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神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

天聖経  全16編  メニュー

2024年04月14日 16時19分20秒 | 学習

天聖経  全16編  メニュー(編集中)

第 1編 真の神様
 第一章 神様の本体
 第二章 神様と創造の役事
 第三章 復帰摂理歴史と神観の変化
 第四章 真のお父様の見た神様

第 2編 真の父母
 第一章 真の父母とは
 第二章 メシアと真の父母
 第三章 真の父母の必要性
 第四章 真の父母の使命
 第五章天国と真の父母
 第六章 真の父母と我々
 第七章 真の父母を中心とした生活
 第八章 三大主体思想と真の父母宣布
 第九章 真の父母に関係した指示のみ言

第 3編 真の愛
 第一章 真の愛というものは
 第二章 愛の実際
 第三章 愛と結婚
 第四章 愛と家庭
 第五章 愛と霊界

第 4編 真の家庭
 第一章 創造本然の真の家庭
 第二章 家庭を中心とした愛の法度
 第三章 家庭は天国の中心模型
 第四章 愛を中心とした人生行路
 第五章 創造本然の男女の愛
 第六章 思春期の変化と真なる結婚
 第七章 真なる夫婦の愛
 第八章 真なる父母の愛
 第九章 真なる子女教育
 第十章 復帰すべき人類の真の家庭
 第十一章 家庭は永遠の幸福の土台
 第十二章 真の家庭を求めて

第 5編 地上生活と霊界
 第一章 有形、無形世界での人間の存在
 第二章 死と霊界
 第三章 霊 界
 第四章 天 国
 第五章 メシヤと霊界
 第六章 我々と霊界入籍
 第七章 我々と霊人との関係 

第 6編 人間の生と霊魂の世界
 第一章 人生の行くべき道
 第二章 霊界はどの様な所か
 第三章 真の御父母様と霊界

第 7編 礼節と儀式
 第一章 神様に対して侍る礼法
 第二章 真の御父母様に対して侍る礼法
 第三章 礼拝と教会生活礼節
 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼節

第 8編 罪と蕩減復帰
 第一章 蕩減・復帰原理の根拠
 第二章 罪、人間堕落の内的意味
 第三章 蕩減と復帰の公式
 第四章 蕩減路程と私たちの生活


第 9編 祝福家庭
 第一章 真の父母と祝福
 第二章 真の父母と祝福の歴史
 第三章 祝福家庭の摂理的意義
 第四章 祝福家庭と入籍

第10編 成約人への道
 第一章 人生観
 第二章 家庭観
 ...
 第四章 成約人への道

第11編 宇宙の根本
 第一章 宇宙の根本秩序
 第二章 人間創造と愛の理想の完成
 第三章 人間堕落と復帰

第12編 環太平洋摂理
 第一章 二十一世紀は海洋の時代
 第二章 海洋レジャー産業と趣味産業
 第三章 環太平洋時代と「島嶼国家連合」創設
 第四章 神様の摂理から見た海洋文明
 第五章 すべての文明の結実は半島で
 
第13編 真の神様の祖国光復
 第一章 真の神様が願う祖国
 第二章 家庭教会は摂理的な内的基盤
 第三章 統班撃破運動をなぜしなければならないのか
 第四章 宗族的メシヤ活動をせよ
 第五章 再出発の為の私達の決意
 第六章 真の父母が伝授する世界と南北統一教本
 
第14編 真の孝の生活
 第一章 忠孝の意義
 第二章 真の忠孝
 第三章 忠孝の道理
 第四章 神様に対する忠孝
 第五章 孝行と忠誠と宗教は不可分の関係
 第六章 忠孝と真の愛の有無が天国行きと地獄行きの尺度
 第七章 神様と真の御父母様

第15編 天一国主人の生活
 第一章 創造の原動力は神様の真の愛
 第二章 天国と真の家庭
 第三章 神様と真の父母
 第四章 天一国の民になる道

第16編 真の家庭と家庭盟誓
 第一章 家庭盟誓宣布と前提条件
 第二章 家庭盟誓の各節の解説
 

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御言葉選集3(16,17)

2024年04月06日 16時15分41秒 | 学習

文鮮明先生の言葉集 3 - 16. 天は私たちを呼んでおられます。 (1958年1月5日)

