人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-65

2022年08月07日 15時12分40秒 | 学習


3.懺悔(悔い改め)


悔い改めは、神様との関係を回復し、本来の自身を求めていく最初の段階である。罪と執着、誤った見解などを、一様に認定して克服しなければならない。その時初めて、過去の習慣を捨てて新しい信仰の道を出発することができる。


私達に蓄積された罪と欺瞞は、神様の実存の認識・感知を歪曲させる障害物だ。したがって、神様の罪の赦しと人間のむなしい妄想を除去する前提条件は、何より悔い改めだ。天は悔いる者の人生に、いま一度恩赦を施されるのだ。悔い改めの内容を、祈祷を通して一つ一つ数え上げなければならない。胸から張り裂けんばかりのうめき声と、痛恨の涙の祈祷、過去の過ちを総蕩減する強烈な意志の祈祷、それが悔い改めである。その後、許しと解放、新しい洞察が人生の方向性を設定してくれることを悟ることが、真の悔い改めである。


文鮮明先生は、悔い改めとは個人的罪状を後悔する程度にとどまってはいけないと言われる。人間は誰でも、個人理想の意味をもっている。個人は歴史的な実として生まれた存在であり、さらには社会と国家と世界を代表した存在だ。したがって、個人を越えて先祖たちの誤り、国家の誤り、世界の誤りまで、すべて悔い改めできなければならない。私達が悔い改めを通してさらに奥深い境地に入れば、私達自身が神様の理想とどれくらい掛け離れているかを悟るようになる。


そして、私達を無限に抱きたいと思っても、私達の心に安着できなかった神様の曲折と苦痛が、どれほど大きかったのかも悟るようになる。このような内容をすべて改心できなければならない。したがって、私達は悔い改めを通して、霊魂の深いところに入り込んだ内的自我を発見する旅程に出ていかなければならない。




①罪の認定、告白、悔い改め


―宗教経典―


まことに神は、改悟して不断にかれに返る者をめでたまい、また清める者を愛したもう。
クルアーン2.222 (イスラーム)


悔い改めよ。天の国は近づいた。(注7)
マタイによる福音書3.2(キリスト教)


神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を。神よ、あなたは侮られません。
詩編51.19 (キリスト教)


罪を隠すと罪は増長しますが、もし悔い改め慙愧すれば罪は消滅します。だから智者は罪を隠さないとブッダは言われました。
大般涅槃経(仏教)


悔吝を憂うるのは、善悪の微妙な介(目に見えぬほどの小さいきざし)を重んずるからであり、行動を起しても咎なきを得るのは、よく過ちを悔い改める努力にかかっている。(注8)
易経、周易繋辞上伝1.3.4 (儒教)


あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。(注9)
イザヤ書64.6 (キリスト教)


神の御意志どおりに考えていなければならず、神の御意志どおりに語っていなければならず、神の御意志どおりに行動していなければならない。もし私がそのように考え、そのように語り、そのように行動していなかったなら、私はその罪を悔い改める。私の考えと言葉と行動で悔い改め、すべての心を尽くして悔い改める。
パテット6(ゾロアスター教)


私達の罪悪は、はかり知れないほど多く、私達の悪行は限りがないので、おお、主よ! 慈悲を施してくださり、私達を罪悪から抜け出すようにしてください。私達は、極悪無道な罪人なので、抜け出す道が分かりません。おお、主よ! 敬愛する主よ! あなたが秤にかける私達の行為は、あなたの宮殿のどこにも置き場のないものですが、グルの恩寵により私達を赦され、あなたと一つになるようにしてください。
アーディ・グラント、スローク・ヴァークM.3、p.1416 (シーク教)


しかし、われはわが身にかくぞ問う、いつの時にかわれヴァルナに親しむを得ん、怒りを解きて彼わが供物を嘉(よみ)することやある、いつかまた心安けく神の憐れみを仰ぎ得んと。その罪をヴァルナよ、探り求めんとして、われはわが身に問い、問いたださんがために賢者たちに近づく。


詩人たちは等しくわれにいう、かのヴァルナ汝に怒ると。ヴァルナよ、わが最大の罪は何なりし、
友なる讃美者を、なれが殺さんと欲するにいたりしは。そをわれに明らかに告げよ、冒しがたき自律の神よ。われ切になが赦しを乞う、罪なからんと額ずきて。父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
たとえ私が浄土に対する真の信仰に帰依しているとしても、それにもかかわらず私の胸にはすべての心を尽くす誠実さがなかった。術策と偽りが私の体の中にあり、私の霊魂には清浄な光がない。
見た目にはすべての人々が勤勉で真実を語っているように見えるが、彼らの霊魂には貪欲と憤怒、そして不義な欺瞞が満ち、彼らの体の中には、偽りで狡猾な優越感が満ちている。


私の胸の中の悪があまりに強く、私はそれを克服できない。ゆえに私の霊魂は蛇の毒のようで、この毒が混ざった私の義なる行為さえも偽りの行為と呼ばなければならないだろう。


そのように私の霊魂には何の真実もないが、それにもかかわらず、聖なる名の功徳、悟ったその贈り物は、たとえ私はただの私だとしても、私の言葉を通して全世界にあまねく広がっていく。


私の霊魂には何の慈悲心もない。私の友の善行は私の両目には満足できない。もし慈悲の船、無限の知恵の聖なる約束がなかったなら、私がどうして苦痛の海を渡っていくことができるだろうか。
その心が蛇の毒のような狡猾さと欺瞞で満ち、私は義の行為を行うことができない。もし私達の父の贈り物に帰依所を見いださなければ、私は恥知らずな者の死を迎えるようになるだろう。
(注10)
親鸞(仏教)






―み言選集―


「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様はこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論は何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてを悔い改めなさいというのです。
(105-92、1979.9.30)


今から2000 年前にイエス様がこの地上に来て、最初にイスラエル民族に警告したことは、「悔い改めよ、天国は近づいた」だったことを私達は知っています。
(99-75、1978.9.1)


皆さんもよく知っていますが、父母に過ちを犯した子女が、その過ちを赦してもらうためには、必ず涙というものを流さなければなりません。涙というものを必ず経るようになっています。罪を犯した子女がいれば、どの国でも罰を与えます。棍棒でたたきます。必ずそこにはそのような罰が……。罰というものは何かというと、打つことです。苦痛を与えるのです。そのようにして何を
するのですか。苦痛を受けるようにするというのです。あらゆる分野で制裁を受けます。


ですから、悔い改めようとする人がいれば、涙を流さなければなりません。涙を流すときは、たくさんの痛みを感じなければなりません。自分が誤ったことに対して、罪を犯したことに対して、たたかれる以上、受ける苦痛以上に痛みを感じなければ悔い改めの道があり得ないことを知らなければなりません。
(99-77、1978.9.1)


皆さんは、悔い改めましたか。悔い改めもできない人が誰を助けてあげられるのですか。悔い改めたという公認を受けることができずに誰を救ってあげるのですか。どうやって救うことができますか。犯した罪の赦しを受けずに、罪を判決する判事になれますか。皆さんは、自らが罪人だと感じてみましたか。


歴史的な罪を背負っていることを知らなければなりません。その次には、世界的な現在の罪を背負っていることを知らなければなりません。その次に、未来の罪まで私が責任をもたなければならないことを知らなければなりません。三つの大きな罪を背負っていることを知らなければならないのです。
(99-90、1978.9.1)


人々は教会に行って、「私は何々の罪を犯しましたが、悔い改めますので、お赦しください」と祈祷します。しかし、それよりは、「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した罪、心情問題において犯した罪をお赦しください」と言わなければなりません。そのように悔い改めることによって、赦され、勝利し、お父様の認定を受けるなら、万事がすべて
解決するのです。天は、そのように悔い改める者に訪ねてこられます。


心情を通じた人には、世の中のあらゆるものが自分のものにもなるのです。それで、お父様の心情に通じた人は、世の中のどのようなものをもってきても、もっていっても、お父様には罪になりません。今後、天国世界では、隣の家に行って黙って食べたいものを食べたからといって、それが罪にはなりません。


なぜかというと、心情的に連結されているからです。心情を蹂躙した罪以上の大きな罪はないことを知らなければなりません。今日の私達は、神様の愛の心情を察していきながら、私達は神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げられないようにした妨害者だったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんは理解して、心情をかけて悔い改める人になることを願います。
(9-185、1960.5.8)


最近のアメリカで言えば、民主主義式で、人はすべて平等で自由なのに、恥がどこにあり、良心の呵責を受けることがどこにあるのかという思想が強いでしょう? 皆さんは、恥ずかしいと思ったことはありますか。皆さんが罪の意識を一度もってみたことがありますか。


もし皆さんが逆賊の息子であれば、どうしますか。逆賊の息子であれば堂々としていられますか。また、強盗の息子であればどうしますか。堂々としていますか。その次には、言葉にもできない、獣のような恥辱を感じる不倫の愛の関係をもっていれば、堂々としていられるかというのです。


もし自分がそのような罪を犯したなら、そのような罪を犯した人の息子、娘であれば、その子孫だと考えれば、顔を上げて、「ああ、私には自由が必要だ」と言うことができるのかというのです。また、「私は、この場でそのまま定着しなければならない」と言うことができますか。皆さん、誰彼を問わず「それはできない」と当然のように答えるのです。すべての人たちは、堂々として自由にする前に、まず何をしなければならないのかというと、死んで生き返らなければならないのです。赦しを受けるか、逆さまにひっくり返るか、清算する問題がなければなりません。
(66-14、1973.3.11)
足らない私達、どうしてお父様のみ前に出られる姿だと言えるでしょうか。どうして天に対して、
顔を上げることができるでしょうか。


私達自身は、千万回死んでも当然な存在であり、
罪悪の刑具に捕らわれ、審判の苦難を受けて当然な人間たちでございます。


それゆえに私達は、お父様の慈悲深いみ愛を願い、お父様の恩賜を願い、自らをありのままに告げる心で、ひれ伏しましたので、私達がもっているすべてのものをお父様の前に差し出し、正しくないことがあるならば、すべて清算できるよう
お許しくだざることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
(2-168、1957.4.14)






②国家的罪の悔い改め


―宗教経典―


もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下7.14(キリスト教)


ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がっ
て王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。


「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(注11)
ヨナ書3.3 ~ 10(キリスト教)




―み言選集―


今まで宗教が扱い、さらにキリスト教が扱ってきたのは個人的な悔い改めです。個人的な悔い改めに重点を置いてきましたが、社会や国家、それ以上の次元に対する悔い改めには重点を置かなかったことを私達は知っています。


しかし、私達がイエス様や預言者たちを見るとき、彼らが主導的な役割をしたこととは何かと見れば、彼らは自分の悔い改めよりも、国と社会のために悔い改めるところに注力したことが分かります。
(99-75、1978.9.1)


皆さん、悔い改めましたか。皆さん自身の罪を悔い改めるために、先祖たちの罪を悔い改めるために涙を流していますか。その次に国を救うために、世界を救うために涙を流していますか。


涙は2種類です。救ってあげるために、悔い改めさせるために涙を流さなければなりません。2種類の涙を流さなければならないのです。そうしてこそ、悔い改めが起きます。
(99-90、1978.9.1)


神様が今まで復帰摂理をしてこられながら、まず人間に何を信じるようにされたのでしょうか。すなわち、再創造の役事を出発される前に、まず何を私達に体恤させられたのでしょうか。


それは喜びではありません。先に、私達の一身に対して悲しむ心がわき上がるようにされました。次に自分の家庭、社会、氏族、国家、世界、さらには天倫のために悲しむ心がわき上がるようにさ
れたのです。そうしてこそ、私達人間が神様の前に立ち得る道が開かれるようになるのです。
(4-51、1958.3.2)




③本当の悔い改めは行動の変化を伴う


―宗教経典―


悔悟して善い行いにいそしむ者は、心を入換えて神に改悟帰依し奉る者である。
クルアーン25.71(イスラーム)


君子は……あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。
論語1.8 (儒教)


罪を罪として認め、法に従って懺悔し、将来において自己抑制をするということ、それこそが、聖者〔ブッダ〕の戒律の繁栄というものであるからです。
阿含経長部1.85、沙門果経(仏教)


ある人が罪を悔い改めることは、どのように証明され得るのか。ラビ・ユダがこれについて言った。「二度も原罪を犯させる対象が自分に近づいた場合、その対象を遠ざける」。ラビ・ヨセ・ベン・ユダが言った。「もし犯罪を犯させる場合、一度、二度、三度までは赦されるが、四度目は赦されない」。
タルムード、ヨーマ86b (ユダヤ教)


罪を犯したとき、苦しみ悔悟することによってその罪から解放される。彼は「二度と同じことをするまい」と〔決意して〕止めることによって清められる。……


無意識であれ、意識的であれ、非難される行為をして、それから解放されることを望むならば、二度としてはならない。行為がなされたときに自分の心が重くなるようならば、満足をもたらすまでその行為に対しての苦行を行うべし。
マヌ法典11.231 ~ 34(ヒンドゥー教)


害であることを知りながらも繰り返し罪ある行動をする人には、贖罪と悔い改めは何の役にもたたない。
シュリーマッド・バーガヴァタム6.1 (ヒンドゥー教)
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。「なんじらは懲罰がくる前に、主に改悟して返り、かれに服従帰依せよ、その後では、なんじらは助けられないであろう」。


「なんじらが気づかぬうちに、懲罰が突然来る前に、主からなんじらに下された最も善い道に従え」。「魂がこう言わぬよう、『ああ情けない、わしは神への己れの義務を怠っていた、そしてちょう笑者のひとりであった』と」。「または、『神がわしを、お導き下されたならば、わしはきっと主を畏れまつったものを』、と、言わぬよう、または、刑罰を見たとき、『わしが1度現世に返れるならば、わしは必ず善い行ないをなす者のひとりであろう』と」。
クルアーン39.53 ~ 58(イスラーム)


永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。


見よ、もし死ぬときまで悔い改めの日を引き延ばしたならば、見よ、あなたがたはすでに悪魔の霊の支配を受けるようになっているので、悪魔はあなたがたに自分のものであるという印を押す。したがって、主の御霊はもはや退き去って、あなたがたの内に決して宿ることはなく、悪魔があなたがたを支配するすべての力を得る。これが悪人の最後の状態である。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 35(末日聖徒イエス・キリスト教会)




―み言選集―


今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外で行ったり来たりして、結局は、私的におぼれる場合がたくさんあります。


しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び歯を食いしばって公的な生活に戻ります。そうして再び耐えられずに行ったり来たりして、再び私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると、公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。ですから、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
(31-242、1970.6.4)


喜びの日を迎えられた神様の前に、痛悔し、痛哭する心をもたなければなりません。「私はどうしてお父様を知ることができず、どうしてお父様が心配されるその立場が分からなかったのか!」と悔い改め、激憤しなければなりません。このように過去の自分の生活を反省する心をもてば、神様が同情できる余地があるのです。そのようにできない立場で、そのまま同参しようとしてもできないというのです。「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7・21)というみ言が聖書にあるのは、このような理由のためです。
(13-330、1964.4.14)


皆さんに最後まで残るのは悔い改めです。これができずに逝ってはいけません。
(99-110、1978.9.1)




4.人を裁いてはならない


世界経典は、私達の中に、誰も失敗から解放されていたり、完璧な者がいないため、たとえ他人の失敗が明白であっても、その人の誤りをむやみに審判するなと警告する。すべての経典の教えは、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」というイエス様の教えと同じである。文鮮明先生は3度の法則をおっしゃられる。人を審判する前に、自身をまず3度振り返ってみなさいという意味だ。さらには、人を正そうとする前に、自身がまず愛して助けてあげなければならないのである。






―宗教経典―


人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる。
マタイによる福音書7.1 ~ 5(キリスト教)


他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまいます。狭滑な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
法句経252 ~ 253 (仏教)
卑劣な者は常に、他人の失敗はたとえからし種ほどに小さいものであってもみつける傾向があり、自分の失敗はたとえヴィルヴァの実ほどに大きいものであってもそれに対して目を閉ざし続ける。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)


あなたの同僚の立場に立ってみるまでは、決して同僚を裁いてはならない。(注12)
ミシュナ、アヴォート2.5 (ユダヤ教)


卵のかごをもっている人は、石の上で踊りを踊らない。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)


先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」
論語12.16 (儒教)


それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私達は皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』、と」それで、私達は一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙14.10 ~ 12(キリスト教)


朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどう、お考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。


イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(注13)
ヨハネによる福音書8.2 ~ 11(キリスト教)


まことの修行者というものは、世の人の過ちには目を向けぬ。もし人の咎に目を向けるなら、そのおのが咎にこそ道にもとるもの。人の咎ある心は私は謗らぬ。おのれの咎がもともと悪い。その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打ちくだくだけのこと。憎しみも愛も心にかかわることなく、長々と両足を延ばして寝る。
六祖壇経2(仏教)




人を誹誇して自分をたたえ、人の美徳をあえて知らないふりをしながら自分はもってもいない長所を誇る、これによって自ら卑賤になるだろう。自分には厳格だが人には寛大に赦し、人の長所を喜ぶが自らはもっていないことを恥ずかしく思う、これによって自ら尊貴な者となるだろう。
タットヴァルタ・スートラ6.25 ~27(ジャイナ教)






一み言選集―


人を批判してはいけません。問題は自分にあるからです。若い人たちの短所とは何かというと、木の枝のようにあちこちに伸びていることです。何の話か分かりますか。最初は素早く、よく見ます。何かをさっと見れば、何がどうでこうでとよく評価するのです。しかし、自分を忘れているのです。人を評価するなら、まず自分を3倍以上評価してから、その3分の1だけ評価しなさいというのです。
(25-93 ~ 94、1969.9.30)


人を判断するには、3年以上研究しなさい。
御旨の道、人格


自分が心で、誰はどうだと評価することはできません。自分自身が罪人だからです。祭司長の自分が責任を果たせなかったのに、どうして人に対する評価をするのですか。
(89-268、1976.12.4)


天から何かの恩賜を受けたならば、皆さんは公憤の心情をもち、天を身代わりしてサタンと闘うことができなければなりません。自分を中心として裁く行動をしてはいけません。このように、許諾された恩賜を受けた人が、自分を中心として楽しもうとしたり、自分を中心として人を裁こうとすれば、それは正しい信仰ではないので、許諾されたみ旨の道を歩むことはできないのです。
(2-201、1957.5.19)


自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。ですから、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。


批判するのは、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定することを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。ですから、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことはできず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。私達人間生活において歩んでいくときには、直行は絶対にできません。ジグザグに行くのです。
(76-141、1975.2.2)


私自身を見るのです。相手に対して話をする前に、自分自身を見なさいということです。相手を批判する前に自分自身を批判するのです、そして、皆さんが、一つ満点、二つ満点、三つ満点があれば、次には皆さんの好きなようにしなさいというのです。


イエス様は当時、このように言いました。姦淫を犯した女性を石で打ち殺そうとするとき、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのです。すると、みな逃げていぎました。
(118-245.246、1982.6.6)




