束される理想世界が必ず訪れるのです。
(89-227、1976.11.27)

もし、ある夫婦の間に体の不自由な子供が生まれたとすれば、その父母が、「ああ! 足の不自由な子供は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが真の愛ですか。違います。同じことです。夫が妻を考えることも同じだということです。最後まで蹴飛ばしてしまうようにはなっていません。

もっとかわいそうに見えるのです。そうすれば、間違いなくその人は、霊界の法度にそのまま通過していきます。それを知らなければなりません。ですから、それが貴いのです。そのような人を真の夫というのです。うれしいときに喜ぶのが真の愛ではなく、良くないときにもっと喜ぶのが真の愛です。師弟関係もそのような関係です。そして、国の大統領や民もそのような愛の観念をもたなければなりません。
(117-292、1982.4.11)
神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは10 年や100 年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。

人も同じです。人は永生すべきです。なぜでし
ょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは10 年、100 年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチをもって独身で生きた人もいます。インドのネルーのような人は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
(39-342 ~ 343、1971.1.16)

真の愛というのは何をするのですか。永遠に継続する愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、老年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、その次に永遠の霊界に行ってもその愛……。変わらない愛です。
(194-303、1989.10.30)


②哀れみと慈悲

―宗教経典―

孟子がいわれた。「仁ということばは人(じん)という意昧であり、人間らしくあれということである。〔義ということばは宜という意味であり、是非(よしあし)のけじめをつけるということである〕。この仁〔と義との二つ〕を合せて、これを人の道という。」
孟子VII.B.16 (儒教)

慈悲とは、すべて生きとし生けるものに対して憐れみが一味平等である心であります。
龍樹宝行王正論437(仏教)

アナスとアブドーラが神の使徒の言葉を伝え、「すべての被造物は神の子女だが、神が最も愛する者はその方の子女たちを親切に世話する者である」と言った。
バイハキ・ハディース(イスラーム)

神の愛にはまった者は万有を愛する。(注1)
アーデイ・グラント、ヴァダハンスM.1、P.557 (シーク教)

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。安穏であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生れようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

何人も他人を欺いてはならない。たとえどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうと怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与える
ことを望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。

また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨恨なく敵意なき(悲しみを行うべし)。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。(注2)
スッタニバータ、143 ~ 151 (仏教)

今、ねたむ心がつき、私は聖者たちの世界に入った。誰とも疎遠ではなく、誰とも他人ではなく、真実にすべての人が私の友である。神が行われるすべてのこと、これと共に私が喜ぶが、これが私が聖者たちから受けた知恵である。おお、万有に満ちておられる神よ! あなたを見つめることで私が大きく咲きます。
アーディ・グラント、カーナラーM.5、p.129 (シーク教)

もし見知らぬ人の足を踏むと、粗忽をしましたとわびるのに、もし兄弟の足だと、おおと言うだけである。親の足を踏めば、初めからゆるされていると思う。親しいからである。ゆえに至礼は他人としないところがあり(人と己の別をみない)、至義は物とせず(物と自己の別をみない)、至知は謀ろうとせず、至仁には親がなく、至信には金(石の堅さ)をしりぞける。(注3)
荘子23(道教)

仁は単純に画一的な寛大さではない。そのエネルギーは宇宙において春の季節であり、その道理は宇宙の中に生きているものの心である。
朱熹(儒教)
―み言選集―

神様は数多くの宗教を通して、「愛さなければならない」と教えます。釈迦が語る慈悲も、愛を中心とする言葉です。愛を抜かせば成立できません。儒教で語る「仁義礼智」の「仁義」というのも、愛を抜かせば何にもなりません。「仁」という言葉も「二人」ではないですか。人偏に「二」の字です。「天」という言葉も「二人」という言葉です。
(256-205、1994.3.13)

真の愛は「ために生きる」ところから、真の理想は「ために生きる」ところから、真の平和も、真の幸福も、「ために生きる」という立場を離れては見いだすことはできません。
(75-318、1975.1.16)

堕落した人間でも、父母が子女を愛する心に違いはありません。父母の愛は絶対の中の絶対です。それは存在意識を越えて存在することができ、動くことができるのです。これは、万宇宙のいかなる原動力や、いかなる存在物の主管圏内にもとどまることなく超越します。愛は理念を超越します。人格的な価値を超越します。この基準は、神様の価値までも超越することができます。
(8-273、1960.2.7)

いったい、真の愛とは、何でしょうか。愛は愛なのですが、どのような愛を真の愛といいますか。神様の愛です。それでは、神様の愛とは、どのようなものですか。イエス様のみ言によれば、それは怨讐を愛する愛です。そのような愛が真の愛だという話です。