1958年1月5日(日), 前本部教会.
聖書拝読:創世記 3:1-14


 この聖書の一節を通して、人類の悲劇が始まった理由を知ることができ、人間の祖先が神のもとから追放された事実もこの聖書の一節からよく知ることができます。
 神は創造の理念に基づいて万物を創造され、その後、人間を模して、万物と共に楽しむことのできる天宙の中心存在としてアダムとイブを創造されました。しかし、人間の堕落によって神の創造目的は達成されずに残り、神は人間を創造されたことを後悔されました。これが神の悲しみであり、万物のため息でした。
 神は永遠の善の理念を中心に人間が楽しむべき幸福と希望がここから中断されてしまいました。永遠の理念を中心に、永遠の幸福と平和を享受すべき神と人間、創造主と万物の希望がここで根本的に破壊された事実を考えるとき、人間と神の悲しみが共にあることを私たちは気づかなければなりません。
 神は万物を創造された際に心を込めて創造されました。アダムとイブを創造された際にも、最大限の努力を尽くし、神が喜ばれ、人間も喜び、喜びました。
 永遠の善の理念を中心に、人間の幸福と希望がここから中断されました。永遠の理念を中心に、永遠の幸福と平和を楽しむべき神と人間、創造主と万物の希望がここで根本的に破壊された事実を考えるとき、私たちは人間の悲しみと神の悲しみが潜んでいることを認識しなければなりません。
 神は万物を創造される際に心を込めて創造されました。また、アダムとイヴを創造する際にも最大限の努力を尽くされ、神が喜ばれ、人間も喜び、喜びました。
 神は万物を創造されたのも、彼らを人間と永遠に共存させ、その姿を見てあなたが喜ぶと同時に、人間も喜び、神が喜ばれると同時に人間も喜ぶことができるようにするためでした。このような創造の目的を立てられましたが、アダムの堕落によって神は一度もそのような時を迎えることができませんでした。そのため、神はそのような時を再び求めるという事実を私たちが心に留めておかなければなりません。
 アダムとイヴが堕落した後、神はアダムを呼んで「アダムよ、アダムよ!」と呼ばれた悲しい心情を理解しなければなりません。神、つまり創造主を拒絶するアダムとイヴに対して、神も彼らを拒絶すべき立場にありましたが、神は再びアダムを求めて「アダムよ、アダムよ!」と呼ばれました。これはアダムとイヴだけを対象とした呼びかけではなく、歴史的な呼びかけであることを私たちは理解しなければなりません。
 創造後、アダムを呼ばれた神の内面的な心情は、今日までこの地の人々が知らなかったことでした。当時、アダムを呼ばれたその声は、今日、6000年という長い歴史を代わって悲しみの言葉となっています。神は、創造以後の堕落の支配下にある全ての人間の悲しみを代弁する悲しい心情でアダムを呼ばれたことを、私たちは知るべきです。
 アダムから6000年という長い歴史を経ても、神は当時の出来事を現世に結びつけ、今日の第二のアダム、第二のイヴである私たちに対しても同様に呼びかけておられることを、私たちは知るべきです。
 堕落後、従順の意志を受け入れた信者たちは、このような神の心情を感じ、アダムとイヴを呼ばれたその声を聞かないこの地に対して悲しみ、神に代わって悲しみました。
 私たちは堕落後、アダムとイヴを呼ばれた神のその悲しい心情、つまり許されない場所に行って堕落したアダムの姿に対する父親の心情を理解しなければなりません。私たちがその心情を共有し、同じ心で悲しむとき、神はこの地上の人間に対して再び救済の計画を進めることができるのです。皆さんは、神がこれまでの歴史の中で多くの先駆者を立て、皆さんを呼びかけておられることを忘れてはいけません。
 エデンの園で堕落したアダムとイヴを呼ばれたその声は、今も聞こえています。神は堕落後、長い1600年の歳月にわたって変わらずアダムを呼びかけ、そして忠実なノアを抱きしめ、ついに「ノアよ、ノアよ!」と呼ばれることができたのです。私たちはそのような歴史的な声を聞くことができるべきです。
 神はアダムを呼ばれたその悲しい心情を癒すために、ノアを呼ばれました。しかし、ノアを呼び続けて120年間憂いられた父の心情を理解する人はいましたか?神は苦しみの日を迎えるために120年間悲しみ、ノアを呼び続けられたという事実を理解する人はいませんでした。皆さんの中に、アダムとイヴを失い悲しむ神の心情を共有する人がいるならば、神は涙なしではその人を見ることができないでしょう。神の腕の中で留まるべきアダムが追放されると感じた神の悲しい心情を共有する人がこの地上にいるならば、その人はアダムを代表して神の前で悔い改めないことはできません。
 天の悲しみはアダムの堕落から始まりました。このため、神の慈悲により、神は皆さん自身を代表してこの時期に懇願し、悲しい嘆願をしておられるのです。
 もし私たちがこのような事実を理解しているなら、骨と肉、身体と心が打ちのめされても、悲しみや苦しみを感じることはないでしょう。歴史の中でさまざまな試練に立ち向かった祖先たち、神の代わりに立ち上がった先人たちの中には、涙を流さなかった者は一人もいませんでした。神の代わりに立った人々は苦難の道を避けることなく進みました。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、イサクやヤコブもそうでした。個人だけでなく、国民を代表したモーセもそうであり、世界を代表したイエス、すなわち万民の救い主であるイエス・キリストもそうでした。
 今日、私たちは神が悲しまれるように悲しみ、神が慰めてくださる時に共に慰めるべきです。アダムとイヴが神を忘れ、神を拒絶し、自己中心的な喜びを求めたことが、歴史的な悲しみの原因として残っています。
 このような悲しみの土地がどこから生まれたのかというと、アダムとイヴが神の意志を背いて天倫を忘れ、自己中心的な行動をしたことによるものです。そして、神の悲しみがどこから始まったのかというと、人間が天の悲しみを忘れ、天の慰めを忘れ、自己満足と無関心の中で生きるようになったことからです。ですから、私たちは歴史の中で涙の決定的な存在にならなければなりません。
 私たちは苦しみや絶望の中にある天の代理人となり、天の悲しみや怒り、不公正に立ち向かって闘わなければなりません。そのようにして父なる神を擁護し、イエス様を擁護し、歴史的な先聖たちを擁護しながら、天を慰める使命を果たさなければなりません。父なる神はそのような人を探し求めておられるでしょう。
 イエスや聖霊、そしてこの地にやってきた私たちのすべての祖先もこのような存在を探し求めてきたことをあなたは知るべきです。皆さん、今までの生活を振り返り、新しい人生を歩んでいる間に、天の代理人として苦しい立場で人々に拒絶され、嘲笑された経験が数時間だったと思いますか?
 堕落した人類は悲しい運命の歴史的な結末にあるため、天を求める者はこのような道を避けることはできません。これが堕落した世界の鉄則であるためです。したがって、神は歴史の中で悲しむ者でした。彼は御旨を行われる間、子供たちが悪しき力に虐げられる様子を見て、慰めてくださった神です。しかし、神はいつまでも悲しみの中にとどまりたいとは望まれません。早く悲しみや絶望、怒りから解放されて喜びの日を迎えたいと願っておられることを知るべきです。
 人類の堕落の後、6000年の歴史が経過しましたが、喜びの日を迎え、天の栄光を共に讃え歌うことができる子供たちは、今までに一人もいませんでした。そのため、天が建てたキリスト教は涙の宗教です。キリスト教は十字架の宗教です。
 イスラエル民族から追放されていたイエス・キリストの足跡の前には、涙の谷間、十字架の道が広がっていました。家庭で拒絶されていたイエス・キリストの苦境や、ユダヤ教徒から追放されていたイエス・キリストの心情を想像すると、イスラエル民族やユダヤ国から異端者として扱われ、追放されたイエス・キリストの姿を垣間見ることができます。彼の歩んだ道は何よりもイスラエル民族のための道であり、その種族のための道でしたが、当時のイスラエル民族の進む道とイエス様の進む道は対立していたことがわかります。
 この対立が広がるにつれて、神の悲しみはより大きく、怒りも増していきました。この対立した道を再び相対的な道に変えるために、戦いの歴史を展開してきたのが、イエス・キリストの後2000年の信仰の歴史であることを理解する必要があります。
 そして、自分自身を万物の中心に置き、心と体を別々にして彼らと比べてみて、批判してみてください。神の前で批判されてみてください。歴史的な先聖たちの前で、また今日、涙を流し、悲しみと苦しみの道を耐え忍ぶ真の牧者たちの前で批判されてみてください。
