③正義の指導者は腐敗を遠ざける
―宗教経典―
個人的利益を取ろうと高い位置に座る者は、自分の快楽ばかりのために女性の体を貪る者と同じだ。主なる神は言われる。「私が聖なる者と呼ばれるように、あなた達もまた聖なる者となれ。私がもつ性稟に似ることができなければ、指導者の位置にいることはできない」。
プスィクタ・ラッバティ111a (ユダヤ教)
権力の地位を要求するな。もしあなたの要求によってその地位に上がれば、あなたは自らその職から退くようになるだろう。しかし、あなたの要求なくその職が与えられたのなら、あなたは(神の)助けを受けるだろう。
ムスリム、ハディース(イスラーム)
必ず、正当な事由なく公金を詐取する官僚は、誰でも最後の審判の日にそれに対して尋ねるその主に出会うようになるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
賄賂はあらゆる種類の罪悪が訪れる門である。賄賂で買う人たちは、自分の母の乳房を切り取る。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.184(ジャイナ教)
大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、倉庫には穀物の貯えはなにもない。支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、法外な財宝と高価なものを持っている。これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。
道徳経53(道教)
貪欲より嫌悪すべき悪徳はない、地位の高い人から特にそうだ。そして、国家の統治で偏向されたものより嫌悪すべき悪徳はない。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)
―み言選集―
宗教指導者であれ、政治指導者であれ、最も大きな欠格事由は利己主義です。
(299-106 ~ 107、1999.2.6)
二人の中で、自分がいる位置以上の者を中心として、上のために、よりために生きようとする人は善側の位置に立つのであり、自分のために、より低いものについていこうとする人は悪側の位置に立つのです。官職にいる人が、国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭だけのために生きれば、悪になるのです。
(170-176、1987.11.15)
公金を略取してはいけません! 公的な環境を破壊させることは、国家財産の略取と同じで恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもできません。
(347-85、2001.7.3)
自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。公的な席で私が批判するのは、そのような観点で批判するのです。私的な人格は私が激しく非難します。恥ずかしければしないのです。しかし、公的な人格は異なる対応をします。
(51-291 ~ 292、1971.11.28)
霊界に行けば、最も恐ろしい罪は何でしょうか。公金を誤って使うことが第1です。2番目は、公的な立場で公的任務を果たさなければならないのですが、任務を無視することです。3番目は、原理原則に違反することです。これが三大罪です。(注8)
(97-155 ~ 156、1978.3.12)
自分を中心として全体を利用するのは、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろうか」という考えは絶対にしてはいけないというのです。
(33-164、1970.8.11)
3.典型的指導力
最高の指導者は、徳性と義の模範である。ある社会の精鋭構成員である政治家、教授、著名人、そしてスポーツの英雄たちが、正直、誠実と道徳性の手本になることを自身の義務として認識するとき、その社会は祝福を受けるだろう。
彼らの役割がモデルになるとき、普通の人々は自然に彼らの模範的な姿に従うだろう。私達は、模範的な指導力を三つの側面から識別できる。
一つ目は、指導力は家庭で始まる。指導者が自身の配偶者と子女に配慮して家庭を治める方法は、より広い領域の統治と社会的責任分野を担当する自分自身への出発点となる。
二つ目は、胸と心を刺激して統治することが指導力である。中国では、孔子と彼の追従者たちが法治主義者などの観点に反対しながら、模範的な指導力の理想を表明した。法治主義者たちは、法と法の強力な施行、すなわち毛沢東がのちに語ったように「銃弾による力(権力)」から指導力が流れ出ると教えた。
孔子は、もし指導者たちが腐敗したならすべての国家権力は、不満をぬぐい去ることはできず、これとは反対に、国民は、ただ暴力と抑圧を学ぶようになると対抗した。
三つ目は、私達は、神様がこの地上に送った聖賢と宗教的な師たちから、模範的な指導力の手本を見ることができる。ナザレのイエスは、単に彼の説教、み言だけではなく、犠牲的愛を実践することによって教えた。イエスの足跡に従っていくキリスト教徒たちは、「イエスが何をしようとしたのか!」を尋ね求めながら、そのようにするという。
イエスは、十字架で自身の怨讐を愛した。これは、私達が従うことが困難な手本である。それゆえ、怨讐を愛して迫害者のために祈ることが、それ以後、キリスト教徒の信仰の土台となった。政治指導者たちがこの聖賢の模範に従うとき、彼らは確実に世界平和を成し遂げるはずだ。
模範的な指導力の資質は、文鮮明先生の教えにおいて「三大主体思想」として要約される。指導力の標準は、「真の父母、真の師、そして真の主人」となることである。そのような指導者は、主人としてこの世界を監督し、深い父母の愛をもってすべての被造物を世話し、私達を真の生命の道に継続して教導していく私達の天のお父様、すなわち神様の本性に参与する。しかし、いまだにこの教えを知らない指導者たちが、あまりにも多い。彼らが正に私自身ではないか、と省察してみなければならない。
①模範的で徳望のある個人生活
―宗教経典―
