人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

私記8

2024年06月30日 17時42分28秒 | 日記
【安倍元首相亡き後は如何なったか】
 およそ2年前の出来事になった。
安倍元首相が山上の自作の凶器により殺害された事の報道がなされた事が昨日のようである。
この日本の為に、世界の為に相当に尽力された安倍元首相が亡くなられた事を再度悼みます。

だがこの事件はまだ解決されていない事は誰しも知っている。
国内外の多くの名の有る人物もがその事を知っている。

何故解決どころか未だに裁判すら行われていないのかは、「準備が出来ていないから」とは言われるが、実際に山上の凶器で殺害されたのかと言う事すら多くの人達が未だに疑問視している。

山上以外の人物が居たと言う事が払拭されていないからである。
つまり現場を見渡せば第三者が居た可能性も高いと言う事だ。

撃った際には山上は2度発射している訳だが、一発目は空砲だった可能性も否定できないが、それらの弾は何処へ行ったのだろうか。
と言うより良く周囲の人に当たらなかったものだ。

安倍元首相の遺体からは3箇所の跡が確認されている様だが、反対方向からの物としか考えられない跡もある事が大きな疑問である。


あれから2年が経とうとしているが、世の中はどう変わったか。
先ずマスコミは殺害当事者の山上をさて置いて、山上の恨みを持っていると言う家庭連合に矛先を話しあったかの様に一斉に向けて、人心がそこにいく様に仕向けた。

そして自民党の各議員との関係を持ち出し、家庭連合と距離を置かざるを得ない様に仕向けた。
岸田首相もそれを受けて党内に関係を断つ様にとの指示を出したと同時に、立憲民主党の小西議員から言われるがままに家庭連合を解散させる旨の命令を出すように文科省に指示している様だ。
これ以降、左翼主義者達は色めき立ったようだ。

だが問題はこれでは終わらなかった。

現在の日本の状況は2年前からどう変わったか。

まず、自民党の各組織、個人が家庭連合と手を切り始めたころから一気に運勢が無くなっている事。
地方自治体も左翼連中を阻める思想と知恵が無い為に、地方に左翼思想が浸透しつつある様であり、危機感を感じると言う話もある。

岸田氏の信用が愕然と落ち始め、3度の国政レベルの地方選挙で敗北した。
それに比して左翼連中が気勢を上げ始める様になった事。

マスコミで意識の高い主だった方々は、家庭連合は好きでは無いが、解散命令は明らかな人権侵害であると謳い始めている。
そして、youtubeでは、家庭連合が明らかな人権侵害と信仰の自由の侵害を受けている事が暴露され、おかしな現象と言われ始めた。
また、左翼の弁護士集団である「全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連) 」は自らの設立の正体を「統一教会潰しの為の弁護士会連中である」と明らかにされている。目的が最初から決められていた訳だ。

共産主義思想を持っている左翼連中にはこれは非常に都合が悪い様である。

そんな中、共産党から自民党弱体化の「政治資金パーティー」問題が上げられ自民党は更に国民からに支持、信用を無くしているのが現状だ。

それを受けてか警察の監視も緩くなって、外国人が自由勝手に犯罪に近い活動をしている輩もあちこちに見受けられる。特に外国人の行動は確りと監視される必要が有る程に一部過激化している様だ。


この暴露は自民党弱体化を狙う別の組織からの「入れ知恵」で有るとも考えられる。
片や「家庭連合」があちこちで「人権を守れ! 自由を守れ!」との声を上げ始めているのが、今の現状である。


しかしやはり自由と人権、安全は守られなければならない事で有ろう。
にも拘らず、岸田氏自らが守っていない事は家庭連合の件、政治資金パーティーの件を見れば明白である。

もはや自民党はその役割を終えようとしているのでは無いだろうか。
新自民党が必要なのではと思う事仕切である。


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御言葉選集4(8,9,10)

2024年06月29日 18時46分26秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 8 「真の牧者と真の羊の群、偽の牧者と偽の羊の群」(1958年4月6日)

1958年4月6日(日曜日)、前本部教会。

聖書拝読:ヨハネによる福音書10章1-21節


祈り

 お父様! 二千年前、あなたはイスラエル民族を選び、彼らに心と身体の両面であなたの心情を共感させることを望まれましたが、私たちはあなたの御心がまだ成就されていないことをよく知っています。

 イスラエル民族が正しいことと間違ったことを見分けられないことを感じざるを得ませんので、あなたの許された言葉を中心にして、正しいと誤りを明確に見分けさせ、生きていけるように導いてください。私たちはあなたの心に従うことができる者となることを熱望し、願っています。

 あなたの心を通して私たちが言葉に従おうと努力していますが、私たちはいつも神の御心に従って生きていないことを認めています。あなたが私たちを選ばれた時、それは私たちだけのためではなく、国民のため、世界のためにもであり、私たちはそれを知っていますので、あなたの御心に従って私たちを導いてください。

 お父様、この堕落した不信心の社会環境を耐え忍び、今まで私たちが選ばれたことに感謝します。この世界がどんなに悪くなろうとも、私たちが天の前に堅く立つことができるように導いてくださり、感謝します。イスラエルの不信心のために苦しみを受けることになったイエス・キリストの立場を思わずにはいられません。彼は天の悲しみを代わりに語られ、信仰に基づく行動であり、あなたを中心としたものであったことを私たちは知っています。

 今、最後に、私たちが人類の罪を贖うために、あなたの心と結びついて私たちの心と身体に導いてください。この地上には多くの信者がいますが、イスラエル民族の中で本当にあなたに従った人はいなかったように、今日、新しいイスラエルとしてのキリスト教はあなたの御心を知らないため、計画の全体の意志を受け継ぐことができませんでした。お父様、あなたの御心を通して私たちを満たし、私たちを導き、永遠にあなたの使命を受け継ぐことができるように導いてください。
    1
 たとえ多くの打撃や迫害、引き裂かれることがあっても、あなたが望む一つの生命を持つことができる場合には、私たちがいつまでもあなたに勝利をもたらすことができるように、私たちを導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 多くの不信心者がいたと知っていますが、天の御心に対応する天の命を持っている人はいなかったと知っています。イエス様はこの地上に来られて天の命を示そうとされましたが、彼を追う者がいなかったために一人で行かれました。今日、私たちが全人類の光となり、イエス様の使命とその意志を受け継ぐグループとなるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 今日、ここに集まったあなたの息子たち、娘たち、どうか天の御情を知り、御心を心に留め、天の意志のために立ち上がったか、教会のためにどれだけ努力したかを反省できるように導いてください。ただ正義のために、私の心と身体を捧げることによって、歴史的な意義を達成し、主の御事を心に刻み、生命の主人となれるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 天の意向と私たちの心を結びつけ、父の意志を成就させようと誓う貴重な時間をお与えください。神の計らいにより、愛を持ち、お父様の意志を責任持って遂行できるように許してください。天の意向に共感し、ただお父様の道を歩むことを許してください、お父様、熱望し、願います。 お父様の意志ならば、生涯をかけても、お父様に従い、私たちの心はあなたの命を求め、私たちの体はあなたの命の道を探し、ただお父様の意志を中心にして生きることを許してください。切に願い求めます。

 ここに集まったあなたの息子娘たちが、お父様の言葉と意向を受け入れ、全人類を復活させることができ、お父様の前で忠孝の心を捧げることができるように許してください。私たちの心を導き、父の意志のために逡巡なく従える者となるように許してください、切にお願い申し上げます。
    2
 この説教の時間に、語る者と聞く者の心に隙間がないように許してください。サタンが一切介入できないようにしてください。お父様の本来の領域に帰還しようとする真の命が湧き出るように許してください。お父様、私たちに対して恵みと愛を与え、お父様の意志を中心に生きることができるように許してください、切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の名によって述べさせていただきます。アーメン。


<説教>

 今日は皆さんに「真の羊飼いと偽の羊飼い」と題して少し話をさせていただきます。
 ここに座っている皆さんは、多くの人々がどのように生きるべきか迷っているのを見て、彼らの心と体を一つにして一つの方向に導くことが難しいことを感じているでしょう。個々の視点から見ても、心が向いている方向と体を一致させるには大きな決意と努力が必要だと理解しているでしょう。

 ですから心を意志で動かし、体を意志で応じさせることが、歴史的にも大きな仕事であり、私たち人間にとって極めて重要な課題であることを皆さんはよく理解している必要があります。
    3
 地上に住むどの人も、自分の希望を実現するために生活面でまたは他のどの面で行動したいと願う人は誰もいません。人間が心を中心にして体と一体化して動きたいとするのは、歴史的な状況から人間の切実な願いとして成り立っており、天からの刺激を受けているからです。これは人類のために幸せなことですが、その事実自体は悲しいことではないと言えるでしょう。

 社会的には権力と名誉を享受しているとしても、心を中心にして自分の体を一つにできない人は、それが彼にとって不幸なことであることを自覚しなければなりません。

 私たちの心は無形の天と関係を持ち、私たちの体は有形の地と密接な関係を持っていることを否定することはできません。私たちは小さな存在かもしれませんが、私たちの心と体は非常に大きく広い世界と繋がっていることを自分自身で感じることができるはずです。このように私たちの心と体は小さいかもしれませんが、非常に大きなものと繋がっているため、心は天の世界と、体は終末時代に訪れる歴史的な理想的な世界との関係を築くように、皆さんの周囲の環境は皆さんを促していることを理解する必要があります。

 皆さんがそれぞれそのような立場にあることを理解し、特に考えなければならないことは、「私は天の前にどのような存在なのか?」ということです。皆さんはこれを考える必要があります。今日、皆さんの心に平安と喜びがあるとしても、それが永遠に続くためには、皆さん個々が天の上に永遠の喜びと幸せな環境を創り上げなければならないということですが、皆さんはそれを達成していないということです。
    4
 これから私たちはこのような難関を乗り越えて、私の身体と心が一つになれるようにして、私の心が望む善の理念に依存して、私の身体が望む理念と関係を築く喜びを見つけなければなりません。そうすることで、皆さんは天国に行っても永遠の幸福を楽しむことができるのです。

 天が要求する心の中心が天に応じるようにするためにはどうすればよいか、ということが問題です。この問題を皆さんが解決しなければなりません。神様はこの問題を常に心配しておられます。

 今、皆さんの心がどこに向かうべきか?まず、皆さん自身から始めて、身体と心が一つになり、天を代わりにし、地を代わりにすることができなければなりません。そして、たとえそのような能力を持っていたとしても、自分の幸福だけを求めてはいけず、全体の幸福を求めなければなりません。そうしなかった場合は、過去を反省し、批判しなければなりません。また、将来についても自己を分析していかなければなりません。

 宇宙的な成功者とは、私の個人を中心にして心と身体が一つとなり、世界の終わりに訪れる歴史的な理想世界と関連づけられる一つの基準に達することができなければなりません。このような道を知って、天巡の意志に従って生きていくというのならば、皆さんは幸福感を感じるでしょう。私の身体を心に反映させ、身体の動きが心に従うことで、天巡を代わりにすることができると自称できるということです。そうした皆さんに認められる場合は、天巡を中心にして皆さんの身体と心が世界を代表することができ、喜びを感じさせ、神様と愛の関係を築くことができるのです。

 ですから、皆さんは心を重視して心と身体が一つになり、地上のどんな要素と衝突しようともそれを超える力を持たなければなりません。そのため、どんな状況でも安全な位置にいられる人間にならなければなりません。このような人々を結集して家庭を形成し、教会を形成し、国家を形成し、さらには神様自身と関係を築くことが神様の意志であることを皆さんは知らなければなりません。
    5
 ですから、今はお金がないから泣く時ではありませんし、名誉や権力がないから泣く時でもありません。そのような外的条件がどれだけ整っていても、それが皆さんを永遠に幸せにする条件にはなりません。しかし、歴史的な試練を振り返ってみると、そのような外的条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は多くいましたが、内的な条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は少なかったです。

 では、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様はそのような外的条件を遮り、停止させ、内的な条件を立てるために涙を流し、命を賭けて戦った方でした。皆さんが宗教を信じるようになったときに最初に感じるのは何でしょうか? それは心の中で戦いが行われていることです。しかし、その戦いで何が敵でしょうか? それは身体です。このような実体を中心にした闘いで勝利して、天巡と一体化したように、天巡と一体化した心を重視して、その心と一体化した身体を所有したというのであれば、その人は宇宙的な成功者であるでしょう。

 神様の天理法度が不変の法度であるのに、この天巡の法度と調和できる心を持ち、その心の基準の前に身体が調和して一つになったというのであれば、このようになった化身を変更しようとする存在は地上に何もないということです。

 それでは、今日の私たちが生きている地上では、外的条件を立てるためにも言えないほど激しい闘争を展開してきましたが、この外的条件の中心となる内的条件を立てるための闘争がないとしてはならないでしょう。このような抵抗のない歴史的な変革がなくては、内的な革命を引き起こして外的なすべての事実を是正する方法はないということを知らなければなりません。今、私たちが心配しなければならないことは外的な世界に対する心配ではなく、内的な世界に対する心配ということです。

 しかし、私たちはこれまで私自身の生涯の過程でどのような外的条件を見つけるために指導者を求め、外的な領域で友達を求め、外的な環境で自分の理念を立てようとしましたが、これらは永遠のものではありません。
    6
 私の存在は一つであっても、外的な条件を追求する世界と内的な条件を追求する世界、この二つの世界の間で葛藤を経験する立場にあることを知るべきです。天はこのことを知っているため、あなたが悲しい立場で万民のために他人が好む道を避け、他人が嫌う道を歩むこの歴史的な過程を開拓しながら進んで来たことを理解すべきです。あなた自身は個人ですが、個人ではありません。あなた自身にこのような形の事実が含まれていることを知るべきです。では、あなたは心と体が一つになり、天に対して要求できるその日を持っていますか? 天はあなたの前にこれを問い詰めるでしょう。

 外的な条件を立てる世界で内的な条件を立てようとすると、世間から疎外される歴史的な過程を避けることはできません。したがって、終末には自分でも知らない世紀末的な恐怖の時代に巻き込まれるでしょう。

 このような現象がなぜ起こるのかと言えば、外的な中心を打破して内的な中心と一体化させるためには、社会的な条件、習慣的な条件、認識的な条件、観念的な条件が内的な条件の前で脅かされ、無慈悲に捨て去らなければならないからです。そのため、自分でも知らない恐怖に包まれることになるのです。

 では、このような時にイエスは終末の聖徒に何を求めているのでしょうか?外的な条件を遮断し、内的な条件を立てることを強調しているのです。今日、あなたに世の中の友人や師がいるならば、外的な理念を中心にしている友人や師であるのか、内的な理念を中心にしている友人や師であるのかを分析すべきです。また、教団や国家、世界も外的に関係を結ぶ方向に流れているのか、内的に関係を結ぶ方向に流れているのかを注視すべきです。

 今、あなたはこの終末を迎え、この地でどのような道主を見つける前に、まず本来の心を見つけるべきです。これを見つけるために、キリスト教では祈りを通じて外的なすべてを断ち切り、神の心情を求め、仏教では禅定を通じて6000年前の人間本来の心を求めています。このようにしなければならないことが人間にとって歴史的な悲哀であることを知るべきです。
    7
 ここにいる皆さん! もしかして体を中心にして主張する人がいますか?それは天倫の前に反逆者です。なぜなら人間はまだ体と心が合わさって全宇宙の前に誇ったことが一度もないからです。つまり、心と体が一つになり、人と創造主が一つになったことが今まで一度もないということです。心と体が一つになり、創造主と私が一つになるこの時間を持てなかった存在として、体を中心にして生きる自分をどうして天の前に誇ることができるでしょうか?天は到底許容することはできません。天倫が誇らないものを誇る人も裁きにかかります。本来、天がまず誇る真心と体でなければならず、その後に万物が誇るのが原則であるからです。

 今日、あなたは天を探し、真理の道を探し求めたと言います。しかし、天と地を代表する真理があるとしても、あなたがその真理と関係を結ぶためには、まずあなたの心と体が一つになり、心が悲しむときに体が悲しみ、体が悲しむときに心が共に泣くその一日を持たなければなりません。あなたがこのようなことを信仰生活の過程で体験できなければ、決して天倫の前に立つことはできないということを知るべきです。

 今、天倫の意志を成し遂げる時が近づいてくるに従い、人間の心は天倫の意志と関係を持っているため、自分でも知らずに焦燥感と渇望感が生じるのです。だから、アメリカのような国がいくら経済的に社会的に豊かな生活をしていても、心の虚しさと焦燥感によって自殺する人が急増しているのです。

 では、私は心を中心にして何を見つけるべきでしょうか?あなたの心の中に何の理由もない悲しみが湧き上がるとき、それがあなたの師であることを知るべきです。終末の裁きが近づくにつれ、心がそれを感知できるため、自分でも知らずに悲しくなるのです。したがって、あなたは心で自分でも知らずに孤独と焦燥感を感じるとき、その心の友となることができる体を持つために努力すべきです。個人を中心にしてもそうですが、民族を中心にしても同様です。

 この地上に天倫の意志を代行することができる民族がいるとすれば、その民族は他のどの民族よりも悲惨な環境に置かれる現象があり、また個人においても、そのような人が現れなければならないのです。あなたは今、そのような立場に置かれていることを知るべきです。そしてこの現象が世界的に起こると同時に、あなた自身を見たときにも、心を中心にして体を必ず三度は打たなければならない時が来るのです。しかし、堕落した人間は霊的な五感が鈍く、それを知らないのです。しかし、天は人間に必ず天倫の時を知らせる使命があります。どの人の心を通じてでも、啓示を通じてでも三度は知らせなければならない責任があります。
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 しかし、人の体は心と反対の立場にあります。心は内的であり、体は外的であるので、心が偽りであり体が真実であると言う人は一人もいません。したがって、私の心を中心にして私の体を打ち負かして従わせた人だけが新しい理念の世界を体験できるのです。これは私個人だけで起こるのではなく、教団を中心にしても起こります。

 世の中には多くの宗教や教団がありますが、神の意志に完全に合致する教会は一つもありません。天が存在するならば、必ず真理の中心を立てて、その場所を中心にして内的な分野と外的な分野との関係を築くことが起こるでしょう。また、世紀末の現象として教派と教派の間の闘争が起こるでしょう。どの宗教であれ、他の何であれ、これが個人から始まり、家庭・教団・国家・世界の順に起こります。国も内と外の両面性を持ち、世界も左と右に分かれています。本来はこれが一つにならなければならないのです。

 本来の世界を望み、天の理念を望む皆さんは、他の人々がどのような環境で迫害しても、その困難に打ち勝てずに歴史を壊してしまうことがあってはなりません。皆さんは心を中心に団結し、まず内的な基盤を築き、次に外的な基盤を探し求めなければなりません。そして、神を中心とした私個人を超え、家庭・社会・国家・世界を探し求め、さらに天と地まで探し求めることができるようにしなければなりません。

 では、一つの世界、一つの理念を探し求める人間にとって最も重要な問題は何でしょうか? 一時的に存在して消えてしまう国家や世界の理念が問題ではありません。権力が多く地位がどれほど高くてもそれが重要なことではありません。二つの世界を一つにできる理念とその主人公が問題です。

 人間を見たとき、心を中心とする内的な世界と体を中心とする外的な世界があります。世界がこのように二つの世界に分かれているのと同様に、霊界も天が支配する善の領域の霊界があり、サタンが支配する悪の領域の霊界があります。
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 皆さんは、神の6000年の摂理の終結点が私一人の体にあることを知っていますか?体と心を統一できる一つの原則を持たない人は、世界の人類を導くことも支配することもできません。これが問題の中の問題なのです。神がいないから問題なのではなく、イエス様がいないから問題なのではありません。最初に私が一つになれないことが問題なのです。

 人には誰しも二つの道があります。一つは世の中に出て行く道であり、一つは世を捨てて天倫に向かう道です。これが反映されて、外的な理念を標榜する唯物史観があり、内的な理念を標榜する唯心史観があります。では、この二つの史観がいつ一つになるのでしょうか?これを一つにする調整をどこから始めるのでしょうか?これが大きな課題です。

 神がこの被造世界に対して摂理を行うときも二つの世界に対峙することになります。神が対する心の世界と体の世界があります。このように、私たちは神が二つの方向から摂理を行っていることを一つに結びつけることができる一人の人がこの地上に現れることを望んでいることを知るべきです。

 神も内的な分野を通じて求めるものがあり、外的な分野を通じて求めるものがありますが、内的な分野の世界が外的な分野の世界を吸収する日を迎え、この二つの世界を統一しようとするのが神の摂理の目的であることを知るべきです。

 したがって、今日、摂理の意志を受け継いで進んでいく宗教において、革命があればあるほど発展しています。打たれれば打たれるほど、ぶつかればぶつかるほど、むしろ繁栄しています。これが天の蕩減復帰の歴史というものです。まず打つ者が負けるのが天理法度です。第一次世界大戦においても、最初に打った方が負け、第二次世界大戦においても最初に打った方が負けました。したがって、第三次世界大戦においても最初に打つ方が負けるでしょう。
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 世の人々はしばしば他人を先に攻撃することを好みます。しかし、先に攻撃する者は天が許さないのです。今日の教会でも互いに他人を非難し、批判することを好む者が多いですが、先に攻撃する者を天は決して許さないでしょう。
 今日、世の中に対して心配している人は多くいますが、自分の心を中心にして体が一つになっていないことを心配する人は少ないです。

 ここに集まった統一教会の家族の皆さん! あなたたちは国と世界を心配しなければなりませんが、まずは自分自身が心を中心にして体が一つになっていないことを心配してください。心を中心にして体が一つになった人々が集まり、国を作り、世界を作ることが神が私たちに本当に望んでいることです。神の望みがこれであるならば、世界を心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望み、国について心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望むでしょう。このようにすることが信仰者の真の態度です。このためにイエス様が来られましたが、その意志を成し遂げることなく帰られましたので、再び来られてその意志を成し遂げようとするのです。

 では、主が再び来られて成し遂げる意志とは何でしょうか? 再び来られてこの世を火で裁こうとしているのでしょうか? そうではありません。火で裁くことはイエス様が来なくても神ができることです。それではなぜ来られるのでしょうか? イエス様は神の内的な摂理と外的な摂理を代行できる中心として来られ、統一の帰一(きいつ)点を整えて平面的な関係を築くために再び来られるのです。

 では、世紀末的な終末期にあたる今日において、あなたたちがこの神の意志を代わって責任を負うとき、人間の心が体によって無情に蹂躙されてきたように、また過去に内的な面を開拓してきたすべての人物が外的なものによって蹂躙され、反対されてきたように、あなたたちが主張する主義が世界のために進むならば世界から攻撃され、国家民族のために進むならば国家民族から攻撃され、教団のために進むならば教団から攻撃されるでしょう。
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 堕落した世の中では、世界のために涙を流す人を追い出すのが簡単であり、国家民族のために涙を流すと国家民族はそのような人を追い出しやすく、教団のために涙を流す人を教団から追い出しやすいのがその性質です。

 このような内的な分野の世界と外的な分野の世界を統一し、本来の世界の形を持って来られる方をキリスト教では再臨主と呼び、仏教では弥勒仏と呼び、儒教では真人と呼ぶなど、それぞれの宗教で異なる名前を付けて呼んでいます。しかし、実際にはこれはすべての宗教が来られる再臨主一人を指して言っているに過ぎません。

 では、過去のイエス様はどのような方であったのでしょうか? 個人を中心に見るとアダムを代行し、民族を中心に見るとヤコブを代行し、民族を中心に見るとモーセを代行し、さらに世界を中心に見ると全人類を代行する責任を負って来られました。さらに、世界だけでなく、天の悲しみまでもその心に抱いてこの地に来られたのです。では、そのように悲しみの中で来られて帰られたイエス様を抱きしめて個人的に涙を流しながら一生を過ごす人は誰でしょうか? イエス様はそのような人を探されるでしょう。神もそのような人を探されるでしょう。

 堕落した人間は生まれるときは喜びの中で生まれたように見えますが、去るときは涙を流しながら去ります。しかし、今や哀れな民族を抱きしめて泣く人は民族の福を受け、哀れな教団を抱きしめて泣く人は教団の福を受けるでしょう。そして、哀れな世界を抱きしめて泣く人は世界の福を受けるでしょう。

 では、大韓民国! この哀れな民族、解放後に分裂し、今まで統一を望んできましたが、まだ統一を成し遂げていません。むしろ同じ民族同士で信じられない関係になっています。それでも秋の落葉のように落ちる審判の時を知らない哀れな民族です。では、そのようなときに私たちはどうすべきでしょうか? 秋になっても変わらない根を見つけるべきです。そこにはこれまで見てきた世界とは違った姿、色、すべてが違うものがあるでしょう。
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 では、皆さんは何になるべきでしょうか?皆さんは神の羊の群れになるべきです。神は過去6千年間、天と地が喜び合うことができる真の羊の群れを呼び求めてきました。また、今日もその羊の群れを探しており、明日もその羊の群れを探すでしょう。

 では、神とイエス様が来て喜ぶことができる羊の群れはどこにいるのでしょうか? もし皆さんが真の羊の群れになりたいなら、真の牧者の声を聞くことができなければなりません。神の内的な理念と外的な理念を代行する二つの世界があるように、ここにも内的な世界を代表する真理の訴えと、外的な世界を代表する真理の訴えがあります。

 では、私自身が真の牧者に対応できる羊になったことを何で知るのでしょうか? 皆さん自身が心の中に聞こえる牧者の声を聞いたかどうかです。心の中に聞こえる羊の群れの声を聞いたかどうかです。

 涙のない指導者に会う教団、民族、世界は滅びるでしょう。それが原則です。イエスは教団を抱きしめて泣きましたが、教団から追い出されました。民族を抱きしめて泣きましたが、民族から裏切られました。世界を背負って血と汗を流しながら泣きましたが、世界は彼を理解しませんでした。真の牧者とはまさにそのような人です。そして、真の友、真の師とはまさにそのような人です。皆さんが真の牧者を見つけたなら、彼の言葉に心と体を尽くして耳を傾けるべきです。

 神は人間を代行して内的な理念と外的な理念を統一的な形にして掲げるべき時があります。したがって、皆さんはそのような時が来れば内的な声を外的な形で表さなければなりません。また、皆さんは心と体がすべてを忘れて全体を一つにまとめて捧げることができる心を持つべきです。自分自身を無条件に捧げ、頼ることができ、心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そうでない人は天の心情を知ることができません。これを人間の前に直接的な関係で結んだのが父子の関係です。
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 人には内的には親があり、外的には師がありますが、堕落によって真の親と真の師を持つことができなかったため、親と師を代行して心と体を頼ることができ、誠意を尽くして仕えることができる真の牧者を見つけなければなりません。イエス様は亡くなる際にも敵のために祝福を祈りました。皆さんはイエス様と同じ心を持つ牧者を地上で迎えなければ初めて地上で神を迎えることができるのです。これを皆さんは知るべきです。

 これまで神の内的な心情と外的な心情の基準を一つに統合して表すことができる人間が地上に現れなかったため、皆さんの心がどこに頼ろうとしても頼ることができず、皆さんの体が頼ろうとしても頼ることができませんでした。だからこそ、終末期にあたって神の心と通じ、神の内的な心情と外的な心情の基準を代行する一人の人が現れなければなりません。この時が再臨の日であり、来られるその方が真の牧者であり、再臨される主であることを皆さんは明確に知るべきです。







文鮮明先生御言葉選集 4 - 9 イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう 1958年4月13日(日)、旧本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 27:1-56


 今日は「イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう」という題目でお話しします。


 皆さんが信じているイエス様、そして天がすべてを回復しなければならない使命を任せたイエス様は、万物と人間と天が共に来ることを望んでいた希望の中心であることをもう一度感じてください。


 2千年前に来られたイエス様は、当時のユダヤの人々だけでなく、2千年の歴史を経てきた全人類に必要な存在でした。今日生きている皆さん一人一人にとっても必要な方です。そして神が地上に望む平和の楽園を成し遂げるためにも必要な方です。だからこそ、全ての民が再び来られるイエス様を中心に一つになり、勝利の歓声と共に父の御座の前に現れて栄光の賛美を捧げることを、今もなお望んでいます。つまり、イエス様は天にとっても地上の人間にとっても、創られた全ての被造物にとっても必要な存在なのです。


 したがって、今日の皆さんは、神の意志または歴史的な理念を自分自身を中心に勝利の象徴としてイエス様の前に示せるようにならなければなりません。しかし、もしそうでなければ、6千年の闘争の歴史の中で全人類に与えられた嘆きと悲しみのすべてを取り除くことはできません。


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 これまで多くの人々が長い歴史を経てイエス様を信じてきました。一方、イエス様は天の意志を代行して地上を守り、全ての民と万物のためにサタンと戦って来られました。つまり、イエス様はこの地に来られて、天と地を対して望んでいた目的を完全に達成できなかったため、今も霊界で切なる心を持って戦い続けておられることを知ってください。


 その戦いが終わらない限り、天の戦いも終わらないし、地上の戦いも終わりません。我々の希望が達成されない限り、全ての被造物も希望の日を持つことはできません。


 今日皆さんが信じている主、全ての信者が新郎として迎えなければならない主、皆さんの真の父として迎えなければならないその主を考えたとき、そのイエス様と皆さんの生活を比較してみる必要があります。そして、皆さんの生活が過去の歴史と全ての宗教の意志を代行する立場でどれだけイエス様と一つになっているかが問題となるでしょう。


 また、イエス様はこの地上の人間のために来られ、人間のために去られましたが、そうしたイエス様と地上の誰が一つになっていたのでしょうか?天におられる神様とイエス様と永遠に楽しむことができる一つの理念圏内に皆さんはいるでしょうか?これを問うとき、まだイエス様は天の人を見つけられておらず、イエス様が永遠に主導し信頼できる人も持っていません。したがって、神様もイエス様を中心に永遠に安息できる基準を達成していないことを、皆さんは原理を通してよく知っているはずです。


 イエス様がこの地に来られたとき、選ばれたイスラエルに対して望まれた希望は何だったでしょうか?4000年間の摂理を通して神の意志が彼らを通じて成就されることを望んでいました。イエス様は当時の人々と未来の世代が楽しむことができる幸せな安息の場を築くために、新しい福音を宣べ伝えました。

15

イエス様は天の新しい理念を実現するために、4千年の歴史を代表して現れた方です。神様はイエス様が大工の息子であり、学んだことのない若者であったにもかかわらず、彼を通じて天のすべての理念と希望の意志が成し遂げられることを望んでいましたが、当時の人々はそれを知っていたでしょうか? 誰も知りませんでした。しかし、イエス様は歴史的な結晶として、天の摂理的な中心として人間の前に現れるとき、心と体で感じる感覚が何であることを望んでいたでしょうか? まずは天に対して天と通じる感覚を、人間に対して人間と通じる感覚を持って現れることを望んでいました。

 それでイエス様は、天地万物が堕落の恨みに満ちていることを感じれば感じるほど、これを見つめる神様の悲しみが被造物に染み渡っていることを知れば知るほど、深刻な心を抱くようになったのです。皆さんはこれを理解する必要があります。イエス様は30年余りの生涯を貧しい大工の息子として過ごし、万人のメシアとしての姿を示すことなく、黙々と生活しながら天の意志を宣べる準備をされました。それでも、彼は天に対する一途な心と万人類への愛を持っていました。天と人類を愛する心が切実になればなるほど、彼の心には誰にも表現できない苦悩が募っていったのです。しかし、その時代の人々は、その苦悩と心配がどれほど大きかったかを誰も知りませんでした。

 さらに、ヨセフ家の家族たちもイエス様のその覚悟と心情を、天の切実な願いとして、人類を救うための天の心情として感じることはできませんでした。しかし、イエス様にはそのような生活環境の中でも、イスラエルの民の前に福音を伝えて新たな革命の烽火を掲げる使命があったため、自分の心と一つになれる人が必要でした。イエス様は神が選ばれたイスラエルの民を代表するユダヤ教を中心に、天の方向を示し、人の道を再び立てなければなりませんでした。

 しかし、イエス様の前には、天の心情を代行し、人類の歴史的な心情を代行できる心を持つ人がいなかったことが、彼が神の救いの摂理を完成できなかった重要な要因の一つでした。

 さらに、神が4千年の苦労を経て築いたユダヤ教団は、イエス様の前になくてはならない祭壇であり、イエス様はこの祭壇の前になくてはならない大祭司の立場でなければならなかったのに、イエス様とユダヤ教団は分かれてしまいました。


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 イエス様は旧約摂理の結実であるユダヤ教を中心に、新しい新約摂理の烽火を掲げようとしました。しかし、神の意志を受け入れるように準備されていたユダヤ教がイエス様と一つになることができなかったとき、イエス様の悲しみは言葉にできないほど大きかったのです。


 また、どこを見回しても、自分の事情を分かち合う真の友がいなかったイエス様のことを、今日この時間に新たに感じなければなりませんでした。そのような孤独な状況にあったため、他の人と同じように安楽な場所に立つことができなかったのです。イエス様自身が悲しむと、その悲しみのために後の人類が断罪されることを知っていたイエス様は、選ばれたユダヤ教団が自分に反対するのを見るたびに、さらに深刻な立場に置かれていたことを知るべきです。


 しかし、このようなイエス様でも、他の人と同じように悲しむことができなかったのです。自分が悲しむと、それが天の前にさらに大きな悲しみをもたらすことを知っていたからです。つまり、自分の悲しみが歴史上の悲しみとして残ることを知っていた当時のイエス様の心情を知る人は誰もいませんでした。だからこそ、歴史の過程を経てきた人々の中で、今まで誰も知らなかったこのイエス様の悲しみを、皆さんが理解しなければなりません。イスラエルの民が追放したこの孤独なイエス様を、皆さんが代わりに慰めてあげなければ、イエス様に対する天の悲しみを解消することもできず、歴史の歩みに染み込んだイエス様の悲しみを解消することもできないのです。


 それでは、皆さん、この目は何を見ていますか?この耳は何を聞いていますか?この心は何に向かっていて、この体はどこに向かって動いていますか?自分自身を冷静に反省しなければならない時が近づいています。


 それゆえ、我々はイエス様を過去の人物としてだけでなく、現実のイエス様として迎えなければなりません。イエス様がこの村、あの村で迫害を受けながら歩き回るとき、行く先々で敵に遭遇し、歩けば歩くほど険しい道が待っていました。神が4千年の間に育てた民族の中で、喜んで迎えてくれる友一人も持てなかったイエス様の事情を、今の皆さんは感じるべきです。

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 多くの教団が待ち望み、多くの人々や多くの祭司たちがメシアを待ち望んでいましたが、いざ彼が現れたとき、迎える人は誰一人いませんでした。そのことを見ていた神の心情はいかばかりであったか?今日、皆さん自身が2000年前のイエス様の時代にいたならば、果たしてあなたはパリサイ人やサドカイ人のような人にならなかったのか、自問してみなければなりません。

 また、イエス様が過去の歴史に現れたイエス様であり、現実のイエス様であり、未来のイエス様であるとするならば、過去の在世時のイエス様の心情を知り、その心情を通して現在のイエス様、未来のイエス様を迎えることができるということを知るべきです。

 それで今日、私たちはイエス様がこの地上に来て、ただ30余年の悲しい道を歩み、十字架で亡くなったと信じています。しかし実際はそうではありません。したがって、皆さんはイエス様がこの地上に来てただ死ぬためだけだったと思っている無知な人々を悟らせなければなりません。今、私たちは2千年前のイエス様が再び来られることを望んでいますが、その2千年前のイエス様が私を訪ねてくるのではなく、私が2千年前のイエス様を訪ねていかなければなりません。つまり、皆さんは2千年前のイエス様の悲しい事情と孤独な事情を知り、その2千年前のイエス様と現実の私に隔たりがない状態になる必要があります。そうしてイエス様を抱きしめて泣ける私になるならば、再び来られる主は決して私を見捨てることはありません。


 2千年前に来られたイエス様を殺してしまい、その死んだイエス様が2千年後の私を訪ねてくれることを望む信仰の態度を持つ人は、決して再び来られる主に会うことはできません。では今から10年、100年、2千年をさかのぼって、悲しいイエス様を抱きしめて泣けるクリスチャンがこの地上に何人いるでしょうか。したがって、今や死んだイエス様を抱きしめて天を向いて涙を流す時代は過ぎ去り、生きているイエス様を喜びの涙で慰めることができる時代が来ています。しかし、そのような生きているイエス様はどこにおられるのでしょうか。そのイエス様を探し立てることが、今日のキリスト教徒の重大な使命です。


