9.異端
信仰の道において、離脱する最大の罠は、サタン、すなわち異端の誘惑である。主要な宗教の経典には、この点に関して警告している。「異説」とは異なる意見という意味だが、天が宗教創始者に啓示してくださった本来の知恵は誰かの意見によって修正されたり、変化したりする対象のものではないという意味である。
本当の宗教が初期には伝統集団から異端として迫害されたのも事実である。創始者の死後に、さらには生きている間にも主流の宗教に宗派的、分派的異端が生じることもある。しかし、神様の摂理的な進展によって主流の宗教を取り巻く異端は、徐々に消えていく反面、本当の宗教は、創造的位相を新たに確保するようになる。
どの時代のどこでも、主流の宗教の正統的な流れの中で異端が勝利したという事例は見いだすことができない。たとえ異端の教えに神学的な魅力があるとしても、いつでも異端が異端として規定されるには普遍的理由が存在する。
この節に抜粋した経典の章句では、邪悪な預言者と異端者の低俗な動機を非難する。彼らは、世俗的目的のために宗教を利用した偽善者たちである(もちろん正統教理に従う聖職者たちでも同一の過誤を犯すことがある)。ある人たちは、異端の教えをサタンと悪霊の役事だと非難し、ほかの人たちは異端がもたらす堕落した結果、放蕩な生活、貪欲、そして不和の種などの要素を猛烈に非難する。
しかし、提婆達多の例のように、ある異端は、正統宗教の道よりさらに強度な禁欲、あるいは極端な信仰の基準を提示し、人間の本質を少なからず
欺瞞し、歪曲させる場合があることを指摘する。そして、いくつかの章句では、宗派の分裂と信仰共同体を崩壊させるという点を指摘し、異端的要素を強く非難する。
―宗教経典―
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
マタイによる福音書7.15 ~ 16(キリスト教)
神の使徒が次のように語ったと伝えられている。「終局には、宗教を世俗的な目的のために欺瞞して利用し、大衆の前に羊の皮をかぶり、従順に見せようとする群れたちが現れるだろう。彼らの言葉は甘いが、彼らの心は狼の心である。神が語られるだろう。「彼らが私を欺瞞しようとするのか。あるいは私に傲慢に行動しようとするのか。私は自ら誓うが、知恵深い者をさまよう者たちの枠に捨てておく者を裁くだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
ペテロの手紙二2.1 ~ 3(キリスト教)
終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。
テモテ一ヘの手紙4.1 ~ 2(キリスト教)
こうしてわれは、どの予言者にも一つの敵をつくった。それは、人間とジンの中の悪魔であって、そのある者が他を感激させ、はなやかな言葉で、そそのかして、だましている。
クルアーン6.112 (イスラーム)
悪魔マラはボーディサットヴァに、正しい道ではない偽りを詳しく説明しようとする。
大般若経382 (仏教)
だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
コリントの信徒への手紙二11.14 (キリスト教)
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
テモテヘの手紙二4.3 ~ 4(キリスト教)
もし虚偽が真理と分離され見ることができたなら、真理を求める者は簡単にそれを区別し、虚偽を遠ざけることができただろう。また、真理が虚偽とはっきりと区分されて現れたなら、人々は簡単に宗教を批判したりもしなかっただろう。
しかし、不幸にも人間たちは、真理を虚偽と混同し始め、サタンがこのような状況を利用し、追従者たちの心を完全につかむようになった。ただ、内面的で合理的な瞑想の道を通じた神の助けによって高邁になった人だけが、そのわなから抜け出すことができた。
ナフジュ・アル・バラーガ説教55(イスラーム)
邪悪な魔は遊行者のなりをして、不退転の菩薩大士に近づいてこう言うであろう。「お前が以前聞いたそのことを(誤りであったと)告白しなさい。……これまでお前が聞いたこと、それは仏陀のことばではない。それは詩人のつくった詩にすぎない。しかし、私が話すこのことは、仏陀によって話されたことばなのだ」と。
これを聞いて、もし菩薩(の心)がゆれ、動くならば、こう知られるのだ。「この人は如来によって予言された菩薩ではない。この菩薩は、無上にして完全なさとりに(いたると)決定していない。この人は不退転の領域に定着していないのだ」と。
けれどもスブーテイよ、……煩悩の尽きた、供養されるべき比丘というものは、ものの本性をまのあたりに見ていて、他人を信じていったりはしないものである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経17.2(仏教)
そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
マタイによる福音書24.23 ~ 24(キリスト教)
かれらの教えを分裂させて、分派となった者であってはならぬ。各分派は己の持っている信条に、喜び満足している。(注15)
クルアーン30.32(イスラーム)
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえ私達自身であれ、天使であれ、私達があなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私達が前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
ガラテヤの信徒への手紙1.6 ~ 9(キリスト教)
天上界と人間界を通じて多くの生けるものの不利得のために、不利益のために、苦悩のために、一つのことが、この世に起こる。一つの僧団の分裂である。すなわち比丘たち、僧団が分裂するときには、互いの争論も生ずる。互いの悪罵も生ずる。互いの排他的にもなる。互いの裏切りも生ずる。
そのためには、まだ信仰を得ていない人々は、信仰の喜びを知ることがなく、すでに信仰を得ている人々の中にも心境に変化を生ずる人もいる。
如是語経、18(仏教)
時に提婆達多はコーカーリカ、カタモーラカテイッサ、カカンダデーギャープッタ、サムッダダッダの許に到れり、到りて言へり、……「友等よ、我等、沙門ゴータマの許に到りて五事を請ひて言はん、「世尊は無数の方便を以て小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動を称讃して説きたまふ。此処に五事あり、無数の方便を以て、小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動に資す。
