文鮮明先生御言葉選集 3-18 歴史的な苦難の頂点を超えよう 1958年1月19日
1958年1月19日(日曜日)、前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書23:27-39
<祈祷>
お父様、私達はお父様の栄光の前に現れる際に愛を感じ得なかったことを許しください。そしてこの世のために労苦しなかったことをお許しください。
お父様の御労苦、お父様の悲しみ、お父様の苦悩を考えたときに、私達の心が悲しみを感じることをお許しください。そして、私達の心が苦悶を感じることを許してください。そして、苦しみを知る子ども達にならせてください。
これらの子ども達にならなければならないことを知っていますので、愛するお父様、この時天国の命を持つことを許してください。そして、天国を求めて集まった子ども達ですので、自分達のすべての罪を持ってお父様の前に立つことができなくても、父が6千年間戦いながら築いてこられた復帰の恵みを見つめ、感謝する姿をお許しください。
そして、私達の心が父を喜ばせることができるようにお許しください。そして、私達の身体が父を喜ばせることができるようにお許しください。父のものとしてこの時間をすべて捧げることができるように、私の愛するお父様、切に願います。
今、一人ひとりの心を見透かして、自分の心の中心にある要求と希望の中心が何であるかを探り、見つけられるようにお許しください。自分を中心に据える何かがある場合、神の意志の前に天国の中心を見つけられないことに気づかせてください。自分自身で天の意志に逆らうことがないように導いてください。
ただし、罪人であることを認めながら、自ら父の前にひれ伏し、すべてを告白し、父の前で涙を流すことができる切実な尊敬の心情だけが、今ここに集まったあなた方の子供たちの心と体に溢れるように許してください。
そして、その心を中心にして復活の歴史を起こしてください、私の父よ、切に願います。今日、私たちは一人ひとりがそろって父の膝の前にひれ伏しましたが、これらがすべて忠誠の条件ではないことを知っていますので、父よ、心を開いて天の意志に没頭できるよう許してください。そして、父の愛の膝の中に入れてください。
そして、父の心情を理解できるように許してください。そして、父が望まれる栄光の姿で現れることを許してください、切に願います。
この時間、私たちが個々の姿で集まったとしても、集まった全体が父の膝の前に一つの生け贄とならなければなりません。私たちが敵であり、歴史的な敵であるサタンが私たちを妬んで妨げようとしても、父の子供になるという切実な心情だけを持つことができるように保護してください、愛する父よ、切に願います。
この日は聖なる日であるべきですので、この国に父の祝福を許してください。知らず知らずのうちに道に迷っているこの国を救うために立ち上がる私たちに鞭を与えてください。最後の勝利の戦いで天の意志を達成する中心的な国民になるように許してください、愛する父よ、切に願います。
お父様、この時間すべてを託してください。私たちにできることは何でしょうか?この時間にすべてを捨て、父のものとして捧げることができるように許してください、愛する父よ、切に願います。
この日、地方にも孤独に父に訴える子供たちがいることを知っていますので、いたるところで一律の恩寵を与え、大きな祝福を授けてください。切に頼み、願いながら、すべての言葉を主の名によってお祈りいたします。アーメン。
<説教>
みなさん、しばらくの間、考えてみようとする説教のタイトルは、「歴史的な不運の山を超えよう」というものです。このようなタイトルで、しばらく話させていただきます。
今日、この世には多くの人々が生きていますが、彼らの前には越えなければならない不運の運命の道が残っていることを、みなさんはよく知っています。
キリスト教の信条として、最後には審判があるというものがあります。ですから、多くのキリスト教徒は、どうやってこの死の難所を越えるかという心配の念を抱きながら、これまで生きてきたことをよく知っています。
現在生きている自分自身を考えると、自分でも知らない悲しみの運命に直面していることを認めるほど、自らに深刻な問題が待ち受けていることを感じるでしょう。その問題は、自分の前途に、周囲に、心と体に関わっていると感じるでしょう。
このような不運の環境を乗り越えていく使命が、現代の私たちにはあり、これが残りの人生の使命であると言えます。このような悲しみの環境を踏み越えて立ち上がるその日が、あなたの前にある限り、あなたは過去の不運な歴史を乗り越えて立ち上がることができ、これを踏み越えて立ち上がることで新しい希望の世界を迎えることができるのです。
この時点で、私たちは過去の歴史を振り返るとき、あなたが今直面しているこの不運な難所や環境が、あなただけが経験する不運の環境ではないことを理解する必要があります。6000年という長い年月を経て、私たちの先祖たちもまた不運な運命を経験してきたことを理解しなければなりません。
したがって、歴史を振り返ってみると、あなたが祖先が不運な立場にあったばかりでなく、人間と創造主の関係においても不運な立場にあったことを感じるはずです。あなたは自分自身を中心に据え、歴史的な役割を果たすことで、または創造主の理念を代表して、この切実な感情を感じると同時に、ある日歴史を代表して勝利した喜びの日を持たなければなりません。そうでなければ、今日の人間社会において幸福や希望、理念が全て崩壊してしまうでしょう。
このような歴史的な過程を経てきた人間であるがゆえに、神は人間の精神と生活に宿っている不運の幕、そして歴史を通じて流れてきた不運の幕をどのように乗り越えるかという責任を感じていたのです。正道を求める者たちもまた、人間のためにこの問題を解決しようとする責任感を持って出てきたのです。これまで存在してきた多くの宗教が未解決の課題を残したと言われるならば、この問題を解決しなければならない使命を残してくれたのです。
人間に残されたこのような不運の壁を乗り越えるために、天が動員されていることをあなたは知っています。この不運な運命を補うために天が動員されている一方で、その王国の霊的な力も動員されていることを知らなければなりません。さらに、地上の人間も動員されているのです。
不幸の壁を乗り越えるための歴史的な一時を探さねばならなかった人々が、その時を見つけられなかったために、今日私たちは再びその不幸の歴史を引き継いだのです。ですから、私たちは今、結束してこのすべての不幸の壁を乗り越えなければなりません。これを乗り越えられなければ、あなたの子孫たちも同じく不幸の壁を乗り越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道や悲しみの道、涙の道を避けることはできないことをあなたは知るべきです。
これを考えると、今日のあなた自身が単なる存在ではないことがわかります。あなた自身には天国の嘆願がかけられ、人類の嘆願が重ねられているのです。さらに、あなたは過去と現在と未来のすべての嘆願を解決しなければならない主人公の立場にあるのです。
あなたが一日の生活で、または一代の人生で、このすべての不幸の壁を切り開いて乗り越えられない場合、あなたを見守っていた歴史的な希望、または神の計画に基づく希望、または天の希望が崩れることを意味します。これを考えると、今日のあなたは個人ではないことに気づかなければなりません。
今日、多くの人々がいますが、果たして神の不幸や天使の不幸、そして未来の人類の不幸までを代わって私たちに阻む見えないサタンや悪の集団に立ち向かって戦える責任者はどれくらいいるのかを考えなければなりません。
これを考えると、今日の私たちがこのような立場に陥ったのは、神の計画に従って来た多くの先覚者たちも同じような状況と同じような環境で自らの生活を犠牲にしながらもこの一つの問題を解決するために戦ってきたということを知るべきです。あなたはこれを骨身に染みて感じなければなりません。
あなたは旧約時代を振り返り、ノアを見てください。ノアは神が人類の祖先に残した悲惨な運命の後、1600年間も苦労して、数多くの人々の中からようやく見出された一人でした。ノアはどのような存在だったのでしょうか?彼は当時の多くの人々を代表して天の不幸の気持ちを感じ取れる存在であり、当時の人々が感じる不幸の気持ちを代わりに神に慰めてもらう立場に立っていたのです。
このような立場にあったノアは、1600年の歴史的な使命を負った人間は、人間のためにでも天のためにでもこの不幸の壁を乗り越えようと、歴史上誰もが感じたことのない不幸な場所で、踏みつけられ、嘲笑され、追われる不当な場所から戦ってきたのです。このようなノアの生涯を忘れてはならないでしょう。
その時、ノアの前に現れたのは何だったのでしょうか?それは、神の復帰摂理を確立するための神の復帰摂理であり、ノアの前に1600年間の悲しみと不幸を代表する方舟が現れたのです。ノアが扱わなければならなかった方舟は、歴史的な不幸を代表する一つの存在だったのです。
1600年の不幸の山を越えなければならない使命を感じたため、神が与えた責任とその責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。ノアは、歴史的な復帰条件として与えられた方舟を知っていたため、120年間、苦難の生活と努力の道を歩んだことを皆さんは知るべきです。
120年後、この地を審判すると告げられたノアは、その日から誠実に方舟を建て始めました。しかし、1年ではなく、120年もの長い期間を耐えて船を建てたにもかかわらず、ノアの心情は自分の家のために建てるわけではありませんでした。また、子孫のために建てるわけでもありませんでした。そして、その時の悪い世界のために建てるわけでもありませんでした。ただし、この方舟を建てることはただ一つの神の意志を達成するために建てることだったのです。こうして、神の悲しみや1600年にわたって経験された多くの先人たちの悲しみを胸に抱え、黙々と戦ってきたノアの姿を回顧しなければなりません。
これを考えると、私たちは過去に神の意志に従ってきた先祖たちが悲しい道を歩んできたが、このような環境にあったノアは悲しい難局が押し寄せるにつれ、この困難な環境を押しのけ、乗り越えるために内面的に体と心の無限の戦いを経験したことを知るべきです。
彼は120年間、このような戦いを続けました。誰も同情してくれない中、ノアは神の意志を達成するために忠実に悔い改めを守りながら戦ってきたのです。これを考えると、このノアの心情は確かに1600年後の誰もが感じなかった悲しみの心情だったことがわかります。
このような過程を経て、やっと天が認める時が来たため、神の約束が成就するその日、不幸の怨恨を解消できる審判の歴史が生まれたのです。
ノアがこのように大きな復帰の使命を背負うほど、彼は安逸な生活を送れませんでした。喜びや平和な生活を送れなかったのです。身体的な苦痛と心の苦しみ、そして悪の環境からの迫害を受けたのです。こうして誰も同情してくれない困難な山を越えた後に、天が援助してくれたのです。そして、120年間の迫害や悲しみ、言葉にできない不幸な運命を耐え抜いた後に、ようやく神が友として、ノアの慰め手として、ノアの不幸を解消してくれる責任者として現れることを皆さんは知るべきです。
しかし、その時点で残っていた外的な不幸の山を越えることで全てが解決されると思っていたが、当時の不幸はもちろん、未来の不幸まで解決しなければならないことを、未だ気づいていなかったのです。永遠の人類史に一つの復帰の基点を築かなければならなかったアブラハムでしたが、それを果たすことができなかったのです。ですから、アブラハムは内的な不幸の生活を踏み越え、イサクを犠牲にする場にまで進んだが、それだけでは解決されず、内的な不幸が今日の私たちにまで続いていることを示しています。
しかし、皆さんは歴史的な不幸を担ったアブラハムが哀れな状況に置かれていたことを知らなければなりません。
では、アブラハムはいったい、その時までの人々が感じなかった不幸の心情を持ち、神の前で責任を負うと決意し、誓ったでしょうか?彼はいつでも、目が覚めた瞬間にでも神の意志を中心に据え、自分が犠牲になっていることを忘れる日には、神の意志が果たされないことを懸念しました。そして、天国を悲しんで、天国のために自分を捧げるべきだと考えました。アブラハムのこのような不幸の心情を皆さんは知るべきです。