 では、皆さんは口を開けて天におられるイエス様を呼んでみたことがありますか? どれだけ呼んでも、皆さんはその方と簡単に関係を結ぶことはできません。しかし、イエス様は万人の救主であり、私のために死んでくださった救主であるため、私はその方と永遠の縁を結ばなければなりません。しかし、私の目が本当にイエス様を見たのか、私の耳がイエス様の言葉を聞いたのか、私の口がイエス様に代わって言葉を語ったのかを考えるとき、イエス様と私との距離はまだ遠いことを皆さんは感じるでしょう。

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 では、そのようなイエス様を抱きしめなければならない運命の歴史、不運の峠を越えなければならない今、この時に皆さんはどうすべきでしょうか? 歴史的なイエス様を現実のイエス様として自分の生活圏内で実証できる縁を結び生きなければなりません。もしそうでなければ、6千年間歴史を作ってこられた神の労苦の意志も皆さんと縁を結び、安息の日を迎えることができないことを知ってください。


 今、皆さんはイエス様を回想しなければなりません。2000年の歴史の過程のすべての人類に対する摂理の意志を開拓するために福音を持って立ち上がったイエス様、2千年間その福音の言葉がどの国、どの民族に入ろうと、その言いようのない迫害の道を通ったことを見て耐えてきたこの歴史的なイエス様を知る必要があります。さらに、当時選ばれたイスラエルの民の前に排斥されたイエス様の悲しい事情を知る皆さんでなければなりません。


 そのようなイエスを過去の既成事実としてのイエスとしてではなく、今日この時代に生きているイエスとして対する必要があります。そして、自分の生活圏内でイエス様の悲しみを体験し感じることができて初めて、彼を抱きしめることができることを皆さんは肝に銘じてください。


 それでは、そのようなイエス様はどのような方なのでしょうか? 彼を見るとき、彼の目は創世以来4千年の歴史を経てきた神の聖像を見る目であり、人間の誤りによって霊界の地獄にいる多くの霊人たちを見つめる目であり、楽園にいる霊人たちの恨みを晴らす責任感を感じながら見る目でした。また、神の悲しみを代わりに地上を見るとき、選ばれたイスラエルの民と全世界の人類が彼と一つになれずに反対するのを見るとき、イエス様の視線はアダムとエバの堕落以後4000年間悲しまれてきた神の悲しみを代わりにした視線でした。


 選ばれたイスラエルは天の祝福を受けるべき選民として、イエス様と永遠に共に住む家族として、または家庭としての立場を取るべきでしたが、反対しました。今日、皆さんは反対するイスラエルを抱きしめて語ることができなかったイエス様、聖殿を抱きしめて彼らの無知に悲しんでいたイエス様の友になるべきです。皆さんの目がイエス様が望む目になっていますか? イエス様の目は神の悲しみの聖像を代わりに見る目であり、楽園と地上の復帰の恨みを解決しなければならない状況にあることを見る目であり、地獄も自分によって救われなければならないことを見つめる目でした。

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 そして、皆さんの耳は開いていますか? イエスの耳は天から聞こえる神の声を聞き、多くの霊人たちの悲しみの泣き声を聞きました。その悲嘆の声と悲鳴の声がイエス様一人を囲んで泣き叫ぶのを聞いたとき、イエス様は安らかな一日を持とうとしても持てない立場に置かれるしかなかったことを皆さんは知るべきです。また、この地上を見るとき、悪が進行し善を踏みにじるだけでなく、さらに天を裏切って立ち上がる民族の叫び声を聞いたイエス様でした。イエス様は天の恨みを解消しなければならない使命感を感じただけでなく、反対している群れまで悔い改めさせなければならない使命感を感じていました。


 さらに、彼は自分の口で何を語ったのでしょうか? 楽園と地獄の中間で新しい言葉を語りました。それで楽園の霊人たちを導いて天国に入れようとし、また地獄にいる霊人たちまで弁護しました。見えない世界、楽園にいる霊人たちを天国に入れるための言葉、つまり楽園レベルの霊人たちを復活させるための言葉を叫びました。また地獄の霊人たち、つまりサタンまで弁護する言葉を語ったのです。だからこそ彼の語る言葉は、霊界の恨みを解消するための条件としての言葉であり、また地上にいる人類、サタンの死の権力に縛られている人類を解放するための言葉だったのです。


 このような解放の言葉は地上で当然歓迎されるべきだったのに、歓迎されるどころか反対されてしまいました。これは一体どういうことだったのでしょうか。結果として彼らは天と縁を結ぶことができなかったのです。


 また、彼の手と足はどうだったでしょうか? 病人に手を置き癒したその手、死者を蘇らせたその手、飢えた人々にパンを分け与えたその手でした。そして彼の足は、反対するイスラエルの民やサタンに追われ、この村からあの村、この谷からあの谷へと駆け回りながらも、敵のために祈り続けた足でした。さらに、敵に対して祝福を祈った手、手足を釘付けにされて十字架にかけられたその足とその手でした。


 また、イエス様の体はどうだったでしょうか?  彼の体はどこに行っても安息の日を持つことができませんでした。目に見えるすべてのものが天の理に反し、耳に聞こえるすべてのものが天の理に反する環境で、どこに行っても追われました。そのため、頭を休める場所も見つけられず、安心して過ごせる安息の日も持てなかったイエス様の体、どこに行っても歓迎されなかったイエス様の体であったことを、皆さんは知っておくべきです。だからこそ、彼は話したいことがたくさんあっても話すことができませんでした。地上の言葉を話しても理解されない人々の前で、天の言葉を話すことはできなかったのです。その結果、イエス様は民の前で反逆者の烙印を押されました。当時の教団全体も政権も、彼を喜んで迎えませんでした。

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 しかし、彼はすべての大衆と一つになれる戦略を展開しました。天はこのように二重の戦略を展開してきました。だからこそ、表面的には譲歩するように見えても、最終的にはサタンさえも自分のために働かせる結果をもたらしたのです。


 そのために、世の中の歴史では先に攻撃した者が8割以上敗北しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦でも、先に攻撃した側が敗北しました。この原則を知るとき、今日の2つの陣営のうち、どちらがサタンの側かすぐにわかります。何のために行っているかを見るとすぐにわかります。全体のために行っていない、自分のために行い、全体を犠牲にしようとするのがサタンの側です。


 では、神はどのような方でしょうか? 神は一見、私が犠牲になっているように見えますが、実際には私のために犠牲になってくださる方です。人間が天のために尽くすとき、天は全宇宙の理念を人間にすべて渡してくださるのです。サタンの世界では、一見、私のために尽くしているように見えますが、最終的には私の命までも奪い、その後には与えた理念までも奪い、永遠の地獄に引きずり込むのです。しかし、サタンの非難を受けながら戦い続ければ、天の側の利益になります。だからこそ、天国に行く者が現れるのです。サタンは前進すればするほど後戻りできない立場に立たされるため、サタンはここで譲歩しなければならない立場に置かれます。


 イエス様は全面的に戦わなければなりませんでした。しかし、第一次の摂理に失敗したため、第二次の意志を立てて、犠牲と奉仕の祭壇を中心に摂理を進めてきました。それで今日まで追われながらも、楽園を築き上げてこられました。終わりの時には、それらがサタンの第一線であり神の第一線であるため、混乱した世界になります。したがって、皆さんはここで第一線の神の立場を見つけることができる人になるべきです。そして、天の権威を持ってサタンを打ち倒すことができれば、そこで新たな第一線として出発することができるのです。


 神はイエスが地上に来て責任を果たせずに去ったため、聖霊を送られました。聖霊とは何でしょうか? 第二線を担当して来られた方です。十字架の真理を担当して来られたのが聖霊です。では、第一線は誰が担当しているのでしょうか? サタンと対決してイエスが担当しています。したがって、今日私たちがイエス様と聖霊に従って行動し、これが一つに結びつくとき、イエス様と聖霊も新たな第一線を形成します。したがって、今日私たち人間は聖霊に代わって新たな第二線を形成し、サタンを防ぐ権限を持たなければ、神の真の正兵の資格者となることができます。そして、サタンに勝利し、その正体を明らかにすることができるのです。これは神もイエス様も聖霊もできないことです。

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 そのようになれば、その資格者は神の心の友となり、堕落前のアダムの友となり、天使長と万物を主管する資格者となるのです。神はそのような一人の人を探していることを、皆さんは知っておくべきです。各自が立っている位置で、自分の使命を果たすべきです。宗教であれば宗教、科学であれば科学、その立場で真の神の子として立つことができる人を天は呼んでいます。


 終わりの時には、他人に対してあれこれ言うことはできません。私が死ぬか生きるかの生死の岐路に立っているため、どこへ行けば天の認めを受けることができるかが問題です。だからこそ、良心的な人々が集まって城壁を築き、「天に代わって戦う」と言える民族を作るならば、その民族は神の全体的な主権を代行できる民族となるでしょう。


 今日、アメリカのような国を羨ましがらないでください。どんな大きな文明国家があっても羨ましがらないでください。私たちは天の理の原則を知り、その原則的な権内でどれだけ天上と地上の前に縁を結んでいる民族になるかが問題です。どれだけ外的な条件が良くても、それを一度清算する時が来ます。神は非常に公平な心情を持っていますが、その公平な心情だけではありません。公平な心情の奥には、サタンが計り知れない義の基盤があります。サタンが屈服することができるのも、公平な心情と義の基盤の基準があるため、最終的には屈服するのです。


 人間の心もまた同じです。今日、人間は俗世の罪悪の中で無限に翻弄され、無限に混乱しています。しかし今日、皆さんは心の奥深くに歴史の基盤と一つになり、未来の基盤と一つになって、変えようとしても変えられない一つの原則を立てていかなければなりません。また、自分の内的な基準と生活の基準が何らかの悲哀の事実に直面したとき、それを克服して前に進むことができなければなりません。そうして皆さんが天の歴史と一つになり、今日の現実的な摂理の意志と未来的な摂理の計画と一つになり、それを中心にすべてを操る資格を持つ人になることで、初めて神の心情を知ることができるのです。


 ペテロが亡くなった主に会いたいと切望し、ついに会えたとき、すべてを忘れてその心に引き込まれたのと同じように、皆さんも今日までの歴史的な悲哀のすべてを忘れて、神が今日まで悲痛に満ちた摂理を進めてこられた悲しみの心情を体感しなければなりません。そこから初めて新しい天の歴史が展開されるのです。

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 神は無限の心情を持って人間に接しておられますが、人間は一面的、つまり自分を中心とした角度からしか計り知ることができず、それを天の全体、つまり360度であるかのように錯覚しています。この差が明らかになる時が審判の日です。また、イエス様がメシアとなったのも、歴史の過程でのすべての苦難を通過しながらも、天との一直線上で不変の忠誠をもって天に対したからです。


 では、天の愛はどのようにしてこの地上に現れるのでしょうか? 一つの静的な理念と私たちの心が永遠に一つとなって逸脱しないようにすることです。そうして360度を永遠に回り続けることができ、二つでない一つの理念圏内で一つとなることができれば、神が安心して安息できるのです。また、その時にそこから第二次的な摂理の意志がこの地上に現れることができるのです。したがって、今日私たちはこの罪の世界を踏み越えて、神の心情と通じ合う、つまり静的な第二創造の世界を建設する責任を負わなければなりません。


 今、皆さんは外的な世界の欲望を捨てて、内的な神の心情を代行できる人になるべきです。千人、万人を相手にしても、彼らを通して神の心情を感じ取ることができなければなりません。つまり、どのような人からも彼を通して神の心情を見つめることができる人になるべきです。


 本当にそのような人になるためには、悲しみがあっても最も大きな悲しみを乗り越えることができ、怒りがあっても天地以上の大きな怒りを克服できなければなりません。また、サタンに対する公憤の心情が爆発する時には、いつかそのサタンを崩壊させるという心を持ち、一人でも多くの仲間や同志を確保するために耐えなければなりません。また、そのような心を持って天の前に祈るとき、天は罪の歴史を超えて新しい理念的な立場で私と縁を結ぶことができることを、皆さんは確実に知らなければなりません。









文鮮明先生御言葉選集 4 - 10 復活したイエスの心情を知ろう (1958年4月17日)
1958年4月17日(木、復活祭)、三清公園


聖書拝読:マルコによる福音書 16:1-20


 今日のこの日は、2千年前に来られたイエス様が復活された復活の日です。今日までこの世界には多くのキリスト教徒がいましたが、イエス様が復活されたその一日を知ることなく過ごしてきたことを考えると、皆さんはこの復活の一日を知らない人間に対する天の心情がどれほどもどかしく、どれほど悲しいものかを考えなければなりません。

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 ここにいる皆さんだけは天と全人類を代表して、誰も知らないこの一日を祝わなければならず、この時間にイエス・キリストの心情を感じる彼の内的・外的な友となるべきです。その意味で、今日皆さんが座っているこの場所は、天と地と全ての万物が注視する貴重な場所であることを感じなければなりません。23年前の今日、イエス様が現れて今日があなたの復活の日であることを明かしてくださったことを覚えています。


 イエス様は果たして全人類に対してどのような人になってほしいと望まれたのでしょうか? そして天はどのような人になることを望んでいるのでしょうか?イエス様はこの地に新郎として来られましたが、地上の全人類が新婦の立場で受け入れなかったため、新郎と新婦は分かれざるを得ませんでした。この事実を知っているならば、皆さんがキリストの言葉にならない心情を全人類に代わって感じる新婦になることを天は望んでいることを理解するでしょう。


 イエス様は自分に神の4000年の摂理の目的を成し遂げる責任があることを知っていました。そして、誠心誠意を尽くして4000年間積み重ねられてきた人類の罪悪を清算する大きな責任があることを知っていたため、歴史上の誰よりも内外的な悲しみと苦難の生涯を送られました。


 イエス様が望まれたのは被造世界の復帰であり、語りかけようとされた対象はその仕事を共に成し遂げなければならない世の人々でした。そのため、イエス様は人々に神の切実な心情を吐露し、その意志を成し遂げることを訴えられましたが、当時の人々は受け入れず、理解しませんでした。そのため、イエス様の言葉を受け入れた対象は限られた範囲を超えることができませんでした。その限られた範囲においてさえも、安心して言葉を語ることができなかったのです。このような環境で努力されたイエス様の心情を私たちは理解し、同情し、悲しむ人になるべきです。


 このような苦難の3年間を経て、全人類の前で歓迎されるべき時が来たにもかかわらず、誰一人として彼を神の意志を代行する神の子として受け入れませんでした。さらには、当然知っているべきだったヨセフの家族や親戚たちも知りませんでしたし、知っているべきだったユダヤ教団やイスラエルの民、さらには世界も知りませんでしたし、反対しました。


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 イエス様はこのように全ての人から反対される立場にあっても、不信の地を見つめながら悲しむ天を慰めなければならない立場にありました。また、地に対しても心配しなければならない立場にありました。不信の人々に対しても、十字架で死んでいく瞬間まで祝福を祈られたイエス様でした。このようなイエスの心情を皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが本当にイエスの新婦になりたいと願うならば、このように来られて去られたイエス様の心情を理解し、これまでの先祖たちの罪を一人で清算し、主の心情を胸に抱いて生活で実践する人になるべきです。


 そして、天の悲しみとイエス様の悲しみを理解し、そのような理念と心情を持つ人がこの地にいないならば、ここにいる皆さんがその理念と心情を持つように努めなければなりません。今日この地にイエス様が抱かれた心情を持つ人がいるならば、その人は身の置きどころがわからず、涙にむせび泣くことでしょう。そのような人とイエス様とは、たとえ2000年という時間的な隔たりがあっても、2000年前のイエス様の心情を慰めることができる新婦となるでしょう。


 このような内容を知っているならば、皆さんはイエス様の生涯と自分の生涯を比較してみるべきです。もし皆さんの生涯とイエス様の生涯に大きな違いがあるならば、皆さんはイエス様の友にはなれず、彼の新婦にもなれないでしょう。


 では、皆さんはどうすべきでしょうか?イエス様の復活後にペテロが持っていたその欠けた謙虚な心を持ち、迷い彷徨っていたマグダラのマリアのような心を目指すべきです。しかし、イエス様は十字架を背負うまで、そのような友や同志を一人も得ることができませんでした。

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 それでは、復活直後のイエス様の心情はどうだったでしょうか? 三日で復活された彼の心情は、天の前に顔向けできない祈りを捧げるしかない悲しい心情でした。4000年間尽力された父と多くの労苦をした先知先烈たちに対面する時、一方では喜びつつも一方では無限に悲しく、涙が止まりませんでした。このようなイエス様の心情を皆さんは理解すべきです。


 天の聖徒たちは喜びましたが、イエス様は悲しみ、神様も喜びつつも悲しい心を持たれました。今日、この地上に住む人々の中で、このようなイエス様の心情を知る人は一人もいません。しかし、皆さんはこれを知り、新たに心に決意を持つべきです。


 何を決意するべきでしょうか?イエス様がこのようになった原因は、民族のせいでも天のせいでもありません。すべてはサタンのせいでした。イエス様はこのサタンを踏みつけ、失われた使徒たちを見つけるために立ち上がりました。一度は命を懸けて誓った使徒たちが、イエス様の遺体と墓を悪者たちに守らせたことを思うと、イエス様が普通の人であったならば、彼らを再び探しに行かなかったでしょう。


 しかし、イエス様はただひたすら敵であるサタンに対する憤りと、サタンの手中にある弟子と民族と人類を見つけ出さなければならないという一途な心を持っていたので、彼らを探しに行ったのです。また、4000年間人間の裏切りに耐えて摂理を進めてこられた父を見つめると、哀れな人々を見つけ出さなければならないという悲壮な決意を抱き、イエス様は彼らを探しに行きました。このようなイエス様の悲壮な決意を、今日皆さんが持つべきです。


 また、残っていた使徒たちに再びサタンと戦う心の決意を喚起させたイエス様は、いつまでも彼らと共にいることはできませんでした。意志を引き継ぎ、長い歴史の道のりを歩まなければならない使徒たち、言葉にできない血の道とゴルゴダの十字架の苦しみを乗り越えなければならない使徒たちを見つめるイエス様の悲しい心情と苦しみは、十字架を越える時と同じものでした。また、イエス様は40日が過ぎると、愛する弟子たちを敵の地に残して去らなければならない悲しい心情を抱かれました。


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 では、地上にいた聖徒たちはどのような心を持っていたでしょうか?来られたイエス様の悲しみと去らなければならないイエス様の悲しみを知るべきでしたが、彼らはただ愛する先生と別れることだけを悲しんだのです。これを見つめるイエス様の心情は言葉にできないほど悲痛でした。


 では、皆さんはどのような心を持つべきでしょうか? イエス様が去った後のことを自分自身で引き継ぎ、サタンと生死を懸けて戦うことになっても、一寸の譲歩もしないという決意を持ち、鉄のように変わらない心を持つ者でなければなりません。そして、イエス様が亡くなられるまで心を休めることができずに心配されていたその心情を皆さんが直接体験し、代わりに解消しなければなりません。


 もし当時の使徒たちが一つの心を持ち、イエス様と共に十字架にかかっていたならば、神はイエス様一人だけを復活させることはできなかったでしょう。そのようになれば、全ての使徒が復活し、今日のようなキリスト教にはならなかったでしょう。


 では、今、皆さんはこの使徒たちが残した使命を自分自身が引き継ぎ、サタン様に対して憤慨していたイエス様の心を自分の心とし、十字架を越えたイエスの決意を自分の決意としなければなりません。そして、十字架を死なずに越え、復活の姿で現れる第二の使徒となるべきです。そして、6000年間神を悩ませたサタンを一気に打ち破ることのできる使徒となるべきです。また、悲壮な決意を持ち、死の道を歩むことになってもサタンと戦って勝利し、その痕跡を残さなければなりません。


 ここに集まった皆さん! その心、その細胞一つ一つが神と和合できる状態になっていますか? 皆さんのその心、その細胞が神と和合できるとき、イエスが復活後に使徒たちを探しに行かれたように、神が皆さんを探しに来られるでしょう。このような使徒たちが集まり、イエスに代わって世界の人類を探しに行かなければなりません。これまでの使徒たちはイエスが死ぬために来られたと信じつつも、そのような悲壮な決意を持っていましたが、イエスが死ぬために来られたのではないことを知っている皆さんは、さらに悲壮な決意を持たなければなりません。

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 過去、ペテロがイエスの前で死を覚悟して従うと誓ったものの、その誓いを守れず、イエス様が復活された後に二度目の誓いをすることでそれを償い、その条件をもとに天は今日まで歴史を進めてきたと言えるでしょう。したがって、今、皆さんはイエス様一人の前だけで誓うのではなく、ペテロのように死後のイエス様の前だけで誓うのでもなく、一歩進んで天と地と主の前で誓わなければなりません。そして、ペテロが果たせなかった生前の誓いを皆さんが果たすべきです。そうすることで、その条件により主の恨みが解かれるのです。


 そうして皆さんは、神の前で子としての立場とイエス様の前で弟としての立場から、その願いを叶えて差し上げなければなりません。過去の使徒たちはイエス様と師弟関係にありましたが、今日の皆さんはイエス様と兄弟関係にあります。したがって、兄弟の立場から神とイエス様をしっかりと見つめ、彼の無念を償う責任があることを感じなければなりません。


 イエス様が苦しみを耐えながら進まれたように、皆さんもそのような苦しみを耐えながら逆境と戦わなければならない大きな使命があることを知るべきです。だからこそ、皆さんは終わりの日にどのような声が聞こえるか常に耳を傾けなければならず、天と地の願いを知り、その願いを叶えて差し上げなければなりません。そのとき、皆さんは神の息子・娘として立つことができることを確信すべきです。


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御言葉選集4(7)

2024年06月26日 13時49分29秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 7. 神は追い詰められる人類をどうするか (1958年3月30日)