願はくば、比丘等は盡形寿、林住すべく、村邑に入らば罪とせられん。盡形寿、乞食すべく、請食を受けなば、罪とせられん。盡形寿、糞掃衣を著くべく、居士衣を受けなば罪とせられん。盡形寿、樹下に坐すべく、屋内に到らば、罪とせられん。盡形寿、魚肉を食はざるべく、魚肉を食はば、罪とせられん」。沙門ゴータマは此五事を許さざらん。我等、此五事を以て衆人に告げん。友等よ、
此五事を以て沙門ゴータマの僧伽を破し、輪を破するを得ん。友等よ、人々は質素を信楽すればなり」。
時に提婆達多は衆と倶に世尊の在す処に詣れり、世尊に白して言へり、「……」。「止みなん、提婆達多よ、若し欲せば常時林住すべく若し欲せば村邑に住すべし。若し欲せば常時乞食すべく若し欲せば請食を受くべし。若し欲せば常時糞掃衣を著くべく若し欲せば居士衣を受くべし。提婆達多よ、我は八月樹下に坐臥するを許し、不見不聞不疑の三事清浄ならば魚肉を許せり。」時に、提
婆達多は、「世尊は此五事を許したまはず」と〔知り〕歓喜踊躍して衆と倶に座より起ち世尊を敬礼し……去れり。
時に、提婆達多は衆と倶に王舎城に入りて五事を以て衆人に告げて言へり、……此処に無信、無浄心、劣覚の人々は言へり、「此沙門釈子等は頭陀を行じ漸損にして住す、沙門ゴータマは奢侈にして奢侈を念とす」。有心、有浄心、賢明、有覚の人々は呟き憤り毀れり、「如何そ、提婆達多は世尊の僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。比丘等は彼人々の呟き憤り毀るを聞けり。少欲の比丘等は呟き憤り毀れり、「如何ぞ提婆達多は僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。……
「止みなん、提婆達多よ、汝僧伽を喜ぶ勿れ、破僧は重{罪}なり。和合僧を破せば一劫の罪過を積み一劫、地獄に煮られん。提婆達多よ、破せる僧伽を和合せしめば焚福を積み一劫、天上に楽しまん。」
律蔵ii.192 ~ 98(仏教)
―み言選集―
皆さんが進んでいく道には、必ず怨讐が現れます。信仰的な怨讐が現れ、経済的な怨讐が現れるのです。さらには、私達統一教会の食口同士で互いに怨讐として現れることもあるでしょう。そして、サタンは、皆さんがうっかり過ちを犯すその瞬間をねらって、皆さんをカインの道に追い込むのです。
そのような怨讐を退け、カインの立場に立たないために、皆さんはどのように生きなければなりませんか。皆さんは、一身の安逸のために生きるのではなく、全体のために自らを犠牲にして生きなければなりません。
(3-212、1957.11.1)
統一教会の原理を知って、自分の利益を得ようとするのは、詐欺師でありどろぼうです。先生が教えてあげたその囲いの中に入っていき、自分の福地をつくろうというのはどろぼうであり詐欺師です。その原理のみ言は、自分のものではなく、天のものです。先生が発表した原理を自分のものとして利用し、個人の利益のために、ありとあらゆる集団をつくって生きる妖しげな群れがたくさん生じました。彼は、詐欺師です。その体は、エゼキエル書の、谷の中の死んだ骨と同じです。生命が死んでいます。
(346-57、2001.6.21)
堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。
今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4
長成期完成級で堕落した人間が、復帰摂理により、蘇生旧約時代を経て、長成新約時代の完成級まで復帰されて、人間始祖が堕落する前の立場に戻る時代を終末という。この時代は、アダムとエバが堕落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復帰する時代であるので、地上には霊通する人が多く現れるようになる。終末には、神の霊をすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒2・17)、正に、このような原理的な根拠によって、初めてその理由が解明できるのである。
終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創1・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。
終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤実な聖徒たちは、イエスの当時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗礼ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ1・23)。
したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命が与えられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。
霊通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、偽キリストの立場に立つようになる。終末に、偽キリストが多く現れると預言された理由もここにある。
霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリントⅠ 15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。また、彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
原理講論、復活論2.2.6
皆さんは、天国とは何か分からずにいますが、天国は簡単です。天国は、神様が父であり、すべての万民は息子、娘として大きな家庭を成している所です。そこには、宗派もなく、国もなく、民族もありません。それを知っているので、レバレンド・ムーンは教派打破です。宗派打破です。国家打破です。一つの兄弟にならなければならないというのです。
(344-47、2001.3.1)
10.神様との論争
私達は神様の子女として、人間を愛し、見守る神様の存在を体験することができる。単純な献身と盲目的信仰だけで神様と向き合うのは十分ではない。困難な問題の解答を要求するとき、自ら挑戦してみたが、何の道も見えないとき、私達はしばらくとどまり、神様が答えてくださることを切に求める。
