鮮明先生御言葉選集 4 - 5. あなたは誰のものか (1958年3月16日)
1958年3月16日(日)、旧本部教会
ヨハネの福音書 15:1-27
<祈祷>
創造の理念は特定の個体を探すのではなく、全人類を探すことだと知っています。この地上に人類を探しに来てくださったお父様よ! 全宇宙を善の理念の中に立てるべき摂理的な意図が残っていることを考えると、私たちは何度も死んででもその意図を実現するための肥やしとなり、少しでも父に助けを提供できることを切に願います。
お父様の悲しみは、この地上に創られた万物のためではなく、お父様の創造理念を代わりに実現できる人間個体がいないためにあるということを、この時間、私たちに許してくださいますように。そして私たちの心、ある全ての誠実を尽くして意図のために戦うことができるように許してくださり、この被造物を創造された創造主があなたであり、私たちのために無限に苦労された方もあなたであることを知ることを許してください。
お父様の心情を知らない人は父の命を知らない人であり、お父様の心情を体験できない人はお父様の事情を知らない人であることを知ることを許してください。そして今日この時間もお父様が父の心と共にできない私たちを見て悲しんでいることを知ることを許してください、愛するお父様、切に願います。
それで私たちの心が完全に父の意図と一つになることを許してくださり、お父様の友人のように生きることを導いてください。そしてお父様が動かせる私たちとなり、生活できるように導いてください。
イエス様はまさにそのような神の意図を抱いてユダヤ人のために現れた方であることを、私たちはこの時間に知ることができます。創られた人間もそのまま残り、創られた万物もそのまま残っていますが、お父様が臨在できる実体を知ることを許してください。愛するお父様、今、私たちに臨在して、私たちがそのような存在となるように、私たちの身体と心を聖別してください。それでお父様と一緒に楽しむことができ、お父様と一緒に創造の理念を実現していく新時代の先駆者となるように導いてください、愛するお父様、切に願います。
昔のイエス様の時代も、今日も、そしてこれからも、お父様が一貫した愛で歴史を動かしていると信じています。愛のお父様、この時間、イエス様が持っていた切ない心情を体験できるようにしてください。そして、地上のすべてを愛することができるお父様の心を持たせてください。万民を抱いて愛することができるお父様の性質に似ることを許してください。愛のお父様、切に願います。
お父様、この時間も地方に散らばって追い詰められているあなたの息子娘がたくさんいると思います。お父様が彼らを守ってください。自分のすべてを否定し、ただお父様の意図のためにのみ奮闘できる心情を持たせてください。
どのような十字架の道、嘆きの道でも突破し、お父様の命の道へ進むことができる息子娘たちとなるように、お父様が愛で導いてください。切に願います。
誰にも知られない切ない心情を抱かせたのもあなたです。お父様、私たちを心で慰め、体で励ましてください。そして、最後の戦場を守り勝利して、サタンに敬意を受ける息子娘たちとなるようにしてください。愛するお父様、切に願います。
集まった個々はそれぞれ異なりますが、目的のための心は一つにならなければならないと思います。目的のための体も一つにならなければならないと思います。もしお父様の意図に合わない嘆きの要素があるなら、それを取り除いてください。愛のお父様、切に願います。
今、お父様の言葉を伝えようとします。御言葉を受ける人たちが、お父様の心情の前に自分のすべてを告白し、自分自身を分析し反省できる息子娘たちとなるようにしてください。愛のお父様、切に願います。
お父様、この時間、心にいろいろな傷を負った人たちがたくさん集まっています。私たちの心を主管してくださるお父様、傷ついた心を癒してください。私たちの心に正しくないものがあるなら、それを取り除いてください。サタンが侵入できる条件がないか常に反省する私たちとなるように導いてください。もしそのような条件があるなら、それを取り除くことができるように、お父様が炎のような目で見守ってください。愛するお父様、切に願います。
お父様、今言葉を伝えようとしています。伝える人の心と受け取る人の心が一つになることを許してください。この時間もサタンは隙を狙っています。私たちがお父様の意図を中心に一つの友のように動き、調和できるこの時間としてください。愛のお父様、切に願います。
お父様よ、三千万人の民族を哀れんでください。この地のすべての人類を哀れんでください。そして霊界のすべての霊人が求める復帰の贖罪条件も見つけて立ててください。切にお願いし、願います。この時間、地方に散らばっている孤独な家族を一貫した恩恵で守ってください。もう一度切にお願いし、すべての言葉を主の名でお祈りします。アーメン。
<御言葉>
この時間は「あなたは誰のものか」という題で皆さんにお話しします。この地上に生きているすべての人は、それぞれ何らかの目的のために生きていると自負しています。
一見すると、私たちの生涯は自分を中心に始まり、自分を中心に終わるように思えます。しかし、もう一度考えてみると、自分を中心に生きているように見えるこの生涯は、曲折が多く、嘆きと悲しみと悲哀に満ちていることを、皆さんはこれまでの自分の実生活で多く体験してきたと思います。
また、自分を中心にした生活をし、自分だけをために生きると、罪と悲しみが満ち溢れますが、自分を忘れ、自分を否定する生活をすると、どんな困難も無難に乗り越えることができるという事実を、皆さんは実生活で感じたことがあるでしょう。
私たちが本質的な面で人間をより深く考えてみると、自分の体も自分のものではなく、自分の心も自分のものではないということを否定できません。また、創られた全体の被造世界、全宇宙も、その主人が被造物そのものであるように思えますが、もっと深く考えてみると、それが創造主のものであることを誰も否定できないでしょう。
例えば、この地球は主人が地球そのものであるように考えやすいですが、この地球も宇宙に属して存在していることを否定できないでしょう。また、地球上に存在しているすべての万物も、自分自身が主人であり、自分自身で生存を始めたかのように思えますが、万物もまた地球の縁を離れて存在することができないということも否定できません。
