人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-70

2022年08月14日 16時47分49秒 | 学習


7.父母愛


父母の位相には、最上の高潔性と、極大の利他的情緒が要請される。父母ならば誰でも、子女のために自身の人生自体をすべて犠牲にする。子女の所有の意味は、高揚された人生の経験として道徳的な力を発揮し、無節制な生活様式を清算し、子女のために責任をもつモデルの役割を発揮するということである。そして、子女の養育の必須条件は、犠牲と忍耐と容赦であり、それは、ほぼ神的境地に近い愛を啓発するということである。


父母の愛は、家庭の最上の段階だ。夫婦段階から父母段階に格上げしようとするならば、夫婦は必ず子女をもたなければならない。それはまた、人間完成のための必須義務である。そして、父母の基本的な課題と責任は、子女の教育である。


文鮮明先生はこれを、心情教育と規範教育であると説明される。このような一連の教育には、各段階別に扱われる三つの側面がある。道徳的教育、
連帯的訓練、典型的生活設定がそれである。世界経典の「知恵」では、子女の適切な成長のために愛と配慮の教育を父母の本質的義務とみなす。一方、父母の愛が乱用されれば、子女の教育は失敗する。愛の乱用は、誤った性格を形成するからである。特に父母の手本は、神様に向かう父母自身の特別な信仰と献身の手本とに関連している。それは、子女自身の信仰を発達させられる鍵になるからである。そして、父母は害悪から子女を保護する最大の守護者である。


十代の娘をもった父母ならば、どこの誰でも子女の安全保護を心配し、夜も眠れないでいることを私達は知っている。最後の部分の章句は、子女のための犠牲的な愛、父母の心情に対して記述し、子女が失敗するとき、彼を赦して、彼のための最善とは何かを記述する。






①子女の本質的価値


―宗教経典―


神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)


出産をわざと抑制する人は、神の神聖な形状に害を及ぼすのと同じである。
創世記ラッバー34.14 (ユダヤ教)


見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも、恥をこうむることはない。
詩編127.3 ~ 5(キリスト教)


子供は男性の服である。(注24)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
国民の全未来は、その国民の子供たちに対する態度にかかっている。そして、女性を「つまらない用途」と規定したり、経済と政治の分野で性の競争が、未来世代の創造より価値のある努力だと信じる国民は、死んでいく国民だ。
L.ロン・ハバード生存の科学(サイエントロジー)




―み言選集―


結婚すれば、息子、娘を生まなければなりませんか、生んではいけませんか。生まなくてもよく、生んでもよく、それは好きなようにすればよいと思うかもしれませんが、そのようにはなっていないので、生むことを願うのです。


生まなければなりません。なぜ生まなければならないのですか。生まなければ愛のみ旨を成し遂げられません。愛も東西南北があり、中央の愛があるのですが、ぴたっと中央を中心としてこそ、その根が東西南北の四方に伸びていき、大きな木を支えることができるのです。
(214-12、1991.2.1)


子女がなぜ必要ですか。神様の愛を知り、父母の愛を知って父母に侍ることができ、夫の愛を知って夫に侍ることができ、子女の愛を知って子女に侍ることができなければなりません。子女に命令ばかりするのではなく、侍ることもできなければならず、「ために生きる」ことができなければならないというのです。


そうしてこそ、神様の愛を理解できます。教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子女をどれほど愛したか、知らないのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。自分がまた父母にならなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。すべてそれを年代ごとに分かるようにするための教材としてつくったので、皆さんに息子、娘がいなければ真の父母になれません。
(133-138 ~ 139、1984.7.10)


お母さんとお父さんは、愛なしには一つになれないのです。皆さんは、なぜ愛を好みますか。「好まない」と言っても好まざるを得ないようになっているためです。お母さん、お父さんが互いに愛する力が、個体のための力よりも強いほど、より理想的なのです。お母さん、お父さんを完全に一つに縛りつけるものは愛の綱です。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆がついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして父母と子女の関係は御飯でもお金でも縛りつけられません。ただ、父子関係の愛でのみ縛りつけられます。
(18-329、1967.8.13)


それでは、結婚して何をしようというのですか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子女を生もうというのです。息子、娘を生めなければ、その家庭は家庭のグループにも入れません。息子、娘を生むことができなければ、分かれ始めるのです。息子、娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて、事のついでに離婚したいと思っても、息子さえ生んでおけば、その夫もどうすることもできません。否応なく一緒に暮らさざるを得ないのです。ですから、家庭を築くにおいては子女がいなければなりません。
(23-25、1969.5.11)


自分の息子、娘を自分の夫より、妻よりもっと愛さなければなりません。
(130-165、1984.1.8)
夫が良いか、息子、娘が良いかというとき、夫よりも息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れられますが、息子、娘とは別れられません。族譜から抜いたとしても、血筋を受け継いだので、分けることができないのです。夫と妻は離婚して別れれば忘れることもできますが、息子、娘は、時間が流れれば流れるほど、もっと慕わしく思い、会いたいと思うようになります。このような事実は、子女をもってみた人なら、誰もがよく分かるでしょう。
(18-112、1967.5.28)


父母が子女と向き合うとき、その愛する子女が自分よりも劣っていることを願う父母はいません。ある美男美女が結婚して最初の子供を生んだとき、その赤ん坊の顔が父母の顔と比べて何でもなく、ただそれなりの顔だとしても、その赤ん坊の顔を見て、「あなたの子供は、あなたよりどれほど良いか分からないほど立派に生まれた」と称賛すれば称賛するほど、その父母は、口がにこっとなるのです。それは間違いありません。子供が立派だと称賛するのに、「父親と母親をさておいてそのように言えるのか」と思う父母はいません。
(77-102、1975.4.1)


私が母から聞いた話があります。私の母は(注25)子供をたくさん生みました。10 の峠を少し越えて三つの峠を越えたので、13 人を生みました。13 人を生んだので、イエスの一派をすべて満たしたことになります。12 弟子とイエスまで合わせれば13 人になるのです。


そのように13 人生んだのですが、母が言ったことがあります。「世の中に楽しみといってもほかの楽しみはありません。赤ん坊を生んでお乳を飲ませて育てるとき、それ以上の楽しみはありませ
ん。老いて子供が生めないので、すべてがおもしろくなくてつまらない」、このように語ったのです。
(44-200、1971.5.7)


霊界では、息子、娘を生むことができません。この地上でしか、息子、娘を生むことはできないのです。そこでは息子、娘を生めません。天国の民を生むことができる所は、この地上しかないのです。ですから、この地上で神様の真の愛を中心として息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(218-200、1991.7.28)






②堅実と愛で子女を養育


―宗教経典―


父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エぺソの信徒への手紙6.4 (キリスト教)


若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言22.6 (キリスト教)


鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言13.24 (キリスト教)


魚は新鮮なときに巻きつけなければならない。(注26)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)


あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、私達には、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に
服従して生きるのが当然ではないでしょうか。


肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私達の益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ人への手紙12.7 ~ 11(キリスト教)


善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木技を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩
を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。……


善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善霊誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念して、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経471 (仏教)


子供が天性に従ってあらゆる過ちを犯すとき、父は彼を訓戒し冷遇するだろう。しかし、彼は再び彼を懐に抱くものである。
アーディ・グラント、ソーラトM.5 (シーク教)


彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」


しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15.20 ~ 24(キリスト教)


娘は父親にとって、人知れぬ不眠のもと。娘への心配で彼は夜も眠れない。若いときには、婚期を逃しはしないか、結婚すればしたで、夫に嫌われはしないかと。またおとめのときには、父の家にいるうちに、辱めを受けて、子供を宿しはしないかと。夫を持てば持ったで、過ちを犯しはしないか、結婚してからは、子ができないのではないかと。
シラ書〔集会の書〕42.9 ~ 10(キリスト教)






―み言選集―


世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。
(36-73、1970.11.15)


父母がむち打って、「こいつ、勉強しなさい! 出ていって僕になるぞ、こいつ」と言いながら叱責するのは、すべて子女のためにそのようにするのです。そして、その父母はその子女のために泣きながら祈祷し、胸が痛んで夜眠れません。これが真です。
(102-253 ~ 254、1979.1.14)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてすべて返してもらおう」という心をもつ父母は、真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛して、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えてあげようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救い、救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)


父母は、自分が最も好きなものを先に与えたいと思うのです。最も良いものを与えたいと思うのですが、与えることができないのは、それを管理できないからです。それを与えれば、それをもらった人が被害を受けます。ぎらぎらと鋭く光る研ぎ澄まされた刃を与えたいと思っても、間違って与えれば、それ自体が滅び、家が滅び、全体が滅びます。ですから与えないのです。
(29-108、1970.2.25)


韓国の格言の中に、「愛する人にはむちを与え、憎む人には御飯を与えよ」という言葉があります。一理がある言葉です。なぜかというと、正しい伝統を受け継がせるためです。父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛に涙を流せる人にならなければなりません。
(95-81、1977.10.23)


父母が子に対して憤って、手でたたけばどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのです。そうするのではなく、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないで、いつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ、たたけば効果が少ないというのです。
(41-333、1971.2.18)


皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私達のお父さんとお母さんは、絶対にけんかをしない。私達のお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言えるようにならなければなりません。それが教育です。
(90-123 ~ 124、1976.10.21)


父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。
(23-184、1969.5.18)
愛の本質とは何ですか。人のために生きようということです。自分の自主的な本質を中心として人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこかも来たのですか。天から来たのです。神様は、絶対的愛の主体なので、与えようとすることが愛の本質です。


このように見るとき、父母の愛がその本質に最も近いところにあるので、子女に対して常に与えようとするのです。その子女が受け取らなくても、いくら強盗の一味だとしても、父母が昔愛したよりもっと大きな愛をもって現れて愛すれば、悔い改めて戻ってくることができます。


しかし、「こいつ、私がお前をこれほど愛したのに、寡婦の身で、老いて腰が曲がっても愛したのに、その愛が分からないのか。こいつ!」と言ってキセルで額をたたいたとすれば、そのように3回しただけでも、その子女は荷物をまとめるでしょう。


父母が涙を流し、「私の愛が足らないからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と言いながら、その子女の骨髄が溶けるほど涙を流して、より大きな愛をもって子女の前に立つようになるとき、その子女はどうなりますか。戻ってくるのです。より大きな愛には、弱い愛をすべて消化、統合させることができる主管性があるのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)


霊界に行けば、法の中で最も恐ろしい法とは何でしょうか。子女を死の場に立てた罪を裁く法以上に恐ろしいものはないことを知らなければなりません。


なぜそうなのかというのです。神様もできないことをしたのです。ですから、赦す法がありません。赦すことができないのです。神様もできることであれば、赦すことができるのですが、これは神様もできないことなので、神様御自身も赦すことができないという結論が出てきます。ですから、最も恐ろしい罪です。
これは赦されないことを知らなければなりません。その代わりに、子女のために死のうという父母は神様が擁護してくれます。「私と同じだ!」と言われます。子女のために死ぬ父母は、天国に行けることを知らなければなりません。
(93-335、1977.6.17)




③先祖の伝統による子女の教育


―宗教経典―


主は言われた。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~ 19(キリスト教)


(ルクマーンは言った)「むすこよ、礼拝の務めを守り、善いことを命じ、悪いことを禁じ、おまえに降りかかることに耐え忍べ。、まことにそれは、ものごとを決定し成し遂げる」。
クルアーン31.17(イスラーム)




ある人が子供に遺産として譲り渡すべきものは学びだ。他のものは本当の財物ではない。
ナーラディヤール134 (ジャイナ教)


あなた達はこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ……。
申命記11.18 ~ 19(キリスト教)


わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。
箴言6.20 ~ 23 (キリスト教)


子供にあげると約束したことを破ってはいけない。それは子供にうそを教えることだからである。
タルムード、スッカー46b (ユダヤ教)
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。
テモテヘの手紙二1.5(キリスト教)




―み言選集―


父母が息子、娘を呼んでおいて、「お前はこのような人になり、またこのようなことをしなさい」と教えたとしても、「お前は神様を知っている人になりなさい」と教えることには及びません。
(11-308、1962.3.5)


皆さん、息子、娘にこのように生きなければならないという伝統を残さなければなりません。
(71-19、1974.3.24)


家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。


父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師になり、心情教育、規範教育を正しくさせるようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままを学んで似るようになります。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら、愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。


今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。


これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもてなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わり得ません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)


父は子女と、どのように向き合わなければならないのでしょうか。友人の中の友人にならなければなりません。そうなれば、自分の友人と遊んでいても、父が現れると、友人をおいて父のところに駆け寄ってくるのです。そして、師の中の師にならなければなりません。心情においては、いつでも支柱、すなわち中心にならなければなりません。
(57-282 ~ 283、1972.6.4)


父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。


子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。
(31-268、1970.6.4)


いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。




子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそ、それが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。
(36-73、1970.11.15)


皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。


そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。
(31-168、1970.5.24)


この世で、人間として一生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。(101-201 ~ 202、1978.10.30)
8.祖父母愛


祖父母は、家族に知恵、経験、孫と孫娘に対する歓喜の愛を施す。3世代が一つ屋根の下で暮らす伝統的な文化では、子女は祖父母を栄誉とし、日常生活の一部分として病弱な状態にある彼らを世話する。子女は、その過程で愛と尊敬に対する教訓を学ぶ。祖父母は、道徳的な碇(いかり)である。父母が薬物と犯罪で腐敗し、子女を世話するには不適格な相対になる事例があまりにも多い。その時、祖父母が父母の役割を果たすために代役をする。文鮮明先生は、利己心に寄与して道徳を墜落させながら、都市化し、産業化した社会で3世代家族が消滅することを批判している。


多くの伝統において、父母と祖父母に与えられた栄誉は、献身の垂直的連鎖にある先祖と神様に捧げる栄誉と連結されている。このような面で、文鮮明先生は、祖父母を家庭における神様の代身者だと表現する。彼らに栄誉をもたらすことは、すべての人類の最も偉大な祖父母、神様に栄光を捧げる道である。
―宗教経典―


白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。私は主である。
レビ記19.32 (キリスト教)


孫に対する祖父母の感情は、このように表現され得る。「私達の子供たちは、私達にとって愛らしい。しかし、孫たちが生まれたとき、彼らは私達の子供たちよりもっと愛らしく見える」。あなたは、その祖母が彼女の孫たちに対する有り難さを表現しようと、あまりにおおげさだと言うかもしれない。


それは、彼女たちが幼い少女だったとき、彼女たちに形成された希望を思い起こさせる。その希望とは、彼女たちが生きていきながら、ある日祖母になるだろうということである。そして、時になって祖母になれば、彼女たちの有り難さを表現しようと、まれな任務を遂行する。
ヘンリー・オールド・コヨーテ(アメリカ先住民の宗教)
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)


父母は我が家の神己が神と心つくしていつけ人の子(父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。)
本居宣長玉鉾百首(神道)


子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず、罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
シラ書〔集会の書〕3.12 ~ 14(キリスト教)


父が私を呼ぶために人を送られた。私は彼の臨終を見た。私は彼を湾曲した美しい渓谷に埋めた。私は世の中のどこよりもそこを好む。自分の父の墓を好まない人は獣にも劣る。
ネズポス族の伝承(アメリカ先住民の宗教)




―み言選集―


皆さんは、子女の位置にいるのですが、どのような運勢を受けるのでしょうか。祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を受け継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのですか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母とは何でしょうか。現在を代表するのです。また、その次に、子女は、未来を象徴します。


このようにすべて入っています。そこには東西も入っていて、南北も入っています。すべて入っているのです。全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、すべてがこの真の愛を中心としています。皆さんの家庭を考えるとき、このことを考えなければなりません。


ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬することは、過去をすべて受け継いで過去の世界を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛すること、子女を大切に思うことは未来を学ぶことです。


家庭の中にこの三者がいれば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの人がいなくても同じです。
(162-140 ~ 41、1987.4.5)


おじいさん、おばあさん、舅、姑、夫の姉妹、孫まで一緒に暮らそうというのです。蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。父母だけを愛するのではなく、おじいさんを愛することができてこそ、神様を愛するのです。父母の上におじいさんをおいて愛することができてこそ、神様を愛するというのです。
(128-18、1983.5.29)


祖父母は、霊界の神様を身代わりしています。祖父母の位置は、天の国です。家庭で最も年を取った人がおじいさんで、天の国の位置です。天の国を開くことができる代表的実体存在です。ですから、神様の代身者として侍らなければなりません。天の国の王を代表しているので、神様の代わりにその位置に迎えなければならないのです。これが家庭の伝統的教訓です。これが創造理想的モデルです。(251-219、1993.10.17)


夫婦でけんかすれば、おじいさんとおばあさんが愛で、「おいおい、やめなさい」と、また息子、娘がけんか、孫がけんかすれば、「おいおい、やめなさい」、このように愛をもって僕の役割をするのです。すべて「あなたが上だ。あなたが立派だ」と言いながらために生きてあげます。愛の僕の役割を最大にする方がおじいさんだということを知らなければなりません。


夫も妻が「ええんええん」と泣けば、「お前、泣くのはやめなさい。私はすべて分かっている。あなたが願うことはすべてしてあげよう」と言うのです。宇宙で最も偉大で、驚くべき1番の権勢をもった人とはどのような人かというと、愛の僕の道を行った人です。
(135-121 ~ 122、1985.10.4)
美しい嫁が白髪混じりのおばあさんとおじいさんに、愛の心をもって自分の愛する夫よりもっと良いものを買ってあげようとすれば、どれほど美しく、どれほど愛らしいでしょうか。美しい嫁が、自分の愛する夫に何かを買ってあげる以上の喜びの心で、しわしわのおばあさんとおじいさんに買ってあげるその場面は、どれほど素晴らしいかというのです。そうすれば、おじいさんとおばあさんが隠しておいたすべてのもの、愛に関するすべてのものをくれるというのです。


世の中で最も年を取ったおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、そのおじいさんのために生きる愛を、自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学べば、神様の秘密倉庫にあるすべての愛の宝を受けられます。どれほど素晴らしいことでしょうか。
(107-329、1980.6.8)


おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫嫁たちはみな見るのを嫌います(注27)。なぜですか。早く死になさいということです。しかし、愛をもった孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日は、私の目から雨のような涙が流れるなあ。ああ、千年、万年一緒にいればよいのに」と思うのです。
(184-270、1989.1.1)


年を取った人たちは必要ないといっては、将来どのようになりますか。年を取った人をすべて無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人を嫌う人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り払う人になるのです。
(21-120、1968.11.17)






第20章 社会


1.社会の土台としての家庭


社会は、各家庭が細胞の役割をする一つの有機体である。各細胞である家庭が健康であってこそ、その細胞が集まった社会も健康になる。反対に家族が破壊されれば、社会も同じように混乱してしまわざるを得ない。最近、家族解体の拡張は、国家の未来を憂慮する心配事である。


しかし、「家庭の価値」を家庭中心に解釈することは誤りである。「私の家庭は私の聖体である」という態度は、また一つの利己主義にならざるを得ない。「愛の修練所」(第19 章1.「人生の基本形態」参照)である家庭で学ぶ教訓は、すべての水準の社会組織に適用されなければならない。それゆえ、儒教の倫理は、孝行の規範を社会奉仕のための基礎倫理であると見る。


すなわち、家庭で父母に侍って生きることが、国に奉仕する訓練になるのである。同じように、
兄弟、父母、そして子女に対する愛が、私達と同年配、私達の父母のような世代、私達の子女と同じ世代の隣人たちを思う愛に拡張されなければならない。これによって、各家庭での愛の関係が、人類大家族を包括するように拡張されるのである。


①健康な家庭が堅固な国家を形成する


―宗教経典―


人の道はいたって手近かなところにあるのに、人はこれを高遠なところにさがし求めている。また、人のなすべき事はきわめて容易いことなのに、人はこれをわざわざ難しいものとして考えている。実は各人がみな自分の親を親として尊び、長者を長者として敬いさえすれば、天下はおのずから泰平に治まるのだ。
孟子Ⅳ.A.11 (儒教)


一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ、義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド、ギーター1.40 ~ 42 (ヒンドゥー教)


本然の家庭の姿が社会の基礎である。その家庭は、堅固であり、一夫一婦制の家庭である。一夫一婦制は神が設定されたのであり、キリスト教で神聖視される法である。この家庭の中では、いくつかの世代が共に暮らし、知恵が成長するように互いに助け、他の社会的欲求を個人の権利と一致させるように協力してくれる。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)


歴史が証明するように、国の根幹である道徳秩序が弱化し、国の生命の源泉である結婚と家庭構造が悪習に侵害されるとき、その国の反映と国民の幸福は、これ以上保障され得ない。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ―結婚の尊厳―(キリスト教)




―み言選集―


人類が一つになるための最も堅固な基礎は、正に真の家庭理想から始まる普遍的で核心的な真の愛であることが明確になりました。
(330-252、2000.8.18)


家庭教育は、今後その国が福を受けられるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。
(31-243、1970.6.4)


現代社会において、青少年問題が大韓民国だけでなく、世界的に物議を醸しています。(注1)それは、父母をきちんともつことができず、兄弟をきちんともつことができないところから、男女関係において欠如した諸事情が原因となり、そのような結果をもたらしたのです。このような事実を見てみるとき、このあらゆる病弊を是正できる基準となるものとは何かというと、これはやはり家庭なのです。(23-13、1969.5.11)


今日の青少年問題やあらゆる社会の問題の内容を掘り下げて調べてみると、その由来がすべてそこから始まっているのです。だからといって彼らに父母がいないわけではありません。父母がいることはいるのですが、父母の心が息子、娘の心の深い所にないというのです。言い換えれば、父母の情が子女たちの骨髄に深く固められていないのです。ですから、そこから父母と子女の間に隙間が生じるのです。
(25-60、1969.9.28)


世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところでは、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。道徳的退廃こそ人類を苦痛と絶望のどん底に追い込む原罪なのです。未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。(288-140、1997.11.26)
アメリカは滅びるようになっています。愛の問題が混沌としたローマは、戦うことなく、それ自体の腐敗によって滅びました。同じことです。アメリカも滅んでいます。長続きしません。今最も混乱しています。文明国であるアメリカが性に対してめちゃくちゃであり、発展途上国でもめちゃくちゃです。その秩序を立てることができない日には、人頻の希望の世界、幸福の世界、理想の世界はありません。
(118-296、1982.6.20)






②家庭の徳目は社会の徳目の土台


―宗教経典―


自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。


詩経に〔文王の徳をほめたたえて〕「まず夫人をみちびき正しくし、ひいては兄弟を、〔さらには民草を〕、そして国家(くに)をば安らかに」とありますが、つまり、これは身近なものに対するその心を、そのまま他人にも移せよというたまでのことです。だから、このなさけ心をおし広めてさえゆけば、広い天下でも治めてゆけますが、もしも〔反対に〕この心をおし広めなければ、身近な自分の妻子でさえも治めてゆけません。むかしの聖人が今の人に優れて偉大だったのは、外でもありません。ただ、よくこの心をおし広めたからなのです。孟子IA.7(儒教)
若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
テモテの手紙一5.1 ~ 2(キリスト教)


老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)


親縁の発生する源泉として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族を好く収め和合させて宗子に仕えるのであり、宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って、宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈り、それ故に人民を愛して、人民が忠良であることを求め、それ故に刑罰が公正であることに努め、それ故に人民みな安心して産業にいそしみ、それ故に国の財物が殖え、政治の費用も充分であり、それ故に万人の願うところを多く実現することができ、それ故に万人みな礼に従い、風俗が乱れず、かくてこそ万人みな心安らかに身は楽しい。
礼記、大伝(儒教)


孝は天地の不変の法則、秩序の常道として、聖人によって明示したことから、民人はこの天地不変の常道に則り、孝道を以て行為の準則として、人間の本務を全うしなければならない。だから、聖人が人々を教える方法は、天に輝く日月が万物を明らかに照らすという、不変の法則にならい、地の高下や土地の肥瘠の宜しきに従って、万物を培ひ育てる。


この故に聖人は広く天下の人々に対してねんごろに教えを垂れるのである。恒久の秩序や法則に従って、広く天下の人々を教え導いてきた。それ故に、聖人の教えは、ことさら厳粛にしなくても自然に成り、聖人によって示された政治は、ことさら厳粛にしなくても自然に治まる。
孝経7(儒教)


―み言選集―


人間は、自分の父母を愛するように隣人の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣人のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣人の息子、娘を愛さなければなりません! それで、上下関係が展開し、左右関係が展開し、前後関係がそこで展開するのです。それが展開してこそ、この縦的な心情の基準が定着し、天道が生じるのです。
(70-152、1974.2.9)


出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私達の標語は、「父母の心情、僕の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。
(17-338 ~ 339、1967.4.30)




私の父母は先生の代身であり、友人の代身であり、あらゆる愛を下さる主体の代身です。それで人類を身代わりすることができるのです。それはなぜでしょうか。人類の愛を受けるためです。ですから、父母に孝行しなければならない、ということは歴史的な結論をもった理論です。
(105-108、1979.9.30)


真の父母は、孝子になってから忠臣になってはいけないと言いません。真の父母は、その孝子に家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たして世界のために生きなければならず、世界を犠牲にしてでも天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を求めていかなければならないと、教えてあげなければならないのです。


そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも、国を救って愛国者になるのです。聖人というのは、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして天の国と地、地上天国と天上天国を成し遂げなけれ
ばならないのです。
(287-25、1997.8.10)






2.社会の道徳的基盤


良い社会は、霊的道徳的基盤の上に建設される。今日、科学的で物質的な時代に文鮮明先生は、現代の多くの霊的指導者らと共に、道徳性と霊的価値がますます墜落しているのは、社会的平和が不安に近づく脅威だと警告される。


今、私達の社会で軽視されている基本的なことは、以下の内容である。第1に、正しい市民を形成する道徳と徳行である。第2に、教育、特に若者たちに目的意識と方向意識を提示して、セックスと麻薬による快楽的な生活様式を遠ざけようとする人格教育である。第3に、宗教である。宗教は和解と平和のメッセージを通して、戦争や派閥政治、人の自己利益の極大化の態度を鎮静させることができる。そして宗教は、神様に祈祷をすることによって、国家のために神様の祝福を取りもつことができる。