ヤコブを見ると、アブラハムの土地を継承して天国の祝福を実現させる使命を受けたその日から、ヤコブも不幸な生活を送りました。ハランのラバンの家で21年という長い年月、不幸な生活を送るだけでなく、内的にはエソの従属を受け入れる生活を送りました。ここでヤコブが行く道にはいつも悲しい条件があったということを皆さんは知るべきです。
モーセも同様でした。アブラハム以後の400年を民族的に踏み過ごすための使命を負ったモーセにとっても、神の意志に従うための準備期間である宮廷生活40年、意志を実行する段階にあるミディアンの荒野生活40年、悲しみを超えて約束の地カナンに向かう途中での荒野の彷徨40年は、言い表せないほどの不幸な期間でした。
また、民族が知らない不幸の心情を抱き、民族を代表して責任を果たすためにシナイ山に登り、天国の前で論じることもありました。60万人の大衆を荒野に置いてひとりで神の意志のために、自分の80年の生涯すべてを忘れ、その時の悲しい状況も忘れてシナイ山に向かったモーセの悲しい心情を皆さんは思いやるべきです。
シナイ山に登り、犠牲の時刻として食べるものや着るものをすべて忘れながら、体も心もすべて捧げ、懇願し、祈ったモーセの偉大な心情を理解した人は、イスラエルの民の中には誰もいませんでした。
これを考えると、ノアから今まで、復帰の使命を負ってきた私たちの信仰を持った先祖たちが、悲しみの生活や苦難の経験を訴えるその心情を誰も理解せず、誰も彼らに従わなかったことがわかります。ですから天国にいる先達たちは、天国を代表して戦って残した不幸や怨念を誰が責任を負うのかと嘆息しています。もしあなたがその不幸の運命を負わなければ、彼らはあなたを非難するでしょう。
民族全体が神が許されたカナンの恵みに入る使命を負っていたにもかかわらず、彼らは不満を言い、荒野で座り込もうとしました。このとき、モーセが一つの生命をかけて全民族の命を救う山の犠牲にしようと躍起になったことを、その民族は知りませんでした。ただ神だけが知っていたのです。神だけが友達となってくださり、神だけが父として彼を扱ってくださったのです。
モーセはそれがわかっていたからこそ、40日間食べるものを忘れながらも、二度と父が悲しみや不幸の心情を持たないようにしてくださる責任を感じ、全力で懇願することでイスラエルの民を復活させることができる言葉を受け取ったのです。
これは喜ばしいことでした。しかし、喜びを紹介するためには、他人が知らない中で、背後で悲しみの犠牲となった者がいたことをイスラエルの民は知りませんでした。もしそれを知っていたなら、荒野で60万人の民衆が倒れることはありませんでした。その後でも、彼らがモーセの十戒を受け入れ、天国の悲しい心情を和らげるために自分たちの身を犠牲にすることさえ信じていたら、彼らは荒野で倒れなかったでしょう。
モーセも外的な石板は受け取ったが、自分の行為を通して後継者たちの内的な不幸まで和らげなければならないとは知らなかったのです。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブもそうでした。自分の行為に現れる生活的な環境は不幸的なものだったが、自分を通して後継者たちの内的な不幸まで引き受けなければならない責任は、モーセも知らなかったのです。
そのため、モーセの岩2タップを通じてバローの宮廷から神の援助によって導かれたイスラエル60万人の大衆が、荒野で倒れることになったのです。
彼らが倒れたもう一つの原因は何か?それはモーセの心情を理解しなかったことです。モーセの悔い改めを彼らが受け入れなかったために、彼らは荒野で倒れたのです。
これを考えると、今、あなたが立っている場所が、古代のノアが方舟を建てていた場所であり、アブラハムが犠牲を捧げていた場所であり、ヤコブが21年間羊を飼っていた場所であり、モーセが120年間労働していた場所であり、40日間断食していた場所であることを、あなたは知らなければなりません。
神から希望の楽園を約束され、喜びの栄光を称えながら、宮殿に向かって出発していたイスラエルの民が神の心情を忘れ、結果としてその喜びは失われ、敵対心が生まれ、民からの敵意に変わったことです。これが起きると、天国は彼らを罰するしかなかったということを、あなたは知らなければなりません。
今日の私たちキリスト教徒が持つべきものは何でしょうか?私たちの歴史を台無しにし、私たちの道を台無しにするサタンの勢力に対抗して戦わなければならない心、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そういう人は滅びません。しかし、サタンの勢力に対する敵意ではなく、仲間同士の恨みや敵意を抱いてはいけません。そういう人や教団があれば、間違いなく壊れるでしょう。
これを考えると、神の意志を知る人々は、民がこのような状況にあることを心配しながら祈り続けていたことがわかります。そして、神の意志を代わりに民族や世界を導く使命を負った人がいれば、その人は時が来れば、環境が許す限り、民族の多くの敵を一度に滅ぼすでしょう。
自分を中心に考え、自分を中心に動いている人々の多くの民族は滅びますが、民族の敵に立ち向かって戦わなければならない使命感を持ち、自分の体と心を犠牲にする人々の多くの民族は滅びません。
それでは、終末に立っているあなた自身はどのような立場にいるのでしょうか?あなたがすべての先祖を代表して立ったとするならば、ノアからアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様など、すべての先祖が敵と戦い、歩んできたその道を歩まなければならず、苦労し、使命を果たしてきたことをあなたが見習わなければなりません。あなたがこの時期にそのような心を持たなければ、誰があなたを先導するかわかりません。あなたはこれを心に留めなければなりません。
モーセも「私だけ残ったか?」と天国に懇願するエリヤの孤独を感じながら戦ってきましたが、イスラエルの民を守る心、そして民族の敵を討つ日を待ち望む切望の心が彼の心と体から消えなかったため、彼は倒れ、そして再び倒れるかもしれませんが、イスラエルを導く使命を続けられたのです。彼がこうしたのは自分のためではなく、彼の生涯は意志のための生涯であり、民族のための生涯だったからです。
イエス様がこの地に降臨される6か月前に、意志を持って戦い出していた洗礼者ヨハネも、彼が現れる時の生活環境は悲惨でした。彼も不運な環境から逃れることはできませんでした。神は4000年もの間、待ち望まれたメシアのために、ヨハネは荒野で30年以上も準備してきた生涯は、誰も理解できないほど困難なものでした。それを知る者は彼だけでした。
しかし、彼も30年以上にわたって悲しい生活を送りながら、イエス様が自分よりも内面的な不幸に苦しんでいる師であることを知らなかったのです。
マタイやヨハネも同様に、不幸な道を歩みました。しかし、4000年の歴史を代表し、天国の不幸や地上の不幸、そして全人類の不幸を代わりに背負い、史上誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンに立ち向かうことができる存在がこの地に現れなければならなかったのです。このような存在を天が示さなければならなかったのです。
この責任を背負って来られた方が誰かというと、皆さんがよくご存じのようにイエス様です。イエス様は4000年の帰還の歴史の中で、誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンと対決し、勝利することができる方でした。
聖書には書かれていませんが、イエス様自身もヨセフの家庭で30年間もの間、語り尽くせないほどの不運の道を歩まれました。これは民族を包むためであり、神の心を代わりに表現するためであり、神を代表して教団や部族を包むためでした。
しかし、自分の家族や部族、教団や民族を包みたいと願われたイエス様でしたが、彼は民族から迫害を受け、教団から嘲笑され、部族から追い立てられ、最終的には十二弟子たちから裏切りを受けたのです。
これを考えると、大声で泣き叫びたい悲しい出来事であり、人々に呪いを返すべき出来事でしたが、イエス様は敵意を克服しました。むしろ、道が塞がれたことを知ったイエス様は、誰が歴史的な不幸の気持ちを引き継ぎ、天国の代わりに父の内面的な気持ちを慰めるかを心配していたのです。
自分の周りの多くの人々は、イスラエルの幸福を引き継ぐことができると考え、ユダヤ教の教団の祝福を達成することができると思い、自分たちを中心に歴史的な王国を築くことができると考えていましたが、イエス様は十字架に架けられました。
先祖たちが歩んできた公式の道を進む立場に立ったイエス様は、この地上で果たすべき使命が大きければ大きいほど、または思想が高ければ高いほど、責任感を感じるとともに、当時の自分の民族があなたを裏切るかもしれないが、将来は自分の福音が世界的に広まり、世界的な敵が降伏することを知って、十字架の道を選ばれたのです。民族的な敵の立場に立つのではなく、それを踏み越えて世界的な敵を降伏させることを考え、十字架の道を選ばれたのです。
そのため、聖書に記録されたイエス様のヨセフの家庭での30年間の生涯や3年間の公生涯に関する言葉を見ると、イエス様は歴史的な不幸を代わりに受けた方であり、天敵的な不幸を代わりに受けた方であることがわかります。
しかし、イエス様を信じていた多くの群衆は、彼らのメシアであり、民族を救う救世主であると信じていましたが、結局はイエス様が去られると、すべてを捨ててしまいました。
もし、イエス様を信じていた群衆が、天に向かってのイエス様の内面的な気持ち、つまり神に対する心情を知っていたならば、イエス様の状況を理解し、イエス様の後についていたでしょう。そして最初についていた群衆がついていたイエス様の後を全体の民族がついていたでしょう。
しかし、4000年の帰還の歴史を栄光の1ページとするべきであったイエス様の福音の歴史は、血の祭壇を通じた涙の歴史として記録されています。これが一度で終わることではなく、終わりまで続くことは避けられない事実であると知っていたイエス様だからこそ、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と祈られたのです(マタイ27:46)。これは自分のために祈った祈りではありませんでした。民族を心配し、後の多くの人々を心配して祈られた祈りであったことを理解する必要があります。
さん、持っているものがないからと落胆しないでください。知っていることがないからと落胆しないでください。皆さんが落胆するべきことは、歴史的な過程を経て戦って来られた神の心情を感じていない事実です。また、先祖が血の祭壇を積み重ねて来られたその心情を感じていないことを懸念すべきです。さらには、私たちが神の真の子となり、キリストの真の友となることを求める中で、誘惑されるサタンに対する強い決意と心を打ち負かすことができないことを残念に思わなければなりません。
今日、私たちが歴史の過程を振り返るとき、数多くの先祖たちが家庭的あるいは民族的な不遇の状況を乗り越えるためにその心情を持っていたことを認識する必要があります。世界的な不遇の壁を乗り越えなければならない私たちは、ノアの時代の誤りを忘れてはなりません。アブラハムやモーセ、洗礼者ヨハネの誤りを繰り返してはいけません。
人類の堕落から6000年が経過した今日でも、神の全体的な悲しい心情を感じる人がいないとしたら、あなた方は「父よ!私を立て、ノアやアブラハム、ヤコブ、イエス様の心情を代わりに持ち、全体的な父の心情、つまり堕落する前のアダムを愛された心情、また堕落後の人間たちを扱い表さなかった怒りの心情まで、私の心で感じ、歴史的かつ宇宙的な犠牲となることができますように。」と祈ることができなければなりません。
神が創世以来今まで鞭を持ち上げられない悲しい立場にいたことを、だれが知らせたのでしょうか?神のことを愛の神とだけ知っていた人々は、公平な怒りの神であることを知りませんでした。神は過程で愛で接してくださいますが、最後には裁き、打たなければならない立場にある神です。あなた方は、神がこのように愛の神であると同時に、公平な怒りの神であることをしっかりと理解する必要があります。
このようなことを知る人でなければ、カナンの7つの民を追い出し、イスラエルの福祉を築くことはできません。今日「終末の聖徒」と呼ばれるあなたたち、他と異なる志で歩んだあなたたち、愛の神でありながら公正で裁くという命題を掲げて、あなたたちに接しておられることを知る必要があります。そして、それにふさわしい神の立場を理解しなければなりません。