白人同士が愛するのは何でもないのです。白人が
黒人を愛するのが真の愛に近いのです。怨讐を愛するということ、それは真の愛に間違いありません。

それでは、怨讐を愛することが、どうして真の愛なのですか。それは誰も批判できず、不平を言うことができないからです。それはいつでも丸く、いつでも回っていけます。ぶつかることなく運動できるということです。その愛は私の目に人ってきてもよく、鼻に入ってきてもよく、口に入ってきてもよいのです。……引っ掛かるものがないということです。それがなぜ便利なのですか。どこに行っても、ふさがる所がないからです。
(115-315 ~ 316、1981.11.29)

何をもって、この悪の世界を消化するのですか。軍事力で、経済力で、知識の力で、黄金の力で、この悪の世界をどのように消化しなければならないのですか。愛の力で消化しなければなりません。

能力が多く、権能が多く、全知全能であられる神様を屈服させ得る一つの秘法は、力では駄目です。知識でも駄目です。お金でも駄目です。しかし、私達人間の欲心を見るとき、神様までも争って勝ちたいと思うのです。

「なぜ、このような愛が億千万年引っ掛かったのか! 神様までも私が屈服させることができ、神様のすべてのものまでも私がすべて奪い、神様より高い、神様以上になりたい」ということが、力でできますか。知識でできますか。お金でできますか。できません。ただ、真の愛一つだけをもてばよいのです。

神様も、その愛の前には、神様がいくら大きくても、真の愛に引っ掛かれば、「神様も私のかめに入っていてください」と言えば、「おお、そうしよう、そうしよう!」と言うのです。

祖父や曾祖父、もう老いて死ぬ日が近いおじいさんの頭の上に曾孫が上がっていき、すべり降りてきながら大小便をしたとしましょう。それを赦す法がどこにありますか。顔から何から、すべてひどいことになっているので、おじいさんとおばあさんも、お父さんとお母さんも、兄弟たちも、大変なことになったと思いますが、「こいつ、あだ討ちせよ!」、そのように言うことができます
か。おじいさんが、「ああ、恨めしい。歴史始まって以来……。曾祖父の看板をもったまま死ぬことはできない!」という宣布式が通じますか。
このような権限をもった偉大な力、偉大な能力、偉大な造化のるつぼは、どれほどよいですか。造化がごろごろ転がり、いくらでも入っていく造化のるつぼです。どれほどよいですか。
(139-209 ~ 210、1986.1.31)


③愛の円形運動

―宗教経典―

私を愛する人を私も愛し、私を捜し求める人は私を見いだす。
箴言8.17(キリスト教)

この世において善い行いをなす者には、善い報酬がある。
クルア一ン39.10 (イスラーム)

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書5.7 (キリスト教)

愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にどどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。……
私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。……私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一4.11 ~ 12、16、19(キリスト教)

かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。
ヨハネによる福音書14.20.~ 21(キリスト教)

男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。
クルアーン9.71(イスラーム)


キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
エぺソの信徒への手紙5.21 ~ 22(キリスト教)

愛は丸く回っていく。愛される者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると愛する者はその愛される者を迎えるために進んでいく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス神学大全(注4)(キリスト教)

正しい恋とは、端正で美しいものを対象としつつ、節制を保ち、音楽・文芸の教養に適ったあり方でそれを恋するのが本来なのだね?
プラトン国家3(ヘレニズム)


―み言選集―

絶対的愛は強制ではありません。自然に循環するのです。
(196-134、1989.12.31)

愛は私から来るのではありません。相対から来るのです。それを知っているので、男性を造るとき、「ために生きなさい」として造りました。それで、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたのです。ですから、その愛を求め、その愛を迎えるのは、「ために生きる」道においてのみ可能なのであって、ために生きずに「ために生きろ」という道には、真の愛はありません。
(143-54、1986.3.15)

男性として生まれた人が行かなければならない道は、自分のために生きることで終局するのではなく、相対のために生きることで終局するように生まれています。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のためです。

また、いくら美人で、いくら男性が嫌いでも、女性はなぜそのように生まれたのでしょうか。自分のためにそのように生まれたのではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのようになる世の中になれば、天国に違いありません。

父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるので回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。これが理想的です。

四角形ではなく、立体的にぐるぐる回るのです。「ために生きる」ことは、押してあげることです。あちらから私のために生きて押し、私もそちらのために生きて押してあげるので、早く回っていきます。永遠だということです。


ですから、世の中は円形に似ています。顔も丸いのです。ここに二つがありますが、この二つが合わさっています。目も丸いのです。上部と下部があります。それがすべて完全に授け受けしなければなりません。静脈と動脈も授け受けします。与える道はあるのに。受ける道がなければ、病気になります。傷つくということです。存在物は運動をするのですが、その存在の根源において、「ために生きる」作用の原則を立てなければ、永遠に存在することはできません。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)

