人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(11)

2024年11月23日 15時00分15秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 11. 慕わしいエデン(1959年6月28日)
1959年6月28日(日)、元本部教会。
創世記 2:1-25

1
<祈り(Ⅰ)>
本然の姿を見ることができる本然の人が天地間に存在しないということが、父なる神の嘆きであったことを、私たちがこの時間に感じられるよう許してください。父の本性を受けた人間たちであるにもかかわらず、父なる神が彼らと共に喜びを分かち合う一日を自ら持つことができなかった父の悲しみを、この時間に私たちが考えられるよう許してください。さらにその悲しみを私たち自身が直接体感することができる時間となるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


偉大な理念を抱き、喜びの園を夢見ておられた父なる神の御前に、悲しみの嘆きを与えてしまった人類の祖先の過ちをお赦しください。そして、その希望を再び取り戻すために、苦労と困難の歴史の路程を歩ませることになった、これまでの私たちの先祖たちの誤りを、再びお赦しくださるよう心からお願い申し上げます。


あなたが千秋の恨みを払いのけ、勝利をもってその理念を成し遂げられることを私たちは知っており、また信じております。その働きのために、私たちは自分のすべてを捧げ、忠誠を尽くしたいと願っております。どうか、父なる神よ、その心と思いを導いてくださり、勝利の基準を成すことのできる息子娘の姿となるようお導きくださることを、切に願い、求めます。


私たちが一週間の間に過ごす中で、父なる神の御旨と御心、そして御理念に対して切なる思いを抱くことができなかった生活がありましたら、どうかお赦しください。父の御心と通じたいと切に願っておりましたが、それが一致し得ない基準にある私たちを、どうかお赦しいただけるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


歴史の路程を歩まれながら先祖たちのために嘆き悲しまれた父なる神の御心を知る私たちが、この終わりの日を迎えるこの時において、先祖たちの過ちや人類全体の過ちを私たちが責任を持ち、父なる神のその御心を慰めることのできる最後の真実な息子娘となることをお許しください、愛する父なる神よ、心からお願い申し上げます。不忠実で不完全な者たちではありますが、この朝、父の御前に礼拝を捧げるためひざまずき、伏して祈りを捧げますので、どうか顧みてください。


2


もし私たちの心に、父なる神の御前に正しくない主義や主張、観念、あるいは認識を抱き、お父様を計り知るような心があるなら、そのすべての心を取り除いてくださり、それらを許さないでください。父の御心とともに喜び、父の御心とともに体感することのできる感化の心と憐れみの御心を、この礼拝の一時間、私たち全員の心と体に表してくださるよう切に願い求めます。そして、天におられる無数の聖徒と天軍天使が私たちとともに喜び、その歓喜の栄光を父なる神の御前にお返しするこの時間としてください。


本然の園で悲しみを体感された父なる神が、私たちを通して解怨され、私たちを通して慰めを受けられるこの礼拝の時間となることを願います。足りないながらも私たちの誠の心を父の御前に束ねて捧げたいと思いますので、初めから終わりまで悪魔が入り込むことのない時間となるよう導いてください。勝利の盾をもって、父なる神よ、私たちを導いてくださり、燃える炎のような目で私たちを顧みてください。


私たちの心性から正しくないすべての根性を取り除いてくださり、その場に本然の心情を呼び覚ましてくださり、父なる神とともに活動することのできる喜びの礼拝の時間となるよう導いてくださることを、切にお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


シオンの園を失った人間たちが再びシオンの地を取り戻さなければならないという苦難の歴史が残されていることを、私たちは骨身にしみて感じております。本然の心情を持つ真実な人々が生きる地となっておらず、本然の心情の痕跡を地上に築くこともできません。どうか、彼らを支えながら本然の世界を夢見て戦っておられる父なる神の悲しい御心を、この時間に慰めることのできる息子娘となれるよう許してください。


父なる神よ!私たちは、父の悲しい歴史の路程を思い起こすとき、恐れを禁じ得ません。また、苦労される父の御姿を目の当たりにするとき、恐縮の念を抑えることができません。この私たちが自らの身と心を捧げ物として差し出し、父の労苦を少しでも和らげ、終わらせることのできる息子娘としてお立てください。どうかお願い申し上げます。


3


あなたは喜びを感じ、喜びの場で解放の歌を歌う勝利の日が早く来ることを待ち望んでおられましたが、その解放の目的を成し遂げるのは、あなた自身ではなく、死の権勢に苦しむ不孝な私たち人間でなければならないという事実を、私たちは理解しております。


このように重要な立場に置かれていながらも、自らの価値を知らず、死の路程で苦しんでいる人類をどうかお赦しください。そして今、私たちに本然の心情を回復するための新たな旗印を掲げ、父なる神の栄光の御心を賛美する切なる心を起こさせてください。本然の性相と本然の形状を備え、真の息子娘の姿を備えて、父の解放を歌うことができるようにしてください。


これが私たちの永遠の願いであることを、父なる神はご存じであられると信じております。お父様、勝利の日が来ることを知っている私たちが、悲惨な境遇で呻いているこの民族に代わり、頭を垂れてあなたの御前に祈ります。どうか勝利の基準の場に私たちを導き、あなたが託されたい大きな御旨の前に、捧げ物となることのできる私たちとなるよう、導いてくださることを切に願い求めます。


今、私たちは父なる神の御前に集いました。この時間に私たちの心を開かせてくださり、私たちの体のすべての事情を解き放たせ、真実な心情から湧き出る切なる思いを持って、お父様を慰めることができるよう許してください。そして、お父様に向き合い、謙虚に頭を垂れる心情の動きがこの時間に表れるようにしてください。私たちが過去を悔い改め、現実を振り返り、父の聖なる恩恵を慕う切なる心を起こさせてくださり、その心を父なる神ご自身が導いてくださるようお願いいたします。今、新たな感覚と新たな触感を起こし、新しい方向を取らなければならない自分であることを悟る一時間となることを許してください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの不足している誠を束ね、この一時間に生ける祭壇を整えることを許してください。私たち一人ひとりが勝利の捧げ物とならなければならないということを私たちは知っています。どうか、父の御前に正しくないすべてのものを取り除いてください。そして、お父様、御力の御手を広げて新しい再創造の権能をもって働いてください。父以外のすべてを取り除くことのできる本然の再創造の性相を備えてくださり、形状を整えてくださることを、父なる神に心からお願い申し上げます。