このように、すべての存在を見てみると、大きいものから小さいものまで、すべてが切り離せない縁を結んでいます。地球を見てみても、この地球が自ら存在できないことがわかります。すなわち、天体と切り離せない縁を結びながら、自然法則によって運行することで初めて地球としての存在条件を完備するのです。このように、地球を中心に見てみても、地球の原因者である創造主がいることを認めるなら、この宇宙は創造主である神によって生まれ、地球は宇宙によって生まれ、この地上に存在する万物は地球によって生まれたということを、皆さんは否定できないでしょう。
それでは、今日この地上に存在している万物の根源者、つまり人間の親のような存在は何でしょうか。それが地球だということを、皆さんは否定できないでしょう。また、地球の親のような存在は何でしょうか。それが宇宙だということを否定できないでしょう。しかし、宇宙の親(根源者)が何であるかについては、まだ解明されていないのが事実です。
すべての万物はこのように必ず親の縁のような原因的な過程を経た結果として存在しているにもかかわらず、結果世界自体でのみ満足を取ろうとするのは、歴史的な矛盾であり、現実的な矛盾であることを皆さんは今こそ悟らなければなりません。
それでは、このような立場に置かれている宇宙万象と皆さんに、最終的にどのような解決策があるべきでしょうか。このすべてを解明できる人、つまりすべての縁を通じて宇宙全体の価値と全体的な理念、福音的な理念を代行できる一つの実体を立て、宇宙に対して出ていける人格者がこの終末時代に現れるべきだということです。もしそのような存在が現れなければ、神が人間を中心に摂理したと断定することができないということを、皆さんは確かに知るべきです。
今日この見える万物世界を主管している人間、いわゆる万物の霊長と自称している人間が、自分を自分のものだと思っているなら、それは誤解です。皆さんの体は皆さんのものではありません。皆さんの心もまた皆さんのものではありません。皆さんのものだと認める根拠は何かと問い返されると、皆さんは答えられない立場に立たされるでしょう。
もしこの問題が解決されるなら、それは歴史的な一つの転機となり、同時にすべての問題を解決するポイントとなるのです。しかし、今日この地上に生きている人間たちは、この問題を忘れたままただ生きているのです。
神は宇宙を失って悲しまれるよりも、このような人間たちが存在するという事実をもっと悲しまれるのです。だからこそ、そのような神の心情を感じ、体験する人がいるならば、その人から基本的な宗教の摂理が始まるのです。ここから神を再び見出す道が開拓されるということを知るべきです。
この地上に存在しているすべてのものが地球を親とし、天体を親とし、さらには創造主を親としているように、皆さん自身も自分自身で終わるのではありません。
皆さんは地球が自分の親であると感じたことがありますか。私たちの体は地球のすべての元素で結合されています。地球が私たちの根源であることを否定できないのが人間です。しかし、人間は自分が地球に抱かれているという事実を忘れて生きていることが多いのです。今や皆さんは物質の親である地球があることを知りましたが、さらに自分を一つの人格体として生んでくれた親がいるという事実も知るべきです。
それでは、人間はどのような存在として創られたのでしょうか。物質的なすべての要素を備えた存在、天の理念を代行できる実体形象として立てるために神が人を土と水と空気で創られたのです。このような創造主の理念を通して創られた人間だからこそ、人間自身に神の神性に応じる何らかの要素がなければ、その人間自身にはどんな理想も希望も願いもあり得ないというのが創造の原則です。
神は人間を創るとき、すべての物質と通じることができる物質的な要素の結合体として肉体を作り、その肉体に肉体を主管する霊を吹き込んで人間を創られました。
物質が一つの存在性を示すためには、地球や全宇宙と通じる縁を持っているのと同じように、人間も地球を親とし、さらに理念的な主体である天を親としていることを信じる人間でなければならないということを、皆さんは確かに知るべきです。
それでは、人間とは何でしょうか?物質的なすべての縁を代替する実体(肉体)と、霊的なすべての縁を代替する実体(霊)が結合された一つの実体として作られた存在、それが人間です。このような価値を持つ人間だからこそ、創造主の前で喜びを感じ、創造主を崇拝し、創造主に賛美を捧げることができるのです。このように人間は極めて小さな一個人ですが、全宇宙を代表して天の栄光を示すことができる宇宙的な価値を持つ存在です。また、天はそのような価値を持つ完成された人間と接したいと望んでいます。
したがって、皆さんは自分を立てて何かを主張しようとする心を持つべきではありません。体が自分のものではなく、心も自分のものでない立場で、自分のものを主張して出るならば、歴史がそれを許さないのです。過去の歴史の中で、そのような個人、そのような民族、そのような国家が滅びた事実を皆さんはよく知っているはずです。
人間が必然的にこのような道を進まなければならないため、天は人間に善の道理を見つけさせ、善の方向を示しながら、歴史を今日まで引っ張ってきたのです。氏族社会の時代にはその氏族の慣習があり、民族国家の時代には民族主義や国家主義がありました。今日では、国家の次元を超えて、世界的な主義を中心に生きてきました。
ここで終わるのではなく、最終的には天道を中心とした摂理の意図のために生きなければなりません。そうしないで、自分の主義や自分の国家理念を志向する人は必ず破れるのです。
これを考えるとき、皆さんはどこで安定を見つけるのでしょうか?皆さん自身が幸せを感じ、自分自身が満足し、全被造世界の前で自信を持って神を代表して現れることができる安息の場所を簡単に見つけることはできないでしょう。しかし、これは人々が共通して求めてきた目標です。
心は天性に向かい、体は万物に向かう立場に立っている皆さんは、このすべての万象が自分のものであると自信を持って言える境地を感じたことがありますか?血統的な縁による氏族と民族・国家、そして世界の人類に対して「あなたは私のものだ」と言える感覚を持ったことがありますか?さらに、地上の人々だけでなく、霊界にいるすべての霊人に向かって「あなたは私のものだ」と言える自分になっていますか?