5.自己否定


人々は、自身の利己心はよく見ることができない。利己的であり、貪欲な人々は、善行とはほど遠い。誰でもある程度は、利己心で汚れている。このような自己中心性は、外に露出して、無慈悲に攻撃を受けなければならない。そうでなければ、私達が言う善は、虚飾的であり、むなしいだけである。したがって、私達は、自身を否定しなければならない。


自分の肯定と快楽を追求する人生は、結局、空虚感と喪失で終わる。自己否定は、死と喪失に私達を導くように見えるが、事実は、神様と共にする豊かな人生へと私達を導いてくれる。


ここで私達は、また一つの逆説にぶつかる。イエス様は「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失うのであり、私と福音のために自分の命を失った者は救われるだろう」と語られた。この教えは、すべての世界的水準の宗教に共通に入っている内容だ。
文鮮明先生も、自己否定の価値に対して強調される。先生は、人間の堕落に対する自身の洞察力を基盤にして、人生の目的地に到達するのに、人間がこのように逆説的で不自然な道を歩まなければならない理由に対して説明される。


本来、神様が人間を愛と利他主義的性格を具現するように造られたが、堕落によって私達は、サタンの影響を受けた。サタンの本性は、完全な自己中心だ。したがって、私達の本性を回復するためには、まず誤った要素で汚染された自身を否定する、難しい過程が待っている。






―宗教経典―


私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8.34 ~ 35(キリスト教)


名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ〈修行僧〉とよばれる。
法句経367(仏教)


すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター2.71 (ヒンドゥー教)


道を体得した人間は、その名が世間に聞こえず、最高の徳をそなえた人間は、自分の徳を意識することがなく、無差別の境地に達した大人(たいじん)は、自己にとらわれることがない。
荘子17(道教)


利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。教えを聞いた者よ、熟考せよ、この説明できない命題を。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)


律法は自分自身を全的に否定する者と共にある。
タルムード、ソーター21b (ユダヤ教)


「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈私は、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた。


「師よ、そういうことはありません。……もしも、尊敬さるべき人が、〈私は尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
金剛般若経9(仏教)


はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書12.24 ~ 25(キリスト教)


記憶すべきことは、死を恐れる人はこれを避けることができず、不死を熱望する者も決してこれを成し遂げることはできない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教43(イスラーム)


おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)
石霜和尚が言った、「百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか」またある古徳が言った、「百尺の頭に座っている人は、[道に]入ることができたといってもまだホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に[自己の]全身を実現せねばならない」無門は評して言う――[百尺竿頭に]一歩を進めることができ、[十方世界に]自己を生まれ変わらすことができるなら、そのうえどこを嫌って[世]尊といえない所があろう。それはそうだが、まあ言うてみよ、百尺の竿の頭で、どう一歩進めるか。ああ!(注14)
無門関46(仏教)


こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
法句経134 (仏教)


顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる……。」
論語12.1 (儒教)


この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
法句経46(仏教)




―み言選集―


絶対的な信仰は、自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。
御旨の道、信仰生活


天の国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だということです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためのものです。そうしてこそ、サタンがついてくるひもがあれば、そのすべてのひもを完全に切っておかなければなりません。皆さん、絹糸のようなものが世界にぶら下がっています。それをかみそりのようなもので切ってしまわなければなりません。
(122-13、1982.10.31)


イエス様のような方は、何をするためにこの地に来たのですか。イエス様は、生きることを願い、中心存在になることを願い、うれしいことを願う前に、まず死ななければならないことを見せてくださいました。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ、生かせる道がありません。イエス様が「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高く
されるであろう」と語られたのも、そのような意味です。逆説的な言葉です。


自分を中心として個人を尊重し、個人をより中心の価値的存在として認めるこの世の中を、打破しようというのです。「私一人のために生きなさい」と言うとき、みな散らばっていきます。驕慢な人はみな嫌うのです。しかし、「私はあなたを高めてあげよう」と言うときは、みな喜ぶのです。(67-182、1973.6.10)


自分を意識し始めたのが堕落です。この体を否定しなければなりません。自己否定をすることによって、自らを意識した悪魔サタンを除去し、「ために生きる」ことができる立場に立つことによって神様に帰依するのが宗教を通じた救いの道であり、愛の理念を通して統一していく方法であることを、はっきりと知らなければなりません。
(214-65、1991.2.1)


サタンは、ほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために、ねたみと、しっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し、審判しなさい。サタンはいつも、私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。
御旨の道、試験、試練


自分のために生きることは、自分で終わるのであり、人のために生きることは、永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。




それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。ところが、対象圏を踏みにじる世界的主体は存在できません。世界的主体は、世界を輝かせるための主体にならなければなりません。
公的な道は、自分を否定するところから始まります。自分を否定するからといって、自分がなくなるのではありません。また、ほかの相対価値で自分を見いだそうとするところから、善は始まるのです。これは、善が発展する原則的な法度であり道です。これを皆さんは知らなければなりません。
(57-63、1972.5.28)


アジアは今まで蕩減ばかりをしてきたのであり、皆さんは豊かに暮らしてきました。昔の宗教は、蕩減をしなければならないので、もっているものをすべて捨てました。それをすべて西欧の人たちがもっていったのです。自分を立てて物質をもつので、アジアとちょうど反対です。そのような立場で自分を中心として物質をもってみると、精神的に完全に欠如したというのです。
(97-67 ~ 68、1978.2.26)


自分が生まれて今まで成長してきた、その基準を認める以上、永遠に一つになれません。ほかの国、ほかの民族、ほかの民族と一つになれないだけでなく、自分の専門分野以外の人とも一つになれないのです。すべてが一つになれる簡単な方法は何かというと、絶対無視することです。完全に否定することによって、どこでも連結されるのです。
(360-192、2001.11.16)




6.肉的欲望の統制


すべての宗教で究極的実在を渇望する求道者は、欲望を統制して肉身の欲求を抑制しなければならないことに同意している。過酷な自己統制、断食、何時間かの参禅修行などを通し、体を打って体の力を弱くすることは、すべて肉的欲望に対抗して究極的にこれを制圧する良い方法である。


人にとって最も大きな挑戦は、性欲主管である。イエス様は、誘惑に対して容赦のない教えを下さった。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」。実際に仏教のある尼僧は、自身の罪ではないが、相手方の罪を抜き取るためにこのようにしたと伝えられている。仏教では、肉身を一つの液体と水液、胆汁、糞尿などで形成された塊と見ることで、「肉身
の不快感」に対して瞑想する修行を奨励する。これは、異性を見つめるときに生じる性的欲求を弱くするためである。




文鮮明先生は、やはり体を「サタンの舞踏会場」とみなし、体に対する不快な感情を通して性欲を自制するように忠告される。自己主管と関連したみ言は、第12 章の「道徳性」に記述されている。


しかし、私達にとって完璧な自己主管というのは、ほぼ不可能である。文鮮明先生は、これが人間堕落により引き起こされた結果だと説明される。自然に形成されないものなどに対しては、強力で極端な修行が必要である。したがって、宗教は、体を打って欲望を抑制するために、程度の高い無慈悲な方法を開発してきた。いくつかの宗教では、このような修行が修道院の制度として体系化されたこともある。皆がこの道を実践できなくても、この地に生きていく人であれば、誰でもこの目的に向かって努力する姿勢が必要である。




①肉的欲望の制御


―宗教経典―


愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペテロの手紙一2.11 (キリスト教)


欲望を捨てよ、不死を成すだろう。
阿含経相応部47.37(仏教)


だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイの信徒への手紙3.5 ~ 8(キリスト教)
それで、主からの明証の上にある者と、己れの悪い行いをりっぱだと考え、その私欲に従う者と、同じであろうか。
クルアーン47.14(イスラーム)


ただ肉欲を完全に根絶するとき、私達は暴力を捨てることができる。
アーヤーランガ・スッタ4.45 (ジャイナ教)


純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て。
道徳経19(道教)


かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.7(ヒンドゥー教)


光と影のように、楽と苦は日常のことであるのを知り、ただ自らの心の欲望を治めよ。
アーヤーランガ・スッタ2.78(ジャイナ教)
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
論語16.7(儒教)


比丘たち、これら三つの感受がある。三つとは何か。楽しみの感受、苦しみの感受、楽しみでも苦しみでもない感受である。比丘たち、楽しみの感受は苦しみとして見られるべきである。苦しみの感受は毒矢として見られるべきである。苦しみでも楽しみでもない感受は無常として見られるべきである。


まことに、比丘たち、比丘にとって楽しみの感受が苦しみとして見られ、苦しみの感受が毒矢として見られ、苦しみでも楽しみでもない感受が無常として見られる時、比丘たち、その比丘は聖者、正しく見る者と言われる。
如是語経53(仏教)


―み言選集―


心と体が対等であるために闘うのです。ですから、体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-272、1971.1.8)


宗教は、どのようにすれば体を取り押さえることができるか、という代案を提示しなければなりません。強制で拘束しなければなりません。体がしようとすることはすべて許してはいけないというのです。これが宗教で教える教理です。それで、「劇場街には行ってはいけない、ソウルに行くなら鍾三通り(鍾路三街通り)は歩いてもいけない」と言って、すべて止めるのです。「男性たちは
若い女性のおしりについて回るな。若い女性は男性をすべてどろぼうだと思ってよそ見をするな」と言います。


統一教会の若い女性たちは、恋愛できますか。できません。また統一教会の若い男性たちは、恋愛できますか。できません。それでは、先生が強制で「恋愛するな」と言うのですか。違います。したければしてみなさいというのです。しかし、できないようになっています。そのようなことを強制的にやらせないようにすれば、もっとやります。自分たちがやってみて、自分で悟らなければなりません。


体をどのようにしなければなりませんか。克服しなさいというのです。善に向かっていく道は克服を要します。体の欲望をつかんで首の根っこをひねるのです。体は驕慢を好みます。すべて、自分のために生きようとするのです。「私のものは私のものであり、あなたのものも私のもの」という考え方です。体はそのようなことを願います。
(39-193、1971.1.10)


若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に、……。


ですから、宗教は体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。天国に行きたければ、人間の地獄世界に行って天国をつくりなさいということです。


この世の中は、悲惨な世の中ですか、幸福な世の中ですか。悲惨な世の中です。このような悲惨で混乱し、混沌となった世界が幸福な世界になろうとすれば、御飯を食べ、ひたすら遊び、酒を飲み、踊りを踊り、そのようにしていつ幸福な世界ができますか。もっと悲惨になりますか。悲惨でなくなりますか。もっと悲惨になるのです。ですから、結論を下さなければなりません。このような悲惨な世界を幸福な世界にしようとする人は、もっと悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。もっと悲惨なところから取り戻さなければ、取り戻せません。その道しかないのです。それでもなければ、神様もいないのであり、すべていないというのです。
(91-286 ~ 287、1977.2.27)


体を打つのは、サタンをなくそうということです。さらには、この体を打つことによって、その体を誰が占領できるのかというと、聖霊が占領できるのです。それで、私達が体を打つのは、聖霊が体を占領するための条件でもあるのです。


私の体を打つのは、結果的にサタンを打つことになるので、私の体を打つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンが占領して
いたものを、代わりに聖霊が占領するようにしようというのです。(1-126、1956.6.27)
②体に対する嫌悪感と腐敗した感覚


―宗教経典―


もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄ではうじが尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.43 ~ 48(キリスト教)


シーヴァカの楽しいマンゴー林に行こうとしていた尼僧スバーを、一人の好色漢が道をさえぎった。スバー尼は、かれに告げて言った。「あなたは、私(の行く手)をさえぎって立っていますが、私は、なにか過ちをしたのでしょうか? 友よ、男子が尼僧に触れるのは、よろしくありません。私の師の尊い教えには、幸福な人(ブッダ)が説き示した学ぶべきことがらがあります。行ないが清らかで、けがれのない私を、あなたは、なぜさえぎって立っているのですか? 濁らず、けがれなく、清潔で、完全に心が解脱した私を、心濁りけがれたあなたは、なぜさえぎって立って
いるのですか?」


「あなたは、若くて美しい。出家してもつまらないではありませんか? いらっしゃい、黄衣をすてて、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。落花粉々たる木々は、四方に甘い香りを放っでいます。初春は、楽しい時季です。いらっしゃい、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。」


「妖精キンナリーのごとき柔和な眼をした婦人よ、あなた以上に愛すべき人は、この私にはないからです。もしも、あなたが私のことばを聞いてくださるならば、あなたは幸せとなりましょう。いらっしゃい、在家の生活を営んでください。静かな高殿に住む者として、あなたは、侍女たちにかしずかれるでしょう。カーシ産の贅美な(衣服)をつけて、(身を)飾って下さい。花飾りや顔料、黄金・摩尼珠・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたに与えましょう。よくよごれを洗い去った美しい天蓋があり、新しい掛け布と敷
物をしき、栴壇の香木で美しく作られ、その木の香りがする高価な臥床に上って(寝て)ください。……」


「死骸に満ち、墓田を増大し、破壊される性質のあるこの身体を、あなたは、誤った思いで見ています。納得できるどのような本質も、このあなたの考えにはありません。」


「あなたの眼は、山のなかの牡鹿や妖精キンナリーのそれのようです。あなたの眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。あなたの蓮の花に似た顔、けがれのない黄金に似た顔、そして眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、私は、長いまつ毛と、清く澄んだ眼を思い出すでしょう。……」


「暗愚な人よ。目の前に現れた幻影のごとく、夢のなかの黄金の樹のごとく、人々のなかで(見世物のために)作られた像のごとく、うつろなものを(追い求めて)、あなたは走っている。あたかも、(眼は)樹洞のなかに付着した樹脂の塊りのようであり、(眼の)中央に泡状のものがあり、涙を出し、目やにもそこに生じます。(形の上では)多種多様の眼球があります。」


眉目うるわしく、こころに執着のない(スバー尼)は、(眼を)えぐりとって、(それに愛着を)起さず、“さあ、眼をあなたのものとして、おもちください”(と言って)、即座に、これをかの男に与えた。
かれの愛欲の念も、即座に消えうせ、彼女に許しを乞うて言った。“清らかな行ないをなす人よ、幸いあれ。このようなことは、二度としますまい”と。


(また、)あたかも、燃えた火を抱くように、また、毒蛇をつかむように、私は、このような人を害った。(そうした私に)、幸運がくるであろうか?私をお許しください”と。かの尼僧は、その男から脱れて、すぐれたブッダの御許に来た。(ブッダの)偉徳あるすがたを見て、(彼女の)眼は、元どおりとなった。
長老尼の詩366 ~ 399 (仏教)


諸比丘よ、色は無我なり。若し此色、我なりせば、此の色は病を致すこと無けん、色に於て「我は此色を用いん、彼色を用ふまじ」といふことを得ん。然るに、色は無我なるが故に、色は病を致し、色に於て「我は此色を用ひん、彼色を用ふまじ」といふことを得ず。受は無我なり。若し此受、我なりせば、此受は病を致すこと無けん、受に於て「我は此受を用ひん、彼受を用ふまじ」といふことを得ん……想は無我なり……行は無我なり……識は無我なり。若し此識、我なりせば此識は病を致すこと無けん、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ん。然るに識は無我なるが故に識は病を致し、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ず。諸比丘よ、汝等の意に於て如何、色は常住なりや無常なりや。大徳よ、無常なり。無常なるものは苦なりや楽なりや。苦なり。苦にして変易の法あるものを観見して「此、我所なり、此我体なり」と為すことを得るや。不なり。


受……想……行……是故に所有る色の過去・未来・現在、鹿・細、劣・勝、遠・近なるは此、我所に非ず、此、我に非ず、此我体に非ずと、是の如く正慧を以て如実に観ずべし。


所有る受……想……行……識の、過去・未来・現在、内外、鹿・細、劣・勝、遠近なるは此、我所に非ず、……諸比丘よ、多聞の聖弟子、是の如く観ぜば即ち色を厭患し受……想……行……識を厭患す、厭患せば即ち離貪す、離貪せば即ち解脱す、解脱せば即ち己に解脱すといふ智生じ、生已に尽き梵行已に立し所作已に弁じ更に後有を受けずと知る。
阿含経相応部iii.66 ~ 68(仏教)


あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
法句経350 (仏教)


口は、汚れた唾液や歯垢など不浄物の容器であり、鼻は膿汁・粘液・鼻水の容器であり、眼は眼脂や涙の容器であります。腹部は糞や尿、肺や肝臓などの容器であります。愚か者は女性をこのように見ず、女性の身体に愛着しています。たとえば、無知の人が不浄物を満たした瓶(へい)の飾りに愛着するように、この世において無知の人は、迷妄のために女性に愛着します。


身体という対象は、きわめて悪臭に満ち、愛着を離れる因でありますが、世の人びとはそれさえも強く愛着しているとすると、いかなるものに対して愛着を離れることがありましょうか。たとえば、豚は糞や尿に満ちた場所や汚物に貪着(とんぢ
ゃく)していますが、それと同じように、人びとは糞や尿に満ちたところに欲望を起こし、汚物に貪着する豚のように、それに愛着しています。身体は(うじ虫の)城であり、不浄物が生じる門のようなものでありますが、それを愚か者は快楽の対象として追い求めています。あなたが自ら糞や尿などをそれぞれ不浄である、とみなすならば、それらの不浄物が集まっている身体が、どうして願わしいものとなりましょう。


血液と精液とに混じり合った不浄物の精子は、胎(はら)に宿って生長します。不浄物の本性を知りながら、いったいだれがこれ(胎)に欲望を起こして愛着するでありましょうか。湿りに濡れた覆いでつつまれ眠っている不浄物の塊りであるもの、それが女性の下腹部で眠りこけているのです。(注15)
龍樹宝行王正論149 ~ 157(仏教)


引き下がりなさい、私はあなたが嫌いです!愚か者、私のサリー(衣)をつかんではなりません!
牝牛は生命の事を煩い、畜殺者は殺す事を煩うのです!敬虔な者は高潔な事を思い、卑劣な者は邪悪な事を思うのです!私は自分の魂を思い、あなたは欲情に駆られる。……なんとみっともないこの身体!
あなたはなぜこの糞便の瓶、尿の壷、骨で出来た枠、膿の悪臭を愛して、自らを落としめるのですか! 愚か者よ、主シヴァを思いなさい!(注16)
アッカーマハーデーヴィーヴァチャナ15、30(ヒンドゥー教)




―み言選集―


この目と鼻と耳と口と手、すべて二つの道と接触しています。私のために見る目は、悪魔の目になるのであり、私のために嗅ぐ鼻は、悪魔の鼻になるのであり、私のために聞く耳は、悪魔の耳になるのです。


国を前におくか、世界を前におくか、天地を前におき、横的には世界を前におき、縦的には神様と天の国を前におき、神様の立場で「ために生きる」目をもって見なければなりません。その目は、自分の将来の出世のためのものではありません。私がこのように勉強するのは、国を生かすためであり、万民の解放のためです。「ために生きる」ことなのです。
(214-66、1991.2.1)