自分の確固たる立場を放棄しないまま、私達は神様に事物の存在方式に対して問いを投げ掛け、果たしてより良い方式はないのかに関して論争することもある。私達は、世界の経典から神様と論争した預言者や聖賢たちを発見するようになる。私達は、彼らは疑心に満ちた者、無神論者、あるいは信仰のない不平を言う者などとはみなさない。かえって、彼らを真の正義心を発揮し、神
様に関することを具体的に論議した方とみなす。
彼らは、神様の真理とその現存に対するより深い洞察を渇望する燃える情熱の所有者たちだった。
アブラハムも神様と論議した。彼は、ソドムとゴモラに対して、神様がもう少し慈悲を施さなければならないと主張した。モーセも、イスラエルの民が金の子牛をつくってほかの神を祀ったとき、あらゆる過ちを自分に返し、自分の民族を赦してほしいと神様に懇願した。
ムハンマドも、50 の義務祈祷項目を5に減らしてくれるよう懇請するために神様と論争を繰り広げた。苦難は罪に対する代価だと学んできたヨブは、自分は明らかに罪を犯していないのに、自分に苦難を与える神様と論争した。タルムードのある賢人は、神様に人間の自由意志の価値に対して名分を明らかにしてほしいと主張した。
このような例から共通して発見される点は、過去の聖賢たちと預言者たちは、自分たちの高潔さを保ちながら、同時に神様と関係を結べたということである。彼らは、確固たる信念と正義感に基づいて天に挑戦した。有限な人間の理解範囲を越えた方が神様であることを知ったために、彼らは高潔な良心を信じて神様の前に堂々と立ち、伝統教理に挑戦しながら命を懸けて論争を繰り広げた
―宗教経典―
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.20 ~ 25(キリスト教)
四十日四十夜が過ぎて、主は私にその二枚の石の板、契約の板を授けられた。そのとき、主は私に言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたが、エジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、鋳像を造った。……
私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民
である。私を引き止めるな。私は彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
私が身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。私は両手に二枚の契約の板を持っていた。私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。
私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
……主があなた達を滅ぼすと言われたからである。私はひれ伏して、主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
申命記9.11 ~ 29(キリスト教)
使徒が語った。「天使が私を(天に)引き上げたとき、神は私の民たちのために1日50 回の礼拝を定められた。この定めをもって帰ったとき、モーセのそばを通るようになり、彼が私に尋ねた。『あなたの民のために神はどのくらい定められましたか』『50 回の礼拝を定められました』と私が答えると、モーセは、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。
それで私は、再び神の前に行くと、その方が回数を半分に減らしてくださった。その後、モーセのそばを通ったとき、彼に『回数が半分に減った』と知らせてあげた。すると彼は、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。
私が再び神の前に行くと、その方は回数をまた半分に減らしてくださった。モーセのところに戻って新たに減らしてくださった回数を知らせてあげると、『主のところに行ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と繰り返した。
私が再び神の面前に現れると、その方が私に言われた。『では5回の礼拝になるようにせよ。しかし、私の目には50 回の価値があるため、私の前で
定められたものが決して変わってはいけない』。私がモーセのところに来たとき、彼はまた主のところに行けと言ったが、『主の前に行くのが、私は恥ずかしい』と答えた。」(注16)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
神が言われた。「私が征服するとき私は失い、私が征服されるとき私は得た。(ノアの時に)洪水でその世代を征服した。しかし、私がつくった世界を滅亡させたのだから、失ったものがないだろうか。それと同じように、バベルの塔の世代に対しても同じだ。ソドムの人たちに対しても同じだ。
しかし、金の子牛をつくった罪を犯したとき、私は征服された。イスラエルの罪に対して赦しを
願ったモーセが私に勝った。そして私は得たものがあるため、私がイスラエルを滅ぼさなかったのである」。
プスィクタ・ラッバティ32b ~ 33a (ユダヤ教)
たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神は私を殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。私の道を神の前に申し立てよう。この私をこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか。
よく聞いてくれ、私の言葉を。私の言い分に耳を傾けてくれ。見よ、私は訴えを述べる。私は知っている、私が正しいのだ。私のために争ってくれる者があれば、もはや、私は黙って死んでもよい。
ただ、やめていただきたいことが二つあります。御前から逃げ隠れはいたしませんから。私の上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。
そして、呼んでください、お答えします。私に語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほど私にあるのでしょうか。私の罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私を敵と見なされるのですか。