ですから、運動をすれば、必ず徐々に真ん中が膨れ上がっていきます。円形になるのです。渦巻いているところは、入り込むこともあり、掘る作用もしますが、上がってくる作用もします。砂のようなものを見れば、そのような作用をするというのです。周囲にあるものを集めるのです。

ここで授け受ける力の作用によって、このような円形運動が起きます。ですから、神様も私の中にいて、イエス様も私の中にいて、私もイエス様の中にいるという概念があり得るのです。その三つが合わさって一つの円形を成すというのです。
(124-51、1983.1.23)

垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。

これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に分かります。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。

それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう? 方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。
(214-233、1991.2.2)

④信仰と品性に由来する真の愛

―宗教経典―

(先に)言った「その家をきちんとするのは、その身を修めることにある」とは、多くの人はその親愛する人においては(親愛の)一方に偏るものである。その卑しみ憎む人においては(卑しみ憎むことの)一方に偏るものである。その畏敬する人においては(畏敬の)一方に偏るものである。

哀れんでやる人においては(哀れみの)一方に偏るものである。軽く扱う人においては、(軽んじ侮る)一方に偏るものである。人を好みながら、その悪いところを知り、憎みながら、その美点を知るような者は、天下にごく少ないのである。だから、ことわざにもある「人はその子の悪を知らないし、その笛の大きくなっているのが分からない」これを身が修まらなければ、その家をきちんとすることはできないというのである。(注5)
大学8(儒教)

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ヨハネの手紙一4.8(キリスト教)

ああ、実に夫を愛するから夫が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから夫が愛しい。(注6)
ああ、実に妻を愛するから妻が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから妻が愛しい。ああ、実に子を愛するから子が愛しいのではなく、自己(アートマン)を愛するから子が愛しい。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド2.4.4 ~ 5(ヒンドゥー教)

柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.23(キリスト教)

他の人に伝わる愛とはどのようなものか。ナナークが言うには、常に愛の主に没頭する人が真に愛する人だ。好意と悪意を区別する人は真に愛する人ではなく、彼ほかえって事情に捕らわれたかわいそうな人である。   アーディ・グラント、アーサー・ディー・バールM.2、p.474(シーク教)
悪にはまらず、善に帰るために神を畏敬するよう勧告しましょう。愛(の神)こそ私達の指導者であり統率者ではないですか。したがって、誰もその御意志に背かないようにしましょう。彼に反対する人は、神々に敵対する人です。

この神と友になり、親しく付き合えば、私達は私達自身の真の愛を発見できるでしょう。これは、今日何人にもならない人たちだけが享受できます……。私の言葉は……すべての所の男性と女性を含みます。私達の愛が完全に実現され、すべてが本来の姿に帰り、本然の真の愛をもつようになれば、全人類が幸福を享受するようになるでしょう。
プラトン饗宴(ヘレニズム)

どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうか? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの
人と折り合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?……他人の喝采を博したいなら、めいめいがいい気になって自惚れ、自分がまっ先になって自分に喝采を送ることが肝心要、どうしても必要なことなのですよ。
エラスムス痴愚神礼讃22(ヒューマニズム)


―み言選集―

私達人間が求める愛は、横的な愛、横的な基盤であり、神様の愛は、縦的な愛なので、縦横が連結されなければならないのです。
(238-140、1992.11.22)

皆さんの体と心の中には誰が入っているかというならば、神様が入っているのです。皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原理の教えです。

それでは、神様がなぜそこに臨在されるかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには愛があります。一つになる原則は愛から始まるからです。したがって、相対的愛があるために神様が臨むという論理が成立するのです。

「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿は、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休むことができる所です。私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。

そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないというのです。
(91-77 ~ 78、1977.1.30)

この境界線、零点を往来できるのは真の愛しかありません。心と体がこの点から一つになります。空いた所ができれば補っているのです。心と体が完全にそこでストップするのです。零点を通過するのは真の愛しかありません。その道しかありません。零点です。女性の心も零、男性の心も零、そこで一つになるのです。零点で完全に一つになるというのです。
自分の概念があってはいけません。夫と妻という、二つという概念があってはいけません。ぴたっと一つです。それは何かというと、私はあなたのために生きるというのです。零点です。どこに行っても自由です。振り返っても、ひっくり返っても自由です。それが零点です。すべての球形の中心が零点です。両側をすべて所有したものが零点だということです。真の愛が、そのようにして零点に来るのです。
(230-103、1992.4.26)