1958年3月30日(日)、元本部教会にて。


聖書拝読:マタイによる福音書10:16-42




 皆さんに今回お伝えしようとする題目は「神は追い詰められる人類をどうするか」です。この「神は追い詰められる人類をどうするか」という題目についてしばらくお話しします。
 今日ここに集まった皆さんの中で、自分が幸せだと、自分が喜んでいると誇れる人は一人もいないでしょう。皆さんの心と体がそれぞれの心と体のようでありながらも、皆さんは心のあるべき位置や体のあるべき位置に立てていないことを自覚しているでしょう。つまり、自分の心が永遠の心の立場に立っておらず、自分の体も心が永遠に宿れる体にはなっていないのです。
 もし自分の心を中心に自信を持って生きていると言える人がいるならば、その人はこの宇宙の中での人生において成功者と言えるでしょう。しかし、これまでの歴史の中で、自分の心のままにすべてを行い生きてきたと主張した人、断言した人、確信を持った人は一人もいなかったのです。
 そして皆さんは心と体が何かと結びつくべきであるにもかかわらず、それができていないことをよく知っているでしょう。また、皆さんは心と体を信じてくれる環境を持っていないだけでなく、皆さんの家庭や社会、世界、さらには天と地にあるものも皆さんのものではないと感じているでしょう。
 これを考えると、地上に生きてきたすべての人間は追い詰められ、追い立てられてきた人間であることを否定できないでしょう。昔、私たちの先祖が愛の園を築こうとしたエデンで罪を犯したために神の愛の懐から追い出されました。その結果、神の愛の懐から追い出された人類は、今までの6000年の歴史を経てもそこから抜け出せず、今この時も追い詰められ、追い立てられていることを感じざるを得ないでしょう。
     1
 そのため、人間は人倫という法度を通して人間同士の秩序を立ててきました。さらに、それでは足りないので、そこに宗教を立てて天理に従って生きることを主張していることもよくご存じでしょう。
 では、人間の世界において永遠に変わることができず、永遠に分かれることができない完全な義理を完成させ、天と地の前で誇ることができるそのような義理の関係を結んだ人がいるかと言えば、いないと言っても過言ではありません。さらに、宗教を立ててその道理の前で永遠に分かれることができない自分を立てたかと言えば、これも自信を持って答えられない自分だと気づくでしょう。さらに、天理の前でもやはり永遠に一つになれる、何が分けようとしても分けられない一つの立場に立っているかと言えば、そうではないことを感じるでしょう。
 では、人間の世界から義理が去り、人間から道理が去り、天倫が去ったことを自認すると、今日の皆さんが心で信じたいと思っていること、皆さんが体で求めようとしていること、それらが天倫を代わりにできるか、道理を代わりにできるか、あるいは人倫を代わりにできるかと言えば、やはりそうなっていないことを感じるでしょう。
 では「私は誰のために存在するのか!私は何のために今生きているのか、私はなぜ一つの愛と一つの生命と理念を求めてあえいでいるのか?」と自問することになります。
 これを考えたとき、皆さんはこの問題について深刻に考えれば考えるほど、自分自身の立場を再発見することになるでしょう。そして、皆さんが深刻な立場からこれらすべてを再発見したとき、自分の心にしみる苦しみを避けようとしても避けられないのです。心霊のすべての問題、さらには人生のすべての究極的な問題、そして人生と天倫の関係を明確に知り、自分の生涯の価値を実現しようとするならば、皆さんはこの革命的な仕事のために命を惜しまずに戦う覚悟と決意を持たなければならないでしょう。皆さんがこのような覚悟と決意を持って実践すれば、天の摂理は新しい局面を迎えることになります。
     2
 では、今後の世界はどうなるのでしょうか。つまり、近づいてくる終末時代はどうなるのでしょうか。終末時代は、聖書の言葉を通しても人間の世界に義理がない時代となります。道理を外れた時代になるでしょう。天倫を外れた時代が来るのです。これは人間同士でももちろんそうなりますが、天が人間をそのような立場に追いやる時があるということを皆さんは知らなければなりません。
 では、終末時代に天倫を守って立つ人は誰でしょうか。天の道理を守って立つ人は誰であり、人倫を代わりに義理を守って立つことができる人は誰でしょうか。皆さんがこれを自問して、自分に自信がないと感じるならば、天倫の前に罪人であることを告白しなければなりません。
 そして、皆さんが天倫の前に受け入れられない罪を犯した罪人であり、道理と人倫の前に受け入れられない自分であることに気づいたとき、皆さんはそこでどうするべきでしょうか。まさにこのような立場に置かれている自分を認めないならば、皆さんは未来の審判の峠を越えることができなくなります。それだけではありません。今後は、皆さんが持っている命までもがこの地上から追い出されるかもしれません。そして、皆さんが今まで持っている主義主張までもが試される時が来るでしょう。
 人間が堕落することで天倫を裏切ったため、人間の終末時代においても個人はもちろん世界もまた天倫を裏切る立場に進んでいるのです。人間が神を裏切ると、神もまた人間を捨てざるを得なくなります。このような歴史的な過程を経ていることを皆さんは知るべきです。
 昔、アダムが神の前から追い出されたとき、その一人だけが追い出されたのではありません。彼が追い出されることで人類は6000年間追い立てられてきました。だからこそ、この世界の人類を復帰しなければならない時が来るということです。全人類を復帰するためには、まず人間が義理から追い出され、道理から追い出されることになります。それを皆さんが乗り越えなければなりません。また、その時に皆さんがこの地上に真の義理と真の道理と真の天倫を立てることができるようになるということを知っておくべきです。
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 したがって、今それらが個人から追い出され、家庭から追い出され、国家から追い出され、世界から追い出され、この地上のすべての規律が混乱状態になるでしょう。そして、それだけで終わらず、世界から追い出され、天倫と全宇宙から追い出される時が来るということです。
 だからこそ、聖書の言葉にも書かれているように、今日の人間が信仰と義理の道を求めて進んでも、人間はそれを永遠に持つことができないようになっています。道理の道を求めて進んでも、それを永遠のものとして持つことができないのです。天倫の道を求めて進んでも、これもまた永遠の存在として天の前に立つことができないのです。したがって、人間はお互いに信頼し合う相手を見つけなければならない立場に置かれています。しかし、自分を信じてくれる存在、自分が信じられる存在が必要なのに、終末にはその存在が自分を逆に打つ立場に立つことを皆さんは知るべきです。
 だからこそ、これまでの歴史の過程を経て、今どのような時代になったかというと、愛する親も、子供も、兄弟も、友人も、社会も、教会も、国家も、世界も信じられない時代になったということです。
 では、神は世界の終末時代において、人間が取るべきものは個人的な理念ではなく宇宙的な理念であるにもかかわらず、なぜそれを取れずに個人から社会、国家、世界まで追い出されるのでしょうか。このように個人的に信じられず、家庭的に信じられず、社会的に信じられず、国家的に信じられない立場をどう迎えるべきでしょうか。これが今、人類が懸念すべき大きな問題であり、まさにこの立場に今日の私たちは置かれています。
 では、なぜ神はこのような摂理を進めてこられるのでしょうか。皆さんが信じるその信仰が永遠性を代わりにして天の前に立つことができず、皆さんが信じて進む道理が永遠性を代わりにして天の前に立つことができず、皆さんが信じて進む人倫もまた信じることができないからです。だからこそ、これを大きく革命する過程を経なければならないのです。
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 昔、エジプト文明を中心に見たときも、エジプト文明の使命が終わった後には、それを打つ歴史があったということです。ある反対派が出てきて打つ歴史があったのです。それがギリシャ文明を経て新しい文明の形を整えると、また新しいものが出てきてその文明を打ったということです。
 そして、これがローマを経ていくと、ローマに入ったキリスト教を打つ歴史によってキリスト教がこれを引き継いできました。それでキリスト教封建社会を建設したのです。しかし、その後、キリスト教封建社会も永遠の生命力を維持できなかったために打たれたのです。
 それで、これを革命する過程を経て人文主義思想を通した科学文明が台頭しました。そして、イギリスで新しい信仰革命の烽火を掲げた者たちがどこに追い出されたかというと、現在の南北アメリカ大陸に追い出されました。追い出した人々はうまくいくと思ったが、追い出された者たちが追い出した人々のすべての祝福を引き継いだということを今日の人間たちは知らないのです。
 今、責任を果たせないならば、神はアメリカや民主主義圏内の国々を再び打つ時が来るということです。彼らが持っている使命が世界的な使命を代わりにできない時期が来ると、それだけではどうにもなりません。だからこそ、再び天が鞭を加えて追い出す時は、新しい何かが出てこなければならないのです。
 では、もし自分自身から新しい何かが生まれない場合、外部からその意思を示す形が現れますが、まさにその使命を持って現れたのが今日の共産主義です。しかし、共産主義も同様です。その使命を果たせば、必ず二つまたは三つに分かれるのです。そこで一つの宇宙統一の理念が成し遂げられるまで、天はそれを絶えず追い出してきました。しかし、このような追い出される歴史の過程を経てきた人間は、その結果だけを見て知るに過ぎません。ですから、それが嘆きのかたまりだったことを皆さんは知るべきです。
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 さらに、キリスト教を中心とした神の摂理の歴史の歩みを振り返ってみると、必ずそうでした。アブラハム一人を立てようとしたときも、彼が住んでいる家庭から彼を追い出しました。彼が持っていたすべてを捨ててカルデアのウルを離れるようにしました。天は一個人を天の前に立て、また今まで築いてきた基盤の中に新しいものを立てるためには、その基盤を追い出される運命に処しました。
 アブラハムは、自分が追い出される環境にあっても、少しも不満に思いませんでした。どんな迫害や困難が訪れようとも、その迫害や困難よりも強い心を持ち、天に代わって変わりようのない義理の法度を立てました。さらに、天に代わる道理の法度を求め、天倫に代わる神を知っていたため、すべてを捨ててカルデアのウルを離れました。
 こうしてアブラハムによって神の第2次的な摂理を始めることができ、新しい形の理念を立てることができる個人的な基準が確立されました。その基盤の上でまた何が起こったかと言えば、ヤコブが家庭的な復帰の使命を引き継ぐ必要があったため、アブラハムの家庭からイサク、ヤコブに至るまで皆追い出されました。つまり、神はヤコブをラバンの住むハランの地に追い出しました。
 では、家族や親戚から追い出され拒絶される立場に立ったヤコブが、どのようにその困難を乗り越えられたのでしょうか。天の前に祝福されたその祝福を忘れず、世の中が変わろうとどうなろうと、私は変わることはないという天への確固たる信仰があったからです。ヤコブは、天が信じてくれなくても、自分の家族がすべて信じるようにし、また祝福の遺産を見つけ出し成し遂げて、天が摂理できる基盤を作ると信じていました。こうしてヤコブは、アブラハムの家庭を通して立てようとしたその天倫の意義を継承する心があったため、21年後に信仰の家庭を成し遂げて帰ってきたのです。
 次に、家庭単位の基準が確立されたこの基盤の上で、民族的な範囲に進まなければならない使命を背負ったモーセが、その民族の前で追い出されました。つまり、神はモーセを民族の前で追い出される運命に処しました。しかし、モーセは天が追い出し、民族が追い出し、またどんな人が追い出そうとも、天に代わる忠義の心、その望む希望、天倫に代わるその切なる心は変わらなかったのです。こうしてモーセは、どんな環境が自分を追い立てようとも、天性に対して不変の心を持ってミディアンの荒野での40年間の羊飼い生活を耐え抜きました。その後に初めて、民族を導き出すための基準が確立されたことを皆さんは知っておくべきです。
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 さらに、民族の基準が確立されたので、世界の基準を立てる時がきます。その使命を背負って来られたのがイエス・キリストでした。イエスもまた、この民族の基準の前に現れたとき、民族が持っている思想と民族が持っている信仰とは対立する立場に立たされました。そのため、民族が彼を追い出しました。民族が追い出しただけでなく、また世界人類が彼を追い出しました。このようにしてキリスト教は、この追い出される運命の歩みを経て、今日では全世界に影響を及ぼす立場まで来たことを皆さんはよく知っています。
 では、今日の世界を動かしているキリスト教はどうなるのでしょうか。このキリスト教もまた、終末には天の理想世界が来ることが確実であるため、その時が来れば神が追い出すことを知るべきです。
 では、どこへ追い出すのでしょうか。イエスを中心に世界舞台に追い出したので、今度は全世界の舞台を中心にして天と地の世界に追い出す時が来るのです。つまり、平面的な世界の理念では立てない時が来るのです。今日どれほど科学文明が誇りに思われても、科学文明が人類の幸福を紹介できず、どれほど論理的な体系を持つ哲学があっても、その哲学が人類のすべての生命問題、理念問題を解決できていないのです。
 そのため、科学を研究する人々があらゆる分野を研究してみても、かえってそれが自分自身を攻撃することになり、それが今人類を救えない立場に直面しています。巨大な力を持つ原子力を研究して人類の平和を築くことを期待しましたが、結局はこれによって世界は降参せざるを得ない時が来てしまいました。
 だからこそ、今日の学者が自分の愛する学問に生涯を捧げたとしても、その学問が永遠の生命問題と永遠の理念問題を天倫に代わる立場で保証してくれるのかということです。したがって、今日のこの時期は、学んできたその学問が自分を追い出す時です。哲学であれ科学であれ、人類を追い出し、宗教であれ我々を追い出すのです。さらに、主義や思想がもう一度追い出さなければならない時が来るのです。これを考えると、今日の人間が信じている事実が不安な立場にあることを認識しなければなりません。
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 だからこそ、今日の学者たちは自分たちが主張する学説を中心に戦っており、宗教家は宗教を中心に戦っています。政治家は政治家同士で戦っており、家庭は家庭を中心に戦っています。信じることができる天の基盤を持つことができない人間なので、前に進むこともできず、後ろに退こうとすると暗闇の権力が立ちはだかります。このようにどうすることもできない立場、つまりこうもできず、ああもできない立場で、全世界の人類は追い出されなければならないのです。
 これは滅びるように見えますが、そうではありません。ここに平面的な世界の理念を踏んで登り、この世界の人類を無限の霊界にまで結びつけるための神の意志があることを、今日の人類は知るべき時が来ています。神がこのような摂理を進めているため、今日の人類の終末時代には全世界が恐怖の中に置かれています。どれほど先進国であっても、彼らも安心できず、自分たちの主権を信じることができない恐怖の中に囚われているのです。
 その中に置かれているすべての宗教もまた、社会的なすべてのものが私たちを幸福な立場に置くことはできないのです。だからこそ、出会う場所ごとに苛立ちがあり、信じようとしても信じられず、義理が破壊され、道理と法度が失われ、天倫の理念が立つことができない環境になってしまったのです。
 だからイエスは2000年前にこの地上に来て宣言しました。「最後にはあなたの親が敵であり、あなたの子供が敵であり、あなたの愛する家族が敵だ」と。それはなぜか?それは、人間がこれまで信じて望んできたすべてのものを断ち切らなければ、新しい天の摂理と関係を持つことができないからです。
 そのようにすべての関係を断ち切らなければならない時を避けるために、神は人間に福音の知らせを伝えました。それがまさにキリストが伝えた新約福音の言葉でした。しかし、その言葉は「私を誰よりも愛しなさい」という驚くべき言葉でした。この言葉はその時代には受け入れられないものでしたが、イエスは天倫の道を歩むべき人間が一度は捨てられなければならないことを知っていたので、そのように言ったのです。
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 どうせ2000年後にもう一度捨てられなければならないことを知っていたので、2000年前に捨てられた人はそこで天の理念の価値を得て、2000年後の時代にそれによって再び第2の効果を発揮する時が来るのです。だからこそ、そのように歴史の現実と矛盾する宣言をしました。
 では、今日の皆さん自身は誰が分離しようとしても分離できない友、歴史を代わりにして義理を交わすことができる友を持っていますか?また、そのような夫婦、そのような親、そのような子供を持っていますか?永遠にお互いを信じるべき人間であり、お互いに頼るべき人間なのに、そうなっていません。むしろ、お互いに永遠に信じることができ、頼ることができるこのような基盤がますます崩れていっています。
 では、ここで我々の問題は何でしょうか?人間世界においてこのすべての人間の義理と道理と天倫の法度を破壊するのが神の摂理でしょうか?そのように見えますが、その背後には人間を愛する神の善意が潜んでいます。イエスはこれを知っていたので、「誰よりも私を愛しなさい」と言いました。さらに「あなたが地上で死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬだろう」と逆説的な言葉を言いました。
 もしこれが真理でないならば、人類はなぜこの言葉を信じなければならないのでしょうか?もしこれが真理であるならば、この言葉はある時に価値を発揮する時が来るでしょう。今日がまさにその時なので、この聖書の言葉がそのまま実現することを皆さんは知るべきです。
 だから今日では、親が子供を裏切り、子供が親を裏切り、夫婦が裏切り合い、兄弟が裏切り合い、友人が裏切り合う立場に置かれています。まさにこのような個人、家庭、社会、国家、世界になっているのです。
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 では、このような世界を作ることが神の意志なのでしょうか?そうではありません。神は親が子を信じ、子が親を信じられる世界を建設しようとしているのです。夫婦同士、兄弟同士、子供同士が互いに信じられる世界を作ろうとしているのです。さらに、友人、社会、国家、世界もまた永遠に信じられ、人間が安心してすべてを忘れて安息できる基盤を築こうとするのが神の願いです。しかし、今日の世界はそのような願いとはほど遠いものになってしまいました。
 では、神がこのような世界を裁く立場に置くのはなぜでしょうか?神は、どれだけ努力しても信じられない人々、信じられない土地、信じられない世界の主義であることを骨身に染みて感じているからです。このようにして人間に、この地上のどのようなものを中心に動かしてはいけないのかを悟らせようとする神の意志があることを皆さんは知るべきです。
 したがって、地上で他人を多く信じた人は大きな打撃を受けるでしょう。地上で多くの希望を抱いた人は、逆に大きな失望を味わうことになるでしょう。今日の人間はこのような状況に置かれています。
 神がこのような摂理を行うのは、すべてを破壊するためではありません。今日の人間たちが世界を自分たちの思い通りに作ろうとしており、既存の主義主張や制度を固守しているのですが、これらをそのままにしておくと人間の魂は復活できないため、世界的な範囲でこれらは一つ一つ切り取られていくのです。したがって、今日の私たちは、世界的な単位から個人単位に至るまで信じられない立場に立たされているのを目にすることになるのです。これを見ると人間は言い尽くせないほど不幸であるように見えますが、そうではありません。
 これらは神が人間たちに、この平面的な立場から心を転じて永遠の神を仰ぎ見させるためのものであり、外部の不信の条件から刺激を受けても、その刺激に応じて神を求める道を示すためのものです。
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 したがって、今日の私たちが社会の腐敗を見るとき、これをどう解決するのでしょうか。この問題を解決できる真の一人を立てるために、神は歴史の過程を通じて努力してきました。その観点からキリスト教を中心に見ると、個人と人類の前に追い詰められ、天の前に追い詰められた方が誰だったかと言うと、それがイエスでした。
 では、イエスは人間が永遠に共に過ごせる神の一人子であったのに、なぜ世界で最も追い詰められた立場に立たされたのでしょうか?また、なぜ神が知らないという立場に立たされたのでしょうか?「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と叫んで天に訴えたのでしょうか?それは、人間が天倫を裏切ったため、つまり個人的にアダムが裏切ったことを償い復帰しなければならない使命があったため、イエスは天から個人的に見捨てられたのです。しかし、イエスは見捨てられましたが、感謝の心を持っていました。「しかし、私の願い通りではなく、御心のままになさってください」(マタイ26:39)と言いました。自分の前にどんな死や苦しみが訪れようとも、それを乗り越え神と一つになれる心を持っていたので、どんな敵も彼を支配することはできませんでした。したがって、天が拒絶し、民族が拒絶して死の場所に至っても変わらなかったため、新しい復活の門が開かれたのです。
 個人的にキリストが拒絶されたため、摂理の意志の前に召された弟子たちも拒絶され、弟子たちが拒絶されたため、キリスト教団がローマ帝国から国家的に拒絶されました。しかし、ローマ帝国が彼らを追い出したものの、最終的には彼らに屈服しました。また、中世に教皇庁が腐敗し、ルターが改革運動を提起したとき、彼を追い出しましたが、ルターの改革思想は彼らよりも多く世界に広まりました。
 したがって、今日の民主主義を中心とするこの世界も共産主義の侵略があると同時に、天が攻勢を取る時が来るのです。では、このような世界の前で、または教会の前で追い出される何かが出なければならないことを私たちは歴史の過程を通じて一度考える必要があります。これまで人間は歴史的に苦しんできましたが、今日の終末に至っては、外的には世界的な形が現れましたが、内的には神が世界を支える時が近づいています。外的には統一理念の世界形を備える一方で、内的には今日この地に向かって霊界が近づいていることを皆さんは知っておくべきです。
 では、今、皆さん一人一人を中心に考えてみても、皆さんは2000年のキリスト教の摂理の歴史に匹敵するような反対を受けなければなりません。外的には社会のすべての条件が皆さんを反対する立場に立つことになるのです。
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 では、このすべての条件を踏み越えて上がることができる人はどのような人でしょうか?それは、死んでも天倫のために死に、生きても天倫のために生きることができる人です。そのような覚悟を持たなければ、すべての条件を踏み越えて上がることはできません。聖書にも「自分の命を救おうとする者はそれを失い、失う者はそれを得るであろう」(ルカ17:33)とあります。
 したがって、今皆さんは、天が皆さんを拒絶することがあったとしても、最後まで父をつかんで仕える覚悟を持たなければ、イエス・キリストが残した復活の恵みの中に入ることができるということを確かに知っておかなければなりません。
 だからこそ、今地上に生きている私たちは、人倫を通して義理を見つけ立てなければならず、信仰と宗教を通して道理を見つけ立てなければなりません。皆さんが永遠の希望を成し遂げることのできる天倫を見つけ立てる立場に立つならば、義理を通じ、人倫の道理を通じるだけでなく、自分の命を託しても安心できる一つの主人公、天倫を代わりにする一つの主人公が必要であることを皆さんは知っておかなければなりません。
 人倫を立てるためには本来の道理が必要であり、本来の道理を立てるためには天倫が必要ですが、その天倫は何を中心に現れるのでしょうか?それは絶対的な愛を中心に現れます。本来の道理は何を中心に現れるのでしょうか?それは生命の権威を持って現れます。では、今日の人倫を代わりにする義理は何を持って現れなければならないのでしょうか?それは永遠の信義を中心に現れなければならないのです。
 今日皆さんが天倫に向き合おうとする心がありますか?あるならば、皆さんは真に心から神に代わって信じられる一人の友を持たなければなりません。さらに神に代わって信じられる一人の兄弟、親、夫婦を持たなければならないのです。そうして家庭を越えて、社会、国家、世界の舞台まで広がっていかなければなりません。これが神の望んでいた希望なのです。しかし、神は人間を個人の立場から追い出し、信じられない立場に置いて、人間世界のどの希望もすべて断ち切り、人間が天を信じるようにしました。そして、その信じる人々が合わさり、兄弟同士、友人同士が神に代わって互いに信じ合う関係を結ぶことを神は望んでいたのです。まさにこれが天が望む最高の希望なのです。
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 さらに、イエス様が天倫を代わりにする愛を中心に人倫の道理を立て、今日のキリスト教を通して成し遂げようとしたものは何かというと、それは一つの家庭です。すなわち、イエスを中心にした一つの家庭、一つの友人、一つの親を立てることだということを皆さんは知っておくべきです。
 したがって、今日皆さんは道理と天倫に従って進む人々ですから、世のすべてを捨てなければなりません。家庭を中心に喜ぶ前に、天の理念を中心にした家庭の理念を感じなければならず、自分の子供を愛する代わりに、天のために働く人々を自分の子供以上に愛する心を持たなければなりません。さらに、友人関係でもそうであり、教会、国家、世界もそのような理念の下で関係を築けるようにしなければならないのです。
 では、天の摂理がこのようであり、歴史的な道程もこのような道を歩んできた立場で、今日私たちが再び韓国を見つめるとき、この民族は新羅時代と高麗時代には仏教が支配していましたが、その仏教をこの民族は追い出しました。また、李氏朝鮮時代には儒教が支配しましたが、この民族はまた儒教を追い出しました。このような歴史的な道程を振り返ると、今日キリスト教の立場にあるこの民族がここでキリスト教を追い出すと、どこへ行くのでしょうか?この民族を心配すべき時が来ました。今は終末の日ですから、つまりこの民族が世界の運命と共通の歩調を取らなければならない時が来たので、全世界のキリスト教が新しい理念の時代を経るために、この民族を一度打つ時が来るのです。
 したがって、この民族が世界人類の前に哀れな民族として現れる神の摂理があるならば、この民族は世界のどの民族よりも追われなければなりません。だからこそ、この民族は今までこの国の主権を中心にして、一世紀に何度も追われる歴史の過程を経てきたのです。信じようとしても信じられない悲惨な道程を経てきました。そして、安息の基盤の中で安心して生きられなかった民族として今まで流れてきて、今は二大潮流に押し流されているのです。
 小さな半島ですが、宗教的に見ると仏教が支配しており、儒教が支配しており、今はキリスト教が支配しています。三大宗教が支配してきたのです。しかし、今や二大思想がここで混乱を引き起こし、この民族は混乱の中にあることを知っておくべきです。
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 それでは、この民族を天倫が滅ぼすための意志なのでしょうか?違います。歴史の流れがこうであったために、この民族も最後の終末時代に来て、民族同士の信義がすべて崩れる現象が現れ、そのような時にイエスが再臨するということです。ですから、天が歴史をこのように支配してきたように、この民族にもキリスト教を代わりにして拒絶される一つの集団が現れることを、私は父に祈っているのです。
 今日、世界的な運命の前に弄ばれるこの民族を世界主義が飲み込むことができなければ、この民族がこの世界を飲み込んでしまうでしょう。では、何を飲み込むべきでしょうか。この世界の人間が持っているもの、つまり今までこの地上の主義を飲み込むべきです。そして、この民族が天性を代わりにする天倫を消化できる度量を持つことができれば、この民族は世界を支配するでしょう。ですから、今このような社会に置かれている皆さんは絶望しないでください!信じられない社会の実情を見て、天に対して切なる心で「我が神父よ!」と叫びながら進んでいくことができる切実な心がありますか?そのような心があれば生きるのです。
 キリスト教はローマで無惨な虐殺を受けましたが、後にはむしろローマを飲み込みました。堂々としたローマがキリスト教を容易に飲み込んでしまうと思われましたが、それよりも強力な一体的な力を持つキリスト教だったのでローマを飲み込んだのです。どんなものであっても、自身の反対勢力をすべて飲み込み消化できない限り、それ自体よりも強力な力の前に飲み込まれてしまうのです。
 では、今日の皆さん!民族を代表して大きな使命があることを皆さん自身の口から言っています。また、その使命を果たすと皆さん自身が断言しています。確かにそうであるならば、皆さんは世界から裏切られる立場に立っていますが、天だけは皆さんを見捨てることができない位置に立たなければなりません。その時、皆さんは決して滅びないでしょう。
 これまでキリスト教はどの国に入っても、そのような信念を持ち、その民族のために血を流してきました。したがって、今日私たちもそのような信念を持ち、自分の生活圏内で互いに信じ合い、生死を共にできる環境を作らなければなりません。ですから、今日では神が変わる前に私たちが変わることはできないという信念を持った集まりを探し求めなければならないのです。そのような集まりがどこにあるのか、そのような教会がどこにあるのかを探さなければなりません。
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 しかし、そのような集まり、そのような教会がないのです。だからこそ、神はこの地上でそのような教会、そのような集まりを作ることのできる一個人を探し立てるために努力してきたのです。しかし、まだこの地上はサタンの世界であり、天の権威が及ばない世界であるため、天は個人から奪い取る摂理を展開してきました。これがまさに、皆さんが原理から学んだカインとアベルの歴史でした。まず悪いものが出てきて善いものを打つが、最終的には善いものが悪いものを打ち負かし、勝利してきた歴史だったのです。つまり、善いものはまず打たれる過程を経てきたのです。
 では、イエスはどのような方だったのでしょうか?個人から打たれた方です。さらに、弟子たちから打たれ、教会から打たれ、国家から打たれ、世界から打たれました。しかし、イエスはそのすべてに屈しませんでした。どんな個人にも屈せず、教会の前にも屈せず、民族と国家、世界の前にも屈しませんでした。こうしてイエスは歴史的かつ内的な波乱を経ても、天に対して変わらぬ忠誠心を持っていたため、復活の歴史を起こすことができたのです。
 したがって、今日この民族を中心に見た時、この民族が生きる道は、人類に対して真理を中心にして、決して分かれることのない民族になることです。ですから、私たちが互いに信じられない環境に住んでいるとしても、義理を中心にして命を捧げることができる人にならなければならず、天倫を代わりにする教会をつかんで忠誠を尽くすことができる人にならなければなりません。今日皆さんがまさにそのような意志を示さなければならないのです。
 では、今日もしそのような意志が示され、天倫を代わりにするそのような場所があるならば、皆さんはそこを切に望むでしょう。また、そのような天倫の道理を中心とした意志が示されるならば、その意志のために自分の命を覚悟するでしょう。したがって、今や皆さんはイエスが天の愛の実体としてすべての人類の新郎として立つまで、世のすべての愛を忘れ、天の愛に酔いしれて生きたような人になるべきです。
 皆さんはそのような意志が韓民族に現れることを望んでいます。しかし、その意志がこの民族に現れるならば、皆さん自身は個人的に追い詰められ、さらに世界の前に追い詰められることになります。しかし、その追い詰められる期間はそれほど長くないと私は見ています。
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 それでは、皆さんが追い詰められる立場に立つのは、自分を滅ぼすためではなく、個人に関連する祝福を自分に引き継ぐためだということを知っておくべきです。さらに、家庭に関連する世界的な祝福、社会が持つ世界的な祝福、教会が持つ世界的な祝福、国家が持つ世界的な祝福、さらには宇宙に宿る天倫の祝福を引き継ぐために、そのような悲しい立場に置かれるのだということを知っておくべきです。
 したがって、皆さんは終末の時代に天倫の法度を踏み越えて神の意志の前に立とうとする心があるならば、生死を超越する覚悟を持たなければなりません。
 では、なぜイエス様は敵に対して祝福を祈ったのでしょうか?天の側から敵であるサタンに祝福を祈ると、敵であるサタンでさえも天の側に何かを差し出さなければなりません。神を当然崇めるべき存在でありながら、天理を裏切り、自分の主権を掲げて神に代わろうとしたのがサタンですが、人間が敵を愛する心を持つ限り、サタンは根本的に滅びるからです。イエス様は敵に対してむしろ祝福を祈ったのです。イエス様は個人的に拒絶され、社会的に拒絶され、国家的に拒絶され、世界的に拒絶されましたが、それでも彼らを呪わず、むしろ彼らを愛する心を持っていました。だからこそ、イエス様は敵を愛せと叫んだのです。
 では、なぜそのようなことを言ったのでしょうか?それはサタンの権威下にある敵さえも奪い取るために言ったのです。敵が打つ時、むしろそのために天に代わって手を挙げて祝福を祈ることができたので、彼らにも天が臨む安息の基盤となることができました。
 イエス様の精神がそのようであったため、イエスを信じる今日のキリスト教徒は個々の不当な扱いを耐え忍ばなければなりません。独りでは天国に行けません。家庭の十字架と迫害を耐え忍ばなければ、家庭より小さな天国に行くことになるでしょう。したがって、皆さんは社会の迫害を乗り越え、国家と世界の迫害を乗り越えなければ、より高い次元の天国に入ることができるということを確実に知っておくべきです。イエス様はこれを当時の人々や後代の信徒に伝えるために十字架にかかりました。
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 では、今日の皆さんの心はどの段階に固定されていますか?私たちは新しい宇宙の創設者であるため、古いものを持っていてはなりません。ここには新しいものを持たなければならないのです。私たちはこのような信念を持って一つの心にならなければなりません。私たちが生活する中で、私が話すことは自分のために話しているのではなく、食べて飲むことも自分のためではなく、24億の人類のために食べているという信念を持たなければなりません。そのような意志を持つ者が多ければ、その者たちは世界をひっくり返すことができるのです。神は世界を越えて宇宙的な統一の理念を持って摂理しておられるので、そのような理念を持つ民族がいれば、神はその民族を世界で最も優れた民族に立てるでしょう。
 今日、皆さんが持っている物質や名誉、それらすべてを永遠に持っていると考えてはいけません。今までの哲学や政治、経済など、すべては一大変革を迎えることを知っておくべきです。2000年前にイエスが言ったことが虚言でないなら、今日のすべては新しい時代のものとして維持されることはないのです。
 したがって、今日皆さんが宇宙的な理念に代わって天の民として神の全体的な摂理の意志を代行できないならば、再び来るイエスの前に花嫁として立つことはできないでしょう。したがって、今日皆さんは自分個人の欲望を満たし、この民族のためだけに生きる立場に立ってはいけません。民族と国家、世界、さらには宇宙のために戦うことができる人でなければなりません。そのような人を見つけて立てるために、イエスも神も今日まで摂理してこられたのです。
 神は個人を犠牲にしてその個人を犠牲として家庭を見つけ、家庭を犠牲にしてその家庭を犠牲として民族を見つけ、民族を犠牲にしてその民族を犠牲として世界を見つけて立てるために、今まで摂理してこられました。したがって、今日までのものは今や肥料にならなければなりません。そして、今日皆さんが新しい歴史の創設者の先駆者になれないなら、その意志を成し遂げるために力を与える肥料にでもならなければなりません。
 さらに、皆さんがそのような肥料になるためには、生命の前に吸収されることのできる成分にならなければならないだけでなく、自分自身が無限に吸収されることができなければなりません。そうして初めて、天の肥料として生命を育む助けを与えることができるのです。しかし、このような意志の前に自分の不当さや怒りを抑えられない人は哀れな立場に置かれるでしょう。神は個人と家庭を呼んでおられますが、私たちが生きる準備を整えた上で呼んでおられることを知っておくべきです。天と地の統一の理念の基盤を整えたその先で、私たちを呼んでおられるのです。
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 だからこそ、多くの生命が不当な扱いや犠牲の血を流しながら、この意志を成し遂げるために耐えてきました。では、今日の皆さんはこの意志を引き継ぎ、希望の地へ進み、神と関係を築いていく信念がありますか?そのような信仰観が確立されていますか?
 今日、信じている人々に対しては、今や天のすべての理念を通して追い出されることになります。その追い出される方向に従わない者は、歴史的な反逆者であり、天倫の摂理の前でも反逆者です。そのような者は世界で拒絶されるべきであり、この地上に存在することはできません。あの世へ連れて行かれるのです。だからこそ、キリスト教で言う「空中の宴」に参加するのです。
 今日、世界的な観点から個人が追い出されると社会が受け入れられる道を開き、国家から追い出されると世界が受け入れられる道を開いてきました。では、これからの世界で追い出されるとどうなるのでしょうか?その時には天の協力が必要です。
 では、世界的な終末時代に、私たちはどこに向かって進むべきでしょうか?一大飛躍を通じて新しい脱出の理念に向かって進む私たちが準備するものは何でしょうか?私たちが世界から追放されても、天と霊界と関係を築ける一つの起点をどのようにして作るか?このような意志が今日私たちの前に置かれているため、キリスト教に裁きの日があるのです。新しい希望の時が来るのです。
 歴史的な運命の道程がこのようであったので、今皆さんが進む道にも、個人としても家庭としても民族としても、あるいは世界的にどんな迫害があっても耐えなければならないし、どれほど大きな迫害であってもそれを乗り越えなければなりません。しかし、それを世界的に追い出す人はいません。人間はどんなに生きても70年、80年しか生きられない存在です。したがって、信仰を持つ人々が天を掴んでいる限り、全世界的に追い出そうとしても、永遠に追い出すことのできる人はこの地上にはいません。イエス様はこれを知っていたので、2000年にわたって戦いの生活を曲げることなく、努力してこられたのです。
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 今日、信仰生活をしている皆さん、自分の不当な扱いや怒りがあっても、すでに築かれた信義を捨てて背を向けないでください。そのような人は天の意志を知らない人です。そのような人は今日の世界史的な観点から人類の前で、また悪しき世の前で追い詰められ、この地上に居場所がなくなるでしょう。したがって、天の道を進もうとする人は、この地上から追放される覚悟を持たなければなりません。そうして初めて、神を中心とした最終的な勝利を手に入れることができるということを心に刻むべきです。そして、皆さんには地上の敵だけでなく、見えない霊界の敵もいることを知っておくべきです。
 したがって、皆さんがこれをどのように処理するかが問題になります。皆さん自身が切り開かなければならない重大な課題が残っています。そのような問題に直面する世界が必ずやって来るでしょう。したがって、私たちの前には霊的な世界の侵攻の時期が近づいています。
 今日、地上で私たちが理解できない奇妙な現象が多く起こっています。したがって、皆さんはここで自分の霊力を備えなければならないのですが、そうできない人は追い出されるでしょう。追い出される人は自然と裁かれるのです。これが大審判の時期であることを心に刻んでおくべきです。


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御言葉選集4(6)

2024年06月22日 15時23分13秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 6. 全ての事を復帰しなければならないイエスの心情 (1958年3月23日)