特に、アメリカで建国の先駆者たちは、アメリカの自由を確保し、繁栄を維持するために道徳と宗教の役割を明確にした。アメリカでの長い牧会活動の過程で、文鮮明先生はしばしばアメリカが神様に帰ること、神様のみ旨を尊重するこどを勧告した。






①道徳の基盤


―宗教経典―


地上は激情を抑制し、正義の実践に従い、欲望と貪欲と怒りに汚される事のない者達の誠実さによって支えられている。
ヴィシュヌ・プラーナ3.12(ヒンドゥー教)


彼らの考えと行動の根本が敬虔さと信仰心、真理と正義に根ざしていれば、どの個人も損害を受けることはなく、どの国家も繁栄と成功が拒否されないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ説教21(シーア派イスラーム)


世界は三つの上に立っている。法、天に対する敬拝、人に対する好意。
ミシュナ、アヴォート1.2 (ユダヤ教)


武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んでほんとうに服従する。
孟子Ⅱ.A.3 (儒教)


身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)


またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。
クルアーン3.104 (イスラーム)




『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)16


私達には、道徳と宗教に制御されていない熱情と闘うことのできる力で武装した政府がない。私達の憲法は、ただ道徳的で宗教的な国民のためにつくられた。それは、異なる国民の政府にはとても不適切なものである。
ジョン・アダムス


政治的繁栄に導くあらゆる資質と慣習の中で、宗教と道徳はなくてはならない支柱となる。人間の幸福のためのこの巨大な柱、人間と市民の義務を最も確固として支えるこの支柱を崩そうとする人は、いくら愛国の功徳を叫んでも、無駄に終わるだろう。
ジョージ・ワシントン大統領離任辞




結局、普遍的な諸権利はどこから始まるのか。小さな所から、最も近い所から、あまりに近く、あまりに小さいため、それらは地球のどの地図にも見ることはできない。しかし、それらは個々人の世界、すなわち隣人、学校や大学、工場、農場、または事務室にある。そのような所は、すべての男性と女性、子供たちが、差別がない平等な正義、平等な社会、平等な尊厳を追求する場所である。


それらの諸権利がそこで意味をもたなければ、それらは、どこであっても全く意味がないだろう。最も近くでその諸権利を支えようとする市民の行動に関心をもたずに、私達がより大きな世界で進歩を求めることは無駄なことだろう。
エレノア・ルーズベルト(注2)




―み言選集―


聖書には聖霊の九つの実に関する記録があります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5・22)とあります。この聖霊の九つ
の性稟、これは神様が主張し、神様が建設し、神様が立てようとされるその国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念ですが、これを皆さんは心ど体にしみるように感じてみたことがありますか。(4-112、1958.3.16)


国に忠誠を尽くす忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないので
あって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩になるしかありません。
(34-19 ~ 20、1970.8.29)
平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の開発にかかっています。世界平和や和平した国も、その構成員個々人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善の人々によって応用されるとき、これが人類の生活向上のために価値あるものとして使われるのです。


歴史を通しても聖賢たちや偉大な師たちが、平和で幸福な世界のために家庭、社会、国家を指導することに彼ら自身を捧げてきました。私達は21 世紀に挑戦するため、道徳的に霊的に完璧な指導者をはぐくめる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要とします。
(271-74、1995.8.22)


共義主義は、真の愛を中心とした普遍的な倫理道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理道徳を普遍的に実践する道義社会を指向する理想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提にしています。
真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身の調和、統一を成した人になります。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、自律的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界がまさしく理想世界です。
(271-78、1995.8.22)






②教育の基盤


―宗教経典―


教育の視察中だったラビ・アシとアミは一つの村に入り、その村の守護者に会おうと要請した。村の議員たちが、自分たちが守護者だと言って現れると、ラビが言った。「この人たちは、守護者どころか、かえって村を破壊する者たちではないですか! 村の守護者とは、青年たちの師であり、老人たちの指導者です。詩編にもあります。『主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。』(詩編127.1)」。
哀歌ラッバー(ユダヤ教)


先生が衛の国に行かれたとき、冉有(ぜんゆう)が御者であった。先生が「〔衛の人口は〕多いね。」といわれたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「富ませよう。」といわれた。「富ませたら、さら
に何をしたものでしょう。」というと、「教育しよう。」といわれた。論語13.9 (儒教)
まるで毒のように個人と国民と国家を壊し、多くの人たちの心を混乱させる悪の根源と根は、正に真理に対する無知、さらには、真理に対して軽蔑し、徐々にこれから遠くなることである。ゆえに正しさと健全さにより、悪で誤った媒体に立ち向かう必要がある。悪習を広げ、誤った考えを誘発する放送、映画、テレビプログラムに立ち向かい、真理を死守し、健全な道徳性を守るためのプログラムがつくられなければならない。
教皇ヨハネ23 世アド・ペトリ・カテドラム(キリスト教)




―み言選集―


民主主義は、世俗的人本主義をつくり、神様を追放しました。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放してしまいました。フリーセックスとは何ですか。この亡国のサタンの血、地獄の沼に丸ごと落ちていくことを知らずにいるのです。これを防御しなければならない使命が統一教会にあるのです。
(193-306、1989.10.8)


未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいます。




すべての家庭の悩みが解決されない社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするのですか。人類は今、家庭の価値を守護し、高揚させることができる教えとその方法を探し出さなければならない時点に来たのです。冷戦以降の時代は、正にこの家庭の価値を守護し、高揚させなければならない時代です。
(288-140、1997.11.26)






③神様と宗教の基盤


―宗教経典―


結局は、天のための集会が開かれる。そして、これ以上天の意志に反する集会は開くことができないだろう。
ミシュナ、アヴォート4.14(ユダヤ教)


主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
詩編127.1(キリスト教)


私達に命を下さった神が自由を下さった。それでは、私達がその唯一で堅固な基礎、つまりこの自由が神の贈り物だと考える国民の確信を除去するとき、一つの国の自由が保障されると見ることができるだろうか。自由は、神の怒りなく侵され得るものてはない。実に神が正義だということ、そしてその方の正義は、永遠に眠りにつかないことを考えるとき、祖国を憂慮し私は戦々恐々とする。
トーマス・ジェファーソン


アダムの子孫は、二つの部類に分類されなければならない。第一は、神の王国に属する者たちであり、第二は、世の中の王国に属する者たちだ。……前者は敬虔さを重視し、後者は外的な平和を成し、悪の行為を防止しようとする。世の中は、このうちのどちらか一つでもなければ完全ではない。
マルチン・ルター世俗の権力(キリスト教)


この誤った人間の氏族は、政府と社会の政治機構を通して、その環境を完全にしようと夢見る。しかし、外的な環境が完全になり得るのは、ただ内的霊魂の完全によってである。「あなたは中にいるものであり、あなたの外にあるものを享受しなければならない」、そのいかなる政治機構も、あなたの存在の法則からあなたを救うことはできない。
シュリ・オーロビンド(ヒンドゥー教)
この国の法律の根本的な基礎は、シナイ山にいるモーセに与えられた。私達の権利規制の根本的な基礎は、私達が出エジプトと使徒マタイ、イザヤと使徒パウロから得たその教えから来た。私は今日、私達がそれを十分に強調していないと考える。もし私達が正当で、根本的な道徳的背景を確保しなければ、私達は結局、国家以外には誰のための権利も信じない全体主義的な国として終わってしまうだろう。
ハリー・S・トルーマン28


主なる神が自ら立てられたこの教会を、人間の生と法、青年教育、国内政治から排除させることは、重大で致命的な過誤である。宗教が追放された国は、きちんと規制されないのである。
教皇レオ13 世イムモルターレ・デイ(キリスト教)




―み言選集―


私達は、失われた本然の園、失われたお父様の理念を探し出して、万物を主管し、守るべき者であり、万物と共に愛の因縁を結び、それを束ねてお父様のみ前に帰し奉るべき者であり、お父様が天地を創造された御心情を通して、お父様の愛の花を咲かせ、結んでさしあげるべき全体的な責任を負っているということを知っています。


そうですので、一歩も踏み出せないまま、深い眠りの中に入っている、すべての世界人類を目覚めさせてくださって、新しい光明の朝を迎え、天を見つめ、再び目覚めることのできる群れとなるよう許諾してくださいますことを、愛するお父様、
切にお願いいたします。(注3)
(5-277、1959.2.15)


今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。
(359-143、2001.11.6)
神様は、心と体、そして宗教と政治が一つになり、「ために生きなさい!」という原理を実践する国だけを祝福されます。しかし、天の権能に対して考えない盲目の政治家たちは、いまだに地上ばかりを見ています。共産主義の指導者たちは、70 年以上の間、神様なしで富を実現しようと努力してきましたが、彼らの国は既に破産してしまっています。同じように、西欧の国家も、景気後退、犯罪、社会的腐敗などで恐ろしい熱病にかかっています。しかし、このような問題は宗教指導者たちが、目を見開いてそれらの真の原因を発見する時までは解けないのです。
(234-225、1992.8.20)


国家の指導者の中には、独裁者が多かったのです。自分個人を中心として家庭を収拾するだけでなく、自分の一族と一国を越えて世界を自分の思いどおりにすべて収拾し、自分の欲望を充当しようとした政治家がたくさんいたのです。


ですから、歴史の背後を見れば、今日この世界のあらゆる国家は、力の政治によって自分の民族を導いてきました。民族を中心とする善とは何だったのかというと力でした。力をもって弱い人たちを占領し、自分の版図圏、所有圏を拡張してきた歴史的事実を私達はよく知っています。


それに反して、今日の私達が見る宗教の歴史は、博愛主義が中心思想です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。ですからそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪の世界の霊に投入して、悪の世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。
(213-7 ~ 8、1991.1.13)


私達は、このような危機が神様を否定したところに由来していることを悟らなければなりません。共産主義は神様の存在を否定したので、滅亡したのです。アメリカもアメリカの精神的遺産を回復しなければ、大きな困難にぶつかるようになるでしょう。また、キリスト教も神様を無視する場合、世界の没落を防ぐ力を失ってしまうのです。哲学と経済、政治と芸術なども、神様の意味を悟ってこそ、その本然の役割を果せるのです。したがって、今日の世界的問題の解決は、「神様」に帰結します。神様の摂理を理解することこそが、私た
ちが直面した問題の解決策を提示してくれるというのです。(262-234 ~ 235、1994.7.26)


今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第二の建国運動を挙国的に展開し、神様を中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、
真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされる神様(注4)を再びお迎えしなければなりません。6000 年間も準備して訪ねてこられた神様が、アメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
真の家庭と世界平和p.544、2000.1.22
3.愛国心と社会奉仕


市民精神、愛国心、社会奉仕などの用語は、家族と友人の水準を越える倫理的行動範囲を規定する。市民が公共の利益のために自発的に奉仕し、近所と地域社会問題の解決のために積極的に参加して責任を負う姿勢をもてば、その社会は各機能がきちんと発揮される。特に「国民の、国民による」政府である民主主義社会において、社会奉仕に対する態度が立派な市民の特性を決定するのである。


国家が危険に直面する時、愛国心は犠牲を発散する。愛国者たちは、必要ならば自分自身を、自分の生命まで国に奉仕し、犠牲にするのを誇らしく思う。聖書の人物エステルは、自分の命を懸けて人々を滅亡から救ってくれと嘆願する。詩篇の詩人はバビロンの川のほとりで嘆き、祖国に対する愛を表現する。


王朝に絶対的忠誠を誓った中世の韓国人の詩一編をここに紹介する。その詩は、神様のみ旨に対する献身の歌として善用しできた統一主義者には、非常になじみのあるものだ。私達は、国家の福祉のために犠牲と献身の模範となり、暴政に対抗して国民を勝利に導いた、現代の愛国者たちが残した記念碑的な語録をここに補充する。そのような神前の英雄の中で、文鮮明先生は、幼い少女と
して韓国独立運動の火をつけ、日本警察に処刑された柳寛順を特別にたたえる。


文鮮明先生は、国家は国民、国土、そして主権の3局面をもつと言及する。多くの経典の章句で、統治権力への服従強要は、政権維持のための秩序と共同体安全のために、独裁者にも忍耐するよう根気よく勧告していることを記述している。しかし、文鮮明先生は、統治者に対する忠誠と尊敬を、神様のみ旨に従って統治するよう統治者に訓戒して案内する預言者の義務に連結させる。


先生は、愛国は家族に対する愛で始まり、人類と宇宙と神様に対する愛で連帯される宇宙的愛のはしごまでが一つの段階と教える(第20 章11.「世界市民」参照)。先生は、このような愛を葛藤、反目ではなく、連帯、提携の中で探すことを強調し、特に父母は、若者たちに愛国心を鼓吹させなければならないと強調する。

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世界経典-69

2022年08月14日 16時44分21秒 | 学習


②男性と女性を完全にする結婚


―宗教経典―


主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる、神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。


「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(注12)
創世記2.18 ~ 24(キリスト教)


結婚しない者は、喜びも、祝福も、善の行いも享受できない。
タルムード、イェヴァモート62b (ユダヤ教)


天地(あめつち)の初めには自我(アートマン)がただ独り存在した。彼は願を立てた。「願わくば我に妻ありて、子を生み、財を獲、祭祀を行なわんことを」と。およそ人の願望といえば以上で尽きているのであって、これ以上のことはたとえ願っても得られるものではない。……


かれ自我はこれらの願望の中の一つでも達成されぬ限りは満ち足りない思いをする。しかしながら、彼は快々(おうおう)として楽しまなかった。この故に、人は孤独では楽しめないのである。彼は第二者(相手)を求めた。彼はちょうど男女が相擁した程の大きさであった。彼はこの自体を二分した。ここに夫と妻とが成った。それ故に、ヤージナヴァルキャは「我自身は半片(かたわれ)にすぎぬようである」といっている。されば、この空虚は婦人によってのみ満たされ得る。彼(自我)はこの婦人を抱いた。そして、人類が発生した。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.17、1.4.3(ヒンドゥー教)


義なる者たちは、アブラハムとサラのように、彼らが男女一緒にいるときに栄えることができる。
ゾハール1.82a (ユダヤ教)


男は妻と自身と子供があってそれだけのものとなる(完全な男となる)。それゆえブラーフマナは言う。夫であるもの、それは妻である(夫と妻は一体である)と言われている、と。
マヌ法典9.45(ヒンドゥー教)


妻がいない人はまだ成人ではない。
ベンジャミン・フランクリンプーア・リチャードの暦




一み言選集―


結婚とは何かというと、半分にしかならない男性と女性が完成するためにするものです。その完成のための愛は、自分が自分のために生まれたというそのような愛ではありません。そのような愛は、流れていく愛であり、偽りの愛です。自分が自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたと考え、その相手のために投入して忘れ、投入して忘れるところから真の愛は始まるのです。
(262-67 ~邱、1994.7.23)


宇宙の存在秩序は、ために生きることを根本としています。真の理想、真の愛、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の希望です。ですから、理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。


宇宙を見れば、そのどの存在物も自分だけのために存在するものは一つもありません。動物界は、植物界のために、鉱物界と植物界は、動物界のために、また、このすべてを合わせた万物は、人間のために存在します。それでは、人間は、誰のために存在するのですか。人間は、神様のために存在するのです。その神様はまた、万物のためにそれらが存在するようにされ、成長、発展するようにされます。


このように「ために生きる」ことが存在世界の基本秩序なので、誰もがために生きる存在として生まれたのであって、自分だけのために生まれたのではありません。男性が生まれたのは、男性のためではなく、女性のために生まれたのです。女性の場合も同じです。いくら美人でも、女性が生まれた本来の意味は、女性のためではなく、男性のために生まれたのです。男女がもつ素性と感情も、すべて相対のためのものであって、自分のためのものではありません。


夫婦の場合、結婚しながら、「あ! 私が生まれたのもあなたのためであり、生きるのもあなたのためであり、死ぬのもあなたのため」と思えば、これを理想的夫婦、幸福な夫婦というのですが、存在世界の基本秩序から見て、これはごく当然のことだといえるでしょう。そこから真の愛は始まります。このように、真は「ために生きる」ところから起源を求めなければなりません。
(135-234、1985.12.11)


今日の若い男女は、今後立派な人になれば、良い家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。ですから、夫は夫で、妻は妻で、男性は男性で、女性は女性で立派な相手を要求します。それは、なぜですか。自分が不足なことを感じるからです。このようなことを感じる一方、立派な息子、娘を願うのです。


相手を通して自分が不足な面を補充し、より良くなれればどれほど良いですか。そのようなことを胸の奥深くに、しっかり抱いて愛したいと思うのです。
(26-147、1969.10.25)


エバは女性の性稟、アダムは男性の性稟を中心として分立して、何でまた一つになるのですか。別れてから合わさることによって、神様御自身が内的に抱いていた愛が、どれほど強いかということが分かるのです。そうでなければ分かりません。自分に愛がありますが、愛が分かりません。相手に会うことで分かるのです。内省的な愛を、人を通じて感じてみるのです。
(185-187、1989.1.8)


夫にとって妻になる人が、妻にとって夫になる人が、世界で最も必要な人です。互いに勧告してあげながら杖になり、同労者にならなければなりません。
(27-87、1969.11.26)


男性たちは、夫人が自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。


女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。


それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなくきちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにすることができてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)




③本当の夫婦の愛によって男性と女性、そして神様が一つになる


―宗教経典―


男性が家にいるときにも、家庭の根幹は妻だ。妻によってシェキナー(聖なる存在)が家から離れないからである。私達の師は、創世記のこの言葉を理解していたのである。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(創世記24.67)。


これは、シェキナーがリベカについてイサクの家に入ってきたことを意味する。より具体的に言えば、聖なる母は、家が整頓されており、男女が一緒にいるときにだけ、男性に臨むことができるということである。そのときに聖なる母の祝福が彼らに下されるのである。(注13)
ゾハール1.50a (ユダヤ教)




おお、ゴータマよ、女性は祭祀の火であり、彼女の性器は油であり、髪の毛は煙であり、陰部は火花であり、性交は燃え残ったものであり、享楽は閃光です。この火に神々は、神酒によって精液を与えます。この精液から新しい人が生まれます。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド6.2.13(ヒンドゥー教)


天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から、夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)


欲望が男女を一つにすれば、その結果、彼らに似た息子が出てくる。主なる神も御自身の息子をそのように造られたのである。したがって夫は、そのときに自らを貞潔にし、それに似た形ができるかぎり完璧に生まれることができるようにしなければならない。
ゾハール、創世記90b(ユダヤ教)


夫が聖なる目的で寝る前に自らを聖別すれば、男女二つの性によってなされた聖霊がその上に臨む。そして、主なる神は胎児に責任をもつ使者に命令され、この特別な霊魂を任せられ、胎児をどこに置くかを教えてくださる。ヨブ記の「男の子をみごもったことを告げた夜も」(ヨブ記3.3)がその意味である。……そして、子供の霊魂は天にいらっしゃるその方に似たかたちをもって下りてくる。(注14)このかたちに似た子供が育ち、世の中を生きていく。
ゾハール3.104b (ユダヤ教)


主は、最初の婚礼巡行として、結婚生活での日常の義務に関する条例を見せてくださる。経典は主の言葉であるから、これを通して正しいことを修得せよ。そうすれば、主があなたを罪悪から自由にするだろう。……


2番目の婚礼巡行として、あなたは主が真のグルに出会わせてくださったことを知るようになるだろう。あなたの心の中の恐れは消えた。あなたの心の中にあった利己心の不潔さは洗われた。……
3番目の婚礼巡行として、主に対する熱望が宿り、世の中に対して無関心になる。……4番目の婚礼巡行として、心が神の知識にまで達するため、神が心の中で感じられる。グルの栄光により私達はたやすく神に近づいた。愛の甘さが私達の体と心に満ちる。敬愛し、楽しいのは、私達にいる主である。


昼夜私達の心は彼に固定されている。主を賛美することによって、私達は主に至る。私達の心の結実が願ったものであるが、彼がこの婚礼を整えるからである。霊魂が、配偶者が愛する名の中で喜ぶだろう。主が彼の花嫁と一つになり、新
婦の心が彼の名によって花開く。(注15)
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.4、p.773 ~ 774 (シーク教)




―み言選集―


女性として生まれたのは、男性を求めていくために生まれたのであり、男性として生まれたのは、女性を求めていくために生まれたのです。女性と男性に生まれたのは、より次元の高い、二人が一つになって神様の愛に接するためです。一人ではその愛に接することができません。一人では、神様の愛に、本当の愛に接することができないのです。接したとしても、これは一方的です。立体的な、球形的なこのような愛には接することができません。ですから、男性と女性がより次元の高い立体的な愛の圏内にジャンプするために男性と女性が結婚するのです。本来、本然の人は、堕落しなければ、男性と女性が一つになればなるほど、その力が作用すればするほど、ここには偉大な中心が生じて球形になります。横的に連結されればされるほど、ここには縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるようになります。すべての心も、体も完全にそこにぴたっとくっつくのです。一つになるというのです。
(109-275、1980.11.2)
このようなすべてのものが夫婦として成し遂げられれば、夫婦自体が一心になります。夫婦自体が一心なので、一体にならなければならず、その一体となったものが神様と一つになるのです。夫婦が愛の光の中ですべて一つになるのですが、一つになるその夫婦は、神様が覆い、自分でも分からない光の力が私を抱き、同化するようになります。あらゆる神秘的な境地に押し出すのです。
(296-33、1998.10.11)


神様は、御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは、神様の息子であると同時に、体をもった神様御自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な真の愛、すなわち夫婦の真の愛の理想を完成しようとしました。エバは、神様の娘であると同時に、神様の横的な真の愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。


アダムとエバが完成して神様の祝福のもとで結婚し、初愛を結ぶその場は、神様が実体の新婦を迎える場です。アダムとエバの夫婦の真の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が縦横の基点を中心として一点から出発し、一点で結実、完成するようになるのです。
(277-198 ~ 199、1996.4.16)


誰のために結婚をするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。創造理想は、自分を中心として成し遂げられるのではありません。


すべての心情が主体的な神様と一体となり、神様が動じれば私も動じ、神様が静まれば私も静まり、心情的一致点を中心として、内外が一つにならなければなりません。このように、神様と和合できる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げることはできません。
(35-231、1970.10.19)




④結婚は二人を神様の姿と一致させる神聖な結合


―宗教経典―


われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥー教)


このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
みかぐらうた(天理教)


しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
マルコによる福音書10.6 ~ 9(キリスト教)


祝福を受けてください! 私の主なる神、宇宙の主人であられ、あなたの形どおりに人類を創造され、人間のために永遠の場を用意してくださった方よ、
祝福を受けてください! 私の主なる神、人間の創造主であられ……。


エデンの園で太初に、あなたの被造物をご覧になって喜ばれたように、このあなたの愛する人たちを見て喜んでください。祝福を受けてください! 私の主、宇宙の主人であられ、喜びと歓喜、新郎と新婦、楽しみ、歓呼、踊り、愉快、愛、兄弟愛、平和、同僚愛をもたらされた方よ、どうぞ早く、私の主なる神、喜びと歓喜の声がユダヤの地とエルサレムの地に響き渡るようにしてください。


新郎新婦の声、賛美から聞こえてくる歓喜に満ちた新郎の声、歌の宴に集まってきた青年たちの声がすべてこの地に響き渡るようにしてください。祝福を受けてください! おお、主、新郎新婦に喜びを施される方よ。(注16)
タルムード、クトゥッボート8a(ユダヤ教)
愛の福音は……。これ以上、結婚した二人の個人としてではなく、一つの存在内にいる二個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、このように一つになった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母としての神を反映する。この神聖な統一された霊的意識から永遠の天国の喜び――神の創造の完全性――へと向かうにおいて、障害物はない。
科学と健康576(クリスチャンサイエンス)


権能の主、神の作品であるこの世の霊魂たちは、不思議にもすべて一つである。しかし、それらが世に降りてくるときは、男性と女性に分離される。それでも、依然として互いが一つに結ばれている。最初に姿を現すときは、男性と女性として一緒に現れる。そのあとに世に降りてくるときは分離されるということである。のちに神は、彼らを縁結びしてくださる。神以外に誰も互いに最もよく合う縁を知る人はいない。幸福な者は正当で真理の道を歩む者だ。そのようにして霊魂は本来の相手を求め、真に完璧な人間になるのである。
ゾハール1.85b (ユダヤ教)
日の栄えの栄光には、三つの天、すなわち三つの階級がある。その最高の階級を得るためには、人はこの神権の位(すなわち、結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければならない。そうしなければ、その人はそれを得ることができない。


さらにまた、まことに、私はあなたがたに言う。もしある男が私の律法である私の言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、私からこの力とこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに、「あなたがたは第一の復活に出て来るであろう。……その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。(注17)
教義と聖約131.1 ~ 3、132.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)




真の結婚の神聖な結合は、神と人間、すべての意志により成される。結婚は神から始まり、神で終わる。結婚を支配する法とその中に流れる祝福すべてが主なる神から来たものである。主なる神の御加護により、男性と女性は一生の間、配偶者に対して従順にし、天から来た祝福と義務をもち、その結婚の主人公となる。……


配偶者問の夫婦関係は、眩しく輝く祝福が許諾されたため、禁欲生活とは異なる。夫婦生活を通して、夫と妻が天と自然の法に従ってふるまい、常に天に向かって畏敬し、神聖で知恵深いその方の御意志に従うよう努力しなければならない。……


私達が語る愛は、瞬間の情欲で起きる感情ではなく、快楽ばかりを語るものでもない。愛は行動によって証されるがゆえに、愛とは行動によって表現される深い心情である。家庭で愛を表すことは互いを助けることである。


しかし、ここで終わるのではない。内的に自分たちを完成させる過程で、一日一日互いに協力することが、夫婦の最高の目的にならなければならない。そうすれば、夫婦関係を通して互いの徳目を啓発するようになり、結局、神と隣人への真なる愛の中で自らが成長するようになるだろう。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ一結婚の尊厳―(キリスト教)80




