人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(10-2)

2024年11月15日 15時31分54秒 | 学習
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歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。


既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。


良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。


そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。


イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。


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良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。


人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。


では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。


イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。


私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。


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人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。


そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。


さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。


そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。


では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。


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こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。


神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。


神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。


神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。


その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。


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そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。


天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。


神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。


死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。


神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?


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それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。


復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。


今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。


私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?


イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。


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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。


もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。


今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。


しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。


これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。


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このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。


そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。


絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。


そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。




<祈祷>


天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。


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天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。


絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。


お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。


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今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。


このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?


お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。


イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。


お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。


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私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。


天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。


今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。


そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。



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御言葉選集6(10-1)

2024年11月15日 15時26分37秒 | 学習
文鮮明先生御言選集6 - 10. 解放、さらに解放すべき神様の御旨 (1959年6月14日)
1959年6月14日(日)、旧本部教会にて
マタイによる福音書 10:34-39、18:15-20




<祈祷(Ⅰ)>
本然の園を築き、本然の真の子女を抱き、本然の心情を通して楽しむべき御父様の理念が、この地上に現れなかったという事実を私たちは知っております。私たち人間は、死に捕らわれたその日から今日に至るまで、本然の心情をもって天を賛美することがなかったことをどうかお許しくださいませ。


本然の一個体としてお父様を呼ぶことができる栄光の位置に立つことができなかった哀れな私たちをお許しくださいませ。そして、本然の心情を備え、「私のお父様」と切なる心情を込めて呼び求めることができなかったことを、どうか憐れみをもってお許しいただけますよう、切に願い申し上げます。


本然の園を失った人間は、死の世界に落ち、暗闇と戦い、敵の手中に捕らえられ、嘆きと絶望の中にありましたが、本然の心の痕跡が残る良心を通して本然の故郷を慕っております。歴史的な戦いを経ながらも、一瞬一瞬に感じられる天の感触を通して天の生命の一筋を求めてきた私たちを助けてくださったお父様、感謝申し上げます。


極めて幼く未熟な私たちが、この一つの路程に苦しみ疲れていることをお父様ご存知であるがゆえに、この時間、再び憐れみの御手を差し伸べてくださいませ。再創造の力をお与えくださり、本然の心情を回復できるようお導きくださいませ。本然の姿としてお父様に近づくことができるように支えていただけますよう、私のお父様、切に願い申し上げます。


私たちは、この地上のすべてを断ち切ってでも、天が望まれる本然の世界に向かって進まなければなりません。どうか今、私たちに本郷を慕う切なる心を深く刻んでお与えください。そして、たとえ私たちの身体が疲れ果て、足が疲弊したとしても、本郷を目指して走り続けることができる位置へと、お父様、私たちを追い立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


1


私たちの身体と心が一つとなり、天の心情を慕うことを許してください。そしてお父様が最後に私たち人間と共に喜びを分かち合える幸福の園を、私たちが築くことができるようにお導きください。この時代において、何億万もの人々が阻もうとすることがあったとしても、愛の心を持ってそれを乗り越えて進むことができる私たちであるように、どうかお許しくださいませ、お父様、切に願い申し上げます。


堕落した私たちではありますが、どうしても復帰の路程を歩んで本然の自分自身を取り戻さなければならず、本然の故郷を探し、本然のお父様をお迎えし、本然の世界を築かなければならないことを、私たちは知っております。


今日、この邪悪で堕落した私たちは、父の愛の心情を知りませんでした。本然の故郷を知りませんでした。本然の人格と本然の存在そのものを知りませんでした。お父様!どうかもう一度、御言葉を通して、人格を通して、愛の心情を通して、本然の存在そのものとなるために必要なすべての要素を備え、お父様をお迎えして生きるのに不足のない者として、私たち自身を栄光の姿として立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


これらを阻止するために、多くの敵である悪魔たちは歴史の路程において、先祖から今日の私たちに至るまで、時と機会を問わず侵略してきたことを私たちは知っています。今やこれを拒絶し、これを制止する責任が私たちにあることを理解し、その責任を果たそうとしています。どうか、私たちが父の心情で武装し、父の御言葉で武装し、敵の前に堂々と立つことのできる天の真の息子娘となれるようお導きくださいませ。


今や私たちは、本郷を探し求めなければなりません。私たちの家庭、私たちの社会、この国土に住む三千万の民、地球上に広がる多くの人類、霊界にいる多くの霊人たちもまた、失われた本郷を探し求めてさまよっていることを知っています。お父様、どうか私たちが、父の心情と通じる本郷を築く責任者となれるようにしてください。私たちが敵の世界から真の息子娘を見出し、彼らを集め、本然の園を建設することのできる天の働き手、天の精鋭兵士となれるようにしてくださいますよう、お父様、切に願い申し上げます。


2


お父様、一週間の間に傷ついた心をそのまま抱えたまま、こうして父の御前に参りました。どうか憐れんでくださいますようお願い申し上げます。不義なるすべてのものを取り除いてくださり、父の心情と通じる要素だけが、父の本性に調和する本質的な要素だけが現れるようにしてください。それによって、お父様が喜ばれる最大の栄光を現し、捜し求めお捧げすべき本然の存在そのものを見出し、お父様が楽しめる時間とさせてくださいますよう、切に願い申し上げます。


足りない私たちが父の御前に集まり、礼拝を捧げるこの時間をどうか聖別してください。何億もの悪魔が入り込む時間とならないようにしてください。天にいる数え切れない聖徒、天軍天使がお父様を囲み、お父様を親しくお迎えし、心情と心情が通じ合う縁が結ばれる時間としてください。どうかこの時間を許してくださいませ。


この時間以降のすべての時間も、お父様が親しく主管し、運行してくださいますよう、心より願い申し上げます。このすべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。




<祈祷(Ⅱ)>


この地を摂理されるお父様!蕩減復帰しなければならない悲しい歴史上の罪を、どうかお許しください。数多くの人類があなたを賛美しましたが、あなたの御旨を成し遂げることができないまま、悲しい歴史が流れ、6000年が経過しました。それがすべて誰のせいなのかを考えると、恐縮の念に堪えません。この私たちの心情をご覧になり、どうか親しく訪れてくださいますよう、切に願い申し上げます。


今、絡み合った心と体を抱えて、父の御前に跪いております。私たちの主人はあなたでなければなりません。私たちのすべての事情を理解し、通じてくださるのもあなたでなければならないと知っています。愛のお父様、どうかこの時間、あなたが親しく主管してくださり、導いてくださいますよう、切にお願い申し上げます。


3


人間たちがお父様を求めて歴史の路程で彷徨ったとしても、いまだお父様をお迎えして生きている者たちは地上に存在しません。この地のどの一隅が父のものであり、どの家庭が父のものと言えるのか、一つとしてこの地上に見出して立てることができていない父のその悲しい心情を、かすかにでも察することができます。


あなたに悲しみがあるとすれば、それはこの地の主であるあなたが主としての位置に立てず、この地を責任をもって治めるべきあなたがその責任を全うできない立場にあることを、私たちは知っています。


