7.父母愛
父母の位相には、最上の高潔性と、極大の利他的情緒が要請される。父母ならば誰でも、子女のために自身の人生自体をすべて犠牲にする。子女の所有の意味は、高揚された人生の経験として道徳的な力を発揮し、無節制な生活様式を清算し、子女のために責任をもつモデルの役割を発揮するということである。そして、子女の養育の必須条件は、犠牲と忍耐と容赦であり、それは、ほぼ神的境地に近い愛を啓発するということである。
父母の愛は、家庭の最上の段階だ。夫婦段階から父母段階に格上げしようとするならば、夫婦は必ず子女をもたなければならない。それはまた、人間完成のための必須義務である。そして、父母の基本的な課題と責任は、子女の教育である。
文鮮明先生はこれを、心情教育と規範教育であると説明される。このような一連の教育には、各段階別に扱われる三つの側面がある。道徳的教育、
連帯的訓練、典型的生活設定がそれである。世界経典の「知恵」では、子女の適切な成長のために愛と配慮の教育を父母の本質的義務とみなす。一方、父母の愛が乱用されれば、子女の教育は失敗する。愛の乱用は、誤った性格を形成するからである。特に父母の手本は、神様に向かう父母自身の特別な信仰と献身の手本とに関連している。それは、子女自身の信仰を発達させられる鍵になるからである。そして、父母は害悪から子女を保護する最大の守護者である。
十代の娘をもった父母ならば、どこの誰でも子女の安全保護を心配し、夜も眠れないでいることを私達は知っている。最後の部分の章句は、子女のための犠牲的な愛、父母の心情に対して記述し、子女が失敗するとき、彼を赦して、彼のための最善とは何かを記述する。
①子女の本質的価値
―宗教経典―
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)
出産をわざと抑制する人は、神の神聖な形状に害を及ぼすのと同じである。
創世記ラッバー34.14 (ユダヤ教)
見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも、恥をこうむることはない。
詩編127.3 ~ 5(キリスト教)
子供は男性の服である。(注24)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
国民の全未来は、その国民の子供たちに対する態度にかかっている。そして、女性を「つまらない用途」と規定したり、経済と政治の分野で性の競争が、未来世代の創造より価値のある努力だと信じる国民は、死んでいく国民だ。
L.ロン・ハバード生存の科学(サイエントロジー)
―み言選集―
結婚すれば、息子、娘を生まなければなりませんか、生んではいけませんか。生まなくてもよく、生んでもよく、それは好きなようにすればよいと思うかもしれませんが、そのようにはなっていないので、生むことを願うのです。
生まなければなりません。なぜ生まなければならないのですか。生まなければ愛のみ旨を成し遂げられません。愛も東西南北があり、中央の愛があるのですが、ぴたっと中央を中心としてこそ、その根が東西南北の四方に伸びていき、大きな木を支えることができるのです。
(214-12、1991.2.1)
子女がなぜ必要ですか。神様の愛を知り、父母の愛を知って父母に侍ることができ、夫の愛を知って夫に侍ることができ、子女の愛を知って子女に侍ることができなければなりません。子女に命令ばかりするのではなく、侍ることもできなければならず、「ために生きる」ことができなければならないというのです。
そうしてこそ、神様の愛を理解できます。教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子女をどれほど愛したか、知らないのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。自分がまた父母にならなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。すべてそれを年代ごとに分かるようにするための教材としてつくったので、皆さんに息子、娘がいなければ真の父母になれません。
(133-138 ~ 139、1984.7.10)
お母さんとお父さんは、愛なしには一つになれないのです。皆さんは、なぜ愛を好みますか。「好まない」と言っても好まざるを得ないようになっているためです。お母さん、お父さんが互いに愛する力が、個体のための力よりも強いほど、より理想的なのです。お母さん、お父さんを完全に一つに縛りつけるものは愛の綱です。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆がついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして父母と子女の関係は御飯でもお金でも縛りつけられません。ただ、父子関係の愛でのみ縛りつけられます。
(18-329、1967.8.13)
それでは、結婚して何をしようというのですか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子女を生もうというのです。息子、娘を生めなければ、その家庭は家庭のグループにも入れません。息子、娘を生むことができなければ、分かれ始めるのです。息子、娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて、事のついでに離婚したいと思っても、息子さえ生んでおけば、その夫もどうすることもできません。否応なく一緒に暮らさざるを得ないのです。ですから、家庭を築くにおいては子女がいなければなりません。
(23-25、1969.5.11)
自分の息子、娘を自分の夫より、妻よりもっと愛さなければなりません。
(130-165、1984.1.8)
夫が良いか、息子、娘が良いかというとき、夫よりも息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れられますが、息子、娘とは別れられません。族譜から抜いたとしても、血筋を受け継いだので、分けることができないのです。夫と妻は離婚して別れれば忘れることもできますが、息子、娘は、時間が流れれば流れるほど、もっと慕わしく思い、会いたいと思うようになります。このような事実は、子女をもってみた人なら、誰もがよく分かるでしょう。
(18-112、1967.5.28)
父母が子女と向き合うとき、その愛する子女が自分よりも劣っていることを願う父母はいません。ある美男美女が結婚して最初の子供を生んだとき、その赤ん坊の顔が父母の顔と比べて何でもなく、ただそれなりの顔だとしても、その赤ん坊の顔を見て、「あなたの子供は、あなたよりどれほど良いか分からないほど立派に生まれた」と称賛すれば称賛するほど、その父母は、口がにこっとなるのです。それは間違いありません。子供が立派だと称賛するのに、「父親と母親をさておいてそのように言えるのか」と思う父母はいません。