―み言選集―


愛を成すことができなければ、どうなるでしょうか。神様が喜ばれないのです。神様に出会うことができません。ここから、今日の家庭倫理の根本問題が解決されます。今まで宗教をもった人たちは、結婚することを悪く考えていました。結婚の最高の神聖さを私達はうたわなければなりません。


男性と女性が愛することができる道は、結婚生活です。男性と女性が一つになることによって、誰に似るのですか。神様に似るのです。男性と女性が一つになってこそ、御自身の形どおりに男性と女性を造られた神様に似るのです。そうしてこそ、
神様が臨在されるようになります。
(70-76、1974.2.8)


今、自由世界で最も難しい問題とは何かというと、愛の秩序問題です。愛は愛ですが、どのような愛ですか。単純に男性と女性が楽しむものが愛ですか。そのような愛は、歴史過程もなく、未来観もなく、方向もない愛です。これは、自分勝手なものだというのです。そのような愛では、自由の原則と統一の原則、平和の原則になり得ないのです。


お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そこに自由がありますか。そこに幸福がありますか。そこに平和がありますか。そこに統一がありますか。すべてが反対です。そのような愛は、破壊ばかりを招来するのです。破壊の動機であり、受け入れない内容だというのです。


その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法であることを知らなければなりません。
(104-140 ~ 141、1979.4.29)


結婚は、なぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男性と女性なので、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。


しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)


なぜ結婚しなければならないのですか。神様が二性性相をもたれたので、その二性性相に合うようにしようとするのです。ですから、二つの世界の現象を結ばなければなりません。人間愛の発展過程で必然的要件が結婚だったのです。


神様の形に似て人間が互いに相対をつくるために、愛によってこの地で結ばれるとき、結婚をします。なぜ人を造ったのですか。神様の愛の相対形として造りました。神様も愛が必要で万物を創造したという結論は、否定する道がありません。神様が愛することができる完全な愛は、どこから出てくるのですか。地上の夫婦から始まります。ですから、結婚する日は喜びの日です。
(123-217 ~ 218、1983.1.2)


私が結婚をするのは、私のためではありません。男女が結婚するのは、男性が右側にいれば女性は左側にいるので、宇宙のためにするのです。天地の道理は、上下の調和です。男性が主体なので、主体である男性が上ならば、女性が下なので、上下を備えるために愛するのです。前後を備えるためにします。男性のためにするのではなく、女性のためにするのではありません。天宙の法度に合わせるためにすることを知らなければなりません。ですから、天理の法度を合わせられるよう、男性はそのような姿をしているのであり、女性もそのような姿をしているのです。
(101-38 ~ 39、1978.10.28)




男性と女性が出会うのは、宇宙の出会いです。これが壊れれば宇宙が壊れ、縦的世界がすべて壊れていくのです。結婚がどれほど重要かを知らなければなりません。結婚は、縦的な地上天国と天上天国の出会いであり、横的な永遠の世界と瞬間的な世界の出会いです。男性と女性が真の愛を行うことによって、永遠の愛が中心地にどんどん接近してくるのです。男性と女性は、神様を中心として中心地で一つに結ばれます。
(118-32、1982.4.26)


世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分のレベルを中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するために、そのようになっているというのです。


家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物も、そうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうだからです。
(222-123、1991.10.28)


結婚は、天地の合徳であり、縦横、左右、前後の全体を完成するのです。結婚は、子女、兄弟、夫婦、父母の理想の完成地です。したがって、アダムとエバの夫婦は、神様が最も愛する父母であり、そうして第二創造主の位置に立ったことによって、神様が第一創造主として感じる全体を相続し、子女、兄弟、夫婦、父母の位置を神様の代わりに体恤するためにあるのが子女の繁殖なのです。


結婚して夫婦が愛し合う場は、神様と人間の愛と生命と血統の根源的王国の場であり、理想のための地上天国と天上天国の出発地です。
神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバの結婚の時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛を成されるのです。神様は、縦的な真の父母であり、アダムとエバは、横的な真の父母です。そのような二つの父母の血縁を受けて生まれたので、心は縦的な私であり、体は横的な私になるのです。(注18)


このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になります。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係となって神様の全体を相続することができるのです。このような子女が、真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になるのであり、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性が一体となり、神様の相対として理想愛を完成させるようになるというのです。
(254-107、1994.2.1)




人間始祖アダムとエバは、堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を抱えてはいませんでした。神様は、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていき、祝福と結婚式をしてあげるはずは決してありません。全人類は、神様の愛とは関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫です。アダムとエバの堕落は、神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。


人類始祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う幸福な祝宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が、人間の中で始原を成しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが彼らは下部を覆い、木の後ろに隠れて不安に震えました。天道に背く偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
(288-127、1997.11.26)


神様が創造当時の理想として願った真の愛、その偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになり得る、このような神人愛一体の家庭を築いたとすれば、今日私達は、天国に行くのか地獄に行くのかと心配する必要がなく、そのまま天国にすべて入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の真の愛と人間の真の愛が異なり、二つの愛の出発になるので、二つの愛の方向と目的地になるというのです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせません。


この二つの真の愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止されてしまいました。サタンの愛を中心に偽りの父母が生じたのであり、人類は偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこの子孫なので、これはすべて地獄に行くようになります。天国とは関係がないのです。
(275-55、1995.10.31)
堕落によって、偽りの父母から偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け、偽りの結婚式をした家庭になりました。今、ここから始まった汚されたものを完全に清算して復帰し、真の神様と真の父母の愛を中心として……。真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木して、偉大な祝福を伝授してあげる復活の礼式が、正に国際合同結婚式なのです。世界の全人類が偉大な祝福を受けて天国家庭に転換し、地上天国に入籍することを願ってやみません。
(275-59、1995.10.31)






6.結婚生活の倫理


結婚の愛は、感情の節制が要求される。その愛は、結婚生活の鍛錬を通して生存し、繁栄する。結婚生活は、約束を共有する夫婦に特別な挑戦を要求するようになる。そして、その挑戦は、人格精練の道として、愛の完成の学校として奉仕する。


経典は世代を通し、結婚に関する情報を提供する伝統的、倫理的規則の一部を明確に説明する。経典は、夫婦が家ですることは互いに異なるが、補完的な役割を説明する。夫は妻を敬わなければならず、妻は夫に従順でなければならない。二人の配偶者は信実で、すべてのことを共に分かち合い、決して離婚を考慮してはいけない。


時折、このような伝統的な役割は、二重的な基準を正当化するために使われてきたが、正しく知れば、その役割は相互互恵的な責任を叙述する(社会的両性平等を議論する、第20 章7、「女性の権利」参照)。文鮮明先生は、結婚の理想は夫が妻を神様の娘として尊敬し、妻が夫を神様の息子として尊敬しながら、配偶者が互いにために生きることであり、その時、天国が実現されると教える。






①夫婦愛の核心倫理:夫婦は互いに服従しなければならない


―宗教経典―


キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。


夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。


そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。私達は、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。私は、キリストと教会についで述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エぺソの信徒への手紙5.21 ~ 33(キリスト教)


同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。……同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
ペテロの手紙一3.1 ~ 2、7(キリスト教)


夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
コリントの信徒への手紙一7.3 ~ 4(キリスト教)


あなたの妻は、あなたに対する権限がある。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)


夫は妻に夫婦としての義務を無理に強要してはならない。
タルムード、エルヴィーン100b(ユダヤ教)


妻はなんじらの耕地である、それゆえ意のままになんじの耕地におもむけ。だが己れの魂のため、あらかじめ何かよいことをせよ。神を畏れよ。
クルアーン2.223 (イスラーム)






―み言選集―


愛の道は、自分の夫と妻を千倍、万倍の絶対的に高い基準に置くことです。神様は、全人類に対してそのような絶対従順の位置を経てその対象圏まで出てこられたのです。それで、そのような愛で結婚した夫婦は、そのような高い水準を期待します。神様もまたこのような高い基準の対象を願われるのです。すべての存在は、絶対従順の立場で投入して忘れ、投入して忘れます。そこで夫婦間の愛が花咲くのです。
(288-68 ~ 69、1997.10.31)


私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛せるという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛せますか。人類を愛することも、神様を愛することもできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)


男性の前にいるその女性は、神様の娘であり、人類の女性であることを男性たちは知らなければなりません。自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛し、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。


女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。


それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなく、きちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにできてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)


今、皆さんに残ったこととは何でしょうか。愛の十字架を背負って犠牲にならなければならず、絶対服従しなければならず、絶対愛をしなければならない、これだけが皆さんに残ったことです。先生を失ってしまい、すべて失ってしまってもよいのですが、私自体内において天に対して絶対服従であり、絶対犠牲であり、絶対愛をしなければなりません。神様に対してする前に、皆さんの妻に対して行い、夫に対して行いなさいというのです。
(97-312、1978.3.26)


人間で最も貴い所は、愛の器官です。愛の器官とは、生殖器です。生殖器とは、自分のものですか。違います。誰のものですか。妻のものです。それは、誰がそのように言ったのですか。誰がそのように決めたのですか。神様です、神様。天地がすべてそのようになっています。存在するものはすべて、愛のために生まれたので、愛のための存在は、自分のためにもつ生殖器はもっていないのです。相対のためにもっているというのです。


相対と連結しなくては、真の愛を完成できません。これが天法です。絶対、唯一、不変、永遠の主人になるのです。男性一人で愛の主人にはなれないのです。生殖器を中心として相対と連結される時に完成が展開するのです。真の愛に連結してこそ女性が完成するのですが、男性の生殖器を完全に占領するその場で、完成が展開するというのです。男性も同じです。
(297-156、1998.11.19)


女性のもの、凹は凸のものですか、凹のものですか、男性のものです。男性のために生じたことを知らなければなりません。ですから、自分勝手にできません。それは男性の思いどおりにするのです。男性のものは女性の思いどおりにするのです。これが天法です。
(130-126、1984.1.1)


男性と女性が、自分の生殖器の主人が自分ではなく相対だと思うとき、愛の相対に対しては、丁重に頭を下げて受けなければなりません。愛は、相対によって得るのです。愛は、相対がいなければ来ないのです。相対によって来ることを知っているので、相対には丁重にしなければなりません。ために生きないところに愛はありえません。絶対的にために生きてこそ、絶対愛を見いだすことができるのです。
(279-123、1996.8.1)


夫婦同士でも、愛するからといって、夫がいる所を裸で勝手に出入りすることはできません。「私はこうですが、かまいませんか」とあいさつして動かなければなりません。妻はぐうぐう寝ているのに、夫が「おい、お前!」と言いますか。寝る時間にも規範があるのです。うるさくすればたたいてもかまいません。また、愛するときも、男性が女性にぶらさがってよいのですか。女性が男性にぶらさがらなければなりません。
(225-161、1992.1.12)


②両性関係:責任は異なるが愛において同等


―宗教経典―


男は女の擁護者(家長)である。それは神が位置を他よりも強くなされ、かれらが己れの資財から、費やすゆえである。それで貞節な女は従順で、神の守護の下に、夫の不在中を守る。
クルアーン4.34 (イスラーム)


家人は女が位を内に正しくし、男が位を外に正しくする象である。男女それぞれ正しい位に在るのじゃ、天地陰陽の大義にのっとるものである。
易経37、周易下経、家人(儒教)


あなた達はすべて保護者であり、あなた達の非保護者に対する責任をもっている。統治者も一人の保護者であり、男性は家族の保護者である。妻もやはり一人の保護者として夫の家と子供たちに対する責任をもっている。したがって、あなた達はすべて保護者であり、あなた達の被保護者に対する責任をもっている。
ブハーリ・ハディース(イスラーム)


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これを、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
創世記2.21 ~ 23(キリスト教)


聖句(マントラ)による清めの儀式(結婚式)を行なった夫は、この世とあの世において、受胎適時(リトゥ)であろうとなかろうと常に妻に〔性の〕喜びを与える者である。夫は、性悪で、勝手気ままに振舞い、良い資質に欠けていても、貞節な妻によって常に神のように仕えられるべし。妻に単独の供犠はない。誓戒も断食もない。夫に仕えることによって〔死後〕天界において栄える。貞節
な妻は、夫の世界を望むときは、夫が生きている間も死後も、彼にとって好ましくないことをしてはならない。……心と言葉と身体を抑制して夫を裏切らない妻は、夫の世界を獲得し、善き人々によって貞女(サードゥヴィー)と呼ばれる。
マヌ法典5.153 ~ 165(ヒンドゥー教)


あなたの妻を虐待してはならない。女性は神聖である。もしあなたが妻に苦痛を受けさせれば、あなたは遠からず死ぬだろう。私達の祖母、大地は女性である。あなたがあなたの妻を虐待することは、大地を虐待することである。したがって、私達を保護する私達の祖母を虐待するあなたの行為によって、実際にはあなたがあなた自身を殺すだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アフリカ伝統宗教)


女性が男性のあばら骨から出てきたのは真に正しかった。第一に、男女間の社会的統一性のために女性が男性の上に君臨してはいけないので、男性の頭から出てくることはできなかった。反対に女性が男性の僕として蔑視されてもいけないので、女性は男性の足から出てきてもいけなかった。ゆえにあばら骨から出てきたことは真に正しかったと言えよう。
トマス・アクィナス神学大全じ1.1.92.3 (キリスト教)


女性もやはり男性と同じ被造物である。女性が男性から出てきたということは、女性が男性の一つであることを見せてあげるためである。これはまた、キリストと教会が一つであることをあらかじめ形状化させで見せてくださったのである。
アウグスティヌス神の国22(キリスト教)




―み言選集―


男女平等という言葉は、愛を中心に言う言葉です。女性が力で男性にかないますか。跳躍競技で男性にかないますか。服を作ることにおいて男性にかないますか。女性が男性に勝てるものが何かありますか。何もありません。ただ、愛を中心として見るときは女性が男性より優れていて、それが平等圏です。それを知らなければなりません。男女が愛を中心として平等圏なのであって、それ以外は平等ではありません。
(209-208、1990.11.29)


女性が幸福な時はいつですか。男性が幸福な時はいつですか。これが問題です。そのように考えてみるとき、二人が互いに喜べる時だというのです。そのような結論しか下せません。何を中心としてですか。拳ですか。それで夫に勝てますか。女性は、1度拳をぎゅっと握れば身動きできません。拳でけんかしては駄目です。力で競えますか。力で競えば、いつでも押し出されるようになっています。しかし、力も愛の支配を受けるので、力のある男性も、互いに一つになって押したり引いたりしながら愛の懐に抱かれるようになれば、女性を抱えて回っていくのです。そのときは気分が良いでしょう? 「ああ、なぜ私を抱えて回るのか」と言いながらも、そのときは自分の足もほうっておき、自分の体全体をほうっておいて、愛の懐に抱かれて回っていく、その時間は幸福だというのです。
(137-217、1986.1.3)


夫と妻に対する公的な愛の道を行かずに、私的な愛の道を行ってすべてが壊れていっています。アメリカの家庭の父母たちが、自分を中心とする愛をすればするほど壊れていくのです。社会を滅ぼし、世界を滅ぼします。
(111-257、1981.2.22)


妻とは、夫に対して順応し、彼のために助けてあげる人にならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりません。
(81-318、1975.12.29)
愛がある所では上がってもよく、下がってもよく、中間にいてもよいという論理が成立します。愛する夫が自分より高いといって嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか。一つです、一つ。一つになれば思いどおりに低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所に下がることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。ここは制裁がありません。
(91-141、1977.2.6)


家でも、父親は良く、母親はいてもいなくてもいい存在ですか。父親の誕生日は盛大に祝いながら、母親の誕生日は覚えてもいないのですか。父母という因縁は天地調和だということは、今日、信仰をもっていない人たちも知っています。


すべて相対的です。何であっても、合わさってこそ調和がなされるのです。目も、鼻も、耳も、唇も、すべて互いに合わさるところで講和がなされます。そのように、父母の二人が一つになってこそ、世の中のすべてのものを抱くことができるのです。一人で、いくらやっでも駄目です。
息を吸うだけでは生きることができません。吸うことも必要ですが、吐くことも必要なのです。皆さん、酸素を吸って生きているので、息を吸うことだけが必要ですか。3回続けて吸ってみてください。そのようになれば、かえって吐くことが必要なのです。息を吐いて炭酸ガスを体の外に送り出してこそ、酸素がたくさん入ってくるようになっています。


男性だけが出てきてはいけません。最近の世の中は、男性に偏った世の中です。ですから、根本的に女性解放運動をしなければなりません。原理的に見るとき、3年以上、男性は女性に従順にしなければならないのです。それで、一つの個体が復帰するには正道どおりに経ていかなければなりません。堕落によって、アダムとエバが二人で落ちたので、上がっていくときも二人で上がっていかなければなりません。上がっていくのは、再創造のようなものです。創造するとき、アダムを先に造り、エバを造りました。したがって、再創造するときも、アダムを造っておいてからエバを造るのです。(21-194、1968.11.20)
③夫婦の良し悪し


―宗教経典―


有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。


羊毛と亜麻を求め、手ずから望みどおりのものに仕立てる。商人の船のように、遠くからパンを運んで来る。夜の明ける前に起き出して、一族には食べ物を供し、召し使いの女たちには指図を与える。


熟慮して畑を買い、手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。力強く腰に帯し、腕を強くする。
商売が好調かどうか味わい、灯は夜も消えることがない。手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。


貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。
雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。夫は名を知られた人で、その地の長老らと城門で座に着いている。


彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。力と気品をまとい、未来にほほえみかける。口を開いて知恵の言葉を語り、慈しみの教えをその舌にのせる。一族の様子によく目を配り、怠惰のパンを食べることはない。


息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。
箴言31.10 ~ 31(キリスト教)


居士よ、汝の住処の中にて人々が漁師漁労に於けるが如く高声、大声なるは実に何なるや、と、大徳よ、こは嫁善生にして富み、富貴に生れ、彼女は姑を世話せず、主人を世話せず、世尊を恭慕せず、尊重せず、供養せず、と。その時世尊は嫁善生に告げたまはく、来れ善生よ、と、然り大徳よ、と嫁善生は世尊に答へ奉り世尊の在す所に詣り已りて世尊を問訊し、已りて一辺に坐せり、一辺に坐せる嫁善生に世尊は告げたまはく、善生よ、是等が七の男子の妻なり、悪心ありて、〔夫の〕為を念はず、他に著して夫を軽蔑す、財を以て購へし〔夫〕を殺さんと望む男子に対する是の如き妻は「殺人者なる妻」と云はる。


主人が妻の為に、工、芸、商業、農業に努力して得る財をば僅にても彼より取らんと欲す、男子に対する是の如き妻は「盗賊なる妻」と云はる、仕事を好まず懈怠大食し、粗悪暴悪にして、粗悪語を話し、勤勉なる〔夫〕を壓服して住す、男子に対する是の如き妻は、「支配者なる妻」と云はる。


常に〔夫の〕為を念ひ母が子になすが如く夫を護り、それより彼の貯へたる財を護る、男子に対する是の如き妻は、「母なる妻」と云はる。
譬えば妹が姉を尊敬する如く、自己の主人を尊敬し、漸心あり、夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「姉妹なる妻」と云はる。又ここに友が、久しくして来れる友人を見て喜ぶが如く、生れ貴き具戒の妻は、主人を喜ぶ男子に対する是の如き妻は、「友人なる妻」と云はる。


打杖にて脅かされて怒らず、悪心なくして夫に対して忍び、怒りなくして夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「婢なる妻」と云はる。而してここに妻が「殺人者」と云はれ、「盗賊、又支配者」と云はれ、破戒者にして粗悪、不敬なる者は、身壊して地獄に行く、又ここに「母、姉妹、友」と、又「婢なる妻」と云はれ、戒に住し、長時自律の者は、身壊して善趣に行くと、善生よ、是等が七の、男子の妻なり、汝はそれ等の何れなるやと。今日より以後、大徳よ、世尊は我を婢に等しき、主人の妻と存念し給へ、と。
阿含経増支部iv.91、無記品(仏教)


もしあなたが一人の男性と結婚し、彼を手放さずに常にしっかりとつかんでおこうとすれば、彼のために働け。彼のために働くことによって、あなたは常につかんでおくことができるだろう。もしあなたが、あなたの夫が満足するだけのことをすれば、彼は決してあなたから離れないだろう。


あなたの夫に信頼されるようにせよ。あなたが何人かの男性と同時に結婚したかのように行動してはならない。純潔な人生を歩め。私があなたに言うことに耳を傾けず、あなたの夫に信頼されなければ、すべての男性たちがあなたをあざ笑うだろう。彼は気の向くままに語り、誰もこれを止めないだろう。あなたの夫に横柄にふるまってはならない。彼があなたに言うことは、何でもやりなさい。あなたがあなたの夫に従順にすれば、彼も同じようにあなたに接するがゆえに、親切があなたに戻ってくるだろう。
ウィネバコ族、先祖の教え(アフリカ伝統宗教)


ソクラテスの妻クサンチッベが、先に彼に悪態をつき、その次には水をかけた。彼は、「クサンチッベが今雷を落としているのだが、すぐに雨が降ると私が言っていたか」と冗談を言った。アルキビアデスが彼に「クサンチッベが悪態をつく気質は我慢ならない」と言ったとき、彼は「しかし、私がいつも滑車の騒音を聞いていればそれに慣れるように、そしてあなたが、がちょうの鳴き声を我慢して聞いているように、私はそれに慣れてしまった」と答えた。


これにアルキビアデスが、「そうだ、しかしがちょうは私に卵とひなをくれる」と答えた。ソクラテスが「そうか、クサンチッベは私に子供たちを生んでくれた」と応酬した。あるときは、彼女が市場で彼を殴り、彼の上着を破り、彼の友人たちが彼に手で防げと忠告した。彼は、「そうか? 私達がたたき合うと、あなた達はみな歓迎するだろう?『いいぞ、ソクラテス! いいぞ、クサンチッベ!』」。ソクラテスは次のように言った。「男性は扱いづらい女性と暮らさなければならない。乱暴な気質の馬を扱うことのできる調教師は、他のすべての馬を簡単に扱うことができる。このようにクサンチッベを相手にしたあと、私は誰とでも簡単につきあえる」。
ソクラテス(ヘレニズム)
―み言選集―


アメリカの家庭で問題になることは何ですか。夫と妻が互いに相手に対して、いつも私のために生きてほしい、私だけを愛してほしいということではないですか。そのようなものはサタンの本性なので、そこからは神様が離れていくようになるのです。サタンが入ってきたので、壊れるようになるのです。父母は子女を育てて、「お前は私のために生きなさい」と言い、息子、娘は「親は私のために生きてほしい」と言い、互いに自分のために生きてほしいと言うので壊れていくというのです。
(69-87、1973.10.20)


女性は、夫にいろいろなうそをつき、何でも隠す境界線があります。一日の生活の中で、自分自身が主体性をもちたいと思っているのです。祝福家庭でありながらそのように考える人たちは、依然としてサタン世界に連結していることを知らなければなりません。
(396-257、2002.11.10)
男性と女性の関係で、妻が夫に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、夫が妻に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、お互いに「はい」と言えば、一つになりますか、なりませんか。そのようになれば、愛がだんだんと逃げていきますか、愛がもっと大きくなりますか。それで、どのようになるのですか。何が中心になりますか。男性が中心になりますか、女性が中心になりますか、愛が中心になりますか。愛です。愛が中心にならなければなりません。
(91-221、1977.2.20)


夫になるのは簡単ではありません。疲れているからといって、妻に責任がないのではありません。難しいからといって、妻に責任がないのではありません。難しければ難しいほど、妻に責任がもっとあるのです。疲れた立場にいても妻に責任があるのです。夫も同じです。良いからといって、夫に責任がないのではありません。悪いからといって、夫に責任がないのではありません。共同責任が原則です。その夫の前には、その妻の前には、この国の誰より、この世界のどんな人よりも、神様の代わりにこの地上で生きるように配置されているのです。


このように考えるとき、父母は、息子、娘の前に、一生の間、「私達のお父さんとお母さんはけんかした」という声を絶対に聞かないようにしなければなりません。「私達のお父さんとお母さんはよくけんかした」、このような話を聞けば、いくらうまくやっても地獄に行くのです。


その息子、娘が話すとき、「私達のお父さんは、神様の代身だ。私達の家の神様だ。私達の家の大統領だ。私達の家の聖人だ。私達のお母さんもそうだ」と言わなければならないというのです。昔、聖人たちが言うには、「家和万事成」と言ったでしょう? 私達統一教会で主張するのは「家和」ではありません。「天和」です。天宙を中心として天と和合しなさいということです。
(101-41 ~ 42、1978.10.28)


女性がヒステリーを起こすのですが、男性がその女性よりもっとヒステリーを起こせばどうなりますか。女性がヒステリーを起こすのを見ても、「あ!そのようなこともあるのだなあ」と鑑賞できる男性が必要なのです。女性はヒステリーを起こすのですが、男性は「ははは」……。神経質に「ジョン」と言って男性を呼べば、「オオ、イエース」と言わなければなりません。「ジョン」
と言うときに「イエス!(早く)」と言わずに、「ジョン」と言うときに「イエー、イエー、イエース(ゆっくり)」と言わなければならないのです。


やまびこは山が険しいほど良いのです。山が険しくて大きいほど素晴らしいのです。「ピー」とすれば「ブーン」と響きます。やまびこは良いものです。それと同じように、男性は、顔が良くなくても響きがなければなりません。女性が「わあ」と言うとき、「うんうんうんうん」とならなければなりません。本物であれば、そのようなものがなければならないのです。そのような神秘的なものがなければなりません。違わなければならず、同じではいけません。
(118-225 ~ 226、1982.6.6)
妻の財布が別にあり、夫の財布が別にあって、「あなたのお金です、私のお金です」と言う、それが完全な愛ですか、そのようなものを超越して「あなたのお金であり私のお金です、私のお金でありあなたのお金です」と言うのが完全な愛ですか。