地上の人々を責任をもって導くべき立場にありながら、それを果たせない摂理を進めてこられたお父様。私たちの心情を通して直接主管し、直接命じるべき立場にあるのに、それができないお父様。私たちの生活を通して私たち全体を主管すべき父であるにもかかわらず、私たちの内面の生活や事情を完全には主管できないお父様。私たちを見て、善の結実だと賛美すべき父であるにもかかわらず、そのような一日、一時、一人を見出すことができなかったお父様。このような悲しい立場にある父の心情を、私たちはこれまで知りませんでした。


今、たとえ私たちがこの地上のすべてを失うことがあったとしても、どうか父の悲しい心情を深く理解することができる息子娘となることをお許しください。父の事情や困難を親子としての立場から感じることができるようにしてください。お父様が涙を流されるとき、共に涙を流し、困難に直面されるとき、共にその困難を担うことができるあなたの息子娘となることをお許しください。切にお願い申し上げます。


そのような人を立てるために、そのような人を見つけるために、父は長い間ご苦労されましたが、人類を代表できる主人公に出会うことができず、天を代弁する天の法度を体現する主人公にも出会うことができなかったことを、私たちは知っています。


4


そのような中で、父は長い歴史の過程を経てイスラエル民族を形成され、お父様を代弁し、父の心情を握り動かすことのできる実体メシアを地上に送られました。しかし、イスラエル民族がメシアを迎えることができず、メシアと共に歩むことができなかったため、世界はさまよう客となったという事実も、私たちは知っています。


今日、終末の時代において再び来られる主の再臨の日を待ち望む私たちです。天を代弁し、天が探しておられるその一人とは、天が悲しまれる時に共に悲しむ者であり、天の事情を握り天と共に戦う者であり、天の喜びを代弁して天と共に歌う者であるということを、私たちは知っています。この地に数多くの人類が生きているにもかかわらず、歴史と共に、時代と共に、未来を代弁するその一つの存在を見出すことができなかったことを、どうか今この時、お許しくださいませ。


その唯一の存在を迎える希望の日を待ち望み、今日まで膝を屈め、父の御前で祈りを捧げてきました。どうか切なる愛の心情を持って来られる尊い実体を、お父様、許された園において、許された時に、この天地間で迎えることができる喜びの日が速やかに訪れるようにしてください。切に願い申し上げます。


お父様!私たちの心が不足していることを知りました。私たちの体が俗世に属していることを知りました。そして私たちの欲望が悪魔と共に動いていることを知りました。


このような内的な要素を持つ私たちですが、天に代わって許されたその時、その時代、その一瞬に来られる唯一の主人公を待ち望むことすらできない惨めな姿です。どうか憐れみ深いあなたの前で、自分自身の惨めさを嘆くことができるようにしてください。そして惨めな家庭、惨めな社会、惨めな人類、そして惨めな天地を前にして嘆き悲しむことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


5


悲しい心情を抱き、天と地の前で贖罪しなければならない時が来ました。お父様!どうか私たちの心の扉を開いてください。私たちの心情は、父の心情に向き合うこともできず、向き合う術を知らない状態です。このような私たちの体と心を、父の御姿と父の心情に調和する実体として再び形作っていただけますよう、切に願い申し上げます。


このまま私たちを放置すれば、私たちは死の世界で悪魔の餌にしかなり得ません。6000年もの間、摂理してこられたお父様!どうかこの終末において私たちを見捨てないでください。私たちを通して勝利の標を立て、勝利の園を建設し、敵の前で誇りとされたいという父の御旨が残されていることを私たちは知っています。どのような苦労の場であっても共にし、栄光の姿となれるようお導きください。たとえどんな困難に直面し、砕けることがあったとしても、父の御旨に対する一途な心情を天に、地上に残すことができる天の忠臣となれるよう、どうか導いてくださいますよう切に願い申し上げます。


お父様!この日、私たちがここに集まりました。どうか憐れみをお与えください。今、私たちが父の心情を悟ることができるようにしてください。そして、父の御旨の前にふさわしくないものがあるならば、それらすべてを取り除いてくださいませ。父の心情が私たちの心情となり、父の実体の動きに私たちの体が動かざるを得ず、私たちが父の御前で悔い改めざるを得ず、自分の事情を打ち明けざるを得ないように、どうか直接的な力強い御手を差し伸べてくださいますよう、心より願い申し上げます。


天が容認することのできない、これまで持ち続けてきたすべての世俗的な観念や自己主張を取り除いてください。そしてそれらすべてを父のものとして調和させることのできる本質的な感性の基準を高め、良心の基準を高めてくださいませ。私たちの心情を結びつけて父の心情と通じさせ、天的な事情と通じることのできるこの一時をお許しください。


お父様! 私たち人間がどれだけ善良であったとしても、父の御前で顔を上げ、「お父様」と呼ぶことのできない罪深い存在であることを悟らせてください。また、自らを弁明する内的条件をどれだけ整えていたとしても、天の御前で弁明の条件を提示することのできない堕落の子孫であることを、深く理解することができるようにしてくださいませ。切にお願い申し上げます。


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天におられる数多の聖徒たちを送り、私たちの周りを聖別してくださいませ。私たちの心情を砕き、父の力強い御手によって再び形作ってください。それによって、私たちが再創造の御言葉とともに再創造の性品を受け入れ、死の実体であった私たちが命の実体へと変わり、栄光と歓喜の中でお父様を呼ぶことのできる喜びの時間を迎えられるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、今日という日は聖なる日です。すべての人々があなたを高らかに賛美すべき日であるにもかかわらず、この民族はあなたを知らず、人類の大半があなたに反対する立場にあります。そのような人類を抱え、悲しまれる父の心情の曲折を私たちが知るべき時が来ました。孤独な父の心情を理解することができず、孤独な父の姿を代弁することができなかった歴史的な罪を感じ、この時間、父の御前でひたすら涙を流すことのできる息子娘となるようにしてください。


その心情の痛みを感じ、たとえ私たちの身が消え去ることがあっても、父の心情を歌い、その心情を慰めることができる息子娘となるようお導きください。切にお願い申し上げます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、皆哀れな者たちです。彼らには地上に友もおらず、弁護してくれる者もおらず、共に働く者もおりません。孤独な峠、孤独な道、孤独な茨の道を歩みながら、打たれ、打たれ、また打たれながら、この道を探し求めてきました。このような形であっても進まなければならないと感じ、倒れ、命を落とすことがあってもこの道を守るべきだという御旨を知ったからこそ、今日父の御前に集まりました。どうか憐れみをお与えくださいませ。


命の枯渇を感じ、お父様に代わる天的な理念を待ち望んでいる息子娘たち。彼らの命を担うことができるのは父だけです。彼らの事情を慰めることができるのも父だけです。どうか彼らの心情、事情、環境を主管してください。彼らの上にお父様が運行される聖なる時間を与えてください。聖なる心で礼拝を捧げるこの時間を守ってください。切にお願い申し上げます。


7


終末の時代、この緊迫した時期に差し掛かった私たちは、今、私たちが留まっている場所、その位置がどのようなものであるかを第三者の目で批判すべき時に来ています。私はどこに留まり、どの方向に向かい、どの目的地を目指して歩んでいるのか、自らを振り返り、批判できるようにしてください。もし天の望みと私たちの望みに違いがあるならば、それを埋めるために努力しなければならないことを、私たちは知っています。どうかそのための力を与えてください。切に願い申し上げます。


