人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集3(21)

2024年05月18日 15時50分03秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3-21 神の選民である選ばれたイスラエルになろう 1958年2月9日(日)

1958年2月9日(日)、前本部教会。

聖書拝読 : 創世記 32:1-28、使徒行伝 1:6-11


<祈祷>

この時間、この場所に伏しているこの息子娘たちが、自分の心が暗闇にあるのか、自分の体が暗闇にあるのか、自ら調べることができるように許してくださり、自分を中心とする心や疑う心を持たないように導いてください。


ただ私たちを探しに来られたお父様の心情と、私たちの哀れな体を抱こうとする内なるお父様の心を慰めることができる真の息子娘となれるように許してください。


私たちが悲しみを感じるならば、6000年の歴史の悲しみを感じさせてください。私たちが苦しみを受けなければならないならば、6000年の苦しみを代わりにさせてください。お父様! 私たちがこの地上に住む間、あなたを裏切ることがないように許し、私たちの体がサタンの鎖に縛られて悲しみの条件を作ることがないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


今、あなたの息子娘たちが集まりました。そして、ここの主人はあなたです。この時間、彼らの心が勝手な心にならないように許し、彼らの体が勝手な体にならないように許してください。ただ父を頼り、お父様の憐れみの心に満たされ、お父様の愛の懐に抱かれることができるこの時間を許してください、切に願い求めます。


今、朗読された言葉を通してヤコブが私たちの信仰の標準となることを知りました。一つの意志のために生涯を捧げて努力してきたヤコブの信仰心を私たちが見習うことができるようにし、その心情を体感できるように許してください。私たちの足跡、私たちの心がお父様の意志を代行し、お父様の道を守ってお父様に栄光を捧げることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


お父様が命じた言葉に従うことでお父様の力を現すことができるようにし、不足な私たちをお父様の前にさらけ出します。どうか目のような光で見守ってください。足りないところがあっても、お父様、許してください、切に願い求めます。


暗闇の中に捕らえられているこの民族の中には、行く道を知らず、命の道を知らずにさまよう息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らを導いてください。最後に許される恵みを許し、命の言葉を民族の前に証しすることができる私たちを許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


そして、哀れなこの民族を通して世界のすべての人々がお父様の前にひざまずくことができるようにし、サタンをこの地上で頭を下げさせ、サタンに対して勝利した感動と喜びで満たされるように許してください、お父様、切に願い求めます。


ただお父様が主観してくださり、お父様の貴い言葉であらゆる罪悪を清算し、命の道を見つけるこの時間を許してください。そして、心と体を完全にお父様が直接主観してくださるように切に願いながら、主の名によってお祈り致しました。アーメン。


<説教>


皆さんとしばらく考えてみようと思う説教のタイトルは「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」というタイトルでしばらくお話しします。


創世記にはヤコブが厳しい努力の道を歩んだ後にも天を代わって試みを受けた内容が記録されています。


ヤコブはその試みの過程で自分がイサクから祝福を受けた選民であることを心に抱いており、その意志を阻もうとする天使と最後まで戦いました。それで勝利し、神が許された選民の権利に入ったことを私たちは知っています。ヤコブが神の意志を中心にあらゆる逆境と戦って勝利したことから神が許したのがイスラエルという名前です。今日私たちはイスラエルという言葉を多く使っています。


しかし、これは単なる名前に留まるものではありません。この言葉は歴史的な命を代弁する名前であり、天と地を復帰するために、アダムからヤコブまでの2000年の歴史を終結させることができる勝利の名前であることを忘れてはなりません。また、神がヤコブを立ててイスラエルという祝福を与えたとき、神に喜びがあっただけでなく、反対に悲しみもあったという事実を私たちは悟らなければなりません。


ヤコブを苦しめた神の意志


神がヤコブを探し出し数千年の間努力し摂理したのはヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落したことで神が与えた祝福を失いました。その祝福を取り戻すためには言い難い悲しみがありました。ヤコブにイスラエルという名前を祝福する神にはこのような悲しみの心があったことを知るべきです。


神がイスラエルという祝福の言葉を与えたのは、ヤコブの一代にだけ許された言葉ではなく、創造の理念と理想を代弁する言葉であり、神の全体の心情がこの一言に込められていることを知るべきです。


それゆえにラバンの家で数十年間苦労して疲れ果てたヤコブ、神が許したカナンの地を築くために困難な生涯を歩んだヤコブはイサクの手を上げて祝福した天の意志を実践する中で財産を含む自分が持っているすべてを失いながらエドムの地のエサウを訪ねました。


しかし訪ねた故郷は自分の一代に幸福をもたらす故郷ではなく、喜びの場ではありませんでした。慣れ親しんだ故郷と兄を訪ねながらも心配しなければならない状況に置かれていました。これはヤコブ一人だけが経験した状況ではなく、すべての人類が歩まなければならない道であることを忘れてはなりません。


故郷に向かうその前にはヨルダン川が横たわっておりヤボク川が横たわっていて、許された祝福の地を前にして一晩中眠れず涙を流して祈らなければならなかった状況は、先祖が残した状況であり、天倫の摂理を運営するお父様の状況であったことを、ヤコブは誰よりも痛感していたことを知るべきです。


このような状況はヤコブの一代だけが経験したものではありません。選民イスラエル民族が歩んできた歴史の道のりでも、神の意志に従って現れたすべての先知先烈たちは、すべてこのような心情を抱いてお父様の懐に帰るために暗闇の壁を前にして戦いの峠を越えなければならない状況に置かれていたことを心に留めておくべきです。


ヤコブがハランで家族を築き成功を収めたが、次に越えなければならない峠、すなわちヤボク川での天使との戦いがありました。これをヤコブの子孫たちは知りませんでした。つまりヤコブの子孫たちはエジプトに入って400年間、ファラオの手の中で民族的な試練を経験しなければならなかったのです。
この時、モーセが現れ、イスラエル民族を再び集め、昔ヤコブから約束されたカナンの地を回復しなければならない責任を負いました。


ヤコブの一代で築かれた勝利の基盤と同じような民族的勝利の基盤を、イスラエル民族はエジプトで築かなければなりませんでした。つまり、イスラエル民族はエジプトで疲れ果てた状態で、ヤコブがヤボク川で天使と戦い勝利した基盤を敵の国で築かなければならなかったにもかかわらず、これを築くことができませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は団結して民族的な天の試練を通過しなければならない立場にあったことを忘れていたのです。


このような立場にあった民族を再び集めるために、天はモーセを立て、民族を代表してファラオの宮殿で40年間準備させ、ミディアンでの40年間の牧羊生活の道を歩ませたのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブがかつてヤボク川で成し遂げたその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成し遂げていなかったため、これらを再び集めるためにモーセはヤコブのような民族的な道を歩むために荒野に向かうことになりました。


ヤコブがエサウの祝福を代わりに受けてハランの荒野に向かったのと同じように、モーセもイスラエル民族を代表して神から再び祝福を立てなければならない責任を負いました。このようなモーセは同胞が団結せずに争うのを見て憤り、また民族が異邦人の前で不当な扱いを受けるのを見て、その異邦民族に対抗して命を賭けて戦いました。


このようなモーセの後を追ってエジプト民族に対抗して戦わなければならないイスラエル民族が、むしろモーセを追い出す立場に立ちました。これはちょうどヤコブが神の祝福を受けて故郷を離れたのと同じ立場でした。また、ヤコブが祝福を受けるべき家庭を離れ、サタンの家庭に行ったのと同じように、モーセも祝福を受けるべきイスラエル民族をエジプトに残し、ミディアンの荒野生活40年の道を歩むことになりました。このようにモーセが荒野に向かった事実は、モーセ自身にのみ該当する問題ではありませんでした。


ではなぜモーセはこのような道を歩まなければならなかったのでしょうか。それはヤコブが神の心情を代行して築いた勝利の基盤が失われたからです。そしてこの基盤を民族的に再び築かなければならない責任を、誰よりも痛感したのがモーセでした。敵の手で苦役を経験しているイスラエル民族のために、誰よりも切に祈ったモーセ、1日1時間でも苦役の道を歩んでいるイスラエル民族を忘れたことのないモーセの心情を、皆さんは骨身に染みて感じるべきです。


牧羊者として荒野で孤独な生活を送る自分の事情が悲惨であっても、自分の悲惨さを忘れ、エジプトの地で敵に苦しめられながら苦労しているイスラエル民族を見て同情の涙を流したモーセであったことを皆さんは知るべきです。このようなモーセの孤独な事情と心情が天に通じ、モーセが天のために心配し、選民のために代表的な姿で現れたため、神はモーセを再び呼び、ファラオの宮殿に派遣したのです。


これはちょうどヤコブがエサウを恐れて21年間ラバンの家で苦労し、その後すべての財産を持ってエサウのいる場所に向かう道と同じです。このようにモーセもヤコブと同じ困難な道を歩んだことを皆さんは知るべきです。こうして3つの奇跡を示し、言葉を代行するアロンとミリアムを立て、天が命じたファラオの宮殿に向かうことになりました。