皆さん自身が結婚すれば、お金の条件、あるいは権利の条件など、自分の条件を立てていきますか、愛の条件一つだけを立てていきますか。このような条件を立てていく人が本当に愛そうとする人ですか、偽って愛そうとする人ですか。愛を利用しようとする人ですか、愛のために生きようとする人ですか。どのようにならなければなりませんか。ために生きなければなりません。私達統一教会の教会員たちは、結婚するとき、「ああ、私のものだ!」と考えなければなりませんか。自分までプラスし、夫を愛して変えようというのです。
(92-192、1977.4.10)


それでは、真の父はどのような父ですか。真の母はどのような母ですか。創造原則を立てられた神様のように、100 年投入して生きても夫のためにもっと投入したいと思う妻が真の妻です。涙を流し、「ああ、あの人のために私は滅んだ」と思うのではありません。「私が忠誠を果たし尽くせなかったので、夫を幸せにしてあげられなかった」と思いながら涙を流して生活する、それが真の女性像になっていく道です。真の夫も同じです。
(204-41、1990.6.29)


真の夫婦は、真の妻はどのような妻ですか。夫のために生まれた、夫のために生き、夫のために死のうとする人です。その立場においてのみ真の妻が成立するのです。反対に真の夫はどのような立場で成立するのかというと、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死のうとする人です。


神様が天地創造の理想的起源をここに設定したということを私達ははっきりと知りませんでした。
このような観点から見るとき、私達は一つの公式を知りました。「ために存在する」という公式においてのみ、真の愛を見いだすことができるのです。
ために存在するという、そこにおいてのみ真の理想があり得るのです。神様がそのような原則を立てたので、人間の幸福と希望をそこから発見できる可能性があることを、私達はここから結論を下せます。
(77-293、1975.4.25)


④離婚は神様が呪う:夫婦は死のあとまで信実でなければならない


―宗教経典―


合法的なものの中で神が最も嫌われるものが離婚である。(注19)
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)


パリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなた達は読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々で
はなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」


すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなた達の心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っでおくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
マタイによる福音書19.3 ~ 9(キリスト教)


あなた達は、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。……私は離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる。
マラキ書2.14 ~ 16(キリスト教)
神は、己れの夫についてなんじに抗弁し、なお神に不平を申し立て祈る、女の言を聞きたまい、また神は、なんじら両人の議論をも聞きたもうた。まことに神は、全聴者・全視者であられる。


なんじらのうちズィハールによって、その妻を遠ざける者があっても、かの女はかれの母ではない。母はかれらの生んだ者以外にはないのである。実にかれらの言うことは不法な、虚偽の言である。まことに神は、赦免者・寛容者であられる。(注20)
クルアーン58.1 ~ 2(イスラーム)


夫は神より与えられた妻を娶るのであって、自らの意志によって〔娶るの〕ではない。常に、神々にとって好ましい事柄を行ない、貞節な彼女を扶養すべし。〔夫婦は〕死ぬまでお互いを裏切ってはならない。一言で言えばこれが夫婦にとっての最高の生き方(ダルマ)であると知るべし。(注21)
マヌ法典9.95、101 (ヒンドゥー教)




身は捨小舟川中にただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけふ.た心なしわが母は心廣きもわが心うけたまわず、身は捨小舟岸べにただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけたがふことなしわが母は心廣きもわが心うけたまはず(注22)
詩経、装浴iなんぷう)、45 柏舟(儒教)


そのような純潔を守り通した者たちのように、夫の死後、純潔を決意した貞節な妻は息子がなくても天界に赴く。
マヌ法典5.160 (儒教)


法によって彼らは婚姻の神聖さを脅かしてきたのであり、離婚の合法性を認めよと言う。また、いわゆる新しくより人間らしい法が旧時代の法に代替されなければならないと主張する。離婚を正当化する理由は多く多様だ。しかし、その中の一部は関連する人たちが犯した罪と悪行に起因する。……つまり、結婚生活が大変でつらい理由が何であろうと……この永久不変の神の法は離婚に反対する。キリストが再び確認してくださったこの天の法は、人間の行為や考え、あるいはある立法者の意志によっても撤回されない法である。「主なる神がつづっておかれたものを、誰も掘り返してはなI らない」。
教皇ピオ11 世カステイ・コンヌピイ―結婚の尊厳―(キリスト教)




―み言選集―


夫婦になれば、あなたと私との相応関係が一時的でなければなりませんか、永遠でなければなりませんか。永遠でなければなりません。最初に喜んでいれば、最後も喜ばなければならないのです。その始終一貫というものは、「始」で喜んでいれば、「終」でも喜ばなければならないというのです。離婚するのは、良いことですか、悪いことですか。悪いことです。
(86-109 ~ 110、1976.3.14)


皆さんの父母が離婚しようとするとき、子女が、「親が離婚したならしたで、私達の家ではそれくらいのことは関係ない」と言ってもよいのですか。どのようにしなければなりませんか。「父も母も、私の言うことを聞かなければならない。離婚してはいけない!」と言うのと、「離婚するならして、しないならするな」と言うのとでは、どちらがよいでしょうか。どちらをとりますか。




今後、このような運動をしなければなりません。若者たちが団結して、父母が不義の離婚をすることは、もう許せないとして、「私は父母を誰よりも愛しています!」、このようにしようというのです。このようにできる子女は、父母が離婚しようとするのを絶対的に防げる孝子です。
(95-50 ~ 51、1977.10.23)


このアメリカの若者たちは、「私が嫌なら好きなように離婚できる」と考えていますが、宇宙はそのようになっていません。自分が貴ければ愛も貴いと考え、1度結べば永遠を標準として、そのように行かなければなりません。それが人間の行くべき道です。人間の価値がそこにあるのです。
(117-292、1982.4.11)


神様は唯一、絶対、無二の方です。ですから、アダムもその属性が顕現したので、絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性であり、エバは神様の女性的な属性として顕現したのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたそれらを一つに結べるものが愛なのですが、その愛は、神様までも絶対服従できる絶対的愛だというのです。


ですから、その絶対的な愛の前に夫婦として来られる方は唯一無二なのです。絶対的であると同時に、永遠不変です。分けられません。このような論理的理論基盤を知らないので、夫婦が好きなように離婚するのです。しかし、このような理論的基盤がある限り、絶対に離婚することはできません。(226-171、1992.2.4)


夫婦が、なぜ夫婦げんかするのですか。お互いが愛されようとするからです。お互いが愛されようとする群れは、長続きしますか、できませんか。長続きできません。長続きすれば、それは原理ではないのです。お互いが愛されようとする家庭は壊れますか、壊れませんか。壊れます。それでは、お互いが愛そうとする家庭は、どうでしょうか。お互いに相手をもっと愛そうと大騒ぎする家庭は、「壊れよ」と祭事を捧げても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は、永遠なものです。分かりますか。(36-76、1970.11.15)
女性として生まれて、自分を誇り、男性を無視すれば、地獄に行きます。「ヘル(地獄)」とは何ですか。「ヘル」とは何かというと、ごみ箱です。女性が地獄に行っても、男性が「ああ、いけない! 行ってはいけない、行ってはいけない!」と言えば、仕方なく……。愛の力が1番なので地獄に行かないというのです。男性も同じです。これが宇宙的最高の福音です。
(161-324 ~ 325、1987.3.8)


夫婦がお互いに愛するにおいて、いつまで愛するのかと尋ねるとき、若い時だけ愛すると言えば気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願いますか。「永遠に」ということもありますが、まず死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを願うのです。永遠は、未来を中心として全体を身代わりにするのです。死ぬ時まで愛そうというのは、自分のすべてのものをありったけ与えて愛そうということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬときまで」は根こそぎ愛そうということです。そう言ってこそ喜ぶのです。(37-24、1970.12.22)
⑤一夫多妻制の問題


―宗教経典―


誰でも妻をたくさん率いる者は、それゆえに悩みに陥るだろう。妻たちと同居するために、その中の何人かを欺瞞し、うそをついて騙すだろう。祈りをよくするからといって、彼が平安を得ることができるか不確実だ。
ヨルバ族の詩、(アフリカ伝統宗教)


大勢の妻に対して全部に公平にしようというのは、いかにそのつもりになっだとてできることではない。(注23)
クルアーン4.129 (イスラーム)


何人かの妻をもつ者は、男性の道徳的本性を蝕む。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.3(ヒンドゥー教)




―み言選集―


女性が結婚すれば、男性との関係を一人としなければなりませんか、100 人、1000 人としなければなりませんか。一人です。なぜ一人ですか、真の愛のためです。絶対的真の愛のために、ただ一人と結婚するのです。
(122-234、1982.11.14)


自分が結婚する人は、宇宙に一人しかいません。男性と女性の二人しかいないのです。初愛というものは、たった一人の男性と一人の女性がするものです。それは、神様と共にするのです。
(265-251、1994.11.23)

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世界経典-68

2022年08月14日 16時42分20秒 | 学習


2.孝


孝は、子女が父母に尊敬と栄誉を見せてさしあげる伝統的道徳原理である。それは、父母に対する義務である。なぜなら、父母が子女を生んでくれ、食べさせてあげ、子女に人生の良い出発を提供しながら、子女のために犠牲になり、奉仕するからだ。それで親孝行な子女は、彼らの父母が老いたとき、彼らを世話するのを負担とは感じない。これは、義務という問題ではなく、感謝する心的姿勢を誘発する、自発的で自然な理想的姿勢とみなされるのである。


文鮮明先生の孝に関する広範囲な教えには、次のようなものがある。孝は、絶えることのない血統的な連帯関係において、世代を連結する永続的な伝統として鼓舞されなければならない。孝は、自分の父母の困難と苦難に同情し、これを自身の問題よりもさらに重要なこととして痛感し、円熟した利他的な聖子、聖女の心的姿勢において完成される。
ここで何より重大なのは、孝は、神様、すなわち真の父母との関係を構築する礎石であるという点である。




①孝は徳の根源


―宗教経典―


あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長ぐ生きることができる。
出エジプト記20.12 (キリスト教)


人間には主なる神、父、そして母、この三人の同伴者がいらっしゃる。父と母を恭敬すれば、神はこのように語られた。「あなたが父母を恭敬するとき、私は、私がそこにおり、彼らが私を恭敬しているのだと考える」。
タルムード、キッドゥシーン30b (ユダヤ教)


神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)


なんじの主は命じたもう、……両親に孝行であれと。もし両親かまたそのいずれかが、なんじと一緒にいて老齢に達しても、かれらに軽侮の語や、荒い言葉を使わず、かれらにねんごろな言葉で話せよ。
クルアーン17.23 ~ 24(イスラーム)


君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)


かの仏国土に生れたいと思う者は、……一つには、父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、……。
観無量寿経27(仏教)


このことを御身にわたくしはお尋ねします。正しくわたくしに語してください、アフラよ。だれが吉祥なるアールマティを王国といっしょに創造したのですか。だれが子を、その心情において父に敬意を抱くようにしたのですか。
アヴェスター・ヤスナ44.7 (ゾロアスター教)


さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確
立によって完了する。
孝経(儒教)


父母はあなたの歯が生えるまであなため面倒を見たのだから、父母の歯が抜けるとき、あなたは彼らの面倒を見なければならない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
―み言選集―


孝子には、自分を考える心をもっていてはなれません。
(62-37、1972.9.10)


孝子とは何ですか。父母が最も喜ぶことを中心として常に考え、そのことを行動でなして相対役をしようと考える人、そのような立場に立った人が孝子です。


五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母がより喜ばれるものを見て感じ、話を聞くときも、「ああ、このような話は喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くようになります。感じるときもそうであり、あらゆる五官の感情が父母を中心として愛と化す、そのような人が孝子です。悪いものがあってはならず、良いものだけがあることを願い、より良いものに発展し、より立派になることを願うのです。
(161-132 ~ 133, 1987.1.18)


ですから、父母が悲しむ内容を深く知っている子女であるほど、その父母の悲しみが解消されることをひたすら願い、自分が働いている環境を越えて、その心配している事実が解消されることを望むのが、その子女の願いではないでしょうか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも父母の悲しみがより早く解消されることを願う心をもった人がいれば、彼は孝子だと言えます。


しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのですが、「父母が私の心配事を考えてくれなければならない」と、父母の心配事よりも自分の心配事をより考える人であれば、その人は、父母と一つになっていない人です。


孝の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却した人は、父母と大切なところで一つの因縁を結べません。自分を主張し、自分の悲しみを理解してくれと要求したり、父母の悲しみは後回しにしておいて、自分の悲しみばかりに責任をもってくれと言う息子がいれば、彼は孝子にはなれず、不孝者になるのです。これは、私達が日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつも体験することです。


孝子としての価値とは何でしょうか。自分の困難もありますが、父母の困難をより心配しながら自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に父母の心配を加えて心配する立場に立ったとしても、これを当然のこととして消化して受け入れ得る立場から、孝の道は始まります。子女が父母の困難をないがしろにし、遠ざけるとき、ここで決裂が起きるのです。孝の道ではない、不孝の道が生じます。
(62-187、1972.9.25)


孝子とは何でしょうか。孝子は、父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していき、責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。


父母が10 の仕事をするのに子供は15 ほど努力をしたならば、父母は5に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げられるかを考えながら努力する人が孝子なのです。
(24-261、1969.8.24)


孝子は、いつでも父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。10 度行き、10 度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。


「ああ、どうしてそのようにするのですか。10 度行って、10 度回れ右し、10度も行ったり来たりする。ああ! お父さん、お母さん、これは私の心に合いません」と反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。


それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100 人の孝子がいるとすれば、その100 人の中から1番になれる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなれるのです。


そのようになるとき、そのような狂ったことを天職と思って行えなければなりません。「ああ! これは自分の常識に合わないので私は知らない」と言えば、ここで孝子の道理はふさがってしまいます。孝子の道は、断ち切れてしまうというのです。ですから、最高の一つの峠を貫いて越えていける世界的な孝の道があるのです。
(62-32 ~ 33、1972.9.10)


自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてぱいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。孝の道を教えるときも、父母が孝の道を行く姿を見せてあげなければなりません。(注3)そのようにできない人は、秋風に散る木の葉のように落ちるのです。
(26-296、1969.11.10)


今まで人間たちは、自分の息子、娘を生み育てる目的を自分の家庭が良くなるところにおいてきました。逆さまになりました。今日では逆さま時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだあとに私が喜べるのです。これが本来の原則ですが、堕落して逆さまになりました。「私から喜び、次に私達の家が喜び、その次に私達の社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているのです。
(8-106、1959.11.22)


②父母と子女の不可分の絆


―宗教経典―


われは、両親に対して孝行であるよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで三十個月である。それから、かれらが十分の力を備える年配に達し、それから四十才になると「私の主よ、私と両親に対して、あなたがお恵み下された恩恵に感謝することを、お許し下さい。またあなたのおよろこびを賜わるよう、私が善い行ないをなし、
また子孫についても、私を多幸にして下さい。


私は悔悟してあなたに帰依いたします、まことに私は、ムスリムであります。これらの者は、われがその最も善い行ないを受け入れた者たちで、その誤った種々の行ないは見のがした、楽園のともがらのうちにいる者であろう。これはかれらに結ばれた、真実の約束である。
クルアーン46.15 ~ 16(イスラーム)


比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。


比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕、に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉って父母に事へ恩に報ひたるものなり。
阿含経増支部i.61 (仏教)25


教友の一人が、「神の使徒よ! 私にとって最も高貴な人は誰ですか」と尋ねると、彼は、「お前の父だ」と答えた。「二番目に高貴な人は誰ですか」と尋ねると、使徒は「お前の母だ」と答えた。「私の母の次は誰ですか」という問いに、神の使徒が答えた。「お前の父だ」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)


息子よ、お前はなぜお前の父と争っているのか。彼がこれまでお前を育てたのだから、彼と言い争うのは罪悪だ。
アーディ・グラント、サーラング、M.4、P1200(シーク教)


父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。神に従う人の父は大いに喜び
躍り、知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。父が楽しみを得あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。
箴言23.22 ~ 25(キリスト教)
父よ、私を寵愛なさることに感謝します。母よ、私を平安にしてくださることに感謝します。衣服よりもっと大切な知恵で私を包んでくださり、父母よ! 感謝します。奴隷たちはあなたに奉仕するでしょう。下人たちはあなたを助けるでしょう。
私が生んだ子供たちはあなたのお世話をしてさしあげるでしょう。
ヨルバ族の結婚式の祝歌(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


皆さん、父母と子女の関係を誰も改めることはできません。説明で否定することはできません。それは力でも否定できず、いかなる知識、いかなる権力、いかなる金力でも否定できません。何をもってしても、この父子の関係を否定できないのです。これは宿命的です。いくら分かれても、永遠に分かれる言葉がありません。ですから、これは、愛と生命と血筋によって、神様を中心に永遠に一体になれるのです。(206-235、1990.10.14)


父母の関係は、どのようなものですか。父と息子、娘として、永遠に切り離すことのできない愛の関係です。それを否定できますか。堕落した世の中であっても、父母が子女を愛するのは変更させられません。動物世界で母親が子供を愛するのは、教育や革命を通しては変更させられないのです。億千万世継続するのです。永遠なものです。不変です。ですから、母性愛は不変の真理です。宇宙全体が母性愛を中心として回っていくのです。
(143-52、1986.3.15)
皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に、初めて完成されます。


ですから、父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここから、父母を敬い、子供を愛しなさいという言葉が出てきます。
父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人が四方を区別でき、上も下も区別できるのです。
(18-209 ~ 210、1967.6.8)


父母は子女のために、子女に命まであげたので、子女は父母のために……。生命は愛から生まれたので、本質的な愛の前には、生命を犠牲にしていくのが論理的な結論です。矛盾した結論ではありません。(137-76 ~ 77、1985.12.18)
父母の愛に報いなければなりません。父母が子女を育てるとき、父母が食べることができなくても、食べる物があれば、自分の減ったおなかを押さえ、歯を食いしばって空腹を克服しながらそれを子女に与えます。その愛は、父母のためにそのようにできる子女として育てるためです。


父母が先に苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台となり、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのようにできる息子、娘になるのであり、そのようにできる息子、娘をもってこそ、善の血族として残れるのです。


自分自身ばかりを中心として父母は知らないとすれば、その人は絶対に孝子にはなれません。それでは、どのような人を孝子と言うのでしょうか。父母が子女のためにしていたのと同じように、子女が父母にすることができれば、その子女は孝子だと言えます。それは天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くしていきながら育てたにもかかわらず、その子女が自分にはかかわりのないことだと思っていれば、その家は滅びるようになるのです。


与え合う道理において相対的基準が造成されてこそ回っていくのであり、またそのようになって、初めて神様がその場に臨在され、天国を成していくことができるのです。


それでは、天国に残れる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを、自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものをぬぐってくれた父母の心で困難に耐えて、父母に仕えてこそ孝子になれます。
(35-241 ~ 242、1970.10.19)


家庭で「孝行しなさい」と言いますが、なぜ孝行と言うのですか。それは父母を中心として、父母が行くべき愛の道に、同参者になりなさいということです。その父母の真の愛の道には、天倫がついていくのです。父母だけが行くのではなく、見えませんが縦的な天倫がここに因縁を結んでいくので、父母と一つになりなさいというのは、天倫の役事、見えない縦的な役事と横的な役事の両面の心情圏を受け継いでいきなさいということです。


これが、「父母に孝行しなさい」と言う理由です。これを知らなかったのです。最近は、「父母に何
を孝行するのか」と言います。アメリカでは、そのような考えをもっています。


「父母が私達を生むとき、私達のことを考えて生んだのか。自分たちがよくて生んだのだろう」という考え方です。それは、この原則を知らない考えです。


すべての役事は、縦的な基準が立ってこそ、横的な基準が立つようになります。ビルを建てるときも、まず垂直線を合わせてこそ建つのです。そして、水平線を合わせなければ、いくら高い建物でも倒れます。同じように、私達人間が世の中に立っていること自体が、既に縦的基準に合わせているのです。(136-203、1985.12.9)
最近は、子女が父母を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは、終わりの日です。私達統一教会は、このようにしてはいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけないのです。統一教会は、真実で永遠に肯定できる因縁をもたなければなりません。父母は父母で、子女は子女で、師は師で関係を結ばなければなりません。したがって、若い人だけではいけないのです。み旨には、年を取った人も必要です。
(21-121、1968.11.17)




3.兄弟愛


兄弟間の愛と調和は、家庭平和具現の本質的要素である。父母にとって、兄弟の対立闘争より大きな心配事はない。しかし、一般的な傾向から見るとき、兄弟間の競争により、調和が簡単には維持されていないのである。


兄弟関係は、父母の愛に基づく。兄弟は、自分の父母の生活様相を反映する。そのため、父母が子女を世話して模範を見せれば、子女たちはお互いに世話をしながら、簡単に調和を成せる。さらに兄弟愛は、社会における友人と同僚の間の円満なつながりを形成するための第一歩である。神様を家庭の父母として侍るとき、全人類は兄弟姉妹の関係が造成される。ここで兄弟愛は、人類愛として拡大されるのである。そのため、自分の「兄弟」間の赦しと和解に関する経典の教えは、家庭における兄弟だけでなく、信仰共同体における兄弟姉妹に、そして究極的に世界の全人類に適用されるこどを教示する。


―宗教経典―


見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。
詩編133(キリスト教)


信者たちは兄弟である、それでなんしらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)


孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)


『詩経』に言う、「妻子はよく和合し、おおごととことを弾いて相和するようである。兄弟は和合していて、和楽してまた深く楽しむ。汝の家がよく和して、汝の妻子は楽しむ」と。孔子が(上の詩を賛嘆して)言われ.た、「(妻子と和し兄弟とよければ)父母は安楽である。」
中庸15.3(儒教)


あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5.21 ~ 24(キリスト教)




―み言選集―


子女間の愛は、どのようなものでなければなりませんか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。父と母が愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというと、父母から学ばなければならないのです。愛を受け継ぐための準備は、兄弟を通してしなければなりません。


もし妹がいれば、その妹を愛するとき、自分の母親を愛するようにしなければなりません。妹が兄を愛するときは、父親を愛するようにしなければなりません。男性の兄弟と女性の兄弟は、互いに父母と子女の間の愛を感じなければならないのです。すなわち、父が息子を愛するように兄は弟を愛し、母が娘を愛するように姉は妹を愛さなければなりません。
. (66-121、1973.4.18)


いったい、どのような人が孝子ですか。「お父さん、お母さん、愛しています。ああ、愛しています。愛しています。すべて愛しています。しかし、弟とはけんかします」と言えば、その人は孝子ではありません。その母親は、「あなたが私を愛するように、いや私を愛するよりも兄弟をもっと愛するのが孝子だ」と言うでしょう。この原則は、簡単です。この原則さえ人類が信じ、命を懸けて愛すれば、地上に天国は成し遂げられざるを得ません。
(95-189、1977.11.13)


ある家庭に兄がいて弟がいるのですが、その兄は大統領であり、弟は労働者だとすれば、兄が弟に、「おい、お前は労働者だから、家に入ってきて労働でもしろ」と言うことはできません。真の兄だとすれば、弟が自分のようにできないことを恨に思いながら、立派にしてあげたいと思う心情が動くのが真の兄の心です。
(7-38、1959.7.5)


兄弟の困難を、自分の困難よりも重要視しなくなるとき、兄弟間の関係は疎遠になります。このように見るのです。(62-188、1972.9.25)
一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し、自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。
(31-235 ~ 236、1970.6.4)


理想は、どこにあったのでしょうか。男性と女性には、息子、娘が理想です。男性もいて、女性もいるのが理想的な兄弟姉妹でしょう? 男性ばかりだと、けんかしかしません。兄が妹をたたき、一度えんえん泣いても、翌朝になれば、また来るでしょう? 男性同士では、一度けんかすると1週間はかかりますが、女性は頼りたい心をもっているので、一晩寝れば忘れてしまい、「お兄さん!」
と言ってやって来るのです。兄弟姉妹が、そのように一緒に和合しながら幸福な家庭を築く中で成長する人は、天宙の展示会をするのと同じです。
(205-81、1990.7.7)




今まで皆さんは、兄や姉とけんかし、兄弟同士でけんかして、くるっと背を向けて出てきたことがあるなら、宴を開いて満足させてあげ、「私を許してほしい。これからは、私達の父と母が愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。それは、どれほど美しいことですか。


父母が二人とも霊界に行ったあと、兄弟たちに、残った父母として私が侍ろうと考える人は、どれほど幸福かというのです。兄弟は父母の身代わりなので、残った父母に侍ろうということです。兄弟が苦しんでいれば私が助けてあげ、母親にしてあげたのと同じようにしてあげれば、それはどれほど美しいですか。そこから天国が始まるのです。


祖父がいるでしょう? 父母がいるでしょう? おじさんがいるでしょう?おばさん、お姉さん、すべているでしょう。この3代圏を中心とする、そのすべての親戚を中心として生まれたすべてのものは、私達の父母を見せてあげるためであり、私達の祖父母を見せてあげるためです。さらには、神様を見せてあげるために私にくれた贈り物だと考えてください。


このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したのが世界なので、社会を見れば、祖父母の年齢、叔母の年齢、叔父の年齢、父母の年齢、兄の年齢、姉の年齢、弟の年齢、すべてがそうです。年を取った人たちには祖父母として、侍ってために生き、そのように愛するのです。その次には、父母のように、兄と弟のようにために生きようとしなければなりません。


神様も同じです。神様は、私達の父ではないですか。世界の人を見せてあげ、兄弟として愛しなさいと言うのです。かわいそうな乞食がいれば、その乞食が父親の年齢なら、父親のようにために生きていける心、それはどれほど美しいですか。神様から見るとき、すべてが自分の息子、娘なのに、けんかしていていいでしょうか。同じ道理です。全人類が神様の息子です。同じ概念です。
(184-65 ~ 66、1988.11.13)




カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも、私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて、最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、1957.11.1)