お父様、今この時、私たちの心と体を通わせ、一つとなれるようにしてください。お父様が動かれるなら私たちも動き、お父様が留まられるなら私たちも留まることができるようにしてください。お父様、どうか摂理の基点を築いてくださり、私たちが天の心情を代弁する一つの姿を備え、天の栄光を歌い上げ、天上の数多の聖徒たちをも動かすことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


お父様、この日、多くの祭壇を祝福してください。彼らが御前で心を開き、胸を広げ、自らの過去のすべてをさらけ出して、お父様によって新しい血縁的な兄弟の縁を結ぶことができるようにしてください。父の摂理が成し遂げられる復帰の日が、速やかにこの地上に現れるようにしてください。心より願い申し上げます。


お父様、この時も、地方に散らばり膝を屈めて御前で訴えている孤独な家族がいることを知っています。どうか彼らにも同じ恵みをもって歴史してください。心が張り裂けるような事情を抱えて御前で訴えるその場その場において、お父様が親しく愛の御手を差し伸べ、命の動きを起こしてください。切に願い申し上げます。


この時、復活の栄光を歌うことのできる支配の領域へと導いてください。愛の心情で私たちを抱きしめてください。子どものような心情でお父様を慕い、渇望する心情に満たされ、体と心が一つとなってお父様に捧げられる私たちとなれるよう、どうか祝福してください。これらすべてを主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


8


<祈祷(Ⅲ)>


お父様、私のお父様! 私たちの心が父のものであると感じられるようにしてください。私たちの体がお父様によって作られた、欠けも汚れもない本然のアダムとエバのような姿であると心で感じられるこの時間をお与えください。


心と体が一つに調和し、栄光の結実体としてお父様に捧げられるべき自分たちであるという責任感を、この時間、自ら感じながら、「私のお父様」と呼ぶことができるよう、天の恵みをこの時間お与えください。
切にお願い申し上げます。


人間にとって最も大きな悲しみは、父の愛と縁を結ぶことができなかったことであり、父の心情に通じる本然の良心を失ったことであり、その心情と良心が調和し、体と心が一つとなる位置に立つことができないことであると、私たちはよく理解しております。


堕落のゆえに、父の心情に通じる感覚が私たちから離れ、父の心情を体感して万物を愛することができる心を失いました。どうかお父様、その心情を回復できるようお導きください。私たちの体と心を一つにし、私たちのものを父のものとしてください。私たちのすべてを父の御前に差し出し、誇らしい姿で愛の翼を広げ、万物を抱くことのできる広い寛容の心を持てるよう、どうかこの時、私たちに歴史してください。切にお願い申し上げます。


私のお父様! このような心情に通じる御言葉が、今この時、切実に必要であることを知っています。私たちが失ったのは御言葉であり、その次に実体であり、そして心情であると理解しております。お父様、どうか御言葉を通じて、私たちが失った本然の心情を蘇らせてください。本然の御言葉に頭を垂れる心、本然の御言葉に耳を傾ける体となり、父の栄光の御胸に抱かれる恵みを、この時間お与えくださいますよう切に願い申し上げます。


9


事を始められたのはあなたであり、それを成し遂げられるのもまたあなたであることを知っています。善によって始まったのならば、善によって終わりを結ばなければならないでしょう。お父様、あなたは「私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。始まりであり終わりである」とおっしゃいました。しかし、最初に本然の心情を失った人間は、終わりにおいても天の心情に通じることができません。今や終末の時代には、本然の心情を掴み、その心情を繋げなければなりませんが、堕落による恨みの淵で喘いでいる私たちを、どうかお許しください。切にお願い申し上げます。


この時、私たちの心が私たちのものでなく、あなたのものであることを悟らせてください。また、私たちの体が私たちのものでなく、あなたのものであることを知ることができますように。そして私たちの心情、感情、これらすべてが私たちに属するのではなく、あなたに属して動いているという事実を、実体的に、また確証を持って体感できるようにしてください。


お父様、これから御言葉を伝えようとしております。伝える者の心と聞く者の心が隔たりなく結ばれるようにしてください。もし自分勝手な考えを立て、計ろうとするならば、天の恵みを妨げる恐れがあることを私たちは知っています。どうか応じることも、調和することも、すべてあなたのために成り立つようにしてください。この時、私たちが子どものような心情に戻り、聞こえるままに、感じるままに受け入れ、すべてを父の御手の中で始め、そして終わらせることができるようお許しください。切にお願い申し上げます。


お父様! あなたが許された御言葉を通して、イエス様がその当時語られた心情に通じ、彼の事情に通じ、また彼の理念と希望の実体となることができますようにしてください。そして、イエス様を迎え、彼の事情と心情に調和し、お父様をお迎えできる喜びの条件を見出し立てることができるこの時間となるよう、切にお願い申し上げます。許されたこの一時間を、父の栄光の恵みで満たしてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


私たちは自分自身を見つめるとき、自分一人では存在していないことを感じざるを得ません。私たち自身が、何らかの事情や縁によって結ばれている社会や家庭があることを否定することはできません。また、良心を中心に考えるとき、大きく崇高な善を目指す何らかの縁の中でお互いが絡み合っているという事実を否定することはできません。


10


したがって、私たちが自分自身を完全に説明し、完全に安定した位置に立つことを望むならば、これまでの環境的なあらゆる縁を整理し、新たな価値と絶対的な関係を結ぶ必要があります。また、心の理念の世界と絶対的な縁を結ぶことができなければなりません。このことを、私たちが今日この地上で生きている間に決定づけ、それを天のものとして、または人類のものとして、完全に自分自身のものとして掲げることができなければなりません。それが人間の最大の希望であり、最大の使命であると言えるでしょう。


もし神に嘆きがあるとすれば、それは神自身がそのような位置に立たれていないのではなく、神が直接創造された人間が天的な価値と調和できず、万物の存在価値と調和する存在となることができなかったことです。安定した位置で絶対的な縁を歌い上げる存在となれなかったことこそが、神の嘆きであり、人類歴史の嘆きであり、今日の私たちの心の世界に嘆きの条件として残されているという事実を否定することはできません。


私たちの心は、自分でも知らず知らずのうちに、このような絶対的な縁とその幸福を歌い上げたいと望み、自由と平和の理念を歌いながら生きたいと願っています。それが心と体の全体の願いであるにもかかわらず、心でそのような世界を成した人もおらず、体でそのような環境の中で生きた人もいません。この事実は歴史が証明しており、皆さんの生活が証明しており、皆さんの人生そのものが証明しているのです。


このように自分自身を振り返り、第三者の立場から冷静に批判してみるとき、私たちは決して幸福な者ではありません。もし私たちが不幸であるならば、それは天に代わって不幸な者であり、人類に代わって不幸な者であり、社会に代わって不幸な者であることを認めざるを得ません。


このような自分自身、そして私たちを解決し、補う方法がないとするならば、私たちは絶対的な価値を歌うことができる安定した位置に留まることはできません。そして、このような人間は、宗教的な表現を借りれば、堕落した世の中、汚れた罪の領域に生きる者と言えるでしょう。


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もし天が存在するならば、天はこのような人間を自由の実体として解放し、解放の園へ、そして理念の世界へ導こうとされるでしょう。万物を代弁し、自らの価値を尊重し、宇宙の実存世界と共に動くことができる調和の主体となると同時に、天上の創造主が私たちの動きに調和して現れることができる、そのような絶対的な姿となることが、人類が望む最終的な希望と言えるでしょう。