このことを考えると、自惚れて自分の何かを誇る人には償いがあるでしょう。自分の何かを立てて誇る人、自分のどんな主義を主張する人、その人は必ず破れるでしょう。この事実を否定できないならば、皆さんがどのような基準を持って生きるべきかが重要な問題となるでしょう。
元来、人間が堕落しなければ、善の価値を持つ天の相対的な立場に立つことができました。しかし、堕落によって善の親との縁が断たれました。その後、人間は悲しみの道を歩んできたのです。人間は死の峠を越えてでも、この善の親との断たれた縁を回復しなければなりません。
それでは、その縁をどのように結ぶのでしょうか?その縁は、どのような世界的な主義主張やどのような国家理念、社会的などのような体制で結ばれるものではありません。それは皆さんの心の中で結ばれるべきです。だからこそ、皆さんの心の中でその一つの事実が決定されないならば、たとえこの世界が幸福な世界、善の世界になったとしても、皆さんとは何の関係もないということを知るべきです。
しかし今日、皆さんの欲望は一個人を超えて国家や世界に向かって動いています。そのような所有の欲望を持つことも貴いですが、それよりも貴いものは何でしょうか?まず自分自身が永遠不変の主体に属する存在であることを認め、その次に宇宙的な欲望を満たすことです。そのような人がいるなら、この地上で彼を打ち負かす権力や勢力は存在しないでしょう。
しかし今日の人々はこれを考えていません。自分の真の価値を主張できない人々が万物を手に入れ、宇宙を主管したところで何の意味があるでしょうか。
だからこそ、今日の人間社会において宇宙的な理念を示す主張があるとすれば、それは宗教です。宗教以上の主張はありません。見えない創造主に対して、その方が私たちの父であり、私たちはその息子娘だと言える関係、そして切り離せない親子の縁とその価値を基に始まったのが宗教です。したがって、真の宗教は単にある民族を支配する次元にとどまるものではありません。未来の国家、未来の世界、さらに宇宙を見据えています。そして創造主の理想を通して創られた地と人間が三位一体的な関係として一つになろうとする目的に向かって動いています。
まさにこれを見つけて回復するためのものが宗教であるため、宗教はこれまで主従の関係を重視してきました。また、何が先で何が後かという順序の関係などで秩序的な縁を結んできたのです。天倫がそのようになっているのです。
それでは、悪とはどこから出発したのでしょうか?天倫を中心とした秩序的な縁を外れることから悪が出発しました。だから天は、皆さんが全宇宙のもの、創造主のもの、そして皆さん自身のものであると言えるその一つの基準を立てるために、今日まで努力してこられたのです。
皆さんは未来の中心になりたいと思いますか?神との縁がなく築かれた人間世界の中心は永遠ではありません。あるいは、民族の中心になりたいと思いますか?皆さんが望むように民族の中心になったとしても、皆さんは堕落した人間なので、いつかは必ず折れる時が来るのです。世界の前に堂々と出ても、一度折れる時が近づいているのです。だから宗教の道、つまり道義の道を行こうとする人にはすべてを捨てるように教えます。しかし、その言葉は常に捨てるという意味ではありません。
堕落した人間が善の道を進むには、言葉にできない紆余曲折の道を通り、革命と闘争の過程を経る必要があります。神は、そのような過程を経なければならない人間だからこそ、どの民族であれ、どの主義に偏って固定されるとそれが破れることを知っており、そのすべてを捨てるようにおっしゃったのです。
だからこそ、キリスト教がこの地上に天を語って現れるときに、言葉にできない迫害を受けたのです。また、どの時代においても、天を掲げる個人や民族は歓迎されませんでした。2000年前もイエス様が新約の福音を掲げて出ましたが、彼を国家的にも世界的にも追い出しました。さらに、イエス様以降、現在までどの時代においても、キリスト教を迫害しなかった民族は一つもありませんでした。
しかし神は、この地上にキリスト教の理念を立てるために、どの国の政策的理念であろうと、イエス様が主張する内容と一致しないときはそれを許しませんでした。
イエス様は持つべき民族を持てず、持つべき国家を持てず、持つべき世界を持てなかったため、神様はそれを取り戻すために今まで努力してこられたのです。では、その意図を誰が成し遂げるべきでしょうか?その意図を成し遂げるのは、天でも地でもなく、まさに皆さん自身です。
神様はこの宇宙を取り戻すための摂理を行いながら、一度に全宇宙を取り戻すことはできないため、まず一人の人を見つけるための努力の歴史を積んできました。それが、アダムの堕落後にノアを見つけるための1600年の期間でした。アダムが過ちを犯したため、神様はノアを立てましたが、ノアもその意図に対する責任を果たせなかったため、それが400年延長され、アブラハム、イサクを経てヤコブの時代に至って初めて一人の個人を見つけ、一つの家庭を見つけました。