しかし、ここで何が起こったのでしょうか。モーセの道は神が後援する立場ではなく、寝ているモーセを殺そうとする事態が発生しました。これもまたヤコブが歩んだ道と同じです。ヤコブがヤボク川で天使と格闘しているとき、腰の骨が折れるのも気づかずに戦ったその事情を通らなければならないモーセの立場だったため、モーセもまた神の前で同じ立場に立たされました。モーセはこの試練を無事に越えた後、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代行して民族的なイスラエルの祭壇を築くことができたのです。


モーセに対するイスラエル民族の責任
さて、ここで私たちが知っておくべきことは何でしょうか。私たちの祖先であるヤコブとモーセだけがこのような道を歩まなければならず、このような責任を負ったのかと言えば、そうではありません。ヤコブだけがこの責任を果たすのではなく、ヤコブの家族全員もヤコブ以上に切実な心情を持って天の前に訴え、責任を果たさなければならない立場にあったのです。しかし、ヤコブに従っていたその家族はこの事実を知りませんでした。これが天の悲しみだったのです。実際にはヤコブよりも家族がもっと切実に感じるべきでした。


イスラエル民族を探しに出たモーセ、神がミディアンの荒野で天地は変わってもあなたの約束は変わらないと仰せられた言葉を信じて進んだモーセは、固い覚悟と決意を持ってイスラエル民族の前に再び現れました。このような立場にあったモーセには神の試練だけでなく、ヤコブがエサウから受けた反対と同じファラオの宮殿の反対がありました。皆さんが原理を学んでよく知っているように、ヤコブが十回騙されたことを蕩減する10の災いをエジプトに下してファラオを屈服させることで、イスラエル民族は二度目の民族的な祭壇を築いたのです。


では、神に悲しみがあったとしたら、それは何だったのでしょうか。それは敵による悲しみではありません。また、神に悲しみがあったとしたら、それは敵が悪かったからではなく、神の苦労の道を追っていたイスラエル民族の祭壇が崩れたことが神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。
60万の民を率いてカナンの地に入らなければならなかったモーセには、また別の試練が立ちはだかっていました。それが紅海の道と荒野の道です。これは何を意味するのでしょうか。それは、モーセが個人的に歩んでいた試練の荒野の道を、民族としても経験しなければならないことを意味します。このような運命にイスラエル民族を追いやったことを皆さんは知るべきです。


荒野でイスラエル民族はモーセが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モーセが座れば自分たちも座り、モーセが行けば自分たちも行かなければなりませんでした。つまり、60万の民が全員第2のモーセとなって、モーセと神を代行しなければならなかったのですが、彼らはそれを忘れていたのです。言い換えれば、神がファラオの宮殿から彼らを引き出したときには感謝し、自分たちを愛する神だと認識し、固い約束が残っているのでカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族だったのです。


では、なぜこの民族は荒野で倒れてしまったのでしょうか。それは、40年間の荒野での放浪生活と牧羊者の生活を送りながらも、神が愛する選民のために節操心を持って戦い続けていたモーセの心を持たなかったからです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたならば、荒野で倒れることはなかったでしょう。


民族を代表して民族的なイスラエルの祝福を築こうとする神の願いは、民族を代表するモーセとその民族が一つになることでした。しかし、二つに分かれたために民族を代表するモーセも崩れ、民族を導くモーセが崩れるとイスラエル民族も崩れたのです。これを皆さんは知るべきです。
それでは、荒野に出て空腹を覚えたときにうずらを与え、マナを降らせて食べさせた神が、なぜアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃することを許されたのでしょうか?これは、人間が天倫の意志に反逆したために、人間が天倫の意志を追い求めようとするときに、神も反対の立場から試練を与える摂理的な条件が残っているため、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。このような天の切ない心情があったことを皆さんは理解しなければなりません。


この試練に通過できなかったために、死ぬはずのなかったモーセが死に、死ぬはずのなかった民族も滅んでしまったことを知っておくべきです。このとき、モーセには民族の指導者としての責任があったため、モーセ自身の過ちはなかったものの、不信の民族を代表してシナイ山に上り、食べ物もなく、衣服も着ずに倒れそうになるイスラエルを見つけるために、40日間の贖罪の祭壇を築きました。


もしイスラエル民族に選民の資格があったならば、モーセがシナイ山に上り、切に祈っているときに、その山を囲んで60万人が眠らず、食べずに天に向かって「神よ、私たちの指導者モーセを下してくださいますように」と祈ったはずです。しかし、そのような人は一人もいませんでした。


モーセが飢え、祈らなければならなかったのは自分自身のためではなく、民族のためだったのに、民族はそれを夢にも思わなかったため、滅びるしかなかったのです。モーセはヤコブがヤボク川で祈ったのと同じような難しい局面に立たされましたが、モーセに代わってイスラエルの60万人を導く人がいなかったのです。もしそのような人が一人でも現れ、民族を導いていたならば、彼らは困難な立場に置かれることなく、安らかな場所にいたでしょう。しかしそうならなかったため、サタンが民族を弄ぶことになったのです。このような歴史の道を私たちの祖先が歩んできたのです。


試練と試練の意味
このようにして再びモーセに代わる指導者としてヨシュアとカレブを立て、2世たちを引き連れてカナンの地に入ることになりました。イスラエル民族はカナンの地に入ってからは聖殿の理念を実現し、聖殿と一体となるべきでした。しかし、この立場に立つことができなかったために、イスラエル民族は倒れてしまいました。このように、言葉を中心に一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見放されるのです。


アダムとエバが全被造物の主人公になることができなかったのですが、この被造物は言葉を中心に6期間を経て作られたため、万物復帰の民族的な峠を越え、世界的な峠を越えるときには、必ず6数の過程を経て神の言葉を立てるか立てないかの試験、つまり天使長がアダムを攻撃するということが起こるのです。


そのため、イエスが来る6世紀前にイスラエル民族は旧約の言葉を守るか守らないかの試験を受けました。つまり、天がイスラエル民族に使命を世界に広めるべき時が来たときに、民族が試練を受けるのです。これがイスラエル民族がバビロンに捕らえられた期間なのです。過去に神を裏切ったこの民族が再び言葉を裏切るか、裏切らないかの重要な岐路に立たされました。


天を裏切った民族だったため、天に代わってこの民族が新しい6数の出発点を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。そこでバビロンにイスラエル民族を占領させる時があったのです。


そのとき、イスラエル民族はどうするべきだったのでしょうか?神が与えた言葉を握りしめ、モーセが荒野をさまよいながらも神を敬い民族を愛したその心情を持ち、敵国であるバビロンに行き、最後まで戦ってこの言葉を守らなければなりませんでした。そのような民族でなければならなかったのに、そうならなかったため、イスラエル民族は崩れ去ったのです。


旧約聖書を中心に二度目の民族的な言葉の基準を復帰しなければならなかった歴史的な道のりに立ったイスラエル民族が、神の選民としての節操を持っていたならば、たとえバビロンに捕らえられたとしても、モーセのような新しい指導者が現れ、彼らを導いたことでしょう。


しかし、6世紀が過ぎた後にどのような形が現れたでしょうか?使命があってヤコブがエサウの直系を無視し、モーセが選んだイスラエル民族を無視したのと同じように、イエスが地上に来られて使命があってエサウの立場にいたイスラエル民族がエサウ的な言葉である旧約を無視して進み出たとき、歓迎されるべきエサウの立場にいたイスラエル民族がイエスを歓迎しなかったため、世界的な死の権を形成したのです。


それでは、このイスラエル民族はどのような形でしょうか?エデンの園でアダムとエバを試した天使長の形に似ているのです。そして、今から500年前には新約聖書を攻撃することがありました。つまり、人本主義思想を中心とした文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とした封建社会が根本的に崩壊したのです。


教皇庁の主権が崩れ、フランスの攻撃によってアヴィニョンの捕囚期間を経る運命にありましたが、これは何を意味するのでしょうか?復帰の道においてこのようなイスラエル民族を代わる第二イスラエル民族がイエスの時代に形成されるべきでしたが、第二イスラエル民族を代わる新しい使命を担ったキリスト教が使命を果たさなかったため、キリスト教を世界的に攻撃することになったのです。これを皆さんは原理を通してよく知っています。


そこで教皇は天の前に悔い改めるべきであり、神が立てた節操を持つべきであり、最後までこの意志を継承して今日に至るべきでした。それでは最後の時にどうするべきでしょうか?そのときに残された既成の言葉と既成の教団はエサウの立場にあり、イスラエル民族の立場に立っていることを彼らは知るべきです。


