人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-75

2022年08月20日 13時20分47秒 | 学習


③正義の指導者は腐敗を遠ざける


―宗教経典―


個人的利益を取ろうと高い位置に座る者は、自分の快楽ばかりのために女性の体を貪る者と同じだ。主なる神は言われる。「私が聖なる者と呼ばれるように、あなた達もまた聖なる者となれ。私がもつ性稟に似ることができなければ、指導者の位置にいることはできない」。
プスィクタ・ラッバティ111a (ユダヤ教)


権力の地位を要求するな。もしあなたの要求によってその地位に上がれば、あなたは自らその職から退くようになるだろう。しかし、あなたの要求なくその職が与えられたのなら、あなたは(神の)助けを受けるだろう。
ムスリム、ハディース(イスラーム)




必ず、正当な事由なく公金を詐取する官僚は、誰でも最後の審判の日にそれに対して尋ねるその主に出会うようになるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)


賄賂はあらゆる種類の罪悪が訪れる門である。賄賂で買う人たちは、自分の母の乳房を切り取る。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.184(ジャイナ教)


大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、倉庫には穀物の貯えはなにもない。支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、法外な財宝と高価なものを持っている。これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。
道徳経53(道教)




貪欲より嫌悪すべき悪徳はない、地位の高い人から特にそうだ。そして、国家の統治で偏向されたものより嫌悪すべき悪徳はない。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)




―み言選集―


宗教指導者であれ、政治指導者であれ、最も大きな欠格事由は利己主義です。
(299-106 ~ 107、1999.2.6)


二人の中で、自分がいる位置以上の者を中心として、上のために、よりために生きようとする人は善側の位置に立つのであり、自分のために、より低いものについていこうとする人は悪側の位置に立つのです。官職にいる人が、国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭だけのために生きれば、悪になるのです。
(170-176、1987.11.15)


公金を略取してはいけません! 公的な環境を破壊させることは、国家財産の略取と同じで恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもできません。
(347-85、2001.7.3)




自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。公的な席で私が批判するのは、そのような観点で批判するのです。私的な人格は私が激しく非難します。恥ずかしければしないのです。しかし、公的な人格は異なる対応をします。
(51-291 ~ 292、1971.11.28)


霊界に行けば、最も恐ろしい罪は何でしょうか。公金を誤って使うことが第1です。2番目は、公的な立場で公的任務を果たさなければならないのですが、任務を無視することです。3番目は、原理原則に違反することです。これが三大罪です。(注8)
(97-155 ~ 156、1978.3.12)


自分を中心として全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろうか」という考えは絶対にしてはいけないというのです。
(33-164、1970.8.11)






3.典型的指導力


最高の指導者は、徳性と義の模範である。ある社会の精鋭構成員である政治家、教授、著名人、そしてスポーツの英雄たちが、正直、誠実と道徳性の手本になることを自身の義務として認識するとき、その社会は祝福を受けるだろう。


彼らの役割がモデルになるとき、普通の人々は自然に彼らの模範的な姿に従うだろう。私達は、模範的な指導力を三つの側面から識別できる。


一つ目は、指導力は家庭で始まる。指導者が自身の配偶者と子女に配慮して家庭を治める方法は、より広い領域の統治と社会的責任分野を担当する自分自身への出発点となる。


二つ目は、胸と心を刺激して統治することが指導力である。中国では、孔子と彼の追従者たちが法治主義者などの観点に反対しながら、模範的な指導力の理想を表明した。法治主義者たちは、法と法の強力な施行、すなわち毛沢東がのちに語ったように「銃弾による力(権力)」から指導力が流れ出ると教えた。


孔子は、もし指導者たちが腐敗したならすべての国家権力は、不満をぬぐい去ることはできず、これとは反対に、国民は、ただ暴力と抑圧を学ぶようになると対抗した。


三つ目は、私達は、神様がこの地上に送った聖賢と宗教的な師たちから、模範的な指導力の手本を見ることができる。ナザレのイエスは、単に彼の説教、み言だけではなく、犠牲的愛を実践することによって教えた。イエスの足跡に従っていくキリスト教徒たちは、「イエスが何をしようとしたのか!」を尋ね求めながら、そのようにするという。


イエスは、十字架で自身の怨讐を愛した。これは、私達が従うことが困難な手本である。それゆえ、怨讐を愛して迫害者のために祈ることが、それ以後、キリスト教徒の信仰の土台となった。政治指導者たちがこの聖賢の模範に従うとき、彼らは確実に世界平和を成し遂げるはずだ。


模範的な指導力の資質は、文鮮明先生の教えにおいて「三大主体思想」として要約される。指導力の標準は、「真の父母、真の師、そして真の主人」となることである。そのような指導者は、主人としてこの世界を監督し、深い父母の愛をもってすべての被造物を世話し、私達を真の生命の道に継続して教導していく私達の天のお父様、すなわち神様の本性に参与する。しかし、いまだにこの教えを知らない指導者たちが、あまりにも多い。彼らが正に私自身ではないか、と省察してみなければならない。






①模範的で徳望のある個人生活


―宗教経典―


先生がいわれた、「わが身が正しければ、命令しなくとも行なわれるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない。」
論語13.6(儒教)


国王が正直になれないのに、どこの民が正直にできるだろうか。国王が律義にできないのに、どこの民が律義にできるだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.183(ジャイナ教)


単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
バガヴァッド・ギーター3.20 ~ 21(ヒンドゥー教)


河水を渡る牛群の首が曲り行くならば、すべての牛群曲り行く導首が曲り行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が非法を行はば餘の人々尚更ぞ、王若し非法なるならば、一切国土苦に沈む。


河水を渡る牛群の首が直に行くならばすべての牛群直に行く導首が直に行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が正しく行はば餘の人々尚更ぞ、王若し正しくあるならば一切国土を受く。
阿含経増支部ii.75(仏教)


律義なものが心にあれば、それは心の光であり、威厳であり、栄光である。しかし、それが心を離れれば、それらも離れてしまう。
創世記ラッバー68.6(ユダヤ教)


先生がいわれた、「〔法制禁令などの小手先きの〕政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる。」
(注9)
論語2.3 (儒教)


季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます。」
論語12.19 (儒教)


『詩経』にいう「深遠なる文王、ああやむことなく光り輝き、慎んでとどまる(所に安んずる)」と。人の君となっては仁にとどまり、人の臣となっては敬にとどまり、人の子となっては孝にとどまり、人の父となっては慈にとどまり、個の民と交わっては、信にとどまる。


『詩経』にいわれている、「あの淇水のくまを見ると、緑色の竹が美しく茂っている。りっぱな君子がおられる。切り出して、みがきあげるように、割り、みがきあげるようにである。細かなことまで厳正で猛く雄々しく、明らかで盛んである。りっぱな君子がおられる。ついに忘れることができない」と。切するがごとく磋するがごとしとは、講習討論のことをいうのである。琢するがごとく磨するがごとしとは、よく反省して自分を鍛えることである。瑟たり、餘たりとは、恐れおののくことである。赫たり喧たりとは、威厳と態度である。


斐たる君子あり、ついに誼るべからずとは、明徳を明らかにし至善にとどまった君子を、民が忘れることのできないのをいうのである。
大学3.3 ~ 4(儒教)


まことに神のみ使いには、神と終末の日を切望し、神を多く唱念する者にとり、立派な模範がある。
クルアーン33.21 (イスラーム)


イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13.12 ~ 15(キリスト教)


あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
ペテロの手紙一2.21 (キリスト教)


もしあなたがりっぱな性根をもっていれば、あなたは自然に他の人たちの尊敬の対象になるでしょう。しかしもし、あなたが利己的な動機をもっていれば、たとえ面前では尊敬されるとしても、背後で彼らが言うだろう。「自分がラマ、グルだからといって、何の役に立つのか」。彼らは自由に語ることができるので、そのように言い、それは責められることではありません。同じように、あ
る指導者が利己的な動機を強くもてば、たとえ人々が彼の面前で彼を尊敬し、賛辞を浴びせたとしても、あとでもし彼が難関に逢着すれば、彼らは喜ぶのであり、それは当然のことです。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ




―み言選集―


全体のために生きる人は、全体の運行に合わせ、生活や仕事や言行心事のあらゆる面で模範となるので、自動的に上の人として尊敬されるのです。
(318-147、2000.3.5)


何が善なのかというのです。悪いものはなくし、善いものは求めると言いました。それは善いものをもって中心者になるということです。中心者とは何ですか。あらゆる人たちの一つの標準となり、彼らがついていこうとする人です。


中心者は、それと関係したあらゆるものと隔離されるのではありません。いつでもそれを管理し、保護できる存在です。保護してあげる責任があるのです。それで中心者が必要だということです。ですから、彼に従っていこうとし、彼を標準にしようとするのです。
(118-38、1982.5.2)




自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道、人格


指導者になろうとすれば、経済問題を扱うことができなければならず、外交ができなければならず、大衆を説得できるよう雄弁でなければなりません。
(85-263、1976.3.3)


神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。
(219-110、1991.8.27)




②真の父母、真の師、真の主人になるための指導者の努力


―宗教経典―


だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)


天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。その人間のうちで真に聡明なものが元首となり、元首は人民を養う父母となるのである。
書経5.1.1、周書(儒教)




いわゆる、「国を治めるには、必ずまずその家をきちんとする」とは、その家を教えることができないで、人を教えることのできる者はいない。だから、君子は家から出なくても、国じゅうの人を教化できる。孝は君に仕える道である。弟は上長に仕える道である。慈は民衆を使う道である。(注10)
大学9.1(儒教)


天、地、人間は、万物の根本である。天は万物を生み、地は育て、人は完成してあげる。賢明な君主は、必ずこのような道理を信じるがゆえに、この三つの根本を丁重で厳粛に受ける。


天の祭祀に恭敬を尽くして執り行い、先祖のやしろの祭祀に丁重に仕え、孝道と丁重を好んで表し、孝行をたたえることによって天の根本に仕える。自ら農器具を手にして直接田畑を耕し、桑の葉を取って直接蚕を育て、草を切って種を蒔き、荒れ地を開墾して衣食を豊かにすることによって地の根本につかえる。学校を建て、孝道、丁重、恭敬、譲歩などと徳目を習わせ、教化によって賢くし、礼楽によって感化させることによって人間の根本に仕える。
董仲舒春秋繁露


昔、文字をつくった人物は、まず「三」を書いたのち、その中を連結して「王」の字とした。「三」はそれぞれ天、地、人を意味する。その中を連結した「王」は、「三」の道理にすべて貫通することを象徴する。天、地、人の中を貫通さ
せて連結したため、もし王でなければ、誰がこれを担うことができるだろうか。ゆえに王だけが天の作用を代行する。


天の命令に基づき、他の人たちをそれに従うようにする。最も美しい愛は天にあり、天は愛そのものである。天は万物を覆ってあげ、育ててあげ、変化させ、命を与えて生きていくようにし、また育ててあげて閑静させてくれる。


人は天から命令を受け、天から愛をとって愛を表現する。ゆえに人は天の命を受け、天の尊貴さを備え、父、兄、子、弟の親しさをもち、忠実と信仰、慈悲と恩恵の心をもち、礼儀と謙譲の品行を備え、正と否、順応と逆行の治める道理を備えており、筋道が明瞭で豊富であり、知識が幅広く、ひとえに人の道だけが天に参与できるのである。


天は常に(万物を)愛し、利益をもたらすことに志をおき、育て成長させることを自らのなすこととしているが、春、夏、秋、冬、四つの季節はすべてそのようにするための手段である。王もまた常に天下を愛し、利益をもたらすことに志をおき、一つの時代を平安で安楽な世にすることを自らのなすこととしているが、楽しみ、憎み、喜び、怒りがすべてそのようにするための手段である。ゆえに君主の楽しみ、憎み、喜び、怒りが(正しく表現されることは)正に天の温かさ、すずしさ、寒さ、暑さ(が適切な季節に表現されること)であるがゆえに、その道理を慎重に見きわめて表出しなければならない。
董仲舒春秋繁露




一み言選集―


私達の三大念願は、一つは真の父母、その次には真の師、真の主人です。皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうですか、違いますか。しかし、その前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。
(205-20、1990.7.15)


よりために生きるそのような父母が、あらゆる父母の中で子女のために生きる父母が、真の父母であり、いかなる師よりもよりために生きようとする師が、真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうとする大統領が、真の大統領です。
(285-226、1997.3.19)




中心存在は、責任をもたなければなりません。責任をもつだけでなく、保護してあげなければならないのです。保護だけでなく、育成してあげなければなりません。
(210-98、1990.12.1)


皆さんにはすべて、父母がいます。そして、師、先生がいて、大統領という国の主人がいます。それは誰にとっても必要なのです。父母がいなければならず、先生がいなければならず、その国の主人がいなければなりません。


それでは、父母はどのような父母であり、師はどのような師であり、国の主人はどのような国の主人ですか。様々な形態があります。皆さんは、どのような父母になりたいですか。どのような学校、どのようなレベルでの師になりたいですか。


エール、ハーバード、プリンストンのようなアイビーリーグに属した大学や、イギリスのオクスフォードやケンブリッジ大学には立派な先生がた
くさんいますが、彼らを本当に真の師だと言うことができますか。


最近では、家庭で父母を信じられません。学校で先生を信じらません。息子が父母に対して信じられないので、その父母を中心として見れば、それは誰の責任ですか。夫婦が一つになれないので、息子が父母を信じられなくなり、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士も壊されているのです。


ですから、皆さんが願い、誇りたいと思い、もちたいと思っていたこの主要な三大主体が、真だという基準を中心として合格できるものが、どれか一つでもあるかというのです。
(285-214 ~ 215、1997.5.19)


皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産生義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になれる立場は、父母の立場であり、非雇用主の立場は、子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるためにその
ようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)


神様は、皆さんが真の父母になり、真の師になり、真の主人になることができると言うのですが、そのような世界最高のタイプ、そのあらゆるモデルの中心とは誰なのか、それを知らなければなりません。誰が真の父母と真の師、真の主人の最高の絶対的モデルですか。レバレンド・ムーンですか。
神様はどうですか。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。永遠の父母であり、永遠の師であり、永遠の主人です。では、神様の息子になればどうですか。神様のような父母にならなければならないでしょう? 神様
のような師の道を行かなければならないでしょう? 神様のような主人になれる道を行かなければならないでしょう? 問題は神様です。
(285-224、1997.5.19)
4.国民のための政府


政治の主な関心事は、市民福祉である。世界の経典では、統治者は自分自身の必要に先立ち、国民の要求を優先視しなければならないと確言する。これは、統治者の名称によく現れている。イスラエルの預言者たちは、彼らの統治者を「牧者」と呼び、イエスは王国の統治者を「僕」と呼び、中国の伝統では皇帝を「民の父母」とみなした。


指導者は、自身の追従者たちに個人的親切、彼らの失敗に対する寛容、事態に対する認識不足、無知、背信なども、しっかりとした信頼性で配慮しなければならない。指導者は、高位職の虚礼と誇示を排除することによって、そして国民の一人として素朴に生きていくことによって、追従者たちの困難を共有していることを見せてあげることができる。


経典は、景気低迷期の税金減免、雇用創出のための投資、国民への主人意識を養うための権限付与、貧民福祉のための準備などをはじめとした、慈愛深い統治政策を激励する(第20 章9.「経済的正義」参照)。


慈愛深い規則を追求して作られた政府の教令は、ほぼ普遍化されている。それゆえ、古代君主制時代に記録された教令が伝承され、現在でもそれが有効なのである。


しかし、ここでは現代民主主義に関するいくつかの文献が紹介されている。現代に「国民の国民による」政府が、「国民のための」政府をつくり出す最も確実な方法であることが立証された。しかし、民主主義は少なからず極悪非道さを招いた。フランス革命がその事例である。


民主主義の背後の自由選挙と代議政治の活気に満ちた精神は、自由の祝福と全体主義的暴力の間の、
すべての差別をつくり出し得るものである。西洋の経験論的キリスト教の価値に立てられた民主主義は、物質主義に基づいた民主主義よりも良いと見ることができる。文鮮明先生によれば、個人の自由を強調するアメリカの民主主義においても、様々な次元で欠点があることを看破できる。先生は、民主主義の土台は真の愛の精神であることを明らかにしている。(注11)






①奉仕する指導力


―宗教経典―


君王の幸福は民の幸福にある。彼の福地は彼らの福地にある。自分自身を楽しませることは、何であっても善とみなしてはならず、民を楽しませることであれば、何であっても善と考えなければならない。
カウティリヤカウティリヤ実利論1.19 (ヒンドゥー教)


益は上を損して下を益すことであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりがない。上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。
易経42、周易下経、益(儒教)


統治者が人々の指導者になろうと望むならば、まず、人々の前でつつましくしなければならない。
人々の先頭に立とうと望むならば、まず、彼らのあとに身をおかねばならない。彼が高い地位にいても、人々は何ら障害も感じることがない。だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。
道徳経66(道教)


大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。
道徳経60(道教)


大多数が担うことのできない重荷を民に背負わせてはならない。
タルムード、バヴァ・バトラ60b(ユダヤ教)


先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり)から離れるものだ。」
論語15.15 (儒教)


そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行きつかせてやって、〔他人のことでも自分の〕身近にひきくらべることができる、〔そういうのが〕仁のてだてだといえるだろう。
論語6.30 (儒教)
人民の守護はクシャトリアにとっての最高の生き方(ダルマ)である。というのも、〔それを遂行するとき〕王は上述の利益を享受し、〔人民が蓄積する〕功徳(ダルマ)と結ばれるからである。
マヌ法典7.144(ヒンドゥー教)


(最高統治者であり神の地上代理人である)カリフとは、民の世話をする牧童と同じであり、彼の民に関して問いかけを受けるだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25 ~ 28(キリスト教)
なんじが、かれらを優しくしたのは、神の恵みであった。なんじがもしも厳格で、心が荒々しかったならば、かれらはなんじの周囲から離れ去ったであろう。それゆえかれらの過失を許し、かれらのために神のお許しを請え、そして諸事にわたり、かれらと相談せよ。
クルアーン3.159 (イスラーム)


イムランのモーセの子孫が言った。「主よ、あなたの考えでは、あなたの僕の中で最も優れた者はだれでございますか」。彼が答えを聞くと、「権力の座にいるとき、赦しを行なう者である」だった。
バイハキ・ハディース(イスラーム)


保護とは、命令することではなく、自分自身を与えることである。
ナイカ族の格言(アフリカ伝統宗教)


公人は国家の僕になることを誇りとし、国家の主人になることを恥とする。
ウィンストン・チャーチル(注12)
―み言選集―


無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は、千万の人によく用いられる材料となろう。
御旨の道、人格


他人を支配しようと思う者は、まず自分自ら支配を受けてごらんなさい。
御旨の道、指導者


従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は、滅びる。
御旨の道、指導者


高い位置の人になるためには、低い位置の人をよく収拾しなければなりません。
(34-250、1970.9.13)


主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、天のためのものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。
(30-88、1970.3.17)


私達は、人のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、人を不快にするのはもちろん、天道に背くことです。人のために生きる人生は、すなわち神様に似るための実践なのです。神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してこそ、人格を完成した真の人、真の父母、真の師、真の主人になります。こうしてこそ、平和を成し遂げる主体になるのです。人のために生きる人生は、平和に向かう最初の関門になります。
(356-276、2001.10.20)


自分を中心とする人は、いくら大学を出て学位をもっていて、教授だとしても、その人は、責任者になれません。中心者になれないのです。しかし、すべてを備えて全体のために生きようとする人は、頂上に上がっていくのです。選挙をするときもそうです。責任者を決めるときは、個人主義者を嫌います。全体のために生きる人を選択するのです。それがこの社会において、歴史を存続させる一つの方法であり、一つの公式だというのです。それが真理です。
(102-139 ~ 140、1978.12.10)


初めて向き合う人が間違ったときは、私がこの人に何を与え、何を投入したか、考えなければなりません。そうしてこそ、失敗しても赦してあげる天理を、そこから発見できます。私が主体者として歓迎してあげて、喜ぶことを願わなければならないのであって、そのようなこともせずに喜ぶのを願うのは、どろぼうです。
(81-305、1975.12.29)


もし悪いこと、があれば、悪いことをすぐに処理してはいけません。悪いことがあっても、その悪いことを中心として喜べる条件を探していきながら、善いことが悪いことより小さくても、小さいものを見て悪いものを保留して処理できる余裕をもたなければなりません。(72-313、1974.7.14)
責任者は、分かっていてもだまされてあげなければならず、分からなくても模範を見せてあげなければなりません。
(324-202、2000.6.24)


人は日常生活で、事の道理に明るくなければなりません。愚鈍ではいけないのです。事の道理に明るいということは、道理に合っているということです。前後左右を見渡すことができなければなりません。愚鈍ではいけません。上下、前後、左右を見分けることができなければならないのです。


次に、それを包括できるのは情です。情のふろしきはすべて包みます。おじいさん、おばあさんも包み、赤ん坊も包み、すべて包みます。理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ですから、先生は80 歳のおばあさんも喜び、幼い赤ん坊も喜び、愛のふろしきで包めば、すべて喜ぶのです。互いに握り締めて離れず、永遠に休みたいと思い、眠りたいと思う所が愛のふろしきの中です。
(81-328、1975.12.29)
②貧しい者たちへの配慮


―宗教経典―


上の人が豊かな胸をもっていれば、すべての人たちが乳を飲むことができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)


政府は保護者をもてない国民のための保護者である。
ハディース(イスラーム)


さて仁徳天皇は高い山に登り、四方の国をごらんになって、「国の中に炊煙が立たない。国の人民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。この免税の結果、宮殿は破損し、あちらもこちらも雨漏りがするけれども全く修理をなさらず、器物でその漏る雨水を受けて、ご自身は雨の漏らない所に移って雨漏りをお避けになった。そうしたのちに国の中をごらんになったところ、国中に炊煙が一面に立った。そこで天皇は人民が豊かになったとお思いになり、今は課税してもよかろうと租税と夫役を課せられた。こうした次第で人民は繁栄して、苦しむことはなかった。それゆえ、その御世をほめたたえて聖帝の御世と申すのである。
古事記110(神道)


人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。


お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、
追われたものを連れ戻さず、失われたもを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。




私の群れはすべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。私は生きている、と主なる神は言われる。


まことに、私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。私が彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
エゼキエル書34.2 ~ 10(キリスト教)


あなたが呼べば主は答、あなたが叫べば、「私はここにいる」と言われる。くびきを負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
イザヤ書58.9 ~ 10(キリスト教)


神よ、あなたによる裁きを、王にあなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように。
詩編72.1 ~ 4(キリスト教)


疲れている人、障害者、足が不自由な人と病弱な人、孤児、自信のない人、男やもめと寡婦は、みな私の兄弟たちであり、誰にも頼れず、よろけて倒れる人たちだ。君子が政府を治めるとき、このような人たちを扶養しなければならない。
朱熹(儒教)


貧しく無気力な人たちは、個人の権利を擁護するという側面で特別な待遇を要求する。富裕な階級は、彼らを防御する多くの手段があり、国家からの援助を必要としない。しかし、極貧な人たちは頼る資源が何もなく、大概は国家の援助に頼る。それゆえに、弱く窮乏した群れに属する賃金労働者たちも、やはり政府から特別に保護を受け、管理されなければならない理由が成立する。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム


私に与えよ、あなたの困苦の貧しさを、自由を味わおうと渇望する労働大衆を、豊かな海辺の哀れな廃物を、これらを私に送れ、家なく暴風雨にさらされてきたものたちを、私の明かりとして掲げよう、黄金の門のそばに!
エマ・ラザルス(注13)




―み言選集―


道を歩いていてかわいそうな人を見ると、自分の体を抑制できない衝撃を受け、精神を収拾してみると、電信柱にしがみついてむせび泣いている、そのような心情で心を痛める指導者は、「発展するな」と言っても発展するのです。
(160-197、1969.5.12)


大統領が官邸に暮らすよりも、砂場に砂の家を建て、一代、一代、崩して暮らそうというその国は、復興するのです。そして、民のために生きなければなりません。神様は、それ以上にされるのです。
(382-149 ~ 150、2002.6.21)


自分のために生きるのは自分で終わるのであり、人のために生きるのは永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象圏のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。
それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。しかし、相対圏を踏みにじる世界的主体はあり得ません。世界的主体は、世界的相対の形を輝かせるための主体にならなければなりません。
(57-63 ~ 64、1972.5.28)


政治世界は、管理体制であり、政策というものは、計画を立てる必要がありません。原理的観点から、平和のために生きるのです。国家のために生きて全体の前に手本を見せることができる、「ために生きる」管理体制であって、指導体制ではありません。


その管理体制を通して経済的問題、すなわち人が食べて生きていく生活を自動的に解決できるようにしなければなりません。ですから、生活において上、中、下の3階級に分け、上級は生活基準がいくらであり、中級はいくらであり、下級はいくらかを調べてみます。これを中心として平準化するのです。中級を中心として連絡させ、平準化をしなければなりません。
そのようにしようとすれば、世界は必ず、UNと一つにならなければならないのです。整備、管理を徹底してやらなければなりません。政策を誤って立てれば、経済管理体制を破綻させてしまうようになります。


ですから、一つの家の生活のような計画を立て、1年にいくら、全世界の予算がどのくらいかかるということ、上はいくらで、中はいくらという正確な統計が出てこなければなりません。そして、上はできるだけ中を中心として下がっていきながら、下を引き上げて平準化させて合わせていかなければなりません。(注14)そのような体制をつくらなければならないのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)


発展途上国の貧困を解放し、強大国は発展途上にある新しい民主主義国家を犠牲的に助けなければなりません。各国の政策が利己主義を指向するそれ自体が大きな革命です。その方法は、私達全員が父母の立場に上がっていって見下ろしてみるのです。そうすれば、あらゆる国家が兄弟に見えざるを得ません。一つの父母のもとに、一つの兄弟国家社会を成し遂げられる歴史的機会に直面しているのです。
(219-120、1991.8.28)






③民主主義


―宗教経典―


民主主義の理想を標榜する為政者、その統治は永遠である。
アーディ・グラント、マールー、M.I (シーク教)


あなたさまの国土には、盗賊がはびこり、抑圧があります。村では略奪が行われ、町では略奪が行われ、都市でも略奪が行われています。街道では追剥が横行しています。このような盗賊がはびこり、抑圧があるいまの国土で、国王陛下が税を取りたてるとすれば、あなたさまは、してはいけないことをする者となるでしょう。


ところで、あなたさまには、この危難を、賊を、死刑や捕縛や財産没収や体罰や追放などによって、取り除くことができるとお考えになるかもしれません。しかし、そうなさっても、この危難は完全に除かれるわけではありません。生き残った者たちが、後日きっと王国を悩ますことになるでし
ょう。


しかしながら、次のような対策によって、こうした危難は、完全に取り除かれるのです。すなわち、あなたさまの国土にあって、商業に励む者たちに
は、食料と給料をお与えになることです。そうすれば、これらの者たちは、自分の仕事に専念し、あなたさまの王国を悩ますこともないでしょう。


その結果、あなたさまの蓄財も増大し、国土には平和が保たれ、盗賊などの危難もなく、抑圧もなく、国民は満足し、喜び、子供を胸に抱き、家の戸を閉めることなく、安心して暮すようになりましょう。
阿含経長部i.135、究羅檀頭経(仏教)


私達は、以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む侵されてはならない権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
アメリカ独立宣言書


私は、国民自体以外には、究極の社会的力を保管する安全な場所を知らない。もし私達が、国民の健全な裁量権によって自己調節を発揮するのに十分な開明がなされていなかったと思うのなら、その解決策は、国民から彼らの裁量権を奪うのではなく、教育によってそれを知らせてあげることである。
トーマス・ジェファーソン


私は、広い港と巨大な川でアメリカの偉大さと特徴を探した。しかし、そこにはなかった。肥沃な野原と道のない森で探した。しかし、そこにはなかった。豊かな鉱山と途方もない世界貿易で探した。しかし、そこにはなかった。民主的議会と無敵の憲法で探した。しかし、そこにもなかった。


私がアメリカの教会に行き、燃えるような説教を聞くとき、初めて私はアメリカの特徴と力の秘密を知ることができた。アメリカは善であるがゆえに偉大だ。もしアメリカが善であることをやめれば、偉大であることもなくなるだろう。
アレクシス・ド・トクヴィルアメリカの民主政治


一個人に責任を任せること、そして人々が彼を信頼していることを知らせること、それより彼をたくさん助けることはあまりない。
一つカー・T・ワシントン




―み言選集―


人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.3


イエスの時代でも、人の命は権力者の前にハエの命と同じでした。イエス様は、為政者や権力者たちが願えば、いつでもハエが捕まるように捕らえられて葬り去られる、無法天地の制度下で生まれました。根本的な人間革命を叫ばれた革新的なイエスのみ言が、その社会制度のもとで容認されるはずがありませんでした。


イエス様が十字架にはりつけにされたのは、当時の制度のもとでは避けられない事情だったと言えます。これをよく御存じの神様は、メシヤが再び来られる再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕らえて命を奪う、そのようにできない政治制度であることを御存じです。


このために、2000 年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は、人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、すなわち自由を保障する制度です。


その自由は、正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義の代表と見ることができるアメリカの憲法を見れば、自由の中で最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカ議会と政府は、宗教を規制できるいかなる法も作れないようになっています。
(100-245 ~ 246、1978.10.19)


革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。


ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディドロ(Diderot 1713 ~ 1784)や、ダランベール(D'Alembert 1717
~ 1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化される傾向性を内包していたのである。


イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。


これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.1.1 ~ 2


民主主義は、兄弟主義だというのです。すべて平等だと言うでしょう? 世界の人類は、自由を中心として平等だと言いました。自由で幸福を見いだすことができますか。できません。しかし、愛を中心とする自由では、幸福を享受できます。
(201-73、1990.3.1)


民主主義でも、もし愛を母体とすれば、世界が一つになれます。愛を母体として、世界が愛で一つになることを主張するそのような民主主義であれば、それは世界的な民主主義になるのです。共産主義も同じです。本当に真の愛を中心とした共産主義であれば、それも世界を一つにできるでしょう。愛があれば、粛清という言葉も成立しません。
(90-311 ~ 312、1977.1.15)


そのような観点から、アメリカという国をじっと見てみると、ある面では、ぱっと見て好ましく思いやすいのですが、根本的に入っていくと好ましく思いにくいのです。そこには必ず民族主義の色あいがあります。すべてのものが、いまだに孤立しています。一つになることができていません。法と人権が調和しなければならないのです。
(90-304、1977.1.15)


民主主義世界は、どれくらい持続するだろうかというのです。民主主義世界は、個人主義世界です。ここには、夫婦関係や何々関係というものがありません。すべて自分第一になっています。しかし、この世界というものは、関係を離れては存在できません。すべて関係圏になっています。これが成されれば、その次には対応関係を成し、このようにして世界は、一つの核を中心としてお互いが一つになるように回るのです。


ですから、皆さんの家庭が一つになっていれば、その次には部落と一つにならなければなりません。家庭が一つになれば、その部落と対応関係を成すのです。これが、この世を構成し、一つの連結的な体制をつくるときの不可避的な原則となります。
(228-8、1992.3.1)
5.法と罰


政府は、市民を保護し、法律違反者を制裁して、公共福祉を増進するために法を制定し、執行する。神様は、法の根源である。その方が科学的法則により機能する宇宙を創造し、正しいことと正しくないことを分別する良心を、個別の人間の心に植え付けられた。一つの国の法を構成する憲法と法令は、天法に似ている。これが、私達が良心の指示に従う理由である。


法は、邪悪を制裁する。正しく行動して不道徳なことを避けるように命令する良心の指示に従わない人々は、正しいことと正しくないこと、すなわち許されたことと禁止されたことの間を鋭く分別する法によって、制裁を受ける。良心的な人になるために自身の人格を修養する人々は、法にほとんど抵触しないで生きていく。


犯罪抑制策として、正義守護のため、法令は、法律違反者を刑罰により処罰する。刑量を決定する政府は、正義の最終分配者である神様の同労者である。


地獄とは、霊界の巨大な監獄として、天の領域を蹂躙する法律違反者を制裁するための所だ。罪の代価を払う法律違反者の刑罰は、一つの契機、すなわち「蕩減」により無にさせることができる。


法律違反者を懲罰して正義を守護する体制には、常に慈悲の要素を前提にしなければならない。そして、法律違反者は本当に改心して、生き方を新しく転換しなければならない。


文鮮明先生は、監獄の主な目標は、原状回復の教育でなければならないと教える。これは、収監者たちの残酷な監獄を原状回復のための教育の場「教導所」に改造しようとする、21 世紀の先進化運動の核心概念である。このように正義と慈悲の両極は、死刑宣告などの倫理的問題を省察する観点を、新たに形成する。




①法の高潔な目的


―宗教経典―


そこで、彼は自己以上に勝れた色(ルーバ、現象)たる法(グルマ)を産み出した。法とは権力の権力である。この故に法より勝れたものはない。法の力を籍(か)れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.14(ヒンドゥー教)


そなた自身もよく法典に敬い従って人民を導くようにしなければならぬ。文王でさえも敬い慎んで民を導き、「予といっしょに行う者があるならば、予一人は大いに喜ぶであろう」とおおせられたのであった。
書経5.9.3.8(儒教)


真の審判にうなずく者が神の同業者である。
出エジプト記メヒルタ18.13(ユダヤ教)
王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
箴言29.4 (キリスト教)


〔真実〕を吟味し、〔刑罰が〕正しく保持されるとき、それはすべての人民を幸せにする。しかし吟味せずに用いられたときはすべてを滅亡させる。
王は罰せられるべき人間に対して刑罰を用いないときは、強者は、弱者を焼き串に剌された魚のように焼くであろう。……刑罰を誤用すれば、すべ
ての身分は堕落し、すべての境(区切り)は破壊され、全世界に怒りが持ち上がるであろう。黒色、赤目の刑罰が歩き回って罪人を滅ぼすところでは、〔刑罰を〕適用する者がよく監視すれば人民は迷いに陥ることはない。
マヌ法典7.20 ~ 25(ヒンドゥー教)


善行および悪行の業の成熟と果報を現わし示すために、種々さまざまの所行をする人、それが王と呼ばれる。彼は、自身のために、また他人のために、また国土の秩序のために、神々の群れに加護され、諸々の神より王として承認されている。
王国における凶悪な悪人を取りおさえようとして、
国土の秩序のために、生命や王位を捨てることもあろう。(注16)
金光明経12(仏教)


マルドゥクが私に人を正しく案内し、地を監督することを委任したとき、私は国民の福地を増進するために、その地の言語からなる法と正義を制定した。
ハンムラビ法典(注15)


法律とは、一方では、ともすれば善人たちが互いに友を守りながら生きていけるかを教えようと、彼らのために制定されたものであり、もう一方では、このような教えを拒否し、これに従わず、心が素直になれず罪悪に陥ることを防げない者のために制定されたものです。
プラトン法律9(ヘレニズム)


自分の中にある神的分別力によって支配されるのが、すべてのために良いからです。もしそうできない場合には、外部によってでもそのようにするのがより良いのですが、これは、できる限りすべてが同一のものによって導かれることによって似るようになり、友となるようにするためです。……
そして、国の中にいるすべての協力者である法の趣旨が、そのようなものであることは明らかです。子供たちに対する統率もそうであり、国の場合と同じように、彼らに統治体制が確立されるときまでは、そして、彼らの中にある最善の部分を私達の最善の部分によって世話したのち、その子供の中に私達のものに似た守護者と統治者を私達が代わりに入れ込むまでは、子供たちを自由にすることは許容せず、それができて初めて自由にすることを私達は許容します。


ところが、知らずに正しくないことをしても差別を受けないことが、どうして利益になりますか。そのようにしても発覚しない者は、一層邪悪になりませんか。反面、発覚して罰を受けた者の野獣的な部分は眠って純化され、その一方で彼の従順な部分は、自由になり、彼の魂全体が最も優れたその本性に戻り、知恵と節制、そして正義を得て、価値のある状態を実現すること……。
プラトン国家9(ヘレニズム)








―み言選集―


法とは何ですか。自体的に保護されたものを、破壊しようとするものを除去するためのものが法です。宇宙の法がそうなので、そのような形態に拍子を合わせ、国家の法もその適応が可能だというのです。これを知ってこそ、遵法精神が必要だということを理解できるのです。
(118-198、1982.6.1)


一つの国を中心として見るとき、国法というものがありますが、善を支える目的で法を考えます。どの国の憲法を見ても、国家管理体制の法を見ても、すべてが喜べる面を擁護するためにできているのであって、これを破壊するために作られている法はありません。


もしこの原則から外れるときは、どのようになりますか。どの国にも監獄というものがあって制裁するのです。ところが、一つの国の主権者によって善の基準が異なることもありました。


良心というものは、教育を受けなくてもあらゆる善のことをすべて知っています。良心は、最も善の側についていこうとします。良心は、何が善なのか悪なのかを判断できる能力をもっており、いつでも自己の主体性をもって自分を管理しています。
(216-306、1991.4.15)


国家の形成や国家の法は、それを支柱とし、それ以外のものを制裁するものとして現れていることを知らなければなりません。ですから、私を中心とし、外的な肉を中心とするあらゆるものはすべて制裁です。行けば行くほど狭くなります。
(105-15 ~ 16、1979.7.8)


純粋な良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局人倫は、どこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44、1970.8.2)




良し悪しには、いつも境界線がなければなりません。アメリカも憲法を中心として良いこと悪いことの基準を立てるのです。そうではないですか。ところが、公的なことを制裁するそのような法はありません。公的なことは、無限定にいくらでもしなさいというのです。それを制裁する法は一つもありません。


いくらでも歓迎するということです。しかし、自分を中心とする提案は、「やめなさい、やめなさい」と制裁するのです。自分を中心とするときに、法が問題視します。自分の欲心を中心とすれば、問題視するのです。その次には、破壊することです。破壊することを問題視します。公共の建物を破壊するのは、すべて罪悪だというのです。このように見るとき、私達が人に悪いことを言って傷つけるのも、法に引っ掛かるのです。
(111-239、1981.2.22)


法が立てられれば、法のとおりにしなければなりません。天の国の家庭の法がなかったのであり、天の国の氏族の法がなかったのであり、天の国の国家の法、家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法がありません。憲法がないのです。それが、今まで神様が人類をすべてほうっておき、自由奔放にして秩序を破壊することに手を出すことができなかった理由です。


サタンが主人になっているので、神様が取り戻してこようとしても、その秩序の原則がこのようになっていて、これができていないので、これはこちら側に属していると、分け得る法がありません。これからは、そうではありません。統一教会で自分勝手に生きた人たちは、赦しがないというのです。
(356-315、2001.10.22)


堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには、義理もなく、法度もありません。


法度に従い、法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人と言います。正直とは、正しいの「正」の字と、まっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。


それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法によって分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めておかなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)


天の国の憲法とは何でしょうか。それを知らなければなりません。愛の力、愛の生命力です。天の国の憲法のすべては、これを保護するために活用されざるを得ないというのです。
(111-171、1981.2.15)

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世界経典-74

2022年08月20日 13時16分45秒 | 学習
①神様の民と家庭として和合


―宗教経典―


またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。明証がかれらに来た後分裂し、また論争する者のようであってはならぬ。これらの者は、きびしい懲罰を受けるであろう。(注54)
クルアーン3.104 ~ 5(イスラーム)


見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133 (キリスト教)


信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)




主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし、思いを一つにし、義のうちに住んだからである。そして、彼らの中に貧しい者はいなかった。
高価なる真珠、モーセ書7.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)


父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私達が一つであるように、彼らも一つになるためです。
ヨハネによる福音書17.21 ~ 22(キリスト教)


和合して行け、和合して語れ、汝らの意は和合せよ、太古の神々が、和合して〔供物の〕配分に立会いしごとくに。勧告は一致して〔あれ〕、会合は一致して〔あれ〕。思考は一致して〔あれ〕、彼らの心は一致して〔あれ〕。共同の聖語をわれ汝らに唱う。共同の供物をわれ汝らに捧ぐ。
汝らの意向は一致して〔あれ〕、汝らの心は一致して〔あれ〕。汝らの思考は一致してあれ、いみじき和合が汝らにあらんがために。
リグ・ヴェーダ10.191.2 ~ 4(ヒンドゥー教)


そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28(キリスト教)


私達の本質は、どこでも制限されておらず、私達のぶどう酒の活力は、いかなる器にも入れられていない。私達の壷をつくっている陶磁器のような中国人とインド人、私達の体を形成している土のようなトルコ人とシリア人、私達の心情はインド、シリア・ルーマニア、どこでもなく、イスラーム以外にどの祖国も、私達は宣言しない。
ムハンマド・イクバール滅私の秘義(イスラーム)




人は誰でも人との相互関係の中に置かれています。そして、その関係は運命という服をまとっています。一人に直接的な影響が加えられれば、他のすべてに間接的にその影響が返ってくるようになるものです。他の人たちが自分の位置で本分を果たすとき、私もやはり私の位置を見いだすことができ、私が私の位置で責任を果たすとき、他の人たちも自分の位置を見いだすことができます。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)






―み言選集―


歴史上で神様が最も希望することとは何ですか。神様の希望があるとすれば、救援も個人救援が問題ではなく、白人救援が問題ではありません。最も希望することとは何かというと、人類が、五色人種が一つになり、神様と生死を共にしようとすることです。
(93-15 ~ 16、1977.5.8)


外的統一よりも内的心情統一が重要です。
(60-34、1973.8.1)


先生は、未来世界の問題点の中の一つである人間と関連した障壁を崩そうとしているのです。いかなる類の有名な指導者も、文化的背景の障壁、習慣などと関連した人間間の障壁を崩すことはできません。誰がそのような障壁を崩せるのかというのです。ただ私だけができます。未来に迫る人種問題、文化と関連した諸問題、国家間の国境問題などを解決するために、アメリカを中心として、文化が異なり、文明が異なり、宗教が異なる世界の国々を一つに統一する方法を模索しているのです。
(215-203、1991.2.17)


皆さんは今後、一つの家で暮らすのです。私がコンドミニアムを造れば、4世帯が暮らせる家を造ります。レセプションの場を一つ造り、食堂も一つ造り、韓国人、日本人、アメリカ人、ドイツ人の4世帯が暮らせるコンドミニアムを造らなければならないと考えています。ですから、一つにならなければなりません。一つにならなければ天国ができません。
(131-244、1984.5.4)


最も呪わしく、夢にも見たくない怨讐の家庭と、祝福結婚を通して一つの家族になったと考えてみてください。恨みの思いに凝り固まっていた父母たちの血統は消え去り、新しい強力な真の愛の血統が創造されるのです。両家の子女たちが夫婦となり、互いに愛し合い、幸福な家庭を築いて暮らすことを呪う父母がどこにいるでしょうか。いくら憎い怨讐の娘であったとしても、自分の息子の愛を受ける嫁となり、水晶のように清らかで澄んだ真の天の孫と孫娘を抱かせてくれるとしたら、喜びの笑顔を見せないおじいさん、おばあさんがどこにいるでしょうか。


白人と黒人が、東洋と西洋が、ユダヤ教とイスラーム(イスラム教)が、さらには五色人種が一つの家族になって暮らせる道は、交叉結婚の道をおいて、ほかに方法があるでしょうか。共に暮らす生活の典型は家庭です。父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を基盤として、兄弟姉妹間は互いに信じて助け合い、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル家庭なのです。私達が命を懸けてでも、真の父母様から祝福結婚を受け、天の伝統である理想家庭を探し立てなければならない根本理由が、ここにあるのです。
平和神経、平和メッセージ1.23 ~ 24 2005.9.12




②公共の敵に対抗する一致団結


―宗教経典―


イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
マタイによる福音書12.25 (キリスト教)


私の子供たちよ。戦争、恐れ、そして不一致があなた達を、あなた達の村からこの聖なる集まりの火につれてきた。共通の危険に遭遇し、そしてあなた達家族の生存を心配しながら、あなた達はまだ分裂し、漂流している。


各部族が自分たちばかりを考え、自分たちばかりのために生きながら。私がどのようにあなた達を小さな集団から導き出し、大きな部族連盟に育てあげたか考えてみよ。あなた達は今、再び結合し、一つの体のように行動しなければならない。どの部族も、単独で私達の野蛮な敵に対抗することはできない。


あの者たちは、私達の永遠の法に対しては何の関心ももたない。あの者たちは、すべての所に死と破壊を広げながら、極寒の暴風のように私達を一掃してしまう。私の子供たちよ、よく聞きなさい。あなた達は兄弟であることを覚えておきなさい。あなた達は必ず一つの火、一つのパイプ、一つの戦闘組織をもたなければならない。(注58)
デガナウィタ(アメリカ先住民の宗教)


真実に私達は、みな共に団結しなければならない。そうでなければ、最も確実なことは、私達は分裂しつるしあげられるだろう。(注55)
ベンジャミン・フランクリン


「一つの家庭が分かれて、それぞれ戦えば、その家庭は持ちこたえていくことができない」と言います。私は、この国がいつまでも半分は奴隷で、半分は自由という状態を保てるとは信じていません。私は、連邦が解体されることを願いません。私は、一つの家庭が倒れることを願うのではなく、紛争が終息することを期待します。こちらになるかあちらになるか、きっぱりと決めなければなりません。奴隷制度の反対者が奴隷制度の蔓延を防ぎ、一般の国民によって奴隷制度は究極になって消滅してしまうと信じて安心することができるの
か、あるいは奴隷制度の擁護者たちが奴隷制度を押し進めていき、ついには新と旧、南と北を分けることなくすべての州においてこれを合法化させるのか、二つのうち一つになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注56)


ナチが共産主義者たちを支持したとき、私は沈黙した。私は共産主義者ではなかったからだ。彼らが社会民主主義者たちを監禁したとき、私は沈黙した。私は社会民主主義者ではなかったからだ。彼らが労働組合員たちを支持したとき、私は支持声明を発表しなかった。私は組合員ではなかったからだ。彼らが私を支持したとき、私のために立ち上がってくれる人は誰もいなかった。
(注57)
マルティン・ニーメラー(キリスト教)
―み言選集―


完全に悪のローマ帝国の属国になったのは、何をしようとそうなったのですか。イスラエル民族は、内的に一つになって独立運動をするのです。ローマに向かって対抗できる、このような基盤をつくるのです。強い怨讐をもたせたのは、内的に一つになった、一つの統一運動をさせるための天の作戦だったことを知らなければなりません。摂理というものを知らなければなりません。


ローマ帝国時代のカタコンベのようなところに行ってみれば、キリスト教徒たちが洞窟で暮らしていたのを見ることができます。それを見れば、ローマから迫害を受けながらも、キリスト教を中心としてどれほど一つになっていたかを知ることができます。神様がそのようにしたのは、キリスト教を一つにさせて強力な統一性を付与するためです。
(105-124 ~ 125、1979.10.4)




今日、皆さんと私は共通の運命の前に一緒に立っています。私は、この悪の世界で正義を擁護する人が、もし何らかの実質的基盤をもつことができなければ、簡単に除去され得ることを骨の髄まで深く悟っています。したがって、学者と学生たちの連合戦線と共に、クリスチャンとすべての宗教の信仰者たちは共に働かなければなりません。
(129-304、1983.11.25)






③人間の体をモデルとした相互依存


―宗教経典―


体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。


体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。


だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。


私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとし
ます。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一12.12 ~ 26(キリスト教)


アブ・ブサが使徒の言葉を伝えた。「信者とは、互いに各部分を支える建物と同じだ」。そして彼は、彼の両手の指を組み合わせて見せた。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


肉体の欲望と、堕落した心の抱く欲望とによって、汝等の間に分裂が生じることのないよう注意せよ。汝等、一つ手の指のごとく、また、一つ身体の器官のごとくあれ。啓示のペンは、かくして汝等に勧告するのである。おお、汝等、信じる者ならば。
バハオラ落穂集72(バハイ教)


指一本が痛むからといって、それを切ってしまうことはできない。(注59)
ウンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


理想世界を創建するために、私達は全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません。統一運動が提示する理想世界像は、心と体が和合して完成した一人の人間に例えられます。神様を中心とする人間の精神的および霊的生活から人生の理想と目的が出てきます。神経組織は、心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和した状態にあると言うのです。


人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれになぞらえることができるとすれば人類社会の経済的および外的な側面は個人の身体に例えることができるでしょう。人類の霊的理想と神様に向けた念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心に神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が回転するのです。




ここで宗教指導者、神学者および哲学者たちは、ちょうど人体の神経組織と同じように、神様から来るメッセージを解読し、全人類に伝達しなければなりません。
(133-272、1984.8.13)


ここの細胞を通っていた血が、足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。


頭のほうに来るなという境界線があるのですか。ありません。そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がここは白く、ここは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。だからといって、「ああ、お前は私と違うから別種だ」、そのように言えますか。
(91-280、1977.2.27)


肺臓と心臓と胃腸が、末梢神経を通じて伝達される頭脳の命令に従って、お互いに衝突することなく円満な授受の作用を維持している。この三臓器に該当する理想社会の立法、司法、行政の三機関も、政党に該当するキリストを中心とする信徒たちを通じて伝達される神の命令によって、お互いに原理的な授受の関係を結ばなければならない。


人間の四肢が頭脳の命令に従い、人間の生活目的のために活動しているように、四肢に該当する経済機構は、神の命令に従い、理想社会の目的を達成するために実践する方向へと動かなければならない。


また、人体において、肝臓が全身のために栄養を貯蔵するように、理想社会においても、常に全体的目的達成のために必要な貯蓄をしなければならないのである。


しかしまた、人間の四肢五体が、頭脳と縦的な関係をもち、肢体の間で自動的に横的な関係を結びながら、不可分の有機体をつくっているように、理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。それゆえに、この社会においては、他人を害することが、すなわち自分を害する結果をもたらすことになるので、罪を犯すことができないのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.2






11.世界市民


世界的潮流は和合に向かって絶えず流れているように見えるが、ある遠心力がその流れを脅かしている。今日、通信、教育、運送と貿易などにおいて、国家と国家の間を互いに有益で依存的なネットワークとして制度化しながら、世界化する傾向が現れている。


しかし、世界の和合は、単に貿易の土台ばかりに
依存することはできない。世界的懸案が経済的な主導勢力により調整されるなら、開発途上国の国民は世界化の犠牲者として残り、致命的な脅威を感じるであろう。人類歴史上、栄誉ある国民は、自身の慢心を担保とする代案を講じる。


イスラム主義の登場がその一つの例である。世界和合の鍵は、経済に譲渡されることはない。その鍵の主人公は、正に宗教である。各宗教の教えには、不和反目の要素があることは事実だ。しかし、各宗教には世界和合の理想を高める教え、人類の父母である神様に根源をおいた教え、を含有している。つまり、世界和合の主人公は神様である。全人類は神様の子女だ。したがって、世界は神様を中心とした一つの家族共同体である。宗教の教えは、このような和合を現実化する方法を提示する。例を挙げれば、文鮮明先生の超国家、超人種、超宗教的祝福結婚がそれである。






―宗教経典―


人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)


人類という家族を一つと思わなければならない。
ジナセーナアーディプラーナ(ジャイナ教)


せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや
このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや
おふでさき13.43 ~ 44(天理教)


全人類があなたの側になるようにせよ。
アーディ・グラント、ジャプジー28、M.1、p.6(シーク教)


おお、地上で争っている民族や種族の人々よ。汝等の敵を和合の方に向け、その光の輝きを、自分達の上に照りはえさせよ。ともに集い、たとえ自分達の間の論争の源は何であろうと、神のためにそれを根絶するよう決心せよ。さすれば、世界の偉大な輝かしいものの光輝が全地球を包み、そこに住む者は、全て一つの町の住民となり、ただ一つの王座の居住者となるであろう。
バハーウッラー落穂集111(バハイ教)


あなたは世界の市民であり、世界の一部分である。補助的部分ではなく、重要な部分である。あなたは、神聖な秩序を把握し、事物の連関性を考慮する能力がある。そうだとすれば、市民的特性は何を約定するのか。個人的利益を主張しないこと、ちょうど手と足のようにもてなすだけであって、分離した個人としては何に関しても熟考しないことがそれである。手と足に理性があり、自然法を理解するとすれば、それらは決して全体に関連することなく何かを願ったり求めたりすることはないだろう。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)
私はアテネ人でもギリシャ人でもなく、世界の市民である。
ソクラテス(注60)(ヘレニズム)


あなたが宇宙から地球を見れば、地球でどの民族や国家の境界も見ることはできない。この地球は、近づいてくる新しい神話学の象徴なのかもしれない。地球は私達が育てるべき国であり、人類は私達が共に一つである人々である。
ジョーゼフ・キャンベル神話の力


絶対真理の観点によれば、私達が日常生活で感じ、経験することは、すべて幻影である。そのあらゆる多様な幻影の中で、私達自身と異なる人に対する分別意識は、最悪の形態の幻影だ。なぜなら、それはどちらにも不幸ばかりもたらすからである。もし私達が究極的真理に対して理解し、瞑想することができれば、それは私達の心の垢をきれいに洗い、分別意識を除去するだろう。これは互いに対する真の愛をつくりあげることに助けとなるだろう。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
もし愛の一致が一つの家庭にはっきりと現れていれば、その家庭は発展して光り輝き、神霊に満たされるだろう。しかしもし、その家庭に不和と憎悪が存在すれば、破壊と解体が必然的である。これは一つの都市でも同様である。もしその中に居住する人たちが和合と親睦の精神を現せば、その都市は着実に進歩し、生活の状況は明るくなるだろう。反面、不和と闘争を現す都市は崩れ落ち、その住民はばらばらになるだろう。このように一つの国の民も、愛と和合を通して発展し、文明と教化で進み、戦争と闘争によって崩壊するのである。


結局これは、人類全体でも同様である。愛が実現され、理想的な霊的連帯が人々の心を一つにするとき、全人類は高揚し、世界はより崇高でまぶしいほど美しく成長するだろう。そして、人類の幸福と平穏がはかりしれないほど増大するだろう。
戦争と闘争は根絶され、不一致と軋轢も消え去り、宇宙的平和が世界の諸国家と民たちを一つに結ぶだろう。全ての人類は、一つの家族として共に暮らし、一つの海の波として混ざり、一つの蒼空の星々として輝き、同じ木の果実に見るだろう。これが人類の幸福であり慶事である。これが人間の啓蒙であり、永遠の光栄であり、生命である。これが聖なる贈り物なのである。
アブドゥルバハー万国平和の普及(バハイ教)




―み言選集―


私達人間に国籍を超越した一つの統一世界で生きようという強力な欲望が各自の内面世界からほとばしっています。このような内面の叫びは、真の人間の理想であり、心情であり、これはすなわち神様の心情であり、希望でもあります。
(115-177、1981.11.10)


超民族的な主義でなければなりません。超民族的な心情を中心として、自分の民族より、その国をもっと愛することができる民族が出てこなければなりません。
(34-337、1970.9.20)


これからは「私の国」という定義が発展的でなければなりません。もちろん私が生まれて育った国が、まず「私の国」であることに間違いありませんが、より大きい見地から見たならば、私の父であられる神様がつくられた世界が、すべて「私の国」なのです。
(219-121、1991.8.28)
今まで歴史を、国家を、自分の国を中心としてそのようにしてきました。人間たちはそのように考えましたが、神様がいるとすれば、神様はどのように考えたでしょうか。神様いわく、「私はアメリ力の国だけを愛する!」と言われたのなら、その神様はアメリカの神様にしかなりません。その神様は、アメリカが滅びるときに滅びなければならない神様です。


しかし、神様はそのように考えません。人間たちよりも次元の高い考えをするので、家庭のために生き、国のために生きる思想よりもっと徹頭徹尾な世界のために生きる思想を神様は立てようとするのです。
(95-53、1977.10.23)


アメリカを立てた目的は、アメリカを中心に世界を救うことです。アメリカ人たちは、アメリカが世界を救わなければならないことを知らずにいます。世界の歴史上において、単一国家が中心となって宗教と文化的に世界全域を統一したことがたった1度だけあったのですが、それが正に第2次世界大戦直後のアメリカが全世界を占領したことではないですか。アメリカとカナダの大統領を中心とするアメリカは、全世界の貧しい国々を助けてあげる立場にいたのです。
(215-200 ~ 201、1991.2.17)


天宙主義というものは、世界を一つの家にしようというものです。それでは、この家には父母がいなければならないのですが、ここで天は父であり、地は母です。次に、兄弟がいなければなりません。
(36-296 ~ 297、1970.12.13)


「私達の家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し」、神様の理想は、世界がすべて一つの家庭になることです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」(注61)、自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべ
て幸福だということです。霊界に行ってみれば、全世界の人たちが1度に集まるのですが、国境がありません。五色人種が集まっています。誰が過去、現在、未来まで、すべて一つになることができる家庭的理念をもって準備しているかが問題です。
(260-191 ~ 193、1994.5.8)


7か国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ、天国に入れる。
御旨の道、天国


人は、空間の世界に立てば必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうしてこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆さんが上下に正しく合わせているか、左右、前後を正しく合わせているかによって、様々な姿になるのです。


皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱うとき、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭でも父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。


これと同じように、国にも国の主人を中心として、あらゆる家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界の万民を兄弟姉妹のように抱き、結局、一つの家庭モデルを成すのです。モデルは同じです。そして、私自身がそのモデルの中心です。自分がいる次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様まで進んでいかなければならないのと同じ道理です。
(287-19 ~ 20、1997.8.10)


このようにすることによって、神様が願われていた摂理の家ができるのです。その家が私達の国になり、私達の世界になり、私達の天地にもなります。


私達の家に行けば、五色人種がすべています。アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、その次にイギリス人、日本人、怨讐同士がいるのです。


昔の怨讐の感情を感じようとしても感じられません。昔のドイツ人、アメリカ人、イギリス人、日本人という、このような感情を感じようとしても感じられないのです。いくら怨讐だとしても、「ために生きる」愛をもてばすべて一つになります。
(106-83、1979.12.9)


自分の一つの民族を中心とする宗教をもって、世界的なみ旨を成就しようとするのはとても不可能なことです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のあらゆる慣習をすべて打破してしまい、世界人を中心とする社会、神様のみ旨と和合できる一つの世界を模索しなければなりません。


そこにあらゆる心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させることを断行しなければ、宗教として残ることはできないでしょう。


民族を中心とする幸福の理念を求めようとするのではなく、世界を中心とする幸福の理念を求めようとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心として見てみるときに現在がそのような時点だということを私達は知らなければなりません。自分を中心とする観念、自分の家庭を中心とする観念、自分の国家を中心とする観念では世界化が成されないのです。
(27-179、1969.12.14)


歴史は一つの世界を指向してきているので、個人、家庭、民族、国家のためのことはすべて過ぎてしまいます。神様は、皆さんに世界的な標準存在に接ぎ木してくださいます。それは永遠に残ることができる基準を望んで生きる皆さんにするためです。
(12-45、1962.9.10)






第21章 指導力とガバナンス


1.神様を畏敬する指導力


神様は、すべての人間の制度を主管される。したがって、指導の第一原理は、天法によって政府が運用されなければならないということである。指導者は、神様を畏れ、神様が受け入れられるやり方で国民を統治しなければならない。


指導力は公的信頼である、すなわち神様の代理人として発揮する力量だ。したがって、一つの国の指導者は、神様の霊的価値を中心として国家を運用しなければならない。国王や大統領は、神様の前に責任があることを認識しなければならない。神様は、自身の信頼を破った指導者には断固として罰を下される。また指導者は、神様が人間社会の出来事に同参できる高次の法を設定し、それにより運用する責任がある。




―宗教経典―


イスラエルの神は語り、イスラエルの岩は私に告げられる。(注1)神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
サムエル記下23.3 ~ 4(キリスト教)


ダビデよ、われはなんじを地上における代理者にした、それゆえ人びとの間を、真理によってさばき、私情に従って、神の道からなんじを誤らせてはならぬ。神の道から迷う者は、清算の日を忘れた者で、必ずきびしい刑にあうのである。
クルアーン38.26 (イスラーム)


天の聡明は、わが人民の聡明によるのでございます。天の明威は、わが人民の明威によるのでございます。上(天)下(民)に相通じております。敬わねばなりませんぞ、有土者よ。
書経2.3.3、皐陶謨(儒教)


統治者が至高至純であられる神を畏敬し、善政を施せば、彼に大きな報いが与えられるだろう。そうしなければ、応報が彼に戻ってくるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)


天の怒りを敬み、戯れはしゃぐことなかれ。天意の變(かわ)ることを畏れ、気ままに振舞ふことなかれ。天つ神明らかにして、汝とともに出でまさむ天つ神明らかにして、汝とともにゆきまさむ(注2)
詩経、254 板(儒教)


人間に属することがらを離れて超えて、神々のことばを選んで、〔あなたの〕すべての朋友とともに〔師の〕指導にしたがえ。
アタルヴァ・ヴェーダ7.105 ト(ヒンドゥー教)


もしあなたの王権が、名声のためでなく、また欲望のためでなく、法のためにあるならば、きわめて実り豊かであり、もしそうでなければ、値打ちのないものとなるでしょう。
龍樹宝行王正論327(仏教)
あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、私を治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。


同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなた達は二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。


銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイ
スラエルの中で王位を長く保つことができる。
申命記17.14 ~ 20(キリスト教)


この金輪宝はおまえの父の財産ではない。おまえが聖王として正しい法をひたすら懸命に行い、正しい法をなして、……法に依拠して、法をしっかり立て、法に欠けることなくそなえ、恭しく法を尊重し、考察し、法を第一とし、正しい法を守るべきである。さらに、法にもとづいて、王子や大臣、すべての官僚たちや国民、沙門、婆羅門、さらに鳥やけものに至るまでみまもり、いましめ
るべきである。みなをまもるべきである。
阿含経長部iii.60 ~ 61、転輪聖王修行経(仏教)


少数で、今日の無用な人々と呼ばれてはいますが、決して邪悪ではない哲学者たちによって、偶然にある必然性が、彼らが願おうと願うまいと、国を管理するようになります。国は国でこれに従うようにするまでは、または、現在の権力を掌握していたり、君主として統治をしている当事者たちや彼らの子孫たちに、何かの神的な感化によって本当の哲学に対する本当の愛の感情が不意に襲ってくるまでは、国も政体も、また個人さえも同じように、決して完全になることはできません。
プラトン国家6(ヘレニズム)




―み言選集―


皆さんは、自分のどこが不足なのかを知っています。自分がよく知っているのです。自分の神様は、自分です。自分の神様を知らない人は、神様を知ることができません。神様の代身の立場で影のようにいる私が、その神様を中心として相対的な対象体として完全に一つになってこそ、どこでもリードできるのです。そうであってこそ、顔を上げて堂々と語れます。(237-144、1992.11.13)


指導者は、神様を身代わりし、天倫を身代わりし、そのみ旨を地上に成し遂げようとする人です。
(11-172、1961.7.9)


世界の秩序は、政治主権が道徳的、霊的、思想的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。神様の理想に基礎をおく、宇宙の公法と通じる霊的、道徳的高次元の指導力が要請されます。政治力やそのいかなる力も、神様と天理の上に立つことはできません。
(359-321、2001.11.8)
本来は、政府の大統領から上下議員まで、すべてキリスト教の正常な合格者たちでなければなりません。神様がそれを願われるのです。議会や大統領までも神様がコントロールしなければならないということです。神様に尋ねれば、神様が「私は政教を分立する神だ。宗教だけのために生きる神だ」、そのようにおっしゃいますか。違います

キリスト教がすべて政教分離をしていけば、これから完全に滅びます。今からでも遅くないので、キリスト教全体が宗派主義を打破して完全に一つになり、UNから統一運動、一つになる運動をすれば、世界が生き得る道があることを、ここから見いだせます。宗派主義を打破し、キリスト教が一つになって運動をしなければなりません。UNも、キリスト教が押し進める中で、アメリカも、
キリスト教が押し進める中で、全世界が一つになる運動も、キリスト教が推し進める中で展開しなければなりません。
(93-81 ~ 82、1977.5.15)




今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的であったり、偏狭から来る傲慢と独善的な態度からは出てきません。真の指導力は、天のみ旨に私を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じたいと思う自己省察がなければならない時だと思います。


今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派利益にきゅうきゅうとするあまり、全世界の救援のために尽力できなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が要求されている時です。
(234-273、1992.8.26)


良し悪しを何で決めますか。何を標準とするのかというのです。それはアメリカの大統領でもなく、民主世界の責任者でもなく、共産党の責任者でもありません。歴史を支配し、この天地を動かしているある主人がいるとすれば、その主人だというのです。その主人に仮名をつけて、神様としてもよいのです。その名前は、何でもよいというのです。
(104-206、1979.5.6)






2.義なる指導力


指導者の必須的な資質の一つは、義であることだ。義は、自身の利益に関係なく、ただ公共福祉に献身することである。義なる指導者は、難しい問題に直面しても委縮しない。彼は、公的正義を立ててそれに責任をもち、自身のすべてのものを投与しながら、それを具現させるにおいて、どんな障害物も克服する者である。


彼は、公的な業務の成就において、自身はもちろん、自身の同僚にも犠牲が要求されることを知っている。彼は、決して同僚たちの苦痛を当然だと考えず、彼らが克服しなければならない逆境に対して格別に心配する。そして、自分自身も、その逆境に喜んで同参する。彼は、未来の世界のビジョンを提示し、現実的課題を果敢に遂行する。


個人的水準で義なる指導者は、正直性を担保としている。彼は、自身の職務から利益を追求せず、自身の利益めためにどんな形の公金も誤用しない。不正腐敗には何らかの毒性が含有されているため、彼は、どんな犠牲を払ったとしてもそれを回避する。




①正義に対する情熱と人間に対する熱烈な愛


―宗教経典―


神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン2.251 (イスラーム)


主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と。
出エジプト記9.1 (キリスト教)


ユダヤ人力過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはなら
ない。」
ヨハネによる福音書2.13 ~ 16(キリスト教)


お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー40 のハディース34(イスラーム)


そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター、ヤスナ48.12(ゾロアスター教)


私の任務は、使徒時代の任務と同じだ。私は不敬と不浄をなくし、正義で真実な統治と人道的で天国と同じ政権を樹立するときまで奮闘するだろう。必ずや! クライシュ族よ、私が誰なのか忘れたのか。私は彼らに信仰がなかったとき、彼らと闘い、彼らを敗北させた。そして今、彼らの暴悪で、不浄で、信仰がない統治を除去するために、彼らと闘うだろう。現在の私は、聖なる使徒として生存していたときの私自身より、もっと彼らがよくなることを願う。私の勇気と決意は減ってはいない。(注4)
ナフジュ・アル・バラーガ説教38(イスラーム)


先生がいわれた、「〔人を〕愛するからにははげまさないでおれようか。〔人に〕誠実であるからには教えないでおれようか。」
論語14.8 (儒教)


困難を分かち合わなければならない。私達の師であられるモーセが共同体の困難を共に分かち合ったことを私達は知っているからである。
タルムード、タアニート11a(ユダヤ教)


私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。、主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。私は、主が激しく怒りに燃え、あなた達を滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、私に耳を傾けてくださった。
申命記9.16 ~ 19(キリスト教)


私は人間の心を抑圧するいかなる形の暴政に対しても、最後まで抵抗することを神の祭壇に誓った。
トーマス・ジェファーソン(注3)


私は血、苦労、涙、そして汗しか捧げるものがありません。
ウィンストン・チャーチル




一み言選集―


本当の大将になれる人は、どのような人ですか。死が立ちふさがっても、困難があっても、それを消化しようとする人だけが大将になれるのです。涙を流し、食べることができなくても、行かなければなりません。涙を流すことができるその場面を見ても、行かなければならないのです。死ぬことがあっても、行かなければなりません。現在の私と関係のある利益はなかったとしても、未来の世界と神様と関係のある利益があるので行くのです。
(118-41 ~ 42、1982.5.2)


環境に引っ張られていくのではなく、私が環境を引っ張っていかなければならない。
御旨の道、指導者


善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、その彼を歓迎する人は、この地に多くないという事実を私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。


さらには、善の氏族が善の国家を慕い求めていくとすれば、より途方もない悪の勢力が反旗を掲げ、その氏族の行く道を妨げようとすることは間違いありません。また、善の国があり、善の世界を追求していくとすれば、この世界が善の世界になれないので、悪の国々がその善の国が行く道を協助するのではなく、四方から反対してくることは間違いありません。
(36-52、1970.11.15)


責任者になろうとすれば、
①立つべき立場を整えて、環境を主管しなければならない。
②み旨の目的に向かっていく立場において、先頭に立たねばならない。
③数においては負けても、全体を思うことにおいては勝たねばならない。
④食べる前にも眠る前にも、彼らを思い、祈ってあげなければならない。
⑤彼らが私のためにいるのではなく、私が彼らのためにいると思わなければならない。
⑥神が与えてくださったものの上に、私がプラスさせようという心がなければならない。
御旨の道、指導者


イエス様が復活なさったのちに弟子たちを訪ねられたのは、彼らと立てた誓いを彼らは裏切っても、天は裏切ることができなかったので訪ねていったのである。誓いが果たされるまで、責任者は責任を放棄することができない。
御旨の道、指導者


現在だけを考え、未来を考えるのを嫌う人を好む人がいますか。そのような国はなく、そのような指導者はいないと思います。「国の未来のためには、皆さん国民が耐えて苦労しなさい。苦労しなさい」、このように指導するのが国の偉大な指導者であることを知らなければなりません。皆さん、アメリカの青年たち! 先生の話が理解できますか。
(97-88、1978.3.1)