先生がいわれた、「わが身が正しければ、命令しなくとも行なわれるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない。」
論語13.6(儒教)
国王が正直になれないのに、どこの民が正直にできるだろうか。国王が律義にできないのに、どこの民が律義にできるだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ17.183(ジャイナ教)
単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
バガヴァッド・ギーター3.20 ~ 21(ヒンドゥー教)
河水を渡る牛群の首が曲り行くならば、すべての牛群曲り行く導首が曲り行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が非法を行はば餘の人々尚更ぞ、王若し非法なるならば、一切国土苦に沈む。
河水を渡る牛群の首が直に行くならばすべての牛群直に行く導首が直に行くゆえに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が正しく行はば餘の人々尚更ぞ、王若し正しくあるならば一切国土を受く。
阿含経増支部ii.75(仏教)
律義なものが心にあれば、それは心の光であり、威厳であり、栄光である。しかし、それが心を離れれば、それらも離れてしまう。
創世記ラッバー68.6(ユダヤ教)
先生がいわれた、「〔法制禁令などの小手先きの〕政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる。」
(注9)
論語2.3 (儒教)
季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます。」
論語12.19 (儒教)
『詩経』にいう「深遠なる文王、ああやむことなく光り輝き、慎んでとどまる(所に安んずる)」と。人の君となっては仁にとどまり、人の臣となっては敬にとどまり、人の子となっては孝にとどまり、人の父となっては慈にとどまり、個の民と交わっては、信にとどまる。
『詩経』にいわれている、「あの淇水のくまを見ると、緑色の竹が美しく茂っている。りっぱな君子がおられる。切り出して、みがきあげるように、割り、みがきあげるようにである。細かなことまで厳正で猛く雄々しく、明らかで盛んである。りっぱな君子がおられる。ついに忘れることができない」と。切するがごとく磋するがごとしとは、講習討論のことをいうのである。琢するがごとく磨するがごとしとは、よく反省して自分を鍛えることである。瑟たり、餘たりとは、恐れおののくことである。赫たり喧たりとは、威厳と態度である。
斐たる君子あり、ついに誼るべからずとは、明徳を明らかにし至善にとどまった君子を、民が忘れることのできないのをいうのである。
大学3.3 ~ 4(儒教)
まことに神のみ使いには、神と終末の日を切望し、神を多く唱念する者にとり、立派な模範がある。
クルアーン33.21 (イスラーム)
イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13.12 ~ 15(キリスト教)
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
ペテロの手紙一2.21 (キリスト教)
もしあなたがりっぱな性根をもっていれば、あなたは自然に他の人たちの尊敬の対象になるでしょう。しかしもし、あなたが利己的な動機をもっていれば、たとえ面前では尊敬されるとしても、背後で彼らが言うだろう。「自分がラマ、グルだからといって、何の役に立つのか」。彼らは自由に語ることができるので、そのように言い、それは責められることではありません。同じように、あ
る指導者が利己的な動機を強くもてば、たとえ人々が彼の面前で彼を尊敬し、賛辞を浴びせたとしても、あとでもし彼が難関に逢着すれば、彼らは喜ぶのであり、それは当然のことです。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ
―み言選集―
全体のために生きる人は、全体の運行に合わせ、生活や仕事や言行心事のあらゆる面で模範となるので、自動的に上の人として尊敬されるのです。
(318-147、2000.3.5)
何が善なのかというのです。悪いものはなくし、善いものは求めると言いました。それは善いものをもって中心者になるということです。中心者とは何ですか。あらゆる人たちの一つの標準となり、彼らがついていこうとする人です。
中心者は、それと関係したあらゆるものと隔離されるのではありません。いつでもそれを管理し、保護できる存在です。保護してあげる責任があるのです。それで中心者が必要だということです。ですから、彼に従っていこうとし、彼を標準にしようとするのです。
(118-38、1982.5.2)
自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道、人格
指導者になろうとすれば、経済問題を扱うことができなければならず、外交ができなければならず、大衆を説得できるよう雄弁でなければなりません。
(85-263、1976.3.3)
神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。
(219-110、1991.8.27)
②真の父母、真の師、真の主人になるための指導者の努力
―宗教経典―
だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)
天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。その人間のうちで真に聡明なものが元首となり、元首は人民を養う父母となるのである。
書経5.1.1、周書(儒教)
いわゆる、「国を治めるには、必ずまずその家をきちんとする」とは、その家を教えることができないで、人を教えることのできる者はいない。だから、君子は家から出なくても、国じゅうの人を教化できる。孝は君に仕える道である。弟は上長に仕える道である。慈は民衆を使う道である。(注10)
大学9.1(儒教)