神様はそのヤコブの家庭を中心にエジプトの道を経させ、モーセを立ててイスラエル民族を導かれました。しかし、民族を中心にイスラエルの国を見つけようとされたイエス様が、その国を自分のものとすることができず、天のものとして立てることができなかったため、選ばれたイスラエル民族はどうなったでしょうか?世界をさまよう民族となりました。
それで、イエス様が来て去った後、今日まで天はこの地上の人々の前に新約の摂理の道を立て、何をしているかというと、イエス様が見つけようとされた神を中心とした民族と国家を建設し、さらに天主的な天の理念が運行できる世界を建設しようとしているのです。そのような基盤を持っていないため、今日イエス様を信じているキリスト教信者たちにはまだ自分たちが見つけて立てなければならない国家の理念が残っているのです。しかし、この事実を彼らは知りません。
では、イエス様が今日この時代に求めるものは何でしょうか?天が4000年の間苦労して立ててきたイスラエル民族を失ったため、そのイスラエル民族に代わることができる第2のイスラエルの使命を今日のキリスト教が果たすことを望んでいるのです。しかし、これをまたキリスト教徒たちが忘れていることを皆さんは知るべきです。
このような状況の中で天性に向かって進む皆さん自身を考えると、皆さんは哀れな人々です。人間が天性の道理を正しく伝えることができる姿になっていないため、天性の道理を通じる家庭がなく、社会がなく、民族がなく、国家がなく、世界がありません。まさにそのような立場に置かれている自分たちであることを皆さんは考えなければなりません。
皆さんがそのすべてを見つけて立てることが最終目的であるため、天は今まで皆さんがそれを見つけて立てる前には何にも属さず、それに依存する存在にならないことを望んできました。つまり、どの民族、どの主義にも属さないことを望んできたのです。だからこそ、今日皆さんはそのようなことを心に刻んで歩まなければならない運命に置かれているのです。
そして今日、皆さんに問いたいのは、皆さんの体がこの地を代替できる体となっているか、民族を代替できる体となっているか、永遠の生命を代替できる体となっているかということです。皆さんはそうなっていると答えることができないでしょう。したがって、皆さんは自分の一身を自分のものだと主張してはいけません。皆さんは昔のヤコブが十二人の子供を中心とした70人の家族を持っていたのと同じように、神が統治できる国のものとなり、その国は神が支配できる世界のものとなるべきです。さらに、天上にいるすべての霊人たちも神が主管する理念圏内に属するようにしなければなりません。
このことを考えるとき、今日の皆さんはどのような立場、どのような位置で選ばれたのかを知る必要があります。そして、皆さんがどのような立場で自分の理念、自分の欲望、そして自分の行動をどのように展開してきたのかを反省するべきです。そして、今日の皆さんの立場が、このように天倫の全体的な意図、創造的な全体的な摂理の意図の前において、どのような位置にあるのかを明確に理解する必要があります。
神のキリスト教に対する摂理の意図は、神が喜びを感じることができる個人を見つけ、神が支配することができる家庭を見つけることです。そして、その家庭を合わせて天の民族を作ろうとしているのです。その意図を達成する責任を選ばれた民イスラエルが果たさなければならなかったのですが、彼らが失敗したため、神は世界のキリスト教徒を動員して第2イスラエルを建設しているのです。ですから、今日の全世界のキリスト教徒が一つに団結し、この地の悪に対して進撃する一日、キリスト教がいう最終の審判の日を迎えるべきなのです。
天倫の意図の前に完全に一体となり、天の承認を受けた人、神秘的な体験をした人は知っているでしょう。神が私に対して「あなたは私のものだ」と認めることを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見ます。全被造物が「あなたは神の子だ、神のものだ」と認める日には、霊界にいる多くの霊人はもちろん、地上の万物までが彼に頭を下げ、賛美することを今日の人間は知りません。神が認め、万物が認めることができる立場に入ると、真の良心を持つ人々も自然にその前に一体となるのです。
そして皆さんは、自分の存在位置と存在意識を持ちながらも「私のもの」という所有観念を捨て、「私は万物の意図を代行し、人倫の意図を代行し、天倫の意図を代行する」という考えを持つべきです。自分がそのような理念を持って進むことを自覚する人が、いわゆる「道人」です。皆さんがそのような道を歩むためには、この地上で欲しいものすべてを持ち、やりたいことすべてをやり、享受したいことすべてを享受する生活をしてはなりません。
皆さんが本当に天倫による存在の価値を見つけて立てたいと思うならば、まず自分自身を無慈悲に否定することができなければなりません。そして、自分の家庭や社会、罪悪のこの世界に対して無慈悲に戦うという敵対心を持って進む覚悟が必要です。だからといって、暴力で行うのではなく、奉仕と犠牲で罪悪に対して攻撃していくのです。このような道を通りながら、天は6000年の長い年月を黙々と戦ってこられたのです。