4


今、父なる神よ、眠っている三千万の民を目覚めさせてください。そして、苦難の中をさまよっている27億の人類を、父の御手の中にお納めくださり、彼らを一つの場所に導いてください。父の本郷の園、お父様が理想とされる善の園へと彼らをお連れくださるようお願い申し上げます。どのような迫害や困難を乗り越えてでも、この人類を早くお父様が望まれる園へと導いてくださることを切にお願い申し上げます。


そのためには、父なる神よ、人間が実践しなければならない責任があることを私たちは知っています。どうか、お父様、愛する息子娘たちに命じてください。残された罪の地と、残された民を探さなければならない責任があるのならば、彼らを奮い立たせ、命令してください。勝利の園を建設する天の精兵として、働き手として、お父様が望まれる場所へと命じて送り出せる時間を、この一時間に定めてくださるよう、切にお願い申し上げます。


父なる神よ、この日も孤独なあなたの息子娘たちが集まり、訴えるその場所ごとに、あなた自らが栄光と愛の御手を差し伸べられたことを、彼らが感じられるようにしてください。そして、心を尽くし、一つの祭壇に一つの心情を集め、一つの形として捧げることのできる時間としてください。多くの民族を代表して集まっている多くの教団にも祝福を与えてください。勝利の日が成し遂げられ、父の喜びが回復された喜びの地となることを、心から願い求めます。今、私たちのすべてをお委ねいたします。


今、父の御旨に反するいかなるものがあれば、それが悪魔が入り込む条件となるのではないかと心配せざるを得ません。お父様、悪魔が入り込むすべての条件を取り除いてください。御力の恩寵によって、このすべてを抱きしめ、父自らが命じ、そして抱きしめてくださることを、切に願い求めます。


最初の時間から最後の時間まで、すべてを父の御ものだけで導いてくださることを心からお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


5


<祈り(Ⅲ)>


父なる神よ、真実な心を持つ人がいるならば、本然のその世界を恋しく思わない人はいないでしょう。また、真実な体を持って生きる人がいるならば、本然のその世界の生活を懐かしく思わない人はいないことを、私たちは知っています。


堕落する前に、直接父なる神に向き合うことができた本然のアダムとエバの姿、天が生まれ、地が生まれ、万物が生まれた後に、最初に人間として創造されたアダムとエバの姿、その姿がどれほど父なる神を喜ばせたことでしょうか。父なる神に向き合う栄光の場にあった私たちの先祖たちのその姿が、どれほど尊いものであったことでしょうか。


今、私たちが心を込めて本然の世界を慕い求めることのできるこの時間をお許しください。父の御心に直接響く善の心情をひどく恋しく思い、父の御手をつかむことのできる本郷の善の姿をひどく懐かしく思います。本然のその先祖を恋しく思うことのできる私たちとなることをお許しくださるよう、心から願い、求めます。


心情の世界には歴史的な距離もなく、時間や空間の限界もないということを、私たちは地上で生きながら知っています。それなのに、無限の愛の心情によって生まれた本然の祖先のその姿、本然の私自身の姿を、死の権勢の中で眠り、方向を失い、さまよっている私たちが恋しく思えるように許してください。そのような私自身の姿を恋しく思い、止めどなく涙を流し、私を創造された父なる神を求めてさまよう姿を許し、焦燥感に駆られるような姿であっても、その世界の雰囲気、その世界の環境、その世界の万物、その世界の万象と調和できる美そのものが、今この瞬間、私たちの体と心に体感されることをお許しくださるよう、心から願い求めます。


地上に生きるすべての人々は、それぞれが自分が優れていると言い張りながらも、お父様が望まれた本然のその姿を備えていないままで、自分を表そうと必死になり、自分を高めようと苦闘しています。そのような人類を前にした父なる神の悲しみは、天に届き、地に届き、一つの主を失った万物さえも嘆きの中にとどまっていると、言葉は伝えています。そして私たちもまた、その事実を知っています。父なる神よ、今日、私たち自身がこの嘆きの中から抜け出し、お父様を解怨させるべきであるということを知らずに生きる者とならないようにしてください。


6


父なる神よ、私たちはあなたを呼び求めるとき、堕落の歴史の路程で苦労されていたお父様を呼び求めることは喜んで行ってきました。しかし、堕落の悲しみを感じることなく、善の園で喜ぶことのできる本然の父なる神を思い描くことはできませんでした。そして、そのお父様を探し求めてさまようこともありませんでした。真の救い主を信じることにおいても、私たち人間は十字架にかけられたイエスを真の救い主と信じましたが、十字架の苦難を受けることなく、苦痛や迫害を受けることなく、栄光の主として顕現するイエスを中心として信じることはできませんでした。この私たちの過ちをお赦しください。


父なる神よ、今日、私たちに本然のその存在とともに、本然のその理念、本然のその善を中心として生きる調和の世界を恋しく思う心があふれ出ることを許してください。本然の心情をもってお父様を呼び求めることのできる喜びの場を許してください。私の父なる神よ、心から願い求めます。


罪が地を染めたその日から、6000年の歴史が巡り巡ってきましたが、悲しみが止む日もなく、今に至るまで歴史の嘆きが重なり続けているという事実が、私たちの祖先の過ちによるものであることを私たちは知っています。歴史的な悲しみを脱し、悲しみから解放されなければならないこの哀れな私たちの身の上を、父なる神よ、どうか知っていただき、私たちを慰めてください。


お父様、力のない手を支えなければならないあなたの事情が残されており、弱い者たちを急き立て、強い勝利の軍隊と勝利の将兵を作らなければならないあなたの悲しい事情が残されていることを私たちは知っています。どうか今日、私たちを戒めてください。善の御言葉で、真実な心情で私たちを諭し、それでも聞き入れないなら、むちを取ってでも私たちを打ち、お父様が使うことのできる働き手として、また使い走りとしてでも役立てる姿へと私たちを立たせてくださるよう、心から願い求めます。


エジプトでさまよっていた60万のイスラエルの民を導きたいと願ったモーセの心情を、私たちが理解できるようにしてください。モーセが切なる心情をもって民に接していたという事実を、私たちが知ることを許してください。今日、世界に散らばる「第二イスラエル」の祝福を受け継がなければならない世界のキリスト教徒たちが、まだ残されているカナンの福地を目指していることを知らせなければならない責任が私たちにあることを理解しています。この使命を果たさなければならない責任が今日の私たちにあると知っております。父なる神よ、残された恨み、残された憤り、残された痛みが私たちの身と心に深く刻まれることを許してください。


