4.経典と解釈
経典は、宗教的知識の基礎である。すべての高等宗教は、創始者が悟った神的真理と霊的教えを基盤として定礎され、それが経典に収録された。したがって経典は、信仰者たちの人生を導いてくれる根幹になる。一方、新しい概念と革新的神学的思想が登場したとき、経典はこれらを評価できる不変の基準でもある。規則的な経典学習は、日常の中で神様の導きを発見し、知恵を得るために奨励されている。
しかし、経典を正確に解釈するのは簡単ではない。経典の章句の意味に対する不一致は、これまで信仰共同体において絶えず紛争と分裂を招来してきた。その一つの原因は、経典が比喩と象徴的言語で表現されたためである。したがって、比喩と象徴を理解するためには、霊的分別力と、時には聖霊の力が必要だ。
また、一つの論争は、経典を文字的にのみ理解するのか、時代的風潮に従って考慮するのかということである。宗教は、常に経典の文字に忠実でありながちも、新しい霊的洞察力にも開放的であり、そのバランスを失ってはならない。
仏教用語で「いかだ」があるが、これは私達がそのいかだに乗って桎梏の海を渡り、祝福されたあの地に向かって自由に進んでいける道具という意味である。しかし、経典に書かれたそのごとくにのみ意味を理解すれば、これからの霊的成長には荷物になることもある。過去の解釈は、新しい解釈に譲歩しなければならない。そうでなければ、ちょうどイエス様のときのように経典自体がつまずきの石になってしまうこともあり得る。
この節は、神様の無限の真理を有限の言語でしか表現できない経典の限界を指摘して締めくくっている。イエス、仏陀、そしてほかの宗教創始者たちは、天の真理に対して自分たちが知っていた一部だけを教えざるを得なかったのであり、したがって当時の弟子たちは、それを理解できる水準によって伝えざるを得ない環境圏に生きていた。
文鮮明先生は、すべての経典は神様の創造目的完成に向かう人類を先導するために、時代的な時と場所によって許諾された神様の真理を収めていると語られる。しかし、今もなお明らかにされていない天の真理が残っているため、世界は科学時代にふさわしく表現された新しい真理を迎えなければならないだろう。
①経典の規則的探求を通じた教訓修得
―宗教経典―
私はあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。私は絶え間なくそれに心を砕いています。
詩編119.97(キリスト教)
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスヘの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
テモテヘの手紙二3.14 ~ 17(キリスト教)
賢者たちが聖なる言葉から見た行為は、セベダ聖殿に明快に言明されており、あなた達真理を愛する者たちよ、身につけて遵行せよ!これが善行の世界に行くあなた達の変わらぬ道であることを忘れてはならない。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.1 (ヒンドゥー教)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。(注7)
申命記6.5 ~ 9(キリスト教)
われは真理をもってクラーンを下したので、真理によってそれは下った。そしてわれは、吉報の伝達者または警告者として、なんじをつかわしたのみ。これはわれが明白にしたクラーンで、なんじをしてゆっくりと人びとに、読唱させるためで、少しずつこれを啓示した。言え「おまえたちがクラーンを信じても、また信じなくとも、以前に知識を賜わった者たちは、かれらに対して読唱されるとき、必ずその顔を伏せて叩頭する、そして、祈って言う「私達の主の栄光をたたえまつる、まことに主のお約束は果たされました」。かれらは涙を流して顔を地に伏せ、謙譲のまことをつのらせる。
クルアーン17.105 ~ 9(イスラーム)
法華経を読誦する者があったら、この人は仏の飾りをもって自分を飾る人であると知れ。それは如来を肩にかついでいることになる。
法華経10(仏教)
私はあなたに信頼を与える。あなたがそれに執着する限り、誤ることはないだろう。それは神が天から地上に下された綱であり、正にクルアーンである。
ダーリミー・ハディース1(イスラーム)
経典とその趣旨にすべての心を全一させよ。これによって生死の輪廻が止まるだろう。
アーヤーランガ・スッタ5.122 (ジャイナ教)
聖なる言葉が師であり、これに対する至極の瞑想により私がその弟子になるがゆえに、不可解なその教えに沈潜することによって私が迷いの鎖から抜け出るだろう。(注8)
アーディ・グラント、ラームカリー・シッダ・ゴーシュトM1p.943 (シーク教)