 あなた自身に誇ることも何もありません。考えれば考えるほど、罪の報いを受けるにふさわしい存在であることを否定することはできません。私たちの多くの先祖が歴史的な血の涙の祭壇を通り過ぎてきました。今日、神はその祭壇の上にあなた自身を立て、勝利の成果としていることを望んでいます。これを理解せずにその意図を拒否すれば、その民族はどこに行くでしょうか?選ばれたアブラハムを反対したその種族はどこに行ったでしょうか?イサクとヤコブを通じて悲しい心情を感じなかったイスラエルの民はどこに行ったでしょうか?彼らは荒野で苦闘しなければならず、悲しみと嘆きの中に沈むべきでした。
 さらに、モーセの時代にはどうでしたか?シナイ山に登って40日間食べ物を取らずに民を神の前に訴えるモーセの悲しい心情や苦しい心を、無知な民は理解しませんでした。もしもその民がそのような悲しい心情を理解して共に悲しんだなら、イスラエルの民は荒野で倒れることはなく、イエス様が十字架にかけられるユダヤの歴史を残さなかったでしょう。また、今日まで罪の歴史は続いていませんでした。それができなかったために、神の苦しみは言い表せないほど大きく、今日まで神は歴史を通じて十字架の道を歩みながら宗教を確立し続けています。
 もし歴史の中で誇りを持ちたいと思うのなら、悲しむ神の心情を代わりに感じ取り、「ああ、父よ!その悲しみを私に託してください。」と言える人にならなければなりません。 「神が負っている荷を私が代わりに負いましょう。」と祈り、立ち上がる国民は滅びません。しかし、個人や社会、国が神の悲しみや懺悔、苦悩を知らなければ、滅びるでしょう。すべて同じです。
 今、歴史的な伝統を守るべき終末の聖者がこのような責任を感じるならば、彼は神の悲しみに共感し、知られざる涙をたくさん流すべきです。迫害を受け、時には知られざる苦しみに耐えることを知らない人にならなければなりません。イエス・キリストこそがそのような人でした。そのような方の後を追うことができる人は、この世にどれくらいいるでしょうか?
 神の祝福を受ける民族の道を歩みながら、全人類を代表し、世界を代表して罪を裁くことができる神の子らがこの民族の中にいるなら、彼らに向かって神の経綸が転がり、宇宙的な使命も彼らを通じて達成されるでしょう。
 したがって、私たちは神の悲しみを代わりに感じるために涙を流さなければならず、父が愛する人類のために涙を流さなければなりません。ノアの悲しみを代わりに感じ、アダムからアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイエス・キリストに至るまでの4000年に及ぶ悲しみを代わりに感じるために涙を流す人にならなければなりません。
 地上で神の子女を探し求める神の声に「父よ、私はここにいます」と答えることができる人がいるならば、たとえその手が卑しいものであり、その心が傷ついていたとしても、その姿が粗末であったとしても、彼は滅びることはありません。彼は神の悲しみを代わりに感じることができ、彼の心が天と共鳴し、通じるからです。
 そのような人の進む道は、世界が総動員されても止めることのできないものです。このような原則を知っているイエス・キリストだったからこそ、彼は背信するイスラエル民族のために悲しみ、迫害する教会のために涙を流し、十字架に釘付けにされる敵に祝福を贈ることができました。
 今日信じる者たちが天の前に立ち、また新郎となられたイエス・キリストの前に花嫁として立とうとするとき、イエス様が感じていたその悲しい心情や昔の先聖たちが感じていた心情を思いやることができないならば、悔い改めなければなりません。天を歩み、国を歩み、世界を歩み、悲しむべき事を知る神の子らが現れるべき時なのに、しかし、神が悲しむのに自分は喜ぼうとする人は滅びます。そのような国があれば、その国も滅びるでしょう。
 それでは、数千年にわたる歴史の中で、多くの聖人たちを通じて神から受け取ってきた恵みを持つ皆さんへ。今日は、それぞれが置かれている立場から、自分が持つ心がどのようなものかを振り返り、冷静な批判を行う時です。
 そうすると、天は今日の私を立てて、この世界に何を予告しているのか?今自分自身のために涙を流す時はもう過ぎ去っています。今は世界の支配者の時なので、家族のために涙を流す時も過ぎ去っています。神の悲しみは、個人や家族、社会や民族を通り、国家的なプロセスまで経てきました。今は世界に対して悲しんでいます。
 歴史的な帰還の運命の前に、自分の歴史観と生活領域が一致している必要があります。そのためには、皆さんがエデンの園で暮らしていたアダムと同じ立場であり、父が歓迎することができる子供の姿を備えなければ、皆さんはようやく父の前で苦しむ心情で呼ばれることができます。
 そのようになるためには、悲しみの山を超え、十字架の道を歩み、自由な解放の体で永遠の父に「私の父よ。」と賛美し、差し上げることができるようになる必要があります。そのような子供が現れると、神の喜びが始まります。これが歴史的な希望であり、その希望が成就する日がまさに「再臨の日」なのです。そして、それを実現するための中心的な役割を果たすべきものがキリスト教です。
 皆さんは歴史的な召しに反してはいけません。神は人を歴史の終わりにのみ召しません。今日のこの時も私たちを召し続けていることを知るべきです。これまで善を中心にして来た道の世界には、多くの教派がありました。今、私たちはその中から天の意志を通じる真の牧者を見つけなければなりません。そのような牧者に出会ったとき、彼を追うためには、死の道、つまりどんな困難な道でも進まなければなりません。それが最初に天の悲しみと共にあることなしには成されないことです。
 今日の教会の指導者たちは、このような天の事情を知る必要があります。しかし、それでも自分の主張だけを唱えて争い合うなら、その教団は滅びるでしょう。そうなった場合、他とは異なる道を進んだ皆さんは、民族を代表して、先祖から受け継がれる堕落の遺産を清算し、神の前に進むことができるその一人の存在が現れることを望む必要があります。その願いが実現される日が再臨の日であることを知るべきです。
 神には祝福と喜びを与えることができる子供がいないことが望まれ、悲しみであり、神を中心とする家庭がないことが悲しみであり、神を中心とする民族がないことが悲しみであり、神を中心とする国と神を中心とする世界がないことが悲しみであることです。
 皆さんは、神が皆さんを置かれた目的を知る必要があります。そして、神は過去の悲しみ、現在の悲しみ、未来の悲しみを感じながら皆さんを見つめ続けていることを理解する必要があります。
 神は今、だれを選んでアブラハムの後継者とし、だれを選んでイスラエルとヤコブの祝福を引き継がせることができるのか、そして、だれを通してイエス・キリストの遺産を受け継がせるのか?そのような人を見つけて立てることが神の希望です。そして、それは今日この時代にも残された条件です。
 人類の歴史を振り返ると、神が6000年にわたって言葉では語り尽くせないほど悲しまれていたことがわかります。イエスや聖霊がそうであり、私たちの先祖もそうだったように、私たちも彼らを代わって責任を持ち、このような神を和解させなければならない時が来ています。
 この時代の腐敗した姿を見ると、私たちの前には涙につけるべき民族的な難問の歴史的な運命の道があることを知る必要があります。このような道を歩むことは避けられない宿命であり、私たちはここで勝利の業績を残さなければならない宿命の意志があります。
 宿命を中心にして見ると、神は過去に人類を見捨てずに悲しまれ、今も悲しまれ、将来も悲しまれるべきであるということがわかります。民族を責任を持って立ち上がったモーセを拒絶したその民族は目覚め、また世界を責任を持って来られたイエスを拒絶すると、そのイスラエルは世界的に不利な民族になってしまいました。これが歴史的な証明です。
 私たちの民族には自慢するものはありませんが、私たちは天を中心にし、世界の前で最も哀れな民族になると、つまりこの国が世界を代表してどの国よりも哀れな立場に立つならば、ここに希望があることになります。そのような立場から飢え、ため息をつきながら悲しい涙を流したことがこの民族の業績となるなら、この民族は死の中から再び生き返ることができるでしょう。
 そのようになると、この民族は将来世界を導くことになるでしょう。私たちは天の前に謙虚な姿勢で、イエスが歩まれた道を守り、モーセが行った道を守りながら、歴史的な頭角を越えて最初のアダムとの立場を代わって彼らの未熟な過去を清算し、本来の創造意識を再び見出さなければなりません。そして、神が喜びで接してくださる子供となり、父の祝福と栄光を受けることで、すべてのものと共に動くその日を迎えることができるのです。
 ですので、今日の皆さんは歴史的なすべての悲しみを乗り越え、悲しみの山を越えてやっと神の喜びの一行に参加できることを知る必要があります。