では、そのように創造主である神が人間を再び見つけるために努力してこられたことを知った皆さんは、どうすればよいのでしょうか?皆さん自身がこの宇宙のもの、すべての人間のもの、さらにはすべての万物のものと一体化できる存在となるべきです。そして、神のものとして所有されるべきなのです。
では、皆さんが神のものとして所有されるためにはどうすればよいのでしょうか?まず、このすべての被造物を創造した創造主である神が私たちの父であることを感じるべきです。ですから、創造主である神は永遠不変の絶対者として、創世から今まで切ることのできない親子関係を回復するために努力してこられた私たちの父であることを知るべきです。
肉体の親が私たちに血肉を与えた親であるならば、創造主はどのような親でしょうか。私たちの永遠不変の霊的な真の親です。私の心の親であると同時に、永生を与える霊の真の親なのです。今日まで人倫的には血肉の親を尊敬し、孝行するように教えられてきましたが、天倫の創造主については何の法もなかったため、人倫と天倫はそれぞれ別々の道を歩んできました。それで、人倫を代表し、天倫を代行する創造主である神に対して、天倫的な真の親の道理を叫んで進む者が必要だったのです。それがイエス様だったのです。
イエス様はこの地上に来て、創造主は私の父であるとおっしゃいました。神は私の父であり、私と一体であるとおっしゃったのです。夫婦一体、父子一体の内容を持ってイエスはそのように主張されました。だからこそ、他のどのような主張よりも天倫をために孝子孝女の道を築いたことが偉大であったのです。
今日イエスを信じる皆さん、皆さんは歴史の終末期に直面しています。しかし、この過程に至るまでには数多くの革命過程を経てきました。個人を中心としたり、あるいは種族を中心とした主張や習慣は、より大きな形の民族が現れたときにはすべて破壊されました。一つの個別的な国家も、全体的な統一の理念を追求する摂理によって、より大きく強い国に吸収される歴史過程を経てきたのです。
地球も一つ、人間も一つ、神も一人であるため、最終的にはこの三者が共に座って喜ぶことができる一日を実現するために、神は努力されています。そして、何らかの主導的な権限を持って命令するための神ではなく、自分の欲望を持って主導するための神ではありませんでした。
神は6000年間、個人が家庭を思う心、親が子を対する以上の心を持って人間に接してこられました。人間が神に対して孝子以上の孝行を尽くすことができる心を持ち、自分を父と呼ぶ日を見つけることが、人類に対する神の努力の歴史であるということです。しかし、今日の人間はこの事実をよく知りません。
今、皆さんがそのような考えを心に抱いて祈るなら、多くの祈りは必要ないでしょう。「神様、父よ!」というその一言と共に、数千年の歴史を経てきた父の心情を感じることができるのです。6000年の歴史の中で神が闘争の過程を経てきたのも、今日の私を見つけるためであったことを感じるでしょう。
だからこそ、その神が自分に対して「愛する息子よ!」と呼んでくださることを望むなら、皆さんは創世時に持っていた父の心情、人間の堕落によって感じた悲しい心情、再び全世界の民を救うためのその心情を感じながら、神を父として対する人でなければなりません。
そして、皆さんは神が今日、皆さんに対して摂理されているその事実を見て満足し喜ぶのではなく、まだこの地上に残っている悪と対決する多大な苦労の道を経てカナンの目的地に向かう人類を心配されている父の心情を感じながら、愛する父を呼ぶなら、その「父」という一言が歴史的な全体の意図を通じる言葉となることを知るべきです。
しかし、今日の皆さんがよく祈るときに「天にいらっしゃる私の父よ」と呼びますが、世にはその父の名を汚す人が多いです。「父」と呼ぶ言葉には6000年の歴史の血の祭壇を通して往来した預言者たちの叫びが含まれていることを知るべきです。そこには十字架の要素が込められているのです。私たちの預言者たちの無限の苦痛と悲惨な歴史的な縁が現れているという事実を知るべきです。
だからこそ、その創造主が自分と切っても切れない縁を結んでいる父であると認識したならば、そのような人はサタンがどれだけ強くても奪い去ることはできません。どれだけ地獄の炎が恐ろしいとしても、そのような人は溶かすことができないのです。
それでは、イエス様がメシアとなった原因はどこにあったのでしょうか?親に孝行する信念が人倫の歴史を代替できるのと同じように、イエス様は自分の一身を犠牲にしても天倫を代行するという覚悟を持ち、万物を創造された神を父として崇め、自分が滅びるか栄えるか、自分の体面を考えずに神を父として仕えて進んだからです。
イエス様は自分の家庭で歓迎されず、また自分の種族からも冷遇されました。さらに、洗礼者ヨハネの一派からも歓迎されず、ユダヤ教からも排斥され、イスラエル民族からも反逆者として追われました。しかし、歴史的に結ばれた父の怨恨の心情を解放する使命を悟っていたため、人倫のすべてが自分を見捨て、排斥されても、そこに絶望しませんでした。ここにイエス様がメシアとなる資格があるのです。人類の歴史上、誰も持ち得なかった心情、すなわち神のために自分の血肉の親族よりもさらに深く骨肉に染みる心情をイエス様は感じられたのです。