トーラーに努力する者は、多くのものを得るだろう。さらに全世界は彼に照らされるだろう。彼は友、愛される者、万民の愛する人、人類の愛する人と呼ばれるだろう。彼は謙遜さと敬虔さの服を着ているからである。トーラーは、彼を正義で、敬虔で、正直で、真実な人に導く。それだけでなく、罪を遠ざけ徳に近づくように導いてくれる。
ミシュナ、アヴォート6.1 (ユダヤ教)
神の家の1つに集まって神の書を朗読し、互いにそれを学び合う者たちの上には、必ず静けさが訪れ、慈悲が彼らを包み、天使たちにとり囲まれた彼らの名は、神が自らの近みにとどめおく者として読みあげられるであろう。
ナワウィー40 のハディース36(イスラーム)
二人が共に座って交わす言葉がトーラーに従うものであれば、シェキーナーが彼らと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)
―み言選集―
宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためである。
原理講論、総序
それゆえに、復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。
原理講論、復活論2.1
ヨハネによる福音書5章24 節を見ると、「私の言葉を聞いて私をつかわされたかたを信じる者は永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。それは、火で燃やしてしまうということではないというみ言です。なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていくことができません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。
(69-128、1973.10.23)
皆さんが聖書を見るときは、最も悲しいものを見なければなりません。天国に関する内容や黙示録のようなものは外しても、最も悲しいものを見なければなりません。皆さん、ある人の親しい友人になろうとすれば、その人の最も悲しい事情に通じることができ、理解できなければならないではないですか。同じことです。私達が神様の息子、娘の位置を求めていくにおいても同じです。
そのような内容のみ言を皆さんは求めていかなければなりません。そのようなみ言がこの地上に現れ、皆さんがそのみ言を聞くようになるときには、おなかの中から絶えず悲しみがわき上がってくるのです。自分でも分からないうちにおなかの中から痛哭がわき上がってきます。10 日、100 日、1000 日泣いても、絶えず泣きたくなるのです。そのような感じを与えられるみ言がこの地上に出てきてこそ、神様の「複葬(仮葬したのちに定期間をおいて骨を取り出して行う葬式)」をすることができます。そのようなみ言を探し出さなければなりません。
(10-137、1960.9.18)
神様が願う教育をしなければなりません。どの世界に行っても訓読会(注9)をしなければならないのです。村に訪ねていけば、私達がすべきことは何ですか。あいさつよりもっと重要視しなければならないのが訓読会です。訓読会を好きになれば、天国に行きます。訓読会を一生懸命にやれば、霊界の協助を受けることができるのです。
神様のみ言を訓読する所に神様が共にいらっしゃ
います。霊界にいる神霊が再臨し、霊人の再臨協助の役事が起きるのです。したがって、訓読は霊界を動員する道になります。聖霊の役事も、家庭を正しく立て、教会を復興させるために訓読会をしなければなりません。訓読会をする目的は、み言の本体であられる神様と真の父母様に似るということです。訓読会を通して真の家庭が一つになるように、私達も訓読会を通して真の家庭と一つにならなければなりません。
(321-32、2000.2.14)
②比喩で教える経典
―宗教経典―
またこのクラーンの中で、われは各種の比ゆを人びとのために提示した、おそらくかれらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン39.27 (イスラーム)
もろもろの生ける者たちに種々の欲望があり、深く心に執着するところがあるのを知って、その本性に随って、種々の因縁と喩えとことばと方便力とによって教えを説くのである。
法華経2(仏教)
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコによる福音書4.10 ~ 12(キリスト教)
かの讃歌(rc)の字音(aksara)に於て、最高の天に於るあらゆる神々は坐せり。彼を知らずば讃歌を以て何をか為さん、實(げ)に彼を知れるものは悉くこれに集へり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.8(ヒンドゥー教)
聖書のもろもろの話は、トーラーに重ねて着せられた服にすぎない。それらをトーラー自体と理解する人たちよ、残念だ!