夜、帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て、「この目、鼻、耳、手、足、いつも問題だ」と語りながら、「お前はきょう罪になることをしなかったか」と尋ねてみるのです。そのようなことを目で見て、言葉で語り、行動し、権力で行った、そのようなことをすべて払いのけ、勧告して方向を変えられる能力がなければならないということです。
(122-266、1982.11.21)


この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。ですから、神様の目をつくり、神様の耳をつくり、神様の鼻をつくり、神様の口をつくり、神様の手足をつくり、いつでも一つになることができ、世界のために生き得る私を取り戻さなければなりません。


皆さんの中に地獄と天国の境界線があります。右側に行けば天国であり、左側に行けば地獄です。左側に行けば地獄を行ったり来たりしますか、しませんか。神様のために死のうが生きようが、み旨を中心として行こう、ということです。しかし、まだここで、一生の間このようにしている人がいます。




皆さんは、3種類の中で、どの種類に属していますか。統一教会の教会員の中には、この3種類の人がいます。皆さんはどこに属しているか分かるでしょう。絶対に分からないということはないのです。ここ(A)にいますか、ここ(B)にいますか、ここ(C)にいますか。みな「Aだ」と言うので、欲が深いです。苦労なことがあるというのです。すべて反対です。今まで見てきたことの100 パーセント反対です。


若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は、体を打ちなさいと命令をしています。


真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。
(91-286、1977.2.27)
女性たちに、どれほど誘惑が多いですか。自分の顔立ちが良ければ、「私はこの顔が嫌いだ!」と反対の態度を取らなければなりません。
(116-19、1981.12.1)


皆さんが、胸が痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
(214-285、1991.2.3)


私自体にはサタンの血が入っています。その次には、サタンの所有欲が入ってきています。その次には、自分を中心とするサタンが入ってきているのです。このようなことを見るとき、「私」という存在の中で、サタンの愛と、サタンの欲心と、サタン自体が私をまとっていると考えればよいのです。


ここにいる、このサタンを抜き出さなければなりません。サタンの血筋を抜き出し、サタンの欲望を抜き出し、自分中心的なサタンの要素を抜いでしまわなければなりません。何をもって抜き出せるのでしょうか。神様が宗教を立て、復帰摂理、救援摂理をする目的とは何かというと、これを断ち切ることなのです。
(115-42、1981.10.28)


宗教は、体が好むものを否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。


人は本来食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。また、ごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。


私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでも
よく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
(18-66、1967.5.21)


アダムはエデンの園を歩き回り、エバは木の下で泣いているとき、天使長が見てあげながら、おんぶして歩いたり、座ってひざの上に座らせたりもするのです。そのようなときに生殖器が触れるのですが、周りで動物たちが子を産むのを見ると「あのようにして子を産むのだなあ」と思うのです。それで、一度「えい」と力を入れればすべて終わります。男性と女性の生殖器が触れ合えば、
人はみな喜ぶというのです。そのようなことが起きます。堕落したときに、そのようになっていったのです。


皆さん、男性たちに女性がそのようにしていけば、じっとしていますか、「えい」としますか。最高の美しい女性が近づいてきて生殖器を触るとき、それが起きますか、起きませんか。男性たち? それが起きてはいけません。ですから、皆さんは、いくら美人を座らせても、その生殖器が起きてはいけないのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。それが蕩減です。もし美人が座ってそれを強制的に入れようとすれば、蹴飛ばして見えない所に飛ばしてしまわなければならないのです。
(285-201 ~ 202、1997.5.4)

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世界経典-64

2022年08月07日 15時09分25秒 | 学習

5.迫害

迫害の形態として人間の信念を試みるとき、少なからず犠牲が伴う。虐待、誤解、非難、嘲笑、追放、侮辱などを願う人は誰もいない。しかし、迫害は義人に影のようにつきまとう。私達が迫害によって滅びれば、迫害は何の価値もない。しかし、不平や恨みなく迫害を信念で打ち勝ち、消化した人たちは、天の高い御座に位置することができる。

切迫した迫害は、全的に自己犠牲と自己否定の境地に導くため、かえって祝福となり得る。切迫した状況は、誰も凌駕できない自己否定の境地で、自分の努力で到達できない限界を飛び越えるようになる。犠牲のあとに祝福が訪れてくるという脈絡から見れば、迫害の恵みを受ける人たちが、あとで迫害の加害者たちに対する否定的憎悪心や復讐心を捨て、かえって彼らに同情心を施せるという事実は、それほど驚くことではない。利他心は聖性を宿し、神性へと向かう。それで、迫害の時代に宗教はより一層栄えるという逆説は、歴史的事実として立証される。

文鮮明先生は、神様とサタンの間に一種の契約が存在すると言われる。サタンが無辜の義人を迫害するとき、神様は、その保障を要求する権利を確保するようになる。このような方法によって、歴史の中で善は常に先に打たれたが、結局は取り戻してくるという摂理が経綸されてきたのである。神様はこの原則を、歴史に論理的形式で適用される。神様の創造目的を具現する方法として信仰者は、迫害までも歓迎することができ、特には苦難の道を自ら主導することができなければならない。

 

―宗教経典―

私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書5.11 ~ 12(キリスト教)

戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶようにわれはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
法句経320(仏教)

なんじらは、財産や生活について必ず試みにあい、なんじら以前に経典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞くであろう。だがなんじらが耐え忍んで、主を畏れるならば、まことにそれはよろずの事を決定する要因であろう。
クルアーン3.186 (イスラーム)

陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れはてて立ち上がることもできなかった。子路が腹をたててお目みえすると、「〔修養をつんだ〕君子でも困窮することがあるのですか。」といった。先生はいわれた、「君子ももちろん困窮する、だが小人は困窮するとでたらめになるよ。」
論語15.2(儒教)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)

人びとは、「私達は信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン29.2 ~ 3(イスラーム)
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
ヨハネによる福音書15.18 ~ 20(キリスト教)

イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。
タルムード、ムナホート53b(ユダヤ教)

この高貴な道において真理を探求する者の正しい態度とは、次のようなものである。「私の民が疑いの目をもって見んことを。私の妻と子が私を見捨てんことを。人々があざけらんことを。王達が罰を与えんことを。しかし私は堅く立つ。ああ、至高の神よ、私は意と言と身体と行動をもってあなたに仕え、永久に仕えます。私はあなたの法を離れません。」
クラールナヴァ・タントラ2(ヒンドゥー教)

だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私達は、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私達は、私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙8.35 ~ 37(キリスト教)

それともなんじらは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような、試みがまだなんじらに来ないのに、至上の幸福の園にはいろうと思っているのか。かれらは災難や困窮に見舞われ、不安の中に動揺させられて、使者も、一緒にいた信者たちも「神のお助けはいつ来るだろう」と叫んだほどであった。ああ、まことに神の助けは近づいている。
クルアーン2.214 (イスラーム)

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
ルカによる福音書21.12 ~ 17(キリスト教)

比丘たち、これ、すなわち托鉢は、最低の生活である。比丘たち、これは世間では、「お前は乞食で、手に鉢を持って歩きまわっている。しかも、比丘たち、よき家の子たちは、正しい目的をもって、正しい目的によって、あえてそれに行くのである。畏れがあるからではない。
如是語経91(仏教)
仏がこの世を去られたのちに、恐ろしい悪世のさなかで、われらは広く説くでありましょう。もろもろの無智の人が悪口し、罵り、刀杖を揮ったりすることがあっても、われらは皆、忍ぶでありましょう。

悪世の中の比丘は、邪智であり、心に諂曲があり、
未だ会得してもいないものを得たと思いこみ、我執の心で充満しているであろう。……悪鬼にとり憑かれたような人が、われを罵り、そしっても、われらは仏を敬い信じている故に、忍耐の鎧を身に着けて、この経を説くために、このもろもろの難事を忍ぼう。われらは身命を愛することなく、ただ無上道のみを惜しむ。(注4)
法華経13(仏教)

主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。私は知っている。私が辱められることはないと。

私の正しさを認める方は近くいます。誰が私と共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。誰が私を訴えるのか。私に向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう。
イザヤ書50.4 ~ 9(キリスト教)

ネブカドネザル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネザル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。

伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなた達に告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネザル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネザル王の建てた金の像を拝んだ。

さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネザル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

これを聞いたネブカドネザル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちが私の神に仕えず、私の建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、私の建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ち
に燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか。」

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネザル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私達のお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私達を救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。私達は王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

ネブカドネザル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。

王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。王は言った。「だが、私には四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

ネブカドネザル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、
上着も元のままで火のにおいすらなかった。

ネブカドザル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。
ダニエル書3.1 ~ 28(キリスト教)


―み言選集―

天国は、地獄を通過していく道にある。
御旨の道、天国

迫害というものは、サタン世界の所有権を譲渡される一つの作戦的な方便です。真の宗教は、迫害を受けるときになぜ発展するのかという原則を歴史時代には分かりませんでしたが、このような原理を通して自明になるのです。

歴史時代の聖人たちの中で、イエスも迫害を受け、孔子も喪家の犬と言われながら迫害され、仏教の釈迦牟尼も迫害され、ムハンマドも迫害を受けたのです。そのような迫害されたすべての人たちが聖人になったのは、この原則において……。

歴史が、時間と時が過ぎていくに従って、自然に自分の時として来ることによって勝利するようになるのです。この原則から歴史が動いていくということを知らなければなりません。

それでは、世界的な宗教指導者として全世界がすべて、共産主義、民主主義を問わずすべてが反対したという事実は、全世界のものを神様が相続させるための作戦だという結論も妥当な理論なのです。
(189-205 ~ 206、1989.4.6)

人類歴史は、今まで闘争の歴史でしたが、その内容は、神様とサタン、善と悪がその真ん中にいる人を奪う争いでした。堕落によって悪の歴史が先に出発したために、闘いは常に悪の側が先に攻撃して善を打ったのであり、善は打たれながら守勢に追い込まれましたが、神様が善の側でいらっしゃるので、いつも勝利を収めるようになり、結局は打たれて奪ってくるようになるのです。
(88-209、1976.9.18)

神様の戦略戦術は、打たれて損害賠償を追加して取り返すことであり、サタンは打って返すのです。したがって、サタンは打って滅び、神様は打たれて繁栄していきます。その方法によって文先生は、打たれながらもサタン世界から利子まで加えて弁償されて勝利の基盤をもつようになったので、自動的に迫害の過程を通過しながら発展してきました。
(249-105、1993.10.8)

宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。
御旨の道、試験・試練

神様の作戦とサタンの作戦は、反対です。神様は打たれて奪ってくるのであり、サタンは打って奪われるのです。神様は打たれながら繁栄し、サタンは打って滅びるというのです。
(234-69、1992.8.4)

統一運動の本当の会員は、迫害と試練を受けるとき、迫害した人たちを恨むよりは、かえって彼らを霊的成長の滋養分として受け入れます。
(129-303、1983.11.25)

すべての十字架は私が責任をもち、村で石を投げられても、私が先に打たれようとし、批判されても、私が先に受けようとし、たたかれるのも、私が先にたたかれようとしなければなりません。
(96-123、1978.1.2)

人の骨でたたくからといって、真の愛が断ち切れますか。それでは、どちらが壊れますか。真の愛が壊れますか、骨が壊れますか。骨が壊れます。どんどん打ちなさい、どんどん打てばお前は消えていくということです。それでも、サタンはしきりに打ちます。真の愛は打てば打つほど、打つほうが消えていくのです。

それでは、なぜ神様は迫害するのを処置せずにそのままにしておかれるのですか。打てば打つほど、打つほうが消えていくことを御存じなのでそのままにしておかれるのです。なぜですか。完全に根絶するためです。そして、これが肥料になるのです。腐ってそれがすべて肥料になります。
(230-131、1992.5.1)

皆さんは、涙を流さなければなりません。革命の歴史を見れば、その背後に必ず血の涙がこもっています。追われ、迫害され、批判され、たたかれました。ここで話をしている先生も、そのような闘争の道を歩んできました。私の悲しみより、神様の悲しみが数千万倍もっと大きいことを知らなければなりません。人間の平面的な悲しみは、神様の立体的な悲しみと比較することはできません。
(11-227、1961.9.20)

天に感謝しながら走ってきてみますと、70 歳近い老身の時代が私の目前に近づきました。そのように血気旺盛な青春の時節に、すべての情熱を燃やし尽くし天に侍り、天のみ前に栄光を帰すべきその時をすべて忘れ、民族の背信者として、人類の反逆者として追われてきたその日から、統一教会が言葉なく打たれて奪ってくる戦法を通して、今まで耐えてくるようにしてくださったことに感謝を申し上げます。

あなたは愛であられました。あなたが鉄の窓に追い出すのは、私のために歓喜に満ちた環境の水準を準備し、福を与えるための相続的な場を下さるためであることを思うとき、過ぎてみればすべてのものが愛であり、あなたの広い厚徳のみ手でありました。それを思うとき、感謝申し上げます。
(162-334、1987.4.17)

 

6.殉教

信仰者が自身の確信と価値に危険を感じた敵対的為政者たちに出会ったとき、彼らの中の何人かは、むごたらしい代価を支払わなければならないかもしれない。文鮮明先生は、霊的な現象から見れば、善が栄えるときには、いつもサタンがその代価を請求すると言われる。それで、多くの場合、最も善の人たちが先に犠牲になるのを見ることができる。

「殉教」という単語の意味は「証」である。殉教者たちは、死に直面しながらも、揺るがない姿で自分の信念を証し、その信念を鼓舞させた神様を証する。自分よりも神様に先に仕える殉教者の人生は、強力で励みになる。したがって、殉教は、信仰共同体を強化させ、その根を強固にし、成長を図る。テルトゥリアヌスの有名な言葉がある。「殉教者の血は教会の種」。

今日、ある人々は、イスラームの自爆テロ犯のように無謀な人の命を無残に奪っていく無法者たちまでも殉教者として扱っている。それが殉教であれば、恐らく最も低級な水準の殉教であろう。最高の殉教とは、イエス様が自らを十字架に打ちつけたローマ兵たちまでも祝福してくださったように、至善と慈悲の基礎の上に顕示されるものである。

 

―宗教経典―

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
マタイによる福音書24.9 (キリスト教)

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
詩編116.15 (キリスト教)

実に天国の門は、剣の影の下にある。(注5)
ムスリム・ハディース(イスラーム)

神の道のために殺害された者を、死んだと考えてはならぬ。いや、かれらは主のみもとで扶養されて、生きている。かれらは神のお恵みにより、賜わったものに満悦し、かれらのあとに残された、一緒でなかった者たちのために、恐れもなく憂いもないと、考えてよろこんでいる。神のお恵みと恩典をよろこび、また神が信者への報奨を、決してむなしゅうしたまわぬことをよろこんでいる。
クルアーン3.169 ~ 171 (イスラーム)
大義名分に身命を捧げる義なる者たちの死は聖なるものである。彼らこそ英雄と呼ぶことができる。神国の正門で真の栄光を得るため、彼らは栄光と共に旅立つ。すべての苦痛から抜け出す。もし彼らがあの唯一者、主に祈れば、このような褒美をもらい、すべての恐れを退ける。

自らの苦痛を叫ぶことなく、ただ心の中で静める彼ら、主は彼らのすべてのことを一つ一つくみ取り、ご存じである。大義名分を求め身命を捧げる義なる者たちの死は、実に聖なるものである。
アーディ・グラント、ヴァダハンス、アルジャン・ダージ、M.1p.579(シーク教)

ラビ・アキバが処刑され、息をひきとるときはシェマを暗唱する時間だった。人々は鉄のくしでアキバの体にくしを入れてあげ、アキバは(シェマを暗唱することによって)自ら天の国の王権を受け入れていた。弟子たちが彼に尋ねた。

「師よ、この瞬間までも唱えなければなりませんか」。アキバが彼らに言った。「一日中私は『あなたは心を尽くし』(申命記6.5)という言葉をもって苦心した。私はこの言葉を『たとえ神が私の霊を取るとしても』と解釈する。この言葉を私が成就するときはいつか。今この言葉を成就できる機会が私に訪れたのではないか」。アキバは息をひき取るまで(祈りの文の)最後の言葉を長く伸ばして祈った。(注6)
タルムード、ブラホート61b(ユダヤ教)

求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経14(仏教)

ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「私達は、あの男がモーセと神を冒pする言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。

「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私達は、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。……人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。

証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている
間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
使徒言行録6.8 ~ 7.2、7.54 ~ 60(キリスト教)

この書と『モルモン書』の証を確実なものとするために、私達は、預言者ジョセフ・スミスと祝福師ハイラム・スミスの殉教を発表する。彼らは、1844 年6月27 日午後5 時ごろ、カーセージの監獄において、150 名から200名の、顔を黒く塗り武装した暴徒により銃撃された。ハイラムが最初に撃たれ、「私は死ぬ」と叫んで静かに倒れた。ジョセフは窓から飛び降りたが、その途中で撃たれ、「おお、私の神、主よ」と叫んで死んだ。彼ら二人は死んだ後も残酷に銃撃され、両者とも四個の弾丸を受けた。
教義と聖約135.1(末日聖徒イエス・キリスト教会)

肉身の生命の代価を払ってでも、私達の白人の兄弟姉妹を永遠の霊の死から解放させることができるのならば、これほどの贖罪はないだろう。(注7)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)


―み言選集―

偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私達は、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。
(271-72、1995.8.21)

歴史を通して宗教は、犠牲の価値を教訓として教えてきましたが、それは結局、神様の前に行くようにするためのものでした。神様の前に行く道には数千段階があるのですが、各段階で神様は勝利を収め、サタンは敗北するようになります。しかし、サタンは最高の犠牲の代価を要求するのです。サタンは敗北することを好みません。ですから、キリスト教史において、大勢の殉教者が出るようになったのです。

キリスト教がどの宗教より多くの殉教者を輩出したことは、キリスト教が摂理の中心宗教だからです。殉教は人間たちの目に挫折や失敗に見えますが、神様には勝利でした。これが正に、キリスト教が反対と迫害を受けながらも勝利し続けた理由です。サタンは敗北する代価として、常に大きな犠牲を要求しているのです。
(130-283、1984.2.7)

今日のキリスト教では、殉教の歴史を誇っています。いつ、どの地域を問わず、キリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流し、宣教の基盤を築いてきたことを私達は知っています。しかし、私達は、個人、家庭、あるいは団体が無残に犠牲になったということばかり考えてはいけません。彼らの悲惨さよりも、彼らを導いてこられた神様が悲惨な道を歩んでこられた事実を知らなければなりません。
(13-220 ~ 221、1964.3.22)

皆さんは、「私はいつ負けるのか。私という人間はいつ敗れていくのか」と考えてみたことがありますか。そこで私の手の節々が切られても、切られて死んでも、銃で撃たれて一度に死んでも、そうすればそれが可能です。私の生涯はそれだった、私のすべてはそれだった、死ぬのもそれによって、生きるのもそれによって……。そのような人は、死と生を超越した人だというのです。死と生を超越した方が神様なので、その人は神様の友人になります。
(66-317、1973.5.17)

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛に耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。