そして神は4000年の歴史を終結する立場において、すべての人々が反対する中、自分の体面を忘れてイエスを抱きしめ涙を流すことができました。4000年の歴史の中で数多くの預言者たちが来て去りましたが、神の心情を本当に理解してくれた人はイエス様ただ一人だったのです。
すなわち、イエス様は自分の生涯の道程において、人々の前に天倫の法度を紹介されたのです。神は私の父であるという心情に自分の体が通じ、血が通じるそのような立場から五感を通して万象を眺めるとき、すなわち神を探し求める人間と天の縁を結びたいと願う万物を眺めるとき、イエス様の切ない心情は言い尽くせないものでした。
ですから、今日の人類はイエス様と神が4000年の歴史を総決算するために一瞬で出会ったその出会いの心情を感じるべきですが、今日の人類はそれを考えることすらしていません。イエス様がゲッセマネの園で血の汗を流して祈られたとき、裏切る民族、不信の祭壇を思い、世界の摂理を代行しようとされたイエス様の悲しい心情は言い尽くせないものでした。
このように、イエス様は教団や民族、国家や世界が反対しても、神を愛する心がそれ以上に大きかったため、人間として感じるべきすべての心情を持ち、神が持つすべての心情を感じることができたため、ゴルゴタの道を自信を持って進むことができたのです。
だからこそ、今日「我が父よ、もしできるなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いではなく、あなたの御心のままにしてください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様の心情に共感して祈るならば、地獄に行く人は誰もいないというのです。しかし、イエス様がそのような神の愛の心情を持って現れたのと同じように、イエス様の愛の心情を理解して進む人が当時一人もいなかったのです。だからこそ、イエス様はこの地上に「新郎新婦」という名を残して去られたのです。
それでは、なぜキリスト教の中でマグダラのマリアの名前が残っているのでしょうか?彼女の名前が長い年月にわたって伝えられているのはなぜでしょうか?それはイエス様が彼女の名前を紹介するように言われたからです。当時、卑しい女性の身分でありながら、300デナリオンもする香油を独身のイエスの足に注ぎ、髪で拭ったという事実を誰が許容できるでしょうか?
弟子たちも嘲笑し、イスカリオテのユダが抗議し、全員が反対しましたが、イエス様はなぜ福音が紹介される場所にマグダラのマリアの名前が記念されると言われたのでしょうか?それは、イエス様にとって、愛する弟子や多くの人々よりも、その一時間のマグダラのマリアの誠意が、自分が神に対して捧げた誠意と同じ条件になったからです。イエス様が十字架で亡くなると、従っていた弟子たちは皆逃げました。しかし、マグダラのマリアとイエスの母はイエスの墓を訪れました。彼女たちにも家庭や夫があり、古代ユダヤ教の習慣がありました。しかし、それらすべてを無視し、自分の社会的な威信や体面を考えずに、亡くなった独身のイエスの墓を探し求めたのです。だからこそ、マグダラのマリアはイエスと出会うことができたのです。
では、天の審判はどこで決定されるのでしょうか?皆さんが天のために多くの功績や努力をしたからといって、それが決定されるわけではありません。それで決まるわけではありません。ただ、神の心情とイエスの心情が皆さん自身の体で体験され、結実し、それが神やイエスと切り離せない縁となったとき、それだけが永遠不滅の条件となるのです。
これを考えるとき、今日の人類はどうすべきでしょうか?神を通じることのできる真理の言葉を追求し、霊的な体験を求めるのも良いですが、神の深い心中に自分がとどまれる愛の縁を結び、イエスの心情と愛の縁を結んでいくべきです。そうすることで、皆さんはイエスの花嫁、神の子供として立つことができるのです。
しかし、今日の私たちは悲しい人々です。韓国の三千万の民族がイスラエルの民族にならなければならないのに、そうなっていません。この社会に教会がいくら多くても、神の教会はなく、信じる人がいくら多くても、神の子供ではないことが分かりました。だからこそ、この地に何が出てこなければならないのでしょうか?この民族を救うことができる神の子供が出てこなければなりません。神の教会が出てこなければなりません。神の民族が出てこなければなりません。したがって、このような涙の道、捨てられる道で神の子供となる道が開かれるならば、私たちはそれに感謝しなければなりません。
イスラエルの子孫が一つの民族を建設するためのエジプトでの400年間の苦役の期間に、天を中心とした一つの標準と一つの理念を立て、民族が団結して変わらない信仰の期間を経て、初めて希望の日を迎えることができたように、今日の皆さんもそのような立場に置かれています。また、今日の皆さんはエジプトの地のようなそのような地で生きていることを骨身に感じなければなりません。
したがって、今皆さんは選ばれたイスラエル民族を軽んじるパロの宮廷に対して敵意を持って戦い続けたモーセの心情を持つ人になるべきです。ある日決心した心をミディアンの荒野で40年間さまよい続けても変えなかったモーセの心情を持つべきです。
