10.貞淑
経典で貞淑な衣服と最小限の化粧が願わしいと教える理由は、内的に純潔な生活を追求するためである。個人の外形は、その人の内面を反映する。濃く化粧した顔と貞淑でない衣装は、放蕩な心を示す表示である反面、地味な衣装と飾ることのない自然な顔は、温和で純粋な霊魂を表現してくれる。
美しさとは、神聖なものでありながら、誘惑を引き起こす原因でもある。これは個人の動機にかかっている。このような側面から文鮮明先生は、次のような赤裸々な質問を投げ掛けられる。
「誰のために化粧をするのですか。夫のため、でなければほかの男性のためですか」。「ほかの人たちが私を愛してくれることを願って飾るのですか、でなければその人たちに愛を分けてあげるために飾るのですか」。
①貞淑な身なり
―宗教経典―
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
テモテヘの手紙一2.9 ~ 11(キリスト教)
男の信者たちに言え、(己れの係累以外の婦人に対しては)「かれらの視線を低うし、貞淑を守れ」。それはかれらのために一段と清廉である。神はかれらの行うことを熟知したもう。
信者の女たちに言え、かの女らの視線を低うし、貞淑を守れ、外に現れるもののほかは、かの女らの美や飾りを目だたせてはならぬ、それからヴェイルをその胸の上にたれよ。己れの夫または父のほかは、かの女の美や飾りを現わしてはならぬ、……または女のからだに意識をもたぬ幼児のほかは。またかの女らの飾りの隠れたものを知らしめるため、その足で地を打ってはならぬ。なんじら信者よ、こぞって神に悔悟して帰依しまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。(注20)
クルアーン24.30 ~ 31(イスラーム)
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
ペトロの手紙一3.3 ~ 5(キリスト教)
女性よ、顔を装う前に、自らあなたの主にふさわしくあれ。もし主があなたの寝室に入らなければ、あなたの装いは何の意味があるか。装いの美は主にふさわしい女性のものなので、彼女の装いがふさわしくあれば、彼女は主の愛を得るだろう。主を畏敬して彼女が装うようになり、神と共に彼女の香りを楽しみ、彼女の暮らしを愛せよ。心と体を主に捧げ、まず彼女が主を愛して一つになるようにせよ。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p,788(シーク教)
『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)
人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。(注21)
スッタニパータ205 ~ 206(仏教)
一み言選集―
化粧をした美人の顔と化粧をしていない美人の顔が笑うとき、どちらの顔がより調和していると思いますか。皆さん、幼い子供たちを見れば、みなかわいいでしょう? もしその顔に眉毛を描き、唇を描いて化粧をしたとすればどうですか。それがどれほど気分の悪いものか考えてみてください。
皆さんもそうなのに、私達よりもずっと年を取った神様はどうでしょうか。私達人間が化粧して喜ぶのを神様が見るとき、化粧をした幼い子供を見て私達が気分を悪くするよりも、はるかにもっと気分を悪くするかもしれないと、私は考えます。
(97-49 ~ 50、1978.2.26)
皆さんは、神様が見ても倒れ、においをかいでも倒れ、ぶつかっても外に倒れる群れです。そのような人間の中で、女性だからといって、「私は化粧をする。ネックレスをする。イヤリングをする。指輪をはめる。神様が喜ぶだろう!」と言います。考えてみてください。それがどれほどこっけいで、どれほど唖然とすることですか。
(94-42、1977.6.26)
女性たちが化粧をするのは、自分の夫のためにするのですか、ほかの人たちによく見せるためにするのですか。夫だけのためですか。夫はそのようなことは喜びません。マニキュアを塗った爪は、きつねの足の爪のようだと思うのです。とても危険です。愛する夫がその足の爪を触りたいと思いますか。
それがよいのならば、「毎日塗ってくれ」と言うでしょう。それを塗ってくれる夫がいますか。そのような人が一人でもいますか。私は一人も見ていません。それが正にサタンの電波です。サタンが電波を送れば、女性が化粧をするのです。
(201-104 ~ 105、1990.3.11)
おしろいをぬって香水をかけてでも、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において負債を負ってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇のトップ女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
(27-88, 1969.11.26)
女性たちが鏡台の前に座って化粧するのは、「ああ、私を愛してください。私を思ってください!」、それでするのですか。人が見て喜ぶためにするのですか。二つのうちでどちらのほうにより心を置いていますか。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのです。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのではないですか。そのような立場は、サタン側に属するのです。
蝶はまだらで美しいです。花も美しいのです。なぜですか。全体を喜ばせるためのものだからです。「私が化粧をするのは、花のように、蝶のように、全体を喜ばせ、美しくするためだ」と思えば、そのようなときは、いくら化粧をしてもかまわないというのです。そのように違ってくるのです。一つは地獄であり、一つは天国になるということです。
(129-316 ~ 317、1983.12.1)
②貞淑な品行
―宗教経典―
「人に対して高慢におまえの頬(ほう)をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き、足首の飾りを鳴らしている。主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い、彼女らの額をあらわにされるであろう。
イザヤ書3.16 ~ 17(キリスト教)
あなたがりっぱな外貌をもったとして淫蕩を求めてはならない。代わりにあなたにその美を下さった創造主、神に栄光をお返しし、その方を畏敬して賛美せよ。
プスィクタ・ラッバティ127 a(ユダヤ教)
