人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-75

2022年08月20日 13時20分47秒 | 学習


③正義の指導者は腐敗を遠ざける


―宗教経典―


個人的利益を取ろうと高い位置に座る者は、自分の快楽ばかりのために女性の体を貪る者と同じだ。主なる神は言われる。「私が聖なる者と呼ばれるように、あなた達もまた聖なる者となれ。私がもつ性稟に似ることができなければ、指導者の位置にいることはできない」。
プスィクタ・ラッバティ111a (ユダヤ教)


権力の地位を要求するな。もしあなたの要求によってその地位に上がれば、あなたは自らその職から退くようになるだろう。しかし、あなたの要求なくその職が与えられたのなら、あなたは(神の)助けを受けるだろう。
ムスリム、ハディース(イスラーム)




必ず、正当な事由なく公金を詐取する官僚は、誰でも最後の審判の日にそれに対して尋ねるその主に出会うようになるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)


賄賂はあらゆる種類の罪悪が訪れる門である。賄賂で買う人たちは、自分の母の乳房を切り取る。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.184(ジャイナ教)


大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、倉庫には穀物の貯えはなにもない。支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、法外な財宝と高価なものを持っている。これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。
道徳経53(道教)




貪欲より嫌悪すべき悪徳はない、地位の高い人から特にそうだ。そして、国家の統治で偏向されたものより嫌悪すべき悪徳はない。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)




―み言選集―


宗教指導者であれ、政治指導者であれ、最も大きな欠格事由は利己主義です。
(299-106 ~ 107、1999.2.6)


二人の中で、自分がいる位置以上の者を中心として、上のために、よりために生きようとする人は善側の位置に立つのであり、自分のために、より低いものについていこうとする人は悪側の位置に立つのです。官職にいる人が、国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭だけのために生きれば、悪になるのです。
(170-176、1987.11.15)


公金を略取してはいけません! 公的な環境を破壊させることは、国家財産の略取と同じで恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもできません。
(347-85、2001.7.3)




自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。公的な席で私が批判するのは、そのような観点で批判するのです。私的な人格は私が激しく非難します。恥ずかしければしないのです。しかし、公的な人格は異なる対応をします。
(51-291 ~ 292、1971.11.28)


霊界に行けば、最も恐ろしい罪は何でしょうか。公金を誤って使うことが第1です。2番目は、公的な立場で公的任務を果たさなければならないのですが、任務を無視することです。3番目は、原理原則に違反することです。これが三大罪です。(注8)
(97-155 ~ 156、1978.3.12)


自分を中心として全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろうか」という考えは絶対にしてはいけないというのです。
(33-164、1970.8.11)






3.典型的指導力


最高の指導者は、徳性と義の模範である。ある社会の精鋭構成員である政治家、教授、著名人、そしてスポーツの英雄たちが、正直、誠実と道徳性の手本になることを自身の義務として認識するとき、その社会は祝福を受けるだろう。


彼らの役割がモデルになるとき、普通の人々は自然に彼らの模範的な姿に従うだろう。私達は、模範的な指導力を三つの側面から識別できる。


一つ目は、指導力は家庭で始まる。指導者が自身の配偶者と子女に配慮して家庭を治める方法は、より広い領域の統治と社会的責任分野を担当する自分自身への出発点となる。


二つ目は、胸と心を刺激して統治することが指導力である。中国では、孔子と彼の追従者たちが法治主義者などの観点に反対しながら、模範的な指導力の理想を表明した。法治主義者たちは、法と法の強力な施行、すなわち毛沢東がのちに語ったように「銃弾による力(権力)」から指導力が流れ出ると教えた。


孔子は、もし指導者たちが腐敗したならすべての国家権力は、不満をぬぐい去ることはできず、これとは反対に、国民は、ただ暴力と抑圧を学ぶようになると対抗した。


三つ目は、私達は、神様がこの地上に送った聖賢と宗教的な師たちから、模範的な指導力の手本を見ることができる。ナザレのイエスは、単に彼の説教、み言だけではなく、犠牲的愛を実践することによって教えた。イエスの足跡に従っていくキリスト教徒たちは、「イエスが何をしようとしたのか!」を尋ね求めながら、そのようにするという。


イエスは、十字架で自身の怨讐を愛した。これは、私達が従うことが困難な手本である。それゆえ、怨讐を愛して迫害者のために祈ることが、それ以後、キリスト教徒の信仰の土台となった。政治指導者たちがこの聖賢の模範に従うとき、彼らは確実に世界平和を成し遂げるはずだ。


模範的な指導力の資質は、文鮮明先生の教えにおいて「三大主体思想」として要約される。指導力の標準は、「真の父母、真の師、そして真の主人」となることである。そのような指導者は、主人としてこの世界を監督し、深い父母の愛をもってすべての被造物を世話し、私達を真の生命の道に継続して教導していく私達の天のお父様、すなわち神様の本性に参与する。しかし、いまだにこの教えを知らない指導者たちが、あまりにも多い。彼らが正に私自身ではないか、と省察してみなければならない。






①模範的で徳望のある個人生活


―宗教経典―


先生がいわれた、「わが身が正しければ、命令しなくとも行なわれるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない。」
論語13.6(儒教)


国王が正直になれないのに、どこの民が正直にできるだろうか。国王が律義にできないのに、どこの民が律義にできるだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.183(ジャイナ教)


単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
バガヴァッド・ギーター3.20 ~ 21(ヒンドゥー教)


河水を渡る牛群の首が曲り行くならば、すべての牛群曲り行く導首が曲り行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が非法を行はば餘の人々尚更ぞ、王若し非法なるならば、一切国土苦に沈む。


河水を渡る牛群の首が直に行くならばすべての牛群直に行く導首が直に行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が正しく行はば餘の人々尚更ぞ、王若し正しくあるならば一切国土を受く。
阿含経増支部ii.75(仏教)


律義なものが心にあれば、それは心の光であり、威厳であり、栄光である。しかし、それが心を離れれば、それらも離れてしまう。
創世記ラッバー68.6(ユダヤ教)


先生がいわれた、「〔法制禁令などの小手先きの〕政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる。」
(注9)
論語2.3 (儒教)


季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます。」
論語12.19 (儒教)


『詩経』にいう「深遠なる文王、ああやむことなく光り輝き、慎んでとどまる(所に安んずる)」と。人の君となっては仁にとどまり、人の臣となっては敬にとどまり、人の子となっては孝にとどまり、人の父となっては慈にとどまり、個の民と交わっては、信にとどまる。


『詩経』にいわれている、「あの淇水のくまを見ると、緑色の竹が美しく茂っている。りっぱな君子がおられる。切り出して、みがきあげるように、割り、みがきあげるようにである。細かなことまで厳正で猛く雄々しく、明らかで盛んである。りっぱな君子がおられる。ついに忘れることができない」と。切するがごとく磋するがごとしとは、講習討論のことをいうのである。琢するがごとく磨するがごとしとは、よく反省して自分を鍛えることである。瑟たり、餘たりとは、恐れおののくことである。赫たり喧たりとは、威厳と態度である。


斐たる君子あり、ついに誼るべからずとは、明徳を明らかにし至善にとどまった君子を、民が忘れることのできないのをいうのである。
大学3.3 ~ 4(儒教)


まことに神のみ使いには、神と終末の日を切望し、神を多く唱念する者にとり、立派な模範がある。
クルアーン33.21 (イスラーム)


イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13.12 ~ 15(キリスト教)


あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
ペテロの手紙一2.21 (キリスト教)


もしあなたがりっぱな性根をもっていれば、あなたは自然に他の人たちの尊敬の対象になるでしょう。しかしもし、あなたが利己的な動機をもっていれば、たとえ面前では尊敬されるとしても、背後で彼らが言うだろう。「自分がラマ、グルだからといって、何の役に立つのか」。彼らは自由に語ることができるので、そのように言い、それは責められることではありません。同じように、あ
る指導者が利己的な動機を強くもてば、たとえ人々が彼の面前で彼を尊敬し、賛辞を浴びせたとしても、あとでもし彼が難関に逢着すれば、彼らは喜ぶのであり、それは当然のことです。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ




―み言選集―


全体のために生きる人は、全体の運行に合わせ、生活や仕事や言行心事のあらゆる面で模範となるので、自動的に上の人として尊敬されるのです。
(318-147、2000.3.5)


何が善なのかというのです。悪いものはなくし、善いものは求めると言いました。それは善いものをもって中心者になるということです。中心者とは何ですか。あらゆる人たちの一つの標準となり、彼らがついていこうとする人です。


中心者は、それと関係したあらゆるものと隔離されるのではありません。いつでもそれを管理し、保護できる存在です。保護してあげる責任があるのです。それで中心者が必要だということです。ですから、彼に従っていこうとし、彼を標準にしようとするのです。
(118-38、1982.5.2)




自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道、人格


指導者になろうとすれば、経済問題を扱うことができなければならず、外交ができなければならず、大衆を説得できるよう雄弁でなければなりません。
(85-263、1976.3.3)


神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。
(219-110、1991.8.27)




②真の父母、真の師、真の主人になるための指導者の努力


―宗教経典―


だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)


天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。その人間のうちで真に聡明なものが元首となり、元首は人民を養う父母となるのである。
書経5.1.1、周書(儒教)




いわゆる、「国を治めるには、必ずまずその家をきちんとする」とは、その家を教えることができないで、人を教えることのできる者はいない。だから、君子は家から出なくても、国じゅうの人を教化できる。孝は君に仕える道である。弟は上長に仕える道である。慈は民衆を使う道である。(注10)
大学9.1(儒教)


天、地、人間は、万物の根本である。天は万物を生み、地は育て、人は完成してあげる。賢明な君主は、必ずこのような道理を信じるがゆえに、この三つの根本を丁重で厳粛に受ける。


天の祭祀に恭敬を尽くして執り行い、先祖のやしろの祭祀に丁重に仕え、孝道と丁重を好んで表し、孝行をたたえることによって天の根本に仕える。自ら農器具を手にして直接田畑を耕し、桑の葉を取って直接蚕を育て、草を切って種を蒔き、荒れ地を開墾して衣食を豊かにすることによって地の根本につかえる。学校を建て、孝道、丁重、恭敬、譲歩などと徳目を習わせ、教化によって賢くし、礼楽によって感化させることによって人間の根本に仕える。
董仲舒春秋繁露


昔、文字をつくった人物は、まず「三」を書いたのち、その中を連結して「王」の字とした。「三」はそれぞれ天、地、人を意味する。その中を連結した「王」は、「三」の道理にすべて貫通することを象徴する。天、地、人の中を貫通さ
せて連結したため、もし王でなければ、誰がこれを担うことができるだろうか。ゆえに王だけが天の作用を代行する。


天の命令に基づき、他の人たちをそれに従うようにする。最も美しい愛は天にあり、天は愛そのものである。天は万物を覆ってあげ、育ててあげ、変化させ、命を与えて生きていくようにし、また育ててあげて閑静させてくれる。


人は天から命令を受け、天から愛をとって愛を表現する。ゆえに人は天の命を受け、天の尊貴さを備え、父、兄、子、弟の親しさをもち、忠実と信仰、慈悲と恩恵の心をもち、礼儀と謙譲の品行を備え、正と否、順応と逆行の治める道理を備えており、筋道が明瞭で豊富であり、知識が幅広く、ひとえに人の道だけが天に参与できるのである。


天は常に(万物を)愛し、利益をもたらすことに志をおき、育て成長させることを自らのなすこととしているが、春、夏、秋、冬、四つの季節はすべてそのようにするための手段である。王もまた常に天下を愛し、利益をもたらすことに志をおき、一つの時代を平安で安楽な世にすることを自らのなすこととしているが、楽しみ、憎み、喜び、怒りがすべてそのようにするための手段である。ゆえに君主の楽しみ、憎み、喜び、怒りが(正しく表現されることは)正に天の温かさ、すずしさ、寒さ、暑さ(が適切な季節に表現されること)であるがゆえに、その道理を慎重に見きわめて表出しなければならない。
董仲舒春秋繁露




一み言選集―


私達の三大念願は、一つは真の父母、その次には真の師、真の主人です。皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうですか、違いますか。しかし、その前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。
(205-20、1990.7.15)


よりために生きるそのような父母が、あらゆる父母の中で子女のために生きる父母が、真の父母であり、いかなる師よりもよりために生きようとする師が、真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうとする大統領が、真の大統領です。
(285-226、1997.3.19)




中心存在は、責任をもたなければなりません。責任をもつだけでなく、保護してあげなければならないのです。保護だけでなく、育成してあげなければなりません。
(210-98、1990.12.1)


皆さんにはすべて、父母がいます。そして、師、先生がいて、大統領という国の主人がいます。それは誰にとっても必要なのです。父母がいなければならず、先生がいなければならず、その国の主人がいなければなりません。


それでは、父母はどのような父母であり、師はどのような師であり、国の主人はどのような国の主人ですか。様々な形態があります。皆さんは、どのような父母になりたいですか。どのような学校、どのようなレベルでの師になりたいですか。


エール、ハーバード、プリンストンのようなアイビーリーグに属した大学や、イギリスのオクスフォードやケンブリッジ大学には立派な先生がた
くさんいますが、彼らを本当に真の師だと言うことができますか。


最近では、家庭で父母を信じられません。学校で先生を信じらません。息子が父母に対して信じられないので、その父母を中心として見れば、それは誰の責任ですか。夫婦が一つになれないので、息子が父母を信じられなくなり、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士も壊されているのです。


ですから、皆さんが願い、誇りたいと思い、もちたいと思っていたこの主要な三大主体が、真だという基準を中心として合格できるものが、どれか一つでもあるかというのです。
(285-214 ~ 215、1997.5.19)


皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産生義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になれる立場は、父母の立場であり、非雇用主の立場は、子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるためにその
ようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)


神様は、皆さんが真の父母になり、真の師になり、真の主人になることができると言うのですが、そのような世界最高のタイプ、そのあらゆるモデルの中心とは誰なのか、それを知らなければなりません。誰が真の父母と真の師、真の主人の最高の絶対的モデルですか。レバレンド・ムーンですか。
神様はどうですか。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。永遠の父母であり、永遠の師であり、永遠の主人です。では、神様の息子になればどうですか。神様のような父母にならなければならないでしょう? 神様
のような師の道を行かなければならないでしょう? 神様のような主人になれる道を行かなければならないでしょう? 問題は神様です。
(285-224、1997.5.19)
4.国民のための政府


政治の主な関心事は、市民福祉である。世界の経典では、統治者は自分自身の必要に先立ち、国民の要求を優先視しなければならないと確言する。これは、統治者の名称によく現れている。イスラエルの預言者たちは、彼らの統治者を「牧者」と呼び、イエスは王国の統治者を「僕」と呼び、中国の伝統では皇帝を「民の父母」とみなした。


指導者は、自身の追従者たちに個人的親切、彼らの失敗に対する寛容、事態に対する認識不足、無知、背信なども、しっかりとした信頼性で配慮しなければならない。指導者は、高位職の虚礼と誇示を排除することによって、そして国民の一人として素朴に生きていくことによって、追従者たちの困難を共有していることを見せてあげることができる。


経典は、景気低迷期の税金減免、雇用創出のための投資、国民への主人意識を養うための権限付与、貧民福祉のための準備などをはじめとした、慈愛深い統治政策を激励する(第20 章9.「経済的正義」参照)。


慈愛深い規則を追求して作られた政府の教令は、ほぼ普遍化されている。それゆえ、古代君主制時代に記録された教令が伝承され、現在でもそれが有効なのである。


しかし、ここでは現代民主主義に関するいくつかの文献が紹介されている。現代に「国民の国民による」政府が、「国民のための」政府をつくり出す最も確実な方法であることが立証された。しかし、民主主義は少なからず極悪非道さを招いた。フランス革命がその事例である。


民主主義の背後の自由選挙と代議政治の活気に満ちた精神は、自由の祝福と全体主義的暴力の間の、
すべての差別をつくり出し得るものである。西洋の経験論的キリスト教の価値に立てられた民主主義は、物質主義に基づいた民主主義よりも良いと見ることができる。文鮮明先生によれば、個人の自由を強調するアメリカの民主主義においても、様々な次元で欠点があることを看破できる。先生は、民主主義の土台は真の愛の精神であることを明らかにしている。(注11)






①奉仕する指導力


―宗教経典―


君王の幸福は民の幸福にある。彼の福地は彼らの福地にある。自分自身を楽しませることは、何であっても善とみなしてはならず、民を楽しませることであれば、何であっても善と考えなければならない。
カウティリヤカウティリヤ実利論1.19 (ヒンドゥー教)


益は上を損して下を益すことであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりがない。上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。
易経42、周易下経、益(儒教)


統治者が人々の指導者になろうと望むならば、まず、人々の前でつつましくしなければならない。
人々の先頭に立とうと望むならば、まず、彼らのあとに身をおかねばならない。彼が高い地位にいても、人々は何ら障害も感じることがない。だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。
道徳経66(道教)


大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。
道徳経60(道教)


大多数が担うことのできない重荷を民に背負わせてはならない。
タルムード、バヴァ・バトラ60b(ユダヤ教)


先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり)から離れるものだ。」
論語15.15 (儒教)


そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行きつかせてやって、〔他人のことでも自分の〕身近にひきくらべることができる、〔そういうのが〕仁のてだてだといえるだろう。
論語6.30 (儒教)
人民の守護はクシャトリアにとっての最高の生き方(ダルマ)である。というのも、〔それを遂行するとき〕王は上述の利益を享受し、〔人民が蓄積する〕功徳(ダルマ)と結ばれるからである。
マヌ法典7.144(ヒンドゥー教)


(最高統治者であり神の地上代理人である)カリフとは、民の世話をする牧童と同じであり、彼の民に関して問いかけを受けるだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25 ~ 28(キリスト教)
なんじが、かれらを優しくしたのは、神の恵みであった。なんじがもしも厳格で、心が荒々しかったならば、かれらはなんじの周囲から離れ去ったであろう。それゆえかれらの過失を許し、かれらのために神のお許しを請え、そして諸事にわたり、かれらと相談せよ。
クルアーン3.159 (イスラーム)


イムランのモーセの子孫が言った。「主よ、あなたの考えでは、あなたの僕の中で最も優れた者はだれでございますか」。彼が答えを聞くと、「権力の座にいるとき、赦しを行なう者である」だった。
バイハキ・ハディース(イスラーム)


保護とは、命令することではなく、自分自身を与えることである。
ナイカ族の格言(アフリカ伝統宗教)


公人は国家の僕になることを誇りとし、国家の主人になることを恥とする。
ウィンストン・チャーチル(注12)
―み言選集―


無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は、千万の人によく用いられる材料となろう。
御旨の道、人格


他人を支配しようと思う者は、まず自分自ら支配を受けてごらんなさい。
御旨の道、指導者


従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は、滅びる。
御旨の道、指導者


高い位置の人になるためには、低い位置の人をよく収拾しなければなりません。
(34-250、1970.9.13)


主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、天のためのものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。
(30-88、1970.3.17)


私達は、人のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、人を不快にするのはもちろん、天道に背くことです。人のために生きる人生は、すなわち神様に似るための実践なのです。神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してこそ、人格を完成した真の人、真の父母、真の師、真の主人になります。こうしてこそ、平和を成し遂げる主体になるのです。人のために生きる人生は、平和に向かう最初の関門になります。
(356-276、2001.10.20)


自分を中心とする人は、いくら大学を出て学位をもっていて、教授だとしても、その人は、責任者になれません。中心者になれないのです。しかし、すべてを備えて全体のために生きようとする人は、頂上に上がっていくのです。選挙をするときもそうです。責任者を決めるときは、個人主義者を嫌います。全体のために生きる人を選択するのです。それがこの社会において、歴史を存続させる一つの方法であり、一つの公式だというのです。それが真理です。
(102-139 ~ 140、1978.12.10)


初めて向き合う人が間違ったときは、私がこの人に何を与え、何を投入したか、考えなければなりません。そうしてこそ、失敗しても赦してあげる天理を、そこから発見できます。私が主体者として歓迎してあげて、喜ぶことを願わなければならないのであって、そのようなこともせずに喜ぶのを願うのは、どろぼうです。
(81-305、1975.12.29)


もし悪いこと、があれば、悪いことをすぐに処理してはいけません。悪いことがあっても、その悪いことを中心として喜べる条件を探していきながら、善いことが悪いことより小さくても、小さいものを見て悪いものを保留して処理できる余裕をもたなければなりません。(72-313、1974.7.14)
責任者は、分かっていてもだまされてあげなければならず、分からなくても模範を見せてあげなければなりません。
(324-202、2000.6.24)


人は日常生活で、事の道理に明るくなければなりません。愚鈍ではいけないのです。事の道理に明るいということは、道理に合っているということです。前後左右を見渡すことができなければなりません。愚鈍ではいけません。上下、前後、左右を見分けることができなければならないのです。


次に、それを包括できるのは情です。情のふろしきはすべて包みます。おじいさん、おばあさんも包み、赤ん坊も包み、すべて包みます。理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ですから、先生は80 歳のおばあさんも喜び、幼い赤ん坊も喜び、愛のふろしきで包めば、すべて喜ぶのです。互いに握り締めて離れず、永遠に休みたいと思い、眠りたいと思う所が愛のふろしきの中です。
(81-328、1975.12.29)
②貧しい者たちへの配慮


―宗教経典―


上の人が豊かな胸をもっていれば、すべての人たちが乳を飲むことができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)


政府は保護者をもてない国民のための保護者である。
ハディース(イスラーム)


さて仁徳天皇は高い山に登り、四方の国をごらんになって、「国の中に炊煙が立たない。国の人民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。この免税の結果、宮殿は破損し、あちらもこちらも雨漏りがするけれども全く修理をなさらず、器物でその漏る雨水を受けて、ご自身は雨の漏らない所に移って雨漏りをお避けになった。そうしたのちに国の中をごらんになったところ、国中に炊煙が一面に立った。そこで天皇は人民が豊かになったとお思いになり、今は課税してもよかろうと租税と夫役を課せられた。こうした次第で人民は繁栄して、苦しむことはなかった。それゆえ、その御世をほめたたえて聖帝の御世と申すのである。
古事記110(神道)


人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。


お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、
追われたものを連れ戻さず、失われたもを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。




私の群れはすべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。私は生きている、と主なる神は言われる。


まことに、私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。私が彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
エゼキエル書34.2 ~ 10(キリスト教)


あなたが呼べば主は答、あなたが叫べば、「私はここにいる」と言われる。くびきを負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
イザヤ書58.9 ~ 10(キリスト教)


神よ、あなたによる裁きを、王にあなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように。
詩編72.1 ~ 4(キリスト教)


疲れている人、障害者、足が不自由な人と病弱な人、孤児、自信のない人、男やもめと寡婦は、みな私の兄弟たちであり、誰にも頼れず、よろけて倒れる人たちだ。君子が政府を治めるとき、このような人たちを扶養しなければならない。
朱熹(儒教)


貧しく無気力な人たちは、個人の権利を擁護するという側面で特別な待遇を要求する。富裕な階級は、彼らを防御する多くの手段があり、国家からの援助を必要としない。しかし、極貧な人たちは頼る資源が何もなく、大概は国家の援助に頼る。それゆえに、弱く窮乏した群れに属する賃金労働者たちも、やはり政府から特別に保護を受け、管理されなければならない理由が成立する。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム


私に与えよ、あなたの困苦の貧しさを、自由を味わおうと渇望する労働大衆を、豊かな海辺の哀れな廃物を、これらを私に送れ、家なく暴風雨にさらされてきたものたちを、私の明かりとして掲げよう、黄金の門のそばに!
エマ・ラザルス(注13)




―み言選集―


道を歩いていてかわいそうな人を見ると、自分の体を抑制できない衝撃を受け、精神を収拾してみると、電信柱にしがみついてむせび泣いている、そのような心情で心を痛める指導者は、「発展するな」と言っても発展するのです。
(160-197、1969.5.12)


大統領が官邸に暮らすよりも、砂場に砂の家を建て、一代、一代、崩して暮らそうというその国は、復興するのです。そして、民のために生きなければなりません。神様は、それ以上にされるのです。
(382-149 ~ 150、2002.6.21)


自分のために生きるのは自分で終わるのであり、人のために生きるのは永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象圏のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。
それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。しかし、相対圏を踏みにじる世界的主体はあり得ません。世界的主体は、世界的相対の形を輝かせるための主体にならなければなりません。
(57-63 ~ 64、1972.5.28)


政治世界は、管理体制であり、政策というものは、計画を立てる必要がありません。原理的観点から、平和のために生きるのです。国家のために生きて全体の前に手本を見せることができる、「ために生きる」管理体制であって、指導体制ではありません。


その管理体制を通して経済的問題、すなわち人が食べて生きていく生活を自動的に解決できるようにしなければなりません。ですから、生活において上、中、下の3階級に分け、上級は生活基準がいくらであり、中級はいくらであり、下級はいくらかを調べてみます。これを中心として平準化するのです。中級を中心として連絡させ、平準化をしなければなりません。
そのようにしようとすれば、世界は必ず、UNと一つにならなければならないのです。整備、管理を徹底してやらなければなりません。政策を誤って立てれば、経済管理体制を破綻させてしまうようになります。