ゾハール、民数記152a (ユダヤ教)
かれこそは、この経典をなんじに下したまえる方で、その中のある節は決定的で、それらは経典の根幹であり、他の節は比喩的である。そこで心のよこしまな者は、比ゆ的の部分にとらわれ、その隠された意味の一致せぬ点を探し求めて、それに己れの解釈を加えようとする。だが神のほかには、その真の意味を知るものはないのである。
それで知識の基礎が堅固な者は「私達はこれを信ずる、すべて主から賜わったものである」と言う。(注10)だが理解ある者のほかは、留意しないであろう。
クルアーン3.7(イスラーム)
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ぺテロの手紙二1.20 ~ 21(キリスト教)
もしあなたがあなたの心の鏡で悪の塵を磨けば、あなたはすべての摂理において明白になる、万有を抱擁する神の言葉によって啓示された象徴的言語の意味を理解するようになり、神聖な知識の神秘を悟るようになるだろう。
確信の書68 ~ 69(バハイ教)
―み言選集―
神は、時ならぬ特に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ16・25)。それゆえ、聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに聖書を解釈するに当たっては、その観点をど
こにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
原理講論、再臨論2
今日、新郎が新婦を求めていくための書簡体で書かれた聖書のみ言には暗号が多くあります。なぜ暗号で語られたのでじょうか。心情の神様でいらっしゃるからです。聖書は誰も解けません。解けないのです。新郎と新婦だけが解けます。心情を通して侍る準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。
ここにある暗号の正体は何でしょうか。新郎が来る門を開く秘訣ですが、その秘訣とは、何でしょうか。心情です。父母の心情は、幼い子供を抱いてお乳を飲ませるときや、その子供の頭が白く白髪になったときも同じです。その心情には差がないというのです。
ですから、私達は聖書に隠れているすべての心情の根源を開かなければなりません。知らなければならないということです。これを知るには、学士や博士が必要なのではありません。彼らがいくら解釈しても、学説は通り過ぎます。
心情は論理によって支配することはできません。理論では体恤できないのです。体系によって方向を定めることはできないのです。なぜですか。心情は天倫と共に、自然と共に流れていくのです。聖書とは、学ばなくても知ることができ、感じることができる心情の流れと感じをもって解釈しなければ分かりません。学士や博士が主張する現代の神学思潮も通り過ぎていきます。しかし、心情の世界は通り過ぎていくことはありません。これをいわゆるアルファとオメガ、つまり最初と最後、始まりと終わりというのです。
(8-305 ~ 306、1960.2.14)
祈祷する人は、自然は第1の聖書だと言いました。第2ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。
ですから、事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
(20-271、1968.7.7)
旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録に該当します。私達は、聖書が私達を天国に導く本なのかということをはっきりと調べてみなければなりません。今私達が生きている世の中は、天の国ではありません。サタンの国によって包囲されています。
それで、サタンは、この世界に神様が情報員を送り、彼を通してみ旨を発展させ、サタン世界を突き、サタンを追放しようとしていることを知っているので、命懸けで反対するのです。歴史時代に神様が預言者たちを送るたびにサタンが捕らえて殺したのは、サタンが主管する国なので、そうならざるを得なかったのです。今日の宗教者、さらにはユダヤ教徒とキリスト教徒は、神様が送ってくれたサタン世界に対する情報員であるこどを知らなければなりません。
アメリカとソ連か闘うようになるとき、互いが怨讐の国に政府の情報員を送ります。CIAならCIAの局長が自分の要員を送るとき、最初から相手に作戦が分かるようにして送りますか。すべて秘密裏に暗号をもって通告することを私達は知っています。その暗号は、これを指示したCIAの局長一人しか知らないのです。それと同じように、聖書で最も重要なことは暗号で記録されているので、それは神様しか知りません。
ですから、イエス様も終わりの日に関することは天使も分からず、自分も分からないと言いました。したがって、神様が終わりの日に暗号を解くことができる、またほかの預言者を送ることは間違いない理論的な事実だというのです。
アモス書第3章7節を見ると、神様はその隠密なみ旨をその僕、預言者に示さずしては摂理をされないということが指摘されています。ですから、神様と直接通じる一人が出てこなければならないという話になります。ですから、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、神様に談判祈祷しなさいと教えてくれたことを知らなければなりません。
さあ、聖書は暗号で記録されたことを知りました。聖書をいい加減に解くと、審判を受けることを知らなければなりません。聖書に対してキリスト教は、何を、どのようにしなければならないのでしょうか。主のみ旨に従わなければなりません。同じことです。今までキリスト教の信者たちが、「私は信じて天国に行こう、私一人で救いを受けよう」と考えました。