美しい女性を見る者はこのように言わなければならない。「宇宙にこのような美を創造されたその方を祝福してください」。しかし、美しい女性を少しでも見つめることが容認されるのか。次の聖句を見てみよう。「すべての汚れから身を守らねばならない」(申命記23 章10 節)。
これは美しい女性をむやみに見つめてはいけないという意味まで含んでいる。さらに、その女性が婚姻していようとしていまいと、顔が良くなかろうと、派手な服を着ていようと、どのような女性もあからさまに見てはいけないということである。さらには、豚やろば、鶏が交尾するのを見てはいけない。
タルムード、アヴォダー・ザラー20ab(ユダヤ教)
恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
法句経244 ~ 245 (仏教)
―み言選集―
愛にも愛する手順があります。愛の法度があるということです。夫の父母が呼んでいるのに、「ああ、お父さん、お母さん、ちょっと待ってください!私はキスをするので待ってくださ!」、そのように言うことができますか。アメリカ式は「イエス」でしょう? 秩序と法度がなければなりません。夫なら夫としての礼儀があり、妻なら妻としての礼儀があります。
(112-65、1981.3.29)
皆さんが、「その家は立派な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子女たちは、何であっても注意しなければなりません。すなわち、立派な家門で育った息子、娘たちは、何であっても注意しなければならないということです。
一歩踏み出すのにも注意しなければならず、言葉一言にも注意しなければならず、何かの行動をするときにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことを好む人がいますか。最近は、自由が度を超して放縦的な自由になり、今ではもう飽和状態にまで至り、とても深刻になっています。最近の若い人たちは、そのような礼法を好みますか。ですから、そのままほうっておいてはすべて滅びるのです。行く所がないということです。
威厳のある家では、子女を教育できる材料がたくさんあります。目上の人に接するとき、兄弟に接するとき、父母に接するときどのようにしなさいと、育ち盛りの子供たちを集めて教えるのです。
(42-17 ~ 18、1971.2.19)
エルビス・プレスリーが歌を一曲歌えば、飛びついて抱きついてくるのは男性ですか、女性ですか。恐らく、エルビス・プレスリーを好きな人は、エルビス・プレスリーが「今晩、私を好きな女性たちは来なさい」と言えば、ずらっと列をつくるでしょう。アメリカの女性たちは、夫がいても行くでしょう。
そのように見るとき、歌を歌って世界チャンピオンだという人は、善の種類の人ですか、悪の種類の人ですか。サタン側です。世界のスターというその男性や女性は、すべてサタン側です。それでは、このようにオイルを塗り、めかし込んで美人になろうというのは、男性でも女性でも、どちらの側ですか。サタン側です。
(122-263、1982.11.21)
11.純潔
純潔とは、性的欲望を抑制し、婚前の性関係を結ばずに、結婚後に配偶者とのみ愛することを意味する。純潔な愛の最高の喜びを享受するために結婚制度が必要である。修道僧や修道女たちの禁欲生活は、彼ら少数が選択した人生である。彼らは、天が下さった愛を受け、愛したい欲求まで犠牲にすることを覚悟した人たちである。
神様は、人間たちが互いに愛し、家庭を築き、子女を育てて子々孫々繁栄することを願われて人間を創造された。このような面から、結婚生活での夫婦関係は、神様が下さった最高の贈り物であり、祝福であり、限りない喜びの体験である。
しかし、堕落人間たちは、自分の性的欲求が結婚の結合の中にとどまるように訓練できずにいる。これは訓練が必要である。宗教は、伝統的にこの目的のために奉仕してきた。姦通罪が罪の中で最も悪い罪だと多くの宗教で教える。
そして、心で肉身の欲望を屈服させ、罪の誘惑を避けるために、行動の変更を制限することを教える。また、結婚を神聖な儀式として見つめる。
しかし、今日の世俗の社会で人々は、欲望を抑制する訓練を忘れて生きている。乱雑な性行為と「フリーセックス」が至る所でなされており、その場限りの幸福ばかりを追求するのであって、それから招来する挫折と傷心、家庭の崩壊は考えることができずにいる。結婚が危機にある。結婚の永遠性を不信する多くの若者たちは、結婚より同居を選んでいる。貞節を守る結婚本来の基準は忘れられ、同性愛が代案の生き方として定着している。
文鮮明先生は、とても直接的に、熱心にこの部分に対して語られる。人間の堕落がすなわち不倫の愛から始まったという原理のみ言に基づき、あらゆる罪と犯罪、不幸と苦痛の根源が、愛を誤って使用したからであると教える。(第6章参照)。堕落は、人間をして愛の価値を低下させ、愛を誤って使用するようにした。したがって、このように誤った愛を神様と人間が連結される地点から本来の天の目的まで高揚させることが私達の使命である。結婚した夫婦の愛は聖なる行為であり、文鮮明先生はこれを「絶対性」と呼ばれる。夫と妻の愛は、人間に対する神様の愛のような絶対性をもっている。それに適合できないものは、天とはだんだんと離れていくだけである。
①最も深刻な罪、姦淫をしてはならない
―宗教経典―
(仁慈者のしもべたちは)姦淫せぬ者、およそこれをなす者は、処刑にあう、復活の日には、懲罰は罪に応じ倍加され、その中で屈辱のうちに住むであろう。
クルアーン25.68 ~ 69 (イスラーム)
結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
ヘブライ人への手紙13.4 (キリスト教)
或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニバータ123 (仏教)
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談(注22)もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。
このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 6(キリスト数)
私通の危険に近づいてはならぬ、それは醜行である。憎むべき道である。
クルアーン17.32(イスラーム)
人は他人の妻に対し淫乱な思いを抱いてはならない。ましてやそのために彼女に言い寄ってはならない。何故ならそのような男は、将来這い回る虫に生まれ変わるであろう。姦通の罪を犯す者は、現世においでも来世においても罰せられる。なぜなら、彼の現世において生きる日々は短縮され、死ねば地獄へ落ちるからである。