(77-102、1975.4.1)
私が母から聞いた話があります。私の母は(注25)子供をたくさん生みました。10 の峠を少し越えて三つの峠を越えたので、13 人を生みました。13 人を生んだので、イエスの一派をすべて満たしたことになります。12 弟子とイエスまで合わせれば13 人になるのです。
そのように13 人生んだのですが、母が言ったことがあります。「世の中に楽しみといってもほかの楽しみはありません。赤ん坊を生んでお乳を飲ませて育てるとき、それ以上の楽しみはありませ
ん。老いて子供が生めないので、すべてがおもしろくなくてつまらない」、このように語ったのです。
(44-200、1971.5.7)
霊界では、息子、娘を生むことができません。この地上でしか、息子、娘を生むことはできないのです。そこでは息子、娘を生めません。天国の民を生むことができる所は、この地上しかないのです。ですから、この地上で神様の真の愛を中心として息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(218-200、1991.7.28)
②堅実と愛で子女を養育
―宗教経典―
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エぺソの信徒への手紙6.4 (キリスト教)
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言22.6 (キリスト教)
鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言13.24 (キリスト教)
魚は新鮮なときに巻きつけなければならない。(注26)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、私達には、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に
服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私達の益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ人への手紙12.7 ~ 11(キリスト教)
善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木技を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩
を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。……
善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善霊誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念して、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経471 (仏教)
子供が天性に従ってあらゆる過ちを犯すとき、父は彼を訓戒し冷遇するだろう。しかし、彼は再び彼を懐に抱くものである。
アーディ・グラント、ソーラトM.5 (シーク教)
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」
しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15.20 ~ 24(キリスト教)
娘は父親にとって、人知れぬ不眠のもと。娘への心配で彼は夜も眠れない。若いときには、婚期を逃しはしないか、結婚すればしたで、夫に嫌われはしないかと。またおとめのときには、父の家にいるうちに、辱めを受けて、子供を宿しはしないかと。夫を持てば持ったで、過ちを犯しはしないか、結婚してからは、子ができないのではないかと。
シラ書〔集会の書〕42.9 ~ 10(キリスト教)
―み言選集―
世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。
(36-73、1970.11.15)
父母がむち打って、「こいつ、勉強しなさい! 出ていって僕になるぞ、こいつ」と言いながら叱責するのは、すべて子女のためにそのようにするのです。そして、その父母はその子女のために泣きながら祈祷し、胸が痛んで夜眠れません。これが真です。
(102-253 ~ 254、1979.1.14)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてすべて返してもらおう」という心をもつ父母は、真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛して、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えてあげようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救い、救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)
父母は、自分が最も好きなものを先に与えたいと思うのです。最も良いものを与えたいと思うのですが、与えることができないのは、それを管理できないからです。それを与えれば、それをもらった人が被害を受けます。ぎらぎらと鋭く光る研ぎ澄まされた刃を与えたいと思っても、間違って与えれば、それ自体が滅び、家が滅び、全体が滅びます。ですから与えないのです。
(29-108、1970.2.25)
韓国の格言の中に、「愛する人にはむちを与え、憎む人には御飯を与えよ」という言葉があります。一理がある言葉です。なぜかというと、正しい伝統を受け継がせるためです。父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛に涙を流せる人にならなければなりません。
(95-81、1977.10.23)
父母が子に対して憤って、手でたたけばどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのです。そうするのではなく、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないで、いつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ、たたけば効果が少ないというのです。
(41-333、1971.2.18)
皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私達のお父さんとお母さんは、絶対にけんかをしない。私達のお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言えるようにならなければなりません。それが教育です。