しかし、キリスト教の信者の責任は、自分が救援を受けることももちろん目的になりますが、その救援を受けて世界を救うことでなければなりません。これを知らなければなりません。
(73-207 ~ 208、1974.9.18)
③霊魂の通路にすぎない経典の文字に執着してはならない
―宗教経典―
主マハビラがカウタマに言った。「ダルマが賢者たちによって直接顕示されないとき、それは言葉という網を通して現れる。推測はその窓を覆う網だ。多様な宗派と学派は、そのような間接的な洞察から出てくる。カウタマよ、あなたに提示された道は、賢者の直接的な道だ。勤勉に精進し、ダルマを見る賢者となれ」。
ウッタラッジャーヤー10.31 (ジャイナ教)
文字は殺しますが、霊は生かします。
コリントの信徒への手紙二3.6 (キリスト教)
大慧よ、如来は文字に堕するの法を説き給はず。(そは)文字は有無不可得なるが故なり。唯文字に堕せざるものを除く。大慧よ、若し人あり法を説いて文字に堕するあらば、皆これ狂説なり。何となれば諸法の自性は文字を離るるを以てなり。是の故に大慧よ、我が経中に、我は諸佛及び諸菩薩と興に一字を説かず一字を答へずと説く。何となれば、一切の諸法は文字を離るるが故に、義に随はずして説くに非ざればなり。……
是の故に大慧よ、善男子善女人は応に言の如く義に執著すべからず。何となれば真実の法は文字を離るるを以てなり。大慧よ、譬へば人あり、指を以て物を指さんに、小児は指を観て物を観ざるが如く、愚疑の凡夫も亦復是の如し。言説の指に随って執著を生じ、命尽るに至るまで、文字の指を捨てず、第一義を取ること能はざるなり。
楞伽経76(仏教)
筌(うえ))は魚を捕らえるための道具である。魚をとらえてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。わなは兎をとらえるための道具である。兎をとらえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。
ことばというものは、意味をとらえるための道具だ。意味をとらえてしまえば、ことばに用はなくなるのだから、忘れてしまえばよい。私は、ことばを忘れることのできる人間を捜し出して、ともに語りたいものである。
荘子26(道教)
「比丘たちよ、大道を進んでいる人がいるとします。かれは、こちらの岸は危険で恐怖のある、向こう岸は安全で恐怖のない、大きな水の流れを見ます。
かれにはこちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もありません。そこでかれは、このように考えます。「これは大きな水の流れだ。……こちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もない。私は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ってみてはどうであろうか」と。そこで、比丘たちよ、その人は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、
その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ります。向こう岸へ渡ったその人は、このように考えます。
「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸を渡った。私は、この筏を頭に乗せるか、肩に担ぐかして、好きなところへ出発してはどうであろうか」と。比丘たちよ、このことをどう思いますか。はたして、その人はそのように行なって、その筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか」と。
「そのようなことはありません、尊師よ」「では、比丘たちよ、どのようにすれば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか。比丘たちよ、ここで、岸へ渡ったその人がこのように考えたとします。「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸へ渡った。私は、この筏を陸地に引き上げるか、水に浸けるかして、好きなところへ出発してはどうだろうか」と。
比丘たちよ、このように行なえば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるはずです。比丘たちよ、このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。
阿含経中部I.134 ~ 35、蛇喩経(仏教)
―み言選集―
堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。
旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約詩代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。
しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
④経典は天の真理の限定された部分を教示
―宗教経典―
たとえ、地上のすべての木がペンであって、また海がインクで、そのほかに七つの海をそれにさし添えても、神のおことばは、書き尽くすことはできぬ。まことに神は、偉力者・英明者であられる。
クルアーン31.27 (イスラーム)
真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
バガヴァッド・ギーター2.46(ヒンドゥー教)