ヴィシュヌ・プラーナ3.11 (ヒンドゥー教)
主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「私の床に入りなさい。」
しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手にゆだねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
創世記39.6 ~ 9(キリスト教)
放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に堕ちる。禍をまねき、悪しきところ(地獄)に堕ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。
法句経309 ~ 310 (仏教)
あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源は溢れ出て、広場に幾筋もの流れができるであろう。その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。
あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り常にその愛に酔うがよい。
わが子よ、どうしてよその女に酔うことがあろう。異邦の女の胸を抱くことがあろう。人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり、自分の罪の綱が彼を捕える。諭しを受け入れることもなく、重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
箴言5.15 ~ 23(キリスト教)
神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
テサロニケの信徒への手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)
体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。
人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一6.13 ~ 20(キリスト教)
―み言選集―
愛を寵絡し、愛を蹂躙することは、宇宙の犯罪の中の最高の犯罪です。男性でも女性でも、自分の愛が蹂躙されるようになるときは、首を切ってしまいたいと思うのです。首を切ってしまいたいと思い、命を捨ててしまいたいという思いになるのです。それを知らなければなりません。
愛に対して罪を犯すことは、この宇宙のすべての生命の根源より、もっと大きな犯罪を行うことだという事実を私達は知らなければなりません。
(92-79、1977.3.20)
人間先祖のアダムどエバをはじめ、人類の歴史上たくさんの英雄や道人たちが越えられなかった峠が、正にこの純潔な愛の峠でした。純潔に対しては、家庭はもちろん、学校と教会、そして政府さえも責任をもてないというのが今日の問題点です。
純潔を守る最善の方案として、私が教えてきたことは「絶対性」です。これは、一度結ばれた愛の相対は永遠のものであり、いかなる条件下でも、変わることのできない絶対的愛の関係だという意味です。なぜかというと、二人の配偶者の出会いは永遠であり、絶対的な神様の愛を中心としているものだからです。これは男性にだけ強調されるものではなく、女性にだけ該当するものでもありません。男女すべてが絶対的に守るべき天倫なのです。
一方で、フリーセックスこそ、この地球上から完全に根絶させるべき邪悪な風潮です。このフリーセックスと関連した諸要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのように、人類を破滅に追い込む因子なのです。
(288-283 ~ 284、1997.11.30)
フリーセックスは、すべてのものを開いてしまう行為です。毒蛇が口を開けているのです。女性の生殖器がそのようなものであり、男性の生殖器が蛇の頭です。これがエイズを広めています。この毒蛇に一度かまれれば、理想世界は終わるのです。アメリカの女性たちの舌は、蛇の舌のように二つになっています。
良心を中心として、それをどのように完全に征服するのかということが問題です。それを教える所がいわゆる宗教世界だというのです。ですから、宗教はどのように体を征服するのかを教えます。それで、「酒を飲むな、たばこを吸うな、フリーセックスをするな!」と言うのです。
(279-174、1996.8.4)
どうして一人の男性、一人の女性でなければならないのですか。アメリカ式で言えば、出会って一晩過ごし、グッバイすればそれで終わるのですが、一つの愛がどこにありますか。一人の男性と一人の女性がどこにいますか。一人の男性が何人もの男性になり、一人の女性が何人もの女性になってしまいます。
それがなぜ間違ったのですか。それがなぜ間違ったのかというのです。そこには真の愛が欠乏しているからです。真の愛とは何ですか。男性の真の愛と女性の真の愛は同じです。真の愛はここにありますが、これは男性の愛でもなく、女性の愛でもなく、一つしかないというのです。それで、男性は女性に対して、「私だけを愛しているだろう?」と言い、また女性は男性に対して、「私だけを愛しているでしょう?」と言うのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねます。みな尋ねるのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねて、「宇宙よりもっと大きく、一番大きく愛している」と言ってこそ「ほほほほ」と笑うのです。
(118-291、1982.6.20)
人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは、悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか、地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
愛と生命と血統は、男性と女性の生殖器で確定するのです。そこが神様と接する場です。神様と接する場というのは、私達人類の根本父母が訪ねてくることのできる場なのです。生殖器が愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮、良心の王宮です。出発地です。それがなければ、男性の生命と女性の生命が一つに出会う道がありません。その場で出会うのです。血統がそこで生じます。良心もそこを通さなければ、自分の良心が出てこないのです。