「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。(9-166、1960.5.8)
キリスト教を通して数千年の歴史の中で大勢の殉教者が出たように、それを覚悟して死んで生きようという中で、「天のために命を捧げ、万民と共に解放の基台を築いて死にます」という、そこから基盤ができるのです。家庭にとって重要な人、氏族にとって重要な人が、死んだ千万の人より、天が私達の約束を整えるようになるとき、生きるというのです。それが重要な問題です。そのような基盤が残るようになるとき、その基盤を後代の人が踏んで上がっていくのです。
(218-236、1991.8.19)

ですから、イエスのような方は、そのような道で追いに追われ、自分の民族に追われるだけでなく、ローマ帝国に追われて死んでいきながらも、怨讐がイスラエルでありローマであるにもかかわらず、この怨讐を恨むのではなく、愛しなさいと教えたのです。ローマは、きょうの怨讐ですが、あすには自分たちの子孫を通してローマに与えなければならない福があるからです。その福は、ローマを救って余りある愛の福なので、彼らが願うようになるこの福を与えたいと思う心が先立ったイエスの心には、未来のローマを考え、赦し、福を与え
ざるを得なかったという、驚くべき事実を知らなければなりません。
(101-151、1978.10.29)

天国に行こうと殉教する人は、地獄に行くのです。「私がこのようにすれば天国に行く」と考える人は、地獄に行くというのです。しかし、自分は地獄に行っても世界の人を天国に送らなければならないと考える人は、「天国には行かない」と思っても天国に行くようになっています。
(39-197、1971.1.10)


第18章 謙遜と自己否定

1.謙遜

謙遜な姿勢は、天と親しく交わるための必須要件である。どんな理由でも、卓越した知性、富、高い地位、そして称賛などによる慢心は、求道者の道を遮る障害物になるだけである。真の謙遜は、絶えず自身を否定することだ。これは自分を批判して、不平なく苦難を勝ち抜き、自身の立場と違っても天の導きに従う姿勢である。

謙遜は、真実と正直を要求する。それで謙遜な人を子供に比喩したりもする。子供の純粋な反応と人生の受容態度は、しばしば仮面をかぶり、怨恨と偏見で生きていく複雑な大人たちの性質とは、反対である。ある経典には、一つの息遣い、ひとつかみの土、虫の餌にすぎない人間がどれほど脆弱で無常な存在かを深く瞑想し、特に謙遜、美徳を養え、と教えている。


ここにまた、異なる逆説がある。謙遜で低くなろうとする者が驕慢で高くあろうとする者より、さらに尊敬を受けて繁栄するということだ。サタンのあらゆる攻撃を受けたが、結局、謙遜で低い場で勝利したイエス様の事例がそれである。善と悪の関係は、謙遜と緩慢の関係と同じだ。文鮮明先生は、謙遜はエデンの園の生活の原則であり、神様と一致する徳性であり、反面、驕慢はサタンの陣営に定着させるものだと言われる。文先生はまた、他の引用章句――上りと下りの自然循環過程――を例示して、驕慢で頂上に上れば下り坂しかないが、謙遜で下に下りていけば登り坂の道しかないと言われる。

 

①温柔な者は福がある

―宗教経典―

信者たちは、確かに勝利をかちとる。かれらは、礼拝に敬謙なものであり、むなしいあらゆることを避る者、慈善「ザカート」のために励む者、恥ずかしいところを守る者、
クルアーン23.1 ~ 5(イスラーム)

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書5.5 (キリスト教)

もしあなたが助けを得ようと思えば自尊心を捨てよ。髪の毛一本ほどの自尊心でもあなたを遮る、ちょうど大きな雨雲に覆われるように。
春日神社の神託(神道)

「人に対して高慢におまえの頬をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)

これらはすべて,私の手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。私が顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人。
イザヤ書66.2(キリスト教)

今のこの流浪の時には、聖殿崩壊前よりも聖霊が私達をよく訪ねてこられる。ある一人の王がいた。彼は権力の座から追われ放浪者として追い出された。流浪してさまよい、彼はある貧しい者の家に行った。そこで王は平民たちの食べ物と居所を提供された。しかし、その接待は依然として王の立場で受けたものだった。

徐々に彼は心が軽くなり、朝廷で家臣たちと談笑するように、家の主人と親しく対話をするようになった。今私達のように流浪される神も、私達に彼と同じようにしていらっしゃる。(注1)
メジリッチのドーヴ・ベーア(ユダヤ教)

慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制。感官の対象に対する離欲。我執のないこと。生老病死の害悪を考察すること。
バガヴァッド・ギーター13.7 ~ 8(ヒンドゥー教)

すべての人類はアダムの子孫であり、アダムは土から創造された。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)

この上なく哀れな霊魂をもつ者の最後は、虫けらと同じような境遇になる。
ミシュナ、アヴォート4.4(ユダヤ教)

主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。
人間は息にも似たもの。彼の日々は消え去る影。
詩編144.3 ~ 4(キリスト教)
次の三つを振り返ってみよ、そうすれば罪を犯すことはないだろう。あなたがどごから来て、どこに向かっているのか、未来において誰の前で審判を受けるのか、このことである。お前は過去に悪臭の漂う雨水から来たのであり、今は虫けらやうじがわく所に向かっていて、未来には王の王、聖なる方の前で審判を受けるのである。
ミシュナ、アヴォート3.1 (ユダヤ教)

預言者が言った。「天国の居住者たちがどれほど謙遜で柔和かを、私はあなた達に教えなかったか。彼らが信仰を誓うとき、神が彼らの誓いを受け入れる。地獄の居住者たちがどれほど残忍で力が強く、傲慢な者かということを、私はあなた達に教えなかったか」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)

神は謙虚な人たちを保護され、解放してくださる。神が愛し慰労してくださる人たちも彼らである。彼らに神は御自身の栄光を与えてくださる。困窮があったあとには栄光の上に引き上げてくださるだろう。また彼らに御自身の秘密を表され、親切に彼らを御自身のところに導かれる。謙虚な人たちは、多くの苦難の中でも平和を享受する人たちだ。この人たちには、世の中ではなく、神に対する信仰があるからである。したがって、自分が不足な存在であることを悟るまでは、何の発展も成し遂げたと言うことはできない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて1.2(キリスト教)

 

―み言選集―

神様の愛は、このような温柔、謙遜、断食、犠牲、殉教の土台の上に臨むのです。
(282-228、1997.3.26)

高次的な宗教であるほど、自らを強調しません。高次的な宗教であるほど、温柔、謙遜を強調するのです。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。それは、なぜそのようにしなければならないのですか。本郷の地の法則がそうだからです。人間は本郷の地を求めていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らすその法度に適合するように訓練させるため、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと、このような教訓を教えるのです。
(77-190、1975.4.6)

サタンの本質は、驕慢と血気です。このような性質で世の中の人々に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で、世の中の人々の前に現れたのです。また、厳然と天理法度があることを知っているサタンなので、最後にはイエス・キリストを認めるようになりました。いわば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然に屈服するというのです。

このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように、温柔と謙遜の立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様のもとに行ける新しい道を開拓できることを、皆さんは知らなければなりません。

皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。
(3-187、1957.10.27)

天の国の生命録を1度点検してみると、どのような人が記録されているのかというと、愚かな人たちが記録されていたというのです。
(107-21、1980.2.21)
本来、エデンの園は、争いのある世界ではありません。争って自分を高める世界ではなく、謙遜と愛の宿る世界でした。
(98-31、1978.4.8)

個人主義がどこにありますか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が父母様の愛によって、お母さんのおなかの中、卵子から育って生まれる時、99.999 パーセントはお母さんの骨と血、肉なのです。そして、0.001 パーセントお父さんの精子一つが合わさって生まれるのです。そこには、自分という概念はあり得ないのです。生まれる時は誰でも、自分だけという概念はなかったのです。
(299-119、1999.2.7)

堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず、驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには義理もなく、法度もありません。

法度に従って法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人だと言います。正直とは、正しいの「正」とまっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだ、ということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法で分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することをくじいておかなければなりません。驕慢を除去して、謙遜をもたなければならないのです。
(37-129、1970.12.23)

高いところに上がっていっては、心と体が一つになれる道はありません。踏まれなければなりません。先生も高くならないように、神様が今まで40 年間足で踏み続けてきたのです。踏み続けるので、高まろうとするものが打ちのめされて、一つになるのです。三千里半島を歩き回ったあの昔のキム・サッカのように、非難され、踏まれ、冷遇されながら歩まなければならないのです。そうしながらも、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。
(144-255、1986.4.25)

私は、一度も福を下さいと祈祷したことがありません。「神様、私にお金を下さい」、そのように祈りませんでした。苦労が足りないと、もっと苦労しなければならないと考えたのです。ですから、神様がそれを喜ぶのです。
(102-314、1979.1.21)


②幼子のように純真で謙遜な心

―宗教経典―

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(注2)
マタイによる福音書18.1 ~ 3(キリスト教)

生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書3.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)

孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子1V,B.12 (儒教)

世の中に太かるべきは宮はしら細かるべきは心なりけり
荒木田守武世中百首(神道)


―み言選集―

この世界で神様が役事するとき、どのような人を選ぶでしょうか。優秀な人たちは世界を動かそうという欲心をもち、世界を中心としてひっきりなしに飛び回っているにもかかわらず、彼らを選びませんでした。愚かな人、一番の落伍者を選ぶのです。上ではなく、下だというのです。下も一番下です。それしか道がないのです。
(102-300 ~ 301、1979.1.21)

イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ11・25)と言われたのは、当時のユダヤ教会の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。

そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教会においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教会の実情である。

あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。
原理講論、再臨論3.3.4

この世に染まった一切の意識や主義や観念を、お父様のみ前に差し出し、幼子のような心、温柔で謙遜なる心をもつようにしてください。お父様がお造りになったとおりに、再び造られ得る謙遜なる心を備え、お父様のみ前に捧げようと思いますので、お受け取りください。三位神が運行してください。
(7-12、1959.7.5)

お父様!ここに集まったあなたの子女たちを、重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきた、この者たちが、その事情を全部打ち明ければ、お父様が動じずにいられないことを、知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子が、お母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、
お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)

 

③自分は低い位置に、人は高い位置に

―宗教経典―

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ピリピの信徒への手紙2.3 ~ 4(キリスト教)

自ら善だと言う者は誰もが知るべし、善があなたを避けていくことを。自らすべての人の足の指のあかにも劣ると考える人は、ナナークが言うには、実に清浄なるものを得るだろう。
アーデイ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)

先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」
論語14.32 (儒教)

二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカによる福音書18.10 ~ 14(キリスト教)

自分を見せびらかさないから、おのずからはっきりと見られ、自分を主張しないから、きわだって見える。信用を求めないから、信用をうけ、うぬぼれないから、最高のものとなる。争うことをしないから、天下の人で争えるものはない。
「曲がっているものは完全に残る」という昔のことばは真実で、実際、人は完全でいることができるのである。
道徳経22(道教)

積極的なことを知りつつ、消極的なところにとどまるのは、天下の深い谷間のようなものである。天下の深い谷間であれば、本当の「徳」は離れることがなく、赤子のままおかれる。白を知りつつ、黒にとどまるのは、天下の模範となる。天下の模範であれば、十分に変わることのない「徳」は原初の非区別の状態にとどまる。原初の非区別が区別されるとき、ものごとが生み出される。賢人が原初の区別を使えば、人々の指導者となる。だから、偉大な統治をするものは非区別である。
(注3)
道徳経28(道教)

北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。……

蜩(ひぐらし)と小鳩とは、この大鵬のありさまを見て、あざわらっていう。「われわれは勢いよく飛びたち、楡(にれ)や枋(まゆみ)の木をめがけて突進しても、とぎにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」……

ここにこそ、小さいものと、大きいものとの分かれめがある。だから、せいぜい一官職を修める知能しかもちあわせず、たかだか一地方の人びとに親しまれる程度の行ないしかなく、わずかひとりの君主に認められる程度の徳をそなえて、一国の臣下として召されるようなものが、得得としてうぬぼれているのは、この斥3掾iうずら)にも似たものであろう。荘子1(道教)
―み言選集―

善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないためである。悪が過ぎたあとに現れるのである。
御旨の道、善と悪

自分が低いところにいて、すべてを高いところに置こうとすれば、引っ掛かるところがありません。
(230-35、1992.4.15)

人間が傲慢になって自分自身を高い位置に置いたとき、悪が出発しました。傲慢の反対は謙遜です。謙遜になることが最初の問題です。私達は、サタンが喜ぶ立場と反対の立場に立たなければなりません。そうでなければ、私達は何の成功もできません。傲慢になる代わりに、私達は私達自身を犠牲の位置に立て、私達の生命までも犠牲にしながら活動しなければなりません。
(52-302、1972.1.9)


自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が100 パーセント認め得るものだとしても、神様が見るときは1です。自分が100 と認めるものが、神様には1なのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。

天国は、どこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。


このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。

そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)

神様をしっかりつかみ、神様の協助を受けて誇ろうというのならよいのです。それは、神様を前に立てるごとです。そのようにせず、「私が誇ろう」というのは、神様の前にすべて壊れていくのです。
(341-11、2000.12.29)
神様は、どのような方ですか。「あなた達は私を愛しなさい! 私のために犠牲になりなさい!」という神様ならば、どうなりますか。それは神様ではありません。神様が皆さんを通して伝統を立てるためには、御自身がまず赤ん坊のおしめを取り替え、父母の下の世話をして、先に犠牲と奉仕をしながら温柔、謙遜の教育教材になり、センターにならなければなりません。
(116-68、1981.12.20)

すべての生涯を犠牲にしたとしても、そこで不足なことを悟り、もっとやらなければならないと自ら自分を責め立てながら「行こう」という人たちが、結局、最後まで残るというのです。

み旨に背いて離れていった人と、その次には中間的な立場、今も世の中と隔離されず、そのまま世の中の人と同じように中間の立場でふらふらする人と、その次には、み旨のために生きるという立場で、自分を中心として少しでもやれば、それを誇ろうとする人と、その次には、あらゆることをみ旨の立場で行い、自分自身を顧みず、自分を犠牲にしながらも不足なことを感じる人、このような4種類の人を見るとき、残る人は最後の人です。
(89-232、1976.12.1)

アメリカがどうなのか分かりますか。そのようなアメリカ国民の前に、皆さんが西側にいれば東側が必要であり、南側にいれば北側が必要だということをどのように教えてあげるのですか。それは、統一教会のレバレンド・ムーンが教えなければなりません。それで、レバレンド・ムーンが何をしようというのですか。

アメリカという国は、歴史的結果として出てきたものなので、歴史的原因に接触できる道を求めるために戻らなければなりません。ここまで行かな
ければならないのです。神様を再発見しなければならないというとです。

それでは、この西側でアメリカが一番大きいのですが、この大きなアメリカがもっと大きくなりながら戻りますか、小さくなりながら戻りますか。これが問題です。小さくなりながら戻らなければなりません。驕慢な人は、なぜ謙遜を学ばなければならないのですか。原因に戻るためです。あまりに謙遜すぎてもいけません。自身を主張しなければなりません。謙遜ばかりしていても駄目なのです。強く前進しなさい! それが何ですか。結果に向かっていきなさいということです。これが上がっていけば下りていかなければならず、下りていけば上がっていかなければなりません。これを上がっていこうとすれば、高くならなければならないのです。高くなってこそ、上がっていくというのです。
(117-93、1982.2.14)


2.ほかの頬まで差し出しなさい

イエス様は、片方の頬を打たれたら、もう片方も向けてあげなさいとおっしゃる。これは、侮辱と非難を何の不平もなく耐え抜いて、復讐心までぬぐい去りなさいという教えだ。死までも甘受しなさいという無抵抗の教えは、自己主管において途方もない意味を帯びている。

悪党に同じ方法で応じるとき、悪党は、また私達を攻撃して支配することもできる。攻撃者に対する憎悪心は、ただ被害者の復讐心ばかりを増幅させるだけだ。そのようにすれば、霊的エネルギーと自分の均衡を喪失してしまう。

しかし、反対者の侮辱と非難に対して自身の好意をひたすら返して精神を集中すれば、怨讐の憎悪心も消化して、霊的独立心と主体性を固守することができる。侮辱を受けても、自身の霊的主体性を固守する時、初めて怨讐まで愛せる霊的エネルギーが噴出するのだ。

ある人たちは、どのように非抵抗の倫理が正義と和解できるのかに対して、疑問を提起する。世界経典では、神様は、もう片方の頬まで向ける群れのほうに立てと明示する。

文鮮明先生は、イエス様の十字架の代償を例に挙げ、最も残忍な苦難と死に処した一人の人の屈服が、どうして歴史上、途方もない勝利をもたらすことができたのかについて語られる。それとともに神様は、やはり数多くの侮辱に遭う時、もう片方の頬までお向けになる方だといわれる。

人間の場合と少しも違わない。神様は、いかなる屈辱に直面しても自身の絶対性を堅持して、自身を裏切った天使長まで愛する方だ。神様も普遍的正義を追求される。しかし、その方法は、ひたすら真の愛の原則を通してサタンを自然屈服させるのだ。

 

―宗教経典―

あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(注4)
マタイによる福音書5.38 ~ 41(キリスト教)

たとえあなたを殴る者でも、仕返ししようとしてはならない。ただ彼の足に接吻せよ。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p,1378(シーク教)

復讐する心で人を侮辱するよりは、侮辱される人、何の口答えもせず非難を聞く人、主の愛の力で善のことを行い、苦難の中でも喜びをもつ人は……「自らの力で世を照らす太陽」のようである。
タルムード、ヨーマ23a (ユダヤ教)
比丘たちよ、他の人たちが私を誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなた達がそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなた達の障害となるであろう。
阿含経長部i.3、梵網経(仏教)

傷つけることも、仕返しすることも、あってはならない。
ナワウィー40 のハディース32(イスラーム)

勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経201 (仏教)

罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
法句経399 (仏教)


神より自分が聞いた侮辱によく耐える者はいない。
プハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペテロの手紙二3.9 (キリスト教)

比丘たちよ、もしも卑しい盗賊たちが両側に柄のある鋸で手足を切断しようとするとき、それについて心を怒らすならば、かれはそのことにより、わが教えの実践者になりません。比丘たちよ、それについてまた、次のように学ぶべきです。

〈われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また、一切の世界をその対象として、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう〉と。

比丘たちよ、そなたたちはこの〈鋸の譬〉の教誡をつねに心に置くべきです。比丘たちよ、そなたたちは、そなたたちが耐えることのできない、微細な、あるいは粗大な言葉の道を見ていますか。
阿含経中部i.129 (仏教)

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(注5)
ローマの信徒への手紙12.19 ~ 20(キリスト教)

釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗(そし)ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らさなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自(おのず)からに、自(みず)からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経6(仏教)