キリスト教信者に対する神の願い
それゆえに、神に願いがあるとしたら、その願いは何でしょうか?堕落によって失われたこの世界の人類を代わって見つけられた選民イスラエルを復帰することが神の願いであることを皆さんは知るべきです。イスラエル民族を復帰しようとする天の摂理の意志を皆さんが理解すべきです。
ヤコブを通して、モーセを通して築かれたイスラエル民族は、2000年前にどこへ行ったのでしょうか?彼らはイエスの前に敵となりました。イスラエル民族とユダヤ国家を世界復帰の足場として立て、この足場を中心に世界的なカナン復帰の電撃戦を展開しなければならなかったイエス・キリストの道のりでしたが、イエスが亡くなられたことで、イエス様はモーセと同じ状況に置かれました。それで今日までキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じく、荒野の道に留まっていることを皆さんは知るべきです。


それでは、イエス様はこの地に来られて選ばれた第2イスラエルを回復し、ユダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならなかったのですが、この責任を負ってイエスの前に立った選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのでしょうか?また、ユダヤ教はどこに行ったのでしょうか?イスラエル民族が消え、ユダヤ教団が消え、イスラエルの家庭が消え、ヤコブやモーセのような個人的なイスラエルも消えたため、哀れなイエスが死んでいったのです。


イエスは死にたくて死んだのではありません。今日の既成の神学者たちは、イエスが死ななければならなかったと誤解しています。民族と教団の前に追い詰められ、家庭から追い出され、12弟子に裏切られ、最後には3弟子にまで裏切られ、行く先は死ぬ場所しかなかったのです。


イエスが30余年の生涯を哀れに過ごすことが、神がイエスを送った目的ではありませんでした。イエス様は天の皇太子であり、一人で創造の理念を代行できる天下の主人公として送られたのです。神が愛する独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが間違ったからではありません。民族と教団が理解せず、社会と家庭が理解せず、イエスは苦難の道を歩んだのです。
このようにイエスを殺した歴史的な罪を犯した我々にとって、イエスが探し求めたイスラエルはどこにあるのでしょうか。心から訴えなければなりません。また、イエスが探し求めたイスラエルの教団はどこにあるのでしょうか。心から祈らなければなりません。イエス様が2000年前にこの地に来られてイスラエル民族と教団を探されたことを、皆さんは知るべきです。


イエスはこの地に来られ、選ばれた第一イスラエルが反対したために亡くなられました。そのため、イエスを信じるキリスト教徒たちを失った第一イスラエルに代わる第二イスラエルとして立て、世界に広め、再び再編成しておられるのです。今がまさにその時です。


そこで今日、世界中に広がってイエスを信じるキリスト教信者にはどのような使命があるのでしょうか。イエスを裏切って十字架にかけることで、最初に選ばれて立てられたイスラエルを失ったので、これに代わる第二イスラエルを建設しなければならない道が、今日のキリスト教信者に残されているのです。


今日、世界中に広がっているキリスト教信者は、どのような立場にあるのでしょうか。それは、イエスの12使徒のような人物を中心に、またはイエスの3弟子のような人物を中心にして一つの教派として団結しなければならない時なのです。しかし、そのような組織を失っているキリスト教は危機に瀕しています。モーセの前にいた60万人の民は、12部族の長と70人の長老を中心とした組織の中でそれぞれの位置が定められていたため、荒野の道を進むことができました。しかし、今日の第二イスラエルとしての使命を負った世界のキリスト教徒たちには、そのような組織がありません。


イエスの前に12使徒と3弟子が責任を果たさなかったため、イエスが亡くなったのです。したがって、世界中のキリスト教は、世界を代表する教派を中心に12教派の形を整えて結束しなければならない時期が迫っていることを知るべきです。


イエスは今、何をしているのでしょうか。イエス様は天の意志をこの地で成し遂げられなかったため、ヤコブやモーセが牧羊生活をしていたのと同じように、今もイエスはあの世で牧羊生活をしています。霊界に行って休むことなく、皆さんのために祈っているのです。これが牧羊生活です。


それと同時に何をしているのでしょうか。イエス様は今までの2000年の歴史の中でイエスを信じて進んできた人々、すなわちイスラエルとなるべき人々を集め、霊界で失われた第二イスラエルの形を作り上げたのが楽園です。イエスを殺そうとした第一イスラエルを失ったため、蕩減復帰の原則によってイエスの前に現れた聖徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した形が今日の楽園の世界です。


地上天国の主人公の資格
楽園の世界はどのようになっているのでしょうか。楽園の世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを迎える足場を地上に築かなければならない条件が残されているため、天上にいるすべての霊人たちは地上に再臨し、現在生きているクリスチャンを第二イスラエルの祝福を代行できる立場に立たせ、彼らと一体となって第一イスラエルがイエスを反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知るべきです。しかし、今日のキリスト教徒はこれを知りません。


今日の終わりの日はどのような時でしょうか。旧約の言葉を信じていたユダヤ民族が異邦人に攻撃されたのと同じように、新約の言葉を信じているキリスト教徒が攻撃される時があるのです。それで、人本主義思想を中心とした唯物論がキリスト教を攻撃しているのです。このように新約の言葉を信じるキリスト教が攻撃されている中で、言葉を守って進むことができる一つの教派が現れなければなりません。その教派は改革派でなければなりません。


モーセの時代において、幕屋を奉じていた時代が過ぎ、神殿を奉じる時代が来たときに、民族が結束して戦わなければならない試練が残されていたことをユダヤ民族は知りませんでした。そして、神殿を奉じていた時代から実体神殿を完成させる時代に移行するときにも、宇宙的な戦いが必要です。この戦いを防げなかったため、今日のこの戦いが世界的に広がったのです。


終わりの日においても同じように、皆さんは実体神殿を整えなければなりません。そして実体神殿を成した後には何をするべきでしょうか。地上天国を建設しなければなりません。


人間は堕落によって言葉を失いました。それで旧約・新約の言葉が出てきて人間を善の方向に導き、今や新しい言葉が出てきて、その言葉と一体となった人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は神だけを中心とする時代でした。しかし、宗教改革が起こり、その宗教改革によって神だけを中心とするのではなく、人間と結びつくことのできる神として考えるようになりました。人間たちはこのような過程を経てきましたが、今や実体神殿を復帰する時代に入ったのです。
それではここで、皆さんはどうすべきでしょうか。新約を中心とするこの時代において、将来世界的な聖約の理念が現れるとき、皆さんが世界を抱くことのできる主人公となり、イエスに代わる存在となる必要があります。地上天国の主人公になるためには、実体神殿を成した後、環境的な主人公にならなければなりません。このような存在になるためには、理念的な革命の過程を経なければなりません。


それでは、その過程はどのような形になるでしょうか。歴史は蒔いた種を刈り取るように、今日の世界的な終末時代においても、既成概念に属する信仰者たちや既成主義の言葉を持つ者たちは、すべて天を裏切る立場に立っています。彼らは誰かというと、天使長のような立場にいる者たちです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したのと同じように、終末のこの時代にも天使長のような霊的な教団が現れ、神の意志に対して反対する時が避けられなくなるのです。


神がこのような原則を通じて復帰摂理を進めることを感じるとき、終末にいる私たちはどうすれば選ばれたイスラエル民族になれるでしょうか。皆さんは決意しなければなりません。覚悟しなければなりません。皆さんはどのような人にならなければならないのでしょうか。皆さんはヤコブの後継者になるべきです。20年余りの生涯を経てヤボク川で信じて戦い続けたヤコブの代わりになるべきであり、荒野の道でイスラエル民族を支えながら祈り歩んだモーセ、あるいは世界人類を代表してイスラエルのためにゲッセマネの園で祈ったイエスに代わる人になるべきです。


終末にあるキリスト教徒の立場
それでは、今、世界中に広がっている第二イスラエルよ、あなたの行くべき場所はどこか?世界中に広がっているキリスト教徒は天に向かって訴えなければならない時が来ました。イスラエル民族が苦難の中でエジプトのファラオの宮廷を憎み、「誰が我々を約束の地カナンに導くのか」と指導者を求めてさまよったのと同じように、今日のキリスト教徒も自分の属すべき部族と位置を探さなければなりません。


そのために、既成教会は崩壊します。12の団列に分けることができるからです。どんなに取り締まっても、団列を編成して世界的な復帰の運命を超えなければならない立場にあるため、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会や家庭、個人においてその威信を失う時が来るのです。


イスラエル民族がエジプトにいるときには団列の編成をしませんでしたが、荒野を出発する時になって初めて団列の編成をしました。同じように、世界的なキリスト教も世界的なカナン復帰のための再臨の理想が近づいてきたため、団列の編成を開始すべき時が来たのです。


もし過去にイエスが地上でペテロ、ヨハネ、ヤコブを中心とした12使徒を通して団列を編成し、信者がその部族に属するようにしてから帰天されたならば、今日の世界のキリスト教は混乱を起こさなかったでしょう。これを再び整える時が来ています。しかし、最も底辺で拒絶された一つの集まりを立てて証言する時が来るかもしれません。統一教会がそのような教会かもしれません。