甕にくまれた海水は、海と呼ぶことはできず、海ではないと言うこともできない。それは、ただ海の一部だと言うことができる。同じように、絶対真理から出てきた一つの教義は、真理だと言うこともできず、真理ではないと言うこともできない。ヴィディヤーナンダタッタヴァールタシローカヴァルッティカ116 (ジャイナ教)
言語は四個の四分の一〔よりなる〕と測定せられたり。霊感あるバラモンたち(詩人兼祭官)はこれを知る。〔その中〕三個〔の四分の一〕は、秘密に隠されて運動せしめられず。言語の四分の一を人間は語る。
リグ・ヴェーダ1.164.45(ヒンドゥー教)
私達がもったトーラーは、天の知恵の不完全な形態である。
創世記ラッバー17.5 (ユダヤ教)
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(注11)
ヨハネによる福音書16.12 ~ 13(キリスト教)
われはなんじ以前にも諸使者をつかわし、妻と子をかれらに授けた。だが神の許しがないかぎり、どの使者もしるしを現わすことはなかった。各時代に一つの経典が下されるのである。神は、おぼしめしのものを取消したまい、または制定したもう。経典の母はかれのみもとにある。われがかれらに約束したことの一部を、なんじに示しても、またはその完成前になんじの魂をわれに召しても、なんじの任務は啓示を伝えることであり、清算は、われのことである。(注12)
クルアーン13.38 ~ 40(イスラーム)
このように私は聞いた――あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。さて、静かに独座していた尊者マールキヤプッタの心に、つぎのような考えが生じた。〈これらの悪しき見解は世尊によって解答されていないし、捨て置かれ、拒絶されている。つまり、「世界は常住である」ということも、「世界は無常である」ということも…
…「霊魂と肉体は同じである」ということも、「霊魂と肉体は異なる」ということも、「タターガタは死後存在する」ということも「タターガタは死後存在しない」ということも、「タターガタは死後存在し、また存在しない」ということも、「タターガタは死後存在しないし、また存在しないのでもない」ということも、である。
世尊はこれらを私に解答しておられない。世尊がこれを私に解答しておられないことは、私に満足できないし、耐えられない。だから、私は世尊のもとへ行き、この意味をお尋礼よう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか、「世界は無常である」……と解答されるならば、私は世尊のもとで梵行に努めよう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……解答されないならば、私は学びを捨て、還俗しよう〉と。
さて、尊者マールキヤプッタは、夕方、独坐より立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者マールキヤプッタは、世尊につぎのように申しあげた。……「マールキヤプッタよ、私はそなたにこのように言いましたか。『来なさい、マールキヤプッタよ、私のもとで梵行に努めなさい。私はそなたに解答します。〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……』と。」
「いいえ、尊者よ」「あるいはまた、そなたは私にこのように言いましたか。『尊師よ、私は世尊のもとで梵行に努めたいと思います。〔世界は常住である〕とか……と解答していただきたいと思います』と」
「いいえ、尊師よ」「愚人よ、このようであるのに、そなたは何者として何者を拒んでいるのです。マールキヤプッタよ、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』」と。
マールキヤプッタよ、如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、たとえば、毒の厚く塗られた矢に射られた人がおり、その友人同僚や親族縁者がかれを外科医師に見せたとします。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれが王族であるのか、バラモンであるのか、庶民であるのか、隷民であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような名である、このような姓であるということが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの背が高いのか、低いのか、中位なのかが分らないうちは、この矢を抜かない』
と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの色が黒いのか、褐色であるのか、黄土色であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような村の者であるとか、このような町の者であるとか、このような都の者であるかが分らないうちは、この矢を抜かないと』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓について、それが長弓であるのか、石弓であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓の弦について、それがアッカ樹のものか、竹のものか、筋のものか、マルヴァーのものか、キーラパンニーのものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄につ
いて、それが藪のものか、改良葦のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、そこにつけられている羽が鷲のものか、蒼鷺のものか、孔雀のものか、シテイラハヌ鳥のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それを巻いている筋が牛のものか、