私達を最も苦しめる彼らに、このように言いたいと思います。「あなたに苦痛を加える能力があるなら、私達は彼と対等な忍耐の能力で立ち向かいます。肉的な力で追い込んでくれば、霊的な力で立ち向かいます。願うとおりにしてください。しかし、私達はいつでもあなたを愛するでしょう。……監獄に送っても、変わることなく愛します。真夜中に、村に覆面を被った強盗を送リ、私達を半死状態にしていったとしても、変わらずにあなたを愛します。……あなたの心と良心に訴え、結局は私達が勝利するでしょう。そうすれば、その勝利は2倍の価値をもつ勝利になることでしょう」。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア愛の力(キリスト教)
―み言選集―

幼い二人の少年がけんかするのを見ると、怒りを抑え、一発で片付けてしまいたいと思っても、そのような気分をすべて包容する心で思いとどまる側がいます。きょうで終わるのではなく、あすは友人になり得ることを知っているので、譲歩してあげます。そのようにしたとき、神様やあるいは横にいる人が、誰がより善かを判断するとき、寛容で赦し、包容した人が善の人だと言うのです。
(100-84、1978.10.8)

過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中に、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように、歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の部類に入れません。イエス様は、歴史とともにそのような非難を受けて恨を抱きましたが、口を閉じたまま黙って逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と戦わなかったからです。
(80-34、1975.10.4)
イエス様が、「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言ったのは、完全に与えるためには右の頬を打たれながら左の頬まで向けなさいということです。そのようにするときに戻ってくるでのです。完全に与えれば、戻ってきます。天理の原則がそうです。イエス様が十字架上でまでも福を祈って死んでいくことができたのも、完全に投入し、完全に与えていこうという思いがあったからです。怨讐の国までも振り返らせることができると知っていたからです。その結果、あとでローマ帝国までキリスト教の王国になりました。方向を歴史的にひっくり返しておくことができなければ、神様のみ旨は成し遂げられません。
(69-88、1973.10.20)

打って3回勝利した人でも、10 回譲歩する人には屈服してしまいます。イエス様もそのような道理を守ってきたのです。今日の世の中でもそうではないですか。善の人は自分を犠牲にしようとします。拳をよく使う人が善の人ではありません。たたかれても愛で受け入れようとし、そのまま通り過ぎて、その家庭までも犠牲にする人が善の人です。

それはなぜでしょうか。神様がそうだからです。宇宙の中心となるその方がそのようにしていくことによって、善の標準がそのようになったのです。そのような道を通して善の世界に行くので、その道に従っていく宗教者たちは、宗教自体、信じる人自体を犠牲にしなければならず、宗教団体を犠牲にしなければなりません。
(101-69、1978.10.28)

皆さんは、このような祈祷をしてはいけません。「ああ、神様よ、先祖よ、私に反対する人の首をひねって、反対できないようにしてください」、このような祈祷はするなというのです。それよりは、かわいそうな人を救ってあげますと祈祷しなければなりません。皆さんは、福を祈ってあげなければなりません。

なぜそのようにしなければならないのですか。常にカインとアベルが一つになる立場を取るために、そのようにしなければならないのです。そこで常に一つになる立場を取れば、私が滅びることはないので……。(注6)

この世的に見れば、ニューヨーク・タイムズが私の怨讐であり、ワシントン・ポストが私の怨讐ですが、新聞に出すものがあれば、ニューヨーク・タイムズに出してあげ、ワシントン・ポストに出してあげなさいと言います。それは不思議でしょう? 私は常に完成したアベルの位置に立とうというのです。勝利したアベルの位置に立とうというのです。私達には怨讐がいません。ですから、批判されながらも、ぐっとこらえていこうというのです。神様がすべて解決してくださいます。
(89-114、1976.10.4)

サタンが神様に「神様! 最初に私を天使長として立てられたときには一時的な愛で立てられましたか、あるいは永遠の愛のために立てられましたか」と質問したとすれば、神様はどのように答えられるでしょうか。考えてみてください。

神様は、永遠に愛するために立てたと答えられるでしょう。一時的な愛で立てたと言えば、一時的な神様になります。永遠に愛するという基準をもたなければ、いつかはサタンの前に神様の権限を行使できなくなるのです。したがって神様は、サタンがいくら反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ません。

それで神様は、悪に対して「無抵抗主義者」です。それは何のためですか。神様はこの地球上に天国理想の世界を成就するときまで、どのような環境の中でも、堕落してサタンとなった天使長を愛さなければならないのです。
(316-79、2000.2.10)

神様は、すぐにでも、サタンや人間をすべて掃き捨てられます。そのようにすれば、神様はどのようになりますか。神様の全能性が崩れていくのです。そのようになれば、サタンが神様に対して、「あなたは全能の方ではないですか。このような罪のために崩れていく神様ですか」と嘲弄します。
ですから、神様は侵犯を受けないために、サタンが矢を放つようになれば、神様はいつも退いていくのです。全能であられる神様は、そのようにせざるを得ないのです。あなたが力を尽くし、あなたがあらゆることをしたとしても、結局は、私がつくった版図圏内を抜け出すことはできないという立場に立てなければなりません。呆然とする場面であり、赦し難く、耐え難い場面ですが、耐えなければなりません。耐えられなくても、耐えなければならないのです。

したがって、そこに神様の権威が生じ、神様らしい立場、神様の全能性が生じるのです。神様が関知しないといって、1度ひっくり返したならどうなるでしょうか。そうすれば、宇宙はすべてなくなります。また、神様の創造の遺業もすべて……。神は、二度と考え直してはいけない、そのような悲惨な神様になってしまうのです。そのようなことを私達は考えられなければなりません。

ですから、皆さんは忍耐がどれほど貴いか分かったでしょう。忍耐がどれほど貴いですか。このように考えてみれば、忍耐は再出発の動機であり、再創造の動機になり得ることを発見するでしょう。耐えることによって、それを赦してあげられるのです。そのようになれば、私はいつでもそれを占領できます。
(76-219 ~ 220、1975.3.2)

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世界経典-63

2022年08月07日 15時06分48秒 | 学習

 

②絶対従順の追求:私の志と神様のみ旨の一致

―宗教経典―

なんじら信仰する者よ、神に己れの義務を果たして、かれに近づくよう念願し、かれの道のために奮闘努力せよ、なんじらはおそらく成功するであろう。
クルアーン5.35 (イスラーム)

君子はみずからも端正にその地位を保ち天命を成就することにつとめる。
易経50、周易下経、鼎(儒教)

神の御意志をあなたの意志とせよ。神があなたの意志を御自身の意思として受け入れてくださる。
神の御意志の前であなたの意志をすべて捨てよ。
神が他の人々の意志をあなたの意志の前ですべて空にしてくださる。
ミシュナ、アヴォート2.4 (ユダヤ教)


報いを願って仕える僕になるな。何の期待もなく仕える僕になれ。そして、天への畏敬が常にあなたと共にあるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート1.3(ユダヤ教)

われがみ使いをつかわしたのは、ただ神の許しのもとに、すなおに帰依させるためである。もしかれらが間違ったときなんじに来て、神の寛容を願い、み使いが、かれらのためにお許しを祈るならば、かれらは神が、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられることをさとるであろう。

だがそうではないのだ、主によっていう、かれらの間の紛争についてなんじの裁判を仰ぎ、なんじの判決したことに、かれら自身不満を感ぜず、心から納得して信服するまでは、けっして信じないであろう。

たとえわれがかれらに「身命をささげよ」、または「家から出て行け」と命じても、かれらのうち少数の者のほかは、そうしなかったであろう。もしかれが勧められるように行なったならば、きっとかれらに最もためになり、ずっと信仰を強めたであろうに、そのときは、わがもとから必ず偉大な報奨を授け、われは置き道に、かれらを必ず導くのである。(注1)

神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち・誠実者たち・殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.64 ~ 69(イスラーム)

私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハネによる福音書6.38 (キリスト教)

父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。
ルカによる福音書22.42 (キリスト教)


一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ローマの信徒への手紙5.19 (キリスト教)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 8(キリスト教)

 

―み言選集―

服従には、主体の前に対象が自分だという概念がありません。従順と違います。従順にする立場には自分という概念があります。従順にする立場には自分という概念がありますが、服従するところには自分という概念がありません。
(271-118、1995.8.23)

従順は誰でもすることができ、しなければならないことですが、服従は誰でもできるものではありません。しかし、ただ服従を通して蕩減が成し遂げられるのです。
(18-188、1967.6.7)

完全な主体は、完全な対象をつくることができます。これは原理が教えることです。神様と同じ主体の立場で世界を再創造しなければなりません。これが私達の使命です。私達が堕落した世の中を越えていかなければ、神様に連結されないのです。これからは、優れた人であれ劣った人であれ、絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。一方通行です。戻っていく必要がありません。神様のものとして、私達のものとして、天の国のものとして勝利するのです。

今まで苦労して価値的基準を備えても、すべて蕩減の涙で洗い流してしまいましたが、これからは皆さんがこの立場で成したすべてのことは、蕩減ではありません。祝福の基台として、皆さんの子孫の前に連結されることを知らなければなりません。(268-302、1995.4.3)

皆さんは、自分のすべてのものを捨てることができる人にならなければなりません。皆さん一人を天に屈服させ、服従させ、誰よりも先に天を身代わりしてサタンの矢を受けることができる人にならなければなりません。サタンとの闘いに誰よりも先に立ち上がる人にならなければならないのです。また、人間に対してもそうでなければならず、神様のみ旨に対してもそうでなければならず、物質に対しても同じように、先に自分を犠牲にしようと立ち上がる人にならなければなりません。
(3-204、1957.11.1)
イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は、応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は、応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちに、このような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を防ぐためのものです。

サタン世界は、人に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様は、その反対の立場を取りました。このように、イエス様が代表してサタンのできない生活をされたのです。すなわち温柔謙遜で、従順に服従し、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもそのような面では屈服しなければなりませんでした。皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族だということを悟らなければなりません。
(3-188 ~ 189、1957.10.27)

神様は、長い歴史時代を通して、責任分担を知らない人間たちが「責任分担を果たした」と言えるようにするための政策を繰り広げてこられたのです。ですから、絶対服従しなければなりません。責任分担を完成することができなかったのは、神様のみ言に絶対服従できなかったからです。

したがって、第1の条件とは何でしょうか。責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言に絶対服
従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。したがって、復帰の道を求めていく人たちは、神様のみ言に絶対服従しなければなりません。適当に服従するのではありません。自分の生命を否定してでも私は行けると言わなければなりません。サタン世界の頂上を走って越えていかなければならないのです。それで、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。娘や息子、妻、その誰よりも私を愛さなければ私にふさわしくないと言ったのです。
(139-255 ~ 256、1986.1.31)
3.自己犠牲

自己犠牲とは、神様に仕え、神様のみ旨を具現するにおいて自分のすべてのもの――体、心、霊魂――を献身することである。迫害時期の自己犠牲は、文字どおり殉教者として自分の一生を放棄することである。比較的安定時期の自己犠牲は、「生きた祭物」として自分のあらゆる行動を神様の創造目的の具現に捧げることである。

イエス様は、自分の生命を十字架に献祭する自己犠牲の典型的モデルだったのであり、弟子たちに「自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」という同一の戒めを遵守することを教示した。個人単位で私達各自は、自分の十字架――場合によって様々な十字架――を背負っている。

宗教は、私達に犠牲と服従の姿勢で自分の責任を遂行することを要求する。文鮮明先生は、歴史上のあらゆる聖人たちがそうしたように、公的な十字架を背負って全生涯を投与しながら、人類救援のために世の中の悪と対峙していらっしゃる。これが正に高貴な人生、すなわち絶対自己犠牲の人生であろう。

 

①自分を生きた祭物として捧げる

―宗教経典―

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙12.1 (キリスト教)

ゼラスシュトラなるわたくしめは、供物として、自身の寿命さえも、マズダーにささげます。また善思の精華と善行のそれと、善語のそれのみか、懾服と権勢をも、天則に則ってささげます。
アヴェスター・ヤスナ33.14 (ゾロアスター教)

私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2.19 ~ 20(キリスト教)

おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)

祭祀はまさに人間である。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3.16.1(ヒンドゥー教)

幣にならましものをすべ神の御手に取られてなづさはましをなづさはましを、(幣になれたらよいのになあ。尊い神の御手に取り持たれて、できたら馴れまつわりつきたいものだ、馴れまつわりつきたいものだ)
神楽歌、幣(みてぐら)(神道)


―み言選集―

人間は、神様の前に生きた祭物の立場になり、天のお父様の内的心情を表すことのできる善の結実体にならなければなりません。
(2-78、1957.3.3)

祭物とは、所有観念があってはいけません。自分の目的ばかりを見つめて動いていくのではなく、全体的な使命のために、民族なら民族を身代わりして犠牲の立場に出ていくことが祭物なのです。ですから、祭物は、自分の私的な目的を立てていくのではなく、公的な目的を立てていかなければなりません。そして、悪を退治し、善の理念を立てるにおいて一つの足場となり、土台にならなければなりません。
(14-10、1964.4.19)

善の人は、神様を絶対視し、神様と一つになる位置に立たなければなりません。神様のみ旨の前に自分を絶対犠牲にしなければならないのです。善が行く段階を見れば、個人は家庭のために絶対服従しなければならず、家庭は神様のための氏族のために絶対服従しなければならず、氏族は神様を中心とする民族のために絶対服従しなければなりません。また、その民族は神様を中心とする国、その国は神様を中心とする世界のために絶対服従しなければなりません。

結局、神様を絶対中心としてサタンに勝たなければならないのです。個人的に勝たなければならず、氏族、民族、国家、世界的にまで勝っていかなければなりません。
(53-241、1972.2.29)

生きることを願い、中心存在になることを願い、良いことを願う前に、まず死になさい、こういうことです。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ生かせる道がありません。イエス様が語られた、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」という言葉もこのような意味です。
(67-183、1973.6.10)
善の神様は、どのような神様ですか。犠牲と愛の神様でいらっしゃいます。愛というのは、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったというとき、その犠牲は、犠牲とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような特別な素性をもっています。

愛がどれほど大きいかということは、犠牲になる量がどれほど大きいかというところにかかっています。これによって高低の愛が決定します。犠牲が大きければ大きいほど大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど気高さのない愛を表すのです。
(63-25 ~ 26、1972.10.1)

愛の心で見るときは、自分を考えるのではなく、自分を否定して自分を犠牲にする道を行くのです。完全なプラスの前に完全なマイナスはありません。プラスに付いていきますが、この端にはプラスが付いてくるのです。完全なプラスの前に完全なマイナスが生じるときには、相対のプラスが来てくっつくというのです。国家なら国家の前に完全なマイナスになるとき、ここに何が来てくっつくのかというと、プラスが来てくっつきます。神様が来てくっつくというのです。一周回ってくっつきます。これがそのまま来てくっつくのではなく、
一周回ってきてくっつくのです。天地の道理がそうなのです。

ですから、この国の愛国者の歴史の伝統は、涙と血と汗の歴史を残してくるという事実を知らなければなりません。孝子の伝統も、涙と血と汗を通して続いていきます。烈女もそうであり、烈男もそうであり、忠臣ももちろんそうであり、聖人の道理もそうです。血と涙と汗をつづった所においてのみ、主流の伝統の歴史が続いていき、一つの世界と一つの天国に連結されるという事実は、間違いない真理です。
(113-118 ~ 119、1981.5.1)

天の福を願う人はたくさんいますし、お父様の子女になるために精誠を尽くす人はたくさんいますが、6000 年歴史が経過した今日は、お父様の真なる息子、娘、お父様の前に祭物になろうという忠実な人を捜し出すことが難しい時であると思います。
(5-8、1958.11.9)

 

②十字架を負う:犠牲の死

―宗教経典―

それから、弟子たちに言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」(注2)
マタイによる福音書16.24 ~ 25(キリスト教)

真実の教えを身につけようとする者は、男であれ女であれ、そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう。
勝鬘経(しょうまきょう)3(仏教)

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
ペテロの手紙一3.17 (キリスト教)

先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を為しとげる。」
論語15.9 (儒教)

孟子がいわれた。「魚も旨いから、ぜひ食べたい。熊の掌(てのひら)もまた旨いから、ぜひ食べたい。だがもし、二つの中どちらか一つを選ばねばならぬ場合には、自分は魚を捨てても、熊の掌を取りたい。これと同じことで、生命もぜひ守りたいし、義もまた守りたい。だがもし、どちらか一方を選ばねばならぬ場合には、自分は生命を捨てても、義の方を守りたい。

もちろん、生命は自分の望むところだが、それよりも以上に望むところのものがあるから、それを捨ててまでも、生命を守ろうとはしないまでだ。また、死はもちろん自分のもっとも憎みきらうところだが、それ以上に憎みきらうものがあるから、死ぬという危険があっても、これを避けようとしない場合がある。もし人間の望みの中で生命よりも大切なものがないとしたなら、およそ生きるためにはどんなことでもやってのけるであろう。もし人間の憎みきらうもので死よりも以上のものがないとしたなら、死の危険から逃れるためには、どんなことでもやってのけるであろう。

ところが実際は、こうすれば生命が助かると分っていても、そうしない場合があるし、こうすれば死の危険から逃げられると分っていても、そうしない場合があるのだ。これこそ、人間には生命以上に望むもの(義)があり、死以上に憎みきらうもの(不義)があるという証拠なのだ。そしてこの心はひとり賢者だけが持っているのではなく、人間なら誰でも持っているものなのだ。ただ賢者はいつもこの心を失わずに持っているというまでのことだ。
孟子VI.A.10(儒教)

イエス様の天国を愛する者は大勢いるが、彼の十字架を一緒に背負う人はいない。偉人を求める者は大勢いるが、試練を歓迎する者はいない。共に飲み食いする友は探しやすいが、禁欲と断食を一緒にする者を探すのは難しい。万民がキリストと共に喜ぼうとするが、彼のために苦難を受けようとする者はいない。キリストが分けてくれるパンを求めて彼に従う者は大勢いるが、彼の苦難の杯を一緒に飲もうとして従う者はいない。彼の奇跡を仰ぎ見る者は大勢いるが、彼の十字架と恥辱に従おうとする者はいない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて2.11(キリスト教)

 

 

―み言選集―

神様がそれを願ったので、イエス様がその愛を成し遂げるために自分を犠牲にしたのです。世界を愛するために自分を犠牲にしながら、死の道を自ら行く道に、このすべての信徒たちを追い立てる一つの宗教が出てくれば、その宗教は、サタン世界を防御し、世の中を救う最後の基盤になるでしょう。

イエス様が世の中を愛するために、死の道を自ら行って十字架を背負ったように、自分を犠牲にして行く道を自ら行く世界的な一つの教団が出てくれば、その教団を通して神様とイエスが最も希望をもって見つめるでしょう。
(124-299 ~ 300、1983.3.1)

この道は不平を言う者は行けない道であり、自ら弁明する者は行けない道であり、自らを立てる者は後退する道であることを知りました。この道は
イエス様が血を流して行かれた十字架の道、延長されたゴルゴタの道であることを知りましたので、
弁明すべき立場でも弁明しようとせず、自分自身を立てて誇りたくても誇ろうとせず、悔しさを知りながらも、踏まれながら行くべき道であることを知りました。
(6-125、1959.4.12)