天、地、人間は、万物の根本である。天は万物を生み、地は育て、人は完成してあげる。賢明な君主は、必ずこのような道理を信じるがゆえに、この三つの根本を丁重で厳粛に受ける。
天の祭祀に恭敬を尽くして執り行い、先祖のやしろの祭祀に丁重に仕え、孝道と丁重を好んで表し、孝行をたたえることによって天の根本に仕える。自ら農器具を手にして直接田畑を耕し、桑の葉を取って直接蚕を育て、草を切って種を蒔き、荒れ地を開墾して衣食を豊かにすることによって地の根本につかえる。学校を建て、孝道、丁重、恭敬、譲歩などと徳目を習わせ、教化によって賢くし、礼楽によって感化させることによって人間の根本に仕える。
董仲舒春秋繁露
昔、文字をつくった人物は、まず「三」を書いたのち、その中を連結して「王」の字とした。「三」はそれぞれ天、地、人を意味する。その中を連結した「王」は、「三」の道理にすべて貫通することを象徴する。天、地、人の中を貫通さ
せて連結したため、もし王でなければ、誰がこれを担うことができるだろうか。ゆえに王だけが天の作用を代行する。
天の命令に基づき、他の人たちをそれに従うようにする。最も美しい愛は天にあり、天は愛そのものである。天は万物を覆ってあげ、育ててあげ、変化させ、命を与えて生きていくようにし、また育ててあげて閑静させてくれる。
人は天から命令を受け、天から愛をとって愛を表現する。ゆえに人は天の命を受け、天の尊貴さを備え、父、兄、子、弟の親しさをもち、忠実と信仰、慈悲と恩恵の心をもち、礼儀と謙譲の品行を備え、正と否、順応と逆行の治める道理を備えており、筋道が明瞭で豊富であり、知識が幅広く、ひとえに人の道だけが天に参与できるのである。
天は常に(万物を)愛し、利益をもたらすことに志をおき、育て成長させることを自らのなすこととしているが、春、夏、秋、冬、四つの季節はすべてそのようにするための手段である。王もまた常に天下を愛し、利益をもたらすことに志をおき、一つの時代を平安で安楽な世にすることを自らのなすこととしているが、楽しみ、憎み、喜び、怒りがすべてそのようにするための手段である。ゆえに君主の楽しみ、憎み、喜び、怒りが(正しく表現されることは)正に天の温かさ、すずしさ、寒さ、暑さ(が適切な季節に表現されること)であるがゆえに、その道理を慎重に見きわめて表出しなければならない。
董仲舒春秋繁露
一み言選集―
私達の三大念願は、一つは真の父母、その次には真の師、真の主人です。皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうですか、違いますか。しかし、その前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。
(205-20、1990.7.15)
よりために生きるそのような父母が、あらゆる父母の中で子女のために生きる父母が、真の父母であり、いかなる師よりもよりために生きようとする師が、真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうとする大統領が、真の大統領です。
(285-226、1997.3.19)
中心存在は、責任をもたなければなりません。責任をもつだけでなく、保護してあげなければならないのです。保護だけでなく、育成してあげなければなりません。
(210-98、1990.12.1)
皆さんにはすべて、父母がいます。そして、師、先生がいて、大統領という国の主人がいます。それは誰にとっても必要なのです。父母がいなければならず、先生がいなければならず、その国の主人がいなければなりません。
それでは、父母はどのような父母であり、師はどのような師であり、国の主人はどのような国の主人ですか。様々な形態があります。皆さんは、どのような父母になりたいですか。どのような学校、どのようなレベルでの師になりたいですか。
エール、ハーバード、プリンストンのようなアイビーリーグに属した大学や、イギリスのオクスフォードやケンブリッジ大学には立派な先生がた
くさんいますが、彼らを本当に真の師だと言うことができますか。
最近では、家庭で父母を信じられません。学校で先生を信じらません。息子が父母に対して信じられないので、その父母を中心として見れば、それは誰の責任ですか。夫婦が一つになれないので、息子が父母を信じられなくなり、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士も壊されているのです。
ですから、皆さんが願い、誇りたいと思い、もちたいと思っていたこの主要な三大主体が、真だという基準を中心として合格できるものが、どれか一つでもあるかというのです。
(285-214 ~ 215、1997.5.19)
皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産生義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になれる立場は、父母の立場であり、非雇用主の立場は、子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるためにその
ようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)
神様は、皆さんが真の父母になり、真の師になり、真の主人になることができると言うのですが、そのような世界最高のタイプ、そのあらゆるモデルの中心とは誰なのか、それを知らなければなりません。誰が真の父母と真の師、真の主人の最高の絶対的モデルですか。レバレンド・ムーンですか。
神様はどうですか。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。永遠の父母であり、永遠の師であり、永遠の主人です。では、神様の息子になればどうですか。神様のような父母にならなければならないでしょう? 神様
のような師の道を行かなければならないでしょう? 神様のような主人になれる道を行かなければならないでしょう? 問題は神様です。
(285-224、1997.5.19)
4.国民のための政府
