3.懺悔(悔い改め)
悔い改めは、神様との関係を回復し、本来の自身を求めていく最初の段階である。罪と執着、誤った見解などを、一様に認定して克服しなければならない。その時初めて、過去の習慣を捨てて新しい信仰の道を出発することができる。
私達に蓄積された罪と欺瞞は、神様の実存の認識・感知を歪曲させる障害物だ。したがって、神様の罪の赦しと人間のむなしい妄想を除去する前提条件は、何より悔い改めだ。天は悔いる者の人生に、いま一度恩赦を施されるのだ。悔い改めの内容を、祈祷を通して一つ一つ数え上げなければならない。胸から張り裂けんばかりのうめき声と、痛恨の涙の祈祷、過去の過ちを総蕩減する強烈な意志の祈祷、それが悔い改めである。その後、許しと解放、新しい洞察が人生の方向性を設定してくれることを悟ることが、真の悔い改めである。
文鮮明先生は、悔い改めとは個人的罪状を後悔する程度にとどまってはいけないと言われる。人間は誰でも、個人理想の意味をもっている。個人は歴史的な実として生まれた存在であり、さらには社会と国家と世界を代表した存在だ。したがって、個人を越えて先祖たちの誤り、国家の誤り、世界の誤りまで、すべて悔い改めできなければならない。私達が悔い改めを通してさらに奥深い境地に入れば、私達自身が神様の理想とどれくらい掛け離れているかを悟るようになる。
そして、私達を無限に抱きたいと思っても、私達の心に安着できなかった神様の曲折と苦痛が、どれほど大きかったのかも悟るようになる。このような内容をすべて改心できなければならない。したがって、私達は悔い改めを通して、霊魂の深いところに入り込んだ内的自我を発見する旅程に出ていかなければならない。
①罪の認定、告白、悔い改め
―宗教経典―
まことに神は、改悟して不断にかれに返る者をめでたまい、また清める者を愛したもう。
クルアーン2.222 (イスラーム)
悔い改めよ。天の国は近づいた。(注7)
マタイによる福音書3.2(キリスト教)
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を。神よ、あなたは侮られません。
詩編51.19 (キリスト教)
罪を隠すと罪は増長しますが、もし悔い改め慙愧すれば罪は消滅します。だから智者は罪を隠さないとブッダは言われました。
大般涅槃経(仏教)
悔吝を憂うるのは、善悪の微妙な介(目に見えぬほどの小さいきざし)を重んずるからであり、行動を起しても咎なきを得るのは、よく過ちを悔い改める努力にかかっている。(注8)
易経、周易繋辞上伝1.3.4 (儒教)
あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。(注9)
イザヤ書64.6 (キリスト教)
神の御意志どおりに考えていなければならず、神の御意志どおりに語っていなければならず、神の御意志どおりに行動していなければならない。もし私がそのように考え、そのように語り、そのように行動していなかったなら、私はその罪を悔い改める。私の考えと言葉と行動で悔い改め、すべての心を尽くして悔い改める。
パテット6(ゾロアスター教)
私達の罪悪は、はかり知れないほど多く、私達の悪行は限りがないので、おお、主よ! 慈悲を施してくださり、私達を罪悪から抜け出すようにしてください。私達は、極悪無道な罪人なので、抜け出す道が分かりません。おお、主よ! 敬愛する主よ! あなたが秤にかける私達の行為は、あなたの宮殿のどこにも置き場のないものですが、グルの恩寵により私達を赦され、あなたと一つになるようにしてください。
アーディ・グラント、スローク・ヴァークM.3、p.1416 (シーク教)
しかし、われはわが身にかくぞ問う、いつの時にかわれヴァルナに親しむを得ん、怒りを解きて彼わが供物を嘉(よみ)することやある、いつかまた心安けく神の憐れみを仰ぎ得んと。その罪をヴァルナよ、探り求めんとして、われはわが身に問い、問いたださんがために賢者たちに近づく。
詩人たちは等しくわれにいう、かのヴァルナ汝に怒ると。ヴァルナよ、わが最大の罪は何なりし、
友なる讃美者を、なれが殺さんと欲するにいたりしは。そをわれに明らかに告げよ、冒しがたき自律の神よ。われ切になが赦しを乞う、罪なからんと額ずきて。父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
たとえ私が浄土に対する真の信仰に帰依しているとしても、それにもかかわらず私の胸にはすべての心を尽くす誠実さがなかった。術策と偽りが私の体の中にあり、私の霊魂には清浄な光がない。
見た目にはすべての人々が勤勉で真実を語っているように見えるが、彼らの霊魂には貪欲と憤怒、そして不義な欺瞞が満ち、彼らの体の中には、偽りで狡猾な優越感が満ちている。
私の胸の中の悪があまりに強く、私はそれを克服できない。ゆえに私の霊魂は蛇の毒のようで、この毒が混ざった私の義なる行為さえも偽りの行為と呼ばなければならないだろう。
そのように私の霊魂には何の真実もないが、それにもかかわらず、聖なる名の功徳、悟ったその贈り物は、たとえ私はただの私だとしても、私の言葉を通して全世界にあまねく広がっていく。
私の霊魂には何の慈悲心もない。私の友の善行は私の両目には満足できない。もし慈悲の船、無限の知恵の聖なる約束がなかったなら、私がどうして苦痛の海を渡っていくことができるだろうか。
その心が蛇の毒のような狡猾さと欺瞞で満ち、私は義の行為を行うことができない。もし私達の父の贈り物に帰依所を見いださなければ、私は恥知らずな者の死を迎えるようになるだろう。
(注10)
親鸞(仏教)
―み言選集―
「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様はこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論は何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてを悔い改めなさいというのです。
(105-92、1979.9.30)
今から2000 年前にイエス様がこの地上に来て、最初にイスラエル民族に警告したことは、「悔い改めよ、天国は近づいた」だったことを私達は知っています。
(99-75、1978.9.1)
皆さんもよく知っていますが、父母に過ちを犯した子女が、その過ちを赦してもらうためには、必ず涙というものを流さなければなりません。涙というものを必ず経るようになっています。罪を犯した子女がいれば、どの国でも罰を与えます。棍棒でたたきます。必ずそこにはそのような罰が……。罰というものは何かというと、打つことです。苦痛を与えるのです。そのようにして何を
するのですか。苦痛を受けるようにするというのです。あらゆる分野で制裁を受けます。