指導者は、涙がなければ指導することができない。押し追ってくる民族の苦難と試練を知って、ここに備えることのできる苦痛を与え、試練を与えて鍛錬させる者が、真なる指導者である。
御旨の道、指導者






②指導者の原理的生活と自己犠牲


―宗教経典―


先生がいわれだ、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い。」
論語4.12(儒教)


斉(せい)の景公が孔子に政治のことをおたずねになった。孔子がお答えしていわれた、「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として〔それぞれ本分をつくすように〕あることです。」公はいわれた、「善いことだね。本当にもし君が君でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、穀物があったところで、私はどうしてそれを食べることができようか。」(注5)
論語12.11 (儒教)


以後、神に最も近く、最も愛される者は、公正な統治者であり、神が最も遠く、最も憎まれる者は、好戦的で不浄な統治者である。
トゥハピット・アル・アフアジ1327 (イスラーム)
孟子はお答していわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり、口になさるのです。〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国の利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。


いったい、万乗(まんのくるま)の大国でその君を弑(あや)めるものがあれば、それは必ず千乗(せんのくるま)の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗(ひゃくのくるま)の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決してすくなくはない厚禄です。それなのに〔彼
らが〕十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも〔全部を〕奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もいないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうかこれからは、ただ仁義だけを、おっしゃってください。どうして利益、利益とば
かり口になさるのです。
孟子I.A.1 (儒教)


そなたは予に教えて予の志を導いてくれよ。もしも予が醴酒を作るとすれば、そなたはそれを発酵させる麹(こうじ)である。もしも味こまやかなあつものを作るとすれば、そなたは味つけの塩梅である。(注6)
書経4.8.1 ~ 3(儒教)


領議政になろうとする人は、必ずその心と目を準備しなければならない。目が清いとき、人は正直さと不浄さを知ることができる。心が公明正大であれば、そのとき人は正直さに向かい、不浄さを退けることができる。
朱熹(儒教)


君子は官職に就く前に、周辺の他のものではなく、その能力を深思熟考する。
朱熹(儒教)




―み言選集―


どのような人を人格者だと言うのですか。ある社会制度の中で中心的な位置に立つことができる人を人格者と言います。例えば、ある村に尊敬される人格者がいるとすれば、彼はその村の内外に暮らしている人たちに、生活的にも、精神的にも、中心的な作用をすることができる人です。そうであってこそ、彼が尊敬の対象になることができるのです。


それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心に国家が形成されるのです。その人格者を中心に国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されます。このように考えてみるとき、範囲が広い世界にもやはり一人の中心的な人格者がいなければなりません。
(29-125、1970.2.26)


木が大きくなればなるほど、根は地下に深く入っていく。根の浅い木は枯れるか、あるいは風が強いとき、引き抜かれてしまうだろう。指導者とは、根のような者である。
御旨の道、指導者


「国で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。
(113-111、1981.5.1)


犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子は、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が聖人の中の聖人になります。これが天理だからです。
(113-326、1981.5.10)


指導者の不足を補いはぐくんであげなさい。指導者を批評する者は、カインの王である。指導者の欠点を包み、責任をもとうとする者は、いつの日かアベルの立場に立つようになる。(注7)
御旨の道、指導者


1番の問題が政治問題です。政治家たちが詐欺を働いてはいけません。管理体制に移っていくのです。法によって保障された道を行かなければなりません。問題は何かというと、お金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分が願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。


それで、これから1番の問題とは何かというと、公金活用です。これが1番の問題です。その次には、人事措置です。この二つです。人事措置を自分の系列を中心として行い、民主主義や何々主義として野党と与党に分かれたのです。


ですから、国家の傷がどれほど大きいですか。今までしていたことに熟達していた人たちが、敗れて、流れていってしまうのです。そうでなければ、中間でへし折られ、そこからそれ以上は上がっていけません。その場で回りながら下がっていくのであって、上がってはいけないのです。政治がなくなって管理体制になるのです。すべて管理するのです。お金を分配して良くできるのかできないのか、ということを管理する体制になります。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)

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世界経典-73

2022年08月20日 13時10分22秒 | 学習

8.正義


不義と圧制は、神様と人類に対する犯罪の原因になる。人々はどこでも、正義のために戦おうとする。しかし、すべてのものを包容する神様の愛を体感する信仰者は、正義を増進させるために彼らの影響力を用いなければならない特別な責任がある。


経典は、虐待を受ける者たちが当然の正義を享受できていないのに、信仰者が彼らのそばでのんびりと座り、彼らを救済しないことを警告する。挫折の中で抑圧を受ける者たちが、自分たちを抑圧する環境に対抗して反乱を引き起こして武器をもつ前に、宗教者たちは、長い間不義を受けた者た
ちが義なる人生を享受できるよう当局に促し、社会的良心によって苦闘しなければならない。文鮮明先生は、たびたび自身が不義を体験したが、自分を迫害した者たちに決して復讐しなかった。その代わりに先生は、奉仕と犠牲の道がすべての側面の不義を克服する最も確かな道だという確信の中で、常に愛と忍耐、信念の道を選ばれた。
―宗教経典―


主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
エレミヤ書22.3 (キリスト教)


なんじら信仰する者よ、証言には、神のため公正を堅持する者であれ、たとえなんじら自身のため、または両親や近親のためでも。かれが富者でも、また貧者であっても公正であれ、神はなんじらよりも双方にもっと近いのだ。それゆえ私欲に従って公正からそれてはならぬ。なんじらがたとえ証言を曲げ、またはそむいても、神は、なんじらの行うことを熟知したもう。(注36)
クルアーン4.135 (イスラーム)


お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。アモス書5.23 ~ 24(キリスト教)
抑圧される者たちの嘆願を注意するのだから、彼はただ彼の当然の権利を最も高貴な神に嘆願する。神は権利をもつ者が正当なものを受けることを妨げられない。
バイハキ・ハディース(イスラーム)


わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。
ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)


主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と。
出エジプト記9.1 (キリスト教)


お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー40 のハディース34(イスラーム)
悲嘆にくれる者の苦痛を減らしてあげ、抑圧される者を助けてあげることは、多くの罪過に対する報いと贖罪の行為と同じである。
ナフジュ・アル・バラーガ語録22(シーア派イスラーム)


罪を犯したり、過った道に従う人を見れば、それが自分自身に対する罪であることを知らせてあげ、その人が善の立場に戻るようにしなければならない。


これは私達の戒めである。聖書では次のようにある。「同僚を戒めよ」。誰かを叱責するときは、そのことが人の間の問題であれ、神と人間の間の問題であれ、私的に平静心をもち、柔和な声で語らなければならない。そして、その言葉が彼のためになるものであり、彼が今後訪れる世の中で新たに生まれるのを助けるためだということを理解させなければならない。
マイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)




ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」(注39)
論語14.36 (儒教)


アニス・イブン・マラクが伝えた。使徒が「抑圧したり、抑圧されるあなたの兄弟を助けよ」と言われると、アニズが彼に尋ねた。「神の使徒よ! 抑圧される者を私は喜んで助けましょう。しかし、抑圧する者をどのようにして助けるのですか」。すると使徒が、「彼が過った行為をすることができないように制裁することによってである」と答えられた。ブハーリー・ハディース(イスラーム)


不正を目撃しても中立をとる人は、結局迫害者の側を擁護したのと違いはない。象のしっぽがネズミの口にぶらさがっているのに、その状況で私が中立を願ったとしよう。ネズミはあなたに感謝しないだろう。
デズモンド・ムピロ・ツツ(キリスト教)
悪が勝利するのに必要なすべてのことは、善の人としてするべきことではない。
エドマンド・バーク(注37)


正義は良心である。個人の良心ではなく、全人類の良心である。自分の良心の声をはっきりと認識する人たちは、普通、正義の声も認識する。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン(注38)


自分自身の首を絞めるもう片方の鎖を発見しなければ、誰も自分の友人の足首に鎖をかけることはできない。フレデリック・ダグラス(注40)


今のように、この世に依然として女性たちが泣く日があれば、私は立ち向かうだろう。今のように、「男性たちが監獄を頻繁に出入りする現実が続いても、私は立ち向かうだろう。世の中にいまだに大酒飲みが残っていて、道に貧しく行き場を失った少女がいれば、神の光なく暗闇で生きている人が一人でも残っていれば、私は闘うだろう。最後のその瞬間まで立ち向かうだろう。(注41)
ウィリアム・ブース(キリスト教)
―み言選集―


神様は私達を呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃいます。
(234-273、1992.8.26)


宗教者たちが、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じ、深い自己省察が先になければならないと思います。神様は私達指導者、特に宗教指導者たちを召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるのです。
(330-247、2000.8.18)


一日の勝利基準をもてない人がどのようにして天の国に行くことができ、1年の勝利基準をもてない人がどのようにして永遠の世界に入っていくことができるでしょうか。このようなことが問題にならざるを得ません。ですから、信仰者の生活において、永遠を夢見ていくことも重要かもしれませんが、それより重要なことがあるとすれば、それは今日の現実において、どのように悪を清算して善の旗手になるかということです。
(37-219、1970.12.27)


不義を見て、そのままにしておく者は、良心家ではない。
御旨の道、人格


この宇宙間において、最高の良心的中心が誰かというとき、誰ですか。神様です。しかし、いくら良心的だとしても、不義を見て、「ああ、良い、黙っていなければならない」と言いますか。不義を見れば、怒りが爆発するのです。


良心的な神様が不義を見て、6000 年間激憤し、闘いの場を準備してきたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。個人を中心として世界を滅ぼすこと、家庭を中心として世界を滅ぼすこと、氏族を中心として世界を滅ぼすことは、神様に親不孝することです。そのような一切を神様は赦すことができずに打ってきました。
そのように先頭に立って打たれるキリスト教を迫害したローマ帝国だったので、400 年間世界を席巻し主導的な役割をしてきたローマ帝国も、亡くなったイエス様によって400 年以内に屈服してしまったのです。
(51-44、1971.11.4)


先生は、「正義は闘って勝つのではなく、耐えて勝つのである」として忍耐してきました。今もそうです。あるときは全身が麻痺するほど憤るときがあります。しかし、「神様がそれ以上に憤慨しても耐えてこられたのだから、その息子になった罪で忍耐しなければならない」と思って耐えるのです。争ってはいけません。
(74-252、1974.12.31)


青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだすことができるのです。
(288-201 ~ 202、1997.11.28)
人間世界で真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何の問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決することができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。
(294-65、1998.6.11)








9.経済的正義


どの社会でも実際の次元で貧富の格差が維持される限り、正義の社会として認定されない。そのような格差は、市民の紐帯の結束を弱化させ、階級差別とそれに伴う偏見を引き起こすようになる。しかも、貧者より富者がすべての利点を享受する社会において、機会の均等と法の前の平等は、虚像にすぎない。


今日まで人類の知性人たちは、政治的民主主義に伴う経済的民主主義を探求した。多様な類型の社会主義が、人間本心による恒久的欲望に相応して現れた。


経済的正義は、盗むなという戒めから始まる。どろぼうのタイプには他人の所有物を盗む者だけではなく、さらに危険な形態として公共の収入源を奪取する権力者などもいる。このような問題は、何が「公的」なことであり、何が「私的」なことかに対する質問から出発する。
聖書によれば、神様は地球、空気と水、そして鉱物資源を創造し、イスラエルのすべての土地は、人間を僕として立てられた神様に帰属した。このような観点は、資本主義の私的所有概念に挑戦し、義なる経済体制は共有の概念を含まなければならないと提案する。


神様の次元で見るとき、全人類は神様の子女として一つの家族の構成員である。ところが、自身の兄弟姉妹がおなかをすかせているとき、富者が良心的にどうして寝ることができるだろうか。


初期のキリスト教徒は、すべての所有を共同体に従属させた。これは今日、ユートピアを指向する社会主義者の実験を通しても主張されてきた。文鮮明先生によれば、社会主義の成功の鍵は、慈悲
心と兄弟愛の源泉である神様の愛の実践にある。


それは、富者が自身の祝福を社会全体と共有するように刺激できる。そのようにすれば、人類社会には分配と共有の美徳のライフサイクルが持続的に公転されるはずだ。(第13 章10,「慈善」参照)
一方、共産主義は、富者のものを強奪して貧者に分配する社会制度を設定し、共同所有を制度化しようと試みた。共産主義は、これを実現するために暴力を正当化して残酷な蛮行を行いながら、無産階級の怒りを悪用した。文鮮明先生は、共産主義の理論自体が無神論的であり、宗教に敵対的であるために、このように卑劣な戦略を選択せざるを得ないと批判される。


私達が経済的不均衡を是正するためには、国家の政策に優先して、私達自身を省察しなければならないだろう。私達は、個人的利益のための経済行為より、人類全体の福利のための経済行為に主力を注がなければならない。


それは、人類が兄弟姉妹、すなわち神様の家庭の一員であるからだ。家族構成員が毎月予算を立てて収入と支出を決定するように、各村や近隣の人々が公正と平等の増進のための均衡的基盤の上で、自発的に収入と支出を分類することもできる。
進んで企業次元で雇い主と工場所有者は、労働者の努力を激励し、人間価値を省察する中で、彼らの共同生産物に対する適正な賃金を待遇しなけれ
ばならない。


国家家族という側面で、先進国家は、地球上の全人類は同等な生活水準を維持すべきだという目標のもと、開発進上国に援助と技術的支援を自発的に提供しなければならない。これを支持しながら、私達は所有価値より他の人たちに与える慈悲心を土台にした存在価値にさらに比重をおき、人間尊重の文化を育成しなければならない。文鮮明先生は、これが経済正義を実現する実際的な方法だと言われる。






①窃盗と公的財産の濫用


―宗教経典―


不正に孤児の財産を食い減らす者は、まことに、腹の中に火を食べる者である。かれらはやがて烈火に焼かれるであろう。
クルアーン4.10 (イスラーム)


盗んではならない。
出エジプト記20.15 (キリスト教)


村にあっても、林にあっても、他人の所有物を与えられないのに盗み心をもって取る人、かれを賤しい人であると知れ。実際には負債があるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、かれを賤しい人であると知れ。実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニパータ119 ~ 121 (仏教)


窃盗した男も女も、その手を切断せよ、これはかれらの行いに対する、神の見せしめである。(注42)
クルアーン5.38 (イスラーム)


災いなるかな、量を減らす者こそは、かれらは人から計って受け取るときは、十分に取り。人に計るときは、少く計量する者たちである。
クルアーン83.1 ~ 3(イスラーム)


次の行為、すなわち他の人がどろぼうするようにあおる行為、わいろをもらう行為、度を超した額の請求や不十分な支給を引き起こす行為は、どろぼうに含まれる。
アカランカタットヴァールタラージャヴァールッティカ7.27 (ジャイナ教)


あなたのものも真にあなたのものではないのに、あなたのものではないものを、どうしてあなたのものだと考えることができるのか。(注43)
タルムード、デレフ・エレツ・ズータ2.5 (ユダヤ教)
石油、硫黄、鉄のような金属と天然資源は、水、ガラス、塩のような公共財産である。したがって、いかなる統治者も、誰かにそれらに対する独占権を与えることはできず、もしそのようにすれば、それは誤ったことである。
シャーフィイー346.5 (イスラーム)


自然は万民が共に使用できるように万物が注がれている。神も万物が生産され、すべてが同じように食べることができる食べ物があるようにされた。そして、すべてが地を共同で所有するようにされた。自然は平等な権利を与えたが、略奪者たちがその公的権利を私的なものに変えてしまった。
ミラノのアンブロシウス聖職者の義務について1.132(キリスト教)


私的財産でも、それが絶対的で無条件的な権利まで保障してはいない。他の人たちが窮乏するとき、不必要なものを一人で独占することは正当化され得ない。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)
―み言選集―


宗教の教えは、この体が喜ぶことをすべて拒否しなさいというものです。体は、おなかがすけばどろぼうをしてでも食べなければならないと考えます。これに対して天は、「いけない。死んでもどろぼうしてはいけない」と言うのです。
(131-25、1984.3.11)


どろぼうがなぜ悪いのですか。私がやりたくて服を盗んだのに、何か悪いのでしょうか。そこには、その一つの服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)


家庭を中心として「ために生きる」ことができるところでは、ために生き、犠牲になり、愛さなければなりません。これが創造的理想です。これに反対になるものが堕落したことですが、悪の始まりは憎悪だというのです。アダムを尊敬してために生きなければならないのですが、「ために生きる」ことができなかったのです。それが何ですか。欺瞞です。犠牲にならなければならないのに、詐欺を働いたのです。その次に略奪しました。略奪と破壊、詐欺は何ですか。憎悪と詐欺に括弧して欺瞞を入れ、略奪に括弧して破壊とすればよいのです。このようなことをすれば、地獄に行くということです。
(310-199、1999.6.15)


公金を使うときは、先生が気をつけながら使っていた、それ以上の心で一銭でも自分の生命以上、手足を切って使うような痛みを感じながら使わなければなりません。そうでなければ発展できません。うまくいくように思いますが、うまくいきません。360 度入っていって最初の姿に合わせなければ、最後になってすべて崩れていくのです。詐欺に遭ったり、どろぼうされたり、自分が死んだりするのです。
(360-321、2001.11.18)




歴史的なすべての動きは個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するために、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。このように第3の舞台を利用することがよくあったのです。それが今までの歴史的伝統でした。


結局は、自分一人が成功するために「第三者を利用しよう」と考え、個人を利用し、団体も利用してきたという話です。そして、今では国まで利用する腐敗像が多くあります。それは滅びるのです。これが今までの歴史的方向でした。


人間が堕落して出発したその日から、サタンの血を受けたその日から、本意ではない驕慢を中心に間接的な舞台を利用し、自分の利益を渇望してきたのがその歴史的方向ではなかったかということです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 42、1971.8.13)




どこかに行って良いものがあれば、ビルから金塊が落ちてきたとしても、それを使えば横領です。自分勝手に使うことはできません。公的な公金です。先生は、皆さんが金品を持ってきても受け取りません。お母様を通して受け取ったとしても、私は使いません。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。あの国に行って、がちっと引っ掛かってしまうのです。
(342-300、2001.1.13)


自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。
(51-291、1971.11.28)


自分がもっているもの、あるいは自分所有の財産は、自分がしばらくの間管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。
(23-334、1969.6.15)




私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものです。これが「統一思想」の正道です。
(57-272、1972.6.4)






②共同財産の分配と経済安定


―宗教経典―


穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.9 ~ 10(キリスト教)


七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。


あなたの神、主は、あなたに与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。(注44)
申命記15.1 ~ 5(キリスト教)


この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。……五十年目はあなた達のヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。


この年は聖なるヨベルの年だからである。あなた達は野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。(注45)……もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。


もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。……


もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。


私はあなた達の神、主である。私はカナンの土地を与えてあなた達の神となるために、エジプトの国から導き出した者である。もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。
レビ記25.10 ~ 43(キリスト教)


文公は孟子のこの言葉をきいて、助法を行なおうと思い、その後、家臣の畢戦を使いとして井田(せいでん)法を詳しく質問させた。孟子はいわれた。「貴方のご主君が今やまさに仁政を行なわれようとして……ところで仁政とは、まず耕地の境界(さかいめ)を正しくすることからはじまるものです。境界が正しくないと、井田の土地の分け方が均分にはいかないし、つれて役人の俸禄も
公平というわけにはいかなくなります。それで昔から暴虐(むどう)な君主や貪慾(よくばり)な役人は、みなこの境界をいい加減にし〔て私利私欲をはかっ〕たものです。ところが、ひとたび境界さえ正しくなると、井田を分けることも俸禄を決めることも、いながらにしてたやすくできるのです。……どうか滕(とう))の国でも、郊外の遠く広いところでは助法によって九分の一の税
を〔役人が〕取り、郊内の近く狭いところでは〔井田を区切りにくいから、助法にはよらないで〕、徹法によって個人個人がめいめいに十分の一の税を納めさせるようにしたいものです。……一里四方の田地が一井(いっせい)で、その面積(ひろさ)は九百畝あります。これを井の字型に分けると、百畝ずつ九つに分けたことになります。その真中の一つすなわち中央の百畝が公田(おか
みのた)で、周囲(まわり)の八つを私田(こじんのた)とします。八家族でまず共同に公田を耕して、それがすんでからめいめいの私田を耕すのです。(注46)
孟子Ⅲ.A.3 (儒教)


信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
使徒言行録4.32 ~ 36(キリスト教)


それで、最善の政治的共同体は、中産層の市民によって構成されることと、中産層が大きく、可能であれば他の二つの階層より強い国家が、よく統治され得ることは明白である。
アリストテレス政治学4.11(ヘレニズム)


私有財産が存在し、すべてのひとがなんでもかんでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます。


もっとも、すべて最善のものが一つ残らず、極悪の人間の手にはいるところに正義が行なわれているとお考えになったり、ものがごく少数の人々のあいだで分配され、しかもその人々でさえもあらゆる点でぐあいよく暮らしているのではなく、残りの人々たるや、完全な貧困状態にある、というようなところに幸福な暮らしがあるとでもお考えになるなら別ですけれども。


そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇に値する諸制度のことを繰り返し想いうかべるわけです。彼らはごくわずかの法で社会をかくもよく治め、そのためにあそこでは徳能あるものが酬いられ、しかも物が平等に分配されるので、すべてのひとがなんでも豊富に持っています。……


腰を上げずに、ただ怠けている者がひとりもいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないように……


ユートピア人たちは夜も含めて1日を24 時間に等分し、そのうち6時間だけを労働にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとは午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時ごろに床につくわけです。睡眠は8時間とります。労働、睡眠、食事などのあいだにある時間は各人の自由裁量にまかされていますが、それはこの時間を飽食、無為に過ごすためではなく、労働から解放された時間を自分の好みに従い、なにかの活動でよく生かすためです。……


このように彼らはみな有益な職業にたずさわっており、しかもそのさいに労働はふつうよりわずかで足りるのですから、あらゆる物質が豊富にあるのも、またときには公道修理のために(もし傷んでいるならば)莫大な人手をかり集められるというのもあたりまえのことです。


しかし、そういう労働の需要がないときには、労働時間の短縮が公示されることもしばしばあります。というのは、役人は市民たちの意志に反して彼らを不要な労働につかわせたりはしないからです。その理由は、あそこの社会制度がなによりもまずつぎのただ一つの目標を追求しているということにあります。


すなわち、公共の必要という点から許されるかぎり、すべての市民ができるだけ多くの時間を、肉体労働から解放し、精神の自由と洗練のために確保できるようにすることです。精神の洗練にこそ
人生の幸福があると彼らは考えているのです。
トマス・モア、ユートピア1.2.4 (ヒューマニム)






―み言選集―


理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々が一つの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。


ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。
(269-156 ~ 157、1995.4.17)
自分の家庭を中心として標準にしてはいけません。その村なら村の上、中、下を中心として、そこに合わせて暮らさなければなりません。それでひと月に1度ずつ、私達の上、中、下の生活基準はいくらだとして、週の生活費はいくらで、経費はいくらで、消耗費はいくらなので、その基準を中心としてどこどこに何をしてどのようにしていくということを、会議して決定するのです。


翌月はその会議の結果によってどのようにしていくということを自動的に決めれば、そこに合わせて暮らさなければならないのです。


私達の生活方法を保障するのは常に法です。今月、月給をいくらもらう人が何パーセントだ、このように上、中、下によって基準が変わるのです。それを鉄則として守ります。それを間違うと、霊界の自分の生活が侵害を受けるのです。霊界はそのようになっています。


資本主義社会のように、お金を積み上げておいて暮らすことはできません。私はお金を積み上げていません。これから息子、娘と一緒に暮らすとしても、息子、娘の村の全体標準基準が3であれば、3を基準として4、5になるとき、自分たちが協力して生活基準を付加しなければなりません。100 軒が暮らしていれば、100 軒が分割して子供の多い家を助けてあげるのです。兄弟なのでおいと同じように考えなさいというのです。それで、今後村で結婚します。助けてあげた家、助けてあげた因縁によって連結されることによって平和の基台がだんだんと拡大していぐのです。
(324-254 ~ 256、2000.6.24)


政治の方向も、家庭理想を中心として、真の愛に合わせなければなりません。経済やすべての文化もみな、真の愛に合わせなければなりません。これからは、自分の思いどおりに進んでいけば間違いが多くなるのです。ですから、世界が一つにならなければなりません。


一つになるとすれば、経済的体制を中心として一つになるのであって、政治体制で一つになってはいけません。政治体制は、支配階級と被支配階級の基盤の上に立っているというのです。ですから、経済体制を中心とする管理体制に転換されてこそ、平和と統一の世界になるというのです。


家庭モデル世界化時代に入ってくるので、その次に何かというと、平準化時代になるのです。生活標準化と平和というのは経済問題です。ですから、国連がこれから経済をきちんと管理しなければ、人類は滅亡するというのです。闘争概念を中心とした、または優劣を中心とした先後関係をもつ、このような指導体制があってはいけないのです。愛を中心として、相対的関係として進んでいかなければなりません。
(303-192 ~ 193、1999.8.25)


神様の愛を完成した人間がつくりあげる理想世界においては、全体目的と個体目的は自然に調和するようになっています。人間には欲望もあり、愛の自律性もあるので、個人所有や個体目的は許されています。だからといって、無制限な個人所有、あるいは全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって、自分の分限に合った所有量を取るようになるのです。


特に、真の愛による万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺とするので、欲張ることや不正はあり得ないのです。同時に全体目的に反して地域や国家利益が強調されることはあり得ず、経済活動の目標は、利潤の追求ではなく、全体の福祉に焦点が絞られるのです。共栄主義は、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。
(271-77、1995.8.22)


霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治はないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。


真の愛というものは、政治、経済をすべて越えていきます。真の愛は何かというと、力やお金や知識やあらゆるものを越えていきます。真の愛を中心として何をするのでしょうか。生活の平準化です。政治的な手段、方法を拡大させるのではなく、生活拡大のための世界です。それが天上天国、地上天国なのです。
(303-193-194、1999.8.25)




③富者は自分の財産を国民に分かち合うべき


―宗教経典―


飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光はあけぼののように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
イザヤ書58.7 ~ 8(キリスト教)


施こし(サダクァ)は、貧者・困窮者・施こしの事務を管理する者、および心が真理に傾いてきた者のため、また身のしろ金や負債の救済のため、また神の道のために率先して努力する者、ならびにたび人のためのものである。これは神のおきてである。神は、全知者・英明者であられる。(注48)
クルアーン9.60 (イスラーム)


私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。……
着る物もなく弱り果てている人や、からだを覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。……神の下される災いを私は恐れる。その怒りには堪えられない。
ヨブ記31.16 ~ 23(キリスト教)


邪悪な人間が繁栄し、正義の人たちがそうなることができない。そのような状況が継続するならば、
義人は挫折してしまう。ごく小さな針のように、偽りの行為の最初はそのように始まる。それが独楽のように大きく々る日には人を殺すようになる。
ヨルバ族の歌(アフリカ伝統宗教)


最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事の手を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。また、その人の同業者となって働くことだ。そうすれば、その貧しい者は、これ以上公的な補助に頼らず、手助けを通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。




レビ記25 章35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。」
アイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)


雇用者と非雇用者は、法則によって自由に互いの同意を導き出さなければならない。特に賃金においてはそうである。そうでなければ、人間相互間に行われるそのいかなる取引よりも旧時代的で、不平等な関係が成立し得る。言い換えれば、報酬を策定するときは、質素で誠実な賃金労働者の家庭を扶養する分、つまり彼と妻、そして子供たちが安定した生活を維持するように策定してあげなければならない。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム(キリスト教)


富がより平等に分配されたとき、国家が繁栄する。
フランシス・ベーコン(注47)(ヒューマニズム)
―み言選集―


問題はお金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分か願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)


水も回っていかなければなりません。運動しなければならないのです。暑ければ冷たくならなければならず、冷たければ暑くならなければなりません。暑い所が豊かで、冷たい所が貧しければ、暑い所が冷たい所に移動しなければならないのです。


それは自動的に移されます。お金のある人は自動的に村の貧しい人たちに責任をもち、すべて一緒に生活できなければなりません。このようなことが伝統になれば、そのような村はお互いに助け合うのです。そうすれば、お互いに世話にならないようにしようとします。お互いに助けようとするので繁栄するのです。
(253-238、1994.1.30)


歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。


神様の愛とは何でしょうか。それは最上級の人たちとも一緒にいられ、また最下級の人たちとも一緒にいられます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最上から最下に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。そして、いつ、どこでも同化します。


また、神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最下のところにいても最上の人を愛することができ、最上の立場にいても、最下の立場にいる人を愛することができるのです。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)


皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。


企業の所有者になることができる立場は父母の立場であり、非雇用主の立場は子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるため
に、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)




アメリカのような自由世界、民主世界は、労働組合のゆえに滅びるのです。労働組合です。労働組合の解決方法を話してあげます。統一教会の団体で労働組合があるものは、私が捕まえてつぶそうと思います。労働組合は問題ないというのです。労働者と農民に労働組合があるのと同じように、株主の労働組合をつくるのです。(注49)


二つ(労働組合と株主組合)が一つになり、「自分たちの家庭の妻や子供たちをきちんと食べさせていかなければならないので、去年の生産量よりも今年はもっと増やさなければならない。そのために、私達株主労働組合とあなた達労働者労働組合が一緒に競争しよう」というのです。


このようにして生み出した利益は、3年間主人に与えずに自分たちで分け、労働者の労働組合が一
生懸命にしたら、その分の何パーセントかを多く与え、株主の労働組合が一生懸命にしたら、その分多く与えるのです。このようにすればけんかするでしょうか。西洋社会でこのような考えをする人はいません。
それができないときには、レバレンド・ムーンが、「宗教連合の世界組織よ、集まれ! 全世界の祝福家庭、集まれ! 今から私達で宗教ユニオンをつくろう」と言えば、宗教ユニオンをつくれます。そのようにすれば、統一教会の人たちは、一生涯奉仕しようとするので、給料は3分の1も必要ありません。


「会社が倒れそうなので、他の所で稼いででもここで働く」、そこまでしなくても、「もらった給料の30 パーセントを会社に捧げて働く」と言えば、労働組合はどのようになるでしょうか。仕事をしないでもらうものをもらうことができますか。仕事をしないのにもらおうとする人は、どろぼうと同じです。そのような人たちは、先生の前に立てません。
(342-288 ~ 289、2001.1.13)


新しい時代、21 世紀は共義の時代です。新しい時代、21 世紀は物質が牛耳らない、精神と霊の時代です。新しい特代、21 世紀は、神人一体になって生きる時代です。新しい時代、21 世紀は、他のために生きることが自分のために生きるより、もっと永遠な価値があることを悟って生きる時代です。利己主義が色あせ、共生共栄共義の利他主義がついに凱歌をあげる時代、それがまさしく明けてくる21 世紀なのです。
(219-120 ~ 122、1991.8.28)






④市場資本主義の徳目:正直な労働と「見えざる手」


―宗教経典―


私達は、夕食を精肉店の主人や、醸造場の主人や、パン製造業者の慈悲に頼らず、彼らの利益に対する関心に期待する。私達は、人類愛に力点を置いて扱わず、彼らの自己愛に力点を置いて扱い、私達は私達の必要性に対してではなく、彼らの利点に対して話をする。
アダム・スミス国富論


すべての個人は、必然的にその社会の年間収益を自分ができるだけ大きくするために努力する。彼は一般的に、実に決して公益を増進しようともせず、彼がどれだけ多く公益を増進しているのかも知らない。……彼はただ、彼自身の利徳を意図する。そして、彼は多くの異なる場合のように、この場合にも一つの目的を増進するよう、見えない手によって導かれる。
アダム・スミス国富論
私は、自分ができる限り早く財産を集めるよう、すべての人を自由にしておくのが最善だと主張します。ある人々は裕福になるでしょう。私は、人が裕福になることを妨げる法を信じません。それは、有益であるよりはより害でしょう。……


私は、すべての人が自分の与件を改善できる機会を迎えることを願います。そして私は、黒人もその資格があると信じます。彼が前を見つめ、今年
と来年に雇用される労働者になることを願うのなら、あとからは自分のために働くことができ、最後には自分のために働く人を雇用するようになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注50)




―み言選集―


私はお金を稼いでも、私のために稼ぎません。自分の父母のために稼ぎません。世界のために稼ぐのです。世界に行こうとするので、教会で必要であれば教会のために使い、国で必要であれば国のために使います。国が生きる道は、世界が生き残ることができる道を行くことなので、世界のために使うのです。その,ように行かなければなりません。
(113-52、1981.4.26)


お金はどれほど力が強いですか。お金はどれほどよいですか。そこに真の愛さえあれば、その真の愛をもった人がもっているお金は、お金自体も喜びます。真の愛を中心とする人が力をもつのならば、そのような力をもってもよいのです。


なぜかというと、その力は世界を保護しようとし、天と地を保護しようとするからです。その知識はこの宇宙を便利にしようとします。私のためにするのではなく、世界のために用いようとするのです。真の愛を中心とすればすべてのことが解決します。


あらゆる力が堕落したこの世界で不平を言います。すべてのお金が、「真の人に出会わなければならないので、出会うようにしてください」と言うのですが、それをすべてあの悪の権勢、世界を支配する人たちが妨げてしまったのです。知識も、力も、それを願っているというのです。


ごの世の中で最も貴いことは、お金を集めることでもなく、知識をもつことでもなく、力を求めることでもなく、真の愛を求めることです。これが問題ですが、この堕落した世界では真の愛を知らないのです。
(161-300 ~ 301、1987.3.1)


問題は何かというと、南北の格差です。白人と黒人の問題も同じです。白人は裕福に暮らし、黒人は貧困なのです。貧富の格差があるというのです。このように問題になっている現実において、白人たちが自分の財産を売り、自分のあらゆるものを売って、黒人たちを助けるために荷物をまとめて黒人世界に訪ねていく運動が起きれば、新しい世の中が訪れるのを知ることができます。


また、黒人たちは、「私達が間違ったために冷遇され、貧しく暮らしたのであって、白人たちが間違ったのではない。私達が一生懸命に白人たちについていき、白人たちに負けないように働こう」と考える運動が起きなければなりません。
(161-19、1987.1.1)






⑤共産主義とその誤り


―宗教経典―


今まで存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史だ。……共産主義者たちの理論は、私的所有の撤廃という一つの文章に要約できる。……支配階級をして共産主義革命の前にぶるぶると震えさせよ。プロレタリアが失うものは鎖だけであり、得るものは世界全体だ。全世界の労働者よ、団結せよ!
カール・マルクス共産党宣言


共産主義社会のより高い段階で……。そのとき、ただ有産者(ブルジョア)権利の狭い水準が完全に後ろに押されるようになり、社会は次のような表題で説明できるだろう。「各自は能力に応じて、各自は必要に応じて!」。
カール・マルクスゴータ綱領批判


共産主義は、自然法に反する理論である。共産主義を通して成し遂げようとするものは、すべての私的財産権と、その上に人間社会までも破壊する結果を招くようになるだろう。
教皇ピオ9世(注51) (キリスト教)


プロレタリアの使命は信仰的綱領と同じだ。マルキシズムは、科学と政治学を飛び越え、信仰であり宗教でもある。マルキシズムの力はこの信仰と同じ基盤の上から出てくる。
ニコライ・ベルジャーエフロシヤ思想史(キリスト教)


いかなる矛盾もなく社会奉仕だけの目的で、政治参与を通して信仰を実践しようとする人たちは、注意する点がある。彼らは、人間に関する定義と信仰に反する急進的で物質主義的理念体系を攻守してはならない。マルキシズムが個人と歴史の超越性を解釈する論理と無神論的物質主義、暴力の弁証法を主張する内容から無制限の個人自由を強調する自由主義の思想まで、このようなすべての理念を固守してはならない。
教皇パウロ6 世(キリスト教)


社会主義は……だんだんとキリスト教の伝統で擁護してきた真理と近づいている。真実に社会主義の進歩は、時としてキリスト教改革者たちの要求に相当に近いことを否定できない。(注52)
教皇ピオ11 世クワドラジェジモ・アンノ(キリスト教)




―み言選集―


歴史始まって以来、人類は上下間の格差を解消しようとする方向に進んできたことは明確な事実です。このような潮流の中で最も代表的な例が共産主義です。共産主義思想は、人類社会において階級間の搾取をなくし、階級のない社会を建設しようというものです。


しかし、共産主義の最大の問題点は無神論であり、神様を否定した土台の上でそのような理想世界を建設しようとするところにあります。また、共産主義は、一部の独裁者の私意によってすべてのことを行おうとするところに問題があるのです。
(115-170、1981.11.10)


共産世界では、「労働者、農民が主権者だ」として、悲惨な人たちを英雄視するのですが、このような面を見れば民主世界はかないません。ですから、もし神様がいるとすれば、民主世界を滅ぼしても共産世界を残すでしょう。神様がいるとすればです。共産世界が民主世界より優れているというのです。ところが、「神様はいない」と言うので、これが問題です。「神様はいない」と言っ
ているのです。
(130-103、1984.1.1)


今日、共産主義者たちからは、「おお、資本主義世界の農民を解放しなければならない」という声が高らかに聞こえてきます。その解放の声が果たして、神様が人類歴史を通して完全に主体となって善の側で主導するある特定の宗教、その主力となる宗教人たちが願う解放の基準と一致する、そのような喚声であったのかといえば、違うのです。


この共産主義は、唯物論に立脚した世界の解放を夢見るのです。これは、神様までも否定して、宗教は悪であると烙印を押してこっぱみじんにし、その世界では形態すらもなくしてしまうのです。このような立場から解放を主張するのを見るときに、これは、理論的な見地から見ても一致できないのです。そればどこまでも神様の前に正反対となる対立的な解放に違いないために、悪なる悪魔の神がいるならばそれが旗手となり、神様が願う宗教的旗手の前に正面から世界的攻勢を加えてくるのです。それが今日の共産党であるという結論を、そのような観点から下せます。
(85-230 ~ 231、1976.3.3)


共産党は、「労働者よ、団結せよ!」というモットーをもっています。私達も一つのモットーをもっています。「すべての良心のある人々よ、一つになって団結しよう!」と言うのです。共産党は中上流階層の人々を否定しますが、私達良心家は、三つの階層を団結させ得るでしょう。これが私達の闘いの場です。私達は、すべての人、すなわち黒人、白人、黄色人をみな抱くでしょう。私達がそのような人々を動員して共産主義者たちに打ち勝つ時、その時に真の平和の世界が来るのです。
(52-136、1971.12.26)


皆さんが楽しむために御飯を食べれば、穀物、あるいは野菜、魚などもすべて楽しく思うと言います。皆さんは楽しいですが、その食べ物たちも楽しく思うのですか。これが問題です。ここで歴史的な問題、上下関係の調和や強者と弱者の調和を求める道がないというのです。


ここにいわゆる弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見ることができます。へーゲルのような人は、そのように見たのです。これを解決できなければ、歴史のあらゆる理想世界や、上下関係の構造的組織をもった何らかの組織体の平和や理想郷というものを見いだす道がないのです。強者は弱者を無視し、奪おうとし、冷遇し、どんな扱いをしても罪ではないと考えています。
(132-142、1984.5.31)


共産主義の経済体制は国家のためのものであり、民主主義の経済体制は個人のためのものです。妥協点を探してその隔たりを埋めなければなりません。妥協点を探して発展させていく国家が理想国家になるのであり、その国家が理想的な経済体制をもつようになるのです。
(52-267、1972.1.2)


⑥地球化と資本の平準化


―宗教経典―


人類は、互いを一家族として結んでくれる結束力がある。それゆえに、富裕な国家は貧しい国の国民が最小限の人権も享受できない、貧困と絶望、空腹の現実に処しているとき、無関心でいることはできない。諸国家は、だんだんとより全世界的に相互依存を図っている。


しかし、社会経済的不均衡が依然として存在する限り、永久的平和は維持できない。生産品、特に食糧を必要以上に過剰生産する諸国家は、正義と人類愛の名で、多くの人が飢餓で苦痛を受けている国家に援助を施さなければならない。人の生存のために必要な物を浪費したり、捨てたりすることは、人類愛を蹂躙する仕打ちである。


しかし、飢饉が時として実際にそうであるように、その国の経済の原始的状況に起因しているとすれば、緊急援助自体が究極的解決策になり得ない。永久的な治療法は、すべての方法を動員して、その国の国民たちに、科学、技術、専門的訓練をしてあげることだ。そして、近代化されたやり方で経済発展を加速化するために必要な資本を流通させてあげることである。……


開発途上国は、あきらかに国ごとに独特な特性がある。……。その中の一つが、彼らの由緒ある伝統と慣習だ。したがって、彼らを援助するとき、先進国は彼らの個性を尊重し、理解しなければならない。援助をしてあげるときにも、自分の国家の事例をこの国に適用させることに対して了解を求めなければならない。経済先進国が避けるべき、もう一つの誘惑がある。技術、財政的援助を通して貧しい国に政治的支配権を得ようとする考えが、巧妙に仮装された……


このような新しい形態の帝国主義は、世界が最近になって抜け出した旧時代的な帝国主義を再び追い求めるものである。そのような行為は、国際関係に悪影響を及ぼすだけでなく、世界平和も危険にさらすことになる。
技術的、財政的援助をしてあげるときは、その国に対する政治的支配を念頭においてしてはならない。代わりに低開発国が社会的、経済的成長を成し遂げられるよう助けることに目的を置かなければならない。
教皇ヨハネ23 世マーテル・エト・マジストラ(キリスト教)


自由放任の経済原則は、時として独占市場を形成してきたため、貿易関係はこれ以上この原則にばかり依存することはできない。自由貿易は、それがただ社会正義に符合したときにのみ正当化される。経済体制自体を否定するのではない。ただ、競争は一定の限界内で公正で正当になされなければならず、そして真正な人間の努力によって定着しなければならない。


現在は、貿易取引において開発途上国と高度に先進化した国家の間に、全体的に、そして行為の自由において、大きな不平等が横たわっている。国際貿易がより人間的で道徳的であるためには、社会正義の次元で参加国に機会が平等に与えられなければならないだろう。


幅広い次元での国際的協議を通して、価格規制と生産設備の拡充、初期段階の発展産業に対する恵沢などの規範を設定することができる。このようにしたとき、国際貿易においてより大きな正義を構築しようとするこの試みが、開発途上国に大きな恵沢をもたらし、彼らは持続的な結果物を創出できるようになることは明白ではないだろうか。
教皇パウロ6世ポプロールム・プログレッシオ(キリスト教)








―み言選集―


先進国にはお金がたくさんありますが、そのお金は誰のものですか。神様のものです。権勢は誰のものですか。神様のものです。知識は誰のものですか。神様のものです。それでは、神様は誰のものですか。万民のお父様です。ですから、そのお父様の人格、経済、権勢、真理はすべて万民のものです。それで最近になって民主主義が出現するようになったのです。


民主主義で主権は民のもの、すなわち万民のものです。ですから、民が主権を左右しなければならないといいます。ところが、今日、主権が民にあるといいますが、実際その主権は財閥たちがもっています。今アメリカはおなかをいっぱいにしていますが、一人だけ裕福に暮らすようにはなっていません。


すべて分かち合ってあげなければならないのです。天理がそうなので、アメリカは外国に援助してあげなければなりません。そうでなければ生きられません。アメリカがもっているすべてのものは、アメリカだけのものではなく、世界のものです。いかなる学識も先進国だけのものではありません。世界のものです。
(13-27、1963.10.16)


今日のアメリカがどのようにして世界的に信望を受ける国になったのかというと、第2次大戦以降に戦争に敗北した国々、すなわち怨讐の国にも援助してあげたからです。つまり、神様を身代わりして与えたので、アメリカの地位が高まったのです。しかし、これがだんだんと減っていくことによって落ちていくのです。
(26-53、1969.10.18)


皆さんが食べる食べ物は、皆さんのものですか。それはアメリカのものですか。宇宙のものであり、万民のものです。自分を中心としてこれを互いに自分だけがもとうとしています。すべてのものが均衡を成して統一された環境に存在するのです。空気がこのくらい密集していれば、これがいつも密集していますか。ないところがあれば自然に満たしてあげるようになっています。


アメリカのここが真空状態になったとき、ほかのところから空気が来ます。水もそうです。水も流れていきながら、空いているところをすべて満たしてあげていくのです。食べ物を食べるのも、満たしてあげることです。おなかがすいているので満たしてあげることです。そのようなものを吸収しなければなりません。


今2000 万が飢えて死んでいくのですが、アメリ力は消費があまりにも多いのです。これは宇宙の法則に違反します。アメリカがいくらうまくやろうとしても、思いどおりにやってみても、うまくいきません。
(247-94、1993.4.25)


自分の国だけのために進んでいけば滅びます。ほかの国を自分の国の経済復興だけのための足場と思って搾取していく国は、滅びるというのです。アメリカがほかの国を経済的に後援してあげ、そこに加えて商売をしようとするので、アメリカが今まで援助をしてあげても非難される国になったのです。
(26-294、1969.11.10)


今、アメリカがしなければならないことは何でしょうか。自国の経済力を動員して最も貧しい国を訪ねていき、父母の心情をもって与えなければなりません。そのようにしなければ滅びます。父母の心情をもって僕の立場で心から、涙を流しながら与えなければならないのです。


涙を流す人たちに対しては、涙を流す立場に立って与えなければなりません。与えるときにも、今までもっていた権勢の立場で与えてはいけません。それでは反発が起きるのです。誰が先に涙を流さなければなりませんか。受ける人が先に涙を流すのではなく、与える人が先に涙を流さなければならないのです。それが父母の心情です。


ですから、与える人が涙を流して与えなければなりません。そのようになっているというのです。
それでは、与えるときは、どのように与えなければなりませんか。涙で与えなければなりません。あざ笑って与えては滅びます。これを知らなければなりません。アメリカが時々援助していますが、権勢をもって与えれば滅びるのです。それが原則です。


大韓民国もそうです。アメリカに対して、「あなた達は援助したといばっているが、いつかあなた達がもらってみなさい」と言ってはいけません。与えるときは、涙で与えなければなりません。涙で与えることができる人になれなければ、兄弟ではなくお互いに怨讐だというのです。
(13-27 ~ 28、1963.10.16)


技術平準化、政治平準化、経済平準化をしないために、先進国が後進国に教えてあげず、かえって今まで搾取してきました。それは世界のものであって、アメリカのものではなく、ドイツのものではないのです。早く早く平準化、平準化、平準化させなければなりません。これから中国に、そのような平準化をさせたとしてみてください。中国の国民たちがどのように思うでしょうか。そうしてこそ、地上天国が早くできるのではないかというのです。
(135-107、1985.9.30)


私達の真実の奉仕の基準である絶対的価値の水平的側面に目を向け、世界の欠点をまた点検してみなければなりません。例えば、物質的技術的な面で祝福を受けてきた国々が、そうではない国に行き、喜んでこれを分かち合おうとするまでは、世界平和というのは決して成し遂げられません。


科学と技術の恵沢は、全人類のためのものです。そして、それは分けて共に享受されなければなりません。すべての国家は、国民の福利のために技術を利用する公平な機会をもたなければならないのです。これは、あらゆる国家の選手たちがコーチの指導を受け、一つの運動場で競争する道理と同じです。


そのようにしなければ、先進国はそのようにできない国々のねたみと嫉妬の対象になるのです。統一運動は、技術における祝福をすべての国に分けてあげ、開発途上国の経済的独立の必須条件である自らの工業基盤を立てるのを助ける役割を担うようになりました。
第17 次ICUS 基調演説、1988.11.25


いまだにこの世界には、多くの所に貧困があり、飢餓があり、不平等があまりに深化しています。これに対する宗教者の責任は、とても大きいと言えるでしょう。私は過去20 年間、海洋資源開発のために直接先頭で船に乗り、多くの資源を投入しながら努力しました。高たんぱく質の水産物パウダーを開発することに成功し、人体に大切な製品を継続して研究開発しています。このすべての成果は、アフリカなどの地に効果的に支援されています。


地球上の飢えの惨状をなくそうという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、発展途上国を支援することに各宗教が互いに連合、協力することができなければなりません。各宗教が先導するこのような人的、物的投資を通して真の愛が実践されれば、世界に希望を与えると見ています。
(271-71 ~ 72、1995.8.21)


行政府がウルグアイ・ラウンドを中心として、世界のあらゆる弱小国家に対して余剰農産物をすべて売ろうと固執しています。それで、私が主張することは、「農産物を自由流通するのと同じように、人間の自由流通を許諾せよ」というものです。国境を撤廃しなさいということです。これを強制すれば、アメリカは立つ場がなくなります。


それで、今後、統一教会の教会員たちのもっている所有物と財産をすべて売らせ、アフリカの人のための僕になるよう送り出さなければ、アメリカは滅びると見ているのです。アメリカの人は、そのようなことを嫌います。仕方なく統一教会の教会員にそれをさせようと思います。それで、そのような行動をするようにして、滅びるアメリカに均衡を取らせることによって、継続して存在することが可能であることを知らなければなりません。
(261-309、1994.7.24)


10.和合と共同体


すべての宗教は、自らの信仰の和合に対するビジョンをもつ。今日の私達は、あらゆる人種、宗教、そして国籍を含む人類全体の和合に対する、巨大なビジョンを念願している。しかし、共同体形成のための原則原理だけが残っている。すべての宗教は、普遍的教えを中心として新しい社会を形成するため、分裂した様々な集団を統合する和合運動を始めた。世界経典はそれに対する指針を提示している。


文鮮明先生は、家庭がすべての社会的和合の基礎であるため、この和合は家庭を洞察しなければならないと教える。この節の様々な章句は、人体の多様な器官が協力して自身の機能を遂行するため、これを比喩として用いている。これは、調和がとれた共同体の中で、互いに支持しなければならない多様な社会的役割を表示するためである。


人体は、最も低いものから最も高いものまで、すべての部分の適切な機能遂行に依存している。このように真実の共同体において、すべての人は、栄誉ある地位をもっている。(注53)

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世界経典-72

2022年08月20日 13時08分28秒 | 学習


6.平等


すべての宗教経典は、貧しくても裕福でも、黒人でも白人でも、男性でも女性でも、束洋人でも西洋人でも関係なく、すべての人が平等だと宣言する。しかし、この高貴な理想は実際とは全く異なる。私達の制限された文化的見解から、異質民族を差別し、偏見をもって相対する傾向がある。平等原則を宣言する民主社会でも、人種的、文化的差別はいまだに広まっている。


平等の基礎は何か。第1に、平等の基礎はアブラハム系統の宗教の信仰者はみな、創造主、神様から創造されたという点、アダムとエバを父母とみなすということである。第2に、すべての人を平等に扱うべきだという倫理的法的規定である。第3に、人種や階級に関係なく、すべての人は同じく、悟りと自我実現を成就できるということである。


しかし、文鮮明先生の観点によれば、これらは真の平等を成すための十分条件ではない。文先生は、真の平等は神様の愛と利他的人生に基づいた実践が基礎にならなければならないとされ、思想、人種、文化を連結する最善の方策は、すべての偏見を愛の炎で燃やせる超人種的、超文化的な祝福結婚だと主張される。




①共通父母、共通人類、そして神的可能性による平等の土台


―宗教経典―


我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。
マラキ書2.10(キリスト教)


人びとよ、なんじらの主を畏れまつれ、かれはひとりからなんじらをつくり、また同類のその配偶をつくりたまい、かれら両人から、無数の男と女をふやし広めたもう方であられる。
クルアーン4.1(イスラーム)


人間たちの中にただ一人(アダム)だけが平和のために創造された。したがって、誰も「私達の父があなたの父より偉大だ」と言うことはできない。ミシュナ、サンヘドリン4.5(ユダヤ教)


そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28 (キリストト教)


私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。
バガヴァッド・ギーター9.29 (ヒンドゥー教)


高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひぃ(注20)
おふでさき13.45 (天理教)


先生がいわれた、「教育〔による違い〕はあるが、〔生まれつきの〕類別はない。〔だれでも教育によって立派になる。〕」
論語15.39 (儒教)


実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。
バガヴァッド・ギーター9.32 ~ 33(ヒンドゥー教)


われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(注21)
法句経396(仏教)


五祖は言われた、「お前は嶺南の人間で、そのうえかつりょうだ。どうして仏になることができようか。」そこで私は申し上げた、「人間には南と
北の区別がございますが、仏性にはもともと南北の違いはございません。かつりょうという身分は和尚と違いますが、仏性にはどんな差別がございましょうか。」
六祖壇経1(仏教)


人間は互いに固有な体型と皮膚の色、歩き方、そして声をもっているが、また、もって生まれた長所と能力が互いに異なるが、結局、すべての人間が最初につくられた先祖から出てきた子孫だという事実には疑う余地がない。
アウグスティヌス神の国15.8(キリスト教)






―み言選集―


皆さんは、アメリカ人でも、イギリス人でも、ドイツ人でも、黒人でも、白人でも、黄色人でも、すべて一つです。完全に一つです。
(132-130、1984.5.27)


誰もが同等に神様の愛に同参できる、そのような道があることを願うのですが、そのような道とは神様を中心とする家庭を成し遂げることです。
(97-266、1978.3.19)


心情的な世界は、平等である。
御旨の道、心情


人は、優れていても、劣っていても、その母親が生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することなど、あるはずがありません。
(33-164、1970.8.11)
人は平均的なものを願います。同じものを、水平を願うのです。それでは、あらゆる人、あらゆる環境が異なるそのような人たちを同等にできるものとはいったい何でしょうか。愛です。愛らしい赤ん坊には何もありません。言葉も話すことができず、何の価値もないようですが、見ればかわいいのです。見ればキスしたくなり、このように手で触れたくなるのです。赤ん坊も喜びます。そこには高い、低いがありません。どこでも、すべて水平です。どこでも、平均化させ得る能力があるのです。
(254-208、1994.2.13)


西洋人が見て泣く場面を、東洋人は見て泣きませんか。西洋人が涙を流す場面は、東洋人が見ても涙を流すのです。韓国人が見て涙を流す場面は、怨讐である日本人が見ても涙を流すのです。情的な世界は統一されています。お母さん、お父さんが子供を愛するにおいて、韓国の父母は愛さないのに、日本の父母は愛しますか。そうではないでしょう? 統一されているというのです。
(41-331、1971.2.18)
②人種平等


―宗教経典―


なんじらは見ないか、神は天から雨を降らせたもう。それでわれは、色とりどりのくだものを実らせる。また山々には、白や赤の縞があり、その他多くの色合いで、真っ黒いところもある。また人間も鳥獣家畜も、同色異色とりどりである。神のしもべのうち、知識のある者のみ、かれを畏れる。
クルアーン35.27 ~ 28(イスラーム)


エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは、神に向かって手を伸べる。
詩編68.32 (キリスト教)


イスラエルの民たちよ、あなた達が私にとって、エチオピアの民と何が違うのか。主の言葉であられる。イスラエルをエジプトから導きだしたのが私なら、パレスチナの民をカフトルから連れ出してきたのも私ではないか。(注22)
ミシュナ、アヴォート9.7 (ユダヤ教)
使徒がアブ・トゥルに、「アブ・トゥルよ、お前は彼らより公正な者であるのに、黒人や黄色人から、好感を得ることができていない」と言われた。
アルガマ・アルサガイル3.2740 (イスラーム)


栄光の主であられる神は、アーリヤたちと賤民たち全員に属している。(注23)
リグ・ヴェーダ8.51.9 (ヒンドゥー教)


小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についでも、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。


身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
スッタニバータ603 ~ 611(仏教)


彼らは、一方では躊躇し、好奇心で、または同情心で私を見つめ、私に近づいてきた。そしてそのとき、「問題になることがどのように感じられるのですか」と直接的に言う代わりに、「私は、私達の村で卓越した有色人を知っています」、または「私はメカニックスヴィルで戦いました」、または「この南部人の無道さがあなたの血を煮えたぎらせるのではないですか」と言った。


これに対して私は、さも必要なことのように笑顔をつくったり、関心を見せたり、煮えたぎるものを抑えたりした。本当の質問は「問題になることがどのように感じられるのですか」だ。私は一言も答えなかった。




しかし、特にこのような時期とヨーロッパでのことを除外しては、その他のいかなるものでもなかった人としてさえ、問題になることは異常な経験だ。言わば、啓示がある日突然現れたのは、飛び回っていた少年時代の初期だ。私はその影が私をなでていったときのことをよく覚えている。


……とても小さな木製の学校の建物で、あるものが少年だちと少女たちの頭の中で、一束10 セントのきれいな訪問カードを買って交換することを提案した。その交換は、新しく来た背の高い少年が私のカードをちらっと見つめては、断固として拒絶するまで楽しんだ。そのとき私は、人とは違うことが突然はっきりとした。また、まるで心の生活で熱望したが、巨大な幕によって彼らの世界から排斥されたような感じだった。
ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス(注24)




すべてのアメリカ人が、皮膚の色ではなく個人の個性で評価されるその日を夢見ています
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)




―み言選集―


真の愛の色は、何ですか。愛には色がありません。色を語る人は、真の愛をもてません。色を目で見る人は、真の愛がない人です。
(161-22、1987.1.1)


神様の目には、黒い色、黄色い色、白い色の区別がありません。神様の目は、愛の色盲の目です。外的なカラーを御覧になりません。心情のカラーが、より華々しく強いカラーになるのです。
(258-122、1994.3.17)


神様が理想とする芸術作品は何ですか。人を中心として見るとき、黒白が闘って傑作品になれますか。白人たちは、白いペイントだけで絵を描いてみてください。絵ができるか描いてみてください。できません。なぜできないのですか。絵を描くときは、黒い色も必要で、中間の色もすべて必要です。絵を描くときは、背景が必ず必要なのです。ところが、その背景を白くする人の絵を見たことがありますか。では、何がなければならないのですか。いろいろな色がなければなりません。様々な色がなければならないのです。そうしてこそ、それが傑作品です。一体が展開するためには、そのようなものがすべて調和していなければなりません。和合しなければならないのです。
(96-220、1978.1.22)


ムーニーは、双子を生むとき、一人は黒人を生み、一人は黄色人を生めばよいと思います。白人の女性がそのようになれば、どれほど素晴らしいですか。三つの人種が一つになり、それがどれほど素晴らしいかというのです。神様が見るとき、「この狂った女性は! そのようにする心ではない」、このように言われますか。白人の女性が黒人と黄色人を生んでお乳を与えるのを見るとき、神様が「あれは滅んでしまえ」と言うでしょうか、「いやあ! 素晴らしい。感謝だ。アーメン!」と言いますか。皆さんは、黄色い花に黄色いちょうばかりが来ればおもしろくないのです。白いちょうも来て、黒いちょうも来て、黄色いちょうも飛んできてこそ、それが素晴らしいのです。
(130-102 ~ 103、1984.1.1)
イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。
(91-219、1977.2.20)


私達が黒人の手を握るときには、歴史的に涙が交錯したその手を白人が握ることで、事情を分かち合える高次的な関係が実を結んだことを知らなければなりません。その次には、天と地が分かれて手をつなげなかったものが、再び手をつなぐのです。


白いものが天を象徴するとすれば、黒いものは地を象徴します。黒白が手をつなぐことは、地と天が手をつなぐことだと考えます。雪が積もった高い山が白人であれば、最も下の枯れ葉の積もった谷は黒人です。この二つが手をつなぐことは、その高い名山の価値を表す形を形成していることを知らなければなりません。


白人を象徴する山頂が、「私には、あの深い谷は必要ない!」、また谷が「あの山頂は、必要ない!」と言えば、それは名山になれないのです。「私は、白人は必要ない!」、「私は、黒人は必要ない!」、それも同じことです。
(95-140、1977.11.6)


皮膚の色が違うのは、住んでいる地域の保護色に合わせるためであり、気候と環境の影響によるものなのです。ですから、雪が多い地域には白人がたくさんいます。反対に太陽の光が強いアフリカのような所には、黒人がたくさんいるのです。しかし、人間は根本的に同じです。例えば、血の色や肉と骨の形はすべて同じです。そして、お互いに愛することも同じです。ですから、人種の差別はあり得ません。


それで、自然の順理と原則を尊重するので、五色人種が結婚するようになったのです。黒人と白人が結婚することは、北極と南極が一つになることと同じです。また黄色人と黒人が結婚すれば、お互いの良い点を伝授してより良い子孫が生まれると思うのです。


愛がある所には葛藤がありません。たとえ皆様の生まれた故郷と祖国が違ったとしても、一つ間違いないことは、信仰の本郷であり、平和と統一の本郷地とは、真の愛を中心とした祖国と故郷だということなのです。
(315-212、2000.2.2)


この宇宙は、自然なバランスをとっていくようになっています。見てください。この唇も、神様がどれほど絶妙につくりましたか。皆さん白人は、顔が白いので青い目をしています。真っ黒な目より、青い目がどれほど魅力的ですか。


青い目は、横の白目がぼんやりと見えます。瞳ははっきりと真っ青で刺激的なので、白目が刺激的ではいけません。しかし、黒人や黄色人を見ると、何が刺激的かというと白目が刺激的だというのです。黒い瞳だからです。黒人の目は何が魅力的かというと、白目が魅力的です。青い瞳だと白目がぼんやりするのです。




そして、笑うとき、この歯がどれほど刺激的かというのです。1度笑ってみてください。黒人の人たち、笑ってみてください。そして、舌が真っ赤でしょう? どれほど刺激的ですか。そして、黒人たちは、いくら歯を出して笑っても、舌を出す資格がありません。見てください。これがどれほど魅力的ですか。ですから、黒人たちはできるだけ歯が見えなければなりません。


黒人たちはなぜ唇が厚いのでしょうか。自然に歯が見えるように厚くなければならないのです。それは本当です。すべて魅力があります。そのように見るとき、神様は素晴らしい方です。これからは、白人たちが黒人を好む時が来ると思うのです。なぜそう思うのかというと、白人の女性たちは刺激的なもの、多様な刺激を好むからです。


今まで人間世界では、この本然の状態を破壊し、本然の状態を無視する者たちが多かったのです。黒人たちを見ると汚れているようですが、汚れざるを得ません。この谷間にすべて押し込んで腐るので、においがします。それは悪いことではありません。そうしてこそ肥料になって、生命が繁殖できるのです。


人類世界で黒人がすべて血と汗を流し、白人社会の文化を創造するときの肥料になりました。それを知らなければなりません。アメリカの文化を誰がつくったのかというと、黒人たちがつくったことを知らなければなりません。


それで、ここは生命力があり、愛が宿ることができるのです。それで黒人たちは強いのです。また、100 パーセント信じます。誰でもよく信じてくれます。なぜですか。これは谷なので、何でもすべて積み重なるのです。


白人は何かというと、高い山頂と同じです。ここは何もつきません。薄情です。ですから、白人は信じられません。冷淡だというのです。白人たちは、馬が脚を折ると銃で殺してしまうのです。それは良くありません。それは自然主義、本然の形態ではないのです。本然の人は、そのようにしません。黒人もそのようにしないというのです。白人は、愛においても、決闘して決めます。命を保護するところに理想的な愛があるのであって、命を懸けて決闘するところに理想的な愛はありません。


このようなあらゆることが分かるとき、ここに文化のあらゆる旗印や現在のあらゆることも、この本然の状態を知ることによって理解し、是正できる原則を見いだせるのです。
(107-308 ~ 309、1980.6.8)




③天の国には人種や階級の差別がない


―宗教経典―


何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる。太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
コヘレトの言葉9.2 ~ 3 (キリスト教)


すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。
ローマの信徒への手紙2.9 ~ 11(キリスト教)
すべての人類が聖なる光の宝庫であることを知らなければならない。彼らの階級を問うてはならない。これ以降、階級は消えていくのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1, p.349(シーク教)


人間として私達は死の前にすべて平等である。
プブリウス・シルス(注25)(ヘレニズム)




―み言選集―


霊界に行けば色がありません。あまりに明るくて銀色のように見えるのです。銀色に見えても、あまりに燦々と輝いているので、紫色に見えるのです。
(293-224、1998.5.26)


もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすれば、どうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。その番人が「行くことはできない」と叱責してたたけば、「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼
みますか、逃げますか。
(116-110、1981.12.27)




④平等基準による人生


―宗教経典―


家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。あなた達に対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。私はあなた達の神、主である。モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒pした男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。
レビ記24.21 ~ 23(キリスト教)


寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなた達のもとに寄留する者をあなた達のうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなた達もエジプトの国においては寄留者であったからである。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.33 ~ 34(キリスト教)
ある王子が、牧童が寝ているときに顔を叩いた。牧童がこれに対して、ウマール・ビン・アル・カッティブに訴えると、彼は、同じやり方で王子にやり返さなければならなかったという判決を下してくれた。王子が、「私は王子であり、彼はただの平民なのだから、どうして彼が私をたたくことができようか」と言った。ウマールは、「イスラームでは、あなた達は同等な立場にいる」と答えた。
ムハマド・アーマド・アル・マウラ(注26)アラブの話126.2 (イスラーム)


もし私の聖なる教団で授戒したバラモン、クシャトリアなどが、依然としてカースト制度に同意し、そこで意気揚揚としていれば、彼らはまるで生まれ変わることのできなかった存在のように行動するのである。
ストーラクリタンカ1.13.10 ~ 11(ジャイナ教)




白人が黒人に、アラブ人が非アラブ人に、富者が貧しい者に、強者が弱者に、男性が女性に優越感をもつのは、不適切で過ったことである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)


奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。


あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
エぺソの信徒への手紙6.5 ~9(キリスト教)




慈悲深い人は、僕が主人と平等でなければならないと主張する。あなたは白いパンを食べ、僕に黒いパンを食べさせてはいけない。あなたは古いぶどう酒を飲み、僕には今仕込んだぶどう酒を飲ませてはいけない。あなたは毛皮で覆われた寝台で眠りながら、僕にはくずの寝台で寝かせてはいけない。ゆえに、次のような言葉がある。「ヘブライの僕を得ることは主人を得ることと同じだ」。
タルムード、キッドゥシーン20a(ユダヤ教)


あなたがあなたの奴隷だと呼ぶその人も、同じ人間として生まれたのであり、同じ良き天のもとにいて、あなたが息をするように息をして、あなたが生きるように生き、あなたが死ぬように死ぬのだ! あなたは彼を自由人と呼ぶかもしれず、彼はあなたを奴隷と呼ぶかもしれない。可能性は同じなのだから。
セネカ道徳書簡47(ヘレニズム)


わずか80 年前に私達は、「すべての人は平等に創造された」と宣言することによって出発しました。ところが今、その出発点から私達は、ある人が他の人を奴隷にすることが「自治の神聖な権利」という異なる宣言を下しています。これらの原理は共存することができません。それらは神と、貪欲の神のように相反するものです。どちらか一方を固守する人は、誰でももう一方を嫌悪しなければなりません。
エイブラハム・リンカーン(注27)




―み言選集―


人事処置を間違えて、人権を蹂躙するなというのです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して、人権を蹂躙してはいけません。
(342-298、2001.1.13)


愛の世界は、上下を区別しない。
御旨の道、天国


南米に対して先生が関心をもつのは、食糧問題のためです。人類の1500 万人から2000 万人が1年に死んでいきます。一日に6万人が死んでいくというのです。さらには、5歳以下が35 パーセント死んでいきます。誰がこれに責任をもつのですか。先進国が責任をもたないので、真の父母だという人がこれを考えなければ、あの国に行って問題になります。


それで先生は、そのためにこれから伝統をつくらなければなりません。先生の日常生活は、その人たちを救うための節約の生活です。数十年前からその準備をしてきました。先生は普通、ネクタイを締めずに歩きます。これからネクタイ返納です。家に帰れば裸足で過ごします。靴下代を受け取らなければなりません。今からそのようにしなければなりません。


タオルも大きなものは使いません。この四角いもの、あるいは七分ぐらいのものを使います。今まで数十年間そのように使ってきたので、私がワイキキ・ホテルに行くと、色とりどりのタオルが数十枚ありますが、一つも使いません。これが公式になりました。「先生はタオルも使うことを知らない」と思うかもしれませんが、違います。伝統とは一度にはできないのです。
(273-53、1995.10.21)


愛を中心として、ために生きてあげるときだけが平等です。
(107-152、1980.4.20)




人種差別や宗教的葛藤、そして国粋主義は、人権蹂躙に対する原因を提供するようになります。力で支配する時代は終わりました。そのような時代は、既に過ぎていったのです。21 世紀は、共に生きていく超人種、超国家、超宗教の時代です。真の愛が支配する時代が開かれたということです。
(369-221、2002.2.15)


今まで平等圏がなかったので、その平等圏をつくる作戦とは何かというと、他のために犠牲となり、福を祈ってあげ、打たれていきながらその打った者たちを屈服させ、同じ福を与えることによって、ここには完全平等圏の役事が起きるのです。
(56-335、1972.5.18)


歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。




神様の愛とは何でしょうか。それは、最上級の人たちにも同じようにでき、また最下級の人たちにも同じようにできます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最高から最低に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。


神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最低のところにいても最高の人を愛することができ、最高の立場にいても、最低の立場にいる人を愛することができるのです。このように、この上なく自由です。このような神様の愛の中にいる人は、世界のどこに行っても大歓迎を受けるで
しょう。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)


自分が白人だからといって、「ああ、私は、白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじ.いさん、おばあさんは愛せない。身なりの良い立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければなりません。それが公式です。
(130-274、1984.2.5)


黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して人権を蹂躙してはいけません。先生は、黒人だ何だと差別したり、大学を出たとか、そのようなことですべてを決めるのではありません。人権を正しく指導する真の愛をもって、「ために生きる」愛をもって暮らす人が主流です。