それでは、皆さんがそのような長い期間を耐え抜くためにはどうすればよいのでしょうか?どんな真理、どんな運動、どんな主義を持っていてもそれだけでは駄目なのです。皆さんは天の心情を代わりに持って民族を見つめなければなりません。イエス様が民族と教会のために、そしてユダヤの国が滅亡した事実を清算するために祈られたその心情を持たなければなりません。そして、ユダヤの初代教会のように手を取り合い、自分の立場や体面を忘れて天のために進まなければなりません。そうすることで、この民族は救われるのです。
イエス様は反対するイスラエル民族に対してすぐに呪いたい気持ちがありましたが、4000年の間に耐えながら摂理してこられた神の心情を感じたため、むしろ彼らのために祝福を祈ることができたのです。つまり、ゲッセマネの園やカルバリーの丘、十字架上で敵のために涙を流しながら祈ることができたのです。
当時、ローマの市民権を持ち、その国のすべての習慣や法度を守っていたパウロが、なぜ自分の名誉や信じていたユダヤ教を捨て、自分の知識もすべて捨ててユダヤ教から追放される立場に立ったのでしょうか?それは、パウロがイエス様の偉大な愛の心情を知ったからです。そうして、どこにも頼る場所がなく、体を休める場所がなく、荒れ狂う世の波に巻き込まれながらも、自分の安楽を忘れてイエス様の言葉を伝えたのです。
パウロが使徒の職務を全うできたのは彼の人格のためではありません。彼が持っていた、他の誰も持たない、つまり神の愛を代行して現れたイエス・キリストの心情と通じる一つの基準を持っていたからこそ、使徒パウロになれたのです。どれだけ学識があり、お金があっても、それだけでは駄目なのです。だからこそ、皆さんもこのような天的な法度を歩み、心と体がそれに向かって動かなければならないのです。
私たちは天と地と人の三大親の縁を逃れることはできません。それでは、この三大親の恩を何で返すべきでしょうか?今まで借金を抱えた人類・民族・民はすべて滅びました。このような理念を見つけて立てなければならない摂理が残っているため、今日の世界的な物質の運勢が人間を追い詰めてきています。物質が人間を打つ時が近づいています。なぜなら、人間が自分の位置を忘れ、万物の前で犯した罪があり、それを終わりの日に世界と人間の前で贖わなければならないからです。だからこそ、今日の人々は世界的に物質的な苦しみを受ける立場に置かれているのです。この物質的な苦しみを乗り越えられる人々が現れるべきなのです。そして、初代教会のような神の愛を通じることができる聖徒たちが現れるべきなのです。
今日の先進国であるアメリカも、民主主義の内容を持って動いていますが、物質万能主義を叫ぶ立場に立つと、物質に打たれることになります。その物質を全人類のために使う方法を考えなければならない時が来ているため、アメリカのような国では他の国々を援助しています。しかし、援助するにあたって、自分たちの裏の利益を得るために援助するのであれば、それは天倫が許さないでしょう。
このような理念を成し遂げるために、人類は民主主義経済社会を経て、本来の物質文化経済社会を目指して進んでいます。したがって、人間が物質の本来の価値を主張し、本性の理念を代行できる実体の基準者となり、物質と人間と天の三者が共に座ることができる形を整えなければなりません。
それでは、今日のすべての信仰生活を見渡してみると、私たちは物質に依存した信仰観念を持ってはならないのです。もしそのような宗教団体があるならば、天は良心的な人々を動員してその信仰観念を修正するでしょう。その時が近づいています。また、天倫を忘れて自分の正当性を主張する人々の意識も正される時が来ています。
地球も一つの存在であるため、意識があり存在の目的があります。そして地球も被造物であるため、一人の主人がいます。その主人こそが神です。したがって、神が存在する限り、一つの理念のもとに動く世界は必ず実現されるでしょう。
また、人類のすべての思想を支配できる統一的な宇宙観が出てくる必要があります。神の実存性を中心とした理念が人間世界を支配できるようになり、人間と父子の関係を結びつけることができなければ、神は地球と人類の親としての責任を果たせないのです。したがって、万物も一つの中心を基に動き、地も宇宙の理念を中心に動き、人間も一つの主義を中心に動く日が来なければならないのです。
今日、多くの人々は「私はどんな人だ」「私は国の民だ」と自慢しています。今日のアメリカ人は大国の民だと誇っています。しかし、それだけでは永遠ではありません。アメリカは自国のために生きていますが、他国のために生きる必要があることを知らないのです。かつてギリシャ文明がローマのためにあったことを知らなかったように、ローマも自国の文明がイギリスを経て現代文明のためにあったことを知らなかったのです。したがって、今日のアメリカ人は自国のために働くだけでなく、他国のためにも働かなければならないことを知らなければなりません。しかし、大多数のアメリカ人はこれを知りません。そんな中でも、一部の人々が自分たちのためではなく天倫のために働くべきだという理念を持っていることは、不幸中の幸いです。