政治の主な関心事は、市民福祉である。世界の経典では、統治者は自分自身の必要に先立ち、国民の要求を優先視しなければならないと確言する。これは、統治者の名称によく現れている。イスラエルの預言者たちは、彼らの統治者を「牧者」と呼び、イエスは王国の統治者を「僕」と呼び、中国の伝統では皇帝を「民の父母」とみなした。
指導者は、自身の追従者たちに個人的親切、彼らの失敗に対する寛容、事態に対する認識不足、無知、背信なども、しっかりとした信頼性で配慮しなければならない。指導者は、高位職の虚礼と誇示を排除することによって、そして国民の一人として素朴に生きていくことによって、追従者たちの困難を共有していることを見せてあげることができる。
経典は、景気低迷期の税金減免、雇用創出のための投資、国民への主人意識を養うための権限付与、貧民福祉のための準備などをはじめとした、慈愛深い統治政策を激励する(第20 章9.「経済的正義」参照)。
慈愛深い規則を追求して作られた政府の教令は、ほぼ普遍化されている。それゆえ、古代君主制時代に記録された教令が伝承され、現在でもそれが有効なのである。
しかし、ここでは現代民主主義に関するいくつかの文献が紹介されている。現代に「国民の国民による」政府が、「国民のための」政府をつくり出す最も確実な方法であることが立証された。しかし、民主主義は少なからず極悪非道さを招いた。フランス革命がその事例である。
民主主義の背後の自由選挙と代議政治の活気に満ちた精神は、自由の祝福と全体主義的暴力の間の、
すべての差別をつくり出し得るものである。西洋の経験論的キリスト教の価値に立てられた民主主義は、物質主義に基づいた民主主義よりも良いと見ることができる。文鮮明先生によれば、個人の自由を強調するアメリカの民主主義においても、様々な次元で欠点があることを看破できる。先生は、民主主義の土台は真の愛の精神であることを明らかにしている。(注11)
①奉仕する指導力
―宗教経典―
君王の幸福は民の幸福にある。彼の福地は彼らの福地にある。自分自身を楽しませることは、何であっても善とみなしてはならず、民を楽しませることであれば、何であっても善と考えなければならない。
カウティリヤカウティリヤ実利論1.19 (ヒンドゥー教)
益は上を損して下を益すことであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりがない。上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。
易経42、周易下経、益(儒教)
統治者が人々の指導者になろうと望むならば、まず、人々の前でつつましくしなければならない。
人々の先頭に立とうと望むならば、まず、彼らのあとに身をおかねばならない。彼が高い地位にいても、人々は何ら障害も感じることがない。だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。
道徳経66(道教)
大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。
道徳経60(道教)
大多数が担うことのできない重荷を民に背負わせてはならない。
タルムード、バヴァ・バトラ60b(ユダヤ教)
先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり)から離れるものだ。」
論語15.15 (儒教)
そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行きつかせてやって、〔他人のことでも自分の〕身近にひきくらべることができる、〔そういうのが〕仁のてだてだといえるだろう。
論語6.30 (儒教)
人民の守護はクシャトリアにとっての最高の生き方(ダルマ)である。というのも、〔それを遂行するとき〕王は上述の利益を享受し、〔人民が蓄積する〕功徳(ダルマ)と結ばれるからである。
マヌ法典7.144(ヒンドゥー教)
(最高統治者であり神の地上代理人である)カリフとは、民の世話をする牧童と同じであり、彼の民に関して問いかけを受けるだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25 ~ 28(キリスト教)
なんじが、かれらを優しくしたのは、神の恵みであった。なんじがもしも厳格で、心が荒々しかったならば、かれらはなんじの周囲から離れ去ったであろう。それゆえかれらの過失を許し、かれらのために神のお許しを請え、そして諸事にわたり、かれらと相談せよ。
クルアーン3.159 (イスラーム)
イムランのモーセの子孫が言った。「主よ、あなたの考えでは、あなたの僕の中で最も優れた者はだれでございますか」。彼が答えを聞くと、「権力の座にいるとき、赦しを行なう者である」だった。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
保護とは、命令することではなく、自分自身を与えることである。
ナイカ族の格言(アフリカ伝統宗教)
公人は国家の僕になることを誇りとし、国家の主人になることを恥とする。
ウィンストン・チャーチル(注12)
―み言選集―
無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は、千万の人によく用いられる材料となろう。
御旨の道、人格
他人を支配しようと思う者は、まず自分自ら支配を受けてごらんなさい。
御旨の道、指導者
従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は、滅びる。
御旨の道、指導者
高い位置の人になるためには、低い位置の人をよく収拾しなければなりません。
(34-250、1970.9.13)
主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、天のためのものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。
(30-88、1970.3.17)