ヨブ記13.14 ~ 24(キリスト教)
ラビ・エリエゼルが聖潔儀式に関する自分の主張の支持を得るために、世の中にあるすべての主張を提示した。しかし、彼の同僚たちは彼の提案を受け入れなかった。
エリエゼルが同僚たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、このイナゴマメの木がそれを証明するだろう」。するとイナゴマメの木が庭で300キュービットも飛び跳ねた。賢者たちが答えた。「川の水からは何の証拠も得ることができなかった」。エリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、この川の水が証するだろう」。すると川の水が逆さまに流れ始めた。賢者たちが答えた。「学院の壁からは何の証拠も得ることができなかった」。
またエリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、学院の壁が証するだろう」。すると壁が揺れて崩れそうになった。ラビ・ヨシュアが飛び上がって壁を叱った。「賢者の弟子たちが法に関して論争しているのに、それがお前と何の関係があるというのか」。ラビ・ヨシュアに敬意を表し、壁はそれ以上揺れなかった。ラビ、エリエゼルに敬意を表し、賢者たちは、自
分たちが正しいと主張することはなく、それで今日まで論争話が伝えられてきた。
再びラビ・エリエゼルが賢者たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、天が証明してくれるだろう」。聖なる声が天から聞こえてきた。「なぜあなた達はラビ・エリエゼルと論争しているのか。エリエゼルが主張するすべての内容は、すべて法にかなっている」。しかし、ラビ・ヨシュアが再び立ち上がり、「この声は天から聞こえてきたものではない」と叫んだ。(申命記30.12)
いくらかの歳月が過ぎたのちに、ラビ・ナダンがエリヤ預言者に会い、彼に尋ねた。「聖なる方は、その方に祝福があることを。ラビ・ヨシュアの非難を聞いたとき、何と言われましたか」。エリヤが答えた。「その方は笑われながら、『私の分別のない子供たちが私に勝った。私の分別のない子供たちが私に勝った』と語られた」。(注17)
タルムード、バヴァ・メツィア59a~b(ユダヤ教)
―み言選集―
イスラエル民族がモーセを不信することによって、モーセがイスラエル民族をカナンの地に導こうとする神様のみ旨に完全に従うことができなかったのと同じ恐ろしいことが、終わりの日の聖徒たちにも起きるかもしれません。
イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面するようになるとき、モーセは不信する民族を叱責する前に自分自身の不足を天に訴えました。すなわち、彼はシナイ山に登っていき、40 日間断食祈祷しながら、「父よ、この民族がどうして許諾された地が目の前に見えるにもかかわらず、入っていくことができずにいるのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物として民族の滅亡の道をふさいでください!」と訴えたのです。
(1-144、1956.7.1)
もしひと月の間、毎日10 時間一生懸命に活動したのに一人も伝道できなかったときは、15 時間活動するのです。その次には倍化して、倍の時間を投入するのです。それでも駄目なら4時間を加えて24 時間活動しなければなりません。
それでも駄目なら、「神様、助けてくださらなければなりません」と神様とつばぜりあいするのです。「これは私のみ旨であると同時にあなたのみ旨ではないですか。求めよ、そうすれば、与えられる、捜せ、そうすれば、見いだすであろう、門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろうと約束したではないですか」と言いながら、深刻に神様にしがみつきなさいというのです。皆さんが上がっていけば、神様も上がっていき、皆さんが下がっていけば、神様も下がっていきます。ですから、できないと考えないでください。
(54-325、1972.3.31)
アダムとエバが神様を裏切って歩んできたではないですか。ですから、「神様、私を裏切ってください」と言わなければなりません。そうしてこそ、蕩減復帰するのです。「私を知らないとおっしゃってください。最後の受難の時まであなたが私を忘れても、私は孝の道理を果たします。この道は必ず私が行かなければならない道です」という決意で歩まなければなりません。そのような人がいれば、神様が私を助けてくれなくても、彼の子孫は永遠に助けてあげたいと思うのです。心情の世界がそうだというのです。
(31-49、1970.4.12)
中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。それにもかかわらず、法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式とその規範は、当時の人間の信仰生活の自由を拘束し、その厳格な封建階級制度は、人間の自由な信仰活動を束縛したのであった。
創造原理によれば、人間は、神も干渉できない人間自身の責任分担を、自由意志によって完遂することにより初めて完成されるように創造されたので、人間は本性的に自由を追求するようになる。また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。
中世社会における法王を中心とする復帰摂理は、法王と僧侶の世俗的な堕落によって成就することができなかった。そして上述のように、中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。
さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1.2
祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
11.試練
誰でも信仰生活をするとき、試練を受ける。記録にも現れているように、偉大な信仰者たちは、様々な次元の厳しい試練を体験した。アブラハムは10 回以上の信仰の試練を通過した。サタンは、家族と財産を失うことにかこつけてヨブを試練した。メッカの偶像崇拝者たちにメッセージを伝えようとするとき、ムハンマドもやはり様々な激しい障害を克服しなければならなかった。
イエス様も荒野で重大な試練を受けられ、十字架の道を行く途中でも1度大きな試練を受けた。ヒンドゥー教と仏教の有名な聖人たちも、やはり生と死の境を出入りする試練を受けたが、彼らは絶対的信仰でそれを克服した。