ですから、一つの家の生活のような計画を立て、1年にいくら、全世界の予算がどのくらいかかるということ、上はいくらで、中はいくらという正確な統計が出てこなければなりません。そして、上はできるだけ中を中心として下がっていきながら、下を引き上げて平準化させて合わせていかなければなりません。(注14)そのような体制をつくらなければならないのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)


発展途上国の貧困を解放し、強大国は発展途上にある新しい民主主義国家を犠牲的に助けなければなりません。各国の政策が利己主義を指向するそれ自体が大きな革命です。その方法は、私達全員が父母の立場に上がっていって見下ろしてみるのです。そうすれば、あらゆる国家が兄弟に見えざるを得ません。一つの父母のもとに、一つの兄弟国家社会を成し遂げられる歴史的機会に直面しているのです。
(219-120、1991.8.28)






③民主主義


―宗教経典―


民主主義の理想を標榜する為政者、その統治は永遠である。
アーディ・グラント、マールー、M.I (シーク教)


あなたさまの国土には、盗賊がはびこり、抑圧があります。村では略奪が行われ、町では略奪が行われ、都市でも略奪が行われています。街道では追剥が横行しています。このような盗賊がはびこり、抑圧があるいまの国土で、国王陛下が税を取りたてるとすれば、あなたさまは、してはいけないことをする者となるでしょう。


ところで、あなたさまには、この危難を、賊を、死刑や捕縛や財産没収や体罰や追放などによって、取り除くことができるとお考えになるかもしれません。しかし、そうなさっても、この危難は完全に除かれるわけではありません。生き残った者たちが、後日きっと王国を悩ますことになるでし
ょう。


しかしながら、次のような対策によって、こうした危難は、完全に取り除かれるのです。すなわち、あなたさまの国土にあって、商業に励む者たちに
は、食料と給料をお与えになることです。そうすれば、これらの者たちは、自分の仕事に専念し、あなたさまの王国を悩ますこともないでしょう。


その結果、あなたさまの蓄財も増大し、国土には平和が保たれ、盗賊などの危難もなく、抑圧もなく、国民は満足し、喜び、子供を胸に抱き、家の戸を閉めることなく、安心して暮すようになりましょう。
阿含経長部i.135、究羅檀頭経(仏教)


私達は、以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む侵されてはならない権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
アメリカ独立宣言書


私は、国民自体以外には、究極の社会的力を保管する安全な場所を知らない。もし私達が、国民の健全な裁量権によって自己調節を発揮するのに十分な開明がなされていなかったと思うのなら、その解決策は、国民から彼らの裁量権を奪うのではなく、教育によってそれを知らせてあげることである。
トーマス・ジェファーソン


私は、広い港と巨大な川でアメリカの偉大さと特徴を探した。しかし、そこにはなかった。肥沃な野原と道のない森で探した。しかし、そこにはなかった。豊かな鉱山と途方もない世界貿易で探した。しかし、そこにはなかった。民主的議会と無敵の憲法で探した。しかし、そこにもなかった。


私がアメリカの教会に行き、燃えるような説教を聞くとき、初めて私はアメリカの特徴と力の秘密を知ることができた。アメリカは善であるがゆえに偉大だ。もしアメリカが善であることをやめれば、偉大であることもなくなるだろう。
アレクシス・ド・トクヴィルアメリカの民主政治


一個人に責任を任せること、そして人々が彼を信頼していることを知らせること、それより彼をたくさん助けることはあまりない。
一つカー・T・ワシントン




―み言選集―


人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.3


イエスの時代でも、人の命は権力者の前にハエの命と同じでした。イエス様は、為政者や権力者たちが願えば、いつでもハエが捕まるように捕らえられて葬り去られる、無法天地の制度下で生まれました。根本的な人間革命を叫ばれた革新的なイエスのみ言が、その社会制度のもとで容認されるはずがありませんでした。


イエス様が十字架にはりつけにされたのは、当時の制度のもとでは避けられない事情だったと言えます。これをよく御存じの神様は、メシヤが再び来られる再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕らえて命を奪う、そのようにできない政治制度であることを御存じです。


このために、2000 年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は、人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、すなわち自由を保障する制度です。


その自由は、正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義の代表と見ることができるアメリカの憲法を見れば、自由の中で最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカ議会と政府は、宗教を規制できるいかなる法も作れないようになっています。
(100-245 ~ 246、1978.10.19)


革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。


ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディドロ(Diderot 1713 ~ 1784)や、ダランベール(D'Alembert 1717
~ 1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化される傾向性を内包していたのである。


イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。


これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.1.1 ~ 2


民主主義は、兄弟主義だというのです。すべて平等だと言うでしょう? 世界の人類は、自由を中心として平等だと言いました。自由で幸福を見いだすことができますか。できません。しかし、愛を中心とする自由では、幸福を享受できます。
(201-73、1990.3.1)


民主主義でも、もし愛を母体とすれば、世界が一つになれます。愛を母体として、世界が愛で一つになることを主張するそのような民主主義であれば、それは世界的な民主主義になるのです。共産主義も同じです。本当に真の愛を中心とした共産主義であれば、それも世界を一つにできるでしょう。愛があれば、粛清という言葉も成立しません。
(90-311 ~ 312、1977.1.15)


そのような観点から、アメリカという国をじっと見てみると、ある面では、ぱっと見て好ましく思いやすいのですが、根本的に入っていくと好ましく思いにくいのです。そこには必ず民族主義の色あいがあります。すべてのものが、いまだに孤立しています。一つになることができていません。法と人権が調和しなければならないのです。
(90-304、1977.1.15)


民主主義世界は、どれくらい持続するだろうかというのです。民主主義世界は、個人主義世界です。ここには、夫婦関係や何々関係というものがありません。すべて自分第一になっています。しかし、この世界というものは、関係を離れては存在できません。すべて関係圏になっています。これが成されれば、その次には対応関係を成し、このようにして世界は、一つの核を中心としてお互いが一つになるように回るのです。


ですから、皆さんの家庭が一つになっていれば、その次には部落と一つにならなければなりません。家庭が一つになれば、その部落と対応関係を成すのです。これが、この世を構成し、一つの連結的な体制をつくるときの不可避的な原則となります。
(228-8、1992.3.1)
5.法と罰


政府は、市民を保護し、法律違反者を制裁して、公共福祉を増進するために法を制定し、執行する。神様は、法の根源である。その方が科学的法則により機能する宇宙を創造し、正しいことと正しくないことを分別する良心を、個別の人間の心に植え付けられた。一つの国の法を構成する憲法と法令は、天法に似ている。これが、私達が良心の指示に従う理由である。


法は、邪悪を制裁する。正しく行動して不道徳なことを避けるように命令する良心の指示に従わない人々は、正しいことと正しくないこと、すなわち許されたことと禁止されたことの間を鋭く分別する法によって、制裁を受ける。良心的な人になるために自身の人格を修養する人々は、法にほとんど抵触しないで生きていく。


犯罪抑制策として、正義守護のため、法令は、法律違反者を刑罰により処罰する。刑量を決定する政府は、正義の最終分配者である神様の同労者である。


地獄とは、霊界の巨大な監獄として、天の領域を蹂躙する法律違反者を制裁するための所だ。罪の代価を払う法律違反者の刑罰は、一つの契機、すなわち「蕩減」により無にさせることができる。


法律違反者を懲罰して正義を守護する体制には、常に慈悲の要素を前提にしなければならない。そして、法律違反者は本当に改心して、生き方を新しく転換しなければならない。


文鮮明先生は、監獄の主な目標は、原状回復の教育でなければならないと教える。これは、収監者たちの残酷な監獄を原状回復のための教育の場「教導所」に改造しようとする、21 世紀の先進化運動の核心概念である。このように正義と慈悲の両極は、死刑宣告などの倫理的問題を省察する観点を、新たに形成する。




①法の高潔な目的


―宗教経典―


そこで、彼は自己以上に勝れた色(ルーバ、現象)たる法(グルマ)を産み出した。法とは権力の権力である。この故に法より勝れたものはない。法の力を籍(か)れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.14(ヒンドゥー教)


そなた自身もよく法典に敬い従って人民を導くようにしなければならぬ。文王でさえも敬い慎んで民を導き、「予といっしょに行う者があるならば、予一人は大いに喜ぶであろう」とおおせられたのであった。
書経5.9.3.8(儒教)


真の審判にうなずく者が神の同業者である。
出エジプト記メヒルタ18.13(ユダヤ教)
王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
箴言29.4 (キリスト教)


〔真実〕を吟味し、〔刑罰が〕正しく保持されるとき、それはすべての人民を幸せにする。しかし吟味せずに用いられたときはすべてを滅亡させる。
王は罰せられるべき人間に対して刑罰を用いないときは、強者は、弱者を焼き串に剌された魚のように焼くであろう。……刑罰を誤用すれば、すべ
ての身分は堕落し、すべての境(区切り)は破壊され、全世界に怒りが持ち上がるであろう。黒色、赤目の刑罰が歩き回って罪人を滅ぼすところでは、〔刑罰を〕適用する者がよく監視すれば人民は迷いに陥ることはない。
マヌ法典7.20 ~ 25(ヒンドゥー教)


善行および悪行の業の成熟と果報を現わし示すために、種々さまざまの所行をする人、それが王と呼ばれる。彼は、自身のために、また他人のために、また国土の秩序のために、神々の群れに加護され、諸々の神より王として承認されている。
王国における凶悪な悪人を取りおさえようとして、
国土の秩序のために、生命や王位を捨てることもあろう。(注16)
金光明経12(仏教)


マルドゥクが私に人を正しく案内し、地を監督することを委任したとき、私は国民の福地を増進するために、その地の言語からなる法と正義を制定した。
ハンムラビ法典(注15)


法律とは、一方では、ともすれば善人たちが互いに友を守りながら生きていけるかを教えようと、彼らのために制定されたものであり、もう一方では、このような教えを拒否し、これに従わず、心が素直になれず罪悪に陥ることを防げない者のために制定されたものです。
プラトン法律9(ヘレニズム)


自分の中にある神的分別力によって支配されるのが、すべてのために良いからです。もしそうできない場合には、外部によってでもそのようにするのがより良いのですが、これは、できる限りすべてが同一のものによって導かれることによって似るようになり、友となるようにするためです。……
そして、国の中にいるすべての協力者である法の趣旨が、そのようなものであることは明らかです。子供たちに対する統率もそうであり、国の場合と同じように、彼らに統治体制が確立されるときまでは、そして、彼らの中にある最善の部分を私達の最善の部分によって世話したのち、その子供の中に私達のものに似た守護者と統治者を私達が代わりに入れ込むまでは、子供たちを自由にすることは許容せず、それができて初めて自由にすることを私達は許容します。


ところが、知らずに正しくないことをしても差別を受けないことが、どうして利益になりますか。そのようにしても発覚しない者は、一層邪悪になりませんか。反面、発覚して罰を受けた者の野獣的な部分は眠って純化され、その一方で彼の従順な部分は、自由になり、彼の魂全体が最も優れたその本性に戻り、知恵と節制、そして正義を得て、価値のある状態を実現すること……。
プラトン国家9(ヘレニズム)








―み言選集―


法とは何ですか。自体的に保護されたものを、破壊しようとするものを除去するためのものが法です。宇宙の法がそうなので、そのような形態に拍子を合わせ、国家の法もその適応が可能だというのです。これを知ってこそ、遵法精神が必要だということを理解できるのです。
(118-198、1982.6.1)


一つの国を中心として見るとき、国法というものがありますが、善を支える目的で法を考えます。どの国の憲法を見ても、国家管理体制の法を見ても、すべてが喜べる面を擁護するためにできているのであって、これを破壊するために作られている法はありません。


もしこの原則から外れるときは、どのようになりますか。どの国にも監獄というものがあって制裁するのです。ところが、一つの国の主権者によって善の基準が異なることもありました。


良心というものは、教育を受けなくてもあらゆる善のことをすべて知っています。良心は、最も善の側についていこうとします。良心は、何が善なのか悪なのかを判断できる能力をもっており、いつでも自己の主体性をもって自分を管理しています。
(216-306、1991.4.15)


国家の形成や国家の法は、それを支柱とし、それ以外のものを制裁するものとして現れていることを知らなければなりません。ですから、私を中心とし、外的な肉を中心とするあらゆるものはすべて制裁です。行けば行くほど狭くなります。
(105-15 ~ 16、1979.7.8)


純粋な良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局人倫は、どこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44、1970.8.2)




良し悪しには、いつも境界線がなければなりません。アメリカも憲法を中心として良いこと悪いことの基準を立てるのです。そうではないですか。ところが、公的なことを制裁するそのような法はありません。公的なことは、無限定にいくらでもしなさいというのです。それを制裁する法は一つもありません。


いくらでも歓迎するということです。しかし、自分を中心とする提案は、「やめなさい、やめなさい」と制裁するのです。自分を中心とするときに、法が問題視します。自分の欲心を中心とすれば、問題視するのです。その次には、破壊することです。破壊することを問題視します。公共の建物を破壊するのは、すべて罪悪だというのです。このように見るとき、私達が人に悪いことを言って傷つけるのも、法に引っ掛かるのです。
(111-239、1981.2.22)


法が立てられれば、法のとおりにしなければなりません。天の国の家庭の法がなかったのであり、天の国の氏族の法がなかったのであり、天の国の国家の法、家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法がありません。憲法がないのです。それが、今まで神様が人類をすべてほうっておき、自由奔放にして秩序を破壊することに手を出すことができなかった理由です。


サタンが主人になっているので、神様が取り戻してこようとしても、その秩序の原則がこのようになっていて、これができていないので、これはこちら側に属していると、分け得る法がありません。これからは、そうではありません。統一教会で自分勝手に生きた人たちは、赦しがないというのです。
(356-315、2001.10.22)


堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには、義理もなく、法度もありません。


法度に従い、法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人と言います。正直とは、正しいの「正」の字と、まっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。


それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法によって分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めておかなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)


天の国の憲法とは何でしょうか。それを知らなければなりません。愛の力、愛の生命力です。天の国の憲法のすべては、これを保護するために活用されざるを得ないというのです。
(111-171、1981.2.15)

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世界経典-74

2022年08月20日 13時16分45秒 | 学習
①神様の民と家庭として和合


―宗教経典―


またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。明証がかれらに来た後分裂し、また論争する者のようであってはならぬ。これらの者は、きびしい懲罰を受けるであろう。(注54)
クルアーン3.104 ~ 5(イスラーム)


見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133 (キリスト教)


信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)




主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし、思いを一つにし、義のうちに住んだからである。そして、彼らの中に貧しい者はいなかった。
高価なる真珠、モーセ書7.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)


父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私達が一つであるように、彼らも一つになるためです。
ヨハネによる福音書17.21 ~ 22(キリスト教)


和合して行け、和合して語れ、汝らの意は和合せよ、太古の神々が、和合して〔供物の〕配分に立会いしごとくに。勧告は一致して〔あれ〕、会合は一致して〔あれ〕。思考は一致して〔あれ〕、彼らの心は一致して〔あれ〕。共同の聖語をわれ汝らに唱う。共同の供物をわれ汝らに捧ぐ。
汝らの意向は一致して〔あれ〕、汝らの心は一致して〔あれ〕。汝らの思考は一致してあれ、いみじき和合が汝らにあらんがために。
リグ・ヴェーダ10.191.2 ~ 4(ヒンドゥー教)


そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28(キリスト教)


私達の本質は、どこでも制限されておらず、私達のぶどう酒の活力は、いかなる器にも入れられていない。私達の壷をつくっている陶磁器のような中国人とインド人、私達の体を形成している土のようなトルコ人とシリア人、私達の心情はインド、シリア・ルーマニア、どこでもなく、イスラーム以外にどの祖国も、私達は宣言しない。
ムハンマド・イクバール滅私の秘義(イスラーム)




人は誰でも人との相互関係の中に置かれています。そして、その関係は運命という服をまとっています。一人に直接的な影響が加えられれば、他のすべてに間接的にその影響が返ってくるようになるものです。他の人たちが自分の位置で本分を果たすとき、私もやはり私の位置を見いだすことができ、私が私の位置で責任を果たすとき、他の人たちも自分の位置を見いだすことができます。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)






―み言選集―


歴史上で神様が最も希望することとは何ですか。神様の希望があるとすれば、救援も個人救援が問題ではなく、白人救援が問題ではありません。最も希望することとは何かというと、人類が、五色人種が一つになり、神様と生死を共にしようとすることです。
(93-15 ~ 16、1977.5.8)


外的統一よりも内的心情統一が重要です。
(60-34、1973.8.1)


先生は、未来世界の問題点の中の一つである人間と関連した障壁を崩そうとしているのです。いかなる類の有名な指導者も、文化的背景の障壁、習慣などと関連した人間間の障壁を崩すことはできません。誰がそのような障壁を崩せるのかというのです。ただ私だけができます。未来に迫る人種問題、文化と関連した諸問題、国家間の国境問題などを解決するために、アメリカを中心として、文化が異なり、文明が異なり、宗教が異なる世界の国々を一つに統一する方法を模索しているのです。
(215-203、1991.2.17)


皆さんは今後、一つの家で暮らすのです。私がコンドミニアムを造れば、4世帯が暮らせる家を造ります。レセプションの場を一つ造り、食堂も一つ造り、韓国人、日本人、アメリカ人、ドイツ人の4世帯が暮らせるコンドミニアムを造らなければならないと考えています。ですから、一つにならなければなりません。一つにならなければ天国ができません。
(131-244、1984.5.4)


最も呪わしく、夢にも見たくない怨讐の家庭と、祝福結婚を通して一つの家族になったと考えてみてください。恨みの思いに凝り固まっていた父母たちの血統は消え去り、新しい強力な真の愛の血統が創造されるのです。両家の子女たちが夫婦となり、互いに愛し合い、幸福な家庭を築いて暮らすことを呪う父母がどこにいるでしょうか。いくら憎い怨讐の娘であったとしても、自分の息子の愛を受ける嫁となり、水晶のように清らかで澄んだ真の天の孫と孫娘を抱かせてくれるとしたら、喜びの笑顔を見せないおじいさん、おばあさんがどこにいるでしょうか。


白人と黒人が、東洋と西洋が、ユダヤ教とイスラーム(イスラム教)が、さらには五色人種が一つの家族になって暮らせる道は、交叉結婚の道をおいて、ほかに方法があるでしょうか。共に暮らす生活の典型は家庭です。父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を基盤として、兄弟姉妹間は互いに信じて助け合い、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル家庭なのです。私達が命を懸けてでも、真の父母様から祝福結婚を受け、天の伝統である理想家庭を探し立てなければならない根本理由が、ここにあるのです。
平和神経、平和メッセージ1.23 ~ 24 2005.9.12




②公共の敵に対抗する一致団結


―宗教経典―


イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
マタイによる福音書12.25 (キリスト教)


私の子供たちよ。戦争、恐れ、そして不一致があなた達を、あなた達の村からこの聖なる集まりの火につれてきた。共通の危険に遭遇し、そしてあなた達家族の生存を心配しながら、あなた達はまだ分裂し、漂流している。


各部族が自分たちばかりを考え、自分たちばかりのために生きながら。私がどのようにあなた達を小さな集団から導き出し、大きな部族連盟に育てあげたか考えてみよ。あなた達は今、再び結合し、一つの体のように行動しなければならない。どの部族も、単独で私達の野蛮な敵に対抗することはできない。


あの者たちは、私達の永遠の法に対しては何の関心ももたない。あの者たちは、すべての所に死と破壊を広げながら、極寒の暴風のように私達を一掃してしまう。私の子供たちよ、よく聞きなさい。あなた達は兄弟であることを覚えておきなさい。あなた達は必ず一つの火、一つのパイプ、一つの戦闘組織をもたなければならない。(注58)
デガナウィタ(アメリカ先住民の宗教)


真実に私達は、みな共に団結しなければならない。そうでなければ、最も確実なことは、私達は分裂しつるしあげられるだろう。(注55)
ベンジャミン・フランクリン


「一つの家庭が分かれて、それぞれ戦えば、その家庭は持ちこたえていくことができない」と言います。私は、この国がいつまでも半分は奴隷で、半分は自由という状態を保てるとは信じていません。私は、連邦が解体されることを願いません。私は、一つの家庭が倒れることを願うのではなく、紛争が終息することを期待します。こちらになるかあちらになるか、きっぱりと決めなければなりません。奴隷制度の反対者が奴隷制度の蔓延を防ぎ、一般の国民によって奴隷制度は究極になって消滅してしまうと信じて安心することができるの
か、あるいは奴隷制度の擁護者たちが奴隷制度を押し進めていき、ついには新と旧、南と北を分けることなくすべての州においてこれを合法化させるのか、二つのうち一つになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注56)


ナチが共産主義者たちを支持したとき、私は沈黙した。私は共産主義者ではなかったからだ。彼らが社会民主主義者たちを監禁したとき、私は沈黙した。私は社会民主主義者ではなかったからだ。彼らが労働組合員たちを支持したとき、私は支持声明を発表しなかった。私は組合員ではなかったからだ。彼らが私を支持したとき、私のために立ち上がってくれる人は誰もいなかった。
(注57)
マルティン・ニーメラー(キリスト教)
―み言選集―


完全に悪のローマ帝国の属国になったのは、何をしようとそうなったのですか。イスラエル民族は、内的に一つになって独立運動をするのです。ローマに向かって対抗できる、このような基盤をつくるのです。強い怨讐をもたせたのは、内的に一つになった、一つの統一運動をさせるための天の作戦だったことを知らなければなりません。摂理というものを知らなければなりません。


ローマ帝国時代のカタコンベのようなところに行ってみれば、キリスト教徒たちが洞窟で暮らしていたのを見ることができます。それを見れば、ローマから迫害を受けながらも、キリスト教を中心としてどれほど一つになっていたかを知ることができます。神様がそのようにしたのは、キリスト教を一つにさせて強力な統一性を付与するためです。
(105-124 ~ 125、1979.10.4)




今日、皆さんと私は共通の運命の前に一緒に立っています。私は、この悪の世界で正義を擁護する人が、もし何らかの実質的基盤をもつことができなければ、簡単に除去され得ることを骨の髄まで深く悟っています。したがって、学者と学生たちの連合戦線と共に、クリスチャンとすべての宗教の信仰者たちは共に働かなければなりません。
(129-304、1983.11.25)






③人間の体をモデルとした相互依存


―宗教経典―


体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。


体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。


だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。


私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとし
ます。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一12.12 ~ 26(キリスト教)


アブ・ブサが使徒の言葉を伝えた。「信者とは、互いに各部分を支える建物と同じだ」。そして彼は、彼の両手の指を組み合わせて見せた。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


肉体の欲望と、堕落した心の抱く欲望とによって、汝等の間に分裂が生じることのないよう注意せよ。汝等、一つ手の指のごとく、また、一つ身体の器官のごとくあれ。啓示のペンは、かくして汝等に勧告するのである。おお、汝等、信じる者ならば。
バハオラ落穂集72(バハイ教)


指一本が痛むからといって、それを切ってしまうことはできない。(注59)
ウンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


理想世界を創建するために、私達は全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません。統一運動が提示する理想世界像は、心と体が和合して完成した一人の人間に例えられます。神様を中心とする人間の精神的および霊的生活から人生の理想と目的が出てきます。神経組織は、心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和した状態にあると言うのです。


人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれになぞらえることができるとすれば人類社会の経済的および外的な側面は個人の身体に例えることができるでしょう。人類の霊的理想と神様に向けた念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心に神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が回転するのです。




ここで宗教指導者、神学者および哲学者たちは、ちょうど人体の神経組織と同じように、神様から来るメッセージを解読し、全人類に伝達しなければなりません。
(133-272、1984.8.13)


ここの細胞を通っていた血が、足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。


頭のほうに来るなという境界線があるのですか。ありません。そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がここは白く、ここは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。だからといって、「ああ、お前は私と違うから別種だ」、そのように言えますか。
(91-280、1977.2.27)


肺臓と心臓と胃腸が、末梢神経を通じて伝達される頭脳の命令に従って、お互いに衝突することなく円満な授受の作用を維持している。この三臓器に該当する理想社会の立法、司法、行政の三機関も、政党に該当するキリストを中心とする信徒たちを通じて伝達される神の命令によって、お互いに原理的な授受の関係を結ばなければならない。


人間の四肢が頭脳の命令に従い、人間の生活目的のために活動しているように、四肢に該当する経済機構は、神の命令に従い、理想社会の目的を達成するために実践する方向へと動かなければならない。


また、人体において、肝臓が全身のために栄養を貯蔵するように、理想社会においても、常に全体的目的達成のために必要な貯蓄をしなければならないのである。


しかしまた、人間の四肢五体が、頭脳と縦的な関係をもち、肢体の間で自動的に横的な関係を結びながら、不可分の有機体をつくっているように、理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。それゆえに、この社会においては、他人を害することが、すなわち自分を害する結果をもたらすことになるので、罪を犯すことができないのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.2