4.友情


兄弟関係で学んだ教訓は、友人関係の維持に直接適用される。友情は、兄弟愛の社会的な拡大形態である。堅い友情は、情緒的つながりを造成し、社会倫理を定着させる。良き友人は、正直で信実で真実である。そしてそれは、友人、すなわち他人の利益を追求する原動力になる。反面、悪しき友人は、自身の利益のために友人を利用する。経典は、何よりも友人選択に慎重であることを勧告する。






①真実な友人と偽りの友人


―宗教経典―


男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。かれらは正しいことを命じ、邪悪を禁ずる、また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、神とそのみ使いに従う。
クルアーン9.71(イスラーム)


友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13(キリスト教)


曾子がいった、「君子は文事(詩書礼楽)によって友だちを集め、友だちによって仁の徳〔の成長〕を助ける。」
論語12.24 (儒教)


あなたをため私は悲しむ。兄弟ヨナタンよ、まことの喜び、女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。(注4)サムエル記下1.26(キリスト教)
犬が言った。「お前が転び、私が転べば、その遊びは楽しいだろう」。(注5)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)


羊が二匹一緒に歩くのは、一匹の羊が他の羊の目にある埃を吹いてあげなければならないからだ。(注6)
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)


同人九五の交辞には「人に同じうするに先には号き叫び後には笑う」とある。これについて孔子は次のように言う。君子の道は、時には出でて朝廷に仕え、時には退いて野に処り、時には黙して語らず、時には大いに語り論ずるなど、時に応じで様々であるが、その心情の正しさを重んずる点においては変わりがない。正しい心情の持主が二人して心を合わせればその鋭さは金鉄をも断ち得るほどであり、心を同じくする者のことばは、蘭の香りのごとくにかぐわしいものである。
易経、周易繋辞上伝1.8.6 (儒教)




孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは、有益だ。体裁一つたのを友だちにし、うわべだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」(注7)
論語164 (儒教)


威に服して心にもなく親しくなる者、口先うまい仲間もまた同じこと。うわべは従順で人をたぶらかす仲間、悪事の友悪いことをする仲間、これらの仲間はあてにならない。知恵ある者は心して、すみやかに彼らを遠ざけよ。


ちょうど険しい道を避けるように、悪を防ぎとどめる友、人を慈しみ大事にする友、人に利益を与える友、一緒に事を行っでわが身のごとくみなす友、こうした友にこそ親しめよ。智者が近づくのはこうした人、友の中でもたぐいなき友、慈母がわが子を慈しむように。
阿含経長部iii.187 善生経(仏教)


私達が周りにいないとき、私達が不在のとき、私達のために行う者はごくまれだ。しかし、私達がいるときはすべての人たち、奴隷であれ自由人であれ、私達に愛を表す。
ヨルバ族の詩(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


この世の中で最も良い友人がいるとすれば、その良いという友人は、億千万世までもお前と私の間を断ち切ることはできないという、そのような良い立場の友人かというのです。いかなる高価なものよりも、自分の妻よりも良いと言える友人が良い友人です。


一日の生活感情の一言で捨ててしまえる、そのような因縁の立場ではありません。命自体を刈り取られていっても断ち切れない立場が、このような友人の立場なのです。そのような、同情の立場ではないと言える立場が善の母体なので、今日、私の本心に共にあった善と関係を結んだすべての因縁は、永遠に断ち切ろうとしても断ち切れません。分けようとしても分けられないのです。
(42-218、1971.3.14)


真の友人とは、どのような人ですか。「私のためにいなさい」と言うところには、真の友人はいません。真の友人は、友人のためにいようというところにいます。10 人の友人がいれば、その10 人の友人のために一生の間奉仕したというとき、その10 人の友人に「今までであなたにとって1番の友人を選びなさい」と言えば、彼らはみな、その10 人の友人のために一生の間奉仕し、犠牲になった人を選ぶでしょう。
(70-72、1974.2.8)


人間はつき合うにおいて、互いに知る時から、その時間が長くなれば長くなるほど、そこには生活的な面でも通じ合えるようになります。それだけでなく、情緒的な問題までも連結されるのです。私が生きている立場、全幅的な分野が関係している相手と共に立体的な立場を備えることを願うようになります。それが大きく、広く、高いほど、彼は私の前からいなくなってはいけない、友人
なら友人なのであり、あるいは家庭なら家庭になるのです。
(59-296、1972.7.30)


幸福な人とは、どのような人ですか。悲しいとき、自分の心を分かってくれる友人をもった人です。幸福な人とは、どのような人ですか。苦痛を受けるとき、「その苦痛は私が代わりに受ける。あなたはその苦痛の場に行くな。私が代わりに行く」と命を覚悟して立ち上がれる友人や愛する息子や娘をもった人です。その人は、幸福な人です。
(150-196、1961.2.15)


友人との間でもそうです。ただ顔だけを知っていて、互いにあいさつだけをして過ごす友人の家に行けば、自由ですか。自由ではないのです。友人との間でも、必ず互いの心情的紐帯があり、私が友人の生活に思いどおりに入り込むことができてこそ、自由なのです。このような因縁を結ぶためには、必ず情的に近くなければなりません。そのようになれば、外的な間題は、すべて解決されます。したがって、最も問題になるのが心情的な問題です。
(33-133、1970.8.11)


友人になり、誰よりも親しく愛される人になろうとすれば、その人の悲しみと苦痛を理解して、それを慰労してあげなければなりません。心情を通して愛で因縁を結べば、その人が私の思いどおりに動き、私もその人の思いどおりに動けるのです。
(7-306、1959.10.11)






②友人選択の知恵


―宗教経典―


悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
法句経78(仏教)


悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。
コリントの信徒への手紙一15.33(キリスト教)


汚れたものを近くにすると、一緒に汚れるだろう。純潔なものを近くにすれば、純潔になるだろう。
ミシュナ、ケリーム12.2(ユダヤ教)


立派なものは友とすること、それはあなたが体と霊魂で徳を実践するのを助けるだろう。邪悪なものとは距離を置いて離れること、それは悪があなたに接近するのを防いでくれるだろう。
陰隲文(道教)




正直者の群れの中に座せ。善良で高潔な者と交われ。いや、敵意が和らげられない所において高貴な敵を探し、邪悪で不義なる者と関わりを持つな。たとえ捕らわれの身にあったとしても徳のある者、学識のある者、真実なる者と共に生きるべきである。しかし王国のために、汝は邪悪で敵意のある者と共に留まってはならない。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)


誰かを友とし、誰かと交われば、彼はその人と似た者となる。なぜならば、交際とはそのようなものである。交わる者はおのれと交わる他者を、接触する者はおのれと接触する他者をけがす。きたない矢がけがれていない矢束をけがすごとくである。けがされることをおそれて、賢者は、けっして悪人の友となるべきではない。
如是語経76(仏教)


共に住むことによりて〔初めて〕、戒は知らるべきことなり。それも長き間〔共に住むことによる〕。又少しく思惟することによるにあらず。如何に況や思惟せざることにおいてをや。それは又智慧ある者によりて〔知らるべく〕智慧なき者によりてにあらず。大王よ、共に交ることによりて〔初めて〕清浄なることは知らるべきなり、会話によりて〔初めて〕、智慧は知らるべきなり。それも長き間……乃至……智慧なき者によりてにあらず」と。
感興偈65 ~ 66(仏教)


友をつくるときは、試してからにせよ。すぐに彼を信頼してはいけない。都合のよいときだけ友となり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。また、心変わりして敵となる友もいて、争いでお前が吐いた悪口を暴露する。食事のときだけ友であり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。


お前のはぶりがよいと、お前のようにふるまい、お前の召し使いたちになれなれしくする。しかし、お前が落ちぶれると、背を向け、お前の目から身を隠す。敵からは遠ざかれ。友達には気をつけよ。誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、そのすばらしい値打ちは計り難い。誠実な友は、生命を保つ妙薬。主を畏れる者は、そのような友を見いだす。主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから。
シラ書〔集会の書〕6.7 ~ 17(キリスト教)




―み言選集―


私達の人生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくにおいてもそうです。一言の言葉が人生を左右することがいくらでもあります。言葉を一言話すことによって、人生を台無しにすることがいくらでもあるのです。それと同じように、聞くこともそうです。


一言、一度間違って聞くことによって一生を台無しにするのです。また、行動においてもそうです。一度間違って行けば、やはり人生を台無しにするのです。また、皆さんが友人とつき合うにおいても、一人の友人と間違ってつき合うことによって一生を台無しにすることもあります。


そのようなことが人生に1度や2度ではないので、昔から、考える人たちは、言葉に気をつけ、聞くことに気をつけ、行動に気をつけ、友人に気をつけなさいと教えてきました。これは古今東西を問わず、あるいは洋の東西を問わず、同じ公式として通じるのです。


人を見ると、自分が不利で、自分が困難なときには、人のことを考えるのが難しいのです。これは公式的であり、共通です。そのとき、自分の困難を免れるためには友人も利用でき、環境も利用でき、話も変えられ、行動も変えられます。そのような環境が待っていることは事実です。


このように見るとき、人間の世の中で誰を信じるのでしょうか。私が誰かを頼って、あらゆる正しい道を行くことが難しい立場はいくらでもあります。良い友人だと私が信じていたにもかかわらず、あとでその人が私を踏んで利用する境遇が多いのです。そのようにできるようになっています。ですから、そのような観点から見るときに、誰を友人とするのか、誰と一緒に良いきっかけをもつのか、このような問題が世の中の大きな問題です。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)


皆さんが友人とつき合おうとするときは、発展できる友人か、そうでなければ希望がない友人かということが問題になります。希望がない友人と関係を結べば結ぶほど、自分にだんだんと無価値な結果が現れざるを得ません。ですから、より良い友人と関係を結び、より良いあすのために準備して、努力しなければなりません。
(32-14、1970.6.14)


皆さんの中に、個人主義の思想が濃厚な人を友人にしようという人がいますか。自分だけのために生きようとする人は、良い友人ですか、悪い友人ですか。悪い友人です。なぜ悪いのですか。分けてしまうからです。個人と家庭と氏族から、すべて分けてしまいます。ついたてで仕切るようにふさいでおくのです。


なぜ悪いのか、はっきりと知らなければなりません。悪とは何ですか。悪は私的なものと通じます。もとから悪を好む人がいますか。種粒ほどもいません。皆さんも良い友人を願うでしょう? 悪い友人は嫌うでしょう? それでは、良い友人とは、どのような友人ですか。「御飯も食べず、学校にも行かずに出てこい!」、そのような友人が良い友人ですか。友人が、御飯を食べる時間に御飯を食べていなければ御飯を食べさせ、学校に行かないと言えば、学校に行くようにする、このような友人が良い友人です。悪い友人は、これと反対だというのです。ここから善悪が分かれます。
(36-69、1970.11.15)


「ああ、あの人は、私の友人の中でこの類型の人のようだ。あの人は、私が知っている100 人の中でこの類型の人だ」ということを比較、研究しなければなりません。それで、3、4の類型の人を選んで確認してみるのです。温柔な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、その次には、もたもたする人なのかを確認するのです。
(54-177、1972.3.24)




5.夫婦愛


百年佳約(夫婦の一生の契り)は、神聖なものとして許される。それは、神様の祝福と約束を伴っている。夫婦愛の喜びは、神様の贈り物である。夫婦愛を通し子女を養育することによって、私達は神様と共同創造者として、宇宙秩序に参与する。ここにはまた、一つの重要な意味が内在している。
私達は、夫婦愛を通して神様に出会ったのち、最も親密で現実的な方式で、神様の愛を直接体恤する一定の位置を確保することができる。


文鮮明先生は、この主題に対して広範囲に数える。先生の教えによれば、結婚は、人間完成の必須的な前提条件である。結婚の配偶者が自身の愛を強化して人生を再創造する方法に関し、文先生は様々な次元で実際的な忠告を提供する。夫と妻の双方の愛情は、彼らには半分にすぎないものである。より一層根本的なことは、祝福結婚を通して神様と人間の間に垂直的な愛が具現されるという点てある。愛の神様は、自身の愛を反映するために男女の間の人間的愛を創造した。そのため、それは絶対的であり、不変であり、唯一なものである。


神様が私達各自を個別に愛するのと同じように、配偶者たちもそのように互いに誠実に愛さなければならない。今日、多くの人々が結婚の価値に対して尋ねるとき、彼らは自らの人生を神的な設計に立脚し、結婚の位相を格上げするために、宗教の声に深く留意する。


経典の様々な章句は、神様がエデンの園で制定した本然の計画に基づき、結婚に言及する。ここには文先生の独特な寄与がある。先生は、人間堕落の過程を明らかにし、本来の高貴な夫婦愛がどのように転落したのかを具体的に解明する。堕落の結果、やむを得ずに伝統的な人間の愛は神様の愛の秩序から逸脱し、このことにより結婚理想は具現され難い立場に置かれた。文鮮明先生の中心的な使命の一つは、全人類が本然の夫婦愛を回復するようにすることである。それを具現するための一環が、祝福結婚の儀式である。


①夫婦愛と愛情


―宗教経典―


互いに甘い目くばせを交わし、私達の顔が真の和合を示さんことを。私をあなたの心の中に秘め、同一の霊が私達の内に住まわれん事を。私はマヌより受け継いだ我が衣をもってあなたを覆う、あなたが完全に私のものとなり、他の者を求めぬように。
アタルヴァ・ヴェーダ7.36 ~ 37(ヒンドゥー教)


ただ一緒にいるからといって夫婦なのではない。真実に結ばれた二人は、一つの光として生きる。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p.788(シーク教)


またかれが、なんじら自身の中からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。
クルアーン30.21 (イスラーム)
私を刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。


大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと、財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる。
雅歌8.6 ~ 7(キリスト教)


ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く。あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。お誘いください、私を。急ぎましょう、王様私をお部屋に伴ってください。(注8)
雅歌1.2 ~ 4(キリスト教)


切断、細分、また分割、見よ、スーリアー(新婦)の形態(または色)を。されど祈祷者はそれらを清む。われ幸運のために汝の手を握る、汝が夫たるわれと共に老寿に達せんがために。バガ・アリアマン・サヴィトリ・プランディ(豊饒の女神)、もろもろの神々は、汝を家政のためわれに与えたり。


プーシャン(道祖神)は、勝れて吉祥なる彼女を送りよこせ、そが中に人間が種子を播くところの。その彼女は慾望に満ちてわれらのために両腿を開かん、われらは慾望に満ちて、その彼女の中に陽を入れんと欲す。……両人は〔常に〕ここにあれ、離るるなかれ。寿命を完うせよ。子と戯れ、孫と〔戯れ〕、おのが家に楽しみつつ。


プラジャー・パティ(造物主)はわれらに子孫を生ましめよ。アリアマンは〔われらを〕、老ゆることなく合体せしめよ。凶兆なく夫の世界(家)に入れ。われらが二足のもの(家人)に幸福を、四足のもの(家畜)に幸福をもたらせ。


不吉の眼差なく、夫を殺すことなかれ。家畜に親切に、好意に満ち、光彩に富み、男子を生み、神を敬い、心地よく、われらが二足のものに幸福を、四足のものに幸福をもたらせ。


恵み深きインドラよ、汝はこの婦人をしてよき息子をもち、幸運に富む者たらしめよ。彼女に十人の息子を授けよ、夫を第十一番目の者となせ。舅に対して全権ある者となれ。姑に対して全権ある者となれ、夫の姉妹に対して全権ある者となれ。夫の兄弟に対して全権ある者となれ。


一切の神々は、また水は、われら両人の心を合体せしめよ。マータリシュヴァンは、ダートリ(創造神)は、またデーシュトリー(「指示者」、女神の名)は、われら両人を一体ならしめしよ。(注9)
リグ・ヴェーダ10.85.35 ~ 47(ヒンドゥー教)


かうかうとみやこどり
かはのなかすに
たをやかのかのひとは
よきひとのつま
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりかきてとる
たをやかのかのひとは
よすがらにもとめつつ
もとめつつあひえねば
よすがらにものおもふ
おもひつつわびしくて
いねがてにふしまろぶ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりつみてとる
たをやかのかのひとは
ことかなでしたしまむ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりえらびとる
たをやかのかのひとは
かねうちてたのしまむ(注10)
詩経、周南、1 關bw(儒教)


からからと車のaiくさび)が鳴り
美しい末娘が嫁いでゆく
心飢ゑて求めるのではない
魂あへる人なれば
よき友人ともしとも
うたげして喜ぶべきぞ
生ひ茂る林に
飛ぶは山鳥
うましかの人
めでたくぞいます
やすらひたのしみて
君をいとふことあるまじ
うま酒なけれども
いざ酌みたまへ
よき肴なけれども
いざ食したまへ
ふざはしき徳なけれど
しましくは歌ひ舞はむ
かの高山に陟(のぼ)り
柞(はなそ)の枝を切る
柞の枝を切れば
その葉しなやか
めぐし君を見れば
心晴るるぞかし
詩経218 車ai儒教)




―み言選集―


神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができれば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世の中的な愛ではありません。その愛は、最高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。そのような愛が成し遂げられる所とはどこかというと、家庭です。
(26-154、1969.10.25)


愛する妻と夫の愛は、何かの条件的な愛ではありません。無条件的な愛です。その愛は、永遠に絶対的な愛です。
(112-294、1981.4.25)


愛する立場では、女性が男性の胸深くに入り込んだとしても、男性は反対しないのです。男性も同じです。千万世の壁がふさがっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難にかき分けて越えていけるのは、愛です。
(49-52、1971.10.3)
愛するときは、一つの体になって愛さなければなりません。男性と一つの体になった女性が真の愛で一つになり、その夫婦が離れられない関係になったとき、永遠に共存するのです。
(187-47、1989.1.5)


結婚がなぜ重要なのですか。愛を求めるものだからです。愛を知る道だからです。生命を知るものだからです。女性の生命と男性の生命が一体になる道です。次に、男性と女性の血統がここで混合されるのです。これを通して歴史が生じ、国が生じ、世界が生じ、理想世界が生じます。これがなければ、個人もなく、家庭もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっているのです。
(279-114 ~ 115、1996.8.1)


夫婦の天国は、どこからできるのでしょうか。プラスどマイナスが完全に一つになる所です。それは、結婚した日から喜んで暮らしていて、何年もたたずに離婚してグッバイするものではありません。
もう夫婦の天国が、どのような所か分かりますか。誰も夫婦を離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、上のほうでくっついているのです。皆さんは、どのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていくのです。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。
(96-29 ~ 30、1978.1.1)


結婚に目的があれば、その目的とは何でしょうか。「男性と女性が出会い、ただそのように暮らすことだ」、それが結婚の目的ですか。違います。「心の世界を、男性と女性の心の完成を成し遂げるためのものであり、男性と女性の愛の完成を成し遂げるため」です。このような観念が全くありません。結婚したということは、「私はそのような証拠をつくろう」と宣布することです。そして、「結婚生活を通してつくろう。死んでいくとき、私はそれをつくってから逝く」と考えれば、間違いなく天国に行くのです。天国は、ほかのものではあません。
(97-277、1978.3.26)
女性は男性を、父を身代わりし、夫を身代わりし、兄を身代わりし、弟を身代わりした立場の者として愛さなければならず、また男性は女性を、母を身代わりし、妻を身代わりし、姉を身代わりし、妹を身代わりした立場の者として愛さなければなりません。この四つの立場を身代わりし、世界を愛する心で最も近い所で愛し、尊敬しながら、互いにその刺激を感じるように結ばれた因縁が夫婦です。


世界を愛する代わりの立場で、世界的な愛を与え合える最も基本単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表する人間として愛し得る二人の男女が、新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴という場です。ですから、結婚すれば、妻を母の代身として、姉の代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫を父の代身として、兄の代身として、弟の代身として、それ以上に愛する心をもって愛さなければなりません。これが理想相対を中心とする家庭的夫婦の愛です。
(37-109、1970.12.22)
神様は、平安であるよりも、自分を抑えながら昼夜走るのを好まれます。なぜですか。サタンを滅亡させられるからです。結婚も同じです。結婚は、私のためにするものではありません。女性は男性のために結婚するのです。結婚するとき、器量の良い美人が優れた男性をもらおうとすれば、それはすべてサタンだというのです。そのような結論が出てきます。


この原則を知れば、一人の男性として結婚するとき、本当に女性のためにするのであれば、「自分は美男子だが、本当に醜い女性であっても、美人以上に愛そう」という考えをもたなければなりません。これが原則的な考えです。私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛し得るという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛することはできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)


それでは、統一できる方法とは何でしょうか。互いに愛することです。相手が哀れに思えて愛することもでき、好きでも愛せます。夫婦同士、初めから好きで愛せる人はいません。(注11)だんだん愛せるようになるのです。ある夫人が夫を見ると、性格が意地っ張りです。その意地っ張りのおじいさんを誰が愛するかというのです。


けれどもその夫人は、「あの意地っ張りゆえにどんなにぶつかることが多いか」このように考えて、かえってかわいそうに思うというのです。そのようにかわいそうに思って愛してあげれば、そのおじいさんは一番孤独で悲しい時に、夫人の所に行き訴えるようになっています。そのようになるのです。


また、そのおじいさんが頑固なのを見れば、自分は頑固でないので、おじいさんの頑固が使い道のある時もあります。ですから好きでも愛し、かわいそうでも愛せます。そのような心だけもつようになれば統一されるのです。
(41-332 ~ 333、1971.2.18)
私達統一教会の食口たちは、貧しい暮らしをしています。だからといって、これが不幸なのではありません。一つのパンでも分け合って食べて暮らす生活、それがどれほど良いでしょうか! 互いを大切にし、互いに一食抜き、自分の妻に食べさせようとし、夫に食べさせようとする、その愛の谷間は、どれほど深いでしょうか。
(216-270、1991.4.7)


人には、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らに対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。
(23-57 ~ 58、1969.5.11)


祝福家庭を天の国で神様が見れば、星のように光り輝いているというのです。神様も喜ぶというのです。最高の太陽のように、月のように光り輝く、愛するカップルになろうと思わなければなりません。そして、掘って、掘って、掘って、掘っても、10 年暮らしても、その愛の谷間を探し出せません。それで一生の間、掘って掘り続けながら死んで、天の永遠な世界に行って、初めてすべて合わせるのです。


ですから、夫に対して研究してください。夫を見れば性格がこうだと思っていたのに、後ろを見ると宇宙全体があるのです。神様よりもっと驚くべきものだと思うというのです。上から下に、東西、四方に違うではないですか。ですから、結婚する時に私の夫はこうだと思っていたことから抜け出せなければ、愛の理想を成就できません。回って上も見て、下も見て、寝ている時も見て、すべて研究しなさいというのです。


あなた達は、夫に関して、死んでも忘れられない魅力的な部分を記憶していますか。それは何ですか。体全体です。じっと見てみてください。お互いにけんかをする時も、目を見ればパチパチするのが私と似ている、息をするのが私と似ている、聞くことも私と似ている、唇も私と似ている、感じることも私と似ている、そこに私が喜ぶ愛も私と似ているので、それを手放すことはできない、そのようなことを感じてみましたか。


心は年を取らないのです。心が年を取らないならば、愛はどうでしょうか。生命はどうでしょうか。その次に、血統はどうでしょうか。神様の真の愛を中心としては、すべて年を取らないのです。愛が10 年、20 年と深くなっていけばいくほど、もっと美人になるというのです。世の中で一番の美人になり、美男子になるというのです。


地上では醜男醜女でも、黒人でも、愛の中心として見れば、一番の美人になります。愛の光以上に明るいものはないので、あの国では、どんな哀れな姿でも最高の美しい姿へと、どんどん若くなっていくというのです。世の中で考える美人たちは、どんどん老けていきます。世の中の美人は、あの国に行けば醜女になり、この世で美しさを中心として夫婦が愛すれば愛するほど、さらに美男になり、美人になります。


愛の光は最高に高く、最高の光なので、そうならざるを得ないことを知らなければなりません。さあ、ですから愛する妻は、天宙の私の光であり、私の夢であり、私の幸福であり、私の平和はそこにあるのです。天の心以外には、美人にする道はありません。
(297-168 ~ 170、1998.11.19)


先生が祝福してあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極が出会うようにしなければなりません。東と東、北と北が出会うようにしてはいけません。北と南、東と西が互いに出会うようにしなければならないのです。


背の高い男性に背の高い女性を出会わせてあげなければなりませんか、背の低い女性を出会わせてあげなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むことはありません。また太った女性が太った男性を好むことはありません。やせた男性は、太った女性を好むでしょうか、やせた女性を好むでしょうか。太った女性が好まなければ、自分もやせているのに、女性までやせたらどうなるのですか。山に大きな木ばかりあれば、見栄えが良くないのです。小さな木もあれば、見栄えが良くなります。
(26-333 ~ 334、1969.10.3)


天国は、家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は、天国に入れない。
御旨の道、天国

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世界経典-67

2022年08月14日 16時39分14秒 | 学習


②断食


―宗教経典―


第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなた達は苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
レビ記23.27 (キリスト教)


信仰する者よ、なんじら以前の者に定められたように、なんじらに斎戒が定められた。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。斎戒は定められた日数である。だがなんじらのうち病人、またはたび路にある者は、後の日に同じ日数を斎戒すればよい。それに耐え難い者の償いは、貧者への給養である。すすんで善い行いをなすのは、己れのために最もよい。もしなんじらがよく、その精神を会得したならば、斎戒はさらになんじらのためによいであろう。


ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きの明証正邪の基準ために、クラーンが下された月である。それでなんじらのうち、この月家にいる者は、この月じゅう斎戒しなければならぬ。病気にかかっている者、またはたび路にある者は、後の日に、同じ日数を斎戒する。神はなんじらに易きを求め、難きを求めたまわぬ。これはなんじらが定めた期間を全うして、導きに対し、神をたたえるためである。おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン2.183 ~ 85(イスラーム)