誰でも試練を克服すればするほど、それだけその人の人格と精神は成熟して堅固になる。そして、試練の前後には常に栄光が伴うものであり、試練を通して栄光を受け、維持するにふさわしい資格が条件づけられる。
文鮮明先生は、神様とサタンのやりとりに関するヨブの聖句をよく引用しながら、信仰者たちが試練を克服する理由について説明される。人間は堕落によって天道から逸脱した。
したがって、神様は人間たちが本当に神様の主権を伝授されるにふさわしい資格があるかを確認するために、サタンをして一定の摂理的人物に試練をする機会を許諾せざるを得なかった。サタンは常に人間が自分に属した者であることを表示し、少しでも利己心を発揮する徴候がないかを執拗に探索する。したがって、最も真実で自分を否定する者だけがこの試練を克服できる。
時には、超現実的状況に対処しなければならない試練も少なくない。ムーサー(モーセ)とヒドルの有名なクルアーンの経句、「緑衣の男」はそのような試練を代表する。ムーサーは、常識を超越した事件を信じなければならなかったが、結局、その試練を通過することができなかった。そして、
ヒンドゥー教のラーマーヤナで、ラーマの夫人、シーターが、彼女の貞節を清めるために燃え上がる火のまきに飛び込む試練も登場し、仏教の経典で、ある求道者が断崖、絶壁に身を投げ出して死を克服する試練も登場する。結局、彼ら二人は、身体的に何の傷もなく、その試練を無難に通過した。
そして、息子の祭物献祭を要求する神様の命令にアブラハムの心情はどうだったであろうか。最後に、ここでは文鮮明先生の生涯で現れたいくつかの試練も説明している。
①信仰者に対するサタンの試練
―宗教経典―
ある日、主の前に神の使いたちが集まり(注18)、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、被の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前の
いいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。私達は、神から幸福をいただいたのだから、不幸も
いただこうではないか。」
ヨブ記1.6 ~ 2.10 (キリスト教)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4.1 ~ 4(キリスト教)
あるとき、ヒマラヤに真理の道を追究する人がいた。彼は、世の中のどんなに価値のある宝にも関心がなく、その上、天界の福楽に対する愛着もなく、彼はただ信仰のあらゆる迷いをなくすことができる教えを求めた。
すると天界の神々が彼の熱望と真実さに感動し、彼の心を試みてみることを決めた。それで神々の中の一人が悪魔に身を変え、歌を歌いながらヒマラヤに現れた。すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消えていく。真理を尋ね求めた彼がこの歌を聞いたが、どれほど喜んだか、まるで飢え渇いた彼が澄んだ泉を発見したかのようで、また奴隷が全く予期せぬときに解かれたような気分だった。彼は思った。「ついに私は長い間探し求めてきた真の教えを得た」。彼はその声についていき、とうとうとても恐ろしい悪魔にたどり着いた。
不安な心でその悪魔に近づいて彼は言った。「私が今聞いたその聖なる歌を歌っていたのがあなたですか。もしそれがあなたなのなら、どうか残りの部分をもう少し歌ってください」。悪魔が答えた。「そうだ、その歌は私が歌った。しかし、私は食べる物がなければこれ以上歌うことができない。私はとても空腹だ」。
その人は、悪魔に頼んで言った。「その歌は私にとって聖なる意味をもっています。私は長い間その教えを求めてきました。ところが、私はただその一部だけを聞きました。どうかもっと聞くことができるようにしてください」。
悪魔が再び答えた。「私はとても空腹だ。もし人の暖かい血と肉を食べることができれば、その歌を最後まで歌おう」。その教えを聞きたいという懇切な熱望から、その人はその教え聞いたのちに自分の体を差し出すことができると悪魔に約束した。すると悪魔が歌を最初から最後まで歌った。
すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消え、生死を超えるとき完全な憂いがある。
この歌を聞いたのち、彼は周りにある岩と木にその歌詞を刻んだのち、静かに一本の木の上に登り、悪魔に自分の身を投げた。しかし、悪魔は影も形もなく、その代わりに光輝に囲まれた一人の神がその人の身を受け止めた。
大般涅槃経424 ~ 433 (仏教)
王であると同時に聖者でもある家系の、偉大な聖仙は、菩提樹のもとで、堅固な誓いをたて、かならず解脱の道を造成しようと決心した。……
みなことごとく大いに喜んだ。法の敵である悪魔の王だけはただひとり憂いを抱いて喜ぼうとはしなかった。五官の欲望を自在にするカーマ神は、あらゆる戦いの技芸をそなえて、解脱を憎みねたんでいたので、波旬(悪しきもの)と呼ばれた。そ
の悪魔の王には三人の娘がいた。……三人の娘は一緒に、父の波旬の前に進み出て語った。「どうして憂いておられるのか……」と。
父はその理由を感情を込めて娘たちに告げた。「この世に大聖者がいる。大きな誓いという鎧を身につけ、偉大なる自在なはたらきを弓とし、知恵という強くて鋭利な矢をもって、人々の迷いを征服して、われわれの国をほろぼそうとしている。私は一たび何かあれば、彼にはかなわない。
人々は彼を信じ、ことごとく解脱の道に帰依してしまい、わが国土はからっぽになってしまうで
あろう……しかし、彼がまだ真実の知恵の眼を開かず、わが国がまだしばらくは安穏である、今のうちに、彼の志をくずし、そのかけ橋を絶ってしまわなければならない」と。
悪魔の王は弓と五本の矢を持ち、家臣の男女を引き連れて、菩薩がさとりを開こうとしている林に至り、人々が安らかにならないように願って、聖者が静かに瞑想して、迷いを繰り返す三界の海を渡ろうとしているのを見て……菩薩に告げた。
「クシャトリア(武士)の出身であるそなたよ。速やかに立ちあがれ。死は恐ろしいものである。そなたは武士の道を修得し、解脱の道を捨てよ。戦いの方法を学び、祭りを行って施しをし、この世界を征服して、そのうえで死を迎え生天の楽しみを得られるがよい。この道を進む者は名誉なことであり、先徳たちが実践したものである。すぐれた王者たちの末裔には乞食する僧の生活はふさわしくない。