文鮮明先生御言葉選集 3-17 天が静寂を保つ場所はどこか(1958年1月12日)

1958年1月12日(日曜日)、前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書8:18-22


<祈祷>
 愛するお父様、今この時、み言葉を語って参りますので、お父様と受ける者とが別れることのないように許し、お父様が定められるならば、我々も定め、お父様が行われるならば、我々も行い、ただ一つの心、一つの意志となるように許してください、父よ、切に願い求めます。
 イエス様当時、不信の地を心配しながら神の思いやりを慰め、その悲しまれるイエス様の気持ちを感じさせてください。そうして、我々の心がただこの時にとどまらず、父の心と連ね、歴史的なイエス様の心と連ねて動くことができるように許してください、切に願い求めます。
 悲しまれる父の気持ちを我々の心に感じさせてください、人類を救うために思いやりを持たれたイエス・キリストの気持ちを我々が理解できるようにしてください、この一時間、ここに集まった愛する兄弟姉妹が自分の心に残る闇のすべての罪を清算できるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 常に我々の前には、お父様の恵みを阻もうとするサタンの試みがあることを知っていますので、いつどんな立場からお父様の恵みが臨むのかを悟り、サタンの侵入を離れ、お父様の永遠の愛の中に受け入れられるように、父よ、許してください。6000年にわたり摂理を歩まれながら愚かで不足な我々を捨てずに探してくださった父の慈悲の手をこの時でも感じることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 今この時、すべてをお父様に託しましたので、初めから終わりまで、お父様ご自身が主導してくださるよう、切にお願い申し上げます。主の名によって祈り致しました。アーメン。