(90-123 ~ 124、1976.10.21)
父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。
(23-184、1969.5.18)
愛の本質とは何ですか。人のために生きようということです。自分の自主的な本質を中心として人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこかも来たのですか。天から来たのです。神様は、絶対的愛の主体なので、与えようとすることが愛の本質です。
このように見るとき、父母の愛がその本質に最も近いところにあるので、子女に対して常に与えようとするのです。その子女が受け取らなくても、いくら強盗の一味だとしても、父母が昔愛したよりもっと大きな愛をもって現れて愛すれば、悔い改めて戻ってくることができます。
しかし、「こいつ、私がお前をこれほど愛したのに、寡婦の身で、老いて腰が曲がっても愛したのに、その愛が分からないのか。こいつ!」と言ってキセルで額をたたいたとすれば、そのように3回しただけでも、その子女は荷物をまとめるでしょう。
父母が涙を流し、「私の愛が足らないからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と言いながら、その子女の骨髄が溶けるほど涙を流して、より大きな愛をもって子女の前に立つようになるとき、その子女はどうなりますか。戻ってくるのです。より大きな愛には、弱い愛をすべて消化、統合させることができる主管性があるのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)
霊界に行けば、法の中で最も恐ろしい法とは何でしょうか。子女を死の場に立てた罪を裁く法以上に恐ろしいものはないことを知らなければなりません。
なぜそうなのかというのです。神様もできないことをしたのです。ですから、赦す法がありません。赦すことができないのです。神様もできることであれば、赦すことができるのですが、これは神様もできないことなので、神様御自身も赦すことができないという結論が出てきます。ですから、最も恐ろしい罪です。
これは赦されないことを知らなければなりません。その代わりに、子女のために死のうという父母は神様が擁護してくれます。「私と同じだ!」と言われます。子女のために死ぬ父母は、天国に行けることを知らなければなりません。
(93-335、1977.6.17)
③先祖の伝統による子女の教育
―宗教経典―
主は言われた。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~ 19(キリスト教)
(ルクマーンは言った)「むすこよ、礼拝の務めを守り、善いことを命じ、悪いことを禁じ、おまえに降りかかることに耐え忍べ。、まことにそれは、ものごとを決定し成し遂げる」。
クルアーン31.17(イスラーム)
ある人が子供に遺産として譲り渡すべきものは学びだ。他のものは本当の財物ではない。
ナーラディヤール134 (ジャイナ教)
あなた達はこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ……。
申命記11.18 ~ 19(キリスト教)
わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。
箴言6.20 ~ 23 (キリスト教)
子供にあげると約束したことを破ってはいけない。それは子供にうそを教えることだからである。
タルムード、スッカー46b (ユダヤ教)
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。
テモテヘの手紙二1.5(キリスト教)
―み言選集―
父母が息子、娘を呼んでおいて、「お前はこのような人になり、またこのようなことをしなさい」と教えたとしても、「お前は神様を知っている人になりなさい」と教えることには及びません。
(11-308、1962.3.5)
皆さん、息子、娘にこのように生きなければならないという伝統を残さなければなりません。
(71-19、1974.3.24)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師になり、心情教育、規範教育を正しくさせるようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままを学んで似るようになります。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら、愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。
これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもてなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わり得ません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)
父は子女と、どのように向き合わなければならないのでしょうか。友人の中の友人にならなければなりません。そうなれば、自分の友人と遊んでいても、父が現れると、友人をおいて父のところに駆け寄ってくるのです。そして、師の中の師にならなければなりません。心情においては、いつでも支柱、すなわち中心にならなければなりません。
(57-282 ~ 283、1972.6.4)
父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。
子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。
(31-268、1970.6.4)
いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。
子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそ、それが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。
(36-73、1970.11.15)
皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。
そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。
(31-168、1970.5.24)
この世で、人間として一生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。(101-201 ~ 202、1978.10.30)
8.祖父母愛