宗教生活は何ですか。どのような困難があっても、私的な基盤の悪魔サタンと共に地獄に通じる道を行くのではなく、犠牲を払ってでも、このような公的な道で天国に通じる道を行こうというのです。この世の中の人とは異なる生活理念をもっていくのが、宗教者たちの生活であることを知らなければなりません。

それで、統一教会では、公的なことのために神様がされるのと同じようにしようというのです。神様は、公的なことのためには、自分の国を犠牲にできます。自分の愛する家庭も犠牲にすることができるのであり、自分の世界まで犠牲にすることができるのです。神様は、すべての権限をもつ方ですが、公的な人間のために歴史を何度も越えながら、歴史時代の数多くの悲しみと苦痛を独りで経てきながらも、誰のせいにもすることなく、弁明せず、それを甘受してくるのです。公的な神様なので、神様はそのような立場に立っているという事実を、私達は知らなければなりません。良くやったと自分を誇るのではありません。自分が公的な何かをしたと誇る方ではありません。黙々と最後まで、公的な世界が完成されるまで、神様は公的なことに専心する方です。
(101-146 ~ 147、1978.10.29)

今までは「私のもの、私のもの、お金も私のもの」と言いました。しかし、お金を稼いで私が使うのではなく、すべて……。その代わり、神様が愛はどのようなものだということを考えるのです。困難なことであるほど福になることを知りませんでした。先生も、今最も懐かしく思うことが、監獄で拷問を受けて血を吐いていたことです。

この体がサタンの岩にくっついているのです。体が神様と共鳴しなければならないのですが、岩にはりついています。これを一度に切り離すことができる力を統一教会の人たちはもっているのです。それで、宗教は犠牲になりなさいと言うのです。苦行しなさい、苦行! なぜですか。どうしてですか。神様の共鳴体になろうとするからです。
(102-35 ~ 36、1978.11.19)

今までの宗教は何かというと、自分を犠牲にして奉仕するものでした。その犠牲の目的とは何かというと、救援を受けるためですが、それが間違ったというのです。私が犠牲になるのは、神様を解放し、人類を解放するためです。それを知らなかったのです。私のためにするのではなく、神様と人類のために働くということです。目的が違います。悪の宗教として帰結するのか、善の宗教として帰結するのかという出発点が、正にこの点にあることを今日の宗教者は、はっきりと知らなければなりません。
(102-234、1979.1.1)

「父母の心情、僕の体、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために」と言ったのですが、どうしてこのような標語が必要なのですか。これは、涙を流すとしても父母に代わって流し、汗を流すとしても父母に代わって流し、血を流すとしても父母に代わって流そうというのです。これはどういうことでしょうか。生きていらっしゃる神様の前に行き、死の道をすべて引き受け、天のために、地のために、人類のために、私が先に死の祭壇に上がろうということです。
(14-244、1965.1.1)

私は、雨が降り、雪が降ることを知らず、夜を朝のように、早朝のように感じながら、御飯を食べることを忘れてこのことをしてきた人です。気楽に考えることはできませんでした。神様を知ったからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったので、私の一身がずたずたに引き裂かれることがあり、粉になって飛んでいくことがあっても、飛んでいくこのすべての細胞は、神様の一点の細胞だと叫ぶことができれば、男として生まれて甲斐のある死だと思いながら、死の道を求めて身もだえしているのです。
(137-179、1986.1.1)


4.悪と戦争

罪悪の闘争において一抹の妥協もない信仰が、生きた躍動的な信仰である。最高善の実現は、神様のやり方を固守することを要求する。これをイスラームで「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。その中の一つの次元は、悪霊と利己的欲望を治める内的闘争である。キリスト教ではこれを「霊的闘争」と呼び、イスラームでは「偉大な聖戦」と呼ぶ。

しかし、社会が不正、腐敗で覆われていて、平和
が攻撃者によって危険にさらされれば、その世界では正義の側に立つ闘士が必要である。実際に多くの宗教では、弱者を保護し、攻撃者たちの悪行を阻止するために闘争することを愛の叫びとする反面、社会的不正に受動的に対処することを罪として扱う。

自己防御や攻撃者から自分を保護するために、特に銃(武器)が必要な場合がある。しかし、最高善を実現するために闘争するとき、武器を使用するよりもっと良い方法がある。霊的な観点から見つめれば、戦士たちの任務は、世界の正義に向かうことであるため、その闘争は、根本的に霊的闘争と言うことができる。地上の敵がもつ敵対感の背後に悪霊の「権力と主権」が作用している。

敵陣の肉身を攻撃して勝利することが、必ずしも彼らの内面的怨恨まで消滅させることを意味するわけではない。かえって、それはさらに悪化し得る。特に、勝利者たちが無慈悲に報復心をもって対処したならば、より一層そのようになる。

これとは異なり、相手の内面的戦争で勝利する場合、悪霊は自然屈服して退却するだろう。たとえ敵が深い怨恨に満ちていて、必ず武力を通してのみ屈服させるとしても、本当の勝利は、敵が神様のみ旨を悟るように教育する時まで確保できたと言うことはできない。

したがって、霊的戦士たちが行くべき道は、「怨讐を愛しなさい」という教えの実践を極大化することである。これはすなわち、私達自身を犠牲に――たとえ彼らが拒否したり、あざ笑ったり、さらには迫害するとしても――怨讐の福利のために遂行しなければならないという意味である。怨讐に向かう愛は、ただ犠牲を通してのみ明白に現れる。ちょうどイエス様がそのようにしたのと同じように、怨讐の心を浄化させることができれば、死も問題にしてはならない(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」参考)。ある面で、霊的戦争は物理的戦争
と同じくらい危険なため、霊的闘争を遂行するためには、格別な勇気と、強い意志が要求される。文鮮明先生の戦闘意識とは、大部分霊的戦士としての霊的闘争の道を意味する。

 

①正義の勇士

―宗教経典―

彼はよりどころのない人たちを守護し闘う真の英雄である。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1412(シーク教)

更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、戦慄(おのの)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。

もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。……あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナよ、立ち上れ。戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
バガヴァッド・ギーター2.31 ~ 38(ヒンドゥー教)

み使いよ、戦いにさいしては信者を激励せよ。なんじらのうち二十の堅忍者がおれば、よく二百を征服するであろう。なんじらのうちもし一百いれば、よぐ一干の不信者を征服するであろう、これはかれらが、事理を解しないやからであるゆえに。
クルアーン8.65 (イスラーム)

これは、私達の救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
テモテの手紙一2.3 ~ 4(キリスト教)

そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ48.12 (ゾロアスター教)

ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。

そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
ヨシュア記1.7 ~ 9(キリスト教)

勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあ
るところに勝利があるのである。
マハーバーラタ、ビーシュマ・パルヴァン21(ヒンドゥー教)

おお、私の父、偉大な先祖よ!私はあなたに感謝する道がありません。しかし、深い知恵によって
私が栄光のあなたの贈り物を、どれほど尊く思うかを、あなたはお分かりになると確信します。

おお、私の父!私があなたの偉大さを思うときに、
私は畏敬感で身の置き所が分かりません。おお、偉大な先祖よ!地と天、すべてのものの支配者よ!私はあなたの戦士です。あなたの御意志どおりに行う準備ができています。
キクユ族の祈り(アフリカ伝統宗教)


ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアテといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。

ゴリアテは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。私はペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。その者に私と戦う力があって、もし私を討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わた
しが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」

このペリシテ人は続けて言った。「今日、私はイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。

戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出て
いたが、このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。

さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」

サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵はときの声をあげて、戦線に出るところだった。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。

ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアテという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。

イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。

長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」

ダビデは言った。「私が、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。


ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」

しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪
い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。

私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。

ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。

ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「私は犬か。杖を持って向かって来るのか。」
そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に引き渡される。私は、お前を討ち、
お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。

全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、
そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
サムエル記上17.4 ~ 51(キリスト教)


―み言選集―

朝も夜も強くなければなりません。これから近づいてくるどのような障壁も、打てばそれが崩れ、それが崩れなければ拳が裂け、私の体が裂けるという信念をもちなさいというのです。そうして、天が私を通して未来の使命を完結しなければならない私の現在の立場であることを忘却してはいけません。皆さんは、過去を復活させ、現在を復活させ、未来を復活させる、そのような王者である
ことを知らなければなりません。
(73-106 ~ 107、1974.8.4)

「私は神様の真の勇士になる。その神様のための戦場がどれほど悲惨でも、私はその戦線に参与する」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せてきても、孤独単身の迫害の立場です。苦痛の立場です。私は神様に一度も不平を言いませんでした。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
(193-74、1989.8.20)

拷問で倒れていく場でも、「私を助けてください」と神様に祈祷しませんでした。私は追い回されてきましたが、神様のところに行って、「私の行く道を守ってください、私を助けてください」とは祈祷しない人です。私は男として、自分の余力をもち、自分の気迫をもち、闘うことのできる自力をもっている人です。私の力が不足で意識を失って倒れれば私を助けてくれるかもしれません
が、その前に私の力で……。私が行く前に神様はあらかじめ準備しておいて待っていることを知っているのです。
(138-360、1986.1.24)

神様の勝利を私がもたらしてさしあげなければなりません。だとすれば、「戦争で私が先に行こう。私か先に行く、ゴリアテの前のダビデのように」と、そのようにしますか。
(118-129、1982.5.9)

12 支派を代表する12 人を立て、カナンの地を偵察させたとき、彼らは、自分の力ではカナン七族にかなわないと報告しました。しかし、12 人のうち、
ヨシュアとカレブは違いました。イスラエル民族が反旗を掲げているとき、堂々と現れ、「私達を今まで導いてこられた神様は生きていらっしゃいます。イスラエル民族に立ちふさがっていた紅海を分けて平坦な道を造り、渡ることができるようにしてくださった神様は、生きていらっしゃいます。その神様を信じていく道こそが、私達の行く道です」と叫んだヨシュアとカレブでした。
神様は、ヨシュアとカレブを御覧になり、彼らに道を開いてくださったことを知らなければなりません。
(19-240、1968.1.15)

これは、ゴリアテとダビデの比喩になります。私達は武器もなく、訓練もされていません。継ぎはぎの1枚の服を着たみすぼらしい牧童ダビデと同じです。しかし、神様の名によって握られた短い棒切れがあるのです。

それがアメリ力の地でできなければ、韓国の地でできるのであり、韓国の地でできなければ、中東でできるのであり、そうでなければモスクワ大会のような所でできるのです。いつかそのような対決の一日があるでしょう。その日のために、私達は団結し、訓練し、集結しなければなりません。

私の額が割れても、私の目が飛び出しても、私の命が血を流すことがあっても、このことのために行くのです。16 カ国のUN軍が韓国の至る所で血を流したのですから、私達統一教会の人たちは、至る所で共産主義と闘いながら、世界と神様のた
めにそれより多くの血を流すことがあっても、行かなければならないと考える人です。

そのようなことを断行する国と国民がいなければ、神様の希望の基準がこの地球上から飛んでいってしまうことを知らなければなりません。そのような天地の共同運命を懸けて前進しなければなりません。
(88-323 ~ 324、1976.10.3)

「私の勇猛かつ、力あふれるこの誓いの声とともに、あるいは若い胸に躍る鼓動の音、喚声を上げ敵陣に向かって行軍する隊列と共に、この進軍にかかっているのだ!」と、このようになれば、その光景を見ていた霊界の数千億の霊人たちも拍手をしながら歓迎するのです。地獄に行っている霊人たちまでも、「どうか勝利してください。どうか勝利してください。私は顔を上げて行きますが、たとえはってでもやり抜くでしょう」と、このようなことも起こり得るのです。

このように天地が動員され得る息詰まる瞬間が、この一つの国を中心として何年かのうちに決定されますが、「よし、その決戦場に臨み血を吐いて倒れることがあったとしても男らしく、義をもって戦い、正義に基づく天の功臣として自らの命を捧げよう」とするなら、それですべてのことが解決されるのです。そこから新たな歴史が始まるのです。

私達は、このような一つの時を標準として歩んできたために、この一つのことを誓うための一つの願いがあるがゆえに、今まで家庭から排斥され、国から排斥され、数多くの教団から排斥されてきたのではないですか。天が望み、歴史が望み、人類が望む最後の決定的なその一日のために、荘厳かつ素晴らしい勝利をせよと、多くの人々を恨み多き運命の道に犠牲を強いながら歩ませたのではなかったでしょうか。それが私達の振るう一太刀によって、私の流す汗と私の行動によって連結できるとは、これこそ前代未聞のことではないでしょうか。

それを自分の目で見ることができ、自分の感触で感じることができ、それを活動の舞台として戦うことができるならば、これ以上生きがいのある人
生がどこにあるというのでしょうか。そのことを感じなければなりません。
(57-352 ~ 353、1972.6.5)

 

②霊的闘争

―宗教経典―

私達は肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私達の戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。私達は理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
コリントの信徒への手紙二10.3 ~ 6(キリスト教)

謙遜は私の盾である。自らすべての人の足元のほこりになることが私の剣なのだから、あえてどの悪なる者が立ち向かうことができようか。
アーディ・グラント、ソーラトM.5、p.628 (シーク教)


最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
エぺソの信徒への手紙6.10 ~ 17(キリスト教)

聖者たちの軍隊は無敵である。彼らは偉大な戦士であり、謙遜は彼らの鎧だ。主を賛美することが彼らの剣であり、グルの言葉は彼らの盾だ。彼らが聖なる道をはっきりと知る馬と戦車と象に乗り、恐れることなく敵陣を打ちつけていく。主を賛美し、戦場に突進する。あの五つの頭の盗賊たち、あの邪悪な群れたちを征服するため、すべての世が彼らの足元にひれ伏した、
アーディ・グラント、スローク・サハスクリティーM.5、p.1356 (シーク教)


―み言選集―

私達が怨讐を愛する心をもてば、神様の側に立てます。
(52-87、1971.12.22)

イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知ったのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐が四方からがんじがらめにしているということを知りました。この言葉は、私の道に従って行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているという意味です。

そして、家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っていて、氏族的に行けば氏族的な怨讐が待っていて、熾烈な戦いが予想されますが、そのたびに怨讐を愛するというのがみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利することができるのです。
(107-19、1980.2.21)

私達が闘うべき怨讐は、地上のある一人ではなく、6000 年という長い長い歴史過程を経ながら、
神様に対して反旗を翻し、神様を讒訴した、公衆の権勢をつかんだサタンだということを私達は知っています。
(3-180、1957.10.27)

私達は戦争をしているのです。私達は愛の弾丸を撃つのですが、あの悪魔の圏内では、愛と反対のねたみと嫉妬の矢を放ちます。私達は愛の銃弾を撃つのです。愛の銃弾を悪の人が反対した以上に撃たなければなりません。それがレバレンド・ムーンの主張です。

彼らのねたみと嫉妬の銃弾、謀略の銃弾は、私達のところに来ても、貫くことができずに、それていきます。しかし、私達の銃弾に彼らが撃たれれば、溶けていって、元の人はいなくなり、別の人に生まれ変わるようになります。

レバレンド・ムーンは闘いながら発展し、批判されながら発展し、追われながら発展してきました。今回の法廷闘争も、アメリカ政府対レバレンド・ムーンの闘争です。アメリカ政府は、ねたみと驕慢と謀略を中心としてきましたが、私は愛で応酬するというのです。ダビデとゴリアテのようにです。
(119-111 ~ 112、1982.7.4)


③戦争が正当化される場合

―宗教経典―

神様は、一人の善人を立てて、10 人の悪人を屈服させるということをされる方です。私達をして、悪までも悲しく思わざるを得ない内容を抱えていくようにすることによって、悪が自ら屈服して絶対服従できるようにし、本当の勝利者にすることが神様のみ旨であることを知らなければなりません。

聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」というのを聞いたことがあろう。

しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
申命記9.1 ~ 4(キリスト教)

使徒がある指導者を遠征隊の隊長に任命したとき、彼が命じた。「神の名により、神のやり方で闘え。神を信じない者たちと闘え。背反する方法を使わず、略奪したり障害者にしてはならない。子供や隠遁者を殺害せず、ナツメヤシの木に火をつけたり、それらを水に落としたりしてはならない。実る木を切らず、穀物を燃やしてはならない。いつそれらを必要とするか分からないのだから、食べなければならない動物を除いて、肉を食用できる動物を殺してはならない。


ムスリムの敵に出会ったら、三つのうち一つを求めよ。もし彼らがあなたの要求に従えば彼らを受け入れ、いかなる行動も慎め。彼らをイスラームと呼べ。……イスラームの地に移住することを求めよ。……あるいは彼らの財産からジズヤ(人頭税)を支払い服従するよう求めよ」。
ハディース(イスラーム)

革とは水と火がたがいに消しあい、二女が同じ家に居ってたがいに気持ちの合わぬ状態、これを革というのである。已に革むべき時に至ってこれを革めれば孚とされるというのは、革めてしかも人々がこれを信ずることである。革める人に文明の徳があり人々がこれを説ぶのであるから、大いに亨りしかも正しきを得るのであり、革めて道理に当たっていれば、その侮りも消え失せる。およそ天地陰陽の気は相い革まることによって四時を成立させ、殷の湯王・周の武王は革命すなわち天の命を革ためることによって、天道に従い人心に応ずることができたのである。かく考えれば革の時は偉大なことではある。
易経49、周易下経、革(儒教)
商の湯王が告げた、「さても、汝たちもろ人よ。みなみな予がいうことを聴け。予小子がくわだてて反乱を起そうとしているのではない。夏の国に多くの罪があるので、天は、予に命じてこれを倒させなさるのだ。ところが、汝たちもろもろよ。汝たちは、『わが君は、われわれの人民のことを考えずに、われわれの農務をさしおかせて、なんだって夏を征伐するのか』といっている。

だが、予が汝たちの人民のいっていることを聞けば、夏の君に罪があることは明白だ。予は人民を愛する上帝の意志をうやまえばこそ、征伐せずにはいられないのだ。ところがまた、汝たちは、『夏の罪はいったいどんなふうなのか』といっている。夏の王は、人民の力を疲れはてさせて、夏の国を害ってしまったのだ。だから人民たちは働く気力を失って協同しようとはせず、『この太陽さえも何時か亡びるのであろうか。わしもおまえもみんな亡びてしまうのだ』といってなげいている。夏の悪行はこの通りだ。されば予は必ず往って征伐するのだ。汝たちは、どうか予一人を助けて天の罰を果たさせよ。」書経4.1(儒教)
戦争は悪いことである。しかし、異なる国の支配に服従することはもっと悪い。自由、もし私達が堅固に支え続けることができれば、究極的には私達が失っていたものを取り戻してくれるだろう。しかし、服従は私達が大切にしているすべてのものを永遠に失うことを意味するのである。……自らを平和な人だと呼ぶあなたに私は一言言う。「あなたの側で行動する人がいなければ、あなたは安全ではない」。
トゥキュディデス戦史(ヘレニズム)

 

―み言選集―

並外れた善の人格を追求する個人を歓迎する人は、この地に多くないという事実を、私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕っていくにおいても、環境が歓迎してくれないことを私達が知るようになるとき、善の家庭が善の氏族を慕いながら歩んでいく道の前においては、より一層困難な悪の与件がその環境に取り巻いていることを感じるようになるのです。