私の息子よ、お前は同僚の何かの助けにならなければならない。その理由として、私はお前に断食することを勧告する。私達の中にいる私達の先祖は、あらゆる種類の祝福を送っている。努力してこの祝福を受けよ。ウォーチーフの中の一人、私達の先祖の中の一人が、お前を哀れに思うようにせよ。そうすれば、ある日、(生命の)道に従って旅行するとき、お前は何をしなければならないかが分かり、障害物に出会わないだろう。


そうすれば、お前はどんな問題もなくお前が望む褒美を追求することができる。そのとき、栄誉はお前のものである。どんな問題点にも接することなく、お前はそれを獲得できるからである。


存在するすべての戦争の力は、戦争を統制している私達の先祖に所有されている。そしてもし、敬虔にお前が死ぬことをお前自身に渇望すれば、そのとき彼らはお前に祝福を下すだろう。今もしお前がお前の足を疲れさせなければ、もしお前がお前の顔を炭で黒く塗らなければ、お前がお前自身に苦痛を与えることは何の意味もないだろう。


この祝福は、努力なくして獲得されない。大地の創造者によって創造された霊魂の中の一つがお前を哀れに思うように努力せよ。その霊が語ることは何でもそのとおりになるだろう。もしお前がお前を強くするために一つの霊魂を所有しなければ、お前は全く大したものではなく、人々はお前をそれほど尊敬しないだろう。
ウィネバコ族の父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)


「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠
れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書6.16 ~ 18 (キリスト教)






―み言選集―


宗教では、体が願うことを否定します。体が願うこと、体が喜ぶこととは何ですか。平安なところを願います。ですから、その反対に苦痛の道を行きなさいというのです。その次には何ですか。食べることを好みます。良いものを食べようと考えるのです。ですから、「断食をしなさい」と言うのです。
(140-25 ~ 26、1986.2.1)


世の中で空腹なことほど痛ましいことはありません。おなかがすいていることを越えて、おなかがすいている以上に神様を慕わなければなりません。統一教会員はみな1週間断食をします。断食しながら12 時になる10 分前になれば、「ああ、9分残っている。ああ、8分残っている、ああ、1分、60 秒残っているなあ。ああ、チクタク、チクタク……。ああ、20 秒残っている。ああ……」と考えて12 時になれば、「ああ、御飯だ!」と御飯のことを考えましたか、神様を考えましたか。御飯を食べたいと思うよりも神様をもっと慕いましたか。おなかがすいていると思う以上に神様を慕わなければならないのです。


先生は、ですから30 代までおなかがすかない日はありませんでした。どれほど御飯を食べたいかというと、そばで御飯と言えば、口がこのように広がります。そのたびに、「ごは~ん」と言うよりも「神様~」と言うのです。このおなかがすいたというその力が、神様の愛が入ってくることができないようにすべてふさいでしまいます。
(94-294、1977.10.9)


私達の生活に神様の愛を接ぎ木するために、最も必要なものは何ですか。先生が恐れるのは体です。体が怨讐だということです。この体を中心として最高の三大真理があります。第一には食べることです。食べることは真です。空腹のときに御飯を食べたいと思うのは真理です。問題は、食べることが私を完全に占領してしまうことです。食べることを克服しなければなりません。食べることよりも神様を、空腹以上に神様を愛することができる基準をもたなければなりません。そうすれば、体を支配できる愛の道が開かれるのです。それで断食するのです。イエス様も40 日間断食しました。ほかのすべての修行者たちも断食をします。


二番目は眠ることです。眠りから解放されなければなりません。眠りを克服しながら、眠りに打ち勝つことのできる位置で神様の愛をどのように発見するのでしょうか。眠りが来るときにも、眠りを越えて眠ること以上に神様の愛を敬い慕わなければなりません。大勢の修行者たちは眠りと闘いながら精誠を尽くしました。眠りが怨讐なのでナイフで足を切ったり、ありとあらゆることをするのです。眠りを凌駕できる位置で神様の愛を敬い慕わなければなりません。


先生は7、8年間、一日平均2時間も眠りませんでした。空腹の境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができ、眠りたいと思う境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができるのです。
(94-293、1977.10.9)


③独身生活


―宗教経典―


イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書19.11 ~ 12(キリスト教)


復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタイによる福音書22.30 (キリスト教)


師(ブッダ)は答えた。「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。」
スッタニパータ815 (仏教)


思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このように私が言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
コリントの信徒への手紙一7.32 ~ 35(キリスト教)


妻子や家などに対して執着や愛着のないこと。好ましい、または好ましくない出来事に対し、常に平等な心でいること。ひたむきなヨーガによる、私への揺るぎない信愛(バクティ)。人里離れた場所に住むこと。社交を好まぬこと。常に自己(アートマン)に関する知識に専念すること。
バガヴァッド・ギーター13.9 ~ 10(ヒンドゥー教)
私は神々と人々と動物とのあらゆる性的快楽を放棄した。私が生きている限り、私は決して肉体的な欲望に屈服することはなく、他の人たちがそれに屈服するよう原因となるものを提供することもなく、他の人たちがそれに屈服するのを容認することもないだろう。
アーヤーランガ・スッタ24(ジャイナ教)


妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ60(仏教)




―み言選集―


人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内から抜け出ることができずにいます。ところが、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を受けることができますか。それで、宗教では独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子、娘をたくさん生みましたが、独身生活をしていなければなりません。


これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているということです。皆さんが知っているように、仏教もそうではないですか。カトリックもそうではないですか。それはなぜそうなのか知っていますか。神様の近くに行くのでそのように教えたのです。


人類の真の先祖にならなければならなかった方たちが、まだ結婚式をしてみたことがありません。ところが、生まれてもいないような立場にいる人間たちが結婚式をするのですか。堕落した子孫として生まれた息子、娘たちは、すべて救援のみ手を経て復帰の道を行かなければなりません。本来、私達人間には、宗教であるとか、復帰であるとか、祈祷であるとか、何の救世主であるとかいうものは必要ないのです。神様の愛の圏内ではそうなのです。
(21-45 ~ 46、1968.9.1)


今の堕落した世の中は、天が求めてくる摂理歴史の背後と根本的に違います。それで、この地上で宗教の道を行くときは、既にあった社会制度を全幅的に支持するところから出発しません。そのような宗教はないのです。否定から出発したというのです。肯定で出発したのではないのです。完全否定で出発しました。


仏教は山中修道を行い、キリスト教もやはり社会生活から離脱する、もちろん社会制度の中で生きるのですが、家庭をもてないこのような独身生活
をしなければなりません。禁欲生活をすると同時に、その次にはあらゆる血気を抑えなければなりません。人間が喜ぶあらゆる要件を、すべて否定するところから出発しなければならないのです。なぜそのようにしなければならないのですか。根が間違ったからです。
(155-288、1965.11.1)


原理で見るとき、世の中の男性たちは天使長の子孫なので、結婚する資格がありません。(注22)ですから、独身生活をしなさいというのです。まだ本然の父母が結婚できていないのに、いい加減になって下水のたまりに入っていった人たちが、自分勝手に愛することができますか。そのような愛は非法です。それで高次的な宗教が独身生活を強調するのです。
(25-203、1969.10.4)


天使に何の相対がいますか。それで、今まで宗教においては独身生活をするのです。本来、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。本当はキリスト教の牧師たち、すべて不合格者です。
(62-257、1972.9.25)


天使長とは、どのような存在ですか。天使長には相対の因縁を許諾しませんでした。皆さんが聖書を見れば、「私達のところに7人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じことになりました。最後に、その女も死にました。すると復活の時には、この女は、7人のうちだれの妻なのでしょうか」とサドカイ人がイエスに尋ねるとき、イエス様は、「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない」と答えました。


なぜそのような話をしたのかというと、天使長圏の復帰時代なのでそのような話をせざるを得ないというのです。まだ相対の因縁をもつことができないのが天使長圏です。ですから、今まで宗教が求めてきたものとは何でしょうか。天使長の使命圏内に立っているので、相対の因縁を付与できないのが宗教の歩んできた道でした。(注23)ですから、高次的な宗教であるほど、一人で暮らす独身生活を強調した理由がここにあることを、皆さんは知らなければなりません。
(50-193、1971.11.7)


④禁欲問題:愛の欠乏


―宗教経典―


たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
コリントの信徒への手紙一13.2 ~ 3(キリスト教)


たとえ裸形の修行者であり……たとえ野菜を食い、稗を食い、ニーヴァーラ種子を食い、たとえ麻の衣をまとい、半衣をまとい、……かれに、かの戒めの完成が実修されず、心の完成が実修されず、知恵の完成が実修されずに、体得されることがないならば、かれは、人の道から遠く、バラモンの道からも遠いだけです。




カッサパよ、修行僧として、敵意のない、憎悪のない、慈しみの心を実修し、またもろもろの(煩悩の)汚れを滅ぼし尽し、(煩悩の)汚れのない心の解脱、(煩悩の)汚れのない知恵の解脱を、現世において、みずからよく知り、まのあたりに見て、体得し、完成して暮らすならば、カッサパよ、実に、この修行僧は、道の人ともバラモンともいわれるのです。阿含経長部i.167 (仏教)


教典に規定されない恐ろしい苦行を行う人々、偽善と我執に満ち、欲望と激情と暴力に満ちた人々、無思慮で、身体に存する元素の群や、身体の内部に宿るこの私を悩ます人々、彼らを阿修羅的な決意を持つ者と知れ。(注24)
バガヴァッド・ギ一ター17.5 ~ 6(ヒンドゥー教)


おお、兄弟よ! 色を貪る心と利己的な我執を当然のように刈り入れよ。禁欲と苦行により、ただこの強い肉身を衰えさせたとして、何の役に立つのか、ただ衰えた肉身をもって、あなたは自ら苦行者であることをたたえられようとするのか。
ニシーハ・バシャー3758(ジャイナ教)
あらゆる聖なる諸儀式を捧げても、これを誇る心があれば、それらは自ら苦労するだけで無駄なことである。あらゆるつらい苦行をしても、これに偉ぶる心があれば、ただ天界と地獄を行き来し、輪廻を抜け出すことができないだろう。あらゆる努力にもかかわらず、自ら慈悲の心を示すことができないのだから、どうして神の国に入ることができるだろうか。
アーディ・グラント、ガウリ-・スクマニー12、M.5、p.278 (シーク教)


昔、厳しい誓いを立てた聖者であり、法において最も賢く、多くの学識を積んだマンダパーラという行者がいた。彼は(純潔を守って)自らの種を断つ聖者の道に従い、欲望と感覚を統御していた。彼は肉体を離れた後に、先祖達の世界に到達した。しかし彼はそこに自分の行いの実を見出すことが出来なかった。


彼は苦行によって徳を積んだにも関わらず、自分の世界にその報いが無いのを知って、ヤマに問うた。「なぜ私が苦行によって勝ち取ったこの世界は閉ざされているのか? これが私に対する報いだというのなら、私はどこで失敗したのか?」ヤマは言った。「人は生来疑いもなく祭儀とヴェーダの学習と子孫の恩恵を受けている。あなたは苦行をし、犠牲を捧げたが、子孫を持たなかった。この世界は子孫の事のゆえにあなたに対して閉じられているのである。一人の息子が父をプットすなわち隠遁と呼ばれる地獄から救う。しかるに、ああバラモンよ、子孫の継続のために努力せよ。(注25)
マハーバーラタ、アーディ・パルヴァン(序章の巻)220(ヒンドゥー教)


それからわが使者を、かれらの足跡に従わせ、さらにマリヤの子イエスをつかわし、福音を授け、またかれらに従う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。


だが禁欲の修道制は、かれらが自ら作ったもので、われはかれらにそれを指示してはおらぬ、神の喜びを得たいばかりであり、それもかれらは守るべきように工夫していなかった。それでわれは、かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多くは違反者である。(注26)
クルアーン57.27(イスラーム)


そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私達とパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
マタイによる福音書9.14 ~ 15(キリスト教)


私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。
ヨハネの黙示録19.7 ~ 8(キリスト教)




―み言選集―


それでは、どうして仏教とカトリックでは独身を強調するのでしょうか。それが全的に人間の幸福の土台だと言うことができますか。違います。この地上のいかる宗教も幸福の土台は何だと提示してくれなかったのであり、家庭の土台を中心とする計画もなかったのですが、その家庭自体も現れなかったために、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知ったために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ、人間たちが純潔で正しい家庭を建設できるのです。
(23-15、1969.5.11)


神様が永遠であれば、これも永遠であり、この子女の位置も永遠になるのですが、ただこれが壊れていったので、このようなものを合わせたいですか、合わせたくないですか。それを願いますか、願いませんか。願うのです。それでは、その愛するものが聖なるものですか、罪ですか。聖なるものです。今日の堕落した世の中が生じた以降に、このような聖なる愛をしてみた夫婦がいたでしょうか、いなかったでしょうか。これができなかったのです。


ですから、皆さんは今まで宗教の目的を知らなかったというのです。救援とは何ですか。救援とは何かということを知りませんでした。すべて知らなかったのです。ほかの国だと思っていました。天上天国に行くと思っていたのです。


天国はすべて準備されていると、既に準備されていると信じていました。……問題はすべて自分にあるということです。天国に合う愛の男性と女性になれるか、ここにかかっているのです。イエス様にかかっているのではありません。メシヤにかかっているのではないのです。それを今まで知りませんでした。
(92-225 ~ 226、1977.4.17)


天国は、夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、家庭の八親等など、一族が行かなければならないのであり、その国家全体が行かなければなりません。全体が行くことができるその世界が天国だというのです。それが統一教会の行く道です。統一教会は個人救援が目標ではありません。ですから、合同結婚式もこの原理原則に一致させるためにしなければなりません。今日、合同結婚式が嘲弄の対象であり、見せ物と思っていますが、内容を知ってみると、唖然とすることが起きているのです。


天使長圏の宗教時代には、結婚しなければなりませんか、してはいけませんか。できません。しかし、これからは天国でも結婚時代に入っていくのです。地上で比丘が勝利するか、妻帯僧が勝利するかというとき、妻帯憎が勝利する時が来たのです。旧教の神父や修道女が残るのではなく、これからはカトリックもそのまま逝けばすべて地獄に行くようになります。今の天地の運勢は新郎新婦の因縁を求めることができるときが来たのです。カトリックも結婚しなければならない特が来たので、結婚することに反対していては、そっくりそのまま滅んでしまいます。
(50-61、1971.10.31)
カトリックの神父や修道女も結婚させてあげなければならず、仏教の僧侶も結婚させてあげなければなりません。そうしなければこれから滅びます。すべて浮気者、フリーセックスの場になってしまうのです。サタンが占領し、男性と女性にすべて浮気心を起こさせて流れていってしまいます。レバレンド・ムーンの前で神父と修道女が結婚し、仏教の比丘が先生の前で何百万双が一度に祝福を受ければ生き残るのです。そのようにしなければすべて滅びます。そのまま消えてしまうのです。今、一部の神父たちが浮気心を起こして、そのような行動をしています。それはすべて時になったからです。


潮水が入ったとき、その水を飲まないようにしようとすれば、どんどんついていかなければなりません。同じように、溺れて死なないようにしようとすれば、結婚してはいけないということを彼らが破って、回れ右しなければなりません。
(246-24、1993.3.23)




高次的な宗教ほど、独身生活をしなさいと言いました。なぜそのように言ったのでしょうか。人類の父母になる方がまだ結婚式をしていないからです。それで独身を主張したのです。宗教という宗教は、すべて結婚するなと言ったのですが、歴史時代に統一教会という宗教が出てきて、結婚を認め、合同結婚式をするのです。


ですから、仏教もこれからは妻帯憎が増えます。比丘を主張していても、相対を結んで妻帯僧になってしまいます。カトリックも同じです。カトリックも結婚を否定するので、問題が起きます。大部分が教会を離れるのです。真の父母が結婚した1960 年からそのような時代に入っていくので、その時からすべて変わり、サタン世界はフリーセックス時代に入っていくようになります。サ
タン世界はフリーセックスを通して破壊工作をしていき、宗教圏では結婚時代に入っていきます。このように変わるのです。
(244-148、1993.2.1)




第4部 家庭と社会


第19章 家庭


1.人生の基本形態


家庭は人生の基本形態である。家庭は、家族関係を通して自身の性格と価値とアイデンティティーを形成し、育てる環境を構成する。人間は時折、伝統的な家庭の代わりを立てようと努力したが、この代案は、およそ1、2世代を越えて持続することはできなかった。家庭には一つの「形態」がある。それは一連の精密な役割を意味するというよりは、片親家庭や子供のいない家庭、義理の父母など、異なった関係が混ざり合う家庭が、最善を追求する一般的な意味である。家庭の「形態」とは何か。外見上では父母と子供、夫と妻、兄弟姉妹を連帯する関係をいう。内面的には、このような関連性を支配する真実で敬虔な愛をいう。


家庭が人生の基本形態だということには、またほかの意味がある。それは、社会関係に対する「教材」である。立派な家族関係は、立派な市民を育成する。彼らは、家庭で父母、兄弟、そして子供と関係を結んで体得した教訓を、社会において目上の人、同僚、目下の人との関係に、そのまま適用するようになる。


文鮮明先生は、家族形態の両側面に関して広範囲に教えている。家庭の構造的形態は「四位基台」で表現され、これは神様を真の家庭の構成員、すなわち真の家族として連帯する特別な意味をもった教えである。先生はまた、家族関係を空間的に6方向に拡張して説明する。どんな場合でも、その形態は球形であり、すべての位置が同等な価値として現れる。これは、真の愛がすべての家族関係の求心力になる時に可能だ。家族構成員の各々は、互いに「ために生きる」美徳の生活回路を創出する。そのような家庭は、理想社会建設の基本的土台となるのである。




①家庭理想


―宗教経典―


妻を私のように愛せ。妻を私よりも尊重せよ。子供を正しい道に養育せよ。結婚適齢期には子供を結婚させてあげよ。このすべてのことを実践する人は、「その家庭に平和があるだろう」。
タルムード、イェヴァモート62(ユダヤ教)


父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである。
スッタニパータ262 (仏教)


天下の達道は五つ。それは君臣の義であり、父子の親であり、夫婦の別であり、兄弟の序であり、朋友の交わりの信である。(注1)
中庸20.8 (儒教)


人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。
礼記7.2.19 (儒教)


この家庭では、規律が動揺に勝ち、平和が不和に、慈悲が貪欲に、献身が驕慢に、真実な言葉が聖なる秩序を壊す偽りの言葉に勝つようにしてください。
アヴェスター・ヤスナ60.5(ゾロアスター教)


家庭には自然な温和がなければならない。誓願を固く守ることは温和に帰結する。家族の間には正しい信仰がなければならない。不正直と欺瞞は家庭に不幸をもたらす。行動と言葉と考えにおいて、正直と率直さは家庭を幸運の道に導く。清浄、恭敬、絶えず知恵を追求すること、他の人たちに対する奉仕、これらは家庭を幸福にする。
タットヴァールタ・スートラ6.18 ~ 24(ジャイナ教)


父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくあってこそ、家道は正しいと言えるのであり、家を正しくしてこそ、天下もきちんと治まるのである。
易経37、周易下経、家人(儒教)


心の一致、意の一致、無敵意を、われ汝らのために致す。汝ら互いに他に愛情を示せ、牝牛がその生まれたる仔牛に〔愛情を示す〕ごとく。息子は父に従順なれ。母と意(こころ)を同じくせよ。妻は夫に蜜を含む優しき言葉を語れ。


兄弟互いに、姉妹互いに憎み合うことなかれ。和合し、同じ掟(規律)に服し、言葉優しく語り合え。
それにより神々が離反せず、互いに憎むことなきこの呪文(brahman)を、われら汝らの家に施す、家人のために和合を〔もたらすところの〕。年長者に従い、思慮深く、離散することなかれ。同じ軛(くびき)のもとに一致協力し、互いに言葉優しく語りつつ来たれ。われ汝らを、結束固く意を同
じくする者となす。


汝らの飲水は共通なれ。汝らの食物の配分は等しかれ。共通の馬具にわれ汝らを共に繋ぐ。一致してアグニを崇拝せよ、車の輻(や)の轂(こしき)の回りに〔集まる〕ごとく。


われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。和解によりて群(むれ)を同じくする者となす。不死の飲料(amrta)を守る神々のごとく、夕(ゆうべ)に朝(あした)に、好意をして汝らの有(ゆう)たらしめよ。(注2)
アタルヴァ・ヴェーダ3.30(ヒンドゥー教)




―み言選集―


私達の因縁と言ったので、私達同士では、特別に感じたり、目を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要で、夫も必要なのです。また、若い人も必要で、年を取った人も必要です。このために、私達は、万民の世論がどうであれ、共通の姿を備えてきたのです。
(21-120、1968.11.17)


家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。


ですから、神様御自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところには、そのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらせるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはり、そのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-198、1970.7.15)


男性が男性として生まれたのは、男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だとしても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私達は、自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。そのために生まれたというのです。


父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるときに回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。それが理想形です。四角形ではなく、立体的に丸いのです。互いにために生きることは互いに押してあげることなので、互いにために生きれば早く回っていき、回っていけば球形を成し、永遠になるのです。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)




父母の真の愛、兄弟の真の愛、夫婦の真の愛、子女の真の愛、このように四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は、人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所になります。ですから、真の家庭は、人間が創造本然の真の愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校です。
(294-65 ~ 66、1998.6.11)


理想的夫婦を中心とする家庭が学校です。これは教材だというのです。夫婦が一つの単位になって家庭という教材をつくり、この教材に合格したすべての存在は、世界のどこでも共通して通過できるのです。それが公式です。
(131-112、1984.4.22)


理想的家庭とは何ですか。「互いによく信じるのが理想的家庭だ。互いによく理解するのが理想的家庭だ」と言うかもしれませんが、それは違います。互いに心情的に一つになり、離そうにも離すことができず、家族の痛みを自分の痛み以上に感じられる心情圏があれば、理想的家庭ができるのです。自分が犠牲になっても、すべての家族の苦痛を代わりに背負っていこうという情が宿った所には、理想的家庭という言葉をつけられます。
(228-46、1992.3.3)


人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければなりません。したがって私達の人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いのです。そして、それだけでなく、愛が生命よりも先なのです。したがって、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。


愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、すべて「不変の愛」「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私達が瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願うということなのです。


赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。、醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。


このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどういうものだと、実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実なので、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、
氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。


出生したのち、肉身時代には、自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私達が父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。父母は結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみて知るようになり、その愛を引き継ぎます。そうすることによって自分は、愛を完全に受け、与え得る人になるのです。そのようにして、完全な一人の男性、女性として成熟するというのです。


父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだせるのです。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要になるので、思春期というものがあるのです。
(298-298 ~ 308、1999.1.17)


夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来父母は、本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は、互いに他の一方の神様になります。そして息子、娘は、また一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の身代わりをする、生きている神様であり、夫婦も神様を身代わりし、子女も神様を身代わりするのです。このように三代が真の愛を中心として、神様の立場を身代わりします。


ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は、自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であることを知らずにいるのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。


家庭完成は、宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれは、どこでも無事通過です。この場合、神様は、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
(298-307、1999.1.17)




②家庭は愛と美徳の修練場


―宗教経典―


主よ、目を喜ばせる妻と子孫を、私達に賜い、主を畏れる者の模範にして下さい。
クルアーン25.74 (イスラーム)


君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。中庸15.2(儒教)


自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.5(キリスト教)


「天下を平らかにするのは、その国を治めるにある」とは、上が、(その家の)老人を尊べば、民は感動して起こって孝となり、上がその長者を敬えば、民は感動して起こって弟となり、幼くして父を失った者を哀れめば民は背かない。
大学9.1(儒教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ:義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)






―み言選集―


家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。ですから、学校において、情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。


父母は、情緒的なものをすべて、後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。
(180-131、1988.8.22)


家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。
(271-80、1995.8.22)


神様の愛がどこに現れるのかというと、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛が一つになった所です。これが絶対的に一つになる所は、神様が絶対的に永遠に共にいるのです。ここに神様がいらっしゃいます。変わらない父母の愛、変わらない夫婦の愛、変わらない子女の愛、この三つの愛が存在する所には、いつでも神様がいらっしゃるのです。
(131-112、1984.4.22)


家庭は、天国を成すことができる教材です。天がつくっておいた教材です。家庭は、天国と因縁を結ぶようにするための教材なのです。ですから、軸を中心としてそれを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。
(137-78、1985.12.18)


道徳というものは何でしょうか。家庭で訓練された平等の価値が道徳です。「徳(德)」の十の字は、宇宙を象徴しますが、「統一原理」から見れば、天上と地上のことをいうのです。そこに四位基台(四)で、天と地(十)が願う四つの群れ(四)が一つの心(心)になっているのが「徳(德)」という字です。二人(彳)が天地の環境の中で「十」の字、天と地に四位基台を完成した一つの心であり、おじいさんの心も、父母の心も、妻の心も、子女の心も、先祖を中心として、息子、娘を中心として六つですが、二つに分ければ12 の群れです。心と体を中心として12 の群れです。このすべてのものが一つになれる、そのような存在を徳というのです。
(375-59、2002.4.13)


今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。ざらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。
これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもつことができなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わりません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)


今日、家庭が崩れ、青少年たちが堕落するのを防ぐことが、エデンの園で干渉できなかった神様の悲惨な思いを解放し、喜びをお返しすることになるのです。
(305-272、1998.8.21)




③完成した家庭は球形を成す


―宗教経典―


このように私は聞いた。ある時、仏は羅閲祇(らえつぎ)の耆闍崛(ぎじゃくつ)山の中に、千二百五十人の比丘たちの大集団と一緒におられた。その時、世尊は時間になると袈裟をまとい鉢を手に持って、城内に托鉢に出かけた。


ちょうどその時、羅閲祇城内には長者の子、名は善生という者がいた。朝早く城外へ出て、園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝し、東西南北上下のそれぞれの方角に対して、すべてぐるりとひととおり礼拝していた。