水牛のものか、ジャッカルのものか、猿のものか分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢について、それが普通の矢であるのか、尖矢であるのか。鉄矢であるのか、子牛の歯矢であるのか分らないうちは、この矢を抜かない』と。
マールキヤプッタよ、その人によってそれが知られなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、ちょうどそのように、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に、〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕と……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』と。……
如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、世界は常住であるとの見解があれば、あるいは世界は
無常であるとの見解があれば、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。私は現世における、それらの破壊を説いているのです。」
阿含経中部i.426 ~ 31、小マールキヤ経(仏教)
―み言選集―
神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。
その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ14・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。
このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から2000 年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。
それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。
したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
5.理性的知識と霊的知恵
理性的知識と救援と教化のための霊的真理の間には、大きな隔たりがある。世の中の有用な理性的、概念的知識が霊的求道者たちに、常に利益をもたらすとは限らない。そのような知識がありすぎると、かえって高い境地の悟りを得るのに妨害になることもある。
アテネとエルサレムの間に深く掘られた谷があるように、現世の哲学の概念的体系と宗教の霊的真理追究にも、そのような隔たりが存在する。世俗的学習を重視するこの時代に生きる私達に、世界の諸経典は、どちらのものを優先すべきか点検することを要求する。
2番目の主題は、学びの習得方法である。理性的知識を習得する人たちは、感覚資料の認識と理論の合理的体系化を通して知識を学習する反面、霊性に明るい人たちは、見えない内面に対する直観と感受性を通して真理を悟る。理性に依存することは霊的求道の妨げになり得ると見るため、多くの宗教修行、例えば、禅仏教の修行では、理性の遮断を目的としている。禅仏教である修道者が「犬にも仏性があるか」のような質問を投げ掛けたとしよう。この人が質問によって混乱した状態から抜け出るときは、あらゆる解答が概念的理解を越えて存在することを悟る瞬間である。
しかし、文鮮明先生は、理性と霊性、二つの道は共に天国に至る道であり、二つの間の均衡の重要性を語られる。最後の部分では、世俗的知識と宗教的真理の対立に関して再び言及している。
特に、霊的知恵を通して方向性が定立されなかったとき、無分別な科学技術が招来する病弊に対して強調している。究極的に科学とすべての俗世の知識は、文鮮明先生のみ言、「絶対価値」を通して行くべき道に導かれなければならない。絶対価値とは、全人類とあらゆる存在者に利する神様の真の愛である。
①救援の助けにならない理性的知識
―宗教経典―
ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
コリンの信徒への手紙一8.1 ~ 3(キリスト教)
たった今亡くなった私達の母は、本当に私を叱られた。母は語られた。「あなたがやろうとしているように見えるすべてのことは本を見ることなので、荒野のどこかに出ていきなさい。本はあなたが行く道を妨害するので、あなたの未来が痛ましいものだからだ。あなたが白人のように生きるのを見ると、何の幻想もあなたに現れないようだ」。
テラウォイ族の証言(アメリカ先住民の宗教)
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
コヘレトの言葉12.12 (キリスト教)
知識で積んだ数千数万の功績も黄泉路を同伴しないだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M1、p.1(シーク教)
真知の目的を考察すること。以上が「知識」であると言われる。それと反対のことが無知である。
バガヴァッド・ギーター13.11(ヒンドゥー教)
言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。本当に立派な人は言葉で議論せず、言葉で議論する人は立派ではない。本当の知者は博識でなく、博識の人はは本当に知っていない。
道徳経81(道教)