1958年3月23日(日)、前本部教会。


マタイによる福音書 17:1-14


<祈祷>
 お父様、天の意志を必ずや成し遂げなければならない歴史的運命の道が私たちの前に横たわっていることを知りましたので、私たちに力の御手を差し伸べてください。
 私たちの身体と心にただ父の意志だけが満ちるように許してください。そして、この地上で天のいかなる責任を負っている人がいるならば、その天の意志を人間的な考えだけで計らないようにしてください。心の動きに従って行動する子女にならせてください。体が先に動く子女にならせないでください。そうして心と体を通じてお父様の栄光の心情を感じることのできるこの時間にしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様が定められた天理法度と復活の理念が私たちと関係を結ぶとき、歴史の過程を通じて摂理してこられたお父様の心情を体恤することができると知りましたので、そのお父様の心情を通じる愛の心を持たせてください。お父様の復帰の心情を知ることができるようにしてください。
 そうしてこの地を思いやる父の心情を知ることができるようにしてください。私たちは不足な者たちですので、お父様が支えて目覚めさせてくださり、お父様の民として立ててくださるように、愛するお父様、切に願い求めます。
 乞食のような哀れな私たちですが、お父様の無限の愛の御手を感じて歌いたい私たちですので、お父様、私たちに命じてください。私たちに運行してください。
   1
 今日この時間、全体の摂理の意志の前に捧げようとする心が私たちにありますので、お父様、私たちの不足を取り除いてください。切に願い求めます。
 そうして私たちの心にお父様の心情だけが染み渡るようにしてください。私たちの体がお父様の歴史的な全ての心情を体恤してお父様の前で嘆息の涙を流すことができるようにしてください。本当にお父様を崇める私たちとなるように導いてください。切に願い求めます。
 長い間サタンの懐に抱かれて生きてきた無知な私たちですが、サタンと関係するすべての環境を断ち切りますので、お父様、この時間憐れんでください。また、この時間私たちをもう一度抱きしめて、生命と復活の権能を現してください。お父様、この時間集まった子供たちに隠された言葉を明かし、疑念のすべての条件を取り払って、お父様の望まれる通りに生命の恩恵が現れるようにしてください。愛する父よ、切に願い求めます。
 言葉を伝える者の心も受け取る者の心も一つにしてください。どうかお父様が直接運行されて恩恵の時間となるようにしてください。すべての御言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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<御言葉>
 今日この時間は「すべてのことを復帰しなければならないイエスの心情」という題で皆さんに少しお話しします。
 皆さんは原理を通して知っているように、神の6000年の摂理歴史は復帰の摂理歴史です。そして復帰摂理歴史の目的は失われた人間を見つけることであり、失われた被造世界を再び取り戻すことであることを、皆さんは原理を学んでよく知っていることでしょう。
 また、人間を救うという言葉もこの一つの目的を成し遂げることであり、宇宙もこの一つの目的を成し遂げることができる条件を持っているために価値があることを、皆さんはよく知っています。
 堕落した人間が天国理念を望むのは本性として天国理念を望むようになっているからです。今日、私自身を見てみると、私自身の生活に幸・不幸が交錯していること、無限で永遠の世界も幸福の天国と不幸の地獄が共存していることも人間が堕落したためだと知っています。
 そして、望む天国、望まない地獄の共存は、堕落した私たち人間が復帰される過程では必然的なものであることを皆さんはよく知っています。神は天地万物を創造し、その中に人間を自分の形に作りました。したがって、人間は神が永遠であるように永遠であり得るし、神が幸福を感じるなら人間もその幸福の感情を感じることができるように作られたのです。
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 神が喜ぶときに共に喜び、神が悲しむときに共に悲しむことができる存在であったのに、今日皆さんの中には神がいるかいないかさえも分からない人が多いです。神がどんな時に喜ぶのか、悲しむのか考えることさえできない人が多いです。
 また、天をために悲しみ苦労した人たちは、自分を犠牲にしても悔しさと怒りを堪えてきたのに、今日この地上に生きている人間たちはその事実を想像さえもできません。
 このような人間たちを長い歴史を堪えても捨てられない神の心情を誰が理解できるでしょうか?天を一度や二度裏切っただけではなく、6000年という長い年月を経て無数に反逆してきた人間たち、その先祖の子孫である私たちは、天に対して顔向けできず、頭を上げられない立場にいる存在です。さらに神の心情の前にむしろ悲しみをもたらす行為をしている人間たちなのです。しかし、これを感じて生きている人は非常に少ないです。
 このような人間たちに、どうすれば神の実在を感じさせ、歴史的な父の心情を体恤させ、摂理の道を理解させることができるかが、堕落後の人間に対する神の嘆きであったのです。そのために神はノアを選び立て、モーセを選び立てました。さらに神は4000年という歴史の過程を経た後、やっとイエス様一人を立てましたが、イエス様はその日まで復帰摂理の意志を握りしめて苦労してこられた父の内的・外的事情と父の内的・外的心情を人間たちに知らせることができる唯一の方でした。
 イエス様は神のみが主宰できる方であり、神のみが彼と共に相談することができました。また、神の内的な愛と心情を最もよく知っている方でした。では、人間の堕落とはどのような状態を指すのでしょうか?神の事情を理解しなかったことが堕落であり、神の実情を理解しなかったことが堕落でした。それで神は、自分の事情を通じることができる個人を探し求めました。そして、自分の心情を通じることができる個人を見つけるために4000年もの間苦労してこられました。
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 神は4000年目にして、ようやく自分の事情を通じ、自分の心情を論じることができる一人の方、イエス様を見つけて立てました。しかし、それで終わりではありませんでした。彼を通して人類に自分の事情を知らせ、自分の心情を知らせる必要がありました。このような神の切実な願いを成し遂げなければならない使命がイスラエルの民にありましたが、彼らがイエス様を拒絶したために歴史的な悲劇が起こったのです。ここで歴史的な興亡が交錯したことを皆さんは知っておかなければなりません。
 したがって、今日私たちは神の事情と通じる道を歩んでいかなければなりませんし、神の心情と通じる道を歩んでいかなければなりません。このように神の心情と愛を所有して神の栄光の中で神が楽しめば人間も楽しめ、神が喜べば人間も喜べるようにならなければなりません。
 そのような一人の真の人間として、天の血統で創造本性の姿を備え、この地上に万民を代表して現れた方がイエス様であることを皆さんは知っています。イエス様は人間に神と関係を結ばせるために来られたので、神の事情を代わりに現し、神の心情を代わりに現したのです。
 だからこそ、当時の人々がイエス様と一つになっていたならば、神の心情と事情を知ることができただけでなく、イエス様の友になることもできましたが、それはできませんでした。この一つの事実が歴史を流れてきましたが、いまだに成し遂げられていない状況にあることを皆さんは知っておかなければなりません。
 では、イエス様の死よりもさらに悲しんだ神の心情とはどのようなものであったのでしょうか?神が4000年間苦労してイエスを送ったのは、イエス様を死なせるためではなく、人類を救うためでした。イエス様を通して霊的な救済摂理を完成させることがイエス様を送った目的ではなく、この地上のすべての人がイエス様を通して神の事情と心情を知り、イエスと共に喜ぶことができる一日を成し遂げるためにイエス様を送ったのです。しかし、人々が不信仰によってイエス様は十字架を背負うことになり、神の意志は挫折し、神はさらに大きな悲しみに沈むことになりました。
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 今日、この地上には多くの人が住んでいますが、それぞれ事情と心情が異なります。千人いれば千人、万人いれば万人の生活環境がすべて異なります。しかし、私たちは千の目的地、万の目的地に向かうのではなく、ただ天が定めた法度に従って天性という一つの場所に向かうべきです。イエス様は自分の事情と心情をすべて放棄し、ただ天性の事情と心情を代わりにして神の国を建てるために一つの主義と一つの心情と一つの事情を持って人間の前に現れました。しかし、人々はそれぞれの無数の事情を持って彼に向かいました。そのような人々はすべて滅び、彼から離れてしまいました。神は4000年苦労して送ったイエスが十字架にかかって亡くなると、再び聖霊を送りました。このようにして三位一体が一つになり、天の意志と一つになった人々を見つけるために苦労しておられます。
 この観点から考えると、2000年前に来られたイエス・キリストは一個人でしたが、彼は過去、現在、未来を代わりにすることができる天の主人公でした。このことをその時代の人々は知りませんでした。イエスは一個人でしたが、4000年の歴史を代わりにする結実体であり、全世界の人類を復活させることができる生贄の供え物であり、千秋万代に続く祝福の器官でした。
 ところで、これを地上で誰が知っていたでしょうか。天の心情を紹介するために人間の前にイエスを送ったが、この事情を知っていた人は一人もいませんでした。イエスの事情を理解するべき人間であり、神の事情を理解するべき人間だったのに、人間たちは逆に、「イエスよ!私の事情を受け入れてください。神よ!私の事情を理解してください。」と言ったのです。これがまさに天の摂理の道を妨げた嘆かわしい行為だったことを私たちは知らなければなりません。
 当時の人間たちが神の事情と心情を代弁したイエスの事情と心情を理解していたならば、すなわちイエスの心情がイスラエル民族の心情になっていたならば、イエスは死ななかったのです。また、イエスが最後の死を前にしてゲッセマネの園で「アバ、父よ!あなたにはすべてのことが可能です。この杯を私から取り除いてください。しかし、私の願う通りではなく、あなたの御心の通りにしてください。」(マルコ14:36)と祈る必要もなかったのです。
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 しかし、イエス様の心情の中に4000年の悲しみがあったことを誰が知っていたでしょうか。万民の哀しい心情を解放するために来られたイエス様の哀しい心情を、一度でも理解した人が一人もいなかったのです。皆さんはこれを知らなければなりません。
 今日の皆さんはイエス様を信じ、「おお、主よ、どうか来てください。主は私たちを友と呼ばれました。」と図々しく祈っていますが、単にそのような祈りだけではいけません。実際に、全体復帰摂理の歴史を代弁したイエス様の心情と事情を理解して祈らなければなりません。
 そうして、イエス様から「あなたの心が私の心であり、あなたの体が私の体であり、あなたの事情が私の事情であり、あなたの心情が私の心情である」という言葉を聞くことができなければなりません。
 そのようにイエス様の心情を理解した人が当時いたならば、イスラエル民族が反対し、教団が反対し、弟子たちや使徒たちがすべて背を向ける状況であっても、イエス様は自分を理解する一人を通してそのすべてを解決できたのです。しかし、そのような人がいなかったため、地上を代わって神の心情と事情を慰めることができなかったのです。
 イエス様は言いたいことをすべて言えない生活をされました。しかし、自分自身の目的のためだけに生きた方ではありませんでした。彼は30余年間、木工の仕事をはじめとして困難な仕事をしながら、黙々と祭物の道を歩んできました。そして時が来て、3年間の公生涯を始めたその日からゴルゴタの十字架で亡くなるその時まで、一瞬たりとも自分個人の生活のためだけに生きたことはありませんでした。彼は自分がこの地上で神の事情を紹介し、神の心情を紹介するという歴史的な使命を担っていることを一瞬も忘れませんでした。このような自分の心を当時の人々に知らせようとされたイエス様でした。
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 彼は万物を眺めるとき、万物からどのような感情を受け取ったかというと、「人間の堕落によって生じた恨みを解放してください」と嘆いていることを感じました。人間が神の懐を離れたため、万物も神の懐を離れ、4000年の間嘆息の中に留まっていたので、万物はイエス様一人を切に待ち望んでいたのです。
 そしてイエス様は、万物が自分に向かって「おお、主よ、私たちを解放してください」と嘆きながら訴えるのを感じることができる方でした。それだけでなく、イエス様は4000年間多くの霊人たちが霊界で苦しみながら、自分たちを解放してくれるメシアが現れるのを切望していることを知っており、その願いを成し遂げる者がまさに自分であることも知っていました。さらに地獄のような地上世界に住んでいた当時の人類たち、死の鉄の網に捕らわれて叫びながら、悲惨な環境から解放されることを切望していた多くの命を見て、イエス様は言い表せないほど燃える心情を持って生きておられました。
 私たちが今信じているイエスは、地上の万民と霊界の地獄で苦しんでいる霊人たちのために涙を流し、神の歴史的な事情と心情を推し量りながら涙を流された方であることを知らなければなりません。
 イエス様は一人の人を見る時も、その人をただの個人として見ることはありませんでした。イエス様は歴史を代表し、全宇宙の理念を代表して人間を見ていました。一人の人間に対する希望が大きければ大きいほど、その人に対する切実な思いも大きかったのです。
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 イエス様は反対の声を聞いて悲しみましたが、その悲しみは自分自身のためではありませんでした。イエス様は、その場面が4千年間神に対してサタンが反対してきたことを思い起こさせるものであることを知っていました。だからこそ、イエス様はその場面を通して神の悲しみを感じることができました。民族が叫び声を上げるそのすべての状況を通して、イエス様は神の悲しみを感じていたのです。イエス様は神の言葉に尽くせない悲しみと心情を感じていました。
 イエス様は、自分を通じて神が慰められるべきだと考えました。すなわち、自分自身によって4千年間苦労された神が喜ばれる立場にあると知ったとき、言葉にできない悲しみを感じました。
 弟子たちを通して証されるイエスは信じやすいですが、イエス様を直接対面する立場では信じることが難しいのです。後世に高く評価されたイエスは信じやすいですが、十字架にかかりイスラエルの反逆者とされたイエス様を信じることは難しいのです。
 それでは、イエスを見守っていた神の悲しみはどこに結びついていたのでしょうか?追いやられるその場面に、追い詰められるその場面に、釘で打たれるその場面に結びついていたことを皆さんは知るべきです。
 当時の人々はイエス様の言葉を聞くだけを望んでいましたが、その言葉を立てることは望んでいませんでした。つまり、イエス様の心の中の意志を実際の生活の中で実践しようとする人は一人もいませんでした。これを考えると、その時も今も天は悲しみを持たざるを得ない立場にあることを皆さんは感じるべきです。今や皆さんがイエスの名前で迫害を受けることでイエスの事情を知るでしょう。そして天を代わって苦難を受けることで、無念の父の心情を知ることになるでしょう。
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 イエスがゲッセマネの園で一人で祈るとき、三人の弟子さえも一夜を共に過ごせずに眠っているのを見ても、イエス様が彼らを責めることができなかったのはなぜでしょうか?それは、4千年間多くの人間が神を裏切りながらも、神が彼らを責めず、裁かれなかった心情をイエス様が知っていたからです。皆さんは、このような弟子たちが体験できなかったイエスの心情を体験する人々にならなければなりません。
 鞭打たれながら十字架を背負ってゴルゴタに向かうとき、イエス様は天を恨むこともできましたが、神が4千年間復帰の摂理を進めるために、自分が十字架を背負う以上に困難な峠を越えてこられたことを知っていたため、イエス様は恨むことができませんでした。自分自身を振り返って他のことを考える余裕もありませんでした。
 後に十字架に釘打たれるとき、すなわち両手両足に釘を打たれ、頭に茨の冠をかぶせられ、脇腹を槍で突かれて生命が絶える状況に置かれても、イエス様は不信仰な人間を恨みませんでした。自分がそのような状況に置かれたのは、自分を通じて万民に神の事情と心情を伝えたいと願われる父の意志であることを知っていたからです。むしろイエス様は心底からの心情を抱き、天に向かって頭を垂れ、感謝の気持ちを持っていました。これによってイエス様は人類の前にメシアとなることができたのです。
 では、イエス様は十字架の上で何を感じていたのでしょうか?イエス様は、4千年間の神の切実な悲しみの心情と事情を共感することができました。そこから神の心とイエスの心が初めて通じ合うことができたのです。そして、そのようにして神とイエスが心情的に一つになったその心は、誰にも断ち切ることができなかったのです。ここで、イエス様が歴史的な摂理の遺産を踏み進むことで、霊界にいた霊人たちが成長級の摂理の復活を遂げることができたのです。これは民族的な革命ではなく、宇宙的な革命でした。それだけでなく、その時まで旧約を信じて行いの信仰をしていた地上の人々も、新約を通じて神の信仰を持つことができるようになったのです。これは大きな変革でした。
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 実体の世界で神の心とイエスの心が一つの化身となることができたので、神はここでイエスと直接的な関係を持つことができました。このように、イエス様が地上に代わって神と同じ心情を持ち、同じ事情に立つことができたので、神の歴史が人間を中心に直接的に成し遂げられることができたのです。皆さんはこのように、天宙的な使命を持って実体の人間として来られたイエス様を再び認識する必要があります。
 これからは皆さんも、イエス様がゲッセマネの園で祈られたその心情を持って祈らなければなりません。ゴルゴタ以上の犠牲を受けるに値する人間であるにもかかわらず、今日の人間は自分たちが少しでも苦労すると「おお、神よ、この苦労を受け入れてください」と祈り、自分たちの事情や哀しみが少しでもあると「神よ、私の事情を引き受けて私を慰めてください」と祈っています。これを見ると、神の心情と人間の心情は感じる方向が対立していることがわかります。
 今日、このような立場に立っている信者が多いです。イエス様の時代も同様でした。イエスに従った弟子たちは、イエス様が自分たち12弟子だけで満足すると思い込み、自分たちがイエスの願いの全てだと思っていました。そして、イスラエル民族は、自分たちの民族だけで神の意志が全て成し遂げられると誤解していました。また、ユダヤ教団は、自分たちの教団だけで神の意志が完全に成し遂げられると信じていました。しかし、イエス様はそう考えていませんでした。イエス様は、自分を中心に意志を成し遂げ、それが民族を越え、世界を越え、永遠の世界にま で及ぶという復帰の理念を持っていましたが、イエス様の前に現れた12弟子は、自分たちだけで神の意志が全て成し遂げられると思っていたのです。このことが、人類の歴史的な悲劇と悲しみをもたらしたことを皆さんは知るべきです。
 イエス様は、自分には自分自身を超えて家庭や社会、国家、世界、さらに無限の霊界まで復帰する使命があることを知っていました。したがって、イエス様が個人を探し求めたのは、民族を見つけるためであり、民族を見つけるために探し求めたのは、世界を見つけるためでした。そして、世界を見つけるために今日まで2千年間努力してきたのは、全ての天上天下を神が治める場所にするための努力でした。しかし、この事実を人々は知りませんでした。したがって、イエス様は天宙的な計画を実現しなければならない自分の前に現れる群衆に、神の深い心情と意志を伝えようとしても伝えられなかったのです。このように困難な状況に置かれたイエス様だったことを皆さんは知るべきです。
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 だからこそ、イエス様は「まだ言いたいことがたくさんありますが、今はあなたたちがそれを受け入れることはできません」(ヨハネ16:12)と言われたのです。イエス様は、全世界の万象を復帰しなければならない神の摂理を代行するという天宙的な使命感に燃え、天に対して忠誠を尽くそうとしていましたが、当時の人間はそのようなイエス様を理解していませんでした。
 では、今日の皆さんはどうでしょうか?「私は何十年もイエスを信じてきた。私は牧師だ。私は長老だ。私を神が知らないはずがない。」と主張する人がいますか?もしそのような人がいるなら、その人は神の前に頭を垂れて涙を流すべきです。4千年間選民の権利を誇っていたイスラエル民族が滅びるとは誰も予想しませんでした。3年間の公生活の中でイエスと共に喜び悲しみを共にした12使徒でさえもイエスを不信するとは誰も予想しませんでした。誰も知らなかったのです。
 では、なぜこのような矛盾の歴史が起こったのでしょうか?それは、イエスの考えや希望が弟子たちの考えや希望と異なっていたからです。だから弟子たちはイエスを不信したのです。
 では、皆さんはイエスの時代に、万物の叫び声を聞き、暗闇の中にいた人々が天に向かって「私たちを解放してください」と祈った哀しい心情を感じて涙を流したことがありますか?または、霊界で数千億の霊人たちが嘆いている叫び声を聞いたことがありますか?イエス様はそれを聞いていたのです。イエス様は人類歴史の終わりに審判の硫黄の火が降り注ぐその審判の鞭を知って涙を流されました。しかし、皆さんは困難な状況に置かれ、このように引きずり回されながらも自分を弁護することができなかったイエスの事情を感じたことがありますか?
 今日、キリスト教の運命を新しい方向に導くべき終末のこの時代において、私たちは持っているものがなくても構いません。知っているか知らないかは問題ではありません。今日ここに集まった皆さん、たった一つ、この身が裂かれ踏みにじられても、神の事情を代弁し、神の心情を代弁することができなければなりません。
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 もし、皆さんの中で神の心情を代弁するために死ぬ人がいるならば、全宇宙が共に涙を流すでしょう。切り離そうとしても切り離せない神の心情を代弁する涙の縁を結び、その涙の心情を体感したならば、死の道もいとわないでしょう。イエスがこのような悲しみの心情を代弁して地上に来て倒れた時、天と地は暗くなりました。天と地はイエスの心情を理解することができました。しかし、人間はイエスの心情を理解していませんでした。それゆえ、イエス様は十字架の道を避けることができなかったのです。
 だからこそ、今日の皆さんは自分の子供たちのために祈る前に、まず天上にいる、今まで苦労してきた歴史的な先祖たちのために祈るべきです。自分がよく生きたいと願う前に、この地上の人類がよく生きることを願う心を持たなければなりません。自分が踊る前に、まず嘆きの中にいる全ての人々を見て心配するべきです。また、喜んでもその喜びを表に出さず、楽しんでもその楽しさを表に出さなかったイエスの事情を代弁する心を皆さんが持つべきです。人類歴史の終末時代にある今日、この地上にそのような一人の人が現れ、神とイエスの悲しみを止め、この宇宙の悲しみを止めなければなりません。
 今の皆さんは、迫害されても「いいのです!」と言わなければなりません。十字架上で「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)と言い黙って亡くなられたその姿が私たちの主の姿であり、私たちの花婿の姿でした。これからは、どんな看板も教派も必要なくなります。個々人が異なっていても関係なく、民族が異なっていても関係ない真の理想世界が訪れるのです。
 イエスの希望は全宇宙の理念を代弁する希望であり、イエスの使命は全宇宙万物を復帰する使命でした。かつて使徒たちがこのようなイエスの意志を理解できなかったことを、今の皆さんが理解するべきです。第一イスラエルであるユダヤ民族がイエスの心情を慰めることができなかったことを、皆さんが慰めるべきであり、それによってこの民族が第二のイスラエル民族として現れるのです。
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 イエス様はこの地上に来て、永遠に信頼できる個人を探しましたが、そのような個人を見つけることができませんでした。それゆえ、神はこの地上に聖霊を送り、その聖霊を中心にして再び第二の信じるべき人々を、今日のキリスト教を通して探してきたのです。だからこそ、今はイエスの名前だけで救いを得る時代は過ぎ去りました。
 理念は万人に通じることができますが、実体は一人にしか通じません。したがって、理念を信じる信仰者は多いですが、実体を信じる信仰者は少ないのです。「あなたの心が私の心であり、私の心があなたの心であり、あなたの悲しみが私の悲しみである」と言える信仰者はいません。
 皆さんは今日まで抱えてきた天の怨念の心情、骨身が溶けるような悲しみの心情を感じたことがありますか?イエス様はどこに行っても天に対して自分の精神を失うほどの心情を持ってこの地上で30余年の歳月を過ごされたことを皆さんは知っておかなければなりません。
 だからこそ、今日の皆さんはある一日を中心にして審判の関門を通過しなければならない運命にあります。それでは、この審判の道を誰が保証してくれるのでしょうか?イエス様が保証してくれるわけではありません。神も保証できません。かつてイスラエルの行く道もイエス様が保証できず、神も保証できなかったため、選ばれた民が滅びたように、終末のクリスチャンたちが行く道もイエス様が保証してくれません。神も保証できないのです。これを皆さんは確実に知っておくべきです。
 それでは、誰が保証されるのでしょうか?それは、神の事情と心情に通じ、イエスが全人類を抱こうとしたその孤独な心情を感じる人だけが、神とイエスから保証されるのです。
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 今日、イエスを信じている人々は、自分が信じる程度で救いが成就し、自分が要求するすべての天国が建設されると思っていますが、それは全く不当な考えです。霊界に行くとそうではないのです。自分が一番だと誇る人々が霊界に行くと、哀れな場所に置かれているのです。これはどういうわけでしょうか?今日、皆さんが正しい道を歩んでいるように見えますが、永遠の命の終着点に向かう道程では、出発点で髪の毛の厚さだけ違っていても、終わりでは数千マイルの距離が生じることを皆さんは知っておくべきです。
 では、これをつなげることができるものは何でしょうか?それは、私たちの論理的知識でもなければ、どんな主義でもありません。神を愛する心情です。神の心情が私の心情であり、私の心情が神の心情であると言えなければならず、互いに引き寄せる心情の引力が必要です。そうしてこそ、神の最後の心情的中心点と私の心情的中心点が通じるのです。ここで、神が愛を中心にしてアルファでありオメガであると言うことができるのです。
 ですから、今日の私たちは自分の一生を賭けてイエスの願いを叶えるべき時です。2000年前、イエス様はご自身の願いを叶えてくれる人がいなかったために、個人から、家庭から、社会から、教会から、そして国家からも排斥されました。
 しかし、イエス様はそのように排斥され、迫害されながらも、個人や家庭、教会、国家を越えて、今日の世界の舞台で天の意志を成し遂げるために戦い続けていることを、皆さんは理解しなければなりません。だからこそ、キリスト教は伝道の初期において、どの国家からも歓迎されず、どの民族からも歓迎されなかったのです。それはイエス様が歩んだ道が排斥される道だったからです。
 したがって、今日の皆さんが聖書を脇に抱え、楽に座って賛美歌を歌い、祈っていれば天国に行けると思っているなら、それは間違いです。皆さんがこのような恵まれた立場にいることができるのも、天が2000年間排斥され、踏みにじられながらも回り道をして皆さんを見つけ出してきた苦労のおかげです。そして、私たちを立てるために、歴史上の多くの信仰の先祖たちが排斥されながらも道を切り開いてきたおかげです。ですから、終末を迎えた今日のキリスト教徒には、犠牲を払ってでも世界を救わなければならない使命が残されていることを知るべきです。皆さんはこれを体験しなければなりません。
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 たとえ皆さんが過去の歴史の過程をすべて知らなくても、持つべき一つのものは、全宇宙を復帰するために来られたイエスの心情です。そして、そのイエスの心情を理解し、世界を抱えて戦う覚悟を持たなければなりません。
 神が6日間で創造した万物が敵から弄ばれても耐えたのは、神に敵をも愛で包み込む心があったからです。そのため、長い歴史の過程を耐え忍びながら6千年を歩んできたのです。6日間で創造したその期間をすべて経ていく間、神は耐え忍び、包み込んできたのです。
 6日間で創造した人間が堕落したために、神は6千年間悲しみの涙を流しながら、一人の人を見つけて愛するその日まで苦労してこられました。すなわち、神はご自身の愛を受けることができる人間が現れ、歴史的な恨みを解消してくれるその一時を望んで、今日まで耐えてこられたのです。
 しかし、まだ神のそのような心情と意志を受けて耐えられる存在はこの地上に現れていません。だからこそ、イエス様が来られてからすでに2000年が経過しましたが、6千年の歴史を代わりに天上で今も戦い続けておられるのです。このようなイエス様の心情を代弁できる存在がこの地上に再び現れ、人間を代表して神との絆を結ぶその日が再臨の日です。
 遠からぬ日に、すべての万物が審判の権威から逃れることができない恨みに囚われる時、人類の叫び声が皆さんに聞こえてくるでしょう。「おお、私を救ってください。復帰の恨みを私たちから取り除いてください」という祈りの声が聞こえてくるでしょう。万物だけでなく、地上にいる24億の人類がその叫び声を聞くでしょう。
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 さらに、霊界の数千億の霊人たちが「おお、地上にいる兄弟姉妹たちよ、私たちの歴史的な恨みを解消してください」という祈りの声を聞くことができる皆さんでなければなりません。そして、6千年間人間を探し求め、苦労してこられた神の事情を理解しなければなりません。
 では、今皆さんは何を復帰しなければならないのでしょうか。嘆きの中にある万物を復帰し、人類全体を復帰し、地獄にいる霊人たちまで復帰しなければなりません。それから、次に何を復帰しなければならないのでしょうか。神の悲しみの心情を喜びの心情に復帰させるべきです。
 6千年間傷ついた父の悲しみの心情を誰が引き裂いたのでしょうか。引き裂かれた父の心情を誰が癒し、天の愛の対象となる子供たちになるかが問題です。それが皆さんであるべきです。6千年間神の心情に傷をつけ、6千年間神の心情を踏みにじったのは人類です。だからこそ、イエス様は人類がこの天の性に対してすべての恨みの心情を解放することを今も訴えています。
 善なる天の側の人々は、地に対して、またすべての万物に対して、言いようのない悲しみ、引き裂かれるような悲しみの心情を持ち、天の意志を持って飢えながら生きてきました。2000年前のイエス様も同じように生きていました。
 昔、ヤコブがイスラエルの基盤を築くために兄エサウを避けて、叔父ラバンの家に向かう途中、荒野で石を枕にして寝た時や、ラバンの家で牧者の生活をしていた時、ヤコブはどのような心情を持っていたのでしょうか。ヤコブは神が親族を愛されたように、愛の心を持とうとしました。神が2000年間親族を愛し、心配された心情を継承して生きようとしたのです。そうして、積もり積もった天の恨みの心情を解放するために努力しました。このように、神の悲しみの心情をヤコブに引き継ぐための苦難の期間がありました。
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 今日の皆さんは試練の道があっても落胆しないでください。イエスを拒否したためにイスラエル民族が4000年間築いた祝福の基盤が、後の世でイエスを信じる人々に移されたのです。今日、皆さんが神の心情を持って進むときに反対を受けても落胆しないでください。反対はやがて過ぎ去りますが、反対する者の祝福が皆さんに移るのです。イエスがこの地に来た時も、偽りが真実を害しようとしてすべて破れ去りました。真実を打って勝利した例は歴史の中にはなかったのです。
 したがって、今皆さんは心と体に自信を持ち、行動に信念を持って信仰生活を送らなければなりません。そうすれば、神は皆さんが苦しいときに慰めてくださるでしょう。さらに、神の真の愛を感じることができるでしょう。
 サタンの権勢がいかに強大であっても、神を飲み込むことも、消化することもできません。消化しようとしてもできないときには、むしろ倒れるのです。世界にどれほど偉大な人がいたとしても、天の意志を中心にした理念と信念をもって実践し、サタンの権勢を消化し飲み込むことができる教派が出てこなければ、その日は世界がサタンに飲み込まれるということです。これはイエスが主張していた主義です。サタンがイエスを飲み込むことができない条件が地上に残っていたため、イエスは復活したのです。今や天宙の理念さえも吸収できる子供たちが現れなければなりません。すべてを復帰しなければならないイエスの心情を理解した後には、この地にある木の根一本さえもサタンに譲ってはならないのです。
 私の体と私の命は父のものであり、私が持っているすべての物質もすべて父のものであり、この国、この世界、この天と地がすべて父のものです。したがって、堕落によって失われたすべてのものを皆さんが父に取り戻して差し上げることのできる天の勇士となってこそ、イエス・キリストがこの地上で千年間王として君臨するのです。
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 今や皆さん、統一教会員は今までどの信仰者も持たなかった覚悟を持たなければなりません。死を覚悟して進まなければなりません。天の意志に向かって進む過程において、歴史的なすべての摂理の意志を知っているならば、歴史上どんな人も成し遂げたことのない環境で成し遂げるという条件を持たなければなりません。できない環境で成し遂げたという条件を作り出さなければならないのです。今日、私たちは他の人ができないことをして、後の世の人々がどんな条件であっても天の意志を成し遂げることができるようにしてあげなければなりません。
 イエス様はモーセが持っていた杖で紅海を打ったように、自分の生涯を深く感じ取って杖となる人々が現れることを望んでおられました。彼が血の涙を流しながら苦難と逆境の中でも耐え忍んだのは、天の意志を心配していたからであり、皆さんのためであり、千秋万代に誇れる条件を備えるためでした。それゆえ、反対する民族を見つめる彼の心情は、引き裂かれるような悲痛な心情だったのです。
 だからこそ、今や私たちは、イエスが2000年間全世界で心配し続けてきたすべてのことを引き受けなければなりません。そして、その心配を少しずつ減らし、世界を治めようとしたイエスの意志をすべて成し遂げるべきです。さらに、イエス自身が自分自身のことを考えられる一日を私たちが見つけて実現することで、初めて神が自分自身を思い、イエスが自分自身を思うことができる時を持てるのです。人間のために生きるよりも、神とイエスが自ら楽しみながら生きることができる一日を持たなければなりません。このような歴史的な願いがあることを、今日の人間たちは知らないのです。
 さて皆さん、他人が嫌がり否定する道を選び、高い垣根を乗り越えてきた皆さん。今は何も持っていなくても構いません。皆さんを神が認めてくださるかどうかが問題です。
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 皆さん自身には、イエスと神を安息させる責任があります。神を安息させ、「父よ!」と呼ぶことができるようにしなければなりません。そして、サタンを阻止して戦い、原罪のない人間にすることができる資格者となり、「父よ、今はお休みください!」と言わなければなりません。
 このようにして、「主よ、おいでください。父よ、おいでください。」と言う時、その方が来られるのです。なぜなら、人間に対して神が喜べる一日は、試練の条件を超えなければならないからです。恐怖の環境ではいけません。
 創造の理念を持って楽しめる環境に没頭する、そのような園で人間を中心に共に暮らすことが創造の目的でした。したがって、皆さんがそのような場所を成し遂げることで、神を迎え入れ、神の全体摂理を代行できる人々となり、また万民がそのような存在になることができるのです。そうして初めて、全宇宙が彼を中心にして完全な解放を目指して動き出すことができることを、皆さんはしっかりと心に刻んでおくべきです。




<祈祷>
 愛するお父様! イエス様が地上に来られたのは、私一人を見つけるためだけではありませんでした。私の家族のためだけではありませんでした。選ばれたイスラエルのためだけでもありませんでした。どんな教派のためでもありませんでした。
 イエス様は、全被造世界の希望であり、すべての価値を代弁して来られたことを私たちは知りました。お父様! そのようにして全体を復帰しなければならない使命を持つイエス様の前に、今日の私たちはどのような心を持っているのでしょうか。私の家族を守るために命を捨てる者にならないようにしてください。私の民族、私の国、私の世界を守るために命を捨てる者にならないようにしてください。
   20
 私が生きても天地を代表し、死んでも天地を代表して死ぬ、つまり天宙の生死をかけて生きる姿となれるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 今日、この被造万物の中でイエス様が復帰しなければならない意志が果たされず、嘆きの叫び声が残らないようにしてください。たとえそのようなものが少しでも残っているとしても、私たちのためにそれを取り除き、イエス様とお父様を安心させ、その心情を通してお父様と永遠の絆を結ぶことができる真の子供たちとなれるようにしてください。お父様、切に願い求めます。
 そのようにして、歴史的なすべての恨みを解消し、解放の慰めを受けられるように、お父様 導いてください。そして共に進むことができるようにしてください。
 私たちがすべてのことを忘れ、天を讃えることができる真の孝行息子、孝行娘となれるように切に願い求め、すべての御言葉を主の御名前によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集4(5)

2024年06月15日 18時24分08秒 | 日記
鮮明先生御言葉選集 4 - 5. あなたは誰のものか (1958年3月16日)
1958年3月16日(日)、旧本部教会
ヨハネの福音書 15:1-27


<祈祷>
 創造の理念は特定の個体を探すのではなく、全人類を探すことだと知っています。この地上に人類を探しに来てくださったお父様よ! 全宇宙を善の理念の中に立てるべき摂理的な意図が残っていることを考えると、私たちは何度も死んででもその意図を実現するための肥やしとなり、少しでも父に助けを提供できることを切に願います。
 お父様の悲しみは、この地上に創られた万物のためではなく、お父様の創造理念を代わりに実現できる人間個体がいないためにあるということを、この時間、私たちに許してくださいますように。そして私たちの心、ある全ての誠実を尽くして意図のために戦うことができるように許してくださり、この被造物を創造された創造主があなたであり、私たちのために無限に苦労された方もあなたであることを知ることを許してください。
 お父様の心情を知らない人は父の命を知らない人であり、お父様の心情を体験できない人はお父様の事情を知らない人であることを知ることを許してください。そして今日この時間もお父様が父の心と共にできない私たちを見て悲しんでいることを知ることを許してください、愛するお父様、切に願います。
 それで私たちの心が完全に父の意図と一つになることを許してくださり、お父様の友人のように生きることを導いてください。そしてお父様が動かせる私たちとなり、生活できるように導いてください。
 イエス様はまさにそのような神の意図を抱いてユダヤ人のために現れた方であることを、私たちはこの時間に知ることができます。創られた人間もそのまま残り、創られた万物もそのまま残っていますが、お父様が臨在できる実体を知ることを許してください。愛するお父様、今、私たちに臨在して、私たちがそのような存在となるように、私たちの身体と心を聖別してください。それでお父様と一緒に楽しむことができ、お父様と一緒に創造の理念を実現していく新時代の先駆者となるように導いてください、愛するお父様、切に願います。
 昔のイエス様の時代も、今日も、そしてこれからも、お父様が一貫した愛で歴史を動かしていると信じています。愛のお父様、この時間、イエス様が持っていた切ない心情を体験できるようにしてください。そして、地上のすべてを愛することができるお父様の心を持たせてください。万民を抱いて愛することができるお父様の性質に似ることを許してください。愛のお父様、切に願います。
 お父様、この時間も地方に散らばって追い詰められているあなたの息子娘がたくさんいると思います。お父様が彼らを守ってください。自分のすべてを否定し、ただお父様の意図のためにのみ奮闘できる心情を持たせてください。
 どのような十字架の道、嘆きの道でも突破し、お父様の命の道へ進むことができる息子娘たちとなるように、お父様が愛で導いてください。切に願います。
 誰にも知られない切ない心情を抱かせたのもあなたです。お父様、私たちを心で慰め、体で励ましてください。そして、最後の戦場を守り勝利して、サタンに敬意を受ける息子娘たちとなるようにしてください。愛するお父様、切に願います。
 集まった個々はそれぞれ異なりますが、目的のための心は一つにならなければならないと思います。目的のための体も一つにならなければならないと思います。もしお父様の意図に合わない嘆きの要素があるなら、それを取り除いてください。愛のお父様、切に願います。
 今、お父様の言葉を伝えようとします。御言葉を受ける人たちが、お父様の心情の前に自分のすべてを告白し、自分自身を分析し反省できる息子娘たちとなるようにしてください。愛のお父様、切に願います。
 お父様、この時間、心にいろいろな傷を負った人たちがたくさん集まっています。私たちの心を主管してくださるお父様、傷ついた心を癒してください。私たちの心に正しくないものがあるなら、それを取り除いてください。サタンが侵入できる条件がないか常に反省する私たちとなるように導いてください。もしそのような条件があるなら、それを取り除くことができるように、お父様が炎のような目で見守ってください。愛するお父様、切に願います。
 お父様、今言葉を伝えようとしています。伝える人の心と受け取る人の心が一つになることを許してください。この時間もサタンは隙を狙っています。私たちがお父様の意図を中心に一つの友のように動き、調和できるこの時間としてください。愛のお父様、切に願います。
 お父様よ、三千万人の民族を哀れんでください。この地のすべての人類を哀れんでください。そして霊界のすべての霊人が求める復帰の贖罪条件も見つけて立ててください。切にお願いし、願います。この時間、地方に散らばっている孤独な家族を一貫した恩恵で守ってください。もう一度切にお願いし、すべての言葉を主の名でお祈りします。アーメン。



