人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-49

2022年06月25日 17時01分37秒 | 学習

10.貞淑

経典で貞淑な衣服と最小限の化粧が願わしいと教える理由は、内的に純潔な生活を追求するためである。個人の外形は、その人の内面を反映する。濃く化粧した顔と貞淑でない衣装は、放蕩な心を示す表示である反面、地味な衣装と飾ることのない自然な顔は、温和で純粋な霊魂を表現してくれる。

美しさとは、神聖なものでありながら、誘惑を引き起こす原因でもある。これは個人の動機にかかっている。このような側面から文鮮明先生は、次のような赤裸々な質問を投げ掛けられる。

「誰のために化粧をするのですか。夫のため、でなければほかの男性のためですか」。「ほかの人たちが私を愛してくれることを願って飾るのですか、でなければその人たちに愛を分けてあげるために飾るのですか」。


①貞淑な身なり

―宗教経典―

同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
テモテヘの手紙一2.9 ~ 11(キリスト教)

男の信者たちに言え、(己れの係累以外の婦人に対しては)「かれらの視線を低うし、貞淑を守れ」。それはかれらのために一段と清廉である。神はかれらの行うことを熟知したもう。

信者の女たちに言え、かの女らの視線を低うし、貞淑を守れ、外に現れるもののほかは、かの女らの美や飾りを目だたせてはならぬ、それからヴェイルをその胸の上にたれよ。己れの夫または父のほかは、かの女の美や飾りを現わしてはならぬ、……または女のからだに意識をもたぬ幼児のほかは。またかの女らの飾りの隠れたものを知らしめるため、その足で地を打ってはならぬ。なんじら信者よ、こぞって神に悔悟して帰依しまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。(注20)
クルアーン24.30 ~ 31(イスラーム)

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
ペトロの手紙一3.3 ~ 5(キリスト教)

女性よ、顔を装う前に、自らあなたの主にふさわしくあれ。もし主があなたの寝室に入らなければ、あなたの装いは何の意味があるか。装いの美は主にふさわしい女性のものなので、彼女の装いがふさわしくあれば、彼女は主の愛を得るだろう。主を畏敬して彼女が装うようになり、神と共に彼女の香りを楽しみ、彼女の暮らしを愛せよ。心と体を主に捧げ、まず彼女が主を愛して一つになるようにせよ。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p,788(シーク教)

『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)

人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。(注21)
スッタニパータ205 ~ 206(仏教)


一み言選集―

化粧をした美人の顔と化粧をしていない美人の顔が笑うとき、どちらの顔がより調和していると思いますか。皆さん、幼い子供たちを見れば、みなかわいいでしょう? もしその顔に眉毛を描き、唇を描いて化粧をしたとすればどうですか。それがどれほど気分の悪いものか考えてみてください。

皆さんもそうなのに、私達よりもずっと年を取った神様はどうでしょうか。私達人間が化粧して喜ぶのを神様が見るとき、化粧をした幼い子供を見て私達が気分を悪くするよりも、はるかにもっと気分を悪くするかもしれないと、私は考えます。
(97-49 ~ 50、1978.2.26)

皆さんは、神様が見ても倒れ、においをかいでも倒れ、ぶつかっても外に倒れる群れです。そのような人間の中で、女性だからといって、「私は化粧をする。ネックレスをする。イヤリングをする。指輪をはめる。神様が喜ぶだろう!」と言います。考えてみてください。それがどれほどこっけいで、どれほど唖然とすることですか。
(94-42、1977.6.26)

女性たちが化粧をするのは、自分の夫のためにするのですか、ほかの人たちによく見せるためにするのですか。夫だけのためですか。夫はそのようなことは喜びません。マニキュアを塗った爪は、きつねの足の爪のようだと思うのです。とても危険です。愛する夫がその足の爪を触りたいと思いますか。

それがよいのならば、「毎日塗ってくれ」と言うでしょう。それを塗ってくれる夫がいますか。そのような人が一人でもいますか。私は一人も見ていません。それが正にサタンの電波です。サタンが電波を送れば、女性が化粧をするのです。
(201-104 ~ 105、1990.3.11)

おしろいをぬって香水をかけてでも、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において負債を負ってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇のトップ女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
(27-88, 1969.11.26)

女性たちが鏡台の前に座って化粧するのは、「ああ、私を愛してください。私を思ってください!」、それでするのですか。人が見て喜ぶためにするのですか。二つのうちでどちらのほうにより心を置いていますか。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのです。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのではないですか。そのような立場は、サタン側に属するのです。

蝶はまだらで美しいです。花も美しいのです。なぜですか。全体を喜ばせるためのものだからです。「私が化粧をするのは、花のように、蝶のように、全体を喜ばせ、美しくするためだ」と思えば、そのようなときは、いくら化粧をしてもかまわないというのです。そのように違ってくるのです。一つは地獄であり、一つは天国になるということです。
(129-316 ~ 317、1983.12.1)


②貞淑な品行

―宗教経典―

「人に対して高慢におまえの頬(ほう)をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)

主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き、足首の飾りを鳴らしている。主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い、彼女らの額をあらわにされるであろう。
イザヤ書3.16 ~ 17(キリスト教)

あなたがりっぱな外貌をもったとして淫蕩を求めてはならない。代わりにあなたにその美を下さった創造主、神に栄光をお返しし、その方を畏敬して賛美せよ。
プスィクタ・ラッバティ127 a(ユダヤ教)

美しい女性を見る者はこのように言わなければならない。「宇宙にこのような美を創造されたその方を祝福してください」。しかし、美しい女性を少しでも見つめることが容認されるのか。次の聖句を見てみよう。「すべての汚れから身を守らねばならない」(申命記23 章10 節)。

これは美しい女性をむやみに見つめてはいけないという意味まで含んでいる。さらに、その女性が婚姻していようとしていまいと、顔が良くなかろうと、派手な服を着ていようと、どのような女性もあからさまに見てはいけないということである。さらには、豚やろば、鶏が交尾するのを見てはいけない。
タルムード、アヴォダー・ザラー20ab(ユダヤ教)

恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
法句経244 ~ 245 (仏教)


―み言選集―

愛にも愛する手順があります。愛の法度があるということです。夫の父母が呼んでいるのに、「ああ、お父さん、お母さん、ちょっと待ってください!私はキスをするので待ってくださ!」、そのように言うことができますか。アメリカ式は「イエス」でしょう? 秩序と法度がなければなりません。夫なら夫としての礼儀があり、妻なら妻としての礼儀があります。
(112-65、1981.3.29)

皆さんが、「その家は立派な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子女たちは、何であっても注意しなければなりません。すなわち、立派な家門で育った息子、娘たちは、何であっても注意しなければならないということです。

一歩踏み出すのにも注意しなければならず、言葉一言にも注意しなければならず、何かの行動をするときにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことを好む人がいますか。最近は、自由が度を超して放縦的な自由になり、今ではもう飽和状態にまで至り、とても深刻になっています。最近の若い人たちは、そのような礼法を好みますか。ですから、そのままほうっておいてはすべて滅びるのです。行く所がないということです。

威厳のある家では、子女を教育できる材料がたくさんあります。目上の人に接するとき、兄弟に接するとき、父母に接するときどのようにしなさいと、育ち盛りの子供たちを集めて教えるのです。
(42-17 ~ 18、1971.2.19)

エルビス・プレスリーが歌を一曲歌えば、飛びついて抱きついてくるのは男性ですか、女性ですか。恐らく、エルビス・プレスリーを好きな人は、エルビス・プレスリーが「今晩、私を好きな女性たちは来なさい」と言えば、ずらっと列をつくるでしょう。アメリカの女性たちは、夫がいても行くでしょう。

そのように見るとき、歌を歌って世界チャンピオンだという人は、善の種類の人ですか、悪の種類の人ですか。サタン側です。世界のスターというその男性や女性は、すべてサタン側です。それでは、このようにオイルを塗り、めかし込んで美人になろうというのは、男性でも女性でも、どちらの側ですか。サタン側です。
(122-263、1982.11.21)


11.純潔

純潔とは、性的欲望を抑制し、婚前の性関係を結ばずに、結婚後に配偶者とのみ愛することを意味する。純潔な愛の最高の喜びを享受するために結婚制度が必要である。修道僧や修道女たちの禁欲生活は、彼ら少数が選択した人生である。彼らは、天が下さった愛を受け、愛したい欲求まで犠牲にすることを覚悟した人たちである。

神様は、人間たちが互いに愛し、家庭を築き、子女を育てて子々孫々繁栄することを願われて人間を創造された。このような面から、結婚生活での夫婦関係は、神様が下さった最高の贈り物であり、祝福であり、限りない喜びの体験である。

しかし、堕落人間たちは、自分の性的欲求が結婚の結合の中にとどまるように訓練できずにいる。これは訓練が必要である。宗教は、伝統的にこの目的のために奉仕してきた。姦通罪が罪の中で最も悪い罪だと多くの宗教で教える。

そして、心で肉身の欲望を屈服させ、罪の誘惑を避けるために、行動の変更を制限することを教える。また、結婚を神聖な儀式として見つめる。

しかし、今日の世俗の社会で人々は、欲望を抑制する訓練を忘れて生きている。乱雑な性行為と「フリーセックス」が至る所でなされており、その場限りの幸福ばかりを追求するのであって、それから招来する挫折と傷心、家庭の崩壊は考えることができずにいる。結婚が危機にある。結婚の永遠性を不信する多くの若者たちは、結婚より同居を選んでいる。貞節を守る結婚本来の基準は忘れられ、同性愛が代案の生き方として定着している。

文鮮明先生は、とても直接的に、熱心にこの部分に対して語られる。人間の堕落がすなわち不倫の愛から始まったという原理のみ言に基づき、あらゆる罪と犯罪、不幸と苦痛の根源が、愛を誤って使用したからであると教える。(第6章参照)。堕落は、人間をして愛の価値を低下させ、愛を誤って使用するようにした。したがって、このように誤った愛を神様と人間が連結される地点から本来の天の目的まで高揚させることが私達の使命である。結婚した夫婦の愛は聖なる行為であり、文鮮明先生はこれを「絶対性」と呼ばれる。夫と妻の愛は、人間に対する神様の愛のような絶対性をもっている。それに適合できないものは、天とはだんだんと離れていくだけである。


①最も深刻な罪、姦淫をしてはならない

―宗教経典―

(仁慈者のしもべたちは)姦淫せぬ者、およそこれをなす者は、処刑にあう、復活の日には、懲罰は罪に応じ倍加され、その中で屈辱のうちに住むであろう。
クルアーン25.68 ~ 69 (イスラーム)

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
ヘブライ人への手紙13.4 (キリスト教)

或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニバータ123 (仏教)

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談(注22)もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。

このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 6(キリスト数)

私通の危険に近づいてはならぬ、それは醜行である。憎むべき道である。
クルアーン17.32(イスラーム)

人は他人の妻に対し淫乱な思いを抱いてはならない。ましてやそのために彼女に言い寄ってはならない。何故ならそのような男は、将来這い回る虫に生まれ変わるであろう。姦通の罪を犯す者は、現世においでも来世においても罰せられる。なぜなら、彼の現世において生きる日々は短縮され、死ねば地獄へ落ちるからである。
ヴィシュヌ・プラーナ3.11 (ヒンドゥー教)

主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「私の床に入りなさい。」

しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手にゆだねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
創世記39.6 ~ 9(キリスト教)


放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に堕ちる。禍をまねき、悪しきところ(地獄)に堕ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。
法句経309 ~ 310 (仏教)

あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源は溢れ出て、広場に幾筋もの流れができるであろう。その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。

あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り常にその愛に酔うがよい。

わが子よ、どうしてよその女に酔うことがあろう。異邦の女の胸を抱くことがあろう。人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり、自分の罪の綱が彼を捕える。諭しを受け入れることもなく、重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
箴言5.15 ~ 23(キリスト教)

神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
テサロニケの信徒への手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)

体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一6.13 ~ 20(キリスト教)


―み言選集―

愛を寵絡し、愛を蹂躙することは、宇宙の犯罪の中の最高の犯罪です。男性でも女性でも、自分の愛が蹂躙されるようになるときは、首を切ってしまいたいと思うのです。首を切ってしまいたいと思い、命を捨ててしまいたいという思いになるのです。それを知らなければなりません。

愛に対して罪を犯すことは、この宇宙のすべての生命の根源より、もっと大きな犯罪を行うことだという事実を私達は知らなければなりません。
(92-79、1977.3.20)

人間先祖のアダムどエバをはじめ、人類の歴史上たくさんの英雄や道人たちが越えられなかった峠が、正にこの純潔な愛の峠でした。純潔に対しては、家庭はもちろん、学校と教会、そして政府さえも責任をもてないというのが今日の問題点です。
純潔を守る最善の方案として、私が教えてきたことは「絶対性」です。これは、一度結ばれた愛の相対は永遠のものであり、いかなる条件下でも、変わることのできない絶対的愛の関係だという意味です。なぜかというと、二人の配偶者の出会いは永遠であり、絶対的な神様の愛を中心としているものだからです。これは男性にだけ強調されるものではなく、女性にだけ該当するものでもありません。男女すべてが絶対的に守るべき天倫なのです。

一方で、フリーセックスこそ、この地球上から完全に根絶させるべき邪悪な風潮です。このフリーセックスと関連した諸要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのように、人類を破滅に追い込む因子なのです。
(288-283 ~ 284、1997.11.30)

フリーセックスは、すべてのものを開いてしまう行為です。毒蛇が口を開けているのです。女性の生殖器がそのようなものであり、男性の生殖器が蛇の頭です。これがエイズを広めています。この毒蛇に一度かまれれば、理想世界は終わるのです。アメリカの女性たちの舌は、蛇の舌のように二つになっています。
良心を中心として、それをどのように完全に征服するのかということが問題です。それを教える所がいわゆる宗教世界だというのです。ですから、宗教はどのように体を征服するのかを教えます。それで、「酒を飲むな、たばこを吸うな、フリーセックスをするな!」と言うのです。
(279-174、1996.8.4)

どうして一人の男性、一人の女性でなければならないのですか。アメリカ式で言えば、出会って一晩過ごし、グッバイすればそれで終わるのですが、一つの愛がどこにありますか。一人の男性と一人の女性がどこにいますか。一人の男性が何人もの男性になり、一人の女性が何人もの女性になってしまいます。

それがなぜ間違ったのですか。それがなぜ間違ったのかというのです。そこには真の愛が欠乏しているからです。真の愛とは何ですか。男性の真の愛と女性の真の愛は同じです。真の愛はここにありますが、これは男性の愛でもなく、女性の愛でもなく、一つしかないというのです。それで、男性は女性に対して、「私だけを愛しているだろう?」と言い、また女性は男性に対して、「私だけを愛しているでしょう?」と言うのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねます。みな尋ねるのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねて、「宇宙よりもっと大きく、一番大きく愛している」と言ってこそ「ほほほほ」と笑うのです。
(118-291、1982.6.20)

人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは、悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか、地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)

愛と生命と血統は、男性と女性の生殖器で確定するのです。そこが神様と接する場です。神様と接する場というのは、私達人類の根本父母が訪ねてくることのできる場なのです。生殖器が愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮、良心の王宮です。出発地です。それがなければ、男性の生命と女性の生命が一つに出会う道がありません。その場で出会うのです。血統がそこで生じます。良心もそこを通さなければ、自分の良心が出てこないのです。

それを知らずにいます。私達個人にも愛があり、生命があり、血統があり、良心があるのですが、それがどこから出てくるのかというと、父母のそこから出てきます。父母の生殖器に通じた愛と連結しているのです。そのように貴いのです。

宇宙のすべての理想的伝統の核がその門を通って流れてきているというのです。永遠の生命の生水が流れてきているということです。永遠の生命の生水になるためには、愛がなければなりません。ですから、それが最も重要なのです。このように貴いものなので、貴いもの、宝物はこの自然の中に現れているのではなく、隠されているのです。
金もそうではないですか。長石のような所に入って組み込まれています。隠されているということです。ところが、堕落することによって、ひっくり返りました。女性がそれを自分のものだと考えたのです。それは自分のものではありません。愛を完成するにおいて、男性の愛を完成させようとすれば、女性のそれでなければ永遠に不可能です。女性の愛をもたらし得るものは、男性のそれでなければ永遠に成し遂げられません。

自分のものを中心としては、永遠に成し遂げられないのです。これが入れ替わらなければなりません。主人が誰かというと、男性のものは女性が主人であり、女性のものは男性が主人です。主人が入れ替わっているのです。
(300-320 ~ 321、1999.4.15)


②青少年の婚前禁欲

―宗教経典―

どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
詩編119.9 (キリスト教)

若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
テモテヘの手紙二2.22(キリスト教)

恥ずかしいところを守る者、ただし配偶者ならびにその右手の所有する者は別である、……しかし則を越えて求める者、かれらは違犯者である。……これらは相続者で、パラダイスを継ぐ者である。
クルアーン23.5 ~ 11(イスラーム)


結婚の手だてが見つからぬ者は、神の恵みにより、富ませたもうまで自制せよ。……奴隷の娘たちが、貞操を守るよう願うならば、現世のはかない利益を求めて醜業を強制してはならぬ。
クルアーン24.33 (イスラーム)

人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「私はこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「私は娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。

町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、イスラエ
ルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
申命記22.13 ~ 21(キリスト教)

釈尊は説いていわれる。愛欲には種々の欲があるが、男女の間の色欲くらいその欲の甚だしいものはない。またその欲のこれ位に大きいものは外にはない。

こうした欲は甚だしく、また大きいといっても、頼(さいわ)いに一つだけであることから、この欲を何とかして制することがなし得るが、もしこれが二つもあったならば、この広い天下にあって能く仏道のためにする者は、誰もいないであろうと。(注23)
四十二章経24(仏教)

―み言選集―

未婚の女性たちは男性に目が行くでしょう? 男性を探そうとしても真の愛がありますか。男性たちは女性に真の愛があると思いますか。男性が信じられますか。女性が信じられますか。女性が生まれたのは男性のために生まれたのであり、男性は女性のために生まれたということを知っている男性、女性はいません。自分のために生まれたと思っているというのです。

それでは男性は何をするのですか。女性は何をするのですか。僕だと思っているのです。ために生きようとはしないのです。ために生きなければ愛はあり得ません。初愛は永遠なのです。
(297-145 ~ 146、1998.11.19)

20 代に近い青少年として、汚されず、染まっていない貴い純情を、大切に固く包んでどこに置くのでしょうか。天が最も喜び得るその祭壇の前に置き、神様が喜び、次には自分と同じ純情をもったそのような男性と女性が出会い、神様が共に結ばれ得る貴い基盤が、新郎新婦が出会う場です。
(64-85、1972.10.24)

青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩城できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに、貴く保存しなければなりません。

「千世、万世一人でいたとしても、愛が蹂躙されることは絶対にあり得ない」という貞節の決意をもたなければなりません。民族を愛し、国を愛さなければ、私か愛せる人と出会うことができません。世界を愛さなければ、愛せる人をもつことはできず、神様を愛さなければ愛する人をもつことはできないのです。これが統一教会の伝統的な思想です。

ですから、神様を愛し、世界を愛し、民族を愛したのちに自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則です。
(37-108、1970.12.22)

男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守れなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。たとえ大臣であっても、浮気をしてもよいようにはなっていません。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来るのです。「統一思想」を知れば、そのようにすることはできません。
(38-281、1971.1.8)

それで先生が祝福家庭の子供たちは早く結婚させなければならないと考えているのです。何の話か分かりますか。初愛です! それが何の言葉か理解できますか。皆さんもそのような意味を理解して、初愛を中心として思春期に相対と出会ったならばどれほど幸福ですか。初愛! 初愛! そのような初愛がなぜ必要なのかというと、純粋で何も分からない子供が父母を好むように、十分にそのようにできるからです。そのようにできる、理想的な夫婦になり、理想的な息子、娘をもち、理想的な父母に侍ったその人が、どれほど幸福か考えて
みてください。
(118-310、1982.6.20)
③触ったり見たりするのも禁止されるのか?

―宗教経典―

園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
創世記3.3 (キリスト教)

身の回りの世話をする、戯れる、装身具や衣服に触れる、寝台に一緒に座る、これらはすべて姦淫であると言われている。
マヌ法典8.357(ヒンドゥー教)

あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.27 ~ 28(キリスト教)


淫蕩な目つきは目の姦淫であり、淫乱な言葉は舌の姦淫である。(身体の)部分が実行に移そうと移すまいと、心は願い渇望する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

あなたが実際の犯罪をしていないのは真実である。しかし、あなたが他の人の家で美しい女性を見て、彼女をあなたの思いの中から振り払うことができなかったとき、あなたは心の中で彼女と姦通を犯したのである。瞬間を熟考せよ。

あなたが聖人ル・ナンジャ(LU Nan-tze)と似た位置にいるなら、あなたは聖人(ル・ナンジャ)を手本とし、自らに対する十分な統制をもっていることができるか。彼は、いつか女性が一人で暮らす家で夜を過ごさなければならなかったとき、彼は明かりをつけ、朝まで一人で本を読むことによって、彼女が不公正な嫌疑にさらされるのを避けた。
太上感応篇(道教)


釈尊は説いていわれる。仏道修行の上にあっては、愛欲に心が動かされる女を、慎んで視ることのないようにしなくてはならない。また共に語り合うことなどしてはならない。もしどうしても共に語り合わなくてはならないとしたら、自らの心を正して思念し、心が動揺しないようにすべきである。

そして自分は沙門である(注24)という自覚と信念とを持つべきである。濁世にあっても濁されることは、決してないことは、まさに蓮華が泥中に生じながらも、泥に汚されることのないことに思いを至すべきである。

どうしても女と出合わなくてはならないとしたら、老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)


―み言選集―

西洋式はとてもたくさん握手をするので、タッチの感覚がありません。しかし、東洋式は、少しだけ触れても、「う~」と言います。どうですか。男性と女性が、頻繁に接触するのがよいですか、すべて完成したときに接触するのがよいですか。

電気は、100 ボルトに接触するのがよいですか、50 ボルトに接触するのがよいですか。100 ボルトです。その時まで、ぴたっと……。どうですか。未婚の男女のときは、「会いなさい」ですか、「会ってはいけない」ですか。「会ってはいけない」です。これが100 ボルト、真っ赤に熟したのちに、手を出しただけでびりびりっと目が覚めるようになるときまで、待ちなさいというのです。

アメリカの女性たちは、初愛がどのようなものか分かりません。50 ボルトと30 ボルトは明るさが違います。アメリカ式の愛はどうですか。サタンが方便的にすべて高次的な愛の感触世界をひっきりなしに覗き見るのです。
思春期の男性にとって神秘の王宮が女性です。女性にとっては神秘の王宮が男性です。今、ミステリーとは何ですか。動物と同じです。猫が愛するのと子犬が愛するのは、縦的な愛がありません。それは動物的な愛であって、縦的な愛ではない
というのです。縦的な愛はありません。
(125-103 ~ 104、1983.3.13)

宗教を信じるにおいて、歴史時代のいかなる宗教が苦行をした以上の苦行をする宗教を訪ねていかなければなりません。この宗教生活とは何かというと、良心が拷問する拷問官になり、「この体よ、この体よ!」と、完全に倒れ込むまで拷問して降伏させ、二度と目を覚まさないように占領してしまうのです。

心が拷問してしまわなければならないのです。それで、正常な目が一度ひっくり返ったので、逆さまにひっくり返して正しくならなければなりません。180 度他の方向からすべて見ようと言うことができる目にならなければならず、これも180 度転換、すべて180 度転換しなければなりません。サタン側は左側を通して見ようとするのですが、これがすべてひっくり返って右側を通して見ることができるようになって正しくならなければならないのです。それで、180 度見えない目が良心の目と一つになって見ることができるよう、右側の360 度の本然の位置に戻らなければなりません。その次に、その見る目は心の目となり、100 パーセント見てもよいのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)


④同性愛:フリーセックスの極致

―宗教経典―

女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
レビ記18.22 (キリスト教)

菩薩……は五種の男性の能力のない男子に近づいて、それと親しみ懇ろになることがないように。(注25)
法華経14(仏教)

またロトをつかわしかれの人びとに、こう言ったときを思え「おまえたち以前に、どんな世でもしなかった、みだらな行いをしている」。「まことにおまえたちは、男性に近づき、また大道で強盗をはたらく、……」
(注26)
クルアーン29.28 ~ 29(イスラーム)


それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもおとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
ローマの信徒への手紙1.26 ~ 27(キリスト教)


―み言選集―

フリー・セックスやホモセクシュアル、レズビアン運動などのすべてのものは、人間の権利と人間の権威を破綻させる一つの行動でしかないのです。
(128-35、1983.6.1)

サタンが最も好むものはフリーセックスです。神様は反対です。神様は「絶対性」を願います。天使長は相対がいません。それで、ホモ、レズビアンが出てくるのです。しかし、神側では絶対パートナーシップです。完全に反対の現象が終わりの日に起きます。

今そのような世界が、アメリカを中心として起きています。エデンの園でフリーセックスを主導したのがアダムとエバです。エデンに植えたものを今、収穫する峙になったのです。フリーセックスの種を植えたのですが、それを収穫する終わりの日になりました。それで全世界がフリーセックスの世界になったのです。家庭が壊れました。終わりの日にはサタン的な結果が現れます。それで、フリーセックスが充満した世界になったのです。
パートナーシップがないので「男性同士で結婚しよう!」と言うのです。
(282-27、1997.2.16)

天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。ところが今日、私達が身を置いている現在の世界を見てください。極度の利己主義の罠にかかり、物質万能を叫び、価値観を喪失したまま、享楽と腐敗の沼にはまり込んでいます。

アルコール中毒者がはびこり、麻薬やフリーセックスでも足らずに、今では近親相姦という獣にも劣る蛮行を勝手気ままに行っても、堂々と顔を上げて生きています。女王格の女性、祖母格の女性、母格の女性、妻格の女性、娘格の女性、このようにすべての段階の女性たちを蹂躙しても、世の中を闊歩する「人面獣心」の者たちが氾濫する世の中になってしまいました。夫婦同士で、お互いの夫と妻を取り替えて楽しむスワッピングが猛威を振るう世の中になってしまいました。
このような振る舞いこそ、人倫道徳破壊の極致であり、堕落行為の断末魔的姿にほかなりません。神様の創造理想世界の完成は、夢にも見ることができない地上地獄になってしまいました。
平和神経、平和メッセージ3、2006.4.10

ホモセックスが原理にありますか。レズビアン、アルコール中毒、このようなものはすべて情緒的な脱線です。このような世界が地獄です。私達はこれとは反対、180 度反対です。
(243-192、1993.1.10)

このアメリカで、同性恋愛をしていて統一教会に入ってきて、いまだにそのような因縁がすべて終わっていない人がいれば、それはそのまま地獄に行きます。それを知らなければなりません。そのまま地獄に行きます。統一教会で感銘を受ければ、それがすべて逃げていくのです。重生が起きるというのです。

いくら好きだったことでも、心が駄目だと言えば終わりです。すべてそのようにならなければなりません。そのようになっていない立場にいれば、涙を流して痛哭しながらそれを悔い改めて、祈祷しなければなりません。(注27)
(219-233、1991.9.8)

 

12.禁酒と節制

酒と麻薬、賭博は、幻覚的娯楽に見えるが、これらは大勢の人々を沼に陥れる。また人間を真理の光に対して見えなくさせ、良心の声を聞こえなくさせる。中毒にまでなれば、体を滅ぼし、家庭を破壊し、職業に影響を与え、さらには犯罪行為につながる反社会的行為を招来する。

実際に大勢の人たちが無意味な性関係をもつ前兆として、タブーを崩すための手段として酒と麻薬を利用することが知られている。たばこも同じ効果をもっている。たばこは、若者たちがより強い麻薬に接することに影響を及ぼすこともある。中毒を一種の病と見る現代医学とは異なり、世界の諸宗教は、人間個々人が酒と麻薬、賭博から自ら
を節制し、遠ざける人生を営為する責任があると教えている。

文鮮明先生は、自分の人生に満足できなかったり、愛が欠乏した者たちが、たばこと麻薬、酒に依存する傾向があると言われる。これらは愛の欠乏に対して良い代案ではない。酒と麻薬に対する解決策は真の愛である。幻覚的、一時的興奮は、真の愛の深い情緒的満足感と比べてみるとき、しがないことこの上ない。


―宗教経典―

なんじら信仰する者よ、まことに酒とかけ事、……は忌み嫌うべき悪魔の業である、これを避けよ。おそらくなんじらは成功するであろう。悪魔の望むところは、酒とかけ事によって、なんじらの間に、敵意と増悪を起こさせ、なんじらが神を念じ、礼拝をささげることを妨げようとする。それでもなんじらは慎まないか。
クルアーン5.90 ~ 91(イスラーム)

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。
エぺソの信徒への手紙5.18 (キリスト教)

阿片にはまった人に阿片に値するものはなく、魚は水に値するものはなく、神の愛にはまった者は万有を愛する。
アーディ・グラント、ヴァダハンスM.1、p.557 (シーク教)

かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
ペテロの手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)

立派なお人柄の方は、酒を飲んでもおとなしい。あの愚かしい男は、ただ日ましに酔いまさる。みんな自分の生きかたを生きよ。運命とは絶対の
ものだ。
詩経、196 小宛(儒教)

災いだ、朝早くから濃い酒をあおり、夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず、御手の業を見ようともしない。
イザヤ書5.11 ~ 12(キリスト教)

財産を損う六つの行いとは、第一に酒に耽溺すること、第二にばくちをすること、第三に勝手気ままにふるまうこと、第四に歌舞に心をまどわすこと、第五に悪友と意気投合すること、第六に怠惰であること。

酒に心まどわす者は、さらに酒飲み仲間がいる。
たとえ財産を集めても、己の気ままに使い果たす。
酒を飲んでは節度を知らず、いつも歌舞にうつつを抜かす。

昼間はひとの家へぶらぶら出歩き、それがもとでわが身を破滅する。酒に心を狂わされ、貪しい身のほどをわきまえず、財を軽んじぜいたく三昧、家産を破ってわざわい招く。

ばくちをしては群れだって酒を飲み、共に他家の淫女をうかがいねらう。卑しい行いに慣れ親しんで、みそかに向かう月のように名をおとす。
阿含経長部iii、182 ~ 85、善生経(仏教)


不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か、理由なく傷だらけになっているのは誰か、濁った目をしているのは誰か。

それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると、それは蛇のようにかみ、蝮の毒のように広がる。

目は異様なものを見、心に暴言をはき始める。海の真ん中に横たわっているかのように、綱の端にぶら下がっているかのようになる。「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
箴言23.29 ~ 35(キリスト教)

ラビ・イサクが、箴言23 章31 節を引用して言った。「ぶどう酒は世の邪悪な赤い顔をもっている。しかし、主が来られるその時には、その色が薄くなるだろう」。ラビ・メイルが言った。「アダムが取って食べた木はぶどうの木だった。そしてぶどう酒は人間に痛嘆をもたらす」。
タルムード、サンヘドリン70ab(ユダヤ教)

高き〔木〕の耳飾りはわれを酔わしむ、風吹くところに生まれ、賭場に跳(は)ねまわるとき。ムージャヴァットに産するソーマの宴飲に似て、ヴィビーダカは眠ることなくわれに見えたり。
彼女(賭博者の妻)はわれを咎めざりき、怒りしこともなかりき。彼女は〔わが〕友達に、われにもまた親切なりき。一つ余りの骰子(さい)ゆえに、われは貞淑なる妻を離別せり。

姑は〔彼を〕憎み、妻は排斥す。援助を求むるも彼は憐愍(れんびん)者を見いださず。〔人はいう、〕「売りにだされし老馬のごとく、われ賭博者に何らの効用を認めず」と。

他の人々は彼の妻に触る。その彼の財産に、賭(かけ)を勝ちとる骰子は慾望を起せり。父・母・兄弟は彼についていう、「われらは〔彼を〕知らず。縛(いまし)めて彼を連れ去れ」と。

彼ら(骰子)もて賭博に耽らじと、われ心に思うとき、去り行く友達のあとにわれ〔ひとり〕残さる。また褐色のもの(骰子)が賭場に撒かれて声を挙ぐるや、われは実に彼らとの逢引に急ぐ、恋人をもつ女子(おなご)のごとく。

賭博者はサバー(賭博場)に行く、われ勝つべしやと自問しつつ、身を震わせて。骰子は彼の願望を齟齬(そご)せしめ、敵手(かたき)にクリタを授く。骰子は実に、鉤をもち、突き棒をもち、征服し、焼き苦しめ、熱苦をもたらす。

彼らの賜物は男児のそれに等しく、勝利者を再びうち負かす。彼らは、賭博者にとり、蜜もて混ぜられたり(魅力をもつ)、〔しかも〕破滅のために。
百五十よりなる彼らの一団は踊る、神サヴィトリ(激励の神)のごとく、その本性を実現して(刺激と活動)。

強力なる者の怒りにすら叩頭せず、王者すら実に彼らに頂礼(ちょうらい)す。下に向かいて転じ、上に向かいて跳ぶ。手なくして手ある者を克服す。この世のものならぬ炭として、賭場に撒かれたるとき、彼らは冷たくありながら、〔人の〕心を燃やす。

賭博者の妻はうち棄てられて悩む。いずことも知られず放浪する息子の母〔もまた〕。債務を負い、恐怖を抱き、財を求めて、彼は夜他人の家に近づく(盗むため)。

婦女を見たるとき、賭博者に悩みあり、他人の妻といみじく整えられたる住まいとを〔見たるとき〕。何となれば、彼は朝(あした)に褐色の馬を車に繋げり、〔夕(ゆうべ)に〕物乞(ものご)となりて炉火のほとりに身を横たえつ。

汝らの大いなる群の将帥、一団の最高の王者なる彼に、われは十〔指〕をさし伸ぶ。われ財宝を留め残さず。この真実の〔誓い〕を述ぶ。「骰子をもって賭博をなすなかれ。ただ田畑を耕せ。財産に満足してあれ、〔そを〕重く尊びて。そこに牝牛あり、賭博者よ、そこに妻あり。」これをサ
ヴィトリはわれに告ぐ、庇護なき者を助くるこの〔神〕は。乞う、われと和睦を結べ。われらを憐れめ。恐ろしき〔魔力〕もて、われらを酷(むご)く呪縛するなかれ。今や汝らの忿怒、敵意の鎮まらんことを。今や他の者をして褐色のものたち(骰子)の罠の中にあらしめよ。
リグ・ヴェーダ10.34 (ヒンドゥー教)


―み言選集―

良心が反対するものは悪いことです。ですから、社会が規制するのです。酒を飲まず、放蕩せず、賭博をするなというのです。これは根本を破綻させる行いです。愛の問題は家庭を破綻させ、賭博は社会を破綻させます。
(320-135、2000.4.1)

サタンは、どのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがたばこです。次に、液体の武器は酒です。それから、固体の武器は何ですか。麻薬です。このようにして、精神まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私達は、酒を飲まず、たばこを吸わないのです。それらは、人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じる精神を妨害する要素となるこの三つのものは、怨讐の最高の武器です。
(126-71、1983.4.10)

サタンは何をもって誘惑しますか。たばこです。女性が男性に「たばこを貸してください」と言い、男性が「いいよ」と言ってフリーセックスが介在します。セックスの概念が介在していることを知らなければなりません。東洋では男性たちがたばこを吸うのであって、女性たちはたばこを吸ってはいけないと言うのです。悪い女性として扱われます。吸うことができません。

ところが、女性が男性に「たばこを貸してください」と言うのは、「セックスしよう!」という意味です。そのような条件物です。餌です。それを知らなければなりません。「一緒にお酒を飲もう」と言うのも、「セックスしよう」と言うのと同じです。麻薬も同じものです。酒に酔ったあとは男性が女性を好きなようにするのです。女性が男性を好きなようにすることができ、男性も女性を好きなようにすることができるのです。そのように酔って何をするのですか。フリーセックスをするのです。麻薬もそうです。
(287-118 ~ 119、1997.9.19)

子女のために生きなければならない父母であるにもかかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲んで自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属します。サタンに属するのです。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。不幸です。よいですか、悪いですか。悪いです。その飲むこと自体は幸福なのでしょう? 酒を飲みながら踊りを踊って喜ぶではないですか。

それは永遠を維持することはできません。何日かすれば終わります。それによって環境的与件に破綻が伴うのです。それによって環境的与件が保護を受けることができず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-244、1983.2.20)

東洋に「酒色雑技(飲む・打つ・買う)」という言葉があります。これは何かというと、酒と女と賭博です。世界の犯罪事件はすべて、ここに由来しています。その背後に酒が、その次には女性関係が、その次には賭博が関係して起きるのです。大きな事件で女性と酒が排除されたケースがありますか。その次には麻薬です。麻薬は酒よりもっと強いのです。酔うようになります。酔うのです。麻薬をすれば女性関係が生じるものです。酒を飲めば、男女関係がすべて破壊されます。賭博場に行けば、千年の歴史を一度に賭けて打ち込むというのです。
(230-115 ~ 116、1992.4.26)

中国の人たちは、賭博をしていてお金がなくなれば、自分の財産を差し出し、妻を差し出します。そのようにして負ければ死ぬのです。僕と賭博をしたとしても、その僕と約束した掛け金を払わなければならないので、自分は死にます。死ねば彼の財産も僕がもち、妻もその僕が連れて暮らします。賭博はそのくらい恐ろしいのです。
(124-157 ~ 158、1983.2.6)

皆さんの家に真の愛がありますか。皆さんの答えに自信を感じません。「はい」と言うその手に、吸っていたたばこの黄色い物がついており、その酒の残りかすのにおいがします。真の愛があれば香りが漂わなければなりません。
(215-244、1991.2.20)

堕落は家庭から始まったので、復帰も家庭からしなければなりません。「歯には歯、目には目」と言うでしょう? 蕩減復帰もそのようにするのです。
堕落した世界に生きる家庭は、すべてサタンの家庭です。サタンが神様のみ旨とはすべて反対にしておいたのです。

それで今、家庭を見れば、おじいさんとおばあさんも怨讐であり、お父さんとお母さんも怨讐です。すべて怨讐にして、家庭でおじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、夫と妻、息子、娘がすべて否定するのです。そして、フリーセックスが乱舞する世の中になるのです。情緒的な感覚を訪ねていこうとするので、幻覚剤やアヘンが必要です。そのようなものを飲めば、幻覚世界で刺激が継続するので、自然にアヘンや麻薬に流れていきます。アルコールのようなものを飲むのも、すべてそのような理由めたのです。
(243-251、1993.1.17)
男性でも女性でも、愛の力をもてばすべての細胞が集約するようになっています。ですから、その刺激は最高の総合的な刺激です。その時こそ体と心が、対象と主体が完全に授け受けするのです。

この作用が普通の時は、ひたすら道理に従う法度どおりに作用しますが、愛すれば違います。普通の時は自然の作用をするのですが、愛の力をもつようになれば、100 パーセント爆発的な作用をするというのです。その衝撃的な刺激に酔ってしまいます。それで愛がよいのです。酒を飲むよりも、アヘンの注射をするよりも、いかなるものよりも刺激的なものなので、愛が一番なのです。
(117-76、1982.2.1)

神様の真の愛が真の父母から始まります。これを完全に取ってしまおうとするので、根がありません。根がなく、枝にくっついておらず、秋に落ちた実のように、すべて転がり回っています。ですから、一度にすべて掃いてしまうのです。行く所がありません。アメリカも行く所がなく、イギリスのような先進国も行く所がありません。日本も行く所がなく、ドイツも行く所がないことは同じです。この世界に行く所がありません。縦的な真の愛を失ってしまい、これを横的に取り戻そうとすべての家庭に手を出し、国に手を出し、ついにはフリーセックスに至るようになったのです。

愛には感情があり、高次元的な宇宙と通じ得るアンテナがあるのですが、それがすべてなくなったので、それを補充しようと麻薬を吸い、フリーセックスをするのです。

しかし、これでは補充できません。やればやるほどもっとなくなっていくのです。ですから、フリーセックスをすれば心がうれしくないのです。感情がすべて愛に陶酔していたその境地に入っていきたいと思う心、その瞬間を願うので、すべて幻覚、麻薬の世界と化してしまいます。そのような麻薬の世界では、想像で愛の感情を感じられます。麻薬の力が持続している間は、そのような感
情を感じられるのです。しかし、薬効が切れてしまえば、その感情も消えます。

真の愛は麻薬が問題ではありません。麻薬自体も真の愛のためにあります。そのようなことを考えてみてください。どれほど高次元的ですか。天地に「う~あ」と電気が通じれば、大きなラジオのスピーカー装置が「うう」となるように、線さえつなげれば宇宙が響くのです。「わあ」と響きます。真の愛の力がどれほど大きいか、人のようなものは問題ではないということです。すべて虜になります。真の愛を語れば、宇宙が踊るのです。すべてのものが踊ります。最近、硫行しているツイストのようなものは比較にもなりません。逆さまに飛び上がったりするのです。
(247-126-127、1993.5.1)

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世界経典-48

2022年06月25日 16時59分46秒 | 学習

6.正直

正直は真実を意味し、心と心情に内在したものを事実どおりに語り、約束を守り、言葉と行動が一致するように行動することを含む。神様の前で正直であろうとすれば、自分の罪を告白し、生まれ変わると反省し、誓い、悪を行わせる誘惑と立ち向かって闘おうという姿勢が必要だ。

したがって、文鮮明先生は、私達の考えと言葉と行動に関して、神様に正直に御報告する時間が祈祷の時間だと言われる。祈祷は、また未来の自分がどのように考え、語り、行動するという決意を誓い、目標を立てる時間でもある。

①他人と神様と真実を語る

―宗教経典―

うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる。
箴言12.22(キリスト教)

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私達は、互いに体の一部なのです。
エペソの信徒への手紙4.25(キリスト教)

〔ヴェーダの〕学習を怠ることなかれ。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.1(ヒンドゥー教)

あなたの心が否定するものを、あなたの口が固執してはならない。
陰隲文、静粛の道(道教)

 

口で語る言葉と心に抱いた思いが違ってはいけない。
タルムード、バヴァ・メツィア49(ユダヤ教)

体、言葉、思いからする行為において、正直と真実は幸運の道に通じる。
タットヴァールタ・スートラ6.23(ジャイナ教)

うそをつくからといって富者になれないのではなく、背信したからといって長生きできないのではない。しかし、死(審判)の日には、それらによって当惑するようになるだろう。うそが20 年間走っていっても、真実はそれを1日で捕まえる。真実は市場に出ても売れない、うそはとても安く買うことができる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

真実を語るべし。好ましいことを語るべし。真実でも好ましくないことを語ってはならない。好ましくとも虚偽を語ってはならない。これは永遠の生き方(ダルマ)である。
マヌ法典4.138(ヒンドゥー教)
先生がいわれた、「君子は、自分のことばが実践より以上になることを恥じとする。」
論語14.29 (儒教)

信仰する者よ、なんじらはどうして自ら行わないことを言うのか。なんじらが行わないことを口にするは、神においては、最も憎みたもうところである。
クルアーン61.2 ~ 3(イスラーム)

いつわりを語る人、あるいは自分がしておきながら「私はしませんでした」と言う人、この両者は死後にはひとしくなる、来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
法句経306 (仏教)

謀計ハ眼前ノ利潤タリトイヘドモ
必ズ神明ノ罰二当タル
正直ハ一旦ノ依怙二非ズトイヘドモ
終ニ日月ノ憐ミヲ蒙ル
皇大神宮、天照大神の神託(神道)86

葉公が孔子に話した、「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたとき、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものです。」
論語13.18 (儒教)


―み言選集―

皆さんが修養の道を行きながら一つ知らなければならないことは、師弟関係において、偽装戦術を使ってはいけないということです。互いに率直でなければなりません。この上ない精誠を尽くして互いに対さなければならないというのです。
(33-125、1970.8.11)

率直なことは正義に通じ、正直でないことは不義と通じます。
(364-226、2002.1.3)

神様がどのようになっているのかというと、一つを中心として心と体が一つになっています。心と体が一つになったところは、考えも一つになっています。

皆さんが日常言うことは、「言行心事を正しくしなければならない」。言行心事です。言葉と行動と、心事とは何ですか。心と事が一つにならなければなりません。そうしてこそ、それが公的なものとして保護し、証し、宣伝することができるのであって、そうでなければできません。
(381-65、2002.6.11)

人は率直でなければなりません。率直なことは世の中のどこでも通じます。自分が間違ったら、間違ったと率直に言うときは発展します。善もその過程を経なければ発展することはできません。人がいつもうまくできますか。人は間違うこともあるので、そのようにしてこそ、発展できるのです。私が間違ったとしても、そこで率直に告白し、後悔することによって新しい決心ができます。

間違うことが悪いのではありません。間違ったのなら、このことによる新しい刺激を受けて跳躍することができるのです。刺激を受けて目に見えて飛躍できるのなら、間違うこともよいのです。勉強ができなくて落第したとしても、一度落第することによって、それを契機に優等生になることもあります。


ですから、率直でなければなりません。もじもじと隠そうとする人は発展できません。しかし、率直な人は発展します。この宇宙が押してくれるので発展するのです。どこに行っても宇宙が押してくれるということです。東洋も西洋も、過去も現在も未来も、率直な人はすべての人の友人になることができるのです。
(100-87 ~ 88、1978.10.8)

率直な信仰者にならなければなりません。「私はこうです。心はこうです。お父様、私も率直にしますので、あなたも私に率直に対してください。あなたは正義に立脚した場で、どれほど率直な心をもって私に対してくださいましたか。私が否定の心をもった立場にいるがゆえに、あなたも否定の心をもって私に対されると思いますが、これからは心にあるがままに対そうと思いますので、正義の判断を下して私を分別してください」と言うことができなければなりません。このような心情は、皆さんが信仰生活を多年にわたって経験してきながら、絶対に必要だということを感じたことでしょう。(45-242 ~ 243、1971.7.4)
私は、原理的立場で正直と純潔と犠牲を教えています。第1に、神様の前で人間は正直でなければなりません。人間の偽りが神様と人間の分離をもたらすと「統一原理」は教えています。信徒たちがさらに激しい迫害を受けるとしても、私は彼らに神様の使節として臨まなければならず、まず自分が統一教徒であることを人々に明らかにすることを強調します。

統一教会の信徒たちは、レバレンド・ムーンに従う者たちだと言わなければなりません。もしそのように言う勇気のない人がいれば、彼は私達には必要のない人です。自分にぶつかってくるより大きな苦難を恐れ、自分の身分を語ることができない人は、迫害によって巡ってくるあらゆる祝福を逃すのです。ある地域の指導者たちは、一時的な手段として隠しているのかもしれませんが、悪い動機からそのようにしているとは見ません。私は、苦難に直面してそのようなことが起こり得るのは理解できますが、そのような行動を称賛はしません。
(91-128, 1977.2.3)
②約束履行

―宗教経典―

人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
民数記30.3 (キリスト教)

なんじらは神と約束を結んだならば、それを全うせよ、誓いをおごそかに認めて後、それを破ってはならぬ、なんじらは神を、しかと立証者としたのである。まことに神は、なんじらの行うことを知りたもう。

丈夫に紡いだ後その撚(よ)りをもどし、ばらばらにほぐす婦人のようであってはならぬ。一族が他の一族よりも、かず多くなったために、なんじらのあいだで、誓を裏切る道具にしてはならぬ。まことに神は、それでなんじらを試みたもう。
クルアーン16.91-92(イスラーム)

人が天の国の審判台に立てば、最初に尋ねられる質問は、「あなたは神を信じたか」、または「あなたは祈りを行い、宗教儀式に参与したか」というものではなく、「あなたはあなたの隣人に衷心を尽くし、信仰的にも名誉あるように接してあげたか」ということである。
タルムード、シャッバト31a(ユダヤ教)