私達は、人のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、人を不快にするのはもちろん、天道に背くことです。人のために生きる人生は、すなわち神様に似るための実践なのです。神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してこそ、人格を完成した真の人、真の父母、真の師、真の主人になります。こうしてこそ、平和を成し遂げる主体になるのです。人のために生きる人生は、平和に向かう最初の関門になります。
(356-276、2001.10.20)
自分を中心とする人は、いくら大学を出て学位をもっていて、教授だとしても、その人は、責任者になれません。中心者になれないのです。しかし、すべてを備えて全体のために生きようとする人は、頂上に上がっていくのです。選挙をするときもそうです。責任者を決めるときは、個人主義者を嫌います。全体のために生きる人を選択するのです。それがこの社会において、歴史を存続させる一つの方法であり、一つの公式だというのです。それが真理です。
(102-139 ~ 140、1978.12.10)
初めて向き合う人が間違ったときは、私がこの人に何を与え、何を投入したか、考えなければなりません。そうしてこそ、失敗しても赦してあげる天理を、そこから発見できます。私が主体者として歓迎してあげて、喜ぶことを願わなければならないのであって、そのようなこともせずに喜ぶのを願うのは、どろぼうです。
(81-305、1975.12.29)
もし悪いこと、があれば、悪いことをすぐに処理してはいけません。悪いことがあっても、その悪いことを中心として喜べる条件を探していきながら、善いことが悪いことより小さくても、小さいものを見て悪いものを保留して処理できる余裕をもたなければなりません。(72-313、1974.7.14)
責任者は、分かっていてもだまされてあげなければならず、分からなくても模範を見せてあげなければなりません。
(324-202、2000.6.24)
人は日常生活で、事の道理に明るくなければなりません。愚鈍ではいけないのです。事の道理に明るいということは、道理に合っているということです。前後左右を見渡すことができなければなりません。愚鈍ではいけません。上下、前後、左右を見分けることができなければならないのです。
次に、それを包括できるのは情です。情のふろしきはすべて包みます。おじいさん、おばあさんも包み、赤ん坊も包み、すべて包みます。理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ですから、先生は80 歳のおばあさんも喜び、幼い赤ん坊も喜び、愛のふろしきで包めば、すべて喜ぶのです。互いに握り締めて離れず、永遠に休みたいと思い、眠りたいと思う所が愛のふろしきの中です。
(81-328、1975.12.29)
②貧しい者たちへの配慮
―宗教経典―
上の人が豊かな胸をもっていれば、すべての人たちが乳を飲むことができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
政府は保護者をもてない国民のための保護者である。
ハディース(イスラーム)
さて仁徳天皇は高い山に登り、四方の国をごらんになって、「国の中に炊煙が立たない。国の人民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。この免税の結果、宮殿は破損し、あちらもこちらも雨漏りがするけれども全く修理をなさらず、器物でその漏る雨水を受けて、ご自身は雨の漏らない所に移って雨漏りをお避けになった。そうしたのちに国の中をごらんになったところ、国中に炊煙が一面に立った。そこで天皇は人民が豊かになったとお思いになり、今は課税してもよかろうと租税と夫役を課せられた。こうした次第で人民は繁栄して、苦しむことはなかった。それゆえ、その御世をほめたたえて聖帝の御世と申すのである。
古事記110(神道)
人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。
お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、
追われたものを連れ戻さず、失われたもを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。
私の群れはすべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。私は生きている、と主なる神は言われる。
まことに、私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。私が彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
エゼキエル書34.2 ~ 10(キリスト教)
あなたが呼べば主は答、あなたが叫べば、「私はここにいる」と言われる。くびきを負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
イザヤ書58.9 ~ 10(キリスト教)
神よ、あなたによる裁きを、王にあなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように。
詩編72.1 ~ 4(キリスト教)
疲れている人、障害者、足が不自由な人と病弱な人、孤児、自信のない人、男やもめと寡婦は、みな私の兄弟たちであり、誰にも頼れず、よろけて倒れる人たちだ。君子が政府を治めるとき、このような人たちを扶養しなければならない。
朱熹(儒教)
貧しく無気力な人たちは、個人の権利を擁護するという側面で特別な待遇を要求する。富裕な階級は、彼らを防御する多くの手段があり、国家からの援助を必要としない。しかし、極貧な人たちは頼る資源が何もなく、大概は国家の援助に頼る。それゆえに、弱く窮乏した群れに属する賃金労働者たちも、やはり政府から特別に保護を受け、管理されなければならない理由が成立する。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム
私に与えよ、あなたの困苦の貧しさを、自由を味わおうと渇望する労働大衆を、豊かな海辺の哀れな廃物を、これらを私に送れ、家なく暴風雨にさらされてきたものたちを、私の明かりとして掲げよう、黄金の門のそばに!