<御言葉>
 この時間は「あなたは誰のものか」という題で皆さんにお話しします。この地上に生きているすべての人は、それぞれ何らかの目的のために生きていると自負しています。
 一見すると、私たちの生涯は自分を中心に始まり、自分を中心に終わるように思えます。しかし、もう一度考えてみると、自分を中心に生きているように見えるこの生涯は、曲折が多く、嘆きと悲しみと悲哀に満ちていることを、皆さんはこれまでの自分の実生活で多く体験してきたと思います。
 また、自分を中心にした生活をし、自分だけをために生きると、罪と悲しみが満ち溢れますが、自分を忘れ、自分を否定する生活をすると、どんな困難も無難に乗り越えることができるという事実を、皆さんは実生活で感じたことがあるでしょう。
 私たちが本質的な面で人間をより深く考えてみると、自分の体も自分のものではなく、自分の心も自分のものではないということを否定できません。また、創られた全体の被造世界、全宇宙も、その主人が被造物そのものであるように思えますが、もっと深く考えてみると、それが創造主のものであることを誰も否定できないでしょう。
 例えば、この地球は主人が地球そのものであるように考えやすいですが、この地球も宇宙に属して存在していることを否定できないでしょう。また、地球上に存在しているすべての万物も、自分自身が主人であり、自分自身で生存を始めたかのように思えますが、万物もまた地球の縁を離れて存在することができないということも否定できません。
 このように、すべての存在を見てみると、大きいものから小さいものまで、すべてが切り離せない縁を結んでいます。地球を見てみても、この地球が自ら存在できないことがわかります。すなわち、天体と切り離せない縁を結びながら、自然法則によって運行することで初めて地球としての存在条件を完備するのです。このように、地球を中心に見てみても、地球の原因者である創造主がいることを認めるなら、この宇宙は創造主である神によって生まれ、地球は宇宙によって生まれ、この地上に存在する万物は地球によって生まれたということを、皆さんは否定できないでしょう。
 それでは、今日この地上に存在している万物の根源者、つまり人間の親のような存在は何でしょうか。それが地球だということを、皆さんは否定できないでしょう。また、地球の親のような存在は何でしょうか。それが宇宙だということを否定できないでしょう。しかし、宇宙の親(根源者)が何であるかについては、まだ解明されていないのが事実です。
 すべての万物はこのように必ず親の縁のような原因的な過程を経た結果として存在しているにもかかわらず、結果世界自体でのみ満足を取ろうとするのは、歴史的な矛盾であり、現実的な矛盾であることを皆さんは今こそ悟らなければなりません。
 それでは、このような立場に置かれている宇宙万象と皆さんに、最終的にどのような解決策があるべきでしょうか。このすべてを解明できる人、つまりすべての縁を通じて宇宙全体の価値と全体的な理念、福音的な理念を代行できる一つの実体を立て、宇宙に対して出ていける人格者がこの終末時代に現れるべきだということです。もしそのような存在が現れなければ、神が人間を中心に摂理したと断定することができないということを、皆さんは確かに知るべきです。
 今日この見える万物世界を主管している人間、いわゆる万物の霊長と自称している人間が、自分を自分のものだと思っているなら、それは誤解です。皆さんの体は皆さんのものではありません。皆さんの心もまた皆さんのものではありません。皆さんのものだと認める根拠は何かと問い返されると、皆さんは答えられない立場に立たされるでしょう。
 もしこの問題が解決されるなら、それは歴史的な一つの転機となり、同時にすべての問題を解決するポイントとなるのです。しかし、今日この地上に生きている人間たちは、この問題を忘れたままただ生きているのです。
 神は宇宙を失って悲しまれるよりも、このような人間たちが存在するという事実をもっと悲しまれるのです。だからこそ、そのような神の心情を感じ、体験する人がいるならば、その人から基本的な宗教の摂理が始まるのです。ここから神を再び見出す道が開拓されるということを知るべきです。
 この地上に存在しているすべてのものが地球を親とし、天体を親とし、さらには創造主を親としているように、皆さん自身も自分自身で終わるのではありません。
 皆さんは地球が自分の親であると感じたことがありますか。私たちの体は地球のすべての元素で結合されています。地球が私たちの根源であることを否定できないのが人間です。しかし、人間は自分が地球に抱かれているという事実を忘れて生きていることが多いのです。今や皆さんは物質の親である地球があることを知りましたが、さらに自分を一つの人格体として生んでくれた親がいるという事実も知るべきです。
 それでは、人間はどのような存在として創られたのでしょうか。物質的なすべての要素を備えた存在、天の理念を代行できる実体形象として立てるために神が人を土と水と空気で創られたのです。このような創造主の理念を通して創られた人間だからこそ、人間自身に神の神性に応じる何らかの要素がなければ、その人間自身にはどんな理想も希望も願いもあり得ないというのが創造の原則です。
 神は人間を創るとき、すべての物質と通じることができる物質的な要素の結合体として肉体を作り、その肉体に肉体を主管する霊を吹き込んで人間を創られました。
 物質が一つの存在性を示すためには、地球や全宇宙と通じる縁を持っているのと同じように、人間も地球を親とし、さらに理念的な主体である天を親としていることを信じる人間でなければならないということを、皆さんは確かに知るべきです。
 それでは、人間とは何でしょうか?物質的なすべての縁を代替する実体(肉体)と、霊的なすべての縁を代替する実体(霊)が結合された一つの実体として作られた存在、それが人間です。このような価値を持つ人間だからこそ、創造主の前で喜びを感じ、創造主を崇拝し、創造主に賛美を捧げることができるのです。このように人間は極めて小さな一個人ですが、全宇宙を代表して天の栄光を示すことができる宇宙的な価値を持つ存在です。また、天はそのような価値を持つ完成された人間と接したいと望んでいます。
 したがって、皆さんは自分を立てて何かを主張しようとする心を持つべきではありません。体が自分のものではなく、心も自分のものでない立場で、自分のものを主張して出るならば、歴史がそれを許さないのです。過去の歴史の中で、そのような個人、そのような民族、そのような国家が滅びた事実を皆さんはよく知っているはずです。
 人間が必然的にこのような道を進まなければならないため、天は人間に善の道理を見つけさせ、善の方向を示しながら、歴史を今日まで引っ張ってきたのです。氏族社会の時代にはその氏族の慣習があり、民族国家の時代には民族主義や国家主義がありました。今日では、国家の次元を超えて、世界的な主義を中心に生きてきました。
 ここで終わるのではなく、最終的には天道を中心とした摂理の意図のために生きなければなりません。そうしないで、自分の主義や自分の国家理念を志向する人は必ず破れるのです。
 これを考えるとき、皆さんはどこで安定を見つけるのでしょうか?皆さん自身が幸せを感じ、自分自身が満足し、全被造世界の前で自信を持って神を代表して現れることができる安息の場所を簡単に見つけることはできないでしょう。しかし、これは人々が共通して求めてきた目標です。
 心は天性に向かい、体は万物に向かう立場に立っている皆さんは、このすべての万象が自分のものであると自信を持って言える境地を感じたことがありますか?血統的な縁による氏族と民族・国家、そして世界の人類に対して「あなたは私のものだ」と言える感覚を持ったことがありますか?さらに、地上の人々だけでなく、霊界にいるすべての霊人に向かって「あなたは私のものだ」と言える自分になっていますか?
 このことを考えると、自惚れて自分の何かを誇る人には償いがあるでしょう。自分の何かを立てて誇る人、自分のどんな主義を主張する人、その人は必ず破れるでしょう。この事実を否定できないならば、皆さんがどのような基準を持って生きるべきかが重要な問題となるでしょう。
 元来、人間が堕落しなければ、善の価値を持つ天の相対的な立場に立つことができました。しかし、堕落によって善の親との縁が断たれました。その後、人間は悲しみの道を歩んできたのです。人間は死の峠を越えてでも、この善の親との断たれた縁を回復しなければなりません。
 それでは、その縁をどのように結ぶのでしょうか?その縁は、どのような世界的な主義主張やどのような国家理念、社会的などのような体制で結ばれるものではありません。それは皆さんの心の中で結ばれるべきです。だからこそ、皆さんの心の中でその一つの事実が決定されないならば、たとえこの世界が幸福な世界、善の世界になったとしても、皆さんとは何の関係もないということを知るべきです。
 しかし今日、皆さんの欲望は一個人を超えて国家や世界に向かって動いています。そのような所有の欲望を持つことも貴いですが、それよりも貴いものは何でしょうか?まず自分自身が永遠不変の主体に属する存在であることを認め、その次に宇宙的な欲望を満たすことです。そのような人がいるなら、この地上で彼を打ち負かす権力や勢力は存在しないでしょう。
 しかし今日の人々はこれを考えていません。自分の真の価値を主張できない人々が万物を手に入れ、宇宙を主管したところで何の意味があるでしょうか。
 だからこそ、今日の人間社会において宇宙的な理念を示す主張があるとすれば、それは宗教です。宗教以上の主張はありません。見えない創造主に対して、その方が私たちの父であり、私たちはその息子娘だと言える関係、そして切り離せない親子の縁とその価値を基に始まったのが宗教です。したがって、真の宗教は単にある民族を支配する次元にとどまるものではありません。未来の国家、未来の世界、さらに宇宙を見据えています。そして創造主の理想を通して創られた地と人間が三位一体的な関係として一つになろうとする目的に向かって動いています。
 まさにこれを見つけて回復するためのものが宗教であるため、宗教はこれまで主従の関係を重視してきました。また、何が先で何が後かという順序の関係などで秩序的な縁を結んできたのです。天倫がそのようになっているのです。
 それでは、悪とはどこから出発したのでしょうか?天倫を中心とした秩序的な縁を外れることから悪が出発しました。だから天は、皆さんが全宇宙のもの、創造主のもの、そして皆さん自身のものであると言えるその一つの基準を立てるために、今日まで努力してこられたのです。
 皆さんは未来の中心になりたいと思いますか?神との縁がなく築かれた人間世界の中心は永遠ではありません。あるいは、民族の中心になりたいと思いますか?皆さんが望むように民族の中心になったとしても、皆さんは堕落した人間なので、いつかは必ず折れる時が来るのです。世界の前に堂々と出ても、一度折れる時が近づいているのです。だから宗教の道、つまり道義の道を行こうとする人にはすべてを捨てるように教えます。しかし、その言葉は常に捨てるという意味ではありません。
 堕落した人間が善の道を進むには、言葉にできない紆余曲折の道を通り、革命と闘争の過程を経る必要があります。神は、そのような過程を経なければならない人間だからこそ、どの民族であれ、どの主義に偏って固定されるとそれが破れることを知っており、そのすべてを捨てるようにおっしゃったのです。
 だからこそ、キリスト教がこの地上に天を語って現れるときに、言葉にできない迫害を受けたのです。また、どの時代においても、天を掲げる個人や民族は歓迎されませんでした。2000年前もイエス様が新約の福音を掲げて出ましたが、彼を国家的にも世界的にも追い出しました。さらに、イエス様以降、現在までどの時代においても、キリスト教を迫害しなかった民族は一つもありませんでした。
 しかし神は、この地上にキリスト教の理念を立てるために、どの国の政策的理念であろうと、イエス様が主張する内容と一致しないときはそれを許しませんでした。
 イエス様は持つべき民族を持てず、持つべき国家を持てず、持つべき世界を持てなかったため、神様はそれを取り戻すために今まで努力してこられたのです。では、その意図を誰が成し遂げるべきでしょうか?その意図を成し遂げるのは、天でも地でもなく、まさに皆さん自身です。
 神様はこの宇宙を取り戻すための摂理を行いながら、一度に全宇宙を取り戻すことはできないため、まず一人の人を見つけるための努力の歴史を積んできました。それが、アダムの堕落後にノアを見つけるための1600年の期間でした。アダムが過ちを犯したため、神様はノアを立てましたが、ノアもその意図に対する責任を果たせなかったため、それが400年延長され、アブラハム、イサクを経てヤコブの時代に至って初めて一人の個人を見つけ、一つの家庭を見つけました。
 神様はそのヤコブの家庭を中心にエジプトの道を経させ、モーセを立ててイスラエル民族を導かれました。しかし、民族を中心にイスラエルの国を見つけようとされたイエス様が、その国を自分のものとすることができず、天のものとして立てることができなかったため、選ばれたイスラエル民族はどうなったでしょうか?世界をさまよう民族となりました。
 それで、イエス様が来て去った後、今日まで天はこの地上の人々の前に新約の摂理の道を立て、何をしているかというと、イエス様が見つけようとされた神を中心とした民族と国家を建設し、さらに天主的な天の理念が運行できる世界を建設しようとしているのです。そのような基盤を持っていないため、今日イエス様を信じているキリスト教信者たちにはまだ自分たちが見つけて立てなければならない国家の理念が残っているのです。しかし、この事実を彼らは知りません。
 では、イエス様が今日この時代に求めるものは何でしょうか?天が4000年の間苦労して立ててきたイスラエル民族を失ったため、そのイスラエル民族に代わることができる第2のイスラエルの使命を今日のキリスト教が果たすことを望んでいるのです。しかし、これをまたキリスト教徒たちが忘れていることを皆さんは知るべきです。
 このような状況の中で天性に向かって進む皆さん自身を考えると、皆さんは哀れな人々です。人間が天性の道理を正しく伝えることができる姿になっていないため、天性の道理を通じる家庭がなく、社会がなく、民族がなく、国家がなく、世界がありません。まさにそのような立場に置かれている自分たちであることを皆さんは考えなければなりません。
 皆さんがそのすべてを見つけて立てることが最終目的であるため、天は今まで皆さんがそれを見つけて立てる前には何にも属さず、それに依存する存在にならないことを望んできました。つまり、どの民族、どの主義にも属さないことを望んできたのです。だからこそ、今日皆さんはそのようなことを心に刻んで歩まなければならない運命に置かれているのです。
 そして今日、皆さんに問いたいのは、皆さんの体がこの地を代替できる体となっているか、民族を代替できる体となっているか、永遠の生命を代替できる体となっているかということです。皆さんはそうなっていると答えることができないでしょう。したがって、皆さんは自分の一身を自分のものだと主張してはいけません。皆さんは昔のヤコブが十二人の子供を中心とした70人の家族を持っていたのと同じように、神が統治できる国のものとなり、その国は神が支配できる世界のものとなるべきです。さらに、天上にいるすべての霊人たちも神が主管する理念圏内に属するようにしなければなりません。
 このことを考えるとき、今日の皆さんはどのような立場、どのような位置で選ばれたのかを知る必要があります。そして、皆さんがどのような立場で自分の理念、自分の欲望、そして自分の行動をどのように展開してきたのかを反省するべきです。そして、今日の皆さんの立場が、このように天倫の全体的な意図、創造的な全体的な摂理の意図の前において、どのような位置にあるのかを明確に理解する必要があります。
 神のキリスト教に対する摂理の意図は、神が喜びを感じることができる個人を見つけ、神が支配することができる家庭を見つけることです。そして、その家庭を合わせて天の民族を作ろうとしているのです。その意図を達成する責任を選ばれた民イスラエルが果たさなければならなかったのですが、彼らが失敗したため、神は世界のキリスト教徒を動員して第2イスラエルを建設しているのです。ですから、今日の全世界のキリスト教徒が一つに団結し、この地の悪に対して進撃する一日、キリスト教がいう最終の審判の日を迎えるべきなのです。
 天倫の意図の前に完全に一体となり、天の承認を受けた人、神秘的な体験をした人は知っているでしょう。神が私に対して「あなたは私のものだ」と認めることを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見ます。全被造物が「あなたは神の子だ、神のものだ」と認める日には、霊界にいる多くの霊人はもちろん、地上の万物までが彼に頭を下げ、賛美することを今日の人間は知りません。神が認め、万物が認めることができる立場に入ると、真の良心を持つ人々も自然にその前に一体となるのです。
 そして皆さんは、自分の存在位置と存在意識を持ちながらも「私のもの」という所有観念を捨て、「私は万物の意図を代行し、人倫の意図を代行し、天倫の意図を代行する」という考えを持つべきです。自分がそのような理念を持って進むことを自覚する人が、いわゆる「道人」です。皆さんがそのような道を歩むためには、この地上で欲しいものすべてを持ち、やりたいことすべてをやり、享受したいことすべてを享受する生活をしてはなりません。
 皆さんが本当に天倫による存在の価値を見つけて立てたいと思うならば、まず自分自身を無慈悲に否定することができなければなりません。そして、自分の家庭や社会、罪悪のこの世界に対して無慈悲に戦うという敵対心を持って進む覚悟が必要です。だからといって、暴力で行うのではなく、奉仕と犠牲で罪悪に対して攻撃していくのです。このような道を通りながら、天は6000年の長い年月を黙々と戦ってこられたのです。
 では、そのように創造主である神が人間を再び見つけるために努力してこられたことを知った皆さんは、どうすればよいのでしょうか?皆さん自身がこの宇宙のもの、すべての人間のもの、さらにはすべての万物のものと一体化できる存在となるべきです。そして、神のものとして所有されるべきなのです。
 では、皆さんが神のものとして所有されるためにはどうすればよいのでしょうか?まず、このすべての被造物を創造した創造主である神が私たちの父であることを感じるべきです。ですから、創造主である神は永遠不変の絶対者として、創世から今まで切ることのできない親子関係を回復するために努力してこられた私たちの父であることを知るべきです。
 肉体の親が私たちに血肉を与えた親であるならば、創造主はどのような親でしょうか。私たちの永遠不変の霊的な真の親です。私の心の親であると同時に、永生を与える霊の真の親なのです。今日まで人倫的には血肉の親を尊敬し、孝行するように教えられてきましたが、天倫の創造主については何の法もなかったため、人倫と天倫はそれぞれ別々の道を歩んできました。それで、人倫を代表し、天倫を代行する創造主である神に対して、天倫的な真の親の道理を叫んで進む者が必要だったのです。それがイエス様だったのです。
 イエス様はこの地上に来て、創造主は私の父であるとおっしゃいました。神は私の父であり、私と一体であるとおっしゃったのです。夫婦一体、父子一体の内容を持ってイエスはそのように主張されました。だからこそ、他のどのような主張よりも天倫をために孝子孝女の道を築いたことが偉大であったのです。
 今日イエスを信じる皆さん、皆さんは歴史の終末期に直面しています。しかし、この過程に至るまでには数多くの革命過程を経てきました。個人を中心としたり、あるいは種族を中心とした主張や習慣は、より大きな形の民族が現れたときにはすべて破壊されました。一つの個別的な国家も、全体的な統一の理念を追求する摂理によって、より大きく強い国に吸収される歴史過程を経てきたのです。
 地球も一つ、人間も一つ、神も一人であるため、最終的にはこの三者が共に座って喜ぶことができる一日を実現するために、神は努力されています。そして、何らかの主導的な権限を持って命令するための神ではなく、自分の欲望を持って主導するための神ではありませんでした。
 神は6000年間、個人が家庭を思う心、親が子を対する以上の心を持って人間に接してこられました。人間が神に対して孝子以上の孝行を尽くすことができる心を持ち、自分を父と呼ぶ日を見つけることが、人類に対する神の努力の歴史であるということです。しかし、今日の人間はこの事実をよく知りません。
 今、皆さんがそのような考えを心に抱いて祈るなら、多くの祈りは必要ないでしょう。「神様、父よ!」というその一言と共に、数千年の歴史を経てきた父の心情を感じることができるのです。6000年の歴史の中で神が闘争の過程を経てきたのも、今日の私を見つけるためであったことを感じるでしょう。
 だからこそ、その神が自分に対して「愛する息子よ!」と呼んでくださることを望むなら、皆さんは創世時に持っていた父の心情、人間の堕落によって感じた悲しい心情、再び全世界の民を救うためのその心情を感じながら、神を父として対する人でなければなりません。
 そして、皆さんは神が今日、皆さんに対して摂理されているその事実を見て満足し喜ぶのではなく、まだこの地上に残っている悪と対決する多大な苦労の道を経てカナンの目的地に向かう人類を心配されている父の心情を感じながら、愛する父を呼ぶなら、その「父」という一言が歴史的な全体の意図を通じる言葉となることを知るべきです。
 しかし、今日の皆さんがよく祈るときに「天にいらっしゃる私の父よ」と呼びますが、世にはその父の名を汚す人が多いです。「父」と呼ぶ言葉には6000年の歴史の血の祭壇を通して往来した預言者たちの叫びが含まれていることを知るべきです。そこには十字架の要素が込められているのです。私たちの預言者たちの無限の苦痛と悲惨な歴史的な縁が現れているという事実を知るべきです。
 だからこそ、その創造主が自分と切っても切れない縁を結んでいる父であると認識したならば、そのような人はサタンがどれだけ強くても奪い去ることはできません。どれだけ地獄の炎が恐ろしいとしても、そのような人は溶かすことができないのです。
 それでは、イエス様がメシアとなった原因はどこにあったのでしょうか?親に孝行する信念が人倫の歴史を代替できるのと同じように、イエス様は自分の一身を犠牲にしても天倫を代行するという覚悟を持ち、万物を創造された神を父として崇め、自分が滅びるか栄えるか、自分の体面を考えずに神を父として仕えて進んだからです。
 イエス様は自分の家庭で歓迎されず、また自分の種族からも冷遇されました。さらに、洗礼者ヨハネの一派からも歓迎されず、ユダヤ教からも排斥され、イスラエル民族からも反逆者として追われました。しかし、歴史的に結ばれた父の怨恨の心情を解放する使命を悟っていたため、人倫のすべてが自分を見捨て、排斥されても、そこに絶望しませんでした。ここにイエス様がメシアとなる資格があるのです。人類の歴史上、誰も持ち得なかった心情、すなわち神のために自分の血肉の親族よりもさらに深く骨肉に染みる心情をイエス様は感じられたのです。
 そして神は4000年の歴史を終結する立場において、すべての人々が反対する中、自分の体面を忘れてイエスを抱きしめ涙を流すことができました。4000年の歴史の中で数多くの預言者たちが来て去りましたが、神の心情を本当に理解してくれた人はイエス様ただ一人だったのです。
 すなわち、イエス様は自分の生涯の道程において、人々の前に天倫の法度を紹介されたのです。神は私の父であるという心情に自分の体が通じ、血が通じるそのような立場から五感を通して万象を眺めるとき、すなわち神を探し求める人間と天の縁を結びたいと願う万物を眺めるとき、イエス様の切ない心情は言い尽くせないものでした。
 ですから、今日の人類はイエス様と神が4000年の歴史を総決算するために一瞬で出会ったその出会いの心情を感じるべきですが、今日の人類はそれを考えることすらしていません。イエス様がゲッセマネの園で血の汗を流して祈られたとき、裏切る民族、不信の祭壇を思い、世界の摂理を代行しようとされたイエス様の悲しい心情は言い尽くせないものでした。
 このように、イエス様は教団や民族、国家や世界が反対しても、神を愛する心がそれ以上に大きかったため、人間として感じるべきすべての心情を持ち、神が持つすべての心情を感じることができたため、ゴルゴタの道を自信を持って進むことができたのです。
 だからこそ、今日「我が父よ、もしできるなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いではなく、あなたの御心のままにしてください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様の心情に共感して祈るならば、地獄に行く人は誰もいないというのです。しかし、イエス様がそのような神の愛の心情を持って現れたのと同じように、イエス様の愛の心情を理解して進む人が当時一人もいなかったのです。だからこそ、イエス様はこの地上に「新郎新婦」という名を残して去られたのです。
 それでは、なぜキリスト教の中でマグダラのマリアの名前が残っているのでしょうか?彼女の名前が長い年月にわたって伝えられているのはなぜでしょうか?それはイエス様が彼女の名前を紹介するように言われたからです。当時、卑しい女性の身分でありながら、300デナリオンもする香油を独身のイエスの足に注ぎ、髪で拭ったという事実を誰が許容できるでしょうか?
 弟子たちも嘲笑し、イスカリオテのユダが抗議し、全員が反対しましたが、イエス様はなぜ福音が紹介される場所にマグダラのマリアの名前が記念されると言われたのでしょうか?それは、イエス様にとって、愛する弟子や多くの人々よりも、その一時間のマグダラのマリアの誠意が、自分が神に対して捧げた誠意と同じ条件になったからです。イエス様が十字架で亡くなると、従っていた弟子たちは皆逃げました。しかし、マグダラのマリアとイエスの母はイエスの墓を訪れました。彼女たちにも家庭や夫があり、古代ユダヤ教の習慣がありました。しかし、それらすべてを無視し、自分の社会的な威信や体面を考えずに、亡くなった独身のイエスの墓を探し求めたのです。だからこそ、マグダラのマリアはイエスと出会うことができたのです。
 では、天の審判はどこで決定されるのでしょうか?皆さんが天のために多くの功績や努力をしたからといって、それが決定されるわけではありません。それで決まるわけではありません。ただ、神の心情とイエスの心情が皆さん自身の体で体験され、結実し、それが神やイエスと切り離せない縁となったとき、それだけが永遠不滅の条件となるのです。
 これを考えるとき、今日の人類はどうすべきでしょうか?神を通じることのできる真理の言葉を追求し、霊的な体験を求めるのも良いですが、神の深い心中に自分がとどまれる愛の縁を結び、イエスの心情と愛の縁を結んでいくべきです。そうすることで、皆さんはイエスの花嫁、神の子供として立つことができるのです。
 しかし、今日の私たちは悲しい人々です。韓国の三千万の民族がイスラエルの民族にならなければならないのに、そうなっていません。この社会に教会がいくら多くても、神の教会はなく、信じる人がいくら多くても、神の子供ではないことが分かりました。だからこそ、この地に何が出てこなければならないのでしょうか?この民族を救うことができる神の子供が出てこなければなりません。神の教会が出てこなければなりません。神の民族が出てこなければなりません。したがって、このような涙の道、捨てられる道で神の子供となる道が開かれるならば、私たちはそれに感謝しなければなりません。
 イスラエルの子孫が一つの民族を建設するためのエジプトでの400年間の苦役の期間に、天を中心とした一つの標準と一つの理念を立て、民族が団結して変わらない信仰の期間を経て、初めて希望の日を迎えることができたように、今日の皆さんもそのような立場に置かれています。また、今日の皆さんはエジプトの地のようなそのような地で生きていることを骨身に感じなければなりません。
 したがって、今皆さんは選ばれたイスラエル民族を軽んじるパロの宮廷に対して敵意を持って戦い続けたモーセの心情を持つ人になるべきです。ある日決心した心をミディアンの荒野で40年間さまよい続けても変えなかったモーセの心情を持つべきです。
 それでは、皆さんがそのような長い期間を耐え抜くためにはどうすればよいのでしょうか?どんな真理、どんな運動、どんな主義を持っていてもそれだけでは駄目なのです。皆さんは天の心情を代わりに持って民族を見つめなければなりません。イエス様が民族と教会のために、そしてユダヤの国が滅亡した事実を清算するために祈られたその心情を持たなければなりません。そして、ユダヤの初代教会のように手を取り合い、自分の立場や体面を忘れて天のために進まなければなりません。そうすることで、この民族は救われるのです。
 イエス様は反対するイスラエル民族に対してすぐに呪いたい気持ちがありましたが、4000年の間に耐えながら摂理してこられた神の心情を感じたため、むしろ彼らのために祝福を祈ることができたのです。つまり、ゲッセマネの園やカルバリーの丘、十字架上で敵のために涙を流しながら祈ることができたのです。
 当時、ローマの市民権を持ち、その国のすべての習慣や法度を守っていたパウロが、なぜ自分の名誉や信じていたユダヤ教を捨て、自分の知識もすべて捨ててユダヤ教から追放される立場に立ったのでしょうか?それは、パウロがイエス様の偉大な愛の心情を知ったからです。そうして、どこにも頼る場所がなく、体を休める場所がなく、荒れ狂う世の波に巻き込まれながらも、自分の安楽を忘れてイエス様の言葉を伝えたのです。
 パウロが使徒の職務を全うできたのは彼の人格のためではありません。彼が持っていた、他の誰も持たない、つまり神の愛を代行して現れたイエス・キリストの心情と通じる一つの基準を持っていたからこそ、使徒パウロになれたのです。どれだけ学識があり、お金があっても、それだけでは駄目なのです。だからこそ、皆さんもこのような天的な法度を歩み、心と体がそれに向かって動かなければならないのです。
 私たちは天と地と人の三大親の縁を逃れることはできません。それでは、この三大親の恩を何で返すべきでしょうか?今まで借金を抱えた人類・民族・民はすべて滅びました。このような理念を見つけて立てなければならない摂理が残っているため、今日の世界的な物質の運勢が人間を追い詰めてきています。物質が人間を打つ時が近づいています。なぜなら、人間が自分の位置を忘れ、万物の前で犯した罪があり、それを終わりの日に世界と人間の前で贖わなければならないからです。だからこそ、今日の人々は世界的に物質的な苦しみを受ける立場に置かれているのです。この物質的な苦しみを乗り越えられる人々が現れるべきなのです。そして、初代教会のような神の愛を通じることができる聖徒たちが現れるべきなのです。
 今日の先進国であるアメリカも、民主主義の内容を持って動いていますが、物質万能主義を叫ぶ立場に立つと、物質に打たれることになります。その物質を全人類のために使う方法を考えなければならない時が来ているため、アメリカのような国では他の国々を援助しています。しかし、援助するにあたって、自分たちの裏の利益を得るために援助するのであれば、それは天倫が許さないでしょう。
 このような理念を成し遂げるために、人類は民主主義経済社会を経て、本来の物質文化経済社会を目指して進んでいます。したがって、人間が物質の本来の価値を主張し、本性の理念を代行できる実体の基準者となり、物質と人間と天の三者が共に座ることができる形を整えなければなりません。
 それでは、今日のすべての信仰生活を見渡してみると、私たちは物質に依存した信仰観念を持ってはならないのです。もしそのような宗教団体があるならば、天は良心的な人々を動員してその信仰観念を修正するでしょう。その時が近づいています。また、天倫を忘れて自分の正当性を主張する人々の意識も正される時が来ています。
 地球も一つの存在であるため、意識があり存在の目的があります。そして地球も被造物であるため、一人の主人がいます。その主人こそが神です。したがって、神が存在する限り、一つの理念のもとに動く世界は必ず実現されるでしょう。
 また、人類のすべての思想を支配できる統一的な宇宙観が出てくる必要があります。神の実存性を中心とした理念が人間世界を支配できるようになり、人間と父子の関係を結びつけることができなければ、神は地球と人類の親としての責任を果たせないのです。したがって、万物も一つの中心を基に動き、地も宇宙の理念を中心に動き、人間も一つの主義を中心に動く日が来なければならないのです。
 今日、多くの人々は「私はどんな人だ」「私は国の民だ」と自慢しています。今日のアメリカ人は大国の民だと誇っています。しかし、それだけでは永遠ではありません。アメリカは自国のために生きていますが、他国のために生きる必要があることを知らないのです。かつてギリシャ文明がローマのためにあったことを知らなかったように、ローマも自国の文明がイギリスを経て現代文明のためにあったことを知らなかったのです。したがって、今日のアメリカ人は自国のために働くだけでなく、他国のためにも働かなければならないことを知らなければなりません。しかし、大多数のアメリカ人はこれを知りません。そんな中でも、一部の人々が自分たちのためではなく天倫のために働くべきだという理念を持っていることは、不幸中の幸いです。
 したがって、今や皆さんは天性を代わりに持ち、世界的な摂理の前に新たな装備を整えなければなりません。これまで物質文明が人間を支配し、人間の理性を通じた主義が世界を支配してきましたが、これで終わるのではなく、天性を通じ、イエス様を通じ、天的な理念を通じ、神の愛を通じる一つの主義がこの地のどこかに現れる時が必ず来るのです。
 しかし、今日の私たちはどんな主義も持っておらず、我が国は世界的な先進国でもありません。それでも、この民族が最終的に残ることができる天主的な神の心情を代わりに持ち、神のものとして捧げることができ、全人類が依存し希望するもの、神主義として現れる理念を感じることができる立場にあるならば、皆さんは落胆しないでください。
 今日、統一教会に集まっている皆さん、皆さんはここに小さな教会に座っているけれども、これを広げれば世界を代わりにすることができ、さらには天性を代わりにすることができるという心情を感じたならば、問題は解決されるでしょう。何でも解決できるでしょう。皆さんは神の意図を代行する子供であるため、神をこの世界の主人として迎える天国の民となるべきです。そして、皆さんはいつどこでも父の意図を外れることはできないということを肝に銘じておくべきです。
 先ほど読んだ聖書の中にはこのような言葉があります。「隣人を自分の体のように愛しなさい、これ以上に大きな愛はありません」。そして「敵をために祈りなさい」と言いました。イエス様が主張されたことは、私たちが立てるべき法度であり、永遠の父の民族が誇るべき伝統的な風習です。そして、イエス様が主張された道理は、その当時だけに限られたものではなく、人類を復帰させるために必要な天倫の法度だったのです。したがって、皆さんが神の子供になり、神の娘になるためには、神の愛を感じ、神の愛を所有しなければなりません。そのためには、神が6000年間耐え忍びながら愛の子供を見つけるために今まで戦ってこられたので、皆さんも戦っていかなければならないのです。
 皆さん自身が天のものであると自称したいならば、まず涙を流される神の立場に入ってみてください。神が哀れな歴史過程を歩んでこられたことを感じるなら、皆さんも涙を流すことになるでしょう。聞いている耳も同様です。食べている一口のご飯も喉を通らなくなるでしょう。このように、哀れな天の心情を通じることができる皆さんになれば、この民族は救われるのです。神はまさにそのような人を探し求めておられることを知ってください。
 聖書には聖霊の九つの実についての記述があります。「愛と喜びと平和と忍耐と慈悲と善良と忠誠と柔和と節制」(ガラテヤ5:22)。この聖霊の九つの性質、これは神が主張し、神が建設し、神が築こうとする国の基準であり、その社会の制度であり、生活の理念です。これを皆さんは身にしみて感じたことがありますか?もし皆さんにそのような身にしみる心があるなら、イエス様がエルサレムを見て石を持ちながら語りたかった気持ちを、口を閉じて耐えられたその心情を感じることができるでしょう。
 今日、皆さんは統一教会に来ていますが、皆さん自身のための統一教会を望まないでください。今日、私たちがいるのはこの民族のためであり、この民族がいるのは世界のためであり、世界が存在するのは天のためであることを知ってください。また、皆さんがこの意図のために努力し、祭壇の前に何かを捧げることがあっても、神はそれ以上にこの意図を心配してくれることを喜ばれることを知ってください。イエス様に快適な寝床を用意し、ごちそうを用意して宴会を開くよりも、イエス様の心を代わりに心配し、世界を抱えて涙を流すことを神もイエス様ももっと喜ばれることを知ってください。
 イエス様は12人の弟子が自分を支えることよりも、自分のすべてを忘れてもユダヤの民をもっと愛することを求められました。イエス様の30余年の生涯がそうであり、モーセもそうであり、神もまたそうであったのです。
 したがって、孝子・孝女・忠臣・烈女にならなければならない皆さんは、天の前に弁明しようとしても弁明できない恥ずかしさを感じるべきです。また、自分が何かをしたと主張できない自分の不足さを感じ、天性の前に恥じるべきです。そして、自分が自分のものでなく、父のものであるために戦っていかなければなりません。そのような皆さんになれば、歴史は民族を越え、国家世界を越え、天主主義時代に入っていくのです。
 今日、人間が主導的な役割を果たそうとしているのと同様に、天が主導的な役割を果たす時が来ないと言い切れるでしょうか?天が存在する限り、天が主導的な役割を果たす時が必ず来るのです。今日まで人倫的な基準が立っていなかったために天倫が介入できませんでしたが、人倫の前に天倫の威信が立つ日には、その命令と法度を人間は決して逃れることができません。
 時は過ぎていっていますが、人間はそれを知らず、もう一度反省する必要があります。そうして、神の愛の関門を通過し、「神を絶対に信じます」と言える自信ある実力者となり、永遠の父を迎えることができる真の息子娘となるべきです。

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私記7

2024年06月11日 07時35分47秒 | 日記

【中国人の日本の土地買収は違法】
 外国と付き合うに当たって平等の原則と言うものが有る。
様々な議員から外国人特に中国人による土地の買収は問題が有ると意見は出ているが、何が問題かを明示出来る議員は本当に少ない。
これが学習不足の実態で本当に情け無いと感じる。

岸田総理も同様で平等の原則を言うが、じゃあ日本人が中国で土地を買えるのか?
これは実際には買えないですよ! と言うか中国人自身も土地を買えるルールが無い。
他の国も規制をしている国は多々有るのに、今頃になってそれに気付く議員は本当に税金泥棒か。

岸田総理は日本国民から税金でお金を貰いながら誰の為に無駄な時間を使ってんだろうか。

日本を代表する議員なら知恵を出せ! 汗をかけ、国民を見て仕事しろ!

外国人選挙権もしかり、平等の原則を知らないのはタダ飯を食っている議員達だろう。

日本人が中国で議員になるなど想像も出来ない状況で平等を言えるその腹の中の黒さがよく解ってしまう。

買収された土地を取り返せ。

留学生の経費は平等なのか。

更に、二重国籍は実際には平等では無い事を踏まえるべきだ。

つい先ほど中国、蘇州で日本人学校のスクールバスに乗ろうとしていた日本人親子に中国人が危害を加えられたとの情報があります。 更に、その中国人の男を止めに入った中国人の女性がその男に死傷を負わされ亡くなったと言う報道が有ります。
これらは有ってはならない事で、中国は日本人への見舞いをすべきで有ろうに行ってもいないし、謝罪すら無い。 日本としては即効に対策を講じて行くべきであろう。

このおかしな現実を正常に戻す為に議員達よ、働け、汗を流せ、涙を流せ。

国の為に働けよ、先ず国会議員から手本を示せ。




【日本の中国人留学生支援の不可思議】
 東京都知事選に立候補している田母神氏によりますと、日本には8万人の中国人留学生がいるが、彼らには毎月14万5千円の支援金が出されていると言う事だ。
これにはびっくりです。 自国の日本人の子供達には大学に行きたくても行けない子供達が相当数いるのに、其れを無視して毎月116億の金額が使われてるって、如何言う事だろうか?
日本を敵国視している国のどうでも良い人に何故そんなに投資して、自国の若者を育成する予算は蔑ろって誰がそんな事を決めているんだろう。
しかも初めて聞く内容なので、一層驚いている。
これは如何言う仕組みでそうなっているのかをハッキリさせて欲しいし、誰が其れを決めたのか、何時からそうなのか等疑問が一杯だ。

有ってはならない事だ。



【韓国•朝鮮人のパクリ煽り】
 もう解り切っている事では有るが、韓国・朝鮮人による日本文化を詰る「日本人が韓国文化をパクった」と言う流言の原点は北朝鮮の活動家による完全な捏造である事を改めて言う。
もうこの類いの殆どの事がこの北の思想家、活動家による捏造である事は既に判明している事であるが、もう何年も前から解っている。
但し彼等は韓国内の色々な分野に浸透していてこの手の流源、風説を流してる。
韓国の教育関係の教科書にまで載るような所迄行っているが、韓国人は浅い知見でこれを受け入れてしまっている事がよく解ったりする。
この手の第一の被害者はこの手の風説を信じる韓国人自身であろう。
尤も韓国内にはこれを受け入れて、流布する役割りを担っている輩がいるからこの手が通じている訳で有って、体制がある事も見える。
しかし彼らの話の原典を聴いて貰えば良く解る様に、何処かから取って付けた原点のオンパレードで、得意の因縁を付けて、あわよくば日本のプライドを崩そうと言った、一連の流れとなっている。

彼らの因縁付はいまに始まった事では無いが、如何にも数千年の間中国文化の下に詰られて来た伝統文化に慣れた民族がやりそうな手口だとつくづく思っている。




【外国人観光客の迷惑行為】
 最近は本当に多くなったのは外国人とその迷惑行為だ。
この記事を書く前まではここ迄多いとは思っていなかったが、ネットを見たらキリが無いほど多い事を知って驚いた。
実際今日も若い感じの韓国人の歩きタバコを近くで見せられた事に嫌気がさした。
タバコの吸い殻も多く捨てられているのでそれだけでも迷惑なのに街を煙と吸い殻で汚すな! と言いたいところだ。
対馬の神社の迷惑行為がそのまま他の地域にもコピーされている様だ。
全く迷惑だ、朝鮮人。世界に蔓延るゴミ人種🗑️。

靖国神社の中国人などは氷山の一角だが、確かに中国人と韓国人の迷惑行為は突出して数が多い様だ。

にも関わらず外国人を差別していると言う外国人がいるが、特に韓国人はそう言うがルール知っていても守れないなら日本に来るな。
一部の人間以外は皆がルールを守って生活しているのだから、少なくとも我々の国日本にいるならルールを守れ!
まず、注意されたら素直に聞き入れる事だ。日本ではそれで損をする事にはならないからだ。
むしろ受け入れなければ、相当の無駄な時間をかける事に成るだろう。

自国では知らないが、日本は殆どの人はそう言うルールは守って皆で維持している国だ。
どっかの好き勝手にやってルールも守れずに暮らしている国とは民度が違う。

ルールを守る事の幸福を知らない事は残念だが、悪意には悪の結果しか付いて来ないのもルールである。




【家庭連合新体制】
 新体制とは言え日本は関係ない様な状況に有りますね。
と言う事は経済的自立が出来ていると言う事でしょうか。
夫々の長は全く解らないけど、ちゃんとやって欲しいですね。

この御言葉では国の定義も解らないけど、理想を求めて本気で国を作る事を考えているならそのビジョンは如何なっているのだろう。

・何処に作るのか?
 造るなら韓国なんだろうけど韓国政府は如何言う存在になるのかな?
 南北統一のドサクサ紛れて創る?、、と言うか北に占領されて御終いだろう。

・心の中に?
 良心は個々により良く育っていく事を願うが、実体のない国はあり得ないし、冗談は止してくれ!

 十分の一献金は税金だとも言っているからには誰が何にどう使ったのかは会員に明示するべきだと思うが、其れすら無い。
泥棒が居ても容認されて何億も持って行かれても容認する?と言う御言葉を実践していて、献金もそれでは組織は成り立たない。

メシアとしての構想は如何だったのか? 此処は完全にぼかされているので、全く解らない。

目標が無い組織は発展しないよなあ。



【川口市クルド人問題】
 この川口市のクルド人の一連の事件は何故マスコミが報道しないのだろう。
それに何故彼らは何故難民申請をしていながら次々と問題を起こすのだろうか。
川口市市民はこの問題を軽視している訳では無く、行政や警察に適切に対応して欲しいと考えていると思うが、こう言う問題行動をするクルド人である事を日本人や日本政府は確りと認識すべきだと思う。
人数は兎も角、入管法を踏まえれば日本国内に利益は齎される様な感じは一切受けないこの人々は難民などでは無く、悪質な不法移民としか考えられない。
日本国に害悪を齎す存在となっている事は明白である。
彼等は十分に自国で働けるし生活も出来る類であり、これが通るなら幾らでも押し寄せて来るだろう。
近所迷惑国家の人種で有る。
其れこそ百害あって一利なしの展開であろう。
政治は国民に為に的確に法的に判断しなければならない。

日本が求めるのは単純労働者であってはならない筈で、法によらず力で現状を変えようとする悪質な人材は不要であり、彼らは時間が経てば国のゴミとなるだけだ。




【日本が日本で無くなっていく?】
 根っからの左翼思想家で無ければ自分の国を愛し、行く末を見守ろうと考えるのは誰しも同じ思いだと思っている。
その思いはその国その国で多少は違っても、方向は同じであろう。
だとすればこの国で生まれてこの国で育ち、国民として義務を果たして、権利を主張する事は当たり前の事だ。
基本的に其れらの秩序が崩される事はあってはならないと思っているが、この国の一部の地域では其れらの破壊が始まっているかの様だ。

中国人を初めとする外国人の国土の買収や全く不当な権利の主張と騒乱等が頻繁に行われているこの国、日本のリーダーは何を考え、行っているかを考えると情け無い現実を見ている事に気が重い。

他国と争えと言う事では無いが各自治体のリーダーの指導力の無さは度を越している事を感じる。

今すぐにも国が無くなる様な事態では無いと考えるが、この事態は拡大している事を憂慮する。

今の岸田氏は余りにも指導力が欠如している事が多過ぎる訳で、国を纏める力の無さが有り有りと現れている。

当初から大きく、より良い変革が出来る見晴らしの良い政権だと思っていたが、この人は器が小さ過ぎた。人をより良く動かして行く指導力が無さすぎで、真っ先に言い訳が先に出る様な人ではリーダーは務まらない。

ビジョンは示すが行き当たりばったり絆創膏政権と成って居るでは無いか。

この人には運勢が無い!
薄っぺらの人格と口しか無い!
此れでは人は味方しない!

次期政権に期待するしか無い。何が早稲田出身か。田舎で田植えを真剣に活きてる人の話から聞き直せ!