子張が〔思いどおり〕行なわれるにはとたずねた。先生はいわれた、「ことばにまごころがあり、行ないがねんごろであれば、野蛮な外国でさえ行なわれる。ことばにまごころがなく、行ないもねんごろでないなら、〔国内の〕町や村の中でさえ行なわれまい。立っているときにはそのこと(まごごろとねんごろ)が前にやってくるように見え、車に乗っているときにはそのことが車の前の横木によりかかっているように見える、まあそのようになってはじめて行なわれるのだ。」子張はそのことばを〔忘れないように〕広帯のはしに書きつけた。
論語15.6 (儒教)

―み言選集―

友人に与えると約束したものは、必ず与えなさい。約束を破ることは、あなたの人格を損なうものである。
御旨の道、人格

徳望の友をたくさんもてる道、あるいは目上の人に認められる道、あるいは年下の人に信頼され得る道は、弁明ではありません。大概、弁明する人たちは損害を被ります。ですから、ある事件が起きたとき、弁明してはいけません。

先生は、死んでも弁明はできない人です。率直な人は残るのです。そのような人は、その環境を継承できるのです。このような観点から見るとき、「率直な信仰者」になることが何よりも必要です。
(45-269、1971.7.4)

人格者は、誰かと約束したことがあれば、それを履行して実践します。これはあなたが主張して約束したことなので、「私は従わない」と言う人がいれば、彼は人格者ではありません。法は、公的な基準を中心として約束したものです。ですから、その法の約束圏内にいるすべての人たちは、それを守らなければなりません。約束した人がその法を守ることができないときは、公共規範によって制裁を受けなければならないのです。これは、法を遵守しなければならない人たちの責任です。
(31-13、1970.4.8)

祈祷というものは、歩んでいて力が尽きたときにするのです。約束したのなら行動し、しかし、私が及ばずに倒れるときに祈祷しなければなりません。
(113-60、1981.4.26)


7.用心と警戒

人生の道を歩んでいく人は、常に油断してはならない。怠慢でのんびりした人生は容認されない。常に私達は善悪の分かれ道、原則と違法の分かれ道に立つ。その道には、いつも思わぬ落とし穴と誘惑があり、私達を災難に導くこともできる。したがって、霊的な修養の道を歩んでいくにおいて、私達は常に用心し、警戒し、注意する人生を生きなければならない。

したがって、世界の諸経典は、神様のみ旨に反する罪を犯したり、堕落した人生を生きたりしないために、私達が常に油断しないことを教える。聖書の「主の日は盗人が夜くるように来る」という聖句のように、キリスト教では賢者と愚者の例えを挙げ、生きていきながら絶えず警戒をおろそかにしないことを教える。イスラームでは、常に神(ザカラ)を記憶し、その戒めと慈悲を記憶し、毎日の祈祷生活を通してこれを再考するように督励している。

ユダヤ教の賢人たちは、いかなる罪の可能性も排除するために、「法の囲いの中で」すべての戒めを解釈することを主張した。東洋の宗教は、修道者たちに常に思いの流れを警戒する瞑想訓練を奨励する。文鮮明先生も、常に慎重な注意が必要であることを強調される。そして、瞬間の不注意で深刻な過誤を犯した聖書の中心人物たちの例を挙げ、この内容を再び想起させてくださる。

―宗教経典―

詩経には「おそれつ戒めつ、深き淵にのぞむごと、薄き氷をふむがごと。」とある。
論語8.3 (儒教)

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
ピリピの信徒への手紙2.12 (キリスト教)


出家修行者は、あたかもすべてのものが自らをわなに陥れる落とし穴であるかのように、注意深く歩まなければならない。
ウッタラッジャーヤー4.7(ジャイナ教)

〔教えを〕聴聞し、信仰を持ち、多くの努力をしても、正知を欠くという過失ゆえ、破戒という汚れを持つことになる。正知を欠いた〔煩悩という〕盗賊たちは、憶念の弱まりに従って、〔働き出す。そのため、〕多くの福徳を積んでも、〔それを〕盗賊に盗まれ、〔その結果〕悪趣へと赴くことになる。
菩提行論5.26 ~ 27(仏教)

孔子のことば。みずから危うしとして反省警戒する者こそ、その地位に安んじ得る者であり、亡びはせぬかと反省警戒する者こそその存立を保ち得る者であり、乱れはせぬかと反省警戒する者こそ、その治平を保ち得るものである。

なればこそ、君子は安きに居て危うきを忘れず、存続しつつも亡びることを忘れず、治に居ても乱を忘れない。こうであってこそ、その身は安らかで国家の安泰をも保ち得るのである。易にも「それ亡びなんとて、苞桑に繋る」と言ってある。
易経、周易繋辞、下伝2.5.9 (儒教)

不運なときに、幸運があらわれ、幸運なときに、不運がひそんでいる。誰れが最後の正しさを決定することができるのか。
道徳経58(道教)

許されたことは明らかであり、禁じられたこともまた明瞭であるが、その中間には多くの人々が知り得ない様々な疑わしい事柄がある。したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。

これはちょうど聖域の周りで動物を飼う牧童が、聖域の中で動物に草をはませる危険を冒すような
ものである。まことに王者は誰しも聖域をもっているが、神の聖域とはその様々な禁令である。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)
ラビ・アカバは言った。「無駄な笑いと軽々しさが人間を不徳にする。伝統はトーラーを守る囲い、十分の一献金は富者を、誓いは崇高さを守ってくれる囲いである。そして、知恵を守ってくれる囲いは沈黙である」。
ミシュナ、アヴォート3.17(ユダヤ教)

同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。
法句経123 (仏教)

しかし、われらの信条におかれているものは、マズダーよ「天則は利益するために」であり、教義には「不義は破壊するために」であって、これをもってわたくしはウォフ・マナフとの交わりを求めすべての不義者を教朋から追放するものです。
アヴェスター・ヤシュト49.3(ゾロアスター教)


孟子がいわれた。「人は不正不義は絶対にしない、という決心があってこそ、はじめて大事業をなしとげることができるのだ。」
孟子IV.B.8 (儒教)

公然の罪と内密の罪をさけよ。まことに罪を犯した者は、その行なったことに対して報いをうけるであろう。
クルアーン6.120 (イスラーム)

非難される欠点のない行為のみを実行せよ。もしもそなたに祭事についての疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろ
のバラモンがいて、判断力あり、〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.112、4(ヒンドゥー教)

思慮ある者へのしるしがある。あるいは立ち、あるいはすわり、あるいは横たわって不断に神を唱念し……
クルアーン3.190-91(イスラーム)

あなたの寝台の布団の陰の下に、あなたが一人でいるとき、注意せよ。
陰隲文(道教)

歩くにせよ、とどまるにすよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、悪い、家にもとづく、世俗的な思いをいだく者は、邪まな道を歩み、迷わせるものに迷う。このような比丘は、最高のさとりに触れることができない。歩くにせよ、とどまるにせよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、世俗的な思いをやめ、世俗的な思いの静まりを楽しむ。このような比丘は、最高のさとりに触れることができる。
如是語経110 (仏教)

そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私達のともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、
御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書25.1 ~ 13(キリスト教) 
―み言選集―

若い皆さんたちは、善悪の岐路に立っているので、一歩間違えば、それは千尋、万尋の死亡の窮地に引き込まれていき得るのです。大変ですが、一歩踏んで立ち上がっていくようになるときは、輝くあすの希望の山上を越え、希望の広野を見つめられる勝利の王者になれるのです。一歩を注意しなければなりません。
(59-214、1972.7.16)

大きくなればなるほど、自分の足もとを見なければならないし、小さければ小さいほど、神様を見上げなければならない。
御旨の道、み旨

言葉に注意しなければなりません。その次には、目に注意しなければなりません。その次には、耳に注意しなければなりません。何の話か分かりますか。自己中心の言葉は聞かないでください。自分を中心とする行動は見ず、自分のために生きる人とは話もせず、自分のための弁明もしてはいけません。これが一番の防御策だということです。
(93-319、1977.6.12)

公的なものと私的なものの中で、公的なものは全体のためのものであり、私的なものは自分のためめものです。皆さんが自分を静かに反省してみれば、自分が公的なものと私的なものの狭間にいることを悟るようになるでしょう。ですから、宗教は、自分中心に進んでいこうとする体を制止させようと、「断食しなさい。苦行しなさい。温柔、謙遜でありなさい」と教えるのです。
(149-271、1986.11.27)

もう一度考え、もう一度考えて行動してください。
(93-320、1977.6.12)

一言、一度間違って聞くことによって、一生を台無しにするようになるのです。また、行動においてもそうです。一度間違って歩めば、やはり一生を台無しにするということです。また、皆さんが友人と付き合うときにおいても、友人一人と間違って付き合うことによって、一生を台無しにすることもあるのです。そのようなことが一生に1度や2度ではないので、昔から考える人たちは、
話すことに注意し、聞くことに注意し、行動に注意し、友人に注意しなさいと教えてきました。これは古今を問わず、あるいは東洋と西洋を問わず、同じく通じる公式だということを皆さんは知らなければなりません。

一言間違うことによってそのようなことが起ぎる反面、一言うまく言うことによって一生が行ったり来たりするのです。一言で、聞くこともそうであり、歩くこともそうであり、行動することもそうであり、友人と付き合うことも同じです。不意に、通り過ぎる若い人に一言話すことによって因縁を結び、付き合ってみれば夫になることもあるのです。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)

不幸な道の出発というものは、大きな事件から始まるのではなく、小さなことから始まるのです。もう一度考えるべきことを、いつも自分を中心として考えていては、その峠を越えることは難しいのです。重大な決定をすればするほど、必ずそのような境遇に立たなければ、一大悲運が訪れてくるということがいつもあるのです。自分を中心として考えることが怨讐であることを知らなければなりません。
(93-298、1977.6.12)

私達が過ごしている一日の生活の中で、1 峙間1 時間も恐ろしいですが、1時問の中のチクタクという瞬間が、私達にとってどれほど恐ろしい瞬間であるかを感じて闘っていける人にならなければなりません。ですから、永遠の天国も、一瞬の間を離れてはあり得ないことを皆さんは知らなければなりません。

アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、1年や10 年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかが分かります。

その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行っだ数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったというのです。
(37-219、1970.12.27)

ノアが40 日洪水審判のあとに、もう少し深く考えていれば、裸でそのような行動はしなかったでしょう。少しでも考えていれば、そのようなことをしたでしょうか。少しだけ我慢していれば、お酒を飲んでそのようにしたでしょうか。もう少し我慢し、もう少しだけ考えていれば、絶対にそのようなことはしていなかったでしょう。

また、アブラハムが祭物を捧げるとき、三大祭物を前にして、じっと見つめて考えたならば、失敗したでしょうか。三大祭物の中で、二つは裂き、なぜ一つは裂かなかったのかということです。
(99-39、1978.8.27)

天の試練を受ける立場にいたヤコブは、一時も心が休まらなかったことを皆さんは知らなければなりません。彼は、神様の祝福のみ言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が取れても退かないという固い信念をもっていたのです。このように闘って勝利したのちにこそ、イスラエルという祝福が臨んだのです。
(3-337、1958.2.9)


8.慎重な言葉

不注意や、故意にした攻撃的発言は、他人に途方もない傷を与えることがある。悪の発言は友情を破壊し、名声を落とし、不必要な偏見を引き起こす。多くの噂とスキャンダルに揺さぶられることがなかったなら、イエスは当代の人たちにより多くの歓迎を受けることもできた。言葉は、自分をはじめ他人にも途方もない傷を残すため、慎重に扱わなければならない。


―宗教経典―

民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。私は主である。
レビ記19.16 (キリスト教)

もし耳が悪意に満ちた根も葉もないうわさを聞かなければ、心は悲嘆に暮れることはないだろう。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
マタイによる福音書12.35 ~ 37(キリスト教)

心は軍隊をもった王と同じである。王が優れていればその軍隊も優れており、王が弱ければその軍隊も人がするとおりにする。……
神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。
ナワウィー40 のハディース15(イスラーム)

口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
箴言10.19 (キリスト教)

すると彼は舌をつまんで言った。「これを慎しむのだ。」私は尋ねた。「アッラーの預言者よ、私達は口にしたことで評価されるのでしょうか。」すると彼は言った。「ムアーズよ、お前も母親泣かせだ。人々の舌が収穫したもの以外に、いったい彼らを地獄に逆落としにするものがあるだろうか。」
ナワウィー40 のハディース29(イスラーム)

荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
法句経133 (仏教)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。私達の体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私達は舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
ヤコブの手紙3.6 ~ 9(キリスト教)

この世であらゆる難物の源泉は、性急に吐き出す一言の言葉である。
荒木田守武世中百首(神道)

騒がしい鳥がろくでもない巣をつくる。
カヌピ族の格言(アフリカ伝統宗教)

自然はことばで表わさない。
暴風が起きても朝中続くことはなく、
激しい雨が一日中続くことはない。
これらは天と地の活動である。
天と地でさえ、いつまでもその活動を
続けることはできない。
まして人間はできようか。
道徳経23(道教)

孔子は次のように言う。禍乱が発生する場合には、かならず言語がその発端となる。君主が言語を慎密にしなければ臣下の信頼を失い、臣下の者が言語を慎密にしなければその身を亡ぼすことになり、機密に属する問題について言語を慎密にしなければ、妨害が成功する。なればこそ君子は言語を慎密にしてかるがるしく口から出さないようにするのである。
易経、周易繋辞上伝1.8.10 (儒教)

人が生れたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を斬り割くのである。けなすべき人を誉め、また誉むべき人をけなす者、かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の不運は、まことに重いのである。悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダのまた五つのアップダの地獄に赴く。
スッタニパータ657 ~ 660 (仏教)

信仰する者よ、もしよこしまな者が、情報をなんじらにもたらしたならば、慎重に検討せよ、これはなんじらが、気づかないうちに人びとに危害を及ぼし、その行なったことを、後悔するはめにならぬためである。……

なんじら信仰する者よ、ある者たちに、他の者たちをちょう笑させてはならない、これらはかれらよりも、すぐれているかも知れぬ。また女たちに他の女たちをちょう笑させてはならない、この女たちはかの女たちよりも、すぐれているかも知れぬ。互いに中傷してはならない、またあだ名で、ののしりあってはならぬ。
信仰にはいった後は、悪を暗示する名はよろしくない。これを悔い改めない者、これらは不義者である。

なんじら信仰する者よ、邪推の多くをはらえ。まことに邪推は、ときに罪である。また無用のせんさくはしてはならない、また互いにかげぐちしてはならぬ。死んだ兄弟の肉を食べるのを、たれが好もうか、なんじらはそれを忌み嫌う。神を畏れまつれ。まことに神は、たびたび許したもう方、慈悲深い方であられる
クルアーン49.6 ~ 12(イスラーム)

うそはそれ自体で邪悪であるだけでなく、霊魂を邪悪に感染させる。
プラトンバイドン(ヘレニズム)


―み言選集―

私達の同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、間違ったその一言によって、関係が壊れることもあります。もし言葉を一言間違えれば、その言葉を言った人も苦痛を受け、その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです。例えば、夫婦でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることもあります。
(89-116、1976.11.1)

言葉で全体に支障をきたせば、それは困る。
御旨の道、み言

皆さんが一言間違うことによって、どれほど多くの人を犠牲にし、世界を滅ぼしてしまうか、ということを知らなければなりません。愛を中心として語る言葉は、いくら悪口を言っても、どんなことを言っても、これは栄えるだけであり、発展するだけであり、すべての宇宙が喜ぶだけだというのです。皆さん、言葉は恐ろしいでしょう。先生が一言語れば、皆さんはさっと引っ掛かります。
いくら笑っていた人でも深刻になります。先生が皆さんに「すべてのことを忘れ、すべて赦してあげる」と言えば、その一言の言葉は簡単ですが、すべてのものが解放される気分を感じるのです。
(91-91、1977.1.30)

一言誤って、3週間祈ったことがある。
御旨の道、人格

人の仲を裂き、ひそひそと「誰々は悪く、誰々はどうでこうで」と言うのはサタンの武器です。分裂させるために、誰はどうでこうでと評価するのはサタンです。聞いても知らないふりをする人と、おしゃべりで騒ぎ立てる人のうち、どちらの側がサタン側ですか。おしゃべりで騒ぎ立てる人がサタン側です。話をしてはいけません。
(215-240、1991.2.20)

投入して忘れなさいというのです。……沈黙が自分を主人になるようにしてくれるのです。暗闇と朝の日の光を迎え入れることのできる標柱になります。「静かな朝」と言うでしょう。(注16)「夜明け前が一番暗い」と言うではないですか。
(325-117、2000.6.30)

昔、名門の家では、子供を教育する時に、「朝はできるだけむやみに話さないようにしなさい」と教えました。「朝は、できるだけ先に話さないで聞きなさい」と教えたのです。このような態度は信仰生活でも必要です。
(40-73 ~ 74、1971.1.24)

仕事をたくさんやって話が少なければ勝利し、仕事をやらないで話が多い人は失敗する。
御旨の道、人格


9.中庸

世界で普遍的に考えられている重要な徳目が中庸である。中庸を取るためには、いかなる種類の過度さも、度を超した倹約または無駄遠い、苦行または放蕩、独善または卑屈な服従も、慎まなければならない。

しかし、伝統ごとに強調する部分には違いがある。アリストテレスは、中道を求めて守るのに、理性の役割を強調する。キリスト教の有名な祈祷文には、中道を悟るために知恵が重要であることを表記した部分がある。「主よ、変え難きものを受け入れる心と、変え得るものを変える勇気と、変え難きものと変え得るものを見分ける知恵を与えたまえ」。

仏教の中道思想では、宗数的人生を存在に対する執着と無への解脱を連結してくれる綱として定義する。仏教の歴史の中で多くの哲学者と修道者たちは、俗世からの孤立と積極的社会参与の間の中道とは何かなど、絶え間ない弁証法に対して定義しようと努力してきた。

儒教で中庸は、より個人的な均衡に焦点を合わせている。そして、この中庸の道を知る人は、彼の行動の中で、そして他人との関係の中で、その道が現れる。このような中道に対する伝統的な教えは、個人の行為に焦点を合わせている。

文鮮明先生は、より全世界的な展望を提示していらっしゃる。み言によれば、個人が他人と調和する関係の中で均衡を成し、それが社会へ拡大し、社会の上下、貪富、白黒問題を平準化するために努力することまで進んでいくとき、中庸の道が初めて実現されるという。


―宗教経典―

(仁慈者のしもベたちは、)また財貨を使うに当り浪費せぬ者、またりんしょくでもなく、よくその間の中正を保つ者。
クルアーン25.67(イスラーム)

善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。
コヘレトの言葉7.16 ~ 17(キリスト教)

上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人に求めなければ、恨むこともない。上は天を恨まず、下は人をとがめない。だから、君子は平地にいて(その位に素して行い)、天命に従い(そのほかを願わない)、小人は危険なことを行って得るべきでないものを求める。
中庸13.4 (儒教)

先生がいわれた、「関雎の詩は、楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても〔心身を〕いためることがない。(哀楽ともによく調和を得ている。)」(注17)
論語3.20 (儒教)

惜しむことがあってはならないが度が過ぎてはならず、謙遜だが貧しくてはならない。
ナフジュ・アル・バラーガ語録32(イスラーム)

世尊はこれを宣へり。「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、無明に縁りて行あり、行に縁り識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて触あり、触に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老・死・愁・悲・苦・憂・悩・生ず。是の如きが、これ全苦蘊の集なり。比丘等よ、これを生起といふなり。

無明の無餘・離貪・滅によりで、行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて触の滅あり、触の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老・死・愁・悲・苦・憂・悩滅す。是の如きがこれ、全
苦蘊の滅なり」。(注18)
阿含経相応部xxii90(仏教)

あなたがいくら空腹でも、両手で食べではいけない。(注19)
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

食べかつ飲め、だが浪費してはならぬ。まことにかれは浪費する者をめでたまわぬ。
クルアーン7.31(イスラーム)

むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません。
箴言30.8 ~ 9(キリスト教)

名誉と身体、どちらが切実であるか。身体と財産、どちらに多くの価値があるか。成功と失敗、どちらに大きな害悪があるか。あまりに大事にすると費すものが多く、多く貯めれば貯めるほど失うものは多い。満足すべきことを知れば恥をかかず、正しい時にとどまることを知れば危険に出会わない。こうすれば、いつまでも持ちこたえられるのである。
道徳経44(道教)

喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4 ~ 5(儒教)

人柄としての器官が中間性であること……それが過剰による悪徳と不当による悪徳の二つの悪徳の中間性であり……器量が情と行為における中間を狙い目ざす。立派なひとであるのが骨の折れることであるのはこの理による。というのは、何であれ中間をうるのは骨の折れることだからである。たとえば、円の中心をうるのは、誰にでもできることではなく、知っているひとにだけできることである。

それと同じように怒るのは誰にでもできる易しいことである。金銭を供与し、支出することについても同じである。しかしながら、これらのことを、なすべきひとに対して、なすべきだけのものを、なすべき時に、なすべき目的のためになすべき仕方でなすということはもう誰にでもできることではなく、また、易しいことでもない。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.9(ヘレニズム)

名誉と不名誉をめぐる中間性は高邁であり、過剰は一般に一種の虚栄と言われているものであり、不足は卑屈である。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.7(ヘレニズム)
いかなる人間の条件も永遠でないことを記憶せよ。そうすれば、あなたは幸運に喜んで飛び跳ねることがなく、不運であまりに恥ずかしく思うことがない。
ソクラテス(ヘレニズム)

 

―み言選集―

正常なものとは何でしょうか。すべての面で平均をとり、和合できる「中庸の道」というものを知らなければなりません。中間の立場を行くのが正常なものです。偏ってもいけません。高くもなく、低くもなく、そのように……。調和を成していくところにおいては、それが正常になるのです。正常という言葉は何の言葉かというと「中庸の道」だというのです。
(120-224、1982.10.17)

罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです
(31-165、1970.5.24)


一人がこの地上で生きるにおいてこのくらい物質を消耗していくだろう、というその量があります。「私はこのくらい、できるだけ量を少なくしよう。このくらいだけ使っていこう」、こうでなければなりません。使って残ったものはどのようになるのですか。その人の子孫に福として行くのです。このような思想をもった国は、発展し、栄えるということを知らなければなりません。
(161-127、1987.1.11)

円満な人とは、四方性が整った人のことである。
御旨の道、人格

バランスがとれていなければなりません。調和が成されなければならないということです。バランスを否定すれば、人間はいなくなるのです。アメリカの青年たち、アメリカの家庭が死につつあります。根本的に個人と家庭でバランスが崩れているためにそのようになるのです。
(339-139 ~ 140、2000.12.10)


東西が一つに合わさることによって新しい立派なものが出てきます。ですから、国際結婚をした夫婦から天才的な息子、娘が生まれます。
(376-277 ~ 280、2002.4.29)

水平がなければ統一できる安定圏が永遠に存続しません。曲がったり、下がったりしてはいけません。いつでも水平でなければならないのです。この水平を成すためには、主体と対象関係が均衡を成さなければなりません。均衡のために必ず主体と対象が生じるのです。

それでは、均衡を成して何をするのですか。水平をつくらなければなりません。主体と対象は均衡を成さなければならないのです。一度に水平になるのではありません。高いものと低いものの均衡を合わせて調整し、水平を成すのです。水平になれば、そこから安着基準に入っていきます。そこで中心を中心として統一的な概念が生じるという結論が出てきたのです。ですから、均衡と水平と統一は三位一体だということを知らなければなりません。どこが神様の位置かというと統一です。統一のために水平が必要であり、水平のために均衡が必要なのです。自分の動作において、一つでも不足であれば、統一と水平と均衡の世界は崩れていくことを知らなければなりません。
(298-168 ~ 169、1999.1.1)

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世界経典-47

2022年06月25日 16時57分38秒 | 学習

2.抑制

自制の道は抑制から始まる。抑制するということは、様々な面を含んでいる。第1に、罪を犯すように誘惑する環境を避けなければならない。このためには、自己自覚が必要である。自身の弱点をきちんと知るとき、妥協する状況を避けられるからである。

第2に、突発的性格、驕慢、瞬間的衝動から起きる行動を抑制しなければならない。文鮮明先生も、自身の本来の性格が火のようなものであることを知っているため、絶えず怒りを抑えようとしていると言われる。それが他人にもたらす害を御存じだからである。

第3に、非暴力的で温和であること、人を傷つけるよりかえって打たれるほうを選びなさいという宗教的教えも、やはり抑制力を鍛錬するのに役立つ。


第4に、文鮮明先生は、数千年間、侮蔑と憤怒を耐えてこられた神様の忍苦と自制力に関して語られる。神様の忍耐に関する教えは、自制力を養おうと努力する私達に一つの鼓舞の事例とな
っている。


―宗教経典―

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(注5)
エペソの信徒への手紙4.26 ~ 27 (キリスト教)

実に神は私の民の心の中から起きる悪の衝動を赦してくださる。彼らがそれを口の外に出さず、行動に移さなければ。
ムスリム・ハディース(イスラーム)

釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らしめなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自からに、自からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経6(仏教)

一つの腕輪は音を出すことができない。(注6)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコブの手紙1.20 (キリスト教)

アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えた。「強い者は力のある壮士ではなく、怒りがわいたとき、自らを統制する者である」。
ブハーリーおよびムスリム、・ハディース(イスラーム)

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書5.21 ~ 22(キリスト教)

アヒムサ、すなわち不殺生は、主マハビラが立てた五つの戒律の中で最も重要なものであり、厳守し少しも背いてはならない。一切衆生に対し、常に慎み、慈悲の心を表し、生きたものを殺してはならない。
ダサヴェーヤーリャ6.9 (ジャイナ教)

「屏風の向こうに見えるあなたの両頬は、割いたザクロのかけらのようだ」(歌)。あなた自身を空にするのは、種をいっぱいに抱えたザクロのように、宗教的規律であなたの心を満たすことである。罪を犯す機会に、その罪から逃げてくることができ、犯罪行為を抑制できる心をもった人は、より高貴な宗教的行動を遂行するようになる。だとすれば、謙遜と自制のベールで自らを覆う者はどれほどよいことか!
頌歌ラッバー4.4.3 (ユダヤ教)

あるとき、自分の心が執着し怒りを生じるようなときは、(何も)行為をせず、口を開かず、木のごとくあれ。もし、散乱や嘲笑、あるいは自慢や尊大な気持ちから、あるいは他者の過ちを暴こうという心があったり、もし悪業によって人をだまそうという心があったり、もし自分を誇り、あるいは、他者を非難したり、とがめ、争う心があるならば、そのとき(何も)行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。所得と尊敬、名声を欲し、あるいは召使を求め、あるいは注目されることを望み、私の心が奉仕を欲するならば、そのとき(何も)
行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。利他を捨て去り、自利を求めたい(と望み、そのために何か)言いたい気持ちがおきたなら、そのとき木のごとくあれ。
菩提行論5.48 ~ 52 (仏教)


―み言選集―

気分の悪いことがあれば、そのまま流してしまわなければなりません。気分が悪い心をもったまま大衆の前に出て、あれこれ言うのは偽者です。
(45-269、1971.7.4)

いくら友人が多くても、皆さんがいつも自己主張ばかりすれば、みな離れていくのです。
(36-181、1977.11.29)

信仰の道に立った人々は、自分を中心として腹を立てることが最も恐ろしいことです。ですから、腹を立てないでください。腹を立てないでください。神様を信じていくにおいて、自分の欲心を中心として腹を立てていけば、そっくりそのまま引っ掛かってしまうのです。
(32-34、1970.6.14)

先生も、もともと善の人なのではありません。元来が良い人なのではなかったというのです。ですから、すべてそのようになるかならないか、舌をかみ、このように抑制し、「このように行かなければならない!」と訓練しなければならないのです。外的な怨讐たちは何でもありません。
(320-250 ~ 251、2000.4.16)

もし私が、「誰々は死ね」と考えたり、「あいつは」と憤慨したり、忍耐できずに口をつぐんで「ん~」としたり、「何カ月後を見ていろ」と思えば、めちゃくちゃになって引き裂かれていきます。それで、舌をかみながら私は何度も我慢しました。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもつ私が自分の口で呪えずに口をつぐんでいると、その怨恨をすべて天が解いてくれました。
それを見ると、神様が愛していると思うのです。
(162-206、1987.4.12)

歴史路程を見れば、常に先に打った者が負けます。世界大戦を見てください。第1次世界大戦でも先に打った側が、第2次世界大戦でも先に打った側が負けました。第3次世界大戦でも、先に打った側が負けます。(注7)それで、個人の生活でも、「忍耐しなさい。忍耐する者に福があるので、打たれて忍耐しなさい」というのです。なぜかというと、忍耐すれば立てられる日があるからです。
(7-222、1959.9.13)

千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんがもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意しなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)

今日、私達が忍耐し、忍耐しなければならない原因がどこにあるのでしょうか。私達が忍耐できなければ、私達が背負った負債を返すことができず、天が抱いて忍耐してきた怨恨を解怨できないからです。天地の運勢は、神様の摂理と共に回っているので、皆さんは、神様が憤るとき、一緒に憤ることができ、神様の無念さと神様の鬱憤に対して味方になれば、サタン世界は審判されるというのです。今日、信仰路程を歩んでいる私達に対して、天が温柔、謙遜で、憤慨することなく忍耐して辛抱しなさいという、このようなすべての教えは、すべてそのような理由のためです。
したがって、私達がそこに一緒に歩調を合わせることができず、神様の摂理との間に、隙間ができれば、サタンが入ってくるのです。ですから、今日の信じる人たちは、無条件に犠牲になり、無条件に従順になり、愛の内的な部分だけに従っていかなければなりません。
(1-113、1956.6.10)


3.真実

真実だ、というのは不変の性格を意味する。真実な人は、どのような状況にぶつかっても目標を放棄せず、約束を守り、自身の義務を果たす。何よりも真実な人は、家族と共同体に道徳的、霊的中心存在になる。他の人たちがその人に期待し、信頼し、頼ろうとする。

文鮮明先生のみ言のように、ダイヤモンドと金が貴い理由は、その不変の光沢のためであるように、ダイヤモンドのような価値をもつ人は、不変の性格をもった人である。

責任と逆境は、その人の真実さを試練する。安楽よりは原則を重要視する人たちが真実な人たちである。その一例が、父のみ旨を捨てるよりは、むしろ王国を捨てることを選んだヒンドゥー教のラマヤーナの英雄ラマである。時には、自分が担った責任を利用して自分の富と発展の機会にしたいという誘惑が来るときがある。逆境でも、常に肯定的な姿勢を維持するのは、一種の挑戦である。
命が危険な状況では、義務を守ることがより困難になる。しかし、真実な人は、状況に揺さぶられることなく自分の責務を果たす。そのような人は、課題が与えられたとき、変わらない姿勢で目標に向かっていく人である。


①原理的生活

―宗教経典―

完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
箴言10.9 (キリスト教)

およそ君子たるものは、ひたすら正しい理法にかなった行為をして、あとはすべて天命に任せて待つばかりである。
孟子V1LB.33 (儒教)

徳が(国政の)根本のつとめである。産物・貨物はその末端のことである。(それなのに)その根本のつとめをなおざりにしてその末端のことを大切にすると、人民を互いに争わせて物を奪い合うようにさせることになる。
大学10.7 ~ 8(儒教)

称賛を聞いたからといって喜ばず、非難を聞いたからといって悲しむな。自らの功徳と力をよく知ること、それは卓越した人の特徴である。
善説宝蔵論29(仏教)

世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである。
スッタニパータ268 (仏教)

先生がいわれた、「仁でない人はいつまでも苦しい生活にはおれないし、また長く安楽な生活にもおれない。〔道をはずれるか、安楽になれてしまう。〕仁の人は仁に落ちついているし、智の人は仁を善いことと認めて活用する。〔深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。〕
論語4.2 (儒教)

あなたの一番目の目標を徳としなさい。不道徳な行為をするよりは、かえってお金を放棄し、名声を放棄し、知識を放棄し、地球自体と地球が包むすべてのものを放棄せよ。そして、いかなる状況でも、またいかなる環境でも、あなたが不名誉なことをするのが最善だと決して考えてはいけない。あなたが何かをするようになったときにはいつも、たとえそれは他人には知られず、あなただけが知っているとしても、全世界があなたを見つめていれば、あなたがどのようにしようとするかをあなた自身に尋ねてみなさい。そしてそれに従って行動しなさい。
トーマス・ジェファーソン

よい評判を得ようとすれば人々が考えてくれることを願う人になりなさい。
ソクラテス(ヘレニズム)


―み言選集―

ある人を人格者と言うとき、それはその人の外貌や学閥(注8)、経歴、または地位を見て言う言葉ではありません。どのくらい原理的な立場で生きているのかを見るのです。外的に華々しく、多様な何かのものを強調するのではありません。天に仕えるにおいて心が変わらない人、そのような心をもって神様のみ旨に合わせ、生活していける人が人格者なのです。
(19-285、1968.3.10)

人の人格に骨がありますか、ありませんか。人格の骨を見ましたか。人格といえば、人の形態、人の備えた姿をいうのですが、その中には見える人がいるかと思えば、そのように見えるようにする根本を見ると、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その、形成体が、見える形体がこのように存在するようになる原因であることを知らなければなりません。
(177-315、1988.5.22)

神様の正しい系統を受け継いだ者として、まっすぐな道を進んでいかなければなりません。正しくないものは屈服させなければなりません。力に対抗して、力ではない、違うものでそれを屈服させようとすれば、何千倍の苦労をしなければなりません。どのような環境でも、収拾して征服できる忠孝の志操を立てなければならないのです。純粋な心で出発し、確固不動な歩みで目的を達成しなければなりません。
(21-83、1968.10.27)

変わる善を中心としては、一つの世界を成すことができない。中心は揺らがない。深いほど穏やかである。太平洋を見なさい。表面では嵐が起こり、波も立つが、深いところは静かである。それに学びなさい。
御旨の道、人格

どのような愛が貴い宝石のような愛、宝物のような愛ですか。不変の愛です。宝物というものは、それ自体が力と価値をもって相手を動かすようになっているのであって、相手がこの宝物を動かすようにはなっていないことを知らなければなりません。それでは、皆さんはどのような人ですか。相手に影響を与える人が貴い人です。影響を受ける人が貴い人ですか。影響を与える人の中でも、良い影響を与える人が貴い人です。
(118-95、1982.5.9)

歴史上の聖賢たちは、この地に来ては行ったその誰よりも真の人です。それでは、真はどのように成立するのですか。真というものは、未来にだけ成立するのではなく、現在にだけ成立するものでもありません。真は、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真になることができなけれはなりません。真は環境を超越します。真の人は、過去でも中心であり、現在でも中心であり、また未来でも中心です。このようなところで真の人が成立するのです。

それでは、人間の世の中で、真に最も近くなり得るものは何でしょうか。今まで大勢の人たちが行き来しましたが、真に最も近いものは何かと言うとき、相対的に現れた師や父母よりも真の母体を成し得る存在は、正に自分自身です。それでは、自分に最も近くなり得る真の相対とは何でしょうか。それは自分自身の心、すなわち良心です。私達はよく「その人は良心的だ。その人は心が
正直だ」と言います。心が正直だというのはどういうことですか。それは過去も正直で、現在も正直で、未来も正直でなければならないことを意味します。
(28-159、1970.1.11)

自分を信じて進め! ひたすら一人で行くという立場で、結晶体とならなければならない。
御旨の道、実践


②自分の義務を遂行する真実な人

―宗教経典―

信仰する者、ならびに悪魔からその身を守る者。かれらに対しては、現世ならびに来世における吉報があるのだ。
クルアーン10.63 ~ 64(イスラーム)

君子たるものは事業のもといをはじめて、その手がかりをのこして、後世の子孫が承けつがれるようにしてやれば、それで宜しいのです。しかしながら、それが成功するかどうかは天命でありまして、人間の力ではいかんともしがたいものです。
孟子I.B.14 (儒教)

君子は、おる地位に寄り従って、そのなすべきことを成し、その他を慕う心がない。富貴に在っては、富貴のなすべきことを行い、貧賤に在っては、貧賤のなすべきことを行い、蛮夷に在っては、蛮夷においてなすべきことを行い、艱難に在っては艱難においてなすべきことを行なう。君子はどのような地位に在っても、自ら満ち足りて伸びやかである。上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人にもとめなければ、恨むこともない。上は天を恨まず下は人をとがめない。だから、君子は平地にいて、天命に従い、小人は危険なことを行なって得るべきでないものを求める。
中庸14(儒教)

自分の義務を果たさない者は、誠実な人から尊敬されない。人はその行いによって高貴であるか下劣であるか明らかになり、誠実な人であるか不誠実な人であるか区別される。さもなくば卑劣な者は高貴な者に似るようになり、節操のない者が高潔な者に似るようになるであろう。価値なき者が価値ある者と思われ、堕落した者が有徳の人と思われるであろう。

もし私が義務の口実のもとに、社会の混乱を生み出すために仕組まれたこの不義なる道を採用し、経典によって認められていない行いをしたならば、私は善を捨てて悪のみを得なければならないであろう。(注9)もし私か堕落した卑劣な振る舞いをしたならば、何が義であり何が不義であるかを見分ける事のできる分別のある者の内、一体誰が私を尊敬すると言うのか?……

義務の本質は真理であり、義務はこの世界の全ての根本であると言われている。義務を支えるのは真理であり、全ては真理に基づいている。真理より偉大なものは無い。供物、犠牲、献酒、苦行、禁欲、そしてヴェーダは、みな真理を基礎としている。

したがって真理は全てに先立つものである。それのみが世界を支え、それのみが家庭を支える。それに従わなければ地獄に送られ、それのみが天において讃えられる。真理に献身していた父の命令に、どうして私が従わずにおられようか? 野望も、怠慢も、そして誇りも、私をして道徳の橋を壊させることは出来ないであろう。
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻109(ヒンドゥー教)

葉公の子高が、斉の国に使者になって行こうとするとき、孔子に意見を求めていった。「楚王は私に、たいへん重い使命を与えられました。これからまいります斉の国では、使者をひどく丁重に待遇してくれるでしょうが、要求を急に聞いてくれることはないと思います。ただの人間を相手にしても、説きふせることはむずかしいのに、相手が諸侯では、なおさらのことです。それで、私もたいへん心配している次第です。……」。

孔子は答えた。「およそ世のなかには、心に戒めなければならない大事が二つある。その一つは命、天命であり、その一つは義、人間としての義務で
ある。子が親を愛するのは命であり、自然の道によって定められたものであるから、いつも心から離れないものである。臣下が君主に仕えるのは義である。

この天地のあいだで、君臣の義からのがれる場所はない。だから、この二つを、心に戒めなければならない大事というのである。したがって、親に仕える子としては、どこにあっても親を安心させるのが、最上の孝である。君主に仕える臣下としては、どのような仕事であろうとえり好みしないで、これを果たして君主を安心させるのが、最高の忠である。

自分の心を主人のようにたいせつにするものは、哀楽の情がかわるがわる面前に立ち現われても、心の安らかさを乱すことがないようにするものである。したがって、もはや人間の力では、どうすることもできないことだとさとった場合には、運命のままに安んじて従い、哀楽の情に動かされないことこそ、最高の徳である。

人の臣下であるもの、人の子であるものにとっては、どうしても、やむにやまれないことがあるものだ。その場合には、与えられたことのままを行なって、自分自身のことは忘れるがよい。どうして生を喜んだり、死を憎んだりするひまがあろうか。……

すべて、物事のなりゆきのままに身をのせて、心を労するこことなく自由に遊ばせ、やむにやまれぬ必然の運命のままに身をゆだねて、自然のままの中正の道を養うようにすれば、それが最上の道である。何事かを行なって、よい結果を得ようなどと思ってはならない。ただひたすら、天命のままに従うのが、いちばんよい。これは、たやすいようで、実はむずかしいことなのだ」。
荘子4(道教)


―み言選集―

忠臣と奸臣は、本来人物としては同級に属する。ただ、忠臣は王様のみ意に従順であるが、奸臣は自分を立てようとする。忠臣は、常に直線上を歩み、する仕事も始めと終わりが同じである。
御旨の道、従順

今日、多くの人々は、絶対的な中心をもっていなので、心が朝夕に変わります。そのような人たちを人格者と言うことはできません。人格者とは、一生を通して約束したことを守ろうとする人であり、義の水準が高い人です。何かが決定したあとは、あれこれと変更があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、たとえ宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという人格者にならなければなりません。
(23-100、1969.5.14)

天倫に対して人間の志操を守り、天上の因縁を身代わりでき、人類の因縁を身代わりでき、宇宙の因縁を身代わりし得る価値を探し立てなければなりません。さらに、神様のみ旨に対して永遠に変わらない皆さんの立場を回復し、永遠に「ために生きられる」その方の価値を謳歌し得る人にならなければなりません。皆さん自身が全体と因縁を結び、その因縁の実践像が、神様の創造の美を完全に現せなければならないのです。このように、人間をして自分自身の生の価値を取り戻していくようにさせるのが、人間に対する神様の摂理の最高目標です。
(2-336 ~ 337、1957.8.4)

統一教会の文先生を、神様はなぜ必要とされるのですか。なぜ必要なのですか。顔が良いからですか。何のためですか。知識が何か世界的なものがありますか。何もありません。権力がありますか。お金がありますか。何もありません。何でもないのです。

しかし、神様のみ旨を知り、それをしてさしあげようと、命を尽くして一度それを成し遂げてさしあげようという、そのことのゆえに神様が私をつかんでいらっしゃるのです。それ以外には何もありません。私が皆さんを必要とするのは、皆さんのお金を取ろうというのですか。私が権力を得ようというのですか。何もありません。神様のみ旨のために生きようという、細い小さなその心が、アメリカの何かの権力よりも必要であり、どこの誰よりも強いと思うがゆえに、皆さんを私が必要とするのです。
(77-16 ~ 17、1975.3.23)


③環境によって左右されない真実な人

―宗教経典―

その昔、このサーヴァッティにヴェーデーヒカーという女性資産家がいました。女性資産家には、次のような良い評判が立っていました。「……ヴェーデーヒカーは温和である。……従順である。……冷静である。」と。女性資産家ヴェーデーヒカーには、カーリーという賢明で、働き者で、丁寧に仕事をする女性奴隷がいました。さて、比丘たちよ、女性奴隷カーリーはこう思いました。

「わが尊女にはこのような良い評判が立っている。わが尊女は、心に怒りがあっても顕わさないのか、それとも無いということであろうか。それとも、私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は内心に怒りがあっても顕わさず、無いのではないということであろうか。私は、尊女を観察してみてはどうであろうか」と。


そこで、……女性奴隷カーリーは日中に起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中に起きるとは何ごとですか」「何もございません、尊女さま」……このように怒り、心喜ばず、渋面しました。

そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。「わが尊女は内心に怒りがあっても、顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか」と。

そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。
「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中遅くに起きるとは何ごとですか」「何もございません。尊女さま」「日中遅く起きながら、何もないですって、性悪い奴隷よ」このように怒り、心喜ばず、不快な言葉を発しました。そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。

「わが尊女は内心怒りがあっても顕わさないのであり、無いのではない。私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は怒りがあっても顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか」と。そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。

「これ、……カーリー」「日中に起きるとは何ごとですか」このように怒り、心喜ばず、閂の楔をもち、頭に一撃を加え、頭を割りました。そのとき、……女性奴隷カーリーは、頭が割れ血を流しながら、付近の者たちに不満をもらしました。

「皆さん、温和なお方の行為を見てください。……冷静なお方の行為を見てください。どうして一介の奴隷に対して「日中に起きるとは」といって怒り、心喜ばず、閂の楔で頭に一撃を加えることがありましょうか」と。

……女性資産家ヴェーデーヒカーには、後日、このような悪い評判が立ちました。……ちょうどそのように、……ここにある比丘は不快な言葉の道が気に触らない限りにおいて、大変に温和であり、……従順な者であり、……冷静な者です。しかし、比丘たちよ、不快な言葉の道が比丘の気に触るときにこそ、比丘は「温和な者である」と知られるべきです。「従順な者である」と知られるべきです。「冷静な者である」と知られるべきです。
阿含経中部i.123 ~ 124 (仏教)

よく学んだ高潔な弟子は、苦痛を感じたとき、すすり泣かず、泣きわめかず、胸をたたくこともなく、慌てたりもしない。彼は肉体的に感じているが、精神的には何も感じていない。……

さらに、彼は苦痛に対して強い反感も感じない。彼はそれに全く反感を感じないため、苦痛に反発する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることができない。

なぜか。比丘よ、よく学んだ高潔な弟子は、感覚的な平安さの外に苦痛から抜け出す居所を知っているからである。彼は感覚的な平安さを楽しむことがないため、感覚的な平安さに対する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることがない。……

もし彼が楽しさを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が苦痛を感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が楽しさでもなく苦痛でもないものを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。
阿含経相応部36.1.1.6 (仏教)

―み言選集―

金の価値は、火の中に入れられても、その本質が変わらないところにある。人間の価値も同じである。もし苦労の道にぶつかって、その志が変質するとしたならば、人格者といえないだろう。
御旨の道、人格

心が変わるために行く方向が変わるのであり、行く方向が変わるために目的が変わるというのです。心が変わって一つの目的を達成するということはあり得ないことです。心が一つになっても目的を成し遂げるのが難しいのに、二つの心をもって一つの目的を成就するということは、ますますあり得ないことです。

このようにすべてのことを見る時、一つの心が必要なのです。朝の心と昼の心と夕方の心が一つにならなければならず、初年時代の心と中年時代の心と末年時代の心が一つにならなければなりません。このように誰でも一つの心をもって始めて、一つの心をもってその過程を開拓し、一つの心を中心として結果を追求するならば、その期間が長ければ長いほど、その人の願う目的も大きいでしょう。

私達は一つの心をもたなければなりません。ある目的を追求するにおいても、一つの心をもたなければなりません。一つの心を離れては、その目的を成し遂げることはできないのです。こういうことを見る時、神様は二つの心をもって天地を創造されなかったことが分かります。一つの心から始まって、一つの目的を達成するためには、一つの方向を備えた過程を経なければならないようになっているにもかかわらず、今日の人間は、一つの心の形態を備えることができずにいます。
(28-155、1970.1.11)

堕落以降の人間を見てみれば、どれほど心の世界が変わるか、千態万状です。心の本性が絶対に変わらず、体が本来の永遠の形態を備えたならば、そのような男性と女性は、貴い男性、貴い女性になるのです。白人カラーは唯一で変わらないので貴いのです。黒人カラーも唯一で変わらないので貴いのです。貴いものとは何か知っていますか。いくら白人でも、心が変わり、行動が変われば、
世俗的でサタン側になるのです。

いくら白人が立派な立場で彼らの役割を誇ったとしても、心や行動が変われば、世俗的な人間になります。これを知らなければなりません。変わらないすべてのものは、いつ、どこでも神聖なものなのです。このような人は、たとえ位置が違ったとしても、この歴史において、この世界において貴い人です。
手の形や顔は変わりません。それでは、人において変わるものは何ですか。心が変わるので、正にここが悪魔の舞踏場になり得るのです。心が変わる男性を好む女性がどこにいますか。そのような女性がいれば、その女性自身が完全な女性になり得ますか。皆さんは貴い人になりたいと思いませんか。

それでは、貴いカップルとは、どのようなカップルですか。一度真の愛で一つになれば、永遠に変わらないのです。歳月がそのカップルについていくのであって、そのカップルが歳月についていくのではありません。数千年の歳月が彼らについていきます。そのような人が永遠の生命の中心です。ですから、数千年をコントロールする中心が、正にそのような人だというのです。そのような人が正に神様のような聖人なのです。神様は、数千年の間、宇宙をコントロールしてこられるのです。いくら季節が変わり、地球が変わり、宇宙が変わったとしても、神様はそれについていきません。これはとても明白な結論です。
(217303 ~ 304、1991.6.12)
4.正義