祖父母は、家族に知恵、経験、孫と孫娘に対する歓喜の愛を施す。3世代が一つ屋根の下で暮らす伝統的な文化では、子女は祖父母を栄誉とし、日常生活の一部分として病弱な状態にある彼らを世話する。子女は、その過程で愛と尊敬に対する教訓を学ぶ。祖父母は、道徳的な碇(いかり)である。父母が薬物と犯罪で腐敗し、子女を世話するには不適格な相対になる事例があまりにも多い。その時、祖父母が父母の役割を果たすために代役をする。文鮮明先生は、利己心に寄与して道徳を墜落させながら、都市化し、産業化した社会で3世代家族が消滅することを批判している。
多くの伝統において、父母と祖父母に与えられた栄誉は、献身の垂直的連鎖にある先祖と神様に捧げる栄誉と連結されている。このような面で、文鮮明先生は、祖父母を家庭における神様の代身者だと表現する。彼らに栄誉をもたらすことは、すべての人類の最も偉大な祖父母、神様に栄光を捧げる道である。
―宗教経典―
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。私は主である。
レビ記19.32 (キリスト教)
孫に対する祖父母の感情は、このように表現され得る。「私達の子供たちは、私達にとって愛らしい。しかし、孫たちが生まれたとき、彼らは私達の子供たちよりもっと愛らしく見える」。あなたは、その祖母が彼女の孫たちに対する有り難さを表現しようと、あまりにおおげさだと言うかもしれない。
それは、彼女たちが幼い少女だったとき、彼女たちに形成された希望を思い起こさせる。その希望とは、彼女たちが生きていきながら、ある日祖母になるだろうということである。そして、時になって祖母になれば、彼女たちの有り難さを表現しようと、まれな任務を遂行する。
ヘンリー・オールド・コヨーテ(アメリカ先住民の宗教)
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)
父母は我が家の神己が神と心つくしていつけ人の子(父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。)
本居宣長玉鉾百首(神道)
子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず、罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
シラ書〔集会の書〕3.12 ~ 14(キリスト教)
父が私を呼ぶために人を送られた。私は彼の臨終を見た。私は彼を湾曲した美しい渓谷に埋めた。私は世の中のどこよりもそこを好む。自分の父の墓を好まない人は獣にも劣る。
ネズポス族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
―み言選集―
皆さんは、子女の位置にいるのですが、どのような運勢を受けるのでしょうか。祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を受け継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのですか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母とは何でしょうか。現在を代表するのです。また、その次に、子女は、未来を象徴します。
このようにすべて入っています。そこには東西も入っていて、南北も入っています。すべて入っているのです。全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、すべてがこの真の愛を中心としています。皆さんの家庭を考えるとき、このことを考えなければなりません。
ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬することは、過去をすべて受け継いで過去の世界を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛すること、子女を大切に思うことは未来を学ぶことです。
家庭の中にこの三者がいれば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの人がいなくても同じです。
(162-140 ~ 41、1987.4.5)
おじいさん、おばあさん、舅、姑、夫の姉妹、孫まで一緒に暮らそうというのです。蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。父母だけを愛するのではなく、おじいさんを愛することができてこそ、神様を愛するのです。父母の上におじいさんをおいて愛することができてこそ、神様を愛するというのです。
(128-18、1983.5.29)
祖父母は、霊界の神様を身代わりしています。祖父母の位置は、天の国です。家庭で最も年を取った人がおじいさんで、天の国の位置です。天の国を開くことができる代表的実体存在です。ですから、神様の代身者として侍らなければなりません。天の国の王を代表しているので、神様の代わりにその位置に迎えなければならないのです。これが家庭の伝統的教訓です。これが創造理想的モデルです。(251-219、1993.10.17)
夫婦でけんかすれば、おじいさんとおばあさんが愛で、「おいおい、やめなさい」と、また息子、娘がけんか、孫がけんかすれば、「おいおい、やめなさい」、このように愛をもって僕の役割をするのです。すべて「あなたが上だ。あなたが立派だ」と言いながらために生きてあげます。愛の僕の役割を最大にする方がおじいさんだということを知らなければなりません。
夫も妻が「ええんええん」と泣けば、「お前、泣くのはやめなさい。私はすべて分かっている。あなたが願うことはすべてしてあげよう」と言うのです。宇宙で最も偉大で、驚くべき1番の権勢をもった人とはどのような人かというと、愛の僕の道を行った人です。
(135-121 ~ 122、1985.10.4)
美しい嫁が白髪混じりのおばあさんとおじいさんに、愛の心をもって自分の愛する夫よりもっと良いものを買ってあげようとすれば、どれほど美しく、どれほど愛らしいでしょうか。美しい嫁が、自分の愛する夫に何かを買ってあげる以上の喜びの心で、しわしわのおばあさんとおじいさんに買ってあげるその場面は、どれほど素晴らしいかというのです。そうすれば、おじいさんとおばあさんが隠しておいたすべてのもの、愛に関するすべてのものをくれるというのです。
世の中で最も年を取ったおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、そのおじいさんのために生きる愛を、自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学べば、神様の秘密倉庫にあるすべての愛の宝を受けられます。どれほど素晴らしいことでしょうか。
(107-329、1980.6.8)
おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫嫁たちはみな見るのを嫌います(注27)。なぜですか。早く死になさいということです。しかし、愛をもった孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日は、私の目から雨のような涙が流れるなあ。ああ、千年、万年一緒にいればよいのに」と思うのです。
(184-270、1989.1.1)
年を取った人たちは必要ないといっては、将来どのようになりますか。年を取った人をすべて無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人を嫌う人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り払う人になるのです。
(21-120、1968.11.17)
第20章 社会
1.社会の土台としての家庭
社会は、各家庭が細胞の役割をする一つの有機体である。各細胞である家庭が健康であってこそ、その細胞が集まった社会も健康になる。反対に家族が破壊されれば、社会も同じように混乱してしまわざるを得ない。最近、家族解体の拡張は、国家の未来を憂慮する心配事である。
しかし、「家庭の価値」を家庭中心に解釈することは誤りである。「私の家庭は私の聖体である」という態度は、また一つの利己主義にならざるを得ない。「愛の修練所」(第19 章1.「人生の基本形態」参照)である家庭で学ぶ教訓は、すべての水準の社会組織に適用されなければならない。それゆえ、儒教の倫理は、孝行の規範を社会奉仕のための基礎倫理であると見る。
すなわち、家庭で父母に侍って生きることが、国に奉仕する訓練になるのである。同じように、
兄弟、父母、そして子女に対する愛が、私達と同年配、私達の父母のような世代、私達の子女と同じ世代の隣人たちを思う愛に拡張されなければならない。これによって、各家庭での愛の関係が、人類大家族を包括するように拡張されるのである。
①健康な家庭が堅固な国家を形成する
―宗教経典―
人の道はいたって手近かなところにあるのに、人はこれを高遠なところにさがし求めている。また、人のなすべき事はきわめて容易いことなのに、人はこれをわざわざ難しいものとして考えている。実は各人がみな自分の親を親として尊び、長者を長者として敬いさえすれば、天下はおのずから泰平に治まるのだ。
孟子Ⅳ.A.11 (儒教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ、義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド、ギーター1.40 ~ 42 (ヒンドゥー教)
本然の家庭の姿が社会の基礎である。その家庭は、堅固であり、一夫一婦制の家庭である。一夫一婦制は神が設定されたのであり、キリスト教で神聖視される法である。この家庭の中では、いくつかの世代が共に暮らし、知恵が成長するように互いに助け、他の社会的欲求を個人の権利と一致させるように協力してくれる。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)
歴史が証明するように、国の根幹である道徳秩序が弱化し、国の生命の源泉である結婚と家庭構造が悪習に侵害されるとき、その国の反映と国民の幸福は、これ以上保障され得ない。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ―結婚の尊厳―(キリスト教)
―み言選集―
人類が一つになるための最も堅固な基礎は、正に真の家庭理想から始まる普遍的で核心的な真の愛であることが明確になりました。
(330-252、2000.8.18)
家庭教育は、今後その国が福を受けられるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。
(31-243、1970.6.4)
現代社会において、青少年問題が大韓民国だけでなく、世界的に物議を醸しています。(注1)それは、父母をきちんともつことができず、兄弟をきちんともつことができないところから、男女関係において欠如した諸事情が原因となり、そのような結果をもたらしたのです。このような事実を見てみるとき、このあらゆる病弊を是正できる基準となるものとは何かというと、これはやはり家庭なのです。(23-13、1969.5.11)
今日の青少年問題やあらゆる社会の問題の内容を掘り下げて調べてみると、その由来がすべてそこから始まっているのです。だからといって彼らに父母がいないわけではありません。父母がいることはいるのですが、父母の心が息子、娘の心の深い所にないというのです。言い換えれば、父母の情が子女たちの骨髄に深く固められていないのです。ですから、そこから父母と子女の間に隙間が生じるのです。
(25-60、1969.9.28)
世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところでは、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。道徳的退廃こそ人類を苦痛と絶望のどん底に追い込む原罪なのです。未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。(288-140、1997.11.26)
アメリカは滅びるようになっています。愛の問題が混沌としたローマは、戦うことなく、それ自体の腐敗によって滅びました。同じことです。アメリカも滅んでいます。長続きしません。今最も混乱しています。文明国であるアメリカが性に対してめちゃくちゃであり、発展途上国でもめちゃくちゃです。その秩序を立てることができない日には、人頻の希望の世界、幸福の世界、理想の世界はありません。
(118-296、1982.6.20)
②家庭の徳目は社会の徳目の土台
―宗教経典―
自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。
詩経に〔文王の徳をほめたたえて〕「まず夫人をみちびき正しくし、ひいては兄弟を、〔さらには民草を〕、そして国家(くに)をば安らかに」とありますが、つまり、これは身近なものに対するその心を、そのまま他人にも移せよというたまでのことです。だから、このなさけ心をおし広めてさえゆけば、広い天下でも治めてゆけますが、もしも〔反対に〕この心をおし広めなければ、身近な自分の妻子でさえも治めてゆけません。むかしの聖人が今の人に優れて偉大だったのは、外でもありません。ただ、よくこの心をおし広めたからなのです。孟子IA.7(儒教)
若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
テモテの手紙一5.1 ~ 2(キリスト教)
老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)