天地創造は、そこから始まりました。その主流思想をすべて流してしまうのは許せません。弟の体が不自由だからといって、弟を無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、すべて無視するでしょう? 知識があって何々大学を出たという人は、高卒の人でも無視してしまうのです。これは、人権蹂躙になるので
す。
(342-298、2001.1.13)


先日、ある中国料理店に行ったのですが、ネクタイをしていないから出ていきなさいと言うので、引き返してきました。出てくるときに、後ろ指を指されました。私はアメリカの食口を20 人くらい連れていったのですが、ネクタイを出してつけてくださいと言うのです。それで私は気分が悪くて出てきてしまいました。ネクタイの締め方が分からなくてそのようにしたのではありません。


出てくるときにひそひそ話しているのです。20 人くらいを連れ回り、すごい車を乗り回している人が、そのようにネクタイもしないで歩き回るとは夢にも思わなかったのでしょう。


その人たちは商売を誤りました。私達のような人が宣伝すれば、たくさん売ることができていたでしょう。次からはそこに行きません。ネクタイ一つで人をそのように扱ってはいけません。私は二度と行きませんでした。レバレンド・ムーンもそうなので、黒人たちが入っていけば足で蹴飛ばされるのではないか、そのように思ったのです。
(93-67 ~ 68、1977.5.1)


民主主義の根本的な伝統は自由だとか平等だとか言いますが、そのようなものではありません。そのあらゆる伝統には愛がなければなりません。平等というものを見てみるとき、女性と男性は平等になることができますか。愛する男性と女性がいるのですが、その男性と女性が平等ではないそのような素性をもった男性と女性なので、願う平等の世界、自由の世界、あらゆる民主主義の世界というものは平等になり得ないのです。


それでは、何をもって平等になりますか。愛を抜かしてはなれません。アメリカというこの民主主義の世界の中に愛の概念がありますか。自由という概念の中に愛の概念がありますか。平等という概念の中に愛の概念がありますか。ありません。
ここに真の愛をもってくれば、すべてできます。男性と女性も平等になれ、その次に、その愛を中心として自由になれます。その愛を中心として民主主義が形成されるのです。
(230-87 ~ 88、1992.4.26)


今後、五色人種が一つになります。愛というものは一つなので、東西南北の方向と階層が違うからといって、その軸が異なるものではありません。同じなので、真心のこもった愛の心に咲く花は、ほかのいかなる種類の花でもなく、神様の愛の種類の花です。したがって、南極に行って咲いても、北極に行って咲いても、東極に行って咲いても、西極に行って咲いても同じだというのです。分かりますか。このような観点から、今日、超民族的な結婚観が可能なのです。
(101-74 ~ 75、1978.10.28)






7.女性の権利


先の世紀に始まった女性の権利と男女平等のための運動は、人間の進歩のための主要なエネルギーである。しかし、豊富な女性主義的思考と傾向の中で経典は、私達に何が最上で最も持続的なものなのかを区別するように教える。


この節は特別に女性の社会的権利を扱う。より根本的な男女関係は結婚である。結婚において性の役割と男女平等の問題が格別な関心の中で扱われる。(第19章6.「結婚生活の倫理」参照)


女性への持続的な虐待に対抗し、経典は、神様の前で男女の本質的平等と尊厳性を確認する。経典はまた、教育と最上の信仰目標の追求において女性の権利を明確に語っている。女性は悟りに適していないという悪魔のささやきを克服する女僧の決意を称賛する、仏陀の章句が際立っている。


一方経典は、女性的尊厳性の根拠として、子女を生む伝統的女性の役割を激励する。その上、女性の従属性を、堕落と人類始祖の女性が犯した罪の結果だとして証拠を提示する経典がある。文鮮明先生は、女性の従属性に関して、少なくとも部分的には、男性を堕落させた「天使長」が原因であるとする独特の批判を加えている。


男性と女性が身長と肉体的能力において、明確に異なることは否認できない。仏教の経典は、心が唯一の実在という観点から、そのような外形的な差が何かの意味をもつという考えはこっけいと見る。創造された世界を実在と確信する文鮮明先生にとって、それは無意味なことである。むしろ先生は、愛が男女平等の基礎と教える。先生は、出産を女性に対する神様の特別な贈り物とみなし、
その伝統的価値を支持する。


しかし、先生は同時に、社会で指導者の位置を熱
望する女性を称賛する。そして、女性の追従者たちが伝統的な男性の役割を担当するように激励する。このような観点から、先生の考えは、アメリカの先駆的女性主義者としてここに引用されたスーザン・アンソニーの夢と共鳴する。
①男女平等の土台


―宗教経典―


神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)


主はかれらの祈りを聞き入れたまい、仰せられた、まことにわしは、男でも女でも、なんじらのだれの働いた働きもむなしゅうしないであろう。なんじらは互いに同士である。
クルアーン3.195 (イスラーム)


女たちが敬われるときは神々は満足する。しかし敬われないときはいっさいの祭儀は果報をもたらさない。女の親族が悲しむときはその家はたちまちに滅ぶ。しかし彼女たちが悲しまないときはその家は常に栄える。
マヌ法典3.56 ~ 57(ヒンドゥー教)




私の愛する姉妹、女性たちよ! あなた達はこの世で苦難の人生を生きてきた。しかし、あなた達がいなければ、この世は現在のようにはなっていなかっただろう。ワカン・タンカは、あなた達が多くの悲しみを耐え忍び、悲嘆の中にいる人たちを慰労することを願う。(注28)あなた達の手によって家庭は維持される。
神聖なパイプに関するスー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)


ソーマー尼は、……托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかきわけて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。


そのとき悪魔・悪しき者は、ソーマー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、ソーマー尼に近づいた。近づいてから、ソーマー尼に向かって、詩を以て語りかけた。




「達成しがたくて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕知恵しかない女人がそれを体得することはできない」と。そこでソーマー尼はこのように考えた。「詩をとなえて
いるこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。


つづいてソーマー尼は、このように思った。「これは、悪魔・悪しき者が、私に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。そこで、ソーマー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。


「心がよく安定し、知恵が現に生じているとき、
正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。『われは女であろうか?』『われは男であろうか?』また『われは何ものなのだろうか?』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」そこで悪魔・悪しき者は、「ソーマー尼は私のことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
阿含経相応部i.128、尼僧に関する集成(仏教)


汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に仗(よ)ってよろめしき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.3(ヒンドゥー教)


シャーリプトラが言った。「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?」天女は言った、「わたくしは十二年このかた、女人の性を求めて来ましたが、ついに不可得でありました。いったいどうして女身を転ずる要がありましょう
か? 譬えば幻術師が幻の女をつくり出したようなものです。もしもひとが幻の女に『あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?』と問うたならば、この人は正しい問を発したと言えるでしょうか?」


シャーリプトラは答えた、「それは正しい問ではありません。幻には一定の特性はありません。どうしてそれを転ずる要がありましょうか?」天女は言った、「一切のことがらもまたそのとおりです。一定の特性はありません。〈女身を転じて男の身とならないのはなぜか?〉とどうして理由を問う必要がありましょうか?」と。


天女は即時に神通力をもってシャーリプトラを変じて天女の如くならしめた。また天女は自ら身をかえてシャーリプトラの如くならしめた。そうしてシャーリプトラに問うて言った、「どうして女身を転じて男の身とならないのですか?」


シャーリプトラは天女のすがたをしながら答えて言った、「わたくしは女人の身となってしまいましたが、どうしてこのようなことになったのか解らないのです。」




天女が言った、「シャーリプトラさま。もしもあなたが御自分の〈女人の身〉を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたが実は女ではないのに女人を現わされたように、一切の女人もまたそれと同じです。かれらは女身を現わしているけれども、実は女ではないのです。だからこそ、仏は、一切のものは男に非ず、女に非ず、と説きたもうたのです。」(注29)
維摩経7(仏教)




―み言選集一


アメリカでも、いまだに女性の権利よりも男性が優勢で、女性たちが女権復帰運動、女権伸張運動を通して男女平等を主張しています。それで、アメリカの女性たちは少し違いますが、全世界の女性たちが、女性として生まれたことに恨を抱いて生きてきたという事実は歴史的に否定できません。


アメリカで女性たちがいくら「社会がきちんと保障してほしい」と言っても、女性二人で男性一人に勝てますか、勝てませんか。このような点から、男性に生まれていれば良かったと思わない女性がいないというのです。


ですから、歴史的に世の中の人の中でかわいそうなのは、男性より女性です。歴史を通して見てみれば、今まで女性が男性を強奪しましたか、男性が女性を強奪しましたか。男性が女性を強奪しました。何パーセントくらいになると思いますか。90 パーセント以上でしょう。そのような意味で女性が、男性に対する敵愾心とともに、いつも女性の権利を心の中から追求してきたことは、否定できない事実です。神様がいるならば、そのようなことを解決してこれをすべて平等にして、これに反対して迫害する男性たちを屈服させることをせずに、なぜ今までそのままほうっておいたのでしょうか。これが問題です。
(243-268、1993.1.28)


平等権をどのようにして主張するのでしょうか。力で、外的に、そうでなければ情的にですか。愛です。愛をもてば、男性と対等になることができ、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になれるのです。愛をもったところには、すべてのものが平等になれる内容があるという事実を知らなければなりません。そのような意味で、愛を中心に平和の家庭を願う男性と女性に、平等となる中心の核があるという事実を私達は知らなければなりません。


夫は、妻の懐に帰ることを願うのであり、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。ここには、低いものもなく、高いものもありません。それこそ、平等を体験するのです。他のところに平等がありますか。どこか他のところに平等があるか調べてみなさいというのです。男女の平等権は、平和な家庭においてのみ形成されるということを知らなければなりません。
(129-51 ~ 52、1983.10.1)


平等というものは、「私達」がいなければできません。「私」を中心としてはできないのです。「私達」でなければなりません。それを知らなければなりません。「私達」を中心とする平等であり、愛を中心とする平等です。それを知らなければなりません。個人を中心とする平等ではありません。


女権主義者も間違いであり、男権主義者も間違いだということです。人間主義者、人権主義者が正しいです。これをはっきりと知らなければなりません。「私達」と、愛を中心とする平等という言葉になるのであって、女性だけでは駄目です。
女権運動ではなく、男権運動でもありません。はっきりと知らなければなりません。
それでは、男性は誰のために生きなければなりませんか。女性は誰のために生きなければなりませんか。女性は男性のために生きなければならず、男性は女性のために生きるのです。これが人間はなぜ生きるのか、この地でどのように生きなければならないのかのすべての答えになり、哲学的なあらゆる質問に対する答えになるという結論です。
(131-109、1984.4.22)


人間が生きていきながら神様に会うことを願うように、神様も真の人間に会いたいと思われます。ところが、人間の中でも、男性か女性のどちらか一方に先に会いたいと言われれば、恐らく互いに不平を言うでしょう。したがって、神様は愛を前に立てざるを得なかったのです。愛さえ立てておけば、男性と女性が一緒に会うことができ、一緒に触れることができ、一緒に分かち合うことができるからです。世の中で最も貴いものがあるとすれば、男性と女性が互いに先にもとうと争うのです。それが愛であることを知れば、二人とも一つになり、互いにために生きて、それをもとうとするのです。(300-213、1999.3.14)
②男性支配の原因としての人間堕落


―宗教経典―


アダムは答えた。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」


主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」(注30)
創世記3.12 ~ 16(キリスト教)


すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。


男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。(注32)
コリントの信徒への手紙一11.3~11(キリスト教)
私が天国をのぞいてみると、そこの居住者の多くが貧しい者であるのを見た。そして、(地獄の)火をのぞいてみると、そこの居住者の多くが女性だった。
ブハーリー・ハディース8.76.554 (イスラーム)


女性に敬意を示せ、女性は夫の僕ではない。女性は、支配ではなく指導を受けることのできる存在であることを見せてあげよ。女性は、小言を言わなければならない結婚不適格者ではない。夫は、夫人を操舵手のように扱え。人生の伴侶として尊重し、栄光を共に相続した人として接し、共有せよ。……


女性の誘惑が最も深刻な誘惑だ。アダムもエバの誘いに引かれ、聖なる戒めに背いた。彼が過ちを悟り、罪を犯したことを知ったとき、アダムは隠れたいと思ったが、できなかった。そして、神がこのように尋ねられた。「アダムよ、どこにいるのか。……お前は女性一人によって、お前の主なる神を離れようとした。お前はあれほど会いたいと思っていたその方を捨てたのである。女性一
人によってお前を隠そうとし、世の鏡と天国の居場所とキリストの栄光を放棄したのだ」(注31)。ここでイザベルがどれほど残酷にエリヤを迫害し、ヘロデがどのように洗礼ヨハネを死に追いやったのか、付加する説明がこれ以上必要だろうか。
ミラノのアンブロシウス書信59.60 (キリスト教)




―み言選集―


今までは女性の貞節を強調しました。エデンの園で誰が貞節を失ってしまっだのですか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。女性です。男性も失ってしまいました。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバに誘惑されていき、結局は、本来の根である男性まで切れてしまったのです。女性のエバが男性のアダムを堕落させたのです。


それを蕩減するために今まで女性が男性に蹂躙されました。女性たちが男性たちに蹂躙されたのはそのためです。それで先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは、世界のどの人よりも、後世の人たちのためにしなければなりません。
(6-334 ~ 335、1969.10.3)


女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しげですか、妖しげではないですか。女性は今まで罰を受けましたか、福を受けましたか。妖しげなので罰を受けたのです。今までなぜ女性が苦労したのかというと、夫が自分の夫ではないので苦労したのです。分かりますか。


男性たちは天使長型です。本来男性は、妻を迎えるようにはなっていません。ですから、レベルの高い宗教ほど独身生活を強調するのです。男性は天使長型なのですが、本来の天使長はそのときに相対を許諾されていませんでした。それにもかかわらず、非原理的に愛したのです。ですから、女性にはその人が夫ではありません。
(39-214、1971.1.10)


神様の心情にエバが釘を打ち付けたので、男性たちが、天使長がエバの心情に釘をたくさん打ったのです。
(302-232、1999.6.14)


エバは、未来の神様の王女です。王女であると同時に将来の神様の相対でした。エバを育てて何をしようとしたのかというと、愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人になるというのです。なぜそうなのかというと、愛を分かち合うためには体が必要です。被造世界の相対が必要なのです。体が必要だったのです。あの国に行ってみれば、神様は無形です。空中で太陽のような光が24時間いつも浮かんでいます。空中から無形の神様がすべて管理するのです。


その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは、無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
(199-361 ~ 362、1990.2.21)




③男女平等の追求


―宗教経典―


学びはすべて、信仰する者、男性と女性に付加された義務である。
イブン・マージャのスナン224 (イスラーム)


いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、(注34)また、すべてのものが神から出ているからです。
コリントの信徒への手紙一11.11~12(キリスト教)


女性たちは、同等な労働に対して報酬を受けなければならず、彼女たちは、長官と監督者、教授と大統領の任務において同等の資格があるとみなされなければなりません。ですから、あなた達は、性ではなく、能力が地位と給料を決定すべきだと主張しなければなりません。
スーザン・アンソニー


夫と妻も平等である。違いは尊重するが、その違いが主導権を握るために利用されてはならない。社会との協力の中で、教会は女性の人権を確認し擁護しなければならない。
教皇ヨハネ・パウロ2世(注33) (キリスト教)


平和をつくりあげるにおいて、女性は自然と重要な役割を果たします。ほぼ私達全員は、平和な生に関する最初の教えを母から受けます。なぜなら、愛に関する、私達の愛に関する要求は、人間存在の土台そのものだからです。


私達の成長でごく早い時期から、私達は全的に母の世話に依存し、母が自らの愛を表現することはとても重要です。……もし子供が適切な愛を受けることができなければ、あとで彼らは人を愛することが難しいことを知るようになるでしょう。このように母の愛は平和をつくることに大きく寄与します。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)




男性が女性を暖炉の家だけでなく、国家の議会で彼の同僚として認める日が来るだろう。そうなれば、そのときまでは違うが、人類を最高の進歩へ導く両性間の完璧な同僚関係、すなわち理想的な結合があるでしょう。
スーザン・アンソニー








―み言選集―


男性は女性の先生であり、女性は男性の先生です。互いに学ぶのです。
(247-174、1993.5.2)


女性は、男性がすることをして、男性は、女性がすることをしなさいということです。そうすれば通じます。そのようになれば、すぐに何でもできます。(注35)
(116-183、1982.1.1)


女性の船長たちが多くなれば、そのときに反対していた者たちは、「ああ……」。そのような時が来るでしょう。間違いなく来るというのです。間違いなく女性の船長たちをたくさんつくっておきます。


そして、優秀な若者たち、ハーバード大学や何とか大学を出た若者たちを僕としてこき使わなければなりません。それを願いますか、願いませんか。願いますか。どうして女性たちの声が「イエス」なのですか。(イエス!)。そうです。おお、イエス! 度胸を学ばなければなりません。


最も良い方法は、台風が来ていても、押し進めて船員たちに号令し、拳も使う、そのようにできる訓練をしてこそ、偉大な女船長になるのです。また、船で子供におっぱいをあげながら、「おい、この男たち! こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、「はい、はい」と言えば、どれほど気分が良いか考えてみてください。
(95-97 ~ 98、1977.11.1)


何が平等ですか。御飯を食べることが平等ですか。男性は二人分の御飯を食べ、パンを四つ食べるのに、女性は御飯1杯、パンは一つしか食べられません。


仕事をするにおいても、女性は「えんえん」言いながらついていきますが、男性は「がんがん」やります。それが平等圏ですか。相撲をしても、レスリングをしても、平等ですか。女性と男性がレスリングをするのを見ましたか。絶対に平等になりません。しかし、愛においては平等です。そういうものです。では、それ以上に願うものがありますか。


神様が女性を愛され、男性は一生の間苦労し、闘い、ありとあらゆることをします。今は御飯を食べたりパンを食べたりしますが、昔は山に行って獣を狩猟してこなければならず、虎と闘い、ライオンと闘いました。それにもかかわらず、女性は今まで同等な立場に一つも立たずに一緒に暮らしているのです。


それでも、一つ女性が男性に誇ることができるものは子供を生むことです。地上で歓迎される平等を主張できる一つの条件として、神様が女性に子供を生む権限を与えたと私は考えます。創造主が傾いたものを立て直すために子供を生むようにしたのですが、この女性たちが子供を生もうとしないのです。ですから、これは闘うこともできません。
(103-273、1979.3.11)


「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。女性自体はこの上なく弱いものですが、もし女性が母として愛の主体的立場を取り、また妻、娘として愛の中心的役割を成す時、女性はこの上なく強くなるものです。


なぜならば、女性が母、妻、娘として愛の主体的立場を取り、100 パーセント相手のために与えようとする時、その空白を神様の愛が埋め尽くしてくださるからなのです。神様の愛の能力が発動し始めるのです。


だからこそ女性であったとしても、神様に似て燃えるような愛の主体的立場を取るようになれば、その愛の能力は家庭を生かし、国を生かし、世界を生かす驚くべき力として現れるのです。
真の家庭と世界平和、1992.5.1


私達会員は、到来した女性時代とともに夫を抱き、子女を正しく養育する真の愛の模範的な実践運動を全世界的に展開しなければなりません。そうして、世界平和具現のための政治、経済、文化、そして社会各分野で私達女性が先頭に立たなければなりません。


女性として救援摂理歴史の主役を担当したリベカ、タマル、マリヤのような苦難と迫害の先烈たちを記憶しましょう。彼らが命を懸けた冒険と逆境に打ち勝って天倫の道理を立てたその強靭な意志を伝授され、私達の家庭を真の父母、真の夫婦、真の子女の家庭として養い育てていくことによって、今日のこの罪悪世界を天国世界に変化させる聖業に私達全員が決起しましょう。
世界平和女性連合創設大会、韓鶴子総裁基調講演文1992.4.10

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コメント

世界経典-71

2022年08月20日 13時05分55秒 | 学習




①国家に奉仕する市民の任務


―宗教経典―


(整列している者たちは言う)「私達のうちひとりも、定められた所を持たぬ者はない」、「私達は(奉仕のため)、整列して……」。
クルアーン37.164 ~ 5(イスラーム)


人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
イザヤ書58.12(キリスト教)


信仰をもった者が死後にも報償を受けるようになることと善行は、彼が教え広めた知識であり、彼が残しておいた優れた知識であり、彼が遺産として残した一冊のクルアーンであり、彼が建てたモスクであり、彼が旅行者のために建てた一軒の家であり、彼が流れるようにした川の水であり、彼が生前に裕福だったときの財産で施した寄付である。これにより彼は、死後にも続けて報償を受けるようになるだろう。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)


アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
バガヴァッド・ギーター3.23~25 (ヒンドゥー教)


もし私達がある思想家たちのように、自由と平等が民主政治において主に発見され得るものだと考えるなら、それらは、すべての人たちが最大限度に同じ政治的権利に参与するとき、最もよく達成されるだろう。
アリストテレス政治学4.4 (ヘレニズム)
国民の皆さん! それゆえに国が皆さんに何をしてくれるのかを問うのではなく、皆さんが国のために何ができるかを問うてください。全世界の人類の皆さん! アメリカが皆さんに何をしてくれるかを問うのではなく、私達が心を合わせ、人類の自由のために何かできるかを問うてください。
ジョン・F・ケネディ(注5)


あなたが寄付することをやめたとき、あなたは死ぬようになる。
エレノア・ルーズベルト




―み言選集―


一つの国家に属して暮らせば、その国の国民を愛することができなければなりません。
(1-336、1956.12.30)


愛国者とは何ですか。国を中心として、自分の五官で見るときに、心配の対象にならずに、より良くなることを願う人です。悪いことがあれば、自分が責任をもち、それをすべて解決してあげようと思える愛の心をもった人です。
(161-133、1987.1.18)


黙って忠誠を尽くし、黙って奉仕する群れは、どのような国家、どのような社会、どのような所に行っても主人になります。(5-16、1958.11.9)


先生は、いつでも最前線で生きようとします。苦労し、困難な道を行こうとします。皆さんが暮らす村で最も悪い所を見れば、「あれは私が掃除しなければならない」と考えなさいというのです。
(248-154、1993.8.1)
さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。そうすれば、僕の位置から養子の位置に上がっていくのです。
(113-111、1981.5.1)


自分を中心とした主義や思想をもった者は滅びます。自分の欲望のために人命を傷つけ、自分の欲望のために国に被害を与えたというときは滅びるのです。国は、個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。また、それが国民の行くべき方向です。


人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「私のために働く」と言います。つまり自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言うことができなければなりません。
(24-20、1969.6.22)


人間は、社会的次元で、家庭的、民族的、国家的、世界的、宇宙的次元で、神様を中心とする犠牲、奉仕、真実と真の愛の実践を通して、貪欲、放縦、不信と偽りの愛など、悪の根拠を除去しなければなりません。
(167-100、1987.6.30)






②王、国民、そして国家のための愛国者の犠牲


―宗教経典―


バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私達は泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私達を捕因にした民が、歌をうたえと言うから、私達を嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を。


異教の地で。エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい。私の舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、私の最大の喜びとしないなら。
詩編137.1 ~ 6(キリスト教)


モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。


エステルはまたモルデカイヘの返事をハタクにゆだねた。「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」


エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」


エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
エステル記4.7 ~ 16(キリスト教)


平和の名は甘美で、それ自体は有益だ。しかし、平和の奴隷状態は大きな違いがある。平和は、平穏な中での自由である。奴隷状態は、戦争だけでなく死にすら抵抗しなければならない、あらゆる邪悪なものの中の最悪である。
マルクス・キケロ(注6)(ヘレニズム)




鎖や奴隷制度をもって手に入れなければならないほど、命がそれほど大切で、平和がそれほど甘美なものなのか。これを禁じてください、全能の神よ! 私は人々がどの方向に行くのか分からない。しかし、私には自由でなければ死を与えよ!
パトリック・ヘンリー(注7)


私は祖国に捧げる命が一つしかないことが残念でならない。
ネイサン・ヘイル(注8)


幾度死すとも砕け散るとも
たとえ身も魂も朽ち果つとも
慕わしきわが主に捧げまつる
熱きこの胸の忠誠消えず(注9)
鄭夢周丹心歌(儒教)


私達の義務を引き受けよう。そして、耐え忍びましょう。大英帝国と英国連邦が千年続けば、そのときにも人々は、「この時期が最上の時だった」と語るでしょう。
ウィンストン・チャーチル(注10)
―み言選集―


国には愛国心が必要です。国が動いていくためには、愛という錨綱が必要ですが、これをいわゆる愛国心と言います。愛国心のある人は、国を捨てられません。出ていっても、また訪ねてくるものです。(注11)その愛国心という綱がどれほど強いか、かわいそうな民族のためには大きな成功も否定し、自分が不幸になることを意に介さず、その道を選んでいくこともできます。愛の力がなければ、それは不可能です。
(175-204、1988.4.17)


愛国者たちが圧政下で、あらゆる条件に対抗して闘ってきたのは、もちろん民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の一日を願い、希望する心とその勝利の一日が必ず来ることを信じる強い心があったがゆえに、そのような圧政下でも屈することなく闘うことができたのです。これを私達は知らなければなりません。
(5-321、1959.3.1)
きのうは三・一節でしたが、柳寛順は、当時16 歳だったので少女ではなかったですか。倭警(日本統治時代の日本警察のこと)によって無惨に殺された少女ですが、なぜ民族を挙げて彼女を愛国者としてあがめるのですか。国のために自分の命までちりあくたのように捨て、もっと国を愛そうとしたのであり、民族を愛そうとしたからです。幼いときから死ぬまで、誰よりも国を愛したのであり、自分の命を投入して国を愛した、それが貴いのです。
(141-293、1986.3.2)


一つの国において、どのような人が愛国者ですか。裕福に暮らして号令する立場にいる人ではありません。末端の立場でぼろを着て、塩汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、麦飯のお膳を通り過ぎる外国の人たちが見るのではないかと心配し、国の威信を考え、自分の姿が目につかないように隠れようとする心をもった人が愛国者です。


自分の国の体面と威信は考えず、ねたみ、嫉妬
し、面子もなく行動してはいけません。自分の国を少しでも美しく、価値あるものとして現そうと努力する人が愛国者です。
(26-136、1969.10.19)


愛国者は、愛を中心として主権を愛さなければならず、国土を愛さなければならず、国民を愛さなければなりません。「国家」といえば、主権、国土、国民がいなければなりません。この三大要素をすべて愛さなければならないのです。そのためには、自分の家庭を、一家自体を投入しなければなりません。一家自体を引き入れなければなりません。すべての家庭的要素が結合して国家の形成が展開するようになります。家庭を前に立てる人が国を愛するという論理は、この宇宙に公認されません。愛は、より大きなものを連結しようとするのです。
(207-251、1990.11.11)


あらゆる理想の原点であり、未来に向かい、永遠に作動する真の愛は、青年たちに生命以上の力になります。青年たちが真の愛を中心とする新しい国家観をもつとき、国家は新しい発展の可能性を見いだすのです。真の愛の姿勢をもつことによって、あらゆる集団は、衝突する利害関係の枠を飛び越えて協力と調和と発展の社会を築くのです。


国を動かし、導く原動力は、犠牲的な愛国衷情の真の愛から出てきます。私達が尊敬する大勢の愛国的英雄烈士たちは、真の愛を中心として犠牲の生涯を経ていない人がいないのです。
(288-201、1997.11.28)






③支配権威の尊重


―宗教経典―


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12.17(キリスト教)


帝国の繁栄のために祈れ。帝国が鼓吹する恐怖がなければ、人間たちは互いを生きたままのみ込もうとするからである。(注12)
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)


サルタンは地上にいる神の影なので、過ちを犯した彼の僕たちは、それぞれ彼に従って過ちを直さなければならない。彼が公正であれば報いを受けるのだから、彼に感謝しなければならないのは、一般の民の義務だ。しかし、彼が暴政に従事すれば、その荷が彼にあるがゆえに、一般の民たちは忍耐心を見せなければならない。
バイハキ・ハディーズ(イスラーム)


人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。


あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。


だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
ローマの信徒への手紙13.1 ~ 7(キリスト教)


神の意志に逆らう行為をするよう命じない限り、好きでも嫌いでも、政府の施策を聞いて従うことはムスリムの義務である。もちろん、反対の場合、ムスリムは聞くことも、見ることもしてはならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)




―み言選集―


私達個人は、尊重され、高く評価されなければならず、宇宙を身代わりできる価値をもっている存在ですが、横的な関係を結んで家庭に入っていけば、家庭の祭物にならなければなりません。天理原則がそうです。


ですから、自分個人を天地に匹敵する価値として評価するほど貴いと思っても、家庭があれば、家庭のために奉仕しなければなりません。個人よりは家庭を中心としなければならず、家庭よりは社会を中心としなければならず、社会よりは国家を中心としなければなりません。さらには、国家よりも世界、世界よりも天、天よりは神様を中心としなければなりません。
(10-329、1960.11.27)


国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想(注13)、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。
(212-28 ~ 29、1991.1.1)


今日のアメリカの青年たちに、「国を愛しなさい」と言ったとき、「その国に対する愛はどのようにするのか」と言いながら目をぱちくりさせ、「それはしなければならないが、どのようにすることが国を愛することなのか」と言います。そこに対する教育をする人がいません。


家の父母もすべて、動物的な因縁しかありません。兄弟も、動物的因縁しかありません。すべて動物のような愛、さらには動物にも劣る愛、そのような段階に落ちたのです。ですから、「国を愛するとはどういうことか。私が税金を払うことが国を愛することだ」、これしか知りません。観念がそれしかないのです。




愛をどこで学ぶのですか。それを家庭で教えなければなりません。それでは、父母はどのようにしなければなりませんか。兄弟同士で愛することを教えてあげ、父母を愛することを教えてあげると同時に、「私がお前を愛するのと同じように、私が国をこのように愛するから、お前は国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげさえすれば、すぐに「ああ!」と言って分かります。ほかの教育は必要ありません。すぐにうなずきます。


「アメリカに対する愛国心とは何か」と目を見開いて尋ねる人たちにそのように話をすれば、頭にさっと入っていきます。ほかのことは必要ありこません。そのような伝統をつくっておかなければなりません。これをつくっておけば、すべてがない所でも、いくらでも再びつくりあげることができるのです。


そして、大統領の言葉を父親の命令よりもっと高い命令だと考えるのです。自分の父母のために生きるよりもっと偉大だと教えてあげなければなりません。ですから、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を尽くし、国を愛するために死の道を一緒に行かなければならない」という教育をしなければなりません。ですから、考える人はそのような伝統を中心として考え、国家的歴史を立て直し、国家的伝統を残そうとするのです。
(95-51 ~ 52、1977.10.23)






4.労働


大部分の人々は、基本的に労働を通して社会に奉仕する。人間は大人になり、自分と家族のために仕事をしながら人生を営む。しかし、私達の労働は、個別的利益を得る前に国家全体の豊かさと繁栄に連結される。一歩進んで労働は、天地を創造した神様に私達が似ていく一つのやり方である。神様は、労働する人間に満足し、労働の結果を見て喜ばれる。それが神様の人間創造の目的と
言える。結局人間は、労働することで神様と共に共同創造者になるのだ。


社会の構成員は、労働倫理に関する教育を受けて、自己啓発ができる社会的機会を得る。そのようにしなければ、どんな社会も発展し得ない。宗教の実体的な機能は、政治的、経済的成功のために、社会構成員を激励し、鼓舞させることである。それは、仕事場で勤勉、節約、信頼、責任感と誠実さ、そして自分の職業に対する愛着だ。




ある伝統宗教は、生産的なことを奨励することよりも、貧困と清貧生活を強調するが、大部分の伝統宗教は、聖職者にまで誠実に労働することと、自給自足を奨励する。大部分の宗教が世俗的な利益ばかりを追求する生活を拒否するにもかかわらず、その利益は、社会奉仕、慈善行為、正しい礼拝などに適切に使われれば、そのような人生は、神様が認定してくださったと高く評価する。






①あらゆる仕事は神聖であり、天に奉仕すること


―宗教経典―


アブ・フライヤが言った。「私達が使徒と共にいるとき、ある若者が現れた。私達が言った。『この若者は、彼の若さ、エネルギー、力を祭物として捧げ、神に礼拝を捧げなければならない』。使徒が私達の言うことを聞いて答えた。『ある人が神のやり方どおりに殺害されたり、彼の父母を扶養したり、彼の家族を食べさせたり、自分が生きるために努力したこと以外に神のやり方は何もなかった。これらが神のやり方だ』」と。
スユーティ(注14)、ハディース(イスラーム)


精いっぱい働くこと、それがすなわち祭祀である。
パラシャイバの金言(ヒンドゥー教)


労働は偉大だ。労働者に栄光が授与される。
タルムード・ネダリーム49b (ユダヤ教)




鋤を握り、突き棒の扱いを自慢する者が。また、牛を追い立て、仕事に忙しく、話題は子牛のことばかりという者が。彼は畝作りに没頭し、夜も寝ないで若い雌牛にえさを与えている。職人や職人頭も同じだ。彼らは昼夜を分かたず仕事に励む。印章を彫り込む人々、さまざまな下絵書きに没頭する者も同じだ。彼は本物そっくりに表現しようと精魂を傾け、夜も寝ないで仕事を仕上げる。


鉄床のそばに座るかじ屋も同じだ。彼は鉄の細工物を一心に見つめる。熱風で体はやけどを負うが、炉の熱にあてられながら、懸命に仕事をする。彼の耳には、金づちのやかましい音が鳴り響き、目は器の形に注がれる。彼は仕事を完成させようと精魂を込め、夜も寝ないで見事に仕上げる。仕事場に腰を据える陶器職人も同じだ。彼は足でろくろを回す。常に仕事に熱中し、その作品を数える。彼は足で粘土をこねて、固さを除き、手でそれを形づくる。


上塗りをかけて仕上げるのに精魂を込め、夜も寝ないで、窯を掃除する。これらの人々は皆自分の腕に頼り、それぞれ、自分の仕事には熟練している。彼らなしに、町は成り立たず、住み着く人も、行き来する人もいない。


しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、集会においても責任ある地位には昇れない。裁判官の座にもつけず、法律にかかわる決まりも理解していない。教訓や法律を説き明かすこともできず、格言にも精通していない。彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。彼らの願いは、仕事を全うすることにある。
シラ書〔集会の書〕38.25 ~ 34(キリスト教)


ヤブネのラビが語った有名な言葉がある。私は主なる神の被造物であり、あの隣人の小作農も神の被造物だ。私は村で働き、彼は田舎で働く。私は私の仕事のために早く起き、彼も彼の仕事のために早く起きる。彼が私の仕事を無視しないように、私もまた彼の仕事を無視しない。果たして、私がより多く働き、彼は少なく働いていると言えるだろうか。私達は学んできた。「その人が、人より仕事を多くすることも、少なくすることもできる。しかし、その心がいつも天に向かっていれば、結局は同じことである」。
タルムード、ブラホート17a (ユダヤ教)


すべての位置は天が任命される。清掃人の仕事までも、天が決められたのである。
タルムード、バヴア・バトラ91b (ユダヤ教)


仕事を愛し、権力を憎悪せよ。
ミシュナ、アヴォート1.10(ユダヤ教)


主はモーセにこう仰せになった。見よ、私はユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。私はダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。私は、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、私があなたに命じたものをすべて作らせる。


すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンめために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らは私が命じたとおりに作らねばならない。
出エジプト記31.1 ~ 11(キリスト教)




―み言選集―


私はここで、永生と真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私は、ここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させ得る材料だというのです。
(216-127 ~ 128、1991.3.9)


仕事をするとき、なぜあらゆる精誠を尽くしなさいと言うのですか。仕事をするとしても、うわの空で仕事をするなというのです。それは、使いをする人がすることです。使いをする人は、定着できません。仕事をするときは、本心からこれが私の絶対的相対だと考えなければなりません。(注15)絶対的相対を創造するところには、投入して忘れなければなりません。忘れてこそ私と関係を結ぶのです。
(330-117 ~ 118、2000.8.14)


経済問題はいつでも、私と物質の関係です。商売をするとしても、その事業を愛さなければなりません。ですから、私に100 という価値があるとき、この物は100 に対する対象の価値が生じるのです。私に1000 という価値があれば、いくら小さな物、小さな手帳一つでも、これはいくらにもならない物ですが、1000 に対する相対的価値をもつようになるのです。万世の中で立派な人がもっていた万年筆や、どこかで使っていた物がなぜ価値があるのですか。その人の愛が宿り、相対的価値をもったために貴いのです。
(102-126、1978.11.27)


経済を重要視するよりも、経済を重要視する人を重要視しなければならず、もちろん科学も重要視しなければなりませんが、科学を重要視する人を重要視しなければならず、芸術を重要視するよりも、芸術を重要視する人を重要視できなければならないという結論が出てきます。そのように結論を下さなければなりません。


ところが、現在はどのようになったかというと、経済を中心として見てみるとき、経済圏内の人を重要視しているのではないというのです。科学なら科学の圏内にいる人が重要視されるのではなく、科学が中心になったのであり、経済が中心になったのであり、外交が中心になったのであり、芸術が中心になったのです。人は、どのようになったのかというと、無価値になってしまいました。人を通して技術を見て、人を通して経済を見て、人を通して芸術を見なければならないのですが、今は逆さまになっているのです。
(99-116、1978.9.10)


先生は、建築現場に行けば労働者になり、農村に行けば農夫になります。先生は、できないことがありません。何でもできます。大衆を指導するためには、そのような経験をしなければなりません。山に行って、炭を焼くことも知っています。鉱山に行って穴を掘ることも知っています。もし迫害を受けてどうすることもできなければ、鉱山に行き、石炭を掘る穴の中で運動すると考えたのです。そのような訓練もできています。
(256-100、1994.3.12)




皆さんは、ほかの人たちのために涙を流してみたことがありますか。この地上で汗を流してみたことがありますか。労働もしなければなりません。公的に汗を流すこともしなければならないのです。10 里、20 里の道でも、人を救うために一日行ったり来たりすることができなければなりません。そのような鉄則を立てておいて、そこに一致する生活をしなければならないのです。言葉だけではいけません。真理は実体と一体にならなければなりません。


日本全国のために、どれほど汗を流したかというのです。父母の心情をもって人類のために涙を流すのです。神様がそうです。それで、1960 年代まで、先生が説教をするときに、涙と汗を流さないときがありませんでした。汗の滴をぽろぽろ流しながら痛哭する、胸が張り裂けるような説教をしました。
(256-146、1994.3.12)




②勤勉、誠意、そして自助の徳目


―宗教経典―


ここで人々が勤勉を実践するようにしよう。人々が窮乏した者たちを助け、繁栄を享受するようにしよう。
アヴェスター、ウィスプ・ラト(ゾロアスター教)


礼拝が終わったならば、なんじらは大地に広がり、神の恩典を求めて、神をたたえ多く唱念しまつれ、おそらくなんじらは栄えるであろう。
クルアーン62.10 (イスラーム)


怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。


怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を持つ者のように襲う。
箴言6.6 ~ 11(キリスト教)


涙は貧しさに対する答えではない。おなかを空かせた怠け者は、自分以外には誰も非難することができない。怠け者にだけ成功する土台がない。おお、神よ! どこにも私に適合しない所がありません。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


朝と晩には仕事をせず寒さ暑さにまた怠けてしまう。している仕事は最後までやりおおせずやり遂げた仕事もだめにしてしまう。もし寒さ暑さをものともせずに朝晩まじめに務めるならば、仕事は必ず完成し最後まで憂い苦しみはないだろう
阿含経長部iii.185、善生経(仏教)


雇われの生活も楽しい。
シラ書〔集会の書〕40.18(キリスト教)




あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。
詩編128.2 (キリスト教)


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利が私達になかったからではなく、あなたがたが私達に倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたの、もとにいたとき、私達は、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私達は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
テサロニケの信徒への手紙二3.8~12(キリスト教)
折れたつるはしで自ら生産した少ないものが、他の人から得た多くのものよりもよい。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)


放浪し乞食をして自ら聖なる者だと叫ぶ人、彼の足元に敬拝してはならない。熱心に働いて生計を維持し、へりくだって乞食として一部を求める人、ナナーク、そのような人が真に神の道を知る人である。
アーディ・グラント、ヴァール・サーラングM.1、p.1245(シーク教)


窮乏した人にお金を貸してあげる人が、慈善を施す人よりも偉大だ。貧しい者を助けて事業を行い、自らお金を稼ぐことができるように助けてあげる人が、誰よりも偉大な人である。
タルムード、シャッバト63a (ユダヤ教)


世に善男子の如法の財あり、起策し、精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たり。彼は、我に如法の財あり……と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、此を所有の楽と名く。長者よ、又云何なるが受用の楽なるか。……起策し精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たる如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、彼は、我は起策し、精励し……如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、長者よ、此を受用の楽と名く。
阿含経増支部ii.68 (仏教)


怠惰は霊魂の敵である。
ベネディクト規律(キリスト教)




―み言選集―


「お金持ちの家は、きりぎりすのように食べ、酒を飲み、遊んで踊れ。私は蟻のように腰が細くなるほど働く。歌うことを好み、踊ることを好み、冗談を言ってふざけるのを好む、そのような行動を続けなさい。私は地を掘って入り込み、あなた達を葬る穴をつくっておいても、私が暮らせるところまでつくっておこう」と考えれば、地獄まで占領して天国の王になるというのです。
(339-146、2000.12.10)


事務室にいた人たちは、現場に行って一日だけ仕事をすれば、ストレスがすべてなくなります。ストレスは考えることもできず、眠れなかったのも解決されます。ストレスのために眠れないそのような人たちがいるときは、捕まえて穴掘りに連れていき、何日か働かせればぐっすり眠るようになります。
(230-168、1992.5.1)




おもしろさを感じなければなりません。農作業するのも楽しいことです。土地を掘るのも楽しいことです。一生汗を流していけます。家を建てるのも楽しいことです。私がしてみなかった労働はありません。自然と和合して、環境条件において自分と関係を結び、そのようにして事に着手すれば、成功しないことがありません。
(355-96、2001.10.3)


皆さんが仕事をしようとすればお金が必要です。誰もお金をもってきてくれません。私の手でつくらなければならないのです。今日の世界的な基盤をすべて私の手で築きました。誰かがしてくれたのではありません。先生は、追い出されても、島国であれどこであれ、生きていけます。皆さんがすべて死んでも、私は生きます。どのきのこが食べられるものであり、薬草がどれで、毒草がどれか、すべて知っています。


そして、糸と針金1本あれば、釣りざおを作って、いくらでも釣れます。どこでも生き残れます。いつでも自立できる知恵があります。統一教会では、33 歳前にこれを公式的に訓練しなければならないというのが先生の哲学です。
(117-24 ~ 25、1982.1.30)


私には、できないことがありません。鉱山に行けば鉱夫になり、坑木まで支えることができる人です。反対を受ければ、み旨を鉱山に行ってでも成し遂げなければならないと考えました。山中の山賊のような生活をしながらでも、どろぼうせずに山中であらゆるものを食べて生きていける訓練をしたのです。食べる物は、いくらでもあります。


海に行けば、漁夫の中の漁夫です。農村に行けば農夫の中の農夫です。農作業をすべてよく知っています。この地球星のどこに行っても3周だけすれば、手ぶらで基盤を築くことができる能力のある人です。
(273-305、1995.10.29)


福祉の恵沢を受けてうまくやろうという人は、永遠に駄目です。世話になれば、僕にしかなりません。地上で人を助けてあげなければなりません。助けてあげてから逝かなければならないのです。そうしてこそ、あの国に行って高い所に行くのです。いくら優れていると思っても、霊界に行ってみてください。自分だけのために生きる立場で世話になり、受けることを好み、与えることを嫌う人は、すべて真っ暗な地獄に行くのです。
(248-98、1993.8.1)






5.自由


自由に対する渇望は、人類歴史で最も強力なエネルギーとして噴出した。神様は、エジプトにいるイスラエル人の奴隷たちに、神様の自由に対する愛を見せてくださり、彼らを解放することによって、あらゆる所にいる自由を愛する人の手本とした。神様が私達を自由ある存在として創造されたために、人間は、どこに行っても自由を渇望する。神様は人間の自由を尊重する。神様は、人間が誤った選択をしても、そして罪を犯して悲惨になっても干渉しない。


それでも、神様は人間の存在をして、神様の理想的な対象として完成しなければならない目標を指向するように自由を賦与した。そのため、自由はそれ自体に目的があるのではなく、真の愛、真の共同体、神様の国など、より大きな目的に向かう一つの手段である。


さらに、自由は、人間の生に対する神様の計画の助けとなる時にだけ意味があり、有効なものである。罪を犯す場合のように、誤って使われた自由は奴隷状態に導くのである。それで神様は、人間を創造しながら、人間の自由意志を善良な方向に案内する内的羅針盤として良心を与えた。


そして、すべての子女に、自由を適切に使用するよう教育して、愛することができる父母を送ってくれた。自由をめぐる論争は、主に民主主義に基
づいている。そのため、私達は、世俗的民主主義の自由に対する観念の批判、特にカトリック教会の批判は、自由に対する過度な価値付与と西洋民主社会で大きく広まった乱用に対する文鮮明先生の一部の否定的な判断と共鳴する。


最後に、経典は、神様は自由ではなく、どこの誰よりも多くの解放が必要な方だという文鮮明先生の独特な教えを描写しでいるいくつかの章句を含めている。






①神様とその創造から具現した自由の礎石


―宗教経典―


ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二3.17 (キリスト教)


主は言われた。「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
出エジプト記3.7 ~ 8(キリスト教)


この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。(注16)
レビ記25.10(キリスト教)


主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私達の神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め……。(注17)
イザヤ書61.1 ~ 2(キリスト教)


信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン5.105 (イスラーム)


あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32 (キリスト教)


私達の故郷と私達の領土で、自己決断、正義、自由、そして平和に対する私達の要求は……白人の兄弟たちが海を渡って入ってくるまでに、私達が楽しんでいたことの更新だ。私達は偉大な平和の法、すなわち“ガイ・エネシャ・ゴ・ナ”のもと、満足して生きていた。私達は、平和、平等、正義、善心の力の原理に基づく社会をつくるように教育された。


私達の社会は、人々の権威に対する偉大な民主的原理と男女に対する同等な責任に基礎をおいている。これがこの巨大な亀島に横たわる生活の大道だった。尊重を伴う自由はあらゆる所にある。私達の指導者は、ビジョンをもった人であるほど、そしてすべての決定では、未来の7世代に代わって判断するように学んだ。まだ生まれていないあの世代に対する哀れみと愛をもてということである。


私達は、私達を生存させるすべてのものに感謝するよう学んだ。それで私達は、自然界の生命を与える力に対する大きな感謝祭をつくった。私達がこの儀式を行う限り、命は継続するだろう。私達は、“種が法”と聞いた。


実にそれは命の法だ。それは“再生の法”だ。種の中に命と創造の神秘な力が入っている。私達の母は、あの種を養育し保護する。ゆえに私達は私達の母を尊重し愛する。私達が私達の母なる大地を愛するのと同じ霊的な努力と神秘によって。
オ一レン・ラオンス酋長(注18)(アメリカ先住民の宗教)


私達は、次の事実を自明な真理と確信する。すなわちすべての人は平等に創造されたのであり、彼らは創造主によって一定の譲渡できない権利を賦与されたのであり、その中には、生命、自由および幸福を追求する権利が含まれている。
アメリカ独立宣言書


人権、例えば宗教の自由、社会建設の共有の自由、組合結成の自由、経済創出の自由を制限し否定すれば、人間から物質を奪う分、人間を疲弊させるのではないか。
教皇ヨハネ・パウロ2 世社会的関心について(キリスト教)




―み言選集―


自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。
(133-289、1984.11.19)


今、この世界の人類は、自由を享受する個人となり、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを、誰彼を問わず願っています。私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福はあり得ません。今日、自由を叫んでいますが、心情からあふれ出て生きる自由な環境になっていないことを自認しています。
(7-14 ~ 15、1959.7.5)


人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。
原理講論、堕落論5.2


皆さんは、神様が全知全能であられ、できないことがないと知っています。しかし、いくら能力の多い神様だとしても、神様の心情をかき分けて入っていき、その心が果たして自由な立場にいるのかと尋ねるとき、私は「そうだ」と答えられません。また、神様の本心は、希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にいらっしゃるのかと尋ねるとき、これもやはりそうではないというの
です。


神様も自由になることを願われるのが本性であり、本然の心情です。そして、神様は解放された立場で万宇宙を主管すべき、お父様であられます。ところが、そのようにできないことが神様の悲しみであり、全被造万象の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となりました。


いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の位置にいらっしゃることができず、統一された位置にいらっしゃることができないがゆえに、今日この地上で自由を叫んでいますが、その自由は私達が享受すべき真の自由にはなれないのです。神様の自由と解放と統一が、正に人間たちが願う自由と解放と統一の基準であることを、私達は、論理的見地から否定できません。
(4-315 ~ 317、1958.10.12)


愛というものを中心として自由の起源を設定しなければ、理想的な起源はないのであり、理想的な起源がなければ理想的な世界の完成はあり得ません。愛する夫には、すべてのことが自由です。また、愛する妻には、夫がどんな行動をしても自由です。たたいてもよく、すべてを触ってもよいのです。どれくらい自由なのでしょうか。胸を出して夫を求めていってもよく、裸になってどんなことをしてもかまいません。それ以上の自由がどこにありますか。


女性が裸になるのは、自由のゆえに裸になるのですか、愛のゆえに裸になるのですか。愛のゆえに裸になるのです。自由はどうですか。愛を中心として自由だというのです。
(203-10、1990.6.10)


この自然の保護の中で、私自身が豊かに暮らすことができる道を行くのが最高の自由の道だということを知らなければなりません。宇宙の法の中で保護を受け、そこでぶつからないように私自身が矛盾なく行くとき、そこのその場に自由が保障されるのです。これを知らなければなりません。それ以外にはありません。
(117-290 ~ 291、1982.4.11)


私達が自由を求めるために立ち上がった私達の心中をたどって判断してみるとき、果たして私達の心に、このすべての万象の前に一つになることができる自由の心情があるのかということが問題なのです。私達が神様の自由の立場になったなら、私達のそのような自由の心情は、全天下の万民と共に楽しむことができる、そのような基準になるはずのものだったのです。
(4-318、1958.10.12)


今まで民主主義は、「人間の自由」と「人間の解放」を主張してきました。これに対して、私達は「神様の自由」と「神様の解放」を主張しなければなりません。この問題さえ解決されれば、人間の解放はもちろん、人間の自由の回復はおのずと成し遂げられるのです。
(344-54、2001.3.1)






②道徳法によって自我を主管するとき、自由を享有する


―宗教経典―


イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)


キリストは私達を自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙5.1(キリスト教)


兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙5.13(キリスト教)


快楽の追求は苦痛を呼び込むだけであり、邪悪な欲望は首に鉄鎖をかけるだけである。過った快楽を追い求めていくあなたよ、解放はただ神の愛によって成されるのである。
アーディ・グラント、ガウリ-・アシュタパディーM.1、p.222(シーク教)


では、どうなのか。私達は、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。


しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
ローマの信徒への手紙6.15 ~ 18(キリスト教)




自分自身の主人になれない者は、誰であっても自由人ではない。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)






―み言選集―


自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。しかし、人間は自由な存在として創造されたと同時に神様から責任も賦与されました。自由は自己規律と自己抑制を必要とするからです。自由は法則を離れて存在することはできません。


神様は創造主として自ら創造目的を定め、精神的法則を定められました。私達は、創造主が定めた人間の根本的な目的を成就するために、この地に存在しています。人間の精神的幸福は、人間が神様の定められた道徳律に従って個人としての責任を果たすことによって、増進するようになっています。人間がこの法則に違反すれば、自然の法則に違反するときと同じように、自分の破滅を招いてしまうのです。
(133-289 ~ 290、1984.11.19)




神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
(277-201、1996.4.16)


愛によって完全に占領するところで自由が始まります。皆さんの体が自由に行動しようとすれば、真の愛に属さなければなりません。アメリカの自由に対する観念がどれほどでたらめかを知らなければなりません。歴史以来、最も困難な存在が自分です。したがって、自分自身に無慈悲になりなさいということです。分かりますか。そのような人にならなければ自由がありません。
(203-23 ~ 24、1990.6.10)


アメリカの国民が誇れる真の愛がありますか。アメリカ人の愛は、どのようなものですか。それはごみのような愛です。自由世界をすべて滅ぼしたのはアメリカの人です。そうではないですか。アメリカの人から自由という言葉を片付けてしまわなければなりません。自分一人がよいといって、享楽の中の享楽を求めていくのですが、自分の息子、娘が泣き、妻が泣き、自分の一家が泣いているのに、それが幸福の道ですか。自由を求める前に愛を求めなければなりません。自由を求めようとせずに真の愛を求めなければならないのです。真の愛を求めれば、自由はついてくるようになっています。愛が本当の自由をもたらしてくれるのです。(203-12 ~ 13、1990.6.10)


真の自由に対して論議してみれば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は、真の自由ではありません。ですから、どのような自由行動であれ、原則を離れてはならず、責任をもたなければならず、その行動の実績がなければなりません。それでも、このような条件を具備できない立場で自由にしようとすれば、自然に天倫とは遠い距離に置かれるようになることを、皆さんは認識しなければなりません。
(4-318 ~ 319、1958.10.12)
③個人主義を離れ社会的連帯を要求する自由


―宗教経典―


あなたは、この世で他の人の自由を保護することによってのみ、あなたの自由を保護できる。あなたはただ私が自由であるとき、自由でいることができる。クラレンス・ダロウ(注19)


人間の自然的な自由は、地上のいかなる優れた権力からも束縛されず、そして、人間の意志や法的権威の下にはなく、ただ自然法を自己規則としてもつことを意味する。社会で人間の自由とは、国家内に同意によって確立された法的権威の上に、何かの立法権の下にもないのであり、立法府が自らに付与された信託によって制定するもの以外の、いかなる意志の支配や法の拘束にも従属しないことを意味する。


したがって自由というのは……人ごとに自分がしたいと思うことを行い、自分が好むとおりに生活し、何かの法によって縛られない自由ではない。しかし、政府のもとで人間の自由は、その社会のすべての人に共通的で、その社会で確立された立法権によって制定された一定の規則に従って生きていくのである。
ジョン・ロック統治二論2、4.22(ヒューマニズム)


人が社会契約によって失うものは、自然的自由と、もとうとするすべてのものに対する無制限の権利である。彼が得るものは、市民の自由と所有したすべてのものの所有権である。
ジャン、ジャック・ルソー社会契約について(ヒューマニズム)


彼らは人権の重要性をあまりに強調しすぎるように見えるが、実際にはそれを無惨に否定する。このような矛盾の根には、自由という概念がある。このとき「自由」は、絶対的に独立した個人を強調し、社会的結束と寛容、奉仕は念頭に置かない。時折、利他主義と同情心の名で接近することもある。しかし、このような文化は、結局個人の自由概念を完全に否定するものであり、結局は、「弱者に対する強者の自由」の概念に帰結するという事実を否定することはできない。


これは、ちょうど主なる神がカインに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられたとき、カインが言った答えと同じだ。カインはこのように答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4.9)。


そうだ、すべての人は、自分たちの「兄弟」を守る人である。なぜなら、神が私達に互いを任せられたからである。つけ加えて、神が私達に関係性を含む自由を許諾されたという側面からもそうである。人に奉仕するとき、これは創造主が下さった最大の贈り物なのである。……しかし、個人的次元の自由ばかりを絶対視すれば、自由本来の内容は消え去って空になってしまい、その真の意味と権威が否定される。


事実、より深刻な側面がある。これ以上自由と真理の結合を認め尊重しないとき、そのような自由は結局、自分を否定し、破壊してしまい、他人までも破壊に導き得る。伝統と権威から抜け出そうとする欲望に起因する自由は、その上に最も普遍的で客観的で、個人と社会の根幹を成す真理の内容までも否定してしまう。そして結局、その人は善悪に対する真理を自分なりの観点で理解する。
しかし、このような観点は、主観的で変わり易く、自己中心的な理解と気まぐれにすぎない。


間違った自由は、社会的関係にも深刻な歪曲をもたらす。絶対的自律という側面から「自分」を強調しすぎれば、結局は互いが互いを拒否するところまで至る。私以外の他の人はすべて敵になり、……社会はただ何の紐帯感もなく共存している個人の集合程度とみなされる。……そして、社会的関係を結ぶことは、完全相対主義の流れる砂の中に身を投じるのと同じことになる。協議できないものがなく、取引できないものもない。はなはだしくは、人間の根本権利の中で最高の生命権までも協議の対象になってしまった。
教皇ヨハネ・パウロ2 世いのちの福音(キリスト教)




―み言選集―


ために生きて従う、そこではすべてのものが解放です。ために生きれば、自分も解放されますが、ために生きること自体が解放になります。相対が解放されるのです。それで、「ために生きなさい」と言うのです。
(323-73、2000.5.31)


皆さんが以前に「自由」と言っていましたが、自由とは何ですか。自由は自己主張することです。自己主張するにおいて最大の楯とは、自由です。10 人が自由を主張すれば、それぞれの性格が異なり、趣味が異なるため、10 人の境界線が生じることを知らなければなりません。この西欧社会は、自由のためにすべて滅んでしまっています。


今日の自由世界が自由を主張するのですが、皆さん、自由という言葉を本当に恐ろしく思わなければなりません。自由とは何ですか。神様とこの世界の上に上がっていって「自由」と言うならば、それは誰もが願います。ところが、このように下で個人を中心とする自由が、どこにあるのかというのです。
(107-272 ~ 274、1980.6.1)


より次元の高い秩序を完全に維持するための主張から自由が出てきたのであって、秩序を破綻させ、体制を破綻させるために出てきたのではありません。


今日の若者たちが、「私達が1番だ! 食べて、踊って、ロックミュージックを楽しんで、ディスコダンスするのが1番だ」、このように言います。社会と国家と制度をすべて破綻させ、無視してしまい、秩序を破綻させるのが自由ですか。それは放縦であり、破壊的な悪魔の操作法であることを知らなければなりません。
(116-102 ~ 103、1981.12.27)


自由であれば自由であるほど、その世界は秩序と規約が守られなければなりません。精密な機械であればあるほど、縦横に原理原則によって秩序どおりに、法則的な軌道に従って動くのです。このような法則に従うようになるとき、自由な活動の結果が出てくるようになります。これは、今日の科学文明と社会制度を中心として見るとき、否定できません。この社会の構造も自由な形態を必要としています。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としないのですか。


社会制度も人間と相応するものなので、社会制度が組織と体系の既成の規制のもとで形成されていれば、人間はその体系化された制度に応じて、そこに備えられなければならず、それを主体的な立場で、かえって保障させてあげなければなりません。そのようにしなければならない人間だという立場から見れば、放縦な自由はあり得ません。


行くところには必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義思想は無方向です。自分の好きなようにするのに、方向があるでしょうか。しかし、方向のない心がどこにありますか。そのような思考は、滅亡の思考です。
(49-190 ~ 193、1971.10.10)


彼らに最後に残るものとは何でしょうか。孤独が残るのです。それで、この孤独が極致に達する境地に入っていくようになるときには、あなたも信じられず、私も信じられない、不信の自らになるのです。そして、孤独と不信の自らになるとき、宇宙的な恐怖が支配するのであり、結局は自滅を招いてしまいます。今日の歴史は、このような趨勢で動いているのです。


ですから、私達が自由を叫ぼうとすれば、過去に叫んでいた自由や、今日叫んでいる無責任な自由ではない、神様の愛の理念が同伴した真の自由を叫ばなければならず、理念的であると同時に、心情に通じ得る自由を叫ばなければなりません。
(4-319 ~ 320、1958.10.12)

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世界経典-70

2022年08月14日 16時47分49秒 | 学習


7.父母愛


父母の位相には、最上の高潔性と、極大の利他的情緒が要請される。父母ならば誰でも、子女のために自身の人生自体をすべて犠牲にする。子女の所有の意味は、高揚された人生の経験として道徳的な力を発揮し、無節制な生活様式を清算し、子女のために責任をもつモデルの役割を発揮するということである。そして、子女の養育の必須条件は、犠牲と忍耐と容赦であり、それは、ほぼ神的境地に近い愛を啓発するということである。


父母の愛は、家庭の最上の段階だ。夫婦段階から父母段階に格上げしようとするならば、夫婦は必ず子女をもたなければならない。それはまた、人間完成のための必須義務である。そして、父母の基本的な課題と責任は、子女の教育である。


文鮮明先生はこれを、心情教育と規範教育であると説明される。このような一連の教育には、各段階別に扱われる三つの側面がある。道徳的教育、
連帯的訓練、典型的生活設定がそれである。世界経典の「知恵」では、子女の適切な成長のために愛と配慮の教育を父母の本質的義務とみなす。一方、父母の愛が乱用されれば、子女の教育は失敗する。愛の乱用は、誤った性格を形成するからである。特に父母の手本は、神様に向かう父母自身の特別な信仰と献身の手本とに関連している。それは、子女自身の信仰を発達させられる鍵になるからである。そして、父母は害悪から子女を保護する最大の守護者である。


十代の娘をもった父母ならば、どこの誰でも子女の安全保護を心配し、夜も眠れないでいることを私達は知っている。最後の部分の章句は、子女のための犠牲的な愛、父母の心情に対して記述し、子女が失敗するとき、彼を赦して、彼のための最善とは何かを記述する。






①子女の本質的価値


―宗教経典―


神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)


出産をわざと抑制する人は、神の神聖な形状に害を及ぼすのと同じである。
創世記ラッバー34.14 (ユダヤ教)


見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも、恥をこうむることはない。
詩編127.3 ~ 5(キリスト教)


子供は男性の服である。(注24)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
国民の全未来は、その国民の子供たちに対する態度にかかっている。そして、女性を「つまらない用途」と規定したり、経済と政治の分野で性の競争が、未来世代の創造より価値のある努力だと信じる国民は、死んでいく国民だ。
L.ロン・ハバード生存の科学(サイエントロジー)




―み言選集―


結婚すれば、息子、娘を生まなければなりませんか、生んではいけませんか。生まなくてもよく、生んでもよく、それは好きなようにすればよいと思うかもしれませんが、そのようにはなっていないので、生むことを願うのです。


生まなければなりません。なぜ生まなければならないのですか。生まなければ愛のみ旨を成し遂げられません。愛も東西南北があり、中央の愛があるのですが、ぴたっと中央を中心としてこそ、その根が東西南北の四方に伸びていき、大きな木を支えることができるのです。
(214-12、1991.2.1)


子女がなぜ必要ですか。神様の愛を知り、父母の愛を知って父母に侍ることができ、夫の愛を知って夫に侍ることができ、子女の愛を知って子女に侍ることができなければなりません。子女に命令ばかりするのではなく、侍ることもできなければならず、「ために生きる」ことができなければならないというのです。


そうしてこそ、神様の愛を理解できます。教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子女をどれほど愛したか、知らないのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。自分がまた父母にならなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。すべてそれを年代ごとに分かるようにするための教材としてつくったので、皆さんに息子、娘がいなければ真の父母になれません。
(133-138 ~ 139、1984.7.10)


お母さんとお父さんは、愛なしには一つになれないのです。皆さんは、なぜ愛を好みますか。「好まない」と言っても好まざるを得ないようになっているためです。お母さん、お父さんが互いに愛する力が、個体のための力よりも強いほど、より理想的なのです。お母さん、お父さんを完全に一つに縛りつけるものは愛の綱です。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆がついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして父母と子女の関係は御飯でもお金でも縛りつけられません。ただ、父子関係の愛でのみ縛りつけられます。
(18-329、1967.8.13)


それでは、結婚して何をしようというのですか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子女を生もうというのです。息子、娘を生めなければ、その家庭は家庭のグループにも入れません。息子、娘を生むことができなければ、分かれ始めるのです。息子、娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて、事のついでに離婚したいと思っても、息子さえ生んでおけば、その夫もどうすることもできません。否応なく一緒に暮らさざるを得ないのです。ですから、家庭を築くにおいては子女がいなければなりません。
(23-25、1969.5.11)


自分の息子、娘を自分の夫より、妻よりもっと愛さなければなりません。
(130-165、1984.1.8)
夫が良いか、息子、娘が良いかというとき、夫よりも息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れられますが、息子、娘とは別れられません。族譜から抜いたとしても、血筋を受け継いだので、分けることができないのです。夫と妻は離婚して別れれば忘れることもできますが、息子、娘は、時間が流れれば流れるほど、もっと慕わしく思い、会いたいと思うようになります。このような事実は、子女をもってみた人なら、誰もがよく分かるでしょう。
(18-112、1967.5.28)


父母が子女と向き合うとき、その愛する子女が自分よりも劣っていることを願う父母はいません。ある美男美女が結婚して最初の子供を生んだとき、その赤ん坊の顔が父母の顔と比べて何でもなく、ただそれなりの顔だとしても、その赤ん坊の顔を見て、「あなたの子供は、あなたよりどれほど良いか分からないほど立派に生まれた」と称賛すれば称賛するほど、その父母は、口がにこっとなるのです。それは間違いありません。子供が立派だと称賛するのに、「父親と母親をさておいてそのように言えるのか」と思う父母はいません。
(77-102、1975.4.1)


私が母から聞いた話があります。私の母は(注25)子供をたくさん生みました。10 の峠を少し越えて三つの峠を越えたので、13 人を生みました。13 人を生んだので、イエスの一派をすべて満たしたことになります。12 弟子とイエスまで合わせれば13 人になるのです。


そのように13 人生んだのですが、母が言ったことがあります。「世の中に楽しみといってもほかの楽しみはありません。赤ん坊を生んでお乳を飲ませて育てるとき、それ以上の楽しみはありませ
ん。老いて子供が生めないので、すべてがおもしろくなくてつまらない」、このように語ったのです。
(44-200、1971.5.7)


霊界では、息子、娘を生むことができません。この地上でしか、息子、娘を生むことはできないのです。そこでは息子、娘を生めません。天国の民を生むことができる所は、この地上しかないのです。ですから、この地上で神様の真の愛を中心として息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(218-200、1991.7.28)






②堅実と愛で子女を養育


―宗教経典―


父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エぺソの信徒への手紙6.4 (キリスト教)


若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言22.6 (キリスト教)


鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言13.24 (キリスト教)


魚は新鮮なときに巻きつけなければならない。(注26)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)


あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、私達には、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に
服従して生きるのが当然ではないでしょうか。


肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私達の益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ人への手紙12.7 ~ 11(キリスト教)


善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木技を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩
を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。……


善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善霊誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念して、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経471 (仏教)


子供が天性に従ってあらゆる過ちを犯すとき、父は彼を訓戒し冷遇するだろう。しかし、彼は再び彼を懐に抱くものである。
アーディ・グラント、ソーラトM.5 (シーク教)


彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」


しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15.20 ~ 24(キリスト教)


娘は父親にとって、人知れぬ不眠のもと。娘への心配で彼は夜も眠れない。若いときには、婚期を逃しはしないか、結婚すればしたで、夫に嫌われはしないかと。またおとめのときには、父の家にいるうちに、辱めを受けて、子供を宿しはしないかと。夫を持てば持ったで、過ちを犯しはしないか、結婚してからは、子ができないのではないかと。
シラ書〔集会の書〕42.9 ~ 10(キリスト教)






―み言選集―


世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。
(36-73、1970.11.15)


父母がむち打って、「こいつ、勉強しなさい! 出ていって僕になるぞ、こいつ」と言いながら叱責するのは、すべて子女のためにそのようにするのです。そして、その父母はその子女のために泣きながら祈祷し、胸が痛んで夜眠れません。これが真です。
(102-253 ~ 254、1979.1.14)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてすべて返してもらおう」という心をもつ父母は、真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛して、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えてあげようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救い、救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)


父母は、自分が最も好きなものを先に与えたいと思うのです。最も良いものを与えたいと思うのですが、与えることができないのは、それを管理できないからです。それを与えれば、それをもらった人が被害を受けます。ぎらぎらと鋭く光る研ぎ澄まされた刃を与えたいと思っても、間違って与えれば、それ自体が滅び、家が滅び、全体が滅びます。ですから与えないのです。
(29-108、1970.2.25)


韓国の格言の中に、「愛する人にはむちを与え、憎む人には御飯を与えよ」という言葉があります。一理がある言葉です。なぜかというと、正しい伝統を受け継がせるためです。父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛に涙を流せる人にならなければなりません。
(95-81、1977.10.23)


父母が子に対して憤って、手でたたけばどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのです。そうするのではなく、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないで、いつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ、たたけば効果が少ないというのです。
(41-333、1971.2.18)


皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私達のお父さんとお母さんは、絶対にけんかをしない。私達のお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言えるようにならなければなりません。それが教育です。
(90-123 ~ 124、1976.10.21)


父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。
(23-184、1969.5.18)
愛の本質とは何ですか。人のために生きようということです。自分の自主的な本質を中心として人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこかも来たのですか。天から来たのです。神様は、絶対的愛の主体なので、与えようとすることが愛の本質です。


このように見るとき、父母の愛がその本質に最も近いところにあるので、子女に対して常に与えようとするのです。その子女が受け取らなくても、いくら強盗の一味だとしても、父母が昔愛したよりもっと大きな愛をもって現れて愛すれば、悔い改めて戻ってくることができます。