正義感あふれる人生とは、高貴な価値を敬い、共同の利益のために献身する人生である。正義感のある人たちは、社会にビジョンを提示し、真の価値を鼓舞する霊的、道徳的な柱のような存在である。彼らの勇気と道徳的清廉さ、社会奉仕は善の市民の手本である。

義とは、時により大きな善を地域社会や国家、さらには世界に向ける努力として表出される。文鮮明先生は、このような人を、公的人生を生きていく公人と呼ばれる。そして、利己的で自分の欲求ばかり満たそうとする動機を捨て、私達がより大きな善のために生きていこうとする心をもたなければならないと教えていらっしゃる。

正義感のある人になるのは簡単ではない。この人たちは、常に個人の利徳の前に公的な義務を優先する。自分が取るすべての行動が適切か、真摯に考える。腐敗し堕落した社会では、正義感のある人たちがいつも歓迎されるとは限らない。甚だしくは迫害されることもある。しかし、旧約のソドムとゴモラの話から10 人の義人のゆえに、神様が罪の多い都市を快く赦してくださると約束されたように、義は高貴な価値をもっている。どの社会であれ、そのような人が要求される。

①自分を犠牲にして悪に対抗する義人

―宗教経典―

先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。〔主観を去って〕ただ正義に親しんでゆく。」
論語4.10 (儒教)

神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン2.251 (イスラーム)

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書5.10 (キリスト教)

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムヘ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはなら
ない。」
ヨハネによる福音書2.13 ~ 16(キリスト教)

勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあ
るところに勝利があるのである。
マハバーラタビーシュマ・パルヴァン21(ヒンドゥー教)

歪曲された非難で私達を悪く言わないようにし、政府を破壊するという脅しに恐れることなく、私達を監獄に閉じ込めるという脅迫、やはり介意しないでください。正義が力になるという信念をもち、その信念の中で私達の義務を理解し、それに従って自信をもって行動することを願います。
エイブラハム・リンカーン(注10)


―み言選集―

「義」の字を見ると、不思議なのです。「羊のような我」という意味です。本当に不思議な組み合わせでできています。
(92-309、1977.4.24)

神の国と神の義のために冒険が必要であれば、その冒険を通して前進するようになるとき、神様が、「うむ! やりなさい! やりなさい!」とおっしゃるのです。それで、非難されるところを訪ねていくようにするのです。そこでぶつかれば、神様は「あれに一度ぶつかればどのようになるか」と……。それで、自力で屈服させるようになれば、神様は、「あ~、よいなあ」とお待ちになるのです。人と同じです。さあ、これは闘うこともなく恐れをなしているのですが、神様が彼を助けてくださいますか。「うんうん、やりなさい! やりなさい!」。世の中のどこにそのようなことがありますか。ですから、善意の問題を起こしなさいということです。
(104-108、1979.4.15)
皆さんは、最初に善か悪かを分けなければなりません。善悪がどこにあるのでしょうか。善悪は世界に満ちていますが、善悪を分けるべきその分岐点は皆さん自身です。これを知らなければなりません。世界が悪だと言うとき、その悪の世界と相克なく生きる人は悪の人です。私はこの世界と相克なく生きるという人は、悪の人だというのです。
堕落圏内にいながらも、網にかかっている魚と同じように、反旗を翻すことなくそのまま生きている人は、悪の人です。

悪の世界と相克を起こさなければならないとき、ただそのまま生きていく人は、悪の人です。今生きている世界が悪の世界だということを知れば、反旗を翻さなければなりません。それでは、なぜそのようになったのでしょうか。人間が堕落したからです。

堕落して落ちたので、解放を迎えるためには、再び上がっていかなければならず、再び上がっていくためには、身もだえしなければならないのです。そのままでは駄目です。そのような人を通しては、人類が追求する新しい世界を迎えることはできず、新しい歴史の発展を期待することはできず、歴史的な善の痕跡を残すことはできません。ですから、善を掲げてきた人たちは、闘争しなければならないのです。
(33-42、1970.8.2)

迫害を受けて困難であるほど、より強くなるのが正義の本質なので、打てば、反対にもっと発展するという原則が成立します。
(93-134、1977.5.21)

善の心は、ある目的を指向しても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、その過程においても善の心を刺激させ得る因縁を発見するのが難しい反面、悪のものは、その過程にいっぱいに満ちていて、最初から最後まで連結されています。このような点から見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。

善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、彼を歓迎する人は、この地に多くはないという事実を私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。
(36-52、1970.11.15)

今、一つの峠を越えていかなければならないその道を見守られるお父様の前に、恥ずかしさを感じず、堂々と浩蕩な男としてまいりますので、お父様、その道を見守られ、誇りに思ってくださることをお願い申し上げます。
(134-142, 1985.2.25)


②義人は公的に生き、自分の福祉と公共の善を同一視する

―宗教経典―

だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6.31 ~ 33(キリスト教)

正しく仕えるということは、なんじらの顔を、東または西に向けることではない。およそ正しく仕えるとは、神と最後の審判の日、諸天使と諸聖典と予言者たちを信じ、かれを愛するためにその財産を、近親・孤児・貧者・たび路にある者・物請いや奴隷の解放のために費やし、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、約束したときはその約束を果たす。また困苦と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり、またこれらこそ主を畏れる者である。
クルアーン2.177(イスラーム)

私が身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。死にゆく人さえ私を祝福し、やもめの心をも私は生き返らせた。私は正義を衣としてまとい、公平は私の上着、また冠となった。私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、私にかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した。
ヨブ記29.12 ~ 17(キリスト教)

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42.2 ~ 4(キリスト教)
公孫丑がいった。「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでございましょうか。」孟子はこたえられた。「私は他人の言葉をよく判断する。また浩然の気をよく養っておる。」公孫丑がまたいった。「……告然の気とは、いったい、どういうものなのでしょう。」

孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しにくいが、この上もなく大きく、この上もなくつよく、しかも正しいもの。立派に育てていけば、天地の間に充満するほどにもなる。それが、浩然の気なのだ。

しかし、この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ、この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行なっておるうちに自然と生れてくるもので、下界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。自分の心になこか疚(やま)しいことがあると、すぐに飢えてしぼんでしまう。……それは、いつもほかのものに伴われているものであるから、決して気だけを目的として養ってはいけない。そうかといって忘れてしまってもいけない。あの宋人(そうびと)のようにあせって助長してもいけない。」
孟子II.A.2 (儒教)


―み言選集―

皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。
(31-168、1970.5.24)

ほかの人たちを感動させる、「ために生きる」立場に立つようになるとき、個人の峠を越えるのです。
(241-118、1992.12.20)

人間は本来、自分個人だけのために生きるようにはなっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「自分のために仕事をする」と言います。つまり、自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言えなければなりません。
(24-21、1969.6.22)

「本部で最も困難なこと、国で最も困難なことを私がやった」と言わなければなりません。統一教会での困難なことをいうのではありません。さらには「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。(注11)今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。
(113-111、1981.5.1)

「できる、できない」、心配する必要はありません。そのようにしたのかしなかったのかが問題です。
(308-209、1999.1.5)

公的な人たちは、言葉を話すときも公的な話をしました。行動し、見て、聞いて、感じて、考えて、食べて、寝ること、すべてがそうでした。ですから、公的な心をもっている目はすべて愛するようになるのです。(111-244、1981.2.22)
信仰者として最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、
完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)


③義人は民族の守護者

―宗教経典―

アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。

正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.23 ~ 25(キリスト教)

しかし、私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。(注12)
列王記上19.18 (キリスト教)

エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、私はエルサレムを赦そう。「主は生きておられる」と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか。
エレミヤ書5.1 ~ 3(キリスト教)

常に国家には30 人の義人がおり、彼らの恩恵により世の中の国々は存続し続けることができる。(注13)
タルムード、フッリーン92a (ユダヤ教)


―み言選集―

レバレンド・ムーンがこのようにアメリカに来て、できる限りたくさんの仕事をしながら、大勢のアメリカの人たちを苦労させる理由があります。そのようにして発展すれば、アメリカの福になるのであり、神様が下さった責任をアメリカが果たせなかったことを終息させ得る一つの蕩減条件になるのです。そうすれば、私が、「この人たちを見てお赦しください」と祈祷できます。

「神様!アメリカは滅んでも、彼らを見て滅びないように……」、ソドムとゴモラが滅びるとき、義人が10 人いれば赦すと言われたのと同じように、「このアメリカは滅んで当然ですが、このような彼らを中心としてお赦しください!」と祈祷できるのです。
(103-200、1979.2.25)

愛国者が大勢いますが、聖人はめったにいません。聖人は、世界のために自分を犠牲にする人です。レバレンド・ムーンが愛する皆さんを聖人にしたいでしょうか、愛国者にしたいでしょうか、あるいは孝子にしたいでしょうか。私は皆さんを聖人にしたいと思うのです。
(111-141 ~ 142、1981.2.8)


5.誠実と確実

人の内的意図は行動の結果に至大な影響を及ぼす。言い換えれば、どのような行動が善なのか悪なのか、効果があるのかないのかは、動機によって決定されるのである。

仏陀が「法句経(ダンマパダ)」で強く説教したように、あらゆる行動は心から始まる。心から創出されるのである。内的心の状態に従って行動が出てくるものである。

下記のある経典の章句では、「信実」とは、あらゆる虚飾と利己的欲心が排除された、心の自然的で自発的な流れだと定義する。また、ほかの経典では、真実で信実な心を実践するためには、自己探求と自己涵養が要求されるという。

文鮮明先生は、自ら「精誠」と呼ばれる、この信実な心を高揚させることが霊的な人生に必需的だと語られる。この節では、精誠を日常生活に必要な徳目として扱っている。神様に近づく信実さと関連した主題は、第16 章の「献身」と「純粋な意図」により詳細に紹介されている。


①誠実は心情から自動的にわきでる

―宗教経典―

ある人の心が堅実なら、彼の体も満ち足りており、……ある人の心に悪意があれば、その体も悪意をもつ。ハディース(イスラーム)

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。
法句経1 ~2(仏教)

アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えるには、「神はあなたの外貌と所有物を御覧にならない。ただあなたの心と行為をご覧になる」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15 (キリスト教)

己に対しで誠であることを見ないで発すると発するごとに当たらず、業(世事)が入って(心をかき乱して)も捨てないと、そのたびごとに、(心の真を)失うようになる。
荘子23(道教)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ローマの信徒への手紙12.9 ~ 10(キリスト教)

誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である。
中庸20.18 (儒教)

喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4 ~ 5(儒教)

真とは、心が純粋で誠実であることの極致をさしていうのだ。心が純粋でなく、誠実でなければ、他人の心を動かすことはできない。だからむりに死者のために泣くものは、どんなに悲しそうにしても、人に悲しさを感じさせない。

むりに怒るものは、いかに威厳をつくろっても、人に威圧を感じさせることがない。むりに親しもうとするものは、いかに笑顔を見せても、人になごやかさをおぼえさせることがない。


真の悲しみは、声を出さないで悲しむものであり、真の怒りは、表情に出、さなくでも威厳をそなえ、真の親しみは、笑顔を見せなくてもなごやかさを覚えさせるものだ。このように、真が心のうちにそなわっているものは、それが心のはたらきとなって、自然に外に現れるものである。これが真をとうとぶ理由にはかならない。
荘子31(道教)


―み言選集―

私の内なる人である心と話をしなければなりません。人の心が神様と共に共鳴するようになれば、神様と関係を結ぶようになり、宇宙の真理は自動的に分かります。
(102-34、11978.11.19)

善なる人は、自然を見ても、人と会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。
御旨の道、自然

神様の前に至誠を尽くすことは、人から聞いたり、学んだり、導かれたりしてなせることではない。自動的に心情がわき出るからするのである。ゆえに、忠、孝、烈は教えられてできるものではない。
御旨の道、心情

私が精誠を尽くし、愛するものは、私のものだというのです。福は神様がもっています。恨を越えて福を与えたいと思う心が貯蔵されているので、福を受けることができるか考える必要はないのです。福は自動的に来るようになっています。その心をもって生活に適用し、動いてみることを願います。

先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。私はこのために生まれました、生まれたのはこのためです、と考えなければなりません。その次には、喜んでするのです。喜んですることが愛です。喜びの峠を越えていけるものが愛です。自分が嫌いなものには手を出しません。やらないのです。喜んでするところには、神様がその世界に福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)

敬天、人和、愛地の内的な心情基準を揺り動かされない者が、恵まれた者である。
御旨の道、心情

精誠を尽くしていることが成し遂げられるためには、心が統一されなければなりません。すなわち、一片丹心を備えなければならないということです。二つの心があってはいけないのです。始まりから終わりまで、統一された心で精誠を尽くさなければなりません。精誠は、誰かに貸してあげて、また戻してもらえる物とは違います。ですから、始めも、過程も、終わりも、様々な形態に変化しては、精誠になり得ないというのです。
(17-227 ~ 228、1967.1.29)

克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。
(42-228、1971.3.14)


②行動する以前に精誠を尽くしなさい

―宗教経典―

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
箴言4.23 (キリスト教)

神道というものは、ほんとうに正しく直きものを根本とするものであるから、……そうであるから、神の示されるまことをもって自分のものとするそのほんとうの姿の中より流れ出てくるものであり、事物に接するうえにおいて、ちょっとかりに行うようなことにも、みなまことを尽くすべきである。

このまこと、正直のない礼儀、義節などというものは、みなまちがった取るに足りないものである。弓を引くのに、手のうちを固めないで、いたずらに的に当てることを考え、梶もなくて船を進めようとするようなものである。
匹田以正神風記(神道)

實にも心は輪廻その者なり。そを努めて清浄にせよ、心の考ふる所に從て人はそれとなる。これ實に不変の秘義なり。心の寂静に依て善悪の業を滅す。寂静我に住することに依て不壊の幸安を味ふ。
人の心にして外境に着するが如くに、しかく梵に着せむか。何人は繋縛より脱せざらむ。

先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。濕沈(laya)と掉挙(viksepa)とを離れて心不動となり、無心態(amanibhava)となる時、そは賞に最高処なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34.3 ~ 7(ヒンドゥー教)

(先に)言った「其の意を誠にする」とは、みずから欺いてはならないということである。(悪を憎むこと)悪臭を憎むようであり、(善を好むこと)美しい色を好むごとくである。このことを、自己自身に快しとして満足するというのである。だから、君子はその独りを慎むのである。小人は独りでいると不善を行なって、どんなことでもする。君子に出会うと初めて、隠れるようにして、その不善のことを覆ってしまい、その善を現す。他の人が自分を見るとき、その肺臓肝臓まで(明らかに)見通してしまうようである以上、(覆い隠したところ
で)なんの益があろうか。これを「(心の)中に誠があれば、(必ず)外に現れる」というのである。

だから君子は必ず、その独りでいるとき(の行い)を慎むのである。曾子が言われた、「十人の目の見るところ、十手の指すところは極めて恐れなければならない」と。富は住居を潤し、徳は身を潤す。心は広々としており、身体は伸びやかである。だから君子は必ずその意を誠にするのである。
(注14)
大学6.1 ~ 4(儒教)

私達は、私達自身を検査しなければならず、何が心情の影響であり目的なのか学はなければならない。このようにしてこそ、私達は、私達が誰なのか正直に学ぶことができる。
科学と健康8(クリスチャンサイエンス)

比丘たちよ! もし自ら着飾ることを好む女性や若者、あるいは幼い少年がいて、きれいな鏡や澄んだ水が入った壷に自分の姿を映し、その中に何かのしみやあかがついているのを発見すれば、その人はそのしみやあかを消そうと努め、そのとおりになればその人はとても喜び、このように考える。

私がきれいになったことは、私にとって本当によいことだ。これと同じように、比丘の内的省察は、それがよく修められるとき、彼に最も大きな利得になる。ゆえに彼はこのように自らを振り返る。
私が平素によく人のものを欲しくはならないか。

私が平素に悪意を抱いて語ったり行なったりしたことはないか。私が平素に修行を修めることを怠ったりしていないか。私は平素に心がそわそわし平静心を失ってはいないか。私が平素に疑心をもって心が動揺し混乱に陥ってはいないか。私が平素に怒りをよく静めることができていないのではないか。私が平素に汚れた想念に捕らわれて
はいないか。私が平素に色事をむさぼる心を抱いてはいないか。私が平素に無気力に過ごしたりしていないか。活気にあふれた姿で修行に臨んでいるのか。私が平素に私を統御して生きているのか、あるいはそうできていないのか。

もしこのように自らを振り返り、ある比丘が、「私は平素に人のものを欲しがり、心に悪意を抱き。放逸し、鈍く、心に平静を保てず、疑心に心が動揺し、よく混乱に陥り、よく怒り、色欲にはまった体をもち、のろまで自分を統御できない」と思えば、その比丘は自らを叱責し、より一層修行に専念しなければならないので、よりたくさん努力し、より高い熱望をもち、より多く実践し、
心が散漫にならず、邪悪で有益でないものを振り払うことに全力を尽くさなければならない。
阿含経増支部5.66(仏教)


―み言選集―

「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉です。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。ですから、内外のすべ
てのものを成して捧げるという意味です。(注15)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。
(78-31.32、1975.5.1)

普段の感じが何パーセント的中するのか、皆さんの生活過程を分析して、結果を確認しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を、皆さんが環境圏内で結んで確認できるようにならなければなりません。

そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析できません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。このような信仰態度を育てていけば、間違いなく体恤されていきます。そのようになれば、道を行くとき、祈祷をしなくても大丈夫です。

最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かということが分からなければなりません。最初に、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるというのです。悪いと感じるときは行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ですから、皆さんは、環境の中で体恤信仰を開発するために努
がしなければなりません。
(40-288、1971.2.7)

恨んではいけません。「ああ、大変だ! 先生は分かってくれる、分かってくれない」と言いますが、精誠を尽くしたことが分かれば、どのようになりますか。愛することを分かってくれたら、どのようになりますか。分かってくれたら愛が詰まってしまうのです。分かってくれないことによって、精誠が流れていき、愛が流れていくのです。これがすべて流れていかなければなりません。水も流れていき、空気も流れていき、愛も隙間さえあれば、すべて満たすのです。
(308-205、1999.1.5)

信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。

人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。自分を中心とした限界の世界は、神様のみ旨の世界とは異なるのです。
(32-21 ~ 22、1970.6.14)

準備できない人は流れていきます。準備できない人は相続者になれません。重要な話です。ですから、何か自分が天に同情し、神様の心に感動を与えることができなければなりません。そのような時間がどのようなところかということを考えるとき、それは精誠を尽くし、また精誠を尽くそうとするときであり、ために生き、またために生きようとするときであり、愛して、また愛そうとするときだというのです。
(308-203、1999.1.5)

いまだに堕落圏に属している人類は、良心革命を完成しなければなりません。すなわち、この世の中のいかなる主権や理念を前にしても、一点、一画も加減することなく、神様が賦与してくださった本心の指向性に従い、真の愛、真の生命、真の血統の伝統を守りなさいという意味です。
天の前でも、万物の前でも、一点の恥ずかしさもない正午定着的な生を生きなければならないということです。私達の生が、一心、一体、一念、一核の境地に到達し、純潔、純血、純愛性を永遠不変の伝統として安着させて一和統一時代を花咲かせる時、ついに良心革命は完成するのです。
(433-202、2004.1.27)

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世界経典-46

2022年06月25日 16時55分00秒 | 学習

8.恩寵と努力の効果

神様の恩寵と人間の努力の関係は、トマス・アクィナスが言うように共同責任だと言うことができる。人間の努力が恩寵を呼び、その恩寵が再び私達の努力を刺激する。数多くの経典が恩寵を受ける前にまず人間の善行の努力が必要であることを強調する。「天は自らを助ける者を助けくる」、またほかのところでは、神様の恩寵が私達の応答以前にある召命や導きだと説明する。

文鮮明先生の教えによれば、神様の恩寵と権能は、摂理完成の95 パーセントを占有する。残りの5パーセントは人間の責任分担として残しておかれた。ごく小さな部分であるが、残りを人間の責任として残しておくことによって、神様は人間をして創追の偉業を共に行う共同創造者として栄光を享受するよう道を準備してくださった。

しかし、救援摂理歴史を見てみるとき、人間の責任分担の失敗や脱落によって、神様に絶望を抱かせたことが多くあった。神様は、御自身一人で一方的にこの課業を完遂なさることはできない。神様はその責任を果たされると信じることのできる方だが、人間はそうではない。したがって、人間に責任分担を下さったというのは、根本的に神様がこの宇宙の運命を私達の手に任せられたものと見ることができる。

―宗教経典―

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタイによる福音書7.7(キリスト教)

「道」を学ぶ者は「道」と同一になる。人が徳に達すると、その徳と同一になる、人が徳と同一になると、徳もまたおのずから人と同一になる。人が失うものと同一になると、失うものもまたおのずから人と同一になる。
道徳経(道教)

もしある人が少しでも自らを聖化させれば、彼ははるかに聖化された存在になり、もし彼が世の中で自らを聖化させれば、天の国でも聖化された自らの姿をもつようになり、現在において自らを聖化させる者は、これから到来する世の中で聖化された自らの姿をもつようになるだろう。
タルムード、ヨーマ39a(ユダヤ教)

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
ピリピの信徒への手紙2.12 ~ 13(キリスト教)

なんじらのうち、その言を隠してもまた現わして言っても、あるいは夜間に隠れても、また昼間公然と出かけても、(全知者・主においては)同じことである。各人には、前からも後ろからも、次から次に天使がつきまとい、神の命により見守っている。
クルアーン13.10 ~ 11(イスラーム)

私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。もし我執により、〔私の教えを〕聞かないならば、あなたは滅亡するであろう。
バガヴァッド・ギーター18.58(ヒンドゥー教)

まことの道を知ろうとならば、正しい行がそのまま道。おのれに求道の心がなければ、暗い夜道に道が見えぬのと同じこと。
六祖壇経2(仏教)

孔子は次のように言う。祐けるとは助けるの意味である。天が助ける相手は天道に従順なる者であり、人が助ける相手は信実な者である。上九の人は信実の徳を履み行ない、天道に従順ならんことを思い、さらにまた下位の賢人を尊ぼうと心がける。さればこそ、「天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなし」というのである。
易経、周易繋辞上伝1.12.1 (儒教)

神が宣言されるには、私は私の僕がもつ考えの近くにいる。そして、彼が私を回想するたびに、私は彼と共にいよう。彼が自らの中に私を覚えるとき、私も自ら彼を覚えるだろう。彼が会衆の中で私を覚えるとき、私は会衆の中にいる者たちよりも彼を記憶するだろう。彼が一歩の所に近づくとき、私は三乗で彼に近づくだろう。彼が私に向かって歩みだすとき、私は彼に駆け寄るだろう。
ハディース(イスラーム)

神は各自にその果実を取ることができる鍵を下さる。
イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)

見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録3.20(キリスト教)

運動は下から始まる。そしてすべてのものが完成する。イスラエルの共同体が刺激を与えることができなければ、上にいる彼らも動かないだろう。言い換えれば、下からの熱望が上からの完成をもたらすのである。
ゾハール(ユダヤ教)

そのいっさいの行為は天命と人事の配剤に左右される。両者のうち天命は人知を超える。行動は人事に属する。
マヌ法典7.205 (ヒンドゥー教)


実に祈りは良いものである。しかし、神に求めるとき、人は自ら手を貸してさしあげなければならない。
ヒポクラテス(注17)


―み言選集―

皆さんは、神様の創造の偉業に加担しなければなりません。もともと人間が堕落していなかったとしても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落していなかったとしても、人間は責任を負っているというのです。

人として完成することのできる神様の95 パーセントの創造理想的形態をみな備えたとしても、自分の5パーセントの責任を完遂しなければなりません。人間自体の完成を神様がさせるのではなく、自分がそこにプラスしで完成しなければならない責任があるのです。堕落していなかったとしてもです。(115-66、1981.11.4)

生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。
原理講論、創造原理6.3.2
座して自分の身の上を嘆息する、そのようなやり方はいけません。発展できないのです。そこに神様が協助しません。毎日のように新しいものを願うのが神様です。
(327-48、2000.7.24)

神様が95 パーセントを創造し、人間は神様が計画された創造原則に協助して100 パーセント完成することによって、私達人間にも神様がみ旨を完成するところに同参したという価値を下さるのです。
(130-19、1983.12.11)

神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。


ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するというごとを知らなければならない。

そうして、これらすべての立場において人間が担当した責任分担は、神がその責任分担として担当された苦労と恩賜に比べていかに微小なものかを知ることができる。また摂理における中心人物たちが、彼らの責任分担を全うしなかったがゆえに、復帰摂理を延長させてきたという事実を知るとき、この軽微な責任分担が、人間自身においては、いかに大きく、難しいことであったかが推察できるのである。
原理講論、予定論2

キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は無為に帰せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである。(ヨハネ3・16、エペソ2・8、ロマ5・1)。
原理講論、創造原理5.2.2

愛という言葉は、必ず対象がいてこそ成立する言葉なので、いくら絶対者だとしても、愛することは一人ではできません。このように、神様も一人では絶対に愛することができないので、必ず愛することができる一つの対象をつくらなければならないのです。

それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は自分の形象をそのまま手本として展開させてつくったのであり、その中で自分の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間です。
(39-8 ~ 9、1971.1.9)

神様は今まで復帰途上で息子、娘に責任をもってきました。ですから、これからは必ず私が受けなければなりません。神様が私達を協助するためにそのように責任をもってこられたので、私達が神様の息子になるためには、必ずサタンの攻撃を受けなければならないのです。
(31-50、1970.4.12)


9.準備と素晴らしい出発

いかなる旅程でも、その出発が良くなければならない。東洋のことわざに「始まりが半分だ(始めさえすれば半分は成就したも同じだ)」という言葉があるが、この主題に対してよく説明してくれている。良い出発とは、第1に、内的な準備がよくできたということである。心情を浄化させ、確固たる決意で自分を武装し、行動に対する自分の哲学と方法論に確信をもたなければならない。

その後、その課題に対して調査し、前に置かれた障害物を克服するために十分な資料を収集しなければならない。これはとても実用的な助言でありながら、特に霊的な道を追求する人たちにも適用が可能である。人生を軽んじつまらないものと考える人たちは、最初の出発点よりもはるかに低い位置に転落しやすい。

文鮮明先生は、偉大な人、世の中に変化を起こす人になるためには、準備をよくしなければならないと語られる。目標に焦点を合わせて生きない人生は、ただ何の実績もない人生になる。決意を固め、自己訓練の基盤を準備しない人は、自分の前に置かれた挑戦に敗北しがちである。文先生は、腐敗したこの世の中を救援するために、自ら準備した内容を説明しながら、人生の典型的モデルを見せてくださっている。


①挑戦に対する準備

―宗教経典―

君子はそのような、くいちがいから来る訟がおきないように、物事をする場合にその始めを慎重にするべきである。
易経6、周易上経、訟(儒教)

成功は先見と決意の結果であり、先見は自ら秘密を守る深思熟考と計画にかかっている。
ナフジュ・アル・バラーガ語録46(シーア派イスラーム)

木を切る前に斧の刃を見よ。
オンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)

君子は兵器を修め不慮の変事に対して警戒を怠らないようにする。
易経45、周易下経、萃(儒教)


あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵
を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
ルカによる福音書14.28 ~ 31(キリスト教)

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
エフェソの信徒への手紙6.10、13(キリスト教)

幸福の場を拡大させることを願う者は、その人をして心の底に基礎を築くようにしなければならない。陰隲文(道教)
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私達は、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、
自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
コリントの信徒への手紙一9.24 ~ 27(キリスト教)

未だ商人の海に入らんと欲して、堅固なる大船舫を造らざるは有らず、堅固なる船によりて怖畏無く、多くの珍宝を獲る彼の岸に到るなり、信心の菩薩も亦是くの如く般若行を離るれば菩提より遠ざからん。若し最上の大智行を修せば、當に無上菩提の果を得べし
仏説佛母宝徳蔵般若波羅蜜経14.7 ~ 8(仏教)

―み言選集―

危機を克服するためには、深い信仰と、緻密なる計画と、実践するだけの信念がなければならない。
御旨の道、試験・試練

最近の人々は、すべての生活に対して怠惰になり、組織生活を嫌い、友人関係を嫌い、何かの男女関係までも……。女性なら女性に対する責任感もなく、すべて無責任な人々になってしまいました。

そうかといって、何か自分が生きる生活の計画があるのでもなく、一年の計画も、生涯の計画もあるわけではないのです。ただ行き当たりばったりで、自分が好み、自分の利益になるように生きていっています。そのようにしていけばどのようになりますか。どこかに行ってぶつかり、粉々に砕けてしまうのです。
(105-11、1979.7.8)

どのようなことをしようという、そのような「観」がなくてはなりません。20歳になったのであれば、一つの「観」をもって、私は何々をしようと決め、生涯闘っていってこそ、その人は歴史的な人物になるか、何かを残すというのです。人目を気にしながら、環境に適当に拍子を合わせて生きることに神経を使う人は、流れていってしまうのです。はっきりと決めてからは、その目的のためにはいかなる困難があったとしても、闘争していくことのできる勇猛心がなければなりません。「それは嫌だ」ということを言わず、すべてを消化することのできる度胸がなければなりません。
(120-299、1982.10.20)

天がすべての準備をしていても、私達がその準備に応じ、心と体に準備の基盤を備えなければならないことを知っております。
(7-287、1959.10.11)

朝、サタン世界に出ていくときは、目、鼻、耳、すべての細胞、心までも武装し「きょうも無事故で帰ってくることができるようにしてください!」と言わなければなりません。
(122-266、1982.11.21)
人生はたった一度です。ただ道を歩いていて出くわし、なるがままに生きるようになっているものではありません。計画を立てなければなりません。家庭に対する新しい計画を立てなけれはならないのです。
(24-86、1969.7.6)

皆さんの人生において、成功できるかできないかということは、皆さんの決心いかんにかかっているのです。そこには必ず二つの問題があります。……一つは克服と勝利です。克服と勝利が自分の人生全体を決定するのです。それを克服できるのかということです。克服というのは簡単なことではありません。

最も難しいことは、空腹と眠りを克服することです。サタンが最も必要とすることが眠ることです。眠りと空腹です。次にはまた何ですか。男女問題です。成功しようとすれば、男女問題を克服しなければなりません。
(265-184、1994.11.21)

皆さんは成功したいと思っています。成功は誰もがしたいと思うのです。成功するためにはどのようにしなければなりませんか。成功できるすべての準備をしなければなりません。準備をしてからどのようにしなければなりませんか。

今、旧時代の基盤の上に新しい基盤を築くためには、準備された内容を中心としてその基盤を消化できなければなりません。新しい基盤を凌駕できなければならないのです。そうでなければ、歴史的な新しい基盤が立たないというのが歴史的な宿命的結論です。これは私達の人生や私達の国家が行く道においても、必ずそうです。

このような観点から見るとき、私達統一教会は今、何をしているのでしょうか。困難にぶつかり、迫害を受けていますが、その迫害の中でも、未来のために準備しています。成長しています。今回も、全世界が恐れる2億4000万のアメリカに対して、先生は一人で闘っています。友人もいないのです。アメリカの指導幹部や食口たちは、みなそれを知りません。誰も先生の力になる人がいません。ここで闘うためには、ただ盲目的にしてはいけません。準備をしなければならないのです。徹頭徹尾、準備しなければならないというのです。
どのような準備をしなければならないのでしょうか。思想的準備をしなければなりません。精神力において、その人たちに負けてはいけません。絶対に負けてはいけません。その次に、努力において、アメリカの歴史過程で功を立てた人たちと比較して負けてはいけないのです。その次には何かというと、行動、具体的な準備をしなければなりません。

徹頭徹尾な思想をもたなければなりません。その次には努力をしなければなりません。思想をもったからといって、じっとしていてはいけません。その準備された事実の上で無限に努力しなければならないのです。努力するにおいては、自分個人を中心として努力するのではありません。この基盤を凌駕できる母体、その主体性を備えるためには、無限な闘争をしなければなりません。今、既成世代の基盤になっているそのすべてのものが、新しい体制を歓迎するようになっていません。歴史は必ず闘争過程を経なければならないのです。闘争過程において滅びるか栄えるかというのです。

困難があっても、自信をもって貫いていくことができる努力をするのです。いかなる犠牲の代価を払ってでも行くのです。その努力は、消化され得る努力ではなく、消化させることのできる努力です。その次には実践です。実践するにおいて、私達宗教指導者たちが闘争することはできないので、無言で実践するのです。相手の人たちが8時間すれば、私は24 時間するのです。
(133-217 ~ 219、1984.7.19)

②第一歩

―宗教経典―

大きな木も小さな若枝から成長する。九重の塔も一つの小さなかたまりからつくられ始める。何千マイル行く旅も足もとから始まるのだ。
道徳経64(道教)

君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。
中庸15(儒教)


―み言選集―

ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、120 年間闘いました。それは簡単なことではありませんでした。120 年後にこの地を審判するという神様の命令を受けたノアは、「1年が過ぎたから、あと119 年残っているなあ」と言って待ってはいなかったのです。
(19-237、1968.1.15)

1年の勝利を誓うために、その年の元旦にある目標を定めた人がいるとすれば、その1年を推し進めていくためには、360 日以上を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなければ、1年を勝利で飾ることはできないことを私達はよく知っています。このような1年に10 年が加えられ、20 年、あるいは30 年が加えられているのが私達の人生の道です。
(31-31、1970.4.12)

永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私達が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。

一生をこのように生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
(37-220、1970.12.27)


10.不屈の忍耐

ある価値を成就するためには、心からの根気と忍耐が必要である。忍耐とは、単純に近づいてくる運命を待つことではなく、目標を達成するときまで粘り強く自分の道を行くことを意味する。いったん決意をして事を始めれば、その次に放棄はない。時として結果は、完全に最後の瞬間にまでいって、初めて出てくることもあるからである。

自分が立てた原則を放棄して近道を行ったり、方
向を転換したいと思う誘惑を退ける忍苦の姿勢が必要である。経典のメッセージは、忍耐の徳を多様な隠喩で説明する。地に井戸を掘ることや木に穴を開けること、ゆっくりだが屈せずに岩に落ちて穴を開ける水のようなものに忍苦の努力を比喩する。

文鮮明先生は、神様の忍苦の歳月を語られる。神様は、御自身の子女を解放しようと愛と希望で堕落した子女たちの罪と不服従に耐え、悪と悲しみが点在する数千年を忍耐してこられた方である。したがって、根気と忍耐を語る今、天の息子、娘となっていく過程で私達は、神様の忍苦の努力に似ていかなければならない.苦難に耐え、打ち勝ったヨブの話は、第15 章の11.「試練」で詳細に扱っている。


①忍耐、辛抱と我慢

―宗教経典―

疲れても疲れても何度でも行動を起こすべし。なぜならば行動に着手する人間に好運の女神(シュリー)は従うからである。
マヌ法典9.300(ヒンドゥー教)

忍耐は天も説得できる。
タルムード、サンヘドリン105a (ユダヤ教)

繁栄は、常に好運を夢見る者を見捨て、堪え忍ぶ者を恵む。したがって人は常に行動的で注意深くあるべきである。
マツャ・プラーナ221.2 (ヒンドゥー教)

先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの〔流れの〕ようであろうか。昼も夜も休まない。」
論語9.17(儒教)

漁師や屠殺者や農夫などは、自分の生活のためだけを考えて、寒さや暑さなどの害を忍んでいるのに、衆生を幸せにするために、どうして私は耐えられないのか。
菩提行論4.40 (仏教)

順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。
コヘレトの言葉7.14(キリスト教)

なんじら信仰する者よ、忍耐と礼拝によって助けを求めよ。まことに神は、耐え忍ぶ者と共にいましたもう。……われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン2.153 ~ 57(イスラーム)
ナナークよ、苦難が来たとき、楽しいことに対する問いは役に立たないのだから、楽しさと苦難とは、与えられたときに必ずもらって着なければならない衣服と同じである。問いただすのは無益なのだから、ただ満足することが最善である。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュM.I.p.149(シーク教)

私達は、自制の生活を始めるときにもつべき信念を少しも加減なくもたなければならない。私達は気まぐれな心のうずに巻き込まれてはいけない。
アーヤーランガ・スッタ1.36 ~ 37(ジャイナ教)

40 歳になるときまで全くの無学だったラビ・アカバが、ある日、泉から落ちる水滴が石に穴をつくっているのを目撃した。そして、「水が石をすり減らす」という言葉を聞いた。彼は考えた。「やわらかい水が石に穴をつくることができるとすれば、明らかに固い鉄で覆われたかのような律法の言葉も、忍耐と柔軟な心を同伴すれば無知を崩すことができる」。そして彼はそのときから学業に熱中した。
タルムード、アヴォート・デ=ラッビー・ナータン6(ユダヤ教)

学んでいないことがあれば、学習してできるまでやめない。疑がしいことがあれば、問い正して知るまではやめない。考えていないことがあれば、考えて納得できるまでやめない。弁別できないことがあれば、弁別して明らかになるまではやめない。行なっていないことがあれば、行なって篤実であるまでやめない。他の人が(聡明で)一度でよくできれば、自分はこれを百度もする。他の人が十度でよくできれば、自分は千度もする。この道をよく成し遂げれば、愚かな者でも必ず明知に、柔弱な者でも必ず強くなる。
中庸20(儒教)

主は恵みを与えようとして、あなた達を待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
イザヤ書30.18 (キリスト教)
障害が私を止めることはできない。すべての障害は、断固たる決心に道を譲る。一つの星座の運勢に固定された人は、自らの心を変えたりしない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、手稿(ヒューマニズム)


―み言選集―

「忍」という漢字を見ると、忍耐するという言葉は、「心」に「刃」を立てることです。大きな荷物を背負って大きなことをしようとすれば、忍耐することが何百、何千、何万、何百万と無限でなければなりません。
(124-155.156、1983.2.6)

東洋で「忍耐」するという言葉は、「心」に「刃」を剌しても忍耐するという意味です。「心」に「刃」を刺せば、どれほど痛いでしょうか。しかし、1000回忍耐する人は、1000 回の闘いで勝つことができるという希望をもてます。
(93-320、1977.6.12)

これを訪ね求めていくところでは、無数の怨讐たちが妨げるでしょう。しかし、彼らと闘い、また闘わなければならず、進んでまた進み、ぶつかってまたぶつかります。そして、忍耐の祭壇を自分の肩で支え、足で支え、手で支え、体で支え、頭で支え、忍耐の峠を越える覚悟をした生きた祭物にならなければなりません。
(6-92、1959.3.29 (注18))

苦い薬を飲んでも喜べば生き返るのです。苦い薬は、その苦い味だけがあるのではありません。苦い昧のあとには……。苦い薬を飲んでみてください。本当の味を味わってください。苦い昧を本当に味わってみれば、そのあとには甘い味があることが分かるようになります。

苦い薬を飲んでみると香りがあります。芳しい味が必ずあるのです。皆さん、熊の胆嚢を知っているでしょう。熊の胆嚢を食べてみると、最初は苦いのですが、あとから甘い味がするのです。それと同じように、苦い味よりも、その甘い味と芳しい味が分かるようになるとき、苦い薬も丸ごと、そのまま飲み込むことができるのです。ですから、完全な人は、苦い味の中に隠れている甘い味と芳しい味を味わうことのできる人です。このような人が味の分かる人です。


すべてのものは上がったり下がったり、授け受けするのが道理です。甘ければ苦く、苦ければ甘く、このようになっています。
(98-205.206、1978.8.1)

先生は、いくら疲れたときでも、やらなければならない責任を思えば、そのすべての疲れが一時に吹っ飛んでしまう。
御旨の道、責任感

長く忍耐する道が宗教の道であり、長く忍耐し犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲によって取り戻された偉大な愛の世界のために、神様を信じていくのです。これは間違いない事実です。神様は愛だと言うとき、その背後には犠牲が宿っていて、忍耐が宿っている事実を皆さんは知らなければなりません。
(112-51、1981.3.29)

善の側はどのようなものでしょうか。長く待ち、長く忍耐し、長く希望をもとうとするのが善の側だということを知らなければなりません。悪の側はそれがありません。自分が不利であれば拳が行き、すぐに行動するのです。神様は善神ですか、悪神ですか。神様は善神です。サタンは悪神ですか、善神ですか。悪神です。「イーブル・ゴッド」や「グッド・ゴッド」というのは誰が決めるのですか。何をもって決めるのですか。それを知らなければなりません。

苦難の中でもひたすら忍耐し、悔しくても忍耐するのです。忍耐するだけでなく、もちこたえなければなりません。そうしながら、絶望ではなく、希望をもっていかなければならないのです。それは誰のためですか。その人のためです。神様のためにするのです。自分のためではありません。それを忍耐できないようにしようとするその人のために、もちこたえることができないようにしようとするその人のために、絶望的なその人のために、そのようなことをしなければなりません。
(93-112、1977.3.21)

イエス様が死んで勝利したその秘訣は何ですか。忍耐していく道、ために生きる原則を立てたからです。ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。なぜそのようにされないのですか」と言っていれば、すべて失ってしまっていたでしょう。しかし、「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」、そのように言ったので、
忍耐して越えていったので、勝利したのです。それが素晴らしいことです。
(76-227、1975.5.21)

世の中のいかなる拷問も刑罰も、私の天の道を挫折させることはできませんでした。今まで6回にわたる監獄生活も、子女を捜し求める真の父母の道を遮ることはできませんでした。冷たい監房に座って、軒先から落ちる雨だれを眺めながら、「あの水滴がいつかは岩に穴を開けるように、私の目から落ちるこの熱い涙が、必ず恨で凍りついた神様の心を溶かして解放、釈放するその日が
来る」と決意して誓う、そのように生きた男の生涯でした。
(447-168、2004.5.1)

神様は、サタン世界と地獄世界まで抱くことができ、またそこでも忍耐し、もちこたえることのできる心があるので、地獄にいるサタンまでもその前では頭を下げるのです。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子、娘になろうと願うとすれば、皆さんは、神様の忍耐を皆さんの忍耐として、神様の我慢を皆さんの我慢として、皆さんの心と体で感じることができる人にならなければなりません。
(4-243、1958.5.18)

父がそのようにされるので、息子、娘の私達もそのようにして、父がそのような道を行かれるので、私達もそのような運命の道を行かなければなりません。ですから、私達は、この途上でへこたれることなく、不撓不屈の心情をもち、最後の勝利者として決定するようにしてください。

「もう勝利した」と言うことのできる安息の一日、あなた達は私のものであり、この天下は私の息子、娘であるあなた達のものだと祝福を受けるその一日まで、忍耐し、我慢し、生き残る群れとなるようにしてください。その日を迎えるまで、苦難に同参する群れとなるよう、許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。
(13-236、1964.3.22)


②決して放棄してはいけない、最後まで耐えなさい

―宗教経典―

聖書は、任務を始める者にではなく、任務を完遂した者の功績をたたえる。
タルムード、ソーター13b (ユダヤ教)

最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコによる福音書13.13 (キリスト教)

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
創世記19.26 (キリスト教)

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ガラテヤの信徒への手紙6.9 (キリスト教)

あなたは大きな川を渡った。どうしてあなたは川辺でぐずぐずしているのか。カウタマよ、急いで彼岸に着かなければならない。常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー10.34 (ジャイナ教)

孟子がいわれた。「何事でも、やりとげなくては駄目だ。たとえていえば、井戸を掘るようなものだ。九靱の深さまで掘り下げても、水源に到達しないで途中で止めてしまったら、その井戸を棄ててしまったのと同じだ。」
孟子V11.A.29 (儒教)

樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。

人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。
また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。

また、自分の心がいくら静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。

また、いくらかのものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得たと思うようなものである。これらのものはみなすべて、気がゆるんで怠り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。
阿含経中部i.192 ~ 195 (仏教)

曾子がいった、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は違い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」
論語8.7(儒教)
―み言選集―

聖書(マタイ24・1-14)のみ言の中に、終わりの日の徴候に関するみ言がありました。終わりの日には、信仰を中心として生きていくことが難しいという事実が、ここに記録されています。したがって、この混乱期を克服し、勝利者になろうとすれば、最後まで忍耐して我慢する人にならなければなりません。
(4-237, 1958.5.18)

どこまで忍耐しなければならないのかというと、最後まで忍耐しなければなりません。ですから、神様は、6000 年間忍耐してこられた方です。その方が誰だというのですか。私達のお父様です。私達は、そのお父様の天稟と血肉を受け継いだので、そのお父様のようにならなければなりません。
(44-28、1971.5.4)

信仰生活は、一朝一タにするものではありません。それは一生の間……。信仰生活の中で、私か死んでも永遠を中心として信仰していく道において、私がその志操を守らなければならないということが問題になっているのです。一つの中心となる骨子がなければなりません。永遠に信じていくべき道なので、永遠にそれを否定できない私というものを発見しなければなりません。
(59-234.235、1972.7.23)

皆さんに忍耐があると言いますが、その忍耐が歴史的な忍耐の終着点とは遠い距離にあることを悟るでしょう。今日、私達の教会と因縁をもった人たちが、疲れて進めないと言います。統一教会はいいが、困難で進めないという話を聞きます。そのような話をする人は、地を中心として見れば幸福な人かもしれませんが、天を見ればかわいそうな人です。やはり進むことが難しいのです。

行く道は涙の道です。見て泣き、感じて泣き、闘いながら泣く涙の道です。涙が止まる時間がこの時だと思っていたら、違うのです。涙がさらに連続しなければならない、すなわちさらに忍耐の涙を待ち望まれる天の心情があることを知り、天が哀れな姿の私達を待っていることを知るようになるとき、私が忍耐したという、その事実も天の前に面目がないのです。先生は、解放以降今日まできましたが、いまだに私の忍耐の限界を考えてみたことがありません。また、終わることを望みもしませんでした。終わることを望むその時間から自分のことを見るようになり、その時間から恐れを感じるようになることを、皆さんは信仰生活で感じてみなければなりません。
(6-89、1959.3.29)

神様は、一度決めれば、億千万年がたっても変わらずに行わざるを得ない方です。しかし、皆さんの心を見れば、一日に何度も変わります。朝には「このようにしなければならない」と決心して、夜になると「ああ……」と言うのです。修錬を受けるとき、み言を聞くとき、「そのようにしなければならない」と決心しますが、帰れば、何日もたたずに社会とぶつかるようになるとともに、
すべて流れてしまいます。神様は、一度決心すれば、それを何千年でも問題とし、永遠に大切にすることができる方です。歩みながらあちこちふらふらすることはありません。私達が、今は「私はみ旨のために行く」と言いますが、今年の末、あるいは3年後、あるいは10 年、20 年、生涯そのように行きますか。これが下がっていきやすいというのです。そして、行くときは、「私がよければ行くし、悪ければ行けない」、このように言います。

真というものは、私が死のうと生きようと真です。それは死の上に存在できるものであり、変わらない不変の位置に立っているのです。ですから、そのような私、死の上にあるそれを所有できる私になるためには、死を克服しなければならず、変わらない真を模索せざるを得ません。それは当然のことです。言い換えれば、変わるものと変わらないものははっきりと違います。

これらがぶつかれば、変わるものは砕けていきますが、変わらないものはそっくりそのまま残るのです。死と生がぶつかるのです。その時、死を克服して生に残らなければなりません。そのような過程を越えてこそ、神様と関係を結べるというのは決まった道理です。

このような内容を考えてみるとき、真が私達の前に現れることのできる時はいつかというのです。それは、変わるものと変わらないものが現れる時です。次には、死と生がここに現れる時です。そして二つが対決する時です。
(66-43.44、1973.3.18)