終末にある私たちは、歴史的な父の心情を知ると同時に、その心情を代わりに持ってこの地上で意味が果たされないことに対する怒りを抱く父を慰めるために戦うことができなければなりません。神の真の子らの立場からこの使命を成し遂げるために来られる方が再臨することです。
見てください。ノアの時代には箱舟を中心に戦い、アブラハムの時代には祭壇を中心に戦い、モーセの時代にはイスラエルの民を中心に正義を行い、イエス様を中心にしてサタンの世界を打ち負かそうとされましたが、それは果たされませんでした。ですから、イエス様は裁きという名詞を掲げて戻られたのです。
今日、皆さんが直面している歴史的な困難をどのように乗り越えるか?それは皆さん一人ひとりにかかっています。天国の門は無理やり入ることはできません。ですから、皆さん自身がこの困難を乗り越え、その障壁を崩す必要があります。そして、父の憤りを解き放ち、カナンを目指したイスラエルの希望を抱き、この困難を乗り越えるための戦士になるべきです。
これまでの歴史の過程を振り返ると、将来の終末時代には、乗り越えなければならない困難が非常に多いことがわかります。その時、皆さんは個人的な扉を通らなければなりません。個人的な扉を通った後には、家庭的な扉、そして国や世界的な扉を通らなければなりません。
皆さんは今日、どのような使命を担っていますか?皆さんは昔の先祖の困難を負う立場にないなら、時代的な使命を担う立場にあります。また、世界的な使命を担う立場にないなら、永遠の神の計画を負う立場にあるのです。これを心に留めておく必要があります。
これまでの歴史は何を目指してきたのか?世界史は敵対するメシアに向かって進んできました。ですから、困難の歴史は今や過去のものとなります。信仰の時代も過ぎ去ります。新たな使命を持ち、世界的な困難を解決しに来るメシアが現れるまで、皆さんは勇敢に前進しなければなりません。
今日、終末の時代に直面している皆さんの中には、歴史的に伝わるすべての条件を一時に克服し、帰還復旧しなければならない時期があるということです。時代の運を担った人もいますし、世界の運を担った使命者や天運を担った使命者もいます。
これらをどのように結びつけて統合することができるでしょうか?これが道徳家や宗教家の使命なのです。そして、実際にその使命を遂行するのが宗教の使命なのです。
宇宙が誕生してから今まで、人々は何を中心にしてきたのでしょうか?人々はこれまで、親や夫婦、子供たちの愛を目指してきました。つまり、歴史と時代は変化してきましたが、親や夫婦、子供たちの道や規律は一度も無視されたことがありません。
終末に直面する人々は、どのようにすればよいのでしょうか?個人的な正を超える必要があります。そのため、道に進んだこれまでの道人たちは、最初から個人的な正を断ち切り出発したのです。これが道の世界での戦いです。
人間の個人的な問題は歴史的な信仰の目標であったが、それだけでは天倫の精神とは一致しないということです。6000年の人類史が一つの目標を立てるためにあったが、これだけでは宇宙的な問題が完全に解決されないので、天的な生の法則を確立できる一つのイデオロギーを持つ宗教が登場しなければなりません。
では、将来的に天運の時代に入るその時に立ち現れる真の両親、真の子供、真の夫婦はどのような人々でしょうか? そのような人々は人間の情に従い、神の心情に従う人々であり、宇宙的な苦難を感じる人々であり、神の愛を中心にし、神は私の父であると感じる人々でしょう。
6千年の歴史の中で、人類は人間の終的な問題も解決できず、横的な問題も解決できませんでした。それで、人々はこのような問題を解決してくれる宗教を求めていたのです。私たちは終末時代に直面するこのような高みとすべての壁を超えなければなりません。
神は長い歴史を通じて人間に対してすべてを忍耐してこられた真の両親であることを理解しなければなりません。さらに、その次に、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様は「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われましたが、このような花婿と花嫁、つまり天的な愛の問題を解決する宗教が最後の高みに立つことができるのです。この意味で、キリスト教が中心的な宗教であるのです。
そして、イエス様は「私は神と一体を成した、私は神の唯一の子」と言われました。さらに、イエス様は人類に向かって「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われました。天は長い年月にわたりこのような基準を中心に置き、世界的な苦難の壁を超えることを望まれましたが、このような立場にあった方がイエス様だったのです。
では、皆さんはどうすべきでしょうか? 皆さんは2000年の間に花婿の苦悩の心と共に来られたイエス様の心情や、多くの聖人たちが抱いた苦悩の心情を受け入れることができる人々にならなければなりません。そのような人にならなければ、神の子と呼ぶことも、イエス様の前に立つ一人の兄弟姉妹と呼ぶこともできないでしょう。
もしそのような人になろうとするなら、サタンはあなたを攻撃するでしょう。これがサタンの攻撃目標です。しかし、新しい信仰や思想、新しい宗教、新しい指導者が現れてそれを乗り越えれば、サタンの攻撃さえも跳ね返すことができます。そうすれば、サタンが追い払われることはありません。この時、再び革命や変革はありません。そのときに初めて永遠の思想が展開されるのです。
皆さんは天国に行こうと思ってはいけません。地上で天国を建設しようと思わなければなりません。そして、天国を建設する前に、まず自分自身が天国の人でなければなりません。そのような天国の人になるには、父の心が私の心であり、私の心が父の心であると自信を持って言える程度に、父と心が一体とならなければなりません。そのためには、地上に父の心を代表し、主と先祖の心を代表しなければなりません。そうすれば、歴史上のすべての問題を解決できるということです。
天界が動員され、歴史的な不運の壁を乗り越えようとしているとき、地上に住む私たちにも使命があることを知るべきです。今、私たちはこのような使命感を持って歴史上の最後の不運の壁を乗り越えようとするために、私たちは自分を阻む真の親の敵、真の子の敵、真の花婿花嫁の敵に対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
歴史的使命、時代的使命、未来の意志を前に置いている皆さんは、現在どのような時代に立っているかを知る必要があります。私たちは今後、天主教の時代が来るということです。望まない者はだれも持てない天国に対する心情や、サタンに対する敵意を持つ方が現れて、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
そして皆さんは先祖たちが歩んだ辛い道を辿らなければなりません。私たちは今、荒野に出たイスラエルの民と同じです。モーセとイスラエルの民が荒野で追いやられ、苦難を受け、イエスが民や教会から拒絶され、家庭から信用されなかったのと同じように、皆さんもこのような悲しい、不公平な立場を経験しなければなりません。しかし、落胆しないでください。皆さんがこうした不公平な立場で果たすべき役割があるなら、歴史的に苦難を受けた父の心情を共感し、主の苦しみが私の苦しみであり、先祖の苦悩が私の苦悩であると考え、千年にも渡ってその意志を変えずに団結し、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
歴史的な使命、時代的な使命、未来の意志を立てる使命を持つ皆さんは、今、どのような時代に立っているかを知るべきです。今、天主教の時代がやってくるということです。誰も持てない天国への心情や、サタンへの敵意を持つ方が現れ、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
民族を代表して私たちにこのような使命を任せたなら、私たちは父の怒りの心情を感じ、父の悲しみを身に受け、敵に向かって進撃できる勇士にならなければなりません。そのためには、皆さんは自分の生活と信念を統一しなければなりません。天国の悲しみとイエスの悲しみと先祖の悲しみと後続の悲しみを解消するために戦わなければなりません。
今、不運の歴史が皆さんに迫っています。ですから、皆さんは心を込め、意志を込め、自分のすべてを捧げ、自分が天罰を受け、不当な扱いを受けても、イエス・キリストを代表して民族と世界の前に犠牲となる覚悟を持ちながら自ら手を上げて、天の前で誓うことができなければなりません。
「文鮮明先生の著作選集3 - 19章、『イエス・キリストの心を持つ者になろう』(1958年1月26日)」
1958年1月26日(日)、本部教会での説教。
ピリポの信徒への手紙1:1-11
<祈祷>
愛するお父様、私たちが集まったのは、あなたの意志を知るためです。この子供たちの心と体を受け入れてください。まだ戻るべき戦いが残されているにもかかわらず、天の道を見落とさず、あなたからの命令を深く心に留め、その通りに行動するよう導いてください。
この時、私たちの心の深い部分にあなたの本性を満たしてくれることを許してください。また、あなたの本性を慕いたくなるこの時間を与えてください。6000年に渡るあなたの苦悩をこの時理解できるようにしてください。あなたが私たちのために努力し、私たちのために十字架の苦しみを耐え、戦ってきたことを理解できるようにしてください。
地上には多くの人々がいますが、宇宙的な心情を代表できる者はいません。あなたの子として、あなたの栄光を歌うことができる者もいません。私たちを呼んであなたの愛を感じさせ、預言者たちの心情と万物の心情を通じることができる恵みを与えたあなたの前に、謙虚な心を持ってひれ伏すことができるこの時間を許してください。
与えられた恵みが鞭であることを知り、あなたを慕う心も大きくなければならないことを知っています。しかし、私たちの切実な心が十分ではないことをお許しください。あなたの悲しみを恐れることができる子供になれるようにこの時間を許してください。
それにより、自らのすべての過ちを認め、自らのすべての罪を悔い改め、自らのすべてを公にして、あなただけを所有し、あなただけを愛し、あなただけに頼ることができる一つの誠実さを備えることを祝福してください。愛する父よ、心から願います。
お父様、この時間、直接管理してくださり、サタンが介入することのないように導いてくださいますよう切に願います。私たちの体と心がお父様と一つになるこの時を許してください。また、私たちが築く祭壇が天地の生命を代表する聖別された祭壇となるように許してください。愛する父よ、心から願います。
地と天の恨みが満ちていることを感じますので、私たちの心と体が特に父の前に捧げられる供物となるように許してください。愛するお父様、心から願います。
今、私たちの前に御言葉を示してください。この時、与える者の心も受ける者の心も二つに分かれず、一つになるように許してください。お父様の実体を感じ、不信の群れに対抗するために父の前に実体として捧げられた供物であることを感じるこの時間を許してください。愛するお父様、心から願います。
この時、集まった子供たちの悲しい心を慰めてくださり、意のままに管理してくださいますよう切にお願いします。
1958年1月26日(日)、本部教会での説教。
ピリポの信徒への手紙1:1-11
<祈祷>
愛するお父様、私たちが集まったのは、あなたの意志を知るためです。この子供たちの心と体を受け入れてください。まだ戻るべき戦いが残されているにもかかわらず、天の道を見落とさず、あなたからの命令を深く心に留め、その通りに行動するよう導いてください。
この時、私たちの心の深い部分にあなたの本性を満たしてくれることを許してください。また、あなたの本性を慕いたくなるこの時間を与えてください。6000年に渡るあなたの苦悩をこの時理解できるようにしてください。あなたが私たちのために努力し、私たちのために十字架の苦しみを耐え、戦ってきたことを理解できるようにしてください。
