③新郎のために生きる新婦として神様への献身
―宗教経典―
夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。
私が町をめぐる夜警に見つかりました。「私の恋い慕う人を見かけましたか。」彼らに別れるとすぐに、恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に、私を産んだ母の部屋にお連れします。
エルサレムのおとめたちよ。野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさないと。(注30)
雅歌3.1 ~ 5(キリスト教)
私の手に鏡のように、
私の頭に花のように、
私の目にコールのように、
私の口にタンブルのように、
私の胸に麝香のように、
私の首にネックレスのように、
私の体に恍惚境のように、
私の家庭にアイのように、
鳥に翼のように、
魚に水のように、
生物に命のように、
あなたは正にそれと同じです。
しかし、私に語ってください。
あなたはどなたですか。
実際、あなたはどなたですか。
ヴィディヤーパティが言うには、
「彼らはお互いです」。(注31)
ヴィディヤーパティ(ヒンドゥー教)
聖なる母、主なくしてどうして生きるのですか。
万有の主、あなたに栄光があらんことを!私があなたを賛美しますので、あなたなくしては決して生きていくことができません。新婦は主を気をもみながら渇望し、夜通し起きて彼を待ちます。
私の心を魅了した主、彼だけが私の苦脳を知ってくださるので、主がいなければ私の魂はつらさと苦痛の中にいて、彼の言葉を求め、彼の足に触れることを願います。主よ、慈悲を施してください。
私をしてあなたの懐に入るようにしてください。
アーディ・グラント、サーラングM..1.p.1232 (シーク教)
恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。」
雅歌2.10 ~ 13(キリスト教)
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女(注32)が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。
この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マルコによる福音書14.3 ~ 9(キリスト教)
ラーマよ、……妾は蹤いて行きたいのです。……妾はあなたの後から歩いて行くのならば、安楽椅子などに腰を下ろしているように、森では道を歩いても疲れることはありません。道を塞ぐ、クシャ草も、萱も、葦も、また棘のある植物も、樹木も、あなたと御一緒ならば、綿か鹿皮と同じ感じです。大風が埃を吹き上げて、妾を包んだとしても、あなた、妾はそれを最上等の栴壇香だと思います。
森の中を歩きまわっても、御一緒に毛布を敷いたように柔らかな草地に寝さえすれば、これに勝る安らかさがありましょうか。木の葉や木の実がたとい少なかろうと、また多かろうと、あなたが集めてきて妾に下さるなら、それは妾にとって甘露の味がしましょう。……あなたと御一緒ならば天国ですし、あなたと離れて暮らすのは地獄です。(注33)
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻30(ヒンドゥー教)
―み言選集―
神様は、どのような方ですか。私の体の永遠の主人です。私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻がその夫を恨みません。そのようになっているというのです。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、「なぜ神様を私より愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことができる世界が天国です。
世の中のいかなる愛、いかなる内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であられる神様の懐、その園にいれば死んでもよいのです。私の心の永遠の主人、私の心情の永遠の主人であればそれで十分であって、それ以上何を望むのでしょうか。
(7-255、1959.9.20)
女性たちの希望は、そうではないですか。「あの男性なら私は死んでもよい」と思える男性を得れば、天下に何も必要ありません。貧しくてもよく、裕福でもよく、泣いてもよく、死んでもよいのです。それ以上はないというのです。
同じように、私達人間の最高の欲望は神様の愛を占領することですが、この愛を占領することによって、この宇宙の主人になります。王の王権をもつのです。王の王になります。
ですから、優れた人にも愚かな人にも、すべて欲心を付与したのは、その目的を万民共通に付与しなければならないからです。本然的理想がそのようになっているので、そのような作用をするのは、自然の道理です。ですから、それが私達の自然に到達できる目的地だということです。
神人愛、どのように神様と人間が、縦横が一つになるのですか。神様は垂直的な愛です。垂直の愛なのです。ですから、イエスが昇天したあとに聖霊が来ました。聖霊は母の愛です。キリスト教は新郎を迎えるための宗教です。新郎と新婦が出会うためには、空中権勢をつかんだサタン圏に勝たなければなりません。
ところが、宗教がどれほどたくさん犠牲になったか分かりません。これを平面的に獲得するためのものが地上天国、再臨理想です。神様がこの地に再臨主を送って中心として立て、横的に版図を展開させるのです。二重になるのです。完成した二重的すべての……。心と体が二つではなく一つになります。男性の体と女性の心が相対をなし、天地調和の渦の中心になるのです。それで、中心として上がっていったり下がっていったりします。
(252-120 ~ 121、1993.11.14)
堕落とは何でしょうか。神様の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。私達は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。
私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私達造られた人間の本然の心情です。(注34)心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
(8-291、1960.2.14)
お父様!