しかし、「こいつ、私がお前をこれほど愛したのに、寡婦の身で、老いて腰が曲がっても愛したのに、その愛が分からないのか。こいつ!」と言ってキセルで額をたたいたとすれば、そのように3回しただけでも、その子女は荷物をまとめるでしょう。


父母が涙を流し、「私の愛が足らないからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と言いながら、その子女の骨髄が溶けるほど涙を流して、より大きな愛をもって子女の前に立つようになるとき、その子女はどうなりますか。戻ってくるのです。より大きな愛には、弱い愛をすべて消化、統合させることができる主管性があるのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)


霊界に行けば、法の中で最も恐ろしい法とは何でしょうか。子女を死の場に立てた罪を裁く法以上に恐ろしいものはないことを知らなければなりません。


なぜそうなのかというのです。神様もできないことをしたのです。ですから、赦す法がありません。赦すことができないのです。神様もできることであれば、赦すことができるのですが、これは神様もできないことなので、神様御自身も赦すことができないという結論が出てきます。ですから、最も恐ろしい罪です。
これは赦されないことを知らなければなりません。その代わりに、子女のために死のうという父母は神様が擁護してくれます。「私と同じだ!」と言われます。子女のために死ぬ父母は、天国に行けることを知らなければなりません。
(93-335、1977.6.17)




③先祖の伝統による子女の教育


―宗教経典―


主は言われた。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~ 19(キリスト教)


(ルクマーンは言った)「むすこよ、礼拝の務めを守り、善いことを命じ、悪いことを禁じ、おまえに降りかかることに耐え忍べ。、まことにそれは、ものごとを決定し成し遂げる」。
クルアーン31.17(イスラーム)




ある人が子供に遺産として譲り渡すべきものは学びだ。他のものは本当の財物ではない。
ナーラディヤール134 (ジャイナ教)


あなた達はこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ……。
申命記11.18 ~ 19(キリスト教)


わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。
箴言6.20 ~ 23 (キリスト教)


子供にあげると約束したことを破ってはいけない。それは子供にうそを教えることだからである。
タルムード、スッカー46b (ユダヤ教)
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。
テモテヘの手紙二1.5(キリスト教)




―み言選集―


父母が息子、娘を呼んでおいて、「お前はこのような人になり、またこのようなことをしなさい」と教えたとしても、「お前は神様を知っている人になりなさい」と教えることには及びません。
(11-308、1962.3.5)


皆さん、息子、娘にこのように生きなければならないという伝統を残さなければなりません。
(71-19、1974.3.24)


家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。


父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師になり、心情教育、規範教育を正しくさせるようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままを学んで似るようになります。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら、愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。


今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。


これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもてなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わり得ません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)


父は子女と、どのように向き合わなければならないのでしょうか。友人の中の友人にならなければなりません。そうなれば、自分の友人と遊んでいても、父が現れると、友人をおいて父のところに駆け寄ってくるのです。そして、師の中の師にならなければなりません。心情においては、いつでも支柱、すなわち中心にならなければなりません。
(57-282 ~ 283、1972.6.4)


父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。


子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。
(31-268、1970.6.4)


いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。




子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそ、それが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。
(36-73、1970.11.15)


皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。


そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。
(31-168、1970.5.24)


この世で、人間として一生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。(101-201 ~ 202、1978.10.30)
8.祖父母愛


祖父母は、家族に知恵、経験、孫と孫娘に対する歓喜の愛を施す。3世代が一つ屋根の下で暮らす伝統的な文化では、子女は祖父母を栄誉とし、日常生活の一部分として病弱な状態にある彼らを世話する。子女は、その過程で愛と尊敬に対する教訓を学ぶ。祖父母は、道徳的な碇(いかり)である。父母が薬物と犯罪で腐敗し、子女を世話するには不適格な相対になる事例があまりにも多い。その時、祖父母が父母の役割を果たすために代役をする。文鮮明先生は、利己心に寄与して道徳を墜落させながら、都市化し、産業化した社会で3世代家族が消滅することを批判している。


多くの伝統において、父母と祖父母に与えられた栄誉は、献身の垂直的連鎖にある先祖と神様に捧げる栄誉と連結されている。このような面で、文鮮明先生は、祖父母を家庭における神様の代身者だと表現する。彼らに栄誉をもたらすことは、すべての人類の最も偉大な祖父母、神様に栄光を捧げる道である。
―宗教経典―


白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。私は主である。
レビ記19.32 (キリスト教)


孫に対する祖父母の感情は、このように表現され得る。「私達の子供たちは、私達にとって愛らしい。しかし、孫たちが生まれたとき、彼らは私達の子供たちよりもっと愛らしく見える」。あなたは、その祖母が彼女の孫たちに対する有り難さを表現しようと、あまりにおおげさだと言うかもしれない。


それは、彼女たちが幼い少女だったとき、彼女たちに形成された希望を思い起こさせる。その希望とは、彼女たちが生きていきながら、ある日祖母になるだろうということである。そして、時になって祖母になれば、彼女たちの有り難さを表現しようと、まれな任務を遂行する。
ヘンリー・オールド・コヨーテ(アメリカ先住民の宗教)
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)


父母は我が家の神己が神と心つくしていつけ人の子(父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。)
本居宣長玉鉾百首(神道)


子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず、罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
シラ書〔集会の書〕3.12 ~ 14(キリスト教)


父が私を呼ぶために人を送られた。私は彼の臨終を見た。私は彼を湾曲した美しい渓谷に埋めた。私は世の中のどこよりもそこを好む。自分の父の墓を好まない人は獣にも劣る。
ネズポス族の伝承(アメリカ先住民の宗教)




―み言選集―


皆さんは、子女の位置にいるのですが、どのような運勢を受けるのでしょうか。祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を受け継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのですか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母とは何でしょうか。現在を代表するのです。また、その次に、子女は、未来を象徴します。


このようにすべて入っています。そこには東西も入っていて、南北も入っています。すべて入っているのです。全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、すべてがこの真の愛を中心としています。皆さんの家庭を考えるとき、このことを考えなければなりません。


ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬することは、過去をすべて受け継いで過去の世界を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛すること、子女を大切に思うことは未来を学ぶことです。


家庭の中にこの三者がいれば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの人がいなくても同じです。
(162-140 ~ 41、1987.4.5)


おじいさん、おばあさん、舅、姑、夫の姉妹、孫まで一緒に暮らそうというのです。蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。父母だけを愛するのではなく、おじいさんを愛することができてこそ、神様を愛するのです。父母の上におじいさんをおいて愛することができてこそ、神様を愛するというのです。
(128-18、1983.5.29)


祖父母は、霊界の神様を身代わりしています。祖父母の位置は、天の国です。家庭で最も年を取った人がおじいさんで、天の国の位置です。天の国を開くことができる代表的実体存在です。ですから、神様の代身者として侍らなければなりません。天の国の王を代表しているので、神様の代わりにその位置に迎えなければならないのです。これが家庭の伝統的教訓です。これが創造理想的モデルです。(251-219、1993.10.17)


夫婦でけんかすれば、おじいさんとおばあさんが愛で、「おいおい、やめなさい」と、また息子、娘がけんか、孫がけんかすれば、「おいおい、やめなさい」、このように愛をもって僕の役割をするのです。すべて「あなたが上だ。あなたが立派だ」と言いながらために生きてあげます。愛の僕の役割を最大にする方がおじいさんだということを知らなければなりません。


夫も妻が「ええんええん」と泣けば、「お前、泣くのはやめなさい。私はすべて分かっている。あなたが願うことはすべてしてあげよう」と言うのです。宇宙で最も偉大で、驚くべき1番の権勢をもった人とはどのような人かというと、愛の僕の道を行った人です。
(135-121 ~ 122、1985.10.4)
美しい嫁が白髪混じりのおばあさんとおじいさんに、愛の心をもって自分の愛する夫よりもっと良いものを買ってあげようとすれば、どれほど美しく、どれほど愛らしいでしょうか。美しい嫁が、自分の愛する夫に何かを買ってあげる以上の喜びの心で、しわしわのおばあさんとおじいさんに買ってあげるその場面は、どれほど素晴らしいかというのです。そうすれば、おじいさんとおばあさんが隠しておいたすべてのもの、愛に関するすべてのものをくれるというのです。


世の中で最も年を取ったおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、そのおじいさんのために生きる愛を、自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学べば、神様の秘密倉庫にあるすべての愛の宝を受けられます。どれほど素晴らしいことでしょうか。
(107-329、1980.6.8)


おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫嫁たちはみな見るのを嫌います(注27)。なぜですか。早く死になさいということです。しかし、愛をもった孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日は、私の目から雨のような涙が流れるなあ。ああ、千年、万年一緒にいればよいのに」と思うのです。
(184-270、1989.1.1)


年を取った人たちは必要ないといっては、将来どのようになりますか。年を取った人をすべて無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人を嫌う人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り払う人になるのです。
(21-120、1968.11.17)






第20章 社会


1.社会の土台としての家庭


社会は、各家庭が細胞の役割をする一つの有機体である。各細胞である家庭が健康であってこそ、その細胞が集まった社会も健康になる。反対に家族が破壊されれば、社会も同じように混乱してしまわざるを得ない。最近、家族解体の拡張は、国家の未来を憂慮する心配事である。


しかし、「家庭の価値」を家庭中心に解釈することは誤りである。「私の家庭は私の聖体である」という態度は、また一つの利己主義にならざるを得ない。「愛の修練所」(第19 章1.「人生の基本形態」参照)である家庭で学ぶ教訓は、すべての水準の社会組織に適用されなければならない。それゆえ、儒教の倫理は、孝行の規範を社会奉仕のための基礎倫理であると見る。


すなわち、家庭で父母に侍って生きることが、国に奉仕する訓練になるのである。同じように、
兄弟、父母、そして子女に対する愛が、私達と同年配、私達の父母のような世代、私達の子女と同じ世代の隣人たちを思う愛に拡張されなければならない。これによって、各家庭での愛の関係が、人類大家族を包括するように拡張されるのである。


①健康な家庭が堅固な国家を形成する


―宗教経典―


人の道はいたって手近かなところにあるのに、人はこれを高遠なところにさがし求めている。また、人のなすべき事はきわめて容易いことなのに、人はこれをわざわざ難しいものとして考えている。実は各人がみな自分の親を親として尊び、長者を長者として敬いさえすれば、天下はおのずから泰平に治まるのだ。
孟子Ⅳ.A.11 (儒教)


一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ、義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド、ギーター1.40 ~ 42 (ヒンドゥー教)


本然の家庭の姿が社会の基礎である。その家庭は、堅固であり、一夫一婦制の家庭である。一夫一婦制は神が設定されたのであり、キリスト教で神聖視される法である。この家庭の中では、いくつかの世代が共に暮らし、知恵が成長するように互いに助け、他の社会的欲求を個人の権利と一致させるように協力してくれる。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)


歴史が証明するように、国の根幹である道徳秩序が弱化し、国の生命の源泉である結婚と家庭構造が悪習に侵害されるとき、その国の反映と国民の幸福は、これ以上保障され得ない。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ―結婚の尊厳―(キリスト教)




―み言選集―


人類が一つになるための最も堅固な基礎は、正に真の家庭理想から始まる普遍的で核心的な真の愛であることが明確になりました。
(330-252、2000.8.18)


家庭教育は、今後その国が福を受けられるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。
(31-243、1970.6.4)


現代社会において、青少年問題が大韓民国だけでなく、世界的に物議を醸しています。(注1)それは、父母をきちんともつことができず、兄弟をきちんともつことができないところから、男女関係において欠如した諸事情が原因となり、そのような結果をもたらしたのです。このような事実を見てみるとき、このあらゆる病弊を是正できる基準となるものとは何かというと、これはやはり家庭なのです。(23-13、1969.5.11)


今日の青少年問題やあらゆる社会の問題の内容を掘り下げて調べてみると、その由来がすべてそこから始まっているのです。だからといって彼らに父母がいないわけではありません。父母がいることはいるのですが、父母の心が息子、娘の心の深い所にないというのです。言い換えれば、父母の情が子女たちの骨髄に深く固められていないのです。ですから、そこから父母と子女の間に隙間が生じるのです。
(25-60、1969.9.28)


世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところでは、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。道徳的退廃こそ人類を苦痛と絶望のどん底に追い込む原罪なのです。未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。(288-140、1997.11.26)
アメリカは滅びるようになっています。愛の問題が混沌としたローマは、戦うことなく、それ自体の腐敗によって滅びました。同じことです。アメリカも滅んでいます。長続きしません。今最も混乱しています。文明国であるアメリカが性に対してめちゃくちゃであり、発展途上国でもめちゃくちゃです。その秩序を立てることができない日には、人頻の希望の世界、幸福の世界、理想の世界はありません。
(118-296、1982.6.20)






②家庭の徳目は社会の徳目の土台


―宗教経典―


自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。


詩経に〔文王の徳をほめたたえて〕「まず夫人をみちびき正しくし、ひいては兄弟を、〔さらには民草を〕、そして国家(くに)をば安らかに」とありますが、つまり、これは身近なものに対するその心を、そのまま他人にも移せよというたまでのことです。だから、このなさけ心をおし広めてさえゆけば、広い天下でも治めてゆけますが、もしも〔反対に〕この心をおし広めなければ、身近な自分の妻子でさえも治めてゆけません。むかしの聖人が今の人に優れて偉大だったのは、外でもありません。ただ、よくこの心をおし広めたからなのです。孟子IA.7(儒教)
若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
テモテの手紙一5.1 ~ 2(キリスト教)


老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)


親縁の発生する源泉として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族を好く収め和合させて宗子に仕えるのであり、宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って、宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈り、それ故に人民を愛して、人民が忠良であることを求め、それ故に刑罰が公正であることに努め、それ故に人民みな安心して産業にいそしみ、それ故に国の財物が殖え、政治の費用も充分であり、それ故に万人の願うところを多く実現することができ、それ故に万人みな礼に従い、風俗が乱れず、かくてこそ万人みな心安らかに身は楽しい。
礼記、大伝(儒教)


孝は天地の不変の法則、秩序の常道として、聖人によって明示したことから、民人はこの天地不変の常道に則り、孝道を以て行為の準則として、人間の本務を全うしなければならない。だから、聖人が人々を教える方法は、天に輝く日月が万物を明らかに照らすという、不変の法則にならい、地の高下や土地の肥瘠の宜しきに従って、万物を培ひ育てる。


この故に聖人は広く天下の人々に対してねんごろに教えを垂れるのである。恒久の秩序や法則に従って、広く天下の人々を教え導いてきた。それ故に、聖人の教えは、ことさら厳粛にしなくても自然に成り、聖人によって示された政治は、ことさら厳粛にしなくても自然に治まる。
孝経7(儒教)


―み言選集―


人間は、自分の父母を愛するように隣人の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣人のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣人の息子、娘を愛さなければなりません! それで、上下関係が展開し、左右関係が展開し、前後関係がそこで展開するのです。それが展開してこそ、この縦的な心情の基準が定着し、天道が生じるのです。
(70-152、1974.2.9)


出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私達の標語は、「父母の心情、僕の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。
(17-338 ~ 339、1967.4.30)




私の父母は先生の代身であり、友人の代身であり、あらゆる愛を下さる主体の代身です。それで人類を身代わりすることができるのです。それはなぜでしょうか。人類の愛を受けるためです。ですから、父母に孝行しなければならない、ということは歴史的な結論をもった理論です。
(105-108、1979.9.30)


真の父母は、孝子になってから忠臣になってはいけないと言いません。真の父母は、その孝子に家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たして世界のために生きなければならず、世界を犠牲にしてでも天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を求めていかなければならないと、教えてあげなければならないのです。


そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも、国を救って愛国者になるのです。聖人というのは、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして天の国と地、地上天国と天上天国を成し遂げなけれ
ばならないのです。
(287-25、1997.8.10)






2.社会の道徳的基盤


良い社会は、霊的道徳的基盤の上に建設される。今日、科学的で物質的な時代に文鮮明先生は、現代の多くの霊的指導者らと共に、道徳性と霊的価値がますます墜落しているのは、社会的平和が不安に近づく脅威だと警告される。


今、私達の社会で軽視されている基本的なことは、以下の内容である。第1に、正しい市民を形成する道徳と徳行である。第2に、教育、特に若者たちに目的意識と方向意識を提示して、セックスと麻薬による快楽的な生活様式を遠ざけようとする人格教育である。第3に、宗教である。宗教は和解と平和のメッセージを通して、戦争や派閥政治、人の自己利益の極大化の態度を鎮静させることができる。そして宗教は、神様に祈祷をすることによって、国家のために神様の祝福を取りもつことができる。


特に、アメリカで建国の先駆者たちは、アメリカの自由を確保し、繁栄を維持するために道徳と宗教の役割を明確にした。アメリカでの長い牧会活動の過程で、文鮮明先生はしばしばアメリカが神様に帰ること、神様のみ旨を尊重するこどを勧告した。






①道徳の基盤


―宗教経典―


地上は激情を抑制し、正義の実践に従い、欲望と貪欲と怒りに汚される事のない者達の誠実さによって支えられている。
ヴィシュヌ・プラーナ3.12(ヒンドゥー教)


彼らの考えと行動の根本が敬虔さと信仰心、真理と正義に根ざしていれば、どの個人も損害を受けることはなく、どの国家も繁栄と成功が拒否されないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ説教21(シーア派イスラーム)


世界は三つの上に立っている。法、天に対する敬拝、人に対する好意。
ミシュナ、アヴォート1.2 (ユダヤ教)


武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んでほんとうに服従する。
孟子Ⅱ.A.3 (儒教)


身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)


またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。
クルアーン3.104 (イスラーム)




『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)16


私達には、道徳と宗教に制御されていない熱情と闘うことのできる力で武装した政府がない。私達の憲法は、ただ道徳的で宗教的な国民のためにつくられた。それは、異なる国民の政府にはとても不適切なものである。
ジョン・アダムス


政治的繁栄に導くあらゆる資質と慣習の中で、宗教と道徳はなくてはならない支柱となる。人間の幸福のためのこの巨大な柱、人間と市民の義務を最も確固として支えるこの支柱を崩そうとする人は、いくら愛国の功徳を叫んでも、無駄に終わるだろう。
ジョージ・ワシントン大統領離任辞




結局、普遍的な諸権利はどこから始まるのか。小さな所から、最も近い所から、あまりに近く、あまりに小さいため、それらは地球のどの地図にも見ることはできない。しかし、それらは個々人の世界、すなわち隣人、学校や大学、工場、農場、または事務室にある。そのような所は、すべての男性と女性、子供たちが、差別がない平等な正義、平等な社会、平等な尊厳を追求する場所である。


それらの諸権利がそこで意味をもたなければ、それらは、どこであっても全く意味がないだろう。最も近くでその諸権利を支えようとする市民の行動に関心をもたずに、私達がより大きな世界で進歩を求めることは無駄なことだろう。
エレノア・ルーズベルト(注2)




―み言選集―


聖書には聖霊の九つの実に関する記録があります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5・22)とあります。この聖霊の九つ
の性稟、これは神様が主張し、神様が建設し、神様が立てようとされるその国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念ですが、これを皆さんは心ど体にしみるように感じてみたことがありますか。(4-112、1958.3.16)


国に忠誠を尽くす忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないので
あって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩になるしかありません。
(34-19 ~ 20、1970.8.29)
平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の開発にかかっています。世界平和や和平した国も、その構成員個々人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善の人々によって応用されるとき、これが人類の生活向上のために価値あるものとして使われるのです。


歴史を通しても聖賢たちや偉大な師たちが、平和で幸福な世界のために家庭、社会、国家を指導することに彼ら自身を捧げてきました。私達は21 世紀に挑戦するため、道徳的に霊的に完璧な指導者をはぐくめる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要とします。
(271-74、1995.8.22)


共義主義は、真の愛を中心とした普遍的な倫理道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理道徳を普遍的に実践する道義社会を指向する理想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提にしています。
真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身の調和、統一を成した人になります。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、自律的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界がまさしく理想世界です。
(271-78、1995.8.22)






②教育の基盤


―宗教経典―


教育の視察中だったラビ・アシとアミは一つの村に入り、その村の守護者に会おうと要請した。村の議員たちが、自分たちが守護者だと言って現れると、ラビが言った。「この人たちは、守護者どころか、かえって村を破壊する者たちではないですか! 村の守護者とは、青年たちの師であり、老人たちの指導者です。詩編にもあります。『主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。』(詩編127.1)」。
哀歌ラッバー(ユダヤ教)


先生が衛の国に行かれたとき、冉有(ぜんゆう)が御者であった。先生が「〔衛の人口は〕多いね。」といわれたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「富ませよう。」といわれた。「富ませたら、さら
に何をしたものでしょう。」というと、「教育しよう。」といわれた。論語13.9 (儒教)
まるで毒のように個人と国民と国家を壊し、多くの人たちの心を混乱させる悪の根源と根は、正に真理に対する無知、さらには、真理に対して軽蔑し、徐々にこれから遠くなることである。ゆえに正しさと健全さにより、悪で誤った媒体に立ち向かう必要がある。悪習を広げ、誤った考えを誘発する放送、映画、テレビプログラムに立ち向かい、真理を死守し、健全な道徳性を守るためのプログラムがつくられなければならない。
教皇ヨハネ23 世アド・ペトリ・カテドラム(キリスト教)




―み言選集―


民主主義は、世俗的人本主義をつくり、神様を追放しました。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放してしまいました。フリーセックスとは何ですか。この亡国のサタンの血、地獄の沼に丸ごと落ちていくことを知らずにいるのです。これを防御しなければならない使命が統一教会にあるのです。
(193-306、1989.10.8)


未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいます。




すべての家庭の悩みが解決されない社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするのですか。人類は今、家庭の価値を守護し、高揚させることができる教えとその方法を探し出さなければならない時点に来たのです。冷戦以降の時代は、正にこの家庭の価値を守護し、高揚させなければならない時代です。
(288-140、1997.11.26)






③神様と宗教の基盤


―宗教経典―


結局は、天のための集会が開かれる。そして、これ以上天の意志に反する集会は開くことができないだろう。
ミシュナ、アヴォート4.14(ユダヤ教)


主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
詩編127.1(キリスト教)


私達に命を下さった神が自由を下さった。それでは、私達がその唯一で堅固な基礎、つまりこの自由が神の贈り物だと考える国民の確信を除去するとき、一つの国の自由が保障されると見ることができるだろうか。自由は、神の怒りなく侵され得るものてはない。実に神が正義だということ、そしてその方の正義は、永遠に眠りにつかないことを考えるとき、祖国を憂慮し私は戦々恐々とする。
トーマス・ジェファーソン


アダムの子孫は、二つの部類に分類されなければならない。第一は、神の王国に属する者たちであり、第二は、世の中の王国に属する者たちだ。……前者は敬虔さを重視し、後者は外的な平和を成し、悪の行為を防止しようとする。世の中は、このうちのどちらか一つでもなければ完全ではない。
マルチン・ルター世俗の権力(キリスト教)


この誤った人間の氏族は、政府と社会の政治機構を通して、その環境を完全にしようと夢見る。しかし、外的な環境が完全になり得るのは、ただ内的霊魂の完全によってである。「あなたは中にいるものであり、あなたの外にあるものを享受しなければならない」、そのいかなる政治機構も、あなたの存在の法則からあなたを救うことはできない。
シュリ・オーロビンド(ヒンドゥー教)
この国の法律の根本的な基礎は、シナイ山にいるモーセに与えられた。私達の権利規制の根本的な基礎は、私達が出エジプトと使徒マタイ、イザヤと使徒パウロから得たその教えから来た。私は今日、私達がそれを十分に強調していないと考える。もし私達が正当で、根本的な道徳的背景を確保しなければ、私達は結局、国家以外には誰のための権利も信じない全体主義的な国として終わってしまうだろう。
ハリー・S・トルーマン28


主なる神が自ら立てられたこの教会を、人間の生と法、青年教育、国内政治から排除させることは、重大で致命的な過誤である。宗教が追放された国は、きちんと規制されないのである。
教皇レオ13 世イムモルターレ・デイ(キリスト教)




―み言選集―


私達は、失われた本然の園、失われたお父様の理念を探し出して、万物を主管し、守るべき者であり、万物と共に愛の因縁を結び、それを束ねてお父様のみ前に帰し奉るべき者であり、お父様が天地を創造された御心情を通して、お父様の愛の花を咲かせ、結んでさしあげるべき全体的な責任を負っているということを知っています。


そうですので、一歩も踏み出せないまま、深い眠りの中に入っている、すべての世界人類を目覚めさせてくださって、新しい光明の朝を迎え、天を見つめ、再び目覚めることのできる群れとなるよう許諾してくださいますことを、愛するお父様、
切にお願いいたします。(注3)
(5-277、1959.2.15)


今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。
(359-143、2001.11.6)
神様は、心と体、そして宗教と政治が一つになり、「ために生きなさい!」という原理を実践する国だけを祝福されます。しかし、天の権能に対して考えない盲目の政治家たちは、いまだに地上ばかりを見ています。共産主義の指導者たちは、70 年以上の間、神様なしで富を実現しようと努力してきましたが、彼らの国は既に破産してしまっています。同じように、西欧の国家も、景気後退、犯罪、社会的腐敗などで恐ろしい熱病にかかっています。しかし、このような問題は宗教指導者たちが、目を見開いてそれらの真の原因を発見する時までは解けないのです。
(234-225、1992.8.20)


国家の指導者の中には、独裁者が多かったのです。自分個人を中心として家庭を収拾するだけでなく、自分の一族と一国を越えて世界を自分の思いどおりにすべて収拾し、自分の欲望を充当しようとした政治家がたくさんいたのです。


ですから、歴史の背後を見れば、今日この世界のあらゆる国家は、力の政治によって自分の民族を導いてきました。民族を中心とする善とは何だったのかというと力でした。力をもって弱い人たちを占領し、自分の版図圏、所有圏を拡張してきた歴史的事実を私達はよく知っています。


それに反して、今日の私達が見る宗教の歴史は、博愛主義が中心思想です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。ですからそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪の世界の霊に投入して、悪の世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。
(213-7 ~ 8、1991.1.13)


私達は、このような危機が神様を否定したところに由来していることを悟らなければなりません。共産主義は神様の存在を否定したので、滅亡したのです。アメリカもアメリカの精神的遺産を回復しなければ、大きな困難にぶつかるようになるでしょう。また、キリスト教も神様を無視する場合、世界の没落を防ぐ力を失ってしまうのです。哲学と経済、政治と芸術なども、神様の意味を悟ってこそ、その本然の役割を果せるのです。したがって、今日の世界的問題の解決は、「神様」に帰結します。神様の摂理を理解することこそが、私た
ちが直面した問題の解決策を提示してくれるというのです。(262-234 ~ 235、1994.7.26)


今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第二の建国運動を挙国的に展開し、神様を中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、
真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされる神様(注4)を再びお迎えしなければなりません。6000 年間も準備して訪ねてこられた神様が、アメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
真の家庭と世界平和p.544、2000.1.22
3.愛国心と社会奉仕


市民精神、愛国心、社会奉仕などの用語は、家族と友人の水準を越える倫理的行動範囲を規定する。市民が公共の利益のために自発的に奉仕し、近所と地域社会問題の解決のために積極的に参加して責任を負う姿勢をもてば、その社会は各機能がきちんと発揮される。特に「国民の、国民による」政府である民主主義社会において、社会奉仕に対する態度が立派な市民の特性を決定するのである。


国家が危険に直面する時、愛国心は犠牲を発散する。愛国者たちは、必要ならば自分自身を、自分の生命まで国に奉仕し、犠牲にするのを誇らしく思う。聖書の人物エステルは、自分の命を懸けて人々を滅亡から救ってくれと嘆願する。詩篇の詩人はバビロンの川のほとりで嘆き、祖国に対する愛を表現する。


王朝に絶対的忠誠を誓った中世の韓国人の詩一編をここに紹介する。その詩は、神様のみ旨に対する献身の歌として善用しできた統一主義者には、非常になじみのあるものだ。私達は、国家の福祉のために犠牲と献身の模範となり、暴政に対抗して国民を勝利に導いた、現代の愛国者たちが残した記念碑的な語録をここに補充する。そのような神前の英雄の中で、文鮮明先生は、幼い少女と
して韓国独立運動の火をつけ、日本警察に処刑された柳寛順を特別にたたえる。


文鮮明先生は、国家は国民、国土、そして主権の3局面をもつと言及する。多くの経典の章句で、統治権力への服従強要は、政権維持のための秩序と共同体安全のために、独裁者にも忍耐するよう根気よく勧告していることを記述している。しかし、文鮮明先生は、統治者に対する忠誠と尊敬を、神様のみ旨に従って統治するよう統治者に訓戒して案内する預言者の義務に連結させる。


先生は、愛国は家族に対する愛で始まり、人類と宇宙と神様に対する愛で連帯される宇宙的愛のはしごまでが一つの段階と教える(第20 章11.「世界市民」参照)。先生は、このような愛を葛藤、反目ではなく、連帯、提携の中で探すことを強調し、特に父母は、若者たちに愛国心を鼓吹させなければならないと強調する。

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世界経典-69

2022年08月14日 16時44分21秒 | 学習


②男性と女性を完全にする結婚


―宗教経典―


主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる、神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。


「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(注12)
創世記2.18 ~ 24(キリスト教)


結婚しない者は、喜びも、祝福も、善の行いも享受できない。
タルムード、イェヴァモート62b (ユダヤ教)


天地(あめつち)の初めには自我(アートマン)がただ独り存在した。彼は願を立てた。「願わくば我に妻ありて、子を生み、財を獲、祭祀を行なわんことを」と。およそ人の願望といえば以上で尽きているのであって、これ以上のことはたとえ願っても得られるものではない。……


かれ自我はこれらの願望の中の一つでも達成されぬ限りは満ち足りない思いをする。しかしながら、彼は快々(おうおう)として楽しまなかった。この故に、人は孤独では楽しめないのである。彼は第二者(相手)を求めた。彼はちょうど男女が相擁した程の大きさであった。彼はこの自体を二分した。ここに夫と妻とが成った。それ故に、ヤージナヴァルキャは「我自身は半片(かたわれ)にすぎぬようである」といっている。されば、この空虚は婦人によってのみ満たされ得る。彼(自我)はこの婦人を抱いた。そして、人類が発生した。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.17、1.4.3(ヒンドゥー教)


義なる者たちは、アブラハムとサラのように、彼らが男女一緒にいるときに栄えることができる。
ゾハール1.82a (ユダヤ教)


男は妻と自身と子供があってそれだけのものとなる(完全な男となる)。それゆえブラーフマナは言う。夫であるもの、それは妻である(夫と妻は一体である)と言われている、と。
マヌ法典9.45(ヒンドゥー教)


妻がいない人はまだ成人ではない。
ベンジャミン・フランクリンプーア・リチャードの暦




一み言選集―


結婚とは何かというと、半分にしかならない男性と女性が完成するためにするものです。その完成のための愛は、自分が自分のために生まれたというそのような愛ではありません。そのような愛は、流れていく愛であり、偽りの愛です。自分が自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたと考え、その相手のために投入して忘れ、投入して忘れるところから真の愛は始まるのです。
(262-67 ~邱、1994.7.23)


宇宙の存在秩序は、ために生きることを根本としています。真の理想、真の愛、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の希望です。ですから、理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。


宇宙を見れば、そのどの存在物も自分だけのために存在するものは一つもありません。動物界は、植物界のために、鉱物界と植物界は、動物界のために、また、このすべてを合わせた万物は、人間のために存在します。それでは、人間は、誰のために存在するのですか。人間は、神様のために存在するのです。その神様はまた、万物のためにそれらが存在するようにされ、成長、発展するようにされます。


このように「ために生きる」ことが存在世界の基本秩序なので、誰もがために生きる存在として生まれたのであって、自分だけのために生まれたのではありません。男性が生まれたのは、男性のためではなく、女性のために生まれたのです。女性の場合も同じです。いくら美人でも、女性が生まれた本来の意味は、女性のためではなく、男性のために生まれたのです。男女がもつ素性と感情も、すべて相対のためのものであって、自分のためのものではありません。


夫婦の場合、結婚しながら、「あ! 私が生まれたのもあなたのためであり、生きるのもあなたのためであり、死ぬのもあなたのため」と思えば、これを理想的夫婦、幸福な夫婦というのですが、存在世界の基本秩序から見て、これはごく当然のことだといえるでしょう。そこから真の愛は始まります。このように、真は「ために生きる」ところから起源を求めなければなりません。
(135-234、1985.12.11)


今日の若い男女は、今後立派な人になれば、良い家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。ですから、夫は夫で、妻は妻で、男性は男性で、女性は女性で立派な相手を要求します。それは、なぜですか。自分が不足なことを感じるからです。このようなことを感じる一方、立派な息子、娘を願うのです。


相手を通して自分が不足な面を補充し、より良くなれればどれほど良いですか。そのようなことを胸の奥深くに、しっかり抱いて愛したいと思うのです。
(26-147、1969.10.25)


エバは女性の性稟、アダムは男性の性稟を中心として分立して、何でまた一つになるのですか。別れてから合わさることによって、神様御自身が内的に抱いていた愛が、どれほど強いかということが分かるのです。そうでなければ分かりません。自分に愛がありますが、愛が分かりません。相手に会うことで分かるのです。内省的な愛を、人を通じて感じてみるのです。
(185-187、1989.1.8)


夫にとって妻になる人が、妻にとって夫になる人が、世界で最も必要な人です。互いに勧告してあげながら杖になり、同労者にならなければなりません。
(27-87、1969.11.26)


男性たちは、夫人が自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。


女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。


それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなくきちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにすることができてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)




③本当の夫婦の愛によって男性と女性、そして神様が一つになる


―宗教経典―


男性が家にいるときにも、家庭の根幹は妻だ。妻によってシェキナー(聖なる存在)が家から離れないからである。私達の師は、創世記のこの言葉を理解していたのである。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(創世記24.67)。


これは、シェキナーがリベカについてイサクの家に入ってきたことを意味する。より具体的に言えば、聖なる母は、家が整頓されており、男女が一緒にいるときにだけ、男性に臨むことができるということである。そのときに聖なる母の祝福が彼らに下されるのである。(注13)
ゾハール1.50a (ユダヤ教)




おお、ゴータマよ、女性は祭祀の火であり、彼女の性器は油であり、髪の毛は煙であり、陰部は火花であり、性交は燃え残ったものであり、享楽は閃光です。この火に神々は、神酒によって精液を与えます。この精液から新しい人が生まれます。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド6.2.13(ヒンドゥー教)


天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から、夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)


欲望が男女を一つにすれば、その結果、彼らに似た息子が出てくる。主なる神も御自身の息子をそのように造られたのである。したがって夫は、そのときに自らを貞潔にし、それに似た形ができるかぎり完璧に生まれることができるようにしなければならない。
ゾハール、創世記90b(ユダヤ教)


夫が聖なる目的で寝る前に自らを聖別すれば、男女二つの性によってなされた聖霊がその上に臨む。そして、主なる神は胎児に責任をもつ使者に命令され、この特別な霊魂を任せられ、胎児をどこに置くかを教えてくださる。ヨブ記の「男の子をみごもったことを告げた夜も」(ヨブ記3.3)がその意味である。……そして、子供の霊魂は天にいらっしゃるその方に似たかたちをもって下りてくる。(注14)このかたちに似た子供が育ち、世の中を生きていく。
ゾハール3.104b (ユダヤ教)


主は、最初の婚礼巡行として、結婚生活での日常の義務に関する条例を見せてくださる。経典は主の言葉であるから、これを通して正しいことを修得せよ。そうすれば、主があなたを罪悪から自由にするだろう。……


2番目の婚礼巡行として、あなたは主が真のグルに出会わせてくださったことを知るようになるだろう。あなたの心の中の恐れは消えた。あなたの心の中にあった利己心の不潔さは洗われた。……
3番目の婚礼巡行として、主に対する熱望が宿り、世の中に対して無関心になる。……4番目の婚礼巡行として、心が神の知識にまで達するため、神が心の中で感じられる。グルの栄光により私達はたやすく神に近づいた。愛の甘さが私達の体と心に満ちる。敬愛し、楽しいのは、私達にいる主である。


昼夜私達の心は彼に固定されている。主を賛美することによって、私達は主に至る。私達の心の結実が願ったものであるが、彼がこの婚礼を整えるからである。霊魂が、配偶者が愛する名の中で喜ぶだろう。主が彼の花嫁と一つになり、新
婦の心が彼の名によって花開く。(注15)
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.4、p.773 ~ 774 (シーク教)




―み言選集―


女性として生まれたのは、男性を求めていくために生まれたのであり、男性として生まれたのは、女性を求めていくために生まれたのです。女性と男性に生まれたのは、より次元の高い、二人が一つになって神様の愛に接するためです。一人ではその愛に接することができません。一人では、神様の愛に、本当の愛に接することができないのです。接したとしても、これは一方的です。立体的な、球形的なこのような愛には接することができません。ですから、男性と女性がより次元の高い立体的な愛の圏内にジャンプするために男性と女性が結婚するのです。本来、本然の人は、堕落しなければ、男性と女性が一つになればなるほど、その力が作用すればするほど、ここには偉大な中心が生じて球形になります。横的に連結されればされるほど、ここには縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるようになります。すべての心も、体も完全にそこにぴたっとくっつくのです。一つになるというのです。
(109-275、1980.11.2)
このようなすべてのものが夫婦として成し遂げられれば、夫婦自体が一心になります。夫婦自体が一心なので、一体にならなければならず、その一体となったものが神様と一つになるのです。夫婦が愛の光の中ですべて一つになるのですが、一つになるその夫婦は、神様が覆い、自分でも分からない光の力が私を抱き、同化するようになります。あらゆる神秘的な境地に押し出すのです。
(296-33、1998.10.11)


神様は、御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは、神様の息子であると同時に、体をもった神様御自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な真の愛、すなわち夫婦の真の愛の理想を完成しようとしました。エバは、神様の娘であると同時に、神様の横的な真の愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。


アダムとエバが完成して神様の祝福のもとで結婚し、初愛を結ぶその場は、神様が実体の新婦を迎える場です。アダムとエバの夫婦の真の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が縦横の基点を中心として一点から出発し、一点で結実、完成するようになるのです。
(277-198 ~ 199、1996.4.16)


誰のために結婚をするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。創造理想は、自分を中心として成し遂げられるのではありません。


すべての心情が主体的な神様と一体となり、神様が動じれば私も動じ、神様が静まれば私も静まり、心情的一致点を中心として、内外が一つにならなければなりません。このように、神様と和合できる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げることはできません。
(35-231、1970.10.19)




④結婚は二人を神様の姿と一致させる神聖な結合


―宗教経典―


われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥー教)


このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
みかぐらうた(天理教)


しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
マルコによる福音書10.6 ~ 9(キリスト教)


祝福を受けてください! 私の主なる神、宇宙の主人であられ、あなたの形どおりに人類を創造され、人間のために永遠の場を用意してくださった方よ、
祝福を受けてください! 私の主なる神、人間の創造主であられ……。


エデンの園で太初に、あなたの被造物をご覧になって喜ばれたように、このあなたの愛する人たちを見て喜んでください。祝福を受けてください! 私の主、宇宙の主人であられ、喜びと歓喜、新郎と新婦、楽しみ、歓呼、踊り、愉快、愛、兄弟愛、平和、同僚愛をもたらされた方よ、どうぞ早く、私の主なる神、喜びと歓喜の声がユダヤの地とエルサレムの地に響き渡るようにしてください。


新郎新婦の声、賛美から聞こえてくる歓喜に満ちた新郎の声、歌の宴に集まってきた青年たちの声がすべてこの地に響き渡るようにしてください。祝福を受けてください! おお、主、新郎新婦に喜びを施される方よ。(注16)
タルムード、クトゥッボート8a(ユダヤ教)
愛の福音は……。これ以上、結婚した二人の個人としてではなく、一つの存在内にいる二個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、このように一つになった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母としての神を反映する。この神聖な統一された霊的意識から永遠の天国の喜び――神の創造の完全性――へと向かうにおいて、障害物はない。
科学と健康576(クリスチャンサイエンス)


権能の主、神の作品であるこの世の霊魂たちは、不思議にもすべて一つである。しかし、それらが世に降りてくるときは、男性と女性に分離される。それでも、依然として互いが一つに結ばれている。最初に姿を現すときは、男性と女性として一緒に現れる。そのあとに世に降りてくるときは分離されるということである。のちに神は、彼らを縁結びしてくださる。神以外に誰も互いに最もよく合う縁を知る人はいない。幸福な者は正当で真理の道を歩む者だ。そのようにして霊魂は本来の相手を求め、真に完璧な人間になるのである。
ゾハール1.85b (ユダヤ教)
日の栄えの栄光には、三つの天、すなわち三つの階級がある。その最高の階級を得るためには、人はこの神権の位(すなわち、結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければならない。そうしなければ、その人はそれを得ることができない。


さらにまた、まことに、私はあなたがたに言う。もしある男が私の律法である私の言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、私からこの力とこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに、「あなたがたは第一の復活に出て来るであろう。……その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。(注17)
教義と聖約131.1 ~ 3、132.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)




真の結婚の神聖な結合は、神と人間、すべての意志により成される。結婚は神から始まり、神で終わる。結婚を支配する法とその中に流れる祝福すべてが主なる神から来たものである。主なる神の御加護により、男性と女性は一生の間、配偶者に対して従順にし、天から来た祝福と義務をもち、その結婚の主人公となる。……


配偶者問の夫婦関係は、眩しく輝く祝福が許諾されたため、禁欲生活とは異なる。夫婦生活を通して、夫と妻が天と自然の法に従ってふるまい、常に天に向かって畏敬し、神聖で知恵深いその方の御意志に従うよう努力しなければならない。……


私達が語る愛は、瞬間の情欲で起きる感情ではなく、快楽ばかりを語るものでもない。愛は行動によって証されるがゆえに、愛とは行動によって表現される深い心情である。家庭で愛を表すことは互いを助けることである。


しかし、ここで終わるのではない。内的に自分たちを完成させる過程で、一日一日互いに協力することが、夫婦の最高の目的にならなければならない。そうすれば、夫婦関係を通して互いの徳目を啓発するようになり、結局、神と隣人への真なる愛の中で自らが成長するようになるだろう。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ一結婚の尊厳―(キリスト教)80




―み言選集―


愛を成すことができなければ、どうなるでしょうか。神様が喜ばれないのです。神様に出会うことができません。ここから、今日の家庭倫理の根本問題が解決されます。今まで宗教をもった人たちは、結婚することを悪く考えていました。結婚の最高の神聖さを私達はうたわなければなりません。


男性と女性が愛することができる道は、結婚生活です。男性と女性が一つになることによって、誰に似るのですか。神様に似るのです。男性と女性が一つになってこそ、御自身の形どおりに男性と女性を造られた神様に似るのです。そうしてこそ、
神様が臨在されるようになります。
(70-76、1974.2.8)


今、自由世界で最も難しい問題とは何かというと、愛の秩序問題です。愛は愛ですが、どのような愛ですか。単純に男性と女性が楽しむものが愛ですか。そのような愛は、歴史過程もなく、未来観もなく、方向もない愛です。これは、自分勝手なものだというのです。そのような愛では、自由の原則と統一の原則、平和の原則になり得ないのです。


お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そこに自由がありますか。そこに幸福がありますか。そこに平和がありますか。そこに統一がありますか。すべてが反対です。そのような愛は、破壊ばかりを招来するのです。破壊の動機であり、受け入れない内容だというのです。


その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法であることを知らなければなりません。
(104-140 ~ 141、1979.4.29)


結婚は、なぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男性と女性なので、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。


しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)


なぜ結婚しなければならないのですか。神様が二性性相をもたれたので、その二性性相に合うようにしようとするのです。ですから、二つの世界の現象を結ばなければなりません。人間愛の発展過程で必然的要件が結婚だったのです。


神様の形に似て人間が互いに相対をつくるために、愛によってこの地で結ばれるとき、結婚をします。なぜ人を造ったのですか。神様の愛の相対形として造りました。神様も愛が必要で万物を創造したという結論は、否定する道がありません。神様が愛することができる完全な愛は、どこから出てくるのですか。地上の夫婦から始まります。ですから、結婚する日は喜びの日です。
(123-217 ~ 218、1983.1.2)


私が結婚をするのは、私のためではありません。男女が結婚するのは、男性が右側にいれば女性は左側にいるので、宇宙のためにするのです。天地の道理は、上下の調和です。男性が主体なので、主体である男性が上ならば、女性が下なので、上下を備えるために愛するのです。前後を備えるためにします。男性のためにするのではなく、女性のためにするのではありません。天宙の法度に合わせるためにすることを知らなければなりません。ですから、天理の法度を合わせられるよう、男性はそのような姿をしているのであり、女性もそのような姿をしているのです。
(101-38 ~ 39、1978.10.28)




男性と女性が出会うのは、宇宙の出会いです。これが壊れれば宇宙が壊れ、縦的世界がすべて壊れていくのです。結婚がどれほど重要かを知らなければなりません。結婚は、縦的な地上天国と天上天国の出会いであり、横的な永遠の世界と瞬間的な世界の出会いです。男性と女性が真の愛を行うことによって、永遠の愛が中心地にどんどん接近してくるのです。男性と女性は、神様を中心として中心地で一つに結ばれます。
(118-32、1982.4.26)


世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分のレベルを中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するために、そのようになっているというのです。


家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物も、そうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうだからです。
(222-123、1991.10.28)


結婚は、天地の合徳であり、縦横、左右、前後の全体を完成するのです。結婚は、子女、兄弟、夫婦、父母の理想の完成地です。したがって、アダムとエバの夫婦は、神様が最も愛する父母であり、そうして第二創造主の位置に立ったことによって、神様が第一創造主として感じる全体を相続し、子女、兄弟、夫婦、父母の位置を神様の代わりに体恤するためにあるのが子女の繁殖なのです。


結婚して夫婦が愛し合う場は、神様と人間の愛と生命と血統の根源的王国の場であり、理想のための地上天国と天上天国の出発地です。
神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバの結婚の時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛を成されるのです。神様は、縦的な真の父母であり、アダムとエバは、横的な真の父母です。そのような二つの父母の血縁を受けて生まれたので、心は縦的な私であり、体は横的な私になるのです。(注18)


このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になります。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係となって神様の全体を相続することができるのです。このような子女が、真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になるのであり、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性が一体となり、神様の相対として理想愛を完成させるようになるというのです。
(254-107、1994.2.1)




人間始祖アダムとエバは、堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を抱えてはいませんでした。神様は、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていき、祝福と結婚式をしてあげるはずは決してありません。全人類は、神様の愛とは関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫です。アダムとエバの堕落は、神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。


人類始祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う幸福な祝宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が、人間の中で始原を成しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが彼らは下部を覆い、木の後ろに隠れて不安に震えました。天道に背く偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
(288-127、1997.11.26)


神様が創造当時の理想として願った真の愛、その偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになり得る、このような神人愛一体の家庭を築いたとすれば、今日私達は、天国に行くのか地獄に行くのかと心配する必要がなく、そのまま天国にすべて入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の真の愛と人間の真の愛が異なり、二つの愛の出発になるので、二つの愛の方向と目的地になるというのです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせません。


この二つの真の愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止されてしまいました。サタンの愛を中心に偽りの父母が生じたのであり、人類は偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこの子孫なので、これはすべて地獄に行くようになります。天国とは関係がないのです。
(275-55、1995.10.31)
堕落によって、偽りの父母から偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け、偽りの結婚式をした家庭になりました。今、ここから始まった汚されたものを完全に清算して復帰し、真の神様と真の父母の愛を中心として……。真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木して、偉大な祝福を伝授してあげる復活の礼式が、正に国際合同結婚式なのです。世界の全人類が偉大な祝福を受けて天国家庭に転換し、地上天国に入籍することを願ってやみません。
(275-59、1995.10.31)






6.結婚生活の倫理


結婚の愛は、感情の節制が要求される。その愛は、結婚生活の鍛錬を通して生存し、繁栄する。結婚生活は、約束を共有する夫婦に特別な挑戦を要求するようになる。そして、その挑戦は、人格精練の道として、愛の完成の学校として奉仕する。


経典は世代を通し、結婚に関する情報を提供する伝統的、倫理的規則の一部を明確に説明する。経典は、夫婦が家ですることは互いに異なるが、補完的な役割を説明する。夫は妻を敬わなければならず、妻は夫に従順でなければならない。二人の配偶者は信実で、すべてのことを共に分かち合い、決して離婚を考慮してはいけない。


時折、このような伝統的な役割は、二重的な基準を正当化するために使われてきたが、正しく知れば、その役割は相互互恵的な責任を叙述する(社会的両性平等を議論する、第20 章7、「女性の権利」参照)。文鮮明先生は、結婚の理想は夫が妻を神様の娘として尊敬し、妻が夫を神様の息子として尊敬しながら、配偶者が互いにために生きることであり、その時、天国が実現されると教える。






①夫婦愛の核心倫理:夫婦は互いに服従しなければならない


―宗教経典―


キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。


夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。


そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。私達は、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。私は、キリストと教会についで述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エぺソの信徒への手紙5.21 ~ 33(キリスト教)


同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。……同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
ペテロの手紙一3.1 ~ 2、7(キリスト教)


夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
コリントの信徒への手紙一7.3 ~ 4(キリスト教)


あなたの妻は、あなたに対する権限がある。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)


夫は妻に夫婦としての義務を無理に強要してはならない。
タルムード、エルヴィーン100b(ユダヤ教)


妻はなんじらの耕地である、それゆえ意のままになんじの耕地におもむけ。だが己れの魂のため、あらかじめ何かよいことをせよ。神を畏れよ。
クルアーン2.223 (イスラーム)






―み言選集―


愛の道は、自分の夫と妻を千倍、万倍の絶対的に高い基準に置くことです。神様は、全人類に対してそのような絶対従順の位置を経てその対象圏まで出てこられたのです。それで、そのような愛で結婚した夫婦は、そのような高い水準を期待します。神様もまたこのような高い基準の対象を願われるのです。すべての存在は、絶対従順の立場で投入して忘れ、投入して忘れます。そこで夫婦間の愛が花咲くのです。
(288-68 ~ 69、1997.10.31)


私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛せるという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛せますか。人類を愛することも、神様を愛することもできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)


男性の前にいるその女性は、神様の娘であり、人類の女性であることを男性たちは知らなければなりません。自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛し、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。


女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。


それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなく、きちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにできてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)


今、皆さんに残ったこととは何でしょうか。愛の十字架を背負って犠牲にならなければならず、絶対服従しなければならず、絶対愛をしなければならない、これだけが皆さんに残ったことです。先生を失ってしまい、すべて失ってしまってもよいのですが、私自体内において天に対して絶対服従であり、絶対犠牲であり、絶対愛をしなければなりません。神様に対してする前に、皆さんの妻に対して行い、夫に対して行いなさいというのです。
(97-312、1978.3.26)


人間で最も貴い所は、愛の器官です。愛の器官とは、生殖器です。生殖器とは、自分のものですか。違います。誰のものですか。妻のものです。それは、誰がそのように言ったのですか。誰がそのように決めたのですか。神様です、神様。天地がすべてそのようになっています。存在するものはすべて、愛のために生まれたので、愛のための存在は、自分のためにもつ生殖器はもっていないのです。相対のためにもっているというのです。


相対と連結しなくては、真の愛を完成できません。これが天法です。絶対、唯一、不変、永遠の主人になるのです。男性一人で愛の主人にはなれないのです。生殖器を中心として相対と連結される時に完成が展開するのです。真の愛に連結してこそ女性が完成するのですが、男性の生殖器を完全に占領するその場で、完成が展開するというのです。男性も同じです。
(297-156、1998.11.19)


女性のもの、凹は凸のものですか、凹のものですか、男性のものです。男性のために生じたことを知らなければなりません。ですから、自分勝手にできません。それは男性の思いどおりにするのです。男性のものは女性の思いどおりにするのです。これが天法です。
(130-126、1984.1.1)


男性と女性が、自分の生殖器の主人が自分ではなく相対だと思うとき、愛の相対に対しては、丁重に頭を下げて受けなければなりません。愛は、相対によって得るのです。愛は、相対がいなければ来ないのです。相対によって来ることを知っているので、相対には丁重にしなければなりません。ために生きないところに愛はありえません。絶対的にために生きてこそ、絶対愛を見いだすことができるのです。
(279-123、1996.8.1)


夫婦同士でも、愛するからといって、夫がいる所を裸で勝手に出入りすることはできません。「私はこうですが、かまいませんか」とあいさつして動かなければなりません。妻はぐうぐう寝ているのに、夫が「おい、お前!」と言いますか。寝る時間にも規範があるのです。うるさくすればたたいてもかまいません。また、愛するときも、男性が女性にぶらさがってよいのですか。女性が男性にぶらさがらなければなりません。
(225-161、1992.1.12)


②両性関係:責任は異なるが愛において同等


―宗教経典―


男は女の擁護者(家長)である。それは神が位置を他よりも強くなされ、かれらが己れの資財から、費やすゆえである。それで貞節な女は従順で、神の守護の下に、夫の不在中を守る。
クルアーン4.34 (イスラーム)


家人は女が位を内に正しくし、男が位を外に正しくする象である。男女それぞれ正しい位に在るのじゃ、天地陰陽の大義にのっとるものである。
易経37、周易下経、家人(儒教)


あなた達はすべて保護者であり、あなた達の非保護者に対する責任をもっている。統治者も一人の保護者であり、男性は家族の保護者である。妻もやはり一人の保護者として夫の家と子供たちに対する責任をもっている。したがって、あなた達はすべて保護者であり、あなた達の被保護者に対する責任をもっている。
ブハーリ・ハディース(イスラーム)


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これを、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
創世記2.21 ~ 23(キリスト教)


聖句(マントラ)による清めの儀式(結婚式)を行なった夫は、この世とあの世において、受胎適時(リトゥ)であろうとなかろうと常に妻に〔性の〕喜びを与える者である。夫は、性悪で、勝手気ままに振舞い、良い資質に欠けていても、貞節な妻によって常に神のように仕えられるべし。妻に単独の供犠はない。誓戒も断食もない。夫に仕えることによって〔死後〕天界において栄える。貞節
な妻は、夫の世界を望むときは、夫が生きている間も死後も、彼にとって好ましくないことをしてはならない。……心と言葉と身体を抑制して夫を裏切らない妻は、夫の世界を獲得し、善き人々によって貞女(サードゥヴィー)と呼ばれる。
マヌ法典5.153 ~ 165(ヒンドゥー教)


あなたの妻を虐待してはならない。女性は神聖である。もしあなたが妻に苦痛を受けさせれば、あなたは遠からず死ぬだろう。私達の祖母、大地は女性である。あなたがあなたの妻を虐待することは、大地を虐待することである。したがって、私達を保護する私達の祖母を虐待するあなたの行為によって、実際にはあなたがあなた自身を殺すだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アフリカ伝統宗教)


女性が男性のあばら骨から出てきたのは真に正しかった。第一に、男女間の社会的統一性のために女性が男性の上に君臨してはいけないので、男性の頭から出てくることはできなかった。反対に女性が男性の僕として蔑視されてもいけないので、女性は男性の足から出てきてもいけなかった。ゆえにあばら骨から出てきたことは真に正しかったと言えよう。
トマス・アクィナス神学大全じ1.1.92.3 (キリスト教)


女性もやはり男性と同じ被造物である。女性が男性から出てきたということは、女性が男性の一つであることを見せてあげるためである。これはまた、キリストと教会が一つであることをあらかじめ形状化させで見せてくださったのである。
アウグスティヌス神の国22(キリスト教)




―み言選集―


男女平等という言葉は、愛を中心に言う言葉です。女性が力で男性にかないますか。跳躍競技で男性にかないますか。服を作ることにおいて男性にかないますか。女性が男性に勝てるものが何かありますか。何もありません。ただ、愛を中心として見るときは女性が男性より優れていて、それが平等圏です。それを知らなければなりません。男女が愛を中心として平等圏なのであって、それ以外は平等ではありません。
(209-208、1990.11.29)


女性が幸福な時はいつですか。男性が幸福な時はいつですか。これが問題です。そのように考えてみるとき、二人が互いに喜べる時だというのです。そのような結論しか下せません。何を中心としてですか。拳ですか。それで夫に勝てますか。女性は、1度拳をぎゅっと握れば身動きできません。拳でけんかしては駄目です。力で競えますか。力で競えば、いつでも押し出されるようになっています。しかし、力も愛の支配を受けるので、力のある男性も、互いに一つになって押したり引いたりしながら愛の懐に抱かれるようになれば、女性を抱えて回っていくのです。そのときは気分が良いでしょう? 「ああ、なぜ私を抱えて回るのか」と言いながらも、そのときは自分の足もほうっておき、自分の体全体をほうっておいて、愛の懐に抱かれて回っていく、その時間は幸福だというのです。
(137-217、1986.1.3)


夫と妻に対する公的な愛の道を行かずに、私的な愛の道を行ってすべてが壊れていっています。アメリカの家庭の父母たちが、自分を中心とする愛をすればするほど壊れていくのです。社会を滅ぼし、世界を滅ぼします。
(111-257、1981.2.22)


妻とは、夫に対して順応し、彼のために助けてあげる人にならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりません。
(81-318、1975.12.29)
愛がある所では上がってもよく、下がってもよく、中間にいてもよいという論理が成立します。愛する夫が自分より高いといって嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか。一つです、一つ。一つになれば思いどおりに低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所に下がることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。ここは制裁がありません。
(91-141、1977.2.6)


家でも、父親は良く、母親はいてもいなくてもいい存在ですか。父親の誕生日は盛大に祝いながら、母親の誕生日は覚えてもいないのですか。父母という因縁は天地調和だということは、今日、信仰をもっていない人たちも知っています。


すべて相対的です。何であっても、合わさってこそ調和がなされるのです。目も、鼻も、耳も、唇も、すべて互いに合わさるところで講和がなされます。そのように、父母の二人が一つになってこそ、世の中のすべてのものを抱くことができるのです。一人で、いくらやっでも駄目です。
息を吸うだけでは生きることができません。吸うことも必要ですが、吐くことも必要なのです。皆さん、酸素を吸って生きているので、息を吸うことだけが必要ですか。3回続けて吸ってみてください。そのようになれば、かえって吐くことが必要なのです。息を吐いて炭酸ガスを体の外に送り出してこそ、酸素がたくさん入ってくるようになっています。


男性だけが出てきてはいけません。最近の世の中は、男性に偏った世の中です。ですから、根本的に女性解放運動をしなければなりません。原理的に見るとき、3年以上、男性は女性に従順にしなければならないのです。それで、一つの個体が復帰するには正道どおりに経ていかなければなりません。堕落によって、アダムとエバが二人で落ちたので、上がっていくときも二人で上がっていかなければなりません。上がっていくのは、再創造のようなものです。創造するとき、アダムを先に造り、エバを造りました。したがって、再創造するときも、アダムを造っておいてからエバを造るのです。(21-194、1968.11.20)
③夫婦の良し悪し


―宗教経典―


有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。


羊毛と亜麻を求め、手ずから望みどおりのものに仕立てる。商人の船のように、遠くからパンを運んで来る。夜の明ける前に起き出して、一族には食べ物を供し、召し使いの女たちには指図を与える。


熟慮して畑を買い、手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。力強く腰に帯し、腕を強くする。
商売が好調かどうか味わい、灯は夜も消えることがない。手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。


貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。
雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。夫は名を知られた人で、その地の長老らと城門で座に着いている。


彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。力と気品をまとい、未来にほほえみかける。口を開いて知恵の言葉を語り、慈しみの教えをその舌にのせる。一族の様子によく目を配り、怠惰のパンを食べることはない。


息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。
箴言31.10 ~ 31(キリスト教)


居士よ、汝の住処の中にて人々が漁師漁労に於けるが如く高声、大声なるは実に何なるや、と、大徳よ、こは嫁善生にして富み、富貴に生れ、彼女は姑を世話せず、主人を世話せず、世尊を恭慕せず、尊重せず、供養せず、と。その時世尊は嫁善生に告げたまはく、来れ善生よ、と、然り大徳よ、と嫁善生は世尊に答へ奉り世尊の在す所に詣り已りて世尊を問訊し、已りて一辺に坐せり、一辺に坐せる嫁善生に世尊は告げたまはく、善生よ、是等が七の男子の妻なり、悪心ありて、〔夫の〕為を念はず、他に著して夫を軽蔑す、財を以て購へし〔夫〕を殺さんと望む男子に対する是の如き妻は「殺人者なる妻」と云はる。


主人が妻の為に、工、芸、商業、農業に努力して得る財をば僅にても彼より取らんと欲す、男子に対する是の如き妻は「盗賊なる妻」と云はる、仕事を好まず懈怠大食し、粗悪暴悪にして、粗悪語を話し、勤勉なる〔夫〕を壓服して住す、男子に対する是の如き妻は、「支配者なる妻」と云はる。


常に〔夫の〕為を念ひ母が子になすが如く夫を護り、それより彼の貯へたる財を護る、男子に対する是の如き妻は、「母なる妻」と云はる。
譬えば妹が姉を尊敬する如く、自己の主人を尊敬し、漸心あり、夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「姉妹なる妻」と云はる。又ここに友が、久しくして来れる友人を見て喜ぶが如く、生れ貴き具戒の妻は、主人を喜ぶ男子に対する是の如き妻は、「友人なる妻」と云はる。


打杖にて脅かされて怒らず、悪心なくして夫に対して忍び、怒りなくして夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「婢なる妻」と云はる。而してここに妻が「殺人者」と云はれ、「盗賊、又支配者」と云はれ、破戒者にして粗悪、不敬なる者は、身壊して地獄に行く、又ここに「母、姉妹、友」と、又「婢なる妻」と云はれ、戒に住し、長時自律の者は、身壊して善趣に行くと、善生よ、是等が七の、男子の妻なり、汝はそれ等の何れなるやと。今日より以後、大徳よ、世尊は我を婢に等しき、主人の妻と存念し給へ、と。
阿含経増支部iv.91、無記品(仏教)


もしあなたが一人の男性と結婚し、彼を手放さずに常にしっかりとつかんでおこうとすれば、彼のために働け。彼のために働くことによって、あなたは常につかんでおくことができるだろう。もしあなたが、あなたの夫が満足するだけのことをすれば、彼は決してあなたから離れないだろう。


あなたの夫に信頼されるようにせよ。あなたが何人かの男性と同時に結婚したかのように行動してはならない。純潔な人生を歩め。私があなたに言うことに耳を傾けず、あなたの夫に信頼されなければ、すべての男性たちがあなたをあざ笑うだろう。彼は気の向くままに語り、誰もこれを止めないだろう。あなたの夫に横柄にふるまってはならない。彼があなたに言うことは、何でもやりなさい。あなたがあなたの夫に従順にすれば、彼も同じようにあなたに接するがゆえに、親切があなたに戻ってくるだろう。
ウィネバコ族、先祖の教え(アフリカ伝統宗教)


ソクラテスの妻クサンチッベが、先に彼に悪態をつき、その次には水をかけた。彼は、「クサンチッベが今雷を落としているのだが、すぐに雨が降ると私が言っていたか」と冗談を言った。アルキビアデスが彼に「クサンチッベが悪態をつく気質は我慢ならない」と言ったとき、彼は「しかし、私がいつも滑車の騒音を聞いていればそれに慣れるように、そしてあなたが、がちょうの鳴き声を我慢して聞いているように、私はそれに慣れてしまった」と答えた。


これにアルキビアデスが、「そうだ、しかしがちょうは私に卵とひなをくれる」と答えた。ソクラテスが「そうか、クサンチッベは私に子供たちを生んでくれた」と応酬した。あるときは、彼女が市場で彼を殴り、彼の上着を破り、彼の友人たちが彼に手で防げと忠告した。彼は、「そうか? 私達がたたき合うと、あなた達はみな歓迎するだろう?『いいぞ、ソクラテス! いいぞ、クサンチッベ!』」。ソクラテスは次のように言った。「男性は扱いづらい女性と暮らさなければならない。乱暴な気質の馬を扱うことのできる調教師は、他のすべての馬を簡単に扱うことができる。このようにクサンチッベを相手にしたあと、私は誰とでも簡単につきあえる」。
ソクラテス(ヘレニズム)
―み言選集―


アメリカの家庭で問題になることは何ですか。夫と妻が互いに相手に対して、いつも私のために生きてほしい、私だけを愛してほしいということではないですか。そのようなものはサタンの本性なので、そこからは神様が離れていくようになるのです。サタンが入ってきたので、壊れるようになるのです。父母は子女を育てて、「お前は私のために生きなさい」と言い、息子、娘は「親は私のために生きてほしい」と言い、互いに自分のために生きてほしいと言うので壊れていくというのです。
(69-87、1973.10.20)


女性は、夫にいろいろなうそをつき、何でも隠す境界線があります。一日の生活の中で、自分自身が主体性をもちたいと思っているのです。祝福家庭でありながらそのように考える人たちは、依然としてサタン世界に連結していることを知らなければなりません。
(396-257、2002.11.10)
男性と女性の関係で、妻が夫に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、夫が妻に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、お互いに「はい」と言えば、一つになりますか、なりませんか。そのようになれば、愛がだんだんと逃げていきますか、愛がもっと大きくなりますか。それで、どのようになるのですか。何が中心になりますか。男性が中心になりますか、女性が中心になりますか、愛が中心になりますか。愛です。愛が中心にならなければなりません。
(91-221、1977.2.20)


夫になるのは簡単ではありません。疲れているからといって、妻に責任がないのではありません。難しいからといって、妻に責任がないのではありません。難しければ難しいほど、妻に責任がもっとあるのです。疲れた立場にいても妻に責任があるのです。夫も同じです。良いからといって、夫に責任がないのではありません。悪いからといって、夫に責任がないのではありません。共同責任が原則です。その夫の前には、その妻の前には、この国の誰より、この世界のどんな人よりも、神様の代わりにこの地上で生きるように配置されているのです。


このように考えるとき、父母は、息子、娘の前に、一生の間、「私達のお父さんとお母さんはけんかした」という声を絶対に聞かないようにしなければなりません。「私達のお父さんとお母さんはよくけんかした」、このような話を聞けば、いくらうまくやっても地獄に行くのです。


その息子、娘が話すとき、「私達のお父さんは、神様の代身だ。私達の家の神様だ。私達の家の大統領だ。私達の家の聖人だ。私達のお母さんもそうだ」と言わなければならないというのです。昔、聖人たちが言うには、「家和万事成」と言ったでしょう? 私達統一教会で主張するのは「家和」ではありません。「天和」です。天宙を中心として天と和合しなさいということです。
(101-41 ~ 42、1978.10.28)


女性がヒステリーを起こすのですが、男性がその女性よりもっとヒステリーを起こせばどうなりますか。女性がヒステリーを起こすのを見ても、「あ!そのようなこともあるのだなあ」と鑑賞できる男性が必要なのです。女性はヒステリーを起こすのですが、男性は「ははは」……。神経質に「ジョン」と言って男性を呼べば、「オオ、イエース」と言わなければなりません。「ジョン」
と言うときに「イエス!(早く)」と言わずに、「ジョン」と言うときに「イエー、イエー、イエース(ゆっくり)」と言わなければならないのです。


やまびこは山が険しいほど良いのです。山が険しくて大きいほど素晴らしいのです。「ピー」とすれば「ブーン」と響きます。やまびこは良いものです。それと同じように、男性は、顔が良くなくても響きがなければなりません。女性が「わあ」と言うとき、「うんうんうんうん」とならなければなりません。本物であれば、そのようなものがなければならないのです。そのような神秘的なものがなければなりません。違わなければならず、同じではいけません。
(118-225 ~ 226、1982.6.6)
妻の財布が別にあり、夫の財布が別にあって、「あなたのお金です、私のお金です」と言う、それが完全な愛ですか、そのようなものを超越して「あなたのお金であり私のお金です、私のお金でありあなたのお金です」と言うのが完全な愛ですか。


皆さん自身が結婚すれば、お金の条件、あるいは権利の条件など、自分の条件を立てていきますか、愛の条件一つだけを立てていきますか。このような条件を立てていく人が本当に愛そうとする人ですか、偽って愛そうとする人ですか。愛を利用しようとする人ですか、愛のために生きようとする人ですか。どのようにならなければなりませんか。ために生きなければなりません。私達統一教会の教会員たちは、結婚するとき、「ああ、私のものだ!」と考えなければなりませんか。自分までプラスし、夫を愛して変えようというのです。
(92-192、1977.4.10)


それでは、真の父はどのような父ですか。真の母はどのような母ですか。創造原則を立てられた神様のように、100 年投入して生きても夫のためにもっと投入したいと思う妻が真の妻です。涙を流し、「ああ、あの人のために私は滅んだ」と思うのではありません。「私が忠誠を果たし尽くせなかったので、夫を幸せにしてあげられなかった」と思いながら涙を流して生活する、それが真の女性像になっていく道です。真の夫も同じです。
(204-41、1990.6.29)


真の夫婦は、真の妻はどのような妻ですか。夫のために生まれた、夫のために生き、夫のために死のうとする人です。その立場においてのみ真の妻が成立するのです。反対に真の夫はどのような立場で成立するのかというと、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死のうとする人です。


神様が天地創造の理想的起源をここに設定したということを私達ははっきりと知りませんでした。
このような観点から見るとき、私達は一つの公式を知りました。「ために存在する」という公式においてのみ、真の愛を見いだすことができるのです。
ために存在するという、そこにおいてのみ真の理想があり得るのです。神様がそのような原則を立てたので、人間の幸福と希望をそこから発見できる可能性があることを、私達はここから結論を下せます。
(77-293、1975.4.25)