ですから、悔い改めようとする人がいれば、涙を流さなければなりません。涙を流すときは、たくさんの痛みを感じなければなりません。自分が誤ったことに対して、罪を犯したことに対して、たたかれる以上、受ける苦痛以上に痛みを感じなければ悔い改めの道があり得ないことを知らなければなりません。
(99-77、1978.9.1)
皆さんは、悔い改めましたか。悔い改めもできない人が誰を助けてあげられるのですか。悔い改めたという公認を受けることができずに誰を救ってあげるのですか。どうやって救うことができますか。犯した罪の赦しを受けずに、罪を判決する判事になれますか。皆さんは、自らが罪人だと感じてみましたか。
歴史的な罪を背負っていることを知らなければなりません。その次には、世界的な現在の罪を背負っていることを知らなければなりません。その次に、未来の罪まで私が責任をもたなければならないことを知らなければなりません。三つの大きな罪を背負っていることを知らなければならないのです。
(99-90、1978.9.1)
人々は教会に行って、「私は何々の罪を犯しましたが、悔い改めますので、お赦しください」と祈祷します。しかし、それよりは、「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した罪、心情問題において犯した罪をお赦しください」と言わなければなりません。そのように悔い改めることによって、赦され、勝利し、お父様の認定を受けるなら、万事がすべて
解決するのです。天は、そのように悔い改める者に訪ねてこられます。
心情を通じた人には、世の中のあらゆるものが自分のものにもなるのです。それで、お父様の心情に通じた人は、世の中のどのようなものをもってきても、もっていっても、お父様には罪になりません。今後、天国世界では、隣の家に行って黙って食べたいものを食べたからといって、それが罪にはなりません。
なぜかというと、心情的に連結されているからです。心情を蹂躙した罪以上の大きな罪はないことを知らなければなりません。今日の私達は、神様の愛の心情を察していきながら、私達は神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げられないようにした妨害者だったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんは理解して、心情をかけて悔い改める人になることを願います。
(9-185、1960.5.8)
最近のアメリカで言えば、民主主義式で、人はすべて平等で自由なのに、恥がどこにあり、良心の呵責を受けることがどこにあるのかという思想が強いでしょう? 皆さんは、恥ずかしいと思ったことはありますか。皆さんが罪の意識を一度もってみたことがありますか。
もし皆さんが逆賊の息子であれば、どうしますか。逆賊の息子であれば堂々としていられますか。また、強盗の息子であればどうしますか。堂々としていますか。その次には、言葉にもできない、獣のような恥辱を感じる不倫の愛の関係をもっていれば、堂々としていられるかというのです。
もし自分がそのような罪を犯したなら、そのような罪を犯した人の息子、娘であれば、その子孫だと考えれば、顔を上げて、「ああ、私には自由が必要だ」と言うことができるのかというのです。また、「私は、この場でそのまま定着しなければならない」と言うことができますか。皆さん、誰彼を問わず「それはできない」と当然のように答えるのです。すべての人たちは、堂々として自由にする前に、まず何をしなければならないのかというと、死んで生き返らなければならないのです。赦しを受けるか、逆さまにひっくり返るか、清算する問題がなければなりません。
(66-14、1973.3.11)
足らない私達、どうしてお父様のみ前に出られる姿だと言えるでしょうか。どうして天に対して、
顔を上げることができるでしょうか。
私達自身は、千万回死んでも当然な存在であり、
罪悪の刑具に捕らわれ、審判の苦難を受けて当然な人間たちでございます。
それゆえに私達は、お父様の慈悲深いみ愛を願い、お父様の恩賜を願い、自らをありのままに告げる心で、ひれ伏しましたので、私達がもっているすべてのものをお父様の前に差し出し、正しくないことがあるならば、すべて清算できるよう
お許しくだざることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
(2-168、1957.4.14)
②国家的罪の悔い改め
―宗教経典―
もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下7.14(キリスト教)
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がっ
て王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(注11)
ヨナ書3.3 ~ 10(キリスト教)
―み言選集―
今まで宗教が扱い、さらにキリスト教が扱ってきたのは個人的な悔い改めです。個人的な悔い改めに重点を置いてきましたが、社会や国家、それ以上の次元に対する悔い改めには重点を置かなかったことを私達は知っています。
しかし、私達がイエス様や預言者たちを見るとき、彼らが主導的な役割をしたこととは何かと見れば、彼らは自分の悔い改めよりも、国と社会のために悔い改めるところに注力したことが分かります。
(99-75、1978.9.1)
皆さん、悔い改めましたか。皆さん自身の罪を悔い改めるために、先祖たちの罪を悔い改めるために涙を流していますか。その次に国を救うために、世界を救うために涙を流していますか。
涙は2種類です。救ってあげるために、悔い改めさせるために涙を流さなければなりません。2種類の涙を流さなければならないのです。そうしてこそ、悔い改めが起きます。
(99-90、1978.9.1)
神様が今まで復帰摂理をしてこられながら、まず人間に何を信じるようにされたのでしょうか。すなわち、再創造の役事を出発される前に、まず何を私達に体恤させられたのでしょうか。
それは喜びではありません。先に、私達の一身に対して悲しむ心がわき上がるようにされました。次に自分の家庭、社会、氏族、国家、世界、さらには天倫のために悲しむ心がわき上がるようにさ
れたのです。そうしてこそ、私達人間が神様の前に立ち得る道が開かれるようになるのです。
(4-51、1958.3.2)
③本当の悔い改めは行動の変化を伴う
―宗教経典―
悔悟して善い行いにいそしむ者は、心を入換えて神に改悟帰依し奉る者である。
クルアーン25.71(イスラーム)
君子は……あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。
論語1.8 (儒教)
罪を罪として認め、法に従って懺悔し、将来において自己抑制をするということ、それこそが、聖者〔ブッダ〕の戒律の繁栄というものであるからです。