11.世界市民


世界的潮流は和合に向かって絶えず流れているように見えるが、ある遠心力がその流れを脅かしている。今日、通信、教育、運送と貿易などにおいて、国家と国家の間を互いに有益で依存的なネットワークとして制度化しながら、世界化する傾向が現れている。


しかし、世界の和合は、単に貿易の土台ばかりに
依存することはできない。世界的懸案が経済的な主導勢力により調整されるなら、開発途上国の国民は世界化の犠牲者として残り、致命的な脅威を感じるであろう。人類歴史上、栄誉ある国民は、自身の慢心を担保とする代案を講じる。


イスラム主義の登場がその一つの例である。世界和合の鍵は、経済に譲渡されることはない。その鍵の主人公は、正に宗教である。各宗教の教えには、不和反目の要素があることは事実だ。しかし、各宗教には世界和合の理想を高める教え、人類の父母である神様に根源をおいた教え、を含有している。つまり、世界和合の主人公は神様である。全人類は神様の子女だ。したがって、世界は神様を中心とした一つの家族共同体である。宗教の教えは、このような和合を現実化する方法を提示する。例を挙げれば、文鮮明先生の超国家、超人種、超宗教的祝福結婚がそれである。






―宗教経典―


人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)


人類という家族を一つと思わなければならない。
ジナセーナアーディプラーナ(ジャイナ教)


せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや
このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや
おふでさき13.43 ~ 44(天理教)


全人類があなたの側になるようにせよ。
アーディ・グラント、ジャプジー28、M.1、p.6(シーク教)


おお、地上で争っている民族や種族の人々よ。汝等の敵を和合の方に向け、その光の輝きを、自分達の上に照りはえさせよ。ともに集い、たとえ自分達の間の論争の源は何であろうと、神のためにそれを根絶するよう決心せよ。さすれば、世界の偉大な輝かしいものの光輝が全地球を包み、そこに住む者は、全て一つの町の住民となり、ただ一つの王座の居住者となるであろう。
バハーウッラー落穂集111(バハイ教)


あなたは世界の市民であり、世界の一部分である。補助的部分ではなく、重要な部分である。あなたは、神聖な秩序を把握し、事物の連関性を考慮する能力がある。そうだとすれば、市民的特性は何を約定するのか。個人的利益を主張しないこと、ちょうど手と足のようにもてなすだけであって、分離した個人としては何に関しても熟考しないことがそれである。手と足に理性があり、自然法を理解するとすれば、それらは決して全体に関連することなく何かを願ったり求めたりすることはないだろう。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)
私はアテネ人でもギリシャ人でもなく、世界の市民である。
ソクラテス(注60)(ヘレニズム)


あなたが宇宙から地球を見れば、地球でどの民族や国家の境界も見ることはできない。この地球は、近づいてくる新しい神話学の象徴なのかもしれない。地球は私達が育てるべき国であり、人類は私達が共に一つである人々である。
ジョーゼフ・キャンベル神話の力


絶対真理の観点によれば、私達が日常生活で感じ、経験することは、すべて幻影である。そのあらゆる多様な幻影の中で、私達自身と異なる人に対する分別意識は、最悪の形態の幻影だ。なぜなら、それはどちらにも不幸ばかりもたらすからである。もし私達が究極的真理に対して理解し、瞑想することができれば、それは私達の心の垢をきれいに洗い、分別意識を除去するだろう。これは互いに対する真の愛をつくりあげることに助けとなるだろう。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
もし愛の一致が一つの家庭にはっきりと現れていれば、その家庭は発展して光り輝き、神霊に満たされるだろう。しかしもし、その家庭に不和と憎悪が存在すれば、破壊と解体が必然的である。これは一つの都市でも同様である。もしその中に居住する人たちが和合と親睦の精神を現せば、その都市は着実に進歩し、生活の状況は明るくなるだろう。反面、不和と闘争を現す都市は崩れ落ち、その住民はばらばらになるだろう。このように一つの国の民も、愛と和合を通して発展し、文明と教化で進み、戦争と闘争によって崩壊するのである。


結局これは、人類全体でも同様である。愛が実現され、理想的な霊的連帯が人々の心を一つにするとき、全人類は高揚し、世界はより崇高でまぶしいほど美しく成長するだろう。そして、人類の幸福と平穏がはかりしれないほど増大するだろう。
戦争と闘争は根絶され、不一致と軋轢も消え去り、宇宙的平和が世界の諸国家と民たちを一つに結ぶだろう。全ての人類は、一つの家族として共に暮らし、一つの海の波として混ざり、一つの蒼空の星々として輝き、同じ木の果実に見るだろう。これが人類の幸福であり慶事である。これが人間の啓蒙であり、永遠の光栄であり、生命である。これが聖なる贈り物なのである。
アブドゥルバハー万国平和の普及(バハイ教)




―み言選集―


私達人間に国籍を超越した一つの統一世界で生きようという強力な欲望が各自の内面世界からほとばしっています。このような内面の叫びは、真の人間の理想であり、心情であり、これはすなわち神様の心情であり、希望でもあります。
(115-177、1981.11.10)


超民族的な主義でなければなりません。超民族的な心情を中心として、自分の民族より、その国をもっと愛することができる民族が出てこなければなりません。
(34-337、1970.9.20)


これからは「私の国」という定義が発展的でなければなりません。もちろん私が生まれて育った国が、まず「私の国」であることに間違いありませんが、より大きい見地から見たならば、私の父であられる神様がつくられた世界が、すべて「私の国」なのです。
(219-121、1991.8.28)
今まで歴史を、国家を、自分の国を中心としてそのようにしてきました。人間たちはそのように考えましたが、神様がいるとすれば、神様はどのように考えたでしょうか。神様いわく、「私はアメリ力の国だけを愛する!」と言われたのなら、その神様はアメリカの神様にしかなりません。その神様は、アメリカが滅びるときに滅びなければならない神様です。


しかし、神様はそのように考えません。人間たちよりも次元の高い考えをするので、家庭のために生き、国のために生きる思想よりもっと徹頭徹尾な世界のために生きる思想を神様は立てようとするのです。
(95-53、1977.10.23)


アメリカを立てた目的は、アメリカを中心に世界を救うことです。アメリカ人たちは、アメリカが世界を救わなければならないことを知らずにいます。世界の歴史上において、単一国家が中心となって宗教と文化的に世界全域を統一したことがたった1度だけあったのですが、それが正に第2次世界大戦直後のアメリカが全世界を占領したことではないですか。アメリカとカナダの大統領を中心とするアメリカは、全世界の貧しい国々を助けてあげる立場にいたのです。
(215-200 ~ 201、1991.2.17)


天宙主義というものは、世界を一つの家にしようというものです。それでは、この家には父母がいなければならないのですが、ここで天は父であり、地は母です。次に、兄弟がいなければなりません。
(36-296 ~ 297、1970.12.13)


「私達の家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し」、神様の理想は、世界がすべて一つの家庭になることです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」(注61)、自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべ
て幸福だということです。霊界に行ってみれば、全世界の人たちが1度に集まるのですが、国境がありません。五色人種が集まっています。誰が過去、現在、未来まで、すべて一つになることができる家庭的理念をもって準備しているかが問題です。
(260-191 ~ 193、1994.5.8)


7か国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ、天国に入れる。
御旨の道、天国


人は、空間の世界に立てば必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうしてこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆さんが上下に正しく合わせているか、左右、前後を正しく合わせているかによって、様々な姿になるのです。


皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱うとき、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭でも父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。


これと同じように、国にも国の主人を中心として、あらゆる家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界の万民を兄弟姉妹のように抱き、結局、一つの家庭モデルを成すのです。モデルは同じです。そして、私自身がそのモデルの中心です。自分がいる次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様まで進んでいかなければならないのと同じ道理です。
(287-19 ~ 20、1997.8.10)


このようにすることによって、神様が願われていた摂理の家ができるのです。その家が私達の国になり、私達の世界になり、私達の天地にもなります。


私達の家に行けば、五色人種がすべています。アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、その次にイギリス人、日本人、怨讐同士がいるのです。


昔の怨讐の感情を感じようとしても感じられません。昔のドイツ人、アメリカ人、イギリス人、日本人という、このような感情を感じようとしても感じられないのです。いくら怨讐だとしても、「ために生きる」愛をもてばすべて一つになります。
(106-83、1979.12.9)


自分の一つの民族を中心とする宗教をもって、世界的なみ旨を成就しようとするのはとても不可能なことです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のあらゆる慣習をすべて打破してしまい、世界人を中心とする社会、神様のみ旨と和合できる一つの世界を模索しなければなりません。


そこにあらゆる心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させることを断行しなければ、宗教として残ることはできないでしょう。


民族を中心とする幸福の理念を求めようとするのではなく、世界を中心とする幸福の理念を求めようとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心として見てみるときに現在がそのような時点だということを私達は知らなければなりません。自分を中心とする観念、自分の家庭を中心とする観念、自分の国家を中心とする観念では世界化が成されないのです。
(27-179、1969.12.14)


歴史は一つの世界を指向してきているので、個人、家庭、民族、国家のためのことはすべて過ぎてしまいます。神様は、皆さんに世界的な標準存在に接ぎ木してくださいます。それは永遠に残ることができる基準を望んで生きる皆さんにするためです。
(12-45、1962.9.10)






第21章 指導力とガバナンス


1.神様を畏敬する指導力


神様は、すべての人間の制度を主管される。したがって、指導の第一原理は、天法によって政府が運用されなければならないということである。指導者は、神様を畏れ、神様が受け入れられるやり方で国民を統治しなければならない。


指導力は公的信頼である、すなわち神様の代理人として発揮する力量だ。したがって、一つの国の指導者は、神様の霊的価値を中心として国家を運用しなければならない。国王や大統領は、神様の前に責任があることを認識しなければならない。神様は、自身の信頼を破った指導者には断固として罰を下される。また指導者は、神様が人間社会の出来事に同参できる高次の法を設定し、それにより運用する責任がある。




―宗教経典―


イスラエルの神は語り、イスラエルの岩は私に告げられる。(注1)神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
サムエル記下23.3 ~ 4(キリスト教)


ダビデよ、われはなんじを地上における代理者にした、それゆえ人びとの間を、真理によってさばき、私情に従って、神の道からなんじを誤らせてはならぬ。神の道から迷う者は、清算の日を忘れた者で、必ずきびしい刑にあうのである。
クルアーン38.26 (イスラーム)


天の聡明は、わが人民の聡明によるのでございます。天の明威は、わが人民の明威によるのでございます。上(天)下(民)に相通じております。敬わねばなりませんぞ、有土者よ。
書経2.3.3、皐陶謨(儒教)


統治者が至高至純であられる神を畏敬し、善政を施せば、彼に大きな報いが与えられるだろう。そうしなければ、応報が彼に戻ってくるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)


天の怒りを敬み、戯れはしゃぐことなかれ。天意の變(かわ)ることを畏れ、気ままに振舞ふことなかれ。天つ神明らかにして、汝とともに出でまさむ天つ神明らかにして、汝とともにゆきまさむ(注2)
詩経、254 板(儒教)


人間に属することがらを離れて超えて、神々のことばを選んで、〔あなたの〕すべての朋友とともに〔師の〕指導にしたがえ。
アタルヴァ・ヴェーダ7.105 ト(ヒンドゥー教)


もしあなたの王権が、名声のためでなく、また欲望のためでなく、法のためにあるならば、きわめて実り豊かであり、もしそうでなければ、値打ちのないものとなるでしょう。
龍樹宝行王正論327(仏教)
あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、私を治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。


同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなた達は二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。


銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイ
スラエルの中で王位を長く保つことができる。
申命記17.14 ~ 20(キリスト教)


この金輪宝はおまえの父の財産ではない。おまえが聖王として正しい法をひたすら懸命に行い、正しい法をなして、……法に依拠して、法をしっかり立て、法に欠けることなくそなえ、恭しく法を尊重し、考察し、法を第一とし、正しい法を守るべきである。さらに、法にもとづいて、王子や大臣、すべての官僚たちや国民、沙門、婆羅門、さらに鳥やけものに至るまでみまもり、いましめ
るべきである。みなをまもるべきである。
阿含経長部iii.60 ~ 61、転輪聖王修行経(仏教)


少数で、今日の無用な人々と呼ばれてはいますが、決して邪悪ではない哲学者たちによって、偶然にある必然性が、彼らが願おうと願うまいと、国を管理するようになります。国は国でこれに従うようにするまでは、または、現在の権力を掌握していたり、君主として統治をしている当事者たちや彼らの子孫たちに、何かの神的な感化によって本当の哲学に対する本当の愛の感情が不意に襲ってくるまでは、国も政体も、また個人さえも同じように、決して完全になることはできません。
プラトン国家6(ヘレニズム)




―み言選集―


皆さんは、自分のどこが不足なのかを知っています。自分がよく知っているのです。自分の神様は、自分です。自分の神様を知らない人は、神様を知ることができません。神様の代身の立場で影のようにいる私が、その神様を中心として相対的な対象体として完全に一つになってこそ、どこでもリードできるのです。そうであってこそ、顔を上げて堂々と語れます。(237-144、1992.11.13)


指導者は、神様を身代わりし、天倫を身代わりし、そのみ旨を地上に成し遂げようとする人です。
(11-172、1961.7.9)


世界の秩序は、政治主権が道徳的、霊的、思想的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。神様の理想に基礎をおく、宇宙の公法と通じる霊的、道徳的高次元の指導力が要請されます。政治力やそのいかなる力も、神様と天理の上に立つことはできません。
(359-321、2001.11.8)
本来は、政府の大統領から上下議員まで、すべてキリスト教の正常な合格者たちでなければなりません。神様がそれを願われるのです。議会や大統領までも神様がコントロールしなければならないということです。神様に尋ねれば、神様が「私は政教を分立する神だ。宗教だけのために生きる神だ」、そのようにおっしゃいますか。違います

キリスト教がすべて政教分離をしていけば、これから完全に滅びます。今からでも遅くないので、キリスト教全体が宗派主義を打破して完全に一つになり、UNから統一運動、一つになる運動をすれば、世界が生き得る道があることを、ここから見いだせます。宗派主義を打破し、キリスト教が一つになって運動をしなければなりません。UNも、キリスト教が押し進める中で、アメリカも、
キリスト教が押し進める中で、全世界が一つになる運動も、キリスト教が推し進める中で展開しなければなりません。
(93-81 ~ 82、1977.5.15)




今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的であったり、偏狭から来る傲慢と独善的な態度からは出てきません。真の指導力は、天のみ旨に私を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じたいと思う自己省察がなければならない時だと思います。


今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派利益にきゅうきゅうとするあまり、全世界の救援のために尽力できなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が要求されている時です。
(234-273、1992.8.26)


良し悪しを何で決めますか。何を標準とするのかというのです。それはアメリカの大統領でもなく、民主世界の責任者でもなく、共産党の責任者でもありません。歴史を支配し、この天地を動かしているある主人がいるとすれば、その主人だというのです。その主人に仮名をつけて、神様としてもよいのです。その名前は、何でもよいというのです。
(104-206、1979.5.6)






2.義なる指導力


指導者の必須的な資質の一つは、義であることだ。義は、自身の利益に関係なく、ただ公共福祉に献身することである。義なる指導者は、難しい問題に直面しても委縮しない。彼は、公的正義を立ててそれに責任をもち、自身のすべてのものを投与しながら、それを具現させるにおいて、どんな障害物も克服する者である。


彼は、公的な業務の成就において、自身はもちろん、自身の同僚にも犠牲が要求されることを知っている。彼は、決して同僚たちの苦痛を当然だと考えず、彼らが克服しなければならない逆境に対して格別に心配する。そして、自分自身も、その逆境に喜んで同参する。彼は、未来の世界のビジョンを提示し、現実的課題を果敢に遂行する。


個人的水準で義なる指導者は、正直性を担保としている。彼は、自身の職務から利益を追求せず、自身の利益めためにどんな形の公金も誤用しない。不正腐敗には何らかの毒性が含有されているため、彼は、どんな犠牲を払ったとしてもそれを回避する。




①正義に対する情熱と人間に対する熱烈な愛


―宗教経典―


神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン2.251 (イスラーム)


主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と。
出エジプト記9.1 (キリスト教)


ユダヤ人力過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはなら
ない。」
ヨハネによる福音書2.13 ~ 16(キリスト教)


お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー40 のハディース34(イスラーム)


そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター、ヤスナ48.12(ゾロアスター教)


私の任務は、使徒時代の任務と同じだ。私は不敬と不浄をなくし、正義で真実な統治と人道的で天国と同じ政権を樹立するときまで奮闘するだろう。必ずや! クライシュ族よ、私が誰なのか忘れたのか。私は彼らに信仰がなかったとき、彼らと闘い、彼らを敗北させた。そして今、彼らの暴悪で、不浄で、信仰がない統治を除去するために、彼らと闘うだろう。現在の私は、聖なる使徒として生存していたときの私自身より、もっと彼らがよくなることを願う。私の勇気と決意は減ってはいない。(注4)
ナフジュ・アル・バラーガ説教38(イスラーム)


先生がいわれた、「〔人を〕愛するからにははげまさないでおれようか。〔人に〕誠実であるからには教えないでおれようか。」
論語14.8 (儒教)


困難を分かち合わなければならない。私達の師であられるモーセが共同体の困難を共に分かち合ったことを私達は知っているからである。
タルムード、タアニート11a(ユダヤ教)


私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。、主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。私は、主が激しく怒りに燃え、あなた達を滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、私に耳を傾けてくださった。
申命記9.16 ~ 19(キリスト教)


私は人間の心を抑圧するいかなる形の暴政に対しても、最後まで抵抗することを神の祭壇に誓った。
トーマス・ジェファーソン(注3)


私は血、苦労、涙、そして汗しか捧げるものがありません。
ウィンストン・チャーチル




一み言選集―


本当の大将になれる人は、どのような人ですか。死が立ちふさがっても、困難があっても、それを消化しようとする人だけが大将になれるのです。涙を流し、食べることができなくても、行かなければなりません。涙を流すことができるその場面を見ても、行かなければならないのです。死ぬことがあっても、行かなければなりません。現在の私と関係のある利益はなかったとしても、未来の世界と神様と関係のある利益があるので行くのです。
(118-41 ~ 42、1982.5.2)


環境に引っ張られていくのではなく、私が環境を引っ張っていかなければならない。
御旨の道、指導者


善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、その彼を歓迎する人は、この地に多くないという事実を私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。


さらには、善の氏族が善の国家を慕い求めていくとすれば、より途方もない悪の勢力が反旗を掲げ、その氏族の行く道を妨げようとすることは間違いありません。また、善の国があり、善の世界を追求していくとすれば、この世界が善の世界になれないので、悪の国々がその善の国が行く道を協助するのではなく、四方から反対してくることは間違いありません。
(36-52、1970.11.15)


責任者になろうとすれば、
①立つべき立場を整えて、環境を主管しなければならない。
②み旨の目的に向かっていく立場において、先頭に立たねばならない。
③数においては負けても、全体を思うことにおいては勝たねばならない。
④食べる前にも眠る前にも、彼らを思い、祈ってあげなければならない。
⑤彼らが私のためにいるのではなく、私が彼らのためにいると思わなければならない。
⑥神が与えてくださったものの上に、私がプラスさせようという心がなければならない。
御旨の道、指導者


イエス様が復活なさったのちに弟子たちを訪ねられたのは、彼らと立てた誓いを彼らは裏切っても、天は裏切ることができなかったので訪ねていったのである。誓いが果たされるまで、責任者は責任を放棄することができない。
御旨の道、指導者


現在だけを考え、未来を考えるのを嫌う人を好む人がいますか。そのような国はなく、そのような指導者はいないと思います。「国の未来のためには、皆さん国民が耐えて苦労しなさい。苦労しなさい」、このように指導するのが国の偉大な指導者であることを知らなければなりません。皆さん、アメリカの青年たち! 先生の話が理解できますか。
(97-88、1978.3.1)


指導者は、涙がなければ指導することができない。押し追ってくる民族の苦難と試練を知って、ここに備えることのできる苦痛を与え、試練を与えて鍛錬させる者が、真なる指導者である。
御旨の道、指導者






②指導者の原理的生活と自己犠牲


―宗教経典―


先生がいわれだ、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い。」
論語4.12(儒教)


斉(せい)の景公が孔子に政治のことをおたずねになった。孔子がお答えしていわれた、「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として〔それぞれ本分をつくすように〕あることです。」公はいわれた、「善いことだね。本当にもし君が君でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、穀物があったところで、私はどうしてそれを食べることができようか。」(注5)
論語12.11 (儒教)


以後、神に最も近く、最も愛される者は、公正な統治者であり、神が最も遠く、最も憎まれる者は、好戦的で不浄な統治者である。
トゥハピット・アル・アフアジ1327 (イスラーム)
孟子はお答していわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり、口になさるのです。〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国の利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。


いったい、万乗(まんのくるま)の大国でその君を弑(あや)めるものがあれば、それは必ず千乗(せんのくるま)の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗(ひゃくのくるま)の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決してすくなくはない厚禄です。それなのに〔彼
らが〕十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも〔全部を〕奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もいないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうかこれからは、ただ仁義だけを、おっしゃってください。どうして利益、利益とば
かり口になさるのです。
孟子I.A.1 (儒教)


そなたは予に教えて予の志を導いてくれよ。もしも予が醴酒を作るとすれば、そなたはそれを発酵させる麹(こうじ)である。もしも味こまやかなあつものを作るとすれば、そなたは味つけの塩梅である。(注6)
書経4.8.1 ~ 3(儒教)


領議政になろうとする人は、必ずその心と目を準備しなければならない。目が清いとき、人は正直さと不浄さを知ることができる。心が公明正大であれば、そのとき人は正直さに向かい、不浄さを退けることができる。
朱熹(儒教)


君子は官職に就く前に、周辺の他のものではなく、その能力を深思熟考する。
朱熹(儒教)




―み言選集―


どのような人を人格者だと言うのですか。ある社会制度の中で中心的な位置に立つことができる人を人格者と言います。例えば、ある村に尊敬される人格者がいるとすれば、彼はその村の内外に暮らしている人たちに、生活的にも、精神的にも、中心的な作用をすることができる人です。そうであってこそ、彼が尊敬の対象になることができるのです。


それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心に国家が形成されるのです。その人格者を中心に国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されます。このように考えてみるとき、範囲が広い世界にもやはり一人の中心的な人格者がいなければなりません。
(29-125、1970.2.26)


木が大きくなればなるほど、根は地下に深く入っていく。根の浅い木は枯れるか、あるいは風が強いとき、引き抜かれてしまうだろう。指導者とは、根のような者である。
御旨の道、指導者


「国で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。
(113-111、1981.5.1)


犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子は、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が聖人の中の聖人になります。これが天理だからです。
(113-326、1981.5.10)


指導者の不足を補いはぐくんであげなさい。指導者を批評する者は、カインの王である。指導者の欠点を包み、責任をもとうとする者は、いつの日かアベルの立場に立つようになる。(注7)
御旨の道、指導者


1番の問題が政治問題です。政治家たちが詐欺を働いてはいけません。管理体制に移っていくのです。法によって保障された道を行かなければなりません。問題は何かというと、お金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分が願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。


それで、これから1番の問題とは何かというと、公金活用です。これが1番の問題です。その次には、人事措置です。この二つです。人事措置を自分の系列を中心として行い、民主主義や何々主義として野党と与党に分かれたのです。


ですから、国家の傷がどれほど大きいですか。今までしていたことに熟達していた人たちが、敗れて、流れていってしまうのです。そうでなければ、中間でへし折られ、そこからそれ以上は上がっていけません。その場で回りながら下がっていくのであって、上がってはいけないのです。政治がなくなって管理体制になるのです。すべて管理するのです。お金を分配して良くできるのかできないのか、ということを管理する体制になります。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)

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世界経典-73

2022年08月20日 13時10分22秒 | 学習

8.正義


不義と圧制は、神様と人類に対する犯罪の原因になる。人々はどこでも、正義のために戦おうとする。しかし、すべてのものを包容する神様の愛を体感する信仰者は、正義を増進させるために彼らの影響力を用いなければならない特別な責任がある。


経典は、虐待を受ける者たちが当然の正義を享受できていないのに、信仰者が彼らのそばでのんびりと座り、彼らを救済しないことを警告する。挫折の中で抑圧を受ける者たちが、自分たちを抑圧する環境に対抗して反乱を引き起こして武器をもつ前に、宗教者たちは、長い間不義を受けた者た
ちが義なる人生を享受できるよう当局に促し、社会的良心によって苦闘しなければならない。文鮮明先生は、たびたび自身が不義を体験したが、自分を迫害した者たちに決して復讐しなかった。その代わりに先生は、奉仕と犠牲の道がすべての側面の不義を克服する最も確かな道だという確信の中で、常に愛と忍耐、信念の道を選ばれた。
―宗教経典―


主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
エレミヤ書22.3 (キリスト教)