④離婚は神様が呪う:夫婦は死のあとまで信実でなければならない


―宗教経典―


合法的なものの中で神が最も嫌われるものが離婚である。(注19)
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)


パリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなた達は読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々で
はなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」


すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなた達の心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っでおくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
マタイによる福音書19.3 ~ 9(キリスト教)


あなた達は、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。……私は離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる。
マラキ書2.14 ~ 16(キリスト教)
神は、己れの夫についてなんじに抗弁し、なお神に不平を申し立て祈る、女の言を聞きたまい、また神は、なんじら両人の議論をも聞きたもうた。まことに神は、全聴者・全視者であられる。


なんじらのうちズィハールによって、その妻を遠ざける者があっても、かの女はかれの母ではない。母はかれらの生んだ者以外にはないのである。実にかれらの言うことは不法な、虚偽の言である。まことに神は、赦免者・寛容者であられる。(注20)
クルアーン58.1 ~ 2(イスラーム)


夫は神より与えられた妻を娶るのであって、自らの意志によって〔娶るの〕ではない。常に、神々にとって好ましい事柄を行ない、貞節な彼女を扶養すべし。〔夫婦は〕死ぬまでお互いを裏切ってはならない。一言で言えばこれが夫婦にとっての最高の生き方(ダルマ)であると知るべし。(注21)
マヌ法典9.95、101 (ヒンドゥー教)




身は捨小舟川中にただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけふ.た心なしわが母は心廣きもわが心うけたまわず、身は捨小舟岸べにただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけたがふことなしわが母は心廣きもわが心うけたまはず(注22)
詩経、装浴iなんぷう)、45 柏舟(儒教)


そのような純潔を守り通した者たちのように、夫の死後、純潔を決意した貞節な妻は息子がなくても天界に赴く。
マヌ法典5.160 (儒教)


法によって彼らは婚姻の神聖さを脅かしてきたのであり、離婚の合法性を認めよと言う。また、いわゆる新しくより人間らしい法が旧時代の法に代替されなければならないと主張する。離婚を正当化する理由は多く多様だ。しかし、その中の一部は関連する人たちが犯した罪と悪行に起因する。……つまり、結婚生活が大変でつらい理由が何であろうと……この永久不変の神の法は離婚に反対する。キリストが再び確認してくださったこの天の法は、人間の行為や考え、あるいはある立法者の意志によっても撤回されない法である。「主なる神がつづっておかれたものを、誰も掘り返してはなI らない」。
教皇ピオ11 世カステイ・コンヌピイ―結婚の尊厳―(キリスト教)




―み言選集―


夫婦になれば、あなたと私との相応関係が一時的でなければなりませんか、永遠でなければなりませんか。永遠でなければなりません。最初に喜んでいれば、最後も喜ばなければならないのです。その始終一貫というものは、「始」で喜んでいれば、「終」でも喜ばなければならないというのです。離婚するのは、良いことですか、悪いことですか。悪いことです。
(86-109 ~ 110、1976.3.14)


皆さんの父母が離婚しようとするとき、子女が、「親が離婚したならしたで、私達の家ではそれくらいのことは関係ない」と言ってもよいのですか。どのようにしなければなりませんか。「父も母も、私の言うことを聞かなければならない。離婚してはいけない!」と言うのと、「離婚するならして、しないならするな」と言うのとでは、どちらがよいでしょうか。どちらをとりますか。




今後、このような運動をしなければなりません。若者たちが団結して、父母が不義の離婚をすることは、もう許せないとして、「私は父母を誰よりも愛しています!」、このようにしようというのです。このようにできる子女は、父母が離婚しようとするのを絶対的に防げる孝子です。
(95-50 ~ 51、1977.10.23)


このアメリカの若者たちは、「私が嫌なら好きなように離婚できる」と考えていますが、宇宙はそのようになっていません。自分が貴ければ愛も貴いと考え、1度結べば永遠を標準として、そのように行かなければなりません。それが人間の行くべき道です。人間の価値がそこにあるのです。
(117-292、1982.4.11)


神様は唯一、絶対、無二の方です。ですから、アダムもその属性が顕現したので、絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性であり、エバは神様の女性的な属性として顕現したのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたそれらを一つに結べるものが愛なのですが、その愛は、神様までも絶対服従できる絶対的愛だというのです。


ですから、その絶対的な愛の前に夫婦として来られる方は唯一無二なのです。絶対的であると同時に、永遠不変です。分けられません。このような論理的理論基盤を知らないので、夫婦が好きなように離婚するのです。しかし、このような理論的基盤がある限り、絶対に離婚することはできません。(226-171、1992.2.4)


夫婦が、なぜ夫婦げんかするのですか。お互いが愛されようとするからです。お互いが愛されようとする群れは、長続きしますか、できませんか。長続きできません。長続きすれば、それは原理ではないのです。お互いが愛されようとする家庭は壊れますか、壊れませんか。壊れます。それでは、お互いが愛そうとする家庭は、どうでしょうか。お互いに相手をもっと愛そうと大騒ぎする家庭は、「壊れよ」と祭事を捧げても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は、永遠なものです。分かりますか。(36-76、1970.11.15)
女性として生まれて、自分を誇り、男性を無視すれば、地獄に行きます。「ヘル(地獄)」とは何ですか。「ヘル」とは何かというと、ごみ箱です。女性が地獄に行っても、男性が「ああ、いけない! 行ってはいけない、行ってはいけない!」と言えば、仕方なく……。愛の力が1番なので地獄に行かないというのです。男性も同じです。これが宇宙的最高の福音です。
(161-324 ~ 325、1987.3.8)


夫婦がお互いに愛するにおいて、いつまで愛するのかと尋ねるとき、若い時だけ愛すると言えば気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願いますか。「永遠に」ということもありますが、まず死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを願うのです。永遠は、未来を中心として全体を身代わりにするのです。死ぬ時まで愛そうというのは、自分のすべてのものをありったけ与えて愛そうということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬときまで」は根こそぎ愛そうということです。そう言ってこそ喜ぶのです。(37-24、1970.12.22)
⑤一夫多妻制の問題


―宗教経典―


誰でも妻をたくさん率いる者は、それゆえに悩みに陥るだろう。妻たちと同居するために、その中の何人かを欺瞞し、うそをついて騙すだろう。祈りをよくするからといって、彼が平安を得ることができるか不確実だ。
ヨルバ族の詩、(アフリカ伝統宗教)


大勢の妻に対して全部に公平にしようというのは、いかにそのつもりになっだとてできることではない。(注23)
クルアーン4.129 (イスラーム)


何人かの妻をもつ者は、男性の道徳的本性を蝕む。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.3(ヒンドゥー教)




―み言選集―


女性が結婚すれば、男性との関係を一人としなければなりませんか、100 人、1000 人としなければなりませんか。一人です。なぜ一人ですか、真の愛のためです。絶対的真の愛のために、ただ一人と結婚するのです。
(122-234、1982.11.14)


自分が結婚する人は、宇宙に一人しかいません。男性と女性の二人しかいないのです。初愛というものは、たった一人の男性と一人の女性がするものです。それは、神様と共にするのです。
(265-251、1994.11.23)

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世界経典-68

2022年08月14日 16時42分20秒 | 学習


2.孝


孝は、子女が父母に尊敬と栄誉を見せてさしあげる伝統的道徳原理である。それは、父母に対する義務である。なぜなら、父母が子女を生んでくれ、食べさせてあげ、子女に人生の良い出発を提供しながら、子女のために犠牲になり、奉仕するからだ。それで親孝行な子女は、彼らの父母が老いたとき、彼らを世話するのを負担とは感じない。これは、義務という問題ではなく、感謝する心的姿勢を誘発する、自発的で自然な理想的姿勢とみなされるのである。


文鮮明先生の孝に関する広範囲な教えには、次のようなものがある。孝は、絶えることのない血統的な連帯関係において、世代を連結する永続的な伝統として鼓舞されなければならない。孝は、自分の父母の困難と苦難に同情し、これを自身の問題よりもさらに重要なこととして痛感し、円熟した利他的な聖子、聖女の心的姿勢において完成される。
ここで何より重大なのは、孝は、神様、すなわち真の父母との関係を構築する礎石であるという点である。




①孝は徳の根源


―宗教経典―


あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長ぐ生きることができる。
出エジプト記20.12 (キリスト教)


人間には主なる神、父、そして母、この三人の同伴者がいらっしゃる。父と母を恭敬すれば、神はこのように語られた。「あなたが父母を恭敬するとき、私は、私がそこにおり、彼らが私を恭敬しているのだと考える」。
タルムード、キッドゥシーン30b (ユダヤ教)


神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)


なんじの主は命じたもう、……両親に孝行であれと。もし両親かまたそのいずれかが、なんじと一緒にいて老齢に達しても、かれらに軽侮の語や、荒い言葉を使わず、かれらにねんごろな言葉で話せよ。
クルアーン17.23 ~ 24(イスラーム)


君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)


かの仏国土に生れたいと思う者は、……一つには、父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、……。
観無量寿経27(仏教)


このことを御身にわたくしはお尋ねします。正しくわたくしに語してください、アフラよ。だれが吉祥なるアールマティを王国といっしょに創造したのですか。だれが子を、その心情において父に敬意を抱くようにしたのですか。
アヴェスター・ヤスナ44.7 (ゾロアスター教)


さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確
立によって完了する。
孝経(儒教)


父母はあなたの歯が生えるまであなため面倒を見たのだから、父母の歯が抜けるとき、あなたは彼らの面倒を見なければならない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
―み言選集―


孝子には、自分を考える心をもっていてはなれません。
(62-37、1972.9.10)


孝子とは何ですか。父母が最も喜ぶことを中心として常に考え、そのことを行動でなして相対役をしようと考える人、そのような立場に立った人が孝子です。


五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母がより喜ばれるものを見て感じ、話を聞くときも、「ああ、このような話は喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くようになります。感じるときもそうであり、あらゆる五官の感情が父母を中心として愛と化す、そのような人が孝子です。悪いものがあってはならず、良いものだけがあることを願い、より良いものに発展し、より立派になることを願うのです。
(161-132 ~ 133, 1987.1.18)


ですから、父母が悲しむ内容を深く知っている子女であるほど、その父母の悲しみが解消されることをひたすら願い、自分が働いている環境を越えて、その心配している事実が解消されることを望むのが、その子女の願いではないでしょうか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも父母の悲しみがより早く解消されることを願う心をもった人がいれば、彼は孝子だと言えます。


しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのですが、「父母が私の心配事を考えてくれなければならない」と、父母の心配事よりも自分の心配事をより考える人であれば、その人は、父母と一つになっていない人です。


孝の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却した人は、父母と大切なところで一つの因縁を結べません。自分を主張し、自分の悲しみを理解してくれと要求したり、父母の悲しみは後回しにしておいて、自分の悲しみばかりに責任をもってくれと言う息子がいれば、彼は孝子にはなれず、不孝者になるのです。これは、私達が日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつも体験することです。


孝子としての価値とは何でしょうか。自分の困難もありますが、父母の困難をより心配しながら自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に父母の心配を加えて心配する立場に立ったとしても、これを当然のこととして消化して受け入れ得る立場から、孝の道は始まります。子女が父母の困難をないがしろにし、遠ざけるとき、ここで決裂が起きるのです。孝の道ではない、不孝の道が生じます。
(62-187、1972.9.25)


孝子とは何でしょうか。孝子は、父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していき、責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。


父母が10 の仕事をするのに子供は15 ほど努力をしたならば、父母は5に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げられるかを考えながら努力する人が孝子なのです。
(24-261、1969.8.24)


孝子は、いつでも父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。10 度行き、10 度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。


「ああ、どうしてそのようにするのですか。10 度行って、10 度回れ右し、10度も行ったり来たりする。ああ! お父さん、お母さん、これは私の心に合いません」と反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。


それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100 人の孝子がいるとすれば、その100 人の中から1番になれる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなれるのです。


そのようになるとき、そのような狂ったことを天職と思って行えなければなりません。「ああ! これは自分の常識に合わないので私は知らない」と言えば、ここで孝子の道理はふさがってしまいます。孝子の道は、断ち切れてしまうというのです。ですから、最高の一つの峠を貫いて越えていける世界的な孝の道があるのです。
(62-32 ~ 33、1972.9.10)


自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてぱいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。孝の道を教えるときも、父母が孝の道を行く姿を見せてあげなければなりません。(注3)そのようにできない人は、秋風に散る木の葉のように落ちるのです。
(26-296、1969.11.10)


今まで人間たちは、自分の息子、娘を生み育てる目的を自分の家庭が良くなるところにおいてきました。逆さまになりました。今日では逆さま時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだあとに私が喜べるのです。これが本来の原則ですが、堕落して逆さまになりました。「私から喜び、次に私達の家が喜び、その次に私達の社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているのです。
(8-106、1959.11.22)


②父母と子女の不可分の絆


―宗教経典―


われは、両親に対して孝行であるよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで三十個月である。それから、かれらが十分の力を備える年配に達し、それから四十才になると「私の主よ、私と両親に対して、あなたがお恵み下された恩恵に感謝することを、お許し下さい。またあなたのおよろこびを賜わるよう、私が善い行ないをなし、
また子孫についても、私を多幸にして下さい。


私は悔悟してあなたに帰依いたします、まことに私は、ムスリムであります。これらの者は、われがその最も善い行ないを受け入れた者たちで、その誤った種々の行ないは見のがした、楽園のともがらのうちにいる者であろう。これはかれらに結ばれた、真実の約束である。
クルアーン46.15 ~ 16(イスラーム)


比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。


比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕、に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉って父母に事へ恩に報ひたるものなり。
阿含経増支部i.61 (仏教)25


教友の一人が、「神の使徒よ! 私にとって最も高貴な人は誰ですか」と尋ねると、彼は、「お前の父だ」と答えた。「二番目に高貴な人は誰ですか」と尋ねると、使徒は「お前の母だ」と答えた。「私の母の次は誰ですか」という問いに、神の使徒が答えた。「お前の父だ」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


息子よ、お前はなぜお前の父と争っているのか。彼がこれまでお前を育てたのだから、彼と言い争うのは罪悪だ。
アーディ・グラント、サーラング、M.4、P1200(シーク教)


父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。神に従う人の父は大いに喜び
躍り、知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。父が楽しみを得あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。
箴言23.22 ~ 25(キリスト教)
父よ、私を寵愛なさることに感謝します。母よ、私を平安にしてくださることに感謝します。衣服よりもっと大切な知恵で私を包んでくださり、父母よ! 感謝します。奴隷たちはあなたに奉仕するでしょう。下人たちはあなたを助けるでしょう。
私が生んだ子供たちはあなたのお世話をしてさしあげるでしょう。
ヨルバ族の結婚式の祝歌(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


皆さん、父母と子女の関係を誰も改めることはできません。説明で否定することはできません。それは力でも否定できず、いかなる知識、いかなる権力、いかなる金力でも否定できません。何をもってしても、この父子の関係を否定できないのです。これは宿命的です。いくら分かれても、永遠に分かれる言葉がありません。ですから、これは、愛と生命と血筋によって、神様を中心に永遠に一体になれるのです。(206-235、1990.10.14)


父母の関係は、どのようなものですか。父と息子、娘として、永遠に切り離すことのできない愛の関係です。それを否定できますか。堕落した世の中であっても、父母が子女を愛するのは変更させられません。動物世界で母親が子供を愛するのは、教育や革命を通しては変更させられないのです。億千万世継続するのです。永遠なものです。不変です。ですから、母性愛は不変の真理です。宇宙全体が母性愛を中心として回っていくのです。
(143-52、1986.3.15)
皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に、初めて完成されます。


ですから、父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここから、父母を敬い、子供を愛しなさいという言葉が出てきます。
父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人が四方を区別でき、上も下も区別できるのです。
(18-209 ~ 210、1967.6.8)


父母は子女のために、子女に命まであげたので、子女は父母のために……。生命は愛から生まれたので、本質的な愛の前には、生命を犠牲にしていくのが論理的な結論です。矛盾した結論ではありません。(137-76 ~ 77、1985.12.18)
父母の愛に報いなければなりません。父母が子女を育てるとき、父母が食べることができなくても、食べる物があれば、自分の減ったおなかを押さえ、歯を食いしばって空腹を克服しながらそれを子女に与えます。その愛は、父母のためにそのようにできる子女として育てるためです。


父母が先に苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台となり、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのようにできる息子、娘になるのであり、そのようにできる息子、娘をもってこそ、善の血族として残れるのです。


自分自身ばかりを中心として父母は知らないとすれば、その人は絶対に孝子にはなれません。それでは、どのような人を孝子と言うのでしょうか。父母が子女のためにしていたのと同じように、子女が父母にすることができれば、その子女は孝子だと言えます。それは天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くしていきながら育てたにもかかわらず、その子女が自分にはかかわりのないことだと思っていれば、その家は滅びるようになるのです。


与え合う道理において相対的基準が造成されてこそ回っていくのであり、またそのようになって、初めて神様がその場に臨在され、天国を成していくことができるのです。


それでは、天国に残れる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを、自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものをぬぐってくれた父母の心で困難に耐えて、父母に仕えてこそ孝子になれます。
(35-241 ~ 242、1970.10.19)


家庭で「孝行しなさい」と言いますが、なぜ孝行と言うのですか。それは父母を中心として、父母が行くべき愛の道に、同参者になりなさいということです。その父母の真の愛の道には、天倫がついていくのです。父母だけが行くのではなく、見えませんが縦的な天倫がここに因縁を結んでいくので、父母と一つになりなさいというのは、天倫の役事、見えない縦的な役事と横的な役事の両面の心情圏を受け継いでいきなさいということです。


これが、「父母に孝行しなさい」と言う理由です。これを知らなかったのです。最近は、「父母に何
を孝行するのか」と言います。アメリカでは、そのような考えをもっています。


「父母が私達を生むとき、私達のことを考えて生んだのか。自分たちがよくて生んだのだろう」という考え方です。それは、この原則を知らない考えです。


すべての役事は、縦的な基準が立ってこそ、横的な基準が立つようになります。ビルを建てるときも、まず垂直線を合わせてこそ建つのです。そして、水平線を合わせなければ、いくら高い建物でも倒れます。同じように、私達人間が世の中に立っていること自体が、既に縦的基準に合わせているのです。(136-203、1985.12.9)
最近は、子女が父母を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは、終わりの日です。私達統一教会は、このようにしてはいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけないのです。統一教会は、真実で永遠に肯定できる因縁をもたなければなりません。父母は父母で、子女は子女で、師は師で関係を結ばなければなりません。したがって、若い人だけではいけないのです。み旨には、年を取った人も必要です。
(21-121、1968.11.17)




3.兄弟愛


兄弟間の愛と調和は、家庭平和具現の本質的要素である。父母にとって、兄弟の対立闘争より大きな心配事はない。しかし、一般的な傾向から見るとき、兄弟間の競争により、調和が簡単には維持されていないのである。


兄弟関係は、父母の愛に基づく。兄弟は、自分の父母の生活様相を反映する。そのため、父母が子女を世話して模範を見せれば、子女たちはお互いに世話をしながら、簡単に調和を成せる。さらに兄弟愛は、社会における友人と同僚の間の円満なつながりを形成するための第一歩である。神様を家庭の父母として侍るとき、全人類は兄弟姉妹の関係が造成される。ここで兄弟愛は、人類愛として拡大されるのである。そのため、自分の「兄弟」間の赦しと和解に関する経典の教えは、家庭における兄弟だけでなく、信仰共同体における兄弟姉妹に、そして究極的に世界の全人類に適用されるこどを教示する。


―宗教経典―


見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。
詩編133(キリスト教)


信者たちは兄弟である、それでなんしらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)


孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)


『詩経』に言う、「妻子はよく和合し、おおごととことを弾いて相和するようである。兄弟は和合していて、和楽してまた深く楽しむ。汝の家がよく和して、汝の妻子は楽しむ」と。孔子が(上の詩を賛嘆して)言われ.た、「(妻子と和し兄弟とよければ)父母は安楽である。」
中庸15.3(儒教)


あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5.21 ~ 24(キリスト教)




―み言選集―


子女間の愛は、どのようなものでなければなりませんか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。父と母が愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというと、父母から学ばなければならないのです。愛を受け継ぐための準備は、兄弟を通してしなければなりません。


もし妹がいれば、その妹を愛するとき、自分の母親を愛するようにしなければなりません。妹が兄を愛するときは、父親を愛するようにしなければなりません。男性の兄弟と女性の兄弟は、互いに父母と子女の間の愛を感じなければならないのです。すなわち、父が息子を愛するように兄は弟を愛し、母が娘を愛するように姉は妹を愛さなければなりません。
. (66-121、1973.4.18)


いったい、どのような人が孝子ですか。「お父さん、お母さん、愛しています。ああ、愛しています。愛しています。すべて愛しています。しかし、弟とはけんかします」と言えば、その人は孝子ではありません。その母親は、「あなたが私を愛するように、いや私を愛するよりも兄弟をもっと愛するのが孝子だ」と言うでしょう。この原則は、簡単です。この原則さえ人類が信じ、命を懸けて愛すれば、地上に天国は成し遂げられざるを得ません。
(95-189、1977.11.13)


ある家庭に兄がいて弟がいるのですが、その兄は大統領であり、弟は労働者だとすれば、兄が弟に、「おい、お前は労働者だから、家に入ってきて労働でもしろ」と言うことはできません。真の兄だとすれば、弟が自分のようにできないことを恨に思いながら、立派にしてあげたいと思う心情が動くのが真の兄の心です。
(7-38、1959.7.5)


兄弟の困難を、自分の困難よりも重要視しなくなるとき、兄弟間の関係は疎遠になります。このように見るのです。(62-188、1972.9.25)
一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し、自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。
(31-235 ~ 236、1970.6.4)


理想は、どこにあったのでしょうか。男性と女性には、息子、娘が理想です。男性もいて、女性もいるのが理想的な兄弟姉妹でしょう? 男性ばかりだと、けんかしかしません。兄が妹をたたき、一度えんえん泣いても、翌朝になれば、また来るでしょう? 男性同士では、一度けんかすると1週間はかかりますが、女性は頼りたい心をもっているので、一晩寝れば忘れてしまい、「お兄さん!」
と言ってやって来るのです。兄弟姉妹が、そのように一緒に和合しながら幸福な家庭を築く中で成長する人は、天宙の展示会をするのと同じです。
(205-81、1990.7.7)




今まで皆さんは、兄や姉とけんかし、兄弟同士でけんかして、くるっと背を向けて出てきたことがあるなら、宴を開いて満足させてあげ、「私を許してほしい。これからは、私達の父と母が愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。それは、どれほど美しいことですか。


父母が二人とも霊界に行ったあと、兄弟たちに、残った父母として私が侍ろうと考える人は、どれほど幸福かというのです。兄弟は父母の身代わりなので、残った父母に侍ろうということです。兄弟が苦しんでいれば私が助けてあげ、母親にしてあげたのと同じようにしてあげれば、それはどれほど美しいですか。そこから天国が始まるのです。


祖父がいるでしょう? 父母がいるでしょう? おじさんがいるでしょう?おばさん、お姉さん、すべているでしょう。この3代圏を中心とする、そのすべての親戚を中心として生まれたすべてのものは、私達の父母を見せてあげるためであり、私達の祖父母を見せてあげるためです。さらには、神様を見せてあげるために私にくれた贈り物だと考えてください。


このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したのが世界なので、社会を見れば、祖父母の年齢、叔母の年齢、叔父の年齢、父母の年齢、兄の年齢、姉の年齢、弟の年齢、すべてがそうです。年を取った人たちには祖父母として、侍ってために生き、そのように愛するのです。その次には、父母のように、兄と弟のようにために生きようとしなければなりません。


神様も同じです。神様は、私達の父ではないですか。世界の人を見せてあげ、兄弟として愛しなさいと言うのです。かわいそうな乞食がいれば、その乞食が父親の年齢なら、父親のようにために生きていける心、それはどれほど美しいですか。神様から見るとき、すべてが自分の息子、娘なのに、けんかしていていいでしょうか。同じ道理です。全人類が神様の息子です。同じ概念です。
(184-65 ~ 66、1988.11.13)




カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも、私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて、最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、1957.11.1)






4.友情


兄弟関係で学んだ教訓は、友人関係の維持に直接適用される。友情は、兄弟愛の社会的な拡大形態である。堅い友情は、情緒的つながりを造成し、社会倫理を定着させる。良き友人は、正直で信実で真実である。そしてそれは、友人、すなわち他人の利益を追求する原動力になる。反面、悪しき友人は、自身の利益のために友人を利用する。経典は、何よりも友人選択に慎重であることを勧告する。






①真実な友人と偽りの友人


―宗教経典―


男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。かれらは正しいことを命じ、邪悪を禁ずる、また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、神とそのみ使いに従う。
クルアーン9.71(イスラーム)


友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13(キリスト教)


曾子がいった、「君子は文事(詩書礼楽)によって友だちを集め、友だちによって仁の徳〔の成長〕を助ける。」
論語12.24 (儒教)


あなたをため私は悲しむ。兄弟ヨナタンよ、まことの喜び、女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。(注4)サムエル記下1.26(キリスト教)
犬が言った。「お前が転び、私が転べば、その遊びは楽しいだろう」。(注5)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)


羊が二匹一緒に歩くのは、一匹の羊が他の羊の目にある埃を吹いてあげなければならないからだ。(注6)
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)


同人九五の交辞には「人に同じうするに先には号き叫び後には笑う」とある。これについて孔子は次のように言う。君子の道は、時には出でて朝廷に仕え、時には退いて野に処り、時には黙して語らず、時には大いに語り論ずるなど、時に応じで様々であるが、その心情の正しさを重んずる点においては変わりがない。正しい心情の持主が二人して心を合わせればその鋭さは金鉄をも断ち得るほどであり、心を同じくする者のことばは、蘭の香りのごとくにかぐわしいものである。
易経、周易繋辞上伝1.8.6 (儒教)




孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは、有益だ。体裁一つたのを友だちにし、うわべだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」(注7)
論語164 (儒教)


威に服して心にもなく親しくなる者、口先うまい仲間もまた同じこと。うわべは従順で人をたぶらかす仲間、悪事の友悪いことをする仲間、これらの仲間はあてにならない。知恵ある者は心して、すみやかに彼らを遠ざけよ。


ちょうど険しい道を避けるように、悪を防ぎとどめる友、人を慈しみ大事にする友、人に利益を与える友、一緒に事を行っでわが身のごとくみなす友、こうした友にこそ親しめよ。智者が近づくのはこうした人、友の中でもたぐいなき友、慈母がわが子を慈しむように。
阿含経長部iii.187 善生経(仏教)


私達が周りにいないとき、私達が不在のとき、私達のために行う者はごくまれだ。しかし、私達がいるときはすべての人たち、奴隷であれ自由人であれ、私達に愛を表す。
ヨルバ族の詩(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


この世の中で最も良い友人がいるとすれば、その良いという友人は、億千万世までもお前と私の間を断ち切ることはできないという、そのような良い立場の友人かというのです。いかなる高価なものよりも、自分の妻よりも良いと言える友人が良い友人です。


一日の生活感情の一言で捨ててしまえる、そのような因縁の立場ではありません。命自体を刈り取られていっても断ち切れない立場が、このような友人の立場なのです。そのような、同情の立場ではないと言える立場が善の母体なので、今日、私の本心に共にあった善と関係を結んだすべての因縁は、永遠に断ち切ろうとしても断ち切れません。分けようとしても分けられないのです。
(42-218、1971.3.14)


真の友人とは、どのような人ですか。「私のためにいなさい」と言うところには、真の友人はいません。真の友人は、友人のためにいようというところにいます。10 人の友人がいれば、その10 人の友人のために一生の間奉仕したというとき、その10 人の友人に「今までであなたにとって1番の友人を選びなさい」と言えば、彼らはみな、その10 人の友人のために一生の間奉仕し、犠牲になった人を選ぶでしょう。
(70-72、1974.2.8)


人間はつき合うにおいて、互いに知る時から、その時間が長くなれば長くなるほど、そこには生活的な面でも通じ合えるようになります。それだけでなく、情緒的な問題までも連結されるのです。私が生きている立場、全幅的な分野が関係している相手と共に立体的な立場を備えることを願うようになります。それが大きく、広く、高いほど、彼は私の前からいなくなってはいけない、友人
なら友人なのであり、あるいは家庭なら家庭になるのです。
(59-296、1972.7.30)


幸福な人とは、どのような人ですか。悲しいとき、自分の心を分かってくれる友人をもった人です。幸福な人とは、どのような人ですか。苦痛を受けるとき、「その苦痛は私が代わりに受ける。あなたはその苦痛の場に行くな。私が代わりに行く」と命を覚悟して立ち上がれる友人や愛する息子や娘をもった人です。その人は、幸福な人です。
(150-196、1961.2.15)


友人との間でもそうです。ただ顔だけを知っていて、互いにあいさつだけをして過ごす友人の家に行けば、自由ですか。自由ではないのです。友人との間でも、必ず互いの心情的紐帯があり、私が友人の生活に思いどおりに入り込むことができてこそ、自由なのです。このような因縁を結ぶためには、必ず情的に近くなければなりません。そのようになれば、外的な間題は、すべて解決されます。したがって、最も問題になるのが心情的な問題です。
(33-133、1970.8.11)


友人になり、誰よりも親しく愛される人になろうとすれば、その人の悲しみと苦痛を理解して、それを慰労してあげなければなりません。心情を通して愛で因縁を結べば、その人が私の思いどおりに動き、私もその人の思いどおりに動けるのです。
(7-306、1959.10.11)






②友人選択の知恵


―宗教経典―


悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
法句経78(仏教)


悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。
コリントの信徒への手紙一15.33(キリスト教)


汚れたものを近くにすると、一緒に汚れるだろう。純潔なものを近くにすれば、純潔になるだろう。
ミシュナ、ケリーム12.2(ユダヤ教)


立派なものは友とすること、それはあなたが体と霊魂で徳を実践するのを助けるだろう。邪悪なものとは距離を置いて離れること、それは悪があなたに接近するのを防いでくれるだろう。
陰隲文(道教)




正直者の群れの中に座せ。善良で高潔な者と交われ。いや、敵意が和らげられない所において高貴な敵を探し、邪悪で不義なる者と関わりを持つな。たとえ捕らわれの身にあったとしても徳のある者、学識のある者、真実なる者と共に生きるべきである。しかし王国のために、汝は邪悪で敵意のある者と共に留まってはならない。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)


誰かを友とし、誰かと交われば、彼はその人と似た者となる。なぜならば、交際とはそのようなものである。交わる者はおのれと交わる他者を、接触する者はおのれと接触する他者をけがす。きたない矢がけがれていない矢束をけがすごとくである。けがされることをおそれて、賢者は、けっして悪人の友となるべきではない。
如是語経76(仏教)


共に住むことによりて〔初めて〕、戒は知らるべきことなり。それも長き間〔共に住むことによる〕。又少しく思惟することによるにあらず。如何に況や思惟せざることにおいてをや。それは又智慧ある者によりて〔知らるべく〕智慧なき者によりてにあらず。大王よ、共に交ることによりて〔初めて〕清浄なることは知らるべきなり、会話によりて〔初めて〕、智慧は知らるべきなり。それも長き間……乃至……智慧なき者によりてにあらず」と。
感興偈65 ~ 66(仏教)


友をつくるときは、試してからにせよ。すぐに彼を信頼してはいけない。都合のよいときだけ友となり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。また、心変わりして敵となる友もいて、争いでお前が吐いた悪口を暴露する。食事のときだけ友であり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。


お前のはぶりがよいと、お前のようにふるまい、お前の召し使いたちになれなれしくする。しかし、お前が落ちぶれると、背を向け、お前の目から身を隠す。敵からは遠ざかれ。友達には気をつけよ。誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、そのすばらしい値打ちは計り難い。誠実な友は、生命を保つ妙薬。主を畏れる者は、そのような友を見いだす。主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから。
シラ書〔集会の書〕6.7 ~ 17(キリスト教)




―み言選集―


私達の人生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくにおいてもそうです。一言の言葉が人生を左右することがいくらでもあります。言葉を一言話すことによって、人生を台無しにすることがいくらでもあるのです。それと同じように、聞くこともそうです。


一言、一度間違って聞くことによって一生を台無しにするのです。また、行動においてもそうです。一度間違って行けば、やはり人生を台無しにするのです。また、皆さんが友人とつき合うにおいても、一人の友人と間違ってつき合うことによって一生を台無しにすることもあります。


そのようなことが人生に1度や2度ではないので、昔から、考える人たちは、言葉に気をつけ、聞くことに気をつけ、行動に気をつけ、友人に気をつけなさいと教えてきました。これは古今東西を問わず、あるいは洋の東西を問わず、同じ公式として通じるのです。


人を見ると、自分が不利で、自分が困難なときには、人のことを考えるのが難しいのです。これは公式的であり、共通です。そのとき、自分の困難を免れるためには友人も利用でき、環境も利用でき、話も変えられ、行動も変えられます。そのような環境が待っていることは事実です。


このように見るとき、人間の世の中で誰を信じるのでしょうか。私が誰かを頼って、あらゆる正しい道を行くことが難しい立場はいくらでもあります。良い友人だと私が信じていたにもかかわらず、あとでその人が私を踏んで利用する境遇が多いのです。そのようにできるようになっています。ですから、そのような観点から見るときに、誰を友人とするのか、誰と一緒に良いきっかけをもつのか、このような問題が世の中の大きな問題です。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)


皆さんが友人とつき合おうとするときは、発展できる友人か、そうでなければ希望がない友人かということが問題になります。希望がない友人と関係を結べば結ぶほど、自分にだんだんと無価値な結果が現れざるを得ません。ですから、より良い友人と関係を結び、より良いあすのために準備して、努力しなければなりません。
(32-14、1970.6.14)


皆さんの中に、個人主義の思想が濃厚な人を友人にしようという人がいますか。自分だけのために生きようとする人は、良い友人ですか、悪い友人ですか。悪い友人です。なぜ悪いのですか。分けてしまうからです。個人と家庭と氏族から、すべて分けてしまいます。ついたてで仕切るようにふさいでおくのです。


なぜ悪いのか、はっきりと知らなければなりません。悪とは何ですか。悪は私的なものと通じます。もとから悪を好む人がいますか。種粒ほどもいません。皆さんも良い友人を願うでしょう? 悪い友人は嫌うでしょう? それでは、良い友人とは、どのような友人ですか。「御飯も食べず、学校にも行かずに出てこい!」、そのような友人が良い友人ですか。友人が、御飯を食べる時間に御飯を食べていなければ御飯を食べさせ、学校に行かないと言えば、学校に行くようにする、このような友人が良い友人です。悪い友人は、これと反対だというのです。ここから善悪が分かれます。
(36-69、1970.11.15)


「ああ、あの人は、私の友人の中でこの類型の人のようだ。あの人は、私が知っている100 人の中でこの類型の人だ」ということを比較、研究しなければなりません。それで、3、4の類型の人を選んで確認してみるのです。温柔な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、その次には、もたもたする人なのかを確認するのです。
(54-177、1972.3.24)




5.夫婦愛


百年佳約(夫婦の一生の契り)は、神聖なものとして許される。それは、神様の祝福と約束を伴っている。夫婦愛の喜びは、神様の贈り物である。夫婦愛を通し子女を養育することによって、私達は神様と共同創造者として、宇宙秩序に参与する。ここにはまた、一つの重要な意味が内在している。
私達は、夫婦愛を通して神様に出会ったのち、最も親密で現実的な方式で、神様の愛を直接体恤する一定の位置を確保することができる。


文鮮明先生は、この主題に対して広範囲に数える。先生の教えによれば、結婚は、人間完成の必須的な前提条件である。結婚の配偶者が自身の愛を強化して人生を再創造する方法に関し、文先生は様々な次元で実際的な忠告を提供する。夫と妻の双方の愛情は、彼らには半分にすぎないものである。より一層根本的なことは、祝福結婚を通して神様と人間の間に垂直的な愛が具現されるという点てある。愛の神様は、自身の愛を反映するために男女の間の人間的愛を創造した。そのため、それは絶対的であり、不変であり、唯一なものである。


神様が私達各自を個別に愛するのと同じように、配偶者たちもそのように互いに誠実に愛さなければならない。今日、多くの人々が結婚の価値に対して尋ねるとき、彼らは自らの人生を神的な設計に立脚し、結婚の位相を格上げするために、宗教の声に深く留意する。


経典の様々な章句は、神様がエデンの園で制定した本然の計画に基づき、結婚に言及する。ここには文先生の独特な寄与がある。先生は、人間堕落の過程を明らかにし、本来の高貴な夫婦愛がどのように転落したのかを具体的に解明する。堕落の結果、やむを得ずに伝統的な人間の愛は神様の愛の秩序から逸脱し、このことにより結婚理想は具現され難い立場に置かれた。文鮮明先生の中心的な使命の一つは、全人類が本然の夫婦愛を回復するようにすることである。それを具現するための一環が、祝福結婚の儀式である。


①夫婦愛と愛情


―宗教経典―


互いに甘い目くばせを交わし、私達の顔が真の和合を示さんことを。私をあなたの心の中に秘め、同一の霊が私達の内に住まわれん事を。私はマヌより受け継いだ我が衣をもってあなたを覆う、あなたが完全に私のものとなり、他の者を求めぬように。
アタルヴァ・ヴェーダ7.36 ~ 37(ヒンドゥー教)


ただ一緒にいるからといって夫婦なのではない。真実に結ばれた二人は、一つの光として生きる。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p.788(シーク教)


またかれが、なんじら自身の中からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。
クルアーン30.21 (イスラーム)
私を刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。


大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと、財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる。
雅歌8.6 ~ 7(キリスト教)


ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く。あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。お誘いください、私を。急ぎましょう、王様私をお部屋に伴ってください。(注8)
雅歌1.2 ~ 4(キリスト教)


切断、細分、また分割、見よ、スーリアー(新婦)の形態(または色)を。されど祈祷者はそれらを清む。われ幸運のために汝の手を握る、汝が夫たるわれと共に老寿に達せんがために。バガ・アリアマン・サヴィトリ・プランディ(豊饒の女神)、もろもろの神々は、汝を家政のためわれに与えたり。


プーシャン(道祖神)は、勝れて吉祥なる彼女を送りよこせ、そが中に人間が種子を播くところの。その彼女は慾望に満ちてわれらのために両腿を開かん、われらは慾望に満ちて、その彼女の中に陽を入れんと欲す。……両人は〔常に〕ここにあれ、離るるなかれ。寿命を完うせよ。子と戯れ、孫と〔戯れ〕、おのが家に楽しみつつ。


プラジャー・パティ(造物主)はわれらに子孫を生ましめよ。アリアマンは〔われらを〕、老ゆることなく合体せしめよ。凶兆なく夫の世界(家)に入れ。われらが二足のもの(家人)に幸福を、四足のもの(家畜)に幸福をもたらせ。


不吉の眼差なく、夫を殺すことなかれ。家畜に親切に、好意に満ち、光彩に富み、男子を生み、神を敬い、心地よく、われらが二足のものに幸福を、四足のものに幸福をもたらせ。


恵み深きインドラよ、汝はこの婦人をしてよき息子をもち、幸運に富む者たらしめよ。彼女に十人の息子を授けよ、夫を第十一番目の者となせ。舅に対して全権ある者となれ。姑に対して全権ある者となれ、夫の姉妹に対して全権ある者となれ。夫の兄弟に対して全権ある者となれ。


一切の神々は、また水は、われら両人の心を合体せしめよ。マータリシュヴァンは、ダートリ(創造神)は、またデーシュトリー(「指示者」、女神の名)は、われら両人を一体ならしめしよ。(注9)
リグ・ヴェーダ10.85.35 ~ 47(ヒンドゥー教)


かうかうとみやこどり
かはのなかすに
たをやかのかのひとは
よきひとのつま
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりかきてとる
たをやかのかのひとは
よすがらにもとめつつ
もとめつつあひえねば
よすがらにものおもふ
おもひつつわびしくて
いねがてにふしまろぶ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりつみてとる
たをやかのかのひとは
ことかなでしたしまむ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりえらびとる
たをやかのかのひとは
かねうちてたのしまむ(注10)
詩経、周南、1 關bw(儒教)


からからと車のaiくさび)が鳴り
美しい末娘が嫁いでゆく
心飢ゑて求めるのではない
魂あへる人なれば
よき友人ともしとも
うたげして喜ぶべきぞ
生ひ茂る林に
飛ぶは山鳥
うましかの人
めでたくぞいます
やすらひたのしみて
君をいとふことあるまじ
うま酒なけれども
いざ酌みたまへ
よき肴なけれども
いざ食したまへ
ふざはしき徳なけれど
しましくは歌ひ舞はむ
かの高山に陟(のぼ)り
柞(はなそ)の枝を切る
柞の枝を切れば
その葉しなやか
めぐし君を見れば
心晴るるぞかし
詩経218 車ai儒教)




―み言選集―


神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができれば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世の中的な愛ではありません。その愛は、最高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。そのような愛が成し遂げられる所とはどこかというと、家庭です。
(26-154、1969.10.25)


愛する妻と夫の愛は、何かの条件的な愛ではありません。無条件的な愛です。その愛は、永遠に絶対的な愛です。
(112-294、1981.4.25)


愛する立場では、女性が男性の胸深くに入り込んだとしても、男性は反対しないのです。男性も同じです。千万世の壁がふさがっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難にかき分けて越えていけるのは、愛です。
(49-52、1971.10.3)
愛するときは、一つの体になって愛さなければなりません。男性と一つの体になった女性が真の愛で一つになり、その夫婦が離れられない関係になったとき、永遠に共存するのです。
(187-47、1989.1.5)


結婚がなぜ重要なのですか。愛を求めるものだからです。愛を知る道だからです。生命を知るものだからです。女性の生命と男性の生命が一体になる道です。次に、男性と女性の血統がここで混合されるのです。これを通して歴史が生じ、国が生じ、世界が生じ、理想世界が生じます。これがなければ、個人もなく、家庭もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっているのです。
(279-114 ~ 115、1996.8.1)


夫婦の天国は、どこからできるのでしょうか。プラスどマイナスが完全に一つになる所です。それは、結婚した日から喜んで暮らしていて、何年もたたずに離婚してグッバイするものではありません。
もう夫婦の天国が、どのような所か分かりますか。誰も夫婦を離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、上のほうでくっついているのです。皆さんは、どのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていくのです。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。
(96-29 ~ 30、1978.1.1)


結婚に目的があれば、その目的とは何でしょうか。「男性と女性が出会い、ただそのように暮らすことだ」、それが結婚の目的ですか。違います。「心の世界を、男性と女性の心の完成を成し遂げるためのものであり、男性と女性の愛の完成を成し遂げるため」です。このような観念が全くありません。結婚したということは、「私はそのような証拠をつくろう」と宣布することです。そして、「結婚生活を通してつくろう。死んでいくとき、私はそれをつくってから逝く」と考えれば、間違いなく天国に行くのです。天国は、ほかのものではあません。
(97-277、1978.3.26)
女性は男性を、父を身代わりし、夫を身代わりし、兄を身代わりし、弟を身代わりした立場の者として愛さなければならず、また男性は女性を、母を身代わりし、妻を身代わりし、姉を身代わりし、妹を身代わりした立場の者として愛さなければなりません。この四つの立場を身代わりし、世界を愛する心で最も近い所で愛し、尊敬しながら、互いにその刺激を感じるように結ばれた因縁が夫婦です。


世界を愛する代わりの立場で、世界的な愛を与え合える最も基本単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表する人間として愛し得る二人の男女が、新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴という場です。ですから、結婚すれば、妻を母の代身として、姉の代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫を父の代身として、兄の代身として、弟の代身として、それ以上に愛する心をもって愛さなければなりません。これが理想相対を中心とする家庭的夫婦の愛です。
(37-109、1970.12.22)
神様は、平安であるよりも、自分を抑えながら昼夜走るのを好まれます。なぜですか。サタンを滅亡させられるからです。結婚も同じです。結婚は、私のためにするものではありません。女性は男性のために結婚するのです。結婚するとき、器量の良い美人が優れた男性をもらおうとすれば、それはすべてサタンだというのです。そのような結論が出てきます。


この原則を知れば、一人の男性として結婚するとき、本当に女性のためにするのであれば、「自分は美男子だが、本当に醜い女性であっても、美人以上に愛そう」という考えをもたなければなりません。これが原則的な考えです。私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛し得るという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛することはできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)


それでは、統一できる方法とは何でしょうか。互いに愛することです。相手が哀れに思えて愛することもでき、好きでも愛せます。夫婦同士、初めから好きで愛せる人はいません。(注11)だんだん愛せるようになるのです。ある夫人が夫を見ると、性格が意地っ張りです。その意地っ張りのおじいさんを誰が愛するかというのです。


けれどもその夫人は、「あの意地っ張りゆえにどんなにぶつかることが多いか」このように考えて、かえってかわいそうに思うというのです。そのようにかわいそうに思って愛してあげれば、そのおじいさんは一番孤独で悲しい時に、夫人の所に行き訴えるようになっています。そのようになるのです。


また、そのおじいさんが頑固なのを見れば、自分は頑固でないので、おじいさんの頑固が使い道のある時もあります。ですから好きでも愛し、かわいそうでも愛せます。そのような心だけもつようになれば統一されるのです。
(41-332 ~ 333、1971.2.18)
私達統一教会の食口たちは、貧しい暮らしをしています。だからといって、これが不幸なのではありません。一つのパンでも分け合って食べて暮らす生活、それがどれほど良いでしょうか! 互いを大切にし、互いに一食抜き、自分の妻に食べさせようとし、夫に食べさせようとする、その愛の谷間は、どれほど深いでしょうか。
(216-270、1991.4.7)


人には、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らに対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。
(23-57 ~ 58、1969.5.11)


祝福家庭を天の国で神様が見れば、星のように光り輝いているというのです。神様も喜ぶというのです。最高の太陽のように、月のように光り輝く、愛するカップルになろうと思わなければなりません。そして、掘って、掘って、掘って、掘っても、10 年暮らしても、その愛の谷間を探し出せません。それで一生の間、掘って掘り続けながら死んで、天の永遠な世界に行って、初めてすべて合わせるのです。


ですから、夫に対して研究してください。夫を見れば性格がこうだと思っていたのに、後ろを見ると宇宙全体があるのです。神様よりもっと驚くべきものだと思うというのです。上から下に、東西、四方に違うではないですか。ですから、結婚する時に私の夫はこうだと思っていたことから抜け出せなければ、愛の理想を成就できません。回って上も見て、下も見て、寝ている時も見て、すべて研究しなさいというのです。


あなた達は、夫に関して、死んでも忘れられない魅力的な部分を記憶していますか。それは何ですか。体全体です。じっと見てみてください。お互いにけんかをする時も、目を見ればパチパチするのが私と似ている、息をするのが私と似ている、聞くことも私と似ている、唇も私と似ている、感じることも私と似ている、そこに私が喜ぶ愛も私と似ているので、それを手放すことはできない、そのようなことを感じてみましたか。


心は年を取らないのです。心が年を取らないならば、愛はどうでしょうか。生命はどうでしょうか。その次に、血統はどうでしょうか。神様の真の愛を中心としては、すべて年を取らないのです。愛が10 年、20 年と深くなっていけばいくほど、もっと美人になるというのです。世の中で一番の美人になり、美男子になるというのです。


地上では醜男醜女でも、黒人でも、愛の中心として見れば、一番の美人になります。愛の光以上に明るいものはないので、あの国では、どんな哀れな姿でも最高の美しい姿へと、どんどん若くなっていくというのです。世の中で考える美人たちは、どんどん老けていきます。世の中の美人は、あの国に行けば醜女になり、この世で美しさを中心として夫婦が愛すれば愛するほど、さらに美男になり、美人になります。


愛の光は最高に高く、最高の光なので、そうならざるを得ないことを知らなければなりません。さあ、ですから愛する妻は、天宙の私の光であり、私の夢であり、私の幸福であり、私の平和はそこにあるのです。天の心以外には、美人にする道はありません。
(297-168 ~ 170、1998.11.19)


先生が祝福してあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極が出会うようにしなければなりません。東と東、北と北が出会うようにしてはいけません。北と南、東と西が互いに出会うようにしなければならないのです。


背の高い男性に背の高い女性を出会わせてあげなければなりませんか、背の低い女性を出会わせてあげなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むことはありません。また太った女性が太った男性を好むことはありません。やせた男性は、太った女性を好むでしょうか、やせた女性を好むでしょうか。太った女性が好まなければ、自分もやせているのに、女性までやせたらどうなるのですか。山に大きな木ばかりあれば、見栄えが良くないのです。小さな木もあれば、見栄えが良くなります。
(26-333 ~ 334、1969.10.3)


天国は、家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は、天国に入れない。
御旨の道、天国

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世界経典-67

2022年08月14日 16時39分14秒 | 学習


②断食


―宗教経典―


第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなた達は苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
レビ記23.27 (キリスト教)


信仰する者よ、なんじら以前の者に定められたように、なんじらに斎戒が定められた。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。斎戒は定められた日数である。だがなんじらのうち病人、またはたび路にある者は、後の日に同じ日数を斎戒すればよい。それに耐え難い者の償いは、貧者への給養である。すすんで善い行いをなすのは、己れのために最もよい。もしなんじらがよく、その精神を会得したならば、斎戒はさらになんじらのためによいであろう。


ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きの明証正邪の基準ために、クラーンが下された月である。それでなんじらのうち、この月家にいる者は、この月じゅう斎戒しなければならぬ。病気にかかっている者、またはたび路にある者は、後の日に、同じ日数を斎戒する。神はなんじらに易きを求め、難きを求めたまわぬ。これはなんじらが定めた期間を全うして、導きに対し、神をたたえるためである。おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン2.183 ~ 85(イスラーム)


私の息子よ、お前は同僚の何かの助けにならなければならない。その理由として、私はお前に断食することを勧告する。私達の中にいる私達の先祖は、あらゆる種類の祝福を送っている。努力してこの祝福を受けよ。ウォーチーフの中の一人、私達の先祖の中の一人が、お前を哀れに思うようにせよ。そうすれば、ある日、(生命の)道に従って旅行するとき、お前は何をしなければならないかが分かり、障害物に出会わないだろう。


そうすれば、お前はどんな問題もなくお前が望む褒美を追求することができる。そのとき、栄誉はお前のものである。どんな問題点にも接することなく、お前はそれを獲得できるからである。


存在するすべての戦争の力は、戦争を統制している私達の先祖に所有されている。そしてもし、敬虔にお前が死ぬことをお前自身に渇望すれば、そのとき彼らはお前に祝福を下すだろう。今もしお前がお前の足を疲れさせなければ、もしお前がお前の顔を炭で黒く塗らなければ、お前がお前自身に苦痛を与えることは何の意味もないだろう。


この祝福は、努力なくして獲得されない。大地の創造者によって創造された霊魂の中の一つがお前を哀れに思うように努力せよ。その霊が語ることは何でもそのとおりになるだろう。もしお前がお前を強くするために一つの霊魂を所有しなければ、お前は全く大したものではなく、人々はお前をそれほど尊敬しないだろう。
ウィネバコ族の父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)


「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠
れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書6.16 ~ 18 (キリスト教)






―み言選集―


宗教では、体が願うことを否定します。体が願うこと、体が喜ぶこととは何ですか。平安なところを願います。ですから、その反対に苦痛の道を行きなさいというのです。その次には何ですか。食べることを好みます。良いものを食べようと考えるのです。ですから、「断食をしなさい」と言うのです。
(140-25 ~ 26、1986.2.1)


世の中で空腹なことほど痛ましいことはありません。おなかがすいていることを越えて、おなかがすいている以上に神様を慕わなければなりません。統一教会員はみな1週間断食をします。断食しながら12 時になる10 分前になれば、「ああ、9分残っている。ああ、8分残っている、ああ、1分、60 秒残っているなあ。ああ、チクタク、チクタク……。ああ、20 秒残っている。ああ……」と考えて12 時になれば、「ああ、御飯だ!」と御飯のことを考えましたか、神様を考えましたか。御飯を食べたいと思うよりも神様をもっと慕いましたか。おなかがすいていると思う以上に神様を慕わなければならないのです。


先生は、ですから30 代までおなかがすかない日はありませんでした。どれほど御飯を食べたいかというと、そばで御飯と言えば、口がこのように広がります。そのたびに、「ごは~ん」と言うよりも「神様~」と言うのです。このおなかがすいたというその力が、神様の愛が入ってくることができないようにすべてふさいでしまいます。
(94-294、1977.10.9)


私達の生活に神様の愛を接ぎ木するために、最も必要なものは何ですか。先生が恐れるのは体です。体が怨讐だということです。この体を中心として最高の三大真理があります。第一には食べることです。食べることは真です。空腹のときに御飯を食べたいと思うのは真理です。問題は、食べることが私を完全に占領してしまうことです。食べることを克服しなければなりません。食べることよりも神様を、空腹以上に神様を愛することができる基準をもたなければなりません。そうすれば、体を支配できる愛の道が開かれるのです。それで断食するのです。イエス様も40 日間断食しました。ほかのすべての修行者たちも断食をします。


二番目は眠ることです。眠りから解放されなければなりません。眠りを克服しながら、眠りに打ち勝つことのできる位置で神様の愛をどのように発見するのでしょうか。眠りが来るときにも、眠りを越えて眠ること以上に神様の愛を敬い慕わなければなりません。大勢の修行者たちは眠りと闘いながら精誠を尽くしました。眠りが怨讐なのでナイフで足を切ったり、ありとあらゆることをするのです。眠りを凌駕できる位置で神様の愛を敬い慕わなければなりません。


先生は7、8年間、一日平均2時間も眠りませんでした。空腹の境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができ、眠りたいと思う境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができるのです。
(94-293、1977.10.9)


③独身生活


―宗教経典―


イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書19.11 ~ 12(キリスト教)


復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタイによる福音書22.30 (キリスト教)


師(ブッダ)は答えた。「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。」
スッタニパータ815 (仏教)


思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このように私が言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
コリントの信徒への手紙一7.32 ~ 35(キリスト教)


妻子や家などに対して執着や愛着のないこと。好ましい、または好ましくない出来事に対し、常に平等な心でいること。ひたむきなヨーガによる、私への揺るぎない信愛(バクティ)。人里離れた場所に住むこと。社交を好まぬこと。常に自己(アートマン)に関する知識に専念すること。
バガヴァッド・ギーター13.9 ~ 10(ヒンドゥー教)
私は神々と人々と動物とのあらゆる性的快楽を放棄した。私が生きている限り、私は決して肉体的な欲望に屈服することはなく、他の人たちがそれに屈服するよう原因となるものを提供することもなく、他の人たちがそれに屈服するのを容認することもないだろう。
アーヤーランガ・スッタ24(ジャイナ教)


妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ60(仏教)




―み言選集―


人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内から抜け出ることができずにいます。ところが、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を受けることができますか。それで、宗教では独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子、娘をたくさん生みましたが、独身生活をしていなければなりません。


これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているということです。皆さんが知っているように、仏教もそうではないですか。カトリックもそうではないですか。それはなぜそうなのか知っていますか。神様の近くに行くのでそのように教えたのです。


人類の真の先祖にならなければならなかった方たちが、まだ結婚式をしてみたことがありません。ところが、生まれてもいないような立場にいる人間たちが結婚式をするのですか。堕落した子孫として生まれた息子、娘たちは、すべて救援のみ手を経て復帰の道を行かなければなりません。本来、私達人間には、宗教であるとか、復帰であるとか、祈祷であるとか、何の救世主であるとかいうものは必要ないのです。神様の愛の圏内ではそうなのです。
(21-45 ~ 46、1968.9.1)


今の堕落した世の中は、天が求めてくる摂理歴史の背後と根本的に違います。それで、この地上で宗教の道を行くときは、既にあった社会制度を全幅的に支持するところから出発しません。そのような宗教はないのです。否定から出発したというのです。肯定で出発したのではないのです。完全否定で出発しました。


仏教は山中修道を行い、キリスト教もやはり社会生活から離脱する、もちろん社会制度の中で生きるのですが、家庭をもてないこのような独身生活
をしなければなりません。禁欲生活をすると同時に、その次にはあらゆる血気を抑えなければなりません。人間が喜ぶあらゆる要件を、すべて否定するところから出発しなければならないのです。なぜそのようにしなければならないのですか。根が間違ったからです。
(155-288、1965.11.1)


原理で見るとき、世の中の男性たちは天使長の子孫なので、結婚する資格がありません。(注22)ですから、独身生活をしなさいというのです。まだ本然の父母が結婚できていないのに、いい加減になって下水のたまりに入っていった人たちが、自分勝手に愛することができますか。そのような愛は非法です。それで高次的な宗教が独身生活を強調するのです。
(25-203、1969.10.4)


天使に何の相対がいますか。それで、今まで宗教においては独身生活をするのです。本来、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。本当はキリスト教の牧師たち、すべて不合格者です。
(62-257、1972.9.25)


天使長とは、どのような存在ですか。天使長には相対の因縁を許諾しませんでした。皆さんが聖書を見れば、「私達のところに7人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じことになりました。最後に、その女も死にました。すると復活の時には、この女は、7人のうちだれの妻なのでしょうか」とサドカイ人がイエスに尋ねるとき、イエス様は、「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない」と答えました。


なぜそのような話をしたのかというと、天使長圏の復帰時代なのでそのような話をせざるを得ないというのです。まだ相対の因縁をもつことができないのが天使長圏です。ですから、今まで宗教が求めてきたものとは何でしょうか。天使長の使命圏内に立っているので、相対の因縁を付与できないのが宗教の歩んできた道でした。(注23)ですから、高次的な宗教であるほど、一人で暮らす独身生活を強調した理由がここにあることを、皆さんは知らなければなりません。
(50-193、1971.11.7)


④禁欲問題:愛の欠乏


―宗教経典―


たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
コリントの信徒への手紙一13.2 ~ 3(キリスト教)


たとえ裸形の修行者であり……たとえ野菜を食い、稗を食い、ニーヴァーラ種子を食い、たとえ麻の衣をまとい、半衣をまとい、……かれに、かの戒めの完成が実修されず、心の完成が実修されず、知恵の完成が実修されずに、体得されることがないならば、かれは、人の道から遠く、バラモンの道からも遠いだけです。




カッサパよ、修行僧として、敵意のない、憎悪のない、慈しみの心を実修し、またもろもろの(煩悩の)汚れを滅ぼし尽し、(煩悩の)汚れのない心の解脱、(煩悩の)汚れのない知恵の解脱を、現世において、みずからよく知り、まのあたりに見て、体得し、完成して暮らすならば、カッサパよ、実に、この修行僧は、道の人ともバラモンともいわれるのです。阿含経長部i.167 (仏教)


教典に規定されない恐ろしい苦行を行う人々、偽善と我執に満ち、欲望と激情と暴力に満ちた人々、無思慮で、身体に存する元素の群や、身体の内部に宿るこの私を悩ます人々、彼らを阿修羅的な決意を持つ者と知れ。(注24)
バガヴァッド・ギ一ター17.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


おお、兄弟よ! 色を貪る心と利己的な我執を当然のように刈り入れよ。禁欲と苦行により、ただこの強い肉身を衰えさせたとして、何の役に立つのか、ただ衰えた肉身をもって、あなたは自ら苦行者であることをたたえられようとするのか。
ニシーハ・バシャー3758(ジャイナ教)
あらゆる聖なる諸儀式を捧げても、これを誇る心があれば、それらは自ら苦労するだけで無駄なことである。あらゆるつらい苦行をしても、これに偉ぶる心があれば、ただ天界と地獄を行き来し、輪廻を抜け出すことができないだろう。あらゆる努力にもかかわらず、自ら慈悲の心を示すことができないのだから、どうして神の国に入ることができるだろうか。
アーディ・グラント、ガウリ-・スクマニー12、M.5、p.278 (シーク教)


昔、厳しい誓いを立てた聖者であり、法において最も賢く、多くの学識を積んだマンダパーラという行者がいた。彼は(純潔を守って)自らの種を断つ聖者の道に従い、欲望と感覚を統御していた。彼は肉体を離れた後に、先祖達の世界に到達した。しかし彼はそこに自分の行いの実を見出すことが出来なかった。


彼は苦行によって徳を積んだにも関わらず、自分の世界にその報いが無いのを知って、ヤマに問うた。「なぜ私が苦行によって勝ち取ったこの世界は閉ざされているのか? これが私に対する報いだというのなら、私はどこで失敗したのか?」ヤマは言った。「人は生来疑いもなく祭儀とヴェーダの学習と子孫の恩恵を受けている。あなたは苦行をし、犠牲を捧げたが、子孫を持たなかった。この世界は子孫の事のゆえにあなたに対して閉じられているのである。一人の息子が父をプットすなわち隠遁と呼ばれる地獄から救う。しかるに、ああバラモンよ、子孫の継続のために努力せよ。(注25)
マハーバーラタ、アーディ・パルヴァン(序章の巻)220(ヒンドゥー教)


それからわが使者を、かれらの足跡に従わせ、さらにマリヤの子イエスをつかわし、福音を授け、またかれらに従う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。


だが禁欲の修道制は、かれらが自ら作ったもので、われはかれらにそれを指示してはおらぬ、神の喜びを得たいばかりであり、それもかれらは守るべきように工夫していなかった。それでわれは、かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多くは違反者である。(注26)
クルアーン57.27(イスラーム)


そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私達とパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
マタイによる福音書9.14 ~ 15(キリスト教)


私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。
ヨハネの黙示録19.7 ~ 8(キリスト教)




―み言選集―


それでは、どうして仏教とカトリックでは独身を強調するのでしょうか。それが全的に人間の幸福の土台だと言うことができますか。違います。この地上のいかる宗教も幸福の土台は何だと提示してくれなかったのであり、家庭の土台を中心とする計画もなかったのですが、その家庭自体も現れなかったために、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知ったために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ、人間たちが純潔で正しい家庭を建設できるのです。
(23-15、1969.5.11)


神様が永遠であれば、これも永遠であり、この子女の位置も永遠になるのですが、ただこれが壊れていったので、このようなものを合わせたいですか、合わせたくないですか。それを願いますか、願いませんか。願うのです。それでは、その愛するものが聖なるものですか、罪ですか。聖なるものです。今日の堕落した世の中が生じた以降に、このような聖なる愛をしてみた夫婦がいたでしょうか、いなかったでしょうか。これができなかったのです。


ですから、皆さんは今まで宗教の目的を知らなかったというのです。救援とは何ですか。救援とは何かということを知りませんでした。すべて知らなかったのです。ほかの国だと思っていました。天上天国に行くと思っていたのです。


天国はすべて準備されていると、既に準備されていると信じていました。……問題はすべて自分にあるということです。天国に合う愛の男性と女性になれるか、ここにかかっているのです。イエス様にかかっているのではありません。メシヤにかかっているのではないのです。それを今まで知りませんでした。
(92-225 ~ 226、1977.4.17)


天国は、夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、家庭の八親等など、一族が行かなければならないのであり、その国家全体が行かなければなりません。全体が行くことができるその世界が天国だというのです。それが統一教会の行く道です。統一教会は個人救援が目標ではありません。ですから、合同結婚式もこの原理原則に一致させるためにしなければなりません。今日、合同結婚式が嘲弄の対象であり、見せ物と思っていますが、内容を知ってみると、唖然とすることが起きているのです。


天使長圏の宗教時代には、結婚しなければなりませんか、してはいけませんか。できません。しかし、これからは天国でも結婚時代に入っていくのです。地上で比丘が勝利するか、妻帯僧が勝利するかというとき、妻帯憎が勝利する時が来たのです。旧教の神父や修道女が残るのではなく、これからはカトリックもそのまま逝けばすべて地獄に行くようになります。今の天地の運勢は新郎新婦の因縁を求めることができるときが来たのです。カトリックも結婚しなければならない特が来たので、結婚することに反対していては、そっくりそのまま滅んでしまいます。
(50-61、1971.10.31)
カトリックの神父や修道女も結婚させてあげなければならず、仏教の僧侶も結婚させてあげなければなりません。そうしなければこれから滅びます。すべて浮気者、フリーセックスの場になってしまうのです。サタンが占領し、男性と女性にすべて浮気心を起こさせて流れていってしまいます。レバレンド・ムーンの前で神父と修道女が結婚し、仏教の比丘が先生の前で何百万双が一度に祝福を受ければ生き残るのです。そのようにしなければすべて滅びます。そのまま消えてしまうのです。今、一部の神父たちが浮気心を起こして、そのような行動をしています。それはすべて時になったからです。


潮水が入ったとき、その水を飲まないようにしようとすれば、どんどんついていかなければなりません。同じように、溺れて死なないようにしようとすれば、結婚してはいけないということを彼らが破って、回れ右しなければなりません。
(246-24、1993.3.23)




高次的な宗教ほど、独身生活をしなさいと言いました。なぜそのように言ったのでしょうか。人類の父母になる方がまだ結婚式をしていないからです。それで独身を主張したのです。宗教という宗教は、すべて結婚するなと言ったのですが、歴史時代に統一教会という宗教が出てきて、結婚を認め、合同結婚式をするのです。


ですから、仏教もこれからは妻帯憎が増えます。比丘を主張していても、相対を結んで妻帯僧になってしまいます。カトリックも同じです。カトリックも結婚を否定するので、問題が起きます。大部分が教会を離れるのです。真の父母が結婚した1960 年からそのような時代に入っていくので、その時からすべて変わり、サタン世界はフリーセックス時代に入っていくようになります。サ
タン世界はフリーセックスを通して破壊工作をしていき、宗教圏では結婚時代に入っていきます。このように変わるのです。
(244-148、1993.2.1)




第4部 家庭と社会


第19章 家庭


1.人生の基本形態


家庭は人生の基本形態である。家庭は、家族関係を通して自身の性格と価値とアイデンティティーを形成し、育てる環境を構成する。人間は時折、伝統的な家庭の代わりを立てようと努力したが、この代案は、およそ1、2世代を越えて持続することはできなかった。家庭には一つの「形態」がある。それは一連の精密な役割を意味するというよりは、片親家庭や子供のいない家庭、義理の父母など、異なった関係が混ざり合う家庭が、最善を追求する一般的な意味である。家庭の「形態」とは何か。外見上では父母と子供、夫と妻、兄弟姉妹を連帯する関係をいう。内面的には、このような関連性を支配する真実で敬虔な愛をいう。


家庭が人生の基本形態だということには、またほかの意味がある。それは、社会関係に対する「教材」である。立派な家族関係は、立派な市民を育成する。彼らは、家庭で父母、兄弟、そして子供と関係を結んで体得した教訓を、社会において目上の人、同僚、目下の人との関係に、そのまま適用するようになる。


文鮮明先生は、家族形態の両側面に関して広範囲に教えている。家庭の構造的形態は「四位基台」で表現され、これは神様を真の家庭の構成員、すなわち真の家族として連帯する特別な意味をもった教えである。先生はまた、家族関係を空間的に6方向に拡張して説明する。どんな場合でも、その形態は球形であり、すべての位置が同等な価値として現れる。これは、真の愛がすべての家族関係の求心力になる時に可能だ。家族構成員の各々は、互いに「ために生きる」美徳の生活回路を創出する。そのような家庭は、理想社会建設の基本的土台となるのである。




①家庭理想


―宗教経典―


妻を私のように愛せ。妻を私よりも尊重せよ。子供を正しい道に養育せよ。結婚適齢期には子供を結婚させてあげよ。このすべてのことを実践する人は、「その家庭に平和があるだろう」。
タルムード、イェヴァモート62(ユダヤ教)


父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである。
スッタニパータ262 (仏教)


天下の達道は五つ。それは君臣の義であり、父子の親であり、夫婦の別であり、兄弟の序であり、朋友の交わりの信である。(注1)
中庸20.8 (儒教)


人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。
礼記7.2.19 (儒教)


この家庭では、規律が動揺に勝ち、平和が不和に、慈悲が貪欲に、献身が驕慢に、真実な言葉が聖なる秩序を壊す偽りの言葉に勝つようにしてください。
アヴェスター・ヤスナ60.5(ゾロアスター教)


家庭には自然な温和がなければならない。誓願を固く守ることは温和に帰結する。家族の間には正しい信仰がなければならない。不正直と欺瞞は家庭に不幸をもたらす。行動と言葉と考えにおいて、正直と率直さは家庭を幸運の道に導く。清浄、恭敬、絶えず知恵を追求すること、他の人たちに対する奉仕、これらは家庭を幸福にする。
タットヴァールタ・スートラ6.18 ~ 24(ジャイナ教)


父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくあってこそ、家道は正しいと言えるのであり、家を正しくしてこそ、天下もきちんと治まるのである。
易経37、周易下経、家人(儒教)


心の一致、意の一致、無敵意を、われ汝らのために致す。汝ら互いに他に愛情を示せ、牝牛がその生まれたる仔牛に〔愛情を示す〕ごとく。息子は父に従順なれ。母と意(こころ)を同じくせよ。妻は夫に蜜を含む優しき言葉を語れ。


兄弟互いに、姉妹互いに憎み合うことなかれ。和合し、同じ掟(規律)に服し、言葉優しく語り合え。
それにより神々が離反せず、互いに憎むことなきこの呪文(brahman)を、われら汝らの家に施す、家人のために和合を〔もたらすところの〕。年長者に従い、思慮深く、離散することなかれ。同じ軛(くびき)のもとに一致協力し、互いに言葉優しく語りつつ来たれ。われ汝らを、結束固く意を同
じくする者となす。