その時、世尊は長者の子、善生が園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝しているのを見た。世尊はそれを見ると、ただちにその場所に行って、善生に言った。
「お前はどういうわけで朝早く城外に出て、園林の中で体じゅう濡らしたままで諸々の方角に向かって礼拝しているのか」その時、善生は仏に申し上げた。「私の父は亡くなる時に、遺言として私にこのように命じました。『お前は礼拝する時には必ず東方、南方・西方・北方・上方・下方を礼拝するように』と。私は父の教えを守り、……礼拝しているのです」


その時、世尊は善生に言った。「しかし、私の賢者・聖人の教えにおいては、この六つの方角を礼拝することがつつしみ敬うことであるとは考えない」


善生は仏に申し上げた。「どうかお願いです。世尊よ、私のために賢者・聖人の教えにおける六つの方角を礼拝する方法をよく説明して下さい」
「よく聞け、よく聞け。そしてよく心にとどめておくのだ。お前のために説明してあげよう」


仏は善生に言った。「六つの方角のことを知るべきである。六つの方角とは何か。父母は東方で
あり、師は南方であり、妻は西方であり、親族は北方であり、召使は下方であり、沙門・婆羅門など高潔な行いを実践する者は上方である。善生よ、そもそも人の子たる者は、五つのことによって父母を敬い父母に従わなければならない。……父母に物をささげて生活の不自由をさせない。何か事を行おうとする時はいつもまず父母に申し上げる。父母の行いに対してうやうやしく従って逆らわない。父母の命令に逆らわない。父母の行った正しい事業を断絶しない。……


父母はまた、五つのことによって自分の子を敬い愛する。子をおしとどめて悪いことをするのを許さない。子を教えて善を指し示す。父母の慈愛が子の骨髄にしみとおる。子のためによい結婚相手をさがす。必要なものを時に応じて与える。善生よ、子が父母に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(東方)は安らかで憂いはない。


善生よ、弟子が師に敬い仕えるのも、やはり五つのことがある。……そばに仕えて必要な物の世話をする。礼を尽くして師に物をささげる。師を尊んでいただき仰ぐ。師が何かを教えれば、それを敬いそれに従ってそむかない。師に従って教えを聞き、どれもしっかりと保って忘れない。


師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。


善生よ、夫が妻を敬うのにも、やはり五つのことがある。敬って丁寧に待遇する。威厳をもって妻にのぞみ、なれなれしくない、必要な時に応じて衣食を与える、しかるべき時には身を飾ってやる、家の中のことをまかせきる。……


妻もまた五つのことによって夫を敬う。夫より先に起きる。夫より後に坐る。おだやかにものを言う。夫を敬って夫に従う。夫の気持ちをあらかじめ知りそれにさからわない。……このようであれば、かの方角(西方)は安らかで憂いはない。


善生よ、そもそも人たる者は、五つのことによって親族を親しみ敬わなければならない。施し与える。じょうずにものを言う。利益を与える。利益をともにする。欺かない。親族もまた五つのことによって人を親しみ敬う。勝って気ままな行いをしている時に譲る。勝ってきままな行いをして財産を失った時に護る。恐怖におちいったときに護る。かばって教えさとす。いつもほめたたえる。善生よ、このように親族を敬い見るならば、かの方角(北方)は安らかで憂いはない。


善生よ、主人は召使に対して五つのことによって教え導く。能力に応じて働かせる。必要な時はいつでも飲食を与える。功労に対してほうびを与える。病気になれば薬を与える。自由に休暇を与える。召使は五つのことによって主人に仕える。朝早く、起きる。仕事のしかたが細かくゆきとどいでいる。与えられないものを取らない。順序よく仕事をする。主人の名前をほめたたえる。これが主人が召使を待遇するということである。かの方角(下方)は安らかで憂いはない。


善生よ、施しを行う者は五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげなければならない。身体によって慈しみを行う。言葉によって慈しみを行う。心によって慈しみを行う。しかるべき時に施しを行う。門でおしとどめない。


善生よ、もし施しを行う者がこの五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげたならば、沙門・婆羅門はまた六つのことによって彼を教え導かなければならない。彼を護って悪いことをさせない。善を指し示す。善い心を抱かせる。まだ聞いたことのない教えを聞かせる。すでに聞いた教えを十分に理解させる。天に至る道をよくわかるように説き示す。善生よ、このように施しを行う沙門・婆羅門にうやうやしく仕えたならば、かの方角(上方)は、安らかで憂いはない。
阿含経長部iii.185 ~ 191、善生経(仏教)


―み言選集―


宇宙で、その核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴するので、女性は結婚することによって、どこであっても夫の位置についていくのです。西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子の兄を中心として仕事をするとき、弟が協助するようになるのです。


ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければならないのです。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が変わってはいけません。この中心点がずれれば、上下、左右、前後の関係の均衡がすべて崩れるのです。


それで、結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで、すべて7数を成すようになります。このように7数を成すというのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つになり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるのです。私達がよくラッキーセブンと言うのも、このような観点から一理があるというのです。
(287-20 ~ 21、1997.8.10)


父母を中心として子女が一つにならなければなりません。また、そこには、神様を必ずお迎えしなければなりません。必ず神様をお迎えしなければならないのです。それが理想的です。


男性と女性で成す夫婦は、相対的なので、プラス・マイナスは必ず神様を中心としていなければなりません。神様には父母の愛があり、子女の愛があり、夫の愛があり、妻の愛があります。これが理想的です。この愛を中心とする神様が主体なので、その主体的な立場の神様と一つになれば、この愛と一つになるので、永遠に壊れない理想的家庭が成立するのです。理論的に、そのように成立します。


父母の愛は子女のために集中し、子女の愛は父母に連結されます。夫の愛は妻に連結され、妻の愛は夫に連結されます。しかし、その人たちがどのように一つになるのかというのです。自分たちでは一つになれません。ところが、それを一つになるようにできる主体的な力が神様の愛です。ここに主体が臨むので、このすべての存在は自動的に一つになります。それで、神様を抜かしては、愛もすべて自分中心の愛になるのであって、一つに結ぶことはできません。


一つになったとき、この愛の道も、この愛の道も、この愛の道も同じです。平均になるのです。これが円形を描く一つの物体になったからです。原因と結果が一つになり、縦横が一つになり、神様と一つになり、この二つが愛の力で動かすこの世界は、愛でないものがありません。どこに行っても、愛でないものがないのです。


理想の、愛の所なので、そのような世界が理想世界であり、このような世界が地上に展開し、家庭に展開するとき、地上天国という言葉が出てくるのです。そのようなものが神様の理想です。


それで、父母を神様のように思いなさいというのです。その論理は、ここから出てくる論理です。妻を神様のように思い、父母のように思い、夫を神様のように思い、父母のように思い、子女を神様のように思い、夫のように思い、妻のように思いなさいという結論がここから出てくるのです。また、神様を思うときは、妻のように、夫のように、自分の父母のように、息子、娘のように思えば、すべて天国に行きます。
(89-154 ~ 155、1976.11.7)


夫が死ぬと、妻がなぜ泣くのですか。息子、娘がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。宇宙の根本原則は、東西、四方をすべて備えなければなりません。したがって、宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力になっているのです。


ですから、すべて与え合うのです。南北が与え合います。北極と南極が与え合うのと同じように、星と星が与え合うのです。相対がいなければ存在できません。完全に一つになった理想的な存在は、完全に与え合う存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が流れるのが原則です。すべて、それを協助するのです。


したがって、息子、娘がいなければなりません。今日、西欧では息子、娘は必要ないという主義が出てきていますが、必要ないか見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。私が立っている所には、必ず上があり、下があります。3数を通らなければなりません。3段階を経なければならないのです。
(70-76 ~ 77、1974.2.8)


過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は、世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するということです。お父さんがおじいさんの位置に上がっていけば、自分がお父さんの位置に上がっていって息子、娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の3代が一つにならなければなりません。


すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れ動いても、揺れ動く社会の侵犯を受けずに、幸福な基台をもてます。
(28-162、1970.1.11)

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世界経典-66

2022年08月14日 16時34分33秒 | 学習


7.富と財物に超然とした人生


富と所有物は、堕落した世の中で人間を縛りつける鎖と同じである。貪欲と物欲、増加する自分中心な欲望などが私達を引っ張っていくものである。富の執着は「すべての悪の根源」と教示されてきた。そして、物質主義は、人間の霊性啓発に途方もない障害物になってきた。


伝統的に天に向かう道では、富と物質に対する執着を捨てることを要求した。僧侶と修道女らは、典型的な清貧の人生を営むことを誓った。一般人もやはり、より大きな善のために自らの富を犠牲にすることによって、執着から自由な人生を営むことができる。ある人たちは、慈善活動に積極的に参加し、他の人々は、病気にかかった家族を看護するために良い職場もあきらめ、助けを必要と
する人のために身を投じる。彼らは、既存のものを守ろうとするいらだちを捨て、奉仕と施しのために物を集めることで心の平和と新しい満足感を感じている。


文鮮明先生は、無所有の教えを真の愛の哲学と関連させて話される。神様の愛は、独占を排除する心的態度から始まると言われる。反面、所有に執着する人々は、所有物が愛の実践の妨げになっているという。この原理は、日常生活で神様と人間の関係、人間と人間の関係に適用されるだけでなく、国家福祉と地球星全体にも適用される。






①没落の原因であるお金


―宗教経典―


災いなるかな、……富を積んで計算するのに余念のない者、まことに富は、かれを永久に生かすと考えている。
クルアーン104.1 ~ 3(イスラーム)


金銭の欲は、すべての悪の根です。
テモテの手紙一6.10(キリスト教)


人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
申命記8.3、マタイによる福音書4.4(キリスト教)


小人となって財貨を追い求めるな。お前の本来の天性にたちかえってこれに従え。
荘子29(道教)


だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)


彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分をも害う。
法句経355 (仏教)


「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」彼らは無知に迷わされてこのように言う。彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター16.13 ~ 16(ヒンドゥー教)
しかしかれらは、売買のことや遊戯を見るとき、なんじの礼拝に立っているのをなおざりにして、それに向かって、無考えに散らばる。言え「神のみもとの恩恵は、遊戯よりも取引よりもまさる。神は、最善の給与者であられる」。
クルアーン62.11 (イスラーム)


財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。


太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
コヘレトの言葉5.10 ~ 15(キリスト教)


あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。実に、〔一般の〕行為は、知性(ブッディ)のヨーガより遙かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。知性をそなえた人は、この世で、善業と悪行をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。
知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。
バガヴァッド・ギーター2.47 ~ 51(ヒンドゥー教)


凡夫は欲望と貪りとを執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
スッタニパータ706(仏教)




われ火もて黄金を試し、また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ隠されたる言葉54(バハイ教)1


お金を稼ぐ生活はやむなくする生活であり、富は明らかに私達が求めている善ではない。それはただ他の何かのもののために有用なものだからである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5(ヘレニズム)




―み言選集―


お金というものは汚れたものです。糞よりもっと汚いものです。糞がついたからといって、人が倒れたりしませんが、お金を間違って使えば、糞よりもっと恐ろしいのです。先生はお金を使いません。できる限り使わないのです。使えるお金があれば、すべてあげてしまいます。
(381-304、2002.6.17)


お金があれば、食べること、着ること、住むこと、すべて解決できるのでお金が大切ではないかというのです。お金が問題です。皆さんはお金をもつとき、お金の愛の主人になりたいと思いますか、お金の権力の主人になりたいと思いますか。お金は必要ですが、全体のために、愛を実現するために必要なのです。
(116-18、1981.12.1)


世界平和は、平和な国家がまずなければなりません。国家の平和は、家庭の平安が前提でなければなりません。世俗の人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件になることはできません。真の幸福は、愛の所有に比例するのでもなく、外的な生活の便利さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。真の平和も無限な幸福も、真の愛で他のために施すとき、そして、その施したものが全体を回って再びやって来るときにこそ、確実に得られるようになるのです。
(294-69、1998.6.11)


神様が相対世界を創造するためには、所有観念がないのです。自分の所有観念があれば、100 を所有しても、100 以上価値のあるものを与えられません。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうのです。無限に投入するのは、無限に自分の概念がない時にのみ可能です。相対に対する投入においては自分の意識をもてません。何のことか分かりますか。「これは私か使うお金だ。これは私の取り分だ」というのはサタン側の考え方です。
(287-265、1997.10.5)


人類は、戦争と苦痛がない平和の世界を渇望しています。しかし、希望よりも、逆に次第にひどくなっていく物質万能主義の傾向とともに、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼすことができない中で、青少年たちの退廃、家庭破綻、麻薬とエイズ等は人類の将来をより一層暗くしています。
(294-61、1998.6.11)


暮れていく20 世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がすべて物質文明の極致を謳歌し、今ではその物質文明の罠にはまったのです。物質が精神を支配し、心を支配していくと、人間の霊魂が物質の奴隷になったのです。


そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かで都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこで真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが生い茂るようになったのですが、この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。


私はこの平和会議の一つの主題として、人間を取り巻く地球環境の回復に関する討議を含ませましたが、私達の自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されたのであり、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているので、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を避けることができない境地にまで至るでしょう。


物質文明の極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私達の体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。


ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくということは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味します。今、私達の社会は本来、神様が設計され創造されたものとは正反対のところに位置しているのです。


21 世紀は、神様が志される本然の世界に戻っていく世紀です。物質文明の時代は行き、精神と心が主人となる精神文明のときが訪れるのです。その21世紀がこれから5年後に迫ってきています。このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠の中にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、叫びたかった忠告の内容をお話ししました。
(271-95 ~ 96、1995.8.23)






②喜捨と知足安分


―宗教経典―


イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
マタイによる福音書19.21 ~ 24(キリスト教)


比丘たち、もし生あるものたちが、私の知るように、施し分け与えることの果報を知っていたならば、他に食を施しもせず、自分だけで食べることはしないだろう。また物惜しみの煩悩の垢が、彼らの心をとらえて離さぬようなことはないであろう。彼らに食物の最後の一口でも最後のひとかけらでも残っていて、もし彼らのために施しを受ける人々がいれば、彼らはその人々に分け与えずに自分だけで食べることはしないであろう。
如是語経26(仏教)


誰が富者か。自らの取り分の中で喜びを享受する者である。(注17)
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)


偉大な人物の教えは……そこでは、身も心も、いっさいの差別がない大同の境地に没入してしまう。大同の境地に没入してしまえば、もはや自己は存在しない。自己がなければ、いかなる有(う)に執着することがあろうか。
荘子11(道教)


物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
ピリピの信徒への手紙4.11 ~ 13(キリスト教)


そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
マルコによる福音書6.7 ~ 9(キリスト教)


これがトーラーの道だ。ごく少量の塩と水に頼って生きなければならず、地に伏して苦難を経験し、同時にトーラーを守って生きるのである。このようにするあなたは幸福な者であり、トーラーがあなたと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート6.4 (ユダヤ教)


先生がいわれた、「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」
論語6.11 (儒教)


私達がモスクで神の使徒と共に座っていたとき、ムサブ・イブン・ウマイルがぼろぼろの毛皮の外套だけを引っかけたまま私達のところに来た。神の使徒が彼を見ると、彼は過去の豊かさを回想してほほえんだ。


そして彼が言った。「あなた達のうちで一人が、朝に外出するときに着る外套と夜に外出するときに着る外套が違い、皿がすべて一杯になる前にほかの皿をむだに使い、あなたの家をカーバ(神殿)を飾るように飾っているのに、どうしてあなた達と一緒にいられようか」。


これに対する答えを聞いてから彼は再び、「神の使徒よ! それならば、これからは礼拝を捧げる余裕と必要なすべてのものを得るようになり、今よりよい生活をするようになるのですね」と言った。すると使徒が答えた。「いいえ、あなたにはそのときより、きょうがはるかによいだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)


兄弟たちは、家も、場所も、そのいかなるものにも執着してはならない。この世の異邦人と巡礼者たちのように、堂々と清貧の中で天に仕えて生きなければならない。これを恥ずかしく思ってはならない。主なる神は私達のために、この世にご自身を困窮な位置に置かれたからである。


私の親愛する兄弟たち、最高の清貧の場に行くのが天国の王であり、相続者であられる皆さんを、物質的には貧しいが誰よりも徳のある人にすることができます。これが生きている者たちの地に私達を導くのであり、そこに忠実にしてくれるのです。愛する兄弟だちよ、私達の主イエス・キリストは、この世で何も顕われませんでした。
フランチェスコ規律(キリスト教)




他の人たちは食べるために生きるが、私は生きるために食べる。
ソクラテス(注18) (ヘレニズム)


最小限に願うため、私は神に最も近い。
ソクラテス(ヘレニズム)122






―み言選集―


自分の財産はあり得ません。財産は天の財産です。神様のものであり、ために生きる人たちのものであり、自分のための財産はあり得ないのです。それは滅びます。
(399-18、2002.12.18)


皆さんは、ハンカチをもっているでしょう? そのハンカチは自分のものですか。違います。今まで自分のものだと考えてきました。これが違うというのです。私に属するあらゆる土地、家を自分のものだと考えたのです。夫、妻、息子、娘を、私の息子、娘、私の妻、私の夫と考えて思いどおりにしました。それが堕落後に継承された病弊だということをはっきりと知らなければなりません。これを立て直すための神様の歴史が数千年間、私達の知らない中で続いてきたことを知らなければなりません。それで、所有権を否定しなければならないというのです。万物に対する所有権をすべて否定しなければなりません。
(293-172、1998.5.26)
天宙主義者は、世界まで祭物にしなければなりません。自分の所有でも、それを未練なくきれいにすべて捧げ、その次には祭壇まで必要です。祭壇まで一緒に燔祭、燃やしてしまわなければなりません。自分の所有はないのです。祭司長の役割をきちんとしてこそ、振り返るとき、今まで祭祀を捧げた勝利の実績が振り返るその後ろにぶら下がるのです。天が準備するというのです。(注19)
(342-227、2001.1.12)


裕福に暮らすアメリカを、すべてかき集めてでもアフリカにもっていこうという人がいれば、神様はその人を思われるでしょう。その人を愛するというのです。
(91-24、1977.1.16)


お金を集めるのですが、そのお金で自分の息子、娘に良いものを食べさせようと思ってはいけません。息子、娘に与える前に、世界のために与えたという条件を立てなければなりません。その息子、娘は世界のための息子、娘なので、まず世界に与えてから息子、娘に与えなければなりません。私の家庭よりはまず民族のために与えてから家庭のために与えようとすれば、神様は、私の家庭と私に福を下さるのです。神様が私の息子、娘に食べさせてくださるのです。


私が与えようとしてもそのようにする必要がありません。そのように、自分のすべてのものを犠牲にして、自分にある財産すべてを国のために与え、世界のために与え、犠牲にしていく群れがいれば、彼らは自動的に福を受けるようになっています。
(26-52.53、1969.10.18)


経済は結果です。すべて結果が問題になっています。結果を問題として原因を見る人がいないということです。なぜお金が必要なのですか。お金でただ食べて暮らし……。そうではありません。これが原因とこの世界と一つになるために必要だ、そのような観念がありません。私が結果なので原因をよくするために必要だ、このような考えがありません。私が父母を奉養し、私の家族を奉養し、国のために愛国しようとするのでお金が必要だ、これがどれほど宇宙的な観念ですか。ところが、国も、家族も、父母もすべて必要ないというのです。


国もそのお金をもっていることを喜び、父母たちも喜び、兄も喜び、全員が喜べば、私も喜ぶことができるのです。みなが嫌うのに、私だけが喜べば、それは滅びるのです。ここにいる人がこのように行くのです。ですから、どこに行っても、みな喜ぶのです。そうして喜んでこそ、それがすべての宇宙が喜ぶものになるのであって、みなが喜ばずに「私だけが、私だけが」と思っていれば滅びるのです。
(117-101 ~ 102、1982.2.14)


モーセは豪華なパロ宮中で生活をしたが、「これが何だ!」と言って民族をより思ったがゆえに、民族的な指導者になり得た。
御旨の道、指導者


今まで先生の立場は、世の中から見れば最高の立場に立っていますが、低いところに行ってもそのようなバランスを合わせるのです。赤ん坊であれば赤ん坊の友達になってあげ、学生であれば学生の友達、おばあさん、おじいさんであればおばあさん、おじいさん、宗教者であれば宗教者、学者であれば学者、どこに行ってもバランスを取ってあげます。訓練をして世界的なバランスを取ることができる人は、世界的な中心者になり、世界的な主体者になるのです。
(299-171、1999.2.15)








8.出家


神様は、愛する家族の中で人間に対する神様のみ旨が成し遂げられることを希望されたが、たびたび霊的求道者は、神様のみ旨に従うために家庭と家族に背を向けて離れる。ある摂理的な人物は、神様の命令によってこのようなこともする。アブラハムが、自分の故郷を離れて未知の土地に行きなさいという神様の命令を受けた立場が、それである。


これと似て、修道院生活の初期段階で、愛する家族と胸痛む離別をする場合もある。ある信仰者の出家は、家族の葛藤問題を引き起こしたりもする。家族たちが彼の信仰の道を遮る場合がある。このように、イエス様は愛する両親と配偶者から反対を受けることを予想し、弟子たちが自身の弟子になるためには相当な代価が伴うことを知って次のように警告した。「私よりも父または母を愛する
者は、私にふさわしくない」。




これに対して文鮮明先生は、家族と友人との離別は復帰の道を行くにおいて必要な過程といわれる。それは、堕落した世の中の習慣的な偽りの愛から、神様の高貴な愛によって新しい人生を始めることができる画期的な転機が与えられるからである。






―宗教経典―


私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
マタイによる福音書10.34 ~ 37(キリスト教)


信仰する者よ、もしなんじらの父または兄弟が、信仰より以上に不信心を好むならば、かれらを親しい友としてはならぬ。もしなんじらのうち、かれらを親しい友とする者あれば、それらは不義者である。


言え「なんじらの父・子・兄弟・なんじらの妻・近親・なんじの手に入れた財産、なんじが不景気になることを恐れる商売、意にかなった住まいがなんじらにとり、神とみ使い、ならびにかれの道のために奮闘努力するよりも好ましいならば、神が命令を下したもうまで待て。神は反逆の民を導きたまわぬ」。
クルアーン9.23 ~ 24(イスラーム)


愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
法句経210 (仏教)


隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。
わが神は、私の願いを聞かれる。
ミカ書7.5 ~ 7(キリスト教)


神は不信者のために一例を示したもう、ノアの妻、およびロトの妻である。かれら両人は、ふたりの正しいわがしもべのもとにいた、かの女らは、夫に不真実で、神のみもとで何ら得るところはなかった、そして「なんじらふたりは、他のはいる者と一緒に火獄にはいれ」と、言われた。


また神は、信仰する者のために一例を示したもう、ファラオ(注20)の妻である。かの女が「主よ、楽園の中のあなたのおそばに、私のため一邸宅をお建て下さい、そしてファラオとその行いから、私を救い、不義を行なう者から、私をお救い下さい」と、言ったときを思え。
クルアーン66.10 ~ 11(イスラーム)


主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。……」
創世記12.1(キリスト教)


私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイによる福音書19.29 (キリスト教)




神の道のために移住する者は、地上に広い避難所と、豊かな生息分野のあることを知るであろう。およそ神とそのみ使いのもとに、家郷から遷移者として出て行き、その後途中で死に遭遇したならば、神において、必ず償ないの責めを負いたもう。神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン4.100 (イスラーム)


もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。
ルカによる福音書14.26(キリスト教)


あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな。彼らが好意を示して話しかけても。
エレミヤ書12.6(キリスト教)


尊者戦勝の舊妻は尊者戦勝に近づき彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。かくいふも、尊者戦勝は黙してありき。尊者戦勝の舊妻は再び彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は再び黙してありき。尊者戦勝の舊妻は三たび彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は三たび黙してありき。尊者戦勝の舊妻は「沙門よ、こは汝の子なり。これを養へ」と、かくいひて、その児を尊者戦勝の前に捨てて去れり。


尊者戦勝はその児を看ず又呼ばざりき。かの舊妻は稍々行きて顧み、尊者戦勝のその児を看ず又呼ばざることを見て、思へらく、「この沙門には子の用なし」と。それより還り来りて児を携へて去れり。「多くの人々、ここにありて欲すれども水によりては清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり」
感興偈5 ~ 6(仏教)


あなたの富と妻を放棄せよ。あなたは出家者の人生を始めなければならない。吐き出すように嫌なものに戻るな。ゴータマよ、常に注意せよ!あなたの友と親戚たちを離れ、あなたが集めた大きな富を捨てよ。二度とそれらに対する欲望を抱くな。ゴータマよ、常に注意せよ!……今あなたはとげがすっかり取り除かれた道、偉大な道に入った。正しい道を歩んで行け。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.29 ~ 32(ジャイナ教)


サーリプッタ尊者よ、どうしてわれわれに励みがありましょうか。われわれは母父を養わねばなりません。妻子を養わねばなりません。奴隷・雑役夫を養わねばなりません。友人・知己に対して友人・知己の務めを果たさなければなりません。親族・縁者に対して親族・縁者の務めを果たさねばなりません。賓客に対して賓客の務めを果たさねばなりません。先祖に対して先祖の務めを果たさねばなりません。神々に対して神々の務めを果たさねばなりません。王に対して王の務めを果たさねばなりません。この身体を喜び、元気づけられねばなりません」と。


「ダナンジャーニーよ、そのことをどう思いますか。つまり、ここで、ある者が母父のために非法行者・不正行者になるとします。そのかれを、非法行・不正行のために、獄卒たちが地獄へ引き込む場合、かれはつぎのように言うことができるかどうかです。『私は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちは私を地獄に引き込まぬように』と。あるいはまた、かれのために母父がつぎのように言うことができるかどうかです。『この者は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちはかれを地獄に引き込まぬように』」
阿含経中部ii.186 ~ 187 (仏教)


朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。


仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。「これは執著である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ37 ~ 62、犀の角(仏教)




―み言選集―


イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」と言ったのですが、この言葉は公式です。それでは、反対する者は誰ですか。自分を最もたくさん愛した順序どおり、自分をもっと愛した人の順序で反対するようになるものです。それで、「家の者が、その人の敵となるであろう」という言葉が宇宙的な真理だということを知らなければなりません。
(92-207、1977.4.10)