7


たとえ、この体と心が百回死に、千回倒れることがあったとしても、父なる神の敵に報いるという天の節操を持つあなたの息子娘となることを許してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、召命を受けて進み出てみると、十字架の路程がまだ残されていることを知りました。この困難な道を自ら進もうとする孤独なあなたの息子娘たちです。どうか、彼らの心の友となってくださることを願い求めます。


父なる神が永遠に永遠に私たちの中心であられるとき、私たちの体と心もお父様を見習い、不変の中心存在としてお父様に代わることができるという事実を知っています。どうか今、私たちの体と心を、父のものとして再び取り戻してくださるよう願い求めます。


私たちにはすでに覚悟した決意があります。この決意とともに戦い、この決意とともに生き、この決意とともに倒れることのできる、あなたの息子娘となることを許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


今日、この時間、孤独な家族たちに向かって御言葉を伝えようとしていますが、何を話せばよいでしょうか。どうか、父の御指示を心に感じたそのままに伝えることができるよう導いてください。そして、それを受け入れることのできる天の捧げ物となるよう許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


8


今、私たちの体と心を父なる神のものとして認めてくださり、お父様が取り戻され、お父様がご覧になる際に反するいかなる罪悪の憂いが残っているならば、それをお父様が三位一体の栄光をもって取り除いてくださり、悪魔が入り込む時間とならないように導いてくださることを、切にお願い申し上げます。


私たちが子どもの心に立ち戻り、知っていたすべての主義や主張を取り除くことができるようにしてください。そして、私たちが感じ、体感してきたすべてを取り除いてください。子どもの心情に戻り、慕う心、敬愛の心情に浸り、父の御言葉に導かれることのできるこの一時間となるように導いてくださることを切にお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしたい御言葉の題目は「恋しいエデン」です。「恋しいエデン」という題目でお話を進めたいと思います。


堕落のなかった本然の園、すなわちエデンの園を思い浮かべるとき、誰もが連想するものは何でしょうか。それは、神です。神が連想されるとともに、神が6日間の創造を終え、祝福されたアダムとエバが思い起こされます。また、神を中心として、罪のない本然の私たちの祖先がいたということが思い出される一方で、罪悪の侵害を受けなかった万物も連想されます。


万物が存在するのは人間のためであり、人間が存在するのは神のためである、ということを考えてみると、人間は天を中心とする存在にはなれず、万物も人間を中心として調和するものにはなれなかったというこの事実は、エデンを思い浮かべる私たち人間にとって、非常に大きな悲しみであり、嘆きであり、また恨みとして、今日の私たちの心と体を捕らえています。この事実は、誰も否定できないでしょう。


9


本然の世界、本然の園で生きていた私たちの祖先と、その祖先を抱え、善だけを中心に動いておられた神について深く考えるとき、私たちは、その神と現在の私たちがあまりにも遠い距離に置かれていることを認めざるを得ません。そして、その神と共に、どのような最高の善ともつながろうとする切なる心情があればあるほど、自分自身がその最高の善、すなわち神から遠く隔たっているという苦悩を感じざるを得ないのです。


このような苦悩を解決しようとする真実な人がいるならば、その人は神を中心として生きていたアダムとエバ、そして彼らと共に調和していた万物、善だけを中心にし、善だけを賛美することのできた本然の世界を壊してしまった堕落の痕跡に対して、深い怒りと強烈な敵意を抱かざるを得ないでしょう。


善を目指し、真実な本然の世界を夢見る一方で、それが自分とつながり、時間を超えて永遠に天的な心情と結びつかなければならないという使命があるために、私たちの心は知らず知らずのうちに、その天的な心情と結びつく道を求めて動いていることは間違いありません。しかし、その動く心をつなぎとめることのできる外的な環境がないことが嘆きであり、そのための内的な事情を備えていないことが私たち人間の嘆きであるのです。


このように見ると、自分自身が堕落したアダムとエバを責めないわけにはいかず、また、現在のこの現実の環境を嘆かざるを得ない状況で生きていることを否定できないでしょう。このような環境にただ流されて、自分の心と体が幸福を感じることができるでしょうか。それは到底不可能です。私たちは、そのような不可能な環境を打ち破り、乗り越えなければならない何か、何かは分からなくとも避けては通れない運命的な難関の道を進まなければならないのです。


私たちはこれまで、方向もよくわからないまま、何かを探し求めてさまよってきたという事実を、もう一度思い起こさなければなりません。今、時が来ました。そして、私が真実な良心を磨き、良心の主体である天と永遠の縁を結び、永遠の幸福の基準を築こうとする切なる思いが湧き上がれば湧き上がるほど、今日のこの地に対して怒りの心を持たずにはいられなくなり、私たちが生きているこの世界に対しても敵意を抱かざるを得なくなるでしょう。そして、この敵意を抑えることのできない現実があるため、これ以上の苦しみはなく、この問題を解決する以上の大きな課題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。


10


もし天が存在するならば、このような苦しみの中にある私たちを愛してくださるでしょう。そして、このように哀れな状況に置かれている私たち人間を探し出してくださるでしょう。このようにして縁を大切にして探してくださる関係があってこそ、私たちは天が存在することを認めることができるのです。


このような哀れな立場に置かれている人間を前にして、神は人間が堕落したその日から今日に至るまで、悲しい心を抑えながら堕落した人類の足跡をたどり続け、労苦を重ねてこられたのです。この事実を、私たちは再び深く感じなければならないのです。


今日の私たちは、自分自身を誇る前に、堕落した種族であることを認めなければなりません。自分の何かを示そうとする前に、堕落の性質に染まった罪悪の歴史を明らかにし、罪悪の本性を告白しなければなりません。しかし、このような立場にあるにもかかわらず、その責任を避けようと、あちらへ逃れ、こちらへ逃れる人が多く見受けられます。このような状況を見ると、天は必ず歴史的に積み重ねられてきた罪を清算しなければならず、血統的に繋がってきた罪悪の恨みを解消しなければならないのです。


この罪悪の恨みを解くことが天の願いであり、私たちの願いでもあります。そのすべてを明らかにする日がなければ、解怨の日も解放の日も訪れることはありません。解怨と解放の一日がなければ、神が摂理される御旨が成し遂げられる日も訪れることはありません。そして、その成就の日がなければ、人間に対して摂理を進めてこられた神の栄光の日もなく、摂理を支えながら従ってきた人間もまた、栄光の日を迎えることはできないのです。このことを私たちは知らなければなりません。