それを知らずにいます。私達個人にも愛があり、生命があり、血統があり、良心があるのですが、それがどこから出てくるのかというと、父母のそこから出てきます。父母の生殖器に通じた愛と連結しているのです。そのように貴いのです。
宇宙のすべての理想的伝統の核がその門を通って流れてきているというのです。永遠の生命の生水が流れてきているということです。永遠の生命の生水になるためには、愛がなければなりません。ですから、それが最も重要なのです。このように貴いものなので、貴いもの、宝物はこの自然の中に現れているのではなく、隠されているのです。
金もそうではないですか。長石のような所に入って組み込まれています。隠されているということです。ところが、堕落することによって、ひっくり返りました。女性がそれを自分のものだと考えたのです。それは自分のものではありません。愛を完成するにおいて、男性の愛を完成させようとすれば、女性のそれでなければ永遠に不可能です。女性の愛をもたらし得るものは、男性のそれでなければ永遠に成し遂げられません。
自分のものを中心としては、永遠に成し遂げられないのです。これが入れ替わらなければなりません。主人が誰かというと、男性のものは女性が主人であり、女性のものは男性が主人です。主人が入れ替わっているのです。
(300-320 ~ 321、1999.4.15)
②青少年の婚前禁欲
―宗教経典―
どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
詩編119.9 (キリスト教)
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
テモテヘの手紙二2.22(キリスト教)
恥ずかしいところを守る者、ただし配偶者ならびにその右手の所有する者は別である、……しかし則を越えて求める者、かれらは違犯者である。……これらは相続者で、パラダイスを継ぐ者である。
クルアーン23.5 ~ 11(イスラーム)
結婚の手だてが見つからぬ者は、神の恵みにより、富ませたもうまで自制せよ。……奴隷の娘たちが、貞操を守るよう願うならば、現世のはかない利益を求めて醜業を強制してはならぬ。
クルアーン24.33 (イスラーム)
人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「私はこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「私は娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。
町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、イスラエ
ルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
申命記22.13 ~ 21(キリスト教)
釈尊は説いていわれる。愛欲には種々の欲があるが、男女の間の色欲くらいその欲の甚だしいものはない。またその欲のこれ位に大きいものは外にはない。
こうした欲は甚だしく、また大きいといっても、頼(さいわ)いに一つだけであることから、この欲を何とかして制することがなし得るが、もしこれが二つもあったならば、この広い天下にあって能く仏道のためにする者は、誰もいないであろうと。(注23)
四十二章経24(仏教)
―み言選集―
未婚の女性たちは男性に目が行くでしょう? 男性を探そうとしても真の愛がありますか。男性たちは女性に真の愛があると思いますか。男性が信じられますか。女性が信じられますか。女性が生まれたのは男性のために生まれたのであり、男性は女性のために生まれたということを知っている男性、女性はいません。自分のために生まれたと思っているというのです。
それでは男性は何をするのですか。女性は何をするのですか。僕だと思っているのです。ために生きようとはしないのです。ために生きなければ愛はあり得ません。初愛は永遠なのです。
(297-145 ~ 146、1998.11.19)
20 代に近い青少年として、汚されず、染まっていない貴い純情を、大切に固く包んでどこに置くのでしょうか。天が最も喜び得るその祭壇の前に置き、神様が喜び、次には自分と同じ純情をもったそのような男性と女性が出会い、神様が共に結ばれ得る貴い基盤が、新郎新婦が出会う場です。
(64-85、1972.10.24)
青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩城できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに、貴く保存しなければなりません。
「千世、万世一人でいたとしても、愛が蹂躙されることは絶対にあり得ない」という貞節の決意をもたなければなりません。民族を愛し、国を愛さなければ、私か愛せる人と出会うことができません。世界を愛さなければ、愛せる人をもつことはできず、神様を愛さなければ愛する人をもつことはできないのです。これが統一教会の伝統的な思想です。
ですから、神様を愛し、世界を愛し、民族を愛したのちに自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則です。
(37-108、1970.12.22)
男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守れなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。たとえ大臣であっても、浮気をしてもよいようにはなっていません。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来るのです。「統一思想」を知れば、そのようにすることはできません。
(38-281、1971.1.8)
それで先生が祝福家庭の子供たちは早く結婚させなければならないと考えているのです。何の話か分かりますか。初愛です! それが何の言葉か理解できますか。皆さんもそのような意味を理解して、初愛を中心として思春期に相対と出会ったならばどれほど幸福ですか。初愛! 初愛! そのような初愛がなぜ必要なのかというと、純粋で何も分からない子供が父母を好むように、十分にそのようにできるからです。そのようにできる、理想的な夫婦になり、理想的な息子、娘をもち、理想的な父母に侍ったその人が、どれほど幸福か考えて
みてください。
(118-310、1982.6.20)
③触ったり見たりするのも禁止されるのか?