自分を愛さない人は、神様を愛せません。父母を愛さない人は、国を愛せません。また、自分自身を愛せない人は、父母を愛せません。自分自身を愛してこそ、父母を愛せるのであり、国を愛せるのであり、世界を愛せるのであり、神様を愛せるのです。
(22-97、1969.1.26)

愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。

神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。

その責任性は、次の三つとして考えることができます。第1に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修錬、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

第2に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の、自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは、夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は、絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。

第3に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外、そのどこからも得ることはできません。
(277-201 ~ 202、1996.4.16)


2.ために生きる人生

神様に対する献身と信仰によって始まる霊的な求道の人生は、慈悲と人に対する奉仕を通して完成される。「私達が愛し合うのは、神がまず私達を愛して下さったからである」(ヨハネⅠ 4.19)。ために生きる人生が愛の核心である。

人のために生きるのは、人間の内面に自発的に流れる、愛する心の自然な表現である。人間が神様に似たからである。創造の始めから絶えず被造物のために生きてこられた方が神様でいらっしゃる。

しかし、堕落によって人間はだんだんと腐敗していき、愛を聖なる根源と分離し、自分の快楽的側面に利用することによって、私達の心と態度、習慣は、すべて自己中心的に変わった。したがって、条件なく先に与えるのは、相当な努力を必要とするようになった。

私達は、先に与える社会ではなく、受けてばかりいる社会をつくってきた。このような社会は、自然に不平等と怨恨、犯罪へと連結されざるを得ない。世界の諸宗教は、奉仕し、人のために生きる人生が世の中で最も価値があると教える。イエスも真のリーダーシップは奉仕する姿勢だとし、自らも、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と語られた。

有名な宗教書籍である『バガヴァッド、ギーター』と『道徳経』でも、人のために生きる人生こそ、神様がこの世の中を創造し、経綸していく根本原理だと説明している。

人のために奉仕する利他的な行為は、神様から出てくる行為である。文鮮明先生も、「ために生きる」人生がすなわち天国生活だとされ、この主題に関する多くのみ言を伝えてくださっていらっしゃる。


①人のために生きるのが人生の根本道理

―宗教経典―

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6.2 (キリスト教)

人を助けることはすべての人の当然の職分である。
ダットヴァルタ・スートラ5.21 (ジャイナ教)

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
ペテロの手紙4.8 ~ 10(キリスト教)

すべての人は隣人に対して責任をもつ存在である。
タルムード、サンヘドリン27b(ユダヤ教)

最上の人間とは他の人に有用な人である。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
コリントの信徒への手紙一10.24 (キリスト教)

父母に懇切に尽くし、また近親や孤児・貧者や近隣や違い縁者・道づれの仲間や旅人、ならびになんじらの右手が所有する者に親切を尽くせ。神は高慢な者。うぬぼれる者をめでたまわぬ。かれらはりんしょくな者たちで、人びとにもりんしょくを勧め、神がかれらに賜わった恵みを隠すものである。
クルアーン4.36 ~ 37(イスラーム)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども
なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので
これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ
この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを
このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら
月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ
おふでさき12.89 ~ 94(天理教)

あなた自身だけの利益を追求せず、人も考えよ。あなたが豊かだとして、「人が私に関心をもたないのだから、私も彼らに気を使う必要はない!」と言うな。

あなたが運良く狩りをしたら、人にも分けてあげなさい。また、たくさんのアシカを簡単に捕まえることができる良い場所を人に教えてあげなさい。
時々は人もそれらの分け前をもてるようにしてあげなさい。もしあなたがすべてのものをあなたのために積んでおけば、他の人たちがあなたを離れ、誰もあなたと一緒にいようとしないだろう。もしあなたがある日、病にかかれば、あなたが以前、人に関心をもたなかったために、誰もあなたを見舞わないだろう。また他の人にも何かを与えなさい。ヤマナは利己的に行動する人を好まない。
ヤマナ・エスキモー族の入会式(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

愛の本質は、ために生きてもらおうとするものではなく、全体のために生きようとするものなので,
世の中とは違うのです。ですから、宗教の教えを見れば、人のために生き、絶対服従し、犠牲、奉仕をしなさいというのですが、世の中にはこのようなことがありません。
(46-42、1971.7.18)

利他主義、人のために、国家のために、世界のために、あらゆるものを投入し、犠牲、奉仕する人生が、この世の中では最も間抜けな愚か者の人生哲学のように見えるかもしれませんが、本当に深奥な真理を悟ってみ.れば、ただこの道こそが人間世界に最も有益な道であり、永遠に人間が幸福になれる秘訣であることを分かるようになります。
(198-163、1990.2.1)

原理原則に立脚して、人のために、相対のために投人する人は天国に行くのです。教育など、あらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日この地球が残っているのです。
(69-86、1973.10.20)