さらには、善の氏族が善の国家を成していくときは、より途方もない悪の勢力が反旗を翻し、その氏族が行く道を妨げようとするのは間違いありません。

また、善の国があり、善の世界を追求していくときは、この世界が善の世界になることができないので、悪の国々が、その善の国が行く道を協助するのではなく、あらゆる方向から反対してくることは間違いないのです。

ある善の氏族が行こうとする道には、数多くの悪の氏族が反旗を翻して闘ったのであり、必然的に善の国家を要求する人類の前に善の国があるというときは、その国は、すべての国から歓迎されるのではなく、全的に反対を受けたのです。善の国と悪の国が対決し、善が残るのか、悪が残るのかという勝敗を決する戦いを経なければ、善の国として残ることはできないので、このような闘いの歴史過程を経てきたという事実を私達はよく知っています。
(36-52 ~ 53、1970.11.15)

闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。

しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。

この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局、敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。


ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上15・18 ~ 23)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下17 23)。

神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。
ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。
原理講論、人類歴史の終末論4.2


皆さん! ダビデ王を尊敬しますか、しませんか。ペリシテびとのゴリアテを葬り去ったことが良いのですか。3000 年の歴史を経たイスラエルの国の基盤がすべて崩れてなくなるところを、このダビデが行って残るようにしたので、神様の側から見るとき、「いやあ、よくやった!」と思うがゆえに良いのです。
(103-181 ~ 182、1979.2.25)

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世界経典-62

2022年08月07日 15時04分36秒 | 学習


③聖餐式

―宗教経典―

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。
コリントの信徒への手紙一11.23~25(キリスト教)

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
コリントの信徒への手紙一11.27~29(キリスト教)
―み言選集―

キリスト教は、イエス様の血筋です。聖餐式で、葡萄酒はイエス様の血であり、パンはイエス様の体です。血肉を連結することを意味するのです。それはイエス様の血筋を連結させるのです。イエス様の血筋を受け継いだのなら、イエス様と同じ怨讐を愛する血筋を受けたのなら、怨讐を愛さなければならないのですが、キリスト教徒たちが怨讐を愛する面がありますか。それは偽者です。
(322-262、2000.5.21)

聖酒式は、イエス様を中心として見れば、聖餐式と同じなのです。聖餐式では肉と血の代わりにパンを食べて、葡萄酒を飲みます。これは、私達人間が堕落したので、イエス様の実体を中心として、新しい肉体を受肉しなければならないことを意味するのです。それと同じように、この聖酒式は、人間が堕落した経路と反対の方向にしなければならないために行うのです。
(35-210、1970.10.18)

④割礼

―宗教経典―

あなた達、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなた達の男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなた達との間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなた達の男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
創世記17.10 ~ 13(キリスト教)


―み言選集―

アダムの時の血統が問題になりました。それで割礼があったのです。割礼は、男性の生殖器から血を抜くのです。アダムの時に男性の生殖器を通してサタンの血が入ってきました。それを蕩減するために切ってしまうのです。それが割礼です。
(277-264 ~ 265、1996.4.18)

イスラエル民族には割礼というならわしがあります。それは陽部を切って血を抜くのです。イスラエルがアブラハムの祝福圏内にいるためには、聖別をしなければなりません。そうでなければ、祝福圏内にはいられません。それによって罪が入ってきたので、その血を抜いてこそ蕩減復帰になるのです。旧約時代には、歯には歯、目には目、血には血、耳には耳という蕩減法なので、その血を抜かなければ、神様の前に帰る条件を立てることができないのです。
(54-144、1972.3.22)


⑤洗礼と沐浴儀式による浄化

―宗教経典―

アーバスよ、運び去れ、わが身のいかなる過失をも、またはわが犯したる欺瞞をも、あるいはまた偽りの誓いをも。われは今日アーバスを尋ねたり。〔しかして〕われらは〔その〕液と会合せり。アグニよ、乳を伴いて来たれ。かかるわれに栄光を賦与せよ。(注50)
リグ・ヴェーダ109.8 ~ 9(ヒンドゥー教)

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒言行録2.38 (キリスト教)

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙6.3 ~ 11(キリスト教)
―み言選集―

我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。このような例は、みなこれに該当するということができる。
原理講論、後編緒論1.1

汚れた体を清めるのが洗礼です。割礼によって生殖器を清めたあとに、体を清めるのです。そして、それをどのように愛の道に連結するかが問題です。
(277-265、1996.4.18)

「聖水」は「勝数」と似ています。その「勝数」とは何で勝利したのですか。サタンの血統を水で聖別したという意味です。サタンの血を除去し、天の血統を紹介されたのです。
(215-346、1991.3.1 (注51))
⑥巡礼と聖地

―宗教経典―

男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。(注52)ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。
申命記16.16 ~ 17(キリスト教)

その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る。ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンへの道を尋ね、顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき、永遠の契約が忘れられることはない。(注53)
エレミヤ書50.4 ~ 5(キリスト教)

われがアブラハムのために、聖なる家の位置を定めこう言ったときのことを思え、「何者も、わしと一緒に配してはならぬ、そして巡周(タワーフ)する者のため、また礼拝に立ち(クィヤーム)、立礼(ルクー)し叩頭(サジタ)する者のために、わしの家を清めよ」。「人びとの間に巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ、かれらは歩いてなんじに来る、あるいは、やせたラクダで、あらゆる遠い道をそれぞれやって来る」。「かれらにかずかずの功徳を体得させ、また定められた日の間、かれがかれらに賜わった、犠牲の家畜の上に神のみ名を唱えさせる。それからなんじらはそれを食べ、また困窮している者を養う」。「それから、かれらの必要な儀式を終え、誓いを全うさせ、そしてむかしの聖なる家を、巡周せしめよ」。(注54)
クルアーン22.26 ~ 29 (イスラーム)

巡礼の時期は周知の数月である。それでその間に、巡礼の務めを果たそうと決心した者は、みだらなことや不道徳の行いをつつしみ、また巡礼中は論争してはならぬ。なんじらの行なう善いことは、神それを知りたもう。たびの準備をせよ。だが最もすぐれた準備は善い行いである。
クルアーン2.197(イスラーム)
たとえこの世で最もみすぼらしい人たちがここに参拝に来たとしても、私は彼らの心の中にある願いを、しかと聞いてあげるだろう。
厳島神社の神託(神道)


―み言選集―

アメリ力の若い人たちは、アメリカのために悲しいことに耐え、涙を耐えていけば、このアメリカは滅びないでしょう。そのような悲惨な道を行けば、今後、世界の博物館はもちろん、天の国の博物館に行くのです。自分の命が果てるときまで、公的な悲しみと涙を流して死ぬのか、安らかに生きて死ぬのか、これが問題です。いくらあの高いヒマラヤに埋めておいても、世界の人たちが押し寄せてきて泣いていくでしょう。

来るなと言っても来るのです。イエス様がゴルゴタに引かれていって死ぬときに祈祷し、神様の息子だと……。それは恐ろしいことです。それが事実かどうか分かりますか。より天のために生き、地のために生き、人類のために生き、より大きな問題をかけて自分の命を捧げたので、それが可能なのです。
(97-104 ~ 105、1978.3.1)


先生の故郷が北の定州ですから、皆さんも、定州に行ってみたいでしょう?なぜ行きたいのですか。そこに行けば、先生は話したいことがたくさんあります。私の幼かったころの逸話が数多くあります。ですから皆さんも一度行ってみたいと思うでしょう。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしく思うでしょう。これから「統一思想」をもった人々が、イスラームのマッカ(メッカ)のように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるでしょう。
(34-67、1970.8.29)


⑦象徴、聖像、そして聖物

―宗教経典―

あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)

このとき天照大御神は天の岩戸の時に作られた八尺瓊(やさかにの)勾玉と鏡、草薙の剣と……天照大御神は邇邇芸命(ににぎのみこと)に「この鏡は我が御魂として、私に仕えるように仕えなさい。」と言われた。(注55)
古事記39.2 ~ 3(神道)

それから、お亡くなりになった偉大なお心のお方(ブッダ)のそれら〔の遺骨〕を最高の水で清めて後、やがて〔次のように〕讃嘆しつつ、マッラ族の者たちは、町へ、もろもろの金の壷に入れてお運びしたのである。これ(金の壷)は大きな山の宝の鉱石のごとく、至福に満ちた偉大な〔遺骨を〕保存している。諸天における最高神(ブラフマン)の領界が劫末の火によって損なわれなかったごとく、遺骨は火によって損なわれなかった。慈愛によって修習されたこれら〔の遺骨〕は、執着の火に焼かれるごととは無縁である。彼(ブッダ)に対する尊敬の力によって保持されている遺骨は、冷たいけれどもわれわれの心を焼く。
仏所行讃27.76 ~ 78、28.69(仏教)

異なった存在の幸福に対する愛をもって、シヴァ・プジャ、は行われるべし、と賢者は言った。台座はシヴァの配偶者であるパルヴァティを表し、彼の男根の象徴は意識のある存在を表す。ちょうど主シヴァが常に女神パルヴァティの親密な抱擁の中に留まるように、男根の象徴は永遠に台座にしっかりと着いている。……

帰依者は男根の象徴を取り付け、十六の規定された型の表敬と礼拝をもって崇拝しなければならない。それらは祈願、座の献上、水の献上、洗足、
神秘的な儀式として口を洗う為の水の献上、油槽、衣の献上、香水、水、香気、灯火、食物、光の波、キンマの葉、敬礼、そして神秘的な解放と結びである。……シヴァが恩恵を授ける所は、どこでも努力を注ぐにふされしい。(注56)
シヴァ・プラーナ、ヴィディエーシヴァラ・サンヒター
11.12 ~ 35(ヒンドゥー教)


―み言選集―

この世界人類の中で、罪悪から生まれたすべての人類の中で、父母を愛する本当の孝子がいるなら、その孝子の中に神様を身代わりして真の父母様に孝行できる、歴史の記録を破ろうと立ち上がる、そのような天の息子、娘にならなければなりません。それで、そのような精誠を表示しようとすれば、私達は相対が必要です。

ですから、祭壇が必要であり、祈祷する場所が必要であり、仏像が必要であり、そのようになります。一人でいれば、精誠を捧げる祭壇が必要であり、祭物が必要だということを知らなければなりません。祭物はいつもそこにあるので、祭物は置いておけば、10 年でも……。ほうっておけばじっとしています。

人は逃げていきますが、人は上がったり下がったりしても、祭物はじっとしているというのです。
それで、自分に良いことがあれば、帰ってきて写真を見たり、その祭物に対して「私がこのようにして喜びの日を迎えて感謝なので、その表示として、喜びの象徴として何々を一つお父様の前に捧げます」、このようにして天の前に精試を尽くした物、祭物の代価を捧げなければなりません。
(123-189、1983.1.1)

今日の仏教では、仏像に侍って福を祈っていますが、主体と対象の外的な差は本当に天地の差があるとしても、心情の世界においては差がないのです。そこで感じられる感情を通したすべてのことを、天と共に知り、信じ、対すれば、天はその心をお捨てにならずに成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生じます。
(6-342、1959.6.28)

十字架をかけて歩けば、キリスト教徒であることを表示するでしょう? 父母様の写真を持っていれば、「真の父母」の息子、娘を象徴します。象徴、形象、実体になるのです。蘇生、長成、完成の蘇生圏内に入るために、保護を受けるのです。そうすれば、写真をすべて氏族的メシヤが作ってあげなければなりません。(212-111、1991.1.2)
⑧食事の礼法:食べ物を神聖に思う

―宗教経典―

すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。

らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の
肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。

水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。……

死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。(注57)
申命記14.3 ~ 21(キリスト教)

人がふさわしい方法で動物を殺して肉を食べることと、動物を絞殺してその肉を食べることでは、どちらを神は心配されるだろうか。人が不浄な獣や請い獣を食べることのうち、どちらを神は心配されるだろうか。「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(箴言9.12)。ゆえにあなた達は、律法の命令が、神がつくられた被造世界をきれいにするために与えられたものであることを悟りなさい。ゆえにこのような言葉がある。「神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている」(サムエル下記22.31)。(注58)
タンフーマ、レビ記、シュミニ15b(ユダヤ教)
人びとよ、地上にあるもののうちよい合法なものを食べて、悪魔の足跡に従ってはならぬ。……かれがなんじらに禁じたもうものは、死肉・血・豚肉、ならびに神以外の名で供えられたもののみである。だが必要に迫られ、故意に違反せず、また則を越えぬ場合は罪にならぬ。神は、寛容者・慈悲者であられる。(注59)
クルアーン2.168、173 (イスラーム)


―み言選集―

私達統一教会は、世の中のどこに行っても父母様に侍って暮らしているので、食事をするときは、必ず「先に召し上がってください!」と思いながら最初のものを差し出す心で食事をします。先生は今までそのような生活をしてきました。どこかに行って座るときも、聖別して座るのです。そのようなことを考えるとき、先生がいなかったなら、神様はどのようになるところでしたか。
(236-338、1992.11.9)

ここに服があれば、自分の服だと考えてはいけません。「これは神様の服であり、父母様の服であり、兄弟の服だが、私が代表して着ている」と考えるのです。自慢することはできません。食べる物もそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟たちがくれた御飯だというのです。御飯をおいしく食べて、「ああ! 気分が良い」という私ではありません。先生はそのように考えます。おいしく食べたあとは、申し訳なく思い、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間におなかをすかせている人もいるはずだ。どれほど苦労が多いだろうか。私が代表として食べたのだから、代表として働く責任をもっと果たさなければならない」と考えるのです。

先生はそのように考えるので、苦労した人が不平を言わずに有り難く思ってついてくるのです。先生に10 年、20 年、一生ついてきても嫌に思わないのは、先生がそのような生活をしているからです。このような人がすることは、失敗するかのように思いますが、必ず成功するのです。先生はたくさんの迫害を受けながらも、40 年間、歴史にないことをたくさんしてきました。
(161-231、1987.2.15)

私達が食べて、着ることを中心として聖別するために聖塩を使います。神様の国がありません。この地から収穫したものを聖塩で聖別せずに食べることができる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに走って暮らせる大地を訪ねていくたびに、聖別しなくても暮らせる地がどこにありますか。皆さんが聖別儀式をするとき、聖塩を使うたびに「このサタンめ」と、これを割かなければなりません。
(48-252、1971.9.19)

1997 年7月7日7時7分7秒に「天地父母天宙安息圏宣布」をすれば、すべてのものが聖人の位置に入っていくのです。私達が神様に直接侍って暮らすのです。今までは、私達が聖日だけ聖餐を食べましたが、その宣布以降には、一日3食、すべて聖餐として食べて暮らすのです。そのような中で、すべでの万物を愛で接しながら、食べて暮らさなければなりません。それでこのような聖餐が始まるのです。毎日聖餐を食べて暮らすことによって、病気にもなりません。神様の愛の中で病気にもならないというのです。
(285-300、1997.6.29)


8.儀礼を超えて

度を過ぎて宗教的儀礼にばかり依存すれば、実際の行動や知識とは掛け離れた厳粛な気運ばかりがわき上がることもある。儀礼は、敬虔な心と隣人に対する愛、神様と一対一で一つになる経験などを決して代替することはできない。

ほぼすべての宗教では、宗教の内部から儀式主義に対する批判の声がある。ある宗教の創始者が、外からはほかの宗教の儀式主義を強く批判しているように見えるが、そのみ言は本質的に自分の宗教の信徒たちにそれを他山の石としなさいと警告するものである。

文鮮明先生も、度を過ぎた儀式主義に対して同一の立場を堅持され、二つの内容を付け加えて語られる。第1 は、儀式がほかの宗教と信仰の間に壁をつくり出すこともあるということである。これは宗教が一つになることを願われる神様のみ旨に逆行することである。すべてが一つにならなければならないこの時代に、儀礼的障壁は超越しなければならない。

第2 は、神様とイエス様に対する敬虔な信仰的儀式自体が、常にその方の心情とみ旨を推し量り得る内的知恵につながるものではないということである。例えば、イエス様の死に使用された恨みの杭、この地に地上天国を成し遂げようとしていたみ旨を完成できずに旅立ったイエス様の数千年の悲しみと挫折の根源である十字架に対して、多くのキリスト教徒はそれを救援の象徴として理解し仰いでいる。

古代の宗教的儀式の中心には動物献祭があった。しかし、今日ではいくつかの事例を除外してほぼなくなっている。多くの宗教が依然として献身的信仰活動を重視して研究し、経典に現れた古代の祭祀儀式の核心を大切にしているが、これ以上同じ形式の祭祀儀式を行うことはない。タルムードでは、隣人に対して慈悲を施すことが、贖罪の羊を通して祭物を捧げることと同じ価値をもつと教えている。釈迦牟尼は、動物献祭が生きている生命を葬ることによって悪の業報をつくり出すものだとして批判する。その代わりに父母を恭敬し、家族をいたわり、托鉢僧に布施を施しながら充足される霊的奉献の意味を教える。


①最善の儀礼は愛の心と義の行動

―宗教経典―

何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6.6 ~ 8(キリスト教)

ヴァイシュヤの法(つとめ)である三百の器の食物を毎日三度にわたって施すとしても、わずか一刹那の慈しみから生まれる福徳に比べると、一部分にも及びません。
龍樹宝行王正論283(仏教)


ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をした
か、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書2.23 ~ 28(キリスト教)

古老のいへらく、昔神祖の尊、諸神たちのみ処に巡り行でまして、駿河の国福慈(ふじ)の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、お宿を請ひたまひき。此の時、福慈の神答ヘけらく、「新粟の新嘗して、家内もの忌みせり。今日の間は、願わくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告(ののし)りたまひけらく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲(ほ)りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、寒さしきり、人民登らず、飲食なまつりそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へらく、「今夜は新嘗すれども、敢えへて尊旨に奉(つかへまつ)らずはあらじ」とまをしき。ここに、飲食を設けて、敬び拝みつつしみ承(つかへまつ)りき。是に、神祖の尊、よろこびて歌ひたまひしく、愛(は)しきかも我が胤(すえ) たかきかも神宮(かむつみや)天地とひとしく日月と共に人民(たみぐさ)集ひ賀(ほ)ぎ飲食(みけみき)ゆたけく代々に絶ゆることなく日に日にいや栄え千秋(ちあき)萬歳(よろずよ)に遊楽(たのしみ)窮(つ)きじとのりたまひき。是をもちて、福慈(ふじ)の岳は、常に雪ふりて登臨(のぼ)
ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(くら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(注60)
常陸風土記(神道)
先生がいわれた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ。」
論語3.3 (儒教)

多くの人々、ここにありて欲すれども水によりでは清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり。
感興偈6(仏教)

マズダーよ、御身の穎悟者にとって吉祥なる聖アールマティを、善思を知らぬために悪行によってすて去るものども――そういうやからからは、それ(アールマティ)は、天則に従って、あたかも兇暴な害獣がわれらから逃げてゆくところまでも、はるかに逃げてゆくのです。
アヴェスター・ヤスナ34.9(ゾロアスター教)