もしも今、起ちあがる気がないのならば、しばらくそのまま、静かにしているがよい。つつしんで誓いを捨てなくてもよい。私は一矢を放とう。月の孫アイダも、私のこの矢によって、風に吹かれたように、少し触れただけで、その心は狂乱してしまった。どんなに静寂な苦行をしている聖仙でも、私の矢の音を聞けば、大いに恐れ乱れて、わけが分からなくなり、本性を失ってしまう。ましてや、そなたは末世の中で、私のこの矢をのがれようと望むであろう。
そなたは、今すぐ修行をやめて起ちあがれば、幸いにも安全にこの矢から逃れることができる。この矢にぬってある毒はすぎまじいもので、おののき震えるほどである。たとい、そなたの力がこの矢に堪えるほどの者であっても、この毒にはとても自身の心を安らかにしていることはむずかしであろう。ましてや、この矢に堪えることはできまい。どうして驚かないでおられようか、いやそれはできないことだ。」
仏所行讃、破魔品13(注19) (仏教)
―み言選集―
皆さんが歩んでいく路程において、サタンの試練がたくさんあるでしょう。霊界に通じる人は、多くの試練にぶつかるようになります。そうして、サタンは自分の試練に人間が倒れれば、「お前がこのようにしていてよいのか」と讒訴しながら、皆さんの行く道を妨げるのです。
(3-210、1957.11.1)
試練は必ずパスしなければなりません。それをなぜパスしなければならないのですか。そうすることによって一段階変わることができるからです。夜と昼が交差するのです。夜の時代から昼の時代に行けます。春から夏に行けるのです。発展できるというのです。
(125-250 ~ 251、1983.3.27)
また聖書には、人として祭物の路程を歩んでいったヨブの一生に関する記録が出てきます。ヨブは、神様から福を受けることのできる祝福圏内にいたので、神様から物質の祝福と子女の祝福を受けました。しかし、サタンがどうしてヨブが祝福を受けることができるのかと神様に抗議してきました。それで神様は、サタンにヨブを試練することを許諾してあげました。そうして、サタンはまず、彼の祝福を受けたすべての物質を打ちました。そして子女たちを打ちました。その次には、ヨブの肉身まで打ちました。すると、ヨブの友人と隣人たちがヨブをあざ笑い、嘲弄し、愛する妻までヨブを非難しました。皆さんは、このように楽しく生きていくことができる物質と愛する子女を失ってしまったヨブの立場、また友人から裏切られ、妻から非難されていたその立場を考えてみなければなりません。
自分の体を瓦で引っかかなければ耐えられないほど満身創痍になったヨブでしたが、彼は決して神様を恨むことなく、黙って瞑想することができ、そのつらさを越えて神様の側で病者の心情を体恤することもできました。このようなヨブだったので、彼は失ってしまった万物と子女を再び得るこ
とができたのであり、天からより大きな祝福を受けたのです。(2-114 ~ 115、1957.3.10)
サタンも、本来は神様に属していました。そうであれば、サタン自身も自分が行くべき本然の道、この宇宙が一つになることができる本然の道がどのようなものかをすべて知っているのです。ところが、なぜサタンになったのですか。
神様を中心として、真の愛を中心として、神様のために生きず、真の愛の代わりに自分のために生きる立場にいたからです。真の愛をもった人がいれば、「それは私の人ではなく、あなたのものだ」と神様に返します。そのような人は神様に帰らなければならないことを、サタンも知っているのです。
真の愛というものは、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界を越えていきます。宇宙と通じようどすれば、世界を越えていかなければなりません。それが原則です。真の愛をもった真の人というのは、これを越えなければならないのです。ですから、サタンは、「あなたの人をこの地上に送ったとき、サタン世界に送ったとき、あなたの国に属することのできる人になるためには、ここで迫害を受けるあらゆる基準を越え続け、世界の国境まで越えて、天まで通じ得る人でなければならない」と言います。
サタンが神様に「そうでなければならないではないですか」と言えば、神様は「そうだ!」と答えます。「ために生きる立場で神様の愛を中心として全体のために行く人はあなたの国に属するが、自分のために生きたり、この圏内の何かを中心としてために生きる人は、私が関係をもつ責任がある」と言うのです。
(124-64 ~ 65、1983.1.23)
サタンも原材料をテストする基準として利用していることを知らなければなりません。原材料になったのか、なっていないのかというのです。これに反対すれば、サタンが「神様、これはコンセプトがあるので原材料に入れることはできません。私のところに送って地獄にほうり込んでください」と言うのです。そうして落ちていくのです。
このような公式を知っているので、ヨブのような人は10 回も試練しても感謝し、「下さったのも神様であり、もっていかれたのも神様なので、私には何もない」と考えたのです。こですから、いつでも零点の立場にいたヨブが、何百倍、何千倍福を受けたのです。これが復帰時代の勝利的な象徴として登場したということを知らなければなりません。ヨブを10 回激しく打っても、「感謝です」と言って零の立場で神様だけを絶対的に信じたので、サタンが離れていって再復興し、何でも願うとおりになったのです。
(246-20 ~ 21、1993.3.23)
イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。(注
20)
(3-121, 1957.10.13)
先生は、一生の間迫害を受けていきながら、世界的な蕩減条件をすべて立てました。サタンがすべての総力を注いで反対し、今まで歴史時代に反対したすべての方法を動員してありとあらゆる反対をしました。
サタンが「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわ
りにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言ったように、先生も、何度もサタンにやられました。どれほど死地に追い込まれたか分かりません。
神様は、絶対に前から訪ねてきません。神様を恨まざるを得ないほど迫害を受ければ、神様が協助しないように思えても、それを克服して越えれば、後ろからすべて協助してくださるのです。すべての準備をしておいてから神様は行かれるのです。
その次には、私が先頭に立ち、闘って勝てば、そのまま行かれます。そのような作戦をしてきたのです。すべて準備しておいたので、神様は行かなければなりません。私か出ていって、サタン世界の反対をすべて退けたあとに行くのです。