阿含経長部1.85、沙門果経(仏教)
ある人が罪を悔い改めることは、どのように証明され得るのか。ラビ・ユダがこれについて言った。「二度も原罪を犯させる対象が自分に近づいた場合、その対象を遠ざける」。ラビ・ヨセ・ベン・ユダが言った。「もし犯罪を犯させる場合、一度、二度、三度までは赦されるが、四度目は赦されない」。
タルムード、ヨーマ86b (ユダヤ教)
罪を犯したとき、苦しみ悔悟することによってその罪から解放される。彼は「二度と同じことをするまい」と〔決意して〕止めることによって清められる。……
無意識であれ、意識的であれ、非難される行為をして、それから解放されることを望むならば、二度としてはならない。行為がなされたときに自分の心が重くなるようならば、満足をもたらすまでその行為に対しての苦行を行うべし。
マヌ法典11.231 ~ 34(ヒンドゥー教)
害であることを知りながらも繰り返し罪ある行動をする人には、贖罪と悔い改めは何の役にもたたない。
シュリーマッド・バーガヴァタム6.1 (ヒンドゥー教)
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。「なんじらは懲罰がくる前に、主に改悟して返り、かれに服従帰依せよ、その後では、なんじらは助けられないであろう」。
「なんじらが気づかぬうちに、懲罰が突然来る前に、主からなんじらに下された最も善い道に従え」。「魂がこう言わぬよう、『ああ情けない、わしは神への己れの義務を怠っていた、そしてちょう笑者のひとりであった』と」。「または、『神がわしを、お導き下されたならば、わしはきっと主を畏れまつったものを』、と、言わぬよう、または、刑罰を見たとき、『わしが1度現世に返れるならば、わしは必ず善い行ないをなす者のひとりであろう』と」。
クルアーン39.53 ~ 58(イスラーム)
永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
見よ、もし死ぬときまで悔い改めの日を引き延ばしたならば、見よ、あなたがたはすでに悪魔の霊の支配を受けるようになっているので、悪魔はあなたがたに自分のものであるという印を押す。したがって、主の御霊はもはや退き去って、あなたがたの内に決して宿ることはなく、悪魔があなたがたを支配するすべての力を得る。これが悪人の最後の状態である。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 35(末日聖徒イエス・キリスト教会)
―み言選集―
今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外で行ったり来たりして、結局は、私的におぼれる場合がたくさんあります。
しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び歯を食いしばって公的な生活に戻ります。そうして再び耐えられずに行ったり来たりして、再び私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると、公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。ですから、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
(31-242、1970.6.4)
喜びの日を迎えられた神様の前に、痛悔し、痛哭する心をもたなければなりません。「私はどうしてお父様を知ることができず、どうしてお父様が心配されるその立場が分からなかったのか!」と悔い改め、激憤しなければなりません。このように過去の自分の生活を反省する心をもてば、神様が同情できる余地があるのです。そのようにできない立場で、そのまま同参しようとしてもできないというのです。「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7・21)というみ言が聖書にあるのは、このような理由のためです。
(13-330、1964.4.14)
皆さんに最後まで残るのは悔い改めです。これができずに逝ってはいけません。
(99-110、1978.9.1)
4.人を裁いてはならない
世界経典は、私達の中に、誰も失敗から解放されていたり、完璧な者がいないため、たとえ他人の失敗が明白であっても、その人の誤りをむやみに審判するなと警告する。すべての経典の教えは、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」というイエス様の教えと同じである。文鮮明先生は3度の法則をおっしゃられる。人を審判する前に、自身をまず3度振り返ってみなさいという意味だ。さらには、人を正そうとする前に、自身がまず愛して助けてあげなければならないのである。
―宗教経典―
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる。
マタイによる福音書7.1 ~ 5(キリスト教)
他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまいます。狭滑な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
法句経252 ~ 253 (仏教)
卑劣な者は常に、他人の失敗はたとえからし種ほどに小さいものであってもみつける傾向があり、自分の失敗はたとえヴィルヴァの実ほどに大きいものであってもそれに対して目を閉ざし続ける。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)
あなたの同僚の立場に立ってみるまでは、決して同僚を裁いてはならない。(注12)
ミシュナ、アヴォート2.5 (ユダヤ教)
卵のかごをもっている人は、石の上で踊りを踊らない。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)
先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」
論語12.16 (儒教)
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私達は皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』、と」それで、私達は一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙14.10 ~ 12(キリスト教)
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどう、お考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(注13)