地上には多くの人々がいますが、宇宙的な心情を代表できる者はいません。あなたの子として、あなたの栄光を歌うことができる者もいません。私たちを呼んであなたの愛を感じさせ、預言者たちの心情と万物の心情を通じることができる恵みを与えたあなたの前に、謙虚な心を持ってひれ伏すことができるこの時間を許してください。
与えられた恵みが鞭であることを知り、あなたを慕う心も大きくなければならないことを知っています。しかし、私たちの切実な心が十分ではないことをお許しください。あなたの悲しみを恐れることができる子供になれるようにこの時間を許してください。
それにより、自らのすべての過ちを認め、自らのすべての罪を悔い改め、自らのすべてを公にして、あなただけを所有し、あなただけを愛し、あなただけに頼ることができる一つの誠実さを備えることを祝福してください。愛する父よ、心から願います。
お父様、この時間、直接管理してくださり、サタンが介入することのないように導いてくださいますよう切に願います。私たちの体と心がお父様と一つになるこの時を許してください。また、私たちが築く祭壇が天地の生命を代表する聖別された祭壇となるように許してください。愛する父よ、心から願います。
地と天の恨みが満ちていることを感じますので、私たちの心と体が特に父の前に捧げられる供物となるように許してください。愛するお父様、心から願います。
今、私たちの前に御言葉を示してください。この時、与える者の心も受ける者の心も二つに分かれず、一つになるように許してください。お父様の実体を感じ、不信の群れに対抗するために父の前に実体として捧げられた供物であることを感じるこの時間を許してください。愛するお父様、心から願います。
この時、集まった子供たちの悲しい心を慰めてくださり、意のままに管理してくださいますよう切にお願いします。
すべての言葉を主の御名でお祈り申し上げます。アーメン。
<説教>
今、皆さんと少し考えたい言葉の題は「イエス・キリストの心を持つ者になろう」です。本文中「私がイエス・キリストの心であなたたちをどれほど慕っているか、神が私の証人である」という言葉を中心に、「イエス・キリストの心を持つ者になろう」と題して説教いたします。
アダムとイヴが堕落したその日から、神の希望は何かと言えば、神の心情を代表できる人、神が住むことができる聖堂として完成された人、神と一致する心情と心を持つ人を探すことでした。
この地上に神の意志を代表する神の実体聖堂として来たイエス・キリストは、4000年にわたる神の苦労した歴史的な摂理の道を代わりに表現した神の聖堂であり、4000年にわたる摂理で神が持っていた内的な心情を代表した方で、実際的な温かい心を持って現れた方です。今日、私たちはこれを感じざるを得ません。
神の心情を理解できるイエス・キリストの体であり、神の事情を感じることができるイエスの心でした。ですから、イエスの鼓動する心は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動けばイエスが動き、人間が静まればイエスが静まる一体の関係を結ぶべきでした。それがこの地に来たイエス・キリストの使命であり、神の心情を感じるイエス・キリストの内的な心情を知る人、神の体を代表したイエスの外的な心を知る人がいなかったのです。
イエス・キリストの心情がどのようであったかと言えば、30年の準備期間中に他人が知らない孤独を感じた心情であったことです。
イエスはなぜそのような孤独を感じたのでしょうか?それは、人類の祖アダムとイブが堕落したことにより、創造の理念を達成し栄光を享受しようとした神の意志が成就されず、被造物は主を失った立場になったため、これを見る神は言葉にできない孤独を感じられたからです。イエスはこのような神の心情を知っていたため、同じ孤独を感じたのです。ですから、皆さんもイエスと同じように、被造世界が言葉にできないほど孤独な世界になってしまったことを感じる人になるべきです。
30年の準備期間を経たイエスはその後どのような生活をされたのでしょうか?4000年間神が努力して選び立てたイスラエルの民の前に現れ、新しい福音を伝えるために神の意志を代行する時、その心臓は言葉では表せない使命感に満ちていたはずです。30年間の悲しみの生涯を清算し、天の悲しみと苦しみを乗り越え、失われたエデンの主人公を再び回復させる使命を負ったイエスは、誰にも言えないほどの熱い心臓を持って現れたことを皆さんは忘れてはなりません。
選ばれた選民の前に現れ、新しい言葉を伝えるべく現れた時、イスラエルは、理念全体を代表するイエスを自らの希望の実体として、自らの栄光そのものとして迎え入れる環境を用意せず、むしろ彼らは意気込んで現れたイエスに反旗を翻しました。神がアダムとイブを失い悲しまれたのと同じように、神に代わって立てられたイスラエルがイエスの前で意志を示すことができなかった時、イエスは神がアダムとイブを失い悲しまれた心情を改めて感じざるを得なかったのです。
不信のイスラエルの民を見るイエスの心情は無限に悲しかったでしょう。憤りも強かったはずです。天に訴え、呪いをかけ、彼らを打つよう命じたいという切ない気持ちもあったでしょう。しかし、イエスはそのような心情を振り払い、エデンでアダムとイブが堕落した後に神が耐えられたその心情を思いながら耐え、悲しい心情を抱いたのです。そして反対するイスラエルの民に対して希望を持っていたイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。
イスラエル民族を代表して贖罪の祭壇を築くべきであった洗礼者ヨハネや、アブラハム以降40余代にわたり選民の血統として神の手により導かれてきたヨセフの家族も消え去り、神の意志を受けて自らを宿し、出産後30年間育ててきたマリアやその兄弟、一族もすべて失われました。
「キツネにも巣があり、空の鳥にも住むところがあるが、ただ人の子には頭を置く場所がない」と言われたイエスの心情を、皆さんはこの時感じ取るべきです。その疾走する心臓の中には、神の労苦が大きかったことを理解すればするほど、イエスの苦悩とその怒りは大きかったでしょうし、選ばれたイスラエルに対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は引き裂かれるような恨みに満ちていたでしょう。しかし、これを耐えながら静かに家を出たイエスの心臓がどのようであったか、皆さんは感じ取らなければなりません。そして、今日、皆さんの心臓がどのような状態にあるのかを見極める時が、まさに今であることを理解すべきです。
時は過ぎ去りましたが、イエス・キリストの疾走する心臓の脈動が今日、皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通じて動いていることです。そのため、皆さんは天に選ばれた心臓の脈動を代行できる人になるべきです。このような責任を代行できる人が現れることを、イエスは2000年もの間待ち望んでいたのです。また、神も6000年も待ち続けていたことを、皆さんは理解すべきです。
このようなことを考えるとき、住む場所がなく孤立した状況にあったイエス・キリストが、選ばれたイスラエルの民を背にし、信仰を頼りにしてユダヤ教を後にし、約30年の生涯をかけて荒野でバッタと野草を食べながら苦労し、メシアとしての道を準備していた洗礼者ヨハンも後にし、選ばれたアブラハムの血統であるヨセフ家族も後にして、天を背にし、家族を背にし、教団を背にして荒野へと出て行ったイエスの疾走する心臓がどのようであったかを、皆さんは理解すべきです。
振り返ってその一歩に恨みがあれば、天を代わってその恨みに満ちた心情を持ち、民族を責め、その責めに満ちた心情が爆発すれば、呪いの炎を下すように裁判の訴えをするべき立場であったにもかかわらず、イエスは民族の行く道を心配し、裏切り、拒絶する人々を心配し、彼らを再び抱きしめるために荒野へ歩いて行かれたのです。このようなイエスの孤独な心情を、皆さんは感じるべきです。
イエスは民族を後にして荒野に出て40日間断食しました。このように荒野に出て食べ物を口にすることができずに40日間孤独にさまようことを考えると、怒りが込み上げてくるかもしれませんが、4000年間耐えてこられた神の心情を思い、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じたイエスは、彼らに第二の生の期待を抱かせるために、荒野で何も食べずに40日間、神の前に民族的な捧げ物をしたことを、皆さんは知るべきです。
皆さんも経験があるかと思いますが、イエスは40日間の断食中に食べ物を摂取できなかったため、体が枯れるほど痩せていたということです。40日間の断食の過程で、イエスの心情は言葉にできないほど締め付けられ、心臓は衰えていきましたが、40日間の断食を乗り越えたのは、神の心情を切実に感じたからです。
それでは、今日の私たちはどうすべきでしょうか?私たちは、イエス・キリストの事情を理解できる友となり、食べられなかったイエス・キリストに固執し、死に向かうイエスの心臓の音を心配して泣くことができる友となるべきです。
そして、力ない体であったが、天命の新しい理念が塞がれてしまったことを打開しようとする戦いの中で、燃え上がる心を持っていたイエス、神の孤独な心情を思い、苦悩する心を持っていたイエスのもとに友は現れず、サタンが現れて試練を与えました。このような状況にあっても、自らの使命を果たさねばならなかったイエス・キリストの心臓を感じる皆さんであるべきです。
サタンが現れてイエスの心と体を破壊しようと3つの大きな試練を行ったとき、私たちは神の意志を代表し、民族を代表し、先祖を代表して新たに決意し立ち上がったイエスの疾走する心臓を感じるべきです。
最終的にサタンの試練を退けたイエスは、自分を拒絶したイスラエルの民が再び見つかるのが難しいこと、自分を反対し排斥したユダヤ教が再び見つかるのが難しいことを知りつつも、荒野に出て神との対決後、この罪の都を回復するための戦いに燃える忠誠心を持って決然と立ち上がったことを皆さんは知るべきです。
その日以降、イエスは死を覚悟して出発しました。イスラエルの民を代表して死ぬかもしれないが、自分自身を自分のものでないと自覚し、自分を試みたサタンに対して、自分を拒絶したイスラエルの民に向かって第二の攻勢を展開し出発したイエス・キリストの疾走する心臓を、皆さんはこの時再び感じるべきです。
よく人々は、イエス・キリストだからそのような事情に耐えることができたし、そのような苦難や非難にも耐えられたと言います。しかし、イエス・キリストだからこそ、より耐え難いということを皆さんは知るべきです。イエスは他の人よりも敏感で、他の人よりも極限の心情に苦しんでいたため、誰にも持たない重大な心情を持っていました。
そのような立場に立っていたイエス・キリストが、失われた都を再び探しに出たとき、人々は信じませんでした。イエスがそのような悲しみの生活、衣服を乏しく、飢える生活を経て立っていたとしても、地上にはイエスの事情に同調する仲間が一人もいなかったのです。そのため、イエスは「神だけが私の友であり、神だけが私の父だ」という心情を持つに至りました。このように、当時の人々はイエスを信じてはくれませんでした。
民族が裏切り、教団が非難し、親族と血族が見放し、自身の全てが失われるかもしれない中で、ただ一つ、イエスの安寧と、彼の希望、彼の心情を満たすものは何だったのかと言えば、それは「神は私と共におられる」という事実、そして「神は私のものである」という一つの事実でした。この一つの事実が4000年の歴史を代表して再び天を憂い、神の意志を再び掲げ、イスラエル民族に伝え、全人類に神の心情を植え付けるという考えを持たせたのです。
イエスは荒野に出る前までは、神を愛の神として知っていました。自分を育て、無限の希望の神として喜びをもって来られる方だと思っていましたが、このような盛り上がった心情を持って出たとき、常に相対的な関係であり、常に私を育て、私を抱きしめ、私を慰めてくれた神の困難な事情に直面し、神の困難な事情と悲しい心情を感じるようになりました。そして意志を「私が担います」と訴え、そのような心情を持って出たとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共にいる神として、神と共に新たな決意を持って敵の前に立つことができたのです。
そこで40日間の断食期間が終わり、新たな戦いの道を始めたイエスは、民族を代表して4000年の神の恨みを解放するため、神の敵であるサタンを打ち倒すために死を覚悟して立ち上がりました。イエスはただ一人で立ち上がったのではなく、4000年間描かれてきた姿、神の心情を代表する者の姿で現れたのです。