もし天の摂理の御旨があるとすれば、そのような存在を探し出し立てることが、摂理の最高目的であるはずです。また、もし歴史の流れがあるとすれば、その流れの目的は、このような一人一人が互いに通じ合うことができる世界を建設することにあるでしょう。


今日の自分を見つめるとき、自分が何らかの縁の世界に関与していることに気づかざるを得ません。今日の自分が存在するのは、自分自身から始まったのではなく、過去の縁を通じて存在しており、時代的な縁を通じて存在しているのです。また、未来の縁も持たなければならない運命にあることを私たちは知っています。


それでは、過去の縁の曲折、時代的な縁の曲折、未来の縁の曲折、さらに天上と自分が結ばれているこの縁の曲折をどのように解明するべきでしょうか?もし哲学者がいるならば、この問題を解明するために苦心しなければならないでしょう。もし宗教家がいるならば、この問題を解明するために尽力しなければならないでしょう。また、良心と情的な人格を備えた人がいるならば、この理念を歌い、この主義と思想を掲げて主張することによって、過去の歴史、現代、そして未来において新しい希望と新しい理念を抱き、その価値を代弁して現れる資格を持つと言えるでしょう。


しかし、人類の歴史が始まって以来、万物の霊長である人類のどの生涯においても、このような価値的な実体として万宇宙と共に歌い、万宇宙の幸福を讃美し、それを人間の前に提示した人はいません。


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それでは、天の目的、天の希望、あるいは創造の理念が、そのような一つの存在を探し出して立てることを基準としているとすれば、なぜ天はそのような理念の条件、私たちが心情で求め、縁を結びたいと願う体験的な感情を人間世界に表すことができなかったのでしょうか。また、なぜ歴史上の偉人たちは、そのような事情を私たちに紹介できなかったのでしょうか?それは、人類の歴史が私たちが望む本質と本性が調和した善の世界を促進する足場にはならなかったからであると理解すべきです。


今日、私たちが生きているこの社会も、善の理念の実体を立て、その価値を讃え、その価値を育むことができる条件を備え、またその価値のある場所に私たちが留まることができる社会ではないということを、私たちは知るべきです。しかし、この歴史や社会は、私たちの理念の世界と一致する立場ではなく、むしろ相反し、対立する立場であるということも理解しています。


したがって、この相反し、対立している状況を解消するための何らかの行動や主義、または一つの主張が出現しなければなりません。現状のままでは、すべての人間が本心で、本然の心情で求める理念の世界に到達することはできません。そのためには、ある一つの主義や理念がその方向を示しながら現れる必要があります。しかし、その理念は、相反し、対立するすべての状況を覆すことのできる歴史的な条件と時代的な環境の条件を備えなければならないのです。


しかし、歴史の中には、大衆が関心を持たない一つの分野を切り開き、その時代において大衆の支持を受けることなく、独自の道を歩んできたものがあります。それが何かといえば、「宗教」というものです。宗教です。歴史の流れに逆らい、その歴史的な路程において相反し、対立する道を歩みながらも、歴史の背後で全体的な善の理念を引き出してきた歴史的、社会的、条件的な基盤、それが宗教というものなのです。


天は歴史と共に、私たち人間と直接的な関係を結びながら進んでこられましたが、その歴史の路程において、縁を結ぶための基盤や条件的な環境を整えてこなかったとするならば、その天は今日の歴史的な私たちと何の関係もないものとなります。この基盤を成し遂げていなかったとするならば、天は今日の私たちの良心とも関係がないということになります。


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そのため、歴史的な縁を経て進み、環境的な基盤を築き上げてきた宗教は、その時代の社会と相反する立場であらゆる主張を行ってきました。それ自体も現実と調和することができず、時代の流れに反する立場から主張を行ってきたのです。しかし、この宗教がいつまでも社会と調和しないままである限り、歴史的な終末や摂理的な終末において現れるはずの幸福の園、すなわち、天が動き、人類が動き、万物が動く幸福で自由な平和の園は建設されることはなく、そのような理念も成立することはありません。なぜなら、天が崩れると私たちの良心の絶対的な善の基準も崩れてしまうからです。


したがって、その絶対的な善も、歴史的な縁の過程を経て初めて歴史的な人間と関係を結ぶことができるため、天はそのような摂理を進めてこられたのです。


6千年という長い年月を経る中で、天は何をしてこられたのでしょうか? 歴史上の人類に対して、天は新しい善の理念を打ち立て、それを基盤として宗教の形態を整え、絡み合った歴史上のすべての条件、歴史上のすべての縁を開放するために、善の理念を提唱してこられたのです。


天は、個人の歴史性と絡み合っているものや、民族が築いた伝統に固執しているものを開放する運動を進めてこられました。言い換えれば、「解く」歴史を進めてこられたのです。


歴史の始まりは善ではなく、悪でした。悪が先に出発したのです。今日の共産主義者たちは弁証法の論理を用い、その核心である「正反合」の論理によって歴史を解明しようとしています。しかし、それは正しくありません。「反正合」の論理を適用すべきなのです。つまり、ある正が存在し、それに矛盾する反が現れ、その対立と闘争の過程を経て新しいものを生み出すという論理は誤りです。むしろ、間違ったものが現れたので、それに対応する真の形態が出てきて、それと調和しながら新しい何かを生み出すという論理を適用すべきなのです。


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歴史の始まりは善ではなく悪でした。そのため、悪に対抗する新しい何かが現れ、その悪を統合して新しいものへと昇華させていく過程が歴史の発展過程であると言えます。


いずれにしても、天の目的が成し遂げられるときには、最大の善がその位置を占め、最大の解決点が現れるでしょう。その日は歴史の終末であり、宗教の終末であり、その時代の人類が抱いていた希望の終末であり、天的摂理の終末と言えるでしょう。


だからこそ、天は個人を掴み、個人を解放するために働いてこられました。また、異なる民族、異なる環境に住む人々、間違った習慣や古い伝統に浸っている人々を解放するために、多くの苦労をされてきました。このようにして、歴史的な私たちの先祖から今日の私たちに至るまでを導いておられる天が存在することに、私たちは感謝しなければなりません。


人類の歴史は縛られた歴史であるため、天はこれまで縛られた人類の歴史を解く摂理を進めてこられました。絡み合い、縛られている歴史、それが神の善の理念と調和する縁の歴史とはならず、むしろそれに相反する堕落の内容を中心として縁が結ばれているため、天はこれを解放する歴史を進めておられるのです。


誤った歴史を解放するという目的があるため、天は個人を掴んで個人を解放し、家庭に対しては家庭を解放し、民族に対しては民族、国家に対しては国家、世界に対しては世界を解放できるその一日を探し求めて来られるのが神の摂理です。これを私たちは心に留めておかなければなりません。


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それゆえ、今日皆さんにお伝えしたい題目は、「解き放ち、さらに解き放たねばならない神の御旨」です。神は、縛られ、塞がれたすべての縁の歴史を否定する立場に立ちながら、歴史的な終末の時代を見据え、この世界が神の摂理によって解放されるその日まで闘いを続けて摂理を進めておられることを、私たちは理解しなければなりません。


「解き放ち、さらに解き放つ神の御旨」、この神の御旨が歴史を解放することだとするならば、歴史を振り返ると、過去のすべての主権形態は解放運動によって徐々に崩壊してきたことがわかります。そして現代においては、民主主義の形態に至るまで解放運動が展開されています。言い換えれば、神は中世には農奴を解放し、その後封建社会を解放し、君主国家を崩壊させ、今日の民主主義という形態を築いてこられたのです。