ヨハネによる福音書8.2 ~ 11(キリスト教)
まことの修行者というものは、世の人の過ちには目を向けぬ。もし人の咎に目を向けるなら、そのおのが咎にこそ道にもとるもの。人の咎ある心は私は謗らぬ。おのれの咎がもともと悪い。その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打ちくだくだけのこと。憎しみも愛も心にかかわることなく、長々と両足を延ばして寝る。
六祖壇経2(仏教)
人を誹誇して自分をたたえ、人の美徳をあえて知らないふりをしながら自分はもってもいない長所を誇る、これによって自ら卑賤になるだろう。自分には厳格だが人には寛大に赦し、人の長所を喜ぶが自らはもっていないことを恥ずかしく思う、これによって自ら尊貴な者となるだろう。
タットヴァルタ・スートラ6.25 ~27(ジャイナ教)
一み言選集―
人を批判してはいけません。問題は自分にあるからです。若い人たちの短所とは何かというと、木の枝のようにあちこちに伸びていることです。何の話か分かりますか。最初は素早く、よく見ます。何かをさっと見れば、何がどうでこうでとよく評価するのです。しかし、自分を忘れているのです。人を評価するなら、まず自分を3倍以上評価してから、その3分の1だけ評価しなさいというのです。
(25-93 ~ 94、1969.9.30)
人を判断するには、3年以上研究しなさい。
御旨の道、人格
自分が心で、誰はどうだと評価することはできません。自分自身が罪人だからです。祭司長の自分が責任を果たせなかったのに、どうして人に対する評価をするのですか。
(89-268、1976.12.4)
天から何かの恩賜を受けたならば、皆さんは公憤の心情をもち、天を身代わりしてサタンと闘うことができなければなりません。自分を中心として裁く行動をしてはいけません。このように、許諾された恩賜を受けた人が、自分を中心として楽しもうとしたり、自分を中心として人を裁こうとすれば、それは正しい信仰ではないので、許諾されたみ旨の道を歩むことはできないのです。
(2-201、1957.5.19)
自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。ですから、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。
批判するのは、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定することを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。ですから、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことはできず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。私達人間生活において歩んでいくときには、直行は絶対にできません。ジグザグに行くのです。
(76-141、1975.2.2)
私自身を見るのです。相手に対して話をする前に、自分自身を見なさいということです。相手を批判する前に自分自身を批判するのです、そして、皆さんが、一つ満点、二つ満点、三つ満点があれば、次には皆さんの好きなようにしなさいというのです。
イエス様は当時、このように言いました。姦淫を犯した女性を石で打ち殺そうとするとき、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのです。すると、みな逃げていぎました。
(118-245.246、1982.6.6)
5.自己否定
人々は、自身の利己心はよく見ることができない。利己的であり、貪欲な人々は、善行とはほど遠い。誰でもある程度は、利己心で汚れている。このような自己中心性は、外に露出して、無慈悲に攻撃を受けなければならない。そうでなければ、私達が言う善は、虚飾的であり、むなしいだけである。したがって、私達は、自身を否定しなければならない。
自分の肯定と快楽を追求する人生は、結局、空虚感と喪失で終わる。自己否定は、死と喪失に私達を導くように見えるが、事実は、神様と共にする豊かな人生へと私達を導いてくれる。
ここで私達は、また一つの逆説にぶつかる。イエス様は「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失うのであり、私と福音のために自分の命を失った者は救われるだろう」と語られた。この教えは、すべての世界的水準の宗教に共通に入っている内容だ。
文鮮明先生も、自己否定の価値に対して強調される。先生は、人間の堕落に対する自身の洞察力を基盤にして、人生の目的地に到達するのに、人間がこのように逆説的で不自然な道を歩まなければならない理由に対して説明される。
本来、神様が人間を愛と利他主義的性格を具現するように造られたが、堕落によって私達は、サタンの影響を受けた。サタンの本性は、完全な自己中心だ。したがって、私達の本性を回復するためには、まず誤った要素で汚染された自身を否定する、難しい過程が待っている。
―宗教経典―
私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8.34 ~ 35(キリスト教)
名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ〈修行僧〉とよばれる。
法句経367(仏教)
すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター2.71 (ヒンドゥー教)
道を体得した人間は、その名が世間に聞こえず、最高の徳をそなえた人間は、自分の徳を意識することがなく、無差別の境地に達した大人(たいじん)は、自己にとらわれることがない。
荘子17(道教)
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。教えを聞いた者よ、熟考せよ、この説明できない命題を。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)
律法は自分自身を全的に否定する者と共にある。
タルムード、ソーター21b (ユダヤ教)
「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈私は、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた。
「師よ、そういうことはありません。……もしも、尊敬さるべき人が、〈私は尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