その後イエスが語った言葉はイエス自身の言葉ではなく、イエスの行動もイエス自身の行動ではありませんでした。イエスが語った言葉は神の言葉を代表したものであり、イエスが行った行動も神の行動を代表したものでした。イエスは明確に神が自分の心の中に生きており、自分の心臓を動かしていることを感じたのです。
こうしてイエスは再びイスラエルの町に戻りました。しかし最初に民族が反対したときは孤独な心情を持って荒野に出ることができたものの、今回は押し寄せる試練と迫害がどれほど強かろうとも、それに立ち向かい勝負を決めようとする決意と覚悟を持って立ち上がったイエス・キリストの心情を、皆さんはもう一度考えてみるべきです。
失われたイスラエルを再び見つけるために立ち上がったイエス、体が崩れることがあっても決して後退することができないという固い信念に燃えるほど、ますます疾走する心臓を抑えることができなかったイエスを、誰が理解してくれたでしょうか?この世には、イエスの疾走する心情を理解する人は誰もいませんでした。ただ一人、神だけがイエスの事情を理解してくださいました。
そのような中で、イエスは3年間の公生活の道を歩み始めました。最初には、弟子たちを選び、使徒として立てました。しかし、イエスが弟子たちと接するときも、4000年にわたりアダムを失い悲しんでいた神の心情を代わりに表して弟子たちに接したのです。これらの弟子たちは誰であったか?神の実体聖堂となるべき使命を持った弟子たちでした。そしてイエスは、彼らを神の実体聖堂となるよう導くという強い意志が骨に染みていたのです。
反対するイスラエルの民も、サタンの一族ではなく、現れるべき神の実体としての神の子女であるにもかかわらず、神の意志を知らずに反対する彼らを見て、悲しむ神の心情を感じたイエス・キリストの心はどのようであったかを、皆さんは理解する必要があります。
そうしてイエスの3年間の公生活を振り返るとき、イエスは自分のために生きたのではなく、まず神のために、次に弟子たちと人類のために生きました。イエスは自分のためではなく、神の心情を代わりに表して生きたのです。
そして、イエスの疾走する心は神を代表し、イスラエルの民を代表したものでした。そのため、神の悲しみがイエスの悲しみとなり、イスラエルの民の悲しみがイエスの悲しみとなったのです。ここで、神とイエス、そしてイスラエルの民を代表する使徒たちは三つではなく一つとなることができました。神と民と自分が一つとなるべきという心情に苦しんだイエスでした。そして、皆さんはイエスが自分を追いかける弟子たちを自分の実子以上に大切にし、愛したことを知る必要があります。
イエスの3年間の公生活は、子供たちのために犠牲を払う親の心情を持ち、真の愛の生活を送った道でした。罪に苦しむ人類を哀れむ神の心情を代表し、民族と使徒たちの心情を代表したイエスでしたが、イエスの事情を理解する人は地上に一人もいませんでした。
誰にも理解されない中で苦しむ天の心情を抱えて戦いを挑もうとしたイエス、再び民族が反対し、追随する人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で一人で祈らねばならなかったイエスの心情はどのようであったでしょうか?皆さんはこれを考えてみるべきです。
ゲッセマネの園で一晩中祈り続けたイエスの心情は、言葉にできないほど苦痛に満ちたものでした。それにもかかわらず、ついていた三人の弟子たちは、イエスとの行動を一致させることができず、それぞれバラバラに行動してしまったのです。イエスを通じて進むべきであり、イエスと同じ心情で訴えるべきであったにも関わらず、また、イエスが愛する弟子たちのために心を痛め、弟子たちを気遣いながら訴えたにもかかわらず、彼らはイエスの心情がどのようであったのかを理解せず、疲れ果てて眠ってしまったのです。
生死の決断の場面に立たされたイエスの心情は、天と地が溶け出すかのような言葉にできないほどの切ない心情でした。神はこのようなイエスの心情をご存知でした。しかし、3年間かけて自分の子のように育てた愛する3人の弟子たちは、イエスの心情を理解せず眠ってしまったのです。そのため、焦燥感に満ちた心情で3回も起き上がり、弟子たちを起こそうとしたイエスの切ない心情を皆さんも感じ取るべきです。
このとき、イエスはどのような心情を感じたでしょうか?それは、神がエデンの園でアダムとイブを失い、感じた悲しみと同じものでした。また、イエスは自らの前に現れた第二の民族である選ばれたイスラエルの民が反対し、ユダヤ教が反対する中で、再び3年の公生活を経ても自分を真に信じる人を一人も見つけられないと感じたでしょう。
アダムが堕落した後に神が感じた悲しみ、イエスが30年の私生活期間と3年の公生活期間に感じた悲しみ、さらにゲッセマネの園で祈っていたときの苦しい心情を理解する人がおらず、神の心情を感じ取る人もいなかったということです。3年間の公生活を共にした弟子たちもそれを知らなかったということです。
神を代表して歩んだ一生であったにも関わらず、イエスが歩んだ目的が民族のため、世界のため、人類のためであったにも関わらず、33年の生涯を歩んだ結果、残ったのは孤独でした。そして40日間の断食を終える時も、苦悩と悲しみに満ちた心情でいるイエスの前に敵であるサタンが現れたのです。
そのときのイエスの心情はどうだったのでしょうか?疾走する心臓はどうだったのでしょうか?何も信じることができず、どこにも頼ることができず、住む場所を決めることもできない切ない状況にあったにも関わらず、敵であるサタンが現れて試練を与えたため、イエスの心情は言葉にできないほど切なかったのです。それでもなお、ユダヤ民族と人類を心配していたイエスの心情を皆さんは理解すべきです。
私たちには、歴史的な使命を代わりに担い、贖罪の道を再び歩む責任があるとすれば、神の心情を代表したイエスの苦しい心情を代わりに担い、代わりに戦い、イエスの疾走する心臓の心配を代わりにすることができなければなりません。天はこのような真の子供たちが現れることを期待しています。
希望の条件をすべて断ち切り、荒野に出たイエスはサタンと戦い勝利しましたが、イエスには実体の供物を捧げるべき状況があったということです。これを皆さんは理解すべきです。
このようにして、イエスは愛する弟子たちと共にエルサレムに入りましたが、選ばれたイスラエル民族と教団を失い、孤独で哀れな状態でゴルゴタの道を歩まれました。この事情を皆さんも知るべきです。また、この事情の中で、非難すべきイスラエル民族であり、呪うべき12使徒であったが、鞭で追い出し、叫び、喚き散らす選ばれたイスラエル民族を見ながら、無言で十字架を背負い、必死でゴルゴタの道を歩かれたイエスの心情を、皆さんが理解すべきです。
イエスも人間であるため、人間的な感情があれば、不当に感じたでしょう。呪いと恨みが心を苦しめ、心が痛んでいたはずですが、神がこの民族、この世界を再び救おうとする意志が残っていることを知り、イエスは呪いの言葉を封じ、悲しい心情を転じさせました。
イエスは、自分が天を代表してこの民族を呪い、神を代表して審判すると、後代の人々を救う救済の計画が全て破壊されると感じたため、救済の基準を設けることができました。もしイエスが自らの不当さを不当として表し、神を代表する立場で呪いと恨みの立場に立っていたら、この世は希望が完全に途絶え、その時が世の終わりになっていただろうと感じます。
そのようなことを知っていたイエスは、「私が死の谷を越えても、なすべき神の意志がある」と感じていました。その心情から、呪うべき民族や復讐すべき敵に対して、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分のしていることを知らないのです。」(ルカ23:32)と言われました。このようにして第二の救済の意志を受け継ぎ、始まった悲痛で重大な瞬間を、皆さんも理解すべきです。そして、神はイエスを第二の救済の実行者として立てることができ、人々に復活の恵みを与えることができたのです。
このような状況にあったイエスは、敵によって十字架に釘付けにされることをすべて忘れ、過去の歴史を振り返りながら神の心情を案じ、未来の子孫を心配し、自らの血と肉が引き裂かれることを忘れ、天の歴史的な悲しみの心情を代わりに背負い、歴史的な神の恨みと歴史的な救済の責任を代わりに背負い、「天よ、赦してください」と訴えました。
それゆえに、万民のために、残念ながら人間としてこの世に生まれ、慰めの場所を一つも見つけることができず、あちこちに追いやられながら、孤独な孤児のように、放浪者のように孤独な道を歩んだ生涯が、結局はゴルゴダの丘での十字架の死に至ったこの一事を考える時、それを見る神の心情はどうだったでしょうか。神の悲しみは、天地をひっくり返すかのようであったでしょう。聖書にはイエスが亡くなる際に3時間天地が暗くなったと記されていますが、これは4000年もの間信じ続けた息子イエス、失われたアダムを見つけ出すために後アダムとして立てられたイエスが、死のゴルゴダの道で犠牲とされていく様子を見て、神が驚くほどの心情を抱いていたことを示しています。このような神の悲しくて切ない心情を理解する必要があります。
4000年の歴史を代表して現れるべきイスラエルが破壊されたことを、今日の私たちは復帰したイスラエルとして、イエスに反対していたイスラエルをイエスを歓迎するイスラエルに復帰させるべきです。そして、神の心情を代表して来たイエスを拒絶したイスラエルは壊れましたが、今日の第二のイスラエルである私たちが神を代表して不公平を解消できるようでなければ、再び来る主を迎えることはできません。天もこれを要求しています。
では、終末の聖者たちに対して求められる最大の要求は何でしょうか。再び来るメシアを迎え入れることができる人は誰でしょうか。それは、イエスが抱いていた苦しい心情とその疾走する心臓の内情を理解できる子供たちです。そのような子供たちがこの地上に現れなければ、死んだイエス・キリストの恨みを解くことができず、神の恨みまで解くことができます。それによって人々は喜びの日を迎えることができると理解しなければなりません。
イエスは復活の日を見つけましたが、復活後もイエスは自らを拒絶した弟子たちと会いましたが、喜びませんでした。復活後、マグダラのマリアがイエスに会って抱きしめようとしたときも、「抱きしめるな」と言いました。
喜びの日であり、喜びの瞬間でしたが、彼らはその歴史的な悲しみを知らず、イエスの代わりにイエスの前に喜びの条件を設けることができませんでした。このことを理解し、復活後にイエスを抱きしめようとしたマリアの心情を超えて、イエスの内的な心情を洞察し、彼の心臓まで理解し、天と地を背負った勝者としての資格を備える必要があります。どんな人間界のサタンであっても踏み越えて、神の前に立つことができる神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々でなければなりません。
アベルの血が歴史を代表して訴えたために、その贖いを果たすべきイエスが血の訴えの供物を捧げましたが、その後私たちはどうすべきでしょうか。イエスの流した血で終わらせるのではなく、その血を収集して、再び神の生きている人の血として私たちの体と心に保持し、その血を動かすことができる天的な心情と心臓を持った資格者でなければなりません。
皆さんは、自分を拒絶していた人々に対して、もう一度赦しの心を持ったイエスの心情を理解しなければなりません。互いに信じ合って、生きるか死ぬか一緒になる覚悟を持って出発した弟子たちが拒絶するとき、イエスは再び寛容で彼らを受け入れ、自らが死の危機を迎えるかもしれないが、彼らを呪わずに許したその心情を理解しなければなりません。
また、拒絶された弟子たちを後にして、復活して喜びの心を持ちながらも独り昇天しなければならないイエス・キリストが、自らに反対した使徒たちを探したイエスの心情を、あなた方が感じ取るべきです。
歴史的な和解の始まりについて、今日どこから始めるべきか考える必要があります。イエスの悲しい心情を慰め、喜びに満ちた心情に変えることから始めるべきです。今日、地上に悲しむ人がいれば、その人を抱きしめて共に悲しむことができるあなた方である必要があります。