第12章 道徳性

1.姿勢

自制力はすべての徳目の基本要素である。精神訓練をおろそかにする人の心の中には、散漫な思い、感覚の誘惑、欲情、憤怒、物質と金銭的貪欲のような感情が絶えず生じる。そして、この感情が、私達が悪の行動をするように引っ張っていこうともする。自分の考えや欲望、行動も制御できない人が、どうして他人との関係を円満にできるだろうか。どうやって真理の道に従って人生を生きていくことができるだろうか。

哲学者ジョン・ロックは次のように言った。「欲望を治めることができるか否かが人の性格を左右する」。下記の章句は二つの共通した比喩で自制力に関して説明している。それは正に征服戦争と馬と騎手の例えだ。最も困難でありながら、最も重要な闘いが自分を征服する闘いだ。文鮮明先生は、ある人が世界の変革にいくら高貴な志を抱いたとしても、その根本に自己の主管性を完成できなければ、彼のすべての努力は無駄にならざるを得ないと言われる。

自制力を育てるのは、野生馬に乗る騎手に例えることができる。熟練した騎手が馬を制御するように、高貴な志と良心で自分の内面の魁首を制圧しなければならない。馬にくつわをはめるように、自分を否定し、禁欲の束縛に自らを制御しなければならない時もある。

しかし、私達は、あらゆる手段と方法を動員し、欲望によって頭をもたげる気まぐれで低俗な敵を屈服させ、手なづけなければならない。


①自分に勝て

―宗教経典―

戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
法句経103 (仏教)

忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。
箴言16.32 (キリスト教)

強い者とは誰か。彼は自らの熱情を制御できる者である。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)

他人を知るものが智のある人であり、自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経33(道教)

使徒が宣言した。「私達は小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが、「おお、神の使徒よ! 何が大きな聖戦ですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注2)
ハディース(イスラーム)

数千数万の勇猛な敵を征服することも、自分を征服することには及ばない。あなた自身と戦え。どうしてあなたの外の敵たちを心配するのか。自らと戦い、これを征服する者は至福を得る……。
実に征服し難いものは自分である。しかし、自分を征服すればすべてのものが征服されるだろう。
ウッタラッジャーヤー9.34 ~ 36(ジャイナ教)

自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)

私は彼を、彼の敵を征服した人より、自らの欲望を克服した勇気ある人と考える。なぜなら、最も難しい勝利は自分自身を克服する勝利だからだ。
アリストテレス(注1)(ヘレニズム)

上品の性は教えることができ、下品の性は規制することができる。
韓愈(儒教)

その人の内なる魂には、すぐれた部分と劣った部分とがあって、すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には、そのことを「おのれに克つ」と言っているのである。いずれにしてもこれは、ほめた言い方だ。そして他方、悪い養育や何かの交わりのために、少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は、これに恥ずべき状態として非難して、そのような状態にある人のことを「おのれに負ける」とか「放縦である」とか呼ぶわけなのだ。
プラトン国家4(ヘレニズム)


―み言選集―

「天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」。これが私のスローガンである。神様の愛と生命と真理も、自己主管の上で広げられていくようになる。
御旨の道、人格

怨讐は誰でしょうか。サタンではありません。私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになりましたか。それがどれほど大変ですか。世界統一と天地統一、そして私一人の統一の中で、どれがより簡単ですか。どれがより難しいですか。

私一人が統一されれば、それを世界化すれば世界統一が可能だということを知らなければなりません。誰が怨讐なのですか。この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。
(91-285 ~ 286、1977.2.27)


堕落したために、私達にはこれを克服しなければならない要素があります。それで先生は、「宇宙主管、天宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」という標語を立てたのです。これが私の一大標語でした。世界を支配し、世界を主管することが問題ではありません。自己主管をどのようにするのか、これが修練の絶対的な目標であり、歴史を代表する諸宗教が志向すべき責任です。これが今日、私達に任された重要な責任であるにもかかわらず、その責任課題を忘却しています。
(82-281、1976.2.1)

世界戦争が休戦することよりも、私を中心として心と体が争うこの怨讐関係を解消させることが、もっと難しいことを知らなければなりません。
(320-249、2000.4.16)


②自己修練:内部の野獣性の平定

―宗教経典―

分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
詩編32.9 (キリスト教)

人は自分の動物のような性質にくつわをはめなければならない。さらに、悪魔的要望にもくつわをはめなければならない。
エルサレムタルムード、サンヘドリン10.1 (ユダヤ教)

馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。……この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう。象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
法句経322、326 (仏教)

賢者は諸根(感官)を馬とよび、対境を馬にとっての道路、身と諸根と意とを具したるものをば享受者とよべり。人も常にその意(マナス)を検束せざるによりて明識あるものとならずんば、その感官の柔順ならざること、あたかも駻馬の御者に対するが如し。

されど、常にその意を検束するによりて明識あるものとなれる人にありては、その諸根の柔順なること、あたかも良馬の御者に対するが如し。
カタ・ウパニシャッド1.3.3 ~ 6(ヒンドゥー教)

水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。(注3)
法句経80(仏教)

勇士よ、確かに意(こころ)は動揺し、抑制され難い。しかし、それは常修と離欲とによって把促される。自己(アートマン)を制御しない者はヨーガに達し難いと、私は確信する。しかし、制御して自己を支配した人は、適切な方法によってそれに達することができる。
バガヴァッド・ギーター6.35~36 (ヒンドゥー教)

自分自身を善良に修める本は、(これに先だって)自分の心を正しくすることにあったといったのは、自分がもし何か怒ることがあると、(その怒りを他事にも及ぼして粗暴になって、心の)正しさを保てず、もし何か恐れることがあると、(ひっこみ思案になって、心の)正しさを保てず、もし何か嬉しいことがあると、(馴れてものごとになおざりになって、心の)正しさを保てず、もし何か心配することがあると、(沈んで悲観的になって、心の)正しさを保てないものであるから、いかなるものごとにも最もよく対応し得るように、心を平静
に、しかも一定に保たねばならぬことをいう(のである)。

(というのは、その正しい)心がはりつめていないと、(目では)視ていても(それが何であるか)見
分けられず、(耳では)聴いていても(それが何をいうか)聞き分けられず、(口に)食べていてもその味がわからない(ように、自分が善い行ないをしようとしても、そのものごとに対する正しい判断が得られないからである)。この(ように正しい心を保ってこそ善い行ないができる)ことを自分自身を善良に修める(方法は、それに先だって)自分の心を正しくするに在るというのである。
大学7(儒教)

まさにこの世で、身体から解放される前に、欲望と怒りから生ずる激情に耐え得る者は、専心した幸福な人である。
バガヴァッド・ギーター5.23 (ヒンドゥー教)

思慮ある知者は……身体の状態や養育を獣的で非合理的な快楽に委ねて、そこにのみ関心を向けて生きる、というようなことをしないのはもちろん、健康を目標とすることさえなく、どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかということにしても、そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは、これを重要視することもないだろう。彼はつねに魂の内なる協和音をもたらすためにこそ、身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう。
プラトン国家9(ヘレニズム)


―み言選集―

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的で、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。ですから昔から歴史を通して、すべての宗教は、自分の体を打つ道を教えてきました。宗教は、肉欲を制御し、体を心に屈服させる道場なのです。宗教は、人間を創造本然の人間へ引っ張っていく道場です。
(219-118、1991.8.28)

先生にとって最も重要なことは、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」ということです。そこに3大要件が入ります。食べることが問題です。そして寝ることが問題であり、愛が問題です。この三つが3大怨讐です。(366-287、2002.1.17)
いくら修養したとしても、愛のために引っ掛かるのです。美男や美女が誘惑すれば、みな引っ掛かってしまうのです。人間は愛の自立圏を立てられません。

神様と一つになる場合にはコントロールできますが、自分自身を中心としていれば性欲を克服し得ません。映画のようなものを見てもそうです。強姦されるとき、「いけない、いけない、いけない!」と思いながらも、そのような感情が生じれば、抱きかかえてしまうのです。そのような映画をたくさん見るでしょう。怨讐までも抱きかかえることのできる力が愛の力だというのです。
(306-196、1998.9.22)

人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体はサタンが活動する所です。肉体はサタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら継続して精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することはとても重要です。

ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと、宗教を立てられました。神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教がしばしば断食、犠牲的奉仕、従順で謙遜な態度等を要求する理由は、正にこのようなところに由来しています。

これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従するようにさせる方法です。信仰生活を通して肉体中心の生活習慣から抜け出し、新たに精神中心の生活様式をつくり出すまでには、普通3年ないし5年がかかります。
(201-209、1990.4.9)

私達はまず、個人として完全な私の位置を取り戻さなければなりません。ところが、その道は自分を零点におき、自分を完全否定する道しかないのです。その位置こそ、心と体が完全統一を成し遂げることができるからです。
(356-299、2001.10.21)

各自が指向する量を100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。ですから、皆さんは常に、「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。
(37-122、1970.12.23)

神様御自身も、霊的に見れば心と体がなければならないのですが、神様も心と体が闘いますか。(注4〉闘いません。皆さんはどうですか。これが一つにならなければ、絶対に天国に行くことはできません。
(305-111、1999.4.19)

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世界経典-45

2022年06月25日 16時52分55秒 | 学習


②善悪は心の意図によって決定される

―宗教経典―

悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。
マタイによる福音書15.19 ~ 20(キリスト教)

どうして行為それ自体に善悪の分別があり得ようか。ただ善の意志によって行われる行為を善行と名づけ、悪の意志によって行われる行為を悪行と名づけるだけである。……

霊魂を清浄にする行為や、それによって霊魂が清浄になる行為を美徳といい、常に心に平穏をもたらしてくれる。しかし、霊魂が善を遠ざけていくようにする行為は悪行であり、それはただ心の不安を企てるだけである。
プーヅャパーダサルヴァルタシッディ6.3(ジャイナ教)
もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
法句経124 (仏教)


―み言選集―

本来、善と悪は一点から出発しました。一点から出発したのですが、その一点とは何かというと愛です。
(26-282、1969.11.10)

心と体でできた、二重構造になっている自分を分別してみれば、良心は善の立場にいて、肉身は悪の立場にいます。
(227-46、1992.2.10)

心の方向と方法によって善が生じることもあり、悪が生じることもあります。心という根本がどの方向と方法に行くのかによって善と悪が分かれるようになります。
(37-116、1970.12.23)

すべて正しいというのですが、その中で誰が善の側であり、誰が悪の側ですか。境界線があります。自分がいる位置以上のものを中心として、上のために生きようという人は善側の位置に立つのであり、自分のためにより低いものについていこうという人は悪側の位置に立つのです。官職にある人が国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭ばかりのために生きれば悪になるのです。
(170-175 ~ 176、1987.11.15)

善はどこから出発するのですか。善は自分から出発するものではありません。善はどこから出発するのかという問題を考えてみるとき、自分から出発することはできません。善というものは、必ず相対のために生きるところから出発するのです。自分のために生きるのではなく、相対のために生きるところから善が出発すると見ざるを得ません。

ですから、「善の人」といえば、自分を中心として出発しようとする人ではなく、人のために生きようとし、人のために努力し、人のために活動する人なのです。そのような人を私達は生活する中や死に臨む場で、「あの人は善の人だ」と普遍的に言います。ですから、善は自分のために出発する立場ではなく、人のために出発する立場であることを私達はここで決定できます。

悪は何でしょうか。「すべてのものは私のために存在せよ。すべてのものの出発は、私のためになければならない」と言います。このような立場が悪の立場です。善と悪がどのように分岐線を引いて分かれるのかというと、人のために生きようとするところは善がとどまるのであり、私を中心とするところは悪がとどまることを私達は知らなければなりません。

私達の心を見てみれば、その心は常に善の心に、善の方向に導こうとします。「人のために奉仕しなさい。人に慈愛心をもちなさい。人のために犠牲になりなさい。人のために生きなさい」というのです。これが善の行く道です。
(65-13 ~ 14、1972.11.13)


③善悪は個人の生活様式に現れる

―宗教経典―

あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
マタイによる福音書7.16 ~ 20(キリスト教)

まことに神は公正と善行、ならびに近親に対する贈与を命じたまい、また一切の醜行と邪悪ならびに違反を禁じたもう。かれは勧告している、おそらなんじらは訓戒に留意するであろう。
クルアーン16.90 (イスラーム)

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.19 ~ 23(キリスト教)

神の使徒が次のように言った。「人々を天国に入れる最も普遍的な行為が何か知っているか。それは神に対する畏敬と良い性稟である。それでは、地獄に入る最も普遍的なものは何か。それは二つのむなしいものであるが、口と隠密な部分である」。
ティルミディーおよびイブン・マージャ・ハディース(イスラーム)

庶民というものは自分から罪を犯すのである。人の家に押し込んだり、人の物を奪ったり、かすめ取ったり、財貨のために人を殺してしまったりして、悪事のためには、取り乱して死を恐れることもない。それでいて、庶民は刑罰を受けると、怨まない者はないのである。王は、ことばを改め、つづいておおせられた。

「封よ、最大の悪事で最も憎むべきことは、何といっても不幸と不友とである。子がその父の始めた事業に慎んで従わないで、その父の心を甚だしく傷つけるならば、その父もその子を慈しむことができないで、かえってその子を憎むことになるであろう。また、弟が天の定めた自分よりも目上であることを敬わないで、その兄に従順であることができないならば、兄もまた幼い者に対するあ
われみを心にかけないで、その弟に甚だしく不友となるであろう。こうなっても、わが官長がそれらの人を服罪させないならば、天がわが人民に与えた恒久の道義が、大いに乱れてしまうであろう。されば、文王のお定めになった刑罰の規定に速やかに則って、大法に従わない者を赦すことがないようにせよ。」
書経5.9 (儒教)
大人は生きるために飲み食いする反面、小人は飲み食いするために生きる。
ソクラテス(注5)(ヘレニズム)


―み言選集―

善とは何でしょうか。自分を中心として自分のために生きようとする所では、善の種は出てくることができません。自分を中心として利益を得ようという群れの中には善の種がないというのです。自分を中心として自分を利用しようとする人は悪の人です。人の負債に責任をもってあげる人は善の人です。
(41-91, 1971.2.12)

善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。
(40-294 ~ 295、1971.2.7)

悪は強要することです。道理に従うのではなく、道理に逆らって行動することです。ですから、弾圧であり、恐怖であり、恐喝であり、脅迫であり、生命を威嚇していくのです。(60-61、1972.8.6)
すべてのことには、始まりがあれば終わりがあるようになっています。善いことであれ、悪いことであれ、始まりがあればいつかは終わりがあるのです。善いことは歴史が長いので結末が遅く現れますが、悪いことであるほど結末が早く現れます。善のものは永遠と歩調を合わせますが、悪のものは瞬間と歩調を合わせます。滅びる行為は瞬間に陶酔しますが、栄える行為は永遠に陶酔します。永遠に酔うことができる行為の基盤は、体ではなく心です。
(18-64 ~ 65、1967.5.21)

善悪をどのように決定するのでしょうか。善はより公的な立場にあるものであり、悪は私的な立場にあるものです。忠臣や烈女も、すべてこの基準によって決定します。より大きなもののために生きれば生きるほど、より一層善になります。悪は個人を中心とするものです。

善はより大きなものを尋ね求めていくものなので、家庭を中心としていかなければなりません。ですから、皆さんは男性なら男性として結婚して家庭を求めなければならないのです。家庭を求めたのちに、その村で称賛を受けようとします。このように、個人が家庭を求めたのちに氏族を求めなければならず、民族を求めなければならず、国家を求めなければならず、世界を求めなければなりません。
(31-236、1970.6.4)


6.個人の責任

責任は人間を人間らしくしてくれる核心である。ほかの被造物にも、生命、意識、さらには知能がある。しかし、唯一、人間にだけ生き方、すなわち運命を選択する責任が与えられた。個人に責任があるという話は、自己批判の側面が内包されているのである。自分の困難に対して人を批判するのではなく、自分の中から原因を探し出さなければならないということである。

たとえ人間の責任に対する定義とその限界に差があったとしても、信仰と実践の側面を見てみるとき、あらゆる世界の宗教はこの点を強調している。仏教やその他の唯一神を信じない諸宗教は、解脱の旅程を全的に個人の責任と見ている。自分自身が「自分を照らしてくれる灯台」である。自分が自分を救援するのである。仏陀とムハンマドが、自分たちが救世主と呼ばれることを拒否したように、彼らは自分自身ではない救世主に全的に依存することを拒否している。

反面、唯一神信仰によれば、恩寵以前にまずなければならないことは個人の責任分担である。個人の救援のために努力するとき、初めて神様もその中で共にいらっしゃることができる。救援は天から来る贈り物だが、それを拒否せずに受容するのは人間の責任である。文鮮明先生は、この関係を数字で表現し、95パーセントが神様の責任分担、5 パーセントが人間の責任分担だと言われる。

このような脈絡から見るとき、責任こそ人間を人間らしくしてくれるものである。これはすなわち、私達が完成するために各自の役割を果たさなければならないということである。さらには、神様の創造の役事を完成するためにも、人間自身の責任が要求されるという意味にもなる。この責任には、神様が私達人間に自由を与えてくださったという意味が内在されているが、これは神様が人間の堕落行為に干渉できなかった理由を説明する重要な端緒になる。

多くの宗教で、個人の運命が少なくとも部分的にある超越的な力によって決定されると信じている。その力は、神様の予定、過去の業、または相続した罪の荷などで表現される。しかし、いくつかの経典では、このような条件が個人の責任に対する侵害だという概念に反対する。運命論を拒否する人たちは、一瞬一瞬、自分の責任を果たせば、より良い機会が自分に訪れでくると信じている。文鮮明先生は、さらに一人の個人は過去の先祖たちの結実だと語られる。

したがって、自分の責任を果たすことは、個人だけでなく、多くの先祖たちにも有益なのである。


①各個人は自分自身に対して責任をもつ

―宗教経典―

もし私が私自身のために生きなければ、誰が私のために生きてくれるか。私が私のために存在するときに、現在の私がいるのではないか。今でなければ、いつ私自身のために生きるのか。
ミシュナ、アヴォートM4(ユダヤ教)

信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン5.105 (イスラーム)

みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。実に自己の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。
法句経379 ~ 380(仏教)


善い行いをなす者は己れを益し、悪い行いをなす者は己れをそこなう、なんじらの主は、そのしもべを不正に遇したまわぬ。
クルアーン41.46 (イスラーム)

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
ピリピの信徒への手紙2.12(キリスト教)

それぞれの人は自分の自我に対して責任をもっている。あなた達は自らを明かりとし、自らを帰依所としなければならず、人の助けに依存してはならない。法を明かりとし、あなた以外に他の所で帰依所を求めてはならない。比丘は自らの明かりとなり、自らの帰依所となり、絶えず自らの体と感覚と知覚と気分と概念を観察しなければならない。凡夫の欲望と挫折を征服するという信念で、常に堅固で、沈着で、正しい心構えで、このように精進しなければならない。誰でも今や私が死んだあとにこのように行い、熱心に精進すれば、彼は最上の中の最上になるだろう。
阿含経長部2.99 ~ 100 (仏教)
我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。
申命記5.2 ~ 3(キリスト教)

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
法句経160 (仏教)

「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
スッタニパータ10.63 ~ 64(仏教)

友よ、私は、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。
阿含経相応部i,62 (仏教)

(神がアダムに)「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有ないかなる贈物も、おおアダムよ、おまえにあたえなかった。それというのも、おまえの願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その贈物を、おまえが得て、所有せんがためである。

他のものたちの限定された本性は、われわれによって規定された法の中に抑制されている。……おまえは、獣であるところのより下位のものに堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだいでは、神的なものであるところのより上位のものに再生されることもできるであろう」
ピコ・デッラ・ミランドラ(注6)(キリスト教)
人生におけるもっとも大きな仕事は、人が自分自身に誕生を与えることであり、自分の内にある可能性を実現させることである。人間が努力して作り上げるもっとも重要な労作は、自分自身のパーソナリティーの形成である。
エーリヒ・フロム(注7)(ヒューマニズム)


―み言選集―

信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。
(153-136、1963.11.15)

荒野を越えて、このように小さな家でも建てることができるようになります。摩天楼のように大きくはなくても、皆さんのモデル型の家を建てることができるというのです。それを皆さん自身で建てなければなりません。誰も助けてくれません。自立しなさい。そのようにして、ほかの人々を助けてあげなさい。

死地に落ちてはいけません。どれほど困難であっても、毎日一つずつプラスしなさい。そして、一つずつ投入しなさいというのです。今まで神様も、そのようにして投入して忘れるという生活をしてこられました。それが神様の伝統です。
(248-134、1993.8.1)

どのようにしなければならないかは、皆さんがもっとよく知っているのです。その道は私が行く道ではありません。
(36-31、1970.11.8)

直接主管圏と原理結果主管圏、そのときまで成長して上がっていき、成熟するときまでにならなければ、愛が分からないというのです。
(137-100、1985.12.24)

万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創2・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。

それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。

このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであ
った(創1・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
原理講論、創造原理5.2.2

生命の道は、誰かが勧告して行く道ではなく、誰かが導いてくれて行く道でもありません。自分自らこれを消化しなくては行けないという事実を、
私達はことさら分からなければなりません。

空腹のときは私自身が食べなければならず、孤独なときは、これを解くために一つの主体的な立場に立って、偉人になり得る資格を備えなければなりません。

そのようにすることが、自然の道理であることを
思うのでございます。私が生きていくにおいても、
自分自ら主体の位置に立たなければならないことを知らなければなりません。

受動的な立場に立ってはならないということをはっきり知り、自分自ら誓いながら生命の力を加えていくことのできる、あなたの息子、娘たちとなるようにしてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(42-90、1971.2.28)

②責任は人間に対する神様の贈り物であり配慮

―宗教経典―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
創世記2.15 ~ 17(キリスト教)

ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ。』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった](注8)
ミシュナ、アヴォート3.18 (ユダヤ教)

天への恐れ以外、すべて天にかかっている。
タルムード、ブラホート33b (ユダヤ教)
主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。」

しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。

あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。


そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。(注9)
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)

いったいだれが、天使や人間の堕落を防ぐ権能が神にはなかったとあえて信じたり、語ったりするだろうか。しかし神はこれを彼らの権能力ら除こうとはせず、むしろそうすることによって、彼らの高慢の悪と神の恩恵の善がどれほど大きいかを示そうとしたのである。
アウグスティヌス神の国14.27 (キリスト教)

―み言選集―

人間の完成を願う神様は、真の愛を中心として人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことを御存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。
(277-197、1996.4.16)

神が人間に対して、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための条件として、人間の責任分担を立てられた。
原理講論、予定論4

統一教会の教会員は、責任分担という言葉を言います。人間がより価値のある内容をもつことができるのも、この責任分担があるからだということを私達は原理を通して学んでいます。もし、アダムとエバが責任分担を完遂していれば、私達には恨という言葉は残っていなかったでしょう。もし責任分担を完遂していれば、人間と天使世界、全被造世界は、喜びと栄光の中で神様の主管を受けるようになっていたのです。これが原則だったということも知っています。
(63-320、1972.10.22)

神様は、どうして人生の中に責任分担を下さったのでしょうか。全知全能なる方なので、その全知全能な創造性までも賦与し、また永遠不変な愛の主体であられるので、その愛の主体を代表することのできる位置に立てるために責任分担を下さらざるを得なかったのです。これは福の条件になります。全体を占領することのできる一つの鍵のようなものなので、これを下さらざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題になり、堕落したということを私達は知らなければなりません。
(20-210, 1968.6.9)

創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。
原理講論、堕落論6.1


③責任をもつ人は不平を言わずに生活環境を消化する

―宗教経典―

毒からすら甘露(アムリタ)は得られ得る。子供からすら金言が、敵からすら善行が、不純物からすら金が〔得られ得る〕。
マヌ法典2.239 (ヒンドゥー教)

主の言葉が私に臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。私は生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。……

それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、私の掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。……

それゆえ、イスラエルの家よ。私はお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。」(注10)
エゼキエル書18.1 ~ 30(キリスト教)

一類の沙門、婆羅門あり、是の如く説き、是の如く見る、凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は前生に作れり、と……我は彼の処に至りて是の如く説く……前生に因を作りしが故に當に殺生すベし……取るべし……非梵行を行ふべし……妄語すべし……離間語すべし……荒悪語すべし……雑穢語すべし……貪欲者なるべし……瞋恚者なるべし……邪見者なるべし……復前生の所作を堅実なりと執する人々には、是は作さるべし、或は是は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無し。復是の如く作さるべきと作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由無きこと……凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は神の化作なり、と是の如く説き、是の如く見るならば、我は彼の処に至りて是の如く説く、……

神の化作の因により當に殺生すべし……邪見者たるベし……堅実なりと執する人々は、此は作さるべし、或は此は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無く、復是の如く作さるべきと、作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く、住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由なきことなり。(注11)
阿含経増支部i.1.73 ~ 74(仏教)

孔子が言われた、「弓射は君子(の道)に似たところがある。的に当たらなければ、かえって自身を責めるのである」と。
中庸14(儒教)
人は生来的に原因になることを願う。(注12)彼は悪い結果にならないように努力する。あなたは人々を助けようと努力し、人々はあなたを助けようと努力する。あなたと彼らは原因となることを願うからである。悪いことが起きるとき、あなたも彼らも原因になろうとしない。

またあなたは結果になろうと願う。そのとき、あなたは悪い結果を発見する。あなたは結果にならないように努力する。ゆえにそのとき、あなたはあるものやある人を非難する。
プリ・クリアーのためのハンドブック(サイエントロジー)

自己の能力を知っている者は、事に当たっても決して人を怨むことがない。世の中のめぐり行きをよく知ってこれを確信している者は、決して本来頼るべきでない天を怨みはしない。己の反省努力を忘れて他人を怨む者は困窮し、本来すこしも作為のない天を怨む者は、まったく無知であるというべきである。

自己の不徳によつて失敗しておきながら、反って他人に失敗の原因を求めようとすることは、まことに事情にうといと言うべきではなかろうか。
荀子(儒教)


―み言選集―

問題は誰かということ私です。ほかのところにあるのではありません。ところが、皆さんは世の中に対して不平を言います。「滅びる世の中になった」という言葉は、「私は滅びない人だが、私以外の世の中だけ滅びるときになった」という立場で言う言葉です。悪いことはすべて世の中のせいにして不平を言い、良いことはすべて自分に返して喜びます。これが問題です。世の中が間違っていると不平を言う前に、自分が間違っていることを知らなければならないのです。
(140-25、1986.2.1)

父も祖父もすべて私の隊列に立ち、天意による冥府の先祖に代わって生死の岐路で決断しなければなりません。それで、過去の失敗のすべての傷をなくし、新しい天地に足をおくことができなければなりません。
(310-126、1999.6.15)


皆さんがきょうこの場に至るまで数十万年の歴史がありました。数多くの国と数億万の人の犠牲の代価を払った基盤の上に皆さんがいるのです。彼らの元素の一つ一つが復活し、複合的な構成体のような存在として生まれたのが、正に皆さんだという事実を知らなければなりません。皆さんが責任を果たせなければ、皆さんの先祖まで共に滅びるということを知らなければなりません。
(124-77 ~ 78、1983.1.23)

皆さんが失敗者になるときは、すべて後退する道をつくりますが、あらゆる困難を克服して勝利者になるときは、皆さんの子孫たちも、「私達の先祖が行ったのだから私も行かなければならない」と言う栄光の道が築かれるという事実を知らなければなりません。
(98-213、1978.8.1)

復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この
「私」を中心として、一代において横的に蕩城復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。

我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。
原理講論、後編緒論3


④公的責任は個人の責任から始まる

―宗教経典―

天下の人全てにその明徳を明らかにするようにさせたいと望んだ昔の人は、先ず、その国を治めた。その国を治めようとした人は、まず、その家をきちんとした。その家をきちんとしようとした人は、先ず、その身を修めた。その身を修めようとした人は、先ず、その(身の主宰者である)心を正しくした。その心を正しくしようとした人は、先ず、その(心の発現である)意を誠実にした。

その意を誠実にしようとした人は、先ず知(識)を推し極め(全て知り尽くそうとし)た。(我の)知(識)を推し極めるのは、事物の理を窮めて極点まで到達することにある。物(の理め極点)に到達すれば、(我が心の)知るところは全てを尽くす。

知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)

だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)

もし誰かが真摯に世の中の出来事を自分の個人的な責任と考えるなら、彼らは支配者の心の正誤から始めなければならない。彼らが支配者の心を正しくすることを願うのなら、彼らは彼ら自身から始めなければならない。
朱熹(儒教)


―み言選集―

自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。

ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)

皆さんは、悲しみと苦痛と死の道で勝利者にならなければなりません。栄光の場で勝利者になるより、その反対の場で勝利者になってこそ、その勝利を誇ることができます。そうすれば栄光の世界はおのずと訪れるでしょう。ある地域に責任をもてば、責任をもった所にある数多くの困灘と苦痛は私のものだ、私でなければ解決されないという、信念をもって、それに責任をもつ皆さんにならなければなりません。
(14-259、1965.1.1)

自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道、人格


7.予定

予定論では、人が互いに異なる財産と道徳性をもつ理由、生まれた環境と宗教に対する理解が異なる理由に関して説明する。そして、このすべての違いの原因を神様に向けている。全能であられ、すべてのことを支配なさることができ、全知であられ、未来を御覧になることができる神様が、すべてのことを予定しておいたと説明する。

誰かが罪人になるということは、神様が彼をそちらに導かれたからであり、信仰の英雄になる人もやはり神様が彼に能力を下さったためにそのようになった。このように、絶対予定論では、一人の人間の永遠の宿命が救援を受けるか、地獄へ行くか、出生以前にすべて予定されているという。今後、生きていく寿命と死亡の日、すべてが既に神様の帳簿に記されているという。

運命の手を信じる人は、人生の諸事件を偶然とは見ない。起きるすべてのことは理由があるものである。明白な機会との出会いも、はるか前に神様の摂理の中で計画されたことかもしれない。突然の死や幸運も、無意味な事件ではなく、神様の摂理によって起きたことである。すべての人間の計画と設計は結実するようになっているので、そこに天のみ旨があるならば、ムスリムたちが言
う「インシャラー(神様のみ旨なら)」のように、私達は一日一日を生きていきながら、神様のみ旨を知るためにあらゆる出来事を見つめ、運命の流れに自分を合わせるために常に努力することができる。

そうだとすれば、このような予定論が人間の自由意志とどのように調和を成すことができるだろうか。絶対予定論と関連し、長い間受け継いできた答えは、自由を得ようと絶えず努力するということから、人間の無知を受け入れるということである。

永遠にわたって全体を御存じの神様は、既に私達の人生の結果を御存じである。しかし、それを知る道がない私達人間は、依然として最善の努力をして生きなければならない。そして、予定論に対する権威あるいくつかの教理があるが、ここでは人間の自由が運命の側面に影響を及ぼし得るとする。そして、神様を、御自身のみ旨に従って祝福も、苦難も与えることができ、私達に最善の努力をしなさいと制限された自由を下さった方だと説明する。

このような絶対予定論を拒否される文鮮明先生は相対予定論を語られる。神様はすべての人に救援を預言されたが、その運命を実現するための必要条件として人間の責任分担が必要だとされる。


①神様の絶対予定

―宗教経典―

私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。
出エジプト記33.19 (キリスト教)

まことにこれは一つの訓戒である。それでだれでも望む者には、かれの主への道をとらしめよ。だが神のおぼしめしがなければ、なんじらは欲しないであろう。まことに神は、全知者・英明者であられる。かれはみ心にかなう者を、慈悲に浴させたまい、また不義者に対しては痛烈な刑を備えたもう。
クルアーン76.29 ~ 31 (イスラーム)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8.28 ~ 30(キリスト教)

主は行為者、すべてが彼から存在しているがゆえに、人のはかりごとが何の役に立つのか。主が意図された、そのようになるだろう。全能であられる主、妨げる者がいない。行われるすべてのことは目的なく彼の遊戯、遠い所に、また極めて近い所にいる主、主が思いはかろうとのぞき込むあらゆるもの、主は一つであり全体である。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.279(シーク教)

それだけではなく、リベカが、一人の人、つまり私達の父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ローマの信徒への手紙9.10 ~ 16(キリスト教)

秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。
詩編139.15 ~ 16(キリスト教)

常に真実を語り、その言葉が正しいと信じられていたアッラーの御使い、「アッラーよ、彼に祝福と平安を与えたまえ。」は、次のように述べられた。お前たちが創られるおりには、母親の腹の中で40 日間精子が宿り、それから同じ期間凝血となり、ついで同じ期間肉塊となる。その後天使が遣わされて霊を吹き込むが、この天使はさらに四つの仕事をするよう命ぜられている。

つまり〔生まれてくる者の〕生業、命の長さ、行為、幸・不幸を書きとめることである。ところで唯一無二の神であるアッラーに誓って言うが、お前たちのある者は、楽園の徒の行為にいそしみ、もう少しで天国というところで、この帳簿に記されたことに災いされ、劫火の徒の行為にふけって地獄に落ちる。

だがまたある者は、劫火の徒の行為にふけり、すんでのところで地獄行きというところで、帳簿に記されたことが幸いして、楽園の徒の行為にいそしみ天国に入る。
ナワウィー40 のハディース4(イスラーム)


―み言選集―

神様は、人を見るとき、心を見通し、過去を見て、現在を土台に未来を見ます。
(100-93、1978.10.8)

レバレンド・ムーンが生まれるとき、レバレンド・ムーンがこのようになるというある動機があって生まれ、このように育ったでしょうか、生まれてから環境を適当に行ったり来たりしながら元素を吸収してこのようになったでしょうか。もとからすべて決定されていたので、目の上の水平線上(注13)が同じであり……。

レバレンド・ムーンがこのようになったのは、中間で自分が願ったからではありません。もとからこのように生じるようになっていたので、このようになったのです。レバレンド・ムーン自身も、その原則によって育ったのであって、原則に逆行して育ったのではありません。
(161-160、1987.2.1)

神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第3 節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。

しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めで神が下さる栄華に浴することができる。それゆえ、神が下さる栄華も人間が責任分担を果たすことによってのみ、受けることができるように予定されるのである。ただ、聖句には人間の責任分担に対するみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶対的な予定だけでなされるように見えるのである。
原理講論、予定論4

ロマ書9章10 節から13 節には、神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。

これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことに関して詳しくは、後編第1章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において説明するが、エサウとヤコブを双生児として立たせたのは、彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。

したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反対にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。

逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。
原理講論、予定論4


②外見上は偶然のような事件も実際には運命による作用

―宗教経典―

天にいらっしゃる方の御意志に逆らう意図をもたなければ、誰もこの世で自分の指を壊すことはできない。
タルムード、フッリーン7b(ユダヤ教)

あなたが落ちる所で、あなたの神はあなたを押し出す。
イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)

神がつくられた秩序を蹂躙した人がひっくり返すことはできない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

アルジュナよ、あなたは本性から生ずる自己の行為に縛られている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと望まないでも、否応なくそれを行うであろう。主は万物の心の中にある。その幻力(マーヤ)により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ。
バガヴァッド・ギーター18.60~61(ヒンドゥー教)

楽正子は〔御殿をさがると〕、孟子にお目にかかって言いわけをしていった。「私が殿様におすすめし、殿様もここへきて先生にお会いになるばかりでしたのに、お気に入りの近臣減倉と申すものが邪魔をしたので、にわかにお取りやめになったのです。まことに残念でなりません。」

すると、孟子はいわれた。「いやいや、克よ。〔お前は魯の殿のお出ましもお取りやめも、すべて人間わざとのみ考えているが、〕人が出かけるも、取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。〔そうさせる目に見えない偉大な力、すなわち天命なるものが働いているので〕わしが魯の殿に遭えないは、
天命なのじゃ。減氏の子倅などの力で、どうして遭わせたり遭わせなかったり自由にできようぞ。」
孟子I.B.16(儒教)
「神のおぼしめしなら」と、つけ加えずには、何事でも「私は明日それをする」と、言ってはならない。なんじが忘れたとき、主を念じて、「私の主は、これよりも正しい道に近づくよう、お導き下さいましょう」と言え。
クルアーン18.23 ~ 24(イスラーム)

「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。

あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
ヤコブの手紙4.13 ~ 16(キリスト教)

生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。
ミシュナ、アヴォート4.29 (ユダヤ教)

時は、誰の友でもなければ誰の敵でもない。彼の現存在を生じせしめた、彼の前存在における効果が切れた時、彼は人を力ずくで奪い去る。たとえ千本の矢で突き刺されたとしても、人は自分の時が来る前に死ぬことはない。

たとえ一枚の葉が一点触れただけでも、人は自分の時が過ぎたならば生きながらえることはない。薬も。呪術の文句も、焼いた供物も、祈りも、死に縛られた者や年老いた者を救うことはない。差し迫った悪は百の警戒によっても避けることはできない。ならば、汝に何の不平を言う理由があるか?
ヴィシュヌ・スムリティ20.43 ~ 46(ヒンドゥー教)


―み言選集―

韓国では10 月に主が来ると大騒ぎですが、主がどうして来るのですか。既に主が来て宴を行い、らっぱを吹き、披露宴をすべてしたのに、誰がまた来るというのですか。ですから、「お出まし後にらっぱを吹く(後の祭り)」という韓国のことわざがあるのです。このようなことは偶然ではありません。

神様の摂理から見るとき、先生が今やっていることは偶然ではないのです。摂理のプログラムによって世界史的な意味で終結し、越えていく時代になり、今はこのようなすべてのものが終わったので、「天地合徳」という課題を立てることのできる時代が来たのです。
(228-68、1992.3.15)

これが皆さんの家庭のモットーです。きょう先生が語った、復帰歴史は再創造歴史であり、環境の中で主体と対象があり、柑対的対応関係を通して成され、個人は家庭のために、家庭は氏族のために、プラス・マイナス、投入しなければなりません。カイン的立場を救援するために、投入していかなければならないのです。統一教会の個人は家庭のために、家庭は氏族のために投入し、犠牲になりなさいというこのような論理は公式による論理であって、適切に適用させるためのものではありません。公式的な論理だということを知らなければなりません。
(267-154、1995.1.4)

ウルグアイを中心とすれば、アルゼンチンもウルグアイについていけません。スペイン系として一番純血だと思うのです。ブラジル人と結婚しないと大騒ぎです。ウルグアイはそのような自負心をもっています。血統を尊重します。それを見れば、韓国人とちょうど合います。ウルグアイの歴史にも33 人の愛国者がいて……。

100 年前の歴史が韓国の歴史と似ているのです。期間も同じです。月も同じです。それは偶然の出来事ではありません。韓国人は純血を願います。純潔を守ってきました。血筋を守ってきたのです。
庶子を人並みに扱いませんでした。そのような歴史は世界にありません。庶子がいて、直系の子女がいました。庶子は人並み扱いしなかったのです。乞食よりもっと冷遇したことを知らなければなりません。それは、なぜそうしたのかというのです。今まで庶子に対してきた神様の悲しみを私達は知らなければならないのです。庶子の立場を求めていく……。庶子が長孫になるという……。
(302-55、1999.5.18)


③運命と自由意志の関係

―宗教経典―

ラビ・アキバが言う。「あらゆることはすべて予見される。しかし、選択の自由が与えられる。世は恩寵によって審判される。しかし、審判は世のために奉仕の業績を残した比重によって行われる」。(注14)
ミシュナ、アヴォート3.19(ユダヤ教)

どんな災厄も、神の許しなく下ることはない、何人でも神を信仰する者は、その心を導きたもう。まことに神は、よろずのことの熟知者であられる。
クルアーン64.11(イスラーム)

わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。わが下僕らよ、私が手ずから導いた者を除いては、すべて迷いの道を行く者である。それゆえ私に導きを求めれば、正しい導きを得られよう。わが下僕らよ、私が自ら養う者を除いてはすべて飢えに悩む者である。それゆえ私に糧を求めれば、糧食を授かるであろう。わが下僕らよ、
私が衣服を与える者の他はすべて生まれたままの裸である。それゆえ私に衣服を求めれば、願いはかなえられよう。わが下僕らよ、お前たちは昼も夜も罪を犯すが、私はすべての罪の赦し手。それゆえ私に赦しを求めれば、罪も赦されよう。
ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)

すべてのものがあなたによって成就するがゆえに、
権能はあなたのもの。将棋盤の上であらゆる馬を動かすように、あなたは自らつくったこの世を見下ろしている。世に生まれたすべてのものは、また旅立たなければならない。すべて行かなければならない。どうして生と死の主人であられる主を忘却しようとするのか。(注15)
アーディ・グラント、アーサー・ディー・ヴァール
M.1、p.473 ~ 474 (シーク教)

たとえ主なる神が、人間の意志の自由行為を予見なさることができても、依然として選択の自由は人間たちに残っている。神はすべての時を同時に描き、そして永遠性を通して見つめられるからである。(注16)
ボエティウス哲学の慰め(キリスト教)


―み言選集―

神は人間の堕落によって、創造目的を完成することができなかった。したがって、堕落した人間たちに対して摂理される神のみ旨は、あくまでも、この創造目的を復帰することにある。言い換えれば、この「み旨」は、復帰摂理の目的の完成をいうのである。

神は唯一であり、永遠であり、不変であり、絶対者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。したがって、創造目的を再び完成させようとする復帰摂理のみ旨も唯一であり、不変であり、また絶対的でなければならない。

それゆえ、このみ旨に対する予定も、また絶対的であることはいうまでもない(イザヤ46・11)。このように、み旨を絶対的なものとして予定されたのであるから、もしこのみ旨のために立てた人物がそれを完成できなかったときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を摂理していかなければならないのである。

その例を挙げれば、アダムを中心として創造目的を完成させようとしたみ旨は達成できなかったが、このみ旨に対する予定は絶対的なので、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、彼を中心としてみ旨を復帰させようとされた。

そればかりでなく、ユダヤ人の不信によって、このみ旨がまた完成できなかったので(前編第四章第一節(二))、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさったのである(マタイ6・27)。
原理講論、予定論1

それでは、神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。

しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するということを知らなければならない。これに対する例を挙げれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。

ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの摂理も、堕落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ3・16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。
原理講論、予定論2
なされるすべてのことは、人間がいくら主張し、いくら騒いでも、この宇宙の天運が願うとおりに拍子を合わせていくようになっているのです。これを遮ることのできる力がない限り、ここに順応するようになっているのであり、ここに順応する道理に従っていく人たちは、必ずこの宇宙の運勢と共に、脈拍と共に発展していくのです。永遠に存続するでしょう。西洋の人の思いどおりにいくらやっても、思いどおりにならないというのです。

ですから、西洋の人の中で知恵深い人は、宇宙の法度に従ってそこに拍子を合わせようという人です。そのような原則的な道を行こうとする人は、再び延長してアジア、世界の文化圏に残ることができるのです。そのような話が結論になるのです。国やあるいは個人を問わず、滅びようという人がいますか、そのような国がありますか。ありません。そうです。ところが、なぜ滅びるのですか。それは誰が滅びるようにするのですか。それは私がするのではありません。この宇宙がするのです。


歴史上にいる人たちは、天運の法度に従って拍子を合わせるので、残ることができ、発展することができると見るのです。誰が英雄になりたくないと思い、聖人になりたくないと思いますか。そのような人は一人もいません。
(94-19 ~ 20、1977.6.19)

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世界経典-44

2022年06月19日 16時58分16秒 | 学習

2.人生の季節

人生にも季節がある。少年期、青年期、成年期、そして老年期などがそれである。少年期は学びの時である。何にでも簡単に影響を受けて学ぶのに大きく開かれている時である。青年期は、自己訓練が必要な探求の時である。二十代は、家庭と職業のために基盤を築く時である。中年期は、自分の目標を成就する時である。そして老年期に入っていく。

この時は、人生の結実が現れる時である。ある人は霊的訓練と道徳的人生を通して得た知恵が現れる反面、ほかの人は浪費した人生の惰弱さばかりが現れる。この時が近づくと、既に人生を改めるには遅い。人間の一生に関するより多くのみ言は、第19 章に詳細に紹介されている。


①児童期と青少年期

―宗教経典―

すべての子供たちは、純粋さと神に対する服従を備えた本性をもって生まれる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)

孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子IV.B.12 (儒教)

魚は新鮮なときに巻かなければならない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)

エリシャ・ベン・アブヤが言った。若くして学ぶのは何と同じか。それは新しい紙に書いたインクと同じだ。老いて学ぶのはどうか。それは消された紙の上に書くのと同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.25 (ユダヤ教)

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ人への手紙5.12 ~ 14(キリスト教)

子供たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、私があなたがたに書いでいるのは、
あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ヨハネの手紙一2.14 (キリスト教)

お前は宇宙の四つ角に走っていくだろう。
地が大水と出会う所まで、
天が地と出会う所まで、
冬の故郷まで、
雨の本郷まで、
走っていけ、ここに! 走れ!
丈夫であれ!
お前は民族の母なのだから。
アパッチ族の成年式の歌(アメリカ先住民の宗教)


一み言選集―

お父様!私達は幼子にならなければなりません。
おなかがすけば、「おなかがすいた」とお父様のみ前にねだる幼子にならなければなりません。幼子にはお母さんを欽慕する性急さがあります。その幼子は天真爛漫です。育てれば育てるほど、大切に抱き、培えば培うほど、父母の基準に従って育ちます。

お父様!ここに集まったあなたの子女たちを重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきたこの者たちが、その事情を全部打ち明ければ、
お父様が動じずにいられないことを知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子がお母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)

アダムとエバを造っておいて、すぐにそれができ上がればどれほどよいかと思うかもしれませんが、そのようになりません。一番の底で小さなものが大きくなり、ある程度まで上がってこなければなりません。上がってこなければならないのです。
これが全体の宇宙と関係を結べませんでした。この男性が成長し、15 歳、16歳、17 歳になり、ここに上がってくれば、ブラス・マイナスの宇宙がすべて自分のものになります。詩的になってすべて目覚めるのです。思春期がそうです。家を出て世界を歩き回り、どこかの海にも行き、自分の相対がどこにいるか、目を見開いて歩き回るのです。
(130-155、1984.1.8)

このように青年期には、皆さんが香りを発散するようになります。その香りは広く広かっていきます。虫や蝶がその香りにひかれて飛んできます。ですから、この時期に若者が、若い男女は何を願うでしょうか。彼らは最高のチャンピオン、最高の学生、あらゆる分野で最高になりたいと思うのです。
(52-262、1972.1.2)

今日のティーンエイジャーたちが……。目がひっく返って、どこにでもくっつこうとします。それによって社会に破綻をもたらし、自分自体に破綻をもたらすのです。また、思春期は変わる時なので、誰が一言言っても、「ええい!」と言って……。みなそうだというのです。ちょうど変わる時なので、相対をもって定着するのではなく、しきりに動き回ります。

それで、秩序に従って状況を見ながら行かなければならないというのです。皆さんは今、これをすべて整理しなければなりません。善悪の中で悪は何ですか。破壊するものです。何の保護作用も成立しないということを知らなければなりません。
(118-197、1982.6.1)


②成熟と老年期

―宗教経典―

先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
論語2.4 (儒教)

先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」
論語9.23 (儒教)

彼の頭が白いが故に年寄りなのではない。実に年若くとも[ヴェーダを]学んでいる者を神々は年寄りとみなす。マヌ法典2.156 (ヒンドゥー教)
あなたは生命を延長することはできない。ゆえに、不注意でいいかげんな人生を生きてはならない。老いれば既にどうすることもできない。
ウッタラッジャーヤ4.1(ジャイナ教)

学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知恵は増えない。
法句経152(仏教)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。

人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.1 ~ 7(キリスト教)