―宗教経典―
園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
創世記3.3 (キリスト教)
身の回りの世話をする、戯れる、装身具や衣服に触れる、寝台に一緒に座る、これらはすべて姦淫であると言われている。
マヌ法典8.357(ヒンドゥー教)
あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.27 ~ 28(キリスト教)
淫蕩な目つきは目の姦淫であり、淫乱な言葉は舌の姦淫である。(身体の)部分が実行に移そうと移すまいと、心は願い渇望する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
あなたが実際の犯罪をしていないのは真実である。しかし、あなたが他の人の家で美しい女性を見て、彼女をあなたの思いの中から振り払うことができなかったとき、あなたは心の中で彼女と姦通を犯したのである。瞬間を熟考せよ。
あなたが聖人ル・ナンジャ(LU Nan-tze)と似た位置にいるなら、あなたは聖人(ル・ナンジャ)を手本とし、自らに対する十分な統制をもっていることができるか。彼は、いつか女性が一人で暮らす家で夜を過ごさなければならなかったとき、彼は明かりをつけ、朝まで一人で本を読むことによって、彼女が不公正な嫌疑にさらされるのを避けた。
太上感応篇(道教)
釈尊は説いていわれる。仏道修行の上にあっては、愛欲に心が動かされる女を、慎んで視ることのないようにしなくてはならない。また共に語り合うことなどしてはならない。もしどうしても共に語り合わなくてはならないとしたら、自らの心を正して思念し、心が動揺しないようにすべきである。
そして自分は沙門である(注24)という自覚と信念とを持つべきである。濁世にあっても濁されることは、決してないことは、まさに蓮華が泥中に生じながらも、泥に汚されることのないことに思いを至すべきである。
どうしても女と出合わなくてはならないとしたら、老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)
―み言選集―
西洋式はとてもたくさん握手をするので、タッチの感覚がありません。しかし、東洋式は、少しだけ触れても、「う~」と言います。どうですか。男性と女性が、頻繁に接触するのがよいですか、すべて完成したときに接触するのがよいですか。
電気は、100 ボルトに接触するのがよいですか、50 ボルトに接触するのがよいですか。100 ボルトです。その時まで、ぴたっと……。どうですか。未婚の男女のときは、「会いなさい」ですか、「会ってはいけない」ですか。「会ってはいけない」です。これが100 ボルト、真っ赤に熟したのちに、手を出しただけでびりびりっと目が覚めるようになるときまで、待ちなさいというのです。
アメリカの女性たちは、初愛がどのようなものか分かりません。50 ボルトと30 ボルトは明るさが違います。アメリカ式の愛はどうですか。サタンが方便的にすべて高次的な愛の感触世界をひっきりなしに覗き見るのです。
思春期の男性にとって神秘の王宮が女性です。女性にとっては神秘の王宮が男性です。今、ミステリーとは何ですか。動物と同じです。猫が愛するのと子犬が愛するのは、縦的な愛がありません。それは動物的な愛であって、縦的な愛ではない
というのです。縦的な愛はありません。
(125-103 ~ 104、1983.3.13)
宗教を信じるにおいて、歴史時代のいかなる宗教が苦行をした以上の苦行をする宗教を訪ねていかなければなりません。この宗教生活とは何かというと、良心が拷問する拷問官になり、「この体よ、この体よ!」と、完全に倒れ込むまで拷問して降伏させ、二度と目を覚まさないように占領してしまうのです。
心が拷問してしまわなければならないのです。それで、正常な目が一度ひっくり返ったので、逆さまにひっくり返して正しくならなければなりません。180 度他の方向からすべて見ようと言うことができる目にならなければならず、これも180 度転換、すべて180 度転換しなければなりません。サタン側は左側を通して見ようとするのですが、これがすべてひっくり返って右側を通して見ることができるようになって正しくならなければならないのです。それで、180 度見えない目が良心の目と一つになって見ることができるよう、右側の360 度の本然の位置に戻らなければなりません。その次に、その見る目は心の目となり、100 パーセント見てもよいのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
④同性愛:フリーセックスの極致
―宗教経典―
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
レビ記18.22 (キリスト教)
菩薩……は五種の男性の能力のない男子に近づいて、それと親しみ懇ろになることがないように。(注25)
法華経14(仏教)
またロトをつかわしかれの人びとに、こう言ったときを思え「おまえたち以前に、どんな世でもしなかった、みだらな行いをしている」。「まことにおまえたちは、男性に近づき、また大道で強盗をはたらく、……」
(注26)
クルアーン29.28 ~ 29(イスラーム)
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもおとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
ローマの信徒への手紙1.26 ~ 27(キリスト教)
―み言選集―
フリー・セックスやホモセクシュアル、レズビアン運動などのすべてのものは、人間の権利と人間の権威を破綻させる一つの行動でしかないのです。
(128-35、1983.6.1)
サタンが最も好むものはフリーセックスです。神様は反対です。神様は「絶対性」を願います。天使長は相対がいません。それで、ホモ、レズビアンが出てくるのです。しかし、神側では絶対パートナーシップです。完全に反対の現象が終わりの日に起きます。