その中で、神は全体が国家を代弁し、全体が世界を代弁し、全体が理念を代弁するという方向を目指して解放運動を進めておられます。同時に、個体が全体を代弁し、全体が個体を代弁できる基準を目指し、全体が個体を無視することなく、個体が全体にしっかりと向き合うことができる、そのような基準を目指して解放運動を進めておられるのです。


しかし、その方向性は歴史的な方向と一致するのではなく、むしろ相反する方向へと流れています。そのため、歴史的な終末時代である今日、二大潮流が対立しています。一方は共産主義であり、もう一方は民主主義です。共産主義と民主主義が対峙しているのです。


歴史的な実証から見ると、民主陣営は神の摂理の御旨を支持する基盤の上で動く陣営です。では共産陣営とは何か?それは外的な、すなわち物理的な基盤の上で動いており、心の基盤を持つ人間世界では受け入れがたく、私たちとは反対の立場にある陣営であることを否定できません。こうして双方が世界的な解放運動を掲げて展開しています。世界的な基準において、双方が解放運動を掲げているのです。やがてこの二つの陣営がぶつかるとき、何が正しいのか、何が誤っているのか、正(正)か否(否)か、または反(反)かが判断されるでしょう。


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人の価値を論じるとき、外見が良いからといってその人を立派な人と評価することはできません。その人の価値を評価するときには何を基準とするか?それは、その人が持つ思想と良心の基準です。


また、その人の思想と良心の基準に、心情の問題がどの程度まで関わっているかによって、その人の人格を論じることができます。個人の人格もそうですが、主義や思想も同様です。もし単に外面的な形だけで理念を立てたとしても、人間はそれに満足することはありません。人間は外面的なことだけで満足する存在では絶対にないのです。私たちが幸福を感じるときも、内面的な幸福の基準を確立してから初めて外面的な幸福を感じることができるのです。これが人間の本質です。


したがって、物質を基盤とし、今日の現実社会を土台にした主義や思想は、最高の善を目指して動く人間に対し、そのすべてを伝え切ることも、結びつけることもできないのです。


それゆえ、今こそ神を認め、神の働きに従って良心を動かし、この良心を基盤として主義や思想を提唱すべき時です。平和と幸福、愛を掲げ、無条件で奉仕し、無条件で犠牲となる本質的な要素を持つこのような主義や思想を持たなければ、また良心を通じて善を自動的に感じ取り、自動的に体感しなければ、人間世界で幸福の条件や幸福の理念、幸福の主義を確立することはできないということを、私たちはよく理解しています。


歴史は流れ、民族主義思想は過ぎ去り、今は世界主義思想が全体を代表できる時代です。この世界は、ある機関や代表者が支配する世界であってはならず、民主主義の形態、平等な立場で、すべての人々が「この世界は私のものだ」「主権も私のものだ」「理念も私のものだ」と言える世界でなければなりません。天は、このような境地に到達するように歴史を解放し、導いてこられています。このように摂理が進められているのです。


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神の摂理を振り返ってみると、天は時代の流れに反する立場で、内面的な面から摂理を進めてこられました。それぞれ異なる民族を対象としながらも、全体を動かすことができる善の方向を確立し、民族を団結させてきたのです。また、民族と民族を結びつけるために、新しい中間的な宗教の形態を整え、これを通じて民族を統合してきました。


今日、もしこの天的な摂理の御旨を代表し、天の摂理の前に立つことができる宗教があるとすれば、それは長い人類歴史の伝統的な基準とともに、歴史的なすべての基準、時代的な環境、そして将来の希望的な理念に応えられる内容を備えていなければなりません。


この観点から各宗教を見てみると、キリスト教が他のどの宗教よりも指導的な位置にあると言えます。長い伝統を持ちながら、神の摂理の御旨を代弁してきたこのキリスト教の歴史は、人類歴史の動きの中で変革や革命の過程を経ながらも、途切れることなく続き、今日の時代にも対応でき、未来の希望の基盤ともなり得る内容を備えてきたのです。


このことを考えるとき、私たちは神の愛がどのようなものかを理解することができます。なぜなら、神は歴史が発展し進歩するにつれて、人間が掲げる主義や思想、あるいは民族的な伝統をも変革する必要があったため、摂理の御旨に従うすべての宗教者たちに対して、世俗と縁を結ばないようにされてきたからです。一見、彼らは孤独で惨めな立場に置かれているように見えますが、歴史を知り、変革を進めてこられた神の立場から見れば、それこそがむしろ愛であり、守り導く手段だったのです。


旧約時代においては、神は律法を通して人々を天に導かれました。そして、新約時代においては、人格を基盤とした信仰を通して人々を天に導いてこられました。イエスの到来によって旧約時代が終わったように、再臨主が来られると新約時代も終わりを迎えます。つまり、宗教も最終的には開放的な歴史観を包含できる形へと変わっていくのです。


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今日、世界的な宗教、例えばキリスト教をはじめ、仏教、儒教、イスラム教がありますが、これらをどのように新しい段階へと進ませるのかが、今後の神の摂理計画において重要な課題となるでしょう。


が解放の歴史、解放の摂理を提示しているとするならば、教祖を中心とした時代、教祖を崇拝する時代は過ぎ去らなければなりません。封建社会において君主を崇める体制を打破するために闘争の歴史が展開されたのと同様に、終末の時代には、信者が崇拝する教祖と平等な価値を議論できる宗教が必要です。天はすべての宗派を超えられる人格者を探し求めるでしょう。それがなければ、歴史的な終末時代において解放摂理の御旨を完了することはできません。


現在、キリスト教徒は、他宗教を異端として扱っています。過去にもそうでした。しかし、過去のその形態をそのまま維持したままでは、新しい時代を迎えてそれを解放しようとすると、非常に大きな努力を要します。


過去のすべてをそのまま融合させることはできませんが、最終的にはそれらを一つに清算し解放しなければなりません。そして、歴史も理念の時代、主義や思想も理念の時代、私たちの心も理念の時代、そして天も理念の時代に入ることができる、そのような解放の歴史を提示できる主人公こそが神に属する者となります。また、そのような主人公が動かす宗教こそが、世界の人類が敬愛し崇拝することのできる宗教となるでしょう。


それゆえ、今日のキリスト教信者たちは、もし天の摂理がこのような解放運動を進めていることを理解しているなら、自分たちの信仰観念を解放することが何よりも急務の課題です。同時に、社会全般の条件が天に認められる縁の条件になっていない以上、そのすべての条件を解放する責任があります。そうではありませんか?これまで宗教と政治は分離してきましたが、これからは宗教と政治が結びつく時代が訪れるでしょう。


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カトリックの中心であるバチカン王国も、近い将来、政治的な形態を持つようになり、理念や思想を掲げる体制と対立する時が来るでしょう。見守っていてください。


このようにして進められる解放、その解放の方向は、一方は右に、一方は左に、すなわち左右の方向に歴史が分かれてきました。しかし、これが無限に分裂し破壊されていくわけではありません。一つの目標に向かって、「あなたも必要であり、私も必要である」という立場へと導かれるべきなのです。つまり、左右に分かれた目的は破壊のためではなく、完全に一つに統合するためであったことを、私たちは理解しなければなりません。