選ばれたイスラエルの地位にある全世界に広がるキリスト教徒たちを見る時、選ばれたイスラエルを再び整え、神の祭壇を築き、生贄を捧げるべきイエス・キリストの苦しい状況が、歴史的な恨みとして結ばれていることを理解する必要があります。そして今日、世界に広がる第二イスラエルを動員し、彼らの保護者となり、彼らの戦いの代表者となり、彼らを代わってサタンと戦ったイエス・キリストの状況を共感する人になるべきです。このような心情を共感する聖者たちでなければ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことはできません。
また、皆さんは全てを諦め、イエス・キリストの足跡を守り、イエスが荒野で受けたサタンの試練やカエサルの裁判、ローマ兵の槍突きを打ち負かし、勝利することができる人々でなければなりません。このような責任を果たす仲間が必要であり、同時にイエスを迎え入れることができる家族、族、社会、国家、世界が必要ですが、それらは一体どこにあるのでしょうか。
今日、私たちは団結する必要があります。教派を踏み越えて、神の心情を代表して団結する時が来ました。言葉を通してイエス・キリストの実体を所有する時が来たのです。旧約の言葉を基にしてイエス・キリストの実体を所有すべきでしたが、イエスが実体を通過する扉であったにもかかわらず、この扉を知らなかったためにイスラエル民族は砕かれました。そして、旧約・新約の言葉を通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通じた実体通過の時代が来ていることを理解すべきです。
エデンの恨みとは何でしょうか!言葉を失ったことが確かに恨みの条件となりましたが、実体を失ったことがより大きな恨みでした。では、誰が言葉を踏み越えて実体通過の扉を開くでしょうか?これが問題です。このような扉がないために、今日私たちはこの扉の石となり、この扉を作る使命を背負っていることを理解する必要があります。
神は言葉だけを重要視しているわけではありません。新旧約聖書、つまり何億もの人々が読んでいる聖書の言葉よりも、その言葉を通過した一人の息子をより重要視しています。その息子とはどのような人でしょうか?頭で知る人ではなく、心と体で知る人です。頭で知る時代は過ぎ去りました。心で言葉を理解し、体で感じ、自らが神に代わってサタンと戦える実体の生け贄が求められる時が来ています。
イエスが30年以上の生涯を通じて行ったことは、神の悲痛な心情を解放するために、旧約の言葉を蹴飛ばしてでも、人間自体が言葉を代表し、神の心情と一体となり、誰にも分けることのできないこの一つの門を地上に作り出すための努力でした。そして、この資格を持った一人を見つけるための戦いの過程でした。
この一人がいなかったため、イエスは運命によりこの世を去る際、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」という恨みの言葉を残しました。
今、この恨を解決する者は誰でしょうか?神の恨を解放するためにイエスが苦しんだものの、成し遂げることなく世を去りました。今、6000年の歴史の終わりにあたり、その計画を継承し、この使命を担うために苦闘する地上の花嫁は誰でしょうか?その花嫁は、旧約・新約を知るだけの人ではありません。現代のどんな神学者でもありません。
イエス・キリストは30年以上にわたり神のために隠された悲しみを抱え、知られずに拒絶を受けました。40日間何も食べずにサタンと戦ったイエスは、死んでも生きても共にいると誓いながらも、裏切った弟子たちを再び受け入れるために立ち上がりました。普通の人間なら夢にも見たくないような存在でしょうが、イエスは復活後、弟子たちを再び探し出しました。このように、神の心情を代行するイエス・キリストであるあなたたちは、イエスを売り飛ばそうとしてはなりません。
彼の代わりになるべき世界中に散らばる第二イスラエルのキリスト教徒たちはどこに行くのでしょうか?サドカイ派やファリサイ派のような宗派を形成してきた人々が全てイエス
を受け入れることができずに終わりましたが、今日、皆さんはそうした宗派を踏み越えて立ち上がるべきです。
皆さんは父の言葉に代わって、そのような宗派を踏み越えて立ち上がる実体の供え物となるべきです。イエスの心と心が一つになり、神とイエスの心情と一つになった生きた供え物の実体が、この民族を代表する宗派の上に現れるべき時が来ていますが、今日のこの民族と人類はまだ眠っています。
世界は一つの心臓の動きによって一つの形を成し、天の心情とイエスの血肉を通じて歴史が流れてきましたが、今日、ついに実を結ぶべき一つの実体があなた自身です。
皆さんはイエス・キリストの切ない心情と動く心臓を所有する相手となり、第三イスラエルに残るべきです。イエスがそのような心情を持って供え物となり、第二イスラエルを作ったため、今日、私たちはその覚悟を持つべきであり、それによって第三イスラエルの祖となることができます。また、地上のエデン、つまりエデンの園の本来の子供となるでしょう。
皆さんは復活の恵みの実体を持って、歴史的なすべての苦しみを乗り越え、時代的な恨みを脱し、天を求めて出発できるようにならなければ、神の子供として立てられるでしょう。
イエスの30年の生涯が神の4000年の歴史の心情を代わりにして犠牲の実体として現れたように、今日、私たちも6000年にわたる神の回復の計画の心情とイエス・キリストの心情を代わりにして、天が動けば動き、定まれば定まる神の子女となるべきです。
このように過去6000年の歴史を振り返り、疑っていたイスラエルを見て悲しみ、未来の第三イスラエルの安息の園を築く使命を抱きながら、誰が行こうとも「私一人この責任を負います」と天に誓える子女となるべきです。そして、イエスの足跡を守り、後継者の責任を果たすべきです。
皆さん自身が、今、旧約・新約の言葉が何であるかを理解しなければなりません。旧約・新約の言葉よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどのようであるかを知り、つまりイエスの内的な心情を理解し、外的な心臓の動きを知ることで、天が動けば皆さんも動くことができるようにならなければなりません。
また、天の動きと停止に同調し、天の意志を代表して、父の前で勝利の供え物として自分を捧げることにより、イエスはこの地上で恨みを解き、神もこの地上で恨みを解くことができ、すべての人々が神に従って勝利の栄光を享受できるでしょう。
皆さんが偶然にこの立場に立ったと思わないでください。歴史的な運命を代わりに引き受けた必然的な道程として祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山で乗り越えた悲しみの壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山まで上がり、12使徒を一つに束ねた生ける供え物として勝利の祭壇を築き、サタンを征服して「父よ、ただひとり栄光を受けられますように」とできる勝利の子女となり、主の前で花嫁の資格を持つ勝者となるべきです。
<説教>
今、皆さんと少し考えたい言葉の題は「イエス・キリストの心を持つ者になろう」です。本文中「私がイエス・キリストの心であなたたちをどれほど慕っているか、神が私の証人である」という言葉を中心に、「イエス・キリストの心を持つ者になろう」と題して説教いたします。
アダムとイヴが堕落したその日から、神の希望は何かと言えば、神の心情を代表できる人、神が住むことができる聖堂として完成された人、神と一致する心情と心を持つ人を探すことでした。
この地上に神の意志を代表する神の実体聖堂として来たイエス・キリストは、4000年にわたる神の苦労した歴史的な摂理の道を代わりに表現した神の聖堂であり、4000年にわたる摂理で神が持っていた内的な心情を代表した方で、実際的な温かい心を持って現れた方です。今日、私たちはこれを感じざるを得ません。
神の心情を理解できるイエス・キリストの体であり、神の事情を感じることができるイエスの心でした。ですから、イエスの鼓動する心は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動けばイエスが動き、人間が静まればイエスが静まる一体の関係を結ぶべきでした。それがこの地に来たイエス・キリストの使命であり、神の心情を感じるイエス・キリストの内的な心情を知る人、神の体を代表したイエスの外的な心を知る人がいなかったのです。
イエス・キリストの心情がどのようであったかと言えば、30年の準備期間中に他人が知らない孤独を感じた心情であったことです。
イエスはなぜそのような孤独を感じたのでしょうか?それは、人類の祖アダムとイブが堕落したことにより、創造の理念を達成し栄光を享受しようとした神の意志が成就されず、被造物は主を失った立場になったため、これを見る神は言葉にできない孤独を感じられたからです。イエスはこのような神の心情を知っていたため、同じ孤独を感じたのです。ですから、皆さんもイエスと同じように、被造世界が言葉にできないほど孤独な世界になってしまったことを感じる人になるべきです。
30年の準備期間を経たイエスはその後どのような生活をされたのでしょうか?4000年間神が努力して選び立てたイスラエルの民の前に現れ、新しい福音を伝えるために神の意志を代行する時、その心臓は言葉では表せない使命感に満ちていたはずです。30年間の悲しみの生涯を清算し、天の悲しみと苦しみを乗り越え、失われたエデンの主人公を再び回復させる使命を負ったイエスは、誰にも言えないほどの熱い心臓を持って現れたことを皆さんは忘れてはなりません。
選ばれた選民の前に現れ、新しい言葉を伝えるべく現れた時、イスラエルは、理念全体を代表するイエスを自らの希望の実体として、自らの栄光そのものとして迎え入れる環境を用意せず、むしろ彼らは意気込んで現れたイエスに反旗を翻しました。神がアダムとイブを失い悲しまれたのと同じように、神に代わって立てられたイスラエルがイエスの前で意志を示すことができなかった時、イエスは神がアダムとイブを失い悲しまれた心情を改めて感じざるを得なかったのです。
不信のイスラエルの民を見るイエスの心情は無限に悲しかったでしょう。憤りも強かったはずです。天に訴え、呪いをかけ、彼らを打つよう命じたいという切ない気持ちもあったでしょう。しかし、イエスはそのような心情を振り払い、エデンでアダムとイブが堕落した後に神が耐えられたその心情を思いながら耐え、悲しい心情を抱いたのです。そして反対するイスラエルの民に対して希望を持っていたイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。
イスラエル民族を代表して贖罪の祭壇を築くべきであった洗礼者ヨハネや、アブラハム以降40余代にわたり選民の血統として神の手により導かれてきたヨセフの家族も消え去り、神の意志を受けて自らを宿し、出産後30年間育ててきたマリアやその兄弟、一族もすべて失われました。
「キツネにも巣があり、空の鳥にも住むところがあるが、ただ人の子には頭を置く場所がない」と言われたイエスの心情を、皆さんはこの時感じ取るべきです。その疾走する心臓の中には、神の労苦が大きかったことを理解すればするほど、イエスの苦悩とその怒りは大きかったでしょうし、選ばれたイスラエルに対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は引き裂かれるような恨みに満ちていたでしょう。しかし、これを耐えながら静かに家を出たイエスの心臓がどのようであったか、皆さんは感じ取らなければなりません。そして、今日、皆さんの心臓がどのような状態にあるのかを見極める時が、まさに今であることを理解すべきです。
時は過ぎ去りましたが、イエス・キリストの疾走する心臓の脈動が今日、皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通じて動いていることです。そのため、皆さんは天に選ばれた心臓の脈動を代行できる人になるべきです。このような責任を代行できる人が現れることを、イエスは2000年もの間待ち望んでいたのです。また、神も6000年も待ち続けていたことを、皆さんは理解すべきです。