今そのような世界が、アメリカを中心として起きています。エデンの園でフリーセックスを主導したのがアダムとエバです。エデンに植えたものを今、収穫する峙になったのです。フリーセックスの種を植えたのですが、それを収穫する終わりの日になりました。それで全世界がフリーセックスの世界になったのです。家庭が壊れました。終わりの日にはサタン的な結果が現れます。それで、フリーセックスが充満した世界になったのです。
パートナーシップがないので「男性同士で結婚しよう!」と言うのです。
(282-27、1997.2.16)
天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。ところが今日、私達が身を置いている現在の世界を見てください。極度の利己主義の罠にかかり、物質万能を叫び、価値観を喪失したまま、享楽と腐敗の沼にはまり込んでいます。
アルコール中毒者がはびこり、麻薬やフリーセックスでも足らずに、今では近親相姦という獣にも劣る蛮行を勝手気ままに行っても、堂々と顔を上げて生きています。女王格の女性、祖母格の女性、母格の女性、妻格の女性、娘格の女性、このようにすべての段階の女性たちを蹂躙しても、世の中を闊歩する「人面獣心」の者たちが氾濫する世の中になってしまいました。夫婦同士で、お互いの夫と妻を取り替えて楽しむスワッピングが猛威を振るう世の中になってしまいました。
このような振る舞いこそ、人倫道徳破壊の極致であり、堕落行為の断末魔的姿にほかなりません。神様の創造理想世界の完成は、夢にも見ることができない地上地獄になってしまいました。
平和神経、平和メッセージ3、2006.4.10
ホモセックスが原理にありますか。レズビアン、アルコール中毒、このようなものはすべて情緒的な脱線です。このような世界が地獄です。私達はこれとは反対、180 度反対です。
(243-192、1993.1.10)
このアメリカで、同性恋愛をしていて統一教会に入ってきて、いまだにそのような因縁がすべて終わっていない人がいれば、それはそのまま地獄に行きます。それを知らなければなりません。そのまま地獄に行きます。統一教会で感銘を受ければ、それがすべて逃げていくのです。重生が起きるというのです。
いくら好きだったことでも、心が駄目だと言えば終わりです。すべてそのようにならなければなりません。そのようになっていない立場にいれば、涙を流して痛哭しながらそれを悔い改めて、祈祷しなければなりません。(注27)
(219-233、1991.9.8)
12.禁酒と節制
酒と麻薬、賭博は、幻覚的娯楽に見えるが、これらは大勢の人々を沼に陥れる。また人間を真理の光に対して見えなくさせ、良心の声を聞こえなくさせる。中毒にまでなれば、体を滅ぼし、家庭を破壊し、職業に影響を与え、さらには犯罪行為につながる反社会的行為を招来する。
実際に大勢の人たちが無意味な性関係をもつ前兆として、タブーを崩すための手段として酒と麻薬を利用することが知られている。たばこも同じ効果をもっている。たばこは、若者たちがより強い麻薬に接することに影響を及ぼすこともある。中毒を一種の病と見る現代医学とは異なり、世界の諸宗教は、人間個々人が酒と麻薬、賭博から自ら
を節制し、遠ざける人生を営為する責任があると教えている。
文鮮明先生は、自分の人生に満足できなかったり、愛が欠乏した者たちが、たばこと麻薬、酒に依存する傾向があると言われる。これらは愛の欠乏に対して良い代案ではない。酒と麻薬に対する解決策は真の愛である。幻覚的、一時的興奮は、真の愛の深い情緒的満足感と比べてみるとき、しがないことこの上ない。
―宗教経典―
なんじら信仰する者よ、まことに酒とかけ事、……は忌み嫌うべき悪魔の業である、これを避けよ。おそらくなんじらは成功するであろう。悪魔の望むところは、酒とかけ事によって、なんじらの間に、敵意と増悪を起こさせ、なんじらが神を念じ、礼拝をささげることを妨げようとする。それでもなんじらは慎まないか。
クルアーン5.90 ~ 91(イスラーム)
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。
エぺソの信徒への手紙5.18 (キリスト教)
阿片にはまった人に阿片に値するものはなく、魚は水に値するものはなく、神の愛にはまった者は万有を愛する。
アーディ・グラント、ヴァダハンスM.1、p.557 (シーク教)
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
ペテロの手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)
立派なお人柄の方は、酒を飲んでもおとなしい。あの愚かしい男は、ただ日ましに酔いまさる。みんな自分の生きかたを生きよ。運命とは絶対の
ものだ。
詩経、196 小宛(儒教)
災いだ、朝早くから濃い酒をあおり、夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず、御手の業を見ようともしない。
イザヤ書5.11 ~ 12(キリスト教)
財産を損う六つの行いとは、第一に酒に耽溺すること、第二にばくちをすること、第三に勝手気ままにふるまうこと、第四に歌舞に心をまどわすこと、第五に悪友と意気投合すること、第六に怠惰であること。
酒に心まどわす者は、さらに酒飲み仲間がいる。
たとえ財産を集めても、己の気ままに使い果たす。
酒を飲んでは節度を知らず、いつも歌舞にうつつを抜かす。
昼間はひとの家へぶらぶら出歩き、それがもとでわが身を破滅する。酒に心を狂わされ、貪しい身のほどをわきまえず、財を軽んじぜいたく三昧、家産を破ってわざわい招く。
ばくちをしては群れだって酒を飲み、共に他家の淫女をうかがいねらう。卑しい行いに慣れ親しんで、みそかに向かう月のように名をおとす。
阿含経長部iii、182 ~ 85、善生経(仏教)