<御言葉>
 神が天地万物を創造される際、その創造された世界で永遠に安息されたいという御心を持ち、万物を創造し始めたことは皆さんがよくご存じです。しかし、同様に神が永遠に安息されるために創造された土台が人間の堕落によってサタンに渡ることになったこともまた、皆さんがよくご存じのことです。
 だからこそ皆さんは、今まで6000年という長い歳月が経過しましたが、この地のどこにも安息できる一つの隠れ家を残せなかったことを確実に知るべきです。そして、それによって経験する神の慈しみを感じることができる人になるべきです。
 それでは神がこの創造された世界を何に基づいて創造されたかを考えます。永遠で唯一無二の言葉を通じて万物を造り始められました。そして、神はアダムとイブがその言葉の目的を完成させ、神が実質的に永遠に安息できる体になることを望まれたのがアダムとイブを創造された目的でした。さらに、神はアダムとイブに命を吹き込み、彼らの心の中に永遠の命の主体として宿り、安息の隠れ家を形成しようとされたのです。これこそが天然の大きな目的を設定してアダムとイブを創造されたことです。
 言い換えれば、神がアダムとイブを創造し、言葉で天国生活の法則を立てようとされ、彼らの体を通じて神ご自身が宿る聖堂を築こうとされ、彼らの心には神が直接座することのできる聖域を築こうとされたのです。
 しかし、アダムが堕落したため、言葉を代わる法則が人間の前から消え、神の体として築かれたアダムが堕落し、神が宿ることができる聖堂も人間の世界で消えてしまいました。そして、無形の神がこの地の実体の主人として永遠の玉座に宿ることができる心の土台も失われてしまったのです。
 このように、神が人間の堕落によって創造の理念である言葉を代わる法則と、万物の聖堂を代わる体、無形の世界の聖所を代わる心が本来の目的と逆行し、ここから神の悲しみが始まったということです。そして、天のために創られた人間の心が悲しくなり、その心を取り扱う体も悲しくなり、その心と体が動いて行くことができる言葉を代わる法則も人間から消え去ってしまったということです。
 では、この天の原則的な基準と内容を考察するとき、堕落によって罪の血統を受け継ぎ、この地上に生まれた数多くの人類の中で天が求めている言葉の法則はどこに現れるでしょうか?神が実体を持って降臨できる聖地はどこに現れるでしょうか?無限の無形世界を代わって神が降臨できる聖所は、この地上のどこに現れるでしょうか?これらのことを、歴史の進行に多くの人々が解決しようとしたのです。私たちの多くの先祖が、この目的を達成するために多くの犠牲を払い、涙を流しながら進んできたことを、今日、皆さんは認識しなければなりません。
 そのため、今、天でも地でも最も重要な存在であり、この地上に現れるべき一つの言葉を持つ存在が必要です。見えない神の実体を持ち、神が喜び、支持することのできる存在、天地を代わる天上的な価値を持つ存在が必要です。
 ですから、天国を代表し、父の玉座を代表するだけでなく、実体のイデアを持ち、この世界を動かす力の基盤となるのは、神の希望であり、人類の希望であり、今日、救われるべきすべての信者の希望であることを、今日、皆さんは確実に理解しなければなりません。
 そして、人間は何を失ったのでしょうか?自分を中心に置いたとき、天の前に立つことができる言葉の法則を失い、神が宿ることができる自分の体を失い、永遠の生命的な玉座の中心を代表する心の聖堂を失ってしまったのです。このように、人間は天上的なすべての所有権を失ったため、人間は今も無限に苦しんで何を探しているのかということです。ですから、今日の皆さんは、天ルールを代わる神の言葉を見つけることを一つの希望とし、今日も明日も走り続ける必要があるということです。
 では、言葉の時代を通過した後、どのような時代が訪れるでしょうか?実体を通過しなければならない時代がやってきます。ですから、今日、20世紀の運命も、原則的な言葉を通じた実体化が最大の目的であることを認識しなければなりません。ですから、神がもともと人間に宣言された天然と人権の法則を実現する実体が、歴史の終末期に現れることを、今日の人々は望んでいます。
 そして、言葉と実体が一体となったとき、人間は物質的な動物の次元に留まらず、内的な意識を持つ存在として天のルールを実行する立場に置かれます。そして、自身の生活環境を超えて永遠のイデアに向かう何らかの作用がその心を促進することを理解しなければなりません。
 これらを考えると、自分の心と体が向かうその力に相応する基準を持たなければ、信仰を通じて求める神の実在もどこまでも概念的な神としてしか認められず、実証的な神としては感じることができないことです。
 ですから、今、あなたが言葉を通じて実体を通して、私が求めていたその無形の神の意志を自己を中心にして歴史の終末期に達成しなければなりません。もし、そうできないのであれば、あなたは天ルールの目的と一致せず、または創造のイデア権と呼べるこの実存世界で存在することができない不幸な状況に陥ることになります。
 まさにこのような歴史的な運命の道程があなたの前に提示されていることをあなたは知るべきです。ですから、今、あなたは天ルールを代わる言葉を通じて、そしてその言葉を実証する一つの実体を通じて、生命的なすべての問題を解決できるその場所がどこかを求めてさまよわなければなりません。
 それでは、今、神がこの天地万物の中にいる私たち人間を訪れるとき、何を持って訪れるでしょうか?神が話されたその言葉の法則を持って訪れます。それは、この地上のどの個人の思想よりも、どの言葉よりも偉大であり、全人類が望む神の言葉なのです。ですから、あなたにとっては、創造時に立てられたその言葉を、あなたの人生を支配することができる言葉として、さらには人生を救うことができる言葉として、その言葉を取り戻さなければならない運命が提示されています。
 その先に、神を中心にした個人を基盤として、一つの家族、社会、種族を形成し、この地上に天国を建設することができるのです。ですから、あなたは与えられたその言葉を完全に所有するまで、どんな困難や悲しみの場面も乗り越えなければなりません。あなたにはまだ、闘争の過程が残っていることを感じなければなりません。
 それでは、今日の現実を見ると、形而上学的な真理の領域を代わる宗教があり、形而下学的な真理を代わる自然科学がありますが、これらはどこに向かっていくのでしょうか?アダムとイブが堕落したことで、言葉を失い、言葉を失ったことで実体を失い、実体を失ったことでイデアを失ってしまったので、終わりには一人を中心とした復帰が必要です。そのため、科学文明の先端に立つ存在が形而上学的なすべてのイデアを代わる実体として、今日の人類史の終末期に現れなければならないのです。
 それでは、今日、私自身を見つめると、私たち人間はどこに向かうべきでしょうか?私の体は自然科学的なイデアを通じて、私の心は形而上学的で超自然的な世界を通じて進むべき立場にあるのです。
 しかし、私たちの心は善を行おうとし、天に向かおうとしますが、一方で私たちの体は悪を行い、世俗に向かおうとする、この二つの枝分かれした状況にあるのが今日の人間の姿です。ですから、人間は今までそれを統一できる天の言葉を持った主人公はどこにいるのか、天の真理の法則はどこにあるのかと、絶えず求めてきました。真に私たちの心の世界を超えて無限の霊的世界まで通じることができるだけでなく、自然科学の分野まで通じる新しい言葉が現れることを、今まで人類は切望してきました。
 ですから、もし今日あなたがそのような言葉を持っているなら、あなたは世界のどの人よりも自己を持ち、歓びに満ちた最高のイデアを持つでしょう。ですから、今日あなたはエデンの園で失った神の言葉の法則を必ず取り戻さなければなりません。
 これまでのキリスト教の歴史は、言葉を立てる歴史でした。これまで天の心を代わる一つの実体的な存在を通して天の法則の言葉を見つけ、立てようとしましたが、まだ完全に見つけ、立てられていないのです。ですから、あなたには今日この歴史の終末期に、無限の霊的世界を通じ、自然科学を通じて新しい言葉を見つけ、立てて神の国を建設する使命が残っているのです。
 そして、神は人間にそのような使命を担わせるため、神としての勝利の意志をこの地上に立てることができるようになります。ですから、神はエデンの園でアダムに対して、「知善悪の木の実を食べてはならない。食べる日には必ず死ぬであろう。」(創世記 2:17)とお告げになったその言葉を再び見つけることができる一つの主体を送られたのです。天ルールを代わり、万有の意志を代わり、全人類の希望を代わり、また神の内的な心情と外的な実体を代わりとする一存在をこの地上に送られたのですが、それが今日あなたが信じているイエス・キリストなのです。