あなたのほほに白髪が下がり
額にしわが深く谷をつくり
肉身が骨組みになる前に、
歯がはぐきから抜け
背が地に向かって曲がり、
あなたが他の人の重荷になる前に、
片手に杖を持ち
もう片方の手で膝を押して立ち上がる前に、
歳月があなたの肉身の美しさをむしばみ
あなたが死の苦痛を感じる前に、
我々の主、クダラ・サンガマを崇拝せよ!
バサヴァンナヴァチャナ161(ヒンドゥー教)


―み言選集―

人間にとって最も重要な時はいつですか。少年時代ではありません。青年時代を超えて壮年時代に行く、すなわち20 歳を超えて40 歳に至るその間が最も重要な時期です。人は20 歳から30 歳に至るまで、人としての土台を築き、そこに自分が隠居できる確固たる基盤を築いておかなければなりません。

また、その後に明確な目的を中心として行くことができる環境的な基盤を備えなければなりません。そのようにできない人は、30 歳を超えて40 歳に向かっていくとき、無意味な人間、平凡な人間として生きざるを得ません。
(22-314、1969.5.11)

人の一生を見てみるとき、活動能力を最高に発揮できる時は、いつでしょうか。二十代から四十代、あるいは五十代までです。この20、30 年の期間が全盛期です。しかし、40 歳を超えると、その基準から下がっていきます。このような観点から、皆さんはみ旨のために働ける期間がどのくらいになるかという問題を考えてみなければなりません。
(33-186、1970.8.12)

この生がいくら貴いと言っても、青春の時期に比べることができないことを知っています。お父様、
私達が壮年になれば荷を背負わされるようになり、壮年の時期に闘ってもちこたえられなくなるときには、その結実された子孫が悲惨になることを知っています。

それゆえ、壮年の時代を力強く過ごし、老年の時代を経て新しい春を迎え、新しい夏の節気を見ることのできる子孫を、自分の懐の中にもった家庭であってこそ、その後にやって来る秋の節気を無難に克服できるということを知るものです。

これが人生というものであり、世界の歴史時代においても、象徴的な現象であることを眺めるようになるときに、お父様のみ旨の前においても、やはり同じだということを知るものです。
(31-139、1970.5.3)
3.善の啓発

善は努力を必要とする。悪が支配し、私達の心と体を汚染させるこの世の中で、私達が正しいことを行って生きることは簡単ではない。したがって、本当に善の人になるためには、自分に対する絶え間ない訓練が必要だ。アリストテレスは、善の性稟を啓発するのは技術を習得する過程と同じだと見た。

長い間持続的な努力によって善行を実践する人は、善の習慣を形成するようになる。数年間養われた善の習慣は、善の性格形成へと続く。人間の霊魂は、良い作物を得るために、種を蒔き、耕作し、毎日毎日雑草を除去しなければならない田畑と同じである。

善を追求する代わりに、小さな過ちだとみなし、自分の過誤を一つずつ黙って見過ごしていけば、時間がたつに従って悪い習慣が徐々に体に宿るようになる。善は善を生み、悪は悪を生む。文鮮明先生は、私達に再度この事実を想起させる。悪は堕落人間の中で繁殖することを好む。したがって、常に善に生きるために積極的に努力しなければならない。ごく小さな過誤が私達を没落に導いていくからである。


①実践的生涯を通した善の啓発

―宗教経典―

すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。
法句経183(仏教)

君子は善を見れば遷ってこれに従い、禍ちがあればこれを改める。
易経、周易下経、益42(儒教)

常にトーラーと慈善に尽くしなさい。その上、他の底意があるときさえも善行の習慣が積まれ、結局動機まで善になるだろう。
タルムード、プサヒーム50b(ユダヤ教)

聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。
法句経239 (仏教)
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできる島をつくれ。
法句経25(仏教)

トーラーを研究すれば正確な人になる。次は情熱をもつようになり、情熱を超えて清潔さに、清潔を超えて自制力に、自制力を超えて純潔さに、純潔さを超えて高貴さに、高貴さを超えて温順さに、温順さを超えて罪を警戒する人となり、次は崇高に、崇高さを超えて聖なる霊魂に、聖なる霊魂以降には永遠の生に入っていく。
タルムード、アヴォダー・ザラー20b (ユダヤ教)

この自我は真実と苦行と正智と不断の梵行とによりて得らるべし。身内にありて、輝ける光明所成の彼を照観するはただ罪障を滅したる修行者のみ。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.5 (ヒンドゥー骸)

あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私達の主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ペテロの手紙二1.5 ~ 8(キリスト教)

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べでしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

このたとえが分からないのか。……種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
マルコによる福音書4.3 ~ 20(キリスト教)

器量はこれをまず働かせた上で、獲得する。それは、ちょうど、さまざまな術について見られるところと同じである。すなわち、われわれは学び知ってからなすべきはずのことを、なすことによって学び知るのである。

たとえば、ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。これとちようど同じようにわれわれは正しいことをすることによって勇気あるひとになるのである。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.1.4(ヘレニズム)

注意深く適切な行為、規範を確認し、それらを昼夜手本として従い、一瞬の怠慢や中止もないようにせよ。ある程度時間が過ぎたのちに私達はそれらに慣れるようになり、そうなれば、私達はそれ以上、それらに従う必要なく、私達自身の基準をつくるにとができるようになる。
朱熹(儒教)

あなたが習慣にしようとするものは、何であってもそれを実践せよ。そして、あなたがあるものを習慣にするまいとすれば、それを実践せず、あなた自身を他のことに習熟するようにせよ。
エピクテトス(ヘレニズム)

自己修養を長い間継続すれば、徐々に喜びの精神に導かれるようになる。喜びの精神は、柔らかく、寛大で、優しく、調和するものを求めるようになるだろう。これを願う人は、誰もがその悪い感情を除去し、怒りをなくさなければならず、反対を呼び込み、憤怒を引き起こす逆境から自由にならなければならない。個人の、そして長い間の綿密な調査は徐々に理の説明へと導かれるようになるだろう。完全な理解は、他の人に公然と彼を批判なく素直に影響を及ばせることを知るようになるだろう。これを留意する人は誰でも見聞が広がり、影響力があるようになり、拒絶され、そして争いの中で生じる憂慮から自由になるだろう。

この上、私達はさらに積極的に事物の理を観察し、私達の根本的な感情を調査しなければならない。個人的にこのようなことに対し時間をおき、注意深く考えてみる、自身の知的精神的能力を通して経験しなければならない。このようなことを行えば、偏見と虚位の過ちから自由になるだろう。

すべてのことにおいて常に自身の学びの力を点検することは重要である。もしある障害物や過ちがあれば、その病弊を発見し、それを根こそぎ抜いてしまうときまで、深く究明せよ。
朱熹(儒教)
―み言選集―

善と悪は、未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。
御旨の道、善と悪

心や思いでは善悪が決定しません。行動をしてこそ善悪が決定するのです。そうではないですか。行動しない熱情では、罪として糾明できません。現れないからです。実体でなければ認定できないのです。いくら何かをしても、証拠がなければ決定できないでしょう? 同じことです。行動した結果によってすべてのものが決定するのです。思いだけをもってすべて分かっていると思っても、その世界と私は何の関係もありません。
(359-166、2001.11.7)

皆さんが勉強するために本を読むとしても、ただ読むだけでは駄目です。そこには必ず読む練習をして、訓練する過程が必要です。私達が音楽を聞く場合にも同じです。ただ一度聞いただけでは駄目です。その音楽に対して深く詳細に理解するためには、必ず時間的過程と訓練が必要です。私達が語ることにおいてもそうです。語ることにおいて、人よりも有名になり、抜きん出るためには、ただそのままそうなるのではなく、必ず訓練過程がなければなりません。私達の行動もそうです。私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。
(67-178、1973.6.10)

有名なバイオリン演奏者たちは、たくさん鍛え、触れ、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの筒の音がすべて分かるのです。分かってするので、和音になる音の構造が、それ自体の細胞が変わります。それで、そこから出てくる音が神秘的になるのです。同じことです。精誠を尽くさなければなりません。祈祷とは何ですか。精誠を尽くすことです。どこに行ってもアンテナを立てていなければなりません。一瞬も放心することはできません。
(241-179、1992.12.24)

堕落した人間がどのように再び善であられる神様のところに行くことができるのですか。まず良心を通して本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善とみ言の価値を表さなければなりません。

そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを見いだされるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。ところが、これが人間の堕落によってすべて挫折してしまったのです。
(2-320、1957.7.21)

霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。

人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。

霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。

生心の要求するものとは何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。

ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。
原理講論、創造原理6.3.2

心と体が一つにならなければ、天国に行けません。矯慢にならないでください。謙遜にしなさいというのです。祭物になりなさいというのです。それで、宗教はすべて体を打つのです。3年以上犠牲、奉仕しなさい、断食しなさいと言うのですが、それは人間が好むものではありません。
(245-58、1993.2.28)


②善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る

―宗教経典―

善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
法句経116 (仏教)

小さな教えでも、行おうと努力せよ。罪から逃げよ。教訓はもう一つの教訓を生み、罪はもう一つの罪を生む。教訓の報いはもう一つの教訓であり、犯罪の償いはもう一つの罪である。
ミシュナ、アヴォート4.2 (ユダヤ教)

「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
法句経121 ~ 122 (仏教)

持っている人は更に与えられて豊かになるが持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタイによる福音書13.12(キリスト教)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)

黒いやぎは暗くなる前に早く捕まえなければならない。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

孟子が高子に向かっていわれた。「山の嶺の細い小路も、絶えずきまってそこを人が通れば、やがては路らしい路になるものだが、それも暫くの間、通らないでいると、また茅などの雑草が生い茂って、路を塞いでしまう。……もう今では、茅がお前の心を塞いでしまっているぞ。」
孟子V1I.B.21 (儒教)

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。
「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
マタイによる福音書25.14 ~ 30 (キリスト教)

孔子のことば。小人は不仁を恥とせず、不義を畏れず、利益があると見なければ一生懸命にならず、刑罰で威しつけなければ懲りない。してみれば小さく懲らして大きな誡めを与えることは、小人にとってもしあわせのことなのである。易に「校を履いて趾を滅る。咎なし」とあるのは、このことを言ったものである。

善行も積みかさねて行かなければ名声を勝ちとるには至らぬし、悪事も積みかさねなければ身を滅ぼすには至らない。ところが小人は小さな善行などやっても無駄だと考えてやろうとせず、小さな悪事はやってもさしつかえないと考えて止めることをしない。だからやがては悪事が積みかさなって隠すことができなくなり、罪が大きくなってのがれることができなくなる。易にも「校を何いて耳を滅る。凶なり」と言ってある。
易経、周易繋辞下伝2.5.7 ~8(儒教)

一度自らにうそをつくことを許した人は、二度、三度、さらには、ついにそれが習慣になるまで簡単にうそをつくようになる。彼は深思熟考せずにうそをつき、真実を語っても世間から信用されなくなる。
トーマス・ジェファーソン


―み言選集―

体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私達の個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1.2

習慣的にうろうろ、行ったり来たりし、聖日も行ったり来たりする、進展もなく、ただ停止状態でついてきた人たちは、み旨のために何かを意欲的に実践した経歴がないので、人が良い、悪いと言っても、良いのか悪いのか無感覚なのです。そのように10 年を経て初めて「私はこのような位置にいるのだなあ」と恥ずかしく感じる人もしいたというのです。
(89-231 ~ 232、1976.12.1)

人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用することを、私達は自分の心を通してよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、そこに比例して悪の心が常に対決しているというのです。

また、善の心は、何かの目的に向かっていくとしても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、目的とするその世界に向かっていくにおいても、善の心を刺激させることのできる過程や因縁を発見することが難しい反面、悪はその過程に満ちあふれていて、その過程を経て最後まで連結されています。このようなことを見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
(36-51 ~ 52、1970.11.15)

4.決断

道徳的人生とは目的のある人生を意味する。そして、それは決断を必要とする人生である。自然に善になる人はいない。目的なく人生を過ごしていく人は、悪の流れに陥って溺死しやすい。私達は常に分かれ道に立つようになるが、より善の道とより悪の道がそれである。そして、その選択は私達の責任である。経典では、これを生と死、狭い門と広い門、二人の主人の間で選択しなければならない私達の決断力にかかっているという。

文鮮明先生は、人間は中間的存在であり、互いに反対方向に作用する善と悪の力によってどの方向にも引かれていくと言われる。これは、良心を通しで私達を導く神様と、自己中心の欲望を追求せよと刺激するサタンの間の葛藤であり闘争である。このような困難な状況で、自分の道を選択し守っていくことは、各個人の責任である。

―宗教経典―

勝善と福楽とが人に至れる時、賢者は両事を精査して検別し、福楽を捨てて勝善を選ぶ。愚人は利養を求めて福楽を選ぶ。
カタ・ウパニシャッド1.2.2 (ヒンドゥー教)

人は常に善悪の岐路に立つ。
処世訓(PL 教団)

一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)

神は一つの比喩を提示したもう、多くの主人がいて互いに争う者と、ただひとりの人に完全に仕えている者と。このふたりは比べてみて同じであろうか。
クルアーン39.29(イスラーム)

見よ、私は今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、私が命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
申命記11.26 ~ 28(キリスト教)

耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ最勝のことを。それはひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、それというのも重大な走行に先だち、それに目ざめさしめんためです。

では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
アヴェスター・ヤスナ30.2 ~ 3(ゾロアスター教)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書7.13 ~ 14(キリスト教)

悪いことが多いので、なんじを驚かせるであろうが、悪いことと善いことは同じではない。それでなんじら思慮ある者よ、神を畏れまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。
クルアーン5.100 (イスラーム)

われはかれのために、両目と一つの舌と二つの唇を、つくったではないか。さらに二つの道をかれに示したではないか。だがかれは、けわしい道を取ろうとせぬ。けわしい道が何であるかを、なんじに理解させるるのは何か。それは奴隷を解放し、または窮乏の日には、近い縁者の孤児、また土に伏す貧者を養うことである。それから信仰する者になって、忍耐のために励ましあい、互いに親切温情を尽くしあうことである。
クルアーン90.8 ~ 17(イスラーム)

つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。法句経290 (仏教)

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13.44 ~ 46(キリスト教)
―み言選集―

善と悪が対立している世界に私達はいます。心と体を分けておいて、善と悪が互いに引っ張り合っています。悪は悪で引っ張り、善は善で引っ張ります。

このように、対立した環境の中に私達人間が身をおいているのです。この境界線をどちち側に越えていくのかによって、悪になることもあり、善になることもあります。皆さんは、この境界線でさまよっているのです。
(36-55、1970.11.15)

私は善悪の分岐点です。
(109-268、1980.11.2)

元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。

しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。

それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。

しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。

それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。

一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。
原理講論、後編緒論1.1

体のいうとおりにすれば地獄と通じるのであり、心のいうとおりにすれば天国と通じるのです。天国と地獄の分岐線が私です。
(214-283、1991.2.3)

霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんが空腹のとき、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしくなければならないかというと、私が生き残り、神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりもっと良くなければならず、霊的な力を中心として生きる味が、肉的な力をもって生きる味より、もっとおいしくなければなりません。
(131-211、1984.5.4)

過去のことをすべて振り返ってみる時、今となっては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これは人間だけの決定でなされるものではないという事実が分かったので、「神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ意によって、人間的な考えを越えて、決定的な路程を
取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。
(211-135、1990.12.30)

私がなぜこのようなことをしたのでしょうか。神様を知ったからです。そうでなければ、私は世の中の人として堂々と今日のどの社会に行っても賢い人として、長として、十分に一つの国を動かすことができるこのような位置まで行ったかもしれません。そのような頭があり、そのような能力がある人です。

今も私がじっと考えれば、私の一生でたくさんの涙を流したのですが、それは誰のためでしょうか。神様です。神様を知ってからです。また、今まで苦労したというのです。それも神様を知ったからです。迫害を受け、このようなことは、すべてレバレンド・ムーンが愚かだからではありません。神様を知ったからなのです。

先生は、個人的に希望がなく、欲望がないでしょうか。青春時代にその貴いものをもたなかったでしょうか。同じです。しかし、これを無慈悲に一度切ってしまった以降には、二度と振り返りません。そうしてみると、今日のレバレンド・ムーンになました。(93-67、1977.5.1)
5.善と悪

善と悪はどのように区別できるのだろうか。世の中には、善悪を決定できるある行動に対する正答や、それ自体に内在したり、隠された普遍的指針が存在するのだろうか。善の人と悪の人の違いは何か。

善と悪は、内的、外的に区別される。文鮮明先生のみ言を見れば、ある時は、動機を通して善悪を区分しなさいと言われる。言い換えれば、善行は良心に従って行う行為である反面、悪行は体の欲望を満足させる行為だというのである。

ある時は、善悪を心の目的と意図によって区別しなさいと言われる。しかし、自分の意図とは何だったか推し量ることができないとき、明確に現れる指向点がないときは、善と悪を正確に区別することが難しい。仕事がすべて終わって実を結ぶときまで時間がかかる。


したがって、文鮮明先生は、時には自分の行為が結実し、善悪が明確になるその瞬間まで、忍耐心をもって待たなければならないときもあると言われる。

このように文先生は、善悪を区別する方法に対しても語ってくださった。しかし、常に強調される客観的な一つの基準がある。善は利他的であり、人のために生きることであり、悪は自己中心的だということである。


①善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと

―宗教経典―

行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド、ギーター3.15 ~ 16(ヒンドゥー教)

かれらのうちには、自ら魂を誤った者あり、中間の道をとる者もあり、またかれらのうち、ある者は、神の許しのもとに、種々の善い行いに率先する者もある。それは、偉大な恩恵である。
クルアーン35.32 (イスラーム)

どんな場合にも、輪廻の中の楽のみを、自らのために求めているもの、彼等が下士の衆生であると知られる。生存の中の楽を顧みず、悪業から離れることを自らだけのために求めている者、こうした衆生が中士と言われる。自らに結びついている苦によって、他のあらゆる苦を取り除こうと常に願っている者、こうした衆生は上士である。
菩提道灯論(仏教)

人間には四つの性稟がある。「私のものは私のものであり、あなたのものはあなたのものだ」という者は平均の人である。ある人はこれがソドム人の性稟だと言う。「私のものはあなたのものであり、あなたのものは私のものだ」という者は規律を知らない人である。「私のものもあなたのものであり、あなたのものもあなたのものだ」という者は聖人である。「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」という者は邪悪な人である。
ミシュナ、アヴォート5.13 (ユダヤ教)

ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。

ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.415 (仏教)

自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受けるなら、あらゆる円満を得ることになる。自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、善趣と名誉を得る。自分のために、他者を使うなら、〔後に〕奴隷などを経験しなければならない。他者のために自分か働けば、〔後に〕支配者などを経験することになる。
菩提行論、禅定波羅蜜8.126 ~ 128 (仏教)

創造者を共同の起源とする神々と悪魔たちは、互いにライバルだった。ゆえに、悪魔たちが自慢げに言った。「どこに供え物を置くべきか」。そして自分たちの口に供え物を入れた。神々はそれぞれ自分の友の口に供え物を入れた。すると創造主は彼らに自らを与えた。(注3)
シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1~2(ヒンドゥー教)

人は誰でも創造的利他主義の光の中で道を歩いていくのか、あるいは破壊的利己主義の暗闇の中で歩いていくのかを選択しなければなりません。これは審判です。人生において絶えず訪れてくる最も差し迫った質問は、「あなたは人のために何をしているのか」です。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
正否の物差しは最大多数の最大幸福である。
ジェレミ・ベンサム(注4)(ヒューマニズム)

―み言選集―

悪と善の方向はどのように違うのでしょうか。善は常に絶対者であられる神様を中心として相対的立場に立つのであり、悪は自分を中心として主体的な位置に立つのです。善のものとは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは、悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むようにするのです。善と悪は方向が異なるのです。体はすべて自分が願うことばかりをしようとし、心はすべて体が願うことをできないようにしようとするのです。方向が異なります。
(16-137、1966.1.22)

それでは、今人間たちにとって一番の問題になることは何かというと、善とは何であり、悪とは何かということですが、その基準が不確実だというのです。

神様と私の関係を知ったので、その関係が一致して、悪とは何であり、善とは何かということをはっきりと根本から区別しておかなければなりません。悪は何ですか。悪の定義とは何ですか。サタンが讒訴する条件を提示するのが悪です。皆さんはそれを知らなければなりません。罪とは何ですか。サタンが讒訴し、そこに関係を結べる内容をもてば罪です。キリスト教徒たちは、罪の根を
すべて知らなければなりません。

悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自分を誇ることから始まったのです。主体のためにいなければならないにもかかわらず、「私のためにいなさい。私のためにいなさい」と言いました。これが悪です。神様の創造原則は対象のためにいることであり、対象を否定し、「私のためにいなさい」、このようになったのです。これを根本にしました。

皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は何かというと、「私のために生きなさい。すべて私のところに来て屈服しなさい」というのです。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。すべて反対です。
(69-85、1973.10.20)

皆さんが善の人なのか、悪の人なのかを何によって判定するのですか。個人主義的な存在か、公的な存在かに、今日の人倫道徳の基準を立てたのです。善の人は人のために犠牲になる人であり、悪の人は人を搾取する人だということです。教育の標準をそのように立てているのです。
(102-234、1979.1.1)

この世の中には2種類の人がいます。一つは世界的な考えのもとで考え、世界的な考えに従って行動する人であり、もう一つは、その反対の立場で、世界でも何でも、自分の考えどおりに行動する人です。人々は、世界を考えて行動することを好みません。いつでも自分を中心として考えたがるのです。自分を中心として考え、自分を中心として行動するのが人間だというのです。

一人は歴史的な世界の聖人たちを考え、その国の愛国者を考え、現世に暮らす有名な人を尊敬し、その道に従っていこうとする人であり、もう一人は、聖人であれ愛国者であれこの時代の指導者であれ、気にせずに「私」を中心として動かなければならないと考える人です。

皆さんはどちらの人ですか。どちらを好みますか。相対を中心とする人生が必要ですか、自分中心的な人生が必要ですか。どちらが皆さんの実際ですか。(相対を中心とするものです)。答えは正しいですが、考えは違います。(考えもそうです)。しかし、実際には自己中心的な道を行っています。いつでも自分を中心としていこうとすることが問題です。それが実際であり事実です。
(117-214 ~ 215、1982.3.7)

世界の人類を、善の基準を標準として三種類に分類すれば、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることなく緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人に分けられる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。
御旨の道、人格

善の人とはどのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。
(315-210、2000.2.2)

アメリカが言うには、「ああ! 世界のことは知らない。私達の国のためだけに生きればよい」、これでは世界の公法に引っ掛かります。アメリカは、今まで世界の人たちに相当仰がれてきましたが、最近はみな、「アメリカ人」どいえば首を振ります。

なぜそうするのでしょうか。今日、カーター大統領といえば、カーター大統領が本当にアメリカの願う大統領か、あるいはアメリカが願わない大統領かという問題を考えるとき、カーター大統領が自分を中心として考えるのか、アメリカを中心として考えるのか、また自分の選挙のために行動するのか、将来のアメリカのために行動するのか、このような問題を中心としてすべて悪のものと善のものが分かれます。

アメリカ大統領としてカーターがアメくリカの利益のためにすれば、それはアメリカ内でのみ大統領になりますが、世界を中心として見るとき、世界が公認し、世界の利益になるようにすれば、世界に影響を与えた大統領として、世界が仰ぐアメリカ大統領になれます。そのようにできなければ、世界の制裁を受けるアメリカ大統領になるのです。

このような観点から見れば、人間には必ず法があります。ですから、審判が残るのです。それでは、そこに引っ掛かる張本人は何ですか。その根本とは何ですか。自己中心、自分の考えです。自分を中心とするところですべて引っ掛かります。それは間違いありません。それでは、私達が「世の中の法に引っ掛からない人になる」と自信をもっていくとすれば、どのようにすれば引っ掛からないのですか。「自分のために生きる」、このような人は至る所で引っ掛かります。「自分よりもっと大きなもののために生きる」、このようにするときは、すべての法から解放されます。すべての法で解放されるのです。
(93-302、1977.6.12)

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世界経典-43

2022年06月19日 16時56分44秒 | 学習


②メシヤの使命:罪悪の清算と神様の王国創建

―宗教経典―

私は天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く請い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
ヨハネの黙示録19.11 ~ 16(キリスト教)
ひとりのみどりごが私達のために生まれた。
ひとりの男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ書9.5 ~ 6(キリスト教)

世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイ福音書24.30 ~ 31(キリスト教)


―み言選集―

救世主が来る! 主人が来る! その主人は、来て何をするのですか。……救世主が願う世界は、このような世界です。その世界こそ、神様が願い、神様が喜び得る世界です。そして、神様が喜ぶと同時に神様と共に始まった私達の良心が喜ぶ世界です。そして、ここにはあらゆる人種差別、国境問題、歴史的背景など、伝統思想が問題になりません。それこそ、共通的であり、神観において一致でき、一致したその内容は天と共に共鳴できる相対基準です。

そのような場に臨み、この世界に向かってお出ましになる一日が来るのです。その一日が成し遂げられた日が、救世主がこの地に来る日です。キリスト教で言えば、再臨主が来る日です。
(160-345、1969.6.15)

メシヤが来た目的とは何でしょうか。それは、神様のみ旨を成し遂げることと同様の目的です。メシヤが来れば、サタンの主権を破壊できるのです。サタン世界の人を取り戻してこなければなりません。それで、故障していない姿にすべて修繕して移しておくために来られるのです。皆さんが聖書を見れば、接ぎ木するという比喩も、そのような意味になるのです。結局、メシヤは、神様がこの宇宙を主管できる主権者にするために送ったのです。
(73-206、1974.9.18)

今日のキリスト教の信者たちが、「ああ、イエスは雲に乗ってこなければならない!」と言うのは、すべて荒唐無稽な論理です。「神様の能力でできる!」と言うのですが、その能力でできるのであれば、イエスを送る必要もなく、信じるようにする必要もなく、神様がすべて対処していたのです。……

今までの文化世界の歴史を6000 年と見ているのですが、この6000 年間神様が摂理され、あれほどの全知全能な神様が救援摂理を今までされても、完成したアダムの代身者としてのメシヤをこの地上にいまだに送れていないことを知らなければなりません。ですから、今日の人類世界の中で、真の神様のみ旨の完成と人類の理想的完成を成した、男性として過去、現在、未来の全歴史を代表できる標準型の人物と、いまだに出会えていないのです。そのような一人の男性を準備して、人類の前に再びメシヤとして送ると約束したのが再臨思想だというのです。

全世界のキリスト教徒たちが願うのがメシヤですが、メシヤをどのように迎えるのかということが大きな問題です。一般のキリスト教徒たちは、メシヤが来ればすべて解決すると思っているのですが、違うというのです。メシヤが来て田を耕し、種を再び蒔かなければならないことを知らずにいます。
(90-141、1976.12.25)


③メシヤの使命:真の人間と真の家庭の回復

―宗教経典―

メシヤが来られるとき、聖なるその方は傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに、世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4(ユダヤ教)

燦然と輝く精神と完全に一つに統一された心と卓越した徳を具足した者、そのような者が真実にこの世の中で顕現する。彼が宝の法を説くとき、万民はこの上なく喜ぶがゆえに、これはちようど、喉が渇いた者が、天から降ってくる甘露で喉を潤すのと同じである。また彼らはみな、苦海のサンサーラ(流転)を抜け出し、解脱の道を得るだろう。
弥勒上生経(仏教)

「ハレルヤ、全能者であり、私達の神である主が王となられた。私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が
来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使は私に、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
ヨハネの黙示録19.6 ~ 9(キリスト教)

愛する者たち、私達は、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(注18)
ヨハネの手紙一3.2(キリスト教)


―み言選集―

創世以降の真の個人、男性の標本的存在が、正に再び訪ねてこられる再臨主であられます。
(15-278、1965.10.30)

主は父母として来ちれます。真の父母として来られるのです。人間始祖が堕落することによって偽りの父母になったので、人類はすべてその偽りの父母の血と肉を受けて生まれました。それで、全人類を正常な神様の愛と一致するようにするために、真の父母の因縁をもってこられる方が正にメシヤです。

言い換えれば、アダムとエバが6000 年前に神権を中心として結婚しなければならなかったのですが、堕落することによってそのようにできなかったことを、6000 年が過ぎた今に至って再び収拾するために父母の資格をもってこられる方がキリスト教で言うメシヤであり、そのメシヤが新郎となって新婦を迎えるのが小羊の婚宴です。
(32-266、1970.7.19)
今後来られる主は、どのような使命をもってこられるのですか。堕落せずに善の父母の立場で完成しなければならない真の父母を失ってしまったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けられる道を開いてあげるために来られる方が再臨主であることを知らなければなりません。

神様の愛を受ける息子、娘がこの地上で暮らし、家庭で天国に行くのが幸福でしょうか、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行き、別々に分かれていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入っていかなければなりません。それで、その家庭が入っていき、氏族が入っていき、国が入っていき、世界がすべて入っていかなければならないのです。

このような新しい父母を中心とする世界的な家庭がこれから生まれ、そこから因縁が結ばれ、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とする、新しい文化と伝統がこの地球上に顕現するようになるとき、今日、この複雑で罪悪となった世界ではない、新しい地上天国になるのです。
(52-324、1972.2.3)

皆さん自身は、これからイエス様と同じ立場に立って氏族的なメシヤにならなければなりません。これが主流思想です。
(79-104、1975.6.22)

メシヤは、真の愛を中心とする家庭的理想を拡大させ得るモデルを意味するのです。個々人自体が王であり、真の父母、すなわちメシヤなのです。神様は真の父母であり、真の師であり、真の主人です。
(222-140、1991.10.26)


④メシヤの苦難路程

―宗教経典―

しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ルカによる福音書17.25(キリスト教)

到来する時になれば……族長たちがこのように言うだろう。「エフライム、私達の義なるメシヤ、あなたは私達の先祖ですが、私達よりももっと偉大であられます。なぜなら、あなたは私達子女たちの罪を担ってくださり、私達子女が受けるべき罰を代わりに耐えてくださり、この世代の以前や以降にもそのようにする者がいないことをしてくださったからです。

そして、あなたは、イスラエルの安寧のため、多くの国々の嘲弄の的になられ、嘲笑の的になられたのであり、暗闇の中に座っていらっしゃり、これ以上光を見ることのできない盲人にまでなられました。あなたは、骨と皮がつくほど痩せられ、体は木のように枯れ、あなたの視力は断食により喪失され、あなたの力は素焼きの土器の破片のようにひからびました。このすべてのことが私達子女の罪によりあなたに起きました。神があなたの子女たちを豊かにしてくださり、この上ない幸福を昧わって喜ぶことがあなたの御意志ではないですか。

おそらく私達子女の安全のために、手に負えないほどの苦痛をあなたが忍耐されたために、監獄に投獄され、足かせで束縛されたために、あなたの心は安らかであるはずがないではないですか」。メシヤがこれに答えられます。「族長たちよ!私が行ったすべてのことは、あなた達とあなた達の子女の安全のために、またあなた達とあなた達の子女たちの栄光のためであり、ゆえにあなた達の子女が、神が豊かにされると予定された幸福を味わうようにするためだった」。

そして、私達の子女が答えるだろう。「あなたの心が慰労されることを願います。なぜなら、あなたがあなたの創造主であられる神の心を慰労してさしあげたのであり、また私達の心を慰労してくださったからです」。(注19)
プスィクタ・ラッバティ162b ~ 63a (ユダヤ教)

 

一み言選集―

再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.2

今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもって来られた方であったので、彼は旧約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。

ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。

これと同様に、イエスが再臨される目的も、キリスト教信徒たちが築いてきた新約時代の霊的な救いの摂理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(黙21・1 ~ 4)、将来彼が再臨されれば、既に2000 年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必要な、新しいみ言を与えてくださるに相違ないのである。
しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト教信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事実である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ17・25)。
原理講論、再臨論

先生がサタンと神様の中間で、いつもサタンを除去することをしてきたのです。どのようにサタンの讒訴を受けない位置で、この仕事をはかどらせていくのでしょうか。それで、蕩減路程が出てきたのです。それが人間の責任分担です。

今まで、人間が責任分担を成せませんでした。どのようにその責任を埋めていくのかというのです。サタンは、それがメシヤの責任であることを知っているのです。それですべてのサタン勢力を総出動させて「真の父母」を攻撃したのです。それで先生は、サタンの塀を壊すことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで経てきたのです。メシヤは、この道をすべて経なければならないのです。
(131-70 ~ 71、1984.4.16)


⑤メシヤのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒のための中東平和定着

―宗教経典―

私はダビデのために正しい若枝(注20)を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。
エレミヤ書23.5 ~ 8(キリスト教)

今の時と主の時は、異邦の権力に服従しないという面で唯一異なるのである。(注21)
タルムード、サンヘドリン99a (ユダヤ教)

主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、私に背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。私が彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。

私は彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らは私が彼らの神、主であることを知るようになる。私は二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
エゼキエル書39.25 ~ 29(キリスト教)

神の使徒が言った。「マリヤの息子(イエス)が公正な統治者としてあなた達の中に降臨する前まで、時は確立されないだろう。彼は十字架を壊し、貪欲な者たちを葬り、ジズヤ(注22)を賦課するだろう。お金が裕福になり、誰もそれを(慈悲深い贈り物として)受けないだろう。
ブハーリー・ハディース3.656(イスラーム)


―み言選集―

イエス様が蕩減復帰を終え、結婚して家庭を築き、イスラエル民族を一時に天国に隷属できる祝福結婚を越えて、ローマまで祝福をしてあげたならば、イエス様の四十代までに地上・天上天国をすべて成していたというのです。イエス様を殺害した罪でイスラエルとパレスチナが闘っているのです。

兄弟が一つになれませんでした。そこで一つの宗教、一つの文化圏、一つの国、一つの心情圏になっていなければならなかったのですが、その場にイスラームが生じ、ユダヤ教が生じ、キリスト教が生じたという恨めしい内容を知らなければなりません。

最近アメリカでは、十字架を除去する運動が展開されているのですが、それが問題ではありません。イエス様を殺害しました。真の父母を殺害した罪は、人類が滅亡しても、イスラエルが千代、万代犠牲になっても赦しを受けられないのです。イスラエル民族が罪の量をすべて満たしたのではありません。ヒトラーが、イスラエル民族をあれほど好きなように殺害することができますか。

罪の量を蕩減し得る量が満ちていなかったので、天の許諾を受けてそのようなことができたのです。同じように、今日も、そのような歴史的同時性の時代に入ってきているというのです。

歴史的にユダヤ教とイスラームとキリスト教が分かれたことを、今統一教会を中心として、ユダヤ教、イスラーム、そしてキリスト教が全世界的に一つになるべき同時性の時代が来たというのです。
(2003.8.15)

あの国に行ってみなさいというのです。会えばすぐに分かります。何千年前の人だとしても、四大聖人たちが先生に挨拶するでしょうか、しないでしょうか。四大聖人、イエス様もそうです。「真の父母様、お願いします。イスラエル民族を助けてください」と言います。ですから、十字架を外しなさいというのです。そのようにしてこそ、滅んだキリスト教が生き返ります。復活の宗教である十字架は、死の罪人を縛りつけるものです。イエス様に聞いてみなさい。

イエス様に家庭があったならば、イエス様の息子、娘たちによってすべてが成され、6世紀以前に世の中は神様の国になっていたのです。それが成されなかったので、イスラエルの国も追い出され、7世紀に入ってイスラームが現れました。それは歴史的事実です。
(400-215、2003.1.1)

 

⑥メシヤの東方降臨の預言

―宗教経典―

稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
マタイによる福音書24.27(キリスト教)

どんなに長く待ってもやってこない、ヨーロッパやアジアにあらわれ、ヘルメスの進路からでて、東洋の王たちすべてを超えるだろう(我々がいくら期待しても、欧州から新しい指導者が現れる可能性は全くなく、彼が現れる所はアジアである。ヘルメスから大統合が誕生するだろう。彼はすべての東洋の帝王を統治し、日浮かぶ国にメシヤの偉大な法度が遵行されるだろう。霊界の新しい指導者が東方から現れるだろう)
ノストラダムス四行詩10.75

3年目に戦争は終わり(注23)、朝鮮の地は廃墟になる。この時になれば、東方に天の国が明けてくるだろう。西洋では「正道令、正道令」と言い、「救世主、救世主」と言うだろう。しかし、本当にこのような時が訪れれば、弓弓乙乙、つまり白十字を求めていけば大きな恩恵を得るだろう。

今、人間は天上の中天運を迎える。この時は、東方の長子が東南方の長女を迎えて婚姻するようになる時だ。(注24)聖人を期待して待つが、どこの誰が聖人だろうか。その人は、世のあらゆる善と悪を審判する人である。すべての世の運営権を担ってこられる方は、山でもなく、野でもない、白十字のある所に来られる。この時に必ず天法をもってこられるだろう。

その天法数は2万1600 数だが、これは天上の数がはっきりしている。また、1万4400 数があるが、これは地上の数を意味する。上の数をすべて合わせれば、3万6000 数になるが、これはすべての世の陰陽の合倍数として、善男善女の成婚をこの数字どおりに成し遂げていくとき、聖人は来られる。(注25)天道の運は陰陽合一運である。上のように東洋と西洋の合運道は十勝運である。

3万6000 という数、これが天地理気を変化させる数である。東洋と西洋のすべての宗教が互いに一つになれば、すべての世の人々は互いに兄弟のように近くなるだろう。これを周易の原理で解いてみれば、天地の陰陽の原理により白十字がはっきりする。十勝大道は東洋から現れる。天地が震動するほど「祝福を受けよ」という声が聞こえるだろう。

その声をあざ笑い、逆らえば、我知らず蟷螂や糞転がしのような微弱な虫が車を妨げるのと同じで、聖人は笑うことだろう。善男善女を結んであげ、聖人は安らかにいらっしゃるだろう。神に祈りをもって礼を捧げ、結ばれた善男善女は貴い子を得るだろう。このようにすれば、全世界を統一するようになるが、これは天地が開いたのち、初めてのことである。

日浮かぶ東方の地に白十字は現れるだろう。そして、すべての世を広く照らすだろう。救世主は天から来られた十勝大王、すなわちすべての王たちの真の王だということを肝に銘じよ。鄭鑑録
東方に天から聖人が来られることを疑うな。東方でこの聖人が分からなければ、英国、米国など、西洋人たちによって再び悟らされ、聖人を知らされるだろう。もし洋の東西すべてがこの聖人が分からなければ、地上の人々をすべてなくして再び創生させるが、これをどうするというのか。西洋で恨みを抱いて離れたのち、高いところにあがって遠く人間世界を見つめた。20 世紀後半のこの時を迎え、東方に出てきて、昔東方で結ばれた恨を解く……

聖人は2人出てくるが、先に出てきた人でぱなく、あとから出てきた人が救世主である。天から地上に送られてくるとき、密かに送った彼の姓は文氏である。「この文を知ってはならない人が知れば、人に敗れることを嫌う世の人心ゆえに救世主は出てこられるのが大変であろう。
格奄遺録


―み言選集―

韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第1に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第1イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ4・2 ~ 5、イザヤ60・1 ~ 22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第2 イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第3イスラエル選民たる韓国民族も李朝500 年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。

韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
原理講論、再臨論3.3.4

有名なフランスの予言者ノストラダムスが予言し、東洋の最高予言書「格菴遺録」にはっきりと記録されているように、レバレンド・ムーンは、天命を受け、宿命的責任を完遂した人類の真の父母であり、平和の王として顕現したのです。
(447-169。2004.5.1)
驚くべき事実は、霊界において5大宗教の代表たちが一箇所に集い、神様が人類の父母でいらっしゃることを宣布すると同時に、私に対して、人類の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であると宣布し、また「統一原理」が人類救援のための平和のメッセージであり、天宙平和統一は、真の愛を中心として超宗教、超国家、超人種の「愛によってために生きる生活」を通して完成するということを宣布し、さらには、真の父母に侍り、神様の国と世界平和のために、和合、統一、精進することを決議しました。
(2003.7.10)


6.天国

千年王国は、神様の主権が完全に具現し、悪や罪のない創造理想の世界である。千年王国の実現に対する希望は、世界のどの宗教にもある程度見られるが、特に、ユダヤ教、キリスト教の経典において、神様との確固たる約束として明示されている。

時として天国の概念は霊的な理想、死後の幸福の状態(第5 章7.「天界」参照)として表現されるが、これは徹底した終末論的ビジョンと脈絡が異なる。このような意味で文鮮明先生は、地上天国の具現に関する明確な教えを数限りなく表明している。先生は、未来のビジョンではなく、人間改造の現実的プログラムとして地上天国の具現に向かう神様の使命を完遂するために、その生涯を捧げてきた。

このような章句は、天国にいくつかの視点から光を当てる。第1に、それは神様の絶対主権の世界である。このような世界は、世の中のある政治的制度を意味する必要がない。歴史上、いかなる政権も、さらには神権政治を具現したと主張するいかなる政権も、真の意味の天国と相当な距離感がある。神様の主権は、真の愛によるものであって、政治的権力によるものではない。それは、善自体だけの権威をもった神様が善の民の心情を通して統治できるのである。

第2に、天国は全人類が一つの大家族の生を営為し、新しい天と新しい地として神聖なものとなった世界である。与え合いながら分かち合う天地の法度が具現され、利己主義が立つ地のない所である。人々は神様の心情とみ旨を詳しく探り、常に天の法度によって生活しながら喜びを感じ、善行を実行するにおいて心の躊躇が全くない所である。
そこは、これ以上国家間の戦争がなく、犯罪や抑圧から解放され、自由の人生を享受する平和の世界である。

第3に、天国は自分の内的変化を要求する所である。いくら世界が平和だとしても、私達が依然として内的葛藤と混乱を経験するならば、安定を享受できず、結局、個人的地獄から抜け出すことができないのである。このように、私達がいくら楽しい環境で暮らしても、家庭的葛藤と紛争があれば楽しむことはできないだろう。文鮮明先生は、家庭が天国の基本単位だと教える。

第4に、天国は心情の衝動によって自然に起きる行為自体が善のものであるため、人為的な制度や外的な法規の拘束から抜け出た自然で自由な所である。そこは、人間の心が常に水晶のように清く、神様の光がまばゆいばかりに発散される美しい所である。天国の民が愛と繊細な感受性をもち、自然そのままの方法で自然環境の世話をするため、全被造物は喜び歌う。

最後に、天国は死を超越した所である。地上世界と天上世界が一つになるとき、死のとばりは消え、二つの世界の人間たちは、愛する人同士、互いに自由に往来して交流することができる。


①神様主権の世界

―宗教経典―

主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14.9 (キリスト教)

その日、大権は神のものである。かれは、かれらの間を審判したもう。
クルアーン22.56 (イスラーム)

おお、主なる私達の神! 私達はあなたに希望をもちます。遠からずあなたの権勢が勝利することを私達は見るでしょう。偶像崇拝は地から根こそぎ引き抜かれ、偽りは徹底して滅ぼし尽くされるでしょう。

私達はすべての世が全能であられる神の統治のもとにあるその日を待ち、また全人類があなたの名を尊敬することを学ぶその日が来ることを期待します。すべての悪の人々があなたの足の前で悔い改め、ひれ伏すようになるその日を希望します。
おお、世のすべての人々があなたにひざまずかなければならず、万人が唇で誓わなければならないことを知ることを願います。

おお、主なる私達の神! あなたの前で世のすべての人が頭を垂れて敬拝し、聖なるあなたの名に栄光をお返しするようになることを願います。世のすべての人があなたの王国に対する知識をもつようになり、あなたの統治が速やかに、そして永遠に彼らのために共にあることを願います。あなただけが統治者であられ、また永遠に、栄光の中であなたは世を統洽されるでしょう。
毎日の祈り、アレヌ(ユダヤ教)

第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
ヨハネの黙示録11.15(キリスト教)

―み言選集―

地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。
原理講論、堕落論4.3

皆さん、本郷の地を見つけましたか。見つけられませんでした。本郷の地を見つけられなかったので、本郷の祖国を失ってしまったのです。その祖国が地上天国です。……この地球星が天国になります。その祖国は、地上天国であると同時に天上天国なのです。

国ができるためには、3大要素が必要です。第1には、主権がなければならず、国土がなければならず、そして民がいなければなりません。神様がこの国を、世界の国を、この人間世界の国を占有し、主管する主権がありますか。ありません。神様が主管できる地がありますか。ありません。神様が主管できる人類がいますか。いません。いないので、祖国がないのと同じです。これは、本来人間が暮らす世界ではないというのです。
(155-26、1964.10.6)

お父様!
この民族の前に福を施してくださり、
世界万民に福を施してください。
天上で再臨のひと日を待ち焦がれている
数多くの霊人たちの恨みを
解怨してくださり、
お父様とイエス様の恨みが解怨され、
この地に平和の王国が建設されて、
お父様が統治することのできる
その世界が
早く早く成されるようにしてください。
懇切にお願い申し上げます。
(16-52、1965.12.26)

②喜びと平和の新世界

―宗教経典―

私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は
その者の神になり、その者は私の子となる。……

私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
ヨハネの黙示録21.1 ~ 27(キリスト教)

終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2 ~ 4(キリスト教)

歓喜に満ちた都市に神の聖者たちが住んでおり、そこには悲しみも、つらさもなく、供え物や重い税金を捧げなければならないという心配もなく、懲罰や高い地位から落ちるという恐れもまたない。
この幸福な地には私の居所があり、絶えず安寧があり、そこにいるすべての人たちは、永遠の王権から福を受けたため、誰も劣等だと考える者はいない。
その都市は衰退を知らず、そこに暮らす人たちは裕福で満ち足りている。この上ない自由を享受し、見慣れない人もなく、実にすべての人が自由人で
ある。ラビダスが言うには、自由を得た職人、あの都市の市民だけが私の友とみなす。
アーディ・グラント、ガウリ、ラヴィダース、p.345(シーク教)

その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。われはモーセに訓戒を与えた後、詩編の中に、「まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104 ~ 5(イスラーム)


―み言選集―

神様が人間を創造されるときの目的があったとすれば、その目的が成し遂げられていれば、その世界は、愛で統一された世界であり、神様を父母として侍り、全人類が兄弟姉妹として和睦して暮らす単一世界であり、人間の大家族世界になっていたでしょう。

言わばその世界は、み旨の中で一つに統一された世界でしょう。このような統一という課題が、今日の人間に最も重要なものです。しかし、この上なく難しいものとして残されています。個人において心と体が一つになり、家庭と家庭が一つになり、民族と民族が、国家と国家が、東洋と西洋が、神様と人間が一つに統一された世界です。言い換えれば、神様の創造目的が完成した世界が統一の世界なのです。
(81-158、1975.12.18)

神様は天理原則を通して主張します。「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない!」、これがその主張です。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものにもなるのです。神様のために
生きたことが私のために生きたことになります。

それで、私のものは私達の家庭のものであり、この家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるというのです。どちらが素晴らしいですか。

全世界が私のものになり、宇宙が私のものになります。……神様の愛と神様の生命と神様の理想が個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に一つになり、サタンが讒訴できない、サタンの痕跡がないそのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私達人間が完全に主体と対象として、父子の関係として、完全に罪のない聖別された父子の関係として、完全に罪のない聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成し遂げることを願うのが、神様の人間に対する最高の希望です。神様の永遠の愛と生命と理想がどこでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になってこそ、地上天国になるというのです。
(69-89 ~ 92、1973.10.20)

将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、値うちのない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は神様の王権を立てた「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。

法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に皮し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成した所には、何の問題もありません。上下が一つになり、前後、左右が一つになるのです。
(224-173、1991.11.24)
創造理想世界である、神人一体心情世界となって暮らす時代が来なければなりません。人のために生きることが自分のために生きることよりもっと永遠の価値があることを悟って暮らす時代、自己中心の利己主義時代が色あせ、共生共栄共義の利他主義世界を創建しなければなりません。