不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か、理由なく傷だらけになっているのは誰か、濁った目をしているのは誰か。
それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると、それは蛇のようにかみ、蝮の毒のように広がる。
目は異様なものを見、心に暴言をはき始める。海の真ん中に横たわっているかのように、綱の端にぶら下がっているかのようになる。「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
箴言23.29 ~ 35(キリスト教)
ラビ・イサクが、箴言23 章31 節を引用して言った。「ぶどう酒は世の邪悪な赤い顔をもっている。しかし、主が来られるその時には、その色が薄くなるだろう」。ラビ・メイルが言った。「アダムが取って食べた木はぶどうの木だった。そしてぶどう酒は人間に痛嘆をもたらす」。
タルムード、サンヘドリン70ab(ユダヤ教)
高き〔木〕の耳飾りはわれを酔わしむ、風吹くところに生まれ、賭場に跳(は)ねまわるとき。ムージャヴァットに産するソーマの宴飲に似て、ヴィビーダカは眠ることなくわれに見えたり。
彼女(賭博者の妻)はわれを咎めざりき、怒りしこともなかりき。彼女は〔わが〕友達に、われにもまた親切なりき。一つ余りの骰子(さい)ゆえに、われは貞淑なる妻を離別せり。
姑は〔彼を〕憎み、妻は排斥す。援助を求むるも彼は憐愍(れんびん)者を見いださず。〔人はいう、〕「売りにだされし老馬のごとく、われ賭博者に何らの効用を認めず」と。
他の人々は彼の妻に触る。その彼の財産に、賭(かけ)を勝ちとる骰子は慾望を起せり。父・母・兄弟は彼についていう、「われらは〔彼を〕知らず。縛(いまし)めて彼を連れ去れ」と。
彼ら(骰子)もて賭博に耽らじと、われ心に思うとき、去り行く友達のあとにわれ〔ひとり〕残さる。また褐色のもの(骰子)が賭場に撒かれて声を挙ぐるや、われは実に彼らとの逢引に急ぐ、恋人をもつ女子(おなご)のごとく。
賭博者はサバー(賭博場)に行く、われ勝つべしやと自問しつつ、身を震わせて。骰子は彼の願望を齟齬(そご)せしめ、敵手(かたき)にクリタを授く。骰子は実に、鉤をもち、突き棒をもち、征服し、焼き苦しめ、熱苦をもたらす。
彼らの賜物は男児のそれに等しく、勝利者を再びうち負かす。彼らは、賭博者にとり、蜜もて混ぜられたり(魅力をもつ)、〔しかも〕破滅のために。
百五十よりなる彼らの一団は踊る、神サヴィトリ(激励の神)のごとく、その本性を実現して(刺激と活動)。
強力なる者の怒りにすら叩頭せず、王者すら実に彼らに頂礼(ちょうらい)す。下に向かいて転じ、上に向かいて跳ぶ。手なくして手ある者を克服す。この世のものならぬ炭として、賭場に撒かれたるとき、彼らは冷たくありながら、〔人の〕心を燃やす。
賭博者の妻はうち棄てられて悩む。いずことも知られず放浪する息子の母〔もまた〕。債務を負い、恐怖を抱き、財を求めて、彼は夜他人の家に近づく(盗むため)。
婦女を見たるとき、賭博者に悩みあり、他人の妻といみじく整えられたる住まいとを〔見たるとき〕。何となれば、彼は朝(あした)に褐色の馬を車に繋げり、〔夕(ゆうべ)に〕物乞(ものご)となりて炉火のほとりに身を横たえつ。
汝らの大いなる群の将帥、一団の最高の王者なる彼に、われは十〔指〕をさし伸ぶ。われ財宝を留め残さず。この真実の〔誓い〕を述ぶ。「骰子をもって賭博をなすなかれ。ただ田畑を耕せ。財産に満足してあれ、〔そを〕重く尊びて。そこに牝牛あり、賭博者よ、そこに妻あり。」これをサ
ヴィトリはわれに告ぐ、庇護なき者を助くるこの〔神〕は。乞う、われと和睦を結べ。われらを憐れめ。恐ろしき〔魔力〕もて、われらを酷(むご)く呪縛するなかれ。今や汝らの忿怒、敵意の鎮まらんことを。今や他の者をして褐色のものたち(骰子)の罠の中にあらしめよ。
リグ・ヴェーダ10.34 (ヒンドゥー教)
―み言選集―
良心が反対するものは悪いことです。ですから、社会が規制するのです。酒を飲まず、放蕩せず、賭博をするなというのです。これは根本を破綻させる行いです。愛の問題は家庭を破綻させ、賭博は社会を破綻させます。
(320-135、2000.4.1)
サタンは、どのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがたばこです。次に、液体の武器は酒です。それから、固体の武器は何ですか。麻薬です。このようにして、精神まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私達は、酒を飲まず、たばこを吸わないのです。それらは、人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じる精神を妨害する要素となるこの三つのものは、怨讐の最高の武器です。
(126-71、1983.4.10)
サタンは何をもって誘惑しますか。たばこです。女性が男性に「たばこを貸してください」と言い、男性が「いいよ」と言ってフリーセックスが介在します。セックスの概念が介在していることを知らなければなりません。東洋では男性たちがたばこを吸うのであって、女性たちはたばこを吸ってはいけないと言うのです。悪い女性として扱われます。吸うことができません。
ところが、女性が男性に「たばこを貸してください」と言うのは、「セックスしよう!」という意味です。そのような条件物です。餌です。それを知らなければなりません。「一緒にお酒を飲もう」と言うのも、「セックスしよう」と言うのと同じです。麻薬も同じものです。酒に酔ったあとは男性が女性を好きなようにするのです。女性が男性を好きなようにすることができ、男性も女性を好きなようにすることができるのです。そのように酔って何をするのですか。フリーセックスをするのです。麻薬もそうです。
(287-118 ~ 119、1997.9.19)