このようなことを考えるとき、住む場所がなく孤立した状況にあったイエス・キリストが、選ばれたイスラエルの民を背にし、信仰を頼りにしてユダヤ教を後にし、約30年の生涯をかけて荒野でバッタと野草を食べながら苦労し、メシアとしての道を準備していた洗礼者ヨハンも後にし、選ばれたアブラハムの血統であるヨセフ家族も後にして、天を背にし、家族を背にし、教団を背にして荒野へと出て行ったイエスの疾走する心臓がどのようであったかを、皆さんは理解すべきです。
振り返ってその一歩に恨みがあれば、天を代わってその恨みに満ちた心情を持ち、民族を責め、その責めに満ちた心情が爆発すれば、呪いの炎を下すように裁判の訴えをするべき立場であったにもかかわらず、イエスは民族の行く道を心配し、裏切り、拒絶する人々を心配し、彼らを再び抱きしめるために荒野へ歩いて行かれたのです。このようなイエスの孤独な心情を、皆さんは感じるべきです。
イエスは民族を後にして荒野に出て40日間断食しました。このように荒野に出て食べ物を口にすることができずに40日間孤独にさまようことを考えると、怒りが込み上げてくるかもしれませんが、4000年間耐えてこられた神の心情を思い、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じたイエスは、彼らに第二の生の期待を抱かせるために、荒野で何も食べずに40日間、神の前に民族的な捧げ物をしたことを、皆さんは知るべきです。
皆さんも経験があるかと思いますが、イエスは40日間の断食中に食べ物を摂取できなかったため、体が枯れるほど痩せていたということです。40日間の断食の過程で、イエスの心情は言葉にできないほど締め付けられ、心臓は衰えていきましたが、40日間の断食を乗り越えたのは、神の心情を切実に感じたからです。
それでは、今日の私たちはどうすべきでしょうか?私たちは、イエス・キリストの事情を理解できる友となり、食べられなかったイエス・キリストに固執し、死に向かうイエスの心臓の音を心配して泣くことができる友となるべきです。
そして、力ない体であったが、天命の新しい理念が塞がれてしまったことを打開しようとする戦いの中で、燃え上がる心を持っていたイエス、神の孤独な心情を思い、苦悩する心を持っていたイエスのもとに友は現れず、サタンが現れて試練を与えました。このような状況にあっても、自らの使命を果たさねばならなかったイエス・キリストの心臓を感じる皆さんであるべきです。
サタンが現れてイエスの心と体を破壊しようと3つの大きな試練を行ったとき、私たちは神の意志を代表し、民族を代表し、先祖を代表して新たに決意し立ち上がったイエスの疾走する心臓を感じるべきです。
最終的にサタンの試練を退けたイエスは、自分を拒絶したイスラエルの民が再び見つかるのが難しいこと、自分を反対し排斥したユダヤ教が再び見つかるのが難しいことを知りつつも、荒野に出て神との対決後、この罪の都を回復するための戦いに燃える忠誠心を持って決然と立ち上がったことを皆さんは知るべきです。
その日以降、イエスは死を覚悟して出発しました。イスラエルの民を代表して死ぬかもしれないが、自分自身を自分のものでないと自覚し、自分を試みたサタンに対して、自分を拒絶したイスラエルの民に向かって第二の攻勢を展開し出発したイエス・キリストの疾走する心臓を、皆さんはこの時再び感じるべきです。
よく人々は、イエス・キリストだからそのような事情に耐えることができたし、そのような苦難や非難にも耐えられたと言います。しかし、イエス・キリストだからこそ、より耐え難いということを皆さんは知るべきです。イエスは他の人よりも敏感で、他の人よりも極限の心情に苦しんでいたため、誰にも持たない重大な心情を持っていました。
そのような立場に立っていたイエス・キリストが、失われた都を再び探しに出たとき、人々は信じませんでした。イエスがそのような悲しみの生活、衣服を乏しく、飢える生活を経て立っていたとしても、地上にはイエスの事情に同調する仲間が一人もいなかったのです。そのため、イエスは「神だけが私の友であり、神だけが私の父だ」という心情を持つに至りました。このように、当時の人々はイエスを信じてはくれませんでした。
民族が裏切り、教団が非難し、親族と血族が見放し、自身の全てが失われるかもしれない中で、ただ一つ、イエスの安寧と、彼の希望、彼の心情を満たすものは何だったのかと言えば、それは「神は私と共におられる」という事実、そして「神は私のものである」という一つの事実でした。この一つの事実が4000年の歴史を代表して再び天を憂い、神の意志を再び掲げ、イスラエル民族に伝え、全人類に神の心情を植え付けるという考えを持たせたのです。
イエスは荒野に出る前までは、神を愛の神として知っていました。自分を育て、無限の希望の神として喜びをもって来られる方だと思っていましたが、このような盛り上がった心情を持って出たとき、常に相対的な関係であり、常に私を育て、私を抱きしめ、私を慰めてくれた神の困難な事情に直面し、神の困難な事情と悲しい心情を感じるようになりました。そして意志を「私が担います」と訴え、そのような心情を持って出たとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共にいる神として、神と共に新たな決意を持って敵の前に立つことができたのです。
そこで40日間の断食期間が終わり、新たな戦いの道を始めたイエスは、民族を代表して4000年の神の恨みを解放するため、神の敵であるサタンを打ち倒すために死を覚悟して立ち上がりました。イエスはただ一人で立ち上がったのではなく、4000年間描かれてきた姿、神の心情を代表する者の姿で現れたのです。
その後イエスが語った言葉はイエス自身の言葉ではなく、イエスの行動もイエス自身の行動ではありませんでした。イエスが語った言葉は神の言葉を代表したものであり、イエスが行った行動も神の行動を代表したものでした。イエスは明確に神が自分の心の中に生きており、自分の心臓を動かしていることを感じたのです。
こうしてイエスは再びイスラエルの町に戻りました。しかし最初に民族が反対したときは孤独な心情を持って荒野に出ることができたものの、今回は押し寄せる試練と迫害がどれほど強かろうとも、それに立ち向かい勝負を決めようとする決意と覚悟を持って立ち上がったイエス・キリストの心情を、皆さんはもう一度考えてみるべきです。
失われたイスラエルを再び見つけるために立ち上がったイエス、体が崩れることがあっても決して後退することができないという固い信念に燃えるほど、ますます疾走する心臓を抑えることができなかったイエスを、誰が理解してくれたでしょうか?この世には、イエスの疾走する心情を理解する人は誰もいませんでした。ただ一人、神だけがイエスの事情を理解してくださいました。
そのような中で、イエスは3年間の公生活の道を歩み始めました。最初には、弟子たちを選び、使徒として立てました。しかし、イエスが弟子たちと接するときも、4000年にわたりアダムを失い悲しんでいた神の心情を代わりに表して弟子たちに接したのです。これらの弟子たちは誰であったか?神の実体聖堂となるべき使命を持った弟子たちでした。そしてイエスは、彼らを神の実体聖堂となるよう導くという強い意志が骨に染みていたのです。
反対するイスラエルの民も、サタンの一族ではなく、現れるべき神の実体としての神の子女であるにもかかわらず、神の意志を知らずに反対する彼らを見て、悲しむ神の心情を感じたイエス・キリストの心はどのようであったかを、皆さんは理解する必要があります。
そうしてイエスの3年間の公生活を振り返るとき、イエスは自分のために生きたのではなく、まず神のために、次に弟子たちと人類のために生きました。イエスは自分のためではなく、神の心情を代わりに表して生きたのです。
そして、イエスの疾走する心は神を代表し、イスラエルの民を代表したものでした。そのため、神の悲しみがイエスの悲しみとなり、イスラエルの民の悲しみがイエスの悲しみとなったのです。ここで、神とイエス、そしてイスラエルの民を代表する使徒たちは三つではなく一つとなることができました。神と民と自分が一つとなるべきという心情に苦しんだイエスでした。そして、皆さんはイエスが自分を追いかける弟子たちを自分の実子以上に大切にし、愛したことを知る必要があります。
イエスの3年間の公生活は、子供たちのために犠牲を払う親の心情を持ち、真の愛の生活を送った道でした。罪に苦しむ人類を哀れむ神の心情を代表し、民族と使徒たちの心情を代表したイエスでしたが、イエスの事情を理解する人は地上に一人もいませんでした。
誰にも理解されない中で苦しむ天の心情を抱えて戦いを挑もうとしたイエス、再び民族が反対し、追随する人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で一人で祈らねばならなかったイエスの心情はどのようであったでしょうか?皆さんはこれを考えてみるべきです。
ゲッセマネの園で一晩中祈り続けたイエスの心情は、言葉にできないほど苦痛に満ちたものでした。それにもかかわらず、ついていた三人の弟子たちは、イエスとの行動を一致させることができず、それぞれバラバラに行動してしまったのです。イエスを通じて進むべきであり、イエスと同じ心情で訴えるべきであったにも関わらず、また、イエスが愛する弟子たちのために心を痛め、弟子たちを気遣いながら訴えたにもかかわらず、彼らはイエスの心情がどのようであったのかを理解せず、疲れ果てて眠ってしまったのです。
生死の決断の場面に立たされたイエスの心情は、天と地が溶け出すかのような言葉にできないほどの切ない心情でした。神はこのようなイエスの心情をご存知でした。しかし、3年間かけて自分の子のように育てた愛する3人の弟子たちは、イエスの心情を理解せず眠ってしまったのです。そのため、焦燥感に満ちた心情で3回も起き上がり、弟子たちを起こそうとしたイエスの切ない心情を皆さんも感じ取るべきです。
このとき、イエスはどのような心情を感じたでしょうか?それは、神がエデンの園でアダムとイブを失い、感じた悲しみと同じものでした。また、イエスは自らの前に現れた第二の民族である選ばれたイスラエルの民が反対し、ユダヤ教が反対する中で、再び3年の公生活を経ても自分を真に信じる人を一人も見つけられないと感じたでしょう。
アダムが堕落した後に神が感じた悲しみ、イエスが30年の私生活期間と3年の公生活期間に感じた悲しみ、さらにゲッセマネの園で祈っていたときの苦しい心情を理解する人がおらず、神の心情を感じ取る人もいなかったということです。3年間の公生活を共にした弟子たちもそれを知らなかったということです。
神を代表して歩んだ一生であったにも関わらず、イエスが歩んだ目的が民族のため、世界のため、人類のためであったにも関わらず、33年の生涯を歩んだ結果、残ったのは孤独でした。そして40日間の断食を終える時も、苦悩と悲しみに満ちた心情でいるイエスの前に敵であるサタンが現れたのです。
そのときのイエスの心情はどうだったのでしょうか?疾走する心臓はどうだったのでしょうか?何も信じることができず、どこにも頼ることができず、住む場所を決めることもできない切ない状況にあったにも関わらず、敵であるサタンが現れて試練を与えたため、イエスの心情は言葉にできないほど切なかったのです。それでもなお、ユダヤ民族と人類を心配していたイエスの心情を皆さんは理解すべきです。
私たちには、歴史的な使命を代わりに担い、贖罪の道を再び歩む責任があるとすれば、神の心情を代表したイエスの苦しい心情を代わりに担い、代わりに戦い、イエスの疾走する心臓の心配を代わりにすることができなければなりません。天はこのような真の子供たちが現れることを期待しています。
希望の条件をすべて断ち切り、荒野に出たイエスはサタンと戦い勝利しましたが、イエスには実体の供物を捧げるべき状況があったということです。これを皆さんは理解すべきです。
このようにして、イエスは愛する弟子たちと共にエルサレムに入りましたが、選ばれたイスラエル民族と教団を失い、孤独で哀れな状態でゴルゴタの道を歩まれました。この事情を皆さんも知るべきです。また、この事情の中で、非難すべきイスラエル民族であり、呪うべき12使徒であったが、鞭で追い出し、叫び、喚き散らす選ばれたイスラエル民族を見ながら、無言で十字架を背負い、必死でゴルゴタの道を歩かれたイエスの心情を、皆さんが理解すべきです。
イエスも人間であるため、人間的な感情があれば、不当に感じたでしょう。呪いと恨みが心を苦しめ、心が痛んでいたはずですが、神がこの民族、この世界を再び救おうとする意志が残っていることを知り、イエスは呪いの言葉を封じ、悲しい心情を転じさせました。