私達全員で、この目的のために神様と霊界を正しく知り、さらに全世界に天道を明らかにしながら人類を正しく指導し、神様の真の愛、真の生命、真の血統に連結した天宙大家族を形成し、神様の祖国と故郷を地上と天上に創建しましょう。ために生きて投入する絶対愛、唯一愛、不変の愛、永遠の愛で地上天国と天上天国を完成し、神様の王権を奉献しましょう。
(2002.12.27)

理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々がーつの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で、共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。(注26)

ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において、生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。

したがって、構成員の生活程度は標準化されます。教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.3)

③内的天国を所有した天国人の世界

―宗教経典―

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私達は知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂を
いただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙8.19 ~ 23(キリスト教)

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。……王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王
は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』(注27)と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりずるだろう。』
マタイによる福音書22.2 ~ 13(キリスト教)

見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.31 ~ 34(キリスト教)

孔子は答えた、「大道の行なわれていた古代や、(夏・殷・周)三代それぞれの最も良い時期を、私は見ることはできない。しかし記録はある。大道の行なわれる世には、天下は万人のものとされる。人々は賢者能者を選挙して官職に当らせ、手段を尽くして相互の信頼親睦を深める。

だから人々は、それぞれの父母のみを父母とせず、それぞれの子のみを子とせず、老人には安んじで
身を終えさせ、壮者には充分に仕事をさせ、幼少には伸びのびと成長させ、やもめ・みなしご・かたわらの人びとには苦労なく生活させ、(一人前の)男には職分を持たせ、女にはふさわしい夫を持たせる。財貨は、それがむだに打ち捨てられることを、人びとは憎むが、しかし財貨をひとり占めにはしない。労力が出し惜しみされることを、人びとは憎むが、しかし自分のためにのみ労力を用いはしない。みなこうした心がけであるから、(私利私欲に基づく)計謀は外に用いられる機会がなく、窃盗や暴力のさたもなく、たれも家の戸をしめない。これを大同の世という。
礼記7.1.2(儒教)

地上の楽園に向かう段階が進展するに従い、神に対する人々の内面の態度が、日常的な生活のより多くの側面に直接影響を及ぼすだろう。霊魂が神により近い人々は神と同じ心を所有するようになるため、考えや感情を言葉で表さなくても通じることができるようになるだろう。

このような段階に至れば、深く考えることがすべての人たちに存在の様式になる。神は、彼らが直接的に神の意図を知ることができ、または他人の心情と心を完璧に推し量ることができるように、高度に洗練された霊的感性を付与するようになるだろう。

最終的な段階に至れば、地上の楽園はあまりに完璧で、純粋で「透明な世界」と呼ばれる。すべての悪と憎悪は消え去るだろう。世界は、のちに絶対の善と愛を実現するようになるだろう。いかなる罪や不純さからも完璧に抜け出すことによって、ついに人類は代々に永遠の家に居住するようになる。これが正に神と合一した「透明な世界」なのである。
浄霊(世界救世教)


―み言選集―

理想社会は、愛の理想の完成であり、神様の愛の実体たちが、情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに、理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。内なる人は、完成すればみな同じである。
御旨の道、天国

私達人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷が大きくなるのです。そこには苦痛が介在するのです。そこには悲劇が宿るのです。したがって、私達の心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そのようにしなければ、人間世界に平和や幸福といったものはあり得ません。

ですから、自分自身の闘い、自分一個の個体の闘いを終息させることができない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入っていって暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件を自らのものとすることはできないのです。したがって問題は、私自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そのようにして私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心にしみる平和、心にしみる幸福を感じられるのです。

そのような基盤の上で世界と連結されて初めて、自由で幸福な天国が成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和することができない、ということを否認できません。
(20-167、1968.6.9)

皆さんは、まず個人天国を成し遂げなければならず、夫婦天国を成し遂げなければなりません。夫婦天国がどこから始まるのでしょうか。夫婦天国はどこにあるのでしょうか。プラスとマイナスが完全に一つになる所にあります。それは結婚した日に喜んでいて、何年もたたずに離婚するものではありません。
……
もう夫婦天国がどのような所か分かりますか。誰もその夫婦を切り離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、てっぺんはくっついているというのです。皆さんはどのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていきます。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。

そして、夫婦天国だけでよいのですか。家庭天国はどのようにできますか。父母が完全に一つになって愛すれば、息子たちはお母さんのような妻をもらいたいと思い、娘たちはお父さんのような夫をもらいたいと思うのです。それで、その父母がプラスになり、息子、娘がマイナスとなって完全に一つになるのです。家庭が一つになれば、そこが家庭天国になります。家庭天国を成す所で、
初めて地上に天国というもの、神様が理想とするものが定着するようになるのです。
(96-29、1978.1.1)

本然の園は、理想の園です。有無相通(注:すべてのものが相通ずること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。
(7-38、1959.7.5)

個人完成、家庭完成、天宙完成のその場に現れるのが美しい地上天国と天上天国です。それで、神様が解放され、皆さんの家庭と氏族を思いどおりに訪ねていけます。今までは囲いが張られていて、どこにも行けませんでした。しかし、今からは、すべての囲いを取り外して平地になるのです。

サタンがつくっておいたすべての囲いと壁が崩れます。それで、平地になるのです。真の父母が平地を成し、縦的な世界と90 度の角度を成すのです。その90 度を中心として、前後、左右、上下が連結され、統一解放圏が成し遂げられます。それが天国です。そのように、天国に行ける高速道路を築きます。そのような世界が来るのです。すべてのものが真と連結すれば、世界が解放され、天国が成し遂げられます。

祖国は一つです。神様のように永遠です。その祖国が霊界です。それを知って、それに向かって、皆さんは不足であることをよく知っています。どのようにして行かなければならないのか、すべて知っているのです。自分たちがどのような位置にいるということを知っているのです。それをすべて清算して、真の父母様がどのような命令をするとしても、100 回死ぬような命令をするとしても、「絶対に私は行こう」と言える決心をして、絶対信仰、絶対愛・絶対服従の天理を踏んで、早く飛んでいかなければなりません。走るよりも、飛んでいかなければなりません。
(313-243 ~ 244、1999.12.19)


④地上世界と天上世界を一つにした王国、死のない所

―宗教経典―

次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.24-25(キリスト教)

勝利した「世界の改造者」と彼の協助者たち……一切の存在を新たにするので、老いず、死がなく、腐敗と堕落もないだろう。永生があり、常に義をもち、意のままになるだろう。死んだ者が再び生き返り、生命が遍満して不滅となり、一切の存在は神の意のままに改造されるだろう。
アヴェスター、ヤシュト19.11(ゾロアスター教)

「私があなた達に、あなた達が死ぬ食べ物をあげよう。しかし、心配するな。私はあなたを生き返らせる」と呪術師は彼らに言った。彼らは彼を信じた。彼らは何かを食べて死んだ。そのとき彼らは、新しく美しい地で歩いている自分たちを発見した。彼らは白人の軍人に殺害された彼らの父母、祖父母、そして友人たちと話をした。彼らの友人たちは健康で、この新しい世界は白人たちが破壊した昔の世界のようだった。

そこは遊びと羊とバッファローでいっぱいだった。草は緑色で長かった。他の部族によって昔に死んだ人たちも、この地に暮らしているにもかかわらず平和だった。すべてのインディアンの種族が一つの部族を形成し、互いに理解することができた。キッキングベアと小さな雄牛が歩き回っており、あらゆるものを見ていた。彼らは幸せだった。

そのときバイユートの仙人が彼らを再び生に戻した。「私がもたらした新しい世界をあなた達は見た」と彼は言った。「大地は毛布のように、白人のものである囲い、鉄道、鉱山、そして電信柱など、すベてのものを巻き込むだろう。そうすると、その下に再び生き返った私達のすべての知り合いたちがいる、新しくて昔ながらのインディアン大地があるだろう」。

その後、その呪術師は彼らに新しい踊り、歌、祈りを教えた。彼は彼らに神聖な赤い染料を与えた。……今、大地を巻き込むために、そして死んだ者を戻すために、私達はどこでもこの新しい踊りを踊る。新世界が来ている。
霊魂の踊り(アメリカ先住民の宗教)


―み言選集―

神様が願われる天国は、霊界だけで成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体で成す霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現するためには、天倫の前に立ち得ると同時に、人倫の前にも立てなければならず、天倫と人倫に通じ得るよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。

そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な理念にならなければなりません。
このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。
(2-226、1957.6.2)

皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私達にも祖国がないのです。私達は、この祖国を建設しなければなりません。神様の愛と私達の愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人,
家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。
(134-217、1985.7.20)

死の峠を越えて往来できる基盤を地に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
(146-223、1986.7.1)


第3部 人生の旅程

第11章 成長、責任、そして運命

1.霊的成長

成長は自然法則である。この世の中に一度に完成するものはなく、始めから完成まで、成長過程を経なければならない。体のように霊魂もやはり、段階別の過程を経て成長するようになっている。成長段階は多様である。穀物から芽が出てきたり、四季が変わったり、新学年に進級すること、すべてが成長段階だと言うことができる。

霊的完成段階である成熟に到達した人だけが神様の愛に完全に同参し、天の王国で自分の位置を見いだすことができる。霊的完成はどのような境地だろうか。それは心と体の統一を意味する。すなわち、正しいことをするために絶えず行ってきた体との闘争から完全に解放される状態である。キリストの完全さをまとうことであり、永続的に愛する神様の心と一体を成した状態である。
―宗教経典―

人びとよ、主に対し労苦して努力せよ、なんじらはかれに会うのである。……なんじらは、必ず一層から他層に登るであろう。
クルアーン84.6.19(イスラーム)

正しい道をたどり、修行にいそしむ修学者に、心のけがれの消滅に対する最初の知恵が生ずる。それからして無上の知恵がある。それより、知恵により完全な精神的自由を得た人には、迷いの生存の束縛を消滅することによって、「私の完全な精神的自由は不動である」という知恵が生ずる。
如是語経62(仏教)

魂と、それに釣合い秩序を付与した方により、邪悪と信心について、魂に示唆したもう方により誓う。まことに魂を、清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。
クルアーン91.7 ~ 10(イスラーム)


一歩一歩修行を積み、徐々に仏陀のあらゆる教えを成就する。修行は、地を選んで礎石を打ち込み、その上に家を建てるのと同じであり、寛容と自己制御は悟りに至る修行の礎石である。
大方広仏華厳経10(仏教)

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(注1)
マルコによる福音書4.26 ~ 29(キリスト教)

ムハンマドは神のみ使いである。かれと共にいる者は、不信心の者に対しては強くてくじけず、おたがいの間ではやさしく親切である、……イエスの福音にも、同じようなかれのものがある。まいた種がその芽をふき、丈夫な茎に伸び立って、種をまいた者を喜ばせる。
クルアーン48.29 (イスラーム)
しかし、私達一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。……そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私達は皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

こうして、私達は、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エペソの信徒への手紙4.7 ~ 16(キリスト教)

人皆がこうありたいと思うようなのを善と言い、善を自分で持っているのを信と言い、更にその善と自分に充実させることを美と言い、充実させた結果、外にひかりかがやくようになったのを大と言い、大にしてよく天下を化すようになると、これを聖と言い、聖にしてそのはたらきのはかり知ることができないようになると、これを神と言うのである。孟子VI .B.25 (儒教)

天はただ春、夏、秋、冬をもっている。人はただ仁、義、礼、智をもっている。……ただこの四つの原理だけがある。その他には何もない。仁、義、礼、智は、起源、成長、完成、そして成就である。もし春に何も芽生えなかったり生まれなかったりすれば、夏に成長を促す何の方法もなくなり、秋と冬に収穫して貯蔵することが不可能になる。
朱熹(儒教)9
キリスト教徒になるのは、一瞬の行為であることも、一生を懸けた行為であることもある。霊的決意と改宗を、「人は、新たに生まれなければ」(ヨハネによる福音書3 章3 節)と語られたイエス様の御意志を、私は日ごとより深く理解していっている。

肉身の誕生は、妊娠から誕生の瞬間の奇跡まで向かっていく一つの過程である。しかし、誕生がその過程の最後ではない。もう一つの成長の始まりである。霊的な誕生もやはり同じである。キリストに対する決意は「霊的誕生」であろう。しかし、これもやはり霊的成長が伴わなければならない。
ビリー・グラハム信念の勇気

こうして神は、人間の魂に精神を与えられた。精神を座とする理性と知性とは、子供にあってはまだ眠ったままで、いわばないにひとしいのであるが、年齢が進んでくると目ざめ、大きくなって知識と教えとを受け取ることがてきるようになり、真理を認識し善を愛する能力を持つようになる。精神はその能力によって知恵を吸収し、徳をそなえ、思慮と勇気と節度と正義とに従って生き、誤謬その他の生まれながらに持つ悪徳と戦い、ただ神の至高にして不変なる善のみを希求することによつてのみ、それに打ち克つのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)


―み言選集―

人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。
したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。

創世記2章17 節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。

万物世界が六日という期間を経て完成できるよう
に創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。

そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。
原理講論、創造原理5.2.1

神様が土をこねてアダムとエバを造るとき、最初から成長した人に造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通した存在の形成というものは、説明する道埋がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天の道理です。その次に完成期がありました。
最初に、無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。それでは、赤ん坊が生まれ育ち、成熟して結婚できる位置まで、父母になれる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てられます。
(225-198、1992.1.20)

神様も成長してきました。赤ん坊から兄弟段階を経て結婚段階に行き、赤ん坊を宿して創造したのと同じように、皆さんも妻といえば、見えない神様が見える実体として成長した存在だということを知らなければなりません。

皆さんは、結婚すれば、皆さんが成長するときの姿を見ることができます。それをどのように見るのですか。自分の息子、娘を通して再び見るのです。神様が、アダムとエバが成長するのを見て衝撃を感じ、横的な世界(注2)、拡張された世界をもったのと同じように、皆さんも赤ん坊を生むことによって横的な世界に発展できる愛の版図が展開するのです。
(297-151 ~ 153、1998.11.19)

一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できる一つの結実になり得ます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり結実の実が残るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘にならなければなりません。いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第2の生命の母体である種になれることを知っています。
(32-37、1970.6.14)
種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)

博士課程では、幼稚園から学んだことをすべて否定しますか。そうではありません。すべて肯定、消化して博士になるのです。
(111-129、1981.2.8)

神様の愛を教育されなければなりません。それでは、いつまで愛の教育を受けなければなりませんか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて成長しなければなりません。
(51-172 ~ 173、1971.11.21)

神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通して神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的力の中で最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人が父母であられる神様に似るということです。
(279-206、1996.8.20)

神様の子女である人間の責任は、何よりもまず神様に似ることです。孝子、忠臣、聖人、聖子の家庭の道理を果たす真の愛の化身になりなさいということです。神様の深い心情の内的事情を知って、アダムとエバの堕落以来、数千、数万年、苦痛の中で生きてこられた神様の恨を解いてさしあげなければならないのです。
平和神経、平和メッセージ1.16、2005.9.12

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世界経典-42

2022年06月19日 16時54分40秒 | 学習


②サタンの束縛

―宗教経典―

私はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。

その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずで
ある。私はまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。私はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録20.1 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

地上天国を復帰するということは、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。

終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。

人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリントⅠ 6 章3 節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。

ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制するこことはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。
原理講論、堕落論4.2

③世の中の変化と神様の中での生命の蘇生

―宗教経典―

大地が別個の大地に変えられ、諸天も変えられる日、人びとは一斉に唯一の方・至力の方、神のみ前にまかり出るであろう。
クルアーン14.48 (イスラーム)

そして、彼ら(世を毒するやから)のもろもろの罪業に懲罰が到来する。そのとき、マズダーよ、御身さまは御身の有たる王国を、ウォフ・マナフを通して、建設されるでしょう。天則の両手に不義をひき渡すものたちにその王国があらわに見えるために。

そしてわれらは、この世を勝ち抜かせるものとなりたいのです、マズダーよ、そしてアフラたちよ、そしてアシャよ、わたくし(バラスシュトラ)の方に来到するよう世の人々を駆ることによってです。願わくは常恒なる天眼の存するわたくしのところに人々の心が集まりますように。
何となれば、そうすれば、これによって「不義」の領域に破滅が来るからであり、またウォフ・マナフとマズダーと天則との楽園にむけていとも速い馬が車につけられ、よき名声に先着するからです。
アヴェスター・ヤスナ30.8 ~ 10(ゾロアスター教)

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、私達は、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
ペトロの手紙二3.10 ~ 13(キリスト教)


周知のとおり、文明とは一時的なものである。文明とは、新時代の黎明と真の真理が出現することによって、結局は消えていくのである。これは、現在私達が生きている刹那的世界の終焉を意味する。神は古い文明を清算し、新しい文明の樹立を願う。正にその清算の時が近づいてきた。

今日まで悪の勢力が文明の中で威勢を振るってきたが、古い文明から新しい文明へと転換するにしたがい、これらもすべて消えていくだろう。すべての人々は、この冷酷な浄化の過程を通過しなければならない。

世界は数千年積まれてきた数限りない罪の代価として、途方もない苦しみを経験するだろう。苦し
みを経験すれば経験するほど、社会と国家が浄化されていくことを感じるのであり、人類は善が支配する新しい段階へと引き上げられるだろう。

変化は私達に現在、実際に起きており、既に地上楽園が始まる直前の最後の段階を迎えている。大変動によりすべての生の領域、すべての文明も変わっていくだろう。神を信じ悔い改める者こそ、新時代の到来の目撃者となるだろう。そして、彼らは救いの道を出発できるようになるだろう。

しかし、重い罪に苦しんでいる者たち、自分たちの邪悪な道を抜け出すことのできない者たちは、極度の悲惨の中で現世の生を終え、来世にいかなる救いも得ることができないであろう。
浄霊(世界救世教)

 

―み言選集―

終わりの日になれば主が来られ、主が来られれば審判すると思っています。その審判は天変地異が起き、太陽と月が光を失い、地がすべて崩れる、そのような審判を思っています。本来、この終わりの日という言葉は、宗教から出てきた言葉です。仏教では終わりの日を末法時代と言い、キリスト教では末世と言っています。いったいこの終わりの日がどうして生じるようになったのかという根本的な問題を、私達は少し考えてみなければなりません。

絶対的な神様が計画されるその世界は、始まりがあり、永遠でなければなりません。一度始まれば永遠に続かなければならないのです。神様が経綸したそのような世界の上に終わりの日が生じたということは、神様がそれを設定してもたらされたものではないのです。人間が堕落することによって、終わりの日というものが生じたことを私達は考えざるを得ません。

終わりの日というのは、一つの時代が過ぎていき、新しい時代が訪れることを意味するのです。終わりの日になったからといって、神様が創造された太陽と月を暗くし、地をすべて壊してしまえば、誰のゆえに壊してしまうことになりますか。サタンのゆえに壊したことになるので、サタンのゆえに失敗した神様になってしまうのです。

サタンによって地が汚され、今まで太陽と月が悪の人を照らしてあげたことだけでも無念なのに、そのみ旨を一度も成し遂げてみることもできずに壊してしまってよいのですか。

エデンで審判を受ける基準は一人を中心として、その人がみ言を信じないことによって、不信することによって死亡の世界になったので、これと反対に一人によって絶対的に信じられるみ言を立てなければなりません。信じれば、絶対的に生命線に移されていくのです。
(69-119 ~ 121、1973.10.23)


神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。

このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.1


3.新しい啓示

末世の時の啓示現象は、霊的復興とともに始まる。20 世紀に初代教会の異言と霊的現象が再び現れながら聖霊降臨主義が出現した。全世界的に新興宗教は、その宗教の創始者に与えられた特別啓示を土台として生まれた。このような霊的復興は、東洋と西洋で多様な形態で現れた。

その上、ユダヤ教とキリスト教の経典には、末世に神様が自分の真理を明らかにすると暗示している。その諸経典は、今日、神様の真理に対する人間の知識が不完全で誤りに陥っていると指摘する。

イスラーム、仏教、そしてほかの諸宗教はどうか。真理は無窮無尽である。しかし、教理に対する論争と多様な宗派の教えによって、世界の主要な伝統宗教が苦労することとなった。末世には新しい真理が出てきて、真と偽りをはっきりと分別し、宗教的論争を終息させ、すべての人間を神様の前に導くだろう。

新しい宗教が現れるとき常にそうであったように、伝統の教理に固着した人たちは、新しい真理が最初に現れるとき、それを拒否するようになるだろう。

それでも、新しい真理が世界のあらゆる宗教の根本的な教えの特性を理解し、尊重しながら包容することができれば、世界中で大勢の支持者たちが現れるのであり、また一つの宗派として残るようにはならないだろう。

 

①完全な真理の出現

―宗教経典―

「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
ヨハネによる福音書16.25 (キリスト教)

私達の知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一13.9 ~ 12(キリスト教)
われは真理によって、なんじに経典を下した。……なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。(注8)
クルアーン5.48 (イスラーム)

私達の時代と主が来られる時がどのように異なるのだろうか。真理に対する純度と造詣が異なるのである。
ゾハール、創世記139a (ユダヤ教)

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネによる福音書16.12 ~ 15(キリスト教)

「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなた達の息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕やはしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
使徒言行録、2.17 ~ 18(キリスト教)

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1章3節)主なる神がたとえ地上の存在にこのように語られたとしても、ここでの「光」は、世の中を動かすその光を意味する。神が創造された本然の光は、これよりもっと次元の高い、神の目から出てくる光である。聖なるその方は、アダムにこれを見せてあげ、それによりアダムもすべての世を見ることができた。ダビデがこれを見たとき、彼は霊的な恍惚感にはまってこのように叫んだ。「御恵みはいかに豊かなことでしょう。」(詩編31 章20 節)この光を通して神はモーセにギレアデからダンまで続く約束の地を見せた。しかし、太初からこの聖なる光は隠されていた。天はエノク、ノア時代、バベルの塔を築いた当代の人間たちが、これを利己的な目的に使うのではないかと心配したのである。……

ラビ、イサクが言った。「主なる神の創造の課業によりつくられたその光は華麗であるので、この世界をいっぱいに満たした。しかし、結局は痕跡を隠した。なぜそのようになったのか。善の法を破る者たちが、その光を利用できないようにするためである。

そして、聖なる主は人の子(メシヤ)が現れるその日まで、この光を現されない。詩編97 章11 節に『神に従う人のためには光を、……』、この光が再び世に輝くとき、人類は更生し、より高等な生を生きるようになり、聖なる生命体と一つになるだろう。しかし、その前までこの聖なる光は暗闇の中に閉ざされている」。
ゾハール、創世記31b 32a (ユダヤ教)
―み言選集―

聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。

ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、誰もが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。

それゆえに、イエスは「私はこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。

イエスは「私が地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ3・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。

そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「私には、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ16・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。

しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ16・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1

人間が堕落したがゆえに、「約束のみ言」が「成し遂げられたみ言」として現れることができませんでした。それで、旧約、新約というのです。約束のみ言、これが成し遂げられたみ言として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間たちは知らずにいます。これは、天を尋ね求めていく聖徒たちが総団結して解決しなければならない問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。

今日、この世界は分裂と紛争が起きている世界です。なぜこのような現象が起きるのでしょうか。イエス様がこの地に来られたときは、その世界は分裂の世界でした。それでイエス様は、この分裂と紛争を解決するためにみ言を語ってくださったのです。ところが、当時の人間たちが、イエス様のみ言を信じないことによって、この紛争と分裂が完全に解決できませんでした。これから、分裂と紛争で混沌としていくこの世界を収拾し、あらゆる主義と思想を統合できる完成のみ言が出てこなければなりません。

それで、皆さんは真の真理とは何か探し出さなければなりません。今日、この世界の歴史過程を見れば、数多くの民族と数多くの宗教がありましたが、一つの帰一点に向かって、統一の目標に向かって進んでいるのです。

それでは、この統一の目標は、どのようなみ言を通して達成されるのですか。神様の約束のみ言によって統一されるのです。人類歴史は、神様の約束のみ言によって立てておいたその土台を抜け出すことはできません。それで、キリスト教を中心
として世界の歴史が展開されてきたのです。これからは一つに統一させなければならない時になりました。それで、すべてのものを統一できる新しいみ言が、あらゆる知恵を備えて現れるでしょう。
(3-326、1958.2.2)

初代教会は異言を語り、神霊役事を行い、預言をし、ありとあらゆることをしました。……それで初代教会で起きた現象が終末のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、異端だという言葉を聞く群れがたくさん出てくるのです。

霊の召命を受けた人はあえてそのようにすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださるのです。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界の人が行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の人たちが見るとき、間抜けであほうのように見えたのです。

これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっているのです。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。
(6-184 ~ 185、1959.4.26)

イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。

それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。

したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論5.2

 

②新しい真理が以前の真理を代替する

―宗教経典―

日昇らざる中はかの蛍も光を放つ。日昇れば光を集めて輝かず。外道等の輝くはかくの如し。正等覚者世に出でざる中は愚者は浄められず、弟子は輝かず。邪見の徒は苦より離れ得ざるなり。
感興偈73(仏教)

われが一節を他の一節に代えるとき、神は、かれが啓示したもうことを最も良く知りたもう。かれらは、「おまえは一ねつ造者にすぎない」と言う
だがかれらの多くは知らないのである。

言え「聖霊が真理をもって、なんじの主から啓示をもたらして来たのは、信仰するものを強固にするためであり、またムスリムたちへの導きであり吉報である」。(注9)
クルアーン16.101 ~ 102 (イスラーム)


ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。

そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。……

このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
コリンの信徒への手紙二3.7 ~ 16(キリスト教)


その方の言葉「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」(マタイによる福音書24.29)は、以前、摂理の聖職者たちに対するものだった。彼らは後続的啓示の時代に生き、宗教を彼らの統制下においていた。

もしこの聖職者たちが、以降の啓示の光によって改化されたなら、彼らは神に受け入れられ、永遠に光を発するだろう。そうでなければ、たとえ見た目には彼らが世人の指導者のように見えても、信仰と不信、指導と失敗、無上の幸福と悲惨、光と闇が、すべて真理の明けの明星であるその方の許諾に依存するがゆえに、彼らは開化されていないものと言われるだろう。……

また他の意味で、「日」、「月」、そして「星々」という用語は、祈りと断食の法規のように、各摂理時代において制定され、宣布されたものと同じ法規と教えと見なされる。コーランの律法によれば、預言者ムハンマドが死んだとき、これらはその方の摂理に最も根本的で拘束力のある律法と見なされてきた。……
ところが、聖職者の頑固さが、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」という言葉で表現されており、すべてが象徴的言語となった(以前の)聖なる啓示により確固として設定された律法の廃棄が、神の顕現として予示されてきたことは確実で明確である。……

すべての引き続く啓示において、以前の摂理時代に制定され、当時の人々を暗く覆っていた教え、律法、戒め、禁止事項である「日」と「月」は暗くなった。すなわち、衰えるようになり、それらの影響力をこれ以上発揮しなかった。(注10)
確信の書33 ~ 41(バハイ教)


―み言選集―

人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。

すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。原理講論、総序
日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ24・29)創世記37 章9節以下を見れば、ヤコブの12 人の子供たちのうち、11 番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『私はまた夢を見ました。日と月と11 の星とが私を拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうに私とあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。

ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したものだということを知る
ことができる。

キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。

聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ1・9)その肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ1・14)、真理の光を発したからで
あった。ゆえにここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ16・13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。

では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙21・1)そのときの新しいみ言によって(本章第5 節(1)参照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。

また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者たちが、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節参照)。

ルカ福音書18 章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書7章23 節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法を働く者ども」と責められ、さらに、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.5

 

4.主の日に対する認識

私達は、どのように末世が切迫していることを認識できるのだろうか。歴史上、何度も千年王国運動が起き、メシヤの降臨を宣布したが、予定されたどの徴候も現れず、追従者たちを失望させるケースをよく経験した。

私達は、その徴候の性格に関心を集中する。すなわち、メシヤが雲に乗ってくる超自然的大変化が起きるのか、あるいは季節の変化のように、数ヵ月、数年をおいて起きる自然的な過程なのか。

一部の経典の章句では、神様の計画は誰にも分からないと言いながら、そのような見解自体を遮断する。彼らは、「偽キリスト」が愚かな人たちを誤って導くことがあるため、私達に性急な扇動に簡単についていかないよう注意を促す。ある章句は、準備された人たちは、再臨主を迎えることができると教示しながら、信仰と忍耐を要求する。
またほかの経典の章句は、メシヤの降臨を計算できる根拠を提示し、それを拡大解釈したりもしている。その中で私達は、第7日の千年王国、すなわち安息の千年王国建設の根拠として、キリスト教とユダヤ教の経典の章句を引用した。これは文鮮明先生の「成約時代」、すなわちアダム以降6000 年の聖書歴史が終わる時点から始まる千年王国建設時代と一致する。

最後に福音がすべての国に伝播されるまで末世は来ないという聖書の教えに基づき、メシヤ降臨の前兆となる20 世紀の世界歴史の変化に関する文鮮明先生の教えを見てみることにする。

 

①臆測は多いが終わりの日が分からない

―宗教経典―

イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。……

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」
マタイによる福音書24.4 ~ 6、36(キリスト教)

かれらは最後の審判の時について、いつそれが来るのかと、なんじに問うであろう。言え「それを知る方は、ただ私の主のみであられる、その時を出現し得るものはかれのほかにない。それこそは、天と地を通じての重大事である。全く突然なんじらに来るであろう」。かれらはなんじらがそれについて熟知しているかのよう、なんじに問う。言え「それを知る方は、ただ神のみであられる。だが人びとの多くはわからない」。
クルアーン7.187 (イスラーム)

盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。
私達は、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
テサロニケの信徒への手紙一5.2 ~ 6(キリスト教)
―み言選集―

終わりに日には、誰の言葉も聞いてはいけないと言いました。ここに来て語る人の言葉も信じるなということです。いくら血と汗を流して話をしても聞くなというのです。どちらが偽りで、どちらが真なのか分かりません。自分の父母も信じることができず、兄弟も信じることができないのに、誰を信じるというのですか。

今の時は、心の審判から自ら勝利しなければなりません。心の審判、心で審判して、間違っていれば切ってしまわなければなりません。心は知っています。

あらゆる面において心の審判をしなければならないのです。それができなければ、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れているという人も多いのですが、終わりの日に神様は何を準備されたのですか。主が臨むことのできる環境基盤はどれですか。
どのようなものが主の理念世界を建設できる民ですか。祈祷してみましたか。死ぬ穴なのかそうでないのか分からず、むやみに口を開いてもがきながら騒いでいるというのです。
(9-265、1960.6.5)

イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、私は盗人のように来るであろう」(黙3・3)と言われながら、その反面においては、テサロニケⅠ5章4節にあるごとく、光の中にいる人には、盗人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際に起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法学者たちに対しては、事実、盗人のように来られたが、光の中にいた洗礼ヨハネの家庭には、イエスの誕生に関することが前もって知らされたし、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ2・1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたちにはその事実を知らせてくださったのである。

復帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事実を預言者たちにあらかじめ知らせてから摂理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒2・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。
原理講論、再臨論


②準備しなければその時を知ることはできない

―宗教経典―

マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。(注11)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8 (キリスト教)

そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私達のともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、
御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書25.1 ~ 13(キリスト教)

ラビ・ヨシュア・ベン・レビが、ラビ・シミオン・ベン・ヨハイの洞窟の入り口でエリヤと出会った。彼はエリヤに尋ねた。「救い主はいつ来られますか」。

エリヤが答えた。「出ていって彼に尋ねてみなさい」、「その方はどこにいらっしゃいますか」、「ローマの城門の前にいらっしゃる」、「それでは、どのようにその方を見分けることができますか」、「傷ついて苦しむ人たちの間に座ってい
らっしゃる方だ。他の人たちは包帯を解いて一度にまた巻く。しかしその方は一つずつ分けて巻かれる。『召喚されたり、獄に閉じ込められてはいけない』と思われるため、そのようにされる」。

ラビ・ヨシュアがその方を訪ねたあとに言った。「あなたに平和が共にあらんことを、私の主人であり師よ」。救い主が答えられた。あなたにも平和が共にあるように、レビの息子よ」。ラビ・ヨシュアが尋ねた。「主はいつ来られますか」。彼が答えられた、「きょう来られる」。

そして、ラビ・ヨシュアがエリヤのところに戻ってきた。エリヤが彼に尋ねた。「その方は何と言われたか」「あなたと平和が共にあるように、レビの息子よ」。エリヤが言った。「その方は、あなたとあなたの父にこれから訪れる世を確認させてくださった」。ラビが言った。「ところが、私に間違ったことをおっしゃいました。きょう来られると言われたのですが、結局来られませんでした」。するとエリヤが言った。「その方は詩編の『今日こそ、主の声に聞き従わなければならない(詩編97 章7 節)を意味されたのである」。(注12)
タルムード、サンヘドリン98a (ユダヤ教)

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ルカによる福音書21.34 ~ 36(キリスト教)
―み言選集―

すべてのものを捨てなければならない時が来るのですが、その時が終わりの日です。そのような終わりの日に神様のみ旨はどのように現れ、神様の真理と愛と生命がどのような所に現れるのでしょうか。そこは、すべての人間の希望であり、求めていかなければならない中心なのです。したがって、皆さんがそこを知らなければ、心を立てて磨きながら準備しなければなりません。そのように準備していれば、そこに行こうとしなくても、いつか自然にそこに行くことができるようになるのです。

それでは、どちらが真で、どちらが偽りかは、何をもって分別できるのでしょうか。この時には、神様も真と偽りを教えてあげることはできません。神様がどのようなものが真だと教えてあげたあとには、その反対に偽りだと教えてあげなければなりません。(注13)ですから、人間自身が分別しなければならず、人間自身が決定しなければならず、人間自身が探し立てなければなりません。したがって、皆さんは、10 人の乙女の例えの中で、あかりを準備した思慮深い5人の乙女だけが主を迎えた、という聖書のみ言の意味を学ばなければ
なりません。
(2-136、1957.3.17)

主が来るのですが、どのように来るのですか。昔、ユダヤ教を通してイエス様が来ましたが、失敗しました。それで、今回はキリスト教、すなわち第2イスラエルを通して来られるようになります。第1イスラエルが失敗したので、第2イスラエルを通して来られるのです。それでは、主が来られるときにどのように来られるのでしょうか。聖書に主は雲に乗ってやって来ると教えているので、キリスト教徒たちはそのように信じています。

主が人としてやって来るという話は、今まで聞いたことがありません。しかし、時が来るに従って、神霊的な人たちが彼を証するのです。誰が証するのですか。男性よりも女性が証します。昔の宗教歴史は、おばあさんから始まりました。70 歳以上の老人たちを中心として。もちろん60 歳以上のおばあさんも神霊体験をするにはしましたが、年を取ったおばあさんを通して主が人として来ることを教え始め、終わりの日に準備するようにしたのです。
(208-306、1990.11,21)


③第7 の千年王国安息

―宗教経典―

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録20.6 (キリスト教)

カナンの地に7年ごとに1年、解放の年があるように、この世界にも7000年目に訪れてくる解放の1000 年がある。イザヤ書2章17 節に、「主はただひとり、高く上げられる」、また、詩編92 章1節には、「賛歌。歌。安息日に」、ここでは長い安息の期間を意味し、また、詩編90 章4節では、「千年といえども御目には、昨日が今日に移る夜の一時にすぎません」と記録されている。

タンナ・デベ・エリヤフは教える。世の中は6000 年続く。このうち2000 年は無秩序の期間であり、他の2000 年は法で統治する時代であり、残りの2000年は主が来られる時だ。しかし、私達の不正のために、メシヤが来られる徴表もなく最後の2000 年の相当な時間が既に過ぎてしまった。
タルムード、サンヘドリン97a(ユダヤ教)

6000 年の600 年が過ぎれば、上には知恵の門と下には知恵の噴水が開かれるだろう。そして、ちょうど一週間の6日目の日の日が沈み始めるとき、私達が安息日を準備するように、世の中は7000 年の世界に入っていく準備をするのである。聖なるその方は、メシヤが降臨してこの世に現れることを大きく願われない。

しかし、メシヤの時が近づいてくれば、幼い子供でさえ知恵の秘密を知るようになり、そして新千年の時を数えるようになる。その時には、あらゆる秘密が万民に現れるだろう。……

「主が御自分の業を喜び祝われるように」(詩編104 章31 節)。天は霊たちが地上に下りてきて、新しい存在として生まれるようにされるだろう。そして、彼らが世の中に属するようにしようとされる。安息日に入る6000 年の終わりに生き残った者たちはどれほど幸福か。この日は、聖なる主、神が霊たちを連合し、地上に残った者たちに合流する霊たちを選択することに決めた日である。
「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる」(イザヤ書4 章3 節)。
ゾハール1.117a 19a(ユダヤ教)

お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。

これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての、御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される。

その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
ダニエル書9.24 ~ 27(キリスト教)

聖書の表現から知られるように、諸時代を日々として数え、それに従って時代区分をあげるならば、私達の安息は明らかに第7日に求められるであろう。第1の時代がいわば第1日で、これはアダムから洪水に至るまでである。

第2の時代はそれからアブラハムまでである。その経過した年数は同じではないが、それぞれ10 世代という世代の数は同じである。そのあと、福音書記者マタイが区切っているように、キリスト降誕に至るまで三つの時代がある。それぞれが14 世代であると数えられる。

まず第1はアブラハムからダビデまで、第2はダビデからバビロン捕囚まで、第3はそれからキリストの肉における誕生までである。以上で五つの時代となる。私達の生きているのは第6の
時代であるが、この長さを数でもって測ることはできない。というのも、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒言行録1 章7 節)と言われているからである。

そのあとのいわば第7日に神は休むであろう。そして私達がそうである同じ第7日を、私達は神自身のうちにあって休みとなすであろう。
アウグスティヌス神の国22.30 (キリスト教)


―み言選集―

神様は僕を立てて、「私がお前の父だ」と教えてくださいました。僕に命じて、天使に命じて教えてくださいました。そのような時代が旧約時代です。次には、息子に命じて役事しました。その時代が新約時代です。その次には、聖霊に命じて役事してこられたのです。
(10-198、1960.10.2)

アダムからアブラハムまでの2000 年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。

また、アブラハムからイエスまでの2000 年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。そして、イエスから再臨期までの2000 年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。……

イエスからその再臨期までの2000 年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の、2000 年期間を、キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理延長時代」という。

イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
原理講論、後編緒論2.2.1

パウロも、コリント人への第一の手紙第13 章で、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言いました。ところが、私達人間は堕落によって希望を失ってしまい、信仰を失ってしまいました。希望と信仰を失ってしまうことによって、神様を中心とする愛を失ってしまったのです。これを復帰するためのものが今までの6000 年復帰摂理歴史であることを、私達は知らなければなりません。

それでは、今まで6000 年歴史は、何をするための歴史だったのでしょうか。人間が堕落することによって失ってしまった希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神様は、それを回復するために苦労してこられたのです。ところが、今日は希望と信仰の時期を経て愛の時代にいなければならない時なのに、まだ信仰の時にとどまっているというのです。

それでは、希望は何を象徴したのでしょうか。神様の新しいみ言を象徴しました。また、信仰は何を象徴したのでしょうか。それは神様の真の息子、娘になることを象徴しました。真の息子、娘を探し立てるために、信仰を象徴としてきたのです。そして、これからは神様の愛を中心として、私という個体が完成したのちに家庭を求めて入っていってこそ、そこに初めて神様の愛が成立することを皆さんは知らなければなりません。
(5-108、1959.1.4)


④時代的徴候

―宗教経典―

御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
マタイによる福音書24.14 (キリスト教)

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。マタイによる福音書24.32 (キリスト教)

見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。
エレミヤ書30.3 (キリスト教)

まことにイエスは、審判の時のしるしの一つである、それゆえにその時について疑ってはならぬ、そしてわしに従え。これが、直き道である。(注14)クルアーン43.61 (イスラーム)
―み言選集―

摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が私達の至近にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験してみることのできなかった霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさん交流するようになるでしょう。頻繁に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。

特に、神様と善霊の役事によって感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった者が、すなわち神様が願われた真の人です。
(神様の祖国と平和UN、2003.2.6)

真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁をもつので、第2次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家をすべて解放させるということが起こったのです。これは、兄の立場から弟をたたいて捕まえたので……。
そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。歴史が願いつつ訪ねきたこととは何かというと、真の父母に出会うことでした。宗教が出てきたのも真の父母に出会うためです。世界が出てきたのも真の父母を探すため、国が出てきたのも真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。
(51-354、1971.12.5)

文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。

そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。

したがって、今や人類の親であるイエスだけが再
臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家だんらんして生活し得るようになっているのである。

このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論4.3


5.メシヤ

多くの宗教の経典は、地上に神様のみ旨を完成する指導者が顕現するという事実に言及している。彼は、神様の正義と愛をもって罪悪を退け、地上天国を建設していく人である。ヘブライ語でメシヤ、(ギリシャ語ではキリスト)は「油を注がれた者」、すなわち神様の使命を受け、それを具現する能力を賦与された特別に選択された人である。

メシヤという用語は、ユダヤ教とキリスト教に限定された概念だが、一人の指導者が現れ、天の使命を完遂するという預言は、あらゆる経典でほぼ一般的に言及される。仏教信者たちは弥勒仏の顕現を期待し、ヒンドゥー教の預言は未来のカルキの降臨について語っている。ムスリムはムスリムたちのイマーム、イエスの再臨を期待し、シーア派のムスリムたちは未来のイマーム、マフディ
を待つ。ゾロアスター教の経典はサオシュヤントの降臨を預言し、儒教の経典はこの世に孔子の道を完璧に具現し、平和を実現する真人の出現を示唆する。
この世界が狭くなり、相互の文化的交流が増大しながら、人類救援の課業はすべての宗教に委任された。したがって、神様は一人の方を地上に送り、すべての宗教的希望を現実化するだろう。

次の段落の章句は、この問題に関する文鮮明先生の広範囲な教えにより、救世主の降臨に関する特別な預言を提示する。メシヤは雲に乗って超自然的に顕現するのか、あるいは地上で生まれ、一人の人間の成長過程を経る自然的方式で顕現するのか、メシヤは栄光の中に現れるのか、あるいはイエスがそうだったように苦難と屈辱の道を歩むのか、メシヤは神様なのか、あるいは神様に似た新しい人間の「最初の実」なのか、そして、どうしてメシヤはアダムに比喩され、どのような意味で彼は新しいアダムなのか、小羊の婚宴の意味は何か、そしてメシヤはイスラエルに対して特別な使命をもっているのか。

最後の段落の章句は、メシヤがアジアから、より具体的に韓国から出現するというノストラダムスとアジア神秘主義者の預言によって構成されている。特に、韓国の預言は、文鮮明先生のメシヤ使命の自覚と直接関連している。

 

①すべての宗教が約束したメシヤ、救世主

―宗教経典―

私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書23.5 ~ 6(キリスト教)

「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
ヨハネの黙示録22.20 (キリスト教)

まさにそのとき、仏が世に出現するであろう。弥勒という名であり、如来、至真、等正覚などの十号をのこらずそなえていて、現在の如来が十号をのこらずもっているのとかわらない。彼はかみがみや帝釈、梵天、魔あるいは魔天、沙門、婆羅門、神々や世間の人々のいるところで、みずから悟りをひらくのとかわるところがない。彼は当然法を説くであろう。言葉のはじまりは善く、中はどもおしまいも善く、内容と表現が充実しており、私が今日法を説いてはじめ、中ほど、おわりの言葉がすべて正しく、内容と表現が充実していて、
梵行が清浄なのと同じである。彼の弟子たちは無数千万もいるであろうが、私に現在、弟子が数百人いるのと同じである。(注15)
阿含経長部iii.76 (仏教)

マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。(注16)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。


彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。彼はあなた達に、徳目というものは両極の間に中庸を取り、公平と正義に基づく性格の状態であることを理解させてくれる。彼は、世の中の人々が死んだ内容だと軽視していた聖コーランと聖預言者の伝承を再び復活させる。……

彼は、学問的土台と優れた知識で自らを保護し防御する。このような(知識の)資源に対する彼の統制も完全なため、彼はそれらがどれほど高貴で、どれほど注意深く使われなければならないかということを知らせる。彼の心は、人類に害悪と損傷を及ぼそうとする欲望をもたない。彼のそのような知識は、他の人々に間違って所有された財産を、再所有して使うための許諾を長い間待っているのと同じだ。

最初に彼は、見ず知らずの見捨てられた貧しい放浪客に映り、そしてそのときイスラームは希望がなく、頭を下げてしっぽを振る気力の尽きたラクダの無力な状態にあるかもしれない。そのように出発し、彼はこの世に神の帝国を建設する。彼は、人類を正しい人生の道に精通するようにしようとする、神の慈悲深い御意志に対する最後の証であり実現なのである。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)

ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。

彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。その後彼らは地上に再び正義を立てるであろう。

そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な
時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・ブラーナ4.24(ヒンドゥー教)

彼は勝利した恩人、世界の改造者と名づけられるだろう。彼は、物質世界全体に恩恵を施すがゆえに恩人であり、体をもつ生命体を不滅のものにするがゆえに、世界の改造者と言うだろう。彼は二本足の獣(人間)の子孫たちがほしいままに行う悪に対抗し、信じる者たちがもつ敵意にもよく耐えることだろう。
アヴェスター・ヤシュト13.129 (ゾロアスター教)

ただ天下の至誠のみが、聡明英知で、(天下を)治めることができ、寛容温和で(民衆を)十分に包容することができ、剛勇剛毅で、(物事を)十分に決断することができ、厳粛中正で、十分に慎み深く、礼義条理を細かく明らめていて、十分に(理義を)。弁別することができるのである。あまねく広く、静かで深く本源があり、時あって外に発現してくる。あまねく広いことは(全てを照らす)天に似ており、思慮の深い淵のようである。現れれば、民で敬しない者なく、言えば民で信しない者なく、行なえば、民で喜ばない者はない。

こういうわけで、名声は中国に満ちあふれ、やがて蛮夷にまで及ぶ。船や車の行く所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載せる所、日・月の照らす所、霜・露の降りる所に至るまで、すべて生きてある者で、尊び親しまない者はない。だから天に並ぶというのである。ただ天下の至誠のみが、天下の五つの人倫を、より分けてさらにこれを合わせ(天下・後世の法とし)天下の大本である性の完全な本体を立て、天地の化育を知ることができるのである。

(誠以外の)物に依存して始めてできるのではない。きわめて懇ろで仁そのものであり、静かに深く淵そのままであり、広大なこと天そのままである。
もし、真に聡明聖知で、天徳に通達している聖人でないならば、いったい誰が(聖人の徳を)知ることができようか。(注17)
中庸31 ~ 32(儒教)


―み言選集―

今日のユダヤ教徒たちの志とキリスト教徒たちの志は何でしょうか。ユダヤ教が願うのもメシヤであり、キリスト教が願うのもメシヤです。同じように救世主を願います。皆さんがここで考えてみなければならないことは、ユダヤ教徒が願うメシヤとキリスト教徒が願うメシヤは違うのか、二人なのかということです。そうではありません。一人です。なぜですか。神様のみ旨は一つであり、サタンを屈服させて神様のみ旨を成し遂げることは一人がしなければならないので、一人のメシヤであることは間違いないのです。
(73-206、1974.9.18)

今日、キリスト教では主が再臨するといいます。仏教では弥勒仏がこの地に来て、儒教では真人がこの地に現れるといいます。各宗教が主の再現を語っています。これは聖書のみ言をそのとおりに再現するという話ではありません。


その方は、聖書のみ言を再現する主人公、何かの道のみ言を再び行う主人公ではありません。高次的な内容の新しいみ言をもって再現する主人公を意味します。
(7-198、1959.9.6)