金剛般若経9(仏教)
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書12.24 ~ 25(キリスト教)
記憶すべきことは、死を恐れる人はこれを避けることができず、不死を熱望する者も決してこれを成し遂げることはできない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教43(イスラーム)
おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)
石霜和尚が言った、「百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか」またある古徳が言った、「百尺の頭に座っている人は、[道に]入ることができたといってもまだホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に[自己の]全身を実現せねばならない」無門は評して言う――[百尺竿頭に]一歩を進めることができ、[十方世界に]自己を生まれ変わらすことができるなら、そのうえどこを嫌って[世]尊といえない所があろう。それはそうだが、まあ言うてみよ、百尺の竿の頭で、どう一歩進めるか。ああ!(注14)
無門関46(仏教)
こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
法句経134 (仏教)
顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる……。」
論語12.1 (儒教)
この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
法句経46(仏教)
―み言選集―
絶対的な信仰は、自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。
御旨の道、信仰生活
天の国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だということです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためのものです。そうしてこそ、サタンがついてくるひもがあれば、そのすべてのひもを完全に切っておかなければなりません。皆さん、絹糸のようなものが世界にぶら下がっています。それをかみそりのようなもので切ってしまわなければなりません。
(122-13、1982.10.31)
イエス様のような方は、何をするためにこの地に来たのですか。イエス様は、生きることを願い、中心存在になることを願い、うれしいことを願う前に、まず死ななければならないことを見せてくださいました。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ、生かせる道がありません。イエス様が「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高く
されるであろう」と語られたのも、そのような意味です。逆説的な言葉です。
自分を中心として個人を尊重し、個人をより中心の価値的存在として認めるこの世の中を、打破しようというのです。「私一人のために生きなさい」と言うとき、みな散らばっていきます。驕慢な人はみな嫌うのです。しかし、「私はあなたを高めてあげよう」と言うときは、みな喜ぶのです。(67-182、1973.6.10)
自分を意識し始めたのが堕落です。この体を否定しなければなりません。自己否定をすることによって、自らを意識した悪魔サタンを除去し、「ために生きる」ことができる立場に立つことによって神様に帰依するのが宗教を通じた救いの道であり、愛の理念を通して統一していく方法であることを、はっきりと知らなければなりません。
(214-65、1991.2.1)
サタンは、ほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために、ねたみと、しっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し、審判しなさい。サタンはいつも、私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。
御旨の道、試験、試練
自分のために生きることは、自分で終わるのであり、人のために生きることは、永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。
それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。ところが、対象圏を踏みにじる世界的主体は存在できません。世界的主体は、世界を輝かせるための主体にならなければなりません。
公的な道は、自分を否定するところから始まります。自分を否定するからといって、自分がなくなるのではありません。また、ほかの相対価値で自分を見いだそうとするところから、善は始まるのです。これは、善が発展する原則的な法度であり道です。これを皆さんは知らなければなりません。
(57-63、1972.5.28)
アジアは今まで蕩減ばかりをしてきたのであり、皆さんは豊かに暮らしてきました。昔の宗教は、蕩減をしなければならないので、もっているものをすべて捨てました。それをすべて西欧の人たちがもっていったのです。自分を立てて物質をもつので、アジアとちょうど反対です。そのような立場で自分を中心として物質をもってみると、精神的に完全に欠如したというのです。
(97-67 ~ 68、1978.2.26)
自分が生まれて今まで成長してきた、その基準を認める以上、永遠に一つになれません。ほかの国、ほかの民族、ほかの民族と一つになれないだけでなく、自分の専門分野以外の人とも一つになれないのです。すべてが一つになれる簡単な方法は何かというと、絶対無視することです。完全に否定することによって、どこでも連結されるのです。
(360-192、2001.11.16)
6.肉的欲望の統制
すべての宗教で究極的実在を渇望する求道者は、欲望を統制して肉身の欲求を抑制しなければならないことに同意している。過酷な自己統制、断食、何時間かの参禅修行などを通し、体を打って体の力を弱くすることは、すべて肉的欲望に対抗して究極的にこれを制圧する良い方法である。
人にとって最も大きな挑戦は、性欲主管である。イエス様は、誘惑に対して容赦のない教えを下さった。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」。実際に仏教のある尼僧は、自身の罪ではないが、相手方の罪を抜き取るためにこのようにしたと伝えられている。仏教では、肉身を一つの液体と水液、胆汁、糞尿などで形成された塊と見ることで、「肉身