したがって、今や皆さんは天性を代わりに持ち、世界的な摂理の前に新たな装備を整えなければなりません。これまで物質文明が人間を支配し、人間の理性を通じた主義が世界を支配してきましたが、これで終わるのではなく、天性を通じ、イエス様を通じ、天的な理念を通じ、神の愛を通じる一つの主義がこの地のどこかに現れる時が必ず来るのです。
しかし、今日の私たちはどんな主義も持っておらず、我が国は世界的な先進国でもありません。それでも、この民族が最終的に残ることができる天主的な神の心情を代わりに持ち、神のものとして捧げることができ、全人類が依存し希望するもの、神主義として現れる理念を感じることができる立場にあるならば、皆さんは落胆しないでください。
今日、統一教会に集まっている皆さん、皆さんはここに小さな教会に座っているけれども、これを広げれば世界を代わりにすることができ、さらには天性を代わりにすることができるという心情を感じたならば、問題は解決されるでしょう。何でも解決できるでしょう。皆さんは神の意図を代行する子供であるため、神をこの世界の主人として迎える天国の民となるべきです。そして、皆さんはいつどこでも父の意図を外れることはできないということを肝に銘じておくべきです。
先ほど読んだ聖書の中にはこのような言葉があります。「隣人を自分の体のように愛しなさい、これ以上に大きな愛はありません」。そして「敵をために祈りなさい」と言いました。イエス様が主張されたことは、私たちが立てるべき法度であり、永遠の父の民族が誇るべき伝統的な風習です。そして、イエス様が主張された道理は、その当時だけに限られたものではなく、人類を復帰させるために必要な天倫の法度だったのです。したがって、皆さんが神の子供になり、神の娘になるためには、神の愛を感じ、神の愛を所有しなければなりません。そのためには、神が6000年間耐え忍びながら愛の子供を見つけるために今まで戦ってこられたので、皆さんも戦っていかなければならないのです。
皆さん自身が天のものであると自称したいならば、まず涙を流される神の立場に入ってみてください。神が哀れな歴史過程を歩んでこられたことを感じるなら、皆さんも涙を流すことになるでしょう。聞いている耳も同様です。食べている一口のご飯も喉を通らなくなるでしょう。このように、哀れな天の心情を通じることができる皆さんになれば、この民族は救われるのです。神はまさにそのような人を探し求めておられることを知ってください。
聖書には聖霊の九つの実についての記述があります。「愛と喜びと平和と忍耐と慈悲と善良と忠誠と柔和と節制」(ガラテヤ5:22)。この聖霊の九つの性質、これは神が主張し、神が建設し、神が築こうとする国の基準であり、その社会の制度であり、生活の理念です。これを皆さんは身にしみて感じたことがありますか?もし皆さんにそのような身にしみる心があるなら、イエス様がエルサレムを見て石を持ちながら語りたかった気持ちを、口を閉じて耐えられたその心情を感じることができるでしょう。
今日、皆さんは統一教会に来ていますが、皆さん自身のための統一教会を望まないでください。今日、私たちがいるのはこの民族のためであり、この民族がいるのは世界のためであり、世界が存在するのは天のためであることを知ってください。また、皆さんがこの意図のために努力し、祭壇の前に何かを捧げることがあっても、神はそれ以上にこの意図を心配してくれることを喜ばれることを知ってください。イエス様に快適な寝床を用意し、ごちそうを用意して宴会を開くよりも、イエス様の心を代わりに心配し、世界を抱えて涙を流すことを神もイエス様ももっと喜ばれることを知ってください。
イエス様は12人の弟子が自分を支えることよりも、自分のすべてを忘れてもユダヤの民をもっと愛することを求められました。イエス様の30余年の生涯がそうであり、モーセもそうであり、神もまたそうであったのです。
したがって、孝子・孝女・忠臣・烈女にならなければならない皆さんは、天の前に弁明しようとしても弁明できない恥ずかしさを感じるべきです。また、自分が何かをしたと主張できない自分の不足さを感じ、天性の前に恥じるべきです。そして、自分が自分のものでなく、父のものであるために戦っていかなければなりません。そのような皆さんになれば、歴史は民族を越え、国家世界を越え、天主主義時代に入っていくのです。
今日、人間が主導的な役割を果たそうとしているのと同様に、天が主導的な役割を果たす時が来ないと言い切れるでしょうか?天が存在する限り、天が主導的な役割を果たす時が必ず来るのです。今日まで人倫的な基準が立っていなかったために天倫が介入できませんでしたが、人倫の前に天倫の威信が立つ日には、その命令と法度を人間は決して逃れることができません。
時は過ぎていっていますが、人間はそれを知らず、もう一度反省する必要があります。そうして、神の愛の関門を通過し、「神を絶対に信じます」と言える自信ある実力者となり、永遠の父を迎えることができる真の息子娘となるべきです。
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