ですから、今、私たちは心で、体で、あるいは霊性をもって、自然のすべての神聖さを感じ取れるようにならなければなりません。また、人間の本性が天の心情の触感を感じ取れるようにならなければなりません。本質、本性、本質的な気質を通して、体に染み入り感じ取れる天心や天情を感じ取れるようにならなければならないのです。もしそのような人がいるならば、その人はこの地上で誰よりも幸せな人であると言えるでしょう。


11


堕落前の人類の祖先は、神の心情と通じる心を持ち、神が創造されたすべての万物を整え、万物を天の御前に栄光の条件として、喜びの象徴的な対象として、美の対象として、刺激を与える外的な対象として立てるべきでした。そして、その万物から受ける刺激を通じて内的な刺激を引き起こし、天性の心情に応えて栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、それができなかったことが何よりも大きな悲しみとなったことを知らなければなりません。


では、天の心情と共に生きることのできるエデン、善と調和できるそのエデン、天の理念と共に生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激しないものが何一つないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情と調和し、自らが善の場に立ち、父なる神を「父」と呼ぶことのできる栄光のひとときを持つことができるなら、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。


また、天がそのような人間と縁を結ぶことができるなら、それ以上の縁を望むことはないでしょう。このことを私たちは知るべきです。


神の創造過程を振り返ってみると、神は真実なご自身の姿を代わるものとして具現する本然のアダムとエバ、真実な善の父母であり、私たち人類の祖先であるアダムとエバを創るために、五日間をかけてすべての万物を創造されました。この主人公たちを創造された後、神がどのような心情で彼らを見つめられたのでしょうか。皆さん、このことをもう一度思い起こしながら、父なる神を心で呼び求めることのできる時間となることを願います。


私たちは日々、私たちの目に刺激を与える森羅万象を目にしています。しかし、皆さんはその日々を、同じ心情や同じ感情で森羅万象に向き合っているかもしれません。しかし、もし人間が堕落していなかったならば、それは善を中心とした本然の自然であったでしょう。そして、そうであったならば、私たちの祖先はこの自然を見て何を感じたのか、また私たちを創造された神はどのように感じられたのかを、もう一度深く考えなければならないのです。


12


野に生えているたった一つの小さな草にさえ、神の御手が及んでいないものはないということを、私たちは考えなければなりません。生い茂る一本の木を見るときにも、そこには神の無限の内的な心情が通っているという事実を、もう一度思い起こすべきです。


それはただ草木だけに限らず、野を駆け回るどのような動物や昆虫、また鳥類に至るまで、これらが無意識に作られたものではなく、徹底的に神の内的な心情を通して創造され、神の実体の御手を経て作られたものであるということを、私たちは再び感じなければなりません。


もし神がご自身の創造された万物を愛しているとするならば、私たちは何を考えなければならないでしょうか。神が万物を創られたとき、「すべて良かった」と言われましたが、その中でも最も愛されたものは何だったのでしょうか。もしそれが草であるならば、草の中でも神が最も愛された草は何だったのかを考えるべきです。そのようなことを時間を惜しまずに深く考えることができる場に留まることができるなら、私たちは人間を創造される前に万物を通じて現れた神の恩寵に触れることができるのです。


そして、たった一つの草を手に取っても喜びを感じ、その草が一日の希望の対象であることを知り、喜びの心情を持つべきです。その草が神の御手を経て作られたものであることを体感するべきです。そのような人がいるならば、その人は堕落した人間でありながらも、天地を創造された当初の神の創造の心情の世界に立つ神の友の立場に入ることができるでしょう。そうではありませんか?


皆さんは、もし神が草をお好きであれば、草の中でもどの草を最も好まれるのだろうか、花であれば、花の中でもどの花を愛されるのだろうか、木であれば、木々の中でもどの木を特に愛されるのだろうか、と思いを巡らせるべきです。鳥はもちろん、飛ぶ昆虫から始まり、下等動物から高等動物に至るまで、すべてが神の心情を通して創造された存在ですが、その中でも特にどれを神が最も愛されるのだろうか、と考えるべきなのです。


13


天の心情を慕い、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を願う真実な心を持つ人々の中には、神を高め、栄光の場で喜びを得ようと努力する人は多いかもしれません。しかし、小さな草木や昆虫から、すべての被造物に及ぶまでに広がる神の内的な心情の縁を思い起こして喜べる人は少ないのです。もし誰かが、自分の全ての精力を注ぎ込んで一匹の昆虫を創造したとしたら、その人が注ぎ込んだ以上の精力をもってその昆虫を愛そうとし、心と思いを込めてその昆虫を愛してくれる人が現れるなら、その昆虫を創造した者にとって、これ以上の満足はないでしょう。


では、2千年前のイエス様は、神の御前に民を取り戻して捧げる前に、何を探し求めて苦闘されたのでしょうか。イエス様の心情は何を探し求めてさまよっておられたのでしょうか。私はこう思います。イエス様は民を抱き、彼らが天の嘆きの中に留まっていることに心を痛めておられました。そして、彼らのために夜を徹して涙を流し祈られた方であったことは間違いありません。


もしイエス様が、人類の祖先の堕落によって本然の心情的な縁を侵された万物が嘆きの中にあることを見て涙を流し、夜を徹して悲しまれる方でなかったならば、彼は全宇宙を統治し、全宇宙を救う救い主とはなり得なかったと断言したいと思います。


人間から万物の要素を取り除いてしまえば、その命を維持することはできません。だからこそ、自分自身が尊い存在である限り、その本質を構成する要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜びの媒介者であるべきです。このような心情を持って進む人であれば、どこへ行っても自然の正道を備えることができ、どのような環境にあっても正道の場、万物と通じる場に立ち、神の御前に栄光をお返しすることができるのだということを、皆さんは知るべきです。


自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中で神が特にこの草を非常に愛されるだろう、花々の中でもこの一つの花を最も愛されるだろう、また、ある木や山河を見て、神はこれらを特に愛されるだろう、とお考えになったに違いありません。今日、皆さんはそのようなイエス様の愛の心情を、もう一度思い起こしていただきたいと思います。


14


それでは皆さんは、これまでの人生の路程において、どれほど責任ある感情を持って、神が心を込めて創造されたこの万物に接してきたでしょうか。また、この山河に対してどのように向き合ってきたでしょうか。一握りの土を手に取り、その土を形作られた神の心情がどのようなものであったかを考えたことがあるでしょうか。もしそのようなことを考えたことがないのであれば、皆さんは創造の理想を掲げられた神の心情を無視する罪人になってしまうでしょう。