の不快感」に対して瞑想する修行を奨励する。これは、異性を見つめるときに生じる性的欲求を弱くするためである。
文鮮明先生は、やはり体を「サタンの舞踏会場」とみなし、体に対する不快な感情を通して性欲を自制するように忠告される。自己主管と関連したみ言は、第12 章の「道徳性」に記述されている。
しかし、私達にとって完璧な自己主管というのは、ほぼ不可能である。文鮮明先生は、これが人間堕落により引き起こされた結果だと説明される。自然に形成されないものなどに対しては、強力で極端な修行が必要である。したがって、宗教は、体を打って欲望を抑制するために、程度の高い無慈悲な方法を開発してきた。いくつかの宗教では、このような修行が修道院の制度として体系化されたこともある。皆がこの道を実践できなくても、この地に生きていく人であれば、誰でもこの目的に向かって努力する姿勢が必要である。
①肉的欲望の制御
―宗教経典―
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペテロの手紙一2.11 (キリスト教)
欲望を捨てよ、不死を成すだろう。
阿含経相応部47.37(仏教)
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイの信徒への手紙3.5 ~ 8(キリスト教)
それで、主からの明証の上にある者と、己れの悪い行いをりっぱだと考え、その私欲に従う者と、同じであろうか。
クルアーン47.14(イスラーム)
ただ肉欲を完全に根絶するとき、私達は暴力を捨てることができる。
アーヤーランガ・スッタ4.45 (ジャイナ教)
純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て。
道徳経19(道教)
かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.7(ヒンドゥー教)
光と影のように、楽と苦は日常のことであるのを知り、ただ自らの心の欲望を治めよ。
アーヤーランガ・スッタ2.78(ジャイナ教)
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
論語16.7(儒教)
比丘たち、これら三つの感受がある。三つとは何か。楽しみの感受、苦しみの感受、楽しみでも苦しみでもない感受である。比丘たち、楽しみの感受は苦しみとして見られるべきである。苦しみの感受は毒矢として見られるべきである。苦しみでも楽しみでもない感受は無常として見られるべきである。
まことに、比丘たち、比丘にとって楽しみの感受が苦しみとして見られ、苦しみの感受が毒矢として見られ、苦しみでも楽しみでもない感受が無常として見られる時、比丘たち、その比丘は聖者、正しく見る者と言われる。
如是語経53(仏教)
―み言選集―
心と体が対等であるために闘うのです。ですから、体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-272、1971.1.8)
宗教は、どのようにすれば体を取り押さえることができるか、という代案を提示しなければなりません。強制で拘束しなければなりません。体がしようとすることはすべて許してはいけないというのです。これが宗教で教える教理です。それで、「劇場街には行ってはいけない、ソウルに行くなら鍾三通り(鍾路三街通り)は歩いてもいけない」と言って、すべて止めるのです。「男性たちは
若い女性のおしりについて回るな。若い女性は男性をすべてどろぼうだと思ってよそ見をするな」と言います。
統一教会の若い女性たちは、恋愛できますか。できません。また統一教会の若い男性たちは、恋愛できますか。できません。それでは、先生が強制で「恋愛するな」と言うのですか。違います。したければしてみなさいというのです。しかし、できないようになっています。そのようなことを強制的にやらせないようにすれば、もっとやります。自分たちがやってみて、自分で悟らなければなりません。
体をどのようにしなければなりませんか。克服しなさいというのです。善に向かっていく道は克服を要します。体の欲望をつかんで首の根っこをひねるのです。体は驕慢を好みます。すべて、自分のために生きようとするのです。「私のものは私のものであり、あなたのものも私のもの」という考え方です。体はそのようなことを願います。
(39-193、1971.1.10)
若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に、……。
ですから、宗教は体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。天国に行きたければ、人間の地獄世界に行って天国をつくりなさいということです。
この世の中は、悲惨な世の中ですか、幸福な世の中ですか。悲惨な世の中です。このような悲惨で混乱し、混沌となった世界が幸福な世界になろうとすれば、御飯を食べ、ひたすら遊び、酒を飲み、踊りを踊り、そのようにしていつ幸福な世界ができますか。もっと悲惨になりますか。悲惨でなくなりますか。もっと悲惨になるのです。ですから、結論を下さなければなりません。このような悲惨な世界を幸福な世界にしようとする人は、もっと悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。もっと悲惨なところから取り戻さなければ、取り戻せません。その道しかないのです。それでもなければ、神様もいないのであり、すべていないというのです。
(91-286 ~ 287、1977.2.27)
体を打つのは、サタンをなくそうということです。さらには、この体を打つことによって、その体を誰が占領できるのかというと、聖霊が占領できるのです。それで、私達が体を打つのは、聖霊が体を占領するための条件でもあるのです。
私の体を打つのは、結果的にサタンを打つことになるので、私の体を打つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンが占領して
いたものを、代わりに聖霊が占領するようにしようというのです。(1-126、1956.6.27)
②体に対する嫌悪感と腐敗した感覚
―宗教経典―
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄ではうじが尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.43 ~ 48(キリスト教)