神様の立場から見れば世界は一つです。世界は一つだというのです。このようなことを見てみるとき、ここに一人を立てたなら、その一人を代表として立てたので、それは世界的です。ここに東洋人も立つことができ、ここに西洋人も立つことができ、アフリ力人も立つことができ、どのような人でも立つことができるのです。これが高まるほど、世界的な代表です。世界的な一つの宗教の代表として糾合していくのです。それで、一人の宗教責任者を立て……。

その宗教は世界的な宗教として発展してくるのです。今、世界的に4大宗教が出てきていますが、これをすべて糾合するために、ここからこの直線でこのように……すべて直線で上がってくるのです。ここからここまで通じることができる一つの道を築き、この地上に来てこの世界を救うための一つの中心的存在がなければならないという結論が出てきます。それが総合的な預言者です。

そのような存在がメシヤです。……それで「メシヤという存在は、必ず宗教と切り離すことができない思想をもってくる」という結論が出てきます。それは、なぜそうなのでしょうか。彼は、神様のみ旨、人間の志を完成しようとするのですが、アダムとエバがこれを失敗し、神様もアダムとエバを主管できなくなったために、アダムが完成できる内容と神様が完成した内容をもっているのです。ですから、神様のみ旨を中心として地の完成のために来るという結論が出てきます。
(91-276、1977.2.27)

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世界経典-41

2022年06月11日 19時40分58秒 | 学習

⑮イエスの復活

―宗教経典―

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)

キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、私達は神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達はすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったようにキリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.14 ~ 22(キリスト教)

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず,
罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私達の祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

私達は、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私達を驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私達の心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイ
エスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改め
が、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24.1 ~ 53(キリスト教)


―み言選集―

イエス様は、十字架上で民族のために祈祷されたのであり、自分は死んだとしても責任を完遂するという心をもっただけでなく、死を超越して神様のみ旨を心配されたので、神様はそのようなイエス様を復活させることができたのです。

ですから、復活されたイエス様に対して、サタンはあえて讒訴できませんでした。イエス様のように、皆さんもそのような内容の価値をもった人格体になれば、サタンが讒訴できません。
(2-141、1957.3.17)

サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が4000 年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。
それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を
行使し得る条件が成立したのである。

ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。そこで、サタンがその最大の実
権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ11・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.1.1

イエス様は、死んでからもばらばらになった弟子たちを心配したのであり、墓の中の三日間でも、この弟子たちを永遠に守ろうという心をもったので、復活されたのちにガリラヤの海辺で弟子たちを探し回られたのです。今日の私達が人間的に考えてみれば、責任感のなかった彼らに対してイエス様がどうしてそのようにできるのだろうかと考えやすいのです。

困難な場で排斥した弟子たちですが、イエス様は復活後にまずガリラヤに訪ねていかれ、自分の責任を遂行し始めました。このように、死の峠を越えるとき、変わらない弟子として立ててくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私達が
手本とすべき人格です。

それだけではありません。当時の弟子たちと、それ以降の大勢の聖徒たち、2000 年が経過した今日の私達まで責任をもたれたことを知らなければなりません。救援の歴史が全体の歴史でした。天のみ旨は全体を救援することなので、イエス様は全人類まで責任をもっているのです。
(1-38、1956.5.16)


主には、ユダヤの国を中心としてサタンの国を奪ってきてサタンを屈服させなければならない責任があるのですが、4000 年築いてきた基盤を完全に失ってしまい、国を失い、教会を失い、選んだ人をすべて失い、一人ではみ旨を成し遂げられないことは当然のことです。ですから、神様は第2方案を立てざるを得なかったのです。

その基盤を失わずに死ななければ、霊と肉を中心として、国と世界を神様のみ旨の中に、サタン世界とサタン主権を奪って天の国に帰っていくにもかかわらず、その基盤がなくなったので、仕方なく神様は第2次的な方案の霊的救援だけでも成立させることができる道を築かなければなりませんでした。

それで、イエス様を十字架で亡くなるようにすることによって霊的救援の道を開くことができるようになったのです。これを皆さんは知らなければなりません。
(74-153、1974.11.28)

12,ムハンマド

ムハンマドは、多神教が盛んなアラビアに暮らしていたが、唯一神の真理を発見し、神様の使徒として召命に応じた。ムハンマドは幼いころから聖書の内容を知っていたが、彼が暮らしていた地域のユダヤ人やキリスト教徒たちは、多神教を信じる支配部族に立ち向かう情熱や確信が不足していたため、彼には特に印象的ではなかった。

ムハンマドは、メッカの道に出て、誰もが聞こえるようイスラームのメッセージを宣布した。彼は迫害を受けて亡命生活をしたが、支持者たちを確保することができた。ムハンマドと彼の同僚たちは、支配的な宗教とぶつかり、新しい信仰を擁護してくれるメディナで歓迎された。

ムハンマドは、神様に献身的で、悪に対しては少しも妥協することを知らなかった。文鮮明先生は、彼を卓越した宗教創始者の一人として尊敬する。


①ムハンマドに下さった神様の啓示

―宗教経典―

予言者よ、まことにわれはなんじを、証人として、吉報の伝達者・警告者・かれのお許しのもとに神に招く者として、また光明をゆきわたらせるともし火として、つかわしたのである。
クルアーン33.45 ~ 46(イスラーム)

ムハンマドは……神のみ使いであり、また諸予言者の最後者である。(注47)
クルアーン33.40 (イスラーム)

神は、黙示によるか、帳(とばり)のかげから、または天使をつかわしたまい、命を奉じて、そのおぼしめしのことを啓示なさるほか、人間に語りかけたもうことはない。まことにかれは、至高者・英明者であられる。このように「われは、わが命によって精霊をなんじに下した。なんじは、経典が何であるか、また信仰がどんなものかを知らなかった、しかしわれは、このコラーンで、わ
がしもべのうちわれの望む者を導く一つの光りとした。なんじは直き道に人びとを導く。神の道、それに、天にあり地にあるよろずのものは属する。
クルアーン42.51 ~ 53(イスラーム)

読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもう方、何も知らなかった人間に、教えたまえる方であられる。
クルアーン96.1 ~ 5(イスラーム)

それで私はそれを読み、彼は私のそばを離れた。そして、私は眠りから目覚め、その言葉が私の心の中に鮮明に残っていることを知った。今私は、神の被造物の中で、恍惚な詩人や惑わされた者たちより憎悪する存在がないことを知った。私は彼らを見ることすらできなかった。

それが私自身なのか、詩人やあるいは惑わされた者なのか、クライシュ部族は決してこのような事実を私に話してくれないだろうと私は考えた。私は山頂に登っていき、自ら下に身を投げて命を絶つことによって安息を得ようと思った。それでそうすることにして山の中腹に来たとき、私は天からある声を聞いた。「おお、ムハンマド! あな
たは神の使徒であり、私はガブリエルである」。

私が顔を上げて声の主を見ると、あ! ガブリエルが地平線に腰をおろしている人の姿で現れた。彼が言うには、「ああ、ムハンマド! あなたは神の使徒であり、私はガブリエル」。私は前にも後ろにも動かずに立ったまま彼を見つめた。そして、彼から私の顔の向きを変えて天を見つめ、再び前のように彼を見つめた。

「私かハディージャに『ああ、悲しいかな! 詩人なのか、惑わされた者なのか』と言った。彼女は再び言った。『私はそのようなものから神に保護を求めます。おお! カースィム、神はこのようにあなたを放っておかれません。

その方はあなたの真実さと信頼、品性と親切さを知っていらっしゃるからです。おお、愛するあなたよ! このようになったのを見ると、あなたがおそらく何かを見たのですね』。私はそうだと答えた。そして私が見たことを説明してあげた。すると彼女は言った。『お喜びください。私の親戚の息子よ! そして立派な心をもってください。(注48)明白に神のみ手がハディージャの霊魂にあるので、私はあなたがこの民の使徒になることを希望します』」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

 

―み言選集―

聖人は、死の場でも自分の命を守って生きることができる力を開発しなければならず、そのような能動的な力をもたなければなりません。このような世界主義的な内容をもっていてこそ、聖人になることができるのです。このような事実をおいて考えてみるとき、ソクラテスよりはムハンマドが四大聖人の中の一人にならなければなりません。
(39-31、1971.1.9)

ムハンマドも同じです。イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構成し、求めてきたのです。
(39-316、1971.1.16)


②イスラームを立てるために迫害と苦難を克服したムハンマド

―宗教経典―

筆により、また書いたものによって誓う、なんじは、主の恵みによって気違いではない。いや、まことになんじには、尽きせぬ報奨があろう。まことになんじは、崇高尊貴な素質である。なんじらのいずれが気違いであるか、やがてなんじは見よう、かれらも見るであろう。まことになんじの主は、道から迷い去った者を、最もよく知りたまい、また導かれている者を、最もよく知りたもう方であられる。
クルアーン68.1 ~ 7(イスラーム)

信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。……神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。

クルアーン33.9 ~ 25(イスラーム)

使徒が神の戒めを受け、公にイスラームを伝え始めたとき、私が聞いたところでは、彼が彼らの神々をとがめる前までは、人々の態度は、退くことも彼に対抗することもなかった。

しかし、彼がそのようにすると、神がそのような悪から保護した者たち以外に、彼らはとても攻撃的に急変し、一致して彼を、彼らの敵として扱った。しかし、保護された者たちは数的に絶対劣勢だった。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

―み言選集―

今日、聖人という班列に立った人は、神様を中心とする生活を夢見た人たちであって、人間の理想を中心とする生活を夢見た人は一人もいません。ですから、聖人は宗教の宗主だったのです。イエス、孔子、釈迦牟尼、ムハンマドのような人はそうでしょう?

彼らは、人間の生活を夢見た人たちではありませ
んでした。人間の生活よりもっと次元の高い理想的な生活の本体であられる神様がいることを知ったので、天を中心として理想を描いてきた方たちではないですか。
(61-67、1972.8.27)


第10章終末論とメシヤに対する希望

1.苦難

すべての宗教では、神様の決定によって人間の歴史が完成し、現在を飛び越える一時を期待する。そして、罪悪が滅亡し、善が勝利するものと信じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの経典の教えの中で重要な特徴は、千年王国の建設である。

キリスト教の出発は、イスラエルでの千年王国運動であると言うことができる。そして、ヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教なども、やはり道徳と宗教の退潮は、人間が更生され、純化する新黄全期の前兆として、この時、世界が宇宙的循環期に差しかかることを教える。

千年王国に対する信仰は、迫害される人たちをして、悪の制度がついに終末を告げ、彼らを新しい信仰革新運動と、さらには革命的運動に導くという希望をもたせることによって、社会に影響を与えられる。
ローマの暴政に抵抗するユダヤのバル・コクバの乱から中国の太平天国の乱と、ヨーロッパの植民支配から独立を要求したアフリカ独立教会の主張に至るまで、一連の運動は、政治、経済的自主権を促進した。

文鮮明先生は、今私達は末世に生きており、天国が近づいていると宣布しながら、それと類似した切迫感と可能性に身をおいていると教える。

しかし、このような千年王国に対する信仰は、人類を独善的であり独断的に導き得る否定的な側面ももっている。文鮮明先生は、復帰過程の原則によって末世の審判と苦難は、神側の人たちにまず訪れ、その強度もやはり不信者よりも大きいと警告する。末世や世の終末に関する教えは、下記に見るように3段階の類型で示される。

第1に、各種犯罪および罪悪と混乱が幅を利かせる苦難の時代、第2に、神様が決定的に参与し、罪悪の勢力を滅亡させる最後の審判の時代、第3に、いわゆる千年王国と呼ばれる前例のない幸福と平和の時代がそれである。苦難の期間、戦争、飢饉、疾病、自然災害、そして広範囲な混乱が人間を苦しめるだろう。一般の大衆は、快楽主義と物質主義に陥りながら道徳、倫理的衰退が現れるだろう。宗教もやはり創始者の教えを忘却したまま、自身の利己的目的のもとに合理化することによって崩れ落ちるだろう。文鮮明先生は、人間がこのような苦難に直面するようになり、その根は人間の堕落にあると明らかにしている。先生は、末世は堕落の結実を収める時だと教える。

ある経典は、最後の苦難の時代に獣、反キリスト、あるいはダジャル(Dajjal)など、神様の実体を否定し、大勢の人を偽りの真理で惑わす存在が現れるという。反キリストが誰なのかを糾明する努力があったが、時として教会の反対者に目星をつけながら、大部分は結実を見ることができなかった。

文鮮明先生は、歴史の暗闇の勢力、背後で作用するサタンの活動を見つけ出し、物質主義や無神論的共産主義の出現だけでなく、神様の人を攻撃する悪魔の術策を暴露する。
それにもかかわらず、先生は、イエスに反対する最初の人たちはイエスの弟子たちであり、したがって人を非難するよりも、私達が反キリストではないかと自分を探ってみなければならないと指摘する。


①末世に現れる信仰と道徳の堕落

―宗教経典―

後の悪世の生ける者たちは善根が少なく、高慢心が多く、衣服・臥具などの供養を貪り、不善根を増し、解脱から遠く離れているので、教化することが難しい……。(注1)
法華経13(仏教)

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。

また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
テモテヘの手紙二3.1 ~ 5(キリスト教)
(信仰心が深い)知識が消え、地震がとても多くなり、時間がとても早く過ぎていき、苦痛が現れ、殺人者が増加し、お金があなたの中にあふれる時まで、その時は確立しないだろう。
ブハーリー・ハディース2.17.146(イスラーム)

その時間が近づいてきたので、その中にはイスラームという名前だけが残り、コーランの単純な姿だけがある。その時、ムスリムたちのモスクは、知識と礼拝がない所となり、知識人たちは天の下で最も卑賤な人になり、論争と闘争がやまないだろう。そしてそれは、彼ら自身に帰っていくだろう。
ハディース(イスラーム)

ズォチュフのラビ・ミクハルが言った。「ある日、私達が師であられる7日の光、イスラエルのラビ、バアル・シェム・トーヴと旅をしていた。師は、午後に祈りのために森に行かれた。ところが、突然、木に頭をぶつけて大きく泣いていらっしゃるではないか。あとで理由を尋ねた、師が言われるには、「私が聖霊を迎えたとき、私は主が来られる前に近づいてくる未来を見た。ハシディックのラビたちは、数的には相当に増加するが、彼らによって贖罪が延長されるだろう。彼らが人々に根拠のない憎悪と心情の分裂をもたらすからである」
ハシディックの説話(ユダヤ教)

人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8(キリスト教)

メシヤの伝令が来る時に起きることは、次のようなことだ。憶測が横行し、欠乏現象は極限に達し、ぶどうの房は熟していないのにぶどう酒は高く取引され、国家は異邦人の国に転落したのにとがめる者がいないだろう。学園は偶像崇拝の場となり……。

律法学者たちの知恵は活気を失い、罪を避ける者はかえって軽蔑され、ゆえに真理はそのどこにも発見されないだろう。子供たちが大人の恥となり、大人たちは子供たちの前に立って怒りを表すだろう。その世代の顔は、犬のようにあつかましく、子供たちは父母たちの叱責を眼中にも置かないだろう。私達は誰に頼るのか。天にいらっしゃる父以外にまた誰がいるのか。
ミシュナ、ソーター9.15(ユダヤ教)

ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。

彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。

その後彼らは地上に再び正義を立でるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な
時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ4.24(ヒンドゥー教)

ちょうどその時、人々は十の善い行いの名称を全く聞くことはなく、ただ十の悪い行いが世間にみちみちるであろう。……このとき人々が極めて悪い行いをなすことができ、父母に孝行せず、先生や先輩を敬わず、忠義をつくさず、反逆的で、正しい道にもとっていれば、尊敬をあつめることであろう。……

そのときの人々は十の悪い行いをなすものが多く悪道に墜落するものが多いであろう。猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したいと思うであろう。
阿含経長部iii.71 ~ 72(仏教)

―み言選集―

今、青少年の問題が深刻になっています。青少年の倫落間題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年時代、ティーンエイジャーの時に陰でフリーセックスをして根を植えたので、終わりの日には必ず世界的にティーンエイジャーのフリーセックスが現れなければならないというのが理論的だというのです。

サタンは、神様が真の愛を中心として、堕落前の絶対愛の基準を中心として天国に連れていこうとしていることを知っているのです。再臨主が来て、そのようにすることを知っているので、サタンが戦略で完全にこの基準をすべて壊してしまいました。

愛という基盤がないので、フリーセックス、ホモ、レズビアンになるのです。ホモ、レズビアン、これは天使長の種です。天使長は愛の相対がいません。(注2)終わりの日には、裸になって一度に死のうというのです。これが天使長の子孫の末路です。これが地上地獄、サタン世界が地獄化する世界なので、この180 度反対を求めていけば、天国と通じる道があるのです。今後、再臨主が来てこの世の中を救ってあげるために、180 度の道を教えてあげたのち、天に連れていくようになることを知らなければなりません。
(279-121 ~ 122、1996.8.1)

堕落とは……アダムとエバが神様を不信し、背信したことが宇宙的な恨の種として蒔かれるようになりました。それでは、終わりの日に、どのようなことが起きるのでしょうか!

終わりの日には、父子の関係で仲たがいすることが起きます。人間始祖に神様に背いた不信の因縁があるので、その血統を受けて生まれた人間たちにも、終わりの日には、子女が父母に対抗するようなことが起きるようになるのです。

皆さんは、このような時代が来るとき、背信しようにも背信できない真の父母をこの地で探し出さなければなりません。皆さんがとどまっている現在の環境は、信仰の因縁で結ばれたものではない
ので、不信の現象が起きるのです。父子の関係がこのようになり、夫婦の関係がこのようになり、また、一家、親戚の関係が不信の風潮になり、人間たちが指向している意志までも根本的に破綻させてしまう拒否現象があちこちで現れれば、皆さんは、その時が終わりの日であることを悟らなければなりません。
(2-330、1957.7.28)

エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。すべて怨讐だというのです。

ですから、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になるのです。国同士が怨讐になり、すべての因縁がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来るなら、その時が終末であることを知らなければなりません。

その時が正に今です。子供が親を殺害する事件が起こり、親が子供を殺害する事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。

それはなぜでしょうか。エバどアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様もすべて怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、すべて戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。

それで、どこに行くのでしょうか。行く所が分からないのです。世界もそのようなことが起きます。今、民主世界と共産世界の二つの群れに分かれていますが、これからは3カ国だけでなく4カ国に広がります。筋道がつかめないのです。きのうは悪いと言っていたことが、きょうは世界に登場したりします。

きのうまで勢力のあったものが、きょうになると追放されます。世界的に筋道がつかめません。国家的に見るときも、これからの大韓民国がどのように行くのか分かりますか。アメリカがどのように行くのか分かりますか。国家的に筋道がつかめないのです。また、ある団体なら団体がどのようにしなければならないか分かりますか。家庭なら家庭がどのようになるか分かりますか。すべて不信する作用が起きるのです。そのような時になれば、終わりの日が来ることを知らなければなりません。
(50-213、1971.11.7)

宗教圏がすべて滅びました。キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラーム……。イスラームはあとから出できたのですが、宗教の形態はもっていても、今ではもうすべて滅んだというのです。滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな地獄のようになってしまいました。

神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星に見いだすことができないという結果になったのです。アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていける息子が、心と体を一つにして、娘と一つになって神様が願われる堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭はないとうのです。その夫婦によって息子、娘が生まれなければならないのです。父母と息子、娘が闘わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれているのです。
(342-268、2001.1.13)

縦的なものが中心です。縦的な基準が立つことによって、プラスとマイナスの概念が出てきて、男性と女性の概念が出てきます。縦的な概念がないので、男性の概念、女性の概念が雑然としているのです。ですから、混乱現象が起きます。これでもなくあれでもなく、男性でもなく女性でもなく、混乱が起きるのです。終わりの日にこれがすべてフリーセックスのように……。それは悪魔サタン、悪霊たちの破壊主義です。そうして混乱現象が起きるのです。
(189-127、1989.4.1)

人間が長成期完成級で堕落したので、完成段階が残っています。(注3)完成段階の期間が7年です。……私達は、7日を中心としてこれを7年で蕩減するのです。……この7年路程で責任を果たせない家庭は、滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。家庭が責任を果たせなければ、7年路程は延長するのです。……これが7年の大艱難であり、歴史上で初めての艱難です。これが統一教会で言う7年路程なのです。
(23-217、1969.5.25)

自由世界で最近、結婚を正式にしないで不法結婚をして暮らしています。すべて結婚をしない形式を選びます。……すべて滅びると思うのですが、神様は助けてあげるための作戦を今、行っています。このように見てこそ、世の中のすべてのものが解けます。神様の立場から、すべて解かれていくのです。

霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようにはなっていません。ですから、真の愛の起源を見いださなければ、これが一つにならないのです。それが最も理論的です。その場を皆さんが越えていき、天が祝福してくれる祝福を願っていかなければなりません。
(91-184、1977.2.6)


②戦争、自然災者、蔓延する惨状

―宗教経典―

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイによる福音書24.6 ~ 13(キリスト教)

その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
ダニエル書9.26 ~ 27(キリスト教)

社会は大破壊と荒廃をもたらす破壊的な戦争により蹂躙されるだろう。最初は征服者たちが彼らの勝利と獲得した戦利品に喜びを満喫するが、そのすべてのものはとても悲しい結果をもたらすだけである。私は未来の戦争に関して警告するが、あなた達はそれらがもたらす極悪無道な罪悪に対して考えることができない。
ナフジュ・アル・バラーカ説教141(シーア派イスラーム)

それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。

私はお前を、私の地に連れて来る。それは、ゴグよ、私が国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるためである。
エゼキエル書38.14 ~ 16(キリスト教)


―み言選集―

神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。
御旨の道、試験・試練

神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的に憎悪と闘争で、歴史を通じて天を滅ぼそうとしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。

末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第2次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。(270-232、1995.6.7)
神様の摂理において、個人的にサタン世界に勝たなければならず、家庭、氏族、民族、国家、世界的にサタン世界にすべて勝たなければなりません。いつでもサタン世界が先にあるのです。家庭があれば、サタンは国までもっています。ですから、アダム時代、イエス時代、イスラエル民族の歴史時代に過ちがなくなるのではなく、過ちが積み重なったのです。……

それでは、イエス時代、2000 年の歴史においてキリスト教が天の前に責任を果たせなかったすべてのことが、ただそのまま蕩減され得るだろうかというのです。これが残っているのです。

ですから、第1次、第2次の世界大戦など、戦争の歴史というのは、蕩減法によって蕩減するための神様の摂理の中で起きたのです。それで、第2次大戦が終わるとき、キリスト教文化圏を中心として、サタン世界とキリスト教文化圏が一つの統一世界を迎えたのです。

ですから、キリスト教によって統一された一つの国です。キリスト教文化圏を中心として、日独伊と英米仏は相対的です。英米仏と日独伊となってサタン世界の心と体が分かれて闘うのを一つにしなければなりません。一つにするのです。一つにしたところに再臨主が来て、真の父母様を中心として心と体の統一、家庭統一を成し遂げなければなりません。
(292-180、1998.4.12)

人類は第2次世界大戦の痛手を踏み越えて、すべての国が平和になり得る道を見つけようとしました。神様は私に、2000 年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は「真の父母」、「真の家庭」を見つける公式路程でした。

しかし、当時の韓国のキリスト教指導者たちは、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は、迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。既成教会の歴史的な過ちが条件となり、韓国で悪が勢力を得る霊的基盤が造成されたのです。韓半島が分断され、半世紀にわたる受難の歴史とならしめた摂理の内的な原因となりました。
(288-166、1997.11.27)

 

③悪魔と悪霊の襲撃

―宗教経典―

第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。

そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。

いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を
望んでも、死の方が逃げて行く。さて、いなごの姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシァ語の名はアポリオンという。(注4)
ヨハネの黙示録9.1 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

地上世界が一つの理念圏内に入っていけば、どのようになるでしょうか。地上より少し善のものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日、名前もない神経症など、神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは「天地双和湯(双和湯:疲労回復のための煎じ薬)」を飲まなければなりません。
(3-353、1958.2.9)

数千億、数万億の霊人たちが地上を占領するための攻略をしてきます。ノイローゼ現象がその一つです。もう少したって、80 年代、さらには2000 年代を超えれば、その時は悪霊に通じるか、善霊に通じるか、すべて霊的に通じるかもしれません。「戦争をするな」と言っても、闘わざるを得なくなるのです。(注5)そのような時が来るかもしれません。

高いアンテナには、ピーピーという音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上攻略をしてくることです。その場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球上にいっぱいになったとしても、悪霊が攻略してしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心
として霊界の基台を広げてきているのです。
(55-30、1972.4.23)

 

④野獣、反キリスト

―宗教経典―

だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。

まだ私があなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。

不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。

彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
テサロニケの信徒への手紙二2.3 ~ 12(キリスト教)

かれらに対しおことばが実現されるとき、われは大地からかれらに一獣を現わし、「まことに人間たちは、わがしるしに確信をいだかないでいた」と、申し渡すであろう。
クルアーン27.82(イスラーム)

ダジャルが彼と共に水と火をもって現れるだろう。人々が水と見たものは燃える火であり、彼らが火と見たものは冷たく甘い水である。あなた達は誰でもその時まで生きれば、彼らが火と見たものにはまっていくが、それは甘く新鮮な水だ。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒pするさまざまの名が記されていた。私が見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。

そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができよう
か。だれが、この獣と戦うことができようか。」この獣にはまた、大言と冒pの言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒pし、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒pした。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは
皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

私はまた、もう一匹の獣が地中から上って来
るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、ま
た、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(注6)
ヨハネの黙示録13.1 ~ 18(キリスト教)

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らは私達から去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私達のもとにとどまっていたでしょう。

しかし去って行き、だれも私達の仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

私があなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアで
あることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネの手紙一2.18 ~ 22(キリスト教)

 

―み言選集―

蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第1に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。

したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.1


神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。

このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自業自得となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。

したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠が
あるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.4.1

皆さんがもし理想の園、終わりの日の世界的な新しい栄光の日を迎えることを願うのなら、皆さんは、悲しまれたイエス様の心情、悲しいイエス様の生涯を思い、切ない心で天に向かって身もだえしながら歩んでいけなければなりません。

ところが、このようなことを行わず、考えてもいない立場で主の栄光を願う人がいますか。もしいるなら、そのような人がすなわち、反キリストであり、偽りの預言者です。

使徒たちがイエスの前に反キリストの立場に立つと、誰が思ったでしょうか。また、選ばれたイスラエル民族とユダヤの教団が反キリストになるとは、誰が思ったでしょうか。終わりの日にもこれを心配しなければなりません。今は人を非難し、人のことに干渉する時ではありません。自分自身が問題なのです。教団が問題ではありません。終わりの日に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。(注7)今まで人を問題にしてきた人は、すべて自分を失ってしまう歴史路程を経てきたのです。
(2-277、1957.6.16)

お父様!今や、死亡の都が審判のひと日を目前にしています。お父様、このような時に際して恐怖の世界であえいでいるこの人類、行くべき道を知らずに彷徨しているこの人類、中心を失ってしまい、処すべき立場を知らず、とどまる所を探し出すことができずにいる人類を哀れにお思いくださって、あなたの懐に帰れるようお導きください。
(5-60、1958.12.21)


2.最後の審判

人々は、末世に現れる事件を希望と恐怖が入り混じったまま注視してきた。迫害を受けた人にとって末世は、罪悪の権勢が崩れ、罪人たちが処罰を受ける希望の日である。自分の罪を苦痛に感じ、救援を否定して疑っていた人たちにとって末世は恐怖の日である。

個人に対する最後の審判は、死ぬ時に現れるが、これに関しては第5章で既に論議した。しかし、終わりの日のこの世の中全体に対する全般的な審判がある。神様の王国に関する約束が成し遂げられようとすれば、地球上から罪悪を永遠に除去しなければならない。

大勢の信仰者たちが最後の審判を文字どおり世の中の終末という超自然的事件として解釈しているが、文鮮明先生は、最後の審判は過去の罪悪の伝統が消え、すべての人たちが地上天国を建設するために尽力する時代に転換する時に起きる過程的現象であると教える。イエス様が麦と毒麦に例えたように、堕落した世の中で善は人知れず成長するが、時に至れば善と悪を区分する瞬間が到来するだろう。その時、人々は、自分たちの罪を悟り、神様のみ言の審判を受け入れ、あらゆる罪悪と堕落性を根本的に取り除き、日常生活で真理のみ言を具現することによって、段階的に神様の民に変貌していくのである。

 

①すべての罪悪が現れ、審判が履行される

―宗教経典―

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。

そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、“まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい”と、刈り取る者に言いつけよう。』」
マタイによる福音書13.24 ~ 30(キリスト教)

私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハネによる福音書12.47 ~ 48(キリスト教)

不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。

かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住
め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。
また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる。そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。

かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.71 ~ 74(イスラーム)

主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。私が備えているその日に、彼らは私にとって宝となると、万軍の主は言われる。

人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。そのとき、あなた達はもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。私が備えているその日に、あなた達は神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなた達に遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。
マラキ書3.16 ~ 24(キリスト教)


それでラッパが、ひとふき吹かれたとき、大地や山々はもたげられ、一撃で粉々に砕かれ、その日一大事件が起こる。また大空は粉々に裂ける、天がもろく弱い日であろう。

天使たちは、その辺境におり、その日、八人の天使がかれらの上に、なんじの主の玉座をになうであろう。その日なんじらは審判のため集められ、なんじらのどんな秘密も隠しおおせないであろう。
それで右手にその行状記を渡される者は、「ここに来てあなたがたは私の行状記を読め。私の清算に会うことが、ほんとうにわかった」と言おう。

こうしてかれは至幸な生活にひたり、高い園の中で、もろもろの果物は、手近にある。「あなたがたは過ぎ去った日に送った善行のゆえに、満悦して食べかつ飲め」(と言われよう)。だが左手にその行状記を渡される者は、「ああ、わしの行状記が渡されなかったならば、わしは自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった。ああ、死がわしの終末であったならば。
富は、わしに役立たなかった。権威は、わしから消えうせてしまった」と言おう。「かれを捕え、鎖を巻け、それから燃えさかる火で、焼け。
クルアーン69.13 ~ 31(イスラーム)

だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリンの信徒への手紙一3.11 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

エデンの園のアダムが堕落することによって、神様を中心とする善が終わり、サタンを中心とする悪が出発しました。この悪が終わりを告げなければならない時が末世です。善が終わることによって偽りのみ言が出てくるようになったのであり、偽りのみ言によって真の人格の実体を失ったのであり、偽りの愛をもつようになりました。ですから、第1には真理の審判、第2には人格の審判、
第3には心情の審判をしなければなりません。これが終わりの日の三審判です。

終わりの日には、悪が世界的に審判を受けます。自分だけのために生きるのは、個人主義であり、自己中心です。したがって、それは悪です。主は、審判されない方法を教えます。それは、自分よりもっと大きなもののために生きなさいということです。

自分ばかりを中心とすれば破滅するだけです。公的なもののために生きなければなりません。子女に対する愛も、天国の民をつくるための愛でなければならないのです。個人の立場から見るとき、自分のために引き込むのは悪であり、人のために与えるのは善です。1日24 時間、善と悪のうちどちらにより傾いているかによって審判が決定します。皆さんは、今もこの審判場を越えていっているのです。
(17-329、1967.4.16)

皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前には愛のイエス様ですが、不義と悪に従事する人の前には赦しのない審判主です。かわいそうな漁夫や官吏、そして娼婦のような人たち、つまりその時代に排斥され、追われた群れが、ひれ伏して骨髄にしみる哀訴を打ち明ける場では愛のイエス様ですが、正義の道を行くために精誠を捧げる群れに剣を掲げていくローマ帝国とユダヤの役人のような群れの前には審判主だったのです。

愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主だというのです。もしイエス様が愛のイエス様だけであれば、今日のキリスト教で主張する終末時代の審判役事はあってはいけないというのです。
(14-309、1965.1.10)

ペテロⅡ3章12 節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書4章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書12 章49 節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。

しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであ
るから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。……

それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書1章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。

したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。

ヨハネ福音書1章14 節には、「言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。

このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書12 章49 節に、「私は、火を地上に投じるためにきたのだ。火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ1:14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.2

大審判とは何かというと、この目から体全体がサタンの血を受けたので、それをきれいに浄化させることです。大審判というのは、サタンを葬り去ってしまうことではないということです。サタン世界の歴史を汚したすべての淫乱な、非法的な、非良心的な基準に立ったすべてのものを、良心基準、心と体が一つになり、五官が正しく立ち得る自分自体を中心として全体を解消させることを意味します。
(378-149 ~ 150、2002.5.9)

これから私達若い男女が知らなければならないことは、真理に立脚した新しい世界が必ず訪れてくるということです。ですから、その世界に符合できる内的人格が真理の基台の上に蘇生されなければ、時代の思潮に追い出されていくのです。真理の審判があり、その真理を中心とする人格の審判があり、そして真理と人格が一つになって神様の心情を通過しなければならないのですが、それが心情の審判です。
(14-179 ~ 180、1964.10.3)

 

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世界経典-40

2022年06月11日 19時39分09秒 | 学習

⑩奇跡に対しても不信される

―宗教経典―

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里
や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私達が二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。(注41)
マルコによる福音書6.30 ~ 44(キリスト教)


使徒たちが、「マリヤの子イエスよ、あなたの主は、私達のために、食べ物を並べた食卓を、天から下し得られるであろうか」と、言ったときを思え、イエスは言った「あなたがたが信者なら、神を畏れ奉れ」。

かれらは「私達は、その食卓で食べて、心を安らげたい、またあなたの私達に語られたことが、真実であることを知り、私達が、その証人になることをこいねがう」と、言った。
マリヤの子イエスは祈って言った、「神、私達の主よ、私達のために、食物を並べた食卓を天からお下しになり、それで私達への、最初のまた最後の機縁となされ、あなたからのしるしとなしたまえ。私達に給与を賜え、まことにあなたは最もすぐれた給与者であられます」。(注42)
クルアーン5.112 ~ 114(イスラーム)

そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」……

イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。……
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。……

ところで、。弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(注43)
ヨハネによる福音書6.25 ~ 66(キリスト教)


―み言選集―

神様の前にイエス様はいかなる弁明も、捏造もせず、自分自体を忘れ、父を身代わりするみ旨であればいかなる行動もできる方でした。皆さんは、このようなイエス様の足跡を受け継ぐ息子、娘にならなければなりません。

イエス様は30 年以上の生涯を経ながら、福音のみ言を私達に下さいました。弟子たちを連れて歩きながら、飢えた人たちに出会ったとき、即座に五つのパンと二つの魚で5000 の群れに食べさせる奇跡も施しました。与えるものは、すべて与えました。信仰も紹介し、生命も紹介し、愛も紹介し、人間が要求できるものをすべて紹介してくださったのです。
(4-83、1958.3.9)

復帰の路程を歩んでいかれるイエス様が奇跡を行われたのは、喜んでされたのではありません。喜んで楽に奇跡を行われたと思っていれば、大きな誤解です。イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情におかれ、手を挙げてお父様と叫ぶとき、ここで奇跡が起きたのです。とても悲しい、骨身が溶ける悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたのが奇跡でした。奇跡をイエス様が怠慢して、あるいは喜んでしたものと考えないでください。

ベツサイダの荒れ地で5000 の群れが「イエスよ! あなたは私達の救世主であり、選ばれたイスラエル指導者でいらっしゃいます」と手に手を振りながら叫びました。このように利益になる立場の時は訪ねてきましたが、時が過ぎてイエスが自分たちと心的基準が異なるようになり、事情が異なるようになり、標準が異なる境地に一歩進んでいくので、彼らはイエス様を背信し、背を向けました。これがイエス様の歩んできた実践路程にあった現象です。
(5-227 ~ 228、1959.2.1)

イエス様に従っていた大勢の群れが、五つのパンと二つの魚の奇跡を見せてくれるときには、自分のメシヤであり、民族を救ってくれる救世主として信じましたが、いざイエス様が亡くなるときは、すべて捨てて帰ってしまいました。もしイエス様に従っていた群れが天に対するイエス様の内的な心情、すなわち神様に対する心痛む心情をもった方であり、全体の摂理歴史に責任をもってこられた方だということが分かったならば、イエス様の事情を悟ったはずであり、イエス様のあとについていったでしょう。また、先に従っていた群れについていって民族全体がイエス様のあとについていったでしょう。
(3-291、1958.1.19)

 

⑪人類のために流したイエスの涙と不信に対する哀痛、信仰の弱い一番弟子

―宗教経典―

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
ヨハネによる福音書11.32 ~ 36(キリスト教)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

ものの見えない案内人、あなた達はぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達
偽善者は不幸だ。自く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなた達も、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書23.23 ~ 28(キリスト教)

一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていこなさい」、と言われた。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ
去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
マルコによる福音書14.32 ~ 41(キリスト教)

ペテロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペテロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない」と言った。

そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペテロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペ
テロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペテロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」
と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前にあなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72(キリスト教)

 

―み言選集―

自分のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。自分をなくして全体のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。今日の堕落した人間に対し、泣きながら訪ねてくる神様が、真の神様です。皆さん、人はうれしくても涙が出て、悲しくても涙が出るでしょう?

それでは、大声で泣いていた神様が愛する人を探し出したというとき、「ははは」としますか、どうしますか。考えてみなさいというのです。愛する人は、そのように探しながらも泣き、探し出してからも二人で抱き合って大声で泣くのです。

それでは、神様は、どのような所で愛する人に出会いたいと思うでしょうか。涙を流し、鼻水を流し、よだれを流す所で、涙だけを流すのではいけません。よだれが出て、鼻水が出て、涙が出てこなければなりません。一度そのように泣いてみましたか。本当に悲しくて泣けば、涙が出てきて、鼻水が出てきて、よだれが出てくるのです。そのように泣いてみなければ悲しみが分かりません。
その次には、汗まで出てきます。そのように一度泣いでみなければ、真の愛を見いだすことはできません。
(102-163 ~ 164、1978.12.17)

神様の摂理は、このサタン世界で戦争する摂理です。闘う摂理です。イエス様も、裕福に暮らすユダヤ教徒たちの所に来て戦争をしたというのです。「まむしの子」や「偽善者」と言いました。すべて戦争です。「ああ、ユダヤ人は素晴らしい、パリサイ人は素晴らしい、律法学者は素晴らしい」と称賛してあげ、「祭司長たちは立派だ」と言っていれば(イエス様を)殺したでしょうか。同じです。ムハンマドや孔子のような人たちがすべてそのようにしていたら変わっていたでしょう。
(95-276 ~ 277、1977.12.11)

イエス様と最も近い人たちがイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対することが悲しみではなく、ユダヤ教の信徒たちが反対するのが悲しみではなかったのです。3年間も従ってきた弟子、その愛する弟子たちが、信じるべきときに信じることができず、証すべきときに証すことができず、闘うべきときに闘うことができず、死ぬべきときに死ぬことができなかった、その一つの事実がイエス様にとって最も大きな悲しみになりました。
(3-142、1957.10.18)

イエス様を最後まで捨てずに従った者が誰でしたか。イエス様の12 使徒ではありません。その12 使徒の中で三弟子も、イエス様を最後まで信じて従うことができなかったのです。神様の愛を人間に紹介し、その愛を実践しようとされたイエス様でしたが、人間たちと愛の因縁を結ぶことができずに逝かれました。天倫の愛のみ言を伝え、愛に燃える心をもたれたイエス様でしたが、抱き合って、「我が息子よ! 我が父よ!」と父子の情を分かち合うことのできる一人を探し出すことができずにいかれたことを、皆さんは知らなければなりません。

弟子たちは居眠りしていましたが、ゲッセマネの園で夜通し悲しみの涙を流しながら祈祷されたイエス様のその心情と事情を、皆さんは知らなければなりません。イエス様の愛のみ言がいいと言う人は多くいましたが、2000 年前にイエス様は愛そうにも愛するところがありませんでした。
(3-58、1957.9.22)

イエス様は、悲しい30 年あまりの生涯を送りました。自身のすべてのものを捧げた3年の公生涯がありましたが、誰が彼の心情を知り、誰が彼の事情を知っていたでしょうか。一人もいませんでした。さらには、喜怒哀楽を共にし、悲しいときに一緒に悲しみ、寂しいときに一緒に寂しく思い、師と言って侍る弟子たちも分かりませんでした。師が死の道を行くことを心配し、懇切な心情で天に訴えるべき弟子たちが、かえってイエス様とは誰かと反問する立場にいたとは……。
(7-45、1959.7.12)

この地上の誰がイエス様の心を知ったでしょうか。
物思いに沈んだその姿を見て、心深くしみ渡ってくる天の悲しみを、体恤した人が一人もいませんでしたので、天はこのような人間たちを置いて嘆息するしかなかったことを知るものです。

天の心情を知って「主よ!」と呼ぶ弟子の一人ももてなかったイエス様が、疑心で点綴(一つ一つをつづり合わせる意)された生涯路程を行かなければならず、また疑われ、その物悲しい生涯の終末を迎えなければならなかった悲しみを、この時間私達が心で同情できるようにしてください。

イエス様が懇切なる天の心情を抱き、天のすべての遺業を抱き、人間を尋ねてこられましたが、人間たちはそのようなイエス様に自分勝手に対応し、
排斥し放題に排斥したものです。寂しい立場に
追い込み放題に追い込んだものです。

しかし、悲しみに沈み、嘆息の立場を余すところなく経てこられながらも、イエス様はそのような人間たちをお捨てになることができず、生命の圏に向かう一つの道を開拓なさるために、彼らを引っ張りゲッセマネの園に向かわなければならないということと、ゴルゴタの十字架の道を行かなければならないということを思われるイエス様の悲惨なる心の前に、頼もしい弟子一人いなかった
やるせない心情を、私達が分かるようにしてください。

イエス様が神様と一緒に生きられたことを知ることのできなかった弟子たち、このような弟子たちを残しておいて一生涯を終結すべき立場にあった
イエス様の心情、生涯のすべてを人間のために生きたにもかかわらず、その生涯の結実をみることができず、懇切な心情に沈んで天を案じられたイエス様の心に、私達が同情できるよう許諾してくださいますことをお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-137 ~ 138、1959.1.1)

 

⑫キリストの情熱と十字架の苦悩

―宗教経典―

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
マタイによる福音書16.21 ~ 23(キリスト教)

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」

すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。

イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言わ
れた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいたのにあなた達は私に手を下さなかった。だが、今はあなた達の時で、闇が力を振るっている。」人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。……

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「私が言っても、あなた達は決して信じないだろう。私が尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「私がそうだとは、あなた達が言っている。」人々は、「これでも
まだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

そこで、ビラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「私はこの男に何の罪も見いだせない。……この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」と言った。

しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。


人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。……

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユ
ダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる
ときには、私を思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
ルカによる福音書22.39 ~ 23.46 (キリスト教)

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てにならたのですか」という意味である。
マタイによる福音書27.46(キリスト教)


―み言選集―

イエスが死ぬために来たと言いますが、それは、本来神様の予定の中で起きたことなのか、急変事態なのかということを私達は知らなければなりません。

急変事態なのです。そうだとすれば、新約聖書のイエス様のみ言を通して調べてみましょう。ルカによる福音書第9章30 節を見ると、「モーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。

その時に決定したのです。マタイによる福音書第16 章22 節を見ると、イエスがエルサレムに行って亡くなることを語ると、ペテロがイエスに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言うとき、イエスが振り返ってペテロに「サタンよ、引きさがれ」と言いました。それで、今日のキリスト教徒たちは、イエスが死ぬために来たと強く主張しています。その言葉は、死ぬために来たメシヤの言葉なのに、死ぬなと言うので、ペテロにそのように指摘したのではないかと、死ぬために来たことを主張します。

皆さん、それは既に変貌山上でモーセとエリヤと会い、十字架で亡くなることを決定したのちのみ言であることを皆さんははっきりと知らなければなりません。また、イエス様が死ぬために来たのなら、イスカリオテのユダをかばっていなければならないのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」という言葉は矛盾ではないですか。

また、皆さん、十字架で亡くなるとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われました。それは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのですが、これはどういうことですか。死ぬために来たのなち、そのような祈祷はできないということです。もし死ぬために来たのなら、なぜ神様が4000 年間もイス
ラエル民族をそれほど苦労させた土台の上で送ったのでしょうか。強盗のような人たちに送れば、すぐに捕まって殺されるではないですか。

イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2 次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。

国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。
(73-218 ~ 220、1974.9.18)

イエス様の道は、終始一貫して引っ張られ、追われ、倒れる、十字架を背負う凄惨な歩みでした。それだけでしたか。無謀な悪党たちがむち打って追い立てる境遇に追い込まれることもありました。このようなところで、もしイエスがエリヤのような人だったなら、彼も「父よ、私だけが残りました」という祈祷をしたでしょう。しかし、イエス様はゲッセマネの園で三弟子を後ろにして祈祷するとき、「我が父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい!」と言いました。これが偉大なのです。自分の事情も苦しいのですが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物だということを知っていたのです。

このようなことを知っていらっしゃったイエス様は、自分の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいものかを心配する心がもっと大きかったのです。民族のために現れたのですが、民族から背信される自分を見つめられる天の悲しみがどれほど大きいかということをもっと心配されました。

イエス様は、天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、メシヤでした。そのようなイエスが、「凄惨な十字架の運命とはどういうことですか」と嘆息しようとすれば、この宇宙を動員して嘆息することもできますが、嘆息できない自分自身であることが感じられたので、追い込まれる立場に立つようになったことをかえって天の前に面目がないと考えたのです。

教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせてさしあげなければならない責任を背負ったイエス様は、その使命をあとにして十字架の道を行くようになるとき、何の恨みも感じませんでした。「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈祷されたのも、自分の一身が死ぬことが悲しいためではなかったのです。自分の一身が死ぬことによって民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを御存じだったために、そのように祈祷されたのです。

イエス様は、自分が十字架で倒れれば、後代の世界人類の前に加重される十字架が残り、それのゆえに悲しみの歴史が終わらないことを御存じでした。ゴルゴタの道が終わらないことを御存じでした。死の道が終わらないことを御存じでした。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを御存じだったのです。十字架だけでなく、
もっと難しい道が残されることを御存じのイエス様でした。

両手両足に杭が打ち付けられ、わき腹を槍で突かれて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないことを御存じだったイエス様は、天に向かって「すべてが終わった」と言いました。その言葉は、人間の世界で十字架の道がすべて終わったということではありませんでした。

十字架のために泣き憂慮する心の訴えが天と通じたということを意味するのです。このようにイエス様は、大勢の預言者、烈士たちが天に犯したすべての過ちを背負い、天を慰労してさしあげるために、自分自身を生きた祭物として天の前に捧げたという事実を私達は知らなければなりません。

しかし、イエス様自身は死ぬ間際に、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とおっしゃいました。神様は、すぐにでもノアの時以上の審判をしたいという思いがありましたが、イエス様が民族を抱いて死に、教団を抱いて死に、十字架を抱いて死んだがゆえに、人間をお捨てになることができず、抱いてこられたのです。このような心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、神様は背信する後代の教団と人間たちを捨てることができず、抱いていらっしゃるのです。
(378-314、2002.5.21)

イエス様が十字架を背負ってゴルゴタに向かいながら激しく疲れたとき、その十字架を代わりに背負っていったクレネのシモンのような人が、イエス様の弟子の中には一人もいませんでした。選ばれたイスラエル民族の中にも、このような人がいませんでした。このように、異邦人のクレネのシモンだけがイエス様の苦難に同参したので、キリスト教は、イスラエルの宗教になることができず、異邦の宗教になったのです。イエス様を信じ、神様を求めていこうという皆さんは、夢であってもクレネのシモンのような行動をしようという覚悟ができていなければなりません。クレネのシモンは、弁明することもでき、反駁することもできましたが、黙って従い、イエス様の代わりに十字架を背負っていきました。きょう皆さんもこのような人にならなければなりません。