世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。かりに、この有様を説いても、説き尽くすことができない。したがって智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法に自性が無尽であるから、難思議というほかはない。
華厳経10(仏教)
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一1.20 ~ 25(キリスト教)
ラビ・エリジャル・ヒスマが言った。「鳥を祭物として捧げ、女性を浄化させることが最も重要な教えだ。天文学と幾何学は付加的知識すぎない」。(注13)
ミシュナ、アヴォート3.23 (ユダヤ教)
預言者と聖賢たちの教えの核心は、人間の理性には限界があり、そこで止めなければならないということを知らせようとするものだった。(注14)
マイモニデス迷える者への手引き1.32(ユダヤ教)
人間の哲学は神を人間のようにしてきた。クリスチャンサイエンスは、人間を神のようにする。前者は失敗であり、後者は真理である。形而上学は物理学を超える。そして、物質は形而上学的前提や結論に入ってこない。形而上学の範躊はただ一つの基盤である神聖な精神に置かれている。
科学と健康269 (クリスチャンサイエンス)
人間を救援するためには、理性を超越するある真理が聖なる啓示によって明らかにされなければならない。たとえ人間の理性によって神に関する真理を明らかにしたと言うことができたとしても、人間はその聖なる啓示の教えが必要だった。
人間が明らかにした神に関する真理は少数にだけ知らされた。それは長い時間が過ぎたあとには誤ったものと混ざってしまうかもしれないからである。
しかし、全人類に対する救援(神の救援)は、ひとえにこの真理を知っているかにかかっている。したがって、より確実にすべての救援が成し遂げられるためには、聖なる啓示を通してこの真理を教えてあげなければならなかったのである。
したがって、理性に根拠をおいて設立された思弁的科学以外にも、世の中には常に啓示を通して学ぶことができる神聖な科学が存在しなければな
らない。
トマス・アクィナス神学大全1.1.1(キリスト教)
私がたとえ知識のあの高い境地に到達しても、教えの一つの単語も私の中にないことを私は知っている。また天に仕えることも、ただの一歩として押し出していなことを知っている。
バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)
アテネがエルサレムと何の関係があるのか。
テルトゥリアヌス(キリスト教)
―み言選集―
人間の頭を中心として、理想世界が成されるのではなく、神様の愛を中心として成されるのである。
御旨の道、天国
宗教の起源は、哲学の起源と違います。哲学は神様を求めていく道ですが、宗教は神様と出会って生活し始める道です。
(189-70、1989.3.19)
どの図書館にもぎっしり並べられている経書や哲学書籍を渉猟したとしても、心と体の統一を成就できるわけではありません。(447-163、2004.5.1)
神様は、知るためにつくったのではありません。創造理想が知識によって成されるのではないのです。それをはっきりと知らなければなりません。創造理想のみ旨、私達の理想の目的は、知識や権力やお金によって成し遂げられるのではありません。それは愛によって成し遂げられるのです。
(144-130、1986.4.12)
学生の皆さん、もう分かったので、これからソウル大学に通ているといって自慢するなというのです。私は立派に見えません。1年間勉強しても何時間くらいになりますか。1 日に7時間勉強すると考えても、1 週間に5日として35時間、100 日で700 時間です。それでは、300 日ではどのくらいですか。約2000時間です。これを24 時間で割るといくらになりますか。何日にもなりません。
それをもって自慢し、分をわきまえずにそのようにしてはいけません。それより良いものが愛です。それよりもっと貴い愛は、一瞬で学ぶことはできません。愛の実践力というものは、永遠を基準として動くのです。長久な歳月を要します。1年、2年でパスできません。10 年、20 年、30 年、40 年たっても卒業証書をもらえません。次元がどんどん高くなり、回れ右して届くのです。何かの学問をすれば博士学位をとれますが、愛の哲学過程というのは無限です。だからといって嫌になったり、疲れさせたりするものではありません。ただ楽しく、世の中の何よりも幸福で、感謝で、雄大なのです。(113-324 ~ 325、1981.5.10)
絶対的価値は、知識ではなく、愛、情緒と結びつけて考えなければなりません。ただ愛だけが、それ自体が目的であり、完成であり、最高の価値なのです。
本当の愛は、施す人が喜び、それを受ける人がまた喜ぶのです。本来愛は本性で感じることによって個体の中で芽生え、体恤するものであって、学ぶものではありません。
知識の世界は認識を通して啓発されますが、情の世界は啓発されません。ですから、絶対価値は、知識の次元ではない絶対愛の次元です。このような点から第一原因者は、私達の認識領域内で見いだせるものではなく、情緒的次元で感応、体皿するものだと言えます。
愛の立体的内容が欠乏した価値は永遠不変であることはできず、いつかは流れていってしまいます。現在までの様々な主義と思想は、一面では人類の役に立ちましたが、かえって人類の思想体系を誤った道に導き、歴史を発展的に導けない面も多かったと思います。そのような意味で、既存の価値体系の再評価が不可避だと思うのです。
(102-59 ~ 60、1978.11.25)
②霊的知恵の習得
―宗教経典―
神に対する信仰はつかむものであって、教えられるものではない。
格言(神道)
趙州和尚は、僧が「狗子にも仏性がありますか」と問うたので、「無」と答えた。無門は評して言う。「禅に参ずるには祖師の定められた関所を透らなければならぬ。妙悟を得るには心路が絶える(分別心を断ち切る)という経験を窮めねばならぬ。」(注15)