なんじら信仰する者よ、証言には、神のため公正を堅持する者であれ、たとえなんじら自身のため、または両親や近親のためでも。かれが富者でも、また貧者であっても公正であれ、神はなんじらよりも双方にもっと近いのだ。それゆえ私欲に従って公正からそれてはならぬ。なんじらがたとえ証言を曲げ、またはそむいても、神は、なんじらの行うことを熟知したもう。(注36)
クルアーン4.135 (イスラーム)


お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。アモス書5.23 ~ 24(キリスト教)
抑圧される者たちの嘆願を注意するのだから、彼はただ彼の当然の権利を最も高貴な神に嘆願する。神は権利をもつ者が正当なものを受けることを妨げられない。
バイハキ・ハディース(イスラーム)


わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。
ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)


主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と。
出エジプト記9.1 (キリスト教)


お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー40 のハディース34(イスラーム)
悲嘆にくれる者の苦痛を減らしてあげ、抑圧される者を助けてあげることは、多くの罪過に対する報いと贖罪の行為と同じである。
ナフジュ・アル・バラーガ語録22(シーア派イスラーム)


罪を犯したり、過った道に従う人を見れば、それが自分自身に対する罪であることを知らせてあげ、その人が善の立場に戻るようにしなければならない。


これは私達の戒めである。聖書では次のようにある。「同僚を戒めよ」。誰かを叱責するときは、そのことが人の間の問題であれ、神と人間の間の問題であれ、私的に平静心をもち、柔和な声で語らなければならない。そして、その言葉が彼のためになるものであり、彼が今後訪れる世の中で新たに生まれるのを助けるためだということを理解させなければならない。
マイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)




ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」(注39)
論語14.36 (儒教)


アニス・イブン・マラクが伝えた。使徒が「抑圧したり、抑圧されるあなたの兄弟を助けよ」と言われると、アニズが彼に尋ねた。「神の使徒よ! 抑圧される者を私は喜んで助けましょう。しかし、抑圧する者をどのようにして助けるのですか」。すると使徒が、「彼が過った行為をすることができないように制裁することによってである」と答えられた。ブハーリー・ハディース(イスラーム)


不正を目撃しても中立をとる人は、結局迫害者の側を擁護したのと違いはない。象のしっぽがネズミの口にぶらさがっているのに、その状況で私が中立を願ったとしよう。ネズミはあなたに感謝しないだろう。
デズモンド・ムピロ・ツツ(キリスト教)
悪が勝利するのに必要なすべてのことは、善の人としてするべきことではない。
エドマンド・バーク(注37)


正義は良心である。個人の良心ではなく、全人類の良心である。自分の良心の声をはっきりと認識する人たちは、普通、正義の声も認識する。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン(注38)


自分自身の首を絞めるもう片方の鎖を発見しなければ、誰も自分の友人の足首に鎖をかけることはできない。フレデリック・ダグラス(注40)


今のように、この世に依然として女性たちが泣く日があれば、私は立ち向かうだろう。今のように、「男性たちが監獄を頻繁に出入りする現実が続いても、私は立ち向かうだろう。世の中にいまだに大酒飲みが残っていて、道に貧しく行き場を失った少女がいれば、神の光なく暗闇で生きている人が一人でも残っていれば、私は闘うだろう。最後のその瞬間まで立ち向かうだろう。(注41)
ウィリアム・ブース(キリスト教)
―み言選集―


神様は私達を呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃいます。
(234-273、1992.8.26)


宗教者たちが、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じ、深い自己省察が先になければならないと思います。神様は私達指導者、特に宗教指導者たちを召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるのです。
(330-247、2000.8.18)


一日の勝利基準をもてない人がどのようにして天の国に行くことができ、1年の勝利基準をもてない人がどのようにして永遠の世界に入っていくことができるでしょうか。このようなことが問題にならざるを得ません。ですから、信仰者の生活において、永遠を夢見ていくことも重要かもしれませんが、それより重要なことがあるとすれば、それは今日の現実において、どのように悪を清算して善の旗手になるかということです。
(37-219、1970.12.27)


不義を見て、そのままにしておく者は、良心家ではない。
御旨の道、人格


この宇宙間において、最高の良心的中心が誰かというとき、誰ですか。神様です。しかし、いくら良心的だとしても、不義を見て、「ああ、良い、黙っていなければならない」と言いますか。不義を見れば、怒りが爆発するのです。


良心的な神様が不義を見て、6000 年間激憤し、闘いの場を準備してきたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。個人を中心として世界を滅ぼすこと、家庭を中心として世界を滅ぼすこと、氏族を中心として世界を滅ぼすことは、神様に親不孝することです。そのような一切を神様は赦すことができずに打ってきました。
そのように先頭に立って打たれるキリスト教を迫害したローマ帝国だったので、400 年間世界を席巻し主導的な役割をしてきたローマ帝国も、亡くなったイエス様によって400 年以内に屈服してしまったのです。
(51-44、1971.11.4)


先生は、「正義は闘って勝つのではなく、耐えて勝つのである」として忍耐してきました。今もそうです。あるときは全身が麻痺するほど憤るときがあります。しかし、「神様がそれ以上に憤慨しても耐えてこられたのだから、その息子になった罪で忍耐しなければならない」と思って耐えるのです。争ってはいけません。
(74-252、1974.12.31)


青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだすことができるのです。
(288-201 ~ 202、1997.11.28)
人間世界で真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何の問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決することができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。
(294-65、1998.6.11)








9.経済的正義


どの社会でも実際の次元で貧富の格差が維持される限り、正義の社会として認定されない。そのような格差は、市民の紐帯の結束を弱化させ、階級差別とそれに伴う偏見を引き起こすようになる。しかも、貧者より富者がすべての利点を享受する社会において、機会の均等と法の前の平等は、虚像にすぎない。


今日まで人類の知性人たちは、政治的民主主義に伴う経済的民主主義を探求した。多様な類型の社会主義が、人間本心による恒久的欲望に相応して現れた。


経済的正義は、盗むなという戒めから始まる。どろぼうのタイプには他人の所有物を盗む者だけではなく、さらに危険な形態として公共の収入源を奪取する権力者などもいる。このような問題は、何が「公的」なことであり、何が「私的」なことかに対する質問から出発する。
聖書によれば、神様は地球、空気と水、そして鉱物資源を創造し、イスラエルのすべての土地は、人間を僕として立てられた神様に帰属した。このような観点は、資本主義の私的所有概念に挑戦し、義なる経済体制は共有の概念を含まなければならないと提案する。


神様の次元で見るとき、全人類は神様の子女として一つの家族の構成員である。ところが、自身の兄弟姉妹がおなかをすかせているとき、富者が良心的にどうして寝ることができるだろうか。


初期のキリスト教徒は、すべての所有を共同体に従属させた。これは今日、ユートピアを指向する社会主義者の実験を通しても主張されてきた。文鮮明先生によれば、社会主義の成功の鍵は、慈悲
心と兄弟愛の源泉である神様の愛の実践にある。


それは、富者が自身の祝福を社会全体と共有するように刺激できる。そのようにすれば、人類社会には分配と共有の美徳のライフサイクルが持続的に公転されるはずだ。(第13 章10,「慈善」参照)
一方、共産主義は、富者のものを強奪して貧者に分配する社会制度を設定し、共同所有を制度化しようと試みた。共産主義は、これを実現するために暴力を正当化して残酷な蛮行を行いながら、無産階級の怒りを悪用した。文鮮明先生は、共産主義の理論自体が無神論的であり、宗教に敵対的であるために、このように卑劣な戦略を選択せざるを得ないと批判される。


私達が経済的不均衡を是正するためには、国家の政策に優先して、私達自身を省察しなければならないだろう。私達は、個人的利益のための経済行為より、人類全体の福利のための経済行為に主力を注がなければならない。


それは、人類が兄弟姉妹、すなわち神様の家庭の一員であるからだ。家族構成員が毎月予算を立てて収入と支出を決定するように、各村や近隣の人々が公正と平等の増進のための均衡的基盤の上で、自発的に収入と支出を分類することもできる。
進んで企業次元で雇い主と工場所有者は、労働者の努力を激励し、人間価値を省察する中で、彼らの共同生産物に対する適正な賃金を待遇しなけれ
ばならない。


国家家族という側面で、先進国家は、地球上の全人類は同等な生活水準を維持すべきだという目標のもと、開発進上国に援助と技術的支援を自発的に提供しなければならない。これを支持しながら、私達は所有価値より他の人たちに与える慈悲心を土台にした存在価値にさらに比重をおき、人間尊重の文化を育成しなければならない。文鮮明先生は、これが経済正義を実現する実際的な方法だと言われる。






①窃盗と公的財産の濫用


―宗教経典―


不正に孤児の財産を食い減らす者は、まことに、腹の中に火を食べる者である。かれらはやがて烈火に焼かれるであろう。
クルアーン4.10 (イスラーム)


盗んではならない。
出エジプト記20.15 (キリスト教)


村にあっても、林にあっても、他人の所有物を与えられないのに盗み心をもって取る人、かれを賤しい人であると知れ。実際には負債があるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、かれを賤しい人であると知れ。実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニパータ119 ~ 121 (仏教)


窃盗した男も女も、その手を切断せよ、これはかれらの行いに対する、神の見せしめである。(注42)
クルアーン5.38 (イスラーム)


災いなるかな、量を減らす者こそは、かれらは人から計って受け取るときは、十分に取り。人に計るときは、少く計量する者たちである。
クルアーン83.1 ~ 3(イスラーム)


次の行為、すなわち他の人がどろぼうするようにあおる行為、わいろをもらう行為、度を超した額の請求や不十分な支給を引き起こす行為は、どろぼうに含まれる。
アカランカタットヴァールタラージャヴァールッティカ7.27 (ジャイナ教)


あなたのものも真にあなたのものではないのに、あなたのものではないものを、どうしてあなたのものだと考えることができるのか。(注43)
タルムード、デレフ・エレツ・ズータ2.5 (ユダヤ教)
石油、硫黄、鉄のような金属と天然資源は、水、ガラス、塩のような公共財産である。したがって、いかなる統治者も、誰かにそれらに対する独占権を与えることはできず、もしそのようにすれば、それは誤ったことである。
シャーフィイー346.5 (イスラーム)


自然は万民が共に使用できるように万物が注がれている。神も万物が生産され、すべてが同じように食べることができる食べ物があるようにされた。そして、すべてが地を共同で所有するようにされた。自然は平等な権利を与えたが、略奪者たちがその公的権利を私的なものに変えてしまった。
ミラノのアンブロシウス聖職者の義務について1.132(キリスト教)


私的財産でも、それが絶対的で無条件的な権利まで保障してはいない。他の人たちが窮乏するとき、不必要なものを一人で独占することは正当化され得ない。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)
―み言選集―


宗教の教えは、この体が喜ぶことをすべて拒否しなさいというものです。体は、おなかがすけばどろぼうをしてでも食べなければならないと考えます。これに対して天は、「いけない。死んでもどろぼうしてはいけない」と言うのです。
(131-25、1984.3.11)


どろぼうがなぜ悪いのですか。私がやりたくて服を盗んだのに、何か悪いのでしょうか。そこには、その一つの服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)


家庭を中心として「ために生きる」ことができるところでは、ために生き、犠牲になり、愛さなければなりません。これが創造的理想です。これに反対になるものが堕落したことですが、悪の始まりは憎悪だというのです。アダムを尊敬してために生きなければならないのですが、「ために生きる」ことができなかったのです。それが何ですか。欺瞞です。犠牲にならなければならないのに、詐欺を働いたのです。その次に略奪しました。略奪と破壊、詐欺は何ですか。憎悪と詐欺に括弧して欺瞞を入れ、略奪に括弧して破壊とすればよいのです。このようなことをすれば、地獄に行くということです。
(310-199、1999.6.15)


公金を使うときは、先生が気をつけながら使っていた、それ以上の心で一銭でも自分の生命以上、手足を切って使うような痛みを感じながら使わなければなりません。そうでなければ発展できません。うまくいくように思いますが、うまくいきません。360 度入っていって最初の姿に合わせなければ、最後になってすべて崩れていくのです。詐欺に遭ったり、どろぼうされたり、自分が死んだりするのです。
(360-321、2001.11.18)




歴史的なすべての動きは個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するために、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。このように第3の舞台を利用することがよくあったのです。それが今までの歴史的伝統でした。


結局は、自分一人が成功するために「第三者を利用しよう」と考え、個人を利用し、団体も利用してきたという話です。そして、今では国まで利用する腐敗像が多くあります。それは滅びるのです。これが今までの歴史的方向でした。


人間が堕落して出発したその日から、サタンの血を受けたその日から、本意ではない驕慢を中心に間接的な舞台を利用し、自分の利益を渇望してきたのがその歴史的方向ではなかったかということです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 42、1971.8.13)




どこかに行って良いものがあれば、ビルから金塊が落ちてきたとしても、それを使えば横領です。自分勝手に使うことはできません。公的な公金です。先生は、皆さんが金品を持ってきても受け取りません。お母様を通して受け取ったとしても、私は使いません。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。あの国に行って、がちっと引っ掛かってしまうのです。
(342-300、2001.1.13)


自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。
(51-291、1971.11.28)


自分がもっているもの、あるいは自分所有の財産は、自分がしばらくの間管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。
(23-334、1969.6.15)




私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものです。これが「統一思想」の正道です。
(57-272、1972.6.4)






②共同財産の分配と経済安定


―宗教経典―


穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.9 ~ 10(キリスト教)


七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。


あなたの神、主は、あなたに与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。(注44)
申命記15.1 ~ 5(キリスト教)


この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。……五十年目はあなた達のヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。


この年は聖なるヨベルの年だからである。あなた達は野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。(注45)……もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。


もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。……


もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。


私はあなた達の神、主である。私はカナンの土地を与えてあなた達の神となるために、エジプトの国から導き出した者である。もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。
レビ記25.10 ~ 43(キリスト教)


文公は孟子のこの言葉をきいて、助法を行なおうと思い、その後、家臣の畢戦を使いとして井田(せいでん)法を詳しく質問させた。孟子はいわれた。「貴方のご主君が今やまさに仁政を行なわれようとして……ところで仁政とは、まず耕地の境界(さかいめ)を正しくすることからはじまるものです。境界が正しくないと、井田の土地の分け方が均分にはいかないし、つれて役人の俸禄も
公平というわけにはいかなくなります。それで昔から暴虐(むどう)な君主や貪慾(よくばり)な役人は、みなこの境界をいい加減にし〔て私利私欲をはかっ〕たものです。ところが、ひとたび境界さえ正しくなると、井田を分けることも俸禄を決めることも、いながらにしてたやすくできるのです。……どうか滕(とう))の国でも、郊外の遠く広いところでは助法によって九分の一の税
を〔役人が〕取り、郊内の近く狭いところでは〔井田を区切りにくいから、助法にはよらないで〕、徹法によって個人個人がめいめいに十分の一の税を納めさせるようにしたいものです。……一里四方の田地が一井(いっせい)で、その面積(ひろさ)は九百畝あります。これを井の字型に分けると、百畝ずつ九つに分けたことになります。その真中の一つすなわち中央の百畝が公田(おか
みのた)で、周囲(まわり)の八つを私田(こじんのた)とします。八家族でまず共同に公田を耕して、それがすんでからめいめいの私田を耕すのです。(注46)
孟子Ⅲ.A.3 (儒教)


信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
使徒言行録4.32 ~ 36(キリスト教)


それで、最善の政治的共同体は、中産層の市民によって構成されることと、中産層が大きく、可能であれば他の二つの階層より強い国家が、よく統治され得ることは明白である。
アリストテレス政治学4.11(ヘレニズム)


私有財産が存在し、すべてのひとがなんでもかんでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます。


もっとも、すべて最善のものが一つ残らず、極悪の人間の手にはいるところに正義が行なわれているとお考えになったり、ものがごく少数の人々のあいだで分配され、しかもその人々でさえもあらゆる点でぐあいよく暮らしているのではなく、残りの人々たるや、完全な貧困状態にある、というようなところに幸福な暮らしがあるとでもお考えになるなら別ですけれども。


そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇に値する諸制度のことを繰り返し想いうかべるわけです。彼らはごくわずかの法で社会をかくもよく治め、そのためにあそこでは徳能あるものが酬いられ、しかも物が平等に分配されるので、すべてのひとがなんでも豊富に持っています。……


腰を上げずに、ただ怠けている者がひとりもいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないように……


ユートピア人たちは夜も含めて1日を24 時間に等分し、そのうち6時間だけを労働にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとは午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時ごろに床につくわけです。睡眠は8時間とります。労働、睡眠、食事などのあいだにある時間は各人の自由裁量にまかされていますが、それはこの時間を飽食、無為に過ごすためではなく、労働から解放された時間を自分の好みに従い、なにかの活動でよく生かすためです。……


このように彼らはみな有益な職業にたずさわっており、しかもそのさいに労働はふつうよりわずかで足りるのですから、あらゆる物質が豊富にあるのも、またときには公道修理のために(もし傷んでいるならば)莫大な人手をかり集められるというのもあたりまえのことです。


しかし、そういう労働の需要がないときには、労働時間の短縮が公示されることもしばしばあります。というのは、役人は市民たちの意志に反して彼らを不要な労働につかわせたりはしないからです。その理由は、あそこの社会制度がなによりもまずつぎのただ一つの目標を追求しているということにあります。


すなわち、公共の必要という点から許されるかぎり、すべての市民ができるだけ多くの時間を、肉体労働から解放し、精神の自由と洗練のために確保できるようにすることです。精神の洗練にこそ
人生の幸福があると彼らは考えているのです。
トマス・モア、ユートピア1.2.4 (ヒューマニム)






―み言選集―


理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々が一つの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。


ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。
(269-156 ~ 157、1995.4.17)
自分の家庭を中心として標準にしてはいけません。その村なら村の上、中、下を中心として、そこに合わせて暮らさなければなりません。それでひと月に1度ずつ、私達の上、中、下の生活基準はいくらだとして、週の生活費はいくらで、経費はいくらで、消耗費はいくらなので、その基準を中心としてどこどこに何をしてどのようにしていくということを、会議して決定するのです。


翌月はその会議の結果によってどのようにしていくということを自動的に決めれば、そこに合わせて暮らさなければならないのです。


私達の生活方法を保障するのは常に法です。今月、月給をいくらもらう人が何パーセントだ、このように上、中、下によって基準が変わるのです。それを鉄則として守ります。それを間違うと、霊界の自分の生活が侵害を受けるのです。霊界はそのようになっています。


資本主義社会のように、お金を積み上げておいて暮らすことはできません。私はお金を積み上げていません。これから息子、娘と一緒に暮らすとしても、息子、娘の村の全体標準基準が3であれば、3を基準として4、5になるとき、自分たちが協力して生活基準を付加しなければなりません。100 軒が暮らしていれば、100 軒が分割して子供の多い家を助けてあげるのです。兄弟なのでおいと同じように考えなさいというのです。それで、今後村で結婚します。助けてあげた家、助けてあげた因縁によって連結されることによって平和の基台がだんだんと拡大していぐのです。
(324-254 ~ 256、2000.6.24)


政治の方向も、家庭理想を中心として、真の愛に合わせなければなりません。経済やすべての文化もみな、真の愛に合わせなければなりません。これからは、自分の思いどおりに進んでいけば間違いが多くなるのです。ですから、世界が一つにならなければなりません。


一つになるとすれば、経済的体制を中心として一つになるのであって、政治体制で一つになってはいけません。政治体制は、支配階級と被支配階級の基盤の上に立っているというのです。ですから、経済体制を中心とする管理体制に転換されてこそ、平和と統一の世界になるというのです。


家庭モデル世界化時代に入ってくるので、その次に何かというと、平準化時代になるのです。生活標準化と平和というのは経済問題です。ですから、国連がこれから経済をきちんと管理しなければ、人類は滅亡するというのです。闘争概念を中心とした、または優劣を中心とした先後関係をもつ、このような指導体制があってはいけないのです。愛を中心として、相対的関係として進んでいかなければなりません。
(303-192 ~ 193、1999.8.25)


神様の愛を完成した人間がつくりあげる理想世界においては、全体目的と個体目的は自然に調和するようになっています。人間には欲望もあり、愛の自律性もあるので、個人所有や個体目的は許されています。だからといって、無制限な個人所有、あるいは全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって、自分の分限に合った所有量を取るようになるのです。


特に、真の愛による万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺とするので、欲張ることや不正はあり得ないのです。同時に全体目的に反して地域や国家利益が強調されることはあり得ず、経済活動の目標は、利潤の追求ではなく、全体の福祉に焦点が絞られるのです。共栄主義は、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。
(271-77、1995.8.22)


霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治はないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。


真の愛というものは、政治、経済をすべて越えていきます。真の愛は何かというと、力やお金や知識やあらゆるものを越えていきます。真の愛を中心として何をするのでしょうか。生活の平準化です。政治的な手段、方法を拡大させるのではなく、生活拡大のための世界です。それが天上天国、地上天国なのです。
(303-193-194、1999.8.25)




③富者は自分の財産を国民に分かち合うべき


―宗教経典―


飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光はあけぼののように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
イザヤ書58.7 ~ 8(キリスト教)


施こし(サダクァ)は、貧者・困窮者・施こしの事務を管理する者、および心が真理に傾いてきた者のため、また身のしろ金や負債の救済のため、また神の道のために率先して努力する者、ならびにたび人のためのものである。これは神のおきてである。神は、全知者・英明者であられる。(注48)
クルアーン9.60 (イスラーム)


私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。……
着る物もなく弱り果てている人や、からだを覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。……神の下される災いを私は恐れる。その怒りには堪えられない。
ヨブ記31.16 ~ 23(キリスト教)


邪悪な人間が繁栄し、正義の人たちがそうなることができない。そのような状況が継続するならば、
義人は挫折してしまう。ごく小さな針のように、偽りの行為の最初はそのように始まる。それが独楽のように大きく々る日には人を殺すようになる。
ヨルバ族の歌(アフリカ伝統宗教)


最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事の手を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。また、その人の同業者となって働くことだ。そうすれば、その貧しい者は、これ以上公的な補助に頼らず、手助けを通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。




レビ記25 章35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。」
アイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)


雇用者と非雇用者は、法則によって自由に互いの同意を導き出さなければならない。特に賃金においてはそうである。そうでなければ、人間相互間に行われるそのいかなる取引よりも旧時代的で、不平等な関係が成立し得る。言い換えれば、報酬を策定するときは、質素で誠実な賃金労働者の家庭を扶養する分、つまり彼と妻、そして子供たちが安定した生活を維持するように策定してあげなければならない。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム(キリスト教)


富がより平等に分配されたとき、国家が繁栄する。
フランシス・ベーコン(注47)(ヒューマニズム)
―み言選集―


問題はお金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分か願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)


水も回っていかなければなりません。運動しなければならないのです。暑ければ冷たくならなければならず、冷たければ暑くならなければなりません。暑い所が豊かで、冷たい所が貧しければ、暑い所が冷たい所に移動しなければならないのです。


それは自動的に移されます。お金のある人は自動的に村の貧しい人たちに責任をもち、すべて一緒に生活できなければなりません。このようなことが伝統になれば、そのような村はお互いに助け合うのです。そうすれば、お互いに世話にならないようにしようとします。お互いに助けようとするので繁栄するのです。
(253-238、1994.1.30)


歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。


神様の愛とは何でしょうか。それは最上級の人たちとも一緒にいられ、また最下級の人たちとも一緒にいられます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最上から最下に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。そして、いつ、どこでも同化します。


また、神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最下のところにいても最上の人を愛することができ、最上の立場にいても、最下の立場にいる人を愛することができるのです。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)


皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。


企業の所有者になることができる立場は父母の立場であり、非雇用主の立場は子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるため
に、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)




アメリカのような自由世界、民主世界は、労働組合のゆえに滅びるのです。労働組合です。労働組合の解決方法を話してあげます。統一教会の団体で労働組合があるものは、私が捕まえてつぶそうと思います。労働組合は問題ないというのです。労働者と農民に労働組合があるのと同じように、株主の労働組合をつくるのです。(注49)


二つ(労働組合と株主組合)が一つになり、「自分たちの家庭の妻や子供たちをきちんと食べさせていかなければならないので、去年の生産量よりも今年はもっと増やさなければならない。そのために、私達株主労働組合とあなた達労働者労働組合が一緒に競争しよう」というのです。


このようにして生み出した利益は、3年間主人に与えずに自分たちで分け、労働者の労働組合が一
生懸命にしたら、その分の何パーセントかを多く与え、株主の労働組合が一生懸命にしたら、その分多く与えるのです。このようにすればけんかするでしょうか。西洋社会でこのような考えをする人はいません。
それができないときには、レバレンド・ムーンが、「宗教連合の世界組織よ、集まれ! 全世界の祝福家庭、集まれ! 今から私達で宗教ユニオンをつくろう」と言えば、宗教ユニオンをつくれます。そのようにすれば、統一教会の人たちは、一生涯奉仕しようとするので、給料は3分の1も必要ありません。