これを見つめるイエス様の心情はどうだったでしょうか。3年間喜怒哀楽を共にした使徒たちは影も形もなく、思ってもみなかった異邦のクレネのシモンが自分の代わりに凄惨な立場に立つようになるとき、これを見つめるイエスの心は苦しみが大きかったのであり、悲しみに悲しみが加わっていたでしょう。

もし12 使徒の中に、誰かイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様は彼を見つめて死の苦難も忘れ、かえって彼を同情しながら自分の痛みに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうすることができず、イエス様は悲しみに悲しみが増し加わったのです。このような事情を皆さんは知らなければなりません。
(2-274 ~ 275、1957.6.16)

イエス様は、ローマ兵が槍で自分のわき腹を突いても、「彼らをおゆるしください」と言いました。「私が彼らの代わりに死んでいきます。彼らの代わりに犠牲になります」という精神をもって完全に忍耐するのです。ここから新しい世界が生まれるのです。歴史上になかった新しい世界が生まれるのです。

数多くの歴史を見ても、歴史上のあらゆる怨讐は怨讐で返せと教えたのであって、怨讐を愛で返しなさいと宣言したのは、たった一人、イエス様でした。イエス様だけだったのです。それが偉大なことです。これがどれほど偉大なことかという事実を知らなければなりません。新しい世界、神様が願う世界がそこからわき上がり始めるのです。
(130-232 ~ 233、1984.1.29)


イエス様が十字架で亡くなったとき、神様の心情はどうだったでしょうか。怨讐の息子、娘が自分のひとり子を捕らえて殺す局面であっても、彼らを怨讐視してはいけないのです。自分の息子を捕らえて殺す立場でも、愛する心をもって越えていかなければならない神様の心的な苦痛がどれほど大きかったでしょうか。

イエス様も、神様とアダムの基準を越えようとするので、神様がサタンを愛するのと同じように、イエス様自身も自分を十字架に打ちつけるローマ
兵を愛さなければならないのです。ですから、イエス様が彼らの罪を赦してほしいと祈祷しました。

これをパスしたのでサタンが分立されるのです。神様とアダムがサタンを愛したという伝統的な精神によってサタンが讒訴することができず、分離されました。これによって、キリスト教を中心としてサタン分立の歴史が展開したのです。常に個人的、家庭的にサタン側を愛したということが成されなければなりません。死の場に入っていっても愛することができ、神様に従って祈祷してあげることができなければなりません。そうしてこそ、復帰されていくのです。

全世界のキリスト教徒たちが殉教するその場で、イエスのような祈祷をしなければなりません。「父よ、彼らをおゆるしください」と祈らなければならないのです。神様とアダム、エバが天使長を愛さなければならない原則があるので、その原理原則基盤を完全に復帰するためには、堕落したサタンを本来の天使長と同じ位置で愛したという立場、そのような資格をもってこそ、天国に入
っていくのです。
(244-154 ~ 155、1993.2.1)

イエス様は、永遠に苦楽を共にできる神様のひとり子だったにもかかわらず、どうして世界で最も追われる立場に立たれたのでしょうか。また、神様が「知らない」とおっしゃる立場に立たれたのでしょうか。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と言って天に向かって訴えられたのでしょうか。
それは、人間が天倫に背いたからです。言い換えれば、アダムが個人的に背いたことを蕩減復帰すべき使命があったので、イエス様は、天から個人的に捨てられるようになったのです。しかし、イエス様は捨てられましたが、感謝する心をもちました。「しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)とおっしゃったのです。

自らの前にいかなる死や苦労が迫ってこようとも、それを消化し、神様と一つになれる、このような心があったので、いかなる怨讐も彼を支配できませんでした。ですから、天が排斥し、民族が排斥して、死の場にまで出ても変わらなかったことにより、新しい復活の門が開かれたということを、
皆さんは知らなければなりません。ですから、これから皆さんは、天が皆さんを排斥することがあったとしても、最後までお父様をつかんで仕える覚悟をもってこそ、イエス・キリストが残された復活の恩賜圏内に入っていけることをはっきりと知らなければなりません。
(4-144 ~ 145、1958.3.30)
⑬十字架で私達の罪を赦されたイエス

―宗教経典―

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。

私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53.3 ~ 6(キリスト教)
こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。このように天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりせん。

なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私達のために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。

もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
ヘブライ人への手紙922 ~ 26(キリスト教)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(注44)
ピリピの信徒への手紙2.6 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

(イエス様は)自分にあるすべての力を尽くしてイスラエルの将来に責任をもち、導いていこうとする途中で、行くまいとしても行かざるを得ない運命の道を行きました。弟子たちがイエス様を捨て、自分自身の命を保つために散り散りばらばらになるとき、イエス様は自分一身のためではなく、そのときまで神様のために忠誠を尽くしたいかなる人よりももっとこの上ない精誠と強い責任感と明確な目的観をもち、神様のみ旨のために十字架の道を行ったのです。神様と共にその道を行きました。
(35-23、1970.9.27)

兄弟や、あるいは誰かがサタンの誘惑に落ちたとき、その堕落した兄弟を取り戻してこようとすれば、サタンは彼を何の条件もなしに行かせはしません。

堕落した兄弟を取り戻すためには、サタンがその兄弟を送り返すよりもっと良いと感じられる何かをサタンに与えなければなりません。言い換えれば、堕落した兄弟を解放させるためには、その兄弟に代わって自分を喜んで犠牲にできる一人の兄弟がいなければなりません。その犠牲になる兄弟が第2のキリストになるのです。堕落した兄弟はそのような条件によってのみ解放されるのです。
(52-50、1971.12.14)

祭物は必ず血を流さなければなりません。神様は血を見るのを好む神様ではありませんが、死んで生き返ったという条件を立てるようにしない限り、つまり死んだという立場に立てなければ助け出せる道がないので、神様は祭物を犠牲にさせ、血を流すようにして今まで歴史時代を連結してきたことを知らなければなりません。

このように神様は、旧約時代には祭物で蕩減条件を立てて赦してあげながら、イスラエル民族を育ててきました。そうして、その上にメシヤを送ることによって、新約時代を迎え、メシヤを中心とする勝利的国家をつくろうとしたのですが、このメシヤを信じなくなったので、メシヤが代わりに実体の祭物になって死んだのです。羊は象徴的なものであり、羊を捕らえて祭物を捧げた土台に
よってつくっておいたイスラエル民族全体は、旧約時代の結実と同じなので、そのような旧約時代の結実がイエスと一つになっていなければならなかったのですが、それができないことによって、イエスを実体祭物として捧げざるを得ませんでした。それでイエスは十字架で亡くなるようになったのです。(注45)
(54-252 ~ 253、1972.3.25)

サタンの本質は驕慢と血気です。このような性質で世の中の人に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で世の中の人々の前に現れたのです。イエス様が愚かで温柔、謙遜な立場に立たれたのではありません。誰よりも最高に気高い栄光を享受することができましたが、イエス様はこれをすべて捨てて温柔、謙遜な立場に立たれたのです。

サタンがこのようなイエス・キリストと対決し、闘おうとしましたが、サタンには神様に屈服しなければならない条件があることをイエス様は御存じだったので、最後まで温柔、謙遜でいることができました。それでサタンの本質が驕慢と血気なので、反対の温柔、謙遜をもって現れたのです。

また、厳然として天理法度があることを知っているサタンなので、最後はイエス・キリストを認めるようになりました。言い換えれば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然屈服するのです。このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取りました。このように温柔、謙遜な立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様に行く新しい道を開拓できることを皆さんは知らなければなりません。

そして、イエス様が何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は応じることができない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちにこのような従順と服従の道理を教えてくださいまた。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を妨げるものです。(3-187 ~ 188、1957.10.27)
イエス様がどのような心情でサタンを屈服させたと思いますか。神様はかわいそうであり、万民もかわいそうであり、万物もかわいそうだと思う心情です。

「息子、娘を失ってしまった神様がどれほどかわいそうであり、主人を失ってしまった万物がどれほどかわいそうであり、自分の価値と目的と位置を失ってしまった人間がどれほどかわいそうですか!」という爆発的な心情があったので、サタンが退いたのです。
(9-181、1960.3.8)

 

⑨イエスを排斥した人類の悲劇

―宗教経典―

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
マタイによる福音書23.37(キリスト教)

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。

しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
ルカによる福音書19.41 ~ 44(キリスト教)
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
コリントの信徒への手紙一2.8 (キリスト教)

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう!』と言って、主人は自分の息子を送った。

農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
マタイによる福音書21.33 ~ 41(キリスト教)


―み言選集―

2000 年間の歴史を通して、偉大で栄光の位置に上がっていったイエス様は誰でも信じられますが、追い回され、嘲弄されるイエス様を信じられますか。ここに来た牧師やキリスト教の信者たちが信じることができますか。その時の書記官や祭司長たちが皆さんより愚かでイエス様を捕らえて殺したと思いますか。あれほど待っていたメシヤが来たのに、ユダヤ教徒の中で一人も信じる人がいませんでした。ユダヤ教徒たちが今、キリスト教の教徒たちに及ばないと考えますか。どれほど凄いか……。
(69-100、1973.10.21)

イエス様は天の物悲しい心情を抱き、倒れていく民族を訪ねてくださり、彼らをかわいそうに思い、
自らの生命をも惜しまず、彼らを訪ねてくださいましたが、選ばれた民族であると自称していたイスラエル民族は、天がお送りになったメシヤと準備された洗礼ヨハネを、自分たちの勝手に扱い、
歴史的な悲しみの陰に隠してしまったという事実を、今日、私達は知っています。

きょう、ここに集ったあなたの息子、娘たちをして、その時のイスラエルの人々が私達よりも劣っていて天に背反したのでなく、天のために生きる心情が私達よりも劣っていて天を忘れてしまったのではなかったことを知るよう許諾してください。

新しい時代に対する希望が足らず、新しいメシヤの理念をもってこられる主の姿が大きいだろうと思っていたのに、いざ現れたメシヤが、あまりにも悄然としてかわいそうで、小さな姿であったがゆえに、彼らが排斥したのだという事実が分かるよう許諾してください。

今、私達自体がどのような立場に置かれているかを察するよう許諾してくださり、今日、私達はよく歴史的なイスラエル民族を誹謗し、当時の事情を批判することがありますが、その時の事情や今日の事情に差がないことを知るようにしてください。
私達がその時にいたなら、彼らと同じ群れであったことでしょうし、私達がその時代にいたなら、彼らと同じ立場にいたであろうことを自認する心をもつようにしてくださり……。
(5-284 ~ 285、1959.2.22)

イスラエル民族の前にメシヤが来た目的は、サタン圏をたたきつぶし、人類を神様の前に取り戻してくるためであるにもかかわらず、サタン主権をそのまま残して人類を置いていかなければならない十字架の道を行くイエス様は、ゲッセマネの園で血のにじむ闘争の祈祷をせざるを得なかったという事実を皆さんは知らなければなりません。

イエス様は、自分の意思で十字架に行く日には、
4000 年間準備したイスラエルの国が滅び、ユダヤ教徒が滅び、洗礼ヨハネとその使徒たちが天に負債を負うことをよく御存じだったので、談判祈祷をせざるを得なかった事実を知らなければなりません。


イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。

国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。

4000 年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったのは、神様の予定の中で死んだのではありません。サタンに引っ張られていって十字架で亡くなったのです。十字架はすべて失ってしまった立場であることを知らなければなりません。国を失ってしまい、教会も失ってしまい、洗礼ヨハネも失ってしまった立場です。そこには12 使徒もすべて背信した立場であり、最後には右側の強盗までも死んでいった立場であることを知らなければなりません。イエス様の側になった人、天の側になった人が一人もいない、すべて失ってしまった
立場だったことを皆さんは知らなければなりません。

十字架の場にはキリスト教もないことを知らなければなりません。キリスト教がありません。キリスト教は、復活されたのち、五旬節以降に出発したのです。十字架は神様の勝利ではなく、サタンの勝利を意味するのであり、復活はサタンの勝利ではなく、神様の霊的勝利を意味することを皆さんは知らなければなりません。ですから、キリスト教は復活の宗教と言っています。(注46)
(73-220 ~ 221、1974.9.18)

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世界経典-39

2022年06月11日 19時34分58秒 | 学習

②孔子の宗教的信仰

―宗教経典―

先生が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに(このわが身に)伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、わが身をどうしようぞ。」
論語9.5 (儒教)

王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まち
がっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」
論語3.13 (儒教)
粗末な飯や野菜の汁や瓜のようなものでも、初取りのお祭り(注36)をするときはきっと敬虔な態度である。
論語10.8(儒教)

伯牛が病気になった。先生が見舞われ、窓ごしにその手を取られた。「おしまいだ。運命だねえ。こんな人でもこんな病気にかかろうとは、こんな人でもこんな病気にかかろうとは。」
論語6.10 (儒教)

先生はいわれた、「人としての正しい道をはげみ、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」
論語6.22 (儒教)

先生が「わしはもう何も言うまいと思う。」といわれた。子貢が「先生がもし何も言われなければ、わたくしども門人は何を受け伝えましょう。〔どうかお話をして下さい。〕というと、先生はいわれた、「天は何か言うだろうか。四季はめぐっているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。〔何も言わなくても、教えはある。ことばだけを頻りにしてはいけない。〕」。
論語17.19(儒教)


―み言選集―

人だけを中心として出てきた聖賢はいません。人類だけを中心とする道理によって出発した聖賢はいないのです。孔子の教えに、「為善者、天報之以福、為不善者、天報之以禍」という言葉があります。すなわち、善を行う人は天が福をもって返してくれ、悪を行う人は天が禍をもって返すという言葉です。孔子がこの言葉を語れたということは、天を知っていたからです。それで、天を中心として、道理の基準を立てたのです。漠然とではありますが、天を介在させました。ですから、孔子は聖賢の班列に立つことができたのです。
(32-261、1970.7.19)

道義的な出発を中心として、人間はこのように生きなければならない、天を中心として人間は正しい道を行く、家庭生活の伝統を正さなければならないというのです。自分の思いどおりに生き、愛の関係を自分勝手にもつ人たちは悪いと言います。この愛の道理を立てていくためのものが人間世界に宗教として現れたのです。
儒教のようなものがそうです。礼式において人類を代表できる内容を教えてくれたのが孔子です。……そのような方を通して、外的な人間の道義的な面のすべてのものを教えてくれました。……これは何かというと天使長型です。それで、道義的な面で世界人類に影響を及ぼしたのです。(注37)
(295-174、1998.8.28)

 

11.イエス

文鮮明先生は、ナザレのイエス様をすべての宗教創始者の中で最高の聖人とみなしている。文先生は、イエス様の生涯と業績に対して徹底して研究した。イエス様に関する先生の説教が数冊の出版物になるほど多い。先生は、イエス様の十字架の贖罪によってすべてのことを完成したという一般的なキリスト教徒の視角からイエス様を理解しない。

文鮮明先生は、イエス様が生きて地上天国を建設しなければならないという、より大きな使命をもっていたと認識している。十字架の死によってイエス様の熱い希望が挫折し、再臨の時まで天国建設が遅延されたのであり、したがって人類は数世紀にわたって苦痛と闘争などが空転する状況で生活しなければならなかった。

文鮮明先生は、聖書の聖句に表れたイエス様の個人的性稟、任務の準備、イエス様の家族との関係、彼の任務を果たす路程、十字架、そして彼の復活などをこのようなレンズを通して洞察する。文鮮明先生は、イエス様を「悲しみの人」と見ている。公生涯を始める前、30年間、イエス様は家族と村の人々から少なくない誤解と締め出しを受けた。当時、すべてのユダヤの男性が20 代で結婚する慣習から見てみるとき、イエス様が結婚しなかったという事実は、一般人たちに特別に神聖な姿として受容されず、かえって疑わしい出生によって痛手を受け、結婚するとは思えないおかしな人として理解された。

イエス様が自分の任務を始めるころ、洗礼ヨハネに見るように、自分を迎え入れるようにユダヤの民を準備した天のすべての努力は既に水泡に帰した。結果的に、イエス様は伝えたかった天国建設の福音をはっきりと明かすことができず、あいまいな比喩で語るしかなかった。

ローマからイスラエルの独立を成就するための霊的、政治的運動を主導し、この世界に神様の王国を建設しようとしていたイエス様の意図は決して明かすことはできなかった。
彼の任務に反対する勢力が増大するほど、イエス様の悲しみも一層大きくなったのであり、イエス様は十字架の道という、また別の代案を選択せざるを得なかった。

最後には、自分だけを残しておいたまま、逃げていき、散らばっていく弟子たちの弱さにイエス様の悲しみは一層深まった。イエス様は、自分が本来の使命を完遂できないまま十字架の道を歩めば、神様が悲しまれ、それ以降の多くの世代が苦痛を受けるという事実を知っていたので、ゲッセマネの園で命懸けの祈祷を捧げた。

しかし、その時まで群集は彼を拒否し続けたので
あり、死以外にほかに道がないため、神様のみ旨に従って十字架を受け入れざるを得なかった。しかし、人類に対してすべての精誠を注いだイエス様の愛は変えることはできないため、十字架上で自分を葬ろうとする敵まで赦した事実は、歴史を変えた地軸を揺さぶる事件だった。


①罪悪の人類を救援するために来られたイエス

―宗教経典―

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書4.17、23(キリスト教)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。
テモテヘの手紙一1.15(キリスト教)

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書14.6(キリスト教)

(イエスはこう言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11.28 ~ 30(キリスト教)

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなた達の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイによる福音書9.10 ~ 13(キリスト教)

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。

私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書10.11 ~ 16(キリスト教)

 

一み言選集―

イエス様の生活はすべて自身の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残り得る責任を地上に完遂しておいたのです。イエスの30 年あまりの生涯は永遠不変の実績、責任を果たした実績をこの地上に成し遂げておいた生涯でした。ですから、イエス・キリストのみ言が、キリストの信仰と福音が残っている以上、彼の生涯も残るのです。

イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面でも責任をもちました。そして、神様が4000 年間役事してこられたみ旨に対しても独りで責任をもったのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を身代わりしていく者が、この地上には一人もいませんでした。
(1-37、1956.5.16)

宇宙的な疑問を解明してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、解決されていない人間たちの罪を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、死亡の問題を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければなりませんでした。

人類のこのような疑問と死亡と罪を解決してあげられる方は、ただイエス様だけでした。そして、イエス様は4000 年の歴史過程に来られた誰よりも神様のために真実な生活をされた方です。自分を超越し、宇宙的な疑心を解明するために努力されたのであり、自分の一身の栄光を超越し、宇宙の栄光のために苦労されたのであり、自分のすべてのものを振り返ることなく、ただ神様のみ旨を成し遂げるために無限に犠牲になっていかれました。

そのような一貫した心と生活によってイエス・キリストは歴史を代表し、天の前に一番の先鋒者として立てられました。それでイエス・キリストは歴史的な疑心の障壁を克服していき、自信をもって「私を信じなさい!」と叫ばれたのです。
(3-14、1957.9.8)


「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」、これがどれほど堂々としていますか。「私は道であり」というその道はどのような道ですか。狭い道ですか、平らな大道ですか。

そして、「私は真理」と言ったのですが、それはどのような真理ですか。もどかしい真理ですか。すべてのことをよく知らなければなりません。すべて歓迎し、すべてのものがよいと言い、すべてのもののはかりになり得ると言わなければなりません。そして、「私は命」と言うとき、死んで廃れていく命ですか、発展する命ですか。それをどのような所で歓迎しなければなりませんか。「自
分を低くする者は高くされるであろう」と言いました。
(106-13、1979.11.4)

理想世界とか、一つの統一世界というものは、未完成の状態では成されないのです。無知から成すことはできません。ですから、完全なる方、完全に知っていらっしゃる一人の方を送って、その国の人たちと接触させようとされたのです。これがメシヤを送ると言われた、神様の約束でした。神様を中心とした主権国家の形成はイエス様を中心として始まらなければならず、それはイエス様とその国の民が完全に一つになってこそ可能だったのです。

すなわち、メシヤを迎えて(注38)未完成の個人が完成するための手続きと、家庭が完成するための手続き、民族、国家が完成するための手続きを、すべてイエス様のみ意を受けて一体化してなさなければならないのです。

ところが、このような歴史を通してメシヤを迎えるイスラエル民族は、イスラエル民族自体のためにメシヤが送られたというよりも、メシヤとイスラエル民族が一つになって世界を救うようにされたのが神様のみ旨だったことを、知らなかったのです。
(54-41、1972.3.10)


②イエス:神様の息子、み言の実態

―宗教経典―

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16(キリスト教)

フィリポが「主よ、私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私達に御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。……

しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書14.8 ~ 11、19 ~ 20(キリスト教)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに、神の愛が私達の内に示されました。……

私達はまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にどどまる人は、神の内にどどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.9、14 ~ 16(キリスト教)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書1.1 ~ 14 (キリスト教)


―み言選集―

イエス様は、この地上に生まれ、「私は神様のひとり子だ」と主張しました。歴史始まって以来、初めて神様の愛を受けるのは自分でなければならないという決定的な宣布をしたのです。このような観点で神様が願う最高の基準を説破したのであり、その位置に立ったと自負した人は、たった独り、イ工スしかいませんでした。ヨハネによる福音書の第14 章を見れば、「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」とあり、神様と自分との一体を語りました。
(53-231、1972.2.28)

イエス様はひとり子です。ひとり子とは何ですか。神様の愛は一つしかない絶対的な愛ですが、その愛を初めてそっくりそのまま受けることのできる代表者だというのです。ですから、ひとり子という名前をもったので、救世主になることができるのです。イエス様は、自分が神様の真の息子だということを教えてくれました。愛を中心として教えてくれました。それは、私を通さなければ愛の因縁が連結されないということです。
(146-168、1986.6.15)

イエス様が語ったみ言の中に、「神様は私の父である」という言葉があります。この言葉は、よくぞ言いましたか、言ってはいけないことですか。よくぞ言いました。この言葉が正に人間として成功を収めた言葉です。人情を中心として天情と天倫に到達できる新しいみ言なのです。その次に、何と言ったかというと、「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言を語られました。

このようにすべてのみ言を宗教的な問題をかけて言いました。それが違うのです。人間の世の中で、新郎と新婦の関係以上に近い関係がありますか。また、父子の関係以上に近い関係がありますか。

「私は信徒たちとは一つの兄弟だ」と言ったのですが、これ以上に近い関係がありますか。この言葉は何を中心として語るのですか。神様を中心として、神様が家庭に対して語ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下したものだと言えます。
(39-42 ~ 43、1971.1.9)

聖書の中に、「私は道であり、真理であり命である」(ヨハネ14・6)というみ言があります。言い換えれば、イエス様は道であり、真理であり、命だというのです。これはすべての人間たちに何を予示したのでしょうか。これはアダムとエバが堕落することによって、神様のみ言が成し遂げられず、そのみ言がそのまま神様の心霊に戻ってしまったのですが、み言を失ってしまった人もやはりこの地に生きているので、神様は再びこのみ言を人間たちに下さるということを予示されたのです。これは神様が希望された神様のみ言の実体がイエス様だということを示すみ言です。
(3-318 ~ 319、1958.2.2)

イエス様は、サタンの血筋を転換させた清い内的血統的基盤の上で生まれたので、イエス様だけが初めて神様の息子になれるという結論を下せます。ですから、イエス様は「私は神様のひとり子」と語ることができたのです。イエス様は、歴史時代に初めて出てこられた方であることを私達は知らなければなりません。ですから、イエス様は「私が父におり、父が私におられる」と語られ、「私を見た者は、父を見たのである」、と語られました。

ヨハネによる福音書の第14 章を見れば「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と語られています。

ですから、イエス様を通さなければ、天の国、父の前に行く者がいないのです。それで、イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と、堂々と宣言することができたのです。

世界的に大勢の宗教指導者がいるとしても、歴史的なサタンの汚れた血を清めて血統を転換させ、神様と因縁を結んで生まれた人はイエスしかいないことを、皆さんは知らなければなりません。釈迦も、孔子も、ムハンマドも、誰もこのような背景をもってこられませんでした。そのような方がこの地上に生まれたという事実は、人類にとって希望の中の希望であり、生命の新しい起源と復活を迎えることのできる栄光になるのです。(注39)
(53-205 ~ 206、1972.2.21)


③イエス:真の人、原罪のない第2アダム

―宗教経典―

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.45(キリスト教)

イエスは神のみもとでは、ちょうどアダムと同じである。
クルアーン3.59 (イスラーム)

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
テモテヘの手紙一2.5 (キリスト教)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられます。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 9(キリスト教)

また神がこう仰せられたときを思え、「マリヤの子イエスよ、なんじは神のほかに、私と私の母とを、二柱の神とせよと、人びとに告げたか」。かれは申し上げた「あなたにたたえあれ、私に権能のないことを、私として言うべきでありません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知りたもう。あなたは、私の心のうちを知りたもう。だが私は、あなたのみ心のうちは知りません。まことにあなたはよろずの秘奥を熟知したもう」。

「私はあなたが命ぜられた、私達の主であり、あなたがたの主であられる神に仕えまつれ、と言う以外には、決してかれらに告げません。私がかれらの中にいた間は、私はかれの証人でありました。あなたが私を召された後は、あなたがかれらの監視者であります。あなたはよろずのことの立証者であられます」。
クルアーン5.116 ~ 117(イスラーム)


―み言選集―

アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ1章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、私達を新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ 15・45)、永遠の父といったのである(イザヤ9・6)。
原理講論、キリスト論4.1.1

イエス様も、価値的な内容を通して見るとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結するのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。もう皆さんは神様と宇宙との関係と位置を知りました。キリスト教徒たちを見ると、「神様は気高く、私達人間は罪人であり被造物なので、価値がなく、イエス様は神様だ」と言います。それではどのように連結されるのですか。
そのような観点から、イエス様は人の側に立たなければならないのであって、神様の側にいればどうなるのかというのです。

テモテヘの第一の手紙の第2章を見れば、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」とあります。そうでなければなりません。そうでなければ、この罪人がどうやって行くのですか。そのような根本的な問題をすべて明らかにして整理しておかなければなりません。彼は罪のない人であり、私達
は罪がある人です。これが違うのです。

ですから、イエス様は神様の愛と交流することができ、生命と交流することができ、理想と交流することができる方です。
(69-80 ~ 81、1973.10.20)

歴史的に有名な人たち、あるいは聖者たちを考えてみましょう。イエス様はどうだったでしょうか。孔子や釈迦のような人たちはどうだったでしょうか。聖人とは何ですか。私達は心と体が一時間に何百回も移り変わっていきますが、そのような人たちは、一箇所に立っていることができる人たちでしょう。

それでは、一つ尋ねてみましょう。イエスは男性ですか、女性ですか。男性です。その男性が女性を見れば、その思いはどうでしょうか。男性と思ったでしょうか、女性と思ったでしょうか。女性と思ったでしょう。それは間違いなく女性なので、自然の道理として、プラス、マイナスが出会えば引力関係があるのです。そのようなことを感じたでしょう。
(128-78、1983.6.5)


④キリスト降臨の準備と先礼ヨハネの責任

―宗教経典―

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを洽める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ミカ書5.1(キリスト教)

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(注40)
マルコによる福音書1.2 ~ 6(キリスト教)
ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、わだしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

その翌日ヨハネは、自分の方ヘイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の
小羊だ。『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」

そしてヨハネは証しした。「私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書1.26 ~ 34(キリスト教)

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞
こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハ
ネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。

はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書11.2 ~ 15(キリスト教)

エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「私はメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
ヨハネによる福音書1.19 ~ 21(キリスト教)


―み言選集―

このサタン世界に何の準備もなく、基盤も築かず、メシヤをただそのまま送れば、怨讐サタンは彼を捕らえて殺すことは間違いないので、歴史を通して宗教を立てたのです。その宗教の中でも、主流的な宗教を立て、神様の側に分けて別々のものにし、サタンと対抗して勝つ個人、家庭、氏族、民族、国家を形成して、その基盤の上にメシヤが完全に一つになれる国家的基盤を備えてメシヤを送らなければならないのです。そのように準備した基盤がイスラエル、勝利したという意味のイスラエルの国であることを知らなければなりません。
(74-59 ~ 60、1974.11.12)

神様は、4000 年間イスラエル民族の前にメシヤを送ってあげると約束したのであり、その約束を履行するために大勢の預言者を連結させ、それを伝達してきました。

そして、願っているイスラエル民族の前に約束したとおりに神様の息子、メシヤ、イエス様を送ったにもかかわらず、メシヤが来たにもかかわらず、イスラエル民族はメシヤと一つになることができず、メシヤを捕らえて殺したという事実、これはなぞの中のなぞです。
(73-218、1974.9.18)

神は、アブラハムの子孫からイスラエル選民を召し、彼らを保護育成され、ときには彼らを苦難と試練を通して導かれた。また、多くの預言者たちを彼らに遣わして慰めながら、将来、メシヤを送ることを固く約束されたのである。

それから、彼らをして幕屋と神殿を建てさせることによって、メシヤを迎える準備をさせ、東方の博士、羊飼い、シメオン、アンナ、洗礼ヨハネを遣わして、メシヤの誕生と彼の顕現を広く証された。

特に、洗礼ヨハネに対しては、彼が懐胎されるとき、天使が現れて証した事実をユダヤ人たちはみな知っていたし(ルカ1・13)、彼が生まれたときの奇跡は、当時のユダヤ国中を大きく驚かせた(ルカ1・63 ~ 66)。そればかりでなく、荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきも
のであった(ルカ3・15)。神がこのように偉大な洗礼ヨハネまでも遣わして、イエスをメシヤとして証明させたのは、いうまでもなく、ユダヤ人をしてイエスを信じさせるためであった。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.3

洗礼ヨハネを預言者と思って信じているユダヤ教の信者たちが、すべてイエスと一つになったなら、誰がイエス様を捕らえて殺すでしょうか。誰が捕らえて殺すのかというのです。そのようになったなら、どのようになりますか。高位層の人たちがイエス様の使徒になり、弟子たちになるのです。
足の裏のような漁夫たちがイエス様の弟子になりますか。ペテロのような無学な人や税吏や娼婦たちがイエス様の弟子になる、それが神様のみ旨ですか。
(74-153、1974.11.28)


神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された。洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。……しかし、彼の無知によりこの使命を完遂することができず、ついには、イエスのためにささげるべき彼の命までも、あまり価値もないことのために犠牲にしてしまったのである。

洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。

自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべぎでしょうか」(マタイ11・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。

しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書11 章3節から19 節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた。

洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ(ルカ1・75)、彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった。さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった。このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的23

マタイによる福音書第11 章11 節を見れば、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」とあります。一度は一番大きいと言い、一度は一番小さいと言っていますが、これはどういうことですか。

預言者の使命は何かというと、メシヤに関して証することです。過去の預言者たちは、会うこともできずに預言を通してメシヤを証しましたが、洗礼ヨハネは目で直接見て証したので、預言者の中では一番大きいのです。

しかし、天国に行っている一番小さい昔の預言者たちは、イエス様がメシヤであることを知ってみな侍っているのですが、洗礼ヨハネは侍ることにおいて最後尾だというのです。メシヤのために生まれ、死ぬときもメシヤのために死ななければな
らないのに、つまらないヘロデヤの恋愛事件に巻き込まれ、首を切られて死にました。それが洗礼ヨハネの行く道ですか。

12 節にどのようにありますか。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります。聖書にこのようになっています。いくら否定しようとしても、ミスター・文の話が正しいのです。洗礼ヨハネの時からイエス様の時まで、天国は激しく襲う者たちが奪い取っていると言いました。

もし洗礼ヨハネがイエス様を信じていれば、一番弟子は誰がなったのですか。間違いなく洗礼ヨハネがなるのです。これを知らなければなりません。牧師、長老、キリスト教徒たちが知らなければなりません。12 弟子、70 門徒は、すべて洗礼ヨハネの一党がならなければならないのです。

そうすれば、ユダヤ教と直結で通じ、祭司長と書記官をすべて一つにまとめることができました。
ヨハネによる福音書第3 章30 節を見れば、洗礼ヨハネが、「彼は必ず栄え、私は衰える」と言っています。ヨルダン川で洗礼を施すイエス様のところに人々が行くのを見て、弟子たちが尋ねるので、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、私は衰える」と答えたのです。それはどういうことですか。今日のキリスト教徒たちは、洗礼ヨハネが謙遜したものと信じてきました。そうではありま
せん。一緒に行動しなかったということです。それを知らなければなりません。

イエス様が栄えれば自分も栄え、イエス様が滅びれば自分も滅びなければならないのに、ほかの道を行ったということです。イエス様が十字架で亡くなるようになったのは、洗礼ヨハネのためであることを知らなければなりません。皆さんが信じられなければ、神様に談判祈祷してみてください。
(69-139 ~ 140、1973.10.23)

 

⑤キリスト降臨の世界的準備

―宗教経典―

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書2.1 ~ 11(キリスト教)

古代東方の子供たちは、アブラハムから受け継いだ知恵をもっていた。その知恵は、アブラハムが妾の息子たちに与えたものだ。創世記25 章6節に次のように記録されている。「側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」。時が流れ、この者たちはアブラハムから受けたこの知恵に従うようになった。
ゾハール1.100b (ユダヤ教)
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
マタイによる福音書8.11(キリスト教)


―み言選集―

インドの仏教圏、中国の儒教圏、ゾロアスター圏など、様々な宗数団体が東洋諸国で影響力を行使していたので、自動的に各宗教の霊通者たちはイエス様がどのような方なのか分かるようになっていたのです。
(227-81、1992.2.10)

初臨のときには、神がその選民のために、メシヤが降臨される430 年前に、預言者マラキを遣わされて、メシヤが降臨されることを預言なさるとともに、一方においては、ユダヤ教を刷新して、メシヤを迎え得る選民としての準備をするようにされたのであった。

また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前565 ~ 485)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前470 ~ 399)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前552 ~ 479)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。

それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代

イエス様もアジア系として生まれました。ところが、アジアで体を失ってしまったのです。それを蕩減復帰するために、今まで西欧文明はローマを中心として反対に来たのです。本来、イエス様が死ななければ、インドの仏教圏、極東アジアの儒教宗教圏が、キリスト教を中心として統一圏を先に成し遂げなければなりませんでした。宗教圏が統一を成し遂げなければならなかったのです。

宗教圏に立っている最高の指導者は霊界と通じるので、これから天が行く方向を知っています。ですから、イエス様が国を収拾してローマから独立し、イスラエルの12 支派圏がカナンに復帰して分配されたその地が統一されたというときには、間違いなくアジアが吸収されるのです。
(229-174 ~ 175、1992.4.12)

 

⑥家族の誤解

―宗教経典―

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
マルコによる福音書6.1 ~ 4(キリスト教)

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、
母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカによる福音書2.41 ~ 51(キリスト教)
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」
ヨハネによる福音書2.1 ~ 4(キリスト教)

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書3.31 ~ 35(キリスト教)


―み言選集―

処女が赤ん坊を身ごもって生んだことを、キリスト教徒たちは、聖霊によって身ごもったと言うのですが、それを信じることができますか。そのときは、弟や妹たちも呪い、村でも指をさされ、村の子供たちの問題になって追われ、逃げ回っていた、そのようなイエスだったでしょう。33 歳になるときまで、結婚できなかったイエスだというのです。私生児であるうえに、みなから冷遇される人なので、誰が娘をイエスの嫁にしてあげようと言うでしょうか。
(243-242 ~ 243、1993.1.17)

イエスは自分が私生児であることを知らなかったと思いますか。すべて知っていたので、ヨセフとマリヤがけんかしました。父親は誰だと聞いても答えないので、自分が助けてあげたと言ってけんかしたのです。ヨセフが聞いても、そのたびに「聖霊によって身ごもった!」と言うと、「助けてあげたのに、何をふざけたことを言うのか」と言いました。ヨセフが信じただろうかというのです。イエスをめぐって夫婦でけんかし、息子、娘を生んでもずっとけんかしたのです。

イエスが12 歳になり、エルサレムの聖殿に行ったとき、その父母が息子を置いたまま三日間たってから、戻ってきて「お前はなぜここにいるのか」と言うので、「私が父の家にいることを知らなかったのですか」と言いました。それは不満を言ったのです。

父母が三日間息子を置き去りにしたまま、自分の家に帰ったのです。聖書はそのような内容を隠してきました。これはあぜんとする話です。それをみな称賛しているとは……。

キリスト教徒たちはそのように信じ、天国に行くと言いますが、とんでもないことです。イエスが結婚できなかったのは母親のせいであり、洗礼ヨハネのせいです。これはどうしようもない事実です。
(235-237 ~ 238、1992.9.20)

大工のヨセフのことを協助してあげながらも、平安な生活をしていませんでした。彼の心情は無限の曲折の路程を経てきたのです。
(7-334、1959.10.18)

マリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、私と、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「私の母とは、だれのことか。私の兄弟とは、だれのことか」(マタイ12・48)と言われたみ言も、このような基準から理解しなければなりません。
(277-210、1996.4.16)

18 歳になれば結婚するようになっていて、20 歳になれば結婚するようになっているのに、なぜ33 歳まで結婚できなかったのかというのです。それでイエス様は、17 歳のとき、自分の母マリヤにアダムが16 歳で堕落したのでこれを復帰するために、「私はこれこれこのような過程を経て結婚しなければなりません」と言ったのです。それが27 歳、30 歳まで3度結婚することを言いましたが、母親が聞いてくれなかったのです。
(266-193、1994.12.25)

十字架を背負うようになった直接的な動機も、イスラエル民族が背き、ユダヤ教徒が反対したからというよりも、ヨセフの家庭でそのような祝福の一日をもてなかったところにあります。そのような一日をもっていたならば、イエス様は十字架で亡くならなかったでしょう。
(30-173 ~ 174、1970.3.22)


⑦荒野での三大試練

―宗教経典―

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
マタイによる福音書4.1 ~ 11(キリスト教)


―み言選集―

荒野路程の三大試練で、イエス様がサタンを屈服させ、最後の勝利をした所も高い山の頂上でした。選ばれた洗礼ヨハネとその一党に排斥され、ユダヤ民族に裏切られて訪ねていく荒野路程の歩みこそ、今日まで、この地上で誰も体恤できなかった悲しい心情をもって歩まれた歩みだったことを知らなければなりません。

イエス様は天のひとり子であり、4000 年歴史を解決する人であり、またその時代と千秋万代の後代に、天が誇り得る勝利の標的として現れた方でした。そのようなイエス様が民もあとにし、教団も捨て、選ばれた洗礼ヨハネも、ヨセフ家庭も残し、友もなく独りで荒野に行った悲しい心情を、私達は回想しなければなりません。そのような歴史的な蕩減条件を立てようという使命感をもち、決心していったイエスは、40 日断食をしながら、そのある場所で何を回想したでしょうか。昔、先祖たちが歩んできた悲しみの路程を自分の一身で蕩減復帰しなければならないという責任感を誰よりも切実に感じたのです。この事実を、この時間に私達は悟らなければなりません。み旨に対して誰よりも悲壮な心情を抱いていったイエス様でした。

いかなる歴史的な先祖よりも確固たる覚悟をして、サタンをその掌中に握って屈服させなければならないという燃える心で荒野に出ていかれた方であることを知らなければなりません。そして、山頂に独りで立ったイエス様であることを知らなければなりません。
(5-194 ~ 196、1959.1.25)

イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。

しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。

その時まで人間は、物質を中心とする闘争歴史を経てきたのですが、イエス様が、サタンの第1次的な試練に勝利することによって、そのような物質を中心とする闘争歴史を終結させるようになったことを、皆さんは知らなければなりません。

それでは、その次にイエス様は、どのような試練を受けるようになったのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて教会の聖殿の頂上に立たされるようになったのですが、そこで「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」(マタイ4・6)という試練を受けるようになりました。

イスラエル民族とユダヤ教を指導できる宗教理念をもって現れたイエス様に、「飛びおりなさい]というこの言葉はどのような意味なのでしょうか。それは、ユダヤ教的な習慣と彼らの主張に屈服し、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかし、イエス様は、ここでサタンの試練に陥ることなく勝利されました。

その次にはどのような試練がありましたか。サタンは、イエス様を高い山頂に連れていき、天下万国とその栄華を見せてあげながら、「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ4・9)と言ったのです。しかし、イエス様は、ここで宇宙的な理念をもって神様の国、すなわち天国を建設しようとされる神様のみ旨を立ててさしあげるために、そのようなサタンの要求を一蹴してしまわれたのです。
(3-122 ~ 123、1957.10.13)

 

⑧イエス様の比喩的教え

―宗教経典―

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
マタイによる福音書13.31 ~ 34(キリスト教)

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
マタイによる福音書13.10 ~ 13(キリスト教)


―み言選集―

イエス・キリストがこの地に来られ、30 年以上涙を流され、悲しい苦難の道を行かれながらみ言を宣布された目的は何だったのでしょうか。それは、第1に、人間をして神様との因縁を回復するためだったのであり、その次には、人間に天国を紹介するためでした。

このようにイエス様は、天国を紹介されるとき、み言で紹介されたのです。すなわち、真理で天国を紹介しようとされました。神様は、そのように人間と永遠不変の因縁を結ぶためのみ言、この地に天国理念を建設するためのみ言をイエス・キリストを通して人間たちに下さったのです。イエス様を通して真の真理を示そうとされました。

したがって、神様と人間の関係を結んであげるた
めに来られたのであり、真の真理を人間たちに証するために真理をもってこられたイエス様は、神様と人間と全被造万物が希望する天国を建設するために、真理のみ言を宣布し始められたのです。
ところが、イエス様がこのように神様と人間の因縁を回復するために真理を宣布してくださいましたが、その真理と因縁を結ばなければならないイスラエル民族がイエス様を不信することによって、イエス様のみ言宣布の目的は成し遂げられなくなりました。これを見るとき、イエス様が宣布された真理のみ言が、人間たちに100 パーセント伝達されなかったことが分かります。それは、当時の人間たちがイエス様を不信することによって、イエス様は彼らに比喩と象徴で、あるいは暗示的に真理を紹介してあげざるを得なかったからだということを皆さんは知らなければなりません。それで、この地に生きる大勢の人間たちは、歴史過程を経てきながらたくさんの知識を動員し、隠された真理の関門を尋ね求めてきたのです。

これから歴史の終末時代になれば、人間たちが内外に求めてきた神霊と真理が出会う時が来るのであり、また、大勢の民がイエス様を信じる真の信者として立つようになるのであり、イエス様の心の中に隠されていた真理も完全に紹介されるのです。(2-126 ~ 127、1957.3.17)
⑨弟子を集め、天国を教えたイエス

―宗教経典―

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
マタイによる福音書4.18 ~ 22(キリスト教)

「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書10.37 ~ 39(キリスト教)

イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに
行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。

僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」
ルカによる福音書14.16 ~ 24(キリスト教)

私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につなかっていなければ、実を結ぶことができない。

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。

父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。
私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネによる福音書15.4 ~ 11(キリスト教)

「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
マタイによる福音書10.16 ~ 20(キリスト教)

 

―み言選集―

民族から捨てられたイエス様は労働者の姿で現れ、漁夫の友の姿で、彼らと事情を共にする友になったのであり、心情を同じくする友になったのであり、願いを同じくする友となられ、彼らの願うことは何でも死ぬ覚悟をして成し遂げてあげようという心で闘われたのです。このような心的な内容と心的な理念をもって証し、闘われたがゆえに、ペテロのような漁夫たちがついていくことができたのです。

それでは、無学な弟子たちを選ばれて、3年間何をされたのでしょうか。神様がイスラエル民族を立てられるために4000 年間苦労して奉仕したのと同じように、イエス様は彼らを立てておいて奉仕の生活をされました。

12 弟子を選んでおかれたイエス様は、彼らに対する希望が大きかったのです。ユダヤ教団を動かし、祭司長たちとすべての書記官たちを主管するために天が送られたイエス様です。ですから、彼の理念は大きかったのであり、彼がもっている欲望も大きかったのであり、彼の心的基準も高かったのです。このような神様の実体理念をもち、一人の開拓者の立場で現れたイエス様を理解しなかった当時の祭司長たちと書記官たちは、堕落直後のアダムとエバよりもっとかわいそうな人たちだったということを皆さんは知らなければなりません。

ですから、イエス様は食べたいものがあっても、食べるものが見つかったとしても、それを忘れて弟子たちを訪ねられたのであり、着る衣服があれば、自分がぼろを着ていることを考えずに弟子たちに下さったのです。安らかな所があれば弟子たちをそこにおき、自分は卑しい所にいらっしゃいました。
(5-225、1959.2.1)

宗教を信じるのは救われようということであり、救われようというのは、完成の位置に行こうということです。それで、宗教者はどのような考えをするかというと、世の中のサタン圏内のいかなる愛よりも信じる教主を愛し、神様を愛そうと考えるのです。このように誓っていく道が宗教の道だということをはっきりと知らなければなりません。世の中の愛以上の愛の位置に行かなければならないのです。それが宗教者の行くべき道です。サタン世界に勝たなければなりません。

ですから、神様の愛はサタン世界以上の所から出発するのです。それで、聖書にあるイエス様が語られた言葉が「誰よりも私をもっと愛しなさい」という言葉です。それは、あなたの母や息子、娘、妻子や夫、誰よりも自分を愛さなければ父の息子、娘になれないということです。なぜそのようになるのかというのです。サタン世界の愛から現れてもそこから出発するのであり、メシヤの愛の因縁をもって天に入っていかなければならず、これが不可避的な原理的条件なので、そのようなみ言を語ら.ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
(93-326、1977.6.17)

空腹の事情によって責任者と心情的紐帯を結ぶことができるのであって、服を着ることで、生きることで、交わることではできません。迫害を受け、追い回され、そうしながら昼夜なく働かなければならず、責任分量は多いのでせざるを得ず、昼夜走り回りながらひたすらあなたも泣き、私も泣かなければなりません。泣くこと以外には心情的紐帯を受け継ぐ道がないというのです。それができない日には、日本であれ、韓国であれ、地球であれ、何であれ、ありません。

先生と心情的紐帯はどうであり、真の父母と心情的紐帯はどうだと言うのですが、それをどこから見いだすと思いますか。探してみてください。ありません。ひたすら追い出され、父母に拉致され、たたかれ、ひたすらこうでなければなりません。責任者たちはみなそのようにしてきたのであり、従う人たちがそのようにしてこそ、ここから新しい連結が成され、世界が反対しても断ち切ることのできない紐帯ができ、心情的価値の基盤が生じるのです。そのようになるとき、そのようなことが展開するのです。
(94-233、1977.10.1)

イエスの再臨に関する啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の様子に関しても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。すなわち、初臨のときに、神はメシヤが来られたという知らせを、祭司長や律法学者たちに与えられず、異邦の占星学者や純真な羊飼いたちに与えられたのであるが、これはあたかも、真の実子が無知であるために、やむを得ず、血統的なつながりをもたない義理の子に相談するというのとよく似ているといえよう。

また、イエスの再臨に関する知らせも、因習的な信仰態度を固守している今日のキリスト教指導者たちよりは、むしろ平信徒たち、あるいは、彼らが異邦人として取り扱っている異教徒たち、そして、良心的に生きる未信者たちにまず啓示されるであろう。

そして、初臨のときにイエスの福音を受け入れた人たちが、選民であったユダヤ教の指導者ではなく、賤民や異邦人であったように、イエスの再臨のときにも、選民であるキリスト教の指導者層よりも、むしろ平信徒、あるいは、非キリスト教徒たちが、まず彼のみ言を受け入れるようになるであろう。イエスが用意された婚宴に参席し得る人々が、前もって招待されていた客たちではなく、町の大通りで出会い、すぐに連れてこられる人々であるだろう、と嘆かれた理由は実にここにあったのである(マタイ22・8 ~ 10)。
原理講論、再臨論4

 

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