きょう、お父様の御心情の園で
私達の体が動じ、
心が動じ、
すべての考えが動じるよう
許諾してください。
お父様の御心情は、
無限なる愛の御心情であることを
私達は知りました。
お父様の御心情は、
限りなく悲しい御心情であり、
限りなく傷を負っている
御心情だということも、
私達は知りました。
限りなく悲しまれたお父様、
限りなく苦労されたお父様、
今も限りなく気遣われるお父様!
そのお父様が創造主であられ、
そのお父様が
全万象の主人公であられるということを分かるようにしてくださり、
お父様がお受けになる
限りない悲しみが、
私達の胸に
しみ通るようにしてくださり、
限りない悔しさと無念さが
私達の心中に
流れ込むようにしてください。
これを体得した者を、
身の置き所を知らないため、
自分の身を支えることのできない
悲しみに浸るようにしてくださり、
その心を収拾することができず、
天地の区別もつかないまま
痛哭する息子、娘たちと
なるようにしてください。
今、精誠を尽くし、
この心と体をすべて捧げ、
その御心情の前に
不足がないということのできる、
認定を受ける息子、娘たちとなるよう許諾してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。
私達は、
天がどのような物質を下さることも
願っていませんし、
事情を知ってくださることも
願っていませんし、
恩恵を下さることも願っていません。
それよりは、
恩恵を下さったのちに
悦楽しようとなさる、
お父様のその内情を
私達が知るよう許諾してください。
そうして、
悲しまれたお父様を
「お父様」と呼ぶことができ、
苦痛のお父様を慰労してさしあげることのできる息子となり、
娘となることを願うものです。
(8-262、1960.2.7)
5.純粋な意図
奉公の根は、心情にある。奉公の行為に私達を導く意図が、正に奉公の価値を決定する。最初は、信仰と服従が外的な形態でのみ表現されるが、結局、本来の内面的意図は外的に現れるようになっている。神様に近づいていく道には、純粋な心情と真実な心が要求される。
俗世での生活も、私達の意図から始まる。イスラエルの民が神殿に行き、「だれが主の丘に上がるのか」という聖歌を歌うとき。彼らは言った。日々の生活で彼らは道徳的に、正義感をもって生きなさいという天の戒めを守って生きたと。いつでも純粋な意図から神様の摂理に世俗的な関心より優先的に仕えるとき、心の純潔性が育てられる。
心と体を尽くして神様に栄光をお返しし、神様の摂理に貢献しようという純粋な意図をもつとき、私達は神様と真実な関係を維持し、天門が開門する。純潔な精誠の反対概念の理解のために第15
章8.「偽善」が参考になる。精誠の役割に対してより深く理解するためには、第12 章5.「誠実と確実」が参考になる。
①心の純粋と誠実
―宗教経典―
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
マタイによる福音書5.8(キリスト教)
眼を以ても、語を以ても、その他の感官を以ても、苦行を以ても、あるいは祭儀を以てするも捉えられず。智の澄浄によって本性の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.8 (ヒンドゥー教)
どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。(注35)
詩編24.3 ~ 6 (キリスト教)
希望が成されることを願い、私の前に来るあなた達は、みな偽りなく純粋で、内も外も貞潔で、鏡のように真理を写し出す心で願わなければならない。(注36)
天満宮神社の神託(神道)
たとえ、鉄の玉を食べようとも、心の穢れた人のものを食べてはいけない。銅を溶かすような焔の上に座っても、心の汚れた人のところへいってはいけない。清浄を大事にするためである。(注37)
八幡大菩薩、三社託宣(神道)
おおわが兄弟よ。純粋な心は鏡のようなものである。愛と神以外のものへの愛着を断つためのみがきで、心の鏡をみがきあげよ。そうすれば、あなたの心は真実の太陽で照らされ、永遠につづく夜明けの光でかがやくであろう。
七つの谷、四つ目の谷21(バハイ教)
それは、あなたがまじまじと神を見るように、彼を敬い崇めることです。あなたが眼にしていなくとも、神は貴方を見ておられるのですから。
ナワウィー40 のハディース2(イスラーム)
まことは、神の心である。したがって、神につかえおまつりするのに、まことの心をもってあたると、神は必ずそれをうけてくださる。
貝原益軒神祇訓(神道)
主なる神に従おうとする者は、些細な問題を心配する時間がない。創造者なる神に常に仕えようとするとき、虚栄は入り込む時間さえない。(注38)
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)
私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。(注39)
ヨハネの黙示録3.15 ~ 16(キリスト教)
―み言選集―
恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。
御旨の道、心情
神様は、精誠を尽くさないところにおいては働かれない。
御旨の道、み旨
キリストを遠ざけ、自分のために生きる息子、娘にならないよう導いてください。
(2-300、1957.6.30)
克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。ですから、神様をどのくらい精誠を尽くして侍ってみたのか、どのくらい精誠を尽くす心で慕ってみたのか、どのくらい精誠を尽くした感動を通して感じようとしたのか、またそのような父と息子の因縁の体恤をどのように見いだすのか、ということが問題になるのです。