相対がなければ、ために生き得る相対がいなければ、真の愛の道は、永遠に探し出せません。
(398-284、2002.12.15)

広く、大きく天の国のレールに合うように地上でために生きなさいというのです。生まれたのはために生きるためなので、ために生き、また投入して忘れてしまい、愛して忘れてしまい、無限に愛さなければなりません。
(306-215、1998.9.23)

真の人は、どのような人ですか。真はすなわち善のものですが、善の人はどのような人ですか。自分を中心として全体が自分に屈服することを願う立場に立った人は、善の人だと言うことはできません。それでは、善の人はどのような人ですか。善の人は全体のために生きる人です。家でも一番善良で、かわいらしく、希望のある子供だというとき、……未来に善を所有できる希望のある子供だというときは、おじいさんも「そうだ」、おばあさんも「そうだ」、父母、兄弟、家族、一家親戚までも「そうだ」と言うことができる子供だというときは、その子供は間違いなくおじいさんを喜ばせる子供でしょう。おじいさんに毎日のように「私を喜ばせてくれ! 私を喜ばせてくれ!」、そのように言う子供ではないというのです。

小さな子供ですが、年を取ったおじいさんに対して、昼も夜もおじいさんが喜ぶ道をいつも考え、そのためにいつでも行動し、いつでも侍ってさしあげようとする子供であることは間違いないという結論が出てきます。

おじいさんにだけでなく、おばあさん、お父さん、お母さん、兄、姉を問わず一家親戚全体のために生きようとする生活様式と、あるいは礼儀作法に従っていくその子供が真の希望の子供であることは間違いなく、孫であることは間違いないというのです。全体のために喜ぶことができる環境の与件をつくり、そのような内容を提示しようとする人が歴史時代を経てきて善を受け継げる真の位置に立っているということです。
(174-11 ~ 12、1988.2.23)

ために生きる愛を中心として投入して宇宙が創造されたので、宇宙が生じたのです。私がために生きれば、宇宙の存続起源と一致するので、神様と一つになるのです。そのことによって、神様が滅びなければ私も滅びず、神様が宇宙の主人になるのならば私も宇宙の主人にならざるを得ないという事実を知らなければなりません。ために生きる人は、中心者になるのです。
(270-166、1995.5.29)

アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重することを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義は、あり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。このようなアメリカを救えるただ一つの道は、どこから出てくるのですか。今こそキリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を尋ね求めていかなければなりません。この道以外にはありません。
そのような意味で、この時代において、ミスター・ムーンが、皆さんが歓迎せずにこのようにしたとしても、必要な人ではないかというのです。
神様は、天理原則を通してこのように主張されます。「あなた個人は家庭のために存在し、あなたの家庭は民族のために存在し、あなたの民族は国のために存在し、あなたの国は世界のために存在し、世界は神様のために存在しなければなりません」。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものになるのです。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)


②何かの見返りを願わずに人に仕えよ

―宗教経典―

イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25 ~ 28(キリスト教)

私心のない奉仕なくしては何事も成されない。最上の清浄行は私心のない奉仕にある。
アーディ・グラント、マールーM.1、p.992 (シーク教)


人のためにしても代価を願わない者は主と一つになることを得る。ナナークが言うには、そのような僕だけが聖なる主の導きを受け、聖なる恩寵が彼に下る。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー18 M5, p 286 (シーク教)

あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。
モルモン経、モーサヤ書2.17(末日聖徒イエス・キリスト教会)

賢者は蓄めこむことをしない。他人のために出し尽くすと、得るものは多くなり、他人のために分けてやると、得るものはさらに多くなる。天の「道」は善いことをなすが害を加えない。賢者の「道」は行いをするが名声を求めない。
道徳経81(道教)

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ピリピの信徒への手紙2.3 ~ 4(キリスト教)

善の所有は、仲間が現れたりいつまでも留まることによって減少することはない。むしろその所有は一つの善であり、それは仲間同士の分かち難い愛が心を一つにすればするほど、豊かに所有することになるのである。つまり、この善の所有は、共有を望まない者には無理であろう。そして仲間をより豊かに愛する人は、より豊かな善の所有を手に入れるであろう。
アウグスティヌス神の国15.5 (キリスト教)


―み言選集―

福の中の最高の福は何かというと、犠牲的な愛、奉仕的な愛、人の「ために生きる」愛を施すことです。
(43-309、1971.5.2)

誰もが、老若男女を問わず、愛をみな望むでしょう? 何の愛ですか。ために生きる愛です!「ために生きなさい」と言う愛ではありません。「ために生きる」愛を望むのです。
(211-207、1990.12.30)

自分を中心として愛されようと考えるなというのです。愛そうという立場に立っているのが神様の心です。愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。