エマ・ラザルス(注13)
―み言選集―
道を歩いていてかわいそうな人を見ると、自分の体を抑制できない衝撃を受け、精神を収拾してみると、電信柱にしがみついてむせび泣いている、そのような心情で心を痛める指導者は、「発展するな」と言っても発展するのです。
(160-197、1969.5.12)
大統領が官邸に暮らすよりも、砂場に砂の家を建て、一代、一代、崩して暮らそうというその国は、復興するのです。そして、民のために生きなければなりません。神様は、それ以上にされるのです。
(382-149 ~ 150、2002.6.21)
自分のために生きるのは自分で終わるのであり、人のために生きるのは永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象圏のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。
それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。しかし、相対圏を踏みにじる世界的主体はあり得ません。世界的主体は、世界的相対の形を輝かせるための主体にならなければなりません。
(57-63 ~ 64、1972.5.28)
政治世界は、管理体制であり、政策というものは、計画を立てる必要がありません。原理的観点から、平和のために生きるのです。国家のために生きて全体の前に手本を見せることができる、「ために生きる」管理体制であって、指導体制ではありません。
その管理体制を通して経済的問題、すなわち人が食べて生きていく生活を自動的に解決できるようにしなければなりません。ですから、生活において上、中、下の3階級に分け、上級は生活基準がいくらであり、中級はいくらであり、下級はいくらかを調べてみます。これを中心として平準化するのです。中級を中心として連絡させ、平準化をしなければなりません。
そのようにしようとすれば、世界は必ず、UNと一つにならなければならないのです。整備、管理を徹底してやらなければなりません。政策を誤って立てれば、経済管理体制を破綻させてしまうようになります。
ですから、一つの家の生活のような計画を立て、1年にいくら、全世界の予算がどのくらいかかるということ、上はいくらで、中はいくらという正確な統計が出てこなければなりません。そして、上はできるだけ中を中心として下がっていきながら、下を引き上げて平準化させて合わせていかなければなりません。(注14)そのような体制をつくらなければならないのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)
発展途上国の貧困を解放し、強大国は発展途上にある新しい民主主義国家を犠牲的に助けなければなりません。各国の政策が利己主義を指向するそれ自体が大きな革命です。その方法は、私達全員が父母の立場に上がっていって見下ろしてみるのです。そうすれば、あらゆる国家が兄弟に見えざるを得ません。一つの父母のもとに、一つの兄弟国家社会を成し遂げられる歴史的機会に直面しているのです。
(219-120、1991.8.28)
③民主主義
―宗教経典―
民主主義の理想を標榜する為政者、その統治は永遠である。
アーディ・グラント、マールー、M.I (シーク教)
あなたさまの国土には、盗賊がはびこり、抑圧があります。村では略奪が行われ、町では略奪が行われ、都市でも略奪が行われています。街道では追剥が横行しています。このような盗賊がはびこり、抑圧があるいまの国土で、国王陛下が税を取りたてるとすれば、あなたさまは、してはいけないことをする者となるでしょう。
ところで、あなたさまには、この危難を、賊を、死刑や捕縛や財産没収や体罰や追放などによって、取り除くことができるとお考えになるかもしれません。しかし、そうなさっても、この危難は完全に除かれるわけではありません。生き残った者たちが、後日きっと王国を悩ますことになるでし
ょう。
しかしながら、次のような対策によって、こうした危難は、完全に取り除かれるのです。すなわち、あなたさまの国土にあって、商業に励む者たちに
は、食料と給料をお与えになることです。そうすれば、これらの者たちは、自分の仕事に専念し、あなたさまの王国を悩ますこともないでしょう。
その結果、あなたさまの蓄財も増大し、国土には平和が保たれ、盗賊などの危難もなく、抑圧もなく、国民は満足し、喜び、子供を胸に抱き、家の戸を閉めることなく、安心して暮すようになりましょう。
阿含経長部i.135、究羅檀頭経(仏教)
私達は、以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む侵されてはならない権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
アメリカ独立宣言書
私は、国民自体以外には、究極の社会的力を保管する安全な場所を知らない。もし私達が、国民の健全な裁量権によって自己調節を発揮するのに十分な開明がなされていなかったと思うのなら、その解決策は、国民から彼らの裁量権を奪うのではなく、教育によってそれを知らせてあげることである。
トーマス・ジェファーソン
私は、広い港と巨大な川でアメリカの偉大さと特徴を探した。しかし、そこにはなかった。肥沃な野原と道のない森で探した。しかし、そこにはなかった。豊かな鉱山と途方もない世界貿易で探した。しかし、そこにはなかった。民主的議会と無敵の憲法で探した。しかし、そこにもなかった。
私がアメリカの教会に行き、燃えるような説教を聞くとき、初めて私はアメリカの特徴と力の秘密を知ることができた。アメリカは善であるがゆえに偉大だ。もしアメリカが善であることをやめれば、偉大であることもなくなるだろう。
アレクシス・ド・トクヴィルアメリカの民主政治
一個人に責任を任せること、そして人々が彼を信頼していることを知らせること、それより彼をたくさん助けることはあまりない。
一つカー・T・ワシントン
―み言選集―
人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.3
イエスの時代でも、人の命は権力者の前にハエの命と同じでした。イエス様は、為政者や権力者たちが願えば、いつでもハエが捕まるように捕らえられて葬り去られる、無法天地の制度下で生まれました。根本的な人間革命を叫ばれた革新的なイエスのみ言が、その社会制度のもとで容認されるはずがありませんでした。
イエス様が十字架にはりつけにされたのは、当時の制度のもとでは避けられない事情だったと言えます。これをよく御存じの神様は、メシヤが再び来られる再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕らえて命を奪う、そのようにできない政治制度であることを御存じです。