汝らの飲水は共通なれ。汝らの食物の配分は等しかれ。共通の馬具にわれ汝らを共に繋ぐ。一致してアグニを崇拝せよ、車の輻(や)の轂(こしき)の回りに〔集まる〕ごとく。


われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。和解によりて群(むれ)を同じくする者となす。不死の飲料(amrta)を守る神々のごとく、夕(ゆうべ)に朝(あした)に、好意をして汝らの有(ゆう)たらしめよ。(注2)
アタルヴァ・ヴェーダ3.30(ヒンドゥー教)




―み言選集―


私達の因縁と言ったので、私達同士では、特別に感じたり、目を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要で、夫も必要なのです。また、若い人も必要で、年を取った人も必要です。このために、私達は、万民の世論がどうであれ、共通の姿を備えてきたのです。
(21-120、1968.11.17)


家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。


ですから、神様御自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところには、そのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらせるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはり、そのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-198、1970.7.15)


男性が男性として生まれたのは、男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だとしても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私達は、自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。そのために生まれたというのです。


父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるときに回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。それが理想形です。四角形ではなく、立体的に丸いのです。互いにために生きることは互いに押してあげることなので、互いにために生きれば早く回っていき、回っていけば球形を成し、永遠になるのです。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)




父母の真の愛、兄弟の真の愛、夫婦の真の愛、子女の真の愛、このように四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は、人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所になります。ですから、真の家庭は、人間が創造本然の真の愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校です。
(294-65 ~ 66、1998.6.11)


理想的夫婦を中心とする家庭が学校です。これは教材だというのです。夫婦が一つの単位になって家庭という教材をつくり、この教材に合格したすべての存在は、世界のどこでも共通して通過できるのです。それが公式です。
(131-112、1984.4.22)


理想的家庭とは何ですか。「互いによく信じるのが理想的家庭だ。互いによく理解するのが理想的家庭だ」と言うかもしれませんが、それは違います。互いに心情的に一つになり、離そうにも離すことができず、家族の痛みを自分の痛み以上に感じられる心情圏があれば、理想的家庭ができるのです。自分が犠牲になっても、すべての家族の苦痛を代わりに背負っていこうという情が宿った所には、理想的家庭という言葉をつけられます。
(228-46、1992.3.3)


人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければなりません。したがって私達の人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いのです。そして、それだけでなく、愛が生命よりも先なのです。したがって、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。


愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、すべて「不変の愛」「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私達が瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願うということなのです。


赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。、醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。


このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどういうものだと、実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実なので、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、
氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。


出生したのち、肉身時代には、自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私達が父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。父母は結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみて知るようになり、その愛を引き継ぎます。そうすることによって自分は、愛を完全に受け、与え得る人になるのです。そのようにして、完全な一人の男性、女性として成熟するというのです。


父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだせるのです。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要になるので、思春期というものがあるのです。
(298-298 ~ 308、1999.1.17)


夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来父母は、本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は、互いに他の一方の神様になります。そして息子、娘は、また一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の身代わりをする、生きている神様であり、夫婦も神様を身代わりし、子女も神様を身代わりするのです。このように三代が真の愛を中心として、神様の立場を身代わりします。


ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は、自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であることを知らずにいるのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。


家庭完成は、宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれは、どこでも無事通過です。この場合、神様は、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
(298-307、1999.1.17)




②家庭は愛と美徳の修練場


―宗教経典―


主よ、目を喜ばせる妻と子孫を、私達に賜い、主を畏れる者の模範にして下さい。
クルアーン25.74 (イスラーム)


君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。中庸15.2(儒教)


自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.5(キリスト教)


「天下を平らかにするのは、その国を治めるにある」とは、上が、(その家の)老人を尊べば、民は感動して起こって孝となり、上がその長者を敬えば、民は感動して起こって弟となり、幼くして父を失った者を哀れめば民は背かない。
大学9.1(儒教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ:義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)






―み言選集―


家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。ですから、学校において、情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。


父母は、情緒的なものをすべて、後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。
(180-131、1988.8.22)


家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。
(271-80、1995.8.22)


神様の愛がどこに現れるのかというと、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛が一つになった所です。これが絶対的に一つになる所は、神様が絶対的に永遠に共にいるのです。ここに神様がいらっしゃいます。変わらない父母の愛、変わらない夫婦の愛、変わらない子女の愛、この三つの愛が存在する所には、いつでも神様がいらっしゃるのです。
(131-112、1984.4.22)


家庭は、天国を成すことができる教材です。天がつくっておいた教材です。家庭は、天国と因縁を結ぶようにするための教材なのです。ですから、軸を中心としてそれを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。
(137-78、1985.12.18)


道徳というものは何でしょうか。家庭で訓練された平等の価値が道徳です。「徳(德)」の十の字は、宇宙を象徴しますが、「統一原理」から見れば、天上と地上のことをいうのです。そこに四位基台(四)で、天と地(十)が願う四つの群れ(四)が一つの心(心)になっているのが「徳(德)」という字です。二人(彳)が天地の環境の中で「十」の字、天と地に四位基台を完成した一つの心であり、おじいさんの心も、父母の心も、妻の心も、子女の心も、先祖を中心として、息子、娘を中心として六つですが、二つに分ければ12 の群れです。心と体を中心として12 の群れです。このすべてのものが一つになれる、そのような存在を徳というのです。
(375-59、2002.4.13)


今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。ざらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。
これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもつことができなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わりません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)


今日、家庭が崩れ、青少年たちが堕落するのを防ぐことが、エデンの園で干渉できなかった神様の悲惨な思いを解放し、喜びをお返しすることになるのです。
(305-272、1998.8.21)




③完成した家庭は球形を成す


―宗教経典―


このように私は聞いた。ある時、仏は羅閲祇(らえつぎ)の耆闍崛(ぎじゃくつ)山の中に、千二百五十人の比丘たちの大集団と一緒におられた。その時、世尊は時間になると袈裟をまとい鉢を手に持って、城内に托鉢に出かけた。


ちょうどその時、羅閲祇城内には長者の子、名は善生という者がいた。朝早く城外へ出て、園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝し、東西南北上下のそれぞれの方角に対して、すべてぐるりとひととおり礼拝していた。


その時、世尊は長者の子、善生が園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝しているのを見た。世尊はそれを見ると、ただちにその場所に行って、善生に言った。
「お前はどういうわけで朝早く城外に出て、園林の中で体じゅう濡らしたままで諸々の方角に向かって礼拝しているのか」その時、善生は仏に申し上げた。「私の父は亡くなる時に、遺言として私にこのように命じました。『お前は礼拝する時には必ず東方、南方・西方・北方・上方・下方を礼拝するように』と。私は父の教えを守り、……礼拝しているのです」


その時、世尊は善生に言った。「しかし、私の賢者・聖人の教えにおいては、この六つの方角を礼拝することがつつしみ敬うことであるとは考えない」


善生は仏に申し上げた。「どうかお願いです。世尊よ、私のために賢者・聖人の教えにおける六つの方角を礼拝する方法をよく説明して下さい」
「よく聞け、よく聞け。そしてよく心にとどめておくのだ。お前のために説明してあげよう」


仏は善生に言った。「六つの方角のことを知るべきである。六つの方角とは何か。父母は東方で
あり、師は南方であり、妻は西方であり、親族は北方であり、召使は下方であり、沙門・婆羅門など高潔な行いを実践する者は上方である。善生よ、そもそも人の子たる者は、五つのことによって父母を敬い父母に従わなければならない。……父母に物をささげて生活の不自由をさせない。何か事を行おうとする時はいつもまず父母に申し上げる。父母の行いに対してうやうやしく従って逆らわない。父母の命令に逆らわない。父母の行った正しい事業を断絶しない。……


父母はまた、五つのことによって自分の子を敬い愛する。子をおしとどめて悪いことをするのを許さない。子を教えて善を指し示す。父母の慈愛が子の骨髄にしみとおる。子のためによい結婚相手をさがす。必要なものを時に応じて与える。善生よ、子が父母に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(東方)は安らかで憂いはない。


善生よ、弟子が師に敬い仕えるのも、やはり五つのことがある。……そばに仕えて必要な物の世話をする。礼を尽くして師に物をささげる。師を尊んでいただき仰ぐ。師が何かを教えれば、それを敬いそれに従ってそむかない。師に従って教えを聞き、どれもしっかりと保って忘れない。


師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。


善生よ、夫が妻を敬うのにも、やはり五つのことがある。敬って丁寧に待遇する。威厳をもって妻にのぞみ、なれなれしくない、必要な時に応じて衣食を与える、しかるべき時には身を飾ってやる、家の中のことをまかせきる。……


妻もまた五つのことによって夫を敬う。夫より先に起きる。夫より後に坐る。おだやかにものを言う。夫を敬って夫に従う。夫の気持ちをあらかじめ知りそれにさからわない。……このようであれば、かの方角(西方)は安らかで憂いはない。


善生よ、そもそも人たる者は、五つのことによって親族を親しみ敬わなければならない。施し与える。じょうずにものを言う。利益を与える。利益をともにする。欺かない。親族もまた五つのことによって人を親しみ敬う。勝って気ままな行いをしている時に譲る。勝ってきままな行いをして財産を失った時に護る。恐怖におちいったときに護る。かばって教えさとす。いつもほめたたえる。善生よ、このように親族を敬い見るならば、かの方角(北方)は安らかで憂いはない。


善生よ、主人は召使に対して五つのことによって教え導く。能力に応じて働かせる。必要な時はいつでも飲食を与える。功労に対してほうびを与える。病気になれば薬を与える。自由に休暇を与える。召使は五つのことによって主人に仕える。朝早く、起きる。仕事のしかたが細かくゆきとどいでいる。与えられないものを取らない。順序よく仕事をする。主人の名前をほめたたえる。これが主人が召使を待遇するということである。かの方角(下方)は安らかで憂いはない。


善生よ、施しを行う者は五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげなければならない。身体によって慈しみを行う。言葉によって慈しみを行う。心によって慈しみを行う。しかるべき時に施しを行う。門でおしとどめない。


善生よ、もし施しを行う者がこの五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげたならば、沙門・婆羅門はまた六つのことによって彼を教え導かなければならない。彼を護って悪いことをさせない。善を指し示す。善い心を抱かせる。まだ聞いたことのない教えを聞かせる。すでに聞いた教えを十分に理解させる。天に至る道をよくわかるように説き示す。善生よ、このように施しを行う沙門・婆羅門にうやうやしく仕えたならば、かの方角(上方)は、安らかで憂いはない。
阿含経長部iii.185 ~ 191、善生経(仏教)


―み言選集―


宇宙で、その核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴するので、女性は結婚することによって、どこであっても夫の位置についていくのです。西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子の兄を中心として仕事をするとき、弟が協助するようになるのです。


ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければならないのです。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が変わってはいけません。この中心点がずれれば、上下、左右、前後の関係の均衡がすべて崩れるのです。


それで、結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで、すべて7数を成すようになります。このように7数を成すというのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つになり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるのです。私達がよくラッキーセブンと言うのも、このような観点から一理があるというのです。
(287-20 ~ 21、1997.8.10)


父母を中心として子女が一つにならなければなりません。また、そこには、神様を必ずお迎えしなければなりません。必ず神様をお迎えしなければならないのです。それが理想的です。


男性と女性で成す夫婦は、相対的なので、プラス・マイナスは必ず神様を中心としていなければなりません。神様には父母の愛があり、子女の愛があり、夫の愛があり、妻の愛があります。これが理想的です。この愛を中心とする神様が主体なので、その主体的な立場の神様と一つになれば、この愛と一つになるので、永遠に壊れない理想的家庭が成立するのです。理論的に、そのように成立します。


父母の愛は子女のために集中し、子女の愛は父母に連結されます。夫の愛は妻に連結され、妻の愛は夫に連結されます。しかし、その人たちがどのように一つになるのかというのです。自分たちでは一つになれません。ところが、それを一つになるようにできる主体的な力が神様の愛です。ここに主体が臨むので、このすべての存在は自動的に一つになります。それで、神様を抜かしては、愛もすべて自分中心の愛になるのであって、一つに結ぶことはできません。


一つになったとき、この愛の道も、この愛の道も、この愛の道も同じです。平均になるのです。これが円形を描く一つの物体になったからです。原因と結果が一つになり、縦横が一つになり、神様と一つになり、この二つが愛の力で動かすこの世界は、愛でないものがありません。どこに行っても、愛でないものがないのです。


理想の、愛の所なので、そのような世界が理想世界であり、このような世界が地上に展開し、家庭に展開するとき、地上天国という言葉が出てくるのです。そのようなものが神様の理想です。


それで、父母を神様のように思いなさいというのです。その論理は、ここから出てくる論理です。妻を神様のように思い、父母のように思い、夫を神様のように思い、父母のように思い、子女を神様のように思い、夫のように思い、妻のように思いなさいという結論がここから出てくるのです。また、神様を思うときは、妻のように、夫のように、自分の父母のように、息子、娘のように思えば、すべて天国に行きます。
(89-154 ~ 155、1976.11.7)


夫が死ぬと、妻がなぜ泣くのですか。息子、娘がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。宇宙の根本原則は、東西、四方をすべて備えなければなりません。したがって、宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力になっているのです。


ですから、すべて与え合うのです。南北が与え合います。北極と南極が与え合うのと同じように、星と星が与え合うのです。相対がいなければ存在できません。完全に一つになった理想的な存在は、完全に与え合う存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が流れるのが原則です。すべて、それを協助するのです。


したがって、息子、娘がいなければなりません。今日、西欧では息子、娘は必要ないという主義が出てきていますが、必要ないか見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。私が立っている所には、必ず上があり、下があります。3数を通らなければなりません。3段階を経なければならないのです。
(70-76 ~ 77、1974.2.8)


過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は、世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するということです。お父さんがおじいさんの位置に上がっていけば、自分がお父さんの位置に上がっていって息子、娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の3代が一つにならなければなりません。


すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れ動いても、揺れ動く社会の侵犯を受けずに、幸福な基台をもてます。
(28-162、1970.1.11)

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世界経典-66

2022年08月14日 16時34分33秒 | 学習


7.富と財物に超然とした人生


富と所有物は、堕落した世の中で人間を縛りつける鎖と同じである。貪欲と物欲、増加する自分中心な欲望などが私達を引っ張っていくものである。富の執着は「すべての悪の根源」と教示されてきた。そして、物質主義は、人間の霊性啓発に途方もない障害物になってきた。


伝統的に天に向かう道では、富と物質に対する執着を捨てることを要求した。僧侶と修道女らは、典型的な清貧の人生を営むことを誓った。一般人もやはり、より大きな善のために自らの富を犠牲にすることによって、執着から自由な人生を営むことができる。ある人たちは、慈善活動に積極的に参加し、他の人々は、病気にかかった家族を看護するために良い職場もあきらめ、助けを必要と
する人のために身を投じる。彼らは、既存のものを守ろうとするいらだちを捨て、奉仕と施しのために物を集めることで心の平和と新しい満足感を感じている。


文鮮明先生は、無所有の教えを真の愛の哲学と関連させて話される。神様の愛は、独占を排除する心的態度から始まると言われる。反面、所有に執着する人々は、所有物が愛の実践の妨げになっているという。この原理は、日常生活で神様と人間の関係、人間と人間の関係に適用されるだけでなく、国家福祉と地球星全体にも適用される。






①没落の原因であるお金


―宗教経典―


災いなるかな、……富を積んで計算するのに余念のない者、まことに富は、かれを永久に生かすと考えている。
クルアーン104.1 ~ 3(イスラーム)


金銭の欲は、すべての悪の根です。
テモテの手紙一6.10(キリスト教)


人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
申命記8.3、マタイによる福音書4.4(キリスト教)


小人となって財貨を追い求めるな。お前の本来の天性にたちかえってこれに従え。
荘子29(道教)


だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)


彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分をも害う。
法句経355 (仏教)


「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」彼らは無知に迷わされてこのように言う。彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター16.13 ~ 16(ヒンドゥー教)
しかしかれらは、売買のことや遊戯を見るとき、なんじの礼拝に立っているのをなおざりにして、それに向かって、無考えに散らばる。言え「神のみもとの恩恵は、遊戯よりも取引よりもまさる。神は、最善の給与者であられる」。
クルアーン62.11 (イスラーム)


財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。


太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
コヘレトの言葉5.10 ~ 15(キリスト教)


あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。実に、〔一般の〕行為は、知性(ブッディ)のヨーガより遙かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。知性をそなえた人は、この世で、善業と悪行をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。
知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。
バガヴァッド・ギーター2.47 ~ 51(ヒンドゥー教)


凡夫は欲望と貪りとを執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
スッタニパータ706(仏教)




われ火もて黄金を試し、また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ隠されたる言葉54(バハイ教)1


お金を稼ぐ生活はやむなくする生活であり、富は明らかに私達が求めている善ではない。それはただ他の何かのもののために有用なものだからである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5(ヘレニズム)




―み言選集―


お金というものは汚れたものです。糞よりもっと汚いものです。糞がついたからといって、人が倒れたりしませんが、お金を間違って使えば、糞よりもっと恐ろしいのです。先生はお金を使いません。できる限り使わないのです。使えるお金があれば、すべてあげてしまいます。
(381-304、2002.6.17)


お金があれば、食べること、着ること、住むこと、すべて解決できるのでお金が大切ではないかというのです。お金が問題です。皆さんはお金をもつとき、お金の愛の主人になりたいと思いますか、お金の権力の主人になりたいと思いますか。お金は必要ですが、全体のために、愛を実現するために必要なのです。
(116-18、1981.12.1)


世界平和は、平和な国家がまずなければなりません。国家の平和は、家庭の平安が前提でなければなりません。世俗の人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件になることはできません。真の幸福は、愛の所有に比例するのでもなく、外的な生活の便利さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。真の平和も無限な幸福も、真の愛で他のために施すとき、そして、その施したものが全体を回って再びやって来るときにこそ、確実に得られるようになるのです。
(294-69、1998.6.11)


神様が相対世界を創造するためには、所有観念がないのです。自分の所有観念があれば、100 を所有しても、100 以上価値のあるものを与えられません。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうのです。無限に投入するのは、無限に自分の概念がない時にのみ可能です。相対に対する投入においては自分の意識をもてません。何のことか分かりますか。「これは私か使うお金だ。これは私の取り分だ」というのはサタン側の考え方です。
(287-265、1997.10.5)


人類は、戦争と苦痛がない平和の世界を渇望しています。しかし、希望よりも、逆に次第にひどくなっていく物質万能主義の傾向とともに、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼすことができない中で、青少年たちの退廃、家庭破綻、麻薬とエイズ等は人類の将来をより一層暗くしています。
(294-61、1998.6.11)


暮れていく20 世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がすべて物質文明の極致を謳歌し、今ではその物質文明の罠にはまったのです。物質が精神を支配し、心を支配していくと、人間の霊魂が物質の奴隷になったのです。


そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かで都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこで真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが生い茂るようになったのですが、この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。


私はこの平和会議の一つの主題として、人間を取り巻く地球環境の回復に関する討議を含ませましたが、私達の自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されたのであり、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているので、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を避けることができない境地にまで至るでしょう。


物質文明の極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私達の体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。


ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくということは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味します。今、私達の社会は本来、神様が設計され創造されたものとは正反対のところに位置しているのです。


21 世紀は、神様が志される本然の世界に戻っていく世紀です。物質文明の時代は行き、精神と心が主人となる精神文明のときが訪れるのです。その21世紀がこれから5年後に迫ってきています。このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠の中にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、叫びたかった忠告の内容をお話ししました。
(271-95 ~ 96、1995.8.23)






②喜捨と知足安分


―宗教経典―


イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
マタイによる福音書19.21 ~ 24(キリスト教)


比丘たち、もし生あるものたちが、私の知るように、施し分け与えることの果報を知っていたならば、他に食を施しもせず、自分だけで食べることはしないだろう。また物惜しみの煩悩の垢が、彼らの心をとらえて離さぬようなことはないであろう。彼らに食物の最後の一口でも最後のひとかけらでも残っていて、もし彼らのために施しを受ける人々がいれば、彼らはその人々に分け与えずに自分だけで食べることはしないであろう。
如是語経26(仏教)


誰が富者か。自らの取り分の中で喜びを享受する者である。(注17)
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)


偉大な人物の教えは……そこでは、身も心も、いっさいの差別がない大同の境地に没入してしまう。大同の境地に没入してしまえば、もはや自己は存在しない。自己がなければ、いかなる有(う)に執着することがあろうか。
荘子11(道教)


物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
ピリピの信徒への手紙4.11 ~ 13(キリスト教)


そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
マルコによる福音書6.7 ~ 9(キリスト教)


これがトーラーの道だ。ごく少量の塩と水に頼って生きなければならず、地に伏して苦難を経験し、同時にトーラーを守って生きるのである。このようにするあなたは幸福な者であり、トーラーがあなたと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート6.4 (ユダヤ教)


先生がいわれた、「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」
論語6.11 (儒教)


私達がモスクで神の使徒と共に座っていたとき、ムサブ・イブン・ウマイルがぼろぼろの毛皮の外套だけを引っかけたまま私達のところに来た。神の使徒が彼を見ると、彼は過去の豊かさを回想してほほえんだ。


そして彼が言った。「あなた達のうちで一人が、朝に外出するときに着る外套と夜に外出するときに着る外套が違い、皿がすべて一杯になる前にほかの皿をむだに使い、あなたの家をカーバ(神殿)を飾るように飾っているのに、どうしてあなた達と一緒にいられようか」。


これに対する答えを聞いてから彼は再び、「神の使徒よ! それならば、これからは礼拝を捧げる余裕と必要なすべてのものを得るようになり、今よりよい生活をするようになるのですね」と言った。すると使徒が答えた。「いいえ、あなたにはそのときより、きょうがはるかによいだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)


兄弟たちは、家も、場所も、そのいかなるものにも執着してはならない。この世の異邦人と巡礼者たちのように、堂々と清貧の中で天に仕えて生きなければならない。これを恥ずかしく思ってはならない。主なる神は私達のために、この世にご自身を困窮な位置に置かれたからである。


私の親愛する兄弟たち、最高の清貧の場に行くのが天国の王であり、相続者であられる皆さんを、物質的には貧しいが誰よりも徳のある人にすることができます。これが生きている者たちの地に私達を導くのであり、そこに忠実にしてくれるのです。愛する兄弟だちよ、私達の主イエス・キリストは、この世で何も顕われませんでした。
フランチェスコ規律(キリスト教)




他の人たちは食べるために生きるが、私は生きるために食べる。
ソクラテス(注18) (ヘレニズム)


最小限に願うため、私は神に最も近い。
ソクラテス(ヘレニズム)122






―み言選集―


自分の財産はあり得ません。財産は天の財産です。神様のものであり、ために生きる人たちのものであり、自分のための財産はあり得ないのです。それは滅びます。
(399-18、2002.12.18)


皆さんは、ハンカチをもっているでしょう? そのハンカチは自分のものですか。違います。今まで自分のものだと考えてきました。これが違うというのです。私に属するあらゆる土地、家を自分のものだと考えたのです。夫、妻、息子、娘を、私の息子、娘、私の妻、私の夫と考えて思いどおりにしました。それが堕落後に継承された病弊だということをはっきりと知らなければなりません。これを立て直すための神様の歴史が数千年間、私達の知らない中で続いてきたことを知らなければなりません。それで、所有権を否定しなければならないというのです。万物に対する所有権をすべて否定しなければなりません。
(293-172、1998.5.26)
天宙主義者は、世界まで祭物にしなければなりません。自分の所有でも、それを未練なくきれいにすべて捧げ、その次には祭壇まで必要です。祭壇まで一緒に燔祭、燃やしてしまわなければなりません。自分の所有はないのです。祭司長の役割をきちんとしてこそ、振り返るとき、今まで祭祀を捧げた勝利の実績が振り返るその後ろにぶら下がるのです。天が準備するというのです。(注19)
(342-227、2001.1.12)


裕福に暮らすアメリカを、すべてかき集めてでもアフリカにもっていこうという人がいれば、神様はその人を思われるでしょう。その人を愛するというのです。
(91-24、1977.1.16)


お金を集めるのですが、そのお金で自分の息子、娘に良いものを食べさせようと思ってはいけません。息子、娘に与える前に、世界のために与えたという条件を立てなければなりません。その息子、娘は世界のための息子、娘なので、まず世界に与えてから息子、娘に与えなければなりません。私の家庭よりはまず民族のために与えてから家庭のために与えようとすれば、神様は、私の家庭と私に福を下さるのです。神様が私の息子、娘に食べさせてくださるのです。


私が与えようとしてもそのようにする必要がありません。そのように、自分のすべてのものを犠牲にして、自分にある財産すべてを国のために与え、世界のために与え、犠牲にしていく群れがいれば、彼らは自動的に福を受けるようになっています。
(26-52.53、1969.10.18)


経済は結果です。すべて結果が問題になっています。結果を問題として原因を見る人がいないということです。なぜお金が必要なのですか。お金でただ食べて暮らし……。そうではありません。これが原因とこの世界と一つになるために必要だ、そのような観念がありません。私が結果なので原因をよくするために必要だ、このような考えがありません。私が父母を奉養し、私の家族を奉養し、国のために愛国しようとするのでお金が必要だ、これがどれほど宇宙的な観念ですか。ところが、国も、家族も、父母もすべて必要ないというのです。


国もそのお金をもっていることを喜び、父母たちも喜び、兄も喜び、全員が喜べば、私も喜ぶことができるのです。みなが嫌うのに、私だけが喜べば、それは滅びるのです。ここにいる人がこのように行くのです。ですから、どこに行っても、みな喜ぶのです。そうして喜んでこそ、それがすべての宇宙が喜ぶものになるのであって、みなが喜ばずに「私だけが、私だけが」と思っていれば滅びるのです。
(117-101 ~ 102、1982.2.14)


モーセは豪華なパロ宮中で生活をしたが、「これが何だ!」と言って民族をより思ったがゆえに、民族的な指導者になり得た。
御旨の道、指導者


今まで先生の立場は、世の中から見れば最高の立場に立っていますが、低いところに行ってもそのようなバランスを合わせるのです。赤ん坊であれば赤ん坊の友達になってあげ、学生であれば学生の友達、おばあさん、おじいさんであればおばあさん、おじいさん、宗教者であれば宗教者、学者であれば学者、どこに行ってもバランスを取ってあげます。訓練をして世界的なバランスを取ることができる人は、世界的な中心者になり、世界的な主体者になるのです。
(299-171、1999.2.15)








8.出家


神様は、愛する家族の中で人間に対する神様のみ旨が成し遂げられることを希望されたが、たびたび霊的求道者は、神様のみ旨に従うために家庭と家族に背を向けて離れる。ある摂理的な人物は、神様の命令によってこのようなこともする。アブラハムが、自分の故郷を離れて未知の土地に行きなさいという神様の命令を受けた立場が、それである。


これと似て、修道院生活の初期段階で、愛する家族と胸痛む離別をする場合もある。ある信仰者の出家は、家族の葛藤問題を引き起こしたりもする。家族たちが彼の信仰の道を遮る場合がある。このように、イエス様は愛する両親と配偶者から反対を受けることを予想し、弟子たちが自身の弟子になるためには相当な代価が伴うことを知って次のように警告した。「私よりも父または母を愛する
者は、私にふさわしくない」。




これに対して文鮮明先生は、家族と友人との離別は復帰の道を行くにおいて必要な過程といわれる。それは、堕落した世の中の習慣的な偽りの愛から、神様の高貴な愛によって新しい人生を始めることができる画期的な転機が与えられるからである。






―宗教経典―


私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
マタイによる福音書10.34 ~ 37(キリスト教)


信仰する者よ、もしなんじらの父または兄弟が、信仰より以上に不信心を好むならば、かれらを親しい友としてはならぬ。もしなんじらのうち、かれらを親しい友とする者あれば、それらは不義者である。


言え「なんじらの父・子・兄弟・なんじらの妻・近親・なんじの手に入れた財産、なんじが不景気になることを恐れる商売、意にかなった住まいがなんじらにとり、神とみ使い、ならびにかれの道のために奮闘努力するよりも好ましいならば、神が命令を下したもうまで待て。神は反逆の民を導きたまわぬ」。
クルアーン9.23 ~ 24(イスラーム)


愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
法句経210 (仏教)


隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。
わが神は、私の願いを聞かれる。
ミカ書7.5 ~ 7(キリスト教)


神は不信者のために一例を示したもう、ノアの妻、およびロトの妻である。かれら両人は、ふたりの正しいわがしもべのもとにいた、かの女らは、夫に不真実で、神のみもとで何ら得るところはなかった、そして「なんじらふたりは、他のはいる者と一緒に火獄にはいれ」と、言われた。


また神は、信仰する者のために一例を示したもう、ファラオ(注20)の妻である。かの女が「主よ、楽園の中のあなたのおそばに、私のため一邸宅をお建て下さい、そしてファラオとその行いから、私を救い、不義を行なう者から、私をお救い下さい」と、言ったときを思え。
クルアーン66.10 ~ 11(イスラーム)


主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。……」
創世記12.1(キリスト教)


私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイによる福音書19.29 (キリスト教)




神の道のために移住する者は、地上に広い避難所と、豊かな生息分野のあることを知るであろう。およそ神とそのみ使いのもとに、家郷から遷移者として出て行き、その後途中で死に遭遇したならば、神において、必ず償ないの責めを負いたもう。神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン4.100 (イスラーム)


もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。
ルカによる福音書14.26(キリスト教)


あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな。彼らが好意を示して話しかけても。
エレミヤ書12.6(キリスト教)


尊者戦勝の舊妻は尊者戦勝に近づき彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。かくいふも、尊者戦勝は黙してありき。尊者戦勝の舊妻は再び彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は再び黙してありき。尊者戦勝の舊妻は三たび彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は三たび黙してありき。尊者戦勝の舊妻は「沙門よ、こは汝の子なり。これを養へ」と、かくいひて、その児を尊者戦勝の前に捨てて去れり。


尊者戦勝はその児を看ず又呼ばざりき。かの舊妻は稍々行きて顧み、尊者戦勝のその児を看ず又呼ばざることを見て、思へらく、「この沙門には子の用なし」と。それより還り来りて児を携へて去れり。「多くの人々、ここにありて欲すれども水によりては清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり」
感興偈5 ~ 6(仏教)


あなたの富と妻を放棄せよ。あなたは出家者の人生を始めなければならない。吐き出すように嫌なものに戻るな。ゴータマよ、常に注意せよ!あなたの友と親戚たちを離れ、あなたが集めた大きな富を捨てよ。二度とそれらに対する欲望を抱くな。ゴータマよ、常に注意せよ!……今あなたはとげがすっかり取り除かれた道、偉大な道に入った。正しい道を歩んで行け。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.29 ~ 32(ジャイナ教)


サーリプッタ尊者よ、どうしてわれわれに励みがありましょうか。われわれは母父を養わねばなりません。妻子を養わねばなりません。奴隷・雑役夫を養わねばなりません。友人・知己に対して友人・知己の務めを果たさなければなりません。親族・縁者に対して親族・縁者の務めを果たさねばなりません。賓客に対して賓客の務めを果たさねばなりません。先祖に対して先祖の務めを果たさねばなりません。神々に対して神々の務めを果たさねばなりません。王に対して王の務めを果たさねばなりません。この身体を喜び、元気づけられねばなりません」と。


「ダナンジャーニーよ、そのことをどう思いますか。つまり、ここで、ある者が母父のために非法行者・不正行者になるとします。そのかれを、非法行・不正行のために、獄卒たちが地獄へ引き込む場合、かれはつぎのように言うことができるかどうかです。『私は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちは私を地獄に引き込まぬように』と。あるいはまた、かれのために母父がつぎのように言うことができるかどうかです。『この者は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちはかれを地獄に引き込まぬように』」
阿含経中部ii.186 ~ 187 (仏教)


朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。


仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。「これは執著である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ37 ~ 62、犀の角(仏教)




―み言選集―


イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」と言ったのですが、この言葉は公式です。それでは、反対する者は誰ですか。自分を最もたくさん愛した順序どおり、自分をもっと愛した人の順序で反対するようになるものです。それで、「家の者が、その人の敵となるであろう」という言葉が宇宙的な真理だということを知らなければなりません。
(92-207、1977.4.10)


イエス様は、「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ10・37)という話をしたために反対を受けました。なぜそのような話をしたのですか。そのような話がどこにありますか。ですから反対を受けたのです。世の中で反対を受けながら、そのような話をしました。


それはなぜでしょうか。原罪を断ち切るためです。サタンの血があるので、それを抜き出さなければならないからです。そして語られる言葉が「家の者が、その人の敵となるであろう」ということです。世の中に、そのような話がどこにありますか。私の母が怨讐で、私の父が怨讐で、私の妻、私の息子、娘が怨讐だという話ではないですか。世の中にそのような話がどこにあるのですか。


しかし、原罪があるのでそのように言わざるを得ないのです。原罪を中心とする体が互いに愛する日には、この原罪が断ち切られません。これは否定できないのです。ですから怨讐だというのです。


血筋というものは愛を通して連結されるので、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がすべて180 度回れ右しなければなりません。「すべて必要ない。何よりも神様の愛を第1にしなければならない」、こうでなければならないということです。
(79-160、1975.7.20)
夫が第1であり、妻が第1であり、私の息子、娘が第1だと考えるのですが、その第1だという位置がサタンの血筋を受け継いだ位置での第1だというのではいけないのです。これを否定しなければなりません。神様の愛のために夫の愛を否定しなければなりません。これが問題です。妻の愛を否定しなければなりません。子女の愛を否定しなければなりません。絶対的な神様が向き合えるのが本来の人間なのですが、皆さんの体にサタンがいたずらした痕跡がある限り、皆さんは本来の愛の理想を心と体に根づかせることはできないのです。
(140-24、1986.2.1)


天を求めていく道においては、世の中の初恋よりも高い愛を、天を中心として感じる位置を探し出すことができなければ、天に帰る道がないのです。それでは、そのようになるためにはどのようにしなければなりませんか。初恋の自分の相対を中心として生命を捧げるがゆえに生命問題、その次には物質問題、その次には知識問題、その次には権力問題、すべてが問題になります。命懸けで恋愛結婚した人が天のみ旨の前に入っていこうとすれば、1週間以内にこれを捨てることができる愛の圏を求めていかなければなりません。
(102-19 ~ 20、1978.11.19)


この世界をどのように復帰するのでしょうか。個人を中心としてここに植えるのです。反対になって引っ張っていかなければなりません。脱出しなければならないのです。それで、仏教のような高次的な宗教は出家をしなければなりません。父母を愛してはならず、兄や姉を愛してもいけません。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」という聖書の言葉は逆説的論理ですが、それは天の道を求めていく道理に従った論理として、受け入れなければならないのです。
(181-212 ~ 213、1988.10.3)


お父様!私がお父様のみ前に恥ずかしくないのは、
お父様の威信を立てるために、人間の威信を余地なく放棄してしまったし、お父様の威信とお父様の権威を立てるために自分の位置と環境と、立場もみな放棄してしまったからです。
それをあなたは、よく知っていらっしゃいます。
世界の人間の誰も行けなかった事情の道を、求めていかなければならないと、身もだえする歴史過程において、あなたは一つ一つ慰労なさり、一つ一つつかみながら、「この道を行くお前以上に寂しい者がこの地上にいない。再び行くべき寂しさが残っている」と勧告なさったお父様のその声を忘れられません。
(159-61、1968.1.28)


自分の愛する子女をあとにして、孤独の道に従い、誰も歓迎しない天の道を求めていき、国のない運命の道を求めていくというのは、とても難しいことです。私も赤ん坊を捨て、家庭を捨てて、以北の地に向かった歴史のある人です。


行きたくて行ったのではありません。神様が必要とし、天の命令があるがゆえに行ったのです。行くまいと身もだえしながら、1、2日は深く悩みましたが、その悩みよりもっと大きな神様の事情を知ったので行ったのです。
(64-148、1972.10.29)
皆さんも家庭を抱いてどれほど身もだえしてきましたか。自分の息子、娘を愛することができない人はいません。犬や豚でもそうです。木石のように鈍い人でもそうです。私、レバレンド・ムーンも同じです。息子、娘を愛する心がないのではありません。誰よりも強い人です。鋭敏な人です。一家を愛することができない人ではありません。母が監獄に訪ねてきたとき、私は目を見開いて「母誰々の息子ではない」と怒鳴りつけました。その母は生きていません。


亡くなったことを知った今は「不孝をした」と……。しかし、その息子は自分自身のために生き、一家の幸福のために生きるのではなく、国と世界のために神様のみ旨、天理を身代わりしてそのようにしたのです。
(168-148、1987.9.13)






9.世俗の分別


世俗の人生は、神様に向かう人生と比べることはできない。快楽と富、名誉、物質的安定の追求は必然的に霊的求道の妨害となる。俗世に向かう情熱と執着は、単純に精神的な散漫さを越えて霊魂を地獄まで引っ張っていく。したがって、経典には世の中と世の中の価値に順応するなという数多くの忠告が含まれている。


賢明な人々は、世俗的成就を一つの妄想とみなす。そして、そのような快楽に喜ばず、神様のみ旨に献身することを誓う。常に世の中の考えから距離を保ち、天が下さる霊的感動をかみ締める。世の中で言う成功よりは、霊的成長をその業績として理解する。


ある宗教では、修道院共同体生活を通して俗世と分別を試みる。しかし、道徳的勧告や教会の教えによって形成される修道生活と世俗的生活の境界線は、それほど明らかではない。俗世に埋もれて生きているが、決して世俗的でない人々もしばしばいる。彼らは、見た目は平凡に見えるが、彼らの内面は世の中の支配的価値に執着せずに、他の価値観をもって生きている。






①世俗のやり方に従わない


―宗教経典―


あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙12.2 (キリスト教)


大道に棄てられた塵芥(ちりあくた)の山准(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。塵芥にも似た盲た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知恵もて輝く。
法句経58 ~ 59(仏教)


人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)


ある男が預言者のところにやって来て言った。「神の御使いよ、私がそれをすれば、神も人々も私を愛するような行いについて教えてください。」すると預言者は言われた。「現世から身をひけば、神はお前を愛されるだろう。人々が所有しているものから身をひけば、人々はお前を愛するだろう。」
ナワウィー40 のハディース31(イスラーム)


下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
法句経167(仏教)


私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
ヨハネによる福音書17.14 ~ 18(キリスト教)


世の中のことを一切省みることなく、満足しきって、全ての希望を捨て、忍耐する。これらが感覚を統御し、自己に関する知識を獲得した者がもつ最高善の様相である。この世のものに執着する必要はない。この世のものに対する執着は、悪を生み出す。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン329(ヒンドゥー教)


君子はおのれの才徳を秘めて控え目に行勤し、外からの禍難を避けることを心がける。そのような君子は禄位などで飾りたてようとしても心を動かされぬものである。
易経12、周易上経、否(儒教)


聖人は天道の自然に従い、真をとうとび、世俗の風習に拘束されることがない。ところが愚かものはこれと反対に、自然に従うことができず、人為に心を労し、真をとうとぶということを知らない。ただ、だらしなく世俗の風習に同化されてゆくだけだ。だから、真実の心に欠けるのである。
荘子31 (道教)


世界には始めがある。それは世界の母と呼ばれる。その源を知ったものは、その表れを知る。その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。


言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生の終りまでくたびれることはない。これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、一生の終りまで救われないだろう。
(注21)
道徳経52(道教)


かれは白衣をつけた世俗の人であるけれども、修行者の清浄な戒律の行を奉じたもち、在家の人であるけれども、三界に執著していない。妻子あるすがたを示しているけれども、常に清らかな行を修している。眷属のあるすがたを現じているけれども、常に遠ざかり離れることをねがい、宝の飾りをつけているけれども、しかも相好をもって身をかざり、また飲食するけれども、しかも精神統一の悦びを味わっている。もし博奕や遊戯の場所に至っても、そのたびに人をすくい、もろもろの異なった道を修する人々を受け入れても、正しい信仰をやぶらない。世俗の典籍を明かにするけれども、常に仏法をねがい、一切の人に敬われて、供養される人々のうちで最上のものとなる。……一切の職業活動がうまくなだらかに行なわれ、俗利をうるけれども、それで喜ぶことはない。もろもろの四つ辻に遊んで、衆生のためになることをなし、法律政治のはたらきに入って一切の人々を救い護る。
維摩経2(仏教)




―み言選集―


いつまでも、自分自身を中心に堕落した世界の因縁をそのままかぶり、その因縁をそのまま抱えて生きていてよいのでしょうか。そのように生きては、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を、私達が行くことはできないというのです。
(21-102、1968.11.17)


世俗的な世界ではお金が必要であり、知識が必要であり、力が必要です。これが最も重要です。しかし、その三つのものをもって神様に連結されるのではありません。それでは何をもって連結されるのですか。真の愛です。
(270-308、1995.7.23)


人々は、どのようなものを最も好みますか。すべて偽物を好みます。ですから、本物はまっすぐに歩いてこないのです。逆さまに来るのです。人が逆さまに来るのを見ると、病人のようです。病人のような人が逆さまに来ます。病人ではないのに、逆さまに訪ねてくるというのです。人が来るとき、まっすぐに歩いてくるのではなく、逆さまに歩いてきます。足の代わりに手をつき、足が天に上がっていくように歩いてくるのです。それを歓迎しますか。その人は病人ではありません。ところが、本当に病人ならば、そのような病人を歓迎するかというのです。


それで聖書のみ言に、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。この言葉は何かというと、滅びようとする人は成功し、成功しようとする人は滅び、愚かだと考える人は優れているのであり、優れていると考える人は愚かなのであり、貧しく暮らそうとする人は富者になるのであり、富者になろうとする人は貧しく暮らすということです。学校に行って自分がびりだと思えば、一生懸命に勉強するので1番になるというのです。これが真です。
(102-251、1979.1.14)


時間の限界性を超越した無限の世界から来る懇切な心情をもって、地上のいかなる苦労と苦痛と死の恐怖までも制圧して残ることができる人にならなければなりません。皆さんが個人の道で勝利するためには、いかなる苦痛も欲望も、一切を拒否して堂々と行くことができなければなりません。個人の道において勝利した者は、個人的な闘いで勝利したように家庭に対してそのようにし、民族、国家、あるいは世界に対してもそうです。彼は、世界的な問題において勝利した者です。
(79-97、1959.7.19)


私達は変わることを知らない人たちです。皆さんはそうです。神様は変わりません。私達もそうです。それが私達の財産であり、誇りです。これは億千万金でも、世の中のどのような権力でも、何であっても取り替えられません。幾銭かのお金に、権力に、女性に売られていくそのような人たちではないのです。そのような安物ではないということです。私は王座に上がっていって変わる一生を送るよりは、変わらない乞食の生活を選ぶでしょう。
(124-253、1983.2.20)


皆さんは、この道を行きながら自分のものに対する所有欲と子女に対する希望と夫または妻に対する愛と自分に対する愛着心まで奪われていくことがあるでしょう。そのときに皆さんは、そのような愛着心を握ったまま世界を越えていこうとしてはいけません。物質と子女の愛、そして自分を中心とする希望などの人情的なあらゆる条件を断ち切ってしまうときにこそ、皆さんは世界的な祭物の峠を越えていけるのです。
(2-118、1957.3.10)


終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なければなりません。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそっくりそのまま抱いていく人ではなく、それを捨ててしまう人です。世の中が流れるとおりに従っていくのではなく、そのようなものを蹴飛ばして回れ右して道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。そうでなければ、新しい理想的な出発を見ることはできないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる因縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけない。世の中と一つになってはいけない。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい覚心(迷いを離れて悟りを得た本来の心)を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押していくことができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような「覚心」が必要なので、宗教は世の中と妥協することを要求しません。
(21-136 ~ 137、1968.11.17)


サタンの血を受けた人は自分のことばかりを考えるのです。サタンの血を受けた人は、自分を中心とする人です。今日、アメリカを中心とするキリスト教文化圏があのように個人主義国家になり、人本主義、最近では世俗的な人本主義だとして、世界の混乱様相を中心として抹消神経を刺激して幸福を求めていくというのですが、あとですべて病気になって断崖に落ちるのです。男女が昼夜抱き合って喜び騒いでいますが、エイズにかかり、やせ細って落ちていくようになっています。
(187-241、1989.2.11)




②世俗的安楽の否定


―宗教経典―


さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
法句経171 (仏教)


快楽は金と銀に、女性に、そしてあらゆる楽しいものにあり、快楽は安楽な寝台に、豪華な邸宅に、そして甘美な食べ物にある。このすべての快楽を嫌うことなくして、どうして神の聖なる名が胸に宿ることを願うのか。
アーデイ・グラント、スリー・ラーグM.1、p25(シーク教)


ヒレルがよく言った。「肉が多いほど虫が多くたかり、富が多いほど心配が多くなり、女性が多いほど誘惑が多くなり、女性の下人が多いほど好色が濃く、男性の下人が多いほど泥棒が横行し、律法が多いほど生命が満ちあふれ、勤勉であるほど知恵が多くなり、議論を多くするほど理解心が多くなり、慈善が多い所ほど大きな平和が訪れてくる」。
ミシュナ、アヴォート2.8 (ユダヤ教)


この世の河川は汚染され、その井戸は混濁している。その見せかけと姿形は華麗だが、すべて有害なものにすぎない。それは、急激に終末に向って駆けあがる欺瞞、急速に消えていく光、暮れていく影、そして微弱でよりどころのない保護膜だ。それはあまりに欺瞞で満ちあふれ、それに関心をもつことを嫌い、その欺瞞の程度を知らない者がそれに眩惑され、それに満足にするまで待っている。そのときそれは、それらに対する関心を全くみせず、彼らをわなにはめようと捕まえ、彼らの首に死の綱を結び、彼らの墓に導いていく。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(イスラーム)


愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、優いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
法句経212 ~ 216(仏教)


あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。


むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 7(キリスト教)


「あなた達は私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。」(レビ記20.26)。私が聖なる者だから、あなた達も聖なる者であれ。私が世の中から区別されているのだから、あなたも世の中から区別されよ。「私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである」(レビ記20.26)。


もしあなたが、あなた自身を他の民と区別するなら、あなたは私に属する。しかし、そうでなければ、あなたはネブカドネザルの民になるだろう。ラビ・エリエゼルが言った。「ある人が『私は豚肉を食べる考えがなく、結婚を許されていない女性と性関係をもつ考えはもっていません』と言ってはいけないが、彼が『このような行為をしたいですが、天にいらっしゃる父が禁じられたので、どうしてそのような行為をすることが
できますか』と言うべきであることを、私達はどうして知ることができようか。これに対する答えとして、聖書には、『私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである』という言葉がある。罪悪から自らを区別させる者は、天の国を受けるようになる」。
スィフレイ93d(ユダヤ教)








―み言選集―


邪悪な世の中でなされるすべてのものは、私達を幸福の門に導くのではなく、死亡の罠と死亡の落とし穴に追い込むのです。
(47-49、1971.8.19)


天情と人情は食い違います。皆さんはそれを知らなければなりません。人が良いというところには天がいないのであり、天が良いというところには人がいないのです。それを知らなければなりません。ですから、世の中が良いというところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長続きしません。
(51-187、1971.11.21)


対立した善悪の世界という立場から見るとき、体に引っ張られていけば悪の世界になるのであり、心に引っ張られていけば善の世界になるのですが、ここでは心が体を完全に支配できません。いつでもその中間で、行ったり来たりするのです。
しかし、宗教を中心として神様のみ旨を絶対視するようになれば、サタン世界と分立された位置に行けます。対立した善悪の世界なので、分別された位置で善を中心として生きなければなりません。そのような個人の生活を経た人は、霊界に行って善主権の世界で、永遠に生きるなといっても、永遠に生きるのです。
(36-82、1970.11.15)


責任分担をもとうとすれば、皆さんはどのようにしなければなりませんか。責任分担と向き合うことができる人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。サタンの情、サタンの人情、サタンの血筋を受け、情の因縁の中で生まれたすべてのことを否定する位置に立たなければなりません。


なぜですか。アダムが責任分担路程を行くとき、サタンの情をすべて抱えて行きましたか。答えてみてください。サタンが何かの情をもってきましたか。もってきていません。皆さんは今何ですか。責任分担を求めていくためにサタン世界の情をすべて切りましたか、切っていませんか。切ることができずに責任分担ができますか。ですから、否定しなければなりません。
(139-250、1986.1.31)


歴史的な偉人や先覚者たちは、世の中の楽しみや満足を得ようとしたのではなく、より高い理念に向かって約束された一つの所を目的地とし、あらゆることを克服していく探検家的な気質をもった人たちでした。
(7-87、1959.7.19)


サタン世界とは永遠に違わなければなりません。180 度違わなければなりません。サタン世界でフリーセックスやホモ、レズビアン、麻薬や酒を飲むということとはすべて反対です。サタンがどれほど天を犠牲にさせ、善の人を犠牲にさせたか、愛の道を中心として、歴史にどれほど悲痛な犯罪の事実を残したかを知らなければなりません。
(244-148 ~ 149、1993.2.1)




皆さんの父母たちは、「おい、なぜデートしないのか。出ていってデートしなさい!」と言いますが、レバレンド・ムーンは、「デートするな! 女性たちに手を出すな!」と言います。誰がサタン側で、誰が神側ですか。
(122-263、1982.11.21)






10.苦行、修道生活、そして禁欲生活


俗世から完全に自身を分離しようとする人は、隠遁を選択したり、修道僧や修道女の人生のように独身生活を主張するだろう。仏教とジャイナ教、ローマ・カトリックと東方正教会では、最高の宗教的聖職を、独身生活をする僧侶、修道女、そして神父とみなしている。


禁欲主義はヒンドゥー教でも多く発見することができる。一生の間、禁欲生活をするだけでなく、解脱の境地に達するために人生の晩年を孤独な独身生活で送るバラモンの伝統がある。キリスト教
の修道院は、神様に対する愛を女性に対する愛より尊く思い、清貧と純潔の生活を送ると誓った彼らに、環境的条件を支援するために制度的形態として作られたものである。


イスラームには修道院体制がない。しかし、ラマダン期間に1ヵ月の間続く断食を通し、幅広い禁欲生活を実践する。断食と徹夜祈祷は、食べ物と睡眠に対する肉欲を打つものだ。そして、これらは過去に霊的エリートの少数者だけが享有した伝統的修道院体制とは異なり、一般人も簡単に行える禁欲生活の実践である。タイとスリランカの若い男性仏教徒たちは普通、家庭をもうける前に、6ヵ月の間修道院で訓練を受ける。


肉欲を抑制することを強調する文鮮明先生も、心身統一を成すための修道院の修業は高く評価される。独身生活をする神父と人間創造時に家庭理想を夢見られた神様の理想との間には、明らかにある種の緊張感が高まっている。このような脈絡から、この節の最後の部分には、行き過ぎた禁欲的人生に対して批判するいくつかの文章を載せた。


このような批判は、禁欲を実践するすべての宗教において同時に提起されている。行き過ぎた禁欲主義は、同情心の欠如した人性に発展することがあり得る。修道院生活は、神様が経綸する裕福で生産性あふれる社会と決して比較できないだろう。


文鮮明先生の教えは、人間の堕落によって誤った結婚をしてしまったことで、初めから禁欲と独身生活を強調せざるを得なかった神様の心情にまで言及している。最後には結婚が本来の状態に回復して、これ以上独身訓練が必要ない新しい時代の到来に対しても言及している。過去の独身生活は高貴なこととみなされるほかなかったが、今は宗教が独身生活より結婚の価値をさらに高揚させなければならない時が到来した。この修道院と独身生活の変化の徴候は、すべての宗教世界で感知されている。






①修道者の苦行


―宗教経典―


たとえば空飛ぶ青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
スッタニパータ221(仏教)


托鉢を続けよ。森にとどまれ。絶食せよ。必要なことのみ語れ。困窮を耐え忍べ。睡眠を克服せよ。殊勝な姿勢で、すべての人を友とせよ。しかし、執着してはならない。
ヴァッタケーラムーラーチャーラ981(ジャイナ教)


誹ることなく、害ふことなく、波羅提木叉に於て自制あり、食に於て節度を知り、閑処に坐臥し増上心に専念す。是諸仏の教えなり。
感興偈43(仏教)




家を離れ、十分な清めの道具(パヴィトラ)を所持し、沈黙を守り、迫る快楽に無関心となって遍歴すべし。同伴者を持たず、成就を求めて常に独りで行動すべし。孤独者に成就があることを見る者は〔何ものも〕捨てないし、また〔何ものによっても〕捨てられない。火も、家も持ってはならない。、村にすがるのは食べ物のためであるべし。無関心で、動揺せず、沈黙を守り、完全な精神集中を、はかるべし。〔施物を受けるための〕壊れた土器、樹下、ぼろ布、同伴者をもたないこと、いっさいに対する平等――これが解説者の特相である。


死を喜んではならない。生を喜んではならない。ただ時機を待つべし。召使いが命令を〔待つ〕ように。視線によって清められた足を置くべし(目の前をよぐ見て生き物がいないことを確かめて足を地面に置く)。布によって清められた(布で漉した)水を飲むべし。真実によって清められた言葉を語るべし。心によって清められた行動をするべし。




罵言に耐え、何ものをも軽蔑してはならない。誰に対してであれ、この身体にすがって敵意を抱ぐようなことをしてはならない。怒れる者に怒りを返してはならない。罵倒されたときは祝福を告げるべし。七門(肉体)に満ちる虚言を語ってはならない。自己に悦び、[瞑想のために]座り、無関心となり、渇望を断ち、自己のみを同伴者として、幸せを求めてこの世を遍歴すべし。……


〔一日に〕一度乞食に歩くべし。量の多いことに執着してはならない。なぜならば、施物に執着する遍歴者は感官の対象にも執着するからである。遍歴者は、常に、炊煙が絶えたとき、杵の音がしなくなったとき、炭火が消えたとき、人々が食事を終えたとき、容器の片付けが終わったとき、乞食にまわるべし。


〔施物〕が得られなくとも気を落としてはならない。また得られても喜んではならない。命を維持するに足るだけの量を受け取るべし。量に対する執着を捨てるべし。敬われて得たものをいっさい軽蔑すべし。遍歴者は、たとえ解脱したとしても、敬われて得たものによって縛られる。


感官がその対象によって奪われたときは、僅かな食べ物を摂取し、密かに〔交互に〕立ち座ることによって〔感官の働き〕を停止させるべし。感官を制御し、愛憎を消滅させ、生き物に危害を加えないことによって不死にふさわしくなる。
マヌ法典6.41 ~ 60(ヒンドゥー教)


謙遜の一番目の段階は、躊躇なく従順にすることである。これは誓った聖なる服従のために、あるいは地獄に対する恐怖や永生の栄光のためにするのである。修道院長の命令が下れば、まるで神が下さった命令のように、あなた達はいかなる躊躇もあってはならない。……


語る自由はめったに許してはならない。……修道院長に質問することがあれば、低く慎み敬う姿勢で尋ねるようにせよ。しかし、基準の低い笑い話や意味のない言葉、大きな笑いを誘発する言辞は、どこでも禁じられなければならない。口を開いてそのような言葉が出てこないようにしなければならない。……


個人の所有物は、いかなる場合も修道院に入れないように根絶させなければならない。そして、誰も大修道院長の命令なく物を交換することを想像もできないようにしなければならない。そのいかなる物も、許諾なく個人の所有物としてもってはならない。本、黒板、ペン、その他の物も許諾されない。修道僧は「自分」という意思や肉身も許諾されないからである。


しかし、必要なものがあるときには、その寺院に責任をもつ神父に要請しなければならない。しか
し、大修道院長が与えたり、所有することを許諾していない物は、いかなる物も与えてはならない。すべての物がすべての人に平等であるようにせよ。
ベネディクトス規律(キリスト教)




一み言選集―


何を抑えようとするのでしょうか。この体を抑えようというのです。ですから、「断食をしなさい、祈祷をしなさい、眠ってはいけない、結婚せずに一人で生きなさい、犠牲、奉仕しなさい」と言うのです。高次的な宗教、カトリックのようなところでは、神父と修道女たちが独身生活をしていて、仏教も高次的な宗教として独身生活を強調するのです。


ところが、アメリカの若者たちはどうでしょうか。宗教では体を征服するために、このように正反対の生活を強調しているのですが、アメリカの若者たちの生活は、このような生活とは完全に遠い距離にあります。サタン世界に包囲され、また包囲されて、地獄の底に入っていって暮らしている事実を知らなければなりません。神様が願わない地獄の底で生きているという事実を悟らなければなりません。それでは、なぜ体を打たなければならないのですか。これがサタンの舞台になっているからです。(215-236、1991.2.20)
体が大きければ、その次には良心を踏みにじるのです。力のない私を押しのけます。良心がそれを主管しなければなりません。宗教がそれをするのです。


これは自分自ら停止するまでは継続するということを知らなかったので、中世のキリスト教で苦行をしたのであり、大勢の宗教が道を修めるために苦しみました。しかし、中断した理由はこの原則、規範を知らなかったからです。その怨讐がどこにいるか分からなかったのです。今ではもうはっきりと分かりました。その時はそれを知りませんでした。この体がこのような怨讐だということを知らなかったのです。この体が平定されなければ継続しなければなりません。継続しなければならないのです。
(254-222、1994.2.13)


プラスとプラスは相反です。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神様がプラスの立場なのに、マイナスの立場に立たずにプラスの立場に立とうというもの、これが正にサタンです。既に話したように、修養の生活では禁欲主義を叫んでいます。それはサタン側、すなわち悪に属するプラス的な面を経てマイナス的な立場に転換させるためなのです。
(4-23、1958.2.16)


宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。「食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい、情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさい」というのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。


体は高められることを好み、楽な位置を好みます。またごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
高まることを好む体を低くしなさい、温柔謙遜になりなさい、犠牲奉仕しなさいというのです。
(18-67 ~ 68、1967.5.21)

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世界経典-65

2022年08月07日 15時12分40秒 | 学習


3.懺悔(悔い改め)


悔い改めは、神様との関係を回復し、本来の自身を求めていく最初の段階である。罪と執着、誤った見解などを、一様に認定して克服しなければならない。その時初めて、過去の習慣を捨てて新しい信仰の道を出発することができる。


私達に蓄積された罪と欺瞞は、神様の実存の認識・感知を歪曲させる障害物だ。したがって、神様の罪の赦しと人間のむなしい妄想を除去する前提条件は、何より悔い改めだ。天は悔いる者の人生に、いま一度恩赦を施されるのだ。悔い改めの内容を、祈祷を通して一つ一つ数え上げなければならない。胸から張り裂けんばかりのうめき声と、痛恨の涙の祈祷、過去の過ちを総蕩減する強烈な意志の祈祷、それが悔い改めである。その後、許しと解放、新しい洞察が人生の方向性を設定してくれることを悟ることが、真の悔い改めである。


文鮮明先生は、悔い改めとは個人的罪状を後悔する程度にとどまってはいけないと言われる。人間は誰でも、個人理想の意味をもっている。個人は歴史的な実として生まれた存在であり、さらには社会と国家と世界を代表した存在だ。したがって、個人を越えて先祖たちの誤り、国家の誤り、世界の誤りまで、すべて悔い改めできなければならない。私達が悔い改めを通してさらに奥深い境地に入れば、私達自身が神様の理想とどれくらい掛け離れているかを悟るようになる。


そして、私達を無限に抱きたいと思っても、私達の心に安着できなかった神様の曲折と苦痛が、どれほど大きかったのかも悟るようになる。このような内容をすべて改心できなければならない。したがって、私達は悔い改めを通して、霊魂の深いところに入り込んだ内的自我を発見する旅程に出ていかなければならない。




①罪の認定、告白、悔い改め


―宗教経典―


まことに神は、改悟して不断にかれに返る者をめでたまい、また清める者を愛したもう。
クルアーン2.222 (イスラーム)


悔い改めよ。天の国は近づいた。(注7)
マタイによる福音書3.2(キリスト教)


神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を。神よ、あなたは侮られません。
詩編51.19 (キリスト教)


罪を隠すと罪は増長しますが、もし悔い改め慙愧すれば罪は消滅します。だから智者は罪を隠さないとブッダは言われました。
大般涅槃経(仏教)


悔吝を憂うるのは、善悪の微妙な介(目に見えぬほどの小さいきざし)を重んずるからであり、行動を起しても咎なきを得るのは、よく過ちを悔い改める努力にかかっている。(注8)
易経、周易繋辞上伝1.3.4 (儒教)


あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。(注9)
イザヤ書64.6 (キリスト教)


神の御意志どおりに考えていなければならず、神の御意志どおりに語っていなければならず、神の御意志どおりに行動していなければならない。もし私がそのように考え、そのように語り、そのように行動していなかったなら、私はその罪を悔い改める。私の考えと言葉と行動で悔い改め、すべての心を尽くして悔い改める。
パテット6(ゾロアスター教)


私達の罪悪は、はかり知れないほど多く、私達の悪行は限りがないので、おお、主よ! 慈悲を施してくださり、私達を罪悪から抜け出すようにしてください。私達は、極悪無道な罪人なので、抜け出す道が分かりません。おお、主よ! 敬愛する主よ! あなたが秤にかける私達の行為は、あなたの宮殿のどこにも置き場のないものですが、グルの恩寵により私達を赦され、あなたと一つになるようにしてください。
アーディ・グラント、スローク・ヴァークM.3、p.1416 (シーク教)


しかし、われはわが身にかくぞ問う、いつの時にかわれヴァルナに親しむを得ん、怒りを解きて彼わが供物を嘉(よみ)することやある、いつかまた心安けく神の憐れみを仰ぎ得んと。その罪をヴァルナよ、探り求めんとして、われはわが身に問い、問いたださんがために賢者たちに近づく。


詩人たちは等しくわれにいう、かのヴァルナ汝に怒ると。ヴァルナよ、わが最大の罪は何なりし、
友なる讃美者を、なれが殺さんと欲するにいたりしは。そをわれに明らかに告げよ、冒しがたき自律の神よ。われ切になが赦しを乞う、罪なからんと額ずきて。父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
たとえ私が浄土に対する真の信仰に帰依しているとしても、それにもかかわらず私の胸にはすべての心を尽くす誠実さがなかった。術策と偽りが私の体の中にあり、私の霊魂には清浄な光がない。
見た目にはすべての人々が勤勉で真実を語っているように見えるが、彼らの霊魂には貪欲と憤怒、そして不義な欺瞞が満ち、彼らの体の中には、偽りで狡猾な優越感が満ちている。


私の胸の中の悪があまりに強く、私はそれを克服できない。ゆえに私の霊魂は蛇の毒のようで、この毒が混ざった私の義なる行為さえも偽りの行為と呼ばなければならないだろう。


そのように私の霊魂には何の真実もないが、それにもかかわらず、聖なる名の功徳、悟ったその贈り物は、たとえ私はただの私だとしても、私の言葉を通して全世界にあまねく広がっていく。


私の霊魂には何の慈悲心もない。私の友の善行は私の両目には満足できない。もし慈悲の船、無限の知恵の聖なる約束がなかったなら、私がどうして苦痛の海を渡っていくことができるだろうか。
その心が蛇の毒のような狡猾さと欺瞞で満ち、私は義の行為を行うことができない。もし私達の父の贈り物に帰依所を見いださなければ、私は恥知らずな者の死を迎えるようになるだろう。
(注10)
親鸞(仏教)






―み言選集―


「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様はこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論は何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてを悔い改めなさいというのです。
(105-92、1979.9.30)


今から2000 年前にイエス様がこの地上に来て、最初にイスラエル民族に警告したことは、「悔い改めよ、天国は近づいた」だったことを私達は知っています。
(99-75、1978.9.1)


皆さんもよく知っていますが、父母に過ちを犯した子女が、その過ちを赦してもらうためには、必ず涙というものを流さなければなりません。涙というものを必ず経るようになっています。罪を犯した子女がいれば、どの国でも罰を与えます。棍棒でたたきます。必ずそこにはそのような罰が……。罰というものは何かというと、打つことです。苦痛を与えるのです。そのようにして何を
するのですか。苦痛を受けるようにするというのです。あらゆる分野で制裁を受けます。


ですから、悔い改めようとする人がいれば、涙を流さなければなりません。涙を流すときは、たくさんの痛みを感じなければなりません。自分が誤ったことに対して、罪を犯したことに対して、たたかれる以上、受ける苦痛以上に痛みを感じなければ悔い改めの道があり得ないことを知らなければなりません。
(99-77、1978.9.1)


皆さんは、悔い改めましたか。悔い改めもできない人が誰を助けてあげられるのですか。悔い改めたという公認を受けることができずに誰を救ってあげるのですか。どうやって救うことができますか。犯した罪の赦しを受けずに、罪を判決する判事になれますか。皆さんは、自らが罪人だと感じてみましたか。


歴史的な罪を背負っていることを知らなければなりません。その次には、世界的な現在の罪を背負っていることを知らなければなりません。その次に、未来の罪まで私が責任をもたなければならないことを知らなければなりません。三つの大きな罪を背負っていることを知らなければならないのです。
(99-90、1978.9.1)


人々は教会に行って、「私は何々の罪を犯しましたが、悔い改めますので、お赦しください」と祈祷します。しかし、それよりは、「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した罪、心情問題において犯した罪をお赦しください」と言わなければなりません。そのように悔い改めることによって、赦され、勝利し、お父様の認定を受けるなら、万事がすべて
解決するのです。天は、そのように悔い改める者に訪ねてこられます。


心情を通じた人には、世の中のあらゆるものが自分のものにもなるのです。それで、お父様の心情に通じた人は、世の中のどのようなものをもってきても、もっていっても、お父様には罪になりません。今後、天国世界では、隣の家に行って黙って食べたいものを食べたからといって、それが罪にはなりません。


なぜかというと、心情的に連結されているからです。心情を蹂躙した罪以上の大きな罪はないことを知らなければなりません。今日の私達は、神様の愛の心情を察していきながら、私達は神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げられないようにした妨害者だったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんは理解して、心情をかけて悔い改める人になることを願います。
(9-185、1960.5.8)


最近のアメリカで言えば、民主主義式で、人はすべて平等で自由なのに、恥がどこにあり、良心の呵責を受けることがどこにあるのかという思想が強いでしょう? 皆さんは、恥ずかしいと思ったことはありますか。皆さんが罪の意識を一度もってみたことがありますか。


もし皆さんが逆賊の息子であれば、どうしますか。逆賊の息子であれば堂々としていられますか。また、強盗の息子であればどうしますか。堂々としていますか。その次には、言葉にもできない、獣のような恥辱を感じる不倫の愛の関係をもっていれば、堂々としていられるかというのです。


もし自分がそのような罪を犯したなら、そのような罪を犯した人の息子、娘であれば、その子孫だと考えれば、顔を上げて、「ああ、私には自由が必要だ」と言うことができるのかというのです。また、「私は、この場でそのまま定着しなければならない」と言うことができますか。皆さん、誰彼を問わず「それはできない」と当然のように答えるのです。すべての人たちは、堂々として自由にする前に、まず何をしなければならないのかというと、死んで生き返らなければならないのです。赦しを受けるか、逆さまにひっくり返るか、清算する問題がなければなりません。
(66-14、1973.3.11)
足らない私達、どうしてお父様のみ前に出られる姿だと言えるでしょうか。どうして天に対して、
顔を上げることができるでしょうか。


私達自身は、千万回死んでも当然な存在であり、
罪悪の刑具に捕らわれ、審判の苦難を受けて当然な人間たちでございます。


それゆえに私達は、お父様の慈悲深いみ愛を願い、お父様の恩賜を願い、自らをありのままに告げる心で、ひれ伏しましたので、私達がもっているすべてのものをお父様の前に差し出し、正しくないことがあるならば、すべて清算できるよう
お許しくだざることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
(2-168、1957.4.14)






②国家的罪の悔い改め


―宗教経典―


もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下7.14(キリスト教)


ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がっ
て王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。


「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(注11)
ヨナ書3.3 ~ 10(キリスト教)




―み言選集―


今まで宗教が扱い、さらにキリスト教が扱ってきたのは個人的な悔い改めです。個人的な悔い改めに重点を置いてきましたが、社会や国家、それ以上の次元に対する悔い改めには重点を置かなかったことを私達は知っています。


しかし、私達がイエス様や預言者たちを見るとき、彼らが主導的な役割をしたこととは何かと見れば、彼らは自分の悔い改めよりも、国と社会のために悔い改めるところに注力したことが分かります。
(99-75、1978.9.1)


皆さん、悔い改めましたか。皆さん自身の罪を悔い改めるために、先祖たちの罪を悔い改めるために涙を流していますか。その次に国を救うために、世界を救うために涙を流していますか。


涙は2種類です。救ってあげるために、悔い改めさせるために涙を流さなければなりません。2種類の涙を流さなければならないのです。そうしてこそ、悔い改めが起きます。
(99-90、1978.9.1)


神様が今まで復帰摂理をしてこられながら、まず人間に何を信じるようにされたのでしょうか。すなわち、再創造の役事を出発される前に、まず何を私達に体恤させられたのでしょうか。


それは喜びではありません。先に、私達の一身に対して悲しむ心がわき上がるようにされました。次に自分の家庭、社会、氏族、国家、世界、さらには天倫のために悲しむ心がわき上がるようにさ
れたのです。そうしてこそ、私達人間が神様の前に立ち得る道が開かれるようになるのです。
(4-51、1958.3.2)




③本当の悔い改めは行動の変化を伴う


―宗教経典―


悔悟して善い行いにいそしむ者は、心を入換えて神に改悟帰依し奉る者である。
クルアーン25.71(イスラーム)


君子は……あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。
論語1.8 (儒教)