「会社が倒れそうなので、他の所で稼いででもここで働く」、そこまでしなくても、「もらった給料の30 パーセントを会社に捧げて働く」と言えば、労働組合はどのようになるでしょうか。仕事をしないでもらうものをもらうことができますか。仕事をしないのにもらおうとする人は、どろぼうと同じです。そのような人たちは、先生の前に立てません。
(342-288 ~ 289、2001.1.13)


新しい時代、21 世紀は共義の時代です。新しい時代、21 世紀は物質が牛耳らない、精神と霊の時代です。新しい特代、21 世紀は、神人一体になって生きる時代です。新しい時代、21 世紀は、他のために生きることが自分のために生きるより、もっと永遠な価値があることを悟って生きる時代です。利己主義が色あせ、共生共栄共義の利他主義がついに凱歌をあげる時代、それがまさしく明けてくる21 世紀なのです。
(219-120 ~ 122、1991.8.28)






④市場資本主義の徳目:正直な労働と「見えざる手」


―宗教経典―


私達は、夕食を精肉店の主人や、醸造場の主人や、パン製造業者の慈悲に頼らず、彼らの利益に対する関心に期待する。私達は、人類愛に力点を置いて扱わず、彼らの自己愛に力点を置いて扱い、私達は私達の必要性に対してではなく、彼らの利点に対して話をする。
アダム・スミス国富論


すべての個人は、必然的にその社会の年間収益を自分ができるだけ大きくするために努力する。彼は一般的に、実に決して公益を増進しようともせず、彼がどれだけ多く公益を増進しているのかも知らない。……彼はただ、彼自身の利徳を意図する。そして、彼は多くの異なる場合のように、この場合にも一つの目的を増進するよう、見えない手によって導かれる。
アダム・スミス国富論
私は、自分ができる限り早く財産を集めるよう、すべての人を自由にしておくのが最善だと主張します。ある人々は裕福になるでしょう。私は、人が裕福になることを妨げる法を信じません。それは、有益であるよりはより害でしょう。……


私は、すべての人が自分の与件を改善できる機会を迎えることを願います。そして私は、黒人もその資格があると信じます。彼が前を見つめ、今年
と来年に雇用される労働者になることを願うのなら、あとからは自分のために働くことができ、最後には自分のために働く人を雇用するようになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注50)




―み言選集―


私はお金を稼いでも、私のために稼ぎません。自分の父母のために稼ぎません。世界のために稼ぐのです。世界に行こうとするので、教会で必要であれば教会のために使い、国で必要であれば国のために使います。国が生きる道は、世界が生き残ることができる道を行くことなので、世界のために使うのです。その,ように行かなければなりません。
(113-52、1981.4.26)


お金はどれほど力が強いですか。お金はどれほどよいですか。そこに真の愛さえあれば、その真の愛をもった人がもっているお金は、お金自体も喜びます。真の愛を中心とする人が力をもつのならば、そのような力をもってもよいのです。


なぜかというと、その力は世界を保護しようとし、天と地を保護しようとするからです。その知識はこの宇宙を便利にしようとします。私のためにするのではなく、世界のために用いようとするのです。真の愛を中心とすればすべてのことが解決します。


あらゆる力が堕落したこの世界で不平を言います。すべてのお金が、「真の人に出会わなければならないので、出会うようにしてください」と言うのですが、それをすべてあの悪の権勢、世界を支配する人たちが妨げてしまったのです。知識も、力も、それを願っているというのです。


ごの世の中で最も貴いことは、お金を集めることでもなく、知識をもつことでもなく、力を求めることでもなく、真の愛を求めることです。これが問題ですが、この堕落した世界では真の愛を知らないのです。
(161-300 ~ 301、1987.3.1)


問題は何かというと、南北の格差です。白人と黒人の問題も同じです。白人は裕福に暮らし、黒人は貧困なのです。貧富の格差があるというのです。このように問題になっている現実において、白人たちが自分の財産を売り、自分のあらゆるものを売って、黒人たちを助けるために荷物をまとめて黒人世界に訪ねていく運動が起きれば、新しい世の中が訪れるのを知ることができます。


また、黒人たちは、「私達が間違ったために冷遇され、貧しく暮らしたのであって、白人たちが間違ったのではない。私達が一生懸命に白人たちについていき、白人たちに負けないように働こう」と考える運動が起きなければなりません。
(161-19、1987.1.1)






⑤共産主義とその誤り


―宗教経典―


今まで存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史だ。……共産主義者たちの理論は、私的所有の撤廃という一つの文章に要約できる。……支配階級をして共産主義革命の前にぶるぶると震えさせよ。プロレタリアが失うものは鎖だけであり、得るものは世界全体だ。全世界の労働者よ、団結せよ!
カール・マルクス共産党宣言


共産主義社会のより高い段階で……。そのとき、ただ有産者(ブルジョア)権利の狭い水準が完全に後ろに押されるようになり、社会は次のような表題で説明できるだろう。「各自は能力に応じて、各自は必要に応じて!」。
カール・マルクスゴータ綱領批判


共産主義は、自然法に反する理論である。共産主義を通して成し遂げようとするものは、すべての私的財産権と、その上に人間社会までも破壊する結果を招くようになるだろう。
教皇ピオ9世(注51) (キリスト教)


プロレタリアの使命は信仰的綱領と同じだ。マルキシズムは、科学と政治学を飛び越え、信仰であり宗教でもある。マルキシズムの力はこの信仰と同じ基盤の上から出てくる。
ニコライ・ベルジャーエフロシヤ思想史(キリスト教)


いかなる矛盾もなく社会奉仕だけの目的で、政治参与を通して信仰を実践しようとする人たちは、注意する点がある。彼らは、人間に関する定義と信仰に反する急進的で物質主義的理念体系を攻守してはならない。マルキシズムが個人と歴史の超越性を解釈する論理と無神論的物質主義、暴力の弁証法を主張する内容から無制限の個人自由を強調する自由主義の思想まで、このようなすべての理念を固守してはならない。
教皇パウロ6 世(キリスト教)


社会主義は……だんだんとキリスト教の伝統で擁護してきた真理と近づいている。真実に社会主義の進歩は、時としてキリスト教改革者たちの要求に相当に近いことを否定できない。(注52)
教皇ピオ11 世クワドラジェジモ・アンノ(キリスト教)




―み言選集―


歴史始まって以来、人類は上下間の格差を解消しようとする方向に進んできたことは明確な事実です。このような潮流の中で最も代表的な例が共産主義です。共産主義思想は、人類社会において階級間の搾取をなくし、階級のない社会を建設しようというものです。


しかし、共産主義の最大の問題点は無神論であり、神様を否定した土台の上でそのような理想世界を建設しようとするところにあります。また、共産主義は、一部の独裁者の私意によってすべてのことを行おうとするところに問題があるのです。
(115-170、1981.11.10)


共産世界では、「労働者、農民が主権者だ」として、悲惨な人たちを英雄視するのですが、このような面を見れば民主世界はかないません。ですから、もし神様がいるとすれば、民主世界を滅ぼしても共産世界を残すでしょう。神様がいるとすればです。共産世界が民主世界より優れているというのです。ところが、「神様はいない」と言うので、これが問題です。「神様はいない」と言っ
ているのです。
(130-103、1984.1.1)


今日、共産主義者たちからは、「おお、資本主義世界の農民を解放しなければならない」という声が高らかに聞こえてきます。その解放の声が果たして、神様が人類歴史を通して完全に主体となって善の側で主導するある特定の宗教、その主力となる宗教人たちが願う解放の基準と一致する、そのような喚声であったのかといえば、違うのです。


この共産主義は、唯物論に立脚した世界の解放を夢見るのです。これは、神様までも否定して、宗教は悪であると烙印を押してこっぱみじんにし、その世界では形態すらもなくしてしまうのです。このような立場から解放を主張するのを見るときに、これは、理論的な見地から見ても一致できないのです。そればどこまでも神様の前に正反対となる対立的な解放に違いないために、悪なる悪魔の神がいるならばそれが旗手となり、神様が願う宗教的旗手の前に正面から世界的攻勢を加えてくるのです。それが今日の共産党であるという結論を、そのような観点から下せます。
(85-230 ~ 231、1976.3.3)


共産党は、「労働者よ、団結せよ!」というモットーをもっています。私達も一つのモットーをもっています。「すべての良心のある人々よ、一つになって団結しよう!」と言うのです。共産党は中上流階層の人々を否定しますが、私達良心家は、三つの階層を団結させ得るでしょう。これが私達の闘いの場です。私達は、すべての人、すなわち黒人、白人、黄色人をみな抱くでしょう。私達がそのような人々を動員して共産主義者たちに打ち勝つ時、その時に真の平和の世界が来るのです。
(52-136、1971.12.26)


皆さんが楽しむために御飯を食べれば、穀物、あるいは野菜、魚などもすべて楽しく思うと言います。皆さんは楽しいですが、その食べ物たちも楽しく思うのですか。これが問題です。ここで歴史的な問題、上下関係の調和や強者と弱者の調和を求める道がないというのです。


ここにいわゆる弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見ることができます。へーゲルのような人は、そのように見たのです。これを解決できなければ、歴史のあらゆる理想世界や、上下関係の構造的組織をもった何らかの組織体の平和や理想郷というものを見いだす道がないのです。強者は弱者を無視し、奪おうとし、冷遇し、どんな扱いをしても罪ではないと考えています。
(132-142、1984.5.31)


共産主義の経済体制は国家のためのものであり、民主主義の経済体制は個人のためのものです。妥協点を探してその隔たりを埋めなければなりません。妥協点を探して発展させていく国家が理想国家になるのであり、その国家が理想的な経済体制をもつようになるのです。
(52-267、1972.1.2)


⑥地球化と資本の平準化


―宗教経典―


人類は、互いを一家族として結んでくれる結束力がある。それゆえに、富裕な国家は貧しい国の国民が最小限の人権も享受できない、貧困と絶望、空腹の現実に処しているとき、無関心でいることはできない。諸国家は、だんだんとより全世界的に相互依存を図っている。


しかし、社会経済的不均衡が依然として存在する限り、永久的平和は維持できない。生産品、特に食糧を必要以上に過剰生産する諸国家は、正義と人類愛の名で、多くの人が飢餓で苦痛を受けている国家に援助を施さなければならない。人の生存のために必要な物を浪費したり、捨てたりすることは、人類愛を蹂躙する仕打ちである。


しかし、飢饉が時として実際にそうであるように、その国の経済の原始的状況に起因しているとすれば、緊急援助自体が究極的解決策になり得ない。永久的な治療法は、すべての方法を動員して、その国の国民たちに、科学、技術、専門的訓練をしてあげることだ。そして、近代化されたやり方で経済発展を加速化するために必要な資本を流通させてあげることである。……


開発途上国は、あきらかに国ごとに独特な特性がある。……。その中の一つが、彼らの由緒ある伝統と慣習だ。したがって、彼らを援助するとき、先進国は彼らの個性を尊重し、理解しなければならない。援助をしてあげるときにも、自分の国家の事例をこの国に適用させることに対して了解を求めなければならない。経済先進国が避けるべき、もう一つの誘惑がある。技術、財政的援助を通して貧しい国に政治的支配権を得ようとする考えが、巧妙に仮装された……


このような新しい形態の帝国主義は、世界が最近になって抜け出した旧時代的な帝国主義を再び追い求めるものである。そのような行為は、国際関係に悪影響を及ぼすだけでなく、世界平和も危険にさらすことになる。
技術的、財政的援助をしてあげるときは、その国に対する政治的支配を念頭においてしてはならない。代わりに低開発国が社会的、経済的成長を成し遂げられるよう助けることに目的を置かなければならない。
教皇ヨハネ23 世マーテル・エト・マジストラ(キリスト教)


自由放任の経済原則は、時として独占市場を形成してきたため、貿易関係はこれ以上この原則にばかり依存することはできない。自由貿易は、それがただ社会正義に符合したときにのみ正当化される。経済体制自体を否定するのではない。ただ、競争は一定の限界内で公正で正当になされなければならず、そして真正な人間の努力によって定着しなければならない。


現在は、貿易取引において開発途上国と高度に先進化した国家の間に、全体的に、そして行為の自由において、大きな不平等が横たわっている。国際貿易がより人間的で道徳的であるためには、社会正義の次元で参加国に機会が平等に与えられなければならないだろう。


幅広い次元での国際的協議を通して、価格規制と生産設備の拡充、初期段階の発展産業に対する恵沢などの規範を設定することができる。このようにしたとき、国際貿易においてより大きな正義を構築しようとするこの試みが、開発途上国に大きな恵沢をもたらし、彼らは持続的な結果物を創出できるようになることは明白ではないだろうか。
教皇パウロ6世ポプロールム・プログレッシオ(キリスト教)








―み言選集―


先進国にはお金がたくさんありますが、そのお金は誰のものですか。神様のものです。権勢は誰のものですか。神様のものです。知識は誰のものですか。神様のものです。それでは、神様は誰のものですか。万民のお父様です。ですから、そのお父様の人格、経済、権勢、真理はすべて万民のものです。それで最近になって民主主義が出現するようになったのです。


民主主義で主権は民のもの、すなわち万民のものです。ですから、民が主権を左右しなければならないといいます。ところが、今日、主権が民にあるといいますが、実際その主権は財閥たちがもっています。今アメリカはおなかをいっぱいにしていますが、一人だけ裕福に暮らすようにはなっていません。


すべて分かち合ってあげなければならないのです。天理がそうなので、アメリカは外国に援助してあげなければなりません。そうでなければ生きられません。アメリカがもっているすべてのものは、アメリカだけのものではなく、世界のものです。いかなる学識も先進国だけのものではありません。世界のものです。
(13-27、1963.10.16)


今日のアメリカがどのようにして世界的に信望を受ける国になったのかというと、第2次大戦以降に戦争に敗北した国々、すなわち怨讐の国にも援助してあげたからです。つまり、神様を身代わりして与えたので、アメリカの地位が高まったのです。しかし、これがだんだんと減っていくことによって落ちていくのです。
(26-53、1969.10.18)


皆さんが食べる食べ物は、皆さんのものですか。それはアメリカのものですか。宇宙のものであり、万民のものです。自分を中心としてこれを互いに自分だけがもとうとしています。すべてのものが均衡を成して統一された環境に存在するのです。空気がこのくらい密集していれば、これがいつも密集していますか。ないところがあれば自然に満たしてあげるようになっています。


アメリカのここが真空状態になったとき、ほかのところから空気が来ます。水もそうです。水も流れていきながら、空いているところをすべて満たしてあげていくのです。食べ物を食べるのも、満たしてあげることです。おなかがすいているので満たしてあげることです。そのようなものを吸収しなければなりません。


今2000 万が飢えて死んでいくのですが、アメリ力は消費があまりにも多いのです。これは宇宙の法則に違反します。アメリカがいくらうまくやろうとしても、思いどおりにやってみても、うまくいきません。
(247-94、1993.4.25)


自分の国だけのために進んでいけば滅びます。ほかの国を自分の国の経済復興だけのための足場と思って搾取していく国は、滅びるというのです。アメリカがほかの国を経済的に後援してあげ、そこに加えて商売をしようとするので、アメリカが今まで援助をしてあげても非難される国になったのです。
(26-294、1969.11.10)


今、アメリカがしなければならないことは何でしょうか。自国の経済力を動員して最も貧しい国を訪ねていき、父母の心情をもって与えなければなりません。そのようにしなければ滅びます。父母の心情をもって僕の立場で心から、涙を流しながら与えなければならないのです。


涙を流す人たちに対しては、涙を流す立場に立って与えなければなりません。与えるときにも、今までもっていた権勢の立場で与えてはいけません。それでは反発が起きるのです。誰が先に涙を流さなければなりませんか。受ける人が先に涙を流すのではなく、与える人が先に涙を流さなければならないのです。それが父母の心情です。


ですから、与える人が涙を流して与えなければなりません。そのようになっているというのです。
それでは、与えるときは、どのように与えなければなりませんか。涙で与えなければなりません。あざ笑って与えては滅びます。これを知らなければなりません。アメリカが時々援助していますが、権勢をもって与えれば滅びるのです。それが原則です。


大韓民国もそうです。アメリカに対して、「あなた達は援助したといばっているが、いつかあなた達がもらってみなさい」と言ってはいけません。与えるときは、涙で与えなければなりません。涙で与えることができる人になれなければ、兄弟ではなくお互いに怨讐だというのです。
(13-27 ~ 28、1963.10.16)


技術平準化、政治平準化、経済平準化をしないために、先進国が後進国に教えてあげず、かえって今まで搾取してきました。それは世界のものであって、アメリカのものではなく、ドイツのものではないのです。早く早く平準化、平準化、平準化させなければなりません。これから中国に、そのような平準化をさせたとしてみてください。中国の国民たちがどのように思うでしょうか。そうしてこそ、地上天国が早くできるのではないかというのです。
(135-107、1985.9.30)


私達の真実の奉仕の基準である絶対的価値の水平的側面に目を向け、世界の欠点をまた点検してみなければなりません。例えば、物質的技術的な面で祝福を受けてきた国々が、そうではない国に行き、喜んでこれを分かち合おうとするまでは、世界平和というのは決して成し遂げられません。


科学と技術の恵沢は、全人類のためのものです。そして、それは分けて共に享受されなければなりません。すべての国家は、国民の福利のために技術を利用する公平な機会をもたなければならないのです。これは、あらゆる国家の選手たちがコーチの指導を受け、一つの運動場で競争する道理と同じです。


そのようにしなければ、先進国はそのようにできない国々のねたみと嫉妬の対象になるのです。統一運動は、技術における祝福をすべての国に分けてあげ、開発途上国の経済的独立の必須条件である自らの工業基盤を立てるのを助ける役割を担うようになりました。
第17 次ICUS 基調演説、1988.11.25


いまだにこの世界には、多くの所に貧困があり、飢餓があり、不平等があまりに深化しています。これに対する宗教者の責任は、とても大きいと言えるでしょう。私は過去20 年間、海洋資源開発のために直接先頭で船に乗り、多くの資源を投入しながら努力しました。高たんぱく質の水産物パウダーを開発することに成功し、人体に大切な製品を継続して研究開発しています。このすべての成果は、アフリカなどの地に効果的に支援されています。


地球上の飢えの惨状をなくそうという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、発展途上国を支援することに各宗教が互いに連合、協力することができなければなりません。各宗教が先導するこのような人的、物的投資を通して真の愛が実践されれば、世界に希望を与えると見ています。
(271-71 ~ 72、1995.8.21)


行政府がウルグアイ・ラウンドを中心として、世界のあらゆる弱小国家に対して余剰農産物をすべて売ろうと固執しています。それで、私が主張することは、「農産物を自由流通するのと同じように、人間の自由流通を許諾せよ」というものです。国境を撤廃しなさいということです。これを強制すれば、アメリカは立つ場がなくなります。


それで、今後、統一教会の教会員たちのもっている所有物と財産をすべて売らせ、アフリカの人のための僕になるよう送り出さなければ、アメリカは滅びると見ているのです。アメリカの人は、そのようなことを嫌います。仕方なく統一教会の教会員にそれをさせようと思います。それで、そのような行動をするようにして、滅びるアメリカに均衡を取らせることによって、継続して存在することが可能であることを知らなければなりません。
(261-309、1994.7.24)


10.和合と共同体


すべての宗教は、自らの信仰の和合に対するビジョンをもつ。今日の私達は、あらゆる人種、宗教、そして国籍を含む人類全体の和合に対する、巨大なビジョンを念願している。しかし、共同体形成のための原則原理だけが残っている。すべての宗教は、普遍的教えを中心として新しい社会を形成するため、分裂した様々な集団を統合する和合運動を始めた。世界経典はそれに対する指針を提示している。


文鮮明先生は、家庭がすべての社会的和合の基礎であるため、この和合は家庭を洞察しなければならないと教える。この節の様々な章句は、人体の多様な器官が協力して自身の機能を遂行するため、これを比喩として用いている。これは、調和がとれた共同体の中で、互いに支持しなければならない多様な社会的役割を表示するためである。


人体は、最も低いものから最も高いものまで、すべての部分の適切な機能遂行に依存している。このように真実の共同体において、すべての人は、栄誉ある地位をもっている。(注53)

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世界経典-72

2022年08月20日 13時08分28秒 | 学習


6.平等


すべての宗教経典は、貧しくても裕福でも、黒人でも白人でも、男性でも女性でも、束洋人でも西洋人でも関係なく、すべての人が平等だと宣言する。しかし、この高貴な理想は実際とは全く異なる。私達の制限された文化的見解から、異質民族を差別し、偏見をもって相対する傾向がある。平等原則を宣言する民主社会でも、人種的、文化的差別はいまだに広まっている。


平等の基礎は何か。第1に、平等の基礎はアブラハム系統の宗教の信仰者はみな、創造主、神様から創造されたという点、アダムとエバを父母とみなすということである。第2に、すべての人を平等に扱うべきだという倫理的法的規定である。第3に、人種や階級に関係なく、すべての人は同じく、悟りと自我実現を成就できるということである。


しかし、文鮮明先生の観点によれば、これらは真の平等を成すための十分条件ではない。文先生は、真の平等は神様の愛と利他的人生に基づいた実践が基礎にならなければならないとされ、思想、人種、文化を連結する最善の方策は、すべての偏見を愛の炎で燃やせる超人種的、超文化的な祝福結婚だと主張される。




①共通父母、共通人類、そして神的可能性による平等の土台


―宗教経典―


我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。
マラキ書2.10(キリスト教)


人びとよ、なんじらの主を畏れまつれ、かれはひとりからなんじらをつくり、また同類のその配偶をつくりたまい、かれら両人から、無数の男と女をふやし広めたもう方であられる。
クルアーン4.1(イスラーム)


人間たちの中にただ一人(アダム)だけが平和のために創造された。したがって、誰も「私達の父があなたの父より偉大だ」と言うことはできない。ミシュナ、サンヘドリン4.5(ユダヤ教)


そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28 (キリストト教)


私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。
バガヴァッド・ギーター9.29 (ヒンドゥー教)


高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひぃ(注20)
おふでさき13.45 (天理教)


先生がいわれた、「教育〔による違い〕はあるが、〔生まれつきの〕類別はない。〔だれでも教育によって立派になる。〕」
論語15.39 (儒教)


実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。
バガヴァッド・ギーター9.32 ~ 33(ヒンドゥー教)


われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(注21)
法句経396(仏教)


五祖は言われた、「お前は嶺南の人間で、そのうえかつりょうだ。どうして仏になることができようか。」そこで私は申し上げた、「人間には南と
北の区別がございますが、仏性にはもともと南北の違いはございません。かつりょうという身分は和尚と違いますが、仏性にはどんな差別がございましょうか。」
六祖壇経1(仏教)


人間は互いに固有な体型と皮膚の色、歩き方、そして声をもっているが、また、もって生まれた長所と能力が互いに異なるが、結局、すべての人間が最初につくられた先祖から出てきた子孫だという事実には疑う余地がない。
アウグスティヌス神の国15.8(キリスト教)






―み言選集―


皆さんは、アメリカ人でも、イギリス人でも、ドイツ人でも、黒人でも、白人でも、黄色人でも、すべて一つです。完全に一つです。
(132-130、1984.5.27)


誰もが同等に神様の愛に同参できる、そのような道があることを願うのですが、そのような道とは神様を中心とする家庭を成し遂げることです。
(97-266、1978.3.19)


心情的な世界は、平等である。
御旨の道、心情


人は、優れていても、劣っていても、その母親が生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することなど、あるはずがありません。
(33-164、1970.8.11)
人は平均的なものを願います。同じものを、水平を願うのです。それでは、あらゆる人、あらゆる環境が異なるそのような人たちを同等にできるものとはいったい何でしょうか。愛です。愛らしい赤ん坊には何もありません。言葉も話すことができず、何の価値もないようですが、見ればかわいいのです。見ればキスしたくなり、このように手で触れたくなるのです。赤ん坊も喜びます。そこには高い、低いがありません。どこでも、すべて水平です。どこでも、平均化させ得る能力があるのです。
(254-208、1994.2.13)


西洋人が見て泣く場面を、東洋人は見て泣きませんか。西洋人が涙を流す場面は、東洋人が見ても涙を流すのです。韓国人が見て涙を流す場面は、怨讐である日本人が見ても涙を流すのです。情的な世界は統一されています。お母さん、お父さんが子供を愛するにおいて、韓国の父母は愛さないのに、日本の父母は愛しますか。そうではないでしょう? 統一されているというのです。
(41-331、1971.2.18)
②人種平等


―宗教経典―


なんじらは見ないか、神は天から雨を降らせたもう。それでわれは、色とりどりのくだものを実らせる。また山々には、白や赤の縞があり、その他多くの色合いで、真っ黒いところもある。また人間も鳥獣家畜も、同色異色とりどりである。神のしもべのうち、知識のある者のみ、かれを畏れる。
クルアーン35.27 ~ 28(イスラーム)


エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは、神に向かって手を伸べる。
詩編68.32 (キリスト教)