シーヴァカの楽しいマンゴー林に行こうとしていた尼僧スバーを、一人の好色漢が道をさえぎった。スバー尼は、かれに告げて言った。「あなたは、私(の行く手)をさえぎって立っていますが、私は、なにか過ちをしたのでしょうか? 友よ、男子が尼僧に触れるのは、よろしくありません。私の師の尊い教えには、幸福な人(ブッダ)が説き示した学ぶべきことがらがあります。行ないが清らかで、けがれのない私を、あなたは、なぜさえぎって立っているのですか? 濁らず、けがれなく、清潔で、完全に心が解脱した私を、心濁りけがれたあなたは、なぜさえぎって立って
いるのですか?」
「あなたは、若くて美しい。出家してもつまらないではありませんか? いらっしゃい、黄衣をすてて、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。落花粉々たる木々は、四方に甘い香りを放っでいます。初春は、楽しい時季です。いらっしゃい、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。」
「妖精キンナリーのごとき柔和な眼をした婦人よ、あなた以上に愛すべき人は、この私にはないからです。もしも、あなたが私のことばを聞いてくださるならば、あなたは幸せとなりましょう。いらっしゃい、在家の生活を営んでください。静かな高殿に住む者として、あなたは、侍女たちにかしずかれるでしょう。カーシ産の贅美な(衣服)をつけて、(身を)飾って下さい。花飾りや顔料、黄金・摩尼珠・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたに与えましょう。よくよごれを洗い去った美しい天蓋があり、新しい掛け布と敷
物をしき、栴壇の香木で美しく作られ、その木の香りがする高価な臥床に上って(寝て)ください。……」
「死骸に満ち、墓田を増大し、破壊される性質のあるこの身体を、あなたは、誤った思いで見ています。納得できるどのような本質も、このあなたの考えにはありません。」
「あなたの眼は、山のなかの牡鹿や妖精キンナリーのそれのようです。あなたの眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。あなたの蓮の花に似た顔、けがれのない黄金に似た顔、そして眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、私は、長いまつ毛と、清く澄んだ眼を思い出すでしょう。……」
「暗愚な人よ。目の前に現れた幻影のごとく、夢のなかの黄金の樹のごとく、人々のなかで(見世物のために)作られた像のごとく、うつろなものを(追い求めて)、あなたは走っている。あたかも、(眼は)樹洞のなかに付着した樹脂の塊りのようであり、(眼の)中央に泡状のものがあり、涙を出し、目やにもそこに生じます。(形の上では)多種多様の眼球があります。」
眉目うるわしく、こころに執着のない(スバー尼)は、(眼を)えぐりとって、(それに愛着を)起さず、“さあ、眼をあなたのものとして、おもちください”(と言って)、即座に、これをかの男に与えた。
かれの愛欲の念も、即座に消えうせ、彼女に許しを乞うて言った。“清らかな行ないをなす人よ、幸いあれ。このようなことは、二度としますまい”と。
(また、)あたかも、燃えた火を抱くように、また、毒蛇をつかむように、私は、このような人を害った。(そうした私に)、幸運がくるであろうか?私をお許しください”と。かの尼僧は、その男から脱れて、すぐれたブッダの御許に来た。(ブッダの)偉徳あるすがたを見て、(彼女の)眼は、元どおりとなった。
長老尼の詩366 ~ 399 (仏教)
諸比丘よ、色は無我なり。若し此色、我なりせば、此の色は病を致すこと無けん、色に於て「我は此色を用いん、彼色を用ふまじ」といふことを得ん。然るに、色は無我なるが故に、色は病を致し、色に於て「我は此色を用ひん、彼色を用ふまじ」といふことを得ず。受は無我なり。若し此受、我なりせば、此受は病を致すこと無けん、受に於て「我は此受を用ひん、彼受を用ふまじ」といふことを得ん……想は無我なり……行は無我なり……識は無我なり。若し此識、我なりせば此識は病を致すこと無けん、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ん。然るに識は無我なるが故に識は病を致し、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ず。諸比丘よ、汝等の意に於て如何、色は常住なりや無常なりや。大徳よ、無常なり。無常なるものは苦なりや楽なりや。苦なり。苦にして変易の法あるものを観見して「此、我所なり、此我体なり」と為すことを得るや。不なり。
受……想……行……是故に所有る色の過去・未来・現在、鹿・細、劣・勝、遠・近なるは此、我所に非ず、此、我に非ず、此我体に非ずと、是の如く正慧を以て如実に観ずべし。
所有る受……想……行……識の、過去・未来・現在、内外、鹿・細、劣・勝、遠近なるは此、我所に非ず、……諸比丘よ、多聞の聖弟子、是の如く観ぜば即ち色を厭患し受……想……行……識を厭患す、厭患せば即ち離貪す、離貪せば即ち解脱す、解脱せば即ち己に解脱すといふ智生じ、生已に尽き梵行已に立し所作已に弁じ更に後有を受けずと知る。
阿含経相応部iii.66 ~ 68(仏教)
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
法句経350 (仏教)
口は、汚れた唾液や歯垢など不浄物の容器であり、鼻は膿汁・粘液・鼻水の容器であり、眼は眼脂や涙の容器であります。腹部は糞や尿、肺や肝臓などの容器であります。愚か者は女性をこのように見ず、女性の身体に愛着しています。たとえば、無知の人が不浄物を満たした瓶(へい)の飾りに愛着するように、この世において無知の人は、迷妄のために女性に愛着します。
身体という対象は、きわめて悪臭に満ち、愛着を離れる因でありますが、世の人びとはそれさえも強く愛着しているとすると、いかなるものに対して愛着を離れることがありましょうか。たとえば、豚は糞や尿に満ちた場所や汚物に貪着(とんぢ
ゃく)していますが、それと同じように、人びとは糞や尿に満ちたところに欲望を起こし、汚物に貪着する豚のように、それに愛着しています。身体は(うじ虫の)城であり、不浄物が生じる門のようなものでありますが、それを愚か者は快楽の対象として追い求めています。あなたが自ら糞や尿などをそれぞれ不浄である、とみなすならば、それらの不浄物が集まっている身体が、どうして願わしいものとなりましょう。
血液と精液とに混じり合った不浄物の精子は、胎(はら)に宿って生長します。不浄物の本性を知りながら、いったいだれがこれ(胎)に欲望を起こして愛着するでありましょうか。湿りに濡れた覆いでつつまれ眠っている不浄物の塊りであるもの、それが女性の下腹部で眠りこけているのです。(注15)
龍樹宝行王正論149 ~ 157(仏教)
引き下がりなさい、私はあなたが嫌いです!愚か者、私のサリー(衣)をつかんではなりません!