今日の思想でも同様であり、宗教の理念においても同じことが言えます。理念の分裂は最終的には統合のための過程であり、その方向性が天の摂理によって進められているのです。今日、世界宗教と自称するキリスト教、そして自分たちにはそのような価値観があると自負するクリスチャンたちが、自らの心と教派をどの程度まで解放し、柔軟性を持つことができるかが問題です。やがて天が時代の終末の最前線に立ち、すべての宗教や教派、信者たちに対して提唱する時が訪れるでしょう。そのような時代は必ずやってきます。


今日のキリスト教を見てみると、キリスト教もまた過去のカトリックの儀式を中心に行われていたように、ある種の形式や観念に縛られています。しかし、そのような儀式や形式に縛られていては、天の御前に立つことはできません。形式や儀式を超越し、それらを主観できる人格者は天の御前に立つことができますが、形式や儀式に囚われた者は天の御前に立つことはできないのです。


そのため、ルターは、すべての形式や観念を打破し、聖書に基づく信仰を通じて神の御前に立ち返ろうと主張したのです。これは、形式主義からの脱却を目指した改革であり、神との直接的な関係を重視する信仰を再確立しようとした動きでした。


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それゆえ、御言葉に依存して生きている人々、御言葉に支配されている人々、御言葉に縛られ、御言葉によって動く人々は、神の息子娘にはなれません。御言葉を支配し、御言葉を語ることのできる人、それがイエスであり、その代わりに立つことのできる人こそが天の息子娘となる資格を持つのです。天はそのような人を求めておられます。


ここで、今日私たちが、新教や旧教を問わず、待ち望むべきものは何でしょうか?それは、聖書の御言葉だけではなく、御言葉の中心である実体です。つまり、イエスというお一人が必要なのです。そのお一人を待ち望むべきです。御言葉は過ぎ去っても構いませんが、過ぎ去るべきでないものは御言葉の主体です。


それゆえ、今日のキリスト教の最終目標とは何でしょうか? それは聖書の完成ではありません。また、御言葉の完成でもありません。御言葉を通過し、御言葉を超越してそれを左右することのできる一つの実体が必要です。その実体こそが再臨主であり、キリスト教の希望の標本となる存在です。そしてその実体は、単にキリスト教だけでなく、仏教や儒教、すべての宗派にとっての希望の標本でもあります。


その一つの実体を待ち望む視点は宗派ごとに異なっていたとしても、彼らが証しし、紹介した内容は一つでした。それは、どの宗派であれ、必ず再び現れるべきその一つの実体に対する人格基準を明確に示していることからも理解できます。


今日のキリスト教の歴史、つまり6000年の歴史を振り返ると、旧約時代の律法主義の時代があり、新約時代の信仰の時代がありました。そしてこれからは、新しい御旨を成す「成約時代」が来なければなりません。歴史はこのように縦的な流れで進んできました。もはや特定の制度や主権が全体を動かす時代は過ぎ去り、個人が主権や組織を左右できる時代に変わらなければならないのです。


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キリスト教も同じです。今日の韓国のキリスト教を見てみると、教職者のための信徒、教職者を支えるための団体のように見えます。しかし、本来のキリスト教はそうではありませんでした。それは信徒たちのための、羊の群れのための牧者であり指導者であるべきでした。


したがって、牧師の時代は過ぎ去ります。そのまま放置してはいけないのです。天はそのように摂理を進めておられます。つまり、牧師の時代を解き放ち、清算されるのです。そして牧師の時代が過ぎ去ると、長老の時代がやってきます。「何々長老」という時代が生まれました。その後、執事の時代に移行します。「何々執事」という時代が生まれました。


では、執事の時代が過ぎ去るとどのような時代に移行するのでしょうか? それは「平信徒の時代」です。全ての信徒が主体となり、組織や主権が個々人によって動かされる時代へと進んでいくのです。これが天の摂理が向かう方向です。


すべての人間にとって、歴史的な終末も平等に訪れるものであり、摂理的な終末も平等に訪れるものです。その時代を代表する教団も、平等な基準で動いていきます。イエスも「私のため」、牧師も「私のため」、信徒も「私のため」という基準のもとで、絶対的な価値を重視し、全体的な価値に対比できる存在を探し求めるのが、天の摂理の歴史なのです。


韓国の教会界はどうなるのでしょうか? そうなります。見守ってください。これから韓国の教会、そして世界の教会に向けて叫ばなければならないのは何でしょうか?それは、教権者たちの権威は下がり、平等な形態を備えるべきであるということです。そして、世界の宗教は統合されなければなりません。こうして「世界連合」や「キリスト教連合」といった動きが生まれるのです。


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いま、私たち平信徒が責任を果たすべき時が来ました。そうではありませんか?歴史を振り返ってみても、そうではありませんか?旧約時代は神が直接摂理された時代であり、新約時代はアダムとエバに代わってイエスと聖霊が摂理された時代でした。そして今日、この終末の時代は、私たちが摂理を果たさなければならない時代です。


神の摂理を私たちの手で成し遂げなければなりません。しかし、ある教権者の支配の下に生きる命は必要ありません。私たちは、自分の価値を世界的な価値と平等に対比し、共に楽しむことができる命の価値を持つべきです。それが、今日の終末の時代における使命なのです。


それゆえ、私たち青年男女は、今日の現実の教会、教派主義に対して、まず反旗を掲げるべきです。そして平信徒の団結を呼びかけなければなりません。平信徒は団結し、不正なすべての教職者を追放する運動を展開する必要があります。


時代の潮流は、これを要求しているということを理解しなければなりません。昔は、一部の主権者や帝王、君主が神の代わりのように振る舞っていました。しかし、彼らが神そのものだというのでしょうか?彼らだけが神の役割を担うべきだというのでしょうか?違います。そうではありません。


すべての人が神の血統を受け継いだ息子娘である以上、誰もが天の息子娘なのです。


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それゆえ、民主主義という形態が生まれました。天は、あなたにも、私にも、天の息子娘となる権利を授け、解放の歴史を進めてこられました。すべてを解放し、開かれた時代を築いてこられたのです。


こうして今日に至るまで、解放を進めてきたこの歴史をどのように収束させるかが問題となっています。歴史も摂理も宗教も解放され、平等の形態を持ちながら動いており、世界の潮流もこのように動いています。この動きの中で、この世界をどのように調整し収束させるべきなのでしょうか?これが今日、政治家の悩みであり、歴史家の悩みであり、宗教家の悩みでもあるのです。では、どう収束させるべきでしょうか?


神は罪の歴史から人間を解放するために、6千年もの間苦労されてきました。多くの預言者や先祖たちを犠牲にし、さらには愛する独り子であるイエスまでも犠牲にしながら、忍耐強くその摂理を進めてこられました。しかし、こうして解放されてきたこの世界を、再び秩序ある新しい形態に変える天的な使命が残されていることを、今日のクリスチャンたちは知りません。そして、今日の人類も、どの宗教も、どの宗派もそれを理解していません。


社会と宗教がこのように動いている中で、終末においてどうなるのでしょうか? 私たちが改めなければならないものは、改めなければなりません。この課題に取り組むことが、今の時代における私たちの使命なのです。


イエスは言われました。「私が世に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)。これは驚くべき宣言でした。イスラエルの民は、メシアを平和の王であり、すべての人の罪を贖う救い主と考えていました。しかし、イエスはこのような驚くべき宣言をなさったのです。民族的にも、社会的にも、国家的にも、また家庭的・個人的にも、存在するすべてに影響を与える重大な宣言でした。


24


さらに、イエスは続けて言われました。「私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と不和にするためだ。そして人の敵はその家族の者となる」(マタイ10:35-36)。このような言葉があり得るでしょうか?