(117-160 ~ 161、1982.2.28)
レバレンド・ムーンを神様が愛されますが、人間の責任分担を果たす過程で蕩減路程を行くときには、神様が協助できません。私自身がサタンに勝って行かなければならないのです。サタンとサタン世界に勝って行かなければならないのが本来のアダムに許された理想圏でしたが、その理想圏を凌駕しなければならないというのです。
蕩減しようとすれば、送り出さなければなりません。かえって身ぐるみはいで追い出さなければならないのです。食べるものも食べさせずに追い出さなければなりません。そうしておけば、サタンが服をもっていって着せるのです。
サタンが着せてくれれば、それは素晴らしいのです。絶対に奪っていけません。サタン側の人が服を着せてくれるのです。サタンとサタン側の人が服を着せておけば、脱がす人がいません。それを着れば、神様も脱がしませんが、サタンも脱がすことができないのです。その闘いです。それで、苦労して迫害を受ければ、サタン世界が私に服を着せてくれます。服を脱いでひたすら打たれると、
服を着せてくれるサタン側が生じます。このような闘いをするのです。そうすれば味方ができるようになります。
アメリカでレバレンド・ムーンに反対していると、アメリカの志のある多くの人たちがレバレンド・ムーンの味方になりました。「なぜこのようにレバレンド・ムーンに反対するのか、何の罪もないではないか! アメリカに必要な人ではないか! こいつ、これではいけない!」としきりに言うようになるのです。そのように私の味方になれば、サタンが引っ張っていけません。自動的に天の側に戻ってくるのです。自動的に神様の側に戻ってくる人が出てきます。強制ではありません。それには、サタンが謙訴する道埋がありません。
(124-304 ~ 305、1983.3.1)
私がレバレンド・ムーンの愛の力がどれくらい強いか見てみよう、こうしてテストするのです。それで、今回は興進が逝ったのです。「あなたは神様をより愛するのか、人類をより愛するのか、あなたの息子をより愛するのか」、これをテストするというのです。そのサタンに恨みを晴らそうとしてはいけません。私が率いる国、あるいは反対するアメリカ、反対するソ連までも解放しようと思います。
興進が逝ったとしても、彼を通して霊界を動員して地上を動員できる天的な勝利の基盤が築かれていくのです。ですから、「打ちなさい」と言っても、打たずに後退するときが来ます。祭物を捧げる祭司長が涙を流してはいけないことを知らなければなりません。この祭物を通して天に栄光を返し、人類に栄光を返し、サタン世界のすべてのものまでも入れ替える条件を探し立てなければならない、と考えなければなりません。そうすれば、新しい転換時代が来るようになります。愛がすべての死亡を支配できる時代に変わっていくのです。このような重要な時です。
サタン自身も、「あなたはやはり天の人です」と言うのです。愛する子女を死の立場に立てても涙を流さず、公義の立場で誇らしくいくのを見るとき、サタンまでも尊敬せざるを得ないと見ます。死亡圏が天の生命を打ちましたが、愛の力ですべてカバーして越えていきます。興進は逝きましたが、父によって愛が残ったのです。愛をもってそのようになりました。
(130-162 ~ 163、1984.1.8)
サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。
御旨の道、試験・試練
②試練は神様に属していることを立証するもの
―宗教経典―
われはなんじらのうち、努力する堅忍な者を知るまでは、なんじらを試み、またなんじらの行状記をも確かめる。クルアーン47.31 (イスラーム)
主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。
詩編26.2 ~ 3(キリスト教)
われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン2.155 ~ 57(イスラーム)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです、その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙1.12 (キリスト教)
各人は死を昧わうのである。われは試練のために、禍福により、なんじらを試みる。そしてわれに帰されるのである。
クルアーン21.35 (イスラーム)
私達の先祖アブラハムは、十度の試みを経験した。そのすべてを忍耐したということは、彼の愛の深さを見せてくれている。
ミシュナ、アヴォート5.4 (ユダヤ教)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」創世記22.1 ~ 2(キリスト教)
皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
創世記32.24 ~ 30(キリスト教)
ラーヴァナが死んだ後、ラーマはシーターを呼びにやった。シーターが孤独と苦難の歳月を終えて喜々として到着したとき、多くの群衆が見守る中で、夫に迎えられた。しかし彼女は、なぜ愛する主が何かにとりつかれた様に不機嫌で暗い面もちをしているのか、理解に苦しんだ。
ラーマは突然言った。「屈辱に報いるべく余は、勇士としてなすべきことをなし、世界を悪魔ラーヴァナの恐怖より解き放った。ただ、おんみは知っておくべきであるが、余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄(いてき)の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。ゆえに、余はおんみとかかずらう心はない。いずこへとも好むところへおもむくがよいであろう。……
おんみを救出するという余の目的ははたされたのだ。美しい女性よ、余はおんみに執心をもたぬ。いずこへともおもむくことを所望する。……」
この憤怒の言葉を聞いたシーターは、悲しみに身も砕け散るばかりであった。「なぜにそのようなお言葉でありましょうか。誓って申しますが、私は潔白であります。他の卑しい女ちと同様に見られますな。私を知るあなたが、疑いをもたれることがあり得るものでしょうか。……
あなたとともに住んだ日々に私がささげた純な愛を忘れ、私を無縁のものと思召されるならば、もはやそれは私の最後であります。」かくいって泣きながら彼女は、思い深くラクシュマナにいった。「葬送の火を私のためにおつくりください。……私は身を炎に投じます」