それでは今日の韓国キリスト教において霊的な働きをする者、新しい教派が出てきました。それらの派が今、教会を分裂させています。団列を編成しなければならないので、このような働きが起こっているのです。ここで問題となるのは何でしょうか。既成主義的な観念です。これは神の前に敵です。既成主義的な観念、つまり自分はエサウのような長子だから神の祝福を受けるべきだという浅はかな思想を捨てなければなりません。少しでも間違うとエサウの観念に立ち、イエスを殺したユダヤの民になる危険があります。


これを乗り越えなければならない歴史の終末に来ていますが、この関門をどう乗り越えるかが課題です。この時、誰が敵でしょうか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が敵になったのと同じように、アダムを復帰するために第二のアダムとして来られたイエスの前では、霊界の天使長の形に該当した当時のユダヤ教の祭司長が最大の敵だったのです。彼らは天使長の形を第二に受け継ぎ、イエスを攻撃したため、地獄に行かなければなりません。


今日の終わりの日にも、同様に世界中に広がる教職者たちが再臨の主の前に天使長となって天を利用して天を打つこのような形が現れるでしょう。しかし、たとえそのような立場に立っても、環境に影響されることなく、歴史の運命は越えていきます。この道を誰が歩むでしょうか。このような祭壇の前に新しい言葉を語り、新しい終末を告げることのできる一つの預言者的な使命者が現れなければなりません。しかし、彼らは既成教団の前に拒絶され、新しい段階に進むことになります。


すると同時に、どのような時代が来るでしょうか。霊的な世界の攻撃の時代が来ます。天使長がヤボク川でヤコブを苦しめ、モーセやイエスを攻撃したのと同じように、世界的な終末時代においても、地上のすべての人々が反対し、同時に天も攻撃する時代が来ます。


サタンの訴えを免れる信仰
イエス様が運命を迎えたとき、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と言われたのは、万宇宙の復帰の主人公を代行して現れたイエスが、宇宙を代表してアダムが天を裏切ったことを蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様は、あなたを知らないと言われても「知っている」と言ったため、その「知っている」という条件が霊的な復活を引き起こすことができたのです。皆さん自身にもこのような歴史的な岐路が残っていることを知るべきです。


今日の世界的な終末の運命が皆さんの生活圏に浸透していることを感じるならば、それは皆さんにとってモーセと民族が結束しなければならなかった時期を予告しており、モーセがファラオと戦った時代を予告していることを知るべきです。


それでは神の悲しみはどこから生じたのでしょうか。その指導者たちが間違ったからではなく、後に従った人々が間違って神を悲しませたことを知るべきです。
今日、皆さんは他の人が知らない道、他の人が歩かない道を進む目的は何でしょうか?皆さんは力を合わせて団結し、神が運行できる一つの団列となり、食べる時も飢える時も個体を忘れても天倫の意志に従って苦しんだモーセの足跡を守る後継者にならなければなりません。ヤコブの足跡の後継者となり、イエスが歩んだ道の後継者として使命を果たすべきです。これが終末の聖徒たちが選ばれたイスラエルの地に入るための条件です。


天に代わるイエスはこの原則を知っていたため、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と言いました。つまり、サタンを屈服させるためには、神を中心とした死の場を越えなければなりません。天が人間を拒絶しても揺るがずに信仰を持ち続けなければ、サタンが退き、サタンのすべての訴えの条件を取り除くことができるのです。


それでは、天は失われた第一イスラエルの形を霊的に立て、世界中の信者を第二イスラエルとして立て、彼らを一つにして第三イスラエルの建設を進めるのです。


したがって、今日の皆さんはアブラハムのような第三イスラエルの祖先にならなければならず、ヤコブに代わる第三イスラエルの祖先となり、民族の代表者であったモーセのような第三イスラエルの代表者となり、世界の代表者であるイエスのような第三イスラエルの代表者となるべきです。そして、皆さん自身が神の復帰摂理の歴史を振り返り、かつてお父様なる神を訴えたサタンを踏み越えて神を慰めることができる個人、民族、国家、世界にならなければなりません。


サタンとは何でしょうか。神に反対する逆賊です。しかし、サタンも神を嫌っているわけではありません。だからこそ、神はサタンを無視することができないのです。サタンも神を好んでいます。この条件があるために6000年もの長い年月を経なければならなかったのです。サタンも神を好む立場から、「アダムを通して万物を支配すべきこの意志を私に託して宇宙を支配させてください。そうすれば神の前に絶対服従します。」と申し出るのです。


サタンは神に対抗し、神の前で承認を得るための働きをしているのです。摂理の意志に最後まで反対して承認を得ようとする立場に立っています。忠臣を装う奸臣も王を嫌うことはありません。しかし、忠臣を排除して自分の言葉を聞いてもらおうとします。


このような立場に立つサタンの権内に全世界があるため、これを認めれば世界は神の前に戻ることができるのです。しかし、それができないのは天理の法度を破ることができないからです。神は法度の神であり、秩序を乱すことはできません。だからこそ、あらゆる苦労をしながらも、世界を支配するサタンを承認せず、世界を支配するサタンの前に人を立て、サタンの訴えを防ぐことが神の切実な心情でした。


もしサタンの訴えを防ぐ人が現れれば、神に対して何も言うことはできません。天理の原則が回復されるため、エデンの園で天使長がアダムとエバに支配されるべきという原則を掲げる主人が現れれば、すべてのサタンは根本的に屈服しなければなりません。それもイエス様のように霊界で神の座に行くのではなく、地上でその日を迎えなければならないのです。その日を迎える時が再臨の時代です。


皆さんはもう反対するサタンの立場に立ってはいけません。6000年の間、苦労された神の足跡を追わなければなりません。今日の終末の皆さんは、神の無限の世界の最初の出発点であるアダムの時代から今日までの復帰過程で苦労された神の心情を体感し、神の後を追わなければなりません。このような運命に置かれているにもかかわらず、夢を見ていないのは大問題です。


サタンの試練に勝つ道


「神よ、私を通して栄光を受け、安息を得てください」と言える天国の選ばれたイスラエルが必要です。この使命を代行したのがヤコブであり、モーセであり、イエスです。神がサタンと戦った戦いを引き継ぎ、サタンに対抗して戦う姿となってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天の前に立てられます。これにより、これまで神を訴えてきた戦争の目的が終わりを迎えます。どんな抗議も立てられないため、戦争は終わるのです。そのような人々を中心に第三イスラエル建設のための出発が始まります。


モーセの時代、エジプトの地にいたイスラエル民族には、自分たちの故郷であるカナンの地を攻撃する戦いが残っていました。イエスの時代には、イスラエル民族を中心に世界的なカナンの地を建設する戦いが残っていました。今日、第三イスラエルを建設すべき私たちには、団結して第三イスラエルを成し遂げるための激戦が残っています。


それでは、今日の皆さんはどのような人になるべきでしょうか。イスラエル民族を再編成する際、天に対して神の前に立つイスラエルの選民として、自ら3人組の一員となり、小隊長、中隊長、大隊長、連隊長、師団長になるべきです。このような天の精兵の指揮官になるのは誰かが問題です。これを行う時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてが一つの世界に統一されます。多くの人々が思想の統一を求め、地上世界が統一理念を求めているため、必ず天の理念を通じた統一の時が来ます。


これまでの歴史の過程ではどうだったでしょうか。二つが戦えば、その中で少しでも善なるものが勝ちました。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入るとどうなるでしょうか。地上よりも少し善なるものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。そのため、今日では原因不明の神経症が多く発生しています。薬では治りません。これは天地双和湯を飲まなければなりません。


天を和合させ、地を和合させるこの理念のために、霊界が地上を襲撃する時が来ました。地上人が地上で神の意志を代行する時なので、一つになるためには必ず戦いがあるでしょう。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心として合一する審判の時です。このように霊界が地上を襲撃する場で、地上を代表する総指揮官としての使命を持って来る方が再臨主です。
第三イスラエル建設の道の出発に立つ皆さん、どうすべきでしょうか?霊界の法度を知ることで初めて解放されるのです。その命令系統がどのようになっているかを知る必要があります。その国の軍隊は自分たちの軍隊で使われている暗号を知らなければ、戦争の際に自軍から攻撃されることがあります。


今は天国の暗号が聞こえる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代であり、これらの暗号を通じて連絡が取れ、作戦計画を実行でき、地上の統一理念を代行できる時代です。


今日、既成教会から反対される朴長老、私長老、統一教会、あるいは所謂異端派と呼ばれるもの、それで良いのです。現代は科学も宇宙時代を論じる時代です。人工太陽を作る時代です。このような時代に達しているのに、まだ古い宗教観念を持っていてはいけません。これを踏み越えて進む包括的な統一主義が現れなければなりません。