 では、そのような意志を持って来られたイエス・キリストの心と体は何だったのでしょうか?そのイエス・キリストの心は自らの心ではありませんでした。誰の心だったかと言うと、父の心でした。イエス・キリストの体は自らの体ではなく、父の体でした。また、イエス・キリストが述べられた言葉は自らの言葉ではなく、神の意志を代わった天理法度であり、万人が持ちたい希望の言葉でした。イエス・キリストはその言葉を通した実体的な天の聖殿としてまたは実体的な神の座を代わる存在としてこの地上に現れたのです。
 したがって、イエス・キリストは天徳と人徳を備えた言葉として、すべての民を回復させ、言葉の価値を持つ実体的な存在として神に認められるように求められる使命を持つことになりました。イエス・キリストは、この4000年間にわたり天の内的な摂理の意志を持ち、この世の堕落した人々を見るとき、悲しみを禁じる方法がありませんでした。堕落した体が楽しむことのできる堕落の法則に従って行動している人々、サタンが支配する堕落した心と体を持つ人々を見るイエス・キリストの心情は言い表せないほど悲しいものでした。
 イエス・キリストは天徳の法則を中心にし、秩序的な目的を達成すべき使命があったため、自らの一言一行一行動が天徳を実証するために血汗をかけました。一方でサタンの支配下にある人々は天徳に逆らった法則を中心にして行動していたため、何もかもが適当に生きているそのような環境に置かれていたのです。
 したがって、イエス・キリストは何もかもが適当に生きている人々に、天の条件的な言葉の法則に従って生きるようにし、その個人から社会、民族、国家、世界に拡大させなければならない使命を負い、またその使命を達成しなければなりませんでしたが、それでも犠牲になられたのです。もし当時の人々がイエス・キリストの言葉を4000年間の間、全宇宙が求めた神の言葉として立てられる唯一の言葉として受け入れ、その言葉の実体的な存在になっていたならば、イエス・キリストは自らが神の代わりに立てる安息の場を作り上げることができたでしょう。しかし彼らが無知であり、イエス・キリストの言葉を信じなかったために、イエス・キリストはそのような環境を作り上げることができませんでした。
 聖書の文章の中でも、ある書記官がイエス・キリストに近づいて「先生、どこへ行かれるのですか、どんなところでもついて行きます」と言った時、イエス・キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣がありますが、人の子には休むところがありません」と言われました。これはイエス・キリストの言葉を希望の言葉として受け入れる者がいないため、どこにも安息の場を見つけることができないという意味でした。
 さらに、言葉を中心にして、その言葉を神の言葉として受け取り、神の心情を代わる存在として持って来られる者が出てこなければ、イエス・キリストはそのような環境を作り上げることができませんでした。だからこそ、この世界を見るイエス・キリストの心情は言い表せないほど悲しく、悲しい立場に置かれていたのです。天の尊い言葉を持ちながら、その言葉がとどまる場所がないため、嘆きの気持ちを持たれたイエス・キリストの心情を感じられることが重要です。
 では、現代の終末に立つ皆さんはどのような使命を担うべきでしょうか?神の言葉を自分の体と心に所有する者となるべきです。つまり、これまで誰も持っていなかった神の言葉を自分の体と心に完全に所有する人になるべきだということです。
 また、この立場から考えると、エデンの園での堕落は何だったのでしょうか?神様がお話しになったその言葉を受け入れることができる安息の場にならなかったことです。ですから、今、皆さんの体と心がまさに神様が安息できる場所になるべきです。今、そういう状況に立っています。
 したがって、終末に立つ今日の皆さんは、イエス・キリストがこの地上に来られて自分の言葉を引き継ぐことのできる存在を見つけられずにお帰りになったことを確実に理解しなければなりません。
 それでは、イエス・キリストがこの地上に残していかれたものは何でしょうか?イエス・キリストが残していかれたものとは、言葉です。イエス・キリストは、自分の心と体を通して発せられた言葉を残してお帰りになったのです。ですから、今日の皆さんには、エデンの堕落によって生じた神の悲しみと、2000年前、無知な人々を目覚めさせるために哀れみを示されたイエス・キリストの悲しみを解消してあげる使命が、第一に残っていることを理解する必要があります。
 もし創造の歴史を起こしたその言葉がこの地上に再び現れれば、堕落した人間ではありますが、まだその本質が残っているため、人間の心はその言葉に従って動くしかないのです。ですから、今、皆さんは自分の本質が動き、自分の体が動かされるそのような言葉を、この歴史の終末期を生きる皆さんの人生の中で必ず見つけなければなりません。もし皆さんがそのような言葉を見つけられないなら、ため息と嘆きに囚われ、神との永遠の結びつきを結べないことを確実に理解しなければなりません。
 それでは、今、皆さんは天に向かって何をすべきでしょうか?「狐には穴があり、空の鳥には巣がありますが、人の子には休むところがありません」とイエス・キリストがおっしゃった悲しみを解消してあげる必要があります。今日の皆さんは、イエス・キリストのその悲しみを解消してあげる使命を担っています。
 そして、イエス・キリストがおっしゃったこの言葉は、その当時の若い書記官にだけではなく、何千年もの歴史の中のどの時代の人間にも当てはまる言葉であることを理解しなければなりません。ですから、哀れみを呼びかけたイエス・キリストのこの声が今、この時間にも皆さんに届いていることを、皆さんは確実に知るべきです。
 では、神様は第1のイスラエルの誤りを許し、第2のイスラエルのキリスト教徒を立てて新しい運動を提案される中心の意志は何でしょうか?イエス様が成し遂げようとされた言葉の聖域を見つけて築こうとすることです。ですから、今、皆さんは神様が皆さんに伝える言葉について、「永遠の法の言葉として与えられた言葉」と認識し、「これこそが私の命の言葉です」と言って、その言葉を受け入れるだけでなく、創造の時に人間を創造される時に語られた言葉として見るべきです。もし皆さんがそのような言葉を持たず、神様のその言葉を肌で感じる体験の一瞬も持たないなら、皆さんは神の子にはなれません。
 ですから、神様は人間に自分の体を犠牲にして心を洗い、善を目指すように導いてこられたのです。また、人間の心が真に近づいたとき、その真の目的を達成する言葉が現れると、その言葉に簡単に惹かれるようにされたのです。そして自然に人間の体もその心に共鳴して真を目指すように、神様は望まれたのです。そうして神様が心と体で理解できる言葉を人々に示そうとされた切実な心情があったことを、皆さんは知るべきです。
 今までの信仰生活を通じて、天を求めてきた過程で、言葉によって心と体が完全に支配される一瞬も持っていなければ、永遠に悲しみと嘆きの中に留まり、その段階に陥るしかない自分自身であることを自覚しなければなりません。
 一方、皆さんが自分の体と生涯を代わって天の法の言葉と、その法の言葉を代わって自分の実体と、またその実体を代わって自分の心が一つになった立場から、霊的な世界に入り、何かを体験し、感じたことがあるならば、皆さんは永遠にこの地上から消えないでしょう。ですから、皆さんは自分の体と心に永遠に離れない核を持たなければならない。皆さんの体と心に神様が直接お留めになれる安息の場を築かなければなりません。
 ですから、今、皆さんは自分がそのような天の法の言葉を受け入れることができる自分であるか反省しなければなりません。今や終わりの時が来たので、すべてが終了されるでしょう。哲学も終了し、科学も終了し、物質を中心に据えた世界的な経済システムも一つに終了し、将来のある時点で、科学の無限な発展によって科学的な研究の努力によって開発された食糧が出てくるかもしれません。
 さらに、終末の時代に直面している今日の皆さんは、これまでの自分の信仰を悔い改め、イエス様が私たちに与えられた言葉どおりに生きようと努めなければなりません。ですから、皆さんは天の言葉を探さなければなりません。しかし、そのような言葉を求めず、むしろそれを拒絶しようとする者がいるなら、必ず裁きを受けるでしょう。天の聖所を構築しようとするその言葉に来る者を避ける者、邪魔する者は滅びるということです。これを知っていたからこそ、イエス様は言いたいことがあっても、すべてを言い切れなかったのです。
 ですから、今、皆さんは天の法の言葉を樹立すべき使命を感じるほど、最善を尽くさなければなりません。イエス様が「地のことを語ったのに、あなたがたは信じないのなら、天のことを語った場合、どうして信じようか?」(ヨハネ 3:12)と語られたその悲しい心情を和らげる皆さんにならなければなりません。人類の歴史の終末の時代である今日、歴史的な悲しみが天と地に渦巻いていることを皆さんは認識しなければなりません。ですから、神様はこの時にもこの地上の人々がどのように生きているか、信仰する者たちはどのように信仰を続けているかを心配し、すべての人々を見守っておられるのです。