今日、私たちは、この万物世界、被造物の世界の原理や法則、公理や公式を解明しようとする分野が科学であることを知っています。また、自然の中に深く秘められた情緒的な領域を表現するのが文学です。自然に現れている、あるいは隠されている美を何らかの形で具現し表現するのが芸術です。そして、自然の根本的な理を解明しようとする分野が哲学です。そしてこれらの領域の上に位置するものが宗教です。


では、真の宗教と宗教家が解明すべきこととは何でしょうか。それは、自然の中に深く流れている静かな内面的な内容を明らかにすることです。この責任を担うべきなのが宗教であると考えられます。


人類の文化は自然を離れては考えることができません。自然を離れた人類文化は語ることすらできないのです。人間がどれほどその威勢を誇り、権力を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべてが成り立たないということです。


このように、私たちの生活を価値あるものとしてくれるのが自然であり、私たちの人生において必須のものが自然なのです。ですから、自然の万象に流れている心情を感じ取ることができない人は、真実な幸福を享受することができず、天と縁を結び、栄光の場に進むこともできないのです。このことを、皆さんは理解しなければなりません。


15


今後、皆さんは一本の草を見るときでさえ、神の視点で見ることができなければなりません。花を見るときにも、神の心情を代弁する立場、神の心情と通じる立場で見ることができなければなりません。昆虫や鳥、あるいはどのような動物を見るときにも、神の心情とつながる内的な感情を体得することが求められるのです。


そのような人がいるならば、たとえその人が公式や定義、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、文学的にその情緒を表現することができなくても、また芸術的にその美を表現することができなくても、さらには感情的にその愛を体感する力がなくても、その人は偉大な科学者であり、偉大な文学者であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。


今日、世界的な人物とされる人々や偉大な学者とされる人々が数多く存在し、それぞれの立場で宇宙を探求しています。しかし、これまでの論理を超え、最終的な問い、すなわちこの宇宙とつながりを持つ何らかの存在についての究極的な答えを持っていない限り、その人を本当の意味で世界的な人物とは呼べません。


これまでの科学的な論理や公式、法則を用いて宇宙を観察し、感じる段階を超え、それらを超越した心情的な感応を体験できない人には、それ以上の発展はありません。これは文学や芸術、哲学、そして宗教にも同様に当てはまります。


真に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の奥底には自然の心情と調和できる感性が備わっているはずです。その感性が、自分の研究分野を超えて頻繁に接触する感覚をもたらし、それによって思いがけない示唆や幻想、あるいは夢の中での啓示のような現象が現れるのです。そしてこれらの現象は、自らの専門分野に深く没頭した状態でのみ起こるものです。


16


情に豊かな人ほど大きな事業を成し遂げたというのは、歴史を振り返っても否定できません。また、そのような感情と調和し、一本の草を見ても「神様!」と呼び求めることのできる宗教家がいるならば、その人こそまさに偉大な宗教家であると言えるでしょう。


今日の仏教では仏像を安置し、その前で福を祈るという行為が行われていますが、主体と対象の外面的な違いが天地ほどに大きいとしても、心情の世界においては差がないということです。その場で感じられる感情や通じるすべてのものを、天と同じように信じ、受け入れるならば、天はその心を見捨てず、それを成し遂げてくださいます。ここから「願いの成就」という言葉が生まれるのです。


このように考えるとき、私たちがこれまで生きてきた過去の生活や、今現在生きている現実の生活は、あまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも堕落した宇宙観を持っていることが分かります。この事実を嘆き悲しむべきです。もし、これを嘆き悲しむことのできる人がいるならば、その人は新しい時代の人物として召命を受け、新しい時代の使命を担うことでしょう。このことは間違いのない事実であると断言できます。


私たちは、今日の自分の周囲の環境を見て顔をしかめ、嘆くのではなく、また社会の矛盾を見て落胆するのではなく、たった一本の草を見つめ、その喜びの中に自らの悲しみを忘れることのできる人間であるべきです。もしそのような人がいるならば、その人は新しい時代に残される人物です。理想的で心情的な世界を目指す人であるならば、その人は必ずや神と何らかの縁を結ぼうとする人であるに違いありません。


統一教会の皆さん、一本の草が育つのを見て、どうしようもないような心情を感じてみてください。そこには無限の生命があり、神がいらっしゃいます。一つの山頂を見つめるとき、昨日感じた感情と今日感じる感情が異なることに気づくでしょう。春夏秋冬、四季の移ろいによって自分の心情に湧き起こる感情の違いを歌にできるなら、それはなんと高尚なことでしょうか。それこそが、自然とともに調和して生きる人の姿です。堕落していない本来の人間とは、そのような人であったに違いないと私は思います。


17


流れる水辺を見つめ、広い平野を流れる小川を眺め、そびえ立つ山脈を仰ぎ、昇る太陽の朝の光を浴び、東の空から差し込む月光に触れ、こうした万象を前に、どの瞬間でも心で歌い、心から楽しむことができる人がいるならば、その人こそ、神が万物を創造されたときに夢見られ、理想とされた存在です。その万物を託そうとされた、神が立てようとされた真の本然の姿です。


景色の美しい名所を訪れることを喜ぶ人間もまた同じです。神はそのような人間を求めておられるのです。


本然のエデンの園で、神がアダムとエバとともに自然を歌い、自然への感情を表現するひとときを持たれたかといえば、それは叶いませんでした。神はきっとこう言いたかったはずです。「わが子よ、あの山を見てごらん。あの山は私がこうして創ったのだ。あの草木を見てごらん。これもまた私がこうして創ったのだ。すべてはお前たちの幸福のために創ったのだ」と。しかし、神はその言葉を実際に口にすることはできませんでした。なぜなら、アダムがまだ成熟していなかったからです。それでも神がアダムを見つめながら、そのように語りかけたかった切なる内的な心情があったことを、私たちは知るべきです。アダムが情緒的に未熟な段階にあったため、神が語りかけることができなかったその事情を、私たちは理解しなければなりません。


もし神がそのような言葉をかけられる立場にアダムがあったなら、神は彼の手を取ってこう言われたでしょう。「アダムよ、私が見たいと思っているあの園の花を一緒に見てみよう。私が眺めたいと思う山河を一緒に眺めてみよう」と。私たちの祖先がそのような生活を送っていたならば、今日の人類はこの苦難と死の支配の中でさまようことはなかったでしょう。