世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。(注61)
六祖壇経6(仏教)

愚者たちはヴエーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。欲望を性とし、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々にとって.、決定を性とする知性が三昧(サーマディ)において形成されることはない。(注62)
バガヴァッド・ギーター2.42 ~44(ヒンドゥー教)


一み言選集―

すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上にしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければならない。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて24 時間、生活の中でこれを実践する、自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)

皆さんがいくらイエスの顔を穴が開くほど見つめ、いくらイエスの顔を触り、いくらイエスと一緒に歩き、いくらイエスと一緒に暮らしたとしても、心情が通じなければすべて意味がありません。心情を通して触れあい、心情を通して一緒に暮らさなければならないのです。
(10-200、1960.10.2)


天を仰ぐ人は多いのですが、天のために責任を負おうという人は多くはありません。天の道がよいということは知っていますが、その道に横たわっている茨の道を避けようとする人々が多いということを知るものです。

お父様!あなたは私達のために、億千万代御苦労なさいました。ところが、今日人間たちは天の道、真なる道を行くために越えていくべき苦労の道を避けていこうとし、人間の悲しみと苦痛も、
お父様の前に任せようとしていますので、受け入れてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(16-15、1965.12.26)


②時代の変化によって慣習的礼式は純粋な献身の形態に代替される

―宗教経典―

ある日、ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイがエルサレムから来たとき、ラビ・ヨシュアが彼についていき、崩れた聖殿を見た。「悲しいこどだ」、ラビ・ヨシュアは泣き叫んだ。「イスラエルが罪を赦きれた所が、ごみの上に置かれている!」「私の子よ」、ラビ・ヨハナンが言った。「悲しむな。聖殿のように私達の罪を赦してくれる他のものがある。それは何か。慈愛を施す行為だ。『私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない』(ホセア書6.6)」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン6(ユダヤ教)

ある時世尊は舎衛城の祇多林の中の給孤獨の園に住したまひき、その時ウッガタサリーラ婆羅門の大供犠が献ぜられたり、五百の牛、五百の牡犢、羊、山羊が犠牲に供せられたり。その時ウッガタサリーラ婆羅門は世尊の在す処に詣り、詣り終りて世尊と倶に互いに相慶慰し、歓ばしき銘肝すべき談を交し已りて一辺に坐せり、……世尊に白して言さく、「尊ゴータマよ、我聞けり、火を点じ、柱を建つることは大なる果を持ち、大いに称賛すべきことなり、大徳世尊よ、我に教示し給へ、教え給へ、即ち長き間此の我の義利の為、楽の為に、と」「婆羅門よ、火を点じ、柱を建てしめつつ、供犠の前に不善にして苦を生じ、苦を異熟とする三刀を建てしむ、何をか三となす。

身刀、語刀、意刀なり、婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ是の如き心を起す、供犠の為に是程の牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて不功徳を作し、我は善を作す、とて不善を作す、我は善趣の道を求む、とて悪趣の道を求む、此の第一の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする意刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に……牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて……不善を作す、此の第二の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする語刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ自ら第一に始む、供犠の為に……此の第三の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする身刀を立てしむ。

婆羅門よ、是等の三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし、何をか三となす。應請火、長者火、應施火なり、婆羅門よ、何をか應請火となす。ここに彼に
母たり、或は父たる人あり、是が應請火と云はる、何故なるか。それよりこの請待が生じてあり、その故に此の應請火は、尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。又婆羅門よ、何をか長者火となす。

ここに彼に息子たり、或は妻たり、或は奴僕たり、或は遣使たり、或は召使たるものあり、是が長者火と云はる、その故にこの長者火は尊敬し已り……。又婆羅門よ、何をか應施火となす。ここに凡て沙門婆羅門が僑放逸を離れ忍辱と柔和に於て堅固にして濁り自ら調御し、濁り自ら寂静ならしめ濁り自ら般涅槃せしむ、是が應施火と云はる……婆羅門よ、是等三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。(注63)
阿含経増支部iv.41 ~ 45(仏教)

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。私はお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、私は焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、私は次のことを彼らに命じた。

「私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなた達の神となり、あなた達は私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなた達は幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、私に背を向け、顔を向けなかった。(注64)
エレミヤ書7.21 ~ 24(キリスト教)

「至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」(マラキ書1.11)。「『至るところで』、この言葉は可能なのか」、ラビ・ヨナダンの名でラビ・サムエル・ベン・ナマイが言った。「この言葉はどこにいようと、
トーラーの研究に自らを没頭させる学者たちに言及したことである。神は言われる。『私はそれを彼らが私の名で祭物を捧げているものと見なす』……」。

「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ。聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」(詩編134.1 ~ 2)。「『夜ごと、主の家にとどまる人々よ』という言葉の意味は何ですか」、ラビ・ヨハナンが言った。「この言葉は夜通し律法を研究することに自分を捧げる学者たちに言及したものである。聖書はそれを彼らが聖殿の奉献に従事するものと見なす」。(注65)
タルムード、ムナホート110a(ユダヤ教)

キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わ
たしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。聖霊もまた、私達に次のように証ししておられます。「『それらの日の後、私が、彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙9.11~14、10.11~18(キリスト教)

偉大な五つの供物、すなわち偉大な祭祀が存在する。すべての存在に対する供物、人間に対する供物、先祖に対する供物、神々に対する供物、ブラフマンに対する供物である。日々、人は生き物に栄養を与える。それは存在に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、客人をもてなす。それは人間に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、死者を供養する。それは先祖に対する供物である。日々、人は木や火などを神々に捧げる。それは神々に対する供物である。それではブラフマンに対する供物とは? ブラフマ
ンに対する供物とは、聖典の学習である。(注66)
シャタパタ・ブラーフマナ11.5.6.1~3(ヒンドゥー教)
―み言選集―

罪を犯せば、罪を犯した量に該当する分だけ洗わなければなりません。漂白しなければならないというのです。ですから、漂白する苦労、漂白する材料、これは絶対に必要です。蕩減条件物が必要だというのです。今まで救援摂理を知りませんでした。祭物とは何かというと蕩減条件物です。今までそれを知りませんでした。

ですから、未開な人たちが人を捕まえて祭物にしたり、動物祭物や、あらゆることをしたのです。堕落以降、神様の愛の中で保護を受けて暮らすことができ、その愛の中で神様と共に同化して暮らすことができるこの世界のすべてのものが血を流さなければなりません。血を流さなければならないというのです。なぜ血なのかというと、偽りの生命、偽りの愛、偽りの血統が生じたということです。血が汚されたのですから、血を抜かなければなりません。
(374-21、2002.4.4)

人間始祖が堕落して、「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、堕落人間は、神のみ言を直接に受けることができなくなった。そのため、み言の代わりの条件として立てられたのが、その供え物なのである。ところがモーセのときに至ると、供え物を条件物として立てて「信仰基台」を復帰した、復帰基台摂理時代は過ぎさり、再び神のみ言に直接に対し得る、復帰摂理時代となったため、「信仰基台」のための「象微献祭」は、必要ではなくなるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.1.1.2 (注67)

宗教を統一しなければなりません。キリスト教は、教派が多いことが問題です。教派をすべて燃やしてしまわなければなりません。看板を外してしまい、キリスト教の十字架をすべて外してしまわなければならないのです。その運動が起きなければなりません。
(399-100 ~ 101、2002.12.21)

第17章服従と犠牲

1.召命と使命

ダマスコに向かう道で突然、天から光を受けるという経験をした使徒パウロは、その当時、霊的に神様が自分に何かを切に要求されていることを体験する。それは、単純にキリスト教信仰への改宗を意味するものではなかった。パウロは、それ以上の使命、異邦人たちにキリストを知らせよという使命を受けたのである。

この使命意識が彼の心に燃え上がり、これが正に、残りの生涯でギリシャ全域にキリストの教会を立てるという動機を呼び起こしたのである。そこから彼は、自分を生きた祭物として天の前に捧げ、神様の召命に服従する人生をスタートした。

神様は、歴史を通して聖人たちと使徒パウロのような義人たちを呼ばれ、御自身の道具として用いられた。神様は多様な使命を負い、天の名によってその任務を遂行する信仰者たちを必要とされる。イスラエルの預言者たち、イエス様の弟子たち、ムハンマドの教徒仲間、そして天の召命に応じたのち、これに従っていった大勢の信徒たちまで、すべて神様が必要とする人たちである。召命を受ける者は、挑戦と逆境にぶつかることが多かった。しかし、その神聖な目的を胸に抱き、み旨を成し遂げようとする強い責任感があったために、彼ら
は耐え抜くことができたのである。


①神様の召命と私達の使命意識

―宗教経典―

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
創世記12.1 ~ 3(キリスト教)

信仰する者よ、なんじらは神を助ける者になれ、マリヤの子イエスが、その弟子たちに言ったように、「神の道のために、たれが私の助力者であるか」と。弟子たちは答えて「私達が、神を助ける者であります」と言った。
クルアーン61.14(イスラーム)

主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イザヤ書42.6 ~ 7 (キリスト教)

サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。


ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

しかし、アナニアは答えた。「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」

すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いで言った。「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
使徒言行録9.3 ~ 18(キリスト教)

放浪の詩人、私があなたの召命を受けた。昼夜、あなたを賛美せよとの命を受けた。詩人は聖なる師の召命により、永遠の彼の家に召喚され、聖なる賛美の服をもらい、神聖な名の聖なる食べ物を接待された。

師の導きによりこれらを受けたがゆえに、詩人の心は至福で満ち、聖なる言葉に従い、気高い賛美をすべての世に大きく広げた。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、P.150(シーク教)
―み言選集―

将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会をつくったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。

事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代7.1

神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。

神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。

しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる栄華に浴することができる。
原理講論、予定論3.4

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。

しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2

神様がいるとすれば、アメリカに、自由世界にレバレンド・ムーンを、その境界線、その刹那に送ったのが、今から10 年前のことだと私は考えます。アメリカはレバレンド・ムーンの話を聞きなさいということです。それでは、レバレンド・ムーンに責任を果たしたのかと尋ねるとき、レバレンド・ムーンの話が「アメリカの人たちは病気になったので、医者を外部から連れてこなければならない。アメリカが病気になり外部から連れてこなければならないので、東洋からレバレンド・ムーンが来た」と言うのです。それはどれほど実感がわきますか。火事が起きれば消防隊員も同じです。そのようなことをすべてしたのです。果たしたというのです。
(123-320、1983.1.9)

天は私に対して要求していらっしゃいます。「新しい世界を建設せよ」と言われるのです。既にほつれて乱れてしまった事件を、解決せよという責任を与えてくださったのです。それでは、私はどんな立場にいるのでしょうか。私の一つの個体は、なくてはならない存在です。人類のものであり、世界のものであり、お父様のものであるからです。

不足な民族であり、不足な私達ですが、召命を受けた私達は、おそれ多い心情をもたなければなりません。国家、民族のために全力を尽くしていった人々も許されなかったのに、私達を呼び出して息子としてくださったという事実を考える時、感謝する心と、おそれ多い心情をもたなければなりません。
(9-344. 1960.1.30)

途方もない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独な所にいらっしゃる神様の前に、私達が信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても、何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても、何の恨があるかというのです。この世には、犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらで
もあるのです。
(62-140、1972.9.17)

 

②使命成就の努力と苦難

―宗教経典―

ウジヤ王が死んだ年のことである。私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を待ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満
たされた。私は言った。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

そのとき、私は主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」私は言った。「私がここにおります。私を遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」
イザヤ書6.1 ~ 10 (キリスト教)

あなたはご存じのはずです。主よ、私を思い起こし、私を顧み、私を迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて、私が取り去られるようなことが、ないようにしてください。私があなたのゆえに、辱めに耐えているのを知ってください。あなたの御言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。

あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって、呼ばれている者です。私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました。なぜ、私の痛みはやむことなく、私の傷は重くて、いえないのですか。あなたは私を裏切り、当てにならない流れのようになられました。
エレミヤ書15.15 ~ 18(キリスト教)

タカープが……浮浪者の群れと奴隷たちを扇動してムハンマドを侮辱し、非難したのだが、そのとき、ある群れの群衆が近づき、彼を果樹園に避難させた。……預言者が安全な所に着いたとき、彼が言った。「おお、神よ。あなたに私の弱さと資源がないことと人々の前で取るに足らない者であることを訴えます。最も慈悲深い方よ、あなたは弱者の主であり、したがって私の主です。あなたは私を誰に任せようとされるのですか。私を悪用する者ですか。そうでなければ、私を抑える力のある敵たちですか。

もしあなたが私にお怒りになられたのでなければ、私は心配しません。あなたの好意は私にとってより広大なものです。あなたの怒りと憤怒が私に下されないのなら、暗闇が輝く、現世と来世のすべてのことが正しい秩序をつかむあなたの助けによる保護を求めます。あなたの喜びが正に満足です。あなた以外にはいかなる権能もありません」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

だから、私達の中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
ピリピの信徒への手紙3.4 ~ 15(キリスト教)


―み言選集―

信仰生活をするにおいては、難しい問題が多いことを皆さんは知らなければなりません。したがって、召命を受けることが問題ではなく、召命に従っていくことが問題だというのです。召命に従っていくのも難しいのですが、神様のために忠孝の道理を果たすということはもっと難しいのです。
(40-86、1971.1.24)

召命の道に従っていくときは、いつも内的な闘争があります。内的な闘争をかき分けていくことは、責任者がきちんとできなければなりません。責任者が間違えば、滅びるようになるのです。責任者が間違えば、大きな問題が起きるというのです。
ですから、軽挙妄動してはいけません。良いことがあっても喜びすぎてはならず、悪いことがあっても悲しみすぎてはいけないのです。いつでも自分の心の姿勢を正し、正否を見極めながら、注意深くいかなければなりません。
(40-98 ~ 99、1971.1.24)
今、私達に残された、宇宙的な願いがあるとするなら、その願いは、私達が、宇宙万象の全体的な責任を負うことのできる精兵となって、全被造万物を解放し、万人を喜ばせてあげることであると知るようにしてくださり、天の命令を奉じて
責任を果たすことができ、使命感に酔うことができるよう許諾してくださいますことを、お父様、
懇切にお願い申し上げます。

天のみ旨を、この地上に探し立てるために、天の法度を知り、宇宙の闘いの法度を知って、不変の中心を身代わりして、永遠であられる神様の理想と復帰の栄光が、全被造万物に現れる時まで、私達は変わろうとせず、休もうとせず、ただ闘おうとだけする息子、娘となるよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
(2-181、1957.4.14)

召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないことは、いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を求めていかなければならないということです。いつでもそれを求めるために努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありませんでした。

ここには、私自身も思いもよらない、焦りいらだつ場が多いというのです。それでは、どのようにしてこの道を行かなければなりませんか。自分の心や心情に欲心をもっては、絶対に駄目です。

「私がこのようなことをしてみよう。私は何々をしよう」と考えながら、ある計画を立て、3年なら3年の計画を立ててこのようにしようと考えたとき、それは不可能なときが多いのです。計画どおりにできたとしても、これは、人間的な観点から立てられた計画なので、摂理と相入れないときが多いというのです。
(40-77、1971.1.24)

お父様!私達が行くべき方向を、あなたは知っていらっしゃり、私達が取って進むべき道も、
あなたは知っていらっしゃいます。
私達の心の始まりも、自分から始まったのではなく、私達が勧告の立場に立つことも自分のためではなく、人のためであり、お父様のためですので、最後まで、その心情が変わらないよう主管してくださいますことを、お父様、切にお願い申し上げます。
(6-62、1959.3.29)


2.従順と服従

世俗的目的と生活様式が、神様の意思と行為の基準から隔たれば隔たるほど、従順な姿勢がより切実になる。アダムにエデンの園の果実を取って食べるなという戒めを下さって以降、神様は自己中心的、人間中心的な欲望とは反する戒めを堅持した。

したがって、人間が神様との関係を正常化するためには、神様のみ旨に服従し、自分を否定する姿勢が切実に要求される。これはイスラームで特に強調される徳目である。「イスラーム」の意味は、正に「神への服従」を意味する。

服従は犠牲を要求する。イエス様が「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたように、イエス様は生命を超越する状況でも服従を履行した。服従することは、人間が喜び、便利な思考によって神権の摂理に加担することでは決してない。自分の息子を祭物として献祭せよという神様の命令を受けたときのアブラハムの経験のように、服従は想像もできない内容を遂行することを要求する。

このように、従順と服従自体は、いかなる状況でも人間と神様の究極的目的の具現である。神様は人間を完成の道に善導するために特別な戒めを下さる。父母は子女が社会で成長し、聖賢になることを念願し、子女に規範を遵守しなさいと教える。神様がアダムとエバに戒めを下さったのは、彼らの究極的目的、すなわち愛の実現にある。今日の私達の戒めも、やはり神様と人間の愛の実現にある。


①神様のみ旨と戒めへの従順

―宗教経典―

神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン2.112 (イスラーム)

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
申命記10.12 ~ 13(キリスト教)

主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上15.22 (キリスト教)
数千、数万と捧げる諸儀式も、心を清めることはできず、いくら長く続く無我の恍惚境もまたそうである。全世界をすべてもったとしても、燃え上がる欲望と貪欲を消すことはできず、尽きることのない知識も解脱をもたらすことはない。だとすれば創造者にどのように真実でいることができるだろうか。どのように迷いの壁を崩すのか。ただ彼の命令と御意志に従うだけである。
アーディ・グラント、ジャプジー1M1、P.1 (シーク教)

あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。

あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。

では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6.16 ~ 23(キリスト教)

 

―み言選集―

働くにおいて絶対服従し、生活するにおいて絶対服従し、心情問題に入っても絶対服従し、天の法度を立てていかなければなりません。
(45-88、1971.6.13)

自分が起源ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。

動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的
な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。
(36-64、1970.11.15)

社会生活で、会社に行っても、「会社はなぜこうなのか。私の好きなようにしよう」。アメリカ自体もそうです。「たくさんの法律があって、このようにもできず、あのようにもできない。これはどういうことだ!」とすべて否定します。大統領が何だ、知事が何だ……。そのように考えれば、宗教も、どの社会もすべて同じです。そのような道は、誰もが行くのです。人であれば、誰もが行っています。

宗教の道は違います。宗教の道は、特別な道です。宗教生活は、この世界で二つの世界の生活をしていることを私達は知らなければなりません。二つの世界の生活をしています。それをはっきりと知らなければならないのです。はっきり知らなければなりません。言い換えれば、二つの世界を生きている人です。社会の人として、ほかの人たちと同じ生活をしている人であり、もう一つは、ほかの分野の一つの世界に向かっていっているのです。
(92-298、1977.4.24)

お父様!私達が置かれている立場は、宇宙の中心にいらっしゃり、高く自存される立場で、愛を中心とする理想の主であられるお父様とは、あまりにも掛け離れていることを自ら悟っていますので、この遠い距離を埋めるためには、順理的路程の恨めしい復帰の道が横たわっていることを知っています。
(110-65 ~ 66、1980.11.9)

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