ラクシュマナは、憤懣をおさえ得なかったが、ラーマの様子を見つめたとき、その心中が鉄のごとく固いのを察した。そして葬送の火を準備した。そのとき、死神のごとく恐ろしいラーマに、何びともあえて話しかける勇気をもたなかった。ラーマは、ただ地を凝視しつつ坐していた。シーターは彼のまわりを一度あるき、火に近付き、ブラフマーその他の神々を拝し、それから火神アグニに
呼びかけた。
「もしラーマヘの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火炎より守らせたまえ」シーターは火を一巡し、恐れげもなくその火に身を投じた。
炎の中心から、火の神アグニがシーターを膝に置いて現れ、祝福の言葉を語りながら彼女をラーマに差し出した。今やラーマはその妻の潔癖を世界の前に証明した事に満足し、シーターをその腕に迎えた。(注21)
ラーマーヤナ、戦闘の巻118~20(ヒンドゥー教)
―み言選集―
み旨を知って満3年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、3年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。
御旨の道、試験・試練
一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって、試練を有り難く思いなさい。試練は、サタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから、耐え忍んで乗り越えれば、春のような新しい恵みを受けるようになる。
御旨の道、試験・試練
神が人間に恩賜を賜ろうとするときには、その恩賜と前後して、サタンの訴えを防ぐための試練が必ず行われるのである。モーセ路程でその例を挙げてみると、モーセにはパロ宮中40 年の試練があったのちに、第一次の出エジプトの恩賜が許されたのであり、またミデヤン荒野40 年の試練を経たのちに、神は第二次の出エジプトの恩賜を賜ったのであった(出エ4・2 ~9)。
また神は、モーセを殺そうとする試練があったのちに(出エ4・24)三人奇跡と十災禍の奇跡を下さったのであり(出エ7・10)、三日路程の試練があったのちに(出エ10・22)雲の柱と火の柱の恩賜を賜ったのである(出エ13・21)。
そしてまた、紅海の試練を経てから(出エ14・21、22)、マナとうずらの恩賜(出エ16・13)があったのであり、アマレクとの戦いによる試練(出エ17・10)があったのちに、石板と幕屋と契約の箱の恩賜(出エ31・18)があったのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.3
人間は、元来、取って食べてはならないと言われた神のみ言を、命を懸けて守るべきであった。しかし天使長からの試練に勝つことができないで、堕落してしまったのである。それゆえに、ヤコブがハランから妻子と財物を取り、カナンに戻って、「メシヤのための基台」を復帰し、家庭的カナン復帰完成者となるためには、サタンと命を懸けて闘う試練に勝利しなければならなかったのである。
ヤコブが、ヤボク河で天使と命を懸けて闘い、勝利することによって、イスラエルという名を受けたのも(創32・25 ~ 28)、このような試練を越えるためのものであった。神は天使をサタンの立場に立てられ、ヤコブを試練されたのである。
しかし、これはあくまでも、ヤコブを不幸に陥れようとしたものではなく、彼が、天使に対する主管性を復帰する試練を越えるようにして、アベルの立場を確立させ、彼を家庭復帰完成者として立てられるためであった。
天使がこのような試練の主体的な役割を果たすことによって、天使世界もまた、復帰されていくのである。 原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理1.2
ヤコブが還故郷するとき、天使をヤコブに送り、最後の決定を下さなければならない、ヤコブをそのような状況に追い込まなければならなかった神様は、どれほど心を痛めたでしょうか。
天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか。7時間以上闘ったというのです。それでもヤコブは絶対に譲歩できないというのです。そのような中でヤコブを見つめられる神様の心はどれほど息詰まる思いだったでしょうか。
神様は、「天使が今サタンを代表して闘っているから屈服してはいけない」と知らせてあげたかったのですが、そのようにできないので、どれほどあせる思いでその時間を過ごしたか考えてみてください。
時間が過ぎて最後の決断を下すようになったときに、天使がいくら振り払おうとしても放さないので、そこで神様も公認し、サタンも公認したのです。ヤコブがそのような立場に立って、初めて天使が公認し、ついにイスラエルという名前をもつようになりました。
ヤコブが天使に勝利してイスラエルという名前をもらうようになったとき、天上世界ではどうだったでしょうか。やきもきしていた心が解放されて、歓呼の声をあげました。心の中に積まれた悲しみの深いため息をつき、「お父様!」と叫ぶその声の中には、2000 年間積もり積もった事情が問題ではありませんでした。ヤコブが神様のために20 年間涙を流し、神様の首を抱きかかえる心情の因縁が、アダムとエバが堕落したその因縁を越えることができたので、イスラエルという称号を受けるようになったことを皆さんは知らなければなりません。
(20-229 ~ 230、1968.6.9)
神様もレバレンド・ムーンを激しく打ちました。「こいつ! お前は異端者だ! 私はお前を知らない!」と言ったのです。しかし、神様がいくら先生に大変な仕打ちをしても、私は神様のしっぽをつかんでいます。神様のしっぽとは何か分かりますか。いくら神様がそのようにしても、私はくじけません。先生は神様と40 日間の闘いをしたのです。
神様が反対されるので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、全員が一つになり、霊界全体が反対しました。40 日間闘いながら譲歩しなかったのです。実際、400 年たっても譲歩しません。神様がじっと見てみると、事態が変わりました。ですから、決裁せざるを得ないのです。40 日間で決裁しなければならないようになっています。
結局、神様が先生についてきました。それで、神様が「レバレンド・ムーンは天と地において最高の勝利者」と宣布しました。
(161-41 ~ 42、1987.1.1)
<前ページ> <次ページ>