 ですから、皆さんは無限の天主を代わるその言葉、永遠の法を代わるその言葉を受け入れられる心のゆとりを持たなければなりません。これまでのように、地上で育ててきたその邪悪な心、またはその邪悪な感情に基づく言葉を持つべきではありません。新しい言葉を受け入れる新しい心を持つべきです。ですから、言葉の聖所に来るこの終末の時代において、私自身が一体どこで天の法の言葉を背くアダムの後継者にならないかと恐れるのです。
 では、罪はどこから始まったのでしょうか?神様の言葉を受け入れなかったことから始まりました。神様の無限の言葉を受け入れることが人間の責任でありながら、その責任を果たせなかったのです。ですから、今、言葉を歓迎しなければならない安息の場は、まさに皆さんの心でなければなりません。そして、言葉を中心にした実体を構築しなければなりません。
 その言葉は、皆さんの個性的な領域に関連する言葉です。つまり、皆さんの言葉は、神の天の法の代わりになるべきであり、皆さんの行動はその法の言葉と一体となった行動にならなければなりません。皆さんが原理を通じて知ることと同じく、言葉を代わるその実体が現れると、そこには神の心が宿るのです。そして、神の心が宿るその個体は、永遠のイデオロギーに沿って動くことができるため、その身と心が実際の生活の中で父のイデオロギーを代わって生きることになるのです。
 そのような生活を楽しみたいというのが私たちの希望であり、そのような意志が実現される場所がカナンの理想の地であり、失われた本来の地であることを皆さんは確実に知るべきです。
 では、イエス様の悲しみは何だったのでしょうか?言葉の安息所がなかったことが悲しみでした。また、自分の身心の意志を引き継ぐ聖徒が一人もいなかったことが悲しみでした。自分の言葉を引き継ぐことができる人がいなかっただけでなく、自分の身を神の身として捧げる人が一人もいなかったことがイエス様の悲しみであり、神の悲しみであり、全人類の悲しみでした。
 ですから、神とイエス様は2000年の歴史の中で「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」と言い、イエス様ご自身の身を花嫁のような皆さんに委ね、安息の日を迎えることを望んでいます。まさにその日を見つけて建てるために、神とイエス様は今もその背後で心配し、戦っていることを皆さんは知るべきです。
 それでは、今や神の言葉を持って生きるとしたら、どうすればよいでしょうか?まず、神の言葉に満ちた環境を整えなければなりませんし、花婿であるイエス様に対する花嫁としての資格を備えなければなりません。神は今この時でもイエス様の相手となる存在が現れることを待ち望んでいるのです。
 神は天の皇子であり、万物の主であり、人類の救い主であるイエス様を皆さんに委ねようとしています。その時、皆さんはイエス様を花婿として迎え入れられる花嫁の立場に立たなければなりません。そのようにして、イエス様のイデオロギーを通じて、イエス様の生涯を通じて、イエス様の歴史的な意志を通じて価値ある存在になり、イエス様と完全に一体となることができるのです。
 また、皆さんが今や言葉を通じて実体を構築しなければならない歴史的な使命を負ったとするならば、皆さんはイエス様の言葉を自分の言葉として所有し、イエス様の身を自分の身として捧げることができなければなりません。そして、イエス様が世界の全人類のために望まれたその心情が、皆さん自身の心と身体からも生じなければなりません。
 ですから、イエス様は今まで2000年間、自分のイデオロギーを代わりにして、花婿の自分を迎え入れ、安息の一日を迎えることを望んでいます。イエス様ご自身のすべての意志を代わりにした実体として、自分が心配しているすべてを踏み越え、むしろイエス様ご自身を慰めることができる真の花嫁はどこにいるでしょうか、と今も探しているのです。
 それでは、自分のすべてを与えるために30余年の生涯を経たイエス様が、国と民族に反対され、部族と家族に拒絶され、愛していた弟子たちさえも不信する立場で十字架を負い、ゴルゴダの道を歩んだことを知っていますか?イエス様の心を知っていますか?その状況を知っていますか?また、イエス様の望みを知っていますか?誰が知りましょうか?
 もし、あなた方がイエス様が死に至る苦難の旅で何を成し遂げたのか知らなかったなら、あなた方は再び世界の救済の理念を持って現れるイエス様に出会うことができないことです。
 イエス様は民族のためにゴルゴダの道を歩みました。彼は民族の環境で休息すべきイエス様でありながら、かえって彼らの不信仰のために彼らのために十字架の道を歩んだのです。天の勝利を約束すべきイエス様でありながら、民族は不信し、教会から追放され、社会から追い出され、家庭から拒絶されたため、行く場所がありませんでした。天国の希望を持ってこの地に来られたイエス様ですが、それは全て消え去り、悲しい状況に直面し、一人で民族を代表して十字架の道を歩まれました。
 ですから、今、あなた方はイエス様の歴史の2000年の道が世界的なゴルゴダの道を切り開く運命であることを知るべきです。そして、民族的なゴルゴダの道を越えて、世界的な第二のイスラエルを通じて世界的なゴルゴダの道を越えようと苦闘されている方が誰なのかを知るべきです。それは、あなた方が望む花婿であるイエス様そのものであることも、あなた方は知るべきです。
 今日、あなた方の心はどこにありますか?あなた方の身体はどこにありますか?あなた方が置かれているのは、イエス・キリストの代わりに世界的なゴルゴダの十字路に立たされた状況です。世界的なゴルゴダの道を引き継いだ私たちだからこそ、今日、キリスト教がイエス様の福音を持って出るとき、どの民族、どの環境でもゴルゴダの道を通らざるを得ないことです。そして、キリスト教国家を中心にした世界的なゴルゴダの闘いがある時であり、それが終末であることをあなた方は知るべきです。
 今、6000年の歴史の終末時代に立つあなた方は、イエス様が今までに世界的なゴルゴダの道を歩まれたその心情を考えることができる人でなければなりません。イエス様が自分の身心を犠牲にして敵を愛し、許すことができたその心情を共感しなければなりません。そうして、敵を愛する唯一の標準を設け、イエス様を真に受け入れる真の使徒がこの地上に多く現れなければならないということです。
 その時に初めて、イエス様が安息することができる具体的な土台がこの地上に作られるのです。しかし、あなた方は今どこにいますか?個人的な迫害があったからといってかばんをまとめて家庭の迫害があったからといってかばんをまとめようとはしませんでしたか?または、民族や国家の迫害があったからといってかばんをまとめませんでしたか?そのような人がいるなら、そのような人を見るイエス様の心情はどのようなものでしょうか?「全世界が、天地が反対しても私は天に向かって進みます」と言えるでしょうか。そのような覚悟を持つ人が、イエス様の花嫁の資格を持つ人が、この地上にどれだけいるかわかりませんが、天国はまさにそのような人を探していますということを、あなた方は確かに知るべきです。
 イエス様は、神のそのような心情をご存じだったからこそ、自らの全てを捨てることができ、犠牲にすることができたのです。ですから、今はあなた方がたどっている足跡がどこにあるのかを振り返ってみる必要があります。自分の足跡がどこにあるかを振り返ってみる必要があるのです。そうして、世界的なゴルゴダの道を歩んでいるイエス様の安息所が、まさにあなた自身でなければならないことを理解しなければなりません。
 しかし、イエス様がこの地上に来られて自らの安息所を見つける必要があったと同時に、またどのような使命があったのでしょうか?それは、イエス様が神の前に花嫁として立つべき使命があったのです。イエス様は、自分を受け入れる弟子と同じような人がこの地上にいたら、そのような人と一体となって、神のための花嫁となるべき使命がイエス様にあったのです。しかし、これを今日のキリスト教徒たちはよく知らないのです。
 世界のキリスト教徒たちは、今日、花婿となったイエス様を求めています。花婿となったイエス様を求めることは、その花婿の主人である父を求めることです。ヨハネの黙示録14章1節には、「小羊がシオンの山に立ち、彼と共に十四万四千人が立っていた。彼らの額には小羊の名と、その父の名が書いてある。」と記されています。つまり、父の選ばれし子となるためには、小羊の名だけではだめで、父の名まで結ばなければならないということです。
 では、十四万四千人に入る者は誰でしょうか?イエス様の名だけではいけません。あなた方はイエス様を花婿と呼んでも、父が祝福しない限りいけません。ですから、あなた方は、父が手を差し伸べてエデンの園で堕落しない永遠の人類の主人公として祝福される人となるべく、十四万四千の群れに入ることができる人とならなければなりません。その時に、あなた方自身が神の永遠の理念を中心におき、神の無限の愛を感じ、幸せの中で暮らすことができるその一日を迎えることになるのです。