このために、2000 年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は、人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、すなわち自由を保障する制度です。
その自由は、正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義の代表と見ることができるアメリカの憲法を見れば、自由の中で最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカ議会と政府は、宗教を規制できるいかなる法も作れないようになっています。
(100-245 ~ 246、1978.10.19)
革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。
ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディドロ(Diderot 1713 ~ 1784)や、ダランベール(D'Alembert 1717
~ 1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化される傾向性を内包していたのである。
イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。
これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.1.1 ~ 2
民主主義は、兄弟主義だというのです。すべて平等だと言うでしょう? 世界の人類は、自由を中心として平等だと言いました。自由で幸福を見いだすことができますか。できません。しかし、愛を中心とする自由では、幸福を享受できます。
(201-73、1990.3.1)
民主主義でも、もし愛を母体とすれば、世界が一つになれます。愛を母体として、世界が愛で一つになることを主張するそのような民主主義であれば、それは世界的な民主主義になるのです。共産主義も同じです。本当に真の愛を中心とした共産主義であれば、それも世界を一つにできるでしょう。愛があれば、粛清という言葉も成立しません。
(90-311 ~ 312、1977.1.15)
そのような観点から、アメリカという国をじっと見てみると、ある面では、ぱっと見て好ましく思いやすいのですが、根本的に入っていくと好ましく思いにくいのです。そこには必ず民族主義の色あいがあります。すべてのものが、いまだに孤立しています。一つになることができていません。法と人権が調和しなければならないのです。
(90-304、1977.1.15)
民主主義世界は、どれくらい持続するだろうかというのです。民主主義世界は、個人主義世界です。ここには、夫婦関係や何々関係というものがありません。すべて自分第一になっています。しかし、この世界というものは、関係を離れては存在できません。すべて関係圏になっています。これが成されれば、その次には対応関係を成し、このようにして世界は、一つの核を中心としてお互いが一つになるように回るのです。
ですから、皆さんの家庭が一つになっていれば、その次には部落と一つにならなければなりません。家庭が一つになれば、その部落と対応関係を成すのです。これが、この世を構成し、一つの連結的な体制をつくるときの不可避的な原則となります。
(228-8、1992.3.1)
5.法と罰
政府は、市民を保護し、法律違反者を制裁して、公共福祉を増進するために法を制定し、執行する。神様は、法の根源である。その方が科学的法則により機能する宇宙を創造し、正しいことと正しくないことを分別する良心を、個別の人間の心に植え付けられた。一つの国の法を構成する憲法と法令は、天法に似ている。これが、私達が良心の指示に従う理由である。
法は、邪悪を制裁する。正しく行動して不道徳なことを避けるように命令する良心の指示に従わない人々は、正しいことと正しくないこと、すなわち許されたことと禁止されたことの間を鋭く分別する法によって、制裁を受ける。良心的な人になるために自身の人格を修養する人々は、法にほとんど抵触しないで生きていく。
犯罪抑制策として、正義守護のため、法令は、法律違反者を刑罰により処罰する。刑量を決定する政府は、正義の最終分配者である神様の同労者である。
地獄とは、霊界の巨大な監獄として、天の領域を蹂躙する法律違反者を制裁するための所だ。罪の代価を払う法律違反者の刑罰は、一つの契機、すなわち「蕩減」により無にさせることができる。
法律違反者を懲罰して正義を守護する体制には、常に慈悲の要素を前提にしなければならない。そして、法律違反者は本当に改心して、生き方を新しく転換しなければならない。
文鮮明先生は、監獄の主な目標は、原状回復の教育でなければならないと教える。これは、収監者たちの残酷な監獄を原状回復のための教育の場「教導所」に改造しようとする、21 世紀の先進化運動の核心概念である。このように正義と慈悲の両極は、死刑宣告などの倫理的問題を省察する観点を、新たに形成する。
①法の高潔な目的
―宗教経典―
そこで、彼は自己以上に勝れた色(ルーバ、現象)たる法(グルマ)を産み出した。法とは権力の権力である。この故に法より勝れたものはない。法の力を籍(か)れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.14(ヒンドゥー教)
そなた自身もよく法典に敬い従って人民を導くようにしなければならぬ。文王でさえも敬い慎んで民を導き、「予といっしょに行う者があるならば、予一人は大いに喜ぶであろう」とおおせられたのであった。
書経5.9.3.8(儒教)
真の審判にうなずく者が神の同業者である。
出エジプト記メヒルタ18.13(ユダヤ教)
王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
箴言29.4 (キリスト教)
〔真実〕を吟味し、〔刑罰が〕正しく保持されるとき、それはすべての人民を幸せにする。しかし吟味せずに用いられたときはすべてを滅亡させる。
王は罰せられるべき人間に対して刑罰を用いないときは、強者は、弱者を焼き串に剌された魚のように焼くであろう。……刑罰を誤用すれば、すべ
ての身分は堕落し、すべての境(区切り)は破壊され、全世界に怒りが持ち上がるであろう。黒色、赤目の刑罰が歩き回って罪人を滅ぼすところでは、〔刑罰を〕適用する者がよく監視すれば人民は迷いに陥ることはない。
マヌ法典7.20 ~ 25(ヒンドゥー教)