例えば、私にお金が100 億あって、道端に出ていってすべて分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。
(133-180、1984.7.10)

神様の愛は、どのような愛ですか。与えて満足するものではなく、与えてももっと与えたいと思って恥ずかしさを感じる心をもつ愛です。与えてから恥ずかしい心を感じる人ほど、本当の愛の主人です。

父母は子女に服を着せても、もっと良い服を着せることができずに済まないと思うのです。与えながらも、満足を感じるのではなく不足さを感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。

したがって、与えても満足しないのですが、完全なものとして報いてくるのが愛です。愛すれば愛するほど、もっと大きなもので補われるので、滅びるのではなく、栄えるのです。ですから、愛なくしては栄える道埋がありません。愛なくしては、永生はないというのです。
(38-327 ~ 328、1971.1.8)
愛の本質は何ですか。人のために生きようとすることです。自分の自主的な本質を中心として、人に与えようとすることが愛の本質です。その愛はどこから来たのですか。天から来たのです。神様は絶対的愛の主体なので、与えようとするのが愛の本質です。父母が涙を流し、「私の愛が不足だからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と思いながら、その子女の骨髄が溶け出るほど涙を流し、より大きな愛をもって子女の前に出ていくときに、その子女はどのようになりますか。振り返るのです。もっと大きな愛は弱い愛をすべて消化、統合させ得る力をもつのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)

神様は、なぜために存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら100 パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに50 パーセントはポケットに入れて、50 パーセントだけ報いたいですか。それとも、ありったけの恩返しをしたいですか。私達の本心がどのように作用しますか。誰でも、より多く報いたいのが本心です。

ここで通訳しているミスター朴に対して、私がもし100 パーセントそのようなものを与えたら、与えるにおいても、心から愛する中でくれたことを知れば、100 パーセント以上を返そうとするのです。100 パーセントが110 パーセントになって返ってくるし、その100 パーセントが返ってきたのは、また向こうが心からくれたので120 パーセントを返すようになり……。

このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるの
です。ですから、このような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。

2番目は何ですか。皆さんの家庭においても、5人の家族がいて、誰かがその5人の家族のために生きれば、あとでそのために生きていた人がその家庭の中心になるのです。ちょうど神様のように……。そのような中心が決定されると同時に、主体と対象、中心と相対関係において自ら志願する主管圏が生じるようになるのです。

絶対的に「ために生きる」その主体に主管されるのがどれほど幸福かということを、今日の人間たちは知らずに生きています。霊界に行けば、神様の直接主管を受けることがどれほど大きな栄光か分かりません。このように、ここで初めて主従関係が成立するのです。

3番目は何ですか。理想と愛は人間において生命よりもっと貪いものであるにもかかわらず、今日の人間たちは、このようなものが自分のものとして、自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。

愛と理想はどこから来るのですか。対象から来るのです。対象から来るので、「ために生きる」法度を立てざるを得ません。知恵の王であられる神様は、このようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立でざるを得ないことを、今、
皆さんは分かっただろうと信じます。
(73-326 ~ 327、1974.10.8)


③宇宙創造ですべてのものを投入された神様

―宗教経典―

私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一4.19 (キリスト教)

天と地はいつまでも存在している。それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。
賢者は背後に身をおきながら、前へすすむ。披は自己を忘れて、自分自身を発見する。人が自己の状態に達するのは無自己によってではないか。
道徳経7(道教)

造物主(ブラジャーパティ)はかつて祭祀とともに生類(ブラジャー)を創造して告げた。これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝らの願望をかなえんことを。……行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。

それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。

他方、自己(アートマン)において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。
それ故、執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ。実に執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。

実際、ジャナカ(聖王の名)などは、行為のみによって成就に達した。また、単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。
最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。

アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。何故なら、もし私か孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。

愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならぬ。賢者は専心して行為しつつ、愚者たちをして一切の行為にいそしませるべきである。
バガヴァッド・ギーター3.10 ~ 26(ヒンドゥー教)

生主の三裔――神族・人族・魔族――は父・生生の所に於て梵行に住せり、(注7)神族は梵行生活に住して言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダームヤタ〔制御せよ〕と教へたり。」
と言へり、主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」次にまた人族は彼に言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダッタ〔施捨せよ〕と教へたり。」と言へり、
主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」

次にまた魔族は彼に言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダヤドワム〔愛愍せよ〕と教へたり。」と言へり。

主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」故にこの同一の音をかの天の聲、雷、は續發して恒に「ダ・ダ・ダ」と響けり、即、「制せよ」「與へよ」「愛せよ」となり、故に制御と、施捨と、愛
愍と、この三徳を恒に学習すべし。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド5.2.2(ヒンドゥー教)