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御言葉選集4(4)

2024年06月09日 13時02分53秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 4. お父様、どうぞお越しください (1958年3月9日)

お父様、どうぞお越しください

1958年3月9日(日)、前本部教会

聖書拝読:エペソ人への手紙 1:15-23


<祈り>
 愛するお父様、私たちを見守ってください。私たちの心はさまざまですが、私たちの生活の中にお父様の性質が現れ、お父様が動けば私たちも動き、お父様が静まれば私たちも静まる、義の実体となることを許してください。
 弱い私たちが、お父様の前にひざまずき、天性を目指しているのをお父様はご存知です。たとえ私たちの身体が俗世に囚われ、永遠のお父様の恩恵を妨げているとしても、私たちの身体が俗世のすべてに打ち勝ち、お父様の姿が私たちの心と身体を通して現れることを許してください。そして、そのような摂理の意図と恩恵、愛が私たちに注がれていることを心で感じ、身体で感知できるように、お父様、導いてください。
 私たちの心は今日も絶対的な善を目指していますが、身体は俗世のものを求めようと心に絶えず反撃を加えています。ですから、お父様、私たちの心と身体が、お父様の意志を中心にして一つになることを許してください。そして、お父様と私たちの感情の隔たりを取り除き、サタンが活動できる足場を私たちの身体と心から完全に取り除いてくださるよう、切に願い求めます。
 天は今日まで私たちの心を中心に身体を抱きしめて愛したいと願ってきましたが、まだ忠誠を込めたお父様の性質と姿の前に完全な美の対象として現れていません。これが歴史的な悲しみであり、嘆きであることを私たちは知っています。お父様の前にひざまずくしかない身体と心、罪に染まった身体と心、お父様の満ちあふれる恩恵を望む足りない身体と心ですから、私たちに何も持たないことを許してください。そして、身体と心全体をお父様が握りしめてください。私たちに与えてくださったすべてのものは私たちのものではなくお父様のものでしたから、お父様が共にいてくださり、導いてください。
 そうして、お父様の姿の前に喜びをお返しし、お父様の心に応える一つの姿として現れることを許してください。今、私たちはお父様が6千年の間望んでおられたその希望の基準を備え、お父様の御前にひざまずき、お父様に栄光をお返しすることができるように許し、お父様が安息できるように、お父様の姿を現すこの時間を許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 人間が持っているすべての主義・主張と人間が持っている権利、これらすべてがなくなるという事実を知っています。ですから、私たちの心と身体が永遠に存在できる根本的な立場に入り、新しく爆発してくる力と復活の目を私たちの心に持つことができるようにし、自分を中心とした生活を捨てて、天宙を中心とした生活に変えてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。
 愛するお父様、私たちを民を代表する個体とし、世界人類を代表し、全ての被造物を代表する者とさせてください。そして、お父様の前に頭を下げて崇拝し、6千年間にわたる恨みの心情を解放する姿になり、お父様がサタンの前で誇れる子供たちとなることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様、この日、お父様の御前に集まった多くの祭壇を祝福し、困難な状況で嘆いているこの民族を憐れんでください。この民族がたとえお父様の意志を知らずに死の権威に囚われていても、命の祭壇に属している者も多いので、お父様、その人々に恩恵を与えてください。勝利の園を築き、お父様の意志を成し遂げることで、全宇宙が喜ぶ一日が早く訪れることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
 私たちのすべてを捧げますので、お父様、喜びと共に受け取ってください。そして、お父様のものとして全てを御支配ください。この時間、伝えたい言葉を中心に再創造の恩恵を与えてください。伝える者の心と受け取る者の心が一つとなるようにしてください。私たちの身体を中心とした天倫の意志が急を要することを知っているので、私たちの心が自動的に動き、お父様の意志を効率的に成し遂げることができるように導いてください。
 お父様の心を私の心に、お父様の情を私の情として感じることができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。すべてをお任せしますので、御意志のままにしてください。主の名前によってお祈りします。アーメン。


<御言葉>
 今日、皆さんの前でお話ししたい題目は「お父様、どうぞお越しください。」です。この題目でお話しします。
 堕落のない園は、神が万物と自由に接触できる園であり、神が人間に自由に会いに行き、相談できる園であることを私たちは知っています。そしてこの園は、人間はもちろん、人間のために造られたすべての被造物も神を迎えることができる栄光の園であり、人間が神と共に相談できる喜びの園です。しかし、堕落という言葉が生まれたその日から、神に対面できない人間となり、神と共に楽しむことができない万物となったことも、私たちはよく知っています。
 天地万物を創造された神は、永遠に共にいるために人間を万物の中心として創造されました。それで被造物は人間を通して神の栄光を現し、すべての被造物が人間を通して神に喜びを捧げることができるはずでした。しかし、そのような被造物の園とならなかったために、神がその日を歴史の終点として、一つの希望の基準として据え置き、摂理して来られたことを、今日私たちは新たに認識しなければなりません。
 では、堕落の血統を受けた今日の多くの人類と、堕落の種族権から脱出できない私たちが求め、憧れ、敬慕するその理想の園はどのような園であるべきか?その園は、天地を創造された神を「私の父」と呼ぶことができる園であり、創造主を迎えてその創造主の喜びを私が共に感じることができる園です。さらにその喜びを私たち人間を通して万物にまで伝えることができる園です。そのような園とならなければ、神のすべての創造の理念が失敗に帰し、人間が歴史の過程を経て敬って来た摂理の意志も失敗に終わるのです。そうなると、人間を見守って来た万物までもが嘆きの領域に戻ることを、私たちは深く感じる一日を持たなければなりません。
 私の心がこのような心情に動かされ、私の身体がこのような感情を感じなければなりません。そのような場所で天を仰ぎ、創造主の姿を懐かしみ、万物に対して元の美を備えた自らがなければ、お父様が動かせる復活した実体となることはできません。そのような立場で、創造主と全宇宙の被造物の前に自らをさらけ出して分析できる一時がなければなりません。そのような一時がなければ、神の心情が皆さんの身体に染み込むことはなく、万物の嘆きが皆さんを通して解放されることはないということを、皆さんは知らなければなりません。
 本来神を迎えて生きるべき人間であり、神を迎えて喜ぶべき万物でした。しかし、今日私たち人間は、私たちを造られたお父様、私たちを支配すべき主人を失った状態にあります。
 そのため、私たちは孤児のように哀れな存在となったのです。この事実を悟ったその瞬間から、私たちは新たな摂理の意志を求めることができるのです。しかし、いつ人間が昔のエデンで失った創造主を私たちの「お父様」と呼び、エデンで失った善の園が本来私たちが生きるべき生活環境であると感じたことがあったでしょうか。今日まで数千年の歴史が経過しましたが、そのような時がまだ人間世界に現れていないのです。
 今日、私たちが持っているもので、絶対唯一の天の善を代替することはできず、私たちが父に対面することはできない堕落した罪の子孫であることを認識するならば、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちは自らを奮い立たせて何をすべきなのでしょうか。私たちは父の意志を見つけて捧げなければなりません。私が持っているすべてを失い、すべてを犠牲にすることがあっても、私たちの祖先が望んだ理想の主人である神を自分の父と呼ぶことができなければなりません。そして、その神を皆さんの生活圏内に現すことができなければ、皆さんは神の子として立つことはできません。しかし、その神を皆さんの生活圏内で現し、万物の前に現すその日が来なければ、祖先たちが歴史の道のりで歩んできた摂理の道は失敗に終わることを私たちは知っておかなければなりません。
 それでは、皆さんは眠っている心を奮い立たせて何を解放すべきなのか、身体を奮い立たせて何に向かって走るべきなのか。唯一、エデンで神がアダムとエバに対して抱いた切なる心を解放しなければなりません。神が万物に対して創造の美を感じながら人間に対して喜びを感じようとしたその父の心情を、具体的な時間の中で皆さんが感じることができなければなりません。このような心がなければ、たとえ歴史の終末期にその理想の園が来ても、父がこの地に再び現れる日が来ても、皆さんとは何の関係もないということを知っておかなければなりません。
 このような神と私の間の隔たりを誰が埋めるのでしょうか。このような恨みの溝を誰が清算してくれるのでしょうか。これが歴史的な嘆きであり恨みであったことを今日私たちは感じています。
 それでは、この私と天との間の隔たりを誰が作ったのでしょうか。人類の祖先の堕落による罪の血統がこれを作ったのです。したがって、これを乗り越えて天の血統を受けることによって、身体と心から天と関係を結び、自分を中心とした家庭と社会、国家、世界、宇宙を天と関係づける使命が皆さんの前にあるのです。
 今日、皆さんが自分の過去を反省する時、自らが天の法の前に罪の血統を受け継いだ姿であることを感じないわけにはいかないでしょう。これが天が今まで嘆いてきた理由であり、万物が嘆いてきた原因なのです。神は今までこのような人々を救うための労苦の歴史を経て来られたことを私たちは知っておかなければなりません。
 今、皆さんは自分自身を奮い立たせて内的なすべての壁を乗り越え、エデンの園で神に対面できた、堕落していないアダムの姿を代わりにして「お父様、どうぞお越しください」と祈ることができなければなりません。
 神は堕落した人間と復帰の縁を結び、失われた理想の園を探し求めています。神が堕落した人間を復帰し、かつて堕落していなかったアダムとエバに対面していたその喜びの園を建設し、天の喜びを基点として世界的な理想を創建するために摂理しておられる歴史が救済摂理の歴史であり、今日私たちが歩んで行かなければならない復帰の歴史なのです。
 したがって、今日復帰の道を歩んでいる皆さんが、自分自身を天倫の道の前に冷静に立たせて批判しなければなりません。皆さん自身がどのような位置に置かれているのか、どのような立場で苦しんでいるのかを反省しなければなりません。その位置と方向を人間に教えようとする神の愛があったからこそ、今日人倫を代表する宗教が立てられたということを皆さんは知っておかなければなりません。
 それで神は信仰という名詞を立て、歴史の過程で宗教を中心にして人間を探し求めておられます。今日この時まで、神は休む間もなく人間世界で人間と共に住むことを願って労苦して来られたということです。神は無形の神であるため、時間的な距離を超えた心情を持って今日まで人類を探し求めて来られたのです。
 歴史の過程の神は、自らを裏切った人間たちを時間と空間を超えて探し求めて来られましたが、その神を迎えた人間は多くありませんでした。このことを考える時、私たちは堕落の子孫の立場から当然天の前で鞭を受けるべき存在です。しかしながら、神は6千年間摂理を引き受けて労苦して来られたことを皆さんは知っておかなければなりません。
 それでは、今日の私は一個人であり、三千万の中の一人ですが、この一個人が神を迎えることができ、神をこの地に臨在させることができる子供になるならば、三千万以上の価値を持つ存在となり、二十四億の人類全体以上の価値を持つ存在となります。また、被造世界にある全ての被造物以上の価値的存在となるのです。まさにそのような姿の私たちに会いたくて労苦して来られた父であることを皆さんは知っておかなければなりません。
 今日、私たち人間は自分にある重要な部分の価値を忘れて生きていることが多すぎます。歴史の道のりを経て探し求めて来られた天が、常に私の周りで運行していることを考える時に、また私の生活環境に天が住むことを望んでいるという事実を知る時に、皆さんは歴史の道の前で、時代的な摂理の意志の前で頭を垂れなければなりません。
 天倫の意志の前で頭を垂れるべき人間なのに、人間は歴史の過程を経て来た中で摂理の意志を忘れ、自分たちの威信と品位を忘れて進むべき方向を見失っています。このような人間を見ている神の辛い心情を皆さんは感じなければならず、またこのような神の摂理の意志を気にかけなければならない時が来ていることを知っておかなければなりません。
 このような神、このような創造主を私たちの信仰の主体として迎えたいと願うとしながら、実際には自分を中心に信じているならば、それは天と何の関係もないのです。私たち一人ひとりを見れば、二十四億分の一に過ぎない人間ですが、天は全宇宙を代替する価値の存在として私たちを信じようとし、私たちを愛し、私たちと共に住むことを願っているのです。しかし、このような父の心を今日の人間は夢にも思っていないのです。
 このような観点から私自身を考えると、私は天に信じてもらえない存在であり、神が対面できる生命体ではありません。さらに、神の前に立てる愛の心情を持っていないということです。
 こうして堕落した親を持つ後代の人間は、本来の園、永遠の天国世界で神と永遠に楽しむことができなくなりました。神の永遠の命を持ち、神の永遠の愛の権内で神を迎えて楽しく生きるべき人間が、それをできなくなったのです。人間世界が罪の世界となり、人間は信じてはいけないものを信じ、持ってはいけない命を持ち、してはいけない愛の生活をするようになりました。そして、このように信じられない世界となったことで、信じられない道が残され、それが霊界の地獄であり、地上の地獄なのです。
 このような二つの世界の矛盾した立場が、今日私を計りにかけていることを皆さんは知っておくべきです。一方では地獄の不信が私に訴えかけており、他方では神の愛が私に訴えかけています。つまり、一方では世の死の愛の権が私に訴えかけ、他方では私に永遠の信仰を持つように訴えかけ、永遠の愛を持つように訴えかけているのです。このような立場にいる自分を皆さんは感じることができるでしょう。
 人間の堕落により、私たちのこの身体は神の嘆きの領域内にある万物を摂取しながら成長してきました。今日、神の嘆きの領域内、すなわち罪の領域内にある私の身体を分析すると、善の要素よりも悪の要素が多いのです。ですから、私の全体的な生の道のり、信仰の道のり、愛の道のりで、この悪がより強く動いているのです。創造主がこの被造世界を作った目的は、人間を中心として成し遂げられることでした。しかし、堕落により、人間の心の奥深くに感じられる何らかの傷、何らかの曲折が皆さんにぶつかっているのを感じているでしょう。
 どんなに悪い殺人犯であっても、自分の悪い行動に対しては良心の呵責を感じます。これが人間の本性です。天倫の法則がそうであるため、人間は天倫の法則を破って堕落したとしても、その天倫の法則から逃れることはできません。したがって、人間は天倫の法則を破り悪事を働いたときには良心の呵責を感じずにはいられないのです。
 今日の人間はこの地上の何物も信じることができず、地上のどんな生命も頼りにすることができず、地上のどんな愛も感じることができず、全宇宙に対して嘆き、恨みを持つ人が多いのです。しかし、自分の心の中で永遠に信じられるものを求め、永遠に楽しむことができる愛を求めて泣きながら嘆く人はいないのです。
 しかし、天は善の意志のために心配する人を通して神の意志を成し遂げようとします。そのような立場で善と悪の数を比較すると、悪が善に比べて数えきれないほど多いことがわかります。これを見ている神は、今日も人類の悲しみに代わって善を見つけようとする切なる悲しみに満ちているのです。人類を信じようとする神が信じることができない立場にいるその悲しみを皆さんは知っておくべきです。
 本来は信じてくれるべき人間であり、愛すべき人間であり、神の生命体となるべき人間でしたが、その人間を信じようとしても信じられず、生命を共有しようとしても共有できず、愛を共有しようとしても共有できないこの悲しみを皆さんは知っておくべきです。
 皆さんは地上を見つめながら、「神の悲しみが残る地よ!神の悲しみの壁を築く人類よ!」と嘆き、その神に代わって胸を痛める一人の人が歴史の終末期に現れないかどうか注意すべきです。もしそのような一人が現れなければ、神の労苦の歴史も水泡に帰し、サタンの告発条件、つまり罪による嘆きの条件が残る世界で生きざるを得ない立場に置かれるということを忘れてはなりません。
 そして今日、私たちは自分が罪人であることを忘れ、前途が閉ざされていることを感じず、その閉ざされた立場で希望を持とうとしています。それを見ている天の心情はさらに悲惨な立場に置かれているということです。
 私たちは歴史の過程で神を裏切った祖先の血統を受け継いできました。ですから、今日の私がこのように罪の血の結晶体であるならば、この身体を何で爆発させてその罪を消すべきでしょうか。今、皆さんは新しい人にならなければなりません。新しい理念と新しい信仰、新しい生命と新しい愛を持って天の兄弟姉妹となるべきです。6千年間私を探し求めようとした神のその切なる心情を感じ、私たちもまた切なる心で「父よ、どうぞお越しください!」と叫ぶことができる自分になっているかを反省すべきです。
 私たちの祖先はこれまで神の意志を代わり、ある時代の使命を果たそうとしてこの地に現れましたが、すべて挫折しました。そのような歴史の繰り返しがこれまでの復帰の歴史であることを皆さんは原理を通してよく知っているでしょう。
 復帰の恨みに満ちた神は今まで苦しい心情を抱えて耐えて来られました。つまり、今まで神は拒絶される中でも耐え、裏切られる道のりでも耐えて来られたということです。しかし、皆さんは私たちを立てて今日まで望んでいる神の事情を心に深く感じたことがあるでしょうか。皆さんは真に今まで歴史を導いてこられた父が私の父であり、私のために労苦してこられた父であることを自分の身心で感じなければなりません。
 私たち韓国の民が何も持たず、哀れであるとしても、私たちの中で天の希望に接し、神の心配を抱き、神の信仰の心を持ってこの地に現れる人がいるならば、またそのような集まり、そのような民族となるならば、天の全権的な偉業を継承できないと誰が断言できるでしょうか。哀れなこの民族、頼るべきところのないこの民族、希望を持つべきところのないこの民族が今持つべき希望は何でしょうか。罪に対する悔い改めの心を持ち、神に対する信仰を持ち、神に対する希望を持ち、神に対する愛を持つことです。
 そうすることで、この民族は天国の子供となることができるのです。つまり、新しいエデンの園で住むことができ、創造理念の目的を代わりすることができる新しい民族となるのです。
 神は捨てるべき堕落した人間を捨てずに再び探そうとしておられます。しかし、その神と人間はもともとどのような縁で結ばれていたのでしょうか。生命の縁で結ばれ、愛の縁で結ばれていました。では、今日の終末において世界の人類を動員して私たちが探すべきものは何でしょうか。神と結ばれた生命そのもの、愛そのものを探さなければならないのです。今日の人類はそれを探し求めてさまよっているのです。
 また、神は永遠に信じることができ、永遠の家族を築き、永遠に相談できる一つの世界を作る人間になることを望んで、これまで歴史を進めてこられました。堕落した人間ですが、神はその人間を今まで探し求めてこられたのです。
 イエス様はどのような方として来られたのでしょうか
 エデンの園で永遠に信じられる人間にはなれませんでしたが、永遠に信じられるその心の基準は誰が持っているのでしょうか。神が持っています。永遠の生命の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その生命の心の基準を神が持っておられるのです。また、永遠の愛の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その愛の心の基準も神が持っておられます。
 では、そのエデンの園の理念を建設する要素を人間の前に提示するために来られた方は誰だったのでしょうか。それがイエス様でした。神の信仰と生命と愛を代替する一つの基準をこの地上で見つけるために、神は長い歴史の過程を通じて労苦してこられましたが、見つけることができませんでした。ノアを通じて、アブラハム、ヤコブ、モーセを経て探そうとしましたが、そのような基準の人間を見つけることができず、4千年の間労苦してようやく見つけ立てた存在がイエスだったのです。
 では、イエスはどのような方だったのでしょうか。彼は世の権力を持つ方ではありませんでした。世俗的な学識を持つ方でもありませんでした。彼は時代の反逆者として追われる存在でした。罪悪の世の中で公義を代わりにして追われた代表的な主人公でした。
 そのようにイエスが追われたのは、彼の価値がなかったからではなく、何が欠けていたからでもなく、全世界が不信の地であったためです。生命のない世界だったためであり、愛のない世界だったために排斥されたのです。
 では、イエス様はどのような代表者だったのでしょうか。アダムはエデンで堕落して信じられる親にはなれませんでした。そこで、そのアダムの代わりとしてイエス様は来られました。また、永遠に信じずにはいられない信仰の主人公として来られました。エデンで失われた神の生命を再び縁づけるために来られ、エデンで失われた神の愛を人間の心に再び縁づけるために神の愛を代表して来られたのです。
 では、イエス様はどのような方だったのでしょうか。彼は信仰のメシアであり、生命のメシアであり、愛のメシアだったのです。すなわち、彼は信仰の救い主であり、生命の救い主であり、愛の救い主として来られました。神は4千年間人類歴史を主導しながら、自らの生命と愛が心の基準を成すことを望まれましたが、それがイエスによって実現されたのです。こうして初めて神の摂理の歴史がこの地上で再び始まり、復帰の新しい意志が成し遂げられることとなったのです。
 このような歴史的な意志を持って来られたイエス様の前で、当時の人々は実体的な信仰を持たなければなりませんでした。イエス様の理念と一体となるべきでした。神が抱いていた無形の信仰の理念、無形の生命の理念、無形の愛の理念が表現された一つの化身体として現れた方がイエス様だったのです。
 しかし、誰も「おお、あなたは神が4千年間労苦して探して来られた信仰の結晶体です。4千年間探して来られた神の希望と生命の実体です。おお、あなたは神の理念の園で楽しむことができる永遠の愛を持って来られた主人公です。」と証言しませんでした。歓迎されませんでした。誰も彼の心情を解き明かし、彼の秘密の言葉をこの地に明らかにすることができませんでした。これが二次的に人類に悲しみをもたらしたのです。
 そのため、イエス様はこの地に来られましたが、心と身体を備えた一つの実体として神の信仰と神の生命、そして神の愛を証しできないまま去って行かれました。
 そこで、イエスの霊と一体となった信仰、イエスの霊と一体となった生命、イエスの霊と一体となった愛が、今日の人間とは距離が遠くなってしまったのです。そして、イエス様が霊的な信仰、霊的な生命、霊的な愛の主人公となったという事実は、実際には喜ばしいことではありません。そこには天の悲しみが含まれていることを知っておかなければなりません。
 すなわち、神は自らの理念を代わりにする実体を求めておられます。イエス様は神の実体としてこの地に神の信仰を持って来られ、神の生命と神の愛を持って来られましたが、その実体を人類が破壊したために、神は悲しみの神となられました。
 神が人間を探し求めるときは、霊を通して実体を探し求めて来られます。そしてその実体を通して万物まで探し求めて来られます。しかし、人間が実体を通じる信仰の資格者、実体を代わりにする生命の資格者、実体を代わりにする愛の資格者となれず、このことが霊的にのみ成し遂げられたのです。だから今日、私たちはそれを霊的にのみ感じています。すなわち、今日の人類は霊的救いの理念を求めており、霊的生命を求めており、霊的愛を求めてさまよっているのです。
 このようにして神は4千年もの間労苦して、人間がその実体的な栄光の存在をこの地上に迎え、その者を永遠に信じることができる環境、彼と共に永遠の命を享受できる環境、永遠に愛することができる環境を霊的に成し遂げてきたのが楽園の救いの摂理であり、新約聖書を中心とした救いの摂理であることを私たちは知っています。
 しかし、その霊界にいる霊たちが信じている信仰、望んでいる命、願っている愛が実体として現れる時がこの地上に訪れなければならないのです。
 エデンの理念は、神を中心に人間の心と体が一体となってその神を迎えるだけでなく、万物と一体となって神を迎えることでした。これが原則であるため、神は今まで労苦の歴史を経て皆さんと一体となろうとしてきたのです。このような切なさがあったことを皆さんは知っておくべきです。
 イエス様が来られ、実体の聖殿を成し、神の理念を代わりにすることができる実体的な家族を築き、神を迎える出発が成し遂げられていたならば、今日の私たちには千年王国の理念は必要ありません。再臨の理念も必要ないのです。
 主イエスを中心に実体的な信仰を通過できる人となり、実体的な命を通過できる人となり、実体的な愛を通過できる人となるならば、実体の夫婦として実体の子供を持つことができるのです。そうなれば、神の実体的な信仰の人間となり、実体的な命を持ち、実体的な愛の存在となることができるのです。しかし、そのような基盤がまだ地上に現れていないことが神の悲しみなのです。
 そのためイエスは「天国はあなたの心にある」と言われました。天国はまず心から見つかります。その後に「天国はあなたの体にある」と言えるようにならなければなりません。つまり、天国は私の実体にあると主張できる日が人類の前に訪れなければ、初めて私の体が霊と一つになって神を父と呼ぶことができるのです。
 ここにイエスの悲しみがあります。心の天国を代わりにする霊的な天国は成し遂げられましたが、体の天国の理念を代わりにするそのような天国は成し遂げられなかったため、再び来なければならない立場に置かれ、歴史の過程を経て神の右手に座し、人間のために祈らなければならない運命に置かれているのです。したがって、終末にある今日の人類は実体的な信仰を持たなければなりません。
 これまで歩んできた自分の信仰の道を振り返ってみると、神の意志を不信していた心と体でした。したがって、皆さんは永遠の神の命の縁と永遠の神の愛の縁を探して実体化したと言える人となるべきです。また、そのためには「父よ、あなたの実体となることができる私たちにしてください」と常に祈らなければなりません。そのような人間にならなければ、人間はこれまで負ってきた歴史を脱することができず、失われた天国の理念を復帰することができないのです。
 そのため神はこれまで人類を心配してこられました。特に終末にある私たちに対してはより大きな心配をしながら探しておられます。したがって、今日私たちは2千年前に来られたイエス・キリストの実体を代わりにする一つの希望の存在となるべきです。
 信仰に対する希望、命に対する希望、愛に対する希望の姿で生きているかを常に父の前で告白できるようにしなければなりません。そして「はい、父よ!私は父を信じます。父が私を信じなくても、私は父を信じます。父が私を見捨てても、私は父を見捨てることはできません」と言える心構えで生活しなければなりません。
 天倫が変わろうとも、天上のどんな存在物が私を裏切ろうとも、私は父を裏切ることができないという心を持つ主人公、天上天下の誰もが信じられない状況でも信じることができる心を持つ一人の主人公はいるでしょうか。神はまさにそのような人間を探すことができる希望の一日を望んでこれまで摂理してこられたのです。しかし、このような悲しい父の事情を理解してくれる人はいるのでしょうか。教会はあるのでしょうか。人間はこれを知らずにいる哀れな存在です。
 天の意志を抱いて世に現れる人は拒絶されます。イエス様の時代にも、すべての人がイエス様の敵でした。拒絶されない人、敵でない人はむしろ偽物でした。イエス様はこの地に来られて家族の中で足場を失いました。神が選んで準備した洗礼者ヨハネの一派からも拒絶されました。4千年間労苦して準備された教団からも拒絶されました。選ばれたイスラエル、アブラハムの血族からも迫害されました。全人類に迫害されました。また霊界からも拒絶されました。さらに神からも拒絶されました。
 そこでイエス様は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(これは、わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか、という意味です)」(マタイ27:46)と記された聖書の言葉のように、悲惨な立場で命を終えられました。そのような悲痛を感じた方が私たちの救い主であり、人類の救い主であり、私たちの指導者であったことを皆さんは忘れてはならず、そのイエス様の心情を理解できるようにならなければなりません。
 エリヤもイスラエル民族の前で拒絶され追われたときに、「父よ、私だけが残りました」と訴えました。皆さんはそのような心情を理解できる時を持ったことがありますか?3千万人の民族が皆拒絶しても、世界の24億の人類が皆拒絶し、天上に行ったすべての霊が拒絶しても、「私だけはあなたを捨てません」と言える皆さんでなければなりません。
 そのような心情を持った人は地獄に行こうとしても行けず、この地で滅びようとしても滅びることができないのです。そして、どんな手段で壊そうとしても壊すことはできないのです。
 イエスがこのような心を持って「父よ、できることならばこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願い通りではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と訴えたその心が、死の権力を踏み越える一つの中心的なポイントとなったことを知っておかなければなりません。イエス様はこの地に来て民族から拒絶され、教会から拒絶され、種族から拒絶され、さらに見えない霊界のサタンからも拒絶されました。つまり、誰一人として友人のいないイエスでした。そのようなイエス様が今日の人類の救い主として現れるとは、当時の人々は夢にも思わなかったでしょう。
 このように見ると、新しい歴史創造の基準はイエス様によって成し遂げられたのです。イエス様は永遠不変の心情を持ち、父が自分の命の主人であり、生活の主人であり、愛の主人であるという心を持って生きた方です。イエス様の信仰と命、そして愛は誰も断ち切ることができなかったので、イエスによって成されたキリスト教は、どの民族国家に入っても打ちのめされることなく発展してきました。
 今日、統一教会に集まっている皆さん、皆さんが人類のために役立とうとするならば、イエス様が信じた信仰の内容を持たなければなりません。イエス様が死の道を覚悟して命を捧げることができた信仰の基準、つまり自分の体まで犠牲にすることができた信仰の基準を終末の皆さんも持たなければならないのです。天はそのような信仰の基準が終末の聖徒に現れることを待ち望んでいます。
 救われるべき私たちが、永遠の命を見つけるべき私たちが、父の愛の中に抱かれるためには、あらゆる苦難と厳しい傷を乗り越えなければなりません。今や私たちは家庭や社会、国家、世界が反対してもそれを乗り越えて、ただ神の意志だけを掴んで進み出たイエスの立場に立ち、歴史的な死の種族に向かって突進する天の精兵となるべきです。
 天は私たちをどのようにして探し求めてきたのでしょうか。天の御座にいる霊なる神は、天地創造から4千年を待ち、イエスを立てて人間を探し求めようとされました。また、イエスの後、私たちの心を代わりにする霊的な世界でさらに2千年を労苦し、今日まで6千年の労苦の足跡を通して私たちを探し求めてこられたのです。ところで皆さんは「父よ、申し訳ありません。父よ、面目ありません。父よ、どうすればよいのでしょうか」と言いながら、自分を探し求めて労苦してこられた父の悲しみを晴らしてあげようとする子供の孝心を持っていますか?これが天が望んでいることであることを皆さんは知っておかなければなりません。
 そのような心を持つ子供たちになれば、イエス様が33年間、憐れみの心を持ち、愛の心を持ち、父の心を掴んで苦難の中で復活の歴史を起こされたように、皆さんもそのような心を持ち、死の権力を踏み越えて復活の歴史を起こさなければなりません。そのような皆さんになれなければ、皆さんは死の権力を踏み越えて復活した栄光の姿で生きることはできません。
 皆さんは今や神を心と体で確実に知るべきです。皆さんが神を頭で知る時は過ぎました。神を頭で知るのではなく心で知るべきです。今は心で知るだけではなく、体でも知るべき時なのです。したがって、観念的な信仰の時代は過ぎ去りました。心で信じながら体でも感じ取る時が来たのです。
 なぜなら、終末は永遠不変の信仰の実体を探し求める時であり、永遠の愛の化身を立てようとする時だからです。そのような実体が現れるならば、私の体から不信という言葉はなくなるのです。
 したがって、今や皆さんは父の心情を心配することができる子供の姿となり、父を迎えるべきです。そうでなければ、皆さんは哀れな人となるでしょう。神が存在することを知らないならばともかく、知っているならば、私たちを探し求めて労苦してこられた神は、私たちが心の主人公としてだけ迎える方ではないことを知るべきです。
 神は私と永遠に一体となり、食べるときも共に食べ、生きるときも共に生きる、すなわち永遠に共に苦楽を共にする実体的な主人公です。永遠に変わることのない愛の本体であり、永遠の希望の化身です。このような神の前でイエス様はどんな言い訳もせず、自分自身を忘れて父を代わりにする意志ならばどんな行動も取ることができる方でした。皆さんはこのようなイエス様の足跡を引き継ぐ子供たちとならなければなりません。
 イエスは30年以上の生涯を経て福音の言葉を私たちに与えてくださいました。弟子たちを連れて行き、飢えた人々に出会ったときには、その場で五つのパンと二匹の魚で5千人余りの群衆を養う奇跡も行いました。与えるべきものをすべて与えました。信仰も紹介し、命も紹介し、愛も紹介し、人間が求めるすべてを紹介してくれました。
 皆さんはイエスの言葉をイエスの実体のように受け入れたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の神の信仰の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の命の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の愛の実体であることを感じたことがありますか?皆さんがイエスの言葉を聞いてもこのようなことを感じられないならば、イエスは悲しむことでしょう。
 イエス様が30年以上の生涯を歩んだとき、村から村へと追われて、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とおっしゃいました。このような孤独な心情を抱き、苦しんでおられたイエス様の言葉が4千年の天倫の結実を代表する言葉であったことを、その時の人々は知りませんでした。
 再創造の命の実体であり、永遠の神が望まれた命の実体として、4千年間人類が望んでいたその意志を成し遂げるイエス様であることを、イスラエル民族は知りませんでした。イエス様が神の信仰と愛と命を持って来られたことを知らなかったのです。
 それでは、イエス様を知らなかったために乗り越えられなかったこの山を誰が晴らして越えるのでしょうか。今日、皆さんがたとえ追い詰められ、頼るところのない哀れな群れであっても、イエス様の意志を継ぐ引き継ぎ手となることを望みます。今、イエス様が歩んだ歴史の道を私が再び歩むという心で、嘆く心情を持って民族の前に現れる時が来ました。世界の前に現れる時が来ました。
 そのような心情を持って民族と世界の前に現れることで、イスラエルが裏切った歴史を食い止めることができ、ユダヤ教が裏切った歴史を食い止めることができ、イエスの血統的な種族が阻んだすべてのものを食い止めることができ、使徒や弟子たちが裏切ったことを食い止めることができるのです。つまり、そのすべてを私の実体で解決できる一つの姿とならなければならないのです。
 2千年前、イエス様がベツサイダ近くの野原で多くの群衆にパンを分け与えました。しかし、パンを食べた群衆はなぜ皆滅びたのでしょうか。言葉を聞いたその民族がなぜイエスを裏切ったのでしょうか。3年間苦労を共にしながら従った弟子たちがなぜイエスを裏切ったのでしょうか。それは、言葉がその日その日のための言葉だと思い、与えられたパンがその日の一時の空腹を満たすためだけのものだと思ったからです。イエス様が与えた言葉が自分を通して世界の終わりまで伝えるべき言葉であることを知りませんでした。イエスが分け与えるパンが自分を通して世界人類の前に分け与えるべきパンであることを知らなかったのです。
 イエス様が与えた言葉とパンは、自分の実体であり、自分の心、体、隣人、民族、国家、世界の全人類にまで伝えなければならないものでした。しかし、この意志を知らなかったために皆滅びました。しかし、今や皆さんが主の前に立つとき、「おお、私の愛する子よ!この言葉を与えるから、この言葉を大切にして神の愛する子となりなさい」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。また、「おお、愛する息子娘たちよ!お前が生きている間に父が臨在できる実体的な聖殿となってくれ」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。したがって、皆さんは父だけが私の命の本体であり、父だけが私の愛の本体であると感じなければなりません。
 私には友人も家族も誰も共にする人がいないと落胆しないでください。しかし、父の言葉が共にあり、父の命の実体として父の愛の心情に染まり、天倫の意志に従って生きる人となったならば、落胆しないでください。今日、私たちは追い詰められ、多くの苦難に遭遇しても耐えなければならないのです。私たちが苦しみに耐えるのは、民族のためであり、世界のためになるからです。
 今、天と地の嘆きを感じ、骨に染みる苦難を乗り越えて祈る人がいるならば、その人はイエスの友となり、民族の友となり、世界の友となるでしょう。こうして結局、その人は世界の主人公となるのです。
 今や私たちは自分が神の中にいるか外にいるかが問題です。神は私たちの心情を通してあなたの願いを果たそうとしています。したがって、私たちが生きること、私たちがとどまること、私たちが理不尽な目に遭うこと、すべてが父のためになるべきです。私たちに愛が絶たれ、物質がなくても、友人がいなくても、父のための縁があるならば何の心配もないでしょう。地上の愛よりも、地上の命よりも、地上の人よりも、父の信仰が、父の命が、父の愛が、父の願いが私に共にあるならば、何の悩みもありません。父のすべてが私と共にあるとき、私はこの地上の多くの生命を代わることができる実体の子供となるのです。
 神との一体感を感じなければならない
 皆さんは誰よりも民族のために涙を流しています。皆さんは後ろを振り返りながら涙を流さなければならない生涯を歩んでいます。しかし、今や皆さんは父の希望と信仰の実体、永遠の父の愛の実体として立つべき父の意志を知ったので、その使命を果たさなければなりません。
 この民族は信頼できる友を持っていません。また、自分の命が安住できる真実の家族も持っていません。では、皆さんはこの民族の前に何を残さなければならないのでしょうか。信頼できない民族の前に信仰を残し、命が安住できる家族のない民族の前に命の家族を残し、頼るところのない哀れなこの民族の前に愛を残さなければなりません。
 皆さんがそのような心情を持つとき、ゲッセマネの園のイエス様の立場が今日の私の立場であることを感じるでしょう。つまり、彼の立場が今日の私たちの立場であり、天倫の意志のために歴史を経てきた私たちの祖先たちの立場であることを感じなければなりません。だからこそ、皆さんは今や歴史的な拒絶を受けてもそれを克服する人となるべきです。皆さんはどんなサタンと戦っても百パーセント勝利する人となるべきです。
 どんな死の権力でも乗り越え、その死の世界を越えてカナンの福地へ向かい、父と共に6千年間苦労されたその悲しみを共に分かち合えるようにしなければなりません。アダムとエバの過ちを清算し、天の心を持った姿で父に代わって栄光を受けることができる皆さんでなければなりません。天は険しい茨の道も厭わず、悲しみの道を歩んできました。皆さんが追い詰められるとき、心配される父を見つめながら耐えなければならず、父の元に戻ることができる一日を与えられたことに感謝しなければなりません。
 私たちが頭で信じる時代は過ぎ去りました。今や皆さんは心と体で信じることのできる信仰の化身となるべきです。命であるイエス様を頭で知る時代は過ぎ去りました。心で知り、体で知る時が来たのです。イエス様の実体が神の信仰と命と愛を代わりにしていたことを、皆さんは心と体で知るべきです。
 したがって、皆さんが「左」と言えば、天倫の歴史を代わりにする神の摂理の歴史が「左」となり、皆さんが「右」と言えば、神の命が「右」となり、皆さんが「まっすぐ」と言えば、神が「まっすぐ」となる人間でなければなりません。まさにこのような人を失い、家庭を失ったことが、エデンの園で人間を創造した神の嘆きでした。
 皆さんは自分の悲しみを抱えて涙を流さないでください。いつかその涙を父が拭ってくださることを感じるでしょう。自分が不当に扱われたと不平を言わないでください。その不当な扱いも父はご存じでしょう。
 私が父を離れたと思っていたのに、実際には父の前に立っていることを知り、父の愛を知らないと思っていたのに、私の体が既に父の愛に包まれていることを知るとき、父は私の父であることを感じるのです。私が知ろうとしている父は観念にとらわれた信仰の神ではなく、実際に体感できる、つまり私の生活圏内で体感できる親しい父なのです。
 イエス様が「父よ、できることならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望みどおりではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られたように、深刻な立場で父と私が一つになった一体感を皆さんは感じなければなりません。
 そうなると、希望の信仰、希望の命、希望の愛が私に宿るのです。
 そして私が動けば万物が動き、私が動けば、すべての人が私の後に続くのです。皆さんがその境地に達するとき、すべての万物が皆さんを前にして喜ぶのを感じるでしょう。また、その境地に達すると、他の人が聞くことのできないことを聞き、他の人が見ることのできないことを見、他の人が知ることのできないことを知り、他の人が体感できないことを体で体感することができるのです。
 このような人間が本来のエデンで父を迎えて生きるべき人間の姿でした。しかし、私たちはそのようなことを感じることのできない堕落した人間であることを皆さんは知るべきです。そこで、6千年の歴史を代わりにして24億の人類を代わりにし、天の世代を代わりにして、父の前に自分を立たせ、6千年間悲しみ続けてこられた切ない心情を抱きしめて、「父の切ないすべての心情を私たちが引き受けます。父の心配と悲しみと苦しみを私に任せてください。6千年間労苦してこられた父を慰めることができる子として孝行を尽くし、忠臣となります」と誓わなければなりません。しかし、皆さんにこのように切なく父を呼び、切実に訴えたことがありますか?ないならば皆さんは悔い改めるべきです。
 今日の私たちの信仰生活をもう一度振り返ってみると、神は私一人を探し求められましたが、私一人として私を探されたわけではありません。これを皆さんは感じるべきです。神が私を愛するのは私一人を愛するためではなく、天と地全体を愛するためです。私を呼び出すのも私一人を良くするためではなく、天と地のためなのです。私を信じようとするのも私一人のためではありません。私を愛し、私を命の実体として立てようとするのも、私一人のためではなく、全宇宙のためなのです。したがって、皆さんの体と心は永遠に皆さんのものでないことを知るべきです。
 皆さんが天の恩恵を受け、意志の前に感謝したことがありますか?皆さんは喜ぶ前にまず涙を流すことを知るべきです。私が喜ぶときに、この地のすべての人々はどうなのか?私は高まっているが、天の栄光は現れていないので、この天の栄光をすべての人々の前にどう示すのか?これを考えるべきです。自分だけが楽しんで喜ぶのではなく、自分を媒介とする神の宇宙的な摂理が残っていることを皆さんは知るべきです。
 神は私たちに接する際、宇宙を創造されたご自身の威信を忘れます。神は創造主であり、天と地の主人公として摂理を導いておられます。天は今日、サタンの支配下にある皆さんを天と地の信仰と命と愛を持って接しておられます。これを皆さんは忘れてはなりません。
 神の願いを知り、神の信仰を成し遂げ、神の命と愛の意志を成し遂げる人となるべきです。そして、永遠の愛と永遠の命の炎が皆さんによって燃え上がるようにしなければなりません。これを生活の中で時間ごとに感じることができる皆さんとなり、父を迎えて苦難の道を切り開く使命が堕落した後代の人間の前にあることを悟る皆さんであるべきです。
 したがって、皆さんはすべての戦いを戦い抜き、敵を打ち倒し、打ち倒した後に父に勝利の礼拝を捧げるべきであり、皆さんの体が父の安息の住みかとなり、皆さんの心が父の安息の住みかとならなければなりません。
 こうして創造当初の父に悲しみを与えたことを振り返り、「私を通して堕落しなかったアダムの永遠の姿を見て楽しんでください。父よ!アダムの堕落によって失われた意志を私を通して見つけてください」と言える心を持つべきです。そのような皆さんになってこそ、「おお、父よ!どうぞお越しください」と言える父の子供となることができるのです。