善行および悪行の業の成熟と果報を現わし示すために、種々さまざまの所行をする人、それが王と呼ばれる。彼は、自身のために、また他人のために、また国土の秩序のために、神々の群れに加護され、諸々の神より王として承認されている。
王国における凶悪な悪人を取りおさえようとして、
国土の秩序のために、生命や王位を捨てることもあろう。(注16)
金光明経12(仏教)
マルドゥクが私に人を正しく案内し、地を監督することを委任したとき、私は国民の福地を増進するために、その地の言語からなる法と正義を制定した。
ハンムラビ法典(注15)
法律とは、一方では、ともすれば善人たちが互いに友を守りながら生きていけるかを教えようと、彼らのために制定されたものであり、もう一方では、このような教えを拒否し、これに従わず、心が素直になれず罪悪に陥ることを防げない者のために制定されたものです。
プラトン法律9(ヘレニズム)
自分の中にある神的分別力によって支配されるのが、すべてのために良いからです。もしそうできない場合には、外部によってでもそのようにするのがより良いのですが、これは、できる限りすべてが同一のものによって導かれることによって似るようになり、友となるようにするためです。……
そして、国の中にいるすべての協力者である法の趣旨が、そのようなものであることは明らかです。子供たちに対する統率もそうであり、国の場合と同じように、彼らに統治体制が確立されるときまでは、そして、彼らの中にある最善の部分を私達の最善の部分によって世話したのち、その子供の中に私達のものに似た守護者と統治者を私達が代わりに入れ込むまでは、子供たちを自由にすることは許容せず、それができて初めて自由にすることを私達は許容します。
ところが、知らずに正しくないことをしても差別を受けないことが、どうして利益になりますか。そのようにしても発覚しない者は、一層邪悪になりませんか。反面、発覚して罰を受けた者の野獣的な部分は眠って純化され、その一方で彼の従順な部分は、自由になり、彼の魂全体が最も優れたその本性に戻り、知恵と節制、そして正義を得て、価値のある状態を実現すること……。
プラトン国家9(ヘレニズム)
―み言選集―
法とは何ですか。自体的に保護されたものを、破壊しようとするものを除去するためのものが法です。宇宙の法がそうなので、そのような形態に拍子を合わせ、国家の法もその適応が可能だというのです。これを知ってこそ、遵法精神が必要だということを理解できるのです。
(118-198、1982.6.1)
一つの国を中心として見るとき、国法というものがありますが、善を支える目的で法を考えます。どの国の憲法を見ても、国家管理体制の法を見ても、すべてが喜べる面を擁護するためにできているのであって、これを破壊するために作られている法はありません。
もしこの原則から外れるときは、どのようになりますか。どの国にも監獄というものがあって制裁するのです。ところが、一つの国の主権者によって善の基準が異なることもありました。
良心というものは、教育を受けなくてもあらゆる善のことをすべて知っています。良心は、最も善の側についていこうとします。良心は、何が善なのか悪なのかを判断できる能力をもっており、いつでも自己の主体性をもって自分を管理しています。
(216-306、1991.4.15)
国家の形成や国家の法は、それを支柱とし、それ以外のものを制裁するものとして現れていることを知らなければなりません。ですから、私を中心とし、外的な肉を中心とするあらゆるものはすべて制裁です。行けば行くほど狭くなります。
(105-15 ~ 16、1979.7.8)
純粋な良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局人倫は、どこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44、1970.8.2)
良し悪しには、いつも境界線がなければなりません。アメリカも憲法を中心として良いこと悪いことの基準を立てるのです。そうではないですか。ところが、公的なことを制裁するそのような法はありません。公的なことは、無限定にいくらでもしなさいというのです。それを制裁する法は一つもありません。
いくらでも歓迎するということです。しかし、自分を中心とする提案は、「やめなさい、やめなさい」と制裁するのです。自分を中心とするときに、法が問題視します。自分の欲心を中心とすれば、問題視するのです。その次には、破壊することです。破壊することを問題視します。公共の建物を破壊するのは、すべて罪悪だというのです。このように見るとき、私達が人に悪いことを言って傷つけるのも、法に引っ掛かるのです。
(111-239、1981.2.22)
法が立てられれば、法のとおりにしなければなりません。天の国の家庭の法がなかったのであり、天の国の氏族の法がなかったのであり、天の国の国家の法、家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法がありません。憲法がないのです。それが、今まで神様が人類をすべてほうっておき、自由奔放にして秩序を破壊することに手を出すことができなかった理由です。
サタンが主人になっているので、神様が取り戻してこようとしても、その秩序の原則がこのようになっていて、これができていないので、これはこちら側に属していると、分け得る法がありません。これからは、そうではありません。統一教会で自分勝手に生きた人たちは、赦しがないというのです。
(356-315、2001.10.22)
堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには、義理もなく、法度もありません。
法度に従い、法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人と言います。正直とは、正しいの「正」の字と、まっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。
それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法によって分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めておかなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)
天の国の憲法とは何でしょうか。それを知らなければなりません。愛の力、愛の生命力です。天の国の憲法のすべては、これを保護するために活用されざるを得ないというのです。
(111-171、1981.2.15)
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