子女のために生きなければならない父母であるにもかかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲んで自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属します。サタンに属するのです。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。不幸です。よいですか、悪いですか。悪いです。その飲むこと自体は幸福なのでしょう? 酒を飲みながら踊りを踊って喜ぶではないですか。
それは永遠を維持することはできません。何日かすれば終わります。それによって環境的与件に破綻が伴うのです。それによって環境的与件が保護を受けることができず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-244、1983.2.20)
東洋に「酒色雑技(飲む・打つ・買う)」という言葉があります。これは何かというと、酒と女と賭博です。世界の犯罪事件はすべて、ここに由来しています。その背後に酒が、その次には女性関係が、その次には賭博が関係して起きるのです。大きな事件で女性と酒が排除されたケースがありますか。その次には麻薬です。麻薬は酒よりもっと強いのです。酔うようになります。酔うのです。麻薬をすれば女性関係が生じるものです。酒を飲めば、男女関係がすべて破壊されます。賭博場に行けば、千年の歴史を一度に賭けて打ち込むというのです。
(230-115 ~ 116、1992.4.26)
中国の人たちは、賭博をしていてお金がなくなれば、自分の財産を差し出し、妻を差し出します。そのようにして負ければ死ぬのです。僕と賭博をしたとしても、その僕と約束した掛け金を払わなければならないので、自分は死にます。死ねば彼の財産も僕がもち、妻もその僕が連れて暮らします。賭博はそのくらい恐ろしいのです。
(124-157 ~ 158、1983.2.6)
皆さんの家に真の愛がありますか。皆さんの答えに自信を感じません。「はい」と言うその手に、吸っていたたばこの黄色い物がついており、その酒の残りかすのにおいがします。真の愛があれば香りが漂わなければなりません。
(215-244、1991.2.20)
堕落は家庭から始まったので、復帰も家庭からしなければなりません。「歯には歯、目には目」と言うでしょう? 蕩減復帰もそのようにするのです。
堕落した世界に生きる家庭は、すべてサタンの家庭です。サタンが神様のみ旨とはすべて反対にしておいたのです。
それで今、家庭を見れば、おじいさんとおばあさんも怨讐であり、お父さんとお母さんも怨讐です。すべて怨讐にして、家庭でおじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、夫と妻、息子、娘がすべて否定するのです。そして、フリーセックスが乱舞する世の中になるのです。情緒的な感覚を訪ねていこうとするので、幻覚剤やアヘンが必要です。そのようなものを飲めば、幻覚世界で刺激が継続するので、自然にアヘンや麻薬に流れていきます。アルコールのようなものを飲むのも、すべてそのような理由めたのです。
(243-251、1993.1.17)
男性でも女性でも、愛の力をもてばすべての細胞が集約するようになっています。ですから、その刺激は最高の総合的な刺激です。その時こそ体と心が、対象と主体が完全に授け受けするのです。
この作用が普通の時は、ひたすら道理に従う法度どおりに作用しますが、愛すれば違います。普通の時は自然の作用をするのですが、愛の力をもつようになれば、100 パーセント爆発的な作用をするというのです。その衝撃的な刺激に酔ってしまいます。それで愛がよいのです。酒を飲むよりも、アヘンの注射をするよりも、いかなるものよりも刺激的なものなので、愛が一番なのです。
(117-76、1982.2.1)
神様の真の愛が真の父母から始まります。これを完全に取ってしまおうとするので、根がありません。根がなく、枝にくっついておらず、秋に落ちた実のように、すべて転がり回っています。ですから、一度にすべて掃いてしまうのです。行く所がありません。アメリカも行く所がなく、イギリスのような先進国も行く所がありません。日本も行く所がなく、ドイツも行く所がないことは同じです。この世界に行く所がありません。縦的な真の愛を失ってしまい、これを横的に取り戻そうとすべての家庭に手を出し、国に手を出し、ついにはフリーセックスに至るようになったのです。
愛には感情があり、高次元的な宇宙と通じ得るアンテナがあるのですが、それがすべてなくなったので、それを補充しようと麻薬を吸い、フリーセックスをするのです。
しかし、これでは補充できません。やればやるほどもっとなくなっていくのです。ですから、フリーセックスをすれば心がうれしくないのです。感情がすべて愛に陶酔していたその境地に入っていきたいと思う心、その瞬間を願うので、すべて幻覚、麻薬の世界と化してしまいます。そのような麻薬の世界では、想像で愛の感情を感じられます。麻薬の力が持続している間は、そのような感
情を感じられるのです。しかし、薬効が切れてしまえば、その感情も消えます。
真の愛は麻薬が問題ではありません。麻薬自体も真の愛のためにあります。そのようなことを考えてみてください。どれほど高次元的ですか。天地に「う~あ」と電気が通じれば、大きなラジオのスピーカー装置が「うう」となるように、線さえつなげれば宇宙が響くのです。「わあ」と響きます。真の愛の力がどれほど大きいか、人のようなものは問題ではないということです。すべて虜になります。真の愛を語れば、宇宙が踊るのです。すべてのものが踊ります。最近、硫行しているツイストのようなものは比較にもなりません。逆さまに飛び上がったりするのです。
(247-126-127、1993.5.1)
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