ですから、今日、皆さんは恋しく思わなければなりません。本然のエデンを恋しく思わなければなりません。神の無限の愛が満ちている世界、ひとたび始まればそのまま永遠に愛の感情と調和できる世界、ひとたび歌えば永遠にその歌に酔いしれることができる世界、ひとたび跳ねれば神とともに永遠に跳ね続けたいと思う心が湧き上がる世界、ひとたび動き、ひとたび責任を果たせば、それが永遠の価値の責任となると信じ、努力できる世界。このような世界を恋しく思い、涙を流すことができる人にならなければなりません。


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そのような心情を持つ人間を見つけられなかったことが、神の悲しみです。地を相手に摂理を進めておられる神は、必ずそのような人を探し立てずにはいられないのです。


私たちが歌う歌に山河や自然が含まれているのは、それらを通じて私たちの感情を高めようとしているからです。すべてそうです。もし本然の世界でアダムとエバが、神が行きたいと思う心情と同じ心情で共に行くことができていたならば、それはどれほど素晴らしいことであったでしょうか。どれほど素晴らしかったでしょうか。


今、皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのような豊かな心を持つ人、そのような心情を体得した人こそが、新しい時代、新しい理想天国の時代の民として参加できるのです。


では、皆さん、復帰の恨みを晴らし、歴史の悲しみを乗り越えて栄光ある神の御手を掴もうとするならば、神はどのような人を掴みたいと思われるでしょうか。神は、「この万物を私の代わりに楽しんでくれ。この万物を私の代わりに感じてくれ。この万物を私の代わりに愛してくれ」と言うことのできる、そのような人を掴みたいと望まれるのです。


皆さん!これまでの人生で、神秘的な雰囲気や恩恵の満ちた場面において、自然の中の一本の花を心から恋しく思ったことがありますか?また、祖先の誰かに会うような切なる心で花に向き合ったことがありますか?あるいは、山河を見つめたとき、心に込み上げてくる感動から、思わず天に賛美を捧げたことがありますか?もしそのような経験がないならば、私ははっきりと言いますが、皆さんには万物の主になる資格がありません。どれほど素晴らしいとされるエデンの園であっても、万物とそれを見つめる人間が心情を通じて天を動かすことができない場所であれば、それは憧れるべき場所ではないのです。


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私たちはこれまで、祈りの中で人間のためだけに祈ってきました。しかし、私はそうではありません。人間のために祈るだけでなく、天のためにも祈るべきだと考えています。イエスのためにも祈らなければならないのです。イエス様がこの地上に来られ、私たちのために夜を徹して祈られたその恩に応えなければなりません。そして、今日まで労苦を重ねてこられた神のためにも祈り、さらに進んで、全人類のために祈るべきです。


そのような感情を持ち、そのような生活を送る人が、神に最も近い人と言えるでしょう。私はそのような体験を通じて、そのことを実感しました。


皆さんも、道を歩いていて疲れたときや、休むときに、そのような感情を抱くことがあれば、天は必ず共にいてくださるでしょう。そうなれば、一本の古びたケヤキの木の根を握りしめながら、そこから天の心情を歌うことができるでしょうし、大きな陰を作る岩に寄り添いながら、その場所を安息の憩いの場として天の情緒を歌うこともできるはずです。


今日、統一教会の私たちは、神がご自身で創造された善なる万物の中にも、最も愛されるものがあることを知っています。同じように、花であればその中で特に愛される花、木であればその中で最も愛される木があるはずです。このような感情を持つことができないなら、その人は心情世界では不合格者と言えるでしょう。花の中でどの花を、木の中でどの木を、草の中でどの草を最も愛するかを知り、それを表現できるべきなのです。そうしてこそ、自然を恋しく思う心が生まれるのです。


自分の命が躍動すると同時に、その命を抱き、自然を引き寄せる心情の縁を持つ人は、理想を持った人であり、決して軽々しく生きることのできない人です。


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今日、私たちが目にするこの自然はどのような自然でしょうか。また、私たちが踏みしめているこの地はどのような地でしょうか。それは悲しいことに、堕落した地であり、喜ぶべきところを悲しまなければならない地となってしまったのです。このことを、皆さんは感じなければなりません。万物を見るときに、心の中で「美しい」と感じる一方で、その万物が悲しみの中にあること、嘆きの中にあることを感じ取らなければなりません。美しい名勝地を見て「良い場所だ」と思うことがあっても、無限の悲しみを感じて神とつながることのできる人間であるべきなのが、今日の堕落した人間の立場なのです。


今、私たちは一本の草を手にして喜びを感じるのではなく、その草を見て悲しみ、涙を流せる自分になるべきです。また、一本の木を抱いて涙を流せる自分になるべきです。山河や万象を見ても深いため息をつけるような姿勢を持つべきです。それはエデンを恋しく思う心を持っているからだということを知らなければなりません。そのような心情に浸っておられる方が神であり、その心情の縁を未だに脱することのできない存在が人間であるということを理解しなければなりません。


そのような心情を持つ人であれば、自然を見てもエデンを恋しく思うことができるでしょう。「恋しいエデン」とは、自然そのものを恋しく思うことであり、また、その中で万物を統治することのできる本然の人間をも恋しく思うことであるのです。


イエス様は敵に対して祝福を祈られました。両手両足に釘を打ち、頭に茨の冠を被せる者たちに対しても祝福を祈られました。また、槍で脇腹を刺す無謀な敵に対しても祝福を祈られました。なぜそのようなことができたのでしょうか。それは、神が最大の精力を注ぎ、切なる事情を経て労苦の末に創られた存在が人間であるという事実を、イエス様が深く理解しておられたからです。わかりますか?