(42-228、1971.3.14)
誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私達が神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。
(104-112、1979.4.15)
今後、真の息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が私の天国になり、その父が私の父になるのです。
(17-245、1967.1.29)
ある主義のために自分のすべてのものを放棄し、あるいはある思想のために自分の主張を放棄する人がいるとしても、自分の心を起こす真理を探すためにそのようにするのでなければ、それは天倫と何の価値的な関係も結べません。このような心の核心を求めていき、6000 年間、先祖から罪悪の血統を通して受け継いだ汚れた心を再び洗い清めるためには、皆さんがどのようにしなければなりませんか。
イエス様が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と語られたように、皆さんは心を尽くすことのできる立場に立たなければなりません。
(2-194、1957.5.19)
②礼拝の基準としての誠実
―宗教経典―
それはあたかも澄みきった鏡が、その対するものにしたがって、種々さまざまな像を現ずるようなもので、業性もまたそれと等しい。
華厳経10(仏教)
清涼の大法眼は、僧がお斎の前に参じたので、手で簾を指した。そのとき二人の憎がともにそこへ行って、簾を巻き上げた。法眼は言った、「一人はよいが、一人はだめだ」。
無門は評して言う――まあ言ってみよ、誰がよくて誰がダメなのか。もしここに一つの心眼をつけることができたら、すぐに清涼国師の失敗の処が分かるだろう。それはそうだが、けっしてヨイとかダメだとかというところに向って究明しようとしてはならないぞ。
無門関26(仏教)
行為とは意志に基づくものであり、人はみな自らの意志した事柄の所有者である。したがって神とその御使いのために聖遷に参加した者は、神とその御使いのために聖遷を行ったのであり、現世の利益、結婚相手の女のために聖遷に加わった者は、それらのために聖遷を行ったにすぎない。(注40)
ナワウィー40 のハディース1(イスラーム)
法を〈汚れのないもの〉と名づける。もしも法ないしねはんに染るならば、それはすなわち汚れに染ることであって、法を求めることではない。法はそれを行ずる場所が存在しない。もしも法を行ずるならば、もはやすでに行ずる特定の場所が存在することになり、法を求めることにはならないのである。
法には取捨がない。もしも法を取捨するならば、それは取捨にほかならぬのであって、法を求めることにはならないのである。法には場所が存在しない。もしも場所に執著するならば、それは特定のよりどころに執著することになり、法を求めることにはならないのである。維摩経6(仏教)
神がダビデにこれを啓示された。「私の僕の中で、天国に行くことや地獄に対する恐怖で私に仕える者より正しくない者はいない。私が天国と地獄を創造していなければ私に仕えることができなかったというのか」。
シャアラーニー(注41)(イスラーム)
おお、神よ、私がもし地獄に対する恐れであなたを賛美するなら私を地獄で燃やし、私がもし天国に対する希望であなたを賛美するなら私を天国から追い出してください。しかし、もし私がただあなただけのためにあなたに敬拝するなら、私にあなたの不滅の美を惜しまないでください。
ラービア(注42) (イスラーム)
―み言選集―
皆さんは、なぜここに座っているのですか。良いみ言を聞いて立派な人になるために座っているのですか、アメリカを立派にし、教会を立派にするために座っているのですか。皆さんは、2番目ではなく1番目だと言えば正解でしょう? 先生の話を聞いたから2番目と言うのではないですか。笑うのを見るとそれが事実のようです。
(118-46、1982.5.2)
今日、自分の利益のために宗教を信じるすべての人たちは、福を受けようと信じている人たちは、福を受ければ神様を信じるのをやめるのです。福を受けることが目的ではないですか。少し裕福に暮らして、その次には落ちていきます。世界に福を与えようと思いながら信じなければなりません。それが神様の願うことです。
(127-27、1983.5.1)
霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私を訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難い
か」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。
そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。
(41-355、1971.2.18)
皆さんに、「精誠を尽くしなさい、精誠を尽くしなさい!」(注43)と言うのですが、なぜそうなのでしょうか。精誠を尽くすときは、自分がすることに精誠を尽くしてはいけません。自分がすることに精誠を尽くせば、神様が世界に光を水平に照らそうとしているのに、水平に照らさずに私のほうにだけ照らしてほしいということになるのです。ですから、人類を代表して、神様を身代わりして祈祷するという心を常にもって精誠を尽くさなければなりません。神様を身代わりして祈祷し、神様を身代わりして精誠を尽くすのですが、神様御自身が今まで歴史を通してどれほど精誠をたくさん尽くしたかを考えなければなりません。
(308-200 ~ 201、1999.1.5)