―み言選集―

神様はいったいどのような方でしょうか。宇宙の公法を備えた存在です。宇宙の公法とはいったい何ですか。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。その属性は何ですか。犠牲と奉仕の精神を備えているのです。
(105-99、1979.9.30)

愛は自分を100 パーセント投入するのです。神様が天地を創造するとき、愛のゆえにすべて、100 パーセント投入されました。ですから、愛はために生きるところ、真の愛はために生きるところから始まるのです。
(189-203、1989.4.6)

神様が愛の相対として人間を造られたのは、御自身が人間のために生きる立場で創造されたのです。ですから、人間も神様を手本としてために生きるように存在していたのですが、堕落によって自分のために生きる人になったのです。

愛は相対から来るので、「ために生きなさい」という哲理が生まれました。
(149-273、1986.11.27)

神様が100 パーセントだけ愛すれば、相対は100 パーセントしか出てきません。一対一です。これが無限倍数になるので、100 パーセント投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまい、忘れてしまい、忘れてこそ、これがどんどん高まります。投資しなければならないのです。ですから、愛をもって投入して忘れてしまうことが宇宙創造の原則、存在する世界の根源です。

それで、自分の生命までも投入して忘れてしまい、また投入しようとするところで真の愛が始まります。真の愛のためには、自分の生命を投入し、また投入し、また投入しようとするのですが、このような愛の心が結束した世界が真の愛の世界です。
(253-66、1994.1.7)

神様の創造の原則とは何でしょうか。創造は何かというならば、神様自体を投入したのです。神様のすべてのものを投入するところでのみ、完全投入するところでのみ完全結果が保障されるのです。これが創造の原則であることを私達は知らなければなりません。

ですから、私自身を真に投入しなければなりません。真で与えなければならないというのです。真で与える所でのみ未来の自分の相手が起こるのであり、自分の踏み台が形成されるのであり、私を立証できる環境的与件が成立されるのです。受けるところでは不可能なのです。それは創造原則にありません。
(82-323、1976.2.1)

創造の役事をするということは、力の投入を意味します。創造という力を消耗させるのです。神様は、そのように投入されたのですが、どれほど投入されたのでしょうか。人々は、聖書を見て、神様がみ言で「こうなれ!」と言われて簡単に創造したと思っていますが、そうではありません。ここには、真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入されたというのです。創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく、相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。

ですから、真の神様は相対をつくるにおいて、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様もアダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようというのです。神様のためではありません。自分のために生きていたときから相対のために生きるときに展開するのです。

理想的存在というものは、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにいるのです。この原則が宇宙の根本だということを、はっきりと知らなければなりません。
(69-82 ~ 83、1973.10.20)


3.犠牲的愛

真の愛は、犠牲の愛である。人のために生きようとすれば、自らの犠牲が必要である。世界の難問題の解決に同参するよう刺激することも愛である。人の弱点や失敗に寛容を施すことができる力を与えるのも、いかなる費用を支払っても人を助けようと導くのも愛である。

イエスは、罪を犯した人類を救援するために、自分の命まで捨てた愛の実践者だった。モーセとムハンマド、すべて当代の迫害を受けて逃亡者の立場になったが、民族を解放し、啓蒙するために命を捧げて働いた。このすべてが神様と人類のための愛ゆえである。

仏教に菩薩という存在が出てくる。菩薩は、万有の存在を救援するために自分を犠牲にすることを誓った。彼は、自分の幸福を人の幸福と関連したものと見たのであり、人を先に解放する前には自分の幸福を享受しないと誓った。

文鮮明先生は、犠牲的愛の根源を神様から見いだしている。神様は、子女に与える美しい家を建てるために創造を始めて以来、休まずに投入してこられた方でいらっしゃるからである。愛する父母が放蕩息子を悲しみと罪悪の窮地から救援するように、神様は人間の堕落以降、休まずに悲しみの中で投入してこられた。聖なる愛は、私達の人生の中で毎日毎日、父母を通して具現されている。父母は、子女の未来のために喜んで犠牲を甘受する存在だからである。


①愛する人のために命さえも捧げる

―宗教経典―

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13 (キリスト教)

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.28 (キリスト教)

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私達を愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私達のために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
エぺソの信徒への手紙5.1 ~ 2(キリスト教)


イエスは、私達のために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私達は愛を知りました。だから、私達も兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
ヨハネの手紙一3.16 ~ 18(キリスト教)

真実に私達は、あなた達のために生き、あなた達の救いのために世の不幸に耐えてきた。あなた達は、あなた達を蘇生させるために自らの人生を犠牲にされた方を避けたのか。……あなた達は、その方が敵の刃で危険にさらされるときは、いつもその方自身の利益を追求すると考えるのか。またはその方が最も荒涼とした都市に監禁されたのち、世のむなしいものを追求すると考えるのか。……