親縁の発生する源泉として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族を好く収め和合させて宗子に仕えるのであり、宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って、宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈り、それ故に人民を愛して、人民が忠良であることを求め、それ故に刑罰が公正であることに努め、それ故に人民みな安心して産業にいそしみ、それ故に国の財物が殖え、政治の費用も充分であり、それ故に万人の願うところを多く実現することができ、それ故に万人みな礼に従い、風俗が乱れず、かくてこそ万人みな心安らかに身は楽しい。
礼記、大伝(儒教)
孝は天地の不変の法則、秩序の常道として、聖人によって明示したことから、民人はこの天地不変の常道に則り、孝道を以て行為の準則として、人間の本務を全うしなければならない。だから、聖人が人々を教える方法は、天に輝く日月が万物を明らかに照らすという、不変の法則にならい、地の高下や土地の肥瘠の宜しきに従って、万物を培ひ育てる。
この故に聖人は広く天下の人々に対してねんごろに教えを垂れるのである。恒久の秩序や法則に従って、広く天下の人々を教え導いてきた。それ故に、聖人の教えは、ことさら厳粛にしなくても自然に成り、聖人によって示された政治は、ことさら厳粛にしなくても自然に治まる。
孝経7(儒教)
―み言選集―
人間は、自分の父母を愛するように隣人の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣人のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣人の息子、娘を愛さなければなりません! それで、上下関係が展開し、左右関係が展開し、前後関係がそこで展開するのです。それが展開してこそ、この縦的な心情の基準が定着し、天道が生じるのです。
(70-152、1974.2.9)
出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私達の標語は、「父母の心情、僕の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。
(17-338 ~ 339、1967.4.30)
私の父母は先生の代身であり、友人の代身であり、あらゆる愛を下さる主体の代身です。それで人類を身代わりすることができるのです。それはなぜでしょうか。人類の愛を受けるためです。ですから、父母に孝行しなければならない、ということは歴史的な結論をもった理論です。
(105-108、1979.9.30)
真の父母は、孝子になってから忠臣になってはいけないと言いません。真の父母は、その孝子に家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たして世界のために生きなければならず、世界を犠牲にしてでも天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を求めていかなければならないと、教えてあげなければならないのです。
そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも、国を救って愛国者になるのです。聖人というのは、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして天の国と地、地上天国と天上天国を成し遂げなけれ
ばならないのです。
(287-25、1997.8.10)
2.社会の道徳的基盤
良い社会は、霊的道徳的基盤の上に建設される。今日、科学的で物質的な時代に文鮮明先生は、現代の多くの霊的指導者らと共に、道徳性と霊的価値がますます墜落しているのは、社会的平和が不安に近づく脅威だと警告される。
今、私達の社会で軽視されている基本的なことは、以下の内容である。第1に、正しい市民を形成する道徳と徳行である。第2に、教育、特に若者たちに目的意識と方向意識を提示して、セックスと麻薬による快楽的な生活様式を遠ざけようとする人格教育である。第3に、宗教である。宗教は和解と平和のメッセージを通して、戦争や派閥政治、人の自己利益の極大化の態度を鎮静させることができる。そして宗教は、神様に祈祷をすることによって、国家のために神様の祝福を取りもつことができる。
特に、アメリカで建国の先駆者たちは、アメリカの自由を確保し、繁栄を維持するために道徳と宗教の役割を明確にした。アメリカでの長い牧会活動の過程で、文鮮明先生はしばしばアメリカが神様に帰ること、神様のみ旨を尊重するこどを勧告した。
①道徳の基盤
―宗教経典―
地上は激情を抑制し、正義の実践に従い、欲望と貪欲と怒りに汚される事のない者達の誠実さによって支えられている。
ヴィシュヌ・プラーナ3.12(ヒンドゥー教)
彼らの考えと行動の根本が敬虔さと信仰心、真理と正義に根ざしていれば、どの個人も損害を受けることはなく、どの国家も繁栄と成功が拒否されないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ説教21(シーア派イスラーム)
世界は三つの上に立っている。法、天に対する敬拝、人に対する好意。
ミシュナ、アヴォート1.2 (ユダヤ教)
武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んでほんとうに服従する。
孟子Ⅱ.A.3 (儒教)
身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)
またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。
クルアーン3.104 (イスラーム)
『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)16
私達には、道徳と宗教に制御されていない熱情と闘うことのできる力で武装した政府がない。私達の憲法は、ただ道徳的で宗教的な国民のためにつくられた。それは、異なる国民の政府にはとても不適切なものである。
ジョン・アダムス
政治的繁栄に導くあらゆる資質と慣習の中で、宗教と道徳はなくてはならない支柱となる。人間の幸福のためのこの巨大な柱、人間と市民の義務を最も確固として支えるこの支柱を崩そうとする人は、いくら愛国の功徳を叫んでも、無駄に終わるだろう。
ジョージ・ワシントン大統領離任辞
結局、普遍的な諸権利はどこから始まるのか。小さな所から、最も近い所から、あまりに近く、あまりに小さいため、それらは地球のどの地図にも見ることはできない。しかし、それらは個々人の世界、すなわち隣人、学校や大学、工場、農場、または事務室にある。そのような所は、すべての男性と女性、子供たちが、差別がない平等な正義、平等な社会、平等な尊厳を追求する場所である。