天の事情を背負って来られたイエス様は、ご自身が敵から反対される立場にあったとしても、天の本然の心情を辿ってみるとき、神が全精力を注いで創られた縁ある存在である人間に対して、祝福を祈らずにはいられなかったのです。


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イエス様はこの地上で30余年の生涯を送る中で、瞑想や思索を通じて神と完全な関係を結んでおられました。そのため、イエス様は本然の真の人間、本然の真の人間であられました。それは、万物が恋しく思うことのできる存在であり、神もまた恋しく思うことのできる存在だったのです。


今日、人間も自らが作るものに対して、今日仕上がらなければ明日また取り組み、完全に仕上げようとします。同じように、神もまた同じです。神は人間を創造された後、その姿を見てどれほど喜ばれたことでしょうか。その心情の世界に入り込み、それを体感した人がいるならば、踊りたくなるでしょうし、その喜びに何十年も踊り続けたいと思うことでしょう。


今日、多くの信仰者たちが語るように、単純な法則によって生まれた人間であれば、そんな人間は必要ありません。人間は法則で測ることのできない無限の柔軟性を持つ絶対的な原則によって創造された存在であり、その価値は計り知れないのです。そのような人間を見て、神はご自身のすべての属性を感じ取ることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。このことに接するとき、神は無限の喜びを抱かれたのです。


神が見つめ、喜ばれたアダムとエバ、神が恋しく思われたアダムとエバ、さらに万物が主人となることを切に望み待ち望んでいたアダムとエバ、こうして神が恋しく思い、万物が恋しく思ったアダムとエバはどうなったでしょうか。堕落の結果、その「恋しさ」は呪いと恨みに変わり、幸福と希望は嘆きと絶望に変わり、命は死に変わり、愛は慟哭へと変わってしまいました。この事実は、何とも言い難い悲劇です。


このような悲しむべき祖先を抱えているという事実に対して、何とも言い難い嘆きを感じるべき立場にありながら、私たちの中には、この悲しむべき事実がどこから始まり、今日の私たちとどのように関係を持っているのかを知らない人が多いのです。この嘆きを振り払い、この悲しみの心情を洗い流し、人間本然の心情を見つけて歓喜し、その歓喜の声を高らかに上げる群れは、この地上に存在しないのでしょうか。天はそのような人々を探し求めています。そのような立場に立つ者がいないのか、天は求めています。


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このような心情の問題において、天が恋しく思い、万物が恋しく思う価値ある人間が、今このような堕落した状態になったのであれば、それは裁きを受けなければならないのです。私はそう考えます。そしてこう祈らなければなりません。「父なる神よ、もし私が裁きを逃れたいと願うならば、あなたを恋しく思う心情において合格する者になりたいです。エデンでアダムとエバを創造され、喜ばれたその心情、行ってみたい、会ってみたいと思われたその心情、その心情に合格することによって、裁きを逃れ、喜びの歌を歌う勝利者となりたいです」と。天はそのようになることを望んでいます。


天倫を恋しく思うことができる自分になると同時に、人間を恋しく思える自分にならなければなりません。神がご自身の心情を体感させるために一人の男性と一人の女性を創造されたということが、どれほどありがたい恩恵であるかを、皆さんは深く考えなければなりません。


地上に男性と女性が存在するならば、彼らは神の全体的な性格と性相を代わって立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性でなければならず、一人の男性を愛することができる女性でなければなりません。神の心情を通じて、アダムが望んだ心情の基準、エバが望んだ心情の基準を持ち、自由を享受し、天を抱擁することのできる夫婦が地上にいるならば、神はその夫婦に全宇宙を委ね、安息したいと願われるのです。しかし、今日の人間はそのような神の御心を知りません。


人間はこのような心情の法度を踏みにじったため、今日、心情の世界において無限の「恋しさ」に苦しむようになったのです。芸術や学問、あるいは地上のどのような愛の対象を通じても、この恋しさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦悩するしかないのが堕落した人類の現実です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇なのです。


もしこのような恋しさが皆さんの心に込み上げてくるならば、本然の園を恋しく思った万物とともに、その本然の園を恋しく思うことができ、本然の心情を通じて神の心を引き寄せていた本然の人間の姿を備え、天を恋しく思うことができる人になるべきです。そのような人になるならば、神は両手を広げて「そうだ、わが息子よ、わが娘よ」と言いながら抱きしめずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。


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もし皆さんが、自分の価値を高めて天の御前に進みたいと願うならば、主の御言葉を聞き、恋しく思っていた本然の園に住むことのできる本然の人間の価値を体得し、天を恋しく思う心情に応えられるようになり、天を恋しく思う心を持つべきです。そのような人が現れるならば、天はどれほど喜ばれるでしょうか。


「恋しさ」というものは、愛を抜きにして成り立つことはありません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の命の源である神の愛でなければなりません。だからこそ、キリスト教は他の宗教と異なり、愛の宗教としてその使命を全うしようとしているのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活における感情や宇宙万象のすべての理を司る権限を持つような人格者を育成することにあるのです。


神は、人間がまるで木や石のような存在であるにもかかわらず、6000年間、人類を恋しく思う心情の基準を保ちながら摂理を進めてこられました。歴史はさまざまな形で展開してきましたが、神は「アルファでありオメガ」であられる立場から、一貫してその恋しさを失われることはありませんでした。それに対して、人間が神のそのような心情と異なる心情を持つのであれば、その人間は敗北者であり、歴史の路程から脱落する者となるでしょう。


天が「わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」とおっしゃったのは、私たちにとってどれほどありがたいお言葉でしょうか。それだけでなく、さらに神は堕落した人間に対しても、恋しさと共に悲しみの感情を重ねて持ち続け、私たちを恋しく思い続けておられるのです。このことを私たちは知るべきです。


取るに足らないこの一つの体を抱え、本然の心情に傷を負わせた堕落した人間を抱きながら、それでも神はその恋しさを捨てられませんでした。このように、堕落した人間に対する悲しみを胸に抱き、悲しみの感情の中で恋しさを持ち続けておられる神を感じる人がいるならば、その人は間違いなく天国に行けるでしょう。


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私はこのように祈ったことがあります。「お父様!私が自分の手を握りしめ、その手を恋しく思い、涙を流すことのできる人間になれたらいいのですが」と。神はそのようなことを望んでおられると思います。神が本当に愛をもって握ることのできる手であるならば、自分自身がその手を握りしめ、涙を流すことのできる人間になるべきなのです。


堕落せず、神を恋しく思った本然のアダムの手を握りしめ、涙を流せる人間であるべきです。さらに進んで、アダムを抱き、エバを抱き、涙を流すことのできる人間になるべきです。そのような人間になれば、堕落の歴史を踏み越え、乗り越えることができるでしょう。


私たちは、本然の人間を恋しく思い、その価値を誇るべき歴史的な責任があります。そして、その誇るべき価値を神の御前に高く掲げる責任があります。そのため、知らず知らずのうちに自分の価値を高めようとし、知らず知らずのうちに自分自身を恋しさの対象として立てようとするのは、人間の自然な感情です。それは、人間がもともとそのような理念を持って生まれたからです。