イスラエルの民たちよ、あなた達が私にとって、エチオピアの民と何が違うのか。主の言葉であられる。イスラエルをエジプトから導きだしたのが私なら、パレスチナの民をカフトルから連れ出してきたのも私ではないか。(注22)
ミシュナ、アヴォート9.7 (ユダヤ教)
使徒がアブ・トゥルに、「アブ・トゥルよ、お前は彼らより公正な者であるのに、黒人や黄色人から、好感を得ることができていない」と言われた。
アルガマ・アルサガイル3.2740 (イスラーム)


栄光の主であられる神は、アーリヤたちと賤民たち全員に属している。(注23)
リグ・ヴェーダ8.51.9 (ヒンドゥー教)


小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。


これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についでも、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。


身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
スッタニバータ603 ~ 611(仏教)


彼らは、一方では躊躇し、好奇心で、または同情心で私を見つめ、私に近づいてきた。そしてそのとき、「問題になることがどのように感じられるのですか」と直接的に言う代わりに、「私は、私達の村で卓越した有色人を知っています」、または「私はメカニックスヴィルで戦いました」、または「この南部人の無道さがあなたの血を煮えたぎらせるのではないですか」と言った。


これに対して私は、さも必要なことのように笑顔をつくったり、関心を見せたり、煮えたぎるものを抑えたりした。本当の質問は「問題になることがどのように感じられるのですか」だ。私は一言も答えなかった。




しかし、特にこのような時期とヨーロッパでのことを除外しては、その他のいかなるものでもなかった人としてさえ、問題になることは異常な経験だ。言わば、啓示がある日突然現れたのは、飛び回っていた少年時代の初期だ。私はその影が私をなでていったときのことをよく覚えている。


……とても小さな木製の学校の建物で、あるものが少年だちと少女たちの頭の中で、一束10 セントのきれいな訪問カードを買って交換することを提案した。その交換は、新しく来た背の高い少年が私のカードをちらっと見つめては、断固として拒絶するまで楽しんだ。そのとき私は、人とは違うことが突然はっきりとした。また、まるで心の生活で熱望したが、巨大な幕によって彼らの世界から排斥されたような感じだった。
ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス(注24)




すべてのアメリカ人が、皮膚の色ではなく個人の個性で評価されるその日を夢見ています
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)




―み言選集―


真の愛の色は、何ですか。愛には色がありません。色を語る人は、真の愛をもてません。色を目で見る人は、真の愛がない人です。
(161-22、1987.1.1)


神様の目には、黒い色、黄色い色、白い色の区別がありません。神様の目は、愛の色盲の目です。外的なカラーを御覧になりません。心情のカラーが、より華々しく強いカラーになるのです。
(258-122、1994.3.17)


神様が理想とする芸術作品は何ですか。人を中心として見るとき、黒白が闘って傑作品になれますか。白人たちは、白いペイントだけで絵を描いてみてください。絵ができるか描いてみてください。できません。なぜできないのですか。絵を描くときは、黒い色も必要で、中間の色もすべて必要です。絵を描くときは、背景が必ず必要なのです。ところが、その背景を白くする人の絵を見たことがありますか。では、何がなければならないのですか。いろいろな色がなければなりません。様々な色がなければならないのです。そうしてこそ、それが傑作品です。一体が展開するためには、そのようなものがすべて調和していなければなりません。和合しなければならないのです。
(96-220、1978.1.22)


ムーニーは、双子を生むとき、一人は黒人を生み、一人は黄色人を生めばよいと思います。白人の女性がそのようになれば、どれほど素晴らしいですか。三つの人種が一つになり、それがどれほど素晴らしいかというのです。神様が見るとき、「この狂った女性は! そのようにする心ではない」、このように言われますか。白人の女性が黒人と黄色人を生んでお乳を与えるのを見るとき、神様が「あれは滅んでしまえ」と言うでしょうか、「いやあ! 素晴らしい。感謝だ。アーメン!」と言いますか。皆さんは、黄色い花に黄色いちょうばかりが来ればおもしろくないのです。白いちょうも来て、黒いちょうも来て、黄色いちょうも飛んできてこそ、それが素晴らしいのです。
(130-102 ~ 103、1984.1.1)
イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。
(91-219、1977.2.20)


私達が黒人の手を握るときには、歴史的に涙が交錯したその手を白人が握ることで、事情を分かち合える高次的な関係が実を結んだことを知らなければなりません。その次には、天と地が分かれて手をつなげなかったものが、再び手をつなぐのです。


白いものが天を象徴するとすれば、黒いものは地を象徴します。黒白が手をつなぐことは、地と天が手をつなぐことだと考えます。雪が積もった高い山が白人であれば、最も下の枯れ葉の積もった谷は黒人です。この二つが手をつなぐことは、その高い名山の価値を表す形を形成していることを知らなければなりません。


白人を象徴する山頂が、「私には、あの深い谷は必要ない!」、また谷が「あの山頂は、必要ない!」と言えば、それは名山になれないのです。「私は、白人は必要ない!」、「私は、黒人は必要ない!」、それも同じことです。
(95-140、1977.11.6)


皮膚の色が違うのは、住んでいる地域の保護色に合わせるためであり、気候と環境の影響によるものなのです。ですから、雪が多い地域には白人がたくさんいます。反対に太陽の光が強いアフリカのような所には、黒人がたくさんいるのです。しかし、人間は根本的に同じです。例えば、血の色や肉と骨の形はすべて同じです。そして、お互いに愛することも同じです。ですから、人種の差別はあり得ません。


それで、自然の順理と原則を尊重するので、五色人種が結婚するようになったのです。黒人と白人が結婚することは、北極と南極が一つになることと同じです。また黄色人と黒人が結婚すれば、お互いの良い点を伝授してより良い子孫が生まれると思うのです。


愛がある所には葛藤がありません。たとえ皆様の生まれた故郷と祖国が違ったとしても、一つ間違いないことは、信仰の本郷であり、平和と統一の本郷地とは、真の愛を中心とした祖国と故郷だということなのです。
(315-212、2000.2.2)


この宇宙は、自然なバランスをとっていくようになっています。見てください。この唇も、神様がどれほど絶妙につくりましたか。皆さん白人は、顔が白いので青い目をしています。真っ黒な目より、青い目がどれほど魅力的ですか。


青い目は、横の白目がぼんやりと見えます。瞳ははっきりと真っ青で刺激的なので、白目が刺激的ではいけません。しかし、黒人や黄色人を見ると、何が刺激的かというと白目が刺激的だというのです。黒い瞳だからです。黒人の目は何が魅力的かというと、白目が魅力的です。青い瞳だと白目がぼんやりするのです。




そして、笑うとき、この歯がどれほど刺激的かというのです。1度笑ってみてください。黒人の人たち、笑ってみてください。そして、舌が真っ赤でしょう? どれほど刺激的ですか。そして、黒人たちは、いくら歯を出して笑っても、舌を出す資格がありません。見てください。これがどれほど魅力的ですか。ですから、黒人たちはできるだけ歯が見えなければなりません。


黒人たちはなぜ唇が厚いのでしょうか。自然に歯が見えるように厚くなければならないのです。それは本当です。すべて魅力があります。そのように見るとき、神様は素晴らしい方です。これからは、白人たちが黒人を好む時が来ると思うのです。なぜそう思うのかというと、白人の女性たちは刺激的なもの、多様な刺激を好むからです。


今まで人間世界では、この本然の状態を破壊し、本然の状態を無視する者たちが多かったのです。黒人たちを見ると汚れているようですが、汚れざるを得ません。この谷間にすべて押し込んで腐るので、においがします。それは悪いことではありません。そうしてこそ肥料になって、生命が繁殖できるのです。


人類世界で黒人がすべて血と汗を流し、白人社会の文化を創造するときの肥料になりました。それを知らなければなりません。アメリカの文化を誰がつくったのかというと、黒人たちがつくったことを知らなければなりません。


それで、ここは生命力があり、愛が宿ることができるのです。それで黒人たちは強いのです。また、100 パーセント信じます。誰でもよく信じてくれます。なぜですか。これは谷なので、何でもすべて積み重なるのです。


白人は何かというと、高い山頂と同じです。ここは何もつきません。薄情です。ですから、白人は信じられません。冷淡だというのです。白人たちは、馬が脚を折ると銃で殺してしまうのです。それは良くありません。それは自然主義、本然の形態ではないのです。本然の人は、そのようにしません。黒人もそのようにしないというのです。白人は、愛においても、決闘して決めます。命を保護するところに理想的な愛があるのであって、命を懸けて決闘するところに理想的な愛はありません。


このようなあらゆることが分かるとき、ここに文化のあらゆる旗印や現在のあらゆることも、この本然の状態を知ることによって理解し、是正できる原則を見いだせるのです。
(107-308 ~ 309、1980.6.8)




③天の国には人種や階級の差別がない


―宗教経典―


何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる。太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
コヘレトの言葉9.2 ~ 3 (キリスト教)


すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。
ローマの信徒への手紙2.9 ~ 11(キリスト教)
すべての人類が聖なる光の宝庫であることを知らなければならない。彼らの階級を問うてはならない。これ以降、階級は消えていくのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1, p.349(シーク教)


人間として私達は死の前にすべて平等である。
プブリウス・シルス(注25)(ヘレニズム)




―み言選集―


霊界に行けば色がありません。あまりに明るくて銀色のように見えるのです。銀色に見えても、あまりに燦々と輝いているので、紫色に見えるのです。
(293-224、1998.5.26)


もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすれば、どうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。その番人が「行くことはできない」と叱責してたたけば、「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼
みますか、逃げますか。
(116-110、1981.12.27)




④平等基準による人生


―宗教経典―


家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。あなた達に対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。私はあなた達の神、主である。モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒pした男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。
レビ記24.21 ~ 23(キリスト教)


寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなた達のもとに寄留する者をあなた達のうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなた達もエジプトの国においては寄留者であったからである。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.33 ~ 34(キリスト教)
ある王子が、牧童が寝ているときに顔を叩いた。牧童がこれに対して、ウマール・ビン・アル・カッティブに訴えると、彼は、同じやり方で王子にやり返さなければならなかったという判決を下してくれた。王子が、「私は王子であり、彼はただの平民なのだから、どうして彼が私をたたくことができようか」と言った。ウマールは、「イスラームでは、あなた達は同等な立場にいる」と答えた。
ムハマド・アーマド・アル・マウラ(注26)アラブの話126.2 (イスラーム)


もし私の聖なる教団で授戒したバラモン、クシャトリアなどが、依然としてカースト制度に同意し、そこで意気揚揚としていれば、彼らはまるで生まれ変わることのできなかった存在のように行動するのである。
ストーラクリタンカ1.13.10 ~ 11(ジャイナ教)




白人が黒人に、アラブ人が非アラブ人に、富者が貧しい者に、強者が弱者に、男性が女性に優越感をもつのは、不適切で過ったことである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)


奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。


あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
エぺソの信徒への手紙6.5 ~9(キリスト教)




慈悲深い人は、僕が主人と平等でなければならないと主張する。あなたは白いパンを食べ、僕に黒いパンを食べさせてはいけない。あなたは古いぶどう酒を飲み、僕には今仕込んだぶどう酒を飲ませてはいけない。あなたは毛皮で覆われた寝台で眠りながら、僕にはくずの寝台で寝かせてはいけない。ゆえに、次のような言葉がある。「ヘブライの僕を得ることは主人を得ることと同じだ」。
タルムード、キッドゥシーン20a(ユダヤ教)


あなたがあなたの奴隷だと呼ぶその人も、同じ人間として生まれたのであり、同じ良き天のもとにいて、あなたが息をするように息をして、あなたが生きるように生き、あなたが死ぬように死ぬのだ! あなたは彼を自由人と呼ぶかもしれず、彼はあなたを奴隷と呼ぶかもしれない。可能性は同じなのだから。
セネカ道徳書簡47(ヘレニズム)


わずか80 年前に私達は、「すべての人は平等に創造された」と宣言することによって出発しました。ところが今、その出発点から私達は、ある人が他の人を奴隷にすることが「自治の神聖な権利」という異なる宣言を下しています。これらの原理は共存することができません。それらは神と、貪欲の神のように相反するものです。どちらか一方を固守する人は、誰でももう一方を嫌悪しなければなりません。
エイブラハム・リンカーン(注27)




―み言選集―


人事処置を間違えて、人権を蹂躙するなというのです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して、人権を蹂躙してはいけません。
(342-298、2001.1.13)


愛の世界は、上下を区別しない。
御旨の道、天国


南米に対して先生が関心をもつのは、食糧問題のためです。人類の1500 万人から2000 万人が1年に死んでいきます。一日に6万人が死んでいくというのです。さらには、5歳以下が35 パーセント死んでいきます。誰がこれに責任をもつのですか。先進国が責任をもたないので、真の父母だという人がこれを考えなければ、あの国に行って問題になります。


それで先生は、そのためにこれから伝統をつくらなければなりません。先生の日常生活は、その人たちを救うための節約の生活です。数十年前からその準備をしてきました。先生は普通、ネクタイを締めずに歩きます。これからネクタイ返納です。家に帰れば裸足で過ごします。靴下代を受け取らなければなりません。今からそのようにしなければなりません。


タオルも大きなものは使いません。この四角いもの、あるいは七分ぐらいのものを使います。今まで数十年間そのように使ってきたので、私がワイキキ・ホテルに行くと、色とりどりのタオルが数十枚ありますが、一つも使いません。これが公式になりました。「先生はタオルも使うことを知らない」と思うかもしれませんが、違います。伝統とは一度にはできないのです。
(273-53、1995.10.21)


愛を中心として、ために生きてあげるときだけが平等です。
(107-152、1980.4.20)




人種差別や宗教的葛藤、そして国粋主義は、人権蹂躙に対する原因を提供するようになります。力で支配する時代は終わりました。そのような時代は、既に過ぎていったのです。21 世紀は、共に生きていく超人種、超国家、超宗教の時代です。真の愛が支配する時代が開かれたということです。
(369-221、2002.2.15)


今まで平等圏がなかったので、その平等圏をつくる作戦とは何かというと、他のために犠牲となり、福を祈ってあげ、打たれていきながらその打った者たちを屈服させ、同じ福を与えることによって、ここには完全平等圏の役事が起きるのです。
(56-335、1972.5.18)


歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。




神様の愛とは何でしょうか。それは、最上級の人たちにも同じようにでき、また最下級の人たちにも同じようにできます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最高から最低に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。


神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最低のところにいても最高の人を愛することができ、最高の立場にいても、最低の立場にいる人を愛することができるのです。このように、この上なく自由です。このような神様の愛の中にいる人は、世界のどこに行っても大歓迎を受けるで
しょう。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)


自分が白人だからといって、「ああ、私は、白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじ.いさん、おばあさんは愛せない。身なりの良い立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければなりません。それが公式です。
(130-274、1984.2.5)


黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して人権を蹂躙してはいけません。先生は、黒人だ何だと差別したり、大学を出たとか、そのようなことですべてを決めるのではありません。人権を正しく指導する真の愛をもって、「ために生きる」愛をもって暮らす人が主流です。


天地創造は、そこから始まりました。その主流思想をすべて流してしまうのは許せません。弟の体が不自由だからといって、弟を無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、すべて無視するでしょう? 知識があって何々大学を出たという人は、高卒の人でも無視してしまうのです。これは、人権蹂躙になるので
す。
(342-298、2001.1.13)


先日、ある中国料理店に行ったのですが、ネクタイをしていないから出ていきなさいと言うので、引き返してきました。出てくるときに、後ろ指を指されました。私はアメリカの食口を20 人くらい連れていったのですが、ネクタイを出してつけてくださいと言うのです。それで私は気分が悪くて出てきてしまいました。ネクタイの締め方が分からなくてそのようにしたのではありません。


出てくるときにひそひそ話しているのです。20 人くらいを連れ回り、すごい車を乗り回している人が、そのようにネクタイもしないで歩き回るとは夢にも思わなかったのでしょう。


その人たちは商売を誤りました。私達のような人が宣伝すれば、たくさん売ることができていたでしょう。次からはそこに行きません。ネクタイ一つで人をそのように扱ってはいけません。私は二度と行きませんでした。レバレンド・ムーンもそうなので、黒人たちが入っていけば足で蹴飛ばされるのではないか、そのように思ったのです。
(93-67 ~ 68、1977.5.1)


民主主義の根本的な伝統は自由だとか平等だとか言いますが、そのようなものではありません。そのあらゆる伝統には愛がなければなりません。平等というものを見てみるとき、女性と男性は平等になることができますか。愛する男性と女性がいるのですが、その男性と女性が平等ではないそのような素性をもった男性と女性なので、願う平等の世界、自由の世界、あらゆる民主主義の世界というものは平等になり得ないのです。


それでは、何をもって平等になりますか。愛を抜かしてはなれません。アメリカというこの民主主義の世界の中に愛の概念がありますか。自由という概念の中に愛の概念がありますか。平等という概念の中に愛の概念がありますか。ありません。
ここに真の愛をもってくれば、すべてできます。男性と女性も平等になれ、その次に、その愛を中心として自由になれます。その愛を中心として民主主義が形成されるのです。
(230-87 ~ 88、1992.4.26)


今後、五色人種が一つになります。愛というものは一つなので、東西南北の方向と階層が違うからといって、その軸が異なるものではありません。同じなので、真心のこもった愛の心に咲く花は、ほかのいかなる種類の花でもなく、神様の愛の種類の花です。したがって、南極に行って咲いても、北極に行って咲いても、東極に行って咲いても、西極に行って咲いても同じだというのです。分かりますか。このような観点から、今日、超民族的な結婚観が可能なのです。
(101-74 ~ 75、1978.10.28)






7.女性の権利


先の世紀に始まった女性の権利と男女平等のための運動は、人間の進歩のための主要なエネルギーである。しかし、豊富な女性主義的思考と傾向の中で経典は、私達に何が最上で最も持続的なものなのかを区別するように教える。


この節は特別に女性の社会的権利を扱う。より根本的な男女関係は結婚である。結婚において性の役割と男女平等の問題が格別な関心の中で扱われる。(第19章6.「結婚生活の倫理」参照)


女性への持続的な虐待に対抗し、経典は、神様の前で男女の本質的平等と尊厳性を確認する。経典はまた、教育と最上の信仰目標の追求において女性の権利を明確に語っている。女性は悟りに適していないという悪魔のささやきを克服する女僧の決意を称賛する、仏陀の章句が際立っている。


一方経典は、女性的尊厳性の根拠として、子女を生む伝統的女性の役割を激励する。その上、女性の従属性を、堕落と人類始祖の女性が犯した罪の結果だとして証拠を提示する経典がある。文鮮明先生は、女性の従属性に関して、少なくとも部分的には、男性を堕落させた「天使長」が原因であるとする独特の批判を加えている。


男性と女性が身長と肉体的能力において、明確に異なることは否認できない。仏教の経典は、心が唯一の実在という観点から、そのような外形的な差が何かの意味をもつという考えはこっけいと見る。創造された世界を実在と確信する文鮮明先生にとって、それは無意味なことである。むしろ先生は、愛が男女平等の基礎と教える。先生は、出産を女性に対する神様の特別な贈り物とみなし、
その伝統的価値を支持する。


しかし、先生は同時に、社会で指導者の位置を熱
望する女性を称賛する。そして、女性の追従者たちが伝統的な男性の役割を担当するように激励する。このような観点から、先生の考えは、アメリカの先駆的女性主義者としてここに引用されたスーザン・アンソニーの夢と共鳴する。
①男女平等の土台


―宗教経典―


神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)


主はかれらの祈りを聞き入れたまい、仰せられた、まことにわしは、男でも女でも、なんじらのだれの働いた働きもむなしゅうしないであろう。なんじらは互いに同士である。
クルアーン3.195 (イスラーム)


女たちが敬われるときは神々は満足する。しかし敬われないときはいっさいの祭儀は果報をもたらさない。女の親族が悲しむときはその家はたちまちに滅ぶ。しかし彼女たちが悲しまないときはその家は常に栄える。
マヌ法典3.56 ~ 57(ヒンドゥー教)




私の愛する姉妹、女性たちよ! あなた達はこの世で苦難の人生を生きてきた。しかし、あなた達がいなければ、この世は現在のようにはなっていなかっただろう。ワカン・タンカは、あなた達が多くの悲しみを耐え忍び、悲嘆の中にいる人たちを慰労することを願う。(注28)あなた達の手によって家庭は維持される。
神聖なパイプに関するスー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)


ソーマー尼は、……托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかきわけて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。


そのとき悪魔・悪しき者は、ソーマー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、ソーマー尼に近づいた。近づいてから、ソーマー尼に向かって、詩を以て語りかけた。




「達成しがたくて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕知恵しかない女人がそれを体得することはできない」と。そこでソーマー尼はこのように考えた。「詩をとなえて
いるこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。


つづいてソーマー尼は、このように思った。「これは、悪魔・悪しき者が、私に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。そこで、ソーマー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。


「心がよく安定し、知恵が現に生じているとき、
正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。『われは女であろうか?』『われは男であろうか?』また『われは何ものなのだろうか?』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」そこで悪魔・悪しき者は、「ソーマー尼は私のことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
阿含経相応部i.128、尼僧に関する集成(仏教)


汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に仗(よ)ってよろめしき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.3(ヒンドゥー教)


シャーリプトラが言った。「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?」天女は言った、「わたくしは十二年このかた、女人の性を求めて来ましたが、ついに不可得でありました。いったいどうして女身を転ずる要がありましょう
か? 譬えば幻術師が幻の女をつくり出したようなものです。もしもひとが幻の女に『あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?』と問うたならば、この人は正しい問を発したと言えるでしょうか?」


シャーリプトラは答えた、「それは正しい問ではありません。幻には一定の特性はありません。どうしてそれを転ずる要がありましょうか?」天女は言った、「一切のことがらもまたそのとおりです。一定の特性はありません。〈女身を転じて男の身とならないのはなぜか?〉とどうして理由を問う必要がありましょうか?」と。


天女は即時に神通力をもってシャーリプトラを変じて天女の如くならしめた。また天女は自ら身をかえてシャーリプトラの如くならしめた。そうしてシャーリプトラに問うて言った、「どうして女身を転じて男の身とならないのですか?」


シャーリプトラは天女のすがたをしながら答えて言った、「わたくしは女人の身となってしまいましたが、どうしてこのようなことになったのか解らないのです。」




天女が言った、「シャーリプトラさま。もしもあなたが御自分の〈女人の身〉を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたが実は女ではないのに女人を現わされたように、一切の女人もまたそれと同じです。かれらは女身を現わしているけれども、実は女ではないのです。だからこそ、仏は、一切のものは男に非ず、女に非ず、と説きたもうたのです。」(注29)
維摩経7(仏教)




―み言選集一


アメリカでも、いまだに女性の権利よりも男性が優勢で、女性たちが女権復帰運動、女権伸張運動を通して男女平等を主張しています。それで、アメリカの女性たちは少し違いますが、全世界の女性たちが、女性として生まれたことに恨を抱いて生きてきたという事実は歴史的に否定できません。


アメリカで女性たちがいくら「社会がきちんと保障してほしい」と言っても、女性二人で男性一人に勝てますか、勝てませんか。このような点から、男性に生まれていれば良かったと思わない女性がいないというのです。


ですから、歴史的に世の中の人の中でかわいそうなのは、男性より女性です。歴史を通して見てみれば、今まで女性が男性を強奪しましたか、男性が女性を強奪しましたか。男性が女性を強奪しました。何パーセントくらいになると思いますか。90 パーセント以上でしょう。そのような意味で女性が、男性に対する敵愾心とともに、いつも女性の権利を心の中から追求してきたことは、否定できない事実です。神様がいるならば、そのようなことを解決してこれをすべて平等にして、これに反対して迫害する男性たちを屈服させることをせずに、なぜ今までそのままほうっておいたのでしょうか。これが問題です。
(243-268、1993.1.28)


平等権をどのようにして主張するのでしょうか。力で、外的に、そうでなければ情的にですか。愛です。愛をもてば、男性と対等になることができ、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になれるのです。愛をもったところには、すべてのものが平等になれる内容があるという事実を知らなければなりません。そのような意味で、愛を中心に平和の家庭を願う男性と女性に、平等となる中心の核があるという事実を私達は知らなければなりません。


夫は、妻の懐に帰ることを願うのであり、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。ここには、低いものもなく、高いものもありません。それこそ、平等を体験するのです。他のところに平等がありますか。どこか他のところに平等があるか調べてみなさいというのです。男女の平等権は、平和な家庭においてのみ形成されるということを知らなければなりません。
(129-51 ~ 52、1983.10.1)


平等というものは、「私達」がいなければできません。「私」を中心としてはできないのです。「私達」でなければなりません。それを知らなければなりません。「私達」を中心とする平等であり、愛を中心とする平等です。それを知らなければなりません。個人を中心とする平等ではありません。