今日、暗号を通じて連絡が取れる短波装置があるのと同じように、神の秘密を通じて連絡が取れる短波装置を持っている者がいれば、その者は勝利するでしょう。だからこそ、霊界が地上を襲撃するときには戦争の方法が変わります。戦いは始まりますが、その限界はわかりません。このような形の戦いが地上で起こりますが、その時、良心を持つ人々はそこに動員されるでしょう。
今日、皆さんはこの終わりの日を迎えるために、良心的で善良な人々を犠牲にしてここまで歴史が進んできたことを知らなければなりません。私たちが堕落の運命に置かれている今日、最終的な一致の理念世界を探し求め、すべてを忘れて犠牲する覚悟を持つべきです。そして、イエスの肩に乗り、「神よ、私をお任せください」と自信を持って言える天の真の子供たちにならなければなりません。神もそのような子供たちが現れることを望んでおられます。


皆さんは、楽園世界にあるすべてを解放し、天国生活を紹介する使命がイエスや神にあるのではなく、今日の終わりの日にいる皆さんにあることを心に留めてください。イエスに代わりすべての作戦計画を担当し、神に代わって戦う代表者が現れ、責任を果たすことで、神とイエスを解放することができるのです。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利のイスラエルの道を探し求めるべきです。


そのためには、まず自分が所属すべき団列を探し、自分の指導者を見つけなければなりません。また、自分が天の前にどのような位置にいるのかを知り、揺るぎないモーセ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代わりになる存在となるべきです。そして、サタンに対しても、「あなたは万宇宙の創造理念を代行し、神に栄光を捧げる資格を持つ神の子供です」と称賛され、サタンから崇敬される存在となるべきです。そのようにして初めて、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代行し、神の前に立つことができるのです。


しかし、それに至る前に皆さんは大きな戦いに直面します。各教派が皆さんを攻撃します。霊的な試練もあります。モーセを神が試されたように、皆さん自身にもその道があり、モーセが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があります。イエスが十字架上で天に見捨てられたように、皆さんにもそのような試練があり、イエスが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があることを知り、それに失望してはなりません。


神の意志というものは簡単なものではなく、極めて難しいものです。ですから、皆さんは世界的な苦難を背負い、極めて苛烈な反対を受けながらも、戦いの道で倒れてはならないのです。世界と天地が一つの一致点を見つけるまで、皆さんは戦い続けなければなりません。


この過程で、皆さんはイスラエル民族がエジプトを出て荒野に出て、食べ物がない、水がないと嘆いたように嘆いてはいけません。誰も認めてくれないと責めてはいけません。自分を理解してくれるモーセのような指導者を一人だけでも見つければ、それが一番だと思ってください。自分を理解してくれる神だけを頼りにし、自分を理解してくれるイエス様だけを頼りにし、それが一番だと信じ、すべての人から拒絶されても、その方だけを頼りに進めば、その方が成し遂げることを自分が引き継ぐことができるという心を持たなければなりません。そうして初めて、皆さんは第三イスラエルの選民としての資格を持ち、神の栄光に参加することができるのです。


そして、神の栄光の姿になると同時に、歴史的な栄光の姿、全宇宙の理念を代行できる栄光の姿となるのです。つまり、私たちが栄光の子供として世界を代表して天の前に現れることで、神が初めて安息できるのです。


ヤコブに天使が祝福したような祝福ではなく、神が直接イエスに手を挙げて祝福しようとしたその祝福を皆さんに授けるでしょう。つまり、終わりの日に見つけられた皆さんに、神は手を挙げて「イエスに代わる私の子供たち、永遠の第三イスラエルの主人公としての私の子供たち」として祝福し、永遠に天が喜ぶことのできる実体的な喜びと栄光と美の存在となるよう祝福するでしょう。


このようにして、イエスの愛を通じて神の愛の領域に入り、神の愛を成し遂げることで、第三イスラエルの先祖となることができるのです。




<祈祷>
天のお父様、霊界では第二イスラエルの名のもとに団列が編成されていますが、今日の世界に広がるキリスト教が第二イスラエルの団列を成し遂げていません。お父様、眠っている民族を目覚めさせ、眠っている世界のキリスト教徒を目覚めさせ、地上で第二イスラエルの祝福を代行できる団列を組織し、霊界と一つになり、今日第三イスラエルを世界的に建設できる選民権を私たちにお許しください。


そして、団列で組織された種族を通じて、民族を通じて、国家を通じて世界に至る天的な使命を私たちが引き継ぎ、モーセが戦った道を引き継がせてください。イエスが戦った道を引き継ぎ、サタンの非難と訴えを退け、お父様を迎えることができるようにし、お父様の栄光を私たちにお許しください。お父様、心から願い求めます。


今日伝えられた言葉を受けて、神が選ばれた選民イスラエルの苦難を乗り越える喜びの子供として私たちを立ててくださいますように、そして、彼らが世界カナン復帰の道を成し遂げることを許してください。今、サタンとの戦いの道で私たちが一つに結束し、勝利するように、そして、中心的なイエスの意志に反逆する者とならないようにしてください。中心を苦しめる者とならないようにしてください。


モーセを非難した民族でしたが、イスラエルの建設のために天が必要とされました。今、私たちが天を心配させることなく、第三イスラエルを成し遂げることができる子供たちとしてください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集3(20)

2024年05月18日 15時07分33秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3 - 20. 神様を迎える者になろう (1958年2月2日)