さらに進んで、こうも言われました。「父や母を私以上に愛する者は、私にふさわしくない。息子や娘を私以上に愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を背負って私について来ない者も、私にふさわしくない」(マタイ10:37-38)。そして、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそれを得る」(マタイ10:39)と。


これらの言葉は、時代の観点から見ると矛盾の中の矛盾とも言えるものでした。この言葉は、当時の価値観や常識に正面から挑むものであり、イエスがもたらそうとした摂理の方向性を示しています。これは、地上の平和や調和を超えた、神との完全な一致と新しい秩序を目指した言葉だったのです。


イエス以後、2千年の歴史が経過しましたが、もしイエスの時代を摂理の総合の時代、摂理の統合の時代と理解するならば、その時代に提唱された御言葉は、終末の時代において解放されなければなりません。また、聖書66巻の解かれなかったすべての御言葉も、終末の時代に解放されなければなりません。絡み合ったこの世界が解放され、絡み合ったいかなる主権も、いかなる社会も、いかなる家庭も、いかなる個人も、終末の時代にはすべて解放される必要があります。それでは、この中で自分自身はどうなるのかを考えてみるべきです。


イエスは、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。これは、革命的な言葉の中でも最も革命的な言葉でした。この言葉には、自分の両親への思いも含まれておらず、愛する息子や娘への思いも、愛する夫婦への思いも含まれていませんでした。


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天は、この世界が堕落した世界であることを認めておられます。では、この歴史はどこから始まったのでしょうか?それは、アダムとエバが悪魔を中心に血縁関係を結んだところから始まりました。天使長との不義の愛を基盤として、歴史が始まったのです。このような基盤を通じて繁殖された私たち、悪を中心に悪の種を繁殖してきた国家や民族を、天は決して容認することはできません。ここに天の苦悩があるのです。


この現実を前にして、私たちは自分がどのようにして天の御旨に応えるべきかを深く考えなければなりません。それが、今日私たちが直面している課題です。


私たちは、ノアの洪水の裁きで、ノアの家族8人だけを残して世界全体が滅ぼされたことを知っています。なぜ神は、120年間の歳月をかけて箱舟を建造したノアの家族8人だけを残し、当時の全人類と繁殖していたすべてを水で裁かれたのでしょうか?それは、悪魔の血統を受けたその時代の人類と万物を裁き、神の心情と繋がることができる、神を中心として心と体を調和させ、血縁的な縁を結ぶことができる血族と万物が必要だったからです。悪魔と縁を結んだ血族ではなく、神の愛と縁を結ぶことができる血族が必要だったのです。このため、神はノアの家族8人を残し、当時の全世界の人類を滅ぼされたのです。


イエスが万民の救い主として来られたとき、どのような救い主として来られたのでしょうか? それは、特定の主義や思想を掲げるための救い主ではありません。また、社会の環境を開拓して幸福な環境を作るために来られた救い主でもありません。


では、どのような救い主だったのでしょうか? それは、万民の命を神の命へと移し変えることのできる救い主でした。神の理念を人々に与えることができる救い主でした。そして、神の命と神の理念を備えさせ、神の愛を享受できる立場へと万民を導くことのできる救い主でした。


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イエスはこのような内容を持って来られましたが、その生涯、その心情、その愛の心情を人間の中で理解できた者は一人もいませんでした。イエスの使命と目的は、地上で天の命、天の理念、天の愛を実現することであり、それを通じて全人類を神のもとに導くことだったのです。しかし、人々はそれを理解できず、イエスの心情を受け入れることができませんでした。


このような背景の中で、イエスは嘆かれました。「もし私が地上のことを話しても信じないならば、天のことを話せばどうして信じることができようか」(ヨハネ3:12)。また、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とも言われました。この言葉は、何を基盤として語られたのでしょうか?それは、当時のいかなる主義や思想、制度、または家庭的な基盤や人情的な基盤を基にしたものではありませんでした。


イエスは、新しい理念を基盤とする制度を思い描き、その新しい制度の中で命の実体が喜びを享受できる時を夢見ていました。さらに、その実体たちが神と共に永遠の愛を歌うことのできる時を切に願う心情から語られた言葉だったのです。


このように見るとき、イエスには本当に「枕するところ」がありませんでした。イエスは極めて孤独な存在であり、哀れな存在でした。なぜなら、彼は世の中と正反対の、180度逆方向の内面的な心情と世界観を持って来られたからです。


彼が立っていた場所も、敵の土地であり、彼が生きていた生活環境も敵の環境でした。彼が従っていた主権も敵の主権であり、彼が愛を探し求めた場所も敵の世界でした。したがって、イエスがどこに動いても平和はあり得ませんでした。彼が出会うすべてが敵であり、彼が向き合うものすべてが敵でした。


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それゆえ、イエスの生涯は闘争の連続であり、彼が歩んだ道は苦難の道そのものでした。このような中で、彼の心情と摂理の目的は決して理解されることなく、受け入れられることもありませんでした。それが、彼の孤独と苦しみの根源でした。


そのような状況の中で、天の生命的な基盤を築き、神に代わって解放運動を進める責任を担ったのがイエスでした。また、天の永遠の理念的な基盤を築き、その理念を中心に革命を起こす使命を持ったのがイエスでした。今日、私たちが知っている「十字架で血を流し、死によって万民を救った弱きイエス」ではありませんでした。イエスは、億千万の人々の心と良心を貫き、イエスが右に行けば彼らも右に、イエスが左に行けば彼らも左に向かうような運動を起こそうとされました。彼の関心はそこにあったのです。


天は解放運動を進めるとおっしゃいました。時代も解放され、歴史も解放され、この世界のすべての主義や思想も解放され、宗教も解放されます。これらすべてを解放した上で、何をもってこれを統合するのでしょうか?それは、人間社会には存在しなかった「一つの心情」によって統合されるのです。


そのため、今日の人類が堕落の縁によって生まれた人種であるため、間違った関係の世界を打破する歴史が展開されています。この歴史は、解放と同時に、天の愛と心情を中心として人類を一つに結びつける新しい基準を築く運動であり、イエスが示そうとした方向性を完成させるための歩みなのです。


そのため、終末の時代には、イエスが過去に宣言されたように、「私の親、私の子が、つまり父子の関係が敵となるべきだ」となるのです。また、「あなたの夫婦、あなたの家庭そのものが敵である」と言われました。今日、家族を単位とした社会の形態を見てみてください。父子関係の義理が崩れていっています。そうではありませんか?親が子を殺し、子が親を殺し、夫婦の義理も崩れ、家庭内の義理も壊れています。


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人々が提唱していた倫理や道徳も崩れ去り、宗教の教理さえも破壊されています。このようにして、何が正しいのか、何が間違っているのか分からない時代に突入しました。すべてが揺れ動き、混乱しています。