神様の悲しみは何かというと、神様が苦痛を受けるときに一緒に苦痛を受け、神様が悲しむときに一緒に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間、人類を抱いてこられた神様は、独りで苦痛を受けられました。独りで無念な思いになられ、独りで悲しまれたのです。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を一緒に受けた人がいなかったのであり、神様が悲しむとき、その悲しみを一緒に受けた人がいませんでした。ですから、神様は、今まで苦痛が激しかったのであり、悲しみが激しかったのです。
(11-95 ~ 96、1961.2.12)
お父様のお心を私達の心として、
お父様の御事情を私達の事情として、
お父様の願いを私達の願いとして、
お父様の怨讐を私達の怨讐として、
お父様の闘いを私達の闘いとして、
お父様の願いを成就してさしあげられる、
勝利の祭物として捧げられ得る
息子、娘たちとなるよう
許諾してください。
(5-213、1959.2.1)
6.献金と十分の一献金
献金とは、信仰と献身の物質的表現である。古代の動物献祭は消えて久しく、今では、それが献金と十分の一献金、または托鉢僧への布施に代わった。類型を問わずあらゆる献金は、信仰的心情の外的表現である。本質的に献金とは、自分自身の代わりに捧げるものである。
世界の宗教経典は、祭物を捧げるとき、最高に貴いものを喜んで、未練や執着なく捧げることを教えている。献金の聖書的基準は、個人収入の十分の一を捧げる十分の一献金である。
①純粋で献身的な心で捧げる献金
―宗教経典―
なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン3.92 (イスラーム)
すべての供物は天に至る舟である。
シャタバタ・ブラーフマナ42.5.10 (ヒンドゥー教)
人間の祭物を食べる霊は、彼に命を返してくれる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
また犠牲のラクダと牛を、われはなんじらへの神からの顕著なしるしとした、それらにはなんじらへの多くの利益がある。犠牲に供えるに当り並べて、それらの上に神のみ名を唱えよ。そしてそれらが横に倒れたならば、なんじらはそれを食べ、また口に出して請わぬ者、物請いする者たちを養え。このようにそれらを、なんじらの用に服させる。おそらくなんじらは感謝するであろう。(注
44)
それらの肉それから血も、決して神に達するわけではない、だがなんじらの篤信(タクワー)こそ、かれにとどくのである。このように、かれはそれらをなんじらの用に服させたまい、なんじらへのかれの導きに対し、神をたたえさせるためである。
クルアーン22.26 ~ 37(イスラーム)
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は怒りによって害われる。それ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大きな果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
法句経356 ~ 359 (仏教)
ブラフマンは献供である。ブラフマンは供物である。それはブラフマンである火の中に、ブラフマンにより焼(く)べられる。ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。
あるヨーギン(実践者)たちは、神々への祭祀のみを行う。他の人々は、ブラフマンである火の中に、まさに祭祀によって祭祀を焼べる。他の人々は、耳などの感官を〔自己〕制御という火の中に焼べる。他の人々は、音声など〔感官の〕対象を感官という火の中に焼べる。他の人々は、すべての感官の働き、気息の働きを、知識により燃え上らされた、自己制御のヨーガ(実践)という火の中に焼べる。
他の修行者たちは、強固な信念をもって、財物を祭祀とし、苦行(タパス)を祭祀とし、〔その他の行為の〕ヨーガを祭祀とし、学習と知識とを祭祀とする。他の人々は、プラーナ気とアパーナ気の道を抑制し、調息法(プラーナーヤーマ)に専念して、プラーナをアパーナの中に焼べ、アパーナをプラーナの中に焼べる。他の人々は、食制限して、気息を気息の中に焼べる。以上すべての人々は祭祀を知り、祭祀により罪障を滅している。
バガヴァッド・ギーター424 ~ 30(ヒンドゥー教)
御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「私は〔何かの事故で〕お祭りにたずさわらないと、お祭りがなかったような気がする。」
論語3.12 (儒教)
あるとき、ラビのムイルがこのような質問を受けた。「聖書には祭物を捧げることがエホバを喜ばせてさしあげるという内容もあり、また、神は祭物を捧げるのを喜ばれないという内容がありますが、その理由は何ですか」、ムイルが答えた。「それは祭物を捧げる人の心の状態が奉献にふさわしい場合もあり、そうでない場合もあるからだ。」
バライタ・カッラー8(ユダヤ教)
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽
銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12.41 ~ 44(キリスト教)
信仰心をもって施与すべきである。不信の心をもって施与してはならない。豊かな心をもって施与すべし。恥ずる心をもって施与すべし。恐れる心をもって施与すべし。同情の心(samvid)をもって施与すべし。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.3(ヒンドゥー教)
尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀(まつ)りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。」
スッタニパータ506 (仏教)
人が犠牲祭を捧げにいくとき、怒りの心ではなく、平穏な心にならなければならない。そのように彼は最小限一日はとどまらなければならない。もしその日、争ったり、その心の中に怒りがあれば、彼は病にかかるようになり、その祭祀とその家門の教えは崩れてしまう。
ルヤ族の格言(アフリカ伝統宗教)
主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わ
たしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。」(注45)
ハガイ書1.3 ~ 8(キリスト教)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペテロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったので
はないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
使徒言行録4.32 ~ 5.5(キリスト教)
―み言選集―
祭物は誰が捧げるのですか。救いを受けようという人たち、神様に帰ろうという人たちが祭物を捧げるのです。自分の体の代わりに祭物を捧げるのです。そして、神様と祭物と私の三つが一つにならなければなりません。そこには隔たりがあってはいけません。
(274-199 ~ 200、1995.11.3)
私達の信仰路程は、必ず蕩減して復帰するというのが原則です。そして、蕩減するためには、必ず祭物が必要だということを私達は学びました。その祭物というものはどのようなものですか。私のすべてを身代わりして捧げる条件物なのです。言い換えれば、私が内的ならば、祭物は外的なものとして、その外的なものと内的なものが一つにならなければならないのです。
(67-113、1973.5.27)
祭物と、それを捧げる人は、別のものではありません。心情を通しては一つなのです。言い換えれば、祭物は人が愛するものでなければなりません。愛するものでなければならないのです。愛するものであると同時に、その人の血と肉を身代わりした立場を代表するものでなければなりません。そのようなものが祭物です。ですから、祭物はその人にとって最も貴いものです。そのようなものが祭物になれることを皆さんは知らなければなりません。
(47-285、1971.8.30)
「羊を屠る私は、羊の代わりに絶対従順者になる。牛を屠る私は、牛の代わりに絶対に従順になる。絶対に神様を愛する」、このような所信をもたなければなりません。人がこのようなことを願うので、「私がこのような動物を、万物を祭物として捧げるのは、神様の前に私がこのような人になるという代わりに血を捧げることなので、これをすべて私の代わりに受けてください」と言うのです。これが祭祀です。それで、このような動物を祭物として捧げるのです。
(97-289、1978.3.26)
皆さんに貴いものや財産があれば、「私の財産を世界のために整理しなさいという神様の命令があればどれほどよいだろうか!」とそれを慕ってみましたか。そうすれば神様が福を下さるのです。その時が来る前に福を下さるのです。そのように願えばということです。
(308-206、1999.1.5)
本来、すべての万物は真の愛で愛せる主人の所有になるのですが、「お前サタンは真の愛で愛することができなかったが、私は真の愛で愛したので、ごのすべての万物を私に伝授してくれなければならない」と言うとき、サタンもそれは仕方がないというのです。ですから、愛するときはサタン以上の心をもって愛さなければなりません。
サタン世界から十分の一献金を取り戻してこなければなりません。ここで十数は天の側に戻っていきます。それで十分の一献金に対するものを取り戻してこなければならないのです。このような意味で、サタン世界に行って取り戻してくるのです。「私は人類を愛し、世界を愛し、神様を愛するにおいて、サタン、お前よりも優っている」という立場に立ってすべてを取り戻してくるのです。
(128-101、1983.6.5)
精誠を尽くして集めたお金であれ何であれ、祭壇に置いて祭物として捧げてからは、それを後悔すれば罰を受けます。かえって捧げないほうがよいのです。聖書に出てくるアナニア夫婦の話を知っているでしょう? 自分の財産を売って、自分の思いどおりにできるものだとして、半分は隠し、半分だけもってきて、「それがすべて」と言って罰を受けたのです。「すべて」という言葉は、捧げても捧げていなくても、すべて捧げることになるのです。隠せば、それに対する代価を払わなければならないので、罰を受けるということが起きるのです。
祭物になった事実に未練をもち、自分自身の所有的内容をもって考えること自体を許諾しないというのです。そのような事情があれば、時になる前にすべて清算しなければなりません。
(122-22 ~ 23、1982.10.31)
皆さんが教会に献金するとき、どこからマッコリ(濁酒)を買って飲み、残ったお金を献金しようとしてはいけません。そのようなお金は汚れたものです。また、市場に行って何かを買って残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃいません。
(48-86、1971.9.5)
最近、既成教会では、献金をよくするとして長老にしたり、執事にしたりしていますが、私達統一教会はそのようにしてはいけません。献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに世界の代わりに私の命を交換する立場でしなければなりません。(166-71、1987.5.28)