女権主義者も間違いであり、男権主義者も間違いだということです。人間主義者、人権主義者が正しいです。これをはっきりと知らなければなりません。「私達」と、愛を中心とする平等という言葉になるのであって、女性だけでは駄目です。
女権運動ではなく、男権運動でもありません。はっきりと知らなければなりません。
それでは、男性は誰のために生きなければなりませんか。女性は誰のために生きなければなりませんか。女性は男性のために生きなければならず、男性は女性のために生きるのです。これが人間はなぜ生きるのか、この地でどのように生きなければならないのかのすべての答えになり、哲学的なあらゆる質問に対する答えになるという結論です。
(131-109、1984.4.22)


人間が生きていきながら神様に会うことを願うように、神様も真の人間に会いたいと思われます。ところが、人間の中でも、男性か女性のどちらか一方に先に会いたいと言われれば、恐らく互いに不平を言うでしょう。したがって、神様は愛を前に立てざるを得なかったのです。愛さえ立てておけば、男性と女性が一緒に会うことができ、一緒に触れることができ、一緒に分かち合うことができるからです。世の中で最も貴いものがあるとすれば、男性と女性が互いに先にもとうと争うのです。それが愛であることを知れば、二人とも一つになり、互いにために生きて、それをもとうとするのです。(300-213、1999.3.14)
②男性支配の原因としての人間堕落


―宗教経典―


アダムは答えた。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」


主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」(注30)
創世記3.12 ~ 16(キリスト教)


すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。


男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。(注32)
コリントの信徒への手紙一11.3~11(キリスト教)
私が天国をのぞいてみると、そこの居住者の多くが貧しい者であるのを見た。そして、(地獄の)火をのぞいてみると、そこの居住者の多くが女性だった。
ブハーリー・ハディース8.76.554 (イスラーム)


女性に敬意を示せ、女性は夫の僕ではない。女性は、支配ではなく指導を受けることのできる存在であることを見せてあげよ。女性は、小言を言わなければならない結婚不適格者ではない。夫は、夫人を操舵手のように扱え。人生の伴侶として尊重し、栄光を共に相続した人として接し、共有せよ。……


女性の誘惑が最も深刻な誘惑だ。アダムもエバの誘いに引かれ、聖なる戒めに背いた。彼が過ちを悟り、罪を犯したことを知ったとき、アダムは隠れたいと思ったが、できなかった。そして、神がこのように尋ねられた。「アダムよ、どこにいるのか。……お前は女性一人によって、お前の主なる神を離れようとした。お前はあれほど会いたいと思っていたその方を捨てたのである。女性一
人によってお前を隠そうとし、世の鏡と天国の居場所とキリストの栄光を放棄したのだ」(注31)。ここでイザベルがどれほど残酷にエリヤを迫害し、ヘロデがどのように洗礼ヨハネを死に追いやったのか、付加する説明がこれ以上必要だろうか。
ミラノのアンブロシウス書信59.60 (キリスト教)




―み言選集―


今までは女性の貞節を強調しました。エデンの園で誰が貞節を失ってしまっだのですか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。女性です。男性も失ってしまいました。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバに誘惑されていき、結局は、本来の根である男性まで切れてしまったのです。女性のエバが男性のアダムを堕落させたのです。


それを蕩減するために今まで女性が男性に蹂躙されました。女性たちが男性たちに蹂躙されたのはそのためです。それで先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは、世界のどの人よりも、後世の人たちのためにしなければなりません。
(6-334 ~ 335、1969.10.3)


女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しげですか、妖しげではないですか。女性は今まで罰を受けましたか、福を受けましたか。妖しげなので罰を受けたのです。今までなぜ女性が苦労したのかというと、夫が自分の夫ではないので苦労したのです。分かりますか。


男性たちは天使長型です。本来男性は、妻を迎えるようにはなっていません。ですから、レベルの高い宗教ほど独身生活を強調するのです。男性は天使長型なのですが、本来の天使長はそのときに相対を許諾されていませんでした。それにもかかわらず、非原理的に愛したのです。ですから、女性にはその人が夫ではありません。
(39-214、1971.1.10)


神様の心情にエバが釘を打ち付けたので、男性たちが、天使長がエバの心情に釘をたくさん打ったのです。
(302-232、1999.6.14)


エバは、未来の神様の王女です。王女であると同時に将来の神様の相対でした。エバを育てて何をしようとしたのかというと、愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人になるというのです。なぜそうなのかというと、愛を分かち合うためには体が必要です。被造世界の相対が必要なのです。体が必要だったのです。あの国に行ってみれば、神様は無形です。空中で太陽のような光が24時間いつも浮かんでいます。空中から無形の神様がすべて管理するのです。


その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは、無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
(199-361 ~ 362、1990.2.21)




③男女平等の追求


―宗教経典―


学びはすべて、信仰する者、男性と女性に付加された義務である。
イブン・マージャのスナン224 (イスラーム)


いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、(注34)また、すべてのものが神から出ているからです。
コリントの信徒への手紙一11.11~12(キリスト教)


女性たちは、同等な労働に対して報酬を受けなければならず、彼女たちは、長官と監督者、教授と大統領の任務において同等の資格があるとみなされなければなりません。ですから、あなた達は、性ではなく、能力が地位と給料を決定すべきだと主張しなければなりません。
スーザン・アンソニー


夫と妻も平等である。違いは尊重するが、その違いが主導権を握るために利用されてはならない。社会との協力の中で、教会は女性の人権を確認し擁護しなければならない。
教皇ヨハネ・パウロ2世(注33) (キリスト教)


平和をつくりあげるにおいて、女性は自然と重要な役割を果たします。ほぼ私達全員は、平和な生に関する最初の教えを母から受けます。なぜなら、愛に関する、私達の愛に関する要求は、人間存在の土台そのものだからです。


私達の成長でごく早い時期から、私達は全的に母の世話に依存し、母が自らの愛を表現することはとても重要です。……もし子供が適切な愛を受けることができなければ、あとで彼らは人を愛することが難しいことを知るようになるでしょう。このように母の愛は平和をつくることに大きく寄与します。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)




男性が女性を暖炉の家だけでなく、国家の議会で彼の同僚として認める日が来るだろう。そうなれば、そのときまでは違うが、人類を最高の進歩へ導く両性間の完璧な同僚関係、すなわち理想的な結合があるでしょう。
スーザン・アンソニー








―み言選集―


男性は女性の先生であり、女性は男性の先生です。互いに学ぶのです。
(247-174、1993.5.2)


女性は、男性がすることをして、男性は、女性がすることをしなさいということです。そうすれば通じます。そのようになれば、すぐに何でもできます。(注35)
(116-183、1982.1.1)


女性の船長たちが多くなれば、そのときに反対していた者たちは、「ああ……」。そのような時が来るでしょう。間違いなく来るというのです。間違いなく女性の船長たちをたくさんつくっておきます。


そして、優秀な若者たち、ハーバード大学や何とか大学を出た若者たちを僕としてこき使わなければなりません。それを願いますか、願いませんか。願いますか。どうして女性たちの声が「イエス」なのですか。(イエス!)。そうです。おお、イエス! 度胸を学ばなければなりません。


最も良い方法は、台風が来ていても、押し進めて船員たちに号令し、拳も使う、そのようにできる訓練をしてこそ、偉大な女船長になるのです。また、船で子供におっぱいをあげながら、「おい、この男たち! こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、「はい、はい」と言えば、どれほど気分が良いか考えてみてください。
(95-97 ~ 98、1977.11.1)


何が平等ですか。御飯を食べることが平等ですか。男性は二人分の御飯を食べ、パンを四つ食べるのに、女性は御飯1杯、パンは一つしか食べられません。


仕事をするにおいても、女性は「えんえん」言いながらついていきますが、男性は「がんがん」やります。それが平等圏ですか。相撲をしても、レスリングをしても、平等ですか。女性と男性がレスリングをするのを見ましたか。絶対に平等になりません。しかし、愛においては平等です。そういうものです。では、それ以上に願うものがありますか。


神様が女性を愛され、男性は一生の間苦労し、闘い、ありとあらゆることをします。今は御飯を食べたりパンを食べたりしますが、昔は山に行って獣を狩猟してこなければならず、虎と闘い、ライオンと闘いました。それにもかかわらず、女性は今まで同等な立場に一つも立たずに一緒に暮らしているのです。


それでも、一つ女性が男性に誇ることができるものは子供を生むことです。地上で歓迎される平等を主張できる一つの条件として、神様が女性に子供を生む権限を与えたと私は考えます。創造主が傾いたものを立て直すために子供を生むようにしたのですが、この女性たちが子供を生もうとしないのです。ですから、これは闘うこともできません。
(103-273、1979.3.11)


「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。女性自体はこの上なく弱いものですが、もし女性が母として愛の主体的立場を取り、また妻、娘として愛の中心的役割を成す時、女性はこの上なく強くなるものです。


なぜならば、女性が母、妻、娘として愛の主体的立場を取り、100 パーセント相手のために与えようとする時、その空白を神様の愛が埋め尽くしてくださるからなのです。神様の愛の能力が発動し始めるのです。


だからこそ女性であったとしても、神様に似て燃えるような愛の主体的立場を取るようになれば、その愛の能力は家庭を生かし、国を生かし、世界を生かす驚くべき力として現れるのです。
真の家庭と世界平和、1992.5.1


私達会員は、到来した女性時代とともに夫を抱き、子女を正しく養育する真の愛の模範的な実践運動を全世界的に展開しなければなりません。そうして、世界平和具現のための政治、経済、文化、そして社会各分野で私達女性が先頭に立たなければなりません。


女性として救援摂理歴史の主役を担当したリベカ、タマル、マリヤのような苦難と迫害の先烈たちを記憶しましょう。彼らが命を懸けた冒険と逆境に打ち勝って天倫の道理を立てたその強靭な意志を伝授され、私達の家庭を真の父母、真の夫婦、真の子女の家庭として養い育てていくことによって、今日のこの罪悪世界を天国世界に変化させる聖業に私達全員が決起しましょう。
世界平和女性連合創設大会、韓鶴子総裁基調講演文1992.4.10

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コメント

世界経典-71

2022年08月20日 13時05分55秒 | 学習




①国家に奉仕する市民の任務


―宗教経典―


(整列している者たちは言う)「私達のうちひとりも、定められた所を持たぬ者はない」、「私達は(奉仕のため)、整列して……」。
クルアーン37.164 ~ 5(イスラーム)


人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
イザヤ書58.12(キリスト教)


信仰をもった者が死後にも報償を受けるようになることと善行は、彼が教え広めた知識であり、彼が残しておいた優れた知識であり、彼が遺産として残した一冊のクルアーンであり、彼が建てたモスクであり、彼が旅行者のために建てた一軒の家であり、彼が流れるようにした川の水であり、彼が生前に裕福だったときの財産で施した寄付である。これにより彼は、死後にも続けて報償を受けるようになるだろう。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)


アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
バガヴァッド・ギーター3.23~25 (ヒンドゥー教)


もし私達がある思想家たちのように、自由と平等が民主政治において主に発見され得るものだと考えるなら、それらは、すべての人たちが最大限度に同じ政治的権利に参与するとき、最もよく達成されるだろう。
アリストテレス政治学4.4 (ヘレニズム)
国民の皆さん! それゆえに国が皆さんに何をしてくれるのかを問うのではなく、皆さんが国のために何ができるかを問うてください。全世界の人類の皆さん! アメリカが皆さんに何をしてくれるかを問うのではなく、私達が心を合わせ、人類の自由のために何かできるかを問うてください。
ジョン・F・ケネディ(注5)


あなたが寄付することをやめたとき、あなたは死ぬようになる。
エレノア・ルーズベルト




―み言選集―


一つの国家に属して暮らせば、その国の国民を愛することができなければなりません。
(1-336、1956.12.30)


愛国者とは何ですか。国を中心として、自分の五官で見るときに、心配の対象にならずに、より良くなることを願う人です。悪いことがあれば、自分が責任をもち、それをすべて解決してあげようと思える愛の心をもった人です。
(161-133、1987.1.18)


黙って忠誠を尽くし、黙って奉仕する群れは、どのような国家、どのような社会、どのような所に行っても主人になります。(5-16、1958.11.9)


先生は、いつでも最前線で生きようとします。苦労し、困難な道を行こうとします。皆さんが暮らす村で最も悪い所を見れば、「あれは私が掃除しなければならない」と考えなさいというのです。
(248-154、1993.8.1)
さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。そうすれば、僕の位置から養子の位置に上がっていくのです。
(113-111、1981.5.1)


自分を中心とした主義や思想をもった者は滅びます。自分の欲望のために人命を傷つけ、自分の欲望のために国に被害を与えたというときは滅びるのです。国は、個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。また、それが国民の行くべき方向です。


人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「私のために働く」と言います。つまり自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言うことができなければなりません。
(24-20、1969.6.22)


人間は、社会的次元で、家庭的、民族的、国家的、世界的、宇宙的次元で、神様を中心とする犠牲、奉仕、真実と真の愛の実践を通して、貪欲、放縦、不信と偽りの愛など、悪の根拠を除去しなければなりません。
(167-100、1987.6.30)






②王、国民、そして国家のための愛国者の犠牲


―宗教経典―


バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私達は泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私達を捕因にした民が、歌をうたえと言うから、私達を嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を。


異教の地で。エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい。私の舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、私の最大の喜びとしないなら。
詩編137.1 ~ 6(キリスト教)


モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。


エステルはまたモルデカイヘの返事をハタクにゆだねた。「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」


エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」


エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
エステル記4.7 ~ 16(キリスト教)


平和の名は甘美で、それ自体は有益だ。しかし、平和の奴隷状態は大きな違いがある。平和は、平穏な中での自由である。奴隷状態は、戦争だけでなく死にすら抵抗しなければならない、あらゆる邪悪なものの中の最悪である。
マルクス・キケロ(注6)(ヘレニズム)




鎖や奴隷制度をもって手に入れなければならないほど、命がそれほど大切で、平和がそれほど甘美なものなのか。これを禁じてください、全能の神よ! 私は人々がどの方向に行くのか分からない。しかし、私には自由でなければ死を与えよ!
パトリック・ヘンリー(注7)


私は祖国に捧げる命が一つしかないことが残念でならない。
ネイサン・ヘイル(注8)


幾度死すとも砕け散るとも
たとえ身も魂も朽ち果つとも
慕わしきわが主に捧げまつる
熱きこの胸の忠誠消えず(注9)
鄭夢周丹心歌(儒教)


私達の義務を引き受けよう。そして、耐え忍びましょう。大英帝国と英国連邦が千年続けば、そのときにも人々は、「この時期が最上の時だった」と語るでしょう。
ウィンストン・チャーチル(注10)
―み言選集―


国には愛国心が必要です。国が動いていくためには、愛という錨綱が必要ですが、これをいわゆる愛国心と言います。愛国心のある人は、国を捨てられません。出ていっても、また訪ねてくるものです。(注11)その愛国心という綱がどれほど強いか、かわいそうな民族のためには大きな成功も否定し、自分が不幸になることを意に介さず、その道を選んでいくこともできます。愛の力がなければ、それは不可能です。
(175-204、1988.4.17)


愛国者たちが圧政下で、あらゆる条件に対抗して闘ってきたのは、もちろん民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の一日を願い、希望する心とその勝利の一日が必ず来ることを信じる強い心があったがゆえに、そのような圧政下でも屈することなく闘うことができたのです。これを私達は知らなければなりません。
(5-321、1959.3.1)
きのうは三・一節でしたが、柳寛順は、当時16 歳だったので少女ではなかったですか。倭警(日本統治時代の日本警察のこと)によって無惨に殺された少女ですが、なぜ民族を挙げて彼女を愛国者としてあがめるのですか。国のために自分の命までちりあくたのように捨て、もっと国を愛そうとしたのであり、民族を愛そうとしたからです。幼いときから死ぬまで、誰よりも国を愛したのであり、自分の命を投入して国を愛した、それが貴いのです。
(141-293、1986.3.2)


一つの国において、どのような人が愛国者ですか。裕福に暮らして号令する立場にいる人ではありません。末端の立場でぼろを着て、塩汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、麦飯のお膳を通り過ぎる外国の人たちが見るのではないかと心配し、国の威信を考え、自分の姿が目につかないように隠れようとする心をもった人が愛国者です。


自分の国の体面と威信は考えず、ねたみ、嫉妬
し、面子もなく行動してはいけません。自分の国を少しでも美しく、価値あるものとして現そうと努力する人が愛国者です。
(26-136、1969.10.19)


愛国者は、愛を中心として主権を愛さなければならず、国土を愛さなければならず、国民を愛さなければなりません。「国家」といえば、主権、国土、国民がいなければなりません。この三大要素をすべて愛さなければならないのです。そのためには、自分の家庭を、一家自体を投入しなければなりません。一家自体を引き入れなければなりません。すべての家庭的要素が結合して国家の形成が展開するようになります。家庭を前に立てる人が国を愛するという論理は、この宇宙に公認されません。愛は、より大きなものを連結しようとするのです。
(207-251、1990.11.11)


あらゆる理想の原点であり、未来に向かい、永遠に作動する真の愛は、青年たちに生命以上の力になります。青年たちが真の愛を中心とする新しい国家観をもつとき、国家は新しい発展の可能性を見いだすのです。真の愛の姿勢をもつことによって、あらゆる集団は、衝突する利害関係の枠を飛び越えて協力と調和と発展の社会を築くのです。


国を動かし、導く原動力は、犠牲的な愛国衷情の真の愛から出てきます。私達が尊敬する大勢の愛国的英雄烈士たちは、真の愛を中心として犠牲の生涯を経ていない人がいないのです。
(288-201、1997.11.28)






③支配権威の尊重


―宗教経典―


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12.17(キリスト教)


帝国の繁栄のために祈れ。帝国が鼓吹する恐怖がなければ、人間たちは互いを生きたままのみ込もうとするからである。(注12)
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)


サルタンは地上にいる神の影なので、過ちを犯した彼の僕たちは、それぞれ彼に従って過ちを直さなければならない。彼が公正であれば報いを受けるのだから、彼に感謝しなければならないのは、一般の民の義務だ。しかし、彼が暴政に従事すれば、その荷が彼にあるがゆえに、一般の民たちは忍耐心を見せなければならない。
バイハキ・ハディーズ(イスラーム)


人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。


あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。


だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
ローマの信徒への手紙13.1 ~ 7(キリスト教)


神の意志に逆らう行為をするよう命じない限り、好きでも嫌いでも、政府の施策を聞いて従うことはムスリムの義務である。もちろん、反対の場合、ムスリムは聞くことも、見ることもしてはならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)




―み言選集―


私達個人は、尊重され、高く評価されなければならず、宇宙を身代わりできる価値をもっている存在ですが、横的な関係を結んで家庭に入っていけば、家庭の祭物にならなければなりません。天理原則がそうです。


ですから、自分個人を天地に匹敵する価値として評価するほど貴いと思っても、家庭があれば、家庭のために奉仕しなければなりません。個人よりは家庭を中心としなければならず、家庭よりは社会を中心としなければならず、社会よりは国家を中心としなければなりません。さらには、国家よりも世界、世界よりも天、天よりは神様を中心としなければなりません。
(10-329、1960.11.27)


国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想(注13)、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。
(212-28 ~ 29、1991.1.1)


今日のアメリカの青年たちに、「国を愛しなさい」と言ったとき、「その国に対する愛はどのようにするのか」と言いながら目をぱちくりさせ、「それはしなければならないが、どのようにすることが国を愛することなのか」と言います。そこに対する教育をする人がいません。


家の父母もすべて、動物的な因縁しかありません。兄弟も、動物的因縁しかありません。すべて動物のような愛、さらには動物にも劣る愛、そのような段階に落ちたのです。ですから、「国を愛するとはどういうことか。私が税金を払うことが国を愛することだ」、これしか知りません。観念がそれしかないのです。




愛をどこで学ぶのですか。それを家庭で教えなければなりません。それでは、父母はどのようにしなければなりませんか。兄弟同士で愛することを教えてあげ、父母を愛することを教えてあげると同時に、「私がお前を愛するのと同じように、私が国をこのように愛するから、お前は国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげさえすれば、すぐに「ああ!」と言って分かります。ほかの教育は必要ありません。すぐにうなずきます。


「アメリカに対する愛国心とは何か」と目を見開いて尋ねる人たちにそのように話をすれば、頭にさっと入っていきます。ほかのことは必要ありこません。そのような伝統をつくっておかなければなりません。これをつくっておけば、すべてがない所でも、いくらでも再びつくりあげることができるのです。


そして、大統領の言葉を父親の命令よりもっと高い命令だと考えるのです。自分の父母のために生きるよりもっと偉大だと教えてあげなければなりません。ですから、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を尽くし、国を愛するために死の道を一緒に行かなければならない」という教育をしなければなりません。ですから、考える人はそのような伝統を中心として考え、国家的歴史を立て直し、国家的伝統を残そうとするのです。
(95-51 ~ 52、1977.10.23)






4.労働


大部分の人々は、基本的に労働を通して社会に奉仕する。人間は大人になり、自分と家族のために仕事をしながら人生を営む。しかし、私達の労働は、個別的利益を得る前に国家全体の豊かさと繁栄に連結される。一歩進んで労働は、天地を創造した神様に私達が似ていく一つのやり方である。神様は、労働する人間に満足し、労働の結果を見て喜ばれる。それが神様の人間創造の目的と
言える。結局人間は、労働することで神様と共に共同創造者になるのだ。


社会の構成員は、労働倫理に関する教育を受けて、自己啓発ができる社会的機会を得る。そのようにしなければ、どんな社会も発展し得ない。宗教の実体的な機能は、政治的、経済的成功のために、社会構成員を激励し、鼓舞させることである。それは、仕事場で勤勉、節約、信頼、責任感と誠実さ、そして自分の職業に対する愛着だ。




ある伝統宗教は、生産的なことを奨励することよりも、貧困と清貧生活を強調するが、大部分の伝統宗教は、聖職者にまで誠実に労働することと、自給自足を奨励する。大部分の宗教が世俗的な利益ばかりを追求する生活を拒否するにもかかわらず、その利益は、社会奉仕、慈善行為、正しい礼拝などに適切に使われれば、そのような人生は、神様が認定してくださったと高く評価する。






①あらゆる仕事は神聖であり、天に奉仕すること


―宗教経典―


アブ・フライヤが言った。「私達が使徒と共にいるとき、ある若者が現れた。私達が言った。『この若者は、彼の若さ、エネルギー、力を祭物として捧げ、神に礼拝を捧げなければならない』。使徒が私達の言うことを聞いて答えた。『ある人が神のやり方どおりに殺害されたり、彼の父母を扶養したり、彼の家族を食べさせたり、自分が生きるために努力したこと以外に神のやり方は何もなかった。これらが神のやり方だ』」と。
スユーティ(注14)、ハディース(イスラーム)


精いっぱい働くこと、それがすなわち祭祀である。
パラシャイバの金言(ヒンドゥー教)


労働は偉大だ。労働者に栄光が授与される。
タルムード・ネダリーム49b (ユダヤ教)




鋤を握り、突き棒の扱いを自慢する者が。また、牛を追い立て、仕事に忙しく、話題は子牛のことばかりという者が。彼は畝作りに没頭し、夜も寝ないで若い雌牛にえさを与えている。職人や職人頭も同じだ。彼らは昼夜を分かたず仕事に励む。印章を彫り込む人々、さまざまな下絵書きに没頭する者も同じだ。彼は本物そっくりに表現しようと精魂を傾け、夜も寝ないで仕事を仕上げる。


鉄床のそばに座るかじ屋も同じだ。彼は鉄の細工物を一心に見つめる。熱風で体はやけどを負うが、炉の熱にあてられながら、懸命に仕事をする。彼の耳には、金づちのやかましい音が鳴り響き、目は器の形に注がれる。彼は仕事を完成させようと精魂を込め、夜も寝ないで見事に仕上げる。仕事場に腰を据える陶器職人も同じだ。彼は足でろくろを回す。常に仕事に熱中し、その作品を数える。彼は足で粘土をこねて、固さを除き、手でそれを形づくる。


上塗りをかけて仕上げるのに精魂を込め、夜も寝ないで、窯を掃除する。これらの人々は皆自分の腕に頼り、それぞれ、自分の仕事には熟練している。彼らなしに、町は成り立たず、住み着く人も、行き来する人もいない。


しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、集会においても責任ある地位には昇れない。裁判官の座にもつけず、法律にかかわる決まりも理解していない。教訓や法律を説き明かすこともできず、格言にも精通していない。彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。彼らの願いは、仕事を全うすることにある。
シラ書〔集会の書〕38.25 ~ 34(キリスト教)


ヤブネのラビが語った有名な言葉がある。私は主なる神の被造物であり、あの隣人の小作農も神の被造物だ。私は村で働き、彼は田舎で働く。私は私の仕事のために早く起き、彼も彼の仕事のために早く起きる。彼が私の仕事を無視しないように、私もまた彼の仕事を無視しない。果たして、私がより多く働き、彼は少なく働いていると言えるだろうか。私達は学んできた。「その人が、人より仕事を多くすることも、少なくすることもできる。しかし、その心がいつも天に向かっていれば、結局は同じことである」。
タルムード、ブラホート17a (ユダヤ教)