 また、あなた方は神の聖所となり、安息所となる立場であるため、イエス様の体を受け入れると同時に、イエス様の心を引き継ぐ花嫁とならなければなりません。そうして、神の心を預けられる最後の段階にまで進まなければ、やっと神があなた方を通して安息されることになります。それだけでなく、イエス様と聖霊も安息し、私たち人間も安息することになりますが、今日の人々はこれをよく知らないのです。
 今日の信者の中には、天の恵みを受けて楽しいと言って、自らの安息所を求める人がいますが、そうしてはいけません。彼らにはまだゴルゴダの道が残されています。ですから、今こそあなた方は常にゴルゴダの道を越えたイエス様の生涯を見習って努力しなければなりません。イエス様が望まれる意志を成し遂げる相対的な立場から、イエス様を安息させなければならない天啓の意志が、あなた方に残っていることをしっかりと理解しなければなりません。
 さらに進んで、天の言葉が私の体に宿ると同時に、その言葉の実体であるイエス様と聖霊が宿り、言葉の主体である神が宿れるとき、ようやく目的が達成されるのです。あなたがたが創造の価値を代替する存在として天の前に立たなければ、ようやく神は自らのすべての業務を託し、安息できるようになるのです。
 このように、膨大な宇宙的使命を負っていくことがキリスト教徒の足取りであることを考えると、今日の信者はただ座っているだけではいけません。この地上に新しい命の運動を起こさなければならないのです。しかし、あなたがたがそのような道を進む中で、言葉の聖所である言葉の安息所を軽んじる者がいるならば、その人こそがあなたの敵であることを知らなければなりません。
 今度は、あなたがた若者たちが、キリスト教会の牧師たちができなかったことを代わりに立って行わなければなりません。今日、多くの牧師たちが群れを誤って導いています。これはただ単に既存のキリスト教会の牧師長老を批判するための言葉ではなく、事実がそうであることを示しています。ですから、彼らがこれまでに神の意志を誤解し、羊の群れを散らしてきたので、もはや彼らに従うのではなく、群れが群れを求めて集結しなければならないのです。この使命を理解し、今日の集まりや運動が統一思想であることをあなたは知るべきです。
 あなた方の中には、生命が躍動している若者男女がいますか? そのような人がいるなら、今日の教会の牧師長老の前で天啓を立証し、彼らの人格を批判し、敵対的な価値の前で裁定できる資格を持たなければなりません。その時に今日のキリスト教は再び生まれるでしょう。神の心情に反することは、天界のどの存在であれ、地上のどの存在であれ、容認しないと決心することです。
 あなたがたが今、統一教会に参加したら、既成の宗教概念を超えなければなりません。既成的で懐疑的な信仰概念を踏み越えなければなりません。これまでの信仰概念の立場では、神が安息できる聖所になれず、イエス様の実体を受け入れることができる安息所になれないので、それを無情に踏み越える覚悟を持たなければなりません。
 自分の野心を追求し、世俗的な条件を持って立ち上がろうとする欲望を持っていた本文のあの若者書記と同じような姿になってはなりません。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には、頭を置く場所がない」(マタイ8:20) とイエス様はおっしゃいます。天の道であり、天啓が動く道であると言われるその立場に立つには、自分のすべてを捨ててその道を歩む必要があります。そのような足跡を歩む人であり、天啓の意志を受け継ぐべき一人の後継者となる人であることです。
 歴史の過程におけるすべての先祖を振り返ると、ノアは120年間苦労し、ヤコブは21年間苦労し、モーセも120年間苦労したことを知ることになります。また、イエス様も33年間の前世で苦労しました。しかし、もし早くも安息し、楽しもうとするのであれば、あなたたちは天の強盗であり、盗人です。天が先に休む前に私たちが先に休むことは、盗むことであり、強奪することです。
 そのため、今あなたたちはイエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には、頭を置く場所がない」と述べられたその心情を同情しなければなりません。そうしたとき、天もまたあなたたちを同情するでしょう。
 また、あなたたちはイエス様がイスラエル民族のために夜を徹して祈り、神だけが私の安息所だと叫んだその心情を感じなければなりません。血が枯れ、肉と骨が溶けるかのような、言い表せないほどの天の悲しみを抱え、民族や世界を抱きしめ、黙って涙を流されたその心情を胸の奥深く感じなければなりません。
 あなたたちの中に、このような心情を抱き、異端者の怪物と呼ばれ、滅ぼされると嘲笑される人がいたとしても、彼は決して滅びません。イエス様は今までそうした人を探しに来られました。イエス様はそうした人を直接自分の安息所として見つけました。だからこそ、今、堕落した人類の前には、言葉の主体を探し、実体の花嫁を探して、永遠の神を代わりにする実体として立たなければならない、このような運命の任務が残っていることをあなたは知らなければなりません。
 すると、その言葉の法を探し、立てる際に、その言葉を中心に、自分の体をどうすべきかを? 無限の神の光を反映させなければならないのです。これを創造理念に基づいて見ると、私たちの心が太陽を象徴しているのであれば、私たちの体は地球を象徴し、すべてのものは神の言葉の法を象徴しているということです。つまり、すべてのものは神の言葉を象徴し、地球は人間の体を象徴し、太陽は人間の心を象徴しているのです。
 そのため、永遠の神の創造の力が太陽を形成し、その太陽を中心に地球が回り、そして地球の動きに従ってすべてのものが成長し、一つの秩序だけで摩擦がないようなそのような過程を経ています。同様に、あなたたちも神の愛を中心にし、神が動けばあなたたちも動き、神が定めばあなたたちも定めなければなりません。神がどこに行かれようとも、あなたたちを切り離して動くことのできない感情的な関係を維持しなければなりません。
 そのような立場から、あなたがたが永遠の神とイエス・キリスト、聖霊、そしてイデオロギーを求め、その言葉の法を通過できる安息の地に立つとき、やっと創造主である神の代理的存在として、または万物の執事として現れることができるということです。
 しかし、今日、あなたたちは神に対して顔を持たず、地に対して顔を持たず、万物に対して顔を持ちません。このような歴史的な使命をまだ支えきれていないあなたたちが、大声で何かを言うことはできないということです。それゆえ、あなたたちはそのような宇宙的な使命が自分に残っていることを心に留めておかなければなりません。
 イエス様は自分の進む道に誰かが妨害しても、それが単なる妨害ではないことを知っていました。自分の道を阻む敵がいても、結局は自分のために立っていることを知っていました。ですから、イエス様は彼らを許し、愛することができ、最終的にはその敵にさえも祝福を与えることができたのです。
 そのため、今、あなたたちは自分の進む道の前に敵が現れることは、あなたたちが正しい道に進むべき場所であるがゆえに、それを前面に出して自分を目覚めさせようとしていることを知らなければなりません。ですから、あなたたちはそのような敵にも祝福を与える心を持ち、世界的なゴルゴダの道を開拓していかなければなりません。そのようにして、あなたたちはその世界的なゴルゴダの道を越えて、あなたの身体と心に神とイエス・キリストと聖霊が備わる安息の楽園を持たなければなりません。サタンとのすべての戦いに勝利して、サタンまでもあなたは神の子であると祝福し、神の前に讃える存在とならなければならないということです。
 さらに、そのサタンを神の前に引きずり出し、このサタンが6000年間にわたって人間を支配してきた敵であるとして、神の前で裁判を求める人にならなければ、宇宙を支配する支配者として立つことはできないということです。今まで6000年間、人間がサタンの前に引きずり出され、訴えられたので、今度はあなたたちがサタンを神の前に引きずり出して訴えることができなければなりません。
 そのため、今あなたたちは神の心情に触れ、神の言葉の法を通じて身を持たなければなりません。そうすることで、ここには何の誤りも摩擦も生じません。ここにはただ、神中心のイデオロギー統一、行動統一、生活統一だけがあるでしょう。そして、そのようになると、神はこの地上において永遠の安息所を見つけ、人間とともに永遠に楽しまれることになります。これを心に留めてください。


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