1958年2月2日(日)、前本部教会。

ヨハネによる福音書 14:1-17



<祈祷>

 愛のお父様! お父様の御前に伏しているこの子供たちが、お父様が望む清らかな心と体を持てるこの時間をお許しください。
 お父様が行われる時、お父様のご臨在を感じられない心と体を持つ者がいないようお許しください。同時に、心をもって体をもって自分自身をお父様に捧げることができるように、そしてお父様の切なる心情が私たちの心を通じて私たちの体にまで伝わるようお許しください。
 天が今切実に求めているように、私たちも切実にしてください。お父様が宿ることができる聖殿を築けるようお許しください。
 何もない者たちを探すために6千年という長い年月を歩んで来られたお父様を抱きしめて泣くことができる者にしてください。すべての虚しい罪を脱ぎ捨てさせ、お父様の胸に抱かれる心、切なる心情に満ちる心を持てるように、私たちの心と体に満ちる愛をお許しください。
 この地には多くの人がいますが、お父様の心情を知る者はおりません。自分の子供を愛する人は多いですが、お父様の心情を知る者はこの地にはおりません。お父様、あなたを知らないこの地の全ての人々を哀れんでください。
 特にこの韓民族、三千万の民を哀れんでください。お父様、あなたの憐れみの手がこの民族にあれば、この民族には何もなく、誇るものもなく、お父様に捧げるものもありませんが、困難な道を歩んで来られたお父様の事情を心配して身を置く場所がありません。お父様、この国に訪れてこの民族を導いてください。
 世界の人々の心を一つにし、お父様の御旨を受け、お父様の祭壇を築くことができる誇り高きお父様の息子娘がこの民族から多く出ることを、お父様よ、切に望み願います。
 お父様は無限に私たちを心配しておられ、お父様のために切に願う子供、そのような教団、そのような民族があれば、お父様が訪れて安息したい切なる心情があることを知っています。どうか今日、私たち一人ひとりがお父様に身を捧げ、私たちの心がお父様を慰めることができる子供たちとなることをお許しください。
 そして、お父様ご自身が私たちに臨在し、私たちの進むべき道や、私たちがお父様のために戦い進むべき道を親しく示してくださる憐れみのひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 今日、私たちはお父様の言葉に接しようとしております。お父様、私たち自身のいかなる主張や観念も残らないようにお許しください。ただお父様の言葉に浸り、その言葉が再創造の歴史を起こす土と水となるようにしてください。そして、お父様の御姿に造られるひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 柔和謙遜の捧げ物としてお父様が命じられた言葉を切に待ち望む心情を持つことをお許しください。そして、その言葉によってお父様の御姿とお父様の聖像に似ることができる再創造の歴史がこの時間に現れることをお許しください。私のお父様、切に望み願います。
 伝える者の心も受ける者の心も一つにならせてください。死んでも同じ意志のために共に死ぬことができ、生きても同じ意志のために生きることができ、言葉を聞いても同じ意志のために喜んで聞くことができるこの時間をお許しください。サタンが喜ぶ隙間を作らないようにお許しください。お父様、切に望み願います。
 イエスが愛する弟子たちと人類を残して十字架の道を行かなければならなかった切ないその心情を共感しながら、歴史は過ぎましたが、今、私たちの心と体で先祖たちの心情を共感し、その心情の対象者として責任を果たすことができるように、お父様、この時間に再創造の歴史を起こしてくださることを切に望み願います。
 この時間も多くの聖徒たちが時と機会を知らずに自分を主張しながらあなたの前にひれ伏していることでしょう。お父様、集まる場所ごとに愛の手を差し伸べ、摂理の賜物を共に分かち合えるよう導いてください。そして、勝利できるようお許しください。切に望み願います。
 孤独に地方に散らばっている家族が、このひとときひざまずいてお父様の前に訴えていることを知っておりますので、一律の賜物と一律の愛の手を彼らの体と心に下してくださるよう、切にお願い申し上げます。この時間、ただ生ける捧げ物としてお父様の胸に抱かれる憐れみの賜物だけを許し下さるよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も天のもとに行くことができない」という言葉を中心に、皆さんに少しお話しさせていただきます。お話ししようとしているタイトルは「神を迎える者になろう」です。
 今日、この地には多くの人々が住んでいます。彼らはそれぞれのビジョンや意見を持ち、また何らかの主義主張を持って生活しています。しかし、心から体から神を礼拝し、神を主張しながら神から遣わされたと天と地の前で自信を持って立ち上がる人はいません。
 今日、この地の多くの人々が自分のビジョンや主張を掲げて生きています。しかし、彼らの主張や行動が天倫の意志や天倫の摂理と一致していなければ、いずれは必ず転覆してしまうことを私たちは歴史の過程を通じて何度も見てきました。
 では、今私たち人間が最終的に求めるべきものは何か?それは、自分の主義主張や自分の何らかの主観的な行動をすべて放棄し、自分の心と体を神に代わり、自分が神に代わって行動していると主張し立ち上がることのできる人がこの地に現れることを、今日まで歴史を経て去っていった多くの人々が望んできたということです。また、天はこのような代理者が現れることを望み、無限の労苦と忍耐をもって長い間摂理してこられたのです。皆さんはこれをよく知っておかなければなりません。
 ですから、この地上の悲しみとは、何かの主義がないから悲しいのではなく、行動する人がいないから悲しいのではありません。神の心情を代弁し、神の意志を代わって主張できる主義がなく、神に代わって行動する人がいないことが悲しみであり、悲しみなのです。
 今日、この地と人間社会に広がっている嘆きと苦痛、そして根深い怨恨を取り除くためには、神を代弁し得る主義の主張と、神を代行する一人の人物が現れる必要があります。ですから、摂理の目的もこの一人の人物であり、歴史の目的もこの一人の人物であるということを、皆さんは改めて認識する時が来たのです。
 神が人間を中心にして、天地万物と共に享受しようとした創造理念は、私たちの祖先であるアダムとエバの堕落によってこの地上で実現しませんでした。神が言葉を通じて6日間で創造したすべての存在は、その言葉を成就するための対象だったのです。つまり、すべての万物は神の言葉の実体対象なのです。
 では、万物が言葉を通して実体対象として現れた後、何を望んだのでしょうか?神の愛を中心にして、神が動けば万物も動き、神が止まれば万物も止まることができる一つの仲介者、一つの中心を望んだのです。もし人間がそのような中心であったならば、今日この地上で起こっている混沌とした歴史はなかったでしょう。
 神の希望も、神を代弁し、神に代わって行動できる一つの存在が現れることです。これは単に人間の堕落後の摂理歴史の過程で望まれたことではなく、創造当初から現在に至るまで望まれた希望の中心であるということです。皆さんはこれを理解しなければなりません。
 では、この希望の中心とはどのような存在でしょうか?それは、言葉を代弁する存在であり、言葉の実体です。同時に、神の愛を中心にして生命の実体とならなければならないのです。これが問題なのです。このように生命の実体となる時に初めて、神の姿を代弁する実体を成すことができ、神の言葉を代弁する一つの主義の主張を持って現れることができるのです。
 聖書の言葉の中に「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)という言葉があります。つまり、イエス様は道であり、真理であり、命であるということです。これは全人類の前に何を示唆しているのでしょうか?それは、アダムとエバの堕落によって神の言葉が成就されず、その言葉がそのまま神の心情に戻ってしまったが、言葉を失った人々も依然としてこの地に生きているため、神は再びこの言葉を人間に与えるということを示唆しているのです。
 創造当時に神様が言われたその言葉と人間が関係を結んでいることから、その言葉を変わらぬ一つの目標、一つの希望として今まで求めてきたのです。したがって、この言葉を成就するために言葉の実体が来なければならないのです。
 神の言葉を代弁するこの地上の実体はどこにあるのでしょうか?その実体を探し求める過程が、神が6000年間苦労された摂理の過程であることを皆さんは理解しなければなりません。五日間で創造されたすべての万物は言葉の実体を持っていますが、六日目に創造された人間は神の言葉の前に立ちながらも言葉の実体を備えることができず、今日に至っています。このように言葉の実体を見つけ立てることが、神の運命の過程であり、復帰の過程であり、歴史的な過程であることを理解しなければなりません。
 それゆえ、イエス様が「わたしは道であり、真理(すなわち言葉)であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われたのは、神が希望された神の言葉の実体がイエス様であることを示す言葉です。
 イエス様の言葉とは何だったのでしょうか?それは、4000年間の歴史の過程で神が人間に対して語りたかった切なる心情を代弁する一つの結実存在として現れ、神の切なる心情を神に代わって人間と万物の前に発表した言葉です。このような使命を担って言葉の主人公として来られた方がイエス様であることを皆さんは理解しなければなりません。
 このように神が4000年間探し求めてこられた言葉の実体として現れた方がイエス様でした。神の心の中にあった言葉が被造世界を通じて現れるべきでしたが、それが叶いませんでした。しかし、イエス様が現れたことで神の心の中にあった言葉がイエス様の心情に再び移されたのです。この事実が人類にとって何よりも喜ばしい知らせであることを理解しなければなりません。
 では、イエス様がこの歴史的な言葉の実体として現れ、口を開いて言葉を発表された時、何を感じたのでしょうか?すなわちどのような心情だったのでしょうか?イエス様はご自身の言葉が歴史的な摂理の意志を代弁する言葉であると感じました。また、ご自身の言葉が神の心の中にあった言葉を代弁するという心情を感じ、永遠をかけて神の意志と言葉の実体がこの地上に成就するまで、神に代わって再創造の歴史を繰り返すことができる言葉であると感じたのです。
 ですから、私たちが今日イエス様の言葉を受けるためには、イエス様が単に30年の生涯を過ごされた方ではないことを理解しなければなりません。イエス様の言葉がその時代の生涯過程を弁明するための言葉ではなく、イエス様の言葉が4000年の歴史を代表することができ、その当時の世界を代弁することができ、今までの人類歴史を代弁することができる言葉であることを理解しなければなりません。しかし、その当時にはこのイエス様の言葉の価値を理解する人はいなかったのです。