今日、既成教会で、献金するとき袋を持って回すでしょう。私達の教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。
(166-319、1987.6.14)
②十分の一献金
―宗教経典―
土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。(注46)
レビ記27.30(キリスト教)
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」
創世記28.20 ~ 22(キリスト教)
牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
レビ記27.32 ~ 33(キリスト教)
人は神を偽りうるか。あなた達は私を偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなた達は、甚だしく呪われる。あなた達は民全体で、私を偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、私はあなた達のために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。
マラキ書3.8 ~ 10(キリスト教)
子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなた達に言われる。私の名を軽んずる祭司たちよ。あなた達は言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたかと。あなた達は、私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなた達は、主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。
あなた達が目のつぶれた動物を、けにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。
これは、あなた達が自ら行ったことだ。神はあなた達の誰かを、受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。あなた達のうち誰か、わが祭壇にいたずらに火が点じられることがないよう、戸を閉じる者はいないのか。私はあなた達を喜ぶことはできないと、万軍の主は言われる。私は献げ物をあなた達の手から受け入れはしない。日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげら
れている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マラキ書1.6 ~ 11(キリスト教)
―み言選集―
十分の一献金は、所有している物の十分の一を神様に捧げることによって全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を、精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
(31-240、1970.6.4)
皆さんがもっているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。
(150-219、1961.4.15)
韓国の民として生まれたならば、この国に税金を捧げなければなりません。この国に税金を捧げ、その次には天に十分の一献金を出さなければなりません。十分の一献金というものは、自分の国のために捧げるものではありません。それは祭司長、レビ族のために、祭司長として立てる人たちのために天の数として捧げるものです。
(150-219 ~ 220、1961.4.15)
十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室は、かわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。
御旨の道、義務守則
十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そのような息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
(48-85、1971.9.5)
自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分の何よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が2番目になり最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそのようなお金をもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
(96-101、1978.1.2)
7.儀式
神様に近づく手段として、あらゆる宗教に儀式を制定するようになったと文鮮明先生は語られる。したがって、あらゆる宗教の儀式は、それ自体に価値があるのである。純粋な心とそれに伴う詳細な指針に従って進行される宗教儀式は、先に神様と信仰的土台を築いていった預言者たちに敬意を表する行為である。
世界各地で天に敬拝し、尊敬心を表現する多様な宗教儀式と儀礼に対して、その価値を評することはできない。ここでは、安息日のように神聖な時間を守る儀式、聖餐または神聖な食事儀式、割礼儀式、洗礼式、聖地参拝、形状と象徴に敬拝する儀式、ユダヤ教の飲食規定など、いつくかの類型の儀式を紹介している。