イエス様は、「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ10・37)という話をしたために反対を受けました。なぜそのような話をしたのですか。そのような話がどこにありますか。ですから反対を受けたのです。世の中で反対を受けながら、そのような話をしました。


それはなぜでしょうか。原罪を断ち切るためです。サタンの血があるので、それを抜き出さなければならないからです。そして語られる言葉が「家の者が、その人の敵となるであろう」ということです。世の中に、そのような話がどこにありますか。私の母が怨讐で、私の父が怨讐で、私の妻、私の息子、娘が怨讐だという話ではないですか。世の中にそのような話がどこにあるのですか。


しかし、原罪があるのでそのように言わざるを得ないのです。原罪を中心とする体が互いに愛する日には、この原罪が断ち切られません。これは否定できないのです。ですから怨讐だというのです。


血筋というものは愛を通して連結されるので、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がすべて180 度回れ右しなければなりません。「すべて必要ない。何よりも神様の愛を第1にしなければならない」、こうでなければならないということです。
(79-160、1975.7.20)
夫が第1であり、妻が第1であり、私の息子、娘が第1だと考えるのですが、その第1だという位置がサタンの血筋を受け継いだ位置での第1だというのではいけないのです。これを否定しなければなりません。神様の愛のために夫の愛を否定しなければなりません。これが問題です。妻の愛を否定しなければなりません。子女の愛を否定しなければなりません。絶対的な神様が向き合えるのが本来の人間なのですが、皆さんの体にサタンがいたずらした痕跡がある限り、皆さんは本来の愛の理想を心と体に根づかせることはできないのです。
(140-24、1986.2.1)


天を求めていく道においては、世の中の初恋よりも高い愛を、天を中心として感じる位置を探し出すことができなければ、天に帰る道がないのです。それでは、そのようになるためにはどのようにしなければなりませんか。初恋の自分の相対を中心として生命を捧げるがゆえに生命問題、その次には物質問題、その次には知識問題、その次には権力問題、すべてが問題になります。命懸けで恋愛結婚した人が天のみ旨の前に入っていこうとすれば、1週間以内にこれを捨てることができる愛の圏を求めていかなければなりません。
(102-19 ~ 20、1978.11.19)


この世界をどのように復帰するのでしょうか。個人を中心としてここに植えるのです。反対になって引っ張っていかなければなりません。脱出しなければならないのです。それで、仏教のような高次的な宗教は出家をしなければなりません。父母を愛してはならず、兄や姉を愛してもいけません。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」という聖書の言葉は逆説的論理ですが、それは天の道を求めていく道理に従った論理として、受け入れなければならないのです。
(181-212 ~ 213、1988.10.3)


お父様!私がお父様のみ前に恥ずかしくないのは、
お父様の威信を立てるために、人間の威信を余地なく放棄してしまったし、お父様の威信とお父様の権威を立てるために自分の位置と環境と、立場もみな放棄してしまったからです。
それをあなたは、よく知っていらっしゃいます。
世界の人間の誰も行けなかった事情の道を、求めていかなければならないと、身もだえする歴史過程において、あなたは一つ一つ慰労なさり、一つ一つつかみながら、「この道を行くお前以上に寂しい者がこの地上にいない。再び行くべき寂しさが残っている」と勧告なさったお父様のその声を忘れられません。
(159-61、1968.1.28)


自分の愛する子女をあとにして、孤独の道に従い、誰も歓迎しない天の道を求めていき、国のない運命の道を求めていくというのは、とても難しいことです。私も赤ん坊を捨て、家庭を捨てて、以北の地に向かった歴史のある人です。


行きたくて行ったのではありません。神様が必要とし、天の命令があるがゆえに行ったのです。行くまいと身もだえしながら、1、2日は深く悩みましたが、その悩みよりもっと大きな神様の事情を知ったので行ったのです。
(64-148、1972.10.29)
皆さんも家庭を抱いてどれほど身もだえしてきましたか。自分の息子、娘を愛することができない人はいません。犬や豚でもそうです。木石のように鈍い人でもそうです。私、レバレンド・ムーンも同じです。息子、娘を愛する心がないのではありません。誰よりも強い人です。鋭敏な人です。一家を愛することができない人ではありません。母が監獄に訪ねてきたとき、私は目を見開いて「母誰々の息子ではない」と怒鳴りつけました。その母は生きていません。


亡くなったことを知った今は「不孝をした」と……。しかし、その息子は自分自身のために生き、一家の幸福のために生きるのではなく、国と世界のために神様のみ旨、天理を身代わりしてそのようにしたのです。
(168-148、1987.9.13)






9.世俗の分別


世俗の人生は、神様に向かう人生と比べることはできない。快楽と富、名誉、物質的安定の追求は必然的に霊的求道の妨害となる。俗世に向かう情熱と執着は、単純に精神的な散漫さを越えて霊魂を地獄まで引っ張っていく。したがって、経典には世の中と世の中の価値に順応するなという数多くの忠告が含まれている。


賢明な人々は、世俗的成就を一つの妄想とみなす。そして、そのような快楽に喜ばず、神様のみ旨に献身することを誓う。常に世の中の考えから距離を保ち、天が下さる霊的感動をかみ締める。世の中で言う成功よりは、霊的成長をその業績として理解する。


ある宗教では、修道院共同体生活を通して俗世と分別を試みる。しかし、道徳的勧告や教会の教えによって形成される修道生活と世俗的生活の境界線は、それほど明らかではない。俗世に埋もれて生きているが、決して世俗的でない人々もしばしばいる。彼らは、見た目は平凡に見えるが、彼らの内面は世の中の支配的価値に執着せずに、他の価値観をもって生きている。






①世俗のやり方に従わない


―宗教経典―


あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙12.2 (キリスト教)


大道に棄てられた塵芥(ちりあくた)の山准(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。塵芥にも似た盲た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知恵もて輝く。
法句経58 ~ 59(仏教)


人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)


ある男が預言者のところにやって来て言った。「神の御使いよ、私がそれをすれば、神も人々も私を愛するような行いについて教えてください。」すると預言者は言われた。「現世から身をひけば、神はお前を愛されるだろう。人々が所有しているものから身をひけば、人々はお前を愛するだろう。」
ナワウィー40 のハディース31(イスラーム)


下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
法句経167(仏教)


私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
ヨハネによる福音書17.14 ~ 18(キリスト教)


世の中のことを一切省みることなく、満足しきって、全ての希望を捨て、忍耐する。これらが感覚を統御し、自己に関する知識を獲得した者がもつ最高善の様相である。この世のものに執着する必要はない。この世のものに対する執着は、悪を生み出す。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン329(ヒンドゥー教)


君子はおのれの才徳を秘めて控え目に行勤し、外からの禍難を避けることを心がける。そのような君子は禄位などで飾りたてようとしても心を動かされぬものである。
易経12、周易上経、否(儒教)


聖人は天道の自然に従い、真をとうとび、世俗の風習に拘束されることがない。ところが愚かものはこれと反対に、自然に従うことができず、人為に心を労し、真をとうとぶということを知らない。ただ、だらしなく世俗の風習に同化されてゆくだけだ。だから、真実の心に欠けるのである。
荘子31 (道教)


世界には始めがある。それは世界の母と呼ばれる。その源を知ったものは、その表れを知る。その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。


言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生の終りまでくたびれることはない。これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、一生の終りまで救われないだろう。
(注21)
道徳経52(道教)


かれは白衣をつけた世俗の人であるけれども、修行者の清浄な戒律の行を奉じたもち、在家の人であるけれども、三界に執著していない。妻子あるすがたを示しているけれども、常に清らかな行を修している。眷属のあるすがたを現じているけれども、常に遠ざかり離れることをねがい、宝の飾りをつけているけれども、しかも相好をもって身をかざり、また飲食するけれども、しかも精神統一の悦びを味わっている。もし博奕や遊戯の場所に至っても、そのたびに人をすくい、もろもろの異なった道を修する人々を受け入れても、正しい信仰をやぶらない。世俗の典籍を明かにするけれども、常に仏法をねがい、一切の人に敬われて、供養される人々のうちで最上のものとなる。……一切の職業活動がうまくなだらかに行なわれ、俗利をうるけれども、それで喜ぶことはない。もろもろの四つ辻に遊んで、衆生のためになることをなし、法律政治のはたらきに入って一切の人々を救い護る。
維摩経2(仏教)




―み言選集―


いつまでも、自分自身を中心に堕落した世界の因縁をそのままかぶり、その因縁をそのまま抱えて生きていてよいのでしょうか。そのように生きては、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を、私達が行くことはできないというのです。
(21-102、1968.11.17)


世俗的な世界ではお金が必要であり、知識が必要であり、力が必要です。これが最も重要です。しかし、その三つのものをもって神様に連結されるのではありません。それでは何をもって連結されるのですか。真の愛です。
(270-308、1995.7.23)


人々は、どのようなものを最も好みますか。すべて偽物を好みます。ですから、本物はまっすぐに歩いてこないのです。逆さまに来るのです。人が逆さまに来るのを見ると、病人のようです。病人のような人が逆さまに来ます。病人ではないのに、逆さまに訪ねてくるというのです。人が来るとき、まっすぐに歩いてくるのではなく、逆さまに歩いてきます。足の代わりに手をつき、足が天に上がっていくように歩いてくるのです。それを歓迎しますか。その人は病人ではありません。ところが、本当に病人ならば、そのような病人を歓迎するかというのです。


それで聖書のみ言に、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。この言葉は何かというと、滅びようとする人は成功し、成功しようとする人は滅び、愚かだと考える人は優れているのであり、優れていると考える人は愚かなのであり、貧しく暮らそうとする人は富者になるのであり、富者になろうとする人は貧しく暮らすということです。学校に行って自分がびりだと思えば、一生懸命に勉強するので1番になるというのです。これが真です。
(102-251、1979.1.14)


時間の限界性を超越した無限の世界から来る懇切な心情をもって、地上のいかなる苦労と苦痛と死の恐怖までも制圧して残ることができる人にならなければなりません。皆さんが個人の道で勝利するためには、いかなる苦痛も欲望も、一切を拒否して堂々と行くことができなければなりません。個人の道において勝利した者は、個人的な闘いで勝利したように家庭に対してそのようにし、民族、国家、あるいは世界に対してもそうです。彼は、世界的な問題において勝利した者です。
(79-97、1959.7.19)


私達は変わることを知らない人たちです。皆さんはそうです。神様は変わりません。私達もそうです。それが私達の財産であり、誇りです。これは億千万金でも、世の中のどのような権力でも、何であっても取り替えられません。幾銭かのお金に、権力に、女性に売られていくそのような人たちではないのです。そのような安物ではないということです。私は王座に上がっていって変わる一生を送るよりは、変わらない乞食の生活を選ぶでしょう。
(124-253、1983.2.20)


皆さんは、この道を行きながら自分のものに対する所有欲と子女に対する希望と夫または妻に対する愛と自分に対する愛着心まで奪われていくことがあるでしょう。そのときに皆さんは、そのような愛着心を握ったまま世界を越えていこうとしてはいけません。物質と子女の愛、そして自分を中心とする希望などの人情的なあらゆる条件を断ち切ってしまうときにこそ、皆さんは世界的な祭物の峠を越えていけるのです。
(2-118、1957.3.10)


終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なければなりません。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそっくりそのまま抱いていく人ではなく、それを捨ててしまう人です。世の中が流れるとおりに従っていくのではなく、そのようなものを蹴飛ばして回れ右して道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。そうでなければ、新しい理想的な出発を見ることはできないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる因縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけない。世の中と一つになってはいけない。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい覚心(迷いを離れて悟りを得た本来の心)を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押していくことができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような「覚心」が必要なので、宗教は世の中と妥協することを要求しません。
(21-136 ~ 137、1968.11.17)


サタンの血を受けた人は自分のことばかりを考えるのです。サタンの血を受けた人は、自分を中心とする人です。今日、アメリカを中心とするキリスト教文化圏があのように個人主義国家になり、人本主義、最近では世俗的な人本主義だとして、世界の混乱様相を中心として抹消神経を刺激して幸福を求めていくというのですが、あとですべて病気になって断崖に落ちるのです。男女が昼夜抱き合って喜び騒いでいますが、エイズにかかり、やせ細って落ちていくようになっています。
(187-241、1989.2.11)




②世俗的安楽の否定


―宗教経典―


さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
法句経171 (仏教)


快楽は金と銀に、女性に、そしてあらゆる楽しいものにあり、快楽は安楽な寝台に、豪華な邸宅に、そして甘美な食べ物にある。このすべての快楽を嫌うことなくして、どうして神の聖なる名が胸に宿ることを願うのか。
アーデイ・グラント、スリー・ラーグM.1、p25(シーク教)


ヒレルがよく言った。「肉が多いほど虫が多くたかり、富が多いほど心配が多くなり、女性が多いほど誘惑が多くなり、女性の下人が多いほど好色が濃く、男性の下人が多いほど泥棒が横行し、律法が多いほど生命が満ちあふれ、勤勉であるほど知恵が多くなり、議論を多くするほど理解心が多くなり、慈善が多い所ほど大きな平和が訪れてくる」。
ミシュナ、アヴォート2.8 (ユダヤ教)


この世の河川は汚染され、その井戸は混濁している。その見せかけと姿形は華麗だが、すべて有害なものにすぎない。それは、急激に終末に向って駆けあがる欺瞞、急速に消えていく光、暮れていく影、そして微弱でよりどころのない保護膜だ。それはあまりに欺瞞で満ちあふれ、それに関心をもつことを嫌い、その欺瞞の程度を知らない者がそれに眩惑され、それに満足にするまで待っている。そのときそれは、それらに対する関心を全くみせず、彼らをわなにはめようと捕まえ、彼らの首に死の綱を結び、彼らの墓に導いていく。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(イスラーム)


愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、優いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
法句経212 ~ 216(仏教)


あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。


むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 7(キリスト教)


「あなた達は私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。」(レビ記20.26)。私が聖なる者だから、あなた達も聖なる者であれ。私が世の中から区別されているのだから、あなたも世の中から区別されよ。「私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである」(レビ記20.26)。


もしあなたが、あなた自身を他の民と区別するなら、あなたは私に属する。しかし、そうでなければ、あなたはネブカドネザルの民になるだろう。ラビ・エリエゼルが言った。「ある人が『私は豚肉を食べる考えがなく、結婚を許されていない女性と性関係をもつ考えはもっていません』と言ってはいけないが、彼が『このような行為をしたいですが、天にいらっしゃる父が禁じられたので、どうしてそのような行為をすることが
できますか』と言うべきであることを、私達はどうして知ることができようか。これに対する答えとして、聖書には、『私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである』という言葉がある。罪悪から自らを区別させる者は、天の国を受けるようになる」。
スィフレイ93d(ユダヤ教)








―み言選集―


邪悪な世の中でなされるすべてのものは、私達を幸福の門に導くのではなく、死亡の罠と死亡の落とし穴に追い込むのです。
(47-49、1971.8.19)


天情と人情は食い違います。皆さんはそれを知らなければなりません。人が良いというところには天がいないのであり、天が良いというところには人がいないのです。それを知らなければなりません。ですから、世の中が良いというところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長続きしません。
(51-187、1971.11.21)


対立した善悪の世界という立場から見るとき、体に引っ張られていけば悪の世界になるのであり、心に引っ張られていけば善の世界になるのですが、ここでは心が体を完全に支配できません。いつでもその中間で、行ったり来たりするのです。
しかし、宗教を中心として神様のみ旨を絶対視するようになれば、サタン世界と分立された位置に行けます。対立した善悪の世界なので、分別された位置で善を中心として生きなければなりません。そのような個人の生活を経た人は、霊界に行って善主権の世界で、永遠に生きるなといっても、永遠に生きるのです。
(36-82、1970.11.15)


責任分担をもとうとすれば、皆さんはどのようにしなければなりませんか。責任分担と向き合うことができる人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。サタンの情、サタンの人情、サタンの血筋を受け、情の因縁の中で生まれたすべてのことを否定する位置に立たなければなりません。


なぜですか。アダムが責任分担路程を行くとき、サタンの情をすべて抱えて行きましたか。答えてみてください。サタンが何かの情をもってきましたか。もってきていません。皆さんは今何ですか。責任分担を求めていくためにサタン世界の情をすべて切りましたか、切っていませんか。切ることができずに責任分担ができますか。ですから、否定しなければなりません。
(139-250、1986.1.31)


歴史的な偉人や先覚者たちは、世の中の楽しみや満足を得ようとしたのではなく、より高い理念に向かって約束された一つの所を目的地とし、あらゆることを克服していく探検家的な気質をもった人たちでした。
(7-87、1959.7.19)


サタン世界とは永遠に違わなければなりません。180 度違わなければなりません。サタン世界でフリーセックスやホモ、レズビアン、麻薬や酒を飲むということとはすべて反対です。サタンがどれほど天を犠牲にさせ、善の人を犠牲にさせたか、愛の道を中心として、歴史にどれほど悲痛な犯罪の事実を残したかを知らなければなりません。
(244-148 ~ 149、1993.2.1)




皆さんの父母たちは、「おい、なぜデートしないのか。出ていってデートしなさい!」と言いますが、レバレンド・ムーンは、「デートするな! 女性たちに手を出すな!」と言います。誰がサタン側で、誰が神側ですか。
(122-263、1982.11.21)






10.苦行、修道生活、そして禁欲生活


俗世から完全に自身を分離しようとする人は、隠遁を選択したり、修道僧や修道女の人生のように独身生活を主張するだろう。仏教とジャイナ教、ローマ・カトリックと東方正教会では、最高の宗教的聖職を、独身生活をする僧侶、修道女、そして神父とみなしている。


禁欲主義はヒンドゥー教でも多く発見することができる。一生の間、禁欲生活をするだけでなく、解脱の境地に達するために人生の晩年を孤独な独身生活で送るバラモンの伝統がある。キリスト教
の修道院は、神様に対する愛を女性に対する愛より尊く思い、清貧と純潔の生活を送ると誓った彼らに、環境的条件を支援するために制度的形態として作られたものである。


イスラームには修道院体制がない。しかし、ラマダン期間に1ヵ月の間続く断食を通し、幅広い禁欲生活を実践する。断食と徹夜祈祷は、食べ物と睡眠に対する肉欲を打つものだ。そして、これらは過去に霊的エリートの少数者だけが享有した伝統的修道院体制とは異なり、一般人も簡単に行える禁欲生活の実践である。タイとスリランカの若い男性仏教徒たちは普通、家庭をもうける前に、6ヵ月の間修道院で訓練を受ける。


肉欲を抑制することを強調する文鮮明先生も、心身統一を成すための修道院の修業は高く評価される。独身生活をする神父と人間創造時に家庭理想を夢見られた神様の理想との間には、明らかにある種の緊張感が高まっている。このような脈絡から、この節の最後の部分には、行き過ぎた禁欲的人生に対して批判するいくつかの文章を載せた。


このような批判は、禁欲を実践するすべての宗教において同時に提起されている。行き過ぎた禁欲主義は、同情心の欠如した人性に発展することがあり得る。修道院生活は、神様が経綸する裕福で生産性あふれる社会と決して比較できないだろう。


文鮮明先生の教えは、人間の堕落によって誤った結婚をしてしまったことで、初めから禁欲と独身生活を強調せざるを得なかった神様の心情にまで言及している。最後には結婚が本来の状態に回復して、これ以上独身訓練が必要ない新しい時代の到来に対しても言及している。過去の独身生活は高貴なこととみなされるほかなかったが、今は宗教が独身生活より結婚の価値をさらに高揚させなければならない時が到来した。この修道院と独身生活の変化の徴候は、すべての宗教世界で感知されている。






①修道者の苦行


―宗教経典―


たとえば空飛ぶ青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
スッタニパータ221(仏教)


托鉢を続けよ。森にとどまれ。絶食せよ。必要なことのみ語れ。困窮を耐え忍べ。睡眠を克服せよ。殊勝な姿勢で、すべての人を友とせよ。しかし、執着してはならない。
ヴァッタケーラムーラーチャーラ981(ジャイナ教)


誹ることなく、害ふことなく、波羅提木叉に於て自制あり、食に於て節度を知り、閑処に坐臥し増上心に専念す。是諸仏の教えなり。
感興偈43(仏教)




家を離れ、十分な清めの道具(パヴィトラ)を所持し、沈黙を守り、迫る快楽に無関心となって遍歴すべし。同伴者を持たず、成就を求めて常に独りで行動すべし。孤独者に成就があることを見る者は〔何ものも〕捨てないし、また〔何ものによっても〕捨てられない。火も、家も持ってはならない。、村にすがるのは食べ物のためであるべし。無関心で、動揺せず、沈黙を守り、完全な精神集中を、はかるべし。〔施物を受けるための〕壊れた土器、樹下、ぼろ布、同伴者をもたないこと、いっさいに対する平等――これが解説者の特相である。


死を喜んではならない。生を喜んではならない。ただ時機を待つべし。召使いが命令を〔待つ〕ように。視線によって清められた足を置くべし(目の前をよぐ見て生き物がいないことを確かめて足を地面に置く)。布によって清められた(布で漉した)水を飲むべし。真実によって清められた言葉を語るべし。心によって清められた行動をするべし。




罵言に耐え、何ものをも軽蔑してはならない。誰に対してであれ、この身体にすがって敵意を抱ぐようなことをしてはならない。怒れる者に怒りを返してはならない。罵倒されたときは祝福を告げるべし。七門(肉体)に満ちる虚言を語ってはならない。自己に悦び、[瞑想のために]座り、無関心となり、渇望を断ち、自己のみを同伴者として、幸せを求めてこの世を遍歴すべし。……


〔一日に〕一度乞食に歩くべし。量の多いことに執着してはならない。なぜならば、施物に執着する遍歴者は感官の対象にも執着するからである。遍歴者は、常に、炊煙が絶えたとき、杵の音がしなくなったとき、炭火が消えたとき、人々が食事を終えたとき、容器の片付けが終わったとき、乞食にまわるべし。


〔施物〕が得られなくとも気を落としてはならない。また得られても喜んではならない。命を維持するに足るだけの量を受け取るべし。量に対する執着を捨てるべし。敬われて得たものをいっさい軽蔑すべし。遍歴者は、たとえ解脱したとしても、敬われて得たものによって縛られる。


感官がその対象によって奪われたときは、僅かな食べ物を摂取し、密かに〔交互に〕立ち座ることによって〔感官の働き〕を停止させるべし。感官を制御し、愛憎を消滅させ、生き物に危害を加えないことによって不死にふさわしくなる。
マヌ法典6.41 ~ 60(ヒンドゥー教)


謙遜の一番目の段階は、躊躇なく従順にすることである。これは誓った聖なる服従のために、あるいは地獄に対する恐怖や永生の栄光のためにするのである。修道院長の命令が下れば、まるで神が下さった命令のように、あなた達はいかなる躊躇もあってはならない。……


語る自由はめったに許してはならない。……修道院長に質問することがあれば、低く慎み敬う姿勢で尋ねるようにせよ。しかし、基準の低い笑い話や意味のない言葉、大きな笑いを誘発する言辞は、どこでも禁じられなければならない。口を開いてそのような言葉が出てこないようにしなければならない。……


個人の所有物は、いかなる場合も修道院に入れないように根絶させなければならない。そして、誰も大修道院長の命令なく物を交換することを想像もできないようにしなければならない。そのいかなる物も、許諾なく個人の所有物としてもってはならない。本、黒板、ペン、その他の物も許諾されない。修道僧は「自分」という意思や肉身も許諾されないからである。


しかし、必要なものがあるときには、その寺院に責任をもつ神父に要請しなければならない。しか
し、大修道院長が与えたり、所有することを許諾していない物は、いかなる物も与えてはならない。すべての物がすべての人に平等であるようにせよ。
ベネディクトス規律(キリスト教)




一み言選集―


何を抑えようとするのでしょうか。この体を抑えようというのです。ですから、「断食をしなさい、祈祷をしなさい、眠ってはいけない、結婚せずに一人で生きなさい、犠牲、奉仕しなさい」と言うのです。高次的な宗教、カトリックのようなところでは、神父と修道女たちが独身生活をしていて、仏教も高次的な宗教として独身生活を強調するのです。


ところが、アメリカの若者たちはどうでしょうか。宗教では体を征服するために、このように正反対の生活を強調しているのですが、アメリカの若者たちの生活は、このような生活とは完全に遠い距離にあります。サタン世界に包囲され、また包囲されて、地獄の底に入っていって暮らしている事実を知らなければなりません。神様が願わない地獄の底で生きているという事実を悟らなければなりません。それでは、なぜ体を打たなければならないのですか。これがサタンの舞台になっているからです。(215-236、1991.2.20)
体が大きければ、その次には良心を踏みにじるのです。力のない私を押しのけます。良心がそれを主管しなければなりません。宗教がそれをするのです。


これは自分自ら停止するまでは継続するということを知らなかったので、中世のキリスト教で苦行をしたのであり、大勢の宗教が道を修めるために苦しみました。しかし、中断した理由はこの原則、規範を知らなかったからです。その怨讐がどこにいるか分からなかったのです。今ではもうはっきりと分かりました。その時はそれを知りませんでした。この体がこのような怨讐だということを知らなかったのです。この体が平定されなければ継続しなければなりません。継続しなければならないのです。
(254-222、1994.2.13)


プラスとプラスは相反です。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神様がプラスの立場なのに、マイナスの立場に立たずにプラスの立場に立とうというもの、これが正にサタンです。既に話したように、修養の生活では禁欲主義を叫んでいます。それはサタン側、すなわち悪に属するプラス的な面を経てマイナス的な立場に転換させるためなのです。
(4-23、1958.2.16)


宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。「食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい、情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさい」というのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。


体は高められることを好み、楽な位置を好みます。またごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
高まることを好む体を低くしなさい、温柔謙遜になりなさい、犠牲奉仕しなさいというのです。
(18-67 ~ 68、1967.5.21)

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