真にその方は、あなた達が栄光を得るよう、自ら屈辱を受けようとされた。しかし、あなた達は無関心の谷間で楽しみ、戯れている。事実上、その方は、あなた達があなた達の宮殿で暮らす間、あなた達のために最も荒涼とした所で過ごされた。
バハーウッラー聖なる書物(バハイ教)

ひとえに愛が人々をして、彼らの愛する人のために死をも敢行させます。男性だけでなく、女性もそうです。ペリアスの娘、アルケスティスも、すべてのギリシャ人たちにその証拠になります。彼女は、彼女の夫のために死のうと決心しました。彼女以外には誰もそのようにしようとしませんでした。(注8)
プラトン饗宴(ヘレニズム)


―み言選集―

私が命を捧げて悪を屈服させれば、命を取り戻せる神様の愛が私に訪れてきます。
(40-243、1971.2.6)

隣人のために自分の命をちりのように捨てることのできる犠牲精神がすなわち、真の愛です。
(224-254、1991.12.7)

愛というものは、犠牲の本質を離れて存在し得ません。愛する人のため犠牲になったからといって、その犠牲を犠牲とは思わないのです。犠牲になれば犠牲になるほど生き甲斐を感じるのです。
(63-25、1972.10.1)

真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてこれをすべて返してもらおう」という心をもつ父母は真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛し、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えようとし、24時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛と近い位置にあるのです。このような愛の起源があるので、人間を救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)

愛する境地では、すべてのものが通じるのです。法を越えていけます。法を越えていくことができるというのは、死亡線を自由に出入りできるということです。愛する心をもって進み出るときは、ここで愛する心は自分を愛するのではありません。相手を愛するのです。愛する立場では、女性が男性の胸深く入り込んだとしても、男性は反対しないのです。反対しますか。歓迎するのです。

男性も同じです。千万世の壁がふさかっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難に越えていけるのは愛です。愛するためにすべてのものを犠牲にして、全体を投入して駆け込んでくるところには、いかなる力もすべて崩れていくのです。
(49-52、1971.10.3)
自己に一番近い人を犠牲にしなければなりません。今まで、この世を復帰するために苦労してこられた神様の主義はどのような主義でしたか。悪の世界を救い、かわいそうな人を救い、貧しい人類を救うために、神様に一番近い人を犠牲にさせて救援してこられました。

僕の僕から息子まで祭物にしました。怨讐の一族のために、愛する息子、娘まで犠牲にしてこられた方が神様です。今までこの世界のために、一番の怨讐の種を解放させるために、最も愛する御自身の側を犠牲にさせて摂理してこられた神様でいらっしゃり、自分の側のためではなく、この世界と怨讐の側のために摂理してこられた神様でいらっしゃるので、全人類は、神様を冷遇することはできないのです。今まで冷遇する現象が起きていましたが、これは過ぎていきます。
(33-298、1970.8.21)

個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人です。ある家庭が全体の家庭のために犠牲の生活をすれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。ある民族が自分の民族より全体の民族のために犠牲になり、その民族のために総力を傾ければ、その民族は善の民族として登場するようになります。また、ある国が全世界の国家のために犠牲になっていけば、その国家は善の国家として登場するようになります。

これが神様のみ旨であれば、イエス様を送ったのは、そのようなみ旨を成し遂げるために送ったのです。全世界に広がっているキリスト教徒たちが、人類と国家を救うために自分の国家を犠牲にさせ、自分がもっているすべてのものを犠牲にしてきたのならば、キリスト教は善の神様のみ旨を成就させ得る教会になっていたでしょう。
(69-86 ~ 87、1973.10.20)

真の愛は誰もが願うのですが、誰もが私のために生きなさいという感情があれば、みな逃げていくのです。全体のために生きなければなりません。個人主義はサタンの戦略であり、サタンの目的です。世俗的な世界ではそれを知りませんでした。それはサタンがつけた実であり、地獄に行くのです。愛することは、ために生きてあげることです。奉仕して犠牲にならなければなりません。そのように奉仕すれば、このすべてがやって来て私を愛してくれるのです。

「私のために生きよ」という人は、天国に行けません。神様が傑作品を抱いて愛したように、ために生きる愛を求めていく人だけが天国に行くのです。3度以上命を捧げても、ため生きようとしなければなりません。神様に出会おうとすれば、そのように3度死んでも復活し、神様に「私を認めてください」ではありません。「神様のために生きます」と言わなければなりません。「私を認
めてください」と言ってはいけないのです。そのような人たちが暮らすこの世の中になれば、地上が天国です。天国は、そのような人が暮らす所です。
(300-223、1999.3.14)

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