罪を罪として認め、法に従って懺悔し、将来において自己抑制をするということ、それこそが、聖者〔ブッダ〕の戒律の繁栄というものであるからです。
阿含経長部1.85、沙門果経(仏教)


ある人が罪を悔い改めることは、どのように証明され得るのか。ラビ・ユダがこれについて言った。「二度も原罪を犯させる対象が自分に近づいた場合、その対象を遠ざける」。ラビ・ヨセ・ベン・ユダが言った。「もし犯罪を犯させる場合、一度、二度、三度までは赦されるが、四度目は赦されない」。
タルムード、ヨーマ86b (ユダヤ教)


罪を犯したとき、苦しみ悔悟することによってその罪から解放される。彼は「二度と同じことをするまい」と〔決意して〕止めることによって清められる。……


無意識であれ、意識的であれ、非難される行為をして、それから解放されることを望むならば、二度としてはならない。行為がなされたときに自分の心が重くなるようならば、満足をもたらすまでその行為に対しての苦行を行うべし。
マヌ法典11.231 ~ 34(ヒンドゥー教)


害であることを知りながらも繰り返し罪ある行動をする人には、贖罪と悔い改めは何の役にもたたない。
シュリーマッド・バーガヴァタム6.1 (ヒンドゥー教)
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。「なんじらは懲罰がくる前に、主に改悟して返り、かれに服従帰依せよ、その後では、なんじらは助けられないであろう」。


「なんじらが気づかぬうちに、懲罰が突然来る前に、主からなんじらに下された最も善い道に従え」。「魂がこう言わぬよう、『ああ情けない、わしは神への己れの義務を怠っていた、そしてちょう笑者のひとりであった』と」。「または、『神がわしを、お導き下されたならば、わしはきっと主を畏れまつったものを』、と、言わぬよう、または、刑罰を見たとき、『わしが1度現世に返れるならば、わしは必ず善い行ないをなす者のひとりであろう』と」。
クルアーン39.53 ~ 58(イスラーム)


永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。


見よ、もし死ぬときまで悔い改めの日を引き延ばしたならば、見よ、あなたがたはすでに悪魔の霊の支配を受けるようになっているので、悪魔はあなたがたに自分のものであるという印を押す。したがって、主の御霊はもはや退き去って、あなたがたの内に決して宿ることはなく、悪魔があなたがたを支配するすべての力を得る。これが悪人の最後の状態である。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 35(末日聖徒イエス・キリスト教会)




―み言選集―


今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外で行ったり来たりして、結局は、私的におぼれる場合がたくさんあります。


しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び歯を食いしばって公的な生活に戻ります。そうして再び耐えられずに行ったり来たりして、再び私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると、公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。ですから、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
(31-242、1970.6.4)


喜びの日を迎えられた神様の前に、痛悔し、痛哭する心をもたなければなりません。「私はどうしてお父様を知ることができず、どうしてお父様が心配されるその立場が分からなかったのか!」と悔い改め、激憤しなければなりません。このように過去の自分の生活を反省する心をもてば、神様が同情できる余地があるのです。そのようにできない立場で、そのまま同参しようとしてもできないというのです。「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7・21)というみ言が聖書にあるのは、このような理由のためです。
(13-330、1964.4.14)


皆さんに最後まで残るのは悔い改めです。これができずに逝ってはいけません。
(99-110、1978.9.1)




4.人を裁いてはならない


世界経典は、私達の中に、誰も失敗から解放されていたり、完璧な者がいないため、たとえ他人の失敗が明白であっても、その人の誤りをむやみに審判するなと警告する。すべての経典の教えは、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」というイエス様の教えと同じである。文鮮明先生は3度の法則をおっしゃられる。人を審判する前に、自身をまず3度振り返ってみなさいという意味だ。さらには、人を正そうとする前に、自身がまず愛して助けてあげなければならないのである。






―宗教経典―


人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる。
マタイによる福音書7.1 ~ 5(キリスト教)


他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまいます。狭滑な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
法句経252 ~ 253 (仏教)
卑劣な者は常に、他人の失敗はたとえからし種ほどに小さいものであってもみつける傾向があり、自分の失敗はたとえヴィルヴァの実ほどに大きいものであってもそれに対して目を閉ざし続ける。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)


あなたの同僚の立場に立ってみるまでは、決して同僚を裁いてはならない。(注12)
ミシュナ、アヴォート2.5 (ユダヤ教)


卵のかごをもっている人は、石の上で踊りを踊らない。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)


先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」
論語12.16 (儒教)


それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私達は皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』、と」それで、私達は一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙14.10 ~ 12(キリスト教)


朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどう、お考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。


イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(注13)
ヨハネによる福音書8.2 ~ 11(キリスト教)


まことの修行者というものは、世の人の過ちには目を向けぬ。もし人の咎に目を向けるなら、そのおのが咎にこそ道にもとるもの。人の咎ある心は私は謗らぬ。おのれの咎がもともと悪い。その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打ちくだくだけのこと。憎しみも愛も心にかかわることなく、長々と両足を延ばして寝る。
六祖壇経2(仏教)




人を誹誇して自分をたたえ、人の美徳をあえて知らないふりをしながら自分はもってもいない長所を誇る、これによって自ら卑賤になるだろう。自分には厳格だが人には寛大に赦し、人の長所を喜ぶが自らはもっていないことを恥ずかしく思う、これによって自ら尊貴な者となるだろう。
タットヴァルタ・スートラ6.25 ~27(ジャイナ教)






一み言選集―


人を批判してはいけません。問題は自分にあるからです。若い人たちの短所とは何かというと、木の枝のようにあちこちに伸びていることです。何の話か分かりますか。最初は素早く、よく見ます。何かをさっと見れば、何がどうでこうでとよく評価するのです。しかし、自分を忘れているのです。人を評価するなら、まず自分を3倍以上評価してから、その3分の1だけ評価しなさいというのです。
(25-93 ~ 94、1969.9.30)


人を判断するには、3年以上研究しなさい。
御旨の道、人格


自分が心で、誰はどうだと評価することはできません。自分自身が罪人だからです。祭司長の自分が責任を果たせなかったのに、どうして人に対する評価をするのですか。
(89-268、1976.12.4)


天から何かの恩賜を受けたならば、皆さんは公憤の心情をもち、天を身代わりしてサタンと闘うことができなければなりません。自分を中心として裁く行動をしてはいけません。このように、許諾された恩賜を受けた人が、自分を中心として楽しもうとしたり、自分を中心として人を裁こうとすれば、それは正しい信仰ではないので、許諾されたみ旨の道を歩むことはできないのです。
(2-201、1957.5.19)


自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。ですから、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。


批判するのは、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定することを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。ですから、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことはできず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。私達人間生活において歩んでいくときには、直行は絶対にできません。ジグザグに行くのです。
(76-141、1975.2.2)


私自身を見るのです。相手に対して話をする前に、自分自身を見なさいということです。相手を批判する前に自分自身を批判するのです、そして、皆さんが、一つ満点、二つ満点、三つ満点があれば、次には皆さんの好きなようにしなさいというのです。


イエス様は当時、このように言いました。姦淫を犯した女性を石で打ち殺そうとするとき、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのです。すると、みな逃げていぎました。
(118-245.246、1982.6.6)




5.自己否定


人々は、自身の利己心はよく見ることができない。利己的であり、貪欲な人々は、善行とはほど遠い。誰でもある程度は、利己心で汚れている。このような自己中心性は、外に露出して、無慈悲に攻撃を受けなければならない。そうでなければ、私達が言う善は、虚飾的であり、むなしいだけである。したがって、私達は、自身を否定しなければならない。


自分の肯定と快楽を追求する人生は、結局、空虚感と喪失で終わる。自己否定は、死と喪失に私達を導くように見えるが、事実は、神様と共にする豊かな人生へと私達を導いてくれる。


ここで私達は、また一つの逆説にぶつかる。イエス様は「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失うのであり、私と福音のために自分の命を失った者は救われるだろう」と語られた。この教えは、すべての世界的水準の宗教に共通に入っている内容だ。
文鮮明先生も、自己否定の価値に対して強調される。先生は、人間の堕落に対する自身の洞察力を基盤にして、人生の目的地に到達するのに、人間がこのように逆説的で不自然な道を歩まなければならない理由に対して説明される。


本来、神様が人間を愛と利他主義的性格を具現するように造られたが、堕落によって私達は、サタンの影響を受けた。サタンの本性は、完全な自己中心だ。したがって、私達の本性を回復するためには、まず誤った要素で汚染された自身を否定する、難しい過程が待っている。






―宗教経典―


私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8.34 ~ 35(キリスト教)


名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ〈修行僧〉とよばれる。
法句経367(仏教)


すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター2.71 (ヒンドゥー教)


道を体得した人間は、その名が世間に聞こえず、最高の徳をそなえた人間は、自分の徳を意識することがなく、無差別の境地に達した大人(たいじん)は、自己にとらわれることがない。
荘子17(道教)


利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。教えを聞いた者よ、熟考せよ、この説明できない命題を。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)


律法は自分自身を全的に否定する者と共にある。
タルムード、ソーター21b (ユダヤ教)


「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈私は、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた。


「師よ、そういうことはありません。……もしも、尊敬さるべき人が、〈私は尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
金剛般若経9(仏教)


はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書12.24 ~ 25(キリスト教)


記憶すべきことは、死を恐れる人はこれを避けることができず、不死を熱望する者も決してこれを成し遂げることはできない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教43(イスラーム)


おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)
石霜和尚が言った、「百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか」またある古徳が言った、「百尺の頭に座っている人は、[道に]入ることができたといってもまだホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に[自己の]全身を実現せねばならない」無門は評して言う――[百尺竿頭に]一歩を進めることができ、[十方世界に]自己を生まれ変わらすことができるなら、そのうえどこを嫌って[世]尊といえない所があろう。それはそうだが、まあ言うてみよ、百尺の竿の頭で、どう一歩進めるか。ああ!(注14)
無門関46(仏教)


こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
法句経134 (仏教)


顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる……。」
論語12.1 (儒教)


この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
法句経46(仏教)




―み言選集―


絶対的な信仰は、自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。
御旨の道、信仰生活


天の国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だということです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためのものです。そうしてこそ、サタンがついてくるひもがあれば、そのすべてのひもを完全に切っておかなければなりません。皆さん、絹糸のようなものが世界にぶら下がっています。それをかみそりのようなもので切ってしまわなければなりません。
(122-13、1982.10.31)


イエス様のような方は、何をするためにこの地に来たのですか。イエス様は、生きることを願い、中心存在になることを願い、うれしいことを願う前に、まず死ななければならないことを見せてくださいました。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ、生かせる道がありません。イエス様が「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高く
されるであろう」と語られたのも、そのような意味です。逆説的な言葉です。


自分を中心として個人を尊重し、個人をより中心の価値的存在として認めるこの世の中を、打破しようというのです。「私一人のために生きなさい」と言うとき、みな散らばっていきます。驕慢な人はみな嫌うのです。しかし、「私はあなたを高めてあげよう」と言うときは、みな喜ぶのです。(67-182、1973.6.10)


自分を意識し始めたのが堕落です。この体を否定しなければなりません。自己否定をすることによって、自らを意識した悪魔サタンを除去し、「ために生きる」ことができる立場に立つことによって神様に帰依するのが宗教を通じた救いの道であり、愛の理念を通して統一していく方法であることを、はっきりと知らなければなりません。
(214-65、1991.2.1)


サタンは、ほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために、ねたみと、しっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し、審判しなさい。サタンはいつも、私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。
御旨の道、試験、試練


自分のために生きることは、自分で終わるのであり、人のために生きることは、永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。




それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。ところが、対象圏を踏みにじる世界的主体は存在できません。世界的主体は、世界を輝かせるための主体にならなければなりません。
公的な道は、自分を否定するところから始まります。自分を否定するからといって、自分がなくなるのではありません。また、ほかの相対価値で自分を見いだそうとするところから、善は始まるのです。これは、善が発展する原則的な法度であり道です。これを皆さんは知らなければなりません。
(57-63、1972.5.28)


アジアは今まで蕩減ばかりをしてきたのであり、皆さんは豊かに暮らしてきました。昔の宗教は、蕩減をしなければならないので、もっているものをすべて捨てました。それをすべて西欧の人たちがもっていったのです。自分を立てて物質をもつので、アジアとちょうど反対です。そのような立場で自分を中心として物質をもってみると、精神的に完全に欠如したというのです。
(97-67 ~ 68、1978.2.26)


自分が生まれて今まで成長してきた、その基準を認める以上、永遠に一つになれません。ほかの国、ほかの民族、ほかの民族と一つになれないだけでなく、自分の専門分野以外の人とも一つになれないのです。すべてが一つになれる簡単な方法は何かというと、絶対無視することです。完全に否定することによって、どこでも連結されるのです。
(360-192、2001.11.16)




6.肉的欲望の統制


すべての宗教で究極的実在を渇望する求道者は、欲望を統制して肉身の欲求を抑制しなければならないことに同意している。過酷な自己統制、断食、何時間かの参禅修行などを通し、体を打って体の力を弱くすることは、すべて肉的欲望に対抗して究極的にこれを制圧する良い方法である。


人にとって最も大きな挑戦は、性欲主管である。イエス様は、誘惑に対して容赦のない教えを下さった。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」。実際に仏教のある尼僧は、自身の罪ではないが、相手方の罪を抜き取るためにこのようにしたと伝えられている。仏教では、肉身を一つの液体と水液、胆汁、糞尿などで形成された塊と見ることで、「肉身
の不快感」に対して瞑想する修行を奨励する。これは、異性を見つめるときに生じる性的欲求を弱くするためである。




文鮮明先生は、やはり体を「サタンの舞踏会場」とみなし、体に対する不快な感情を通して性欲を自制するように忠告される。自己主管と関連したみ言は、第12 章の「道徳性」に記述されている。


しかし、私達にとって完璧な自己主管というのは、ほぼ不可能である。文鮮明先生は、これが人間堕落により引き起こされた結果だと説明される。自然に形成されないものなどに対しては、強力で極端な修行が必要である。したがって、宗教は、体を打って欲望を抑制するために、程度の高い無慈悲な方法を開発してきた。いくつかの宗教では、このような修行が修道院の制度として体系化されたこともある。皆がこの道を実践できなくても、この地に生きていく人であれば、誰でもこの目的に向かって努力する姿勢が必要である。




①肉的欲望の制御


―宗教経典―


愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペテロの手紙一2.11 (キリスト教)


欲望を捨てよ、不死を成すだろう。
阿含経相応部47.37(仏教)


だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイの信徒への手紙3.5 ~ 8(キリスト教)
それで、主からの明証の上にある者と、己れの悪い行いをりっぱだと考え、その私欲に従う者と、同じであろうか。
クルアーン47.14(イスラーム)


ただ肉欲を完全に根絶するとき、私達は暴力を捨てることができる。
アーヤーランガ・スッタ4.45 (ジャイナ教)


純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て。
道徳経19(道教)


かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.7(ヒンドゥー教)


光と影のように、楽と苦は日常のことであるのを知り、ただ自らの心の欲望を治めよ。
アーヤーランガ・スッタ2.78(ジャイナ教)
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
論語16.7(儒教)


比丘たち、これら三つの感受がある。三つとは何か。楽しみの感受、苦しみの感受、楽しみでも苦しみでもない感受である。比丘たち、楽しみの感受は苦しみとして見られるべきである。苦しみの感受は毒矢として見られるべきである。苦しみでも楽しみでもない感受は無常として見られるべきである。


まことに、比丘たち、比丘にとって楽しみの感受が苦しみとして見られ、苦しみの感受が毒矢として見られ、苦しみでも楽しみでもない感受が無常として見られる時、比丘たち、その比丘は聖者、正しく見る者と言われる。
如是語経53(仏教)


―み言選集―


心と体が対等であるために闘うのです。ですから、体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-272、1971.1.8)


宗教は、どのようにすれば体を取り押さえることができるか、という代案を提示しなければなりません。強制で拘束しなければなりません。体がしようとすることはすべて許してはいけないというのです。これが宗教で教える教理です。それで、「劇場街には行ってはいけない、ソウルに行くなら鍾三通り(鍾路三街通り)は歩いてもいけない」と言って、すべて止めるのです。「男性たちは
若い女性のおしりについて回るな。若い女性は男性をすべてどろぼうだと思ってよそ見をするな」と言います。


統一教会の若い女性たちは、恋愛できますか。できません。また統一教会の若い男性たちは、恋愛できますか。できません。それでは、先生が強制で「恋愛するな」と言うのですか。違います。したければしてみなさいというのです。しかし、できないようになっています。そのようなことを強制的にやらせないようにすれば、もっとやります。自分たちがやってみて、自分で悟らなければなりません。


体をどのようにしなければなりませんか。克服しなさいというのです。善に向かっていく道は克服を要します。体の欲望をつかんで首の根っこをひねるのです。体は驕慢を好みます。すべて、自分のために生きようとするのです。「私のものは私のものであり、あなたのものも私のもの」という考え方です。体はそのようなことを願います。
(39-193、1971.1.10)


若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に、……。


ですから、宗教は体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。天国に行きたければ、人間の地獄世界に行って天国をつくりなさいということです。


この世の中は、悲惨な世の中ですか、幸福な世の中ですか。悲惨な世の中です。このような悲惨で混乱し、混沌となった世界が幸福な世界になろうとすれば、御飯を食べ、ひたすら遊び、酒を飲み、踊りを踊り、そのようにしていつ幸福な世界ができますか。もっと悲惨になりますか。悲惨でなくなりますか。もっと悲惨になるのです。ですから、結論を下さなければなりません。このような悲惨な世界を幸福な世界にしようとする人は、もっと悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。もっと悲惨なところから取り戻さなければ、取り戻せません。その道しかないのです。それでもなければ、神様もいないのであり、すべていないというのです。
(91-286 ~ 287、1977.2.27)


体を打つのは、サタンをなくそうということです。さらには、この体を打つことによって、その体を誰が占領できるのかというと、聖霊が占領できるのです。それで、私達が体を打つのは、聖霊が体を占領するための条件でもあるのです。


私の体を打つのは、結果的にサタンを打つことになるので、私の体を打つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンが占領して
いたものを、代わりに聖霊が占領するようにしようというのです。(1-126、1956.6.27)
②体に対する嫌悪感と腐敗した感覚


―宗教経典―


もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄ではうじが尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.43 ~ 48(キリスト教)


シーヴァカの楽しいマンゴー林に行こうとしていた尼僧スバーを、一人の好色漢が道をさえぎった。スバー尼は、かれに告げて言った。「あなたは、私(の行く手)をさえぎって立っていますが、私は、なにか過ちをしたのでしょうか? 友よ、男子が尼僧に触れるのは、よろしくありません。私の師の尊い教えには、幸福な人(ブッダ)が説き示した学ぶべきことがらがあります。行ないが清らかで、けがれのない私を、あなたは、なぜさえぎって立っているのですか? 濁らず、けがれなく、清潔で、完全に心が解脱した私を、心濁りけがれたあなたは、なぜさえぎって立って
いるのですか?」


「あなたは、若くて美しい。出家してもつまらないではありませんか? いらっしゃい、黄衣をすてて、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。落花粉々たる木々は、四方に甘い香りを放っでいます。初春は、楽しい時季です。いらっしゃい、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。」


「妖精キンナリーのごとき柔和な眼をした婦人よ、あなた以上に愛すべき人は、この私にはないからです。もしも、あなたが私のことばを聞いてくださるならば、あなたは幸せとなりましょう。いらっしゃい、在家の生活を営んでください。静かな高殿に住む者として、あなたは、侍女たちにかしずかれるでしょう。カーシ産の贅美な(衣服)をつけて、(身を)飾って下さい。花飾りや顔料、黄金・摩尼珠・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたに与えましょう。よくよごれを洗い去った美しい天蓋があり、新しい掛け布と敷
物をしき、栴壇の香木で美しく作られ、その木の香りがする高価な臥床に上って(寝て)ください。……」


「死骸に満ち、墓田を増大し、破壊される性質のあるこの身体を、あなたは、誤った思いで見ています。納得できるどのような本質も、このあなたの考えにはありません。」


「あなたの眼は、山のなかの牡鹿や妖精キンナリーのそれのようです。あなたの眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。あなたの蓮の花に似た顔、けがれのない黄金に似た顔、そして眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、私は、長いまつ毛と、清く澄んだ眼を思い出すでしょう。……」


「暗愚な人よ。目の前に現れた幻影のごとく、夢のなかの黄金の樹のごとく、人々のなかで(見世物のために)作られた像のごとく、うつろなものを(追い求めて)、あなたは走っている。あたかも、(眼は)樹洞のなかに付着した樹脂の塊りのようであり、(眼の)中央に泡状のものがあり、涙を出し、目やにもそこに生じます。(形の上では)多種多様の眼球があります。」


眉目うるわしく、こころに執着のない(スバー尼)は、(眼を)えぐりとって、(それに愛着を)起さず、“さあ、眼をあなたのものとして、おもちください”(と言って)、即座に、これをかの男に与えた。
かれの愛欲の念も、即座に消えうせ、彼女に許しを乞うて言った。“清らかな行ないをなす人よ、幸いあれ。このようなことは、二度としますまい”と。


(また、)あたかも、燃えた火を抱くように、また、毒蛇をつかむように、私は、このような人を害った。(そうした私に)、幸運がくるであろうか?私をお許しください”と。かの尼僧は、その男から脱れて、すぐれたブッダの御許に来た。(ブッダの)偉徳あるすがたを見て、(彼女の)眼は、元どおりとなった。
長老尼の詩366 ~ 399 (仏教)


諸比丘よ、色は無我なり。若し此色、我なりせば、此の色は病を致すこと無けん、色に於て「我は此色を用いん、彼色を用ふまじ」といふことを得ん。然るに、色は無我なるが故に、色は病を致し、色に於て「我は此色を用ひん、彼色を用ふまじ」といふことを得ず。受は無我なり。若し此受、我なりせば、此受は病を致すこと無けん、受に於て「我は此受を用ひん、彼受を用ふまじ」といふことを得ん……想は無我なり……行は無我なり……識は無我なり。若し此識、我なりせば此識は病を致すこと無けん、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ん。然るに識は無我なるが故に識は病を致し、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ず。諸比丘よ、汝等の意に於て如何、色は常住なりや無常なりや。大徳よ、無常なり。無常なるものは苦なりや楽なりや。苦なり。苦にして変易の法あるものを観見して「此、我所なり、此我体なり」と為すことを得るや。不なり。


受……想……行……是故に所有る色の過去・未来・現在、鹿・細、劣・勝、遠・近なるは此、我所に非ず、此、我に非ず、此我体に非ずと、是の如く正慧を以て如実に観ずべし。


所有る受……想……行……識の、過去・未来・現在、内外、鹿・細、劣・勝、遠近なるは此、我所に非ず、……諸比丘よ、多聞の聖弟子、是の如く観ぜば即ち色を厭患し受……想……行……識を厭患す、厭患せば即ち離貪す、離貪せば即ち解脱す、解脱せば即ち己に解脱すといふ智生じ、生已に尽き梵行已に立し所作已に弁じ更に後有を受けずと知る。
阿含経相応部iii.66 ~ 68(仏教)


あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
法句経350 (仏教)


口は、汚れた唾液や歯垢など不浄物の容器であり、鼻は膿汁・粘液・鼻水の容器であり、眼は眼脂や涙の容器であります。腹部は糞や尿、肺や肝臓などの容器であります。愚か者は女性をこのように見ず、女性の身体に愛着しています。たとえば、無知の人が不浄物を満たした瓶(へい)の飾りに愛着するように、この世において無知の人は、迷妄のために女性に愛着します。


身体という対象は、きわめて悪臭に満ち、愛着を離れる因でありますが、世の人びとはそれさえも強く愛着しているとすると、いかなるものに対して愛着を離れることがありましょうか。たとえば、豚は糞や尿に満ちた場所や汚物に貪着(とんぢ
ゃく)していますが、それと同じように、人びとは糞や尿に満ちたところに欲望を起こし、汚物に貪着する豚のように、それに愛着しています。身体は(うじ虫の)城であり、不浄物が生じる門のようなものでありますが、それを愚か者は快楽の対象として追い求めています。あなたが自ら糞や尿などをそれぞれ不浄である、とみなすならば、それらの不浄物が集まっている身体が、どうして願わしいものとなりましょう。


血液と精液とに混じり合った不浄物の精子は、胎(はら)に宿って生長します。不浄物の本性を知りながら、いったいだれがこれ(胎)に欲望を起こして愛着するでありましょうか。湿りに濡れた覆いでつつまれ眠っている不浄物の塊りであるもの、それが女性の下腹部で眠りこけているのです。(注15)
龍樹宝行王正論149 ~ 157(仏教)


引き下がりなさい、私はあなたが嫌いです!愚か者、私のサリー(衣)をつかんではなりません!
牝牛は生命の事を煩い、畜殺者は殺す事を煩うのです!敬虔な者は高潔な事を思い、卑劣な者は邪悪な事を思うのです!私は自分の魂を思い、あなたは欲情に駆られる。……なんとみっともないこの身体!
あなたはなぜこの糞便の瓶、尿の壷、骨で出来た枠、膿の悪臭を愛して、自らを落としめるのですか! 愚か者よ、主シヴァを思いなさい!(注16)
アッカーマハーデーヴィーヴァチャナ15、30(ヒンドゥー教)




―み言選集―


この目と鼻と耳と口と手、すべて二つの道と接触しています。私のために見る目は、悪魔の目になるのであり、私のために嗅ぐ鼻は、悪魔の鼻になるのであり、私のために聞く耳は、悪魔の耳になるのです。


国を前におくか、世界を前におくか、天地を前におき、横的には世界を前におき、縦的には神様と天の国を前におき、神様の立場で「ために生きる」目をもって見なければなりません。その目は、自分の将来の出世のためのものではありません。私がこのように勉強するのは、国を生かすためであり、万民の解放のためです。「ために生きる」ことなのです。
(214-66、1991.2.1)


夜、帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て、「この目、鼻、耳、手、足、いつも問題だ」と語りながら、「お前はきょう罪になることをしなかったか」と尋ねてみるのです。そのようなことを目で見て、言葉で語り、行動し、権力で行った、そのようなことをすべて払いのけ、勧告して方向を変えられる能力がなければならないということです。
(122-266、1982.11.21)


この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。ですから、神様の目をつくり、神様の耳をつくり、神様の鼻をつくり、神様の口をつくり、神様の手足をつくり、いつでも一つになることができ、世界のために生き得る私を取り戻さなければなりません。


皆さんの中に地獄と天国の境界線があります。右側に行けば天国であり、左側に行けば地獄です。左側に行けば地獄を行ったり来たりしますか、しませんか。神様のために死のうが生きようが、み旨を中心として行こう、ということです。しかし、まだここで、一生の間このようにしている人がいます。




皆さんは、3種類の中で、どの種類に属していますか。統一教会の教会員の中には、この3種類の人がいます。皆さんはどこに属しているか分かるでしょう。絶対に分からないということはないのです。ここ(A)にいますか、ここ(B)にいますか、ここ(C)にいますか。みな「Aだ」と言うので、欲が深いです。苦労なことがあるというのです。すべて反対です。今まで見てきたことの100 パーセント反対です。


若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は、体を打ちなさいと命令をしています。


真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。
(91-286、1977.2.27)
女性たちに、どれほど誘惑が多いですか。自分の顔立ちが良ければ、「私はこの顔が嫌いだ!」と反対の態度を取らなければなりません。
(116-19、1981.12.1)


皆さんが、胸が痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
(214-285、1991.2.3)


私自体にはサタンの血が入っています。その次には、サタンの所有欲が入ってきています。その次には、自分を中心とするサタンが入ってきているのです。このようなことを見るとき、「私」という存在の中で、サタンの愛と、サタンの欲心と、サタン自体が私をまとっていると考えればよいのです。


ここにいる、このサタンを抜き出さなければなりません。サタンの血筋を抜き出し、サタンの欲望を抜き出し、自分中心的なサタンの要素を抜いでしまわなければなりません。何をもって抜き出せるのでしょうか。神様が宗教を立て、復帰摂理、救援摂理をする目的とは何かというと、これを断ち切ることなのです。
(115-42、1981.10.28)


宗教は、体が好むものを否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。


人は本来食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。また、ごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。


私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでも
よく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
(18-66、1967.5.21)


アダムはエデンの園を歩き回り、エバは木の下で泣いているとき、天使長が見てあげながら、おんぶして歩いたり、座ってひざの上に座らせたりもするのです。そのようなときに生殖器が触れるのですが、周りで動物たちが子を産むのを見ると「あのようにして子を産むのだなあ」と思うのです。それで、一度「えい」と力を入れればすべて終わります。男性と女性の生殖器が触れ合えば、
人はみな喜ぶというのです。そのようなことが起きます。堕落したときに、そのようになっていったのです。


皆さん、男性たちに女性がそのようにしていけば、じっとしていますか、「えい」としますか。最高の美しい女性が近づいてきて生殖器を触るとき、それが起きますか、起きませんか。男性たち? それが起きてはいけません。ですから、皆さんは、いくら美人を座らせても、その生殖器が起きてはいけないのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。それが蕩減です。もし美人が座ってそれを強制的に入れようとすれば、蹴飛ばして見えない所に飛ばしてしまわなければならないのです。
(285-201 ~ 202、1997.5.4)

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世界経典-64

2022年08月07日 15時09分25秒 | 学習

5.迫害

迫害の形態として人間の信念を試みるとき、少なからず犠牲が伴う。虐待、誤解、非難、嘲笑、追放、侮辱などを願う人は誰もいない。しかし、迫害は義人に影のようにつきまとう。私達が迫害によって滅びれば、迫害は何の価値もない。しかし、不平や恨みなく迫害を信念で打ち勝ち、消化した人たちは、天の高い御座に位置することができる。

切迫した迫害は、全的に自己犠牲と自己否定の境地に導くため、かえって祝福となり得る。切迫した状況は、誰も凌駕できない自己否定の境地で、自分の努力で到達できない限界を飛び越えるようになる。犠牲のあとに祝福が訪れてくるという脈絡から見れば、迫害の恵みを受ける人たちが、あとで迫害の加害者たちに対する否定的憎悪心や復讐心を捨て、かえって彼らに同情心を施せるという事実は、それほど驚くことではない。利他心は聖性を宿し、神性へと向かう。それで、迫害の時代に宗教はより一層栄えるという逆説は、歴史的事実として立証される。

文鮮明先生は、神様とサタンの間に一種の契約が存在すると言われる。サタンが無辜の義人を迫害するとき、神様は、その保障を要求する権利を確保するようになる。このような方法によって、歴史の中で善は常に先に打たれたが、結局は取り戻してくるという摂理が経綸されてきたのである。神様はこの原則を、歴史に論理的形式で適用される。神様の創造目的を具現する方法として信仰者は、迫害までも歓迎することができ、特には苦難の道を自ら主導することができなければならない。

 

―宗教経典―

私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書5.11 ~ 12(キリスト教)

戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶようにわれはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
法句経320(仏教)

なんじらは、財産や生活について必ず試みにあい、なんじら以前に経典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞くであろう。だがなんじらが耐え忍んで、主を畏れるならば、まことにそれはよろずの事を決定する要因であろう。
クルアーン3.186 (イスラーム)

陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れはてて立ち上がることもできなかった。子路が腹をたててお目みえすると、「〔修養をつんだ〕君子でも困窮することがあるのですか。」といった。先生はいわれた、「君子ももちろん困窮する、だが小人は困窮するとでたらめになるよ。」
論語15.2(儒教)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)

人びとは、「私達は信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン29.2 ~ 3(イスラーム)
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
ヨハネによる福音書15.18 ~ 20(キリスト教)

イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。
タルムード、ムナホート53b(ユダヤ教)

この高貴な道において真理を探求する者の正しい態度とは、次のようなものである。「私の民が疑いの目をもって見んことを。私の妻と子が私を見捨てんことを。人々があざけらんことを。王達が罰を与えんことを。しかし私は堅く立つ。ああ、至高の神よ、私は意と言と身体と行動をもってあなたに仕え、永久に仕えます。私はあなたの法を離れません。」
クラールナヴァ・タントラ2(ヒンドゥー教)

だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私達は、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私達は、私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙8.35 ~ 37(キリスト教)

それともなんじらは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような、試みがまだなんじらに来ないのに、至上の幸福の園にはいろうと思っているのか。かれらは災難や困窮に見舞われ、不安の中に動揺させられて、使者も、一緒にいた信者たちも「神のお助けはいつ来るだろう」と叫んだほどであった。ああ、まことに神の助けは近づいている。
クルアーン2.214 (イスラーム)

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
ルカによる福音書21.12 ~ 17(キリスト教)

比丘たち、これ、すなわち托鉢は、最低の生活である。比丘たち、これは世間では、「お前は乞食で、手に鉢を持って歩きまわっている。しかも、比丘たち、よき家の子たちは、正しい目的をもって、正しい目的によって、あえてそれに行くのである。畏れがあるからではない。
如是語経91(仏教)
仏がこの世を去られたのちに、恐ろしい悪世のさなかで、われらは広く説くでありましょう。もろもろの無智の人が悪口し、罵り、刀杖を揮ったりすることがあっても、われらは皆、忍ぶでありましょう。

悪世の中の比丘は、邪智であり、心に諂曲があり、
未だ会得してもいないものを得たと思いこみ、我執の心で充満しているであろう。……悪鬼にとり憑かれたような人が、われを罵り、そしっても、われらは仏を敬い信じている故に、忍耐の鎧を身に着けて、この経を説くために、このもろもろの難事を忍ぼう。われらは身命を愛することなく、ただ無上道のみを惜しむ。(注4)
法華経13(仏教)

主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。私は知っている。私が辱められることはないと。

私の正しさを認める方は近くいます。誰が私と共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。誰が私を訴えるのか。私に向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう。
イザヤ書50.4 ~ 9(キリスト教)

ネブカドネザル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネザル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。

伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなた達に告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネザル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネザル王の建てた金の像を拝んだ。

さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネザル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

これを聞いたネブカドネザル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちが私の神に仕えず、私の建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、私の建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ち
に燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか。」

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネザル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私達のお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私達を救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。私達は王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

ネブカドネザル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。

王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。王は言った。「だが、私には四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

ネブカドネザル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、
上着も元のままで火のにおいすらなかった。

ネブカドザル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。
ダニエル書3.1 ~ 28(キリスト教)


―み言選集―

天国は、地獄を通過していく道にある。
御旨の道、天国

迫害というものは、サタン世界の所有権を譲渡される一つの作戦的な方便です。真の宗教は、迫害を受けるときになぜ発展するのかという原則を歴史時代には分かりませんでしたが、このような原理を通して自明になるのです。

歴史時代の聖人たちの中で、イエスも迫害を受け、孔子も喪家の犬と言われながら迫害され、仏教の釈迦牟尼も迫害され、ムハンマドも迫害を受けたのです。そのような迫害されたすべての人たちが聖人になったのは、この原則において……。

歴史が、時間と時が過ぎていくに従って、自然に自分の時として来ることによって勝利するようになるのです。この原則から歴史が動いていくということを知らなければなりません。

それでは、世界的な宗教指導者として全世界がすべて、共産主義、民主主義を問わずすべてが反対したという事実は、全世界のものを神様が相続させるための作戦だという結論も妥当な理論なのです。
(189-205 ~ 206、1989.4.6)

人類歴史は、今まで闘争の歴史でしたが、その内容は、神様とサタン、善と悪がその真ん中にいる人を奪う争いでした。堕落によって悪の歴史が先に出発したために、闘いは常に悪の側が先に攻撃して善を打ったのであり、善は打たれながら守勢に追い込まれましたが、神様が善の側でいらっしゃるので、いつも勝利を収めるようになり、結局は打たれて奪ってくるようになるのです。
(88-209、1976.9.18)

神様の戦略戦術は、打たれて損害賠償を追加して取り返すことであり、サタンは打って返すのです。したがって、サタンは打って滅び、神様は打たれて繁栄していきます。その方法によって文先生は、打たれながらもサタン世界から利子まで加えて弁償されて勝利の基盤をもつようになったので、自動的に迫害の過程を通過しながら発展してきました。
(249-105、1993.10.8)

宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。
御旨の道、試験・試練

神様の作戦とサタンの作戦は、反対です。神様は打たれて奪ってくるのであり、サタンは打って奪われるのです。神様は打たれながら繁栄し、サタンは打って滅びるというのです。
(234-69、1992.8.4)

統一運動の本当の会員は、迫害と試練を受けるとき、迫害した人たちを恨むよりは、かえって彼らを霊的成長の滋養分として受け入れます。
(129-303、1983.11.25)

すべての十字架は私が責任をもち、村で石を投げられても、私が先に打たれようとし、批判されても、私が先に受けようとし、たたかれるのも、私が先にたたかれようとしなければなりません。
(96-123、1978.1.2)

人の骨でたたくからといって、真の愛が断ち切れますか。それでは、どちらが壊れますか。真の愛が壊れますか、骨が壊れますか。骨が壊れます。どんどん打ちなさい、どんどん打てばお前は消えていくということです。それでも、サタンはしきりに打ちます。真の愛は打てば打つほど、打つほうが消えていくのです。

それでは、なぜ神様は迫害するのを処置せずにそのままにしておかれるのですか。打てば打つほど、打つほうが消えていくことを御存じなのでそのままにしておかれるのです。なぜですか。完全に根絶するためです。そして、これが肥料になるのです。腐ってそれがすべて肥料になります。
(230-131、1992.5.1)

皆さんは、涙を流さなければなりません。革命の歴史を見れば、その背後に必ず血の涙がこもっています。追われ、迫害され、批判され、たたかれました。ここで話をしている先生も、そのような闘争の道を歩んできました。私の悲しみより、神様の悲しみが数千万倍もっと大きいことを知らなければなりません。人間の平面的な悲しみは、神様の立体的な悲しみと比較することはできません。
(11-227、1961.9.20)

天に感謝しながら走ってきてみますと、70 歳近い老身の時代が私の目前に近づきました。そのように血気旺盛な青春の時節に、すべての情熱を燃やし尽くし天に侍り、天のみ前に栄光を帰すべきその時をすべて忘れ、民族の背信者として、人類の反逆者として追われてきたその日から、統一教会が言葉なく打たれて奪ってくる戦法を通して、今まで耐えてくるようにしてくださったことに感謝を申し上げます。

あなたは愛であられました。あなたが鉄の窓に追い出すのは、私のために歓喜に満ちた環境の水準を準備し、福を与えるための相続的な場を下さるためであることを思うとき、過ぎてみればすべてのものが愛であり、あなたの広い厚徳のみ手でありました。それを思うとき、感謝申し上げます。
(162-334、1987.4.17)

 

6.殉教

信仰者が自身の確信と価値に危険を感じた敵対的為政者たちに出会ったとき、彼らの中の何人かは、むごたらしい代価を支払わなければならないかもしれない。文鮮明先生は、霊的な現象から見れば、善が栄えるときには、いつもサタンがその代価を請求すると言われる。それで、多くの場合、最も善の人たちが先に犠牲になるのを見ることができる。

「殉教」という単語の意味は「証」である。殉教者たちは、死に直面しながらも、揺るがない姿で自分の信念を証し、その信念を鼓舞させた神様を証する。自分よりも神様に先に仕える殉教者の人生は、強力で励みになる。したがって、殉教は、信仰共同体を強化させ、その根を強固にし、成長を図る。テルトゥリアヌスの有名な言葉がある。「殉教者の血は教会の種」。

今日、ある人々は、イスラームの自爆テロ犯のように無謀な人の命を無残に奪っていく無法者たちまでも殉教者として扱っている。それが殉教であれば、恐らく最も低級な水準の殉教であろう。最高の殉教とは、イエス様が自らを十字架に打ちつけたローマ兵たちまでも祝福してくださったように、至善と慈悲の基礎の上に顕示されるものである。

 

―宗教経典―

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
マタイによる福音書24.9 (キリスト教)

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
詩編116.15 (キリスト教)

実に天国の門は、剣の影の下にある。(注5)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

神の道のために殺害された者を、死んだと考えてはならぬ。いや、かれらは主のみもとで扶養されて、生きている。かれらは神のお恵みにより、賜わったものに満悦し、かれらのあとに残された、一緒でなかった者たちのために、恐れもなく憂いもないと、考えてよろこんでいる。神のお恵みと恩典をよろこび、また神が信者への報奨を、決してむなしゅうしたまわぬことをよろこんでいる。
クルアーン3.169 ~ 171 (イスラーム)
大義名分に身命を捧げる義なる者たちの死は聖なるものである。彼らこそ英雄と呼ぶことができる。神国の正門で真の栄光を得るため、彼らは栄光と共に旅立つ。すべての苦痛から抜け出す。もし彼らがあの唯一者、主に祈れば、このような褒美をもらい、すべての恐れを退ける。

自らの苦痛を叫ぶことなく、ただ心の中で静める彼ら、主は彼らのすべてのことを一つ一つくみ取り、ご存じである。大義名分を求め身命を捧げる義なる者たちの死は、実に聖なるものである。
アーディ・グラント、ヴァダハンス、アルジャン・ダージ、M.1p.579(シーク教)

ラビ・アキバが処刑され、息をひきとるときはシェマを暗唱する時間だった。人々は鉄のくしでアキバの体にくしを入れてあげ、アキバは(シェマを暗唱することによって)自ら天の国の王権を受け入れていた。弟子たちが彼に尋ねた。

「師よ、この瞬間までも唱えなければなりませんか」。アキバが彼らに言った。「一日中私は『あなたは心を尽くし』(申命記6.5)という言葉をもって苦心した。私はこの言葉を『たとえ神が私の霊を取るとしても』と解釈する。この言葉を私が成就するときはいつか。今この言葉を成就できる機会が私に訪れたのではないか」。アキバは息をひき取るまで(祈りの文の)最後の言葉を長く伸ばして祈った。(注6)
タルムード、ブラホート61b(ユダヤ教)

求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経14(仏教)

ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「私達は、あの男がモーセと神を冒pする言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。

「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私達は、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。……人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。

証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている
間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
使徒言行録6.8 ~ 7.2、7.54 ~ 60(キリスト教)

この書と『モルモン書』の証を確実なものとするために、私達は、預言者ジョセフ・スミスと祝福師ハイラム・スミスの殉教を発表する。彼らは、1844 年6月27 日午後5 時ごろ、カーセージの監獄において、150 名から200名の、顔を黒く塗り武装した暴徒により銃撃された。ハイラムが最初に撃たれ、「私は死ぬ」と叫んで静かに倒れた。ジョセフは窓から飛び降りたが、その途中で撃たれ、「おお、私の神、主よ」と叫んで死んだ。彼ら二人は死んだ後も残酷に銃撃され、両者とも四個の弾丸を受けた。
教義と聖約135.1(末日聖徒イエス・キリスト教会)

肉身の生命の代価を払ってでも、私達の白人の兄弟姉妹を永遠の霊の死から解放させることができるのならば、これほどの贖罪はないだろう。(注7)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)


―み言選集―

偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私達は、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。
(271-72、1995.8.21)

歴史を通して宗教は、犠牲の価値を教訓として教えてきましたが、それは結局、神様の前に行くようにするためのものでした。神様の前に行く道には数千段階があるのですが、各段階で神様は勝利を収め、サタンは敗北するようになります。しかし、サタンは最高の犠牲の代価を要求するのです。サタンは敗北することを好みません。ですから、キリスト教史において、大勢の殉教者が出るようになったのです。

キリスト教がどの宗教より多くの殉教者を輩出したことは、キリスト教が摂理の中心宗教だからです。殉教は人間たちの目に挫折や失敗に見えますが、神様には勝利でした。これが正に、キリスト教が反対と迫害を受けながらも勝利し続けた理由です。サタンは敗北する代価として、常に大きな犠牲を要求しているのです。
(130-283、1984.2.7)

今日のキリスト教では、殉教の歴史を誇っています。いつ、どの地域を問わず、キリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流し、宣教の基盤を築いてきたことを私達は知っています。しかし、私達は、個人、家庭、あるいは団体が無残に犠牲になったということばかり考えてはいけません。彼らの悲惨さよりも、彼らを導いてこられた神様が悲惨な道を歩んでこられた事実を知らなければなりません。
(13-220 ~ 221、1964.3.22)

皆さんは、「私はいつ負けるのか。私という人間はいつ敗れていくのか」と考えてみたことがありますか。そこで私の手の節々が切られても、切られて死んでも、銃で撃たれて一度に死んでも、そうすればそれが可能です。私の生涯はそれだった、私のすべてはそれだった、死ぬのもそれによって、生きるのもそれによって……。そのような人は、死と生を超越した人だというのです。死と生を超越した方が神様なので、その人は神様の友人になります。
(66-317、1973.5.17)

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛に耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。

「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。(9-166、1960.5.8)
キリスト教を通して数千年の歴史の中で大勢の殉教者が出たように、それを覚悟して死んで生きようという中で、「天のために命を捧げ、万民と共に解放の基台を築いて死にます」という、そこから基盤ができるのです。家庭にとって重要な人、氏族にとって重要な人が、死んだ千万の人より、天が私達の約束を整えるようになるとき、生きるというのです。それが重要な問題です。そのような基盤が残るようになるとき、その基盤を後代の人が踏んで上がっていくのです。
(218-236、1991.8.19)

ですから、イエスのような方は、そのような道で追いに追われ、自分の民族に追われるだけでなく、ローマ帝国に追われて死んでいきながらも、怨讐がイスラエルでありローマであるにもかかわらず、この怨讐を恨むのではなく、愛しなさいと教えたのです。ローマは、きょうの怨讐ですが、あすには自分たちの子孫を通してローマに与えなければならない福があるからです。その福は、ローマを救って余りある愛の福なので、彼らが願うようになるこの福を与えたいと思う心が先立ったイエスの心には、未来のローマを考え、赦し、福を与え
ざるを得なかったという、驚くべき事実を知らなければなりません。
(101-151、1978.10.29)

天国に行こうと殉教する人は、地獄に行くのです。「私がこのようにすれば天国に行く」と考える人は、地獄に行くというのです。しかし、自分は地獄に行っても世界の人を天国に送らなければならないと考える人は、「天国には行かない」と思っても天国に行くようになっています。
(39-197、1971.1.10)


第18章 謙遜と自己否定

1.謙遜

謙遜な姿勢は、天と親しく交わるための必須要件である。どんな理由でも、卓越した知性、富、高い地位、そして称賛などによる慢心は、求道者の道を遮る障害物になるだけである。真の謙遜は、絶えず自身を否定することだ。これは自分を批判して、不平なく苦難を勝ち抜き、自身の立場と違っても天の導きに従う姿勢である。

謙遜は、真実と正直を要求する。それで謙遜な人を子供に比喩したりもする。子供の純粋な反応と人生の受容態度は、しばしば仮面をかぶり、怨恨と偏見で生きていく複雑な大人たちの性質とは、反対である。ある経典には、一つの息遣い、ひとつかみの土、虫の餌にすぎない人間がどれほど脆弱で無常な存在かを深く瞑想し、特に謙遜、美徳を養え、と教えている。


ここにまた、異なる逆説がある。謙遜で低くなろうとする者が驕慢で高くあろうとする者より、さらに尊敬を受けて繁栄するということだ。サタンのあらゆる攻撃を受けたが、結局、謙遜で低い場で勝利したイエス様の事例がそれである。善と悪の関係は、謙遜と緩慢の関係と同じだ。文鮮明先生は、謙遜はエデンの園の生活の原則であり、神様と一致する徳性であり、反面、驕慢はサタンの陣営に定着させるものだと言われる。文先生はまた、他の引用章句――上りと下りの自然循環過程――を例示して、驕慢で頂上に上れば下り坂しかないが、謙遜で下に下りていけば登り坂の道しかないと言われる。

 

①温柔な者は福がある

―宗教経典―

信者たちは、確かに勝利をかちとる。かれらは、礼拝に敬謙なものであり、むなしいあらゆることを避る者、慈善「ザカート」のために励む者、恥ずかしいところを守る者、
クルアーン23.1 ~ 5(イスラーム)

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書5.5 (キリスト教)

もしあなたが助けを得ようと思えば自尊心を捨てよ。髪の毛一本ほどの自尊心でもあなたを遮る、ちょうど大きな雨雲に覆われるように。
春日神社の神託(神道)

「人に対して高慢におまえの頬をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)

これらはすべて,私の手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。私が顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人。
イザヤ書66.2(キリスト教)

今のこの流浪の時には、聖殿崩壊前よりも聖霊が私達をよく訪ねてこられる。ある一人の王がいた。彼は権力の座から追われ放浪者として追い出された。流浪してさまよい、彼はある貧しい者の家に行った。そこで王は平民たちの食べ物と居所を提供された。しかし、その接待は依然として王の立場で受けたものだった。

徐々に彼は心が軽くなり、朝廷で家臣たちと談笑するように、家の主人と親しく対話をするようになった。今私達のように流浪される神も、私達に彼と同じようにしていらっしゃる。(注1)
メジリッチのドーヴ・ベーア(ユダヤ教)

慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制。感官の対象に対する離欲。我執のないこと。生老病死の害悪を考察すること。
バガヴァッド・ギーター13.7 ~ 8(ヒンドゥー教)

すべての人類はアダムの子孫であり、アダムは土から創造された。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)

この上なく哀れな霊魂をもつ者の最後は、虫けらと同じような境遇になる。
ミシュナ、アヴォート4.4(ユダヤ教)

主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。
人間は息にも似たもの。彼の日々は消え去る影。
詩編144.3 ~ 4(キリスト教)
次の三つを振り返ってみよ、そうすれば罪を犯すことはないだろう。あなたがどごから来て、どこに向かっているのか、未来において誰の前で審判を受けるのか、このことである。お前は過去に悪臭の漂う雨水から来たのであり、今は虫けらやうじがわく所に向かっていて、未来には王の王、聖なる方の前で審判を受けるのである。
ミシュナ、アヴォート3.1 (ユダヤ教)

預言者が言った。「天国の居住者たちがどれほど謙遜で柔和かを、私はあなた達に教えなかったか。彼らが信仰を誓うとき、神が彼らの誓いを受け入れる。地獄の居住者たちがどれほど残忍で力が強く、傲慢な者かということを、私はあなた達に教えなかったか」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

神は謙虚な人たちを保護され、解放してくださる。神が愛し慰労してくださる人たちも彼らである。彼らに神は御自身の栄光を与えてくださる。困窮があったあとには栄光の上に引き上げてくださるだろう。また彼らに御自身の秘密を表され、親切に彼らを御自身のところに導かれる。謙虚な人たちは、多くの苦難の中でも平和を享受する人たちだ。この人たちには、世の中ではなく、神に対する信仰があるからである。したがって、自分が不足な存在であることを悟るまでは、何の発展も成し遂げたと言うことはできない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて1.2(キリスト教)

 

―み言選集―

神様の愛は、このような温柔、謙遜、断食、犠牲、殉教の土台の上に臨むのです。
(282-228、1997.3.26)

高次的な宗教であるほど、自らを強調しません。高次的な宗教であるほど、温柔、謙遜を強調するのです。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。それは、なぜそのようにしなければならないのですか。本郷の地の法則がそうだからです。人間は本郷の地を求めていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らすその法度に適合するように訓練させるため、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと、このような教訓を教えるのです。
(77-190、1975.4.6)

サタンの本質は、驕慢と血気です。このような性質で世の中の人々に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で、世の中の人々の前に現れたのです。また、厳然と天理法度があることを知っているサタンなので、最後にはイエス・キリストを認めるようになりました。いわば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然に屈服するというのです。

このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように、温柔と謙遜の立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様のもとに行ける新しい道を開拓できることを、皆さんは知らなければなりません。

皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。
(3-187、1957.10.27)

天の国の生命録を1度点検してみると、どのような人が記録されているのかというと、愚かな人たちが記録されていたというのです。
(107-21、1980.2.21)
本来、エデンの園は、争いのある世界ではありません。争って自分を高める世界ではなく、謙遜と愛の宿る世界でした。
(98-31、1978.4.8)

個人主義がどこにありますか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が父母様の愛によって、お母さんのおなかの中、卵子から育って生まれる時、99.999 パーセントはお母さんの骨と血、肉なのです。そして、0.001 パーセントお父さんの精子一つが合わさって生まれるのです。そこには、自分という概念はあり得ないのです。生まれる時は誰でも、自分だけという概念はなかったのです。
(299-119、1999.2.7)

堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず、驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには義理もなく、法度もありません。

法度に従って法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人だと言います。正直とは、正しいの「正」とまっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだ、ということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法で分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することをくじいておかなければなりません。驕慢を除去して、謙遜をもたなければならないのです。
(37-129、1970.12.23)

高いところに上がっていっては、心と体が一つになれる道はありません。踏まれなければなりません。先生も高くならないように、神様が今まで40 年間足で踏み続けてきたのです。踏み続けるので、高まろうとするものが打ちのめされて、一つになるのです。三千里半島を歩き回ったあの昔のキム・サッカのように、非難され、踏まれ、冷遇されながら歩まなければならないのです。そうしながらも、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。
(144-255、1986.4.25)

私は、一度も福を下さいと祈祷したことがありません。「神様、私にお金を下さい」、そのように祈りませんでした。苦労が足りないと、もっと苦労しなければならないと考えたのです。ですから、神様がそれを喜ぶのです。
(102-314、1979.1.21)


②幼子のように純真で謙遜な心

―宗教経典―

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(注2)
マタイによる福音書18.1 ~ 3(キリスト教)

生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書3.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)

孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子1V,B.12 (儒教)

世の中に太かるべきは宮はしら細かるべきは心なりけり
荒木田守武世中百首(神道)


―み言選集―

この世界で神様が役事するとき、どのような人を選ぶでしょうか。優秀な人たちは世界を動かそうという欲心をもち、世界を中心としてひっきりなしに飛び回っているにもかかわらず、彼らを選びませんでした。愚かな人、一番の落伍者を選ぶのです。上ではなく、下だというのです。下も一番下です。それしか道がないのです。
(102-300 ~ 301、1979.1.21)

イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ11・25)と言われたのは、当時のユダヤ教会の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。

そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教会においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教会の実情である。

あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。
原理講論、再臨論3.3.4

この世に染まった一切の意識や主義や観念を、お父様のみ前に差し出し、幼子のような心、温柔で謙遜なる心をもつようにしてください。お父様がお造りになったとおりに、再び造られ得る謙遜なる心を備え、お父様のみ前に捧げようと思いますので、お受け取りください。三位神が運行してください。
(7-12、1959.7.5)

お父様!ここに集まったあなたの子女たちを、重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきた、この者たちが、その事情を全部打ち明ければ、お父様が動じずにいられないことを、知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子が、お母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、
お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)

 

③自分は低い位置に、人は高い位置に

―宗教経典―

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ピリピの信徒への手紙2.3 ~ 4(キリスト教)

自ら善だと言う者は誰もが知るべし、善があなたを避けていくことを。自らすべての人の足の指のあかにも劣ると考える人は、ナナークが言うには、実に清浄なるものを得るだろう。
アーデイ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)

先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」
論語14.32 (儒教)

二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカによる福音書18.10 ~ 14(キリスト教)

自分を見せびらかさないから、おのずからはっきりと見られ、自分を主張しないから、きわだって見える。信用を求めないから、信用をうけ、うぬぼれないから、最高のものとなる。争うことをしないから、天下の人で争えるものはない。
「曲がっているものは完全に残る」という昔のことばは真実で、実際、人は完全でいることができるのである。
道徳経22(道教)

積極的なことを知りつつ、消極的なところにとどまるのは、天下の深い谷間のようなものである。天下の深い谷間であれば、本当の「徳」は離れることがなく、赤子のままおかれる。白を知りつつ、黒にとどまるのは、天下の模範となる。天下の模範であれば、十分に変わることのない「徳」は原初の非区別の状態にとどまる。原初の非区別が区別されるとき、ものごとが生み出される。賢人が原初の区別を使えば、人々の指導者となる。だから、偉大な統治をするものは非区別である。
(注3)
道徳経28(道教)

北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。……

蜩(ひぐらし)と小鳩とは、この大鵬のありさまを見て、あざわらっていう。「われわれは勢いよく飛びたち、楡(にれ)や枋(まゆみ)の木をめがけて突進しても、とぎにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」……

ここにこそ、小さいものと、大きいものとの分かれめがある。だから、せいぜい一官職を修める知能しかもちあわせず、たかだか一地方の人びとに親しまれる程度の行ないしかなく、わずかひとりの君主に認められる程度の徳をそなえて、一国の臣下として召されるようなものが、得得としてうぬぼれているのは、この斥3掾iうずら)にも似たものであろう。荘子1(道教)
―み言選集―

善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないためである。悪が過ぎたあとに現れるのである。
御旨の道、善と悪

自分が低いところにいて、すべてを高いところに置こうとすれば、引っ掛かるところがありません。
(230-35、1992.4.15)

人間が傲慢になって自分自身を高い位置に置いたとき、悪が出発しました。傲慢の反対は謙遜です。謙遜になることが最初の問題です。私達は、サタンが喜ぶ立場と反対の立場に立たなければなりません。そうでなければ、私達は何の成功もできません。傲慢になる代わりに、私達は私達自身を犠牲の位置に立て、私達の生命までも犠牲にしながら活動しなければなりません。
(52-302、1972.1.9)


自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が100 パーセント認め得るものだとしても、神様が見るときは1です。自分が100 と認めるものが、神様には1なのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。

天国は、どこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。


このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。

そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)

神様をしっかりつかみ、神様の協助を受けて誇ろうというのならよいのです。それは、神様を前に立てるごとです。そのようにせず、「私が誇ろう」というのは、神様の前にすべて壊れていくのです。
(341-11、2000.12.29)
神様は、どのような方ですか。「あなた達は私を愛しなさい! 私のために犠牲になりなさい!」という神様ならば、どうなりますか。それは神様ではありません。神様が皆さんを通して伝統を立てるためには、御自身がまず赤ん坊のおしめを取り替え、父母の下の世話をして、先に犠牲と奉仕をしながら温柔、謙遜の教育教材になり、センターにならなければなりません。
(116-68、1981.12.20)

すべての生涯を犠牲にしたとしても、そこで不足なことを悟り、もっとやらなければならないと自ら自分を責め立てながら「行こう」という人たちが、結局、最後まで残るというのです。

み旨に背いて離れていった人と、その次には中間的な立場、今も世の中と隔離されず、そのまま世の中の人と同じように中間の立場でふらふらする人と、その次には、み旨のために生きるという立場で、自分を中心として少しでもやれば、それを誇ろうとする人と、その次には、あらゆることをみ旨の立場で行い、自分自身を顧みず、自分を犠牲にしながらも不足なことを感じる人、このような4種類の人を見るとき、残る人は最後の人です。
(89-232、1976.12.1)

アメリカがどうなのか分かりますか。そのようなアメリカ国民の前に、皆さんが西側にいれば東側が必要であり、南側にいれば北側が必要だということをどのように教えてあげるのですか。それは、統一教会のレバレンド・ムーンが教えなければなりません。それで、レバレンド・ムーンが何をしようというのですか。

アメリカという国は、歴史的結果として出てきたものなので、歴史的原因に接触できる道を求めるために戻らなければなりません。ここまで行かな
ければならないのです。神様を再発見しなければならないというとです。

それでは、この西側でアメリカが一番大きいのですが、この大きなアメリカがもっと大きくなりながら戻りますか、小さくなりながら戻りますか。これが問題です。小さくなりながら戻らなければなりません。驕慢な人は、なぜ謙遜を学ばなければならないのですか。原因に戻るためです。あまりに謙遜すぎてもいけません。自身を主張しなければなりません。謙遜ばかりしていても駄目なのです。強く前進しなさい! それが何ですか。結果に向かっていきなさいということです。これが上がっていけば下りていかなければならず、下りていけば上がっていかなければなりません。これを上がっていこうとすれば、高くならなければならないのです。高くなってこそ、上がっていくというのです。
(117-93、1982.2.14)


2.ほかの頬まで差し出しなさい

イエス様は、片方の頬を打たれたら、もう片方も向けてあげなさいとおっしゃる。これは、侮辱と非難を何の不平もなく耐え抜いて、復讐心までぬぐい去りなさいという教えだ。死までも甘受しなさいという無抵抗の教えは、自己主管において途方もない意味を帯びている。

悪党に同じ方法で応じるとき、悪党は、また私達を攻撃して支配することもできる。攻撃者に対する憎悪心は、ただ被害者の復讐心ばかりを増幅させるだけだ。そのようにすれば、霊的エネルギーと自分の均衡を喪失してしまう。

しかし、反対者の侮辱と非難に対して自身の好意をひたすら返して精神を集中すれば、怨讐の憎悪心も消化して、霊的独立心と主体性を固守することができる。侮辱を受けても、自身の霊的主体性を固守する時、初めて怨讐まで愛せる霊的エネルギーが噴出するのだ。

ある人たちは、どのように非抵抗の倫理が正義と和解できるのかに対して、疑問を提起する。世界経典では、神様は、もう片方の頬まで向ける群れのほうに立てと明示する。

文鮮明先生は、イエス様の十字架の代償を例に挙げ、最も残忍な苦難と死に処した一人の人の屈服が、どうして歴史上、途方もない勝利をもたらすことができたのかについて語られる。それとともに神様は、やはり数多くの侮辱に遭う時、もう片方の頬までお向けになる方だといわれる。

人間の場合と少しも違わない。神様は、いかなる屈辱に直面しても自身の絶対性を堅持して、自身を裏切った天使長まで愛する方だ。神様も普遍的正義を追求される。しかし、その方法は、ひたすら真の愛の原則を通してサタンを自然屈服させるのだ。

 

―宗教経典―

あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(注4)
マタイによる福音書5.38 ~ 41(キリスト教)

たとえあなたを殴る者でも、仕返ししようとしてはならない。ただ彼の足に接吻せよ。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p,1378(シーク教)

復讐する心で人を侮辱するよりは、侮辱される人、何の口答えもせず非難を聞く人、主の愛の力で善のことを行い、苦難の中でも喜びをもつ人は……「自らの力で世を照らす太陽」のようである。
タルムード、ヨーマ23a (ユダヤ教)
比丘たちよ、他の人たちが私を誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなた達がそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなた達の障害となるであろう。
阿含経長部i.3、梵網経(仏教)

傷つけることも、仕返しすることも、あってはならない。
ナワウィー40 のハディース32(イスラーム)

勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経201 (仏教)

罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
法句経399 (仏教)


神より自分が聞いた侮辱によく耐える者はいない。
プハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペテロの手紙二3.9 (キリスト教)

比丘たちよ、もしも卑しい盗賊たちが両側に柄のある鋸で手足を切断しようとするとき、それについて心を怒らすならば、かれはそのことにより、わが教えの実践者になりません。比丘たちよ、それについてまた、次のように学ぶべきです。

〈われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また、一切の世界をその対象として、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう〉と。

比丘たちよ、そなたたちはこの〈鋸の譬〉の教誡をつねに心に置くべきです。比丘たちよ、そなたたちは、そなたたちが耐えることのできない、微細な、あるいは粗大な言葉の道を見ていますか。
阿含経中部i.129 (仏教)

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(注5)
ローマの信徒への手紙12.19 ~ 20(キリスト教)

釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗(そし)ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らさなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自(おのず)からに、自(みず)からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経6(仏教)

私達を最も苦しめる彼らに、このように言いたいと思います。「あなたに苦痛を加える能力があるなら、私達は彼と対等な忍耐の能力で立ち向かいます。肉的な力で追い込んでくれば、霊的な力で立ち向かいます。願うとおりにしてください。しかし、私達はいつでもあなたを愛するでしょう。……監獄に送っても、変わることなく愛します。真夜中に、村に覆面を被った強盗を送リ、私達を半死状態にしていったとしても、変わらずにあなたを愛します。……あなたの心と良心に訴え、結局は私達が勝利するでしょう。そうすれば、その勝利は2倍の価値をもつ勝利になることでしょう」。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア愛の力(キリスト教)
―み言選集―

幼い二人の少年がけんかするのを見ると、怒りを抑え、一発で片付けてしまいたいと思っても、そのような気分をすべて包容する心で思いとどまる側がいます。きょうで終わるのではなく、あすは友人になり得ることを知っているので、譲歩してあげます。そのようにしたとき、神様やあるいは横にいる人が、誰がより善かを判断するとき、寛容で赦し、包容した人が善の人だと言うのです。
(100-84、1978.10.8)

過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中に、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように、歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の部類に入れません。イエス様は、歴史とともにそのような非難を受けて恨を抱きましたが、口を閉じたまま黙って逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と戦わなかったからです。
(80-34、1975.10.4)
イエス様が、「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言ったのは、完全に与えるためには右の頬を打たれながら左の頬まで向けなさいということです。そのようにするときに戻ってくるでのです。完全に与えれば、戻ってきます。天理の原則がそうです。イエス様が十字架上でまでも福を祈って死んでいくことができたのも、完全に投入し、完全に与えていこうという思いがあったからです。怨讐の国までも振り返らせることができると知っていたからです。その結果、あとでローマ帝国までキリスト教の王国になりました。方向を歴史的にひっくり返しておくことができなければ、神様のみ旨は成し遂げられません。
(69-88、1973.10.20)

打って3回勝利した人でも、10 回譲歩する人には屈服してしまいます。イエス様もそのような道理を守ってきたのです。今日の世の中でもそうではないですか。善の人は自分を犠牲にしようとします。拳をよく使う人が善の人ではありません。たたかれても愛で受け入れようとし、そのまま通り過ぎて、その家庭までも犠牲にする人が善の人です。

それはなぜでしょうか。神様がそうだからです。宇宙の中心となるその方がそのようにしていくことによって、善の標準がそのようになったのです。そのような道を通して善の世界に行くので、その道に従っていく宗教者たちは、宗教自体、信じる人自体を犠牲にしなければならず、宗教団体を犠牲にしなければなりません。
(101-69、1978.10.28)

皆さんは、このような祈祷をしてはいけません。「ああ、神様よ、先祖よ、私に反対する人の首をひねって、反対できないようにしてください」、このような祈祷はするなというのです。それよりは、かわいそうな人を救ってあげますと祈祷しなければなりません。皆さんは、福を祈ってあげなければなりません。

なぜそのようにしなければならないのですか。常にカインとアベルが一つになる立場を取るために、そのようにしなければならないのです。そこで常に一つになる立場を取れば、私が滅びることはないので……。(注6)

この世的に見れば、ニューヨーク・タイムズが私の怨讐であり、ワシントン・ポストが私の怨讐ですが、新聞に出すものがあれば、ニューヨーク・タイムズに出してあげ、ワシントン・ポストに出してあげなさいと言います。それは不思議でしょう? 私は常に完成したアベルの位置に立とうというのです。勝利したアベルの位置に立とうというのです。私達には怨讐がいません。ですから、批判されながらも、ぐっとこらえていこうというのです。神様がすべて解決してくださいます。
(89-114、1976.10.4)

サタンが神様に「神様! 最初に私を天使長として立てられたときには一時的な愛で立てられましたか、あるいは永遠の愛のために立てられましたか」と質問したとすれば、神様はどのように答えられるでしょうか。考えてみてください。

神様は、永遠に愛するために立てたと答えられるでしょう。一時的な愛で立てたと言えば、一時的な神様になります。永遠に愛するという基準をもたなければ、いつかはサタンの前に神様の権限を行使できなくなるのです。したがって神様は、サタンがいくら反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ません。

それで神様は、悪に対して「無抵抗主義者」です。それは何のためですか。神様はこの地球上に天国理想の世界を成就するときまで、どのような環境の中でも、堕落してサタンとなった天使長を愛さなければならないのです。
(316-79、2000.2.10)

神様は、すぐにでも、サタンや人間をすべて掃き捨てられます。そのようにすれば、神様はどのようになりますか。神様の全能性が崩れていくのです。そのようになれば、サタンが神様に対して、「あなたは全能の方ではないですか。このような罪のために崩れていく神様ですか」と嘲弄します。
ですから、神様は侵犯を受けないために、サタンが矢を放つようになれば、神様はいつも退いていくのです。全能であられる神様は、そのようにせざるを得ないのです。あなたが力を尽くし、あなたがあらゆることをしたとしても、結局は、私がつくった版図圏内を抜け出すことはできないという立場に立てなければなりません。呆然とする場面であり、赦し難く、耐え難い場面ですが、耐えなければなりません。耐えられなくても、耐えなければならないのです。

したがって、そこに神様の権威が生じ、神様らしい立場、神様の全能性が生じるのです。神様が関知しないといって、1度ひっくり返したならどうなるでしょうか。そうすれば、宇宙はすべてなくなります。また、神様の創造の遺業もすべて……。神は、二度と考え直してはいけない、そのような悲惨な神様になってしまうのです。そのようなことを私達は考えられなければなりません。

ですから、皆さんは忍耐がどれほど貴いか分かったでしょう。忍耐がどれほど貴いですか。このように考えてみれば、忍耐は再出発の動機であり、再創造の動機になり得ることを発見するでしょう。耐えることによって、それを赦してあげられるのです。そのようになれば、私はいつでもそれを占領できます。
(76-219 ~ 220、1975.3.2)

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コメント

世界経典-63

2022年08月07日 15時06分48秒 | 学習

 

②絶対従順の追求:私の志と神様のみ旨の一致

―宗教経典―

なんじら信仰する者よ、神に己れの義務を果たして、かれに近づくよう念願し、かれの道のために奮闘努力せよ、なんじらはおそらく成功するであろう。
クルアーン5.35 (イスラーム)