それらの諸権利がそこで意味をもたなければ、それらは、どこであっても全く意味がないだろう。最も近くでその諸権利を支えようとする市民の行動に関心をもたずに、私達がより大きな世界で進歩を求めることは無駄なことだろう。
エレノア・ルーズベルト(注2)
―み言選集―
聖書には聖霊の九つの実に関する記録があります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5・22)とあります。この聖霊の九つ
の性稟、これは神様が主張し、神様が建設し、神様が立てようとされるその国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念ですが、これを皆さんは心ど体にしみるように感じてみたことがありますか。(4-112、1958.3.16)
国に忠誠を尽くす忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないので
あって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩になるしかありません。
(34-19 ~ 20、1970.8.29)
平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の開発にかかっています。世界平和や和平した国も、その構成員個々人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善の人々によって応用されるとき、これが人類の生活向上のために価値あるものとして使われるのです。
歴史を通しても聖賢たちや偉大な師たちが、平和で幸福な世界のために家庭、社会、国家を指導することに彼ら自身を捧げてきました。私達は21 世紀に挑戦するため、道徳的に霊的に完璧な指導者をはぐくめる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要とします。
(271-74、1995.8.22)
共義主義は、真の愛を中心とした普遍的な倫理道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理道徳を普遍的に実践する道義社会を指向する理想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提にしています。
真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身の調和、統一を成した人になります。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、自律的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界がまさしく理想世界です。
(271-78、1995.8.22)
②教育の基盤
―宗教経典―
教育の視察中だったラビ・アシとアミは一つの村に入り、その村の守護者に会おうと要請した。村の議員たちが、自分たちが守護者だと言って現れると、ラビが言った。「この人たちは、守護者どころか、かえって村を破壊する者たちではないですか! 村の守護者とは、青年たちの師であり、老人たちの指導者です。詩編にもあります。『主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。』(詩編127.1)」。
哀歌ラッバー(ユダヤ教)
先生が衛の国に行かれたとき、冉有(ぜんゆう)が御者であった。先生が「〔衛の人口は〕多いね。」といわれたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「富ませよう。」といわれた。「富ませたら、さら
に何をしたものでしょう。」というと、「教育しよう。」といわれた。論語13.9 (儒教)
まるで毒のように個人と国民と国家を壊し、多くの人たちの心を混乱させる悪の根源と根は、正に真理に対する無知、さらには、真理に対して軽蔑し、徐々にこれから遠くなることである。ゆえに正しさと健全さにより、悪で誤った媒体に立ち向かう必要がある。悪習を広げ、誤った考えを誘発する放送、映画、テレビプログラムに立ち向かい、真理を死守し、健全な道徳性を守るためのプログラムがつくられなければならない。
教皇ヨハネ23 世アド・ペトリ・カテドラム(キリスト教)
―み言選集―
民主主義は、世俗的人本主義をつくり、神様を追放しました。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放してしまいました。フリーセックスとは何ですか。この亡国のサタンの血、地獄の沼に丸ごと落ちていくことを知らずにいるのです。これを防御しなければならない使命が統一教会にあるのです。
(193-306、1989.10.8)
未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいます。
すべての家庭の悩みが解決されない社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするのですか。人類は今、家庭の価値を守護し、高揚させることができる教えとその方法を探し出さなければならない時点に来たのです。冷戦以降の時代は、正にこの家庭の価値を守護し、高揚させなければならない時代です。
(288-140、1997.11.26)
③神様と宗教の基盤
―宗教経典―
結局は、天のための集会が開かれる。そして、これ以上天の意志に反する集会は開くことができないだろう。
ミシュナ、アヴォート4.14(ユダヤ教)
主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
詩編127.1(キリスト教)
私達に命を下さった神が自由を下さった。それでは、私達がその唯一で堅固な基礎、つまりこの自由が神の贈り物だと考える国民の確信を除去するとき、一つの国の自由が保障されると見ることができるだろうか。自由は、神の怒りなく侵され得るものてはない。実に神が正義だということ、そしてその方の正義は、永遠に眠りにつかないことを考えるとき、祖国を憂慮し私は戦々恐々とする。
トーマス・ジェファーソン
アダムの子孫は、二つの部類に分類されなければならない。第一は、神の王国に属する者たちであり、第二は、世の中の王国に属する者たちだ。……前者は敬虔さを重視し、後者は外的な平和を成し、悪の行為を防止しようとする。世の中は、このうちのどちらか一つでもなければ完全ではない。
マルチン・ルター世俗の権力(キリスト教)
この誤った人間の氏族は、政府と社会の政治機構を通して、その環境を完全にしようと夢見る。しかし、外的な環境が完全になり得るのは、ただ内的霊魂の完全によってである。「あなたは中にいるものであり、あなたの外にあるものを享受しなければならない」、そのいかなる政治機構も、あなたの存在の法則からあなたを救うことはできない。