<祈祷>
 愛するお父様、あなたは義の先知先烈たちを送り、私たちを探し求めてくださいました。また、イエスを送り、私たちの心の基盤を整えてくださいました。今や私たちの体であなたの意志を実体的に成し遂げる意志が残されていることを知っています。私一人の存在は家庭を通してあなたの意志を成し遂げ、さらに万物をもあなたの前に立てなければなりません。お父様、共にいてください。
 私たちに留まる天国だけを建設するのがお父様の意志ではなく、万物の領域にまであなたが臨在できる実体的な天国を建設する責任が私たちに残されていることを知りました。このような宇宙的な責任を果たすべき私たちが堕落した世界に残っていることをお父様がご覧になるとき、私たちの行路を心配し、嘆かれることでしょう。不足で弱い私たちを再び支えてくださり、永遠の命を持つことができるよう導いてください。
 お父様が導いてくださるならば、私たちは失望しません。私たちはためらいません。だからこそ、お父様の命と栄光を所有するために敵サタンを打ち破り、お父様が動かされることができる個体となり、お父様が動かされることができる教会と国、世界と天国を建設できる天の勇士たちとなるよう導いてください。愛するお父様、切に願います。
 今や私たちの心でお父様の心情を感じ、私たちの体でお父様の命を感じて、万物の領域にまでお父様の前に立てる子供たちとなるよう導いてください。今日の多くの人類の前にも、あなたの喜びの知らせが届くようにしてください。
すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集4(3)

2024年06月08日 14時39分06秒 | 日記
文鮮明先生 御言葉選集 4 - 3. 神様の悲しみを体感する者になろう (1958年3月2日)
1958年3月2日(日)、前本部教会。
聖書拝読:ローマ書 8:12-27


<祈祷>
 お父様! この時間、私たちの心を探ることを許し、私たちの身体を数えることを許し、心と身体が父の心情に近づく息子娘になるように導いてください。
 天上のすべての聖徒たちは摂理の意を受けて出て行く中で、堕落の子孫であることを思い、お父様の前に頭を上げることができず、心苦しく思っていることを私たちは知っています。地上にいる私たちも、お父様の前に頭を下げ、お父様の心を持つために努力しなければなりませんので、私たちの心に図々しさがないように許し、私たちの行動が父に不忠でないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様の前に誇ることが何もないことを知らない者は死の手に握られている者であることを悟らせてください。お父様の前に近づけば近づくほど、頭を下げずにはいられず、自らの罪を告白せずにはいられないことを感じます。これが天国に向かう私たちの姿ですが、お父様の意の前で自分の身の置き場を知らず、不忠な息子娘にならないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 自らが罪人であることを認め、お父様の憐れみと愛の手を待ち、頭を下げてお父様の心情を恋しく思う切なる心を持たせてください、そして私たちにもし暗い罪悪の根が残っているならば、お父様! それを取り除いてくださいと切に願い求めます。
 この時間、集まった人は多くとも、一つの心になるように許し、身体は多くとも、皆が一つになるように許してください。そしてこの時間、お父様の命令によって新しい道を切り開くことができるように導いてください。新しい権能を受け、新しい行動を起こすことができる天の源泉的な力を持たせてください、愛する父よ、切に願い求めます。
 今この時間、天が守ってくださり、サタンが一切入り込まないように許してください。私たちが持っているどんな理論や知識・主義・主張・観念があるならば、お父様、この時間それらをすべて忘れて、ただお父様を慕う純真な心を持たせてください。そして私たちの心身にあるすべてを祭壇の前に静かに捧げることができるように許してください。そうして私たちを新しい御言葉で再び形作ってくださることを切に願い、父の愛の懐に抱かれる直接的な再創造の働きがここに現れることを切に願います。
 お父様、今御言葉を伝えたいと願います。伝える者の心も、受け取る者の心も一つでありますように許してください。伝える者と受け取る者の心に隔たりが大きければ大きいほど、サタンが狙う機会が多いことを知っていますので、お父様、この時間、お父様の切なる心情を体感させてください。
 そうして父の心配を解き放ち、お父様に喜びと栄光を返すことができる真の息子娘にさせてください。お父様、切に願います。
 集まったすべての者にお父様の憐れみの手が加わりますよう、切にお願いしながら、すべての言葉を主の名において祈ります。アーメン。


<御言葉>
 今日、この時間は皆さんに「神の悲しみを体感する者になろう」という題で少しお話ししたいと思います。
 今、この地上でどれほどの栄光を享受し、幸福に暮らしている人でも、その自分を深く見つめると、悲しみがない人はいないことを皆さんはよく知っています。このような状況は個人にとどまらず、家庭においても同様です。さらに、理念を立てて社会や国家・世界・天地を創造し、その意を成し遂げる日を待ちながら摂理している神自身にまで悲しみがあることを私たちは知らなければなりません。
 皆さんは、自分の心に悲しみがあるならば、その悲しみは個体に限定されたものではなく、自分の環境を超えて全体の環境にまで影響を及ぼすことを感じるべきです。
 今日の私は非常に微小な存在ですが、私が感じているこの悲しみは私に限定されたものではなく、民族を超え、世界と天倫と天性を超え、創造主である神自身にまでつながっているというこの巨大な事実を皆さん自身が感じなければならない時が来ました。自分が経験する悲しみは、民族や世界、さらには天と地を代表して経験する悲しみだという事実を知る人がいるならば、その人は悲しいというその事実だけを見ると非常に哀れな存在のようですが、天に近い人であることを私たちは感じなければならない時が来たのです。
 今まで私たちは個々の悲しみを自分だけの力で解決しようと苦労してきましたが、まだこれを解決できていません。今、天があり、その天と私との縁があり、また歴史を通して摂理する神の意があるならば、自分の個体にとどまるこの悲しみを歴史の過程を代替する悲しみとして、または歴史を摂理してきた神の悲しみとして捉えなければなりません。そのような人は悲しい人ですが、多くの友を持つ人であり、彼は孤独な個体ですが、歴史的な背景を持つ人であり、現実のすべての環境を代表する人であり、未来の天倫の意を代表できる人です。このような自分の立場を見つける時が来たことを私たちは知るべきです。
 では、皆さんの心の深くに悲しみがあるなら、その悲しみはどこか一箇所にとどまるものなのでしょうか?皆さんの悲しみが刺激され、地が悲しみ、民族が悲しむことができるべきです。さらには全世界が悲しみ、神が共に悲しむその一日が来なければなりません。しかし、皆さん個々の悲しみは、皆さんのための悲しみにとどまり、さらには人類全体に対する妨げとなり、世界と天倫に対する妨げとなっています。皆さんは、同じ立場や同じ環境で天と地に対して反応できるような悲しみをこの地上に示すことができていません。そのため、人間よりも大きな悲しみを 抱えた神の心情が、世界から国家・民族・家庭を経て私たち個体にまで及び、体感される道が閉ざされてしまったのです。
 では、私たちにとって最大の悲しみとは何でしょうか?それは、私が悲しむときに天が一緒に悲しんでくれない状況や、私が悲しむときに家庭全体が悲しまず、地上の全人類が一緒に悲しんでくれない状況にあることが、何よりも大きな悲しみであると今日の私たちは感じなければなりません。
 では、私が悲しむときに、天と地の全人類が悲しむその悲しみをどうすれば感じることができるのでしょうか?自分一人を中心にして悲しんでいては、そのような悲しみの状況に至ることはできません。私たちが悲しむというならば、自分を離れて家庭のために悲しむことを知り、家庭の範囲を超えて民族と世界、さらには天のために悲しむ心を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみが世界から国家を経て家庭を経て私に戻ってくるのです。
 神はこれまで復帰摂理を進めてきましたが、まず人間に何を信じさせたのでしょうか?すなわち、再創造の歴史を始める前に、まず私たちに何を体感させたのでしょうか?それは喜びではありません。まずは自分自身に対して悲しむ心を湧き上がらせました。その後に、自分の家庭・社会・民族・国家・世界、さらには天倫のために悲しむ心を湧き上がらせました。そうすることで、人間が神の前に立つことができる道が開かれるのです。これが原則です。
 したがって、キリスト教の真理は悲しみの涙を流しながら進むようになっており、悔い改めの過程を経て進むようになっているのです。では、人間が堕落したことで神の心中に積もったこの悲しみの曲折は、いつ解消されるのでしょうか?これが全人類と全宇宙、そして天倫が解決しなければならない宿命の課題として残っています。したがって、神に積もっているこの悲しみの根を取り除く前に、人間自身の根本的な悲しみの解決策は見つからないのです。
 神は全被造物を創造し、今まで6千年の摂理歴史を経営してきましたが、その悲しみを解消し、全被造世界の前に栄光の本体として現れる喜びの一日を持ったことがありません。このような天の悲しい事情があることを皆さんは感じなければなりません。
 私たちは心では神の心情を感じようとしますが、周囲の悪の要素や社会環境、あるいは生活環境が身体に心とは逆の道を取らせるため、心と身体が対立する立場に置かれることが多いです。
 そして、私たち自身を見たとき、悲しみの側面も二つあることを体感するでしょう。善を慕い悲しむことと、自分自身の欲望のために悲しむことです。つまり、心の欲望のために悲しむ悲しみと、身体の欲望を満たすための悲しみがあるのです。
 どうせ悲しみを感じなければならない堕落した人間なら、私たちはどのような悲しみを感じてこの堕落の権力から脱出すべきなのでしょうか?私たちは神の心情にまで達することのできる悲しみを感じなければなりません。そうでなければ、このすべての悲しみの権力から逃れることはできません。
 しかし、この地上に生きる人間は、自ら神の側に立ち、神の事情を通じて神と共に悲しむ環境を整えることはできません。そこで神は、神の悲しみを代わりに担うイエス様を人間の中に送り、人間がその方を信じるようにされたのです。
 人間がサタンの世界の悲しみと関わりを持たないようにし、彼らを悲しみを感じる神の相対的な位置にまで引き上げるために来られた方が、まさに皆さんが信じているイエス様なのです。
 では、今日私たちが信じているイエス様は、この地上に何を持って来られたのでしょうか?愛を持って来られました。しかし、イエス様はその愛を成し遂げるために悲しみの峠を越えなければなりませんでした。しかし、この悲しみの峠を越えることができない状態で、イエス様は30余年の生涯を終えられました。イエス様は他人が知らない心情を抱え、民族のために涙を流し、ユダヤ教と天のために心配し涙を流されたのです。
 したがって、堕落した人間がイエスの心情を知ろうとしても、そのままでは知ることはできません。4千年という長い歴史の中に宿っているすべての罪悪の要素を払いのけ、イエスの心情と意志とその使命をすべて自分が引き受けたという立場に立ち、イエス様を主としてお迎えするときに初めて、イエスの悲しみを感じる立場に立つことができるのです。したがって、そのまま信じていたユダヤ教の信者や、単に選民の権利を誇っていたイスラエル民族は、イエスの悲しみとは何の関係もない立場に置かれていたのです。
 イエス様がこの地上に来られて悲しまれたのは、神の代わりに悲しまれたのであり、祈られたのはご自身のためではなく、神の側に立てる理念のために祈られたのです。イエス様はただ神の嘆きの心情を解き放ち、神の愛の園を成し遂げる心情を持って祈られましたが、その当時の人々の中にはその祈りの声を理解する者はいませんでした。そして、イエス様が語られた福音(新約)の中心を誰も理解しなかったのです。
 そこでイエス様は、ご自身が抱いていた悲しみを人間に移すことによって、人間がイエスの悲しみを抱き、神の代わりに悲しむことができる環境を作らなければならなかったのですが、この全体的な意図が人間に移されなかったため、イエス様は天上に行かれても悲しんでおられるのです。したがって、イエス様が来られた目的が成就されなかったことで、神の悲しみは今もなお摂理歴史の道程に残っていることを私たちは知らなければなりません。
 今、皆さんは神の悲しい心情を体感し、イエス・キリストの悲しい心情を体感しなければなりません。そうして体感した悲しい心情を持って天を憂うことができる真の人間にならなければなりません。しかし、皆さんは自分自身を中心に悲しむ悲しみを持っているものの、天の縁を代わり、私たちが復活し、復帰の道を切り開くことのできる悲しみはまだ持っていません。
 したがって、皆さんが世俗的な自分のすべての悲しみを放棄し、天の悲しみと神の悲しみを感じて涙を流す時間を持つならば、そこから新しい希望の出発があるでしょう。
 神の悲しみを抱きしめ、人知れず涙を流し、万民の代わりにその悲しみを解放できる一人の真の人間がいるなら、その人がいるところを中心に地の運命が動くことを皆さんは知っておくべきです。
 今、神の代わりに悲しむことができない民族は滅びます。天の代わりに悲しむことができない教会・家庭・社会・国家は滅びるのです。この国も、上から下まで一致し、為政者から一般民衆に至るまで天倫の祭壇を抱きしめて涙を流し悲しむ民族であったならば、今日のようにはならなかったでしょう。今こそ、私たちが新たに覚醒する時が来たのです。
 キリスト教は涙の宗教です。したがって、真に神の心情を体感するとき、涙なしでは民族や国家、そして世界や天を見つめることができなくなるでしょう。そのような立場に立つべき人間なのに、感動の涙を流さず、天に対して図々しく、天倫に対して軽率な行動を取っています。
 世の中の真の友人同士の情愛も涙を条件として結ばれるのですから、堕落した人間が天倫の心情を体感する場において、どうして涙がないことがあるでしょうか?したがって、イエスを信じて罪人である自分自身を悟るときには、無限の涙を流すひとときがなければなりません。そこでは自分の身の置き場がわからず、無数の罰を受けるべきだと感じるでしょう。そして天の前に頭を上げることができず、座っていても自分の位置を見つけることができないほどの心苦しさを感じるのです。したがって、皆さんは真に嘆きながら涙を流す人にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの個人的な道が閉ざされるのです。そして、天の意図を抱いて憂う家庭にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの家庭の道も閉ざされるのです。
 この地上に生きる堕落した人間たちは、悲しい心が強ければ強いほど、互いに分裂していきます。自分を中心に悲しむと悪人の習性である分裂が生じ、善のために悲しむと分裂したものが結びつきます。つまり、分かれた心と身体が一つになり、天倫との統一の合一点が実現するのです。
 では、なぜ私たちは悲惨な運命の道を歩まなければならないのでしょうか?それは、人間が堕落し、神の愛を感じながら生きる理想の園を失ったために、神に無限の悲しみを抱かせてしまったからです。つまり、人間が神に胸が裂けるような悲しみを抱かせたため、そのような道を通らなければならない曲折が残ることになったのです。
 では、今日この時代はどのような時なのでしょうか?今日この時代は終末の時代であり、個人のために涙を流す時は過ぎ去り、家庭のために涙を流す時も過ぎ去りました。また、国のために涙を流す時も過ぎ去りました。今こそ世界のために涙を流す時が来たのです。したがって、今皆さんは世界のために涙を流さなければならないだけでなく、さらに天倫と霊界のために涙を流さなければならず、天のために涙を流すことができなければなりません。そして、神の喜びを自分の喜びとし、神の悲しみを自分の悲しみと感じなければなりません。そのような人になって 初めて、天地万物を創造された父の子として、全世界を主管する資格を持つ者として立つことができるのです。
 このような世界的な悲しみの峠を越えるために、これまで個人が犠牲となり、教会や社会が犠牲となってきました。しかし、今この時は世界のために私たちが犠牲になる過程を経なければならない時です。これからは世界的な犠牲の道を進むでしょう。その一日、まさにその時が、神の内的な悲しみを知らなかったことを一世代で清算するための、今日のキリスト教が言う終末の時なのです。
 これらのことを考えるとき、今日皆さんはどのような環境に置かれているのでしょうか?どのような立場にあるのでしょうか?私たちが信じているイエスも、個人を超えて天倫の心情を代行する生涯の道を歩まれました。これを考えると、今日私たちは、神が人間のために流された涙と同じだけの涙を神のために流していない、神の前に涙の負債を負った者たちであることが分かります。
 したがって、今日皆さんはただ座っていてはいけません。胸の中で自分でも知らず知らずのうちに悲しみが爆発し、この民族とこの国、そして世界と天地のために涙の祭壇を築かなければなりません。さらに、自分自身の悲しみをすべて忘れ、神の意を憂う心で祈らなければならないのです。
 皆さんはそのように「神よ!私を通してあなたの悲しみを解き放ってください」と祈りながら、神を慰め、イエス様を慰めなければならない立場にありますが、そのような祈りをしていませんでした。自分のためだけに祈っていたのです。したがって、皆さんはそのような立場を超えなければならない責任が残っていることを知らなければなりません。
 今や皆さんは自分のすべての悲しみを天に投げ捨て、自分のすべてを天に捧げて生きる人間にならなければなりません。そうすることで初めて、皆さんは神が皆さんのために涙を流され、世界のために涙を流される父であることを知ることができるのです。
 また、そのように自分を抱えて涙を流される父であることを皆さんが知って初めて、その父が皆さんの父となり、イエス様が皆さんの主となるのです。もしそのような立場で生きる人がいるなら、その人は神が私たちのためにどのような環境で涙を流しているかを知ることになるでしょう。
 本来、人間が堕落しなければ、罪の血統から生まれることはなく、食べるときも嘆く万物を食べることはありません。また、死ぬときも天地の悲しみを背負って死ぬことはないのです。しかし、人間が堕落したことで、そのすべての嘆きの条件を背負わなければならなくなり、またそれを人間自身が脱しなければならない立場に置かれることになったのです。イエス様は罪人の汚名を着せられて亡くなりましたが、人類を愛する心は変わりませんでした。このように地上で神を抱きしめて悲しむ人がいるなら、その人は個人的に悲しむのではなく、公的に悲しむ人であれば、神はその人を罪から救いたいと思われるのです。
 神はこれまでこの地上で罪にまみれた物を食べ、罪にまみれた物を着ている人間を見て悲しまざるを得ませんでした。神はこのように、皆さんがサタンの侵略を受ける環境に置かれていることを悲しんでおられるという事実を感じなければなりません。したがって、イスラエルの民がカナンの地で3年間万物を聖別したことがあり、聖書には心の割礼、身体の割礼について記されています。これは、神が非常に小さな万物一つでも完全にご自身のものとして取り戻すことのできる環境が、この地上にまだ実現していないことを意味するのです。
 神が自由に抱きしめ愛することができる息子娘がいないということです。愛することができるとしても、サタンを左右に置いて愛さざるを得ない父の切ない事情があることを皆さんは知っておかなければなりません。
 神の愛を受ける息子娘は、ふさわしくない食べ物を見ると無意識にそれを食べたくないと感じます。また、ふさわしくない服があるなら、その服も着たくないと感じます。ふさわしくない場所に住むことになっても同様です。これらは神が心を通じて働いているからです。このように神は人間のために背後で心配していますが、人間はそれに気づいていません。これが神の切ない事情なのです。
 私たちは神の心を体感できる人となり、ローマ書8章に比喩されているように、全ての被造物が嘆き悲しむ嘆きの領域を抜け出し、安心して与えられた物を食べ、喜ぶことができる息子娘となるべきです。
 皆さんがどのような物質を持っているとしても、その物質は世界的な悲しみを代償しなければならない物質であることを知っておかなければなりません。自分に属する物質だけでなく、堕落した人間が住んでいるこの世界のすべてがそのような立場に置かれています。つまり、皆さんにある物質は皆さんのものではないということです。皆さんの身体も皆さんのものではありません。生命と物質の根源はどこにあるのでしょうか?それは神です。したがって、皆さんに属するすべてのものは神を通した後にのみ自分のものとして認められるということを明確に知っておく必要があります。したがって、皆さんは心身ともに神の意志のために犠牲となって進んでいかなければなりません。
 これまで正義の道を進もうと奮闘した人々は、自分のすべてを捨てて、ただ全体を思いやる心で一生を過ごしました。つまり、彼らは自分に属するものが神と人類の前でどんな嘆きの条件になるかを知り、それを果敢に取り除いていったのです。このように不義と罪悪の要素を取り除くために努力する道が道義の道であることを今日皆さんは再認識しなければなりません。
 イエス様がこの地に来られましたが、彼を信じて仕える使徒はいませんでした。だから彼が持っていたのは神が認める一つの身体だけでした。当時のユダヤ教を中心としたイスラエルの民が最初にイエス様を信じて支えるべきだったのに、そうはなりませんでした。世界がイエス様の前に屈し、すべての被造物がイエス様の前に屈するべきだったのです。
 今日、皆さんは自分を中心に誇るべき何かを持っていますか?皆さんは歴史を代行し、あるいは時間を越えて何かを自分のものだと主張できる自信がありますか?そうではない弱者の人間です。今日私たちには自分のものだと言えるものは何もありません。今日この地も主を失った地であり、人も主を失った立場に置かれています。
 では、皆さんがこのような立場でどうすればいいのでしょうか?その悲しみの道を避けるために自分のための荷物をまとめてはいけません。もし皆さんが宇宙を支配したいと思うなら、そのような心を捨てて進むことを知らなければなりません。皆さんが生きたいと思うなら、生きた命を捧げなければなりません。勝利しようと思うなら、死を踏み越えて進まなければなりません。このような道を進むとき、人間であるがゆえに、自分でも知らないうちに心の中に染み込む悲しみを避けることはできません。しかし、人間はこの悲しみの峠を越えて全身全霊を神に捧げ、次にすべての被造物を求めて進まなければなりません。
 私たちは今持っている物質やすべてのものを神に捧げ、天の代わりにサタンと戦うことを知らなければなりません。そうして自分の心身が完全に神のものとして捧げられるとき、サタンは訴えることができなくなるのです。
 神は私たち個人を求めて来られますが、その個人を中心に家庭や社会、さらには世界まで求めようとされています。しかし、この道がまだ閉ざされています。天の摂理の道は私を求めて地まで降りて来ました。
 今、私を中心に再び天の方向へ進まなければならないのですが、その道が閉ざされているのです。さらに、善を追求する人々は今まで世俗的なすべてのものを断ち切り、否定しながら失われた本来のものを神の前に再び求めて立て直す道を探してきましたが、この道が限界に達していることを私たちは知るべきです。
 今まで私たちの悲しみは神を求めるための悲しみでしたが、すべての宗教の終末時代にはどんな悲しみが残っているでしょうか?それは、神を迎え入れて地の果てまで進むための悲しみが残っています。したがって、皆さんはこの悲しみを通して神の意志を成し遂げる覚悟と使命感を持って進まなければなりません。
 今皆さんが感じるべきことは、神の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体感しなければなりません。そして神が6千年という長い年月を悲しみの中で過ごし、皆さん一人ひとりを見つけるために努力してこられたという事実を実際に感じなければなりません。
 神は今もなお、人間のために、人間の子孫万代を憂いながら、永遠の天国がこの地上に建設されることを願って努力しています。それにもかかわらず、今日の人間はその事実を忘れています。
 歴史的な悲しみの中で摂理を進める神の心情を体感しながら生きる人は、どこにいても涙なしには神を見つめることができません。そのような立場で神の意志を知り、神の息子娘となるために戦うとき、その意志を共にする同志がいれば、神はその場に来て涙を流されるでしょう。
 では、神の悲しみはどこにあるのでしょうか?それは私たちの個人の中にあり、この国、この世界、そしてすべての被造物の中にあります。私たちはこれを清算し、神の喜びを取り戻す運動を展開しなければなりません。そのために、私たちの命の中心は神の悲しみを体感する自分自身であるべきです。
 その後、人間が知らない霊界の霊人たちを動員して証言させる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそれを求めています。霊界は神の心情を知っているため、この地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して天国の理念の実現のために地上の事に協力するのです。
 霊界の霊人たちがこの地上に来られない理由は何でしょうか?それは、この地が嘆きの囲いとなっているからです。もし自分自身がいる環境が嘆きの条件を抜け出すことができ、自分の身体を通しても嘆きの条件を抜け出し、またサタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息の領域に入ったならば、神は自分を助けてくださいます。つまり、神の悲しみを体感する心情にはサタンも侵入できないということです。父のために悲しみ、憂い、涙を流す人を掴むためには、サタンもそのような立場に立たなければならないのです。そうなると、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
 したがって、今日皆さんは数千年にわたって摂理してこられた神の悲しみを体感し、天と地のすべてを責任を持ち、「この身体を犠牲にしてサタンを爆破する爆弾としてください!そして神の悲しい心を解き放つことができるようにしてください」と言えるようになるべきです。このような心情を持って来られた方がイエス様でした。
 イエス様がゴルゴダの道を歩まれたことで、新しい生命の復活を引き起こす爆弾となり、再創造の歴史を起こしたのと同様に、皆さんもそのような歴史を起こさなければなりません。これまで摂理してこられた神の悲しい心情を体感し、この世界のために自分の心身を捧げる覚悟と心情を持つ人にならなければなりません。神はまさにこのような息子娘、一つの家庭、一つの国家、一つの世界を探しておられるのです。
 このような神の心情を皆さんが体感し、一日を過ごすならば、皆さんは神に対して無限に悲しむでしょう。もしそのような人がいるならば、神はその人をすぐに知るでしょう。したがって、皆さんはそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなかったなら、そのような人の前で頭を下げなければなりません。
 そのような人の前で頭を下げることができる真の息子娘になるべきです。その後に初めて天倫の創造の偉業を継承することができるのです。そのような息子娘がこの地上にいるでしょうか?皆さんがそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなければ、天の前に顔を上げることができない罪人になることを心に刻んでおかなければなりません。
 今日皆さんが聞く耳、見る目、話す口、感じる感情はすべて何のために存在するのでしょうか?それは天倫の意志を成し遂げるために存在するのです。しかし、それらが天倫の意志から外れてしまえば、いずれ必ず裁きの日が訪れるでしょう。皆さんはこの事実を知ったので、まず自分自身を裁き、次に周囲の環境を裁くことができなければなりません。つまり、皆さんにとって十字架の道とは、自分を裁くことであり、まず自分の命を裁き、次に自分の死までをも裁くことです。そして復活の日を経て初めて、天が認める真の息子娘となることができるのです。
 今や皆さんは自分の心を見つめなければなりません。家族が過ちを犯したなら、それを自分の過ちと受け止め、涙を流せるようでなければなりません。民族が過ちを犯したなら、それを引き受け、涙を流す人にならなければなりません。そのような人がいれば、たとえ民族が滅びてもその人は滅びることはないでしょう。世界のために涙を流し、天の心情を代表する人がいるならば、たとえ世界が滅びてもその人は決して滅びません。さらに、天のために涙を流す人がいるならば、その人は悲しい立場にあるとしても、神を支える立場にいるため祝福された存在であることを皆さんは確かに知っておかなければなりません。
 したがって、皆さんが神に対して涙を流す生活を送るとき、神の永遠の愛を感じ、神の代理者の使命を全うすることができるのです。さらに、そのような心情に満たされた人には祈りは必要ありません。「信仰」という言葉さえも必要ありません。そのような人は祈る前にすでに神の心情を感じ取っているのです。
 ですから、今や皆さんは天倫の悲しみを体感し、すべての被造物の嘆きを乗り越え、神の事情を直接的に通じることのできる真の人間となるべきです。そのような人がいれば、その人は外見上は滅びるように見えても、決して滅びません。軽んじられ、追われたとしても、その人には必ず後継者が現れるのです。
 今日、皆さんは他の道を歩んでいます。皆さん、誰をも恨んではいけません。むしろ、彼らのために流した涙を通じて償いの恩恵を受けるのです。今日、皆さんは他の誰よりも先に神の悲しみを体感し、涙を流す恩恵を受けています。しかし、天が皆さんのために先に涙を流されたことを知っておくべきです。また、すべての人々が家族であることを忘れてはなりません。
 この地上で手を取り合い、神の意志、天倫を憂いながら涙を流し、神の前で自分の身の置き場を知らずに頭を下げる一群の羊がいるならば、天もその前で頭を下げます。彼らは見えない犠牲者であるため、万人がその前で頭を下げるのです。昔、アブラハムが捧げた犠牲は小さなものでしたが、その犠牲の前にアブラハムが頭を下げたのと同様に、全天地が頭を下げました。
 したがって、今や皆さんの生涯の中でどの環境を代表して犠牲の立場に立つとき、常にどのような犠牲の条件を立てるかを考えなければなりません。その場で個人のための犠牲の条件を立てますか?それとも家庭的、社会的、国家的、世界的な条件を立てますか?皆さんが捧げた犠牲の条件に応じて天的な価値が決まるのです。
 では、困難な環境を切り開き、私たちの願いは何でしょうか?それは天の悲しい心情を体感する真の息子娘となり、父の前に敬拝すること、これ以外に望みはありません。
 皆さんは「父よ、私に天地に染み渡る悲しみを感じさせてください。そして万民を代表する犠牲とさせてください」と常に祈らなければなりません。そうして涙を流し、悲しまなければなりません。そして父の心情と事情を通じ、その悲しみを解き放つための戦いの旗印を掲げて進む統一の家族にならなければなりません。
 このようにして、皆さんの生活の中で天の悲しみを感じ、今日まで残されてきた宇宙的な悲しみを解き放ち、嘆きの条件に満ちたすべての被造物を復帰していかなければなりません。また、皆さんはそのような意志を成し遂げる開拓者として立ち上がったことを知り、今日この時から新しい人間になるべきだということを肝に銘じておくべきです。


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御言葉選集4(2)

2024年06月01日 15時24分30秒 | 学習
文鮮明先生御言選集 4 - 2. 天を迎える決心を失わない (1958年2月23日)

1958年2月23日(日)、前本部教会

聖書拝読:創世記 19:18-29 コリントの信徒への手紙一 9:23-27



<祈り>

 お父様が望まれる勝利の日がまだ現れていないことを私たちは知っています。最終の勝利のために、今日この時までお父様が血を流しながら戦いの道を歩んでこられたことを思うと、私たちは身の置き所がありません。
 私たちは真理で武装し、お父様の御心を支えなければならないことを知っており、お父様が望まれる善の意志を広げるためには、自分のすべてを捧げて戦わなければならないことを知っています。どうか私たちの心と体が動員されるよう許してください。そして、この地に広がっている信徒たちと天の天軍天使たちが動員されるよう許してください。そうして、お父様に栄光を捧げることができる日が早く訪れるよう許してください。お父様、切に願い求めます。
 この一日を求めるために、私たちの先祖たちは歴史の過程を経て、疲れ果て、苦しみながらも、主の時を切に待ち望んできました。しかし、私たち人間のためにいまだ成し遂げられていない悲しみが地と天に染みついていることを知っています。
 不足な私たち、取るに足らない私たち、無能力な私たちをお父様が呼んでくださり、希望されたその栄光の日を求めるために血を流す苦難があったことを私たちに悟らせてくださり、御心のために心と体をすべて捧げて戦う覚悟と決心を与えてくださったお父様の恩寵に感謝いたします。
 お父様、この時間、私たちの心を再び聖別し、私たちを供え物として受け入れてください。サタンの讒訴の条件を完全に分離し、お父様だけが取り、お父様だけが誇ることのできる息子娘となるよう許してください。切に願い求めます。
 今、望む御心に対して私たちが心と体で忠誠を尽くし、この時間、新たな恩寵を感じることができるよう許してください。そして、心と体に溢れ流れるお父様の栄光の恩寵を体験できるように導いてください。お父様、歴史を動かしてください。
 今、お父様の御言を伝えようとしていますので、共にいてくださり、伝える者の心も受け取る者の心も二つにならないように許してください。そして、天の心情と通じ合うこの一時間となるよう、切に願い求めます。
 今まで私たちが生活してきた内容と責任を果たせなかったことをお父様の前に差し出し、伏して許してください。矛盾した人間の矛盾した知識が、お父様の真理に代わることができないことを認めるならば、自分のすべてをお父様の前に差し出し、自らお父様の恩寵に浸ることを許してください。切に願い求めます。
 サタンが一切隙間に入らないこの時間となるようにしてください。そして、許された恩寵に接することができる貴い時間となるよう許してください。切に願い求め、主の名前でお祈りいたします。アーメン。