 神の嘆きとは何だったのでしょうか?言葉で創造された万物が言葉の実体として現れなかったことが嘆きだったのです。イエス様もまた、神の心情を代表する再創造の言葉の実体として来られ、再創造の歴史を起こすために言葉を伝えられましたが、その言葉の前に立つ人がいなかったことが、イエス様の悲しみだったことを理解しなければなりません。
 皆さんは今も個々に神の言葉が伝えられていることを知るべきです。神は切なる心情で訴えているのです。したがって、皆さんの心に知らず知らずのうちに天倫が通じ、皆さんの心がキリストに向かうようになるのです。
 今まで多くの人々が長い歴史を経て、「真の真理とは何か、真の言葉とは何か?」と絶えず問いかけながら真理を探し求めてきました。このように、人類の歴史がまさに真理の探求の道だったと言っても過言ではないことを理解しなければなりません。
 したがって、神の心情を代弁し、イエスの心情、すなわち悲しみを代弁する言葉がこの地に現れた時には、人々はどうすべきかというと、再創造の力を表すその言葉を地上のすべての人々が受け入れなければならないのです。そうでなければ、イエス・キリストがこの地に来てからの30余年、そして亡くなった後の2000年間の苦労が実現されないということです。
 では、神の悲しみとは何か?第一の言葉である神の言葉を代弁する第二の言葉の実体であるイエスを通じて、第三の言葉の実体、言葉の聖殿を見つけることが摂理の目的ですが、この第三の言葉の実体がないことが神の悲しみであることを理解しなければなりません。
 真理の実体であるイエスが「わたしは道であり、真理である」と言われましたが、イエスが言われたこの道の目的は何でしょうか?4000年の歴史の道の目的はイエスの実体であり、イエスが言われた道の目的は、人間がイエスのように言葉の実体となることでした。そして、これは人間がイエスの言葉を信じることで成し遂げられるものでした。しかし、人間がイエスを信じなかったため、ゴルゴダでイエスの実体は終わりを迎えました。
 神が望み、神が探し求めていたのは、神の言葉を所有し、神から意志を引き継ぎ、神が意志を託すことのできる一つの実体でした。イエスはまさに神の言葉と一体となった実体でした。したがって、イエスの実体は神が摂理し探し求めてきた全歴史の目的体であるのです。神は歩みを止め、イエスを聖殿として初めて意志を地上に引き継ぐことができたのです。
 では、イエス様はご自身をどのように理解していたのでしょうか?イエス様はご自身を神が運行できる聖殿であると理解していました。神が何かを運行される時には、ご自身以外では運行できないことを感じていたのです。このように感じていたイエス様だからこそ、イエス様ご自身は、自分が神が4000年間探し求めてこられた神の聖殿であり、神が運行できる足場であり、この一つの意志を成就するために苦労してきた多くの預言者や先祖たちの代わりの実体であると感じていたのです。
 このような実体であったために、イエス様は神が変わらない限りご自身も変わらず、神が動かない限りご自身も動かないと感じていました。ですから、どんなに多くの人がイエス様を押しのけようとしても、イエス様は押しのけられない方であることを理解しなければなりません。つまり、アダムが神が運行できる道とならなかったことを復帰するために命をかけてアダムの代わりに現れたイエス様であることを理解しなければなりません。このような土台の上で、イエス様の弟子たちもイエス様の言葉が神の再創造の言葉であると感じていたのです。
 このようなイエス様を通じて神が運行されるのと同じように、イエス様に似て、イエス様が歩まれた道を代わりに歩む人にイエス様が運行されるのです。
 神はある一時代の神ではなく、歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神でもあります。そして、イエス様は神が運行できる実体の聖殿であるため、人類がイエス様と一体となる時に、神の全体の摂理が成就し、人類が神と一体となることができたのです。
 今日の歴史の道筋では何が先行するのでしょうか?エデンの園でアダムが堕落したことにより、言葉を失ったため、言葉が先行します。まず言葉を取り戻してから実体を備えなければなりません。そして、実体を備えた神の生命が動くのです。神の生命はどこに動くのでしょうか?まず言葉を取り戻し、その言葉に基づいて一体となったその中に神の生命が動くのです。そして、神の生命は神と愛の関係を結んだ後に芽生えるのです。またそうして初めて神の生命の実体となることができるのです。
 イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのは、今日の私たちに神の言葉を直接示されたことであり、神の実体を示されたことであり、神の生命を直接示されたことを意味しています。イエス・キリストは単に30余年の生涯を過ごされた方ではなく、神が4000年間苦労され、人間を愛されたその愛の心情を表した生命の実体であったのです。
 このような言葉の中心的存在であるイエスがこの地上で果たすべき役割は何だったのでしょうか?神が4000年間苦労されたのは、エデンの園で失われた言葉を再び立てるためであり、言葉の実体である第二のアダム、イエスを立てるために苦労されたのです。そして、言葉と実体を備えた後、神の永遠の愛を中心にして人間と愛の絆を結ぼうとされました。しかし、永遠で真実な愛の絆を中心にして、神とイエスは一体となることができましたが、人間は神と永遠の愛の絆を結ぶことができませんでした。
 神の愛は必ず言葉を中心にして現れます。しかし、神の言葉であり、神の実体であるイエスは現れましたが、言葉だけが残り、実体であるイエスは去ってしまいました。ですから、私たちは言葉だけを中心にして生きなければならない悲しい世界に住んでいるのです。
 それでは、言葉を通じて人間が最終的に望むことは何でしょうか?再びイエスを求めることです。言葉だけを所有していてはなりません。実体を迎え入れなければなりません。しかし、言葉に代わる実体がないため、人間は実体を切望しているのです。神の言葉と一体となる人を見つけ、その人を通じてこの地を動かさなければならないので、神の言葉の実体を見つけるために歴史は流れてきたのです。
 言葉を発表された目的は何でしょうか?それは、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる存在が現れることです。神とイエスが語られた言葉は終わりの日に実を結ぶでしょう。これまでの歴史は再創造の過程の歴史です。それでイエスが最後に語られた言葉の中心は、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」という言葉でした。しかし、新郎であるイエスの言葉を代わりに語ることができる不変の言葉の所有者は、まだ現れていないのです。これを理解しなければなりません。
 神の願いは、イエスがただこの地に来て去ることではなく、イエスがこの地上で言葉を伝えることでもありませんでした。神の願いは、イエスの言葉を通じて新婦の資格を備え、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる一つの実体でした。
 イエスは神の身体としてこの地上に来られ、また神の生命を中心にして神の愛の園を成就しなければなりませんでした。これがイエスの来られた目的でした。イエスの身体は神が安息されることのできる実体でした。だからこそ、神がイエスを愛し、イエスが人間を愛されるように、イエスを中心にして愛することができる存在が必要だったのです。
 この思いを抱いて来られたイエスは、後の信徒たちのためにご自身の新婦となる道を開いておかれました。イエスは人間の新郎であり、人間はイエスの新婦となるのです。だからこそ、イエスが神に対して切実であったように、人間もイエスに対して切実でなければならないのです。このような存在を見つける必要があったイエスであったことを理解しなければなりません。
 人間が堕落したことにより、エデンの園で言葉を失い、実体も失いました。そして、来られたイエスによって失われた言葉と実体を取り戻さなければならなかった人間が、イエスを殺すことによって言葉だけを受け取る恩恵を受けたのです。
 今日、皆さんが言葉に依拠して堕落しなかったアダムの姿を再び形作ることができる権利の中にいることは、幸せなことです。
 言葉の実体として来られる方が再臨の主です。これが創造の原則であるため、再臨の主は雲に乗って来ることはできないのです。天理の原則は覆ることができません。ですから、イエスが来られて以来今日まで、人間は言葉の実体を希望してきました。これが再臨の理想であり、2000年のキリスト教歴史の希望なのです。
 マグダラのマリアが復活したイエスを抱きしめようとした時、イエスは彼女に抱きしめないように言いました。人間は抱きしめることができません。言葉だけを残すことしかできなかったイエスだったからこそ、そのように言ったのです。
 したがって、今皆さんはこの言葉を代わりにする第二のキリストの化身となり、イエスの心とイエスが感じた責任感と神の心情を代弁しなければなりません。しかし、今日この地上に住んでいる多くの人々やキリスト教徒たちは、その心情を代弁して言葉を求め、その言葉によって実体を見つけることができるにもかかわらず、喜んでいません。
 今、私たちは神の言葉を握りしめて、死ぬか生きるかを問わず進まなければなりません。エデンの園で規律を破り、堕落の血統を受けた後、今日まで罪の中で生きてきましたが、今、新しい言葉によって喜びに満ちて生きることができるようになりました。全人類が永遠の生命の価値を感じて生きることができるその世界に向かって、今この言葉を握りしめて主張しながら進まなければなりません。そのような時に皆さんは生きているのです。皆さんはこの道を後回しにしますか?それはできません。皆さんはこの歴史的な運命の瞬間に生きていることを知るべきです。
 イエスは神の言葉を代弁し、神の4000年の摂理歴史の全体的な心情を代弁し、神の意志を代わりにして愛の心情を持ち、神の意志を生活の中心に据えて生き、神と愛の絆を結んだがゆえに、十字架で死んでも復活することができたのです。
 神の愛は永遠であり、神の生命も永遠です。イエス様は言葉と実体が一つとなった方であり、神の永遠の愛と生命を代弁する方だったので、この世のどんな死や苦難もイエス様を永遠に殺すことはできませんでした。すなわち、イエス様は復活の権限をすでに持っていたのです。
 では、私たちはこれからどうすべきでしょうか?私たちが主張できる主義があり、従うべき行動があるとすれば、それは何でしょうか?それは他でもなく、イエス・キリストが語られた言葉であり、キリストが示された証拠的な行動です。これを確実に理解しなければなりません。
 皆さんはご自身が神を代弁し、イエスを代弁できる言葉の所有者となっているかを自問しなければなりません。地上と天上で認められる言葉の所有者となっているかどうか、自問する必要があります。
 人間が堕落したために「約束の言葉」が「成就された言葉」として現れませんでした。だからこそ旧約、新約というのです。約束の言葉が成就された言葉として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間はそれを理解していません。これは天を求める聖徒たちが総力を結集して解決すべき問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。