シュリ・オーロビンド(ヒンドゥー教)
この国の法律の根本的な基礎は、シナイ山にいるモーセに与えられた。私達の権利規制の根本的な基礎は、私達が出エジプトと使徒マタイ、イザヤと使徒パウロから得たその教えから来た。私は今日、私達がそれを十分に強調していないと考える。もし私達が正当で、根本的な道徳的背景を確保しなければ、私達は結局、国家以外には誰のための権利も信じない全体主義的な国として終わってしまうだろう。
ハリー・S・トルーマン28
主なる神が自ら立てられたこの教会を、人間の生と法、青年教育、国内政治から排除させることは、重大で致命的な過誤である。宗教が追放された国は、きちんと規制されないのである。
教皇レオ13 世イムモルターレ・デイ(キリスト教)
―み言選集―
私達は、失われた本然の園、失われたお父様の理念を探し出して、万物を主管し、守るべき者であり、万物と共に愛の因縁を結び、それを束ねてお父様のみ前に帰し奉るべき者であり、お父様が天地を創造された御心情を通して、お父様の愛の花を咲かせ、結んでさしあげるべき全体的な責任を負っているということを知っています。
そうですので、一歩も踏み出せないまま、深い眠りの中に入っている、すべての世界人類を目覚めさせてくださって、新しい光明の朝を迎え、天を見つめ、再び目覚めることのできる群れとなるよう許諾してくださいますことを、愛するお父様、
切にお願いいたします。(注3)
(5-277、1959.2.15)
今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。
(359-143、2001.11.6)
神様は、心と体、そして宗教と政治が一つになり、「ために生きなさい!」という原理を実践する国だけを祝福されます。しかし、天の権能に対して考えない盲目の政治家たちは、いまだに地上ばかりを見ています。共産主義の指導者たちは、70 年以上の間、神様なしで富を実現しようと努力してきましたが、彼らの国は既に破産してしまっています。同じように、西欧の国家も、景気後退、犯罪、社会的腐敗などで恐ろしい熱病にかかっています。しかし、このような問題は宗教指導者たちが、目を見開いてそれらの真の原因を発見する時までは解けないのです。
(234-225、1992.8.20)
国家の指導者の中には、独裁者が多かったのです。自分個人を中心として家庭を収拾するだけでなく、自分の一族と一国を越えて世界を自分の思いどおりにすべて収拾し、自分の欲望を充当しようとした政治家がたくさんいたのです。
ですから、歴史の背後を見れば、今日この世界のあらゆる国家は、力の政治によって自分の民族を導いてきました。民族を中心とする善とは何だったのかというと力でした。力をもって弱い人たちを占領し、自分の版図圏、所有圏を拡張してきた歴史的事実を私達はよく知っています。
それに反して、今日の私達が見る宗教の歴史は、博愛主義が中心思想です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。ですからそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪の世界の霊に投入して、悪の世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。
(213-7 ~ 8、1991.1.13)
私達は、このような危機が神様を否定したところに由来していることを悟らなければなりません。共産主義は神様の存在を否定したので、滅亡したのです。アメリカもアメリカの精神的遺産を回復しなければ、大きな困難にぶつかるようになるでしょう。また、キリスト教も神様を無視する場合、世界の没落を防ぐ力を失ってしまうのです。哲学と経済、政治と芸術なども、神様の意味を悟ってこそ、その本然の役割を果せるのです。したがって、今日の世界的問題の解決は、「神様」に帰結します。神様の摂理を理解することこそが、私た
ちが直面した問題の解決策を提示してくれるというのです。(262-234 ~ 235、1994.7.26)
今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第二の建国運動を挙国的に展開し、神様を中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、
真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされる神様(注4)を再びお迎えしなければなりません。6000 年間も準備して訪ねてこられた神様が、アメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
真の家庭と世界平和p.544、2000.1.22
3.愛国心と社会奉仕
市民精神、愛国心、社会奉仕などの用語は、家族と友人の水準を越える倫理的行動範囲を規定する。市民が公共の利益のために自発的に奉仕し、近所と地域社会問題の解決のために積極的に参加して責任を負う姿勢をもてば、その社会は各機能がきちんと発揮される。特に「国民の、国民による」政府である民主主義社会において、社会奉仕に対する態度が立派な市民の特性を決定するのである。
国家が危険に直面する時、愛国心は犠牲を発散する。愛国者たちは、必要ならば自分自身を、自分の生命まで国に奉仕し、犠牲にするのを誇らしく思う。聖書の人物エステルは、自分の命を懸けて人々を滅亡から救ってくれと嘆願する。詩篇の詩人はバビロンの川のほとりで嘆き、祖国に対する愛を表現する。
王朝に絶対的忠誠を誓った中世の韓国人の詩一編をここに紹介する。その詩は、神様のみ旨に対する献身の歌として善用しできた統一主義者には、非常になじみのあるものだ。私達は、国家の福祉のために犠牲と献身の模範となり、暴政に対抗して国民を勝利に導いた、現代の愛国者たちが残した記念碑的な語録をここに補充する。そのような神前の英雄の中で、文鮮明先生は、幼い少女と
して韓国独立運動の火をつけ、日本警察に処刑された柳寛順を特別にたたえる。
文鮮明先生は、国家は国民、国土、そして主権の3局面をもつと言及する。多くの経典の章句で、統治権力への服従強要は、政権維持のための秩序と共同体安全のために、独裁者にも忍耐するよう根気よく勧告していることを記述している。しかし、文鮮明先生は、統治者に対する忠誠と尊敬を、神様のみ旨に従って統治するよう統治者に訓戒して案内する預言者の義務に連結させる。
先生は、愛国は家族に対する愛で始まり、人類と宇宙と神様に対する愛で連帯される宇宙的愛のはしごまでが一つの段階と教える(第20 章11.「世界市民」参照)。先生は、このような愛を葛藤、反目ではなく、連帯、提携の中で探すことを強調し、特に父母は、若者たちに愛国心を鼓吹させなければならないと強調する。
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