イエスは、自分が天を代表してこの民族を呪い、神を代表して審判すると、後代の人々を救う救済の計画が全て破壊されると感じたため、救済の基準を設けることができました。もしイエスが自らの不当さを不当として表し、神を代表する立場で呪いと恨みの立場に立っていたら、この世は希望が完全に途絶え、その時が世の終わりになっていただろうと感じます。
そのようなことを知っていたイエスは、「私が死の谷を越えても、なすべき神の意志がある」と感じていました。その心情から、呪うべき民族や復讐すべき敵に対して、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分のしていることを知らないのです。」(ルカ23:32)と言われました。このようにして第二の救済の意志を受け継ぎ、始まった悲痛で重大な瞬間を、皆さんも理解すべきです。そして、神はイエスを第二の救済の実行者として立てることができ、人々に復活の恵みを与えることができたのです。
このような状況にあったイエスは、敵によって十字架に釘付けにされることをすべて忘れ、過去の歴史を振り返りながら神の心情を案じ、未来の子孫を心配し、自らの血と肉が引き裂かれることを忘れ、天の歴史的な悲しみの心情を代わりに背負い、歴史的な神の恨みと歴史的な救済の責任を代わりに背負い、「天よ、赦してください」と訴えました。
それゆえに、万民のために、残念ながら人間としてこの世に生まれ、慰めの場所を一つも見つけることができず、あちこちに追いやられながら、孤独な孤児のように、放浪者のように孤独な道を歩んだ生涯が、結局はゴルゴダの丘での十字架の死に至ったこの一事を考える時、それを見る神の心情はどうだったでしょうか。神の悲しみは、天地をひっくり返すかのようであったでしょう。聖書にはイエスが亡くなる際に3時間天地が暗くなったと記されていますが、これは4000年もの間信じ続けた息子イエス、失われたアダムを見つけ出すために後アダムとして立てられたイエスが、死のゴルゴダの道で犠牲とされていく様子を見て、神が驚くほどの心情を抱いていたことを示しています。このような神の悲しくて切ない心情を理解する必要があります。
4000年の歴史を代表して現れるべきイスラエルが破壊されたことを、今日の私たちは復帰したイスラエルとして、イエスに反対していたイスラエルをイエスを歓迎するイスラエルに復帰させるべきです。そして、神の心情を代表して来たイエスを拒絶したイスラエルは壊れましたが、今日の第二のイスラエルである私たちが神を代表して不公平を解消できるようでなければ、再び来る主を迎えることはできません。天もこれを要求しています。
では、終末の聖者たちに対して求められる最大の要求は何でしょうか。再び来るメシアを迎え入れることができる人は誰でしょうか。それは、イエスが抱いていた苦しい心情とその疾走する心臓の内情を理解できる子供たちです。そのような子供たちがこの地上に現れなければ、死んだイエス・キリストの恨みを解くことができず、神の恨みまで解くことができます。それによって人々は喜びの日を迎えることができると理解しなければなりません。
イエスは復活の日を見つけましたが、復活後もイエスは自らを拒絶した弟子たちと会いましたが、喜びませんでした。復活後、マグダラのマリアがイエスに会って抱きしめようとしたときも、「抱きしめるな」と言いました。
喜びの日であり、喜びの瞬間でしたが、彼らはその歴史的な悲しみを知らず、イエスの代わりにイエスの前に喜びの条件を設けることができませんでした。このことを理解し、復活後にイエスを抱きしめようとしたマリアの心情を超えて、イエスの内的な心情を洞察し、彼の心臓まで理解し、天と地を背負った勝者としての資格を備える必要があります。どんな人間界のサタンであっても踏み越えて、神の前に立つことができる神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々でなければなりません。
アベルの血が歴史を代表して訴えたために、その贖いを果たすべきイエスが血の訴えの供物を捧げましたが、その後私たちはどうすべきでしょうか。イエスの流した血で終わらせるのではなく、その血を収集して、再び神の生きている人の血として私たちの体と心に保持し、その血を動かすことができる天的な心情と心臓を持った資格者でなければなりません。
皆さんは、自分を拒絶していた人々に対して、もう一度赦しの心を持ったイエスの心情を理解しなければなりません。互いに信じ合って、生きるか死ぬか一緒になる覚悟を持って出発した弟子たちが拒絶するとき、イエスは再び寛容で彼らを受け入れ、自らが死の危機を迎えるかもしれないが、彼らを呪わずに許したその心情を理解しなければなりません。
また、拒絶された弟子たちを後にして、復活して喜びの心を持ちながらも独り昇天しなければならないイエス・キリストが、自らに反対した使徒たちを探したイエスの心情を、あなた方が感じ取るべきです。
歴史的な和解の始まりについて、今日どこから始めるべきか考える必要があります。イエスの悲しい心情を慰め、喜びに満ちた心情に変えることから始めるべきです。今日、地上に悲しむ人がいれば、その人を抱きしめて共に悲しむことができるあなた方である必要があります。
選ばれたイスラエルの地位にある全世界に広がるキリスト教徒たちを見る時、選ばれたイスラエルを再び整え、神の祭壇を築き、生贄を捧げるべきイエス・キリストの苦しい状況が、歴史的な恨みとして結ばれていることを理解する必要があります。そして今日、世界に広がる第二イスラエルを動員し、彼らの保護者となり、彼らの戦いの代表者となり、彼らを代わってサタンと戦ったイエス・キリストの状況を共感する人になるべきです。このような心情を共感する聖者たちでなければ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことはできません。
また、皆さんは全てを諦め、イエス・キリストの足跡を守り、イエスが荒野で受けたサタンの試練やカエサルの裁判、ローマ兵の槍突きを打ち負かし、勝利することができる人々でなければなりません。このような責任を果たす仲間が必要であり、同時にイエスを迎え入れることができる家族、族、社会、国家、世界が必要ですが、それらは一体どこにあるのでしょうか。
今日、私たちは団結する必要があります。教派を踏み越えて、神の心情を代表して団結する時が来ました。言葉を通してイエス・キリストの実体を所有する時が来たのです。旧約の言葉を基にしてイエス・キリストの実体を所有すべきでしたが、イエスが実体を通過する扉であったにもかかわらず、この扉を知らなかったためにイスラエル民族は砕かれました。そして、旧約・新約の言葉を通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通じた実体通過の時代が来ていることを理解すべきです。
エデンの恨みとは何でしょうか!言葉を失ったことが確かに恨みの条件となりましたが、実体を失ったことがより大きな恨みでした。では、誰が言葉を踏み越えて実体通過の扉を開くでしょうか?これが問題です。このような扉がないために、今日私たちはこの扉の石となり、この扉を作る使命を背負っていることを理解する必要があります。
神は言葉だけを重要視しているわけではありません。新旧約聖書、つまり何億もの人々が読んでいる聖書の言葉よりも、その言葉を通過した一人の息子をより重要視しています。その息子とはどのような人でしょうか?頭で知る人ではなく、心と体で知る人です。頭で知る時代は過ぎ去りました。心で言葉を理解し、体で感じ、自らが神に代わってサタンと戦える実体の生け贄が求められる時が来ています。
イエスが30年以上の生涯を通じて行ったことは、神の悲痛な心情を解放するために、旧約の言葉を蹴飛ばしてでも、人間自体が言葉を代表し、神の心情と一体となり、誰にも分けることのできないこの一つの門を地上に作り出すための努力でした。そして、この資格を持った一人を見つけるための戦いの過程でした。
この一人がいなかったため、イエスは運命によりこの世を去る際、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」という恨みの言葉を残しました。
今、この恨を解決する者は誰でしょうか?神の恨を解放するためにイエスが苦しんだものの、成し遂げることなく世を去りました。今、6000年の歴史の終わりにあたり、その計画を継承し、この使命を担うために苦闘する地上の花嫁は誰でしょうか?その花嫁は、旧約・新約を知るだけの人ではありません。現代のどんな神学者でもありません。
イエス・キリストは30年以上にわたり神のために隠された悲しみを抱え、知られずに拒絶を受けました。40日間何も食べずにサタンと戦ったイエスは、死んでも生きても共にいると誓いながらも、裏切った弟子たちを再び受け入れるために立ち上がりました。普通の人間なら夢にも見たくないような存在でしょうが、イエスは復活後、弟子たちを再び探し出しました。このように、神の心情を代行するイエス・キリストであるあなたたちは、イエスを売り飛ばそうとしてはなりません。
彼の代わりになるべき世界中に散らばる第二イスラエルのキリスト教徒たちはどこに行くのでしょうか?サドカイ派やファリサイ派のような宗派を形成してきた人々が全てイエス
を受け入れることができずに終わりましたが、今日、皆さんはそうした宗派を踏み越えて立ち上がるべきです。
皆さんは父の言葉に代わって、そのような宗派を踏み越えて立ち上がる実体の供え物となるべきです。イエスの心と心が一つになり、神とイエスの心情と一つになった生きた供え物の実体が、この民族を代表する宗派の上に現れるべき時が来ていますが、今日のこの民族と人類はまだ眠っています。
世界は一つの心臓の動きによって一つの形を成し、天の心情とイエスの血肉を通じて歴史が流れてきましたが、今日、ついに実を結ぶべき一つの実体があなた自身です。
皆さんはイエス・キリストの切ない心情と動く心臓を所有する相手となり、第三イスラエルに残るべきです。イエスがそのような心情を持って供え物となり、第二イスラエルを作ったため、今日、私たちはその覚悟を持つべきであり、それによって第三イスラエルの祖となることができます。また、地上のエデン、つまりエデンの園の本来の子供となるでしょう。
皆さんは復活の恵みの実体を持って、歴史的なすべての苦しみを乗り越え、時代的な恨みを脱し、天を求めて出発できるようにならなければ、神の子供として立てられるでしょう。
イエスの30年の生涯が神の4000年の歴史の心情を代わりにして犠牲の実体として現れたように、今日、私たちも6000年にわたる神の回復の計画の心情とイエス・キリストの心情を代わりにして、天が動けば動き、定まれば定まる神の子女となるべきです。
このように過去6000年の歴史を振り返り、疑っていたイスラエルを見て悲しみ、未来の第三イスラエルの安息の園を築く使命を抱きながら、誰が行こうとも「私一人この責任を負います」と天に誓える子女となるべきです。そして、イエスの足跡を守り、後継者の責任を果たすべきです。
皆さん自身が、今、旧約・新約の言葉が何であるかを理解しなければなりません。旧約・新約の言葉よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどのようであるかを知り、つまりイエスの内的な心情を理解し、外的な心臓の動きを知ることで、天が動けば皆さんも動くことができるようにならなければなりません。
また、天の動きと停止に同調し、天の意志を代表して、父の前で勝利の供え物として自分を捧げることにより、イエスはこの地上で恨みを解き、神もこの地上で恨みを解くことができ、すべての人々が神に従って勝利の栄光を享受できるでしょう。
皆さんが偶然にこの立場に立ったと思わないでください。歴史的な運命を代わりに引き受けた必然的な道程として祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山で乗り越えた悲しみの壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山まで上がり、12使徒を一つに束ねた生ける供え物として勝利の祭壇を築き、サタンを征服して「父よ、ただひとり栄光を受けられますように」とできる勝利の子女となり、主の前で花嫁の資格を持つ勝者となるべきです。
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