 今日の世界は分裂と争いが生じている世界です。なぜこのような現象が起こるのでしょうか?イエス様がこの地に来られた時も、世界は分裂の状態でした。イエス様はこの分裂と争いを解決するために言葉を語られました。しかし当時の人々がイエス様の言葉を信じなかったために、この争いと分裂は完全に解決されませんでした。ですから、今日の世界においても争いと分裂が続いているのです。今、この分裂と争いによって混沌としている世界を収拾し、すべての主義や思想を統合できる完成の言葉が必要なのです。
 したがって、皆さんは真の真理が何であるかを見つける必要があります。今日の世界の歴史の過程を見れば、多くの民族と多くの宗教が存在しましたが、統一の目標に向かって進んでいるのです。この統一の目標はどのような言葉によって達成されるのでしょうか?それは神の約束の言葉によって統一されるのです。人類の歴史は神の約束の言葉によって築かれたその土台から逃れることはできません。ですから、キリスト教を中心として世界の歴史が展開されてきたのです。今や一つに統一すべき時が来ました。すべてを統一できる新しい言葉が、あらゆる知恵を持って現れるでしょう。
 イエス様がどれほど孤独であったか知っていますか?「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を横たえるところがない」(マタイ8:20)という言葉から、イエス様がどれほど孤独であったかが分かります。これはイエス様の悲壮な心情を比喩と象徴で表現したものであり、この言葉の意味を理解しなければならない時が来ました。イエス様が安息する時が来たのです。神はイエス様の中で安息し、イエス様は私たちの中で安息されます。ですから、今や皆さんが天地万物を担う時が来たのです。
 約束の言葉に依り頼んでどこへでも行くことができ、約束の言葉に依り頼んで一つになり、約束された主に会うことができます。また、愛を中心とした神の言葉の中で喜びに満ちて生きることができるのです。
 ですから聖書には「信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で一番大いなるものは愛である」とあります。今、神とイエスが私たちを抱きしめて愛するその言葉を見つける時が来たのです。
 その言葉が実際に現れたら、その言葉をすべて受け入れなければなりません。その言葉に背けば、神の愛を感じることはできません。しかし、イエス様が真に語られた神の言葉が終わりの日に現れるならば、その言葉を聞いた人は神の愛を感じることができ、神の愛を感じることができる人は神の愛の所有者となることができるのです。神の言葉は単なる原則を立てるものではなく、その生命と理念を作るためのものであることを理解しなければなりません。
 今日この地上には真理を掲げる多くの宗教の教義や主義がありますが、それらを実践しても心と体が安らぎ、永遠にその言葉に浸ることができるものはありません。宇宙の生命の源である神の愛が私たちの心と体を動かしてきたのであれば、神の真実の言葉が出れば、すべての主義主張を根本的に解決することができるでしょう。
 イエス様の言葉はどういうものでしょうか?それまでの言葉は約束の言葉であり、約束の実体を探し、約束の愛を探し、約束の生命を探すものでした。しかし、イエス様の言葉はその約束の言葉に事実の言葉を加えて、事実の実体を探し、事実の愛を探し、事実の生命を探すものでした。
 ですから、イエス様は天国ではなく楽園において祈り続けておられます。なぜなら、この地上で果たすべき使命を完全に遂行できなかったからです。もともとイエス様が行かれるべき場所は楽園ではありません。この地上において神の理念を代行できる言葉の主人公、創造の理念を代行する生命の実体が現れ、神の愛を中心にして永遠に安息できる世界を作るまでは、イエス様も安息することはできず、神も安息することができないのです。
 では、私たちは何を嘆くべきでしょうか?私たちは、自分の心と体からイエスの言葉が出てこないことを嘆くべきです。また、自分自身の行動がイエスがご自身の体を動かして行った行動と一致していないことを嘆くべきです。そして、自分自身の心が哀れみの心で涙を流すことができなかったことを嘆くべきです。
 皆さんはイエス様を安息させることができる者になるべきです。イエス様と一つの体を成す一つの細胞となるべきです。本来、ユダヤ教団やイスラエル民族、そして当時の世界の人々がイエス様の体の一部となるべきでした。天地まで一体となるべきだったことを理解しなければなりません。
 イエス様は哀れな方でした。今日のキリスト教徒たちはイエス様が神の右手の座に座っていると信じていますが、実際にはイエス様は哀れな方でした。イエス様は理想世界を築くための天的使命を持って来られましたが、世界を導いて地の果てまで、そして天上まで通じる希望の言葉を持って来られましたが、地上の人々が信じなかったために、地上で話したい言葉をすべて話すことができず、行いたい行動をすべて行うことができなかったのです。このようなイエス様の悲痛な心情を理解しなければなりません。
 この意志を実現するために、村から村へと巡りながら言葉を伝えたイエス様でしたが、人々はイエス様を信じませんでした。そこで神はイエス一人を前にして悲しみ、天使たちも悲しみ、宇宙全体が悲しみました。しかし、今日の人間たちは、イエス様を信じなかった歴史的な罪を犯した先祖たちの子孫であるにもかかわらず、自分がどこに立っているのか、この民族、この世界がどこに向かっているのかを理解していません。このことを見つめる今日の私たちは、2000年前にイエス様が来られて滅びつつあるイスラエル民族を見て悲しまれたように、悲しむべきです。
 また、皆さんは神の最後の願いである言葉の実体となり、天倫の心情を通じて歴史の全体的な実体を代弁できる実体となるべきです。そして、「6000年間摂理してこられた神よ!私を見て、この場所に主を送りください!」と言えるようになるべきです。また、皆さんはイエス様が再臨される時にどこに再臨されるかが、神が地上に対する憂慮の条件であることを理解しなければなりません。
 今日の韓民族は悟らなければなりません。私たちは持つものがなく、他人から非難され、困難な環境の中で生きていますが、私たちの心はイエスの心情と神の愛を代弁し、私たちの体は天の実体となるべきです。そのような人がどこにいるでしょうか?神が6000年の長い歴史を経て探し求めてきたのは、皆さん一人一人の個体ではありません。韓民族全体、人類全体を探し求めてこられたことを理解しなければなりません。さらに、皆さんは人間の堕落によって悲しまれた父の心情を代弁し、イエスの悲しみと先祖たちの心情を代弁できる実体となるべきです。
 イスラエルの民がイエスを支えるべきだったのに、イスラエルの民はイエスを支えませんでした。そこで、イエスは教会に向かいました。つまり、教会を足場にして神の言葉を伝えようとしたのです。しかし、教会も反対しました。そこでイエスは家庭を求めましたが、家庭でも反対されました。仕方なく弟子たちを探し求めたことを、皆さんは理解しなければなりません。
 神の希望の基盤、世界の進むべき道が民族によって支えられずに断たれ、民族の進むべき道が教団によって支えられずに断たれ、教団の進むべき道が家庭によって支えられずに断たれました。このようにすべてが断たれたイエスの悲しみを誰が理解するのでしょうか。神が4000年間苦労して築かれたアブラハムの直系血統であるヨセフの家庭はどこに行ったのでしょうか?ヨセフとマリアはどこに行ったのでしょうか?
 イスラエルの民を基盤とする安息の期待が崩れ、ユダヤ教を基盤とする安息の期待が崩れ、家庭を基盤とする安息の期待が崩れると、イエスは行くところがなくなりました。最終的には12弟子さえもイエスを拒絶し、さらにはその12弟子の中から選ばれた3人の弟子さえも裏切ったため、イエスは十字架にかからざるを得なかったのです。
 今日、皆さんもイエスと同じように追い詰められ、追い立てられ、見捨てられ、拒絶される経験をする必要があります。そうすることで、神の悲しみとイエスの悲しみを理解することができるのです。民族に拒まれ、教団に追い出され、家庭に追い出され、親に見捨てられ、弟子たちに拒絶される中で、皆さんは神の心を理解し、先祖たちの心を理解することができるのです。
 今日、私たちは民族の前に哀れな群れであり、孤独な群れですが、民族が知らない神の言葉が私たちと共にあることを感じなければなりません。そうすれば、世界のために戦ったイエスの姿を代表し、その意志を実践することができるでしょう。ですから、困難に直面しても失望せず、聞いているこの言葉が神の言葉であると信じるならば、その言葉が共にある場所に神の愛が動き、生命が芽生えるでしょう。そして、皆さんはその言葉の証人となるべきです。
 今、皆さんはその愛を持って人間の世界を愛し、十字架にかかったイエスを慰め、第二イスラエルの使命を果たさなければなりません。
 私たちが第三イスラエルの先祖として残るためには、第二イスラエルの道を外れることはできません。イエスが世界を救うために第二イスラエルを召し出して進ませた道、イエスの弟子たちが越えた十字架の道、聖徒たちが歩んだ言葉の峠を越えないわけにはいかないのです。
 では、このような立場にある私たちはどうすべきでしょうか?イエス様はこの地上に来られ、神の内なる心情をすべて発表することなく帰天されました。したがって、私たちはこの一つの心情を土台として、どんな困難が伴おうとも、どんな険しい道が私たちの前に横たわっていようとも、感謝しながら進んでいかなければなりません。すなわち、私たちは天の戦士にならなければならないのです。
 第三イスラエルの先祖となるべき終末の時にある皆さんは、最後の言葉が天の愛の言葉であることを理解しなければなりません。天の愛に基づいた言葉です。したがって、皆さんは神の言葉がそのままあり、皆さんが別にいるということがあってはならないのです。神の言葉の見える実体となるべきです。神の内なる心情が皆さんの内なる心情とならなければなりません。つまり、本心の実体となるべきです。
 皆さんは神の言葉を広めることができる第二の創造主の使命を果たさなければなりません。すなわち、言葉の広める体となり、生命の広める体となり、実体の広める体とならなければなりません。そうしてこそ、愛を中心に一つになり、神を永遠に迎えることができるのです。
 この基準が第三イスラエルの基準です。こうして初めて、言葉を植えることができ、実体を植えることができ、生命を植えることができるのです。
 神を迎え入れることができ、言葉を見て感じることができる言葉の実体、生命の実体、6000年の心情を代弁する実体となり、第二イスラエルを再創造する使命を果たさなければなりません。そうしてこそ、神の内なる心情を完全に理解する息子娘となることができ、そのような神の真の子供となり、神の愛を中心に永遠の栄光の中で生きることができるのです。このことを心に留めておかなければなりません。

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