しかし、自分の価値を立てようとする中で少しでも誤れば、堕落した世界の価値を受け入れることになりかねません。また、自分自身を恋しさの対象として立てようとする中で誤れば、堕落の基盤となってしまう危険があるのです。


そのため、堕落した人類は全体が否定され、否定されなければならないのです。すべてを捨て去るべきだということです。なぜなら、アダムとエバがすべてを持つことができなかった位置で堕落したからです。アダムとエバはその理念を持っておらず、心情的な問題に関して何も持っていなかったのです。自ら万物を支配できる堂々たる権威を持つ立場に立つことができなかった、それが堕落ということです。アダムは万物を支配できる立場に立ったことがありましたか? いいえ、立っていませんでした。


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このように、本然の人間を恋しく思い、彼を求めて進むべき歴史的な条件に縛られているため、人間はすべてを捨て、涙から出発しなければならない存在であることを私たちは理解しなければなりません。そのため、涙を引き起こす宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教で「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われているのを聞くことができます。イエス様がこの地上に現れ、「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われたのは、まさに「嘆きなさい」という言葉でした。自分自身を見て嘆き、家族を見て嘆き、愛するすべての人々、民族、国、そして自分が生きているこの地を見て嘆きなさいということです。ここには、恋しさの縁を新たに結ぶための神の御旨が込められているという事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちは、万物を恋しく思うことができ、人を恋しく思うことができる存在でなければなりません。皆さん、人を心から恋しく思ったことがありますか?純粋な天の心情とつながり、無限に与えても忘れてしまい、それを喜べるような心情を体感したことがありますか?そのような心情を引き起こすために、天は「宗教」という名を掲げ、「救主」という名を掲げ、「新郎新婦」という標語を掲げて摂理を進めてこられたのです。私たちは、その方のためにすべてを捧げる覚悟を持たなければなりません。


神は、心情と恋しさが結びついた心で捧げられる万物を受け取る日を切望しておられます。心情と恋しさに満たされて捧げられる家庭を受け取りたいと願っておられるのです。そして、その恋しさに満たされ、この国、この民族、この世界が神に捧げられることを望んでおられるのです。


皆さんは今、天に向かって恋しさに満ちた心で「たった一銭にすぎないこのお金ですが、どうかお受け取りください」と言えるようにならなければなりません。そのようなとき、その一銭は宇宙を代表する価値を持つのです。どれほど貧しい家庭であっても、「不足していますが、この家庭をお受け取りください」と言えるとき、その家庭は天国の継承を受けることができるでしょう。荒野をさまよっていたイスラエルの民のように哀れな民であったとしても、その民が天に向かって恋しさの心情で「この民をお受け取りください」と祈るならば、天はその民に地上天国を主導する権限を与えようとされるのです。


国家も同様であり、世界も同様です。今日、この地上で人類に提示されるべきどのような理想主義や理念であっても、それが天を恋しく思わせ、心情的に天を慕わせるものでなければ、人間の根本的な問題を解決することはできず、天倫の根本的な問題を解決することもできません。


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心情的な問題を探し求め、天を恋しく思い、本然の園を恋しく思うひとときを持つことができなかったことが堕落であり、そのような関係を自らの存在を賭けて築き上げることが復帰の使命なのです。


そのような使命を果たそうという心情に満ち、父なる神の心を慰めることのできる一つの姿として、その心情的で恋しく思う理想の園の理念の中で動きながら、万物を探し求め、人間を探し求めて働かれる天に向かって「お父様」と呼ぶことのできる人がいるならば、その人を天が知らないはずがありません。そのような心情を持ち、本然の園を探し求めた人がいるならば、その人を神が知らないはずがなく、人類全体が知らないはずもなく、被造物すべてが知らないはずもないのです。そのような人こそ、本然の真の人間であることを私たちは知るべきです。


だからこそ、「恋しいエデン」、そこに生い茂る万物、そこに住む人間、そしてそこに訪れられる神が、個別に事情を通じるのではなく、一人の人を中心として、上には天、下には万物が調和し、応えることのできる一つの喜びの住まいを築かなければなりません。その場所にいる人は、神が愛することのできる人であり、人類が仕えることのできる人であり、万物が尊敬することのできる真の主人であるに違いないということを、私たちは知るべきです。


このことが成し遂げられなければ、復帰摂理、すなわち神が掲げられた全体の御旨が完結し、勝利の栄光を見ることはできません。また、私たちも堕落の悲しみを解消し、願いを成就することはできません。それが成し遂げられなければ、勝利の一日を備えた世界をこの地上に建設することはできないという事実を、私たちは明確に理解しなければなりません。


<祈り>
行けども行けども果てのない復帰の道程であり、悲しみが残されたまま巡り続けなければならない私たち人間であることを、私たちは知っています。しかし、苦労された父なる神の心情世界を通じてみるとき、巡り続けた悲しみの歴史が今日の私たちと関係を結び、今日の戦いの関係が未来の縁を構築する基盤となり得るのです。そして、無限の希望、無限の幸福、無限の恋しさの園を築き上げるという心情の縁を、私たちは理解しなければなりません。


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お父様、アダムを伴い、あちらこちらを巡りながら誇らしげに自慢したかったその山河は、いったいどこにあるのでしょうか? アダムと共に誇りたかった咲き誇る花はどこにあり、成長する樹木はどこにあり、青々とした草原はどこにあり、流れる小川はどこにあるのでしょうか?

そのような心情を通じる境地において、父と同行できたはずのアダムは堕落して父のそばを離れてしまいました。しかし、今、私たち自身が恋しく思っていたお父様をそばにお迎えし、万象と共に、全人類と共に、全宇宙と共に楽しむことのできる喜びの姿へと導いてください。父なる神よ、心から願い、切に求めます。

残された十字架の恨みも、恋しさを通じなければ縁を結ぶことができず、残された栄光の場も、恋しさに満ち、理想の園を慕う心がなければ縁を結ぶことができないことを私たちは知りました。この恋しさの心情を持って、本然の人間として本然の園で万物に向き合うことのできる子女、堕落の縁を結ばず、父の祝福を受ける勝利の子女となれるよう導いてください。そして、真の人類の祖先となれるようにしてください。切にお願い申し上げます。

お父様、この日のすべてを委ねます。捧げた言葉を通して、この人々の心情の中に新たな喜びを体感する心情が芽生えるように許してください。

すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン。


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