①典礼と崇拝
―宗教経典―
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
詩編96.7 ~ 9(キリスト教)
私の本当の本質を如実に知ることによって、堅実に私に仕える者が本当に私を信愛する者である。あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。また私が最も明白に現れる、私を信愛する者たちの心情で私を崇拝せよ。……諸経典に規定された礼法と儀式を遵行するが、それらの内密な精神を忘却してはならない。
シュリーマッド,バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)
しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書2.20 (キリスト教)
私達に祭祀を捧げるようにさせてください。いつもそうしてきたようにすれば、私達はいつもあった結果を得るようになります。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
すべてのイスラームの礼拝は道徳を指向する。祈りは恥ずかしく正しくない行為を自制させ、慈善を施すことは富の貪欲から彼らの霊魂を浄化させ、断食は忍耐と決意の中に教訓があり、聖地巡礼は、暗闇と苦難に対する忍耐とあらゆる被造物の同等さと人間の霊魂の中にある平和の根を養成する訓練の過程である。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興130.1(イスラーム)
王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まち
がっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」(注47)
論語3.13 (儒教)
―み言選集―
礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝時間は、自由がない時間です。
(11-163、1961.6.24)
天軍、天使が擁護する中に、歓喜の心情で敬拝を捧げるこの場が、全体の生命を勝利に導くことのできる、一つの福の機関的な祭壇になるようにしてくださいますことを切にお願い申し上げます。
(7-12、1959.7.5)
この場がお父様のお心と一つになる至聖所となるようにしてください。お父様の御心情に接し、お父様の御事情に涙ぐみ、お父様の願いと和して、
あなただけが主管なさることのできる聖なる場となるようにしてください。
(21-132、1968.11.17)
②安息日
―宗教経典―
主はモーセに言われた。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなた達は、私の安息日を守らねばならない。それは、代々にわたって私とあなた達との間のしるしであり、私があなた達を聖別する主であることを知るためのものである。
安息日を守りなさい。それは、あなた達にとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。
イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠に私とイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである(注48)
出エジプト記31.12 ~ 17(キリスト教)
安息日にろうそくをともすのは、聖なる選民の女性たちに許された。……この平和の聖所(聖なるシェキナがいる所)は世を守る女性と同じであり、聖なるとも火である霊魂たちは、彼女の中にとどまる。ゆえに、家の中の女性がろうそくをともすのは当然である。そして、女性は自らを正しい所に導き、自分の真なることを完遂するからである。
女性はそのことが栄光であることを知り、熱情と喜びで安息日のろうそくをともさなければならない。さらに、学びと敬虔の光を輝かせ、世の中に平和を伝播するために、成長する聖なる子供たちの母になるための資格を自ら備えなければならない。また、全力を尽くして夫の長寿のために努力しなければならない。それゆえ、この儀式を守るにおいて、慎重に慎重を期すべきである。(注49)
ゾハール1.48b (ユダヤ教)
―み言選集―
このような聖日礼拝の時間は厳粛で貴いのです。安息日は神様に栄光をお返しする日です。
(21-76、1968.10.20)
安息日は気楽に休み、眠る日ではありません。安息日を眠る日だと思っていますが、安息日は神様と一つになり、神様の喜びに同参し、喜びを表現することを意味します。したがって、霊界に行って神様を中心として天国を成し遂げれば、永遠の安息になるのです。神様の愛は永遠から始まったのであり、永遠に存在するので、永遠の安息になります。このような安息を失ってしまった人間なので、人間はもちろん、先生も、神様も、安息を失ってしまいました。
(20-330、1968.7.14)
統一教会の祝福家庭は、主日ごとに敬礼式があります。敬礼式をする日は聖日を指すのですが、聖日を中心として、私達が聖餐という朝食を食べるのです。それは堕落することによって、アダム家庭で神様をお迎えして、そのような神聖な聖餐を分け与えてさしあげられなかった恨みを解いてさしあげるのです。それを解いてさしあげるためにそのような敬礼式とともに、祝賀する心をもって、そのような式をしていることを皆さんが知らなければなりません。
(280-289、1997.2.13)
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