<御言>


 『天を迎える決心を失わない』という題でお話しします。
 今日集まっている皆さんの中には、心の中に何らかの決心を持っている方もいるでしょう。また、人前で自信を持って「私の決心は正しい」と主張できる人もいるかもしれません。
 しかし今、皆さんは自分の決心が誰のための決心であるかを考えなければなりません。つまり、皆さんが持っている決心が自分だけのための決心なのか、皆さんと民族、あるいは世界、さらには神様のための決心なのかを考えなければならないのです。
 何よりも、自分が抱く決心が天のためのものであるかどうかを考えるべき時期が皆さんの前に来ているという事実を忘れてはなりません。
 今日の人々が持っている決心は千差万別です。甲が持つ決心と乙が持つ決心は違い、男性が持つ決心と女性が持つ決心も異なります。また、この民族とあの民族が違うように、それぞれが異なる決心を持っています。
 それでは、各々が主張し、各々が持っている決心が最終的にどのような目的を達成するためのものなのか。自分を立てて冷静に問い直すと、自暴自棄にならざるを得ない立場にあることを認識するでしょう。
 終末に直面している今日の私たち、あるいは地上に生きる人類は、自分が持っている決心が民族を動かす決心なのか、世界を動かす決心なのか、さらには天上にいる千千万の聖徒たちを動かす決心なのか、さらには神様をも動かす決心なのかと問うとき、そうではないと告白するしかないでしょう。
 そのような私、そのような私たちに天の望みがあるならば、私たちが心の中に何を抱き、何を望み進んでいくべきかという問題を何よりも重要視することを望みます。
 これまでの歴史の過程で多くの人々がある主義を持ち、それを主張してきましたが、その主張が今日の私たちの心を動かす要素を持っていないとすれば、その主張、つまり歴史の過程で多くの聖賢たちが主張してきた主義は私たちとは何の関係もないものとなるのです。
 それでは、これまでの人類の歴史は何を立てるために発展してきたのでしょうか。それは人類の幸福のため、あるいは人類の永遠の理念を立てるために発展してきたと、天があることを知っているならば否定できません。天がある限り、人間に幸福の園がどのようなものであるかを紹介し、人間が永遠の喜びの園を建設するようにさせるべきです。その責任を果たすために今日まで歴史の過程を摂理してきた神であるならば、歴史の終末段階にいる私たちとは切っても切れない関係を持っているのです。
 したがって、天が動けば自分も動き、天が止まれば自分も止まるという基準を心の根底に持たない人は、歴史を蹂躙する者であり、神の希望を裏切る者となるのです。
 全宇宙の運行の法度は天倫の原則に従うようになっており、その運行の中に全体の目的を成し遂げるための摂理があるならば、神もその摂理の運行の法度を通らなければならず、人類もその運行の法度を通らなければなりません。それならば、今や私自身を民族の前に立てて考えてみなければなりません。
 この民族に対して運行される神の意志は何であり、この民族を覚醒させるための神の決心は何かを考えたことがありますか?もしないとすれば、皆さんは民族を天倫の前に導くことを阻む立場に立つことになります。
 そして今日、私たちの心に痛切なものがあるとすれば、この民族がどうしても進むべき道を進むために、一つの理念を中心に団結した心で闘えないことです。また、天倫に対して全世界の人類が団結した立場に立てていないことが天の悲しみであり、人類の悲しみであることを皆さんは悟らなければなりません。
 そして今日、皆さんは自分がどのような立場に立っているかを冷静に分析し、批判しなければなりません。天は皆さんに対して、民族の前で自信を持って立ち、天倫に対して自信を持って向き合える心の基盤があるかどうかを問いかけています。
 神が人間に対して最大の希望を持つとしたら、それは何でしょうか?まずは、この地上で創造の意志を成し遂げるという神の決心を人間が実現することです。神は天地万物を創造する前に決心され、その決心によって万物を創造されましたが、その決心はまだこの被造世界で実現されていないため、神は悲しみの歴史を歩んでこられたことを私たちは知っています。
 今、この事実を知っている私たちが、宇宙の隅々まで探し求めても見つけなければならないものがあります。それはまさに神の決心です。私たちはそれを見つけて実現しなければなりません。そして、神が抱いている悲しみと苦しみを解消しなければならないのです。
 したがって、今日私たちはこの意志を中心に一大革命の過程に立つ決心と主張、覚悟を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみを解消できるのです。
 神は私たちが知らない間に、御自身が決心された意志をこの地上の人間に知らせるために努力されてきた歴史の過程を歩んでこられました。それが今までの摂理の歴史であることを皆さんは知るべきです。
 神のこの決心を人間を代行する救世主が地上に現して、すべての悪の勢力と対抗し、彼らを撃退しなければなりません。そのような使命を遂行する代表的な人物がこの地上に現れなければ、神の意志は成就されないのです。そして、神の決心と人間の希望の基準がある一日につながらなければなりません。
 神が目指すその意志を人間に代わってこの地上で成し遂げるための中心存在として送られたのがイエス・キリストです。神は4000年間苦労され、あらゆる困難な環境で戦いの道を歩まれました。そのような道を歩まれた方が、私たちが救世主と信じているイエス様なのです。人間の祖先アダムとエバの堕落によって成し遂げられなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神がこの俗世の人間世界に第二のアダムとして立て、神の決心を全宇宙の前に示すために、イエス様をこの地上に送られたのです。
 そのために、イエス様は「私は神と一体である」と主張されました。神とイエス様は二つではなく一つだということです。ここに、神が喜ばれる条件が整えられたことを皆さんは知るべきです。また、イエス様は「神は私の父である。これを反対し妨げたとしても、私が感じ決心しているこの内容は誰にも奪うことはできない」とおっしゃるほどの自負心を持っておられました。つまり、イエスは命の損失を覚悟してこれを果敢に公表されたのです。
 神の決心を今日信じている多くの信者に示すことが、イエス様が2000年間苦労された目的でした。神はイエス様を送るために6000年間の長い年月を休むことなく努力してこられたことを、今日この地上にいる私たちは知らなければなりません。
 今、皆さんが天に向かって立ち上がったというならば、神の御心を代行して決心して立ち上がったキリストの姿を自分自身の姿として感じたことがあるかどうかを天は問いかけるでしょう。
 イエス様はこの地に来られ、30余年の間、言葉では言い尽くせない苦難の人生を送り、最後には十字架の道を行くという悲運の生涯を送りました。しかし、その中でも自身が持っていた中心だけは、何者にも決して壊されることのない確固たるものでした。そのためにイエス様は天に対する決心を、今日私たちの心の中にまで植え付けているのです。たとえ死が訪れようとも、従っていた弟子たちが裏切ろうとも、選ばれた民族が裏切り、教会が裏切ろうとも、イエス様は創世前から父が持っていた決心の内容を知っていたため、変わらない立場を守り続けたのです。 そのような決心の主人公が地上の人間の前に何を成し遂げるために来たのでしょうか?それは、自分が抱いている神の創世前の決心を愛する弟子たちに引き継ぐためでした。しかし、歴史の過程に現れた多くの聖徒の中で、イエスが持っていた決心を抱き、神の御心を成し遂げるために戦った人は何人いたでしょうか?これを考えるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名を頼って信じるという聖徒たちにあるのです。天に代わる確固たる決心のない聖徒たちを見て、神は悲しまれていることを私たちは悟らなければなりません。
 イエス様はこの地上で自分の決心を理解してくれる一人の相手を見つけることができなかったため、御心を完全に成し遂げることなく帰られました。この世にイエス様を代行し、神を代行する決心を持つ人がいたならば、神はその心情を通して直接的な権限を行使し、統一の炎を灯すことができたはずでした。しかし、そのような決心の所有者がいなかったため、神の御心は成し遂げられませんでした。
 そのため、イエス様には復活後にこの地に再び来られた目的を代行できる決心の主人公を地上に再び立てる責任が残されていました。そこで、自分の使命を引き継がせた一人を送りました。その方が誰かというと、人間の前に現れた聖霊であることを皆さんは知るべきです。
 それでは、天の決心とイエスの決心は誰によって実を結ぶのでしょうか?神は聖霊を通じて、ご自身の決心を人間の前に再び示します。これを意志の主人公に伝え、その主人公は花嫁に伝えることで、その基盤の上にその意志の主人公がこの地に現れ、一つの家庭として移し、家庭を中心とした親族、親族を中心とした民族、民族を中心とした国家、国家を中心とした世界にまで広げなければならないのが神の意志です。これを今日の人類は知らないのです。今日の信者たちでさえもこれを知らないのです。
 皆さんはイエスを信じ、聖霊に頼って神の前に行けると自信を持って言えますか?どんな苦難や犠牲があっても、またどんな誘惑があっても、それを打ち破り、押しのけることができる神の心情を代行する決心と、イエスと聖霊を代行できる決心を持っていますか?この質問に「私はイエスを代行する心情と決心を持っている」と自信を持って答えられないなら、イエスを裏切り、イエスを売ったイスラエル民族よりもさらに厳しい裁きを免れないでしょう。
 なぜなら、イエスの意志を支えられなかった民族がいたために聖霊を苦労させ、その聖霊の意志を支えられなかった第二のイスラエル型の今日のキリスト教信者たちは、多くの使徒たちを苦労させたからです。そして、使徒だけでなく、私たちの多くの先祖たちをも苦労させたのです。このように苦労をかけている今日の私たちが、イエスが持っていた心情と決心を持たなければ、神の前に顔向けできず、イエスと聖霊の前にも顔向けできません。それだけでなく、これまで多くの犠牲の祭壇を築いてきた聖徒たちの前にも顔向けできないのです。今後、責任を果たせなかった人々が自らを嘆く時が来ることを知らなければなりません。
 天は今日の終末において私たちに要求しています。イエスと聖霊も私たちに訴えています。父の実体となり、父の決心を持った者となってこれを蹂躙するサタンを打ち倒す勝利の主人公となることを、神はこの時間も切に望んでいることを、皆さんの骨と肉にしみるほどに体感しなければなりません。そして、「天が持つ決心を私に継承してください、血の祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」と言える資格を持たなければなりません。そうでなくして天国に行こうとすることは間違いであることを再認識しなければならない時が来ました。
 現在のキリスト教を覚醒させる責任は私たちにあります。神の決心とイエスと聖霊の決心と私が一つの実体となって現れるならば、歴史を支配する権限を行使できるようになるのです。
 先ほど読んだ聖書の言葉には、ソドムとゴモラに対する神の悲痛な心情が表れています。神がその都市を裁こうとされたとき、愛するアブラハムの甥であるロトがいました。神はロトに裁きを免れさせてくださいました。ロトが優れていたためにソドムとゴモラの裁きを逃れたのではありません。神はアブラハムを愛していたので、何の功績もない甥にまで裁きを免れることを許されたのです。しかし、ロトの家族全体が神の心情を理解していたかというと、そうではありませんでした。
 ロトとその二人の娘は神が逃れなさいと言った場所に逃れましたが、ロトの妻は神の意志が何かを理解していませんでした。彼女は天の意志に対する決心や意志に対する心配、天に対する恐れよりも、自分たちが住んでいた家やその環境を恋しがって振り返ったため、ソドムとゴモラよりも先に神の罰を受けざるを得なくなったのです。
 人間には必ず歩まなければならない道があります。それは、天倫の意志に従って、どんな困難にも立ち向かって歩まなければならない道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も自分に属するすべてを顧みずに進む決心を持っていなかったために死んでしまったのです。神の命令に従って進んだ夫を神の代理者として信じ、夫が言う通りにしていたならば、彼女は決して死ぬことはなかったでしょう。
 神が摂理の歴史を経てこられる過程においても、神は御自身の心情を代行する人を立て、その人を信じられないならば、その人の言葉を聞いてでも決心できるようにされています。しかし、それさえもできない人は裁きを免れることはできないでしょう。
 私たち自身を振り返ると、堕落した種族であるために経験する悲しみがあります。大きな神の意志に対して最善を尽くしたいという気持ちや、自分の心と体を捧げて新たな決心をし、行動に移したいという思いは密かに感じているものの、その決心を実行できない理由は、私たちが堕落の種族であるためです。
 アダムとエバは、彼らを創造してくださった神の「食べてはならない」という言葉を心の奥深くに抱き、その言葉と自分たちは切っても切れない一つの結合体であると考え、変わらない決心を持ってすべての万物を主観しなければならないという責任を実感していたならば、堕落しなかったでしょう。
 アダムとエバが堕落したのは、エバがアダムと一つになれなかったからであり、またアダムが神と一つになれなかったからです。そのため、各々は分裂し、自分勝手な環境で好き勝手に行動するようになり、創造の理想の園を台無しにしてしまったのです。終末においても、神を中心とした決心を立てずに自由主義を叫び続けると、自由陣営も崩壊してしまいます。天地の理がそうなっているのです。
 神に代わらなければならなかったアダムが、誰が意志を裏切るように誘惑したとしても、自分は絶対にその意志を裏切らないという決心を持ち、エバを主観し、天使を主観できていたならば、堕落することはなかったでしょう。まず堕落したエバがどんなにアダムを欺こうとしても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなければ、アダムは堕落しなかったでしょう。もしアダムが堕落しなかったならば、エバはいくらでも再創造することができたのです。
 神を裏切ったために天倫から遠ざかり、許された言葉と意志を自分の心の中心に据えることができなかったため、アダムはアダムのまま、エバはエバのまま、天使長は天使長のまま分かれてしまいました。このような種族となった私たちは、今日信じたことを明日には信じられず、この時代に信じたことを次の世代では信じられず、次の世代に信じられることは、その次の終末には信じられない環境に置かれています。
 それでは、神の心配とは何でしょうか?天の悲しみとは何でしょうか?「私が6000年間の厳しい逆境と苦難の過程を経て、苦労してようやくあなた一人を見つけて会えたのだから、安息できるだろう」とエデンの園で天使長に語りかけることができなかったその内容を、信じて安心できる場所で語りかけ、御心を打ち明けることができる一人の人がいないことが、神の悲しみであることを知るべきです。
 私たちは父を探し、信仰生活をしていますが、神が安息できる環境を提供できていません。このような立場にある私たちは、進むにつれて心の焦りを避けることができず、どれほど優れていると誇っていても、終末が近づくにつれて心の不安を免れることはできません。結果として、個人的にも社会的にも国家的にも、そして世界的にも困難な立場に置かれるのです。
 それでは、終末の時代に迫り来るこの恐怖と不安を打ち破ることができる人はどこにいるのでしょうか。人間に代わって断言せず、天倫に代わって断言できる決心の主人公はどこにいるのでしょうか。天はそのような人を探していることを知るべきです。
 神がアダムの家庭を失ったことで、アダムと通じることができる創造本来の家庭を失い、同時にアダムと通じることができる親族とアダムの血族を代行することができる民族と、アダムを中心とした国民と、アダムを中心とした天国の民をすべて失いました。しかし、神はこの失ったすべてを再び取り戻そうとしておられるのです。
 神はこの民族全体を探し、世界までも探すために、まず一個人から始めて家庭や社会を探し立てようとしておられます。それを基盤にして、民族型から世界型へと進み、この世界全体を取り戻すために神は摂理を進めておられます。
 神は一方では戦い、他方では犠牲を払いながら、歴史の過程を通じてこれを探し求めてこられました。その裏では、個人的な形態を備え、アダムに代わる家庭・親戚・民族・国家・世界をこの地上に建設しようとしておられます。
 したがって、アダムの家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身だけの悲しみではなく、アダムの血統を通じて千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活の中で痛感しているでしょう。この状態で安逸を求め、安楽を享受しようとする人々もいますが、この安逸と安楽な生活が続くことはないことを知っておくべきです。私たちは恐怖の関門を前にして、これを乗り越えなければならない立場にいることを認識すべきです。このような時期をいわゆる「審判の日」と呼ぶのです。
 神はこの恐怖を取り除くために選ばれた一人を立て、その人を中心とした民族を築き、その民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで苦しみながら摂理を行っておられることを知っておくべきです。
 これから天国を建設できる民族は大きな民族ではありません。今日、世界を支配している民族でもありません。天国の主権を回復し、第二の天国を建設するべき民族は大きな民族ではありません。神は何の前触れもなく、ひそかに天国を建設する作業を進めておられます。
 そのため、神の意志に背く人々は豊かに生活し、神の意志に従う人々は貧しく暮らすという逆の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで続いているのです。なぜなら、人間が神に対する心情を失ったため、再び神が信じることのできる立場に戻るためには、そのような過程を経なければならないからです。そうであれば、神が6000年の間に苦労されたその苦難が一度に私に降りかかってきたとしても、それを乗り越えられる自分でなければなりません。命を失うとしても、それに屈しない決心の主人公となり、天が代表として立てることができる一存在とならなければならないのです。
 神はそのような世界的な代表としてイエスを送り、そのような人を立てるために多くの先祖たちは苦難の道を歩みました。アダムが失った家庭を取り戻すために、アダムに代わって不信の心を持っていたその種族と民族を突き放し、天に対して信仰の決心を持った一人の人が選ばれました。その人がノアです。
 ノアは120年間、天が引き続けても変わらない決心を持っていました。これがアダムよりも優れているということです。アダムは未成年のときに堕落しました。アダムが神を裏切ったために、神が再び信じることができるようにするためには、アダム以上の苦労をしなければならず、何百倍の苦労をしても、それを突き抜けて進むことができなければなりません。
 アは自分自身、自分の家族、自分の親族、自分の民族、さらには自分と関わるいかなる世界のすべてが反対しても気にせず、一瞬の決心を最後まで守り続けて、父を支えながら120年の生涯期間を戦い抜いたことが、神に代わってその当時の人類の前に立つことができる条件となったのです。
 洪水の裁きを免れて神の恩恵のもとにあったノアにとって何よりも重要だったのは、神の心を持っていたそのノアの心を引き継ぐことができる人がいることでした。しかし、ノア自身もこの事実を知っていなかったのです。
 ノアが120年間苦労し、その悲しくも無念な道を歩みながら天倫を心配していたその心を代わって、ノアの手を取り「父よ、何でも私に命じてください」と言える一人の息子がいなかったのです。そのため、120年の苦労で築いた祭壇は崩れ去ってしまいました。
 神に対して誠心を尽くそうと決心したノアであることを、ノアの八人の家族が知っていたならば、生死を共にする覚悟で絶対服従し、父が死ぬなら自分も死に、父が喜ぶなら自分も喜ぶという立場に立たなければなりませんでした。そうであれば、他の些細な内的条件が崩れたとしても、神を中心に心情を結束すれば何の問題もなかったのです。ハムは父であるノアの言葉を聞くべきでした。兄弟が何を言おうと、父の意志に合わないならば聞くべきではありませんでした。彼が聞くべき言葉を聞かず、聞くべきではない言葉を聞いたために、ノアの120年の苦労は無駄になってしまったのです。
 アブラハムも同様でした。アブラハムが故郷と自分の所有物をすべて捨てて、カルデアのウルの荒れた荒野に向かって旅立つことも簡単なことではありませんでした。神の意志を知った後、アブラハムは誰にも知られずに決心を抱き、慣れ親しんだ故郷と親族をすべて捨ててカナンの地を目指しました。
 その後、アブラハムが故郷を捨てて神の意志だけを心配していたその心を最後まで捨てず、全力を尽くして祭壇を守っていたならば、失敗はなかったでしょう。供物を捧げながら、自分が大変な立場にあることを知り、持っている信仰のすべてと全ての力を注いで神と一体となる決心を持って進まなければなりませんでした。そして、自分は小さな供物であるが、自分の理念を立て、全体の天倫の意志を代行する立場で神に対して誠実な心で供物を捧げていたならば、失敗はなかったでしょう。
 供物で失敗したアブラハムが再び神の意志を引き継ぐためには、供物の代わりにイサクを捧げる必要がありました。つまり、アブラハムの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければならなかったのです。同様に、ノアの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければなりませんでした。そこで、アブラハムは自分の心と息子の心が一つに結実する立場を探し始めました。
 こうしてイサクをモリヤ山の祭壇に捧げようとし、刀で刺そうとする場面で、天から死に代わる供え物とすることが認められました。イサクも父に従い、アブラハムも神に従うことで、彼らは天倫の目指す方向へ進むことができました。その後、イサクを経てヤコブの時代に至り、ヤコブを中心にアダムの家庭とノアの家庭に代わる基準を見つけて確立することができました。こうして、三世代の親族形態を持つ70人がカナンの地を離れ、エジプトに入ることができたのです。
 つまり、息子を経て孫までの三世代の親族的形態を地上に築くことで、彼らはサタンの世界に送り込まれ、エジプトに入ることができたのです。しかし、このように個人から家庭、そして親族的な環境を整えた後でも、彼らは平坦な道を歩んだわけではありません。親族的な70門徒を代表する彼らは、さらに民族を形成するための民族的な戦いを展開し、神を中心とした民族を形成するための試練の舞台に立たされました。これがまさに宮中での400年間の苦役期間であることは皆さんもご存知でしょう。
 この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔の祖先たちが神を恨み、神の意志を裏切ったことを悔い、再び神を慕う心を取り戻さなければなりませんでした。その心が強ければ強いほど、イスラエルの民は過酷なエジプトの苦役に打ち勝ち、団結して60万人全員を率いてカナンの福地に入る道が容易に開けたのです。
 そのため、エジプトで苦難に直面しているイスラエル民族を導くために、モーセもまた、エジプトの宮中で40年間、誰にも知られることのない心の悩みを抱えながら、民族を愛する精神に燃えていました。しかし、エジプト人を打ち殺したことが、彼が荒野で孤独な羊飼いの生活を送るきっかけとなりました。そのような立場に置かれたモーセは、エジプトの宮中での豪華なすべての栄光を捨て、むしろミディアンの地での苦役生活が待ち受けていたとしても、変わらぬ心を抱き、自分自身を愛するよりも神の意志を心配する決心を持つようになりました。
 荒野の激しい風雨にさらされる悲しみを味わったとしても、それをすべて乗り越え、民族から追われることがあっても神を信じ続けたモーセの変わらぬ決心があったからこそ、民族が困難な状況に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っても、民族が団結することができたのです。そして、神はモーセを立てて摂理を進めることができたのです。
 ある民族を再び選ばれた国家として立てるためには、世界的な試練の前にその民族を追い込み、攻撃戦を展開させることが神の摂理の一つの方法です。したがって、神を中心とした一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族の前で反対されるのです。これは復帰の過程であるからです。
 アダムの家庭において、エバはアダムに従うべきだったのにアダムを打ち、ノアの家庭においてはノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族の60万人がモーセに従うべきだったのに、モーセをミディアンの荒野に追い出しました。このような歴史の過程を経てきたために、イエスが主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスの前で花嫁のような存在でしたが、むしろ彼らがイエスを反論しました。
 天倫の法則を知っているイエスは、イスラエル民族に追われ、ユダヤ教団からも追われました。自分の種族の前でも追われ、天に選ばれた洗礼者ヨハネ一派にも追われ、従っていた使徒たちからも追われました。天と地を差し出しても代えられない三人の弟子たちからも追われました。しかし、彼らを捕らえて天の前に引き寄せなければならなかったイエスの事情を誰が理解したでしょうか。アダムがイエスと同じ立場に置かれ、エバの様々な邪悪な策略や誘惑があったとしても、それを打ち破らなければならない立場にあったのと同様に、イエスも民族を取り戻すべき立場にありました。モーセがイスラエル民族の前で追われ、荒野で悲惨な生活を送ったのと同様に、イエスが民族の前で追われれば、世界の前でも追われる立場に置かれることを知っておかなければなりません。
 もしこのように「民族が裏切り、教団が裏切っても、私が持っている父に対する一途な心を誰が奪えるだろうか。私の決心の前には、天が立てた洗礼者ヨハネが裏切っても問題ではないし、私に従っている弟子が裏切っても問題ではない。さらに、自分の体が問題ではない」という決心があったために、悲しいことがあっても悲しむことはできず、悲しみの場にあっても悲しみの表情を見せることができなかった復帰の運命を背負ったイエスの心情を、今日の私たちは理解しなければなりません。
 天に対する一つの決心を持ち、供え物として全宇宙の前に立って人間が反論しても崩れず、霊界にいる千万の聖徒と今日の空中の権力を持つサタンが総動員されても奪い取ることができないこのような決心があったために、ここから歴史的な転換点が生じました。
 このようにして、霊と肉を合わせた実体的な勝利の基盤が世界的に広がる必要があるのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに授け、霊的なカナン復帰の理念を築き上げてきたことを皆さんは知っておくべきです。
 イエスは世界の人類のためにこの地に来られました。世界の人々はイエスの前では子供の立場、つまり相対的な立場にあります。エバがアダムを支配し、イスラエル民族がモーセを追放し、供え物がアブラハムを非難し、ノアの息子がノアを追い出したのと同様に、世界のキリスト教は行く先々で世界中で迫害される悲惨な道を免れることはできません。
 今日、世界中に散らばっている第二イスラエルの祝福がイスラエルを中心に成就しなかったため、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立てて、その恨みを晴らし、天と地を復帰させようとしているのです。神は宇宙復帰の意志を成し遂げるために、一つの中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を探していることを皆さんは知るべきです。
 なぜなら、6000年間の苦労の末、神の意志に従ってきたものの、イエスが死んだために、ノアもアブラハムもヤコブもモーセも失敗したことになるからです。イエスが亡くなったことにより、救済の摂理は完成しませんでした。そのため、今日パラダイスにいる霊人たちは、失われた第一イスラエルを回復しようとしたイエスの意志のための基盤を築き、さらに回復の意志を霊的に成し遂げた霊人たちなのです。本来、選ばれたイスラエル民族は第一イスラエルであるべきでしたが、第一イスラエルが崩壊したために、第二イスラエルは霊的復帰の過程にとどまっています。
 イエスを失ったことで生じた神の恨みは、今日の第二イスラエルに属する霊界の霊人たちによって晴らされるのです。神が選ばれた第一イスラエルをイエスが成し遂げることで、神に抱かれた恨みの心情を解消することができるのです。したがって、今や第二イスラエルと霊界の霊人たちを動員し、第二イスラエル回復運動を加速させる時が終末であることを知るべきです。
 それでは、今日世界中に散らばっているキリスト教徒たちはどのような時代に置かれているのでしょうか?彼らはモーセの荒野での40年の道のりに匹敵する時代に置かれています。モーセがシナイ山に上り、石版を受け取るために祈っていた期間に相当し、イエスが昇天した後の2000年の歴史過程は、モーセの40日間の断食期間および40年の荒野期間に匹敵します。また、モーセが消えたことを見てイスラエル民族が不安を感じていた状況に匹敵します。
 このキリスト教は再び現れるモーセを迎えて何をすべきでしょうか?荒野のイスラエル民族は旧約の言葉、モーセの十戒を受け入れるべきでしたが、受け入れられず、歓喜の心情を持つことができませんでした。モーセにとっては、民族がモーセの裏切り者になりましたが、私たちは天が望む道を見つけなければなりません。そうして第三イスラエルの立場を見つけ、勝利して世界カナン復帰の理念を成し遂げなければなりません。そのためには、新しい言葉を受け入れる覚悟を持たなければなりません。
 モーセの決心が60万人の民の決心となるべきです。今日、世界に散らばる第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族や世界の人々、クリスチャンたちは、イエスの決心を引き継ぐことができていないため、モーセの時代に荒野でサタンがイスラエルの60万人の民を翻弄したのと同じように、今この時代も同じような状況にあるのです。
 この状況を見てみると、今日、私たちの身体に血が巡り、心に何かを感じている皆さんは、全力を尽くして進まなければなりません。イスラエルの民がモーセに会う前には、食べることも、着ることも、眠ることも忘れるべきでしたが、それができなかったためにイスラエルはモーセを失い、すべての意志が崩れ去ったことを忘れてはなりません。
 同様に、イエス以降の2000年間は荒野の時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも、着ることも、苦しみも怒りも耐え忍び、歯を食いしばってイエスに会うまで、かつてのモーセの足跡を守り抜けなかったことを逆に償い、イエスの足跡を守り抜くイスラエルにならなければなりません。しかし、今日のキリスト教信者たちは、自分たちにこのような使命が課せられていることを知りません。
 今や時が近づいているので、この時を準備する過程において、選ばれた民族が異邦の国々に渡されることになります。皆さんが学んで知っているように、イスラエルの民がメシアの降臨準備時代に備えるために、イエスが来る6世紀前にバビロン捕囚時代があったのです。イエスの再臨の6世紀前から、文芸復興運動を中心にキリスト教を破壊する世界的な攻勢が始まっています。この戦いの道を今日の世界のキリスト教信者たちはどう対処すべきでしょうか?これを阻止する責任を全うするために、まず私たちが目覚める必要があります。
 14世紀から16世紀にかけて文芸復興運動が起こったのは、人々が古代ギリシャの文明を研究し、新たな復帰の理念を持とうとしたからです。このように革新的な文化が一面に現れたように、今日の終末を迎えた信徒たちも歴史を回顧し、2000年前のイエスの心情を感じ取ることができなければなりません。また、堕落前のアダムとエバ、そして神の心情を感じ取り、心を革新しなければならない時が来たのです。
 天の意志に向かおうとする直前のアダムとエバに天使長の攻撃があったように、ノアにも、モーセにも、イエスにも、意志が現れる終末の信徒たちにもこのような攻撃が現れます。これはサタンの攻撃です。まず物質的な攻撃があり、その次に情的な攻撃の時代が来るのです。このような時代の兆候が今日、私たちの前に展開しています。このようなキリスト教の歴史がどの国、どの民族を通じて進展するとき、その道は公式な原理原則として成り立つのです。
 世界がキリスト教を外面的に反発する時代になりました。この時代には、昔イスラエル民族に反対したエジプト民族のような形が現れ、第二イスラエル民族の前にモーセのような人物が現れると、民族が団結して彼を追い出す現象が起こるのです。
 では、終末時代の信仰者たちはどうなるのでしょうか?私たちの周囲ではエジプトの地で起こったようなことが起こるでしょう。今日私たちが生きている現実は、エジプトでの苦役時代を彷彿とさせる状態です。それだけでなく、思想的にも実際的にも、あるいは信仰的にも、あらゆる面で侵害を受けざるを得ない状態になりつつあります。
 かつて選ばれた選民の自尊心を持って、自分たちだけで結束し、外部からの悲しみを追い払うためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒にもこのような運動が必要です。教派に依存する者や自分の教会の伝統を誇る者は、イスカリオテのユダの一派になるでしょう。モーセの命に従ってカナンの地を偵察し帰ってきた12部族の中で、ヨシュアとカレブに反対した10部族が現れたように、今日同じようなことが起こらないとは誰が保証できるでしょうか。このような時が私たちの目の前に迫っていることを知るべきです。
 私たちは今、自分のすべてを忘れて進まなければなりません。また、ソドムとゴモラが受けたような裁きを逃れるためには、ロトの家族が歩んだ足跡を手本にしなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に戻るときにすべてを捨てて進んだように、私たちの足跡もヤコブのようでなければなりません。また、イスラエル民族がエジプトの地を去るときにすべての未練を振り払ったように、私たちもそうしなければならず、イエスがすべてを捨てて十字架の道を一人で越えたように、私たちもそのような決意を持って進まなければなりません。
 このような覚悟と決意をすべての万物万象の前に立てる資格を持つ者がいるでしょうか。天はそのような資格を持つ者を探していることを知るべきです。今日世界に広がる新教が旧教に迫害を受ける過程は、悲しいモーセの過程を繰り返すような現象です。
 今、この荒野のような世界を開拓する新しい使命者が現れる必要があります。今日のキリスト教に満足していてはなりません。イスラエル民族が荒野の生活でモーセを守ることができなかったように、新教の出現時にも同じことが起こりました。新教が出てきましたが、荒野の生活の中で認められなかったのはモーセの事情と同じでした。終末でもそのような形で神の意志が進展することを知るべきです。
 モーセとイエスは人間的に見ると哀れな人々です。モーセとイエスのことを考えるとき、皆さんは彼らの血と肉が通じ合うような感覚がありますか?もし皆さんの心にモーセとイエスが行き場を失い、困難の中を歩んでいたことを考えることさえないとすれば、モーセの40日間のシナイ山での断食祈祷の際に流した悲しみの涙を無駄にした天倫の裏切り者と同じであり、荒野で倒れたイスラエル民族と同じであることを知るべきです。
 イエスの悲しみの心情を私たちが感じ取り、第一イスラエルと第二イスラエルが成し遂げられなかったことを完成しなければなりません。このようなことを成し遂げるために来られたイエスの悲しみの心情と足跡を、皆さんは知っていますか?今日、神が私たちを立てて望んでおられることは何ですか?
 宇宙的な理念の目的を達成するために、「霊界の霊人たちよ!私はあなたたちの願いを叶える。地上にいる全ての人間たちよ!私はあなたたちの犠牲となる。空中の権威を持つサタンたちよ!私はあなたたちを捕らえて天の裁きの場に連れて行き、告発する。」という決意を持ち、時代が変わろうと、世界が変わろうと、人の主張が全て変わろうと、私は変わらないというイエスの節操と忠誠を、今日の皆さんが持たなければならないのです。このように時間を超え、生涯の理念を超えて天倫の理念に通じる心の覚悟と決意の基盤がなければ、神の前で無条件に服従しなければなりません。そうでなければ、審判を免れることはできません。
 シナイ山に登るモーセの前でイスラエル民族が無条件に服従していたならば、彼らは乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができたでしょう。また、イエスの時代にも同じであり、今日の終末でも同じです。皆さんの前には、生涯全体の価値を決定するべき時が訪れているのです。私たちが死んでからも神の目的だけを責任を持って果たす心で、神を代わって立ち上がることを、父なる神も、イエスと聖霊も、そして私たちの先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨身にしみて感じなければなりません。
 このような事実を前にして自分自身を振り返ると、私を中心とした自分の身体が敵であり、私を中心とした自分の家族が敵です。ノアにとっては家族が敵であり、ヤコブの家族にとっては氏族が敵であり、その次に国家形態においては世界が敵でした。神はこのような歴史の道を歩んできましたし、今でも数多くの困難を乗り越え、ある中心人物が倒れたら他の人を立てて再び挑戦しなければならない状況にあります。皆さんはこのような神の名誉と威信を立てられる人にならなければなりません。
 どんな個人の力だけでは神の目的を成し遂げることはできません。神は世界に分散して一つの民族形態を見つけ出す包囲作戦を進めています。それゆえ、個人から家族、そして氏族、民族を見つけ出し、神を中心とした国家形態を整える時が来たのです。
 したがって、今日の全世界のキリスト教が12部族を再建すべき時期が到来しています。荒野に散らばっていたイスラエルの民に隊列があったのと同様に、世界のキリスト教徒たちも隊列を編成し、サタンに対する攻撃を展開する時代が来ています。このことを知らないキリスト教徒たちは、荒野のイスラエル民族がモーセの導く方向を知らなかったのと同じ立場にあることを理解すべきです。
 今や私たちは手を取り合って進む共同運命にあります。12使徒の中でイエスを裏切ったイスカリオテのユダ一人のために、12使徒は崩壊し、イエスを殺すという運命に陥りました。それゆえ、私たちの教会の仲間たちは、「あなたの決意が私の決意であり、あなたの心が私の心である」と言いながら、意志のために一つとなる隊列を整える必要があります。そして、紅海を渡り、荒野を通り、ヨルダン川を渡り、カナンの七部族を打ち破るための戦いの場が私たちに残っていることを知らねばなりません。
 したがって、今や私たちは歴史的な使命を帯び、それを償い復帰していかなければなりません。これまでの祭壇では神が「捧げよ」と言いましたが、これからは神に「受け入れてください」と言える供え物が必要です。
 天倫の決意が内的および外的な決意の実体として現れ、この決意を中心に家庭と戦い、家庭を復帰し、教会を覚醒させ、国家と民族を覚醒させて復帰しなければなりません。この状況において、私たちが住んでいる家庭、社会、国家、教会が、そして私たちが望みを抱いている世界が私たちを敵視することは避けられません。
 今日、皆さん自身が家庭や社会で迫害を受けています。しかし、その迫害に勝ったからといって喜ばないでください。その後、荒野の時代にさまざまな困難に巻き込まれ、攻撃が始まる時、その戦いの場で皆さんが倒れてはならないのです。天倫の運命は一度受けて乗り越えなければならない時期にあり、世界的な復帰過程でキリスト教を攻撃することになるのです。外的にも内的にも攻撃する時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来るので、霊界が動員されています。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界中に広げ、第三イスラエル民族を建設しているのです。
 では、イスラエル民族が荒野でさまよい、他人が知らず、他国の者が知り得ず、誰も想像しなかった生命の糧を食べたように、今日の皆さんもこの時代に天から降るマナとウズラの糧を食べることができる人になるべきです。これからは乾燥の時が訪れるので、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。
 今や復帰の園を建設しなければならない時が来ています。どんなに苦しみ、自分の体が裂かれ、骨が粉々になろうとも、天倫のこの一つの目的のために、「父よ!霊界にいる数え切れない聖徒たちよ!歴史を作り上げてください。」と言えるようでなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員することができませんでしたが、私たちは霊界を動員しなければならない時が来ました。ですから、皆さんには霊界の協力があります。私たちの仲間が霊界の霊人を呼ぶと、霊人たちはやって来ます。だから今日、霊的な奇跡が多く起こっているのです。
 私たちは、自分自身を立て、自分の家族や民族、世界を動員しなければならない使命を持っています。また、サタンを父の前に屈服させなければならない最後の使命を担っていることを知るべきです。私たちは、自分自身に対する試練、家庭に対する試練、教会に対する試練、社会に対する試練をいつ乗り越えるのでしょうか。このような試練を乗り越える決意を持つことが、天の使命を完遂するために必要なのです。
 神がヨシュアとカレブに「強くあれ、勇敢であれ」と言ったように、今や私たちにも「強くあれ、勇敢であれ」と言われる時が来ました。皆さんは手に手を取り合い、心に心を合わせてサタンと戦い、勝利をつかみ取るべき時が来ていることを心に留め、強くあれ、勇敢であれということを忘れてはなりません。


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