すべての位置は天が任命される。清掃人の仕事までも、天が決められたのである。
タルムード、バヴア・バトラ91b (ユダヤ教)


仕事を愛し、権力を憎悪せよ。
ミシュナ、アヴォート1.10(ユダヤ教)


主はモーセにこう仰せになった。見よ、私はユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。私はダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。私は、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、私があなたに命じたものをすべて作らせる。


すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンめために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らは私が命じたとおりに作らねばならない。
出エジプト記31.1 ~ 11(キリスト教)




―み言選集―


私はここで、永生と真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私は、ここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させ得る材料だというのです。
(216-127 ~ 128、1991.3.9)


仕事をするとき、なぜあらゆる精誠を尽くしなさいと言うのですか。仕事をするとしても、うわの空で仕事をするなというのです。それは、使いをする人がすることです。使いをする人は、定着できません。仕事をするときは、本心からこれが私の絶対的相対だと考えなければなりません。(注15)絶対的相対を創造するところには、投入して忘れなければなりません。忘れてこそ私と関係を結ぶのです。
(330-117 ~ 118、2000.8.14)


経済問題はいつでも、私と物質の関係です。商売をするとしても、その事業を愛さなければなりません。ですから、私に100 という価値があるとき、この物は100 に対する対象の価値が生じるのです。私に1000 という価値があれば、いくら小さな物、小さな手帳一つでも、これはいくらにもならない物ですが、1000 に対する相対的価値をもつようになるのです。万世の中で立派な人がもっていた万年筆や、どこかで使っていた物がなぜ価値があるのですか。その人の愛が宿り、相対的価値をもったために貴いのです。
(102-126、1978.11.27)


経済を重要視するよりも、経済を重要視する人を重要視しなければならず、もちろん科学も重要視しなければなりませんが、科学を重要視する人を重要視しなければならず、芸術を重要視するよりも、芸術を重要視する人を重要視できなければならないという結論が出てきます。そのように結論を下さなければなりません。


ところが、現在はどのようになったかというと、経済を中心として見てみるとき、経済圏内の人を重要視しているのではないというのです。科学なら科学の圏内にいる人が重要視されるのではなく、科学が中心になったのであり、経済が中心になったのであり、外交が中心になったのであり、芸術が中心になったのです。人は、どのようになったのかというと、無価値になってしまいました。人を通して技術を見て、人を通して経済を見て、人を通して芸術を見なければならないのですが、今は逆さまになっているのです。
(99-116、1978.9.10)


先生は、建築現場に行けば労働者になり、農村に行けば農夫になります。先生は、できないことがありません。何でもできます。大衆を指導するためには、そのような経験をしなければなりません。山に行って、炭を焼くことも知っています。鉱山に行って穴を掘ることも知っています。もし迫害を受けてどうすることもできなければ、鉱山に行き、石炭を掘る穴の中で運動すると考えたのです。そのような訓練もできています。
(256-100、1994.3.12)




皆さんは、ほかの人たちのために涙を流してみたことがありますか。この地上で汗を流してみたことがありますか。労働もしなければなりません。公的に汗を流すこともしなければならないのです。10 里、20 里の道でも、人を救うために一日行ったり来たりすることができなければなりません。そのような鉄則を立てておいて、そこに一致する生活をしなければならないのです。言葉だけではいけません。真理は実体と一体にならなければなりません。


日本全国のために、どれほど汗を流したかというのです。父母の心情をもって人類のために涙を流すのです。神様がそうです。それで、1960 年代まで、先生が説教をするときに、涙と汗を流さないときがありませんでした。汗の滴をぽろぽろ流しながら痛哭する、胸が張り裂けるような説教をしました。
(256-146、1994.3.12)




②勤勉、誠意、そして自助の徳目


―宗教経典―


ここで人々が勤勉を実践するようにしよう。人々が窮乏した者たちを助け、繁栄を享受するようにしよう。
アヴェスター、ウィスプ・ラト(ゾロアスター教)


礼拝が終わったならば、なんじらは大地に広がり、神の恩典を求めて、神をたたえ多く唱念しまつれ、おそらくなんじらは栄えるであろう。
クルアーン62.10 (イスラーム)


怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。


怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を持つ者のように襲う。
箴言6.6 ~ 11(キリスト教)


涙は貧しさに対する答えではない。おなかを空かせた怠け者は、自分以外には誰も非難することができない。怠け者にだけ成功する土台がない。おお、神よ! どこにも私に適合しない所がありません。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)


朝と晩には仕事をせず寒さ暑さにまた怠けてしまう。している仕事は最後までやりおおせずやり遂げた仕事もだめにしてしまう。もし寒さ暑さをものともせずに朝晩まじめに務めるならば、仕事は必ず完成し最後まで憂い苦しみはないだろう
阿含経長部iii.185、善生経(仏教)


雇われの生活も楽しい。
シラ書〔集会の書〕40.18(キリスト教)




あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。
詩編128.2 (キリスト教)


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利が私達になかったからではなく、あなたがたが私達に倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたの、もとにいたとき、私達は、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私達は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
テサロニケの信徒への手紙二3.8~12(キリスト教)
折れたつるはしで自ら生産した少ないものが、他の人から得た多くのものよりもよい。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)


放浪し乞食をして自ら聖なる者だと叫ぶ人、彼の足元に敬拝してはならない。熱心に働いて生計を維持し、へりくだって乞食として一部を求める人、ナナーク、そのような人が真に神の道を知る人である。
アーディ・グラント、ヴァール・サーラングM.1、p.1245(シーク教)


窮乏した人にお金を貸してあげる人が、慈善を施す人よりも偉大だ。貧しい者を助けて事業を行い、自らお金を稼ぐことができるように助けてあげる人が、誰よりも偉大な人である。
タルムード、シャッバト63a (ユダヤ教)


世に善男子の如法の財あり、起策し、精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たり。彼は、我に如法の財あり……と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、此を所有の楽と名く。長者よ、又云何なるが受用の楽なるか。……起策し精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たる如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、彼は、我は起策し、精励し……如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、長者よ、此を受用の楽と名く。
阿含経増支部ii.68 (仏教)


怠惰は霊魂の敵である。
ベネディクト規律(キリスト教)




―み言選集―


「お金持ちの家は、きりぎりすのように食べ、酒を飲み、遊んで踊れ。私は蟻のように腰が細くなるほど働く。歌うことを好み、踊ることを好み、冗談を言ってふざけるのを好む、そのような行動を続けなさい。私は地を掘って入り込み、あなた達を葬る穴をつくっておいても、私が暮らせるところまでつくっておこう」と考えれば、地獄まで占領して天国の王になるというのです。
(339-146、2000.12.10)


事務室にいた人たちは、現場に行って一日だけ仕事をすれば、ストレスがすべてなくなります。ストレスは考えることもできず、眠れなかったのも解決されます。ストレスのために眠れないそのような人たちがいるときは、捕まえて穴掘りに連れていき、何日か働かせればぐっすり眠るようになります。
(230-168、1992.5.1)




おもしろさを感じなければなりません。農作業するのも楽しいことです。土地を掘るのも楽しいことです。一生汗を流していけます。家を建てるのも楽しいことです。私がしてみなかった労働はありません。自然と和合して、環境条件において自分と関係を結び、そのようにして事に着手すれば、成功しないことがありません。
(355-96、2001.10.3)


皆さんが仕事をしようとすればお金が必要です。誰もお金をもってきてくれません。私の手でつくらなければならないのです。今日の世界的な基盤をすべて私の手で築きました。誰かがしてくれたのではありません。先生は、追い出されても、島国であれどこであれ、生きていけます。皆さんがすべて死んでも、私は生きます。どのきのこが食べられるものであり、薬草がどれで、毒草がどれか、すべて知っています。


そして、糸と針金1本あれば、釣りざおを作って、いくらでも釣れます。どこでも生き残れます。いつでも自立できる知恵があります。統一教会では、33 歳前にこれを公式的に訓練しなければならないというのが先生の哲学です。
(117-24 ~ 25、1982.1.30)


私には、できないことがありません。鉱山に行けば鉱夫になり、坑木まで支えることができる人です。反対を受ければ、み旨を鉱山に行ってでも成し遂げなければならないと考えました。山中の山賊のような生活をしながらでも、どろぼうせずに山中であらゆるものを食べて生きていける訓練をしたのです。食べる物は、いくらでもあります。


海に行けば、漁夫の中の漁夫です。農村に行けば農夫の中の農夫です。農作業をすべてよく知っています。この地球星のどこに行っても3周だけすれば、手ぶらで基盤を築くことができる能力のある人です。
(273-305、1995.10.29)


福祉の恵沢を受けてうまくやろうという人は、永遠に駄目です。世話になれば、僕にしかなりません。地上で人を助けてあげなければなりません。助けてあげてから逝かなければならないのです。そうしてこそ、あの国に行って高い所に行くのです。いくら優れていると思っても、霊界に行ってみてください。自分だけのために生きる立場で世話になり、受けることを好み、与えることを嫌う人は、すべて真っ暗な地獄に行くのです。
(248-98、1993.8.1)






5.自由


自由に対する渇望は、人類歴史で最も強力なエネルギーとして噴出した。神様は、エジプトにいるイスラエル人の奴隷たちに、神様の自由に対する愛を見せてくださり、彼らを解放することによって、あらゆる所にいる自由を愛する人の手本とした。神様が私達を自由ある存在として創造されたために、人間は、どこに行っても自由を渇望する。神様は人間の自由を尊重する。神様は、人間が誤った選択をしても、そして罪を犯して悲惨になっても干渉しない。


それでも、神様は人間の存在をして、神様の理想的な対象として完成しなければならない目標を指向するように自由を賦与した。そのため、自由はそれ自体に目的があるのではなく、真の愛、真の共同体、神様の国など、より大きな目的に向かう一つの手段である。


さらに、自由は、人間の生に対する神様の計画の助けとなる時にだけ意味があり、有効なものである。罪を犯す場合のように、誤って使われた自由は奴隷状態に導くのである。それで神様は、人間を創造しながら、人間の自由意志を善良な方向に案内する内的羅針盤として良心を与えた。


そして、すべての子女に、自由を適切に使用するよう教育して、愛することができる父母を送ってくれた。自由をめぐる論争は、主に民主主義に基
づいている。そのため、私達は、世俗的民主主義の自由に対する観念の批判、特にカトリック教会の批判は、自由に対する過度な価値付与と西洋民主社会で大きく広まった乱用に対する文鮮明先生の一部の否定的な判断と共鳴する。


最後に、経典は、神様は自由ではなく、どこの誰よりも多くの解放が必要な方だという文鮮明先生の独特な教えを描写しでいるいくつかの章句を含めている。






①神様とその創造から具現した自由の礎石


―宗教経典―


ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二3.17 (キリスト教)


主は言われた。「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
出エジプト記3.7 ~ 8(キリスト教)


この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。(注16)
レビ記25.10(キリスト教)


主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私達の神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め……。(注17)
イザヤ書61.1 ~ 2(キリスト教)


信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン5.105 (イスラーム)


あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32 (キリスト教)


私達の故郷と私達の領土で、自己決断、正義、自由、そして平和に対する私達の要求は……白人の兄弟たちが海を渡って入ってくるまでに、私達が楽しんでいたことの更新だ。私達は偉大な平和の法、すなわち“ガイ・エネシャ・ゴ・ナ”のもと、満足して生きていた。私達は、平和、平等、正義、善心の力の原理に基づく社会をつくるように教育された。


私達の社会は、人々の権威に対する偉大な民主的原理と男女に対する同等な責任に基礎をおいている。これがこの巨大な亀島に横たわる生活の大道だった。尊重を伴う自由はあらゆる所にある。私達の指導者は、ビジョンをもった人であるほど、そしてすべての決定では、未来の7世代に代わって判断するように学んだ。まだ生まれていないあの世代に対する哀れみと愛をもてということである。


私達は、私達を生存させるすべてのものに感謝するよう学んだ。それで私達は、自然界の生命を与える力に対する大きな感謝祭をつくった。私達がこの儀式を行う限り、命は継続するだろう。私達は、“種が法”と聞いた。


実にそれは命の法だ。それは“再生の法”だ。種の中に命と創造の神秘な力が入っている。私達の母は、あの種を養育し保護する。ゆえに私達は私達の母を尊重し愛する。私達が私達の母なる大地を愛するのと同じ霊的な努力と神秘によって。
オ一レン・ラオンス酋長(注18)(アメリカ先住民の宗教)


私達は、次の事実を自明な真理と確信する。すなわちすべての人は平等に創造されたのであり、彼らは創造主によって一定の譲渡できない権利を賦与されたのであり、その中には、生命、自由および幸福を追求する権利が含まれている。
アメリカ独立宣言書


人権、例えば宗教の自由、社会建設の共有の自由、組合結成の自由、経済創出の自由を制限し否定すれば、人間から物質を奪う分、人間を疲弊させるのではないか。
教皇ヨハネ・パウロ2 世社会的関心について(キリスト教)




―み言選集―


自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。
(133-289、1984.11.19)


今、この世界の人類は、自由を享受する個人となり、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを、誰彼を問わず願っています。私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福はあり得ません。今日、自由を叫んでいますが、心情からあふれ出て生きる自由な環境になっていないことを自認しています。
(7-14 ~ 15、1959.7.5)


人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。
原理講論、堕落論5.2


皆さんは、神様が全知全能であられ、できないことがないと知っています。しかし、いくら能力の多い神様だとしても、神様の心情をかき分けて入っていき、その心が果たして自由な立場にいるのかと尋ねるとき、私は「そうだ」と答えられません。また、神様の本心は、希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にいらっしゃるのかと尋ねるとき、これもやはりそうではないというの
です。


神様も自由になることを願われるのが本性であり、本然の心情です。そして、神様は解放された立場で万宇宙を主管すべき、お父様であられます。ところが、そのようにできないことが神様の悲しみであり、全被造万象の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となりました。


いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の位置にいらっしゃることができず、統一された位置にいらっしゃることができないがゆえに、今日この地上で自由を叫んでいますが、その自由は私達が享受すべき真の自由にはなれないのです。神様の自由と解放と統一が、正に人間たちが願う自由と解放と統一の基準であることを、私達は、論理的見地から否定できません。
(4-315 ~ 317、1958.10.12)


愛というものを中心として自由の起源を設定しなければ、理想的な起源はないのであり、理想的な起源がなければ理想的な世界の完成はあり得ません。愛する夫には、すべてのことが自由です。また、愛する妻には、夫がどんな行動をしても自由です。たたいてもよく、すべてを触ってもよいのです。どれくらい自由なのでしょうか。胸を出して夫を求めていってもよく、裸になってどんなことをしてもかまいません。それ以上の自由がどこにありますか。


女性が裸になるのは、自由のゆえに裸になるのですか、愛のゆえに裸になるのですか。愛のゆえに裸になるのです。自由はどうですか。愛を中心として自由だというのです。
(203-10、1990.6.10)


この自然の保護の中で、私自身が豊かに暮らすことができる道を行くのが最高の自由の道だということを知らなければなりません。宇宙の法の中で保護を受け、そこでぶつからないように私自身が矛盾なく行くとき、そこのその場に自由が保障されるのです。これを知らなければなりません。それ以外にはありません。
(117-290 ~ 291、1982.4.11)


私達が自由を求めるために立ち上がった私達の心中をたどって判断してみるとき、果たして私達の心に、このすべての万象の前に一つになることができる自由の心情があるのかということが問題なのです。私達が神様の自由の立場になったなら、私達のそのような自由の心情は、全天下の万民と共に楽しむことができる、そのような基準になるはずのものだったのです。
(4-318、1958.10.12)


今まで民主主義は、「人間の自由」と「人間の解放」を主張してきました。これに対して、私達は「神様の自由」と「神様の解放」を主張しなければなりません。この問題さえ解決されれば、人間の解放はもちろん、人間の自由の回復はおのずと成し遂げられるのです。
(344-54、2001.3.1)






②道徳法によって自我を主管するとき、自由を享有する


―宗教経典―


イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)


キリストは私達を自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙5.1(キリスト教)


兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙5.13(キリスト教)


快楽の追求は苦痛を呼び込むだけであり、邪悪な欲望は首に鉄鎖をかけるだけである。過った快楽を追い求めていくあなたよ、解放はただ神の愛によって成されるのである。
アーディ・グラント、ガウリ-・アシュタパディーM.1、p.222(シーク教)


では、どうなのか。私達は、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。


しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
ローマの信徒への手紙6.15 ~ 18(キリスト教)




自分自身の主人になれない者は、誰であっても自由人ではない。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)






―み言選集―


自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。しかし、人間は自由な存在として創造されたと同時に神様から責任も賦与されました。自由は自己規律と自己抑制を必要とするからです。自由は法則を離れて存在することはできません。


神様は創造主として自ら創造目的を定め、精神的法則を定められました。私達は、創造主が定めた人間の根本的な目的を成就するために、この地に存在しています。人間の精神的幸福は、人間が神様の定められた道徳律に従って個人としての責任を果たすことによって、増進するようになっています。人間がこの法則に違反すれば、自然の法則に違反するときと同じように、自分の破滅を招いてしまうのです。
(133-289 ~ 290、1984.11.19)




神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
(277-201、1996.4.16)


愛によって完全に占領するところで自由が始まります。皆さんの体が自由に行動しようとすれば、真の愛に属さなければなりません。アメリカの自由に対する観念がどれほどでたらめかを知らなければなりません。歴史以来、最も困難な存在が自分です。したがって、自分自身に無慈悲になりなさいということです。分かりますか。そのような人にならなければ自由がありません。
(203-23 ~ 24、1990.6.10)


アメリカの国民が誇れる真の愛がありますか。アメリカ人の愛は、どのようなものですか。それはごみのような愛です。自由世界をすべて滅ぼしたのはアメリカの人です。そうではないですか。アメリカの人から自由という言葉を片付けてしまわなければなりません。自分一人がよいといって、享楽の中の享楽を求めていくのですが、自分の息子、娘が泣き、妻が泣き、自分の一家が泣いているのに、それが幸福の道ですか。自由を求める前に愛を求めなければなりません。自由を求めようとせずに真の愛を求めなければならないのです。真の愛を求めれば、自由はついてくるようになっています。愛が本当の自由をもたらしてくれるのです。(203-12 ~ 13、1990.6.10)


真の自由に対して論議してみれば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は、真の自由ではありません。ですから、どのような自由行動であれ、原則を離れてはならず、責任をもたなければならず、その行動の実績がなければなりません。それでも、このような条件を具備できない立場で自由にしようとすれば、自然に天倫とは遠い距離に置かれるようになることを、皆さんは認識しなければなりません。
(4-318 ~ 319、1958.10.12)
③個人主義を離れ社会的連帯を要求する自由


―宗教経典―


あなたは、この世で他の人の自由を保護することによってのみ、あなたの自由を保護できる。あなたはただ私が自由であるとき、自由でいることができる。クラレンス・ダロウ(注19)


人間の自然的な自由は、地上のいかなる優れた権力からも束縛されず、そして、人間の意志や法的権威の下にはなく、ただ自然法を自己規則としてもつことを意味する。社会で人間の自由とは、国家内に同意によって確立された法的権威の上に、何かの立法権の下にもないのであり、立法府が自らに付与された信託によって制定するもの以外の、いかなる意志の支配や法の拘束にも従属しないことを意味する。


したがって自由というのは……人ごとに自分がしたいと思うことを行い、自分が好むとおりに生活し、何かの法によって縛られない自由ではない。しかし、政府のもとで人間の自由は、その社会のすべての人に共通的で、その社会で確立された立法権によって制定された一定の規則に従って生きていくのである。
ジョン・ロック統治二論2、4.22(ヒューマニズム)


人が社会契約によって失うものは、自然的自由と、もとうとするすべてのものに対する無制限の権利である。彼が得るものは、市民の自由と所有したすべてのものの所有権である。
ジャン、ジャック・ルソー社会契約について(ヒューマニズム)


彼らは人権の重要性をあまりに強調しすぎるように見えるが、実際にはそれを無惨に否定する。このような矛盾の根には、自由という概念がある。このとき「自由」は、絶対的に独立した個人を強調し、社会的結束と寛容、奉仕は念頭に置かない。時折、利他主義と同情心の名で接近することもある。しかし、このような文化は、結局個人の自由概念を完全に否定するものであり、結局は、「弱者に対する強者の自由」の概念に帰結するという事実を否定することはできない。


これは、ちょうど主なる神がカインに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられたとき、カインが言った答えと同じだ。カインはこのように答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4.9)。


そうだ、すべての人は、自分たちの「兄弟」を守る人である。なぜなら、神が私達に互いを任せられたからである。つけ加えて、神が私達に関係性を含む自由を許諾されたという側面からもそうである。人に奉仕するとき、これは創造主が下さった最大の贈り物なのである。……しかし、個人的次元の自由ばかりを絶対視すれば、自由本来の内容は消え去って空になってしまい、その真の意味と権威が否定される。


事実、より深刻な側面がある。これ以上自由と真理の結合を認め尊重しないとき、そのような自由は結局、自分を否定し、破壊してしまい、他人までも破壊に導き得る。伝統と権威から抜け出そうとする欲望に起因する自由は、その上に最も普遍的で客観的で、個人と社会の根幹を成す真理の内容までも否定してしまう。そして結局、その人は善悪に対する真理を自分なりの観点で理解する。
しかし、このような観点は、主観的で変わり易く、自己中心的な理解と気まぐれにすぎない。


間違った自由は、社会的関係にも深刻な歪曲をもたらす。絶対的自律という側面から「自分」を強調しすぎれば、結局は互いが互いを拒否するところまで至る。私以外の他の人はすべて敵になり、……社会はただ何の紐帯感もなく共存している個人の集合程度とみなされる。……そして、社会的関係を結ぶことは、完全相対主義の流れる砂の中に身を投じるのと同じことになる。協議できないものがなく、取引できないものもない。はなはだしくは、人間の根本権利の中で最高の生命権までも協議の対象になってしまった。
教皇ヨハネ・パウロ2 世いのちの福音(キリスト教)




―み言選集―


ために生きて従う、そこではすべてのものが解放です。ために生きれば、自分も解放されますが、ために生きること自体が解放になります。相対が解放されるのです。それで、「ために生きなさい」と言うのです。
(323-73、2000.5.31)


皆さんが以前に「自由」と言っていましたが、自由とは何ですか。自由は自己主張することです。自己主張するにおいて最大の楯とは、自由です。10 人が自由を主張すれば、それぞれの性格が異なり、趣味が異なるため、10 人の境界線が生じることを知らなければなりません。この西欧社会は、自由のためにすべて滅んでしまっています。


今日の自由世界が自由を主張するのですが、皆さん、自由という言葉を本当に恐ろしく思わなければなりません。自由とは何ですか。神様とこの世界の上に上がっていって「自由」と言うならば、それは誰もが願います。ところが、このように下で個人を中心とする自由が、どこにあるのかというのです。
(107-272 ~ 274、1980.6.1)


より次元の高い秩序を完全に維持するための主張から自由が出てきたのであって、秩序を破綻させ、体制を破綻させるために出てきたのではありません。


今日の若者たちが、「私達が1番だ! 食べて、踊って、ロックミュージックを楽しんで、ディスコダンスするのが1番だ」、このように言います。社会と国家と制度をすべて破綻させ、無視してしまい、秩序を破綻させるのが自由ですか。それは放縦であり、破壊的な悪魔の操作法であることを知らなければなりません。
(116-102 ~ 103、1981.12.27)


自由であれば自由であるほど、その世界は秩序と規約が守られなければなりません。精密な機械であればあるほど、縦横に原理原則によって秩序どおりに、法則的な軌道に従って動くのです。このような法則に従うようになるとき、自由な活動の結果が出てくるようになります。これは、今日の科学文明と社会制度を中心として見るとき、否定できません。この社会の構造も自由な形態を必要としています。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としないのですか。


社会制度も人間と相応するものなので、社会制度が組織と体系の既成の規制のもとで形成されていれば、人間はその体系化された制度に応じて、そこに備えられなければならず、それを主体的な立場で、かえって保障させてあげなければなりません。そのようにしなければならない人間だという立場から見れば、放縦な自由はあり得ません。


行くところには必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義思想は無方向です。自分の好きなようにするのに、方向があるでしょうか。しかし、方向のない心がどこにありますか。そのような思考は、滅亡の思考です。
(49-190 ~ 193、1971.10.10)


彼らに最後に残るものとは何でしょうか。孤独が残るのです。それで、この孤独が極致に達する境地に入っていくようになるときには、あなたも信じられず、私も信じられない、不信の自らになるのです。そして、孤独と不信の自らになるとき、宇宙的な恐怖が支配するのであり、結局は自滅を招いてしまいます。今日の歴史は、このような趨勢で動いているのです。


ですから、私達が自由を叫ぼうとすれば、過去に叫んでいた自由や、今日叫んでいる無責任な自由ではない、神様の愛の理念が同伴した真の自由を叫ばなければならず、理念的であると同時に、心情に通じ得る自由を叫ばなければなりません。
(4-319 ~ 320、1958.10.12)

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