無門関1(仏教)
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
ヨハネによる福音書4.24 (キリスト教)
私達は、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私達は、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私達がこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく“霊”に教えられた言葉によっています。
つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私達はキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一2.12 ~ 16(キリスト教)
知識は五つ、すなわち感覚知、経典を通した知識、透視、テレパシー、そして全知である。この五つの知識は、二つの類型に分けられる。前の二つは間接的な知識であり、残りの三つは直接的な知識だ。感覚知では……ただ不明瞭なものに対する把握にすぎない。……しかし、透視、テレパシー、全知は直接的な知識であり、それは感覚や経典という媒介物がなく、生々しい方法で霊魂によって知覚される。
タットヴァールタ・スートラ1.l9 ~ 29(ジャイナ教)
賢明な者の心の中には、霊界の実在に対する開かれた窓があり、そして彼は風聞や伝統的信仰によってではなく、実際の経験によって何が体を痛めるのか、何が健康にするのか知っている医者のように、はっきりと明確に何が霊魂の痛みを生み、幸福を生むのかを知る。
彼は、神に対する知識と礼拝が健康によく、無知と罪悪が霊魂に致命的な毒になるという事実を知る。盲目的に他の人々の意見に従う、いわゆる「学識ある」人々も、次の生涯での霊魂の幸福や悲惨なことに対する自らの信仰に、本当の確信をもっていない。しかし、偏見なくその問題に対する者は、これに対してはっきりとした確信に到達するようになるだろう。
ガザーリー幸福の錬金術(イスラーム)
純粋な知は多くのことを聞くこととは関係がない。
王陽明(儒教)
―み言選集―
本来、真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して知るようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得するものではありません。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的生活を通して経験することによって真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の父母の心情を体恤し、完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
(282-209、1997.3.13)
大概、私達人間は、二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは思いで把握する人です。それを私達統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。
霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
そのような立場にあるために、知性的な人は大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。
理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。
そのような感度が異なるというのです。大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百中する、そのようなことが起こるのです。
これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、すべて否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になりました。
私達人間には、2種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では小さいのです。これが違います。初めは太くても、先細りすれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。
また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ私達は、これを調整する生活をしなければなりません。祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。私達人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立てないのです。
(76-136 ~ 137、1975.2.2)
堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開しでいくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。
人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによ
って、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
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