牝牛は生命の事を煩い、畜殺者は殺す事を煩うのです!敬虔な者は高潔な事を思い、卑劣な者は邪悪な事を思うのです!私は自分の魂を思い、あなたは欲情に駆られる。……なんとみっともないこの身体!
あなたはなぜこの糞便の瓶、尿の壷、骨で出来た枠、膿の悪臭を愛して、自らを落としめるのですか! 愚か者よ、主シヴァを思いなさい!(注16)
アッカーマハーデーヴィーヴァチャナ15、30(ヒンドゥー教)
―み言選集―
この目と鼻と耳と口と手、すべて二つの道と接触しています。私のために見る目は、悪魔の目になるのであり、私のために嗅ぐ鼻は、悪魔の鼻になるのであり、私のために聞く耳は、悪魔の耳になるのです。
国を前におくか、世界を前におくか、天地を前におき、横的には世界を前におき、縦的には神様と天の国を前におき、神様の立場で「ために生きる」目をもって見なければなりません。その目は、自分の将来の出世のためのものではありません。私がこのように勉強するのは、国を生かすためであり、万民の解放のためです。「ために生きる」ことなのです。
(214-66、1991.2.1)
夜、帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て、「この目、鼻、耳、手、足、いつも問題だ」と語りながら、「お前はきょう罪になることをしなかったか」と尋ねてみるのです。そのようなことを目で見て、言葉で語り、行動し、権力で行った、そのようなことをすべて払いのけ、勧告して方向を変えられる能力がなければならないということです。
(122-266、1982.11.21)
この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。ですから、神様の目をつくり、神様の耳をつくり、神様の鼻をつくり、神様の口をつくり、神様の手足をつくり、いつでも一つになることができ、世界のために生き得る私を取り戻さなければなりません。
皆さんの中に地獄と天国の境界線があります。右側に行けば天国であり、左側に行けば地獄です。左側に行けば地獄を行ったり来たりしますか、しませんか。神様のために死のうが生きようが、み旨を中心として行こう、ということです。しかし、まだここで、一生の間このようにしている人がいます。
皆さんは、3種類の中で、どの種類に属していますか。統一教会の教会員の中には、この3種類の人がいます。皆さんはどこに属しているか分かるでしょう。絶対に分からないということはないのです。ここ(A)にいますか、ここ(B)にいますか、ここ(C)にいますか。みな「Aだ」と言うので、欲が深いです。苦労なことがあるというのです。すべて反対です。今まで見てきたことの100 パーセント反対です。
若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は、体を打ちなさいと命令をしています。
真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。
(91-286、1977.2.27)
女性たちに、どれほど誘惑が多いですか。自分の顔立ちが良ければ、「私はこの顔が嫌いだ!」と反対の態度を取らなければなりません。
(116-19、1981.12.1)
皆さんが、胸が痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
(214-285、1991.2.3)
私自体にはサタンの血が入っています。その次には、サタンの所有欲が入ってきています。その次には、自分を中心とするサタンが入ってきているのです。このようなことを見るとき、「私」という存在の中で、サタンの愛と、サタンの欲心と、サタン自体が私をまとっていると考えればよいのです。
ここにいる、このサタンを抜き出さなければなりません。サタンの血筋を抜き出し、サタンの欲望を抜き出し、自分中心的なサタンの要素を抜いでしまわなければなりません。何をもって抜き出せるのでしょうか。神様が宗教を立て、復帰摂理、救援摂理をする目的とは何かというと、これを断ち切ることなのです。
(115-42、1981.10.28)
宗教は、体が好むものを否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。
人は本来食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。また、ごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。
私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでも
よく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
(18-66、1967.5.21)
アダムはエデンの園を歩き回り、エバは木の下で泣いているとき、天使長が見てあげながら、おんぶして歩いたり、座ってひざの上に座らせたりもするのです。そのようなときに生殖器が触れるのですが、周りで動物たちが子を産むのを見ると「あのようにして子を産むのだなあ」と思うのです。それで、一度「えい」と力を入れればすべて終わります。男性と女性の生殖器が触れ合えば、
人はみな喜ぶというのです。そのようなことが起きます。堕落したときに、そのようになっていったのです。
皆さん、男性たちに女性がそのようにしていけば、じっとしていますか、「えい」としますか。最高の美しい女性が近づいてきて生殖器を触るとき、それが起きますか、起きませんか。男性たち? それが起きてはいけません。ですから、皆さんは、いくら美人を座らせても、その生殖器が起きてはいけないのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。それが蕩減です。もし美人が座ってそれを強制的に入れようとすれば、蹴飛ばして見えない所に飛ばしてしまわなければならないのです。
(285-201 ~ 202、1997.5.4)