このような中で、希望を見出せず嘆き、悲しむ立場にある時、「お父様、どうかこのような時代を迎えさせてください」と祈る人々が、三千万の民族の中から現れなければなりません。「どうかそのような時代を実現させてください」と祈る、天の息子娘たちが現れる必要があります。


今日、私たちは、イエスが宣言された言葉が、外的な形ではありますが、自動的に実現している様子を目の当たりにしています。では、なぜイエスはこのような言葉を語られたのでしょうか?それは、結局のところ、過ぎ去らなければならない歴史であり、清算されなければならない情的な基盤であったからです。


そのため、イエスは「私は神の息子である」とおっしゃり、天の心情を抱いて来られた神の息子であると宣言されました。そして、天の心情に代わって、信徒たちを兄弟姉妹と呼ばれました。すべてを明確に語られたのです。この宣言の中に、天が地上で成し遂げようとする新しい秩序と心情が含まれているのです。


では、終末のこの時代に、全世界の人類は何を感じるべきでしょうか? 神は解放運動を進められ、歴史も、宗教も、私たちの家庭基盤も解放されました。それでは、これらを統合する一つの基準とは何でしょうか?それを見つけ出す必要があります。


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神は人間に対して、万物を主管するよう祝福を与えられました。神が創造されたすべてのものは、人間の主管権の下で動くようにと約束されたのです。そのため、今日の世界は、人間が主管できる世界の形態へと向かっています。これは外面的に実現されつつあることです。


私たちは「神の御旨を復帰する」と言いますが、復帰は神からではなく、個人から始めなければなりません。その次に家庭の復帰へと進み、兄弟を復帰し、さらに親を復帰していく必要があります。


復帰の順序は、個人が神との関係を回復し、それを基盤にして家庭、兄弟、親と広がる形で進められます。この順序を通じて、神の御旨が地上に実現されるのです。全人類がこの方向性を認識し、自分自身から始めて家庭、社会、世界へと神の主管のもとに復帰していくことが求められています。


今や私たちは、イエスに代わることができ、イエスが提唱された御言葉を通じて、私たちの情的な心情を貫くことのできる存在を切望すべき時代に来ています。この存在が問題の核心です。どれだけ多くの人が集まっていようとも、神が最も愛する存在が複数いることはありません。情的な世界は一人の存在が主観するものであり、二人が主観することはできないのです。


今日のキリスト教や社会の歴史を総合的に見たとき、歴史的に代表できる民族、時代的に代表できる民族、宗教的に代表できる民族が必要です。その中で、主義や思想を代表する一人の存在が必要です。この一人が問題なのです。天はこれを広げて統合しようとしており、そのためには一つの中心を立てなければなりません。


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4千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られたのがイエスであったように、6千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られる方が再臨主です。そして、その再臨主はどのような主義や思想を持って来られるのでしょうか?それは、「心情主義思想」です。


歴史を振り返ると、思想主義の時代以前には真理主義の時代がありました。哲学的な基盤や知識的な基準を持って社会を導いてきた時代です。そして、それを経て今日の思想主義の時代に至っています。しかし、今日においても哲学的な基盤に基づいて動いているものの、それも思想圏内で互いに批判を受けています。


最終的には、再臨主が心情を中心とした思想を提示し、すべての歴史、思想、そして心情を統合する基盤を築かれるでしょう。この新しい基準が、人類を導き、神の御旨を地上に成し遂げる鍵となるのです。


思想主義の時代が過ぎ去った後、人類が最終的に求める時代は「情的主義の時代」です。それは単なる人間的な感情(人情)ではなく、天の心情を通じることのできる「情的主義の時代」です。この時代について私たちは深く考える必要があります。どれほど優れたものがあったとしても、必ずこのような時代が訪れなければ歴史は解決されることはありません。


このような世界的な終末時代が訪れるとするならば、宗教理念を持つ世界的な宗教の中で、キリスト教がこれを最も深く洞察してきました。では、キリスト教の情的な基盤とは何でしょうか?それは、イエスが「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られた新郎新婦の横的関係、そして「神は父であり、私は子である」と語られた父子関係に基づく理念です。また、「すべての人類は兄弟である」と宣言し、全世界の人類を兄弟として結びつけた理念です。


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これらは単なる観念主義ではなく、良心を超越した情的主義です。この時代は天の心情を通じる「天宙主義の時代」となるのです。


「天宙主義の時代」では、神と人間、そして人間同士が天の心情を通じて真に結びつき、横的な新郎新婦の関係、縦的な父子関係、そして全人類の兄弟関係が実現されます。この新しい時代は、人類の最終的な希望であり、歴史を完成させる鍵となるのです。


天は、一つの完全なものを見出すため、完全な「一つ」が現れるために、偽りのものを打ち壊されます。腐敗していくように見えながらも新たな革命の旗が掲げられるように、世界が分裂しているかのように見えながらも内面的には統合に向かっています。このような原則があることを私たちは理解しなければなりません。


このような世界は必ず訪れます。その世界は全体として来ると同時に、個体としても訪れます。問題は全体ではなく、個体にあります。そのため、個体を尊重する観念、自分自身に対する観念が重要です。では、あなたは今どこにいますか?天はあなたに対して、「どのような主義、どのような宗教、どのような歴史的な潮流、どのような位置にいるのか?」と問いかけるでしょう。


この問いに対して、あなたが「お父様!」と答えられるためには、かつてイスラエルの選民に向かってイエスが主張されたように、「私は平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来た」と言える存在でなければなりません。また、「人間を愛するよりも天を愛せよ」と堂々と述べることができる、責任感を持った毅然とした姿の人物でなければなりません。


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そのような責任を完遂することができる人物、天の御旨に応えることのできる人物になることが求められます。それは、全体の変革や統合の中で、自分自身が個体としての使命を果たし、天と直結する存在となることを意味します。あなたの位置を問い直し、天の問いかけに真に応える準備ができた人が、その役割を果たすことができるのです。


だからこそ、すべてを解放しなければなりません。歴史を解放し、宗教を解放し、心情の世界を解放しなければなりません。そして、これまでの主義や思想、理念に代わる新しい理念、これまでの生活環境で得ていた命の力に代わる新しい命の力を持たなければなりません。その命の力と理念と共に喜びを享受できる新しい心情を持つ必要があります。


イエスは、当時の悪魔の世界に来られたために、その時代に歓迎される存在ではありませんでした。イエスには、その時代に友人や協力者はいませんでした。孤独に迫害を受け、最後には一人で十字架を背負われました。天を代表して来られた方でしたが、悪魔の世界という敵の地に来られたため、その世界にとってイエスは敵そのものでした。敵を歓迎することなどあり得ません。それを歓迎するなら、それは偽りです。


今日、民主社会においても、その社会に反対する代表者が現れると注目を集めます。同様に、共産社会でもその社会に反対する主義を掲げる者が現れると、関心が集まります。キリスト教社会でも、その思想に反対する主義を持つ者が現れると注目されます。さらに、心情世界において新しい主義を掲げる者が現れると、すべての人間が関心を持たざるを得ません。このような時代が訪れていることを、私たちは認識しなければなりません。


この時代には、新しい命、新しい理念、新しい心情を持ち、人々の注意を引きつける中心が現れる必要があります。その中心がすべての対立を超え、解放を成し遂げ、統合する新しい時代の基盤を築くのです。この歴史的転換点において、私たちもまたその変化にどう向き合うべきかを深く考えなければなりません。


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