君子はみずからも端正にその地位を保ち天命を成就することにつとめる。
易経50、周易下経、鼎(儒教)

神の御意志をあなたの意志とせよ。神があなたの意志を御自身の意思として受け入れてくださる。
神の御意志の前であなたの意志をすべて捨てよ。
神が他の人々の意志をあなたの意志の前ですべて空にしてくださる。
ミシュナ、アヴォート2.4 (ユダヤ教)


報いを願って仕える僕になるな。何の期待もなく仕える僕になれ。そして、天への畏敬が常にあなたと共にあるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート1.3(ユダヤ教)

われがみ使いをつかわしたのは、ただ神の許しのもとに、すなおに帰依させるためである。もしかれらが間違ったときなんじに来て、神の寛容を願い、み使いが、かれらのためにお許しを祈るならば、かれらは神が、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられることをさとるであろう。

だがそうではないのだ、主によっていう、かれらの間の紛争についてなんじの裁判を仰ぎ、なんじの判決したことに、かれら自身不満を感ぜず、心から納得して信服するまでは、けっして信じないであろう。

たとえわれがかれらに「身命をささげよ」、または「家から出て行け」と命じても、かれらのうち少数の者のほかは、そうしなかったであろう。もしかれが勧められるように行なったならば、きっとかれらに最もためになり、ずっと信仰を強めたであろうに、そのときは、わがもとから必ず偉大な報奨を授け、われは置き道に、かれらを必ず導くのである。(注1)

神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち・誠実者たち・殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.64 ~ 69(イスラーム)

私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハネによる福音書6.38 (キリスト教)

父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。
ルカによる福音書22.42 (キリスト教)


一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ローマの信徒への手紙5.19 (キリスト教)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 8(キリスト教)

 

―み言選集―

服従には、主体の前に対象が自分だという概念がありません。従順と違います。従順にする立場には自分という概念があります。従順にする立場には自分という概念がありますが、服従するところには自分という概念がありません。
(271-118、1995.8.23)

従順は誰でもすることができ、しなければならないことですが、服従は誰でもできるものではありません。しかし、ただ服従を通して蕩減が成し遂げられるのです。
(18-188、1967.6.7)

完全な主体は、完全な対象をつくることができます。これは原理が教えることです。神様と同じ主体の立場で世界を再創造しなければなりません。これが私達の使命です。私達が堕落した世の中を越えていかなければ、神様に連結されないのです。これからは、優れた人であれ劣った人であれ、絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。一方通行です。戻っていく必要がありません。神様のものとして、私達のものとして、天の国のものとして勝利するのです。

今まで苦労して価値的基準を備えても、すべて蕩減の涙で洗い流してしまいましたが、これからは皆さんがこの立場で成したすべてのことは、蕩減ではありません。祝福の基台として、皆さんの子孫の前に連結されることを知らなければなりません。(268-302、1995.4.3)

皆さんは、自分のすべてのものを捨てることができる人にならなければなりません。皆さん一人を天に屈服させ、服従させ、誰よりも先に天を身代わりしてサタンの矢を受けることができる人にならなければなりません。サタンとの闘いに誰よりも先に立ち上がる人にならなければならないのです。また、人間に対してもそうでなければならず、神様のみ旨に対してもそうでなければならず、物質に対しても同じように、先に自分を犠牲にしようと立ち上がる人にならなければなりません。
(3-204、1957.11.1)
イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は、応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は、応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちに、このような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を防ぐためのものです。

サタン世界は、人に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様は、その反対の立場を取りました。このように、イエス様が代表してサタンのできない生活をされたのです。すなわち温柔謙遜で、従順に服従し、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもそのような面では屈服しなければなりませんでした。皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族だということを悟らなければなりません。
(3-188 ~ 189、1957.10.27)

神様は、長い歴史時代を通して、責任分担を知らない人間たちが「責任分担を果たした」と言えるようにするための政策を繰り広げてこられたのです。ですから、絶対服従しなければなりません。責任分担を完成することができなかったのは、神様のみ言に絶対服従できなかったからです。

したがって、第1の条件とは何でしょうか。責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言に絶対服
従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。したがって、復帰の道を求めていく人たちは、神様のみ言に絶対服従しなければなりません。適当に服従するのではありません。自分の生命を否定してでも私は行けると言わなければなりません。サタン世界の頂上を走って越えていかなければならないのです。それで、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。娘や息子、妻、その誰よりも私を愛さなければ私にふさわしくないと言ったのです。
(139-255 ~ 256、1986.1.31)
3.自己犠牲

自己犠牲とは、神様に仕え、神様のみ旨を具現するにおいて自分のすべてのもの――体、心、霊魂――を献身することである。迫害時期の自己犠牲は、文字どおり殉教者として自分の一生を放棄することである。比較的安定時期の自己犠牲は、「生きた祭物」として自分のあらゆる行動を神様の創造目的の具現に捧げることである。

イエス様は、自分の生命を十字架に献祭する自己犠牲の典型的モデルだったのであり、弟子たちに「自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」という同一の戒めを遵守することを教示した。個人単位で私達各自は、自分の十字架――場合によって様々な十字架――を背負っている。

宗教は、私達に犠牲と服従の姿勢で自分の責任を遂行することを要求する。文鮮明先生は、歴史上のあらゆる聖人たちがそうしたように、公的な十字架を背負って全生涯を投与しながら、人類救援のために世の中の悪と対峙していらっしゃる。これが正に高貴な人生、すなわち絶対自己犠牲の人生であろう。

 

①自分を生きた祭物として捧げる

―宗教経典―

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙12.1 (キリスト教)

ゼラスシュトラなるわたくしめは、供物として、自身の寿命さえも、マズダーにささげます。また善思の精華と善行のそれと、善語のそれのみか、懾服と権勢をも、天則に則ってささげます。
アヴェスター・ヤスナ33.14 (ゾロアスター教)

私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2.19 ~ 20(キリスト教)

おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)

祭祀はまさに人間である。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3.16.1(ヒンドゥー教)

幣にならましものをすべ神の御手に取られてなづさはましをなづさはましを、(幣になれたらよいのになあ。尊い神の御手に取り持たれて、できたら馴れまつわりつきたいものだ、馴れまつわりつきたいものだ)
神楽歌、幣(みてぐら)(神道)


―み言選集―

人間は、神様の前に生きた祭物の立場になり、天のお父様の内的心情を表すことのできる善の結実体にならなければなりません。
(2-78、1957.3.3)

祭物とは、所有観念があってはいけません。自分の目的ばかりを見つめて動いていくのではなく、全体的な使命のために、民族なら民族を身代わりして犠牲の立場に出ていくことが祭物なのです。ですから、祭物は、自分の私的な目的を立てていくのではなく、公的な目的を立てていかなければなりません。そして、悪を退治し、善の理念を立てるにおいて一つの足場となり、土台にならなければなりません。
(14-10、1964.4.19)

善の人は、神様を絶対視し、神様と一つになる位置に立たなければなりません。神様のみ旨の前に自分を絶対犠牲にしなければならないのです。善が行く段階を見れば、個人は家庭のために絶対服従しなければならず、家庭は神様のための氏族のために絶対服従しなければならず、氏族は神様を中心とする民族のために絶対服従しなければなりません。また、その民族は神様を中心とする国、その国は神様を中心とする世界のために絶対服従しなければなりません。

結局、神様を絶対中心としてサタンに勝たなければならないのです。個人的に勝たなければならず、氏族、民族、国家、世界的にまで勝っていかなければなりません。
(53-241、1972.2.29)

生きることを願い、中心存在になることを願い、良いことを願う前に、まず死になさい、こういうことです。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ生かせる道がありません。イエス様が語られた、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」という言葉もこのような意味です。
(67-183、1973.6.10)
善の神様は、どのような神様ですか。犠牲と愛の神様でいらっしゃいます。愛というのは、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったというとき、その犠牲は、犠牲とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような特別な素性をもっています。

愛がどれほど大きいかということは、犠牲になる量がどれほど大きいかというところにかかっています。これによって高低の愛が決定します。犠牲が大きければ大きいほど大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど気高さのない愛を表すのです。
(63-25 ~ 26、1972.10.1)

愛の心で見るときは、自分を考えるのではなく、自分を否定して自分を犠牲にする道を行くのです。完全なプラスの前に完全なマイナスはありません。プラスに付いていきますが、この端にはプラスが付いてくるのです。完全なプラスの前に完全なマイナスが生じるときには、相対のプラスが来てくっつくというのです。国家なら国家の前に完全なマイナスになるとき、ここに何が来てくっつくのかというと、プラスが来てくっつきます。神様が来てくっつくというのです。一周回ってくっつきます。これがそのまま来てくっつくのではなく、
一周回ってきてくっつくのです。天地の道理がそうなのです。

ですから、この国の愛国者の歴史の伝統は、涙と血と汗の歴史を残してくるという事実を知らなければなりません。孝子の伝統も、涙と血と汗を通して続いていきます。烈女もそうであり、烈男もそうであり、忠臣ももちろんそうであり、聖人の道理もそうです。血と涙と汗をつづった所においてのみ、主流の伝統の歴史が続いていき、一つの世界と一つの天国に連結されるという事実は、間違いない真理です。
(113-118 ~ 119、1981.5.1)

天の福を願う人はたくさんいますし、お父様の子女になるために精誠を尽くす人はたくさんいますが、6000 年歴史が経過した今日は、お父様の真なる息子、娘、お父様の前に祭物になろうという忠実な人を捜し出すことが難しい時であると思います。
(5-8、1958.11.9)

 

②十字架を負う:犠牲の死

―宗教経典―

それから、弟子たちに言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」(注2)
マタイによる福音書16.24 ~ 25(キリスト教)

真実の教えを身につけようとする者は、男であれ女であれ、そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう。
勝鬘経(しょうまきょう)3(仏教)

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
ペテロの手紙一3.17 (キリスト教)

先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を為しとげる。」
論語15.9 (儒教)

孟子がいわれた。「魚も旨いから、ぜひ食べたい。熊の掌(てのひら)もまた旨いから、ぜひ食べたい。だがもし、二つの中どちらか一つを選ばねばならぬ場合には、自分は魚を捨てても、熊の掌を取りたい。これと同じことで、生命もぜひ守りたいし、義もまた守りたい。だがもし、どちらか一方を選ばねばならぬ場合には、自分は生命を捨てても、義の方を守りたい。

もちろん、生命は自分の望むところだが、それよりも以上に望むところのものがあるから、それを捨ててまでも、生命を守ろうとはしないまでだ。また、死はもちろん自分のもっとも憎みきらうところだが、それ以上に憎みきらうものがあるから、死ぬという危険があっても、これを避けようとしない場合がある。もし人間の望みの中で生命よりも大切なものがないとしたなら、およそ生きるためにはどんなことでもやってのけるであろう。もし人間の憎みきらうもので死よりも以上のものがないとしたなら、死の危険から逃れるためには、どんなことでもやってのけるであろう。

ところが実際は、こうすれば生命が助かると分っていても、そうしない場合があるし、こうすれば死の危険から逃げられると分っていても、そうしない場合があるのだ。これこそ、人間には生命以上に望むもの(義)があり、死以上に憎みきらうもの(不義)があるという証拠なのだ。そしてこの心はひとり賢者だけが持っているのではなく、人間なら誰でも持っているものなのだ。ただ賢者はいつもこの心を失わずに持っているというまでのことだ。
孟子VI.A.10(儒教)

イエス様の天国を愛する者は大勢いるが、彼の十字架を一緒に背負う人はいない。偉人を求める者は大勢いるが、試練を歓迎する者はいない。共に飲み食いする友は探しやすいが、禁欲と断食を一緒にする者を探すのは難しい。万民がキリストと共に喜ぼうとするが、彼のために苦難を受けようとする者はいない。キリストが分けてくれるパンを求めて彼に従う者は大勢いるが、彼の苦難の杯を一緒に飲もうとして従う者はいない。彼の奇跡を仰ぎ見る者は大勢いるが、彼の十字架と恥辱に従おうとする者はいない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて2.11(キリスト教)

 

 

―み言選集―

神様がそれを願ったので、イエス様がその愛を成し遂げるために自分を犠牲にしたのです。世界を愛するために自分を犠牲にしながら、死の道を自ら行く道に、このすべての信徒たちを追い立てる一つの宗教が出てくれば、その宗教は、サタン世界を防御し、世の中を救う最後の基盤になるでしょう。

イエス様が世の中を愛するために、死の道を自ら行って十字架を背負ったように、自分を犠牲にして行く道を自ら行く世界的な一つの教団が出てくれば、その教団を通して神様とイエスが最も希望をもって見つめるでしょう。
(124-299 ~ 300、1983.3.1)

この道は不平を言う者は行けない道であり、自ら弁明する者は行けない道であり、自らを立てる者は後退する道であることを知りました。この道は
イエス様が血を流して行かれた十字架の道、延長されたゴルゴタの道であることを知りましたので、
弁明すべき立場でも弁明しようとせず、自分自身を立てて誇りたくても誇ろうとせず、悔しさを知りながらも、踏まれながら行くべき道であることを知りました。
(6-125、1959.4.12)

宗教生活は何ですか。どのような困難があっても、私的な基盤の悪魔サタンと共に地獄に通じる道を行くのではなく、犠牲を払ってでも、このような公的な道で天国に通じる道を行こうというのです。この世の中の人とは異なる生活理念をもっていくのが、宗教者たちの生活であることを知らなければなりません。

それで、統一教会では、公的なことのために神様がされるのと同じようにしようというのです。神様は、公的なことのためには、自分の国を犠牲にできます。自分の愛する家庭も犠牲にすることができるのであり、自分の世界まで犠牲にすることができるのです。神様は、すべての権限をもつ方ですが、公的な人間のために歴史を何度も越えながら、歴史時代の数多くの悲しみと苦痛を独りで経てきながらも、誰のせいにもすることなく、弁明せず、それを甘受してくるのです。公的な神様なので、神様はそのような立場に立っているという事実を、私達は知らなければなりません。良くやったと自分を誇るのではありません。自分が公的な何かをしたと誇る方ではありません。黙々と最後まで、公的な世界が完成されるまで、神様は公的なことに専心する方です。
(101-146 ~ 147、1978.10.29)

今までは「私のもの、私のもの、お金も私のもの」と言いました。しかし、お金を稼いで私が使うのではなく、すべて……。その代わり、神様が愛はどのようなものだということを考えるのです。困難なことであるほど福になることを知りませんでした。先生も、今最も懐かしく思うことが、監獄で拷問を受けて血を吐いていたことです。

この体がサタンの岩にくっついているのです。体が神様と共鳴しなければならないのですが、岩にはりついています。これを一度に切り離すことができる力を統一教会の人たちはもっているのです。それで、宗教は犠牲になりなさいと言うのです。苦行しなさい、苦行! なぜですか。どうしてですか。神様の共鳴体になろうとするからです。
(102-35 ~ 36、1978.11.19)

今までの宗教は何かというと、自分を犠牲にして奉仕するものでした。その犠牲の目的とは何かというと、救援を受けるためですが、それが間違ったというのです。私が犠牲になるのは、神様を解放し、人類を解放するためです。それを知らなかったのです。私のためにするのではなく、神様と人類のために働くということです。目的が違います。悪の宗教として帰結するのか、善の宗教として帰結するのかという出発点が、正にこの点にあることを今日の宗教者は、はっきりと知らなければなりません。
(102-234、1979.1.1)

「父母の心情、僕の体、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために」と言ったのですが、どうしてこのような標語が必要なのですか。これは、涙を流すとしても父母に代わって流し、汗を流すとしても父母に代わって流し、血を流すとしても父母に代わって流そうというのです。これはどういうことでしょうか。生きていらっしゃる神様の前に行き、死の道をすべて引き受け、天のために、地のために、人類のために、私が先に死の祭壇に上がろうということです。
(14-244、1965.1.1)

私は、雨が降り、雪が降ることを知らず、夜を朝のように、早朝のように感じながら、御飯を食べることを忘れてこのことをしてきた人です。気楽に考えることはできませんでした。神様を知ったからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったので、私の一身がずたずたに引き裂かれることがあり、粉になって飛んでいくことがあっても、飛んでいくこのすべての細胞は、神様の一点の細胞だと叫ぶことができれば、男として生まれて甲斐のある死だと思いながら、死の道を求めて身もだえしているのです。
(137-179、1986.1.1)


4.悪と戦争

罪悪の闘争において一抹の妥協もない信仰が、生きた躍動的な信仰である。最高善の実現は、神様のやり方を固守することを要求する。これをイスラームで「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。その中の一つの次元は、悪霊と利己的欲望を治める内的闘争である。キリスト教ではこれを「霊的闘争」と呼び、イスラームでは「偉大な聖戦」と呼ぶ。

しかし、社会が不正、腐敗で覆われていて、平和
が攻撃者によって危険にさらされれば、その世界では正義の側に立つ闘士が必要である。実際に多くの宗教では、弱者を保護し、攻撃者たちの悪行を阻止するために闘争することを愛の叫びとする反面、社会的不正に受動的に対処することを罪として扱う。

自己防御や攻撃者から自分を保護するために、特に銃(武器)が必要な場合がある。しかし、最高善を実現するために闘争するとき、武器を使用するよりもっと良い方法がある。霊的な観点から見つめれば、戦士たちの任務は、世界の正義に向かうことであるため、その闘争は、根本的に霊的闘争と言うことができる。地上の敵がもつ敵対感の背後に悪霊の「権力と主権」が作用している。

敵陣の肉身を攻撃して勝利することが、必ずしも彼らの内面的怨恨まで消滅させることを意味するわけではない。かえって、それはさらに悪化し得る。特に、勝利者たちが無慈悲に報復心をもって対処したならば、より一層そのようになる。

これとは異なり、相手の内面的戦争で勝利する場合、悪霊は自然屈服して退却するだろう。たとえ敵が深い怨恨に満ちていて、必ず武力を通してのみ屈服させるとしても、本当の勝利は、敵が神様のみ旨を悟るように教育する時まで確保できたと言うことはできない。

したがって、霊的戦士たちが行くべき道は、「怨讐を愛しなさい」という教えの実践を極大化することである。これはすなわち、私達自身を犠牲に――たとえ彼らが拒否したり、あざ笑ったり、さらには迫害するとしても――怨讐の福利のために遂行しなければならないという意味である。怨讐に向かう愛は、ただ犠牲を通してのみ明白に現れる。ちょうどイエス様がそのようにしたのと同じように、怨讐の心を浄化させることができれば、死も問題にしてはならない(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」参考)。ある面で、霊的戦争は物理的戦争
と同じくらい危険なため、霊的闘争を遂行するためには、格別な勇気と、強い意志が要求される。文鮮明先生の戦闘意識とは、大部分霊的戦士としての霊的闘争の道を意味する。

 

①正義の勇士

―宗教経典―

彼はよりどころのない人たちを守護し闘う真の英雄である。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1412(シーク教)

更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、戦慄(おのの)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。

もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。……あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナよ、立ち上れ。戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
バガヴァッド・ギーター2.31 ~ 38(ヒンドゥー教)

み使いよ、戦いにさいしては信者を激励せよ。なんじらのうち二十の堅忍者がおれば、よく二百を征服するであろう。なんじらのうちもし一百いれば、よぐ一干の不信者を征服するであろう、これはかれらが、事理を解しないやからであるゆえに。
クルアーン8.65 (イスラーム)

これは、私達の救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
テモテの手紙一2.3 ~ 4(キリスト教)

そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ48.12 (ゾロアスター教)

ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。

そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
ヨシュア記1.7 ~ 9(キリスト教)

勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあ
るところに勝利があるのである。
マハーバーラタ、ビーシュマ・パルヴァン21(ヒンドゥー教)

おお、私の父、偉大な先祖よ!私はあなたに感謝する道がありません。しかし、深い知恵によって
私が栄光のあなたの贈り物を、どれほど尊く思うかを、あなたはお分かりになると確信します。

おお、私の父!私があなたの偉大さを思うときに、
私は畏敬感で身の置き所が分かりません。おお、偉大な先祖よ!地と天、すべてのものの支配者よ!私はあなたの戦士です。あなたの御意志どおりに行う準備ができています。
キクユ族の祈り(アフリカ伝統宗教)


ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアテといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。

ゴリアテは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。私はペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。その者に私と戦う力があって、もし私を討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わた
しが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」

このペリシテ人は続けて言った。「今日、私はイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。

戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出て
いたが、このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。

さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」

サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵はときの声をあげて、戦線に出るところだった。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。

ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアテという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。

イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。

長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」

ダビデは言った。「私が、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。


ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」

しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪
い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。

私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。

ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。

ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「私は犬か。杖を持って向かって来るのか。」
そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に引き渡される。私は、お前を討ち、
お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。

全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、
そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
サムエル記上17.4 ~ 51(キリスト教)


―み言選集―

朝も夜も強くなければなりません。これから近づいてくるどのような障壁も、打てばそれが崩れ、それが崩れなければ拳が裂け、私の体が裂けるという信念をもちなさいというのです。そうして、天が私を通して未来の使命を完結しなければならない私の現在の立場であることを忘却してはいけません。皆さんは、過去を復活させ、現在を復活させ、未来を復活させる、そのような王者である
ことを知らなければなりません。
(73-106 ~ 107、1974.8.4)

「私は神様の真の勇士になる。その神様のための戦場がどれほど悲惨でも、私はその戦線に参与する」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せてきても、孤独単身の迫害の立場です。苦痛の立場です。私は神様に一度も不平を言いませんでした。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
(193-74、1989.8.20)

拷問で倒れていく場でも、「私を助けてください」と神様に祈祷しませんでした。私は追い回されてきましたが、神様のところに行って、「私の行く道を守ってください、私を助けてください」とは祈祷しない人です。私は男として、自分の余力をもち、自分の気迫をもち、闘うことのできる自力をもっている人です。私の力が不足で意識を失って倒れれば私を助けてくれるかもしれません
が、その前に私の力で……。私が行く前に神様はあらかじめ準備しておいて待っていることを知っているのです。
(138-360、1986.1.24)

神様の勝利を私がもたらしてさしあげなければなりません。だとすれば、「戦争で私が先に行こう。私か先に行く、ゴリアテの前のダビデのように」と、そのようにしますか。
(118-129、1982.5.9)

12 支派を代表する12 人を立て、カナンの地を偵察させたとき、彼らは、自分の力ではカナン七族にかなわないと報告しました。しかし、12 人のうち、
ヨシュアとカレブは違いました。イスラエル民族が反旗を掲げているとき、堂々と現れ、「私達を今まで導いてこられた神様は生きていらっしゃいます。イスラエル民族に立ちふさがっていた紅海を分けて平坦な道を造り、渡ることができるようにしてくださった神様は、生きていらっしゃいます。その神様を信じていく道こそが、私達の行く道です」と叫んだヨシュアとカレブでした。
神様は、ヨシュアとカレブを御覧になり、彼らに道を開いてくださったことを知らなければなりません。
(19-240、1968.1.15)

これは、ゴリアテとダビデの比喩になります。私達は武器もなく、訓練もされていません。継ぎはぎの1枚の服を着たみすぼらしい牧童ダビデと同じです。しかし、神様の名によって握られた短い棒切れがあるのです。

それがアメリ力の地でできなければ、韓国の地でできるのであり、韓国の地でできなければ、中東でできるのであり、そうでなければモスクワ大会のような所でできるのです。いつかそのような対決の一日があるでしょう。その日のために、私達は団結し、訓練し、集結しなければなりません。

私の額が割れても、私の目が飛び出しても、私の命が血を流すことがあっても、このことのために行くのです。16 カ国のUN軍が韓国の至る所で血を流したのですから、私達統一教会の人たちは、至る所で共産主義と闘いながら、世界と神様のた
めにそれより多くの血を流すことがあっても、行かなければならないと考える人です。

そのようなことを断行する国と国民がいなければ、神様の希望の基準がこの地球上から飛んでいってしまうことを知らなければなりません。そのような天地の共同運命を懸けて前進しなければなりません。
(88-323 ~ 324、1976.10.3)

「私の勇猛かつ、力あふれるこの誓いの声とともに、あるいは若い胸に躍る鼓動の音、喚声を上げ敵陣に向かって行軍する隊列と共に、この進軍にかかっているのだ!」と、このようになれば、その光景を見ていた霊界の数千億の霊人たちも拍手をしながら歓迎するのです。地獄に行っている霊人たちまでも、「どうか勝利してください。どうか勝利してください。私は顔を上げて行きますが、たとえはってでもやり抜くでしょう」と、このようなことも起こり得るのです。

このように天地が動員され得る息詰まる瞬間が、この一つの国を中心として何年かのうちに決定されますが、「よし、その決戦場に臨み血を吐いて倒れることがあったとしても男らしく、義をもって戦い、正義に基づく天の功臣として自らの命を捧げよう」とするなら、それですべてのことが解決されるのです。そこから新たな歴史が始まるのです。

私達は、このような一つの時を標準として歩んできたために、この一つのことを誓うための一つの願いがあるがゆえに、今まで家庭から排斥され、国から排斥され、数多くの教団から排斥されてきたのではないですか。天が望み、歴史が望み、人類が望む最後の決定的なその一日のために、荘厳かつ素晴らしい勝利をせよと、多くの人々を恨み多き運命の道に犠牲を強いながら歩ませたのではなかったでしょうか。それが私達の振るう一太刀によって、私の流す汗と私の行動によって連結できるとは、これこそ前代未聞のことではないでしょうか。

それを自分の目で見ることができ、自分の感触で感じることができ、それを活動の舞台として戦うことができるならば、これ以上生きがいのある人
生がどこにあるというのでしょうか。そのことを感じなければなりません。
(57-352 ~ 353、1972.6.5)

 

②霊的闘争

―宗教経典―

私達は肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私達の戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。私達は理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
コリントの信徒への手紙二10.3 ~ 6(キリスト教)

謙遜は私の盾である。自らすべての人の足元のほこりになることが私の剣なのだから、あえてどの悪なる者が立ち向かうことができようか。
アーディ・グラント、ソーラトM.5、p.628 (シーク教)


最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
エぺソの信徒への手紙6.10 ~ 17(キリスト教)

聖者たちの軍隊は無敵である。彼らは偉大な戦士であり、謙遜は彼らの鎧だ。主を賛美することが彼らの剣であり、グルの言葉は彼らの盾だ。彼らが聖なる道をはっきりと知る馬と戦車と象に乗り、恐れることなく敵陣を打ちつけていく。主を賛美し、戦場に突進する。あの五つの頭の盗賊たち、あの邪悪な群れたちを征服するため、すべての世が彼らの足元にひれ伏した、
アーディ・グラント、スローク・サハスクリティーM.5、p.1356 (シーク教)


―み言選集―

私達が怨讐を愛する心をもてば、神様の側に立てます。
(52-87、1971.12.22)

イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知ったのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐が四方からがんじがらめにしているということを知りました。この言葉は、私の道に従って行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているという意味です。

そして、家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っていて、氏族的に行けば氏族的な怨讐が待っていて、熾烈な戦いが予想されますが、そのたびに怨讐を愛するというのがみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利することができるのです。
(107-19、1980.2.21)

私達が闘うべき怨讐は、地上のある一人ではなく、6000 年という長い長い歴史過程を経ながら、
神様に対して反旗を翻し、神様を讒訴した、公衆の権勢をつかんだサタンだということを私達は知っています。
(3-180、1957.10.27)

私達は戦争をしているのです。私達は愛の弾丸を撃つのですが、あの悪魔の圏内では、愛と反対のねたみと嫉妬の矢を放ちます。私達は愛の銃弾を撃つのです。愛の銃弾を悪の人が反対した以上に撃たなければなりません。それがレバレンド・ムーンの主張です。

彼らのねたみと嫉妬の銃弾、謀略の銃弾は、私達のところに来ても、貫くことができずに、それていきます。しかし、私達の銃弾に彼らが撃たれれば、溶けていって、元の人はいなくなり、別の人に生まれ変わるようになります。

レバレンド・ムーンは闘いながら発展し、批判されながら発展し、追われながら発展してきました。今回の法廷闘争も、アメリカ政府対レバレンド・ムーンの闘争です。アメリカ政府は、ねたみと驕慢と謀略を中心としてきましたが、私は愛で応酬するというのです。ダビデとゴリアテのようにです。
(119-111 ~ 112、1982.7.4)


③戦争が正当化される場合

―宗教経典―

神様は、一人の善人を立てて、10 人の悪人を屈服させるということをされる方です。私達をして、悪までも悲しく思わざるを得ない内容を抱えていくようにすることによって、悪が自ら屈服して絶対服従できるようにし、本当の勝利者にすることが神様のみ旨であることを知らなければなりません。

聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」というのを聞いたことがあろう。

しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
申命記9.1 ~ 4(キリスト教)

使徒がある指導者を遠征隊の隊長に任命したとき、彼が命じた。「神の名により、神のやり方で闘え。神を信じない者たちと闘え。背反する方法を使わず、略奪したり障害者にしてはならない。子供や隠遁者を殺害せず、ナツメヤシの木に火をつけたり、それらを水に落としたりしてはならない。実る木を切らず、穀物を燃やしてはならない。いつそれらを必要とするか分からないのだから、食べなければならない動物を除いて、肉を食用できる動物を殺してはならない。


ムスリムの敵に出会ったら、三つのうち一つを求めよ。もし彼らがあなたの要求に従えば彼らを受け入れ、いかなる行動も慎め。彼らをイスラームと呼べ。……イスラームの地に移住することを求めよ。……あるいは彼らの財産からジズヤ(人頭税)を支払い服従するよう求めよ」。
ハディース(イスラーム)

革とは水と火がたがいに消しあい、二女が同じ家に居ってたがいに気持ちの合わぬ状態、これを革というのである。已に革むべき時に至ってこれを革めれば孚とされるというのは、革めてしかも人々がこれを信ずることである。革める人に文明の徳があり人々がこれを説ぶのであるから、大いに亨りしかも正しきを得るのであり、革めて道理に当たっていれば、その侮りも消え失せる。およそ天地陰陽の気は相い革まることによって四時を成立させ、殷の湯王・周の武王は革命すなわち天の命を革ためることによって、天道に従い人心に応ずることができたのである。かく考えれば革の時は偉大なことではある。
易経49、周易下経、革(儒教)
商の湯王が告げた、「さても、汝たちもろ人よ。みなみな予がいうことを聴け。予小子がくわだてて反乱を起そうとしているのではない。夏の国に多くの罪があるので、天は、予に命じてこれを倒させなさるのだ。ところが、汝たちもろもろよ。汝たちは、『わが君は、われわれの人民のことを考えずに、われわれの農務をさしおかせて、なんだって夏を征伐するのか』といっている。

だが、予が汝たちの人民のいっていることを聞けば、夏の君に罪があることは明白だ。予は人民を愛する上帝の意志をうやまえばこそ、征伐せずにはいられないのだ。ところがまた、汝たちは、『夏の罪はいったいどんなふうなのか』といっている。夏の王は、人民の力を疲れはてさせて、夏の国を害ってしまったのだ。だから人民たちは働く気力を失って協同しようとはせず、『この太陽さえも何時か亡びるのであろうか。わしもおまえもみんな亡びてしまうのだ』といってなげいている。夏の悪行はこの通りだ。されば予は必ず往って征伐するのだ。汝たちは、どうか予一人を助けて天の罰を果たさせよ。」書経4.1(儒教)
戦争は悪いことである。しかし、異なる国の支配に服従することはもっと悪い。自由、もし私達が堅固に支え続けることができれば、究極的には私達が失っていたものを取り戻してくれるだろう。しかし、服従は私達が大切にしているすべてのものを永遠に失うことを意味するのである。……自らを平和な人だと呼ぶあなたに私は一言言う。「あなたの側で行動する人がいなければ、あなたは安全ではない」。
トゥキュディデス戦史(ヘレニズム)

 

―み言選集―

並外れた善の人格を追求する個人を歓迎する人は、この地に多くないという事実を、私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕っていくにおいても、環境が歓迎してくれないことを私達が知るようになるとき、善の家庭が善の氏族を慕いながら歩んでいく道の前においては、より一層困難な悪の与件がその環境に取り巻いていることを感じるようになるのです。

さらには、善の氏族が善の国家を成していくときは、より途方もない悪の勢力が反旗を翻し、その氏族が行く道を妨げようとするのは間違いありません。

また、善の国があり、善の世界を追求していくときは、この世界が善の世界になることができないので、悪の国々が、その善の国が行く道を協助するのではなく、あらゆる方向から反対してくることは間違いないのです。

ある善の氏族が行こうとする道には、数多くの悪の氏族が反旗を翻して闘ったのであり、必然的に善の国家を要求する人類の前に善の国があるというときは、その国は、すべての国から歓迎されるのではなく、全的に反対を受けたのです。善の国と悪の国が対決し、善が残るのか、悪が残るのかという勝敗を決する戦いを経なければ、善の国として残ることはできないので、このような闘いの歴史過程を経てきたという事実を私達はよく知っています。
(36-52 ~ 53、1970.11.15)

闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。

しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。

この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局、敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。


ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上15・18 ~ 23)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下17 23)。

神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。
ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。
原理講論、人類歴史の終末論4.2


皆さん! ダビデ王を尊敬しますか、しませんか。ペリシテびとのゴリアテを葬り去ったことが良いのですか。3000 年の歴史を経たイスラエルの国の基盤がすべて崩れてなくなるところを、このダビデが行って残るようにしたので、神様の側から見るとき、「いやあ、よくやった!」と思うがゆえに良いのです。
(103-181 ~ 182、1979.2.25)

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世界経典-62

2022年08月07日 15時04分36秒 | 学習


③聖餐式

―宗教経典―

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。
コリントの信徒への手紙一11.23~25(キリスト教)

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
コリントの信徒への手紙一11.27~29(キリスト教)
―み言選集―

キリスト教は、イエス様の血筋です。聖餐式で、葡萄酒はイエス様の血であり、パンはイエス様の体です。血肉を連結することを意味するのです。それはイエス様の血筋を連結させるのです。イエス様の血筋を受け継いだのなら、イエス様と同じ怨讐を愛する血筋を受けたのなら、怨讐を愛さなければならないのですが、キリスト教徒たちが怨讐を愛する面がありますか。それは偽者です。
(322-262、2000.5.21)

聖酒式は、イエス様を中心として見れば、聖餐式と同じなのです。聖餐式では肉と血の代わりにパンを食べて、葡萄酒を飲みます。これは、私達人間が堕落したので、イエス様の実体を中心として、新しい肉体を受肉しなければならないことを意味するのです。それと同じように、この聖酒式は、人間が堕落した経路と反対の方向にしなければならないために行うのです。
(35-210、1970.10.18)

④割礼

―宗教経典―

あなた達、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなた達の男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなた達との間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなた達の男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
創世記17.10 ~ 13(キリスト教)


―み言選集―

アダムの時の血統が問題になりました。それで割礼があったのです。割礼は、男性の生殖器から血を抜くのです。アダムの時に男性の生殖器を通してサタンの血が入ってきました。それを蕩減するために切ってしまうのです。それが割礼です。
(277-264 ~ 265、1996.4.18)

イスラエル民族には割礼というならわしがあります。それは陽部を切って血を抜くのです。イスラエルがアブラハムの祝福圏内にいるためには、聖別をしなければなりません。そうでなければ、祝福圏内にはいられません。それによって罪が入ってきたので、その血を抜いてこそ蕩減復帰になるのです。旧約時代には、歯には歯、目には目、血には血、耳には耳という蕩減法なので、その血を抜かなければ、神様の前に帰る条件を立てることができないのです。
(54-144、1972.3.22)


⑤洗礼と沐浴儀式による浄化

―宗教経典―

アーバスよ、運び去れ、わが身のいかなる過失をも、またはわが犯したる欺瞞をも、あるいはまた偽りの誓いをも。われは今日アーバスを尋ねたり。〔しかして〕われらは〔その〕液と会合せり。アグニよ、乳を伴いて来たれ。かかるわれに栄光を賦与せよ。(注50)
リグ・ヴェーダ109.8 ~ 9(ヒンドゥー教)

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒言行録2.38 (キリスト教)

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙6.3 ~ 11(キリスト教)
―み言選集―

我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。このような例は、みなこれに該当するということができる。
原理講論、後編緒論1.1

汚れた体を清めるのが洗礼です。割礼によって生殖器を清めたあとに、体を清めるのです。そして、それをどのように愛の道に連結するかが問題です。
(277-265、1996.4.18)

「聖水」は「勝数」と似ています。その「勝数」とは何で勝利したのですか。サタンの血統を水で聖別したという意味です。サタンの血を除去し、天の血統を紹介されたのです。
(215-346、1991.3.1 (注51))
⑥巡礼と聖地

―宗教経典―

男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。(注52)ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。
申命記16.16 ~ 17(キリスト教)

その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る。ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンへの道を尋ね、顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき、永遠の契約が忘れられることはない。(注53)
エレミヤ書50.4 ~ 5(キリスト教)

われがアブラハムのために、聖なる家の位置を定めこう言ったときのことを思え、「何者も、わしと一緒に配してはならぬ、そして巡周(タワーフ)する者のため、また礼拝に立ち(クィヤーム)、立礼(ルクー)し叩頭(サジタ)する者のために、わしの家を清めよ」。「人びとの間に巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ、かれらは歩いてなんじに来る、あるいは、やせたラクダで、あらゆる遠い道をそれぞれやって来る」。「かれらにかずかずの功徳を体得させ、また定められた日の間、かれがかれらに賜わった、犠牲の家畜の上に神のみ名を唱えさせる。それからなんじらはそれを食べ、また困窮している者を養う」。「それから、かれらの必要な儀式を終え、誓いを全うさせ、そしてむかしの聖なる家を、巡周せしめよ」。(注54)
クルアーン22.26 ~ 29 (イスラーム)

巡礼の時期は周知の数月である。それでその間に、巡礼の務めを果たそうと決心した者は、みだらなことや不道徳の行いをつつしみ、また巡礼中は論争してはならぬ。なんじらの行なう善いことは、神それを知りたもう。たびの準備をせよ。だが最もすぐれた準備は善い行いである。
クルアーン2.197(イスラーム)
たとえこの世で最もみすぼらしい人たちがここに参拝に来たとしても、私は彼らの心の中にある願いを、しかと聞いてあげるだろう。
厳島神社の神託(神道)


―み言選集―

アメリ力の若い人たちは、アメリカのために悲しいことに耐え、涙を耐えていけば、このアメリカは滅びないでしょう。そのような悲惨な道を行けば、今後、世界の博物館はもちろん、天の国の博物館に行くのです。自分の命が果てるときまで、公的な悲しみと涙を流して死ぬのか、安らかに生きて死ぬのか、これが問題です。いくらあの高いヒマラヤに埋めておいても、世界の人たちが押し寄せてきて泣いていくでしょう。

来るなと言っても来るのです。イエス様がゴルゴタに引かれていって死ぬときに祈祷し、神様の息子だと……。それは恐ろしいことです。それが事実かどうか分かりますか。より天のために生き、地のために生き、人類のために生き、より大きな問題をかけて自分の命を捧げたので、それが可能なのです。
(97-104 ~ 105、1978.3.1)


先生の故郷が北の定州ですから、皆さんも、定州に行ってみたいでしょう?なぜ行きたいのですか。そこに行けば、先生は話したいことがたくさんあります。私の幼かったころの逸話が数多くあります。ですから皆さんも一度行ってみたいと思うでしょう。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしく思うでしょう。これから「統一思想」をもった人々が、イスラームのマッカ(メッカ)のように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるでしょう。
(34-67、1970.8.29)


⑦象徴、聖像、そして聖物

―宗教経典―

あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)

このとき天照大御神は天の岩戸の時に作られた八尺瓊(やさかにの)勾玉と鏡、草薙の剣と……天照大御神は邇邇芸命(ににぎのみこと)に「この鏡は我が御魂として、私に仕えるように仕えなさい。」と言われた。(注55)
古事記39.2 ~ 3(神道)

それから、お亡くなりになった偉大なお心のお方(ブッダ)のそれら〔の遺骨〕を最高の水で清めて後、やがて〔次のように〕讃嘆しつつ、マッラ族の者たちは、町へ、もろもろの金の壷に入れてお運びしたのである。これ(金の壷)は大きな山の宝の鉱石のごとく、至福に満ちた偉大な〔遺骨を〕保存している。諸天における最高神(ブラフマン)の領界が劫末の火によって損なわれなかったごとく、遺骨は火によって損なわれなかった。慈愛によって修習されたこれら〔の遺骨〕は、執着の火に焼かれるごととは無縁である。彼(ブッダ)に対する尊敬の力によって保持されている遺骨は、冷たいけれどもわれわれの心を焼く。
仏所行讃27.76 ~ 78、28.69(仏教)

異なった存在の幸福に対する愛をもって、シヴァ・プジャ、は行われるべし、と賢者は言った。台座はシヴァの配偶者であるパルヴァティを表し、彼の男根の象徴は意識のある存在を表す。ちょうど主シヴァが常に女神パルヴァティの親密な抱擁の中に留まるように、男根の象徴は永遠に台座にしっかりと着いている。……

帰依者は男根の象徴を取り付け、十六の規定された型の表敬と礼拝をもって崇拝しなければならない。それらは祈願、座の献上、水の献上、洗足、
神秘的な儀式として口を洗う為の水の献上、油槽、衣の献上、香水、水、香気、灯火、食物、光の波、キンマの葉、敬礼、そして神秘的な解放と結びである。……シヴァが恩恵を授ける所は、どこでも努力を注ぐにふされしい。(注56)
シヴァ・プラーナ、ヴィディエーシヴァラ・サンヒター
11.12 ~ 35(ヒンドゥー教)


―み言選集―

この世界人類の中で、罪悪から生まれたすべての人類の中で、父母を愛する本当の孝子がいるなら、その孝子の中に神様を身代わりして真の父母様に孝行できる、歴史の記録を破ろうと立ち上がる、そのような天の息子、娘にならなければなりません。それで、そのような精誠を表示しようとすれば、私達は相対が必要です。

ですから、祭壇が必要であり、祈祷する場所が必要であり、仏像が必要であり、そのようになります。一人でいれば、精誠を捧げる祭壇が必要であり、祭物が必要だということを知らなければなりません。祭物はいつもそこにあるので、祭物は置いておけば、10 年でも……。ほうっておけばじっとしています。

人は逃げていきますが、人は上がったり下がったりしても、祭物はじっとしているというのです。
それで、自分に良いことがあれば、帰ってきて写真を見たり、その祭物に対して「私がこのようにして喜びの日を迎えて感謝なので、その表示として、喜びの象徴として何々を一つお父様の前に捧げます」、このようにして天の前に精試を尽くした物、祭物の代価を捧げなければなりません。
(123-189、1983.1.1)

今日の仏教では、仏像に侍って福を祈っていますが、主体と対象の外的な差は本当に天地の差があるとしても、心情の世界においては差がないのです。そこで感じられる感情を通したすべてのことを、天と共に知り、信じ、対すれば、天はその心をお捨てにならずに成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生じます。
(6-342、1959.6.28)

十字架をかけて歩けば、キリスト教徒であることを表示するでしょう? 父母様の写真を持っていれば、「真の父母」の息子、娘を象徴します。象徴、形象、実体になるのです。蘇生、長成、完成の蘇生圏内に入るために、保護を受けるのです。そうすれば、写真をすべて氏族的メシヤが作ってあげなければなりません。(212-111、1991.1.2)
⑧食事の礼法:食べ物を神聖に思う

―宗教経典―

すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。

らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の
肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。

水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。……

死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。(注57)
申命記14.3 ~ 21(キリスト教)

人がふさわしい方法で動物を殺して肉を食べることと、動物を絞殺してその肉を食べることでは、どちらを神は心配されるだろうか。人が不浄な獣や請い獣を食べることのうち、どちらを神は心配されるだろうか。「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(箴言9.12)。ゆえにあなた達は、律法の命令が、神がつくられた被造世界をきれいにするために与えられたものであることを悟りなさい。ゆえにこのような言葉がある。「神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている」(サムエル下記22.31)。(注58)
タンフーマ、レビ記、シュミニ15b(ユダヤ教)
人びとよ、地上にあるもののうちよい合法なものを食べて、悪魔の足跡に従ってはならぬ。……かれがなんじらに禁じたもうものは、死肉・血・豚肉、ならびに神以外の名で供えられたもののみである。だが必要に迫られ、故意に違反せず、また則を越えぬ場合は罪にならぬ。神は、寛容者・慈悲者であられる。(注59)
クルアーン2.168、173 (イスラーム)


―み言選集―

私達統一教会は、世の中のどこに行っても父母様に侍って暮らしているので、食事をするときは、必ず「先に召し上がってください!」と思いながら最初のものを差し出す心で食事をします。先生は今までそのような生活をしてきました。どこかに行って座るときも、聖別して座るのです。そのようなことを考えるとき、先生がいなかったなら、神様はどのようになるところでしたか。
(236-338、1992.11.9)

ここに服があれば、自分の服だと考えてはいけません。「これは神様の服であり、父母様の服であり、兄弟の服だが、私が代表して着ている」と考えるのです。自慢することはできません。食べる物もそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟たちがくれた御飯だというのです。御飯をおいしく食べて、「ああ! 気分が良い」という私ではありません。先生はそのように考えます。おいしく食べたあとは、申し訳なく思い、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間におなかをすかせている人もいるはずだ。どれほど苦労が多いだろうか。私が代表として食べたのだから、代表として働く責任をもっと果たさなければならない」と考えるのです。

先生はそのように考えるので、苦労した人が不平を言わずに有り難く思ってついてくるのです。先生に10 年、20 年、一生ついてきても嫌に思わないのは、先生がそのような生活をしているからです。このような人がすることは、失敗するかのように思いますが、必ず成功するのです。先生はたくさんの迫害を受けながらも、40 年間、歴史にないことをたくさんしてきました。
(161-231、1987.2.15)

私達が食べて、着ることを中心として聖別するために聖塩を使います。神様の国がありません。この地から収穫したものを聖塩で聖別せずに食べることができる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに走って暮らせる大地を訪ねていくたびに、聖別しなくても暮らせる地がどこにありますか。皆さんが聖別儀式をするとき、聖塩を使うたびに「このサタンめ」と、これを割かなければなりません。
(48-252、1971.9.19)

1997 年7月7日7時7分7秒に「天地父母天宙安息圏宣布」をすれば、すべてのものが聖人の位置に入っていくのです。私達が神様に直接侍って暮らすのです。今までは、私達が聖日だけ聖餐を食べましたが、その宣布以降には、一日3食、すべて聖餐として食べて暮らすのです。そのような中で、すべでの万物を愛で接しながら、食べて暮らさなければなりません。それでこのような聖餐が始まるのです。毎日聖餐を食べて暮らすことによって、病気にもなりません。神様の愛の中で病気にもならないというのです。
(285-300、1997.6.29)


8.儀礼を超えて

度を過ぎて宗教的儀礼にばかり依存すれば、実際の行動や知識とは掛け離れた厳粛な気運ばかりがわき上がることもある。儀礼は、敬虔な心と隣人に対する愛、神様と一対一で一つになる経験などを決して代替することはできない。

ほぼすべての宗教では、宗教の内部から儀式主義に対する批判の声がある。ある宗教の創始者が、外からはほかの宗教の儀式主義を強く批判しているように見えるが、そのみ言は本質的に自分の宗教の信徒たちにそれを他山の石としなさいと警告するものである。

文鮮明先生も、度を過ぎた儀式主義に対して同一の立場を堅持され、二つの内容を付け加えて語られる。第1 は、儀式がほかの宗教と信仰の間に壁をつくり出すこともあるということである。これは宗教が一つになることを願われる神様のみ旨に逆行することである。すべてが一つにならなければならないこの時代に、儀礼的障壁は超越しなければならない。

第2 は、神様とイエス様に対する敬虔な信仰的儀式自体が、常にその方の心情とみ旨を推し量り得る内的知恵につながるものではないということである。例えば、イエス様の死に使用された恨みの杭、この地に地上天国を成し遂げようとしていたみ旨を完成できずに旅立ったイエス様の数千年の悲しみと挫折の根源である十字架に対して、多くのキリスト教徒はそれを救援の象徴として理解し仰いでいる。

古代の宗教的儀式の中心には動物献祭があった。しかし、今日ではいくつかの事例を除外してほぼなくなっている。多くの宗教が依然として献身的信仰活動を重視して研究し、経典に現れた古代の祭祀儀式の核心を大切にしているが、これ以上同じ形式の祭祀儀式を行うことはない。タルムードでは、隣人に対して慈悲を施すことが、贖罪の羊を通して祭物を捧げることと同じ価値をもつと教えている。釈迦牟尼は、動物献祭が生きている生命を葬ることによって悪の業報をつくり出すものだとして批判する。その代わりに父母を恭敬し、家族をいたわり、托鉢僧に布施を施しながら充足される霊的奉献の意味を教える。


①最善の儀礼は愛の心と義の行動

―宗教経典―

何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6.6 ~ 8(キリスト教)

ヴァイシュヤの法(つとめ)である三百の器の食物を毎日三度にわたって施すとしても、わずか一刹那の慈しみから生まれる福徳に比べると、一部分にも及びません。
龍樹宝行王正論283(仏教)


ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をした
か、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書2.23 ~ 28(キリスト教)

古老のいへらく、昔神祖の尊、諸神たちのみ処に巡り行でまして、駿河の国福慈(ふじ)の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、お宿を請ひたまひき。此の時、福慈の神答ヘけらく、「新粟の新嘗して、家内もの忌みせり。今日の間は、願わくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告(ののし)りたまひけらく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲(ほ)りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、寒さしきり、人民登らず、飲食なまつりそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へらく、「今夜は新嘗すれども、敢えへて尊旨に奉(つかへまつ)らずはあらじ」とまをしき。ここに、飲食を設けて、敬び拝みつつしみ承(つかへまつ)りき。是に、神祖の尊、よろこびて歌ひたまひしく、愛(は)しきかも我が胤(すえ) たかきかも神宮(かむつみや)天地とひとしく日月と共に人民(たみぐさ)集ひ賀(ほ)ぎ飲食(みけみき)ゆたけく代々に絶ゆることなく日に日にいや栄え千秋(ちあき)萬歳(よろずよ)に遊楽(たのしみ)窮(つ)きじとのりたまひき。是をもちて、福慈(ふじ)の岳は、常に雪ふりて登臨(のぼ)
ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(くら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(注60)
常陸風土記(神道)
先生がいわれた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ。」
論語3.3 (儒教)

多くの人々、ここにありて欲すれども水によりでは清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり。
感興偈6(仏教)

マズダーよ、御身の穎悟者にとって吉祥なる聖アールマティを、善思を知らぬために悪行によってすて去るものども――そういうやからからは、それ(アールマティ)は、天則に従って、あたかも兇暴な害獣がわれらから逃げてゆくところまでも、はるかに逃げてゆくのです。
アヴェスター・ヤスナ34.9(ゾロアスター教)

世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。(注61)
六祖壇経6(仏教)

愚者たちはヴエーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。欲望を性とし、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々にとって.、決定を性とする知性が三昧(サーマディ)において形成されることはない。(注62)
バガヴァッド・ギーター2.42 ~44(ヒンドゥー教)


一み言選集―

すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上にしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければならない。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて24 時間、生活の中でこれを実践する、自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)

皆さんがいくらイエスの顔を穴が開くほど見つめ、いくらイエスの顔を触り、いくらイエスと一緒に歩き、いくらイエスと一緒に暮らしたとしても、心情が通じなければすべて意味がありません。心情を通して触れあい、心情を通して一緒に暮らさなければならないのです。
(10-200、1960.10.2)


天を仰ぐ人は多いのですが、天のために責任を負おうという人は多くはありません。天の道がよいということは知っていますが、その道に横たわっている茨の道を避けようとする人々が多いということを知るものです。

お父様!あなたは私達のために、億千万代御苦労なさいました。ところが、今日人間たちは天の道、真なる道を行くために越えていくべき苦労の道を避けていこうとし、人間の悲しみと苦痛も、
お父様の前に任せようとしていますので、受け入れてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(16-15、1965.12.26)


②時代の変化によって慣習的礼式は純粋な献身の形態に代替される

―宗教経典―

ある日、ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイがエルサレムから来たとき、ラビ・ヨシュアが彼についていき、崩れた聖殿を見た。「悲しいこどだ」、ラビ・ヨシュアは泣き叫んだ。「イスラエルが罪を赦きれた所が、ごみの上に置かれている!」「私の子よ」、ラビ・ヨハナンが言った。「悲しむな。聖殿のように私達の罪を赦してくれる他のものがある。それは何か。慈愛を施す行為だ。『私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない』(ホセア書6.6)」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン6(ユダヤ教)

ある時世尊は舎衛城の祇多林の中の給孤獨の園に住したまひき、その時ウッガタサリーラ婆羅門の大供犠が献ぜられたり、五百の牛、五百の牡犢、羊、山羊が犠牲に供せられたり。その時ウッガタサリーラ婆羅門は世尊の在す処に詣り、詣り終りて世尊と倶に互いに相慶慰し、歓ばしき銘肝すべき談を交し已りて一辺に坐せり、……世尊に白して言さく、「尊ゴータマよ、我聞けり、火を点じ、柱を建つることは大なる果を持ち、大いに称賛すべきことなり、大徳世尊よ、我に教示し給へ、教え給へ、即ち長き間此の我の義利の為、楽の為に、と」「婆羅門よ、火を点じ、柱を建てしめつつ、供犠の前に不善にして苦を生じ、苦を異熟とする三刀を建てしむ、何をか三となす。

身刀、語刀、意刀なり、婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ是の如き心を起す、供犠の為に是程の牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて不功徳を作し、我は善を作す、とて不善を作す、我は善趣の道を求む、とて悪趣の道を求む、此の第一の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする意刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に……牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて……不善を作す、此の第二の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする語刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ自ら第一に始む、供犠の為に……此の第三の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする身刀を立てしむ。

婆羅門よ、是等の三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし、何をか三となす。應請火、長者火、應施火なり、婆羅門よ、何をか應請火となす。ここに彼に
母たり、或は父たる人あり、是が應請火と云はる、何故なるか。それよりこの請待が生じてあり、その故に此の應請火は、尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。又婆羅門よ、何をか長者火となす。

ここに彼に息子たり、或は妻たり、或は奴僕たり、或は遣使たり、或は召使たるものあり、是が長者火と云はる、その故にこの長者火は尊敬し已り……。又婆羅門よ、何をか應施火となす。ここに凡て沙門婆羅門が僑放逸を離れ忍辱と柔和に於て堅固にして濁り自ら調御し、濁り自ら寂静ならしめ濁り自ら般涅槃せしむ、是が應施火と云はる……婆羅門よ、是等三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。(注63)
阿含経増支部iv.41 ~ 45(仏教)

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。私はお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、私は焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、私は次のことを彼らに命じた。

「私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなた達の神となり、あなた達は私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなた達は幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、私に背を向け、顔を向けなかった。(注64)
エレミヤ書7.21 ~ 24(キリスト教)

「至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」(マラキ書1.11)。「『至るところで』、この言葉は可能なのか」、ラビ・ヨナダンの名でラビ・サムエル・ベン・ナマイが言った。「この言葉はどこにいようと、
トーラーの研究に自らを没頭させる学者たちに言及したことである。神は言われる。『私はそれを彼らが私の名で祭物を捧げているものと見なす』……」。

「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ。聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」(詩編134.1 ~ 2)。「『夜ごと、主の家にとどまる人々よ』という言葉の意味は何ですか」、ラビ・ヨハナンが言った。「この言葉は夜通し律法を研究することに自分を捧げる学者たちに言及したものである。聖書はそれを彼らが聖殿の奉献に従事するものと見なす」。(注65)
タルムード、ムナホート110a(ユダヤ教)

キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わ
たしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。聖霊もまた、私達に次のように証ししておられます。「『それらの日の後、私が、彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙9.11~14、10.11~18(キリスト教)

偉大な五つの供物、すなわち偉大な祭祀が存在する。すべての存在に対する供物、人間に対する供物、先祖に対する供物、神々に対する供物、ブラフマンに対する供物である。日々、人は生き物に栄養を与える。それは存在に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、客人をもてなす。それは人間に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、死者を供養する。それは先祖に対する供物である。日々、人は木や火などを神々に捧げる。それは神々に対する供物である。それではブラフマンに対する供物とは? ブラフマ
ンに対する供物とは、聖典の学習である。(注66)
シャタパタ・ブラーフマナ11.5.6.1~3(ヒンドゥー教)
―み言選集―

罪を犯せば、罪を犯した量に該当する分だけ洗わなければなりません。漂白しなければならないというのです。ですから、漂白する苦労、漂白する材料、これは絶対に必要です。蕩減条件物が必要だというのです。今まで救援摂理を知りませんでした。祭物とは何かというと蕩減条件物です。今までそれを知りませんでした。

ですから、未開な人たちが人を捕まえて祭物にしたり、動物祭物や、あらゆることをしたのです。堕落以降、神様の愛の中で保護を受けて暮らすことができ、その愛の中で神様と共に同化して暮らすことができるこの世界のすべてのものが血を流さなければなりません。血を流さなければならないというのです。なぜ血なのかというと、偽りの生命、偽りの愛、偽りの血統が生じたということです。血が汚されたのですから、血を抜かなければなりません。
(374-21、2002.4.4)

人間始祖が堕落して、「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、堕落人間は、神のみ言を直接に受けることができなくなった。そのため、み言の代わりの条件として立てられたのが、その供え物なのである。ところがモーセのときに至ると、供え物を条件物として立てて「信仰基台」を復帰した、復帰基台摂理時代は過ぎさり、再び神のみ言に直接に対し得る、復帰摂理時代となったため、「信仰基台」のための「象微献祭」は、必要ではなくなるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.1.1.2 (注67)

宗教を統一しなければなりません。キリスト教は、教派が多いことが問題です。教派をすべて燃やしてしまわなければなりません。看板を外してしまい、キリスト教の十字架をすべて外してしまわなければならないのです。その運動が起きなければなりません。
(399-100 ~ 101、2002.12.21)

第17章服従と犠牲

1.召命と使命

ダマスコに向かう道で突然、天から光を受けるという経験をした使徒パウロは、その当時、霊的に神様が自分に何かを切に要求されていることを体験する。それは、単純にキリスト教信仰への改宗を意味するものではなかった。パウロは、それ以上の使命、異邦人たちにキリストを知らせよという使命を受けたのである。

この使命意識が彼の心に燃え上がり、これが正に、残りの生涯でギリシャ全域にキリストの教会を立てるという動機を呼び起こしたのである。そこから彼は、自分を生きた祭物として天の前に捧げ、神様の召命に服従する人生をスタートした。

神様は、歴史を通して聖人たちと使徒パウロのような義人たちを呼ばれ、御自身の道具として用いられた。神様は多様な使命を負い、天の名によってその任務を遂行する信仰者たちを必要とされる。イスラエルの預言者たち、イエス様の弟子たち、ムハンマドの教徒仲間、そして天の召命に応じたのち、これに従っていった大勢の信徒たちまで、すべて神様が必要とする人たちである。召命を受ける者は、挑戦と逆境にぶつかることが多かった。しかし、その神聖な目的を胸に抱き、み旨を成し遂げようとする強い責任感があったために、彼ら
は耐え抜くことができたのである。


①神様の召命と私達の使命意識

―宗教経典―

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
創世記12.1 ~ 3(キリスト教)

信仰する者よ、なんじらは神を助ける者になれ、マリヤの子イエスが、その弟子たちに言ったように、「神の道のために、たれが私の助力者であるか」と。弟子たちは答えて「私達が、神を助ける者であります」と言った。
クルアーン61.14(イスラーム)

主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イザヤ書42.6 ~ 7 (キリスト教)

サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。


ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

しかし、アナニアは答えた。「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」

すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いで言った。「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
使徒言行録9.3 ~ 18(キリスト教)

放浪の詩人、私があなたの召命を受けた。昼夜、あなたを賛美せよとの命を受けた。詩人は聖なる師の召命により、永遠の彼の家に召喚され、聖なる賛美の服をもらい、神聖な名の聖なる食べ物を接待された。

師の導きによりこれらを受けたがゆえに、詩人の心は至福で満ち、聖なる言葉に従い、気高い賛美をすべての世に大きく広げた。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、P.150(シーク教)
―み言選集―

将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会をつくったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。

事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代7.1

神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。

神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。

しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる栄華に浴することができる。
原理講論、予定論3.4

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。

しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2

神様がいるとすれば、アメリカに、自由世界にレバレンド・ムーンを、その境界線、その刹那に送ったのが、今から10 年前のことだと私は考えます。アメリカはレバレンド・ムーンの話を聞きなさいということです。それでは、レバレンド・ムーンに責任を果たしたのかと尋ねるとき、レバレンド・ムーンの話が「アメリカの人たちは病気になったので、医者を外部から連れてこなければならない。アメリカが病気になり外部から連れてこなければならないので、東洋からレバレンド・ムーンが来た」と言うのです。それはどれほど実感がわきますか。火事が起きれば消防隊員も同じです。そのようなことをすべてしたのです。果たしたというのです。
(123-320、1983.1.9)

天は私に対して要求していらっしゃいます。「新しい世界を建設せよ」と言われるのです。既にほつれて乱れてしまった事件を、解決せよという責任を与えてくださったのです。それでは、私はどんな立場にいるのでしょうか。私の一つの個体は、なくてはならない存在です。人類のものであり、世界のものであり、お父様のものであるからです。

不足な民族であり、不足な私達ですが、召命を受けた私達は、おそれ多い心情をもたなければなりません。国家、民族のために全力を尽くしていった人々も許されなかったのに、私達を呼び出して息子としてくださったという事実を考える時、感謝する心と、おそれ多い心情をもたなければなりません。
(9-344. 1960.1.30)

途方もない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独な所にいらっしゃる神様の前に、私達が信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても、何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても、何の恨があるかというのです。この世には、犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらで
もあるのです。
(62-140、1972.9.17)

 

②使命成就の努力と苦難

―宗教経典―

ウジヤ王が死んだ年のことである。私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を待ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満
たされた。私は言った。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

そのとき、私は主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」私は言った。「私がここにおります。私を遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」
イザヤ書6.1 ~ 10 (キリスト教)

あなたはご存じのはずです。主よ、私を思い起こし、私を顧み、私を迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて、私が取り去られるようなことが、ないようにしてください。私があなたのゆえに、辱めに耐えているのを知ってください。あなたの御言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。

あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって、呼ばれている者です。私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました。なぜ、私の痛みはやむことなく、私の傷は重くて、いえないのですか。あなたは私を裏切り、当てにならない流れのようになられました。
エレミヤ書15.15 ~ 18(キリスト教)

タカープが……浮浪者の群れと奴隷たちを扇動してムハンマドを侮辱し、非難したのだが、そのとき、ある群れの群衆が近づき、彼を果樹園に避難させた。……預言者が安全な所に着いたとき、彼が言った。「おお、神よ。あなたに私の弱さと資源がないことと人々の前で取るに足らない者であることを訴えます。最も慈悲深い方よ、あなたは弱者の主であり、したがって私の主です。あなたは私を誰に任せようとされるのですか。私を悪用する者ですか。そうでなければ、私を抑える力のある敵たちですか。

もしあなたが私にお怒りになられたのでなければ、私は心配しません。あなたの好意は私にとってより広大なものです。あなたの怒りと憤怒が私に下されないのなら、暗闇が輝く、現世と来世のすべてのことが正しい秩序をつかむあなたの助けによる保護を求めます。あなたの喜びが正に満足です。あなた以外にはいかなる権能もありません」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

だから、私達の中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
ピリピの信徒への手紙3.4 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

信仰生活をするにおいては、難しい問題が多いことを皆さんは知らなければなりません。したがって、召命を受けることが問題ではなく、召命に従っていくことが問題だというのです。召命に従っていくのも難しいのですが、神様のために忠孝の道理を果たすということはもっと難しいのです。
(40-86、1971.1.24)

召命の道に従っていくときは、いつも内的な闘争があります。内的な闘争をかき分けていくことは、責任者がきちんとできなければなりません。責任者が間違えば、滅びるようになるのです。責任者が間違えば、大きな問題が起きるというのです。
ですから、軽挙妄動してはいけません。良いことがあっても喜びすぎてはならず、悪いことがあっても悲しみすぎてはいけないのです。いつでも自分の心の姿勢を正し、正否を見極めながら、注意深くいかなければなりません。
(40-98 ~ 99、1971.1.24)
今、私達に残された、宇宙的な願いがあるとするなら、その願いは、私達が、宇宙万象の全体的な責任を負うことのできる精兵となって、全被造万物を解放し、万人を喜ばせてあげることであると知るようにしてくださり、天の命令を奉じて
責任を果たすことができ、使命感に酔うことができるよう許諾してくださいますことを、お父様、
懇切にお願い申し上げます。

天のみ旨を、この地上に探し立てるために、天の法度を知り、宇宙の闘いの法度を知って、不変の中心を身代わりして、永遠であられる神様の理想と復帰の栄光が、全被造万物に現れる時まで、私達は変わろうとせず、休もうとせず、ただ闘おうとだけする息子、娘となるよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
(2-181、1957.4.14)

召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないことは、いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を求めていかなければならないということです。いつでもそれを求めるために努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありませんでした。

ここには、私自身も思いもよらない、焦りいらだつ場が多いというのです。それでは、どのようにしてこの道を行かなければなりませんか。自分の心や心情に欲心をもっては、絶対に駄目です。

「私がこのようなことをしてみよう。私は何々をしよう」と考えながら、ある計画を立て、3年なら3年の計画を立ててこのようにしようと考えたとき、それは不可能なときが多いのです。計画どおりにできたとしても、これは、人間的な観点から立てられた計画なので、摂理と相入れないときが多いというのです。
(40-77、1971.1.24)

お父様!私達が行くべき方向を、あなたは知っていらっしゃり、私達が取って進むべき道も、
あなたは知っていらっしゃいます。
私達の心の始まりも、自分から始まったのではなく、私達が勧告の立場に立つことも自分のためではなく、人のためであり、お父様のためですので、最後まで、その心情が変わらないよう主管してくださいますことを、お父様、切にお願い申し上げます。
(6-62、1959.3.29)


2.従順と服従

世俗的目的と生活様式が、神様の意思と行為の基準から隔たれば隔たるほど、従順な姿勢がより切実になる。アダムにエデンの園の果実を取って食べるなという戒めを下さって以降、神様は自己中心的、人間中心的な欲望とは反する戒めを堅持した。

したがって、人間が神様との関係を正常化するためには、神様のみ旨に服従し、自分を否定する姿勢が切実に要求される。これはイスラームで特に強調される徳目である。「イスラーム」の意味は、正に「神への服従」を意味する。

服従は犠牲を要求する。イエス様が「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたように、イエス様は生命を超越する状況でも服従を履行した。服従することは、人間が喜び、便利な思考によって神権の摂理に加担することでは決してない。自分の息子を祭物として献祭せよという神様の命令を受けたときのアブラハムの経験のように、服従は想像もできない内容を遂行することを要求する。

このように、従順と服従自体は、いかなる状況でも人間と神様の究極的目的の具現である。神様は人間を完成の道に善導するために特別な戒めを下さる。父母は子女が社会で成長し、聖賢になることを念願し、子女に規範を遵守しなさいと教える。神様がアダムとエバに戒めを下さったのは、彼らの究極的目的、すなわち愛の実現にある。今日の私達の戒めも、やはり神様と人間の愛の実現にある。


①神様のみ旨と戒めへの従順

―宗教経典―

神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン2.112 (イスラーム)

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
申命記10.12 ~ 13(キリスト教)

主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上15.22 (キリスト教)
数千、数万と捧げる諸儀式も、心を清めることはできず、いくら長く続く無我の恍惚境もまたそうである。全世界をすべてもったとしても、燃え上がる欲望と貪欲を消すことはできず、尽きることのない知識も解脱をもたらすことはない。だとすれば創造者にどのように真実でいることができるだろうか。どのように迷いの壁を崩すのか。ただ彼の命令と御意志に従うだけである。
アーディ・グラント、ジャプジー1M1、P.1 (シーク教)

あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。

あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。

では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6.16 ~ 23(キリスト教)

 

―み言選集―

働くにおいて絶対服従し、生活するにおいて絶対服従し、心情問題に入っても絶対服従し、天の法度を立てていかなければなりません。
(45-88、1971.6.13)

自分が起源ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。

動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的
な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。
(36-64、1970.11.15)

社会生活で、会社に行っても、「会社はなぜこうなのか。私の好きなようにしよう」。アメリカ自体もそうです。「たくさんの法律があって、このようにもできず、あのようにもできない。これはどういうことだ!」とすべて否定します。大統領が何だ、知事が何だ……。そのように考えれば、宗教も、どの社会もすべて同じです。そのような道は、誰もが行くのです。人であれば、誰もが行っています。

宗教の道は違います。宗教の道は、特別な道です。宗教生活は、この世界で二つの世界の生活をしていることを私達は知らなければなりません。二つの世界の生活をしています。それをはっきりと知らなければならないのです。はっきり知らなければなりません。言い換えれば、二つの世界を生きている人です。社会の人として、ほかの人たちと同じ生活をしている人であり、もう一つは、ほかの分野の一つの世界に向かっていっているのです。
(92-298、1977.4.24)

お父様!私達が置かれている立場は、宇宙の中心にいらっしゃり、高く自存される立場で、愛を中心とする理想の主であられるお父様とは、あまりにも掛け離れていることを自ら悟っていますので、この遠い距離を埋めるためには、順理的路程の恨めしい復帰の道が横たわっていることを知っています。
(